朝早くに担任している学級の子から、自宅に電話。
「先生、自由研究はどんな感じでやればいいの」
いろいろと話すと、社会派の彼は、テーマ原発をやりたいのだとか。
終業式で、校長先生がヒロシマの原子爆弾の話をされたので、そんなことからも、原子力発電所に発想がとんだのかも。
まあ、毎日テレビや新聞で、原発のニュースをみていれば、興味持つ子もいるだろうが・・・。
終業式の日に、式が終わり学級にもどってから、それとなく手をあげさせてみると、今年の自由研究の題材として、「地震のことを調べる」という子が多かった。
それはそうだろう。
この春からの、国をあげての一大事件だったのだから。
東北地方太平洋沖地震のあと、学校でも避難訓練を真剣にやり、地震のこわさを学んでいる。
また、愛知県では常々言われている、東海大地震の恐怖もある。
わたしが子どものころから、トウカイダイジシン、というのは語られてきているし、近くの高速道路のSAにも「東海大地震のときはこう逃げてください」と看板が立っているほどだし・・・
たしかに、愛知県民にとって、東海大地震は恐怖である。
でも、東海大地震と浜岡原発をつなげて考える子が、まさかうちのクラスにいるとは思わなかった。
小学生の「問い」は、しばしば本質をつくので、非常にむずかしい。
「浜岡原発が今回のフクシマ原発のように水素爆発して(一部、外国報道には水素爆発に加えて、臨界があったと言ってるらしいですが)、建屋が崩壊し、今回のとまったく同じように放射能物質が飛散したら、どこに飛散するか」だって。
えええ!!? そんなこと調べるの・・・?!!
完全に、親の意向が入っているとしか思えないが・・・
NHKの番組で、フクシマ原発の近所の家族が、ともかくもハンカチで口をおおって車で逃げたら、風向きからして放射能が飛散する方向に逃げてしまった、とやっていた。たしかNHK特集だったか。
ヨウソの飛散地図をみると、風向きがやや北西向きになっていて、原発から離れた福島市や伊達市、飯館村、川俣町まで届いている。
それを浜岡にあてはめると、これは・・・首都圏に届くんじゃないの。
ちなみにその子のお父さんは、高校の理科の先生だって。
なるほどね。
原子力保安庁の世論操作問題や、テロによる被害想定の書類(1984年外務省)が出てきたとか、いろいろと原発に関する情報がマスコミでどんどんと流れてきています。
朝からテレビを見ていたら、小学生でもニュースくらいみるだろうしなあ・・・。
ふと思いついたのは、わたしの担任している子だけでなく、日本中の小学生で、同じような「地震→身近なところの発電所の爆発があったら」という自由研究をしようとしている子がいないだろうか、ということ。
案外、多くいるのかも・・・。
どこか、テレビ局でもラジオ局でも、
「あなたの自由研究を送ってください」というコーナーをやってないだろうか。
そしたら、そこに、上記のような研究(といっても小学生のしらべる程度のことだけど)が山ほど届くのではないだろうか。
「近所の原発がもし水素爆発して放射能飛散したとしたら、○○小学校の教室にもセシウム、ストロンチウム、ヨウ素131が届きます。」
夏休み明け、こんな自由研究をたくさんみるのなんて、イヤだなあ~。
2011年07月
フクシマから小中学生がやってくる、というのでボランティアをすることになった。
4泊5日の計画で、こちらの県内の高校生たちといっしょに、キャンプファイヤーをやる。
そのファイヤーの実行委員会をまかされました。
さあ、どんなふうに受け入れることができるでしょうか。
また、いったいどんな雰囲気なのでしょう。
震災の影響で、心静かに、癒しをもとめてくる感じなのか、
それとも、戸外で思う存分に楽しめないでいるので、県外に出かけてこれまでの分をとりかえす勢いで、はじけて遊んでみたいのか・・・。
温度がわからないので、初日や二日目のキャンプでの様子をみてから、ファイヤーの全体の雰囲気を決めていこうと考えています。
実際の学級もそうですが、いろんな子がいるのは間違いありません。
ユニバーサルデザインのキャンプファイヤーにしたいと思います。
いろいろなことの苦手感をもつ子がいるでしょうからね。
フクシマの子たちの名簿をみせてもらうと、海岸に近い子もいる。
すると、津波の被害も受けているのかな?
だとしたら、もしかしてかなり深刻な被害にあった子もいるのかもしれない。
本当に、気分としては、休みに来た、という子だっていないとは限らないし、子どもの様子をしっかりと把握しないと、ファイヤの運営も、目的も、それによって変わってくるだろうな。
今年、受験する臨採講師の先生から、連日のようにアドバイスのリクエストがあり答えています。そうです。2次試験前なので彼も真剣なのです。
一つ、気になったことがあります。
それは、発達障害児のこと。
試験をする側、採用する側としては、今や発達障害児の把握について、どの程度受験生が勉強しているか、学ぼうとしてきたかを絶対に確認してきます。
面接の質問の中に、確実に入ってきます。
どの程度、どんなふうに回答していくか、シュミレーションをいくつもやっておいたほうがいい。
どんな問題が出るのか、わからなければ手の打ちようがない。
しかし、発達障害に関することは、ぜったいに聞かれるのです。
だから、手を打てる。
逆にいえば、発達障害に関して、回答のない受験生はほぼ、合格枠からは外されてしまうと考えていいでしょう。
さて、講師の先生のように、間近に発達障害児を見て、その指導にあれこれと悩んだ経験のある方はいいが、学生のままで新卒の試験受験者にとっては、どんなふうに回答するのがいいか、迷われている方もいると思う。
経験はないのだから、経験から語ることがむずかしいかもしれない。
また、知ったかぶりをするとかなりの確率で、試験官に「嫌われて」しまうのだから、
○経験はないが、学んでいること
○実際に自分が担任する場合は、相当な準備と学び続ける意欲を強くもってのぞむ、という覚悟があること
この2点をハッキリと伝えること。
あいまいに伝えたつもり、ではしっかりとアピールできない。
だから、上記の2点を、自分なりの言葉で、確実に面接官に印象付けることが必要と思います。
さて、発達障害児に関することは、本を2冊、3冊読んだ程度ではダメだ。
授業で学んだ、というのでも間に合わない。
卒論を発達障害児のことでしっかりと書いた、というのであれば、まあまあか・・・。
なんでここまでしなくてはいけないかというと、世の中の発達障害の把握の仕方も、あれこれと幅がひろいからであります。
また、自閉症スペクトラム、というように幅の広い呼び方でしか呼べないように、ADHDもLDもなかなか線が引きにくい。はっきりとは・・・。すべて連続している。
だから、なかなかに「わかった」といえない。(当然だけど)
発達障害に関しては、知ったかぶりは厳禁だ。
なぜかというと、試験をする側の校長、教頭、教育委員会、学者先生もすべて、まだよくわかっていないのだから・・・。
ただ、その中で、すぐにも担任をもつ自分がどうして対応していくか、ということに、芯のある考えがないといけない。でなければ、即戦力としてやっていけない。
とりあえずの、方針があるかないか。
有効な手立てをとりうる、方針があるかないか。
ここにかかってくる。
その方針は、いくつもあるが、とりいそぎ、時間の限られている今年の受験生のために、
「ユニバーサルデザインの学級経営と授業」
という言葉を贈ります。
だれにとってもやさしい、というのがユニバーサルデザイン。
健常者だけでなく、発達障害をかかえる子どもにとってもやさしい、それがユニバーサルデザイン。
このユニバーサルデザインの考えを把握し、理念をかんたんに言うことができて、さらに具体例をいくつか言えること。
さらに、
面接の間にその意見がぐらつかず、面接官に
「この子は一貫しているなあ」
と思わせることができれば、あなたはきっと、合格でしょう。
この間に、主に採用試験についての記事を多く書いてまいりましたが、そろそろシーズンが近づいてきました。一度、ここで、採用試験の記事を少しだけ、まとめておきます。まだあるかと思いますが、目についた記事だけを下にリンクしておきます。
★採用試験対策のカテゴリまとめ
http://arigato3939.publog.jp/archives/cat_10115568.html
2次試験に向けて 加点方式と減点方式を心得よ
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401754.html
教員採用試験 面接のコツ
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401946.html
近づく今年の教員採用試験 予想される面接質問はコレだ!
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401939.html
同じ受験生に対する気持ちが合否に関係する
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401773.html
アッサリした二次面接は危険信号
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401766.html
まだまだありますが、詳細は一番上の<カテゴリまとめ> からご参照ください。
WISC-IV 知能検査のキットを、ようやく見せてもらいました。
近所の大きな小学校で、購入したそうです。
これからは、こういうものは公費でじゃんじゃんと買っていただきたいものです。そして、担任が、毎日のようにさわって研修を積みながら、自分のクラスの発達障害児をかたはしから検査してほしいと思います。
でないとかわいそうなのは子どもです。
昨年、わがクラスは3人の児童がWISCを受けました。
ところが、わたしがそのWISCがなんたるかをしっかりと理解していなかったので、検査者となっていただいた養護学校の先生から所見を聞き、説明を受けながらも、そのこまやかなところはさっぱりわからなかった。
動作性と言語性、聴覚と視覚の優位性などは理解できたが、子どもの実際のシートを見ながら、ここがこうで、というのはよくわからなかった。
昨年は、心の理論の検査やその他、バッテリを組めそうな下位検査もふくめて、PDD(広汎性発達障害)の疑われる児童についてはさらなる検査をしていただいたが、(これは病院の先生に)
やはり、よくわからなかった。病院の先生も、心理屋さんのいうことも、なんとなーく、であった。
現場の教員がWISCを実施するのは負担であろうが、子どものことを第一に考えたら、日々、教育にあたる担任が行うのが一番だ。それが負担なのであれば、教師の負担を減らす環境設定の努力が必要なのであって、
「それは現場には負担だから、心理屋さんにまかせておけばいい」
というのは本末転倒だと思う。目的は、日々の子どもの教育でしょう?
ともかくも、先日、ようやく手に取ってみた検査キット。
シートが洗練されている、と説明を受け、なるほどと思いました。
この数年で、発達障害をとりまく学会の定義も議論が進み、PDDもADHDもLDも、ひとくくりにして 自閉症スペクトラムとよぶことになりそうですが、検査キットもそれに準じて(というかWISCの米国の実践が先をいってるのか)ワーキングメモリの指標とか、処理速度の指標とか、とても見やすくなっていると感じました。
現場の教師にとって、その児童のワーキングメモリの力がどの程度か、ということは非常に大きなヒントになります。
その児童には、長い指示はぜったいに出せない、クラス全体にも長い指示は出せなくなります。そのことがはっきりするだけでも、教師の行動はがらりと変わらざるを得ないのですから。
ワーキングメモリだけの簡易版検査キットが出て、4月の最初に必ず行うのが定例となる、ということに、近い将来なるのではないかな。勝手な予想ですが。(もちろんそんなことをWISCのPearsonが言うはずないですが、そういう需要は多いでしょうね・・・というか全国の教師がほぼ全員、それをのぞむ時代がくるのではないか。そうしたら国が教科書と同じようにキットを無償で配布してほしい。)
中国で電車の衝突事故がありました。
ご冥福をお祈りいたします。
ところで日本の高速鉄道、新幹線のシステムは、鉄道の設計思想がまったく世界の標準と異なっているので、こうした衝突事故は起こり得ないのです。
今、日本が輸出すべきは、ハードよりも、こうしたソフト(設計思想)なのではないか?と思います。
日本の新幹線には踏み切りがありません。
また、新幹線の線路区域には、厳重に立ち入りが制限されていて、国民もそれを守っています。
さらに、コーナーごとに制限速度がきまっているわけではなく、中央から
「いま、何キロの速度で走れ」
と指令が刻々と伝わりますから、つねにその指示された速度で列車は運行します。そのため、同じ区間に列車が入り込むことがあり得ないのです。
CTC(列車集中制御装置)からの指令は、運転席にじかに表示されます。中国ではこれを採用しませんでした。
たとえ停電で車両の制御装置がこわれても、CTCが機能していれば運転手がなにをするべきかを知り、ふせげたはずの事故なのでしたが・・・。
日本では、起こりえない高速鉄道の事故です。
新幹線はぶつかることができないシステムで動いています。
そのため、新幹線は「頑丈」ではありません。
重たい鋼鉄を何枚も使わなくても済みます。
結果、軽量化、省エネ化、快適性が確保されて・・・
頑丈じゃないからこそ、新幹線は活きるのです。
つまり、新幹線のハードは、ソフトがあって、生きるのです。
日本は中国に、東北新幹線「はやて」と同じ車両技術を提供したそうですが、その軽量化した車両が、省エネ化した車両が、ぶつかってこなごなになってしまったら、ひどい事故になるに決まっています。
なんで、ソフト(設計思想)を言わなかったんだろう。
ハードを売ろうとするときに、ソフトも輸出する、と両方売ることを考えなくてはいけないでしょう。
中国は、諸外国からいいとこどり、をしたつもりでも、鉄道を生かす肝(キモ)の部分を日本から輸入しそこなって、とても残念なことになりました。
日本は、もうハードはいいんじゃないの?
洗練された、日本ならではのソフトを売ろうよ。
(で、ソフトが評価されたら、そのソフトに見合ったハードも日本にしかないんだから、ぜったいに後から注文がくるって思うのですが・・・)
4年生で発電所見学が予定されていて、遠足ついでにダムと発電所も見てくるらしいです。
そこで、水力発電の技術も知ることになりますが、ここでもハードとソフトが両面、あるのでしょう。ソフトこそ、学ぶ対象にしたいものです。
(今春からの小学校新学習指導要領で、エネルギー教育の内容が広がることなどを受け、資源エネルギー庁が公益財団法人日本生産性本部エネルギー環境教育情報センターに委託、小学校用の教材が配布されています。ここにも、ハードの説明が豊富にされていますが、どんな人たちが、どんな仕事をしているのか、どんな設計思想があるのか、核燃料のトータルな管理を示す設計思想は見当たりません。ここにもソフト不足が)
通信簿。
学期末に成績をつけ、子どもに手渡す。
そろそろそんなシーズンだが、思い出すことがある。
昨年のことだ。
昨年の学年末のこと。
通知票を子どもたちに手渡し、帰宅させた後。
終業式が終わり、卒業式が終わり、すべてが終わった後のことだった。
職員室で、お疲れ様のムードが漂う中、電話が鳴った。
担任した子の、父親からだった。
「なぜ、うちの子に、△がついているのでしょうか」
正直、ちょっと緊張した。
なにか、自分が失敗したような気がしたからだ。
もしかしたら、見直したはずの通知票で、記述ミスがあったのか?
「先生がどんな基準で、どんなお考えで△をおつけになったのか、ぜひ教えていただきたい」
するどい口調に、いっそう緊張が募る。
一瞬、身体全体がこわばる気がした。
しかし、すぐに理由がわかった。
「いじめ」をしてしまった男子児童の、父親だったのだ。
「行動の記録」のところに「思いやり・協力=相手の気持ちや立場を理解して思いやり、仲良く助け合う」という欄がある。
ここで、該当の男子に△をつけた。
そのことだった。
父親が電話で、
「この△はいじめのことですか? 先日の保護者懇談会?でいじめのことが話題になりましたから、今回のことは私も知っています。だから、この思いやりの項目は、いじめを認めてしまった、クラス全員が△だったのですよね。そうだとしたら、納得できます」
家庭教育には熱心なお父さんだ。
よく、授業参観も来られていた。
その後の保護者懇談会にも参加し、クラスのいじめの事も知ってくださっている。
「うちの子は、いじめをするような子ではないんです。他の子がいじめをしているのを見て、かわいそうだと思っていたって言うんです。そりゃ、傍観してた、ということはあります。すぐに、いじめを阻止する行動をとらなかった、といえばそうですけど・・・」
このあたりで、私の頭の中には、なるほど、そうか、と状況が分かってきた。
早口で一生懸命に私に話してくださるお父さんの顔の表情が、想像できた。
息子のために、一生懸命に、事情を確認しようとしているのだ。
熱心な、心のある、お父さん。
とにかく早口でいろいろとおっしゃっているので、それをまずは聞こうと思った。
「今回、はじめてですよ。はじめて、思いやりに△がついたんです。これまで、1年生の時から、通知票に△なんてついたことがなかったんで・・・。Mもちょっと泣きべそかいてますよ。」
そうか、と思う。
成績は良い方の子だ。
頭の回転もいい。体育だってできる。
「それでねえ・・・」
お父様の口調が少し、変わった。
「中学入試を目標にしているんですよ。うちの子は・・・」
地元有名私立の○○学園は、入試のときに、5年生と6年生の通知票をコピーして提出することが義務付けられている、とお父様は言った。
「だから、△なんてついてたら。これで、入試に失敗したらどうしよう、と泣いていますよ」
ここか、と思った。
一番のポイント。
お父さんは、不安なのだ。
納得が、いかないのだろう。この点で。
不合格になるかもしれない、という不安が、お父さんの心にどうにも消化できないでいるのだ。
しかし、通知票の記述を決定するのは、保護者ではない。
決定するのは、教師である。
だから、心が落ちつかないで苦しんでいる。
そのことが、電話の内容を聞きながら、理解できた。
ここまで言い終えると、父親の口調がちょっとやわらかくなった気がした。
一番言いたいことが口から出てきたので、肩の力が抜けたのかもしれない。
教師と力比べをするかのような、言葉の勢いは少し消えていた。通知票に△がある、という事実にもう一度、心の焦点があたったかのようだった。
こちらも、ゆっくりと、低音で話し始めた。
まずは、言い分をしっかり聞いた、ということを確認するために、お父様の言い分を繰り返した。
「そうでしたか。5年生の成績が、入試にも影響するんですねえ。そうでしたかー」
「そうなんですよ。6年だけじゃないんです。5年からなんです」
「そうですか。私、申し訳ありません。そのこと、分かっていませんでした。Mくんが入試に挑戦することもはじめて(聞いたこと)でしたし、○○学園がそんなシステムだったことも、今初めて知りました。」
少しずつ、焦らず、父親の一番の悩みにポイントを置いて、話をしよう、と思った。
私は、こう続けた。
「どうでしょうね。△が一つ・・・。やはり入試に影響しますでしょうか。もし影響することだとしたら、この△は本当にMくんがダメな子なんではなくて、今回の△はうんとキツイ、お灸をすえる、というような意味合いが濃いのだと、中学側に説明することはできないでしょうか」
「いえ、事前の話し合いとかじゃなくて、もう必要書類として送るだけで・・・。先生のおっしゃるような感じで、中学と話し合うことなんてできないのです。お兄ちゃんが入試うけてるからわかるんです」
「そうですか。いえ、Mくんは、本当にいい子です。クラスでも、みんながよくなるように協力しようという姿勢はたくさんもった子なんです。委員会を組織するときにも自分から動いて委員長を引き受けてくれましたし。周囲に気を配る、やさしい子だな、と思いながら見てきました。」
ここまで言うと、少しお父さんも、話を聞くような感じになった。
「だから、今回の○○さんのいじめの件は、わたしも本当にびっくりしたんです」
こういうと、お父さんが急にだまったようになった。
やはり、と思った。
Mくん、自分がいじめていた、ということ、ついに話せなかったのだろう。
だから、お父さん、知らないのだ。そのことを。
お父さん、「あれ?」という感じか。
Mくん、怖くて、正直にお父さんに話せなかったのだろう。
「○○さんが、直接いじめた人、というで名前をあげた中に、Mくんが入っていたので、私もそれを見て、うーん、どういうことだったんだろう・・・、と思いました」
おそらく顔色が変わったにちがいない。
お父さんがつっかかるような早口で、
「Mが言うには、心当たりのある子が申し出よ、ということで、Mもほんの少し悪口っぽいことを言ってしまったかもしれない、というので、別の、□□先生に言ったらしいですよ。Mからも聞いています。でも、それは担任として直にはお聞きになっていないでしょう。事情を子どもから聞かないで、いきなり成績を△にするのは、ちょっと・・・」
これは、だいぶ温度差があるな、と思った。
Mの関与は、ほんの少し、どころではない。
いじめられた○○さんは、Mがこわい、と言っていた。
少し詳しく言おうと思って、
「□□先生と、それからT先生が話を聞いてくださいました。その日の6時間目を全部使って、○○さんがいじめられたと訴えた5人の子からすべて話を聞いたのですが、Mくんの話は主に、T先生にじっくり聞いていただきましたね。すみません、私自身は同じ時間、また別の子の話を聞いていましたので。Mくんのことは、T先生からあとで報告していただきましたが」
お父さんの口調が、トーンが、下がってきた。
おそらく、このあたりのことを、息子の口からは聞いていないのだ。
こちらはさらに続けて、
「それはともかくも、今回はいじめられた○○さんの気持ちに焦点をあてて、5人の子は全員、お灸をすえる意味で△にしました。これは、十分に反省してほしい、という意味です。しかし、お灸がキツすぎたかもしれません。△にする、ということでなくても、もっと他の形で反省してもらえばよかったかもしれないですね。△が入試に影響する、ということでしたら、ちょっとお灸が過ぎたかもしれません。申し訳ありませんでした」
ここまで言うと、お父さんがだまってしまった。
もう一度、
「すみませんでした。お灸が強すぎましたよね。私が説明するわけにいかないでしょうか。彼の中学入試の際に、この△はMくんの本質ではないんだと。担任であるわたしが、お灸をすえて、ほんのちょっとした悪口でも絶対にしない。傷つく側の気持ちになってほしい、心を入れ替えてほしい、という意味で△にしたんだ、と説明できればいいですが・・・」
すると、ちょっとした沈黙の後に、
「うちの子、どんないじめをしたんでしょう」
と言われた。
この瞬間、父親として、息子の「いじめ」に、焦点があたったようであった。
いちばん、考えなければいけないこと。
いちばん、父親として、向き合わなければいけないこと。
それは、中学入試でもなく、成績の△でもない。
息子が、○○さんに、どんなひどいことをしてしまったか、ということ。
そのことに、父親として向き合わなければいけなかった。
ようやく、そこを考え始めたとき、担任に対する、非難めいた口調はいっさい無くなっていた。
「先生、教えてください。教室で、Mはどんなでしたか。○○さんに何をしたんでしょう。気がつかれたことを、教えてください」
この父親、こんな声だったのか、というくらい、声が変わった。
電話の向こうから、落ち着いた、真剣な声が聞こえてきた。
それは、父親としての、威厳のある声だった。
2次障害の子に対して、教師はどう対応すべきなのか。
これが本当に問題なのだ。
多くの教師が、今、このことに頭を悩ましている。
1)共感し、まずは受容する
ところが、これは案外とよくない方法だ。
なぜなら、共感したために、教師も同じように思っている、と誤解されるからだ。
終業式に出たくない、とがんばって、みんなの並んでいる体育館に行かずに校庭の花壇のところで勝手なことをしているAくん。
彼に、
教師「どうしたん?終業式始まってるよ。」
児童「行かんわ!あんなの!」
教師「行かんの」
児童「外におるんじゃ!」
教師「外におるん」
このやりとりに、すでに間違いがある。
お分かりだろうか。
外におる、ということを、最後に教師が同意したように、見えるのである。
そんなことない!
教師はそんなことに同意したわけでない。
ただ、児童の言葉を反芻した、あるいは繰り返しただけだ。
そう言いたい。
しかし、児童の方は、
「先生が、外におるんか、と認めた。外におっていい、と言った」
と思うのである。
オウムのように、言葉をくりかえすだけでも、この通りである。
ちなみに、これをどうしたらいいのか。
会話がほとんど、成り立たない。
2次障害、もしくは反抗挑戦性障害を抱えた児童にとって、教師との会話は、すべて自分の都合のよいように料理するものなのである。
教師は、オウム返しもできない。
わたしが考えたのは、
「あ、そう」
である。
これは、やってみると、オウム返しの時のように、
「先生がここにおってええ、と言った」
というふうには、ならなかった。
ただの、あいづち、だと思ってくれているのである。
「そうか」
は、怪しい。
「そうか」
は、同意、と近い。
微妙だけれども、同意、はしていないのだから、同意のニュアンスからは遠くなければならない。
しかし、あなたの話はしっかりと聞いたよ、ということは伝えなくてはならない。
そこで、
「あ、そう」
である。
「あ、」
もしくは、
「あー、」
という言葉が入るだけで、ちょっとニュアンスが変わり、同意とは異なって受け止められるようだ。
コツは、
「あ、そう」
と短く言った後、できるだけ早く、
「ところで、こんなところにおって、そのあとどうするん?」
と、本人のこれからの予定を聞くことである。
すると、これはなんだか、会話が続く、のである。
ほとんど、これ以外の会話は成立しないのであるから、(逆に、教師VS児童の構図で、いつの間にか、双方がエキサイトして、児童がキレる、ということになる)児童がキレないためにも、この会話しかない。
それにしても、どうして反抗挑戦性障害の子は、教師にくってかかるのだろう。
どんなことがあっても、なんとしても反抗して見せる、ということを固く心に決めているとしか思えないくらいだ。
でも、そんなナイフのような子どもにも、
「あ、そう。ところで、このあと、どうするん?」
は、会話を続かせる魔法の一言として、機能するのだ。
これはすごい。
子ども「ずっとここにおるなんて言っとらんわ。勝手に決めんな」
教師「お、えらい。ちゃんとそのあとも考えがあるんやなあ。」
これで、ともかくも、会話のボールは相手側に渡った。
やれやれ、である。
あるいは、
子ども「まだ、考えとらんわ」
教師「おお、じっくり考えようと言うことだね。そうやってしっかり考えるのって大事だもんね」
子ども「うっせえ。ほっとけ」
教師「いいよ。考えてごらんよ。まさかずっとこのままじゃあ、ないもんね」
子ども「うぜえ」
教師「わかった。体育館の外で待っているよ。自分で決めるのじゃなくて、学校で決めた時間割でやるのなら、体育館へおいで」
ここまで言うと、反抗挑戦性障害の子は、くたびれたような顔でゆるゆると立ち上がる。
彼らは、瀬戸際にいる。
1)自分で行動の予定を決めてうごく。
2)小学校で決めた行動予定にそってうごく。
この、1)と2)の境界をさまよっているのが、彼らだ。
1)でやる、というのなら、学校に来る根本がちがうのだから、親も交えて、
なぜ小学校に来るか
を話し合っていくしかない。
2)でやる、ということで、少しずつ、身体を慣らしていく過程にある。
まだ、1)から2)へ足を踏み入れ始めた、初期の段階なのだ。
過渡期であるから、先に述べたような、教師と児童の、会話にならないような会話をしていくしかない、のである。
その会話ができなければ、教師をなぐってしまうのだから、まずは会話ができるように、もっていくしかない。
愛知県 7月21日(木)。
この日が、1次試験である。
またこのシーズンがきた。
今年の面接で聞かれるのではないか、ということを、2点、挙げておきます。
1)不審者がとつぜん、教室に入ってきました。どうしますか。
2)地震が起きました。どうしますか。
今年になって不審者の事故が教育委員会を脅かしました。
校長会でも、教育委員会全体でも、そのことがとても新鮮なニュースとなっています。
小学校の教頭先生が試験会場に集合し、面接官を担当することが多いです。
また、その中で、面接官がすべてマニュアル通りに面接を行うのではなく、弾力的な運用を行っていて、教頭先生がご自身、あるいはその面接グループの話し合いの中で、質問を選択し、面接者にぶつけてくるのです。
上記の2点は、今、多くの教頭先生の頭の中に、非常に印象濃くインプットされている事項でありますので、今年の面接で聞かれる可能性が非常に高い。
1)は、撃退します、の一言ではダメ。
具体的に、どのような考えでもって、第一の対応をとるのか。次に、不審者の様子がどのように変化したので、第二の対応にうつる、その根拠はこうである、というぐらいに、細かく言えなくてはなりません。
2)も、もちろん、避難します、の一言ではダメ。
学校で定められている避難経路と非常事態の中での分掌によって行動することを前提に、子どもたちへの目線、声かけ、とこまかい気配りがある返答が求められます。
どちらも、学校の中には、非常事態に備えた対応の一応の線が定まっていることが多いので、それをふだんから熟読し、対応できる心構えを備えて置くことを当たり前とし、そのことにふれつつも、自分ならそれに加えて、どのようなことに気を置いて避難するか、させるか、ということを考える。
たぶん、1次試験、2次試験、どちらかで、この2点は今年の試験の頻度の高い出題項目となるのではないかと推測します。
受験者のみなさん!!!!!!
がんばってください!
また思いついたら、なにかヒントになりそうなことを、書いておきます!
図工。
ガクアジサイを描く。
そもそもは、1学期の最後あたり、図工は何をしようか、と話していたことが発端でした。
職員室で、隣に座っている同じ学年の先生と相談し、
「なにか、パッとできて、それなりの作品に仕上がるようなことをしたいですね」
ということで、いろいろと考えたのであります。
そこで、思いついたのが「絵葉書」。
これなら、短時間でできて、それなりに仕上がる。
季節の雰囲気を出すのにも、いい。
春から夏へと、季節がはっきりと変わり、それを実感するプールの時間もはじまるし・・・。
そこで、たまたま中庭に咲きかけていたアジサイを描こうかな、と。
ところが、西洋アジサイと思い込んでいたアジサイが、咲き始めてみると、ガクアジサイであったことが判明したのであります。
ガクアジサイは、描いたことが無い。
アジサイといえば、西洋アジサイしか描いたことがない私にとって、ガクアジサイは描く対象にはならないのです。なぜなら、形が複雑で、なんとも描きにくいからで、西洋アジサイなら同じような花弁をまんべんなく、画用紙に展開していけばいいのにくらべ、ガクアジサイの方は部分が分かれ、真ん中の小さな花弁の部分は、非常に難しいからなのであります。
でも、これをやらざるをえないわけがある。
どうしてか。
それは、ガクアジサイと思わない時期に、廊下を子どもたちと歩くたびに、
「あ、アジサイだね。まだ咲かないけれど、咲いたらみんなで絵に描こうね」
と何度も繰り返して、インプットを積み重ね、子どもたちも心から楽しみにしていた様子があるのです。これだけ事前準備というかお膳立てというか、下準備を前々から積み重ねておいて、
「あ!!!しまった。ふつうの西洋アジサイかと思いきや、ガクアジサイでありましたな。うわっはっは。むずかしいから描くのは中止です」
とは、言えなくなってしまった。
それで、2年生でも描ける方策を考え始めたが・・・
まあ、なにも考えず、
「ほら!白い画用紙をあげようね。さ、みんなで好き勝手に描いてごらん!ガクアジサイ!よおく、見るんだよ。」
と突き放してもいいのだが、それだとまあ、あまり楽しい授業にはならない。(と思う)
それで、先生はこう描きました、というのを子どもたちに見せてやろうと思い、こんなふうに描くことにした。
1)藍色の色画用紙を用意する。
2)そこに、白いクレパスでもって、ガクアジサイの外側の、額の部分の花弁を描く。
3)中央部分に向けて、白い線を短く伸ばす。(中央部分は、空間をあけておく。)
4)中央部分に、黄緑のクレパスで、てん、てん、を描く。
5)中央部分、黄緑のてん、てん、の周囲をとりまくように、水色のクレパスで、てん、てんを。
6)中央部分、水色のてん、てん、や、黄緑のてん、てん、の上に、100円ショップで購入した、ラメ入りの銀色ボンドをうすーく、たらして、のばす。
7)外花弁の白いクレパスの中に、クレパスの白線を踏み越えないように、しずかに青、薄赤紫、青紫、赤紫などの色を、絵具でつくり、筆の先でたらしこむ。(塗る)
8)花弁の下に、茎をのばす。これも、白いクレパスで。
9)その周囲に、これまた白いクレパスで、葉を描く。
10)葉の内部に、緑や黄緑の絵具をたらしこみ、塗る。
11)少し乾かし、かわいた葉の上に、緑や黄緑のクレパスで、葉脈を描く。
12)完成。
2時間、かかりますね。でも、2時間で、完成します。
そんなに絵具も要りません。
完成した子から、どんどんと壁に貼りつけていきます。
授業参観があり、保護者会があった。
これまでも楽しい保護者会はたくさんあったが、今回のは、なんだかとても幸福な風が拭いていたような気がする。
あたたかい、春のはじめのような、心地よい会となった。
なんでかな、と振り返ってみている。
それは、私が1学期をふりかえって、学級の様子、をお母さんたちに話しているときに、語ったエピソードが、ぜんぶ、あったかいものだったからだ。
○仲が良いこと
○だれかが泣いたら、みんなで様子を見て大丈夫?と聞いてくれること
○草刈りの道具をていねいに持っていること
○友達へありがとうを言うことが多いこと
いろいろと話すうちに、なんだか教室の中がしっとりとした空気に変わってきた。
その後、
「夏休みのこと」「通知票のこと」などを話して、
最後に
おうちの方から、一言ずつ、いただけますか。
といって、しゃべってもらった。
私ばかりがしゃべって、みなさんが話さないのはなんだか消化不良のような気がしたから。
お母さんたちは、
「えー?何を話せば・・・」
という空気もあったが、
「最近の、家の様子でうれしかったこと。子どもの様子でうれしかったこと」
を話してください、というと、みなさん一人ずつ、話していただけた。
時間を気にしていたが、やはり話しをはじめると、みんな聞きたいし、言いたいのだ。
疲れて寝ていると、そっと子どもがタオルケットをかけてくれた話とか、仕事で遅くなって帰宅すると、飯台の上に、「おつかれさま」というメモが残っていただとか。
こういう話をするときのお母さんたちの顔は、本当にうれしそうだ。
そして、また、めったに、こういった話を他人にはしないの、かもしれない。
そういう機会も、あまり無いから。
気になる児童がいる。
なにかいつも、爆発する要素を持っている気がする。
なにか、表情が暗いのだ。
そして、言葉の端々が、少し、とがっている。
この子を、大事に、大事に、と思う。
聞けば、家で、年の離れた乱暴者の兄に、こき使われているらしい。
食事の皿まで、運ばせている、と聞いた。
なんで小学校低学年の子が、そこまでしなければならないのか。
「なんでおれが」
が口癖になってしまっている。
こういう子が、キレるのは簡単だ。
兄のせいにするのがいい。
だれにも責められることなく、自分がキレることの立派な理由になる。
「むしゃくしゃする」
が、万引きの児童が一番使う理由らしいけれど、
この子もつねに、
「なんだかむしゃくしゃする」
と、言いそうな顔をしている。
この子だって、いいところを、たくさん、たくさん、もっている。
やさしいところを、たくさん、たくさん、もっている。
そのことを、自分できちんと知って、忘れないでいてほしい。
自分の心の中にあるもの。立派にかがやいているもの。
それを、ぜったいに、ある、みえるものとして、大切に持っていてほしい。
行動に出てくる、よさ。
それを、みつけて、ほめて、その子のよさとして返してあげる。
それを繰り返して行くことだと思う。
今日、その子が、草取り用の「草抜きフォーク」を、取りに来た。
掃除の時間だ。
いつものように渡して、見ていると、
フォークの刃に近い部分をきちんと手のひらで隠すようにして持っている。
一度、持ち直したが、やはりそうやって手のひらで隠すようにして持った。
これは、偶然ではないな、と思った。
その子は、そうして大事に草取り刃を持ったまま、教室を歩き、廊下を歩き、中庭まで歩いて行った。
教室には、ぞうきんがけの児童がいる。
また、ほうきを動かしている仲間がいる。
そのクラスメイトたちに、刃を向けまいとする、心遣いがある。
そのことを、さっそく、掃除の時間が終わった時に、みんなに伝えた。
ほお、と感心の声がもれた。
「なんで、○○くんは、そんなふうな持ち方をしたんだろう」
と私が言うと、
「だって、刃があぶないから」
とほかの子が言った。
「そうだ。そのことに、○○くんは、きちんと気付いているんだね。やさしいね。ぜったいに友達をけがさせたくないって思っているんだよね。こういう人がいるクラスにいるんだから、みんなうれしいね」
しらけたような空気、どうせだめだ、というあきらめの空気、自暴自棄の空気。
荒れた学級には、苦しい空気が満ちている。
ため息のような、苦痛に耐えるような空気がある。
そして、人を責める空気が。
「なんでおれが」「なんであいつが」「なんで先生が」「なんで親が」「なんで俺は」
この空気を切り裂いてくれるのは、シングルエイジの時代の、愛された感覚だろう、と思う。
人は、どんな人でも、愛されて、愛に包まれて、生きていきたいのだと思う。
それが本当だ。
それを、7歳で、感じられる毎日にしていくこと。
結論を言うと、知っておくにこしたことない。
どちらかというと、知っておくべき。
これは、対象児童によって、内容が変わる。
低学年ならポケモンや仮面ライダーオーズ、
また、「なつかしい話」としてとりあげた場合のトーマスもあり得る。
(おおくの1,2年生にとって、トーマスは幼児期のなつかしい思い出であるため)
(株)バンダイの調べでは、アンパンマン、プリキュア、ワンピース、ドラえもんが今年の上位らしい。http://www.bandai.co.jp/kodomo/question105.htmlバンダイ | バンダイこどもアンケート
私自身は、これまで、こういった話題は避けてきた気がする。
なぜなら、こうした話題で子どもたちと話すのは、
なんだか、子どもにあまりにも調子を合わせ過ぎている、という気がしたからだ。
つまり、子どもになんだか媚びてしまっているように思ったのだ。
ところが、このことについて、身近な勤務校の先生とちょっとしたおしゃべりになり、いろいろと話すうちに、
こうした話題も、するべきだ
というふうに思うようになった。
以下、先輩との会話。
「わざわざ大人が、そんな子どもしか知らないような話題をしていたら、迎合していることになりませんか」
「ゲーゴーみたい?それは決めつけ。内容がトーマスでも・・・、態度は迎合しちゃだめ、ね」
「と言いますと・・・」
「つまり、内容と態度は区別してしゃべる、ということ。態度は堂々と、きちんと話をする。ニヤニヤして、おべっかつかうみたいに、ご機嫌うかがう~、というような気持ちでしゃべっちゃダメだね。それは最低」
「ですよね。でも、大の大人が、トーマスやポケモンの話をしていたら、なんだかヘンだと思うのですが」
「変じゃないでしょう。だって、ARAMA先生だって、お子さんがいらっしゃるのだし。トーマスっていったら、たいへんな文学ですよ。高尚な物語の世界について話し合うのだからね。つまり、そういう態度をとる、ということ。ニヤニヤしてたり、下卑た薄笑いをしてしゃべっていたら、最悪だからね」
「ポケモンが進化した、という話も、ニヤニヤしないでできるかなあ」
「だから、内容ではなくて、態度が問題なのよね」
「ま、それはいいですが、なんでわざわざそんな話をする必要があるのかというと・・・」
「意味のないくだらない話をすることで、距離感の縮まる子がいるからだね。つまり問題児よ。教師がほめる、叱る、しかしたことのない子。そうでない会話をする関係がある、ということが大事なの」
「そう言えば、問題児は叱ってばっかりだしなあ」
「問題児だから叱るし、逆にほめほめ作戦で、ほめることだってあるでしょう。そのどちらか、両極端になりやすいのよね」
「なるほど、つまり、当たり障りのない、ふつうの会話になりにくい、と」
「ふだん給食の後とか、ホッとしたときの昼休みの時間とか、クラスの普通の子たちが会話しにくるでしょう。けっこうくだらない会話を。家でどうしたとか、お兄ちゃんが、お母さんが、とか・・・。そうした会話を、問題児とはしゃべっていないのよ。ふだんから叱る対象だから、向こうも距離をとってくるし。」
「そうですね。お互いに、ちょっと用心しているかもしれません」
「そうそう。その、用心、というオーラが、なんだか妙に伝わるんだよねえ」
先輩はここまで話すと、ゆっくりと開いていた帳面を閉じた。
窓の外は、次第に薄い紫色の空気となり、太陽が山の向こうに落ちかけていることを示していた。夕暮れだった。
落ち着いた先輩の声が、人数の少なくなった職員室に、しみとおるように響いていた。
わたしは、どうにもこの話の最後が聞きたくなって、続けて尋ねてみた。
「用心の必要ない会話を、した方がいい、ということでしょうか」
まさにマスターとよぶにふさわしい貫禄をひめつつ、先輩がこう答えた。
「そう。緊張のない会話をすること。だから、内容はなんだっていいの。ポケモンでなくたっていいし、家族のことや旅行のこと、おしゃべり気分ならなんだって・・・。でも、家族のことでも教師は何かの参考にしようと身構えて話すことがあるし、聞こうとして身を乗り出すこともある。そういう緊張感が少しでも出てきたら、自分で、「あ、モードがチェンジしたな」と思うことが大事ね。意味のない、緊張のない会話ゾーンから、出てしまった、と」
「そうか。意味のない、ということに意味があるのですね」
私がそう言うと、先輩と私は顔を見合わせて、ふふふ、と笑った。
「ポケモンにくわしくなって、子どもの人気を得なさい、ということではないの。先生すごい!ポケモン知ってるの!と言ってもらいたいから、ではないのね。それが目的だとしたら、ずいぶん緊張感のある会話になってしまうでしょう。教師の側に、目的がはっきりとある会話になってしまう。そうでなくて・・・」
「教師の側に、何の目的もない、得るもののない会話をしなさい、ということ」
わたしが先輩の言い終わらないうちに、言葉の終わりを引き取って話すと、先輩は私の顔を見て、にっこりとした。
「そういうこと」
職員室に、おだやかな空気が満ちてきたような気がした。
(きょうは、ベストセラー「チーズは、どこへ消えた」でおなじみの、スペンサー・ジョンソン風に書いてみました。雰囲気、出てましたかね?{ネズミ})