転職し、40歳目前になって新米教師を始めた。
務まるのだろうか、という不安と、教壇に立ち、子どもたちと日々を営めているという幸福と。
自分自身の感覚的なもので子どもをとらえているだけの毎日で、自分の「その子のとらえ方」が正しいとはぜったいに思えない。
自信がない。
だからこそ、こういうブログで自分でつぶやいて、自分を客観視していかないと、と思って続けている。
幸いなことに、様々な立場や肩書の方と交流が持てるようになってきた。それもこのブログが一役果たしてくれているおかげ。
本当に、お読みくださる方には感謝の一言に尽きる。
メールで直接意見を言っていただいたり、コメントをいただいたりして、思わず腕組みをしながら考えたり、頭の奥深くが、日常とはちがうパターンで回転しだしたり。
気分転換以上の、何か、もっと見えてこないものに対しての、とっかかりをくれているのが、このブログなのだと思うことがある。
来年は、どうやら教員だけでなく、もっと地域の、様々な立場の方と交流することになりそうで、なんだか思わぬ方向に自分自身も展開していきそうだ。
ただ、日常の教員という立場を生かしてのことが求められているわけで、自分が今立っている、教育現場、というポジションで、いかに充実していくかが取り組むべきテーマであることには変わりがない。
どうやら、行政にも関わる、「町おこし」のムーブメント(※)に、一役買うことになりそうだ。
(※注意:政党の応援ではありません)
町を活性化させようとする、若い年代の人たちと、思わぬことから交流が始まり、あるパネルディスカッションに出て教員としての生の本音をぶつけてほしい、と依頼された。
何ができるか、いったい教員という立場から、社会づくりをしていくとは何なのか、さぐることになりそうです。
どれもこれも、ブログがからんでいることなので、自分自身驚いているのですが・・・。
そういった目の前の変化も感じつつ、やはり、初心である
「転職して、教員になろうとする人たち」のためのブログになるように、情報提供をしていきたいと思っています。
来年も、今年2011年以上に、難しいことが山積みになっている日本社会。どんなかじ取りをしていくのか。
それを、一教員の立場から、どういう方向で自分を生かして行けばいいのか。
考えることの多い年の暮れです。
みなさま、よいお年を・・・。
2011年12月
ダンシャリ、という言葉があります。
断・捨・離。
これをすると、非常に楽なの・・・を春に実感してしまったので・・・。
とにかく、家の中のモノで、しばらく使っていなかったものを、捨てます。
これが、できない。
なぜか。
「あ、こんなところにあった。まだ使おうと思ってたんだ」
と思ってしまうのです。
だから、捨てられない。
これを、捨てるのです。
すごいですよ。
思い切る、ということをやります。
思いを、断ち切る。タチキル・・・。
これが、非常にむずかしい。
だけど、やると、とても気分がいい。
おそらく、脳内の、なにかが作用しているのでしょう。
ダンシャリを提唱するだれもが、
「やってみたら、気持ちがいい!!!」
ということをうたっておる。
これは、人間の本能に近いことなのだろうな、とそれを見て思いました。
なんで、捨てる、というのか、思いを断ち切る、ということをやると、人間の脳に、おそらくセロトニンの働きに近いようなものが出てくるのであろうか。
ということをつらつらと考えつつ、
妻の
「これも捨てて!!!」
と楽しげに叫ぶ声を聞きながら、働いております。
冬休みに入りました。
ほっと一息。
これは、2学期を、なんとか終えられた、ということ。
しかし、ちょっとほろ苦い味もするな。
算数も、国語も、なんと見通しが甘かったことよ。
2学期は、運動会や音楽会がある。行事が多いから、算数と国語は急いで仕上げておかねば・・・と分かっていたつもりなのに。
運動会と音楽会だけじゃなかったのだよね。
学校のお祭りもあったし、年末に学校で文集も作ることになったし、突如として予定された、盲人のための教育プログラムや研究授業のあおりをくらって・・・
まあ愚痴になるのでここらでストップします。
こういうこと、見通しがあるってのが、大事なんだな。
ここが、ベテランと、そうでない吾々との差なのだろう。
時間のない中で、しっかりと予定より短い時間でも、単元をきちんと終えられているベテラン先生に、いろいろと教えてもらっておくべきだった。
隣の年配の先生は、11時間予定の国語の単元を8時間でテストまで終わらせて、仕上げておられた。
中身を聞くと、やはりテンポを上げて、漢字やその他のことはドリル学習の時間に振り分けたり、朝の活動で読書の時間を少し変更させたりと、いろいろと工夫されていた。
すごいなあ。
こういうことがきっちりと計算できるのが、さすがだ。
算数も、ちゃんと復習の時間まで確保されている。
たしかめ、ということできっちりと進めて、それを評価にも反映されている。
それが、当然なのだけど。
私の方は、間に合わないで、テストもぎりぎり、評価もぎりぎり。
これだと、余裕のなさが、顔にも態度にも出てしまっていただろう。
子供たちに、あわただしい年末をすごさせてしまったな。
やはり、45分の単元を、40分で終わらせるくらいの、鍛え方が必要なのだろう。ふだんから・・・。そのくらいで、ちょうどだ。
いよいよ学期末であります。
本校は3学期制ですから、年末に学期も終わります。
学期が終わる前までに、ここまでは終わらせておきましょう、という線があります。
ちょっと焦っています。
なぜなら、生活科でやっていたうさぎの飼育、尻切れトンボで終わりそう。
一人ひとり、描いた絵を見て、みんなでギャラリートークをしようと考えていたのに、気がついてみたら、時間が残されていない。
気がついたら、書写のノートも全員分が完成されていなかった。
3学期に残せばだいじょうぶ、という甘いささやきに、騙されてはいけない。
なんと、3学期は非常に短いのだ。
ただでさえ、忙しい3学期に、残しておいていいわけがなく、これで昨年も、一昨年も、泣きました。
国語の漢字テストが残っている。
やれるか、やれないか、ぎりぎりだ。
終業式の日になってから、教科書開いて授業していそうだ。
とくに算数!
アワワワ・・・。
教科書の進度目安の、なんと健康的ですばらしく早いこと。
教科書会社の考える「教室の風景」とは、きちんとみんな勉強する子たちばかりが学んでいる姿なのだろう。
実際の教室では、ケンカの仲裁もしなきゃならんし、飛び込んできたような行事もあるし、なんだかんだとやることだらけ。
大掃除でやりはじめた廊下掃除の場所決めでもめるし・・・
胃が痛い。
学期末に胃が痛くなるのは、この、時数の帳尻合わせがたいへんだからだろうな。
授業中に、
「本当にすみません、○○先生、授業中、本当に申し訳ない」
という感じで、他の先生がドアをノックされ、話をされることがある。
まあ、授業中だろうが何だろうが、保護者からの問い合わせだったり、地区の公民館にかかわる授業に担任が関わっている場合だったりと、ともかくも急用がある、ということがある。
本当はそんなもの、地区の公民館の用事だろうが、
「今は授業中で確認できません」
と突っぱねるべきである。
(ということになっている。だって授業は法律で定められているからね)
でもまあ、そこは理屈だけじゃいけないよ、地域の市民の皆さんや保護者とも、うまく合わせて行かなければ、ということで、対応をする。
ところが、それが高学年の女子ともなると、こういったことさえもが反抗する材料になるのだから恐ろしい。
教師が、授業中に訪れた他の先生との話を終える。
その直後、授業中にも関わらず、関係のないおしゃべりをするA子に注意をすると、
「だって、先生だって話をしてたじゃん!授業中に!!さっき!○○先生と!」
・・・天才だと思います。
きっと、能力がとても高い子なんだろう。
理由にならないようなことを理由にして、自分を正当化する技術に長けているのだ。
きっとお家ではお母さんをはじめ、みんな苦労しているのではないかと思います。
さあ、これにどう対応するのでしょう。
ともかく、注意されるべきことをしたにも関わらず、
「わたしは悪いことなんかしていない!」
という感じですからねえ。
これにひるんでしまったら、
「大人はだませるものだなあ」
と誤学習させてしまいますね。
不幸な女の子が生まれてしまいます。
これは見過ごすわけにいかない。
人生にしっぺ返しを喰らうであろう女性を一人、生み出してしまうかも。
ここで何か、歯止めをかけてあげる、というのが教師の使命でしょう。
こういう場合、きわめて、「同情的に」叱るのがコツ。
「こういうときは、こうするものなんだよ。一般的にね。あなたはわかっていないよね。その一般的にというのが分からないと、他の一般のことさえもわからなくなるんだよ。そうして、人生や社会の一般が分からないと、たいへんに苦労をするものなのだ」
同情的でしょう。
なにがなにやら分からないですが、言うことは、上記のようなことです。
では、たとえば今回のような場合は、どう対応するのでしょうか。
「話、というのは、先生が仕事上必要であるために話をしているようなことを言うのだ。きみのはただの、雑音だ。話だというのなら、授業に関係のある話であるべきだ。そういうことなら百歩譲ってもう一度、話を聞こうじゃないか」
「・・・(小声でブツブツ)」
「いいかな。さらに言えば、言うタイミングを考えるのが話なんだ。聞く人の立場や都合も分かって話すわけだ。授業中に授業以外のことで聞きたくない人にまで聞こえる声でしゃべっているのとはまったくべつのものだ。話と雑音は違うのだ。わかったかな」
こんなふうに、分けて分類したり、定義付けをしたり、区切ったり、とするのが有効か。
まあ、話の中身よりも、教師が毅然として、何か言い返せるのかが大事。
また、頭のいい子やわけのわかっている子が、なるほどと納得する中身であれば、尚良しというべきだろう。
(しかしまあ、こんなのはひどい対処療法で、一番いいのは、こういう状況にならないような学級づくりをすることなのでしょう。児童どうしの親密な人間関係をつくっていくとか。仲間意識を育てていくとか・・・。
でもまあ、実際にはこんなふうなことを毎日考えながら、その日を凌いでいるわけで・・・おもしろい授業なら私語もない、と他の先生に言われたこともあります。そのとおり。その境地に立ちたくて、授業技術を向上させていかねばなりません)
「わたしはおねえさん」が掲載されている本は、「すみれちゃんのあついなつ」。
すみれちゃんシリーズとしては、3冊目にあたる本だ。
石井 睦美さんのこのシリーズ、最初に出されたのは、
「すみれちゃん」という題名の本。
これを、読んでみたら、すみれちゃんの人となりがとてもよく書かれている。
大事だ、と直感した。
それで急きょ、朝の会等で読み聞かせとして読むことにした。
わたしはおねえさん、の授業に入る直前である。
最初の1編は、すみれちゃんの自己紹介のような物語だ。
すみれちゃんが歌を自作して、気に入って歌うシーン。
この最初の物語から、歌はすみれちゃんの心の中で、とても重要なものであることが示唆されている。
すみれちゃんは自分の名前について考える。
シリーズの最初の物語が、出生の頃のひみつをさぐるテーマになっていることも興味深い。
自分のアイデンティティを感じておく必要がどうしてもあるのだ。
それはなぜかというと、この作品は、自他の理解、自分と出会う、他者と出会う、ということが大きなテーマになっているからだ。
すみれちゃんは自分の出生に関して、またアイデンティティの最も重要な要素である名前について知ったあと、すぐに妹の誕生を知って、いろいろと考える羽目になる。
妹、という重要かつ大きな存在感をもつ他者が、すぐに生まれてきて、すみれちゃんの人生に深く関わりあってくるようになる。
この「妹」という存在に直面して、心が迷い、ゆれ、それでもなにか大きな喜びや楽しみを感じとって、姉として育とうとしていく、すみれちゃん。
教科書では、「怒り」をきっかけに、他者である「かりんちゃん」と出会い、迷い、またその存在と自身を重ねて理解し、つながりあっていこうとする。
最初の本を読み聞かせすることで、この本の底に流れていくテーマが、しっかりと浮かび上がってくる。
「これは、自身に直面する勇気と、妹という他者に直面する勇気が語られている物語なのだな」
それにしても、読み聞かせを少しするだけで、教科書の読みがだんぜん深まり、子どもたちのノリが変わってくる。
自身をかさねてみよう、ということが、妹のいない子にも想像でき、重ねてみることができるようになる。
これは、シリーズの最初の作品を、読み聞かせしてきたことの効果であると思う。
妹が生まれる前から、心がゆれて、ゆれて、考え、考え、してきた、すみれちゃんの気持ちが、うんと身近になってくるのだ。
だって、姉になる準備、心の準備は、とうの昔、かりんちゃんが生まれる前から、すみれちゃんはひそかに、自分の中で心の中で、すすめてきたことだったのだから。
そこらへんが、読み聞かせをしたことで、子どもたちの心に「うんと」響き、感じる部分なのだろう。
先生がずるい、と言う子がいる。
言いながら、冗談のように笑っている子はOKだ。
自分の言っているのが、先生に対してとってみせているポーズの一つであることをわかっている。
だから、先生が何か言えば、それで笑って済ませるのだ。
しかし、それを一緒に聞いていて、
「本当だ!ずるい!」
と、真剣になって言う子もいる。
これは、先生と生徒、という区別ができていない子。
また、大人と子供の区別もできていない。
だから、こういうことに、真剣に腹を立てる。
どんな場面かと言うと、職員室で先生方が校長先生の用意してくださったおでんを食べているときに、
「失礼します」
と入ってきて・・・
・・・という場面だ。
「あーっ、おでんのにおいがする!」
先日まで保護者懇談会があって、多くの先生が忙しくしていらっしゃった。
そこで、懇談会が終了した翌日の金曜日、校長先生が手配をしてくれたのだ。
なんと、職員室におでんが届いた。
鍋いっぱいの、銀色のアルミホイルで丁寧にふたをされた、おいしそうな、おでん。
本校の目の前のマンションに暮らす、地域のおばあちゃんが、学校が大好きでなんだかんだと持ってきてくださるのである。校長先生とも古くから面識があり、現在の勤務校に校長が赴任した時にわざわざあいさつにきた方であった。
そのおばあちゃんが、鍋いっぱいのおでんを職員室に届けてくれた。
職員が、各教室から戻ってきたら、おでんがある。
ふるまわれる。
職員室が、一時の間、ほっとステーションに変わっていた。
さて、もう下校時間がすぎて、しばらく経った頃です。
本当は下校しているべき高学年の子が、何か遅くまで残っていたのだろうが、突然ノックをして職員室に入ってきた。
「しつれーしまーす」
最初に入ってきた子は
「あ、おでんのにおいだ。ずるいな先生たち」
と言う。
しかし、顔は笑っている。
「いーなあー」
と言いながら、担任の先生に自分の用事を言って、帰っていこうとした。
その子といっしょにつきあってそこまで来ていた子。
「あーっ、ずるい!!ずるい!!なんで子どもにはくれないんだ、大人だけずるい!先生ずるい!」
と言いだした。
ふだんからこういう傾向がある子なので、担任が廊下に出させて対応していたが、廊下と職員室の扉越しに、
「ずるい、ずるい、ひきょう、ひきょう!」
という連呼が聞こえる。
ここまでなら、職員室の先生たちも、顔を見合わせて苦笑い、という感じ。
でも、それが、だんだんヒートアップして、大声になり、
「ずるいずるい!!!いっつも教師だけかよー!!お前ら口先だけ子どもの味方だとか言いやがって!」
と言いだした。
職員室の先生たちも、ちょっと迷惑顔になってくる。
そして、同じ学年のもう一人の先生まで、お皿と箸をおいて、廊下に出られた。
その子が壁を蹴る音がする。
つづいて、その子が扉を蹴った音。
扉に入ったガラスがびりびりと音を立てる。
ふだんから、友達への暴力が懸念されていた子だ。
職員室がシーンとして、おでんがちっともうまくない。
体育主任の男の先生まで、外に出た。
なんだろうなあ。
こういうのって・・・。
教師と児童生徒。
この立場の違いを、まったく理解しない子に、なんといえばいいのだろう。
しかし、この子はちょっと違うのかもしれない。
この子の心の底に澱のように溜まりきった、煤払いをしなければならない。
言いがかりできそうなことに反応しているだけで、本当は、おでんなんてどうでもいいのだろうな。
言いたいのは、
「わたしを救って」
という心の叫びなんだろうな、と思いながら、わたしはおでんの汁をすすっていました。
担任の先生は、
「Hさんのお父さんも、職場でおでん食べているかもよ」
と言ったそうです。
「ここは、先生たちにとっては職場だから・・・。学校の先生たちにとって、ここはHさんのお父さんが勤めているような、会社と同じ。職場なんだよね。だからおなかがすいて、ここで何かを食べることだってあるんだよ。お父さんだって、会社でちょっと何かをつまんだり、おなかがすいて社員食堂で食べるかもしれないよ。それと同じ。みんなは生徒。勉強して学ぼう、という人とはちょっと立場がちがうんだよね」
まあ結局、いろんな先生が昇降口にまでなだめながら連れて行って、叫びつづけている彼女をなんとか帰宅する気にさせたようです。
「わたしはおねえさん」
これは楽しい授業教材だ。
作者は、石井 睦美さん。
人気の「すみれちゃんシリーズ」の中の一作品である。
新しく教科書に入ってきたが、名作なのでこれからもずっと掲載される作品になるだろう。
2学期に入って、最初に教科書が届いたときにパラパラとみて、もしや、と思ったが、実際に単元の授業をやってみると、実に楽しかった。
なにがって、「怒り」がテーマになっているのだ。
「怒り」が、ものがたりの中心テーマになっているなんて、すばらしい。
これは、討論ができるぞ、とほくそえんだ。
子どもたちが直面すべき課題は、
「妹のかりんちゃんの絵を見た、姉のすみれちゃんの心の動き」
である。
怒りが、溶けていく。
なぜ、怒りが溶けていくのか。
そこをどこまで読み解けるのか。
これは、怒りを溶かした経験のある、その経験の深さによるのではないかと思う。教師か子どもかは関係ない。その経験の深さに年齢は無関係である。
教科書の解説および指導案によれば、
姉としてがんばろうとしている自分の姿と重ねて共感できたことが大きいと。
つまり、怒りの感情が出てきていた姉は、妹なりに「がんばろうとする姿」と、自身を重ねた。重ねることによって共感できた。
「おねえちゃんみたいに、おべんきょうしたい。おねえちゃんみたいに、じょうずに、描きたい」
妹が、姉にあこがれている心境。
妹が、姉のように、何かにひたむきに取り組んでみたくなる心。
妹の心に寄り添うことで、見えてくる、感じられてくる。
そのことによって怒りが溶け、怒りのために振り上げた心の中のこぶしをおろして、落書きを消さずに次のページをめくった、ということらしい。
さあ、ここからもう一歩、突き出ていきたい。
怒りの原因は何?
原因なんてあるのか?
あるとしたら、なぜ?
そして、それを根底から溶かすものは・・・?
窓の外に咲いている、コスモス。
コスモスを、妹のかりんちゃんが見ている。
「お花」
お姉さんも、ふと、視線を外に向ける。
コスモスだ。
ここで、怒りは消えている。
すでに、かりんちゃんに共感している。
かりんちゃんの心に寄り添っている。
「宇宙自然界の理」に添っている。(というよりも添う、ということが「理」なのだろう)
かりんちゃんが何を見ていたのか、なにを感じ取ろうとしていたのか、それを知ろうとして窓の外に視線をうつした、その直前から、怒りは消えている。
姉のすみれちゃんは、自分の心の動きがおかしいことに、もうどうやら気付いているらしい。
「怒りはイヤなもの、おかしなもの」
そう感じているからこそ、ふと、われにかえることができた。
だから、コスモスを見る余裕があったのだ。
怒りに対して、なんの疑問ももたない人には、すみれちゃんのように、窓の外を見るなんてこともないだろうな。
そして、ゆれているコスモスの花の美しさに、気付くことだってないのだろう。
(大人の多くは理屈をこねて怒りを正当化するから、いつまでも抜け出せない)
これは、超一級の教材だ。
これを超える教材が、今後、出てくるのだろうか、と思うくらい。
まさに、2年生にとって、最高のプレゼントになるだろう。
この記事のつづき。
続・わたしはおねえさんを授業する 光村国語 2年生の指導
勤務校の本年の研究授業は、算数であった。
算数の研究を任された研究会のメンバーが構成され、主任を筆頭に、運動会以前から本当に週に何度も遅くまで会議を続けていた。
さて、その研究授業があり、本校は多くのお客さんでにぎわったわけで、その感想を。
まず、授業者はツッコミどころを用意すること。
そうでなければ研究の面白みがない。
というよりも、ツッコミどころのない授業をやっても、それに比する代案や以上のものを提言する力がないので、まあ、あまりおもしろくならない
そこで、研究授業はスコシだけ欲張るのがよい。
そこで、その高い山の途中か8合目までは登れたが、あと少しはちょっとむずかしい課題でした・・・というのが最高の落とし所と思う。
でもまあ、本当なら8合目までが目標としてよいところなので、それで授業者は満足すればよい。
でも、研究会としては、あとののこり、頂上までをどう工夫していくか、というところで盛り上がることができる。
本校の研究メンバーではなかったので、なんとなく外野からの意見になってしまうので引け目もある。
授業者や研究メンバーではもっと深い所まで話し合っているのではないかと思うので、むしろその話し合いの実際のところを、ぜひ聞かせてほしいと思う。
大概の研究会では、研究メンバーは
「みなさまの忌憚のないご意見をお聞かせください」
と頭を下げているだけで、意見を言わない。
これはなんだか惜しいと思う。
むしろ、こんな研究をして、迷って、決断して、いろんな要素を入れて考えて、こうしてきたんだ、ということをぜひ語ってほしかった。
資料からだけでは、なかなか伺えない。
なぜこういうことを思うかと言うと、すべて研究会のことが終了してから、ホッとした表情の研究メンバーと、職員室に遅くまで仕事で残ろうとしているメンバー数人でお茶をのみながら話をしていたら、
「あんな意見が出たけど、すでに検討済みだよなあ」
「ねらっているところがちがうんだから、見当はずれもいい所だ」
というような意見も出たのですヨネ・・・。
ありゃりゃ。
いや~、だったら、それをその場で言ってくださいよネ!!
・・・と思ってもみますが、どうやらそれでいいらしい。
一方的な講座や講習のようになってはいけない・・・からだ。
また、私なんかよりもずいぶん若い授業者の方が、いろんな意見を言ってもらうのは、大きな刺激になって良い、ということになっている。
周囲のベテラン勢にとっても、自分の考えを言いたいだけ言えるのがいい。(若手はそうしてベテラン勢に語ってもらうように仕向けるのも一役だから・・・頭を下げて聞き役になるのもネ)
とまあ、舞台裏までをすべて見ていくと、なんだかいろいろと要素がありました。
1)校長の若手を育てたい意識もあり、
2)さらに教頭の、若手に意見を言うことによって実は奮起してほしい中堅層への期待もあり、
3)すべて授業へのツッコミも半分以上予想されているものであり、
4)またそのツッコミは目標以上で無理に実現しなくてもいい、というのもわかっているものであり・・・
いろいろな要素を感じるのであります。
研究主任が管理職に近い年齢層で、ところが指導に来る指導主事さんは比較的若い方であったりして、その主事さんは目上の研究主任の授業に文句を言うよりも、やはり
「いやあ、すばらしい実践でしたね」
ということをたくさん言うようでした。
自分より年齢の高い人に対して、上から目線でモノを申しては・・・ということなのでしょう。
あまり・・・批判が無い。ちょっとつけたし、という程度。
自分が授業をやるときも、いずれくるのだから、今のうちに勉強。
(来年あたり・・・か?)
2学期の体育の評価。
マット運動で評価する。
本当は、「跳び箱、鉄棒、マット」の3つの評価をする欄になっていた。
2学期はマットのみ。
さて、マット運動の何で評価するか。
たった数時間しかやらない。
何をしようか。
後転にしよう、と思った。
前転は1年生でやっている、と聞いたからだ。
また、以前3年生を担任したときに、すでに体重や体型が課題になっていて、できなくなっていた子がいたからだ。自分の体形のおかげでやれない、と決めている子にその気を起させるのが大変だった。
それで、今、2年生のうちに、前転のみならず、後転を習得させたい、と思った。
評価するのは、体育館の半分にマットをランダムに敷き、その端っこに敷いた一枚で行う。
そうすると、目の前の子を評価しながら、全体を見ることができる。
全員を集めて、先生の前でやってごらん、とやらせながら、
「合格した子から、あとはのこりのマット全部で一回ずつ練習していなさい」
と、どんどんやらせる。
座らせておくと、自分は終わった、という安心感から遊びだすからだ。
前転の数種類(じゃんけんのパー、グー、チョキの手をした前転など)
ゆりかご(足を天井に向けて伸ばさせると勢いが増すし、最後に立ちあがらせると足を引っこめなくてはならないので、足を伸ばしたり縮めたりすることになり、これが今後の身体感覚に応用として効いてくる)
などで練習をさせて、いよいよ本番。
この本番に至る前に、後転のテクニカルポイントをいくつも示している。
1)両掌を背中でそろえてうしろに向けておくこと(まるで甲がぺたっと背中にくっつくくらい)
2)わきをひらかずしめておくこと
3)手のひらが地面につくやいなや、手のひらでグッとマットをつかむこと
さらに、まっすぐに後転するのでなく、肩でする後転、言いかえれば、途中まで後転風にころがり、その直後、側面にころがるような「後転もどき」もやらせる。
これならできる、と言う子は、ほとんど、正確な後転もできる。
おそらく、これで後転の感覚をつかむのだろう。
やってみせて、最初は40人いるうちの、30人しかできない。
本当にきれいにまわる子は、その中の7,8人程度。
こんなものか。
でも、テクニカルポイントを確認したり、マットとマットの間に跳び箱の踏み台を差し入れて、疑似坂道をつくってやらせるなど、だんだんに慣れて行き、最終のテストでは2名をのこして、できるようになった。
あと、2名。
くじけそうになっている。
あとはこの子たちの、心が折れないで、やろう、という気になっていくあたりをやる。
廊下にアメの袋。
ひろってから考える。
てっきり、職員のポケットから落ちちゃったんだな、と思いますよね。
「ははあ、○○先生かなあ・・・。のどイタイって言ってたし。たぶん、のどあめの代わりか何かで・・・」
ところが、その廊下をつい先ほど通っていた高学年女子の一群が、もどってきてすれちがう。
・・・と。
なんだか、甘い、フルーティーな、お菓子のようなにおいがする。
おや?
でも、そんなふうに、アメを食べちゃうような子です。用心深く、やっているはず。
アメの袋をポケットから落としてしまうなどと言う、古典的・初歩的なミスをするだろうか。
頭にハテナマークがいくつも点灯しました。
こういうとき、なんと言いますか?
見過ごしますか?
見過ごすのも一つの手です。他の学年ですしね。
あるいは、その子たちの顔や名札だけを見て、名前を確認してあとで担任に言うか。
でも、一応、聞いてみました。
いちばんやっちゃいけないのは、
「おまえら、アメたべてるだろ!!!」
です。
なにを証拠に・・・
証拠もないのに、決めつけてはいけません。
99%そうだ、と思うこともいいですが、証拠がないうちに戦ってはいけません。
相手は、
「あんたには証拠が無いじゃないか!」
という一点だけで、攻めてきます。
それしか手がないからね。
それをこわれたレコードのように繰り返されたら、こっちが負けます。
だって証拠がないもの。
でも、若い先生はこういうことで、すぐに戦ってしまう。
もう少しマシになると、
「アメ食べてるような感じがするなあ・・・」
と、ボカシます。
でも、もっとボカした方がいい。
「甘い香りがするね」
です。
これは、わたしが感じたこと。
こっち側が決めていることだから、相手も文句のつけようがない。
せいぜい、
「あっそ」
とか、
「鼻がこわれてんじゃない」
というくらいです。
でも、そんなのは屁のような返しです。こっちにダメージはありません。
こっちに、主体的な判断の根拠がある。こっちが決められることだけを語るのです。
相手側の判断に依存するようなことを言ってはいけません。
相手側に主導権がうつってしまいます。
さて、
「甘い香りがするね」
と言ってみたら、なんと言ったでしょう。
「お菓子とか、食べてないよ」
と言ったのです。
みなさん、どうされますか。
このままだと、
「疑うんですか?」
と、相手の仕掛けてきたゲームにのらないといけなくなります。
「いや、なんか香りがしただけ。先生の鼻、おかしいかなあ」
と笑顔で返します。
ここは、発言の根拠はあなたの側にはないよ、先生の判断のことを言っているだけだよ。とモードを訂正するのです。
さらに、笑いながら、
「食べてないんだよね。じゃ、もしかしたら、飲ん・・でた、とか?それか、・・なめ・・てた?」
とツッコミます。
ここで狼狽するようであれば、クサい。
「バッカじゃねーの。アメのむわけねーだろ」
まあ、こういう言い方しかできないのでしょうねえ。
でも、顔に焦りの表情も少しあります。
めんどうな人につかまっちまった、というような感じも。
でも、この勝負、ここで終わりです。
だって、証拠がないですから。
これは、戦ってはいけない勝負です。
ただし、
「こっちの勘はするどいぞ。ほんの少しでもミスすると、つっこむぞ」
という姿勢と構えを見せておく。
歯止め、防波堤、です。
表情はいつもおだやかに笑いながら、です。
なんとはなしに、ユーモアもただよわせつつ、です。
でないと、決定的な教師との絶縁が生まれてしまいます。
それだけは避けなければね。
学級懇談会・保護者会で
次の詩を読みました。
保護者の方に、
「愛 それは○○○・・・こと」
文字を入れてください、とお願いして、
谷川さんの詩と合作ということにして
やってみました。
お母さんたちから出てくる言葉が
すばらしくて、なんだかいい時間がすごせました。
ご参考まで。
あい 谷川 俊太郎
あい 口で言うのはかんたんだ
愛 文字で書くのもむずかしくない
あい 気持ちはだれでも知っている
愛 悲しいくらい好きになること
あい いつでもそばにいたいこと
愛 いつまでも生きてほしいと願うこと
あい それは愛ということばじゃない
愛 それは気持ちだけでもない
あい はるかな過去をわすれないこと
愛 見えない未来を信じること
あい くりかえしくりかえし考えること
愛 いのちをかけて生きること