ほめる、ということについて、これまでも幾度となく考えてきた。
ところが最近、ほめない、という選択肢を選ぶことがあるな、と思うようになった。
あっ、と思う。
これはほめるチャンス!
ところが、ここで、ほめない。
ほめないで、スルーする。
こうしたことも、学級のいろいろな事情の中で、起こりうる。
私語の多い、やんちゃくんがいた。
そうじはほとんど、いい加減に済ませているタイプ。
授業中も、身体がいつの間にか、ナナメを向いている。
そのままだと隣の子にちょっかいをかけるんじゃないかな、と思っていると、案の定、となりの子の消しゴムをうばって、細長いけしカスを作成している。
となりの子は、いやそうな顔をしながら、取り返そうとしている。
そんな場面の多い子。
授業中も、
「あ、集中していない子がいるな」
という程度の声かけでは動かない。
「あと2人、こちらを見ていない子がいますね」
くらいでも、ダメ。
こら、○○くん。こちらを見ていません。
向きなさい。
これでも、ふてぶてしく、教科書も出さないで頬杖をついているタイプ。
こんな子が、連絡帳を書くときにサッと書く準備をしている場面を見ると、つい、
「あ!!!!最大のチャンスが訪れた!!ほ、ほめよう!今、ほめよう!!!」
と感涙にむせびながら、ほめてしまう。
ところが、そのほめる勢いというのか、私の側にある思いが重すぎて、声がうわずる。
「おお!○○くん、きちんと連絡帳を出しているね!早い!かしこい!」
ところが、このほめ方が、なんとも間が悪いのだ。
要するに、ほめるレベルがかなり低い。
だって、周囲の子はこんなことくらいでは、ほとんどほめられない。
学級の中で当たり前のレベルの行動を、○○くんだけは、そのレベル変更をしたうえでほめているわけだから、周囲の視線もなんとなく、しらけてくる。
「え、○○くんって、あんなことで先生に一生懸命ほめられてるんだ」
これはだれも声に出さないが、なんとなく学級の空気としてただよってくるのが分かる。
すると、それを当の本人である、○○くんも、感ずるようなのである。
「わざとらしいほめ方、せんどいて」
というような顔をする。
なので、こういう場合は、ほめてはいけないのだ。
スルーするべきなのである。
○○くんのような、やんちゃくんを、ほめなければいけない、と強く思っているから、いざほめる場面になると緊張してしまって、自然にほめることができない。また、一週間のうち、一日くらいしか、ほめる場面を見ない。だから、
「○○くんをほめなければ、ほめなければ・・・」
という教師、こちら側の強い思いとは裏腹に、ほめる場面はほとんどない。
ほとんどないから、ますます「ほめなければならない」という呪縛が強まっていく。
教師の側に、切迫感、義務感が強く増してきて、だんだんと○○くんを見る目線のピントがずれてくるのだ。
○○くんをほめたい、というアディクション、癖、強迫観念、ニコチン中毒にも似た症状が出始める。(大げさだが)
なにごとも、やりすぎはよくない。
つまり、○○くんとの人間関係、信頼関係は、こういう具合に、教師が自然の感情を失って、なにかのアディクション傾向をもって接する上には、ちっとも構築されていかないのだ。
関係をつくりたかったら、
○○くんをなんとかしてほめなければ!!!
という強迫、中毒症状から自由に解き放たれたときに、徐々に、一つずつ、関係をつくってゆくしかないのであろう。
2011年06月
消しゴムをひろってくれる。
「○○くん、すぐに気付いて、ひろってくれたんだね。① ○○くんは、やさしさが身についているんだね②」
黒板をきれいに消してくれる。
「○○さん、すっごくていねいに消してくれたね。① ○○さんは、次の授業のこと考えているんだね。いつもちょっと先のこと、考えてくれてるよね。②」
①は、具体的な行動の確認、こちらが気付いているよ、というストローク。
②は、それを抽象的、普遍・原理化して、価値づける、というストローク。
①は、直接、具体、一つの事例、明示的。
②は、間接、抽象、普遍、暗示的。
②のストロークの方が、人間の心理に到達しやすい。また、深層心理に影響しやすい。
しかし、②をいきなり伝えてもわけがわからないので、①と抱き合わせて、①+②でほめる。
これが、二段階でほめる、ということ。
低学年なので、WISCもまだ。
でも、IQは70程度。ぎりぎりだ。
行動の特長は、広汎性発達障害。自閉症スペクトラム。
みんなといっしょには、あそべない。
自分からふらり、と足のおもむくままに歩きだす。
話しかけても、会話の終わらないうちにどこかへ。
会話、というのにもならない。
こちらから、なにか話しかけていても、言い終わらないうちに、目線が最後まで合い続けることがなく、ちらっと見て、そのまま関心がなくなったかのように、どこかへ歩こうとする。
「いや、今は先生が話をKくんにしているよ。きいていてね」
それも、3秒ほどしか、関心がむかない。
先生の顔を見ても、3秒後には、ふーっと意識がどこかへ行くのと同時に、目線もどこかへずれていく。
また、今話しかけているのとはまったく無関係の虫の話題を、自分からしだす。こちらは、返事を待っているのに。
「いま、先生は、Kくんに話しかけているよね。聞いたんだよね。Kくんに答えてほしいと思って待っているよ。お返事がほしいな」
とくりかえしても、
「しらない。かたつむりってね・・・」(いま、かたつむりの話なんてしてないのに)
いやあ、自閉症スペクトラム、ということではないかなあ。
と思うが、親にはその知識はなく、家での困り感も教えてくれない。
しっかりやっています、というだけ。
親としてもしっかりやっているし、Kも家でがんばってる、と。
家庭訪問でも、「わが家の隙を見せるものか」
と、気合が入っているよう。
教室でのふるまいの、困り感を、なにかで伝えていくしかない。
困り感?
もちろん、Kくん本人の。
そんなKくん。生まれたばかりのうさぎに、スポイトで水をかけて、風邪をひかせて殺してしまった。
でも、Kくんは、シャワーのつもりだったらしい。
Kくんは、責められない。
でも、担当のS先生はカンカン。
担当のS先生が、Kくんをこっぴどく、叱りつけた!
担任の先生が、S先生の剣幕に動揺して、さらに追い打ちをかけるようにして、叱ってしまった。
これで、Kくん、ノックアウト。
顔が無表情になり、廊下にうずくまってしまった。
Kくん、しばらく固まって、給食まで動かなかった。
そんなKくんを、無理やりほめる。
Kくんの手をひいて、○○先生に、お届けモノをしよう。
職員室のプリントを届けよう、といって、いっしょに職員室のプリントをとり、それを○○先生の教室まで届ける。
○○先生が「ありがとう」と言った時、
「えらかったね、○○先生にほめられたね」
と、ほめる。
Kくんは、○○先生からほめられ、私からもほめられる。
実際は、ついてきただけ。
でも、ほめられる。
ほめられる、ということを、学習するのだ。
これが、まあ、技術と言えば技術か。
ちょっとした隙間時間に、以前からやってみたかったことを実行した。
小さなアンケート。
内容は、
「言ってほしい言葉」である。
子どもたちに、小さな画用紙を配る。
本当に小さなサイズのもの。
名刺をほんの少し、大きくした程度。
これに、
「いいかい。いつもあまり言ってもらっていないけど、本当は言ってもらうとうれしいなあ、自分のハートがほんわかしてくるような、あったかくなってくるような、そんなひと言を書いてね」
といって、配る。
相手が2年生だから、最初はきょとんとしていたが、
「かっこいい、とかでいいの?」
と聞いてくるので、
「そうそう。そんな感じ。言ってほしいなあ、って思う言葉をかくんだよ」
と言うと、なにか楽しそうなことがはじまるというので、さっそく書いている。
あとで集めると、
「かわいいね」
「かっこいいね」
「べんきょうがんばっているね」
などが多く、
「かわいい服だね」
というのもあった。
また、
「世界一強い男だね」
というメルヘンチックなものもあれば、
「足がはやいね」
という具体的なものも。
そこで、そのカードを使って、帰りの会の間際になって、それをみんなに言ってあげた。
みんながはずかしい、というので、名前はふせてやることにした。
だれのかというのは、みんなわからない。
でも、たいてい、
「あ、それ、おれのだ」
という子もいて、ばれちゃってる。
「いい?先生が、心をこめて言うから、きいてね」
といって、うんと演技力をこめて、身ぶり手ぶりもつけて、大きな声で言ってあげた。
みんな、キャーキャーいって、よろこんでいる。
「だれだれ?いまの」
盛り上がる。
時間が無いので、今日はたったの2枚しか読まなかった。
でも、すごい盛り上がり。
読んであげてから、少し言葉を変えて、コメントをつけてあげた。
「べんきょうがんばっているね」
「これだれ?」
「あ、それ、おれのだ」
「そう~。○○くんは、しっかり者で、がんばりやさんなんだね」
この流れで、教室がとてもほんわかとなった。
授業中、ここぞ、という場面にもかかわらず、
「せんせい!」
といきなり、だしぬけに言いだす子がいる。
べつに、場の雰囲気を読めない子、というわけでもないのだが、
なんだか1年生の時からの癖なのか、
身体に関連することは、ただちに先生に報告せよ、とでも親に言われているのか、
「おなかがいたいです」
と急に言い出す。
算数でも、国語でも、おかまいなし。
こちらが
「このタイミング、今のタイミングで、話の腰を折ってほしくない」
と思うときに、
「先生!おなかがいたいです!」
と言うのだ。
相手が高学年なら無視するか、今は授業中です、とでも言うのだが、相手は2年生。
うるうるした目で、体調不良をうったえる子を、あまり邪険にできない。
無視すると、
「せんせい、○○ちゃんが、おなかいたいって」
と、代弁してくれる親切な子もあらわれる。
それがまた、純真な親切心だから、これを無視するわけにはいかない。
今は授業中ですよ、というメッセージ、を送ってみたが、
なんだか教室中に、
「先生、○○ちゃんが、かわいそう・・・」
という空気が蔓延していたので、結局、話をきく羽目になった。
そこで、すぐに保健室へ行きたがったり、体調の不調を教師に訴えることで教師の注目を得ようとする子に向けて、次の手を打った。
名付けて、
「保健室レベルならOK、教室レベルなら、休み時間ね」作戦だ。
痛みが強く、あきらかに体調の突然の変化であり、ただちに保健室へ行きたい、ということであれば、それを「保健室レベル」と名付ける。
また、痛んだり、心配になったりもしているが、まだ保健室へ行くほどでもなく、とりあえず先生に報告したくなったけれども、授業を受けるのをやめて、保健室へ行かなくてはならない、というレベルではない、というくらいのものを、「教室レベル」と名付ける。
それを、本人が自己申告してください、というもの。
今日からそれを宣言した。
すると、2時間目の国語の時間中にやはり、
「先生!」
という。
わたしはにんまりして、
「保健室レベル?」
ときく。
彼女は、あっと思った表情になり、ううん、とかぶりをふって、そのまま漢字ドリルを続けたのである。
これまでの苦労がなんだったのか、というくらい、あっけなく解決。
彼女はそのまま休み時間も友達とあそび、なにごともなくその日を終えた。
おそらく、なにか安心・集中できないことがあって、自分の体調の方に関心がうつってしまったのだろう。
これをもっと改良して、教室の側面に、色画用紙を貼りつけた。
そこに、
「いたみレベル」
というグラフをはりつけた。
よくある、
「声の大きさレベル表」
をまねしたものである。
そこに、いたみ0(ゼロ)→とても元気 {笑顔}
などという絵と図が描いてある。
いたみ1→ふつう
いたみ2→ちょっとへんだけど、衣類調節、トイレ、水分補給でのりきる
いたみ3→今は教室ですごし、休み時間に先生へ報告
いたみ4→保健室へとりあえず行って相談してきたい
いたみ5→かなりへんだから、すぐに保健室へ行って手当を受けて休みたい。
いたみ6→きんきゅう事態。友達(や先生)の助けを借りて、すぐに保健室へ。
というレベル分けを、色別に描いた。
その後のクラス会議で、いたみ5のとき、6のときは、先生がいなくても、保健室へ行ってよいことになった。
また、授業中では、いたみ4にならないと、そのことをいちいち言わない、という約束もできた。
あまりはっきりとしていないし、レベル4なんかはかなりあいまいだ。
でも、人間の身体なんだから、弾力的な運用、ということでいいのではないか、と思う。
実際、子どもも、自分の身体の事ながら、あまりきちんと把握しているわけでないこともずいぶん多い。
でも、このレベル表があるだけで、授業中にいきなり保健室、という動きはかなり減った。
また、緊急時は自分だけでなく、まわりにそのことを言って、助けてもらえばいい、ということも確認できた。
廊下を走る子がとても多い。
とくに、今年入学の1年生。
いたずらぼうず、というようなくりくりとした目で、いちもくさんに走ってくる。
廊下は歩こう
という指導はしているものの、なかなか意識がそうなっていかないようだ。
先日、職員の会議でこんな話が出てきていた。
○しょせん、子どもは走るもの・・・廊下歩行は無理
○廊下歩行をうんぬんするよりも、学校の外の通学路を安全に歩く、ということを重点的に始動したらいいのでは。そのうち、学校の外で歩くなら、廊下もあるく、というふうになっていくのではないか。
たしかに、廊下を思い切り走る子が多い。
2年生も3年生も、4,5,6年生もみんな走っている。
これはもう、無理なのか・・・
○職員全員で、一致協力していちいち注意していこう
という意見はもちろん大事で、即座に実施しなければならない。
ところが、職員会議でこんなのもでた。
○20分休みの最初や最後の方は、教室を興奮して飛び出てくる子や、始業のカネで急いで教室に戻ってくる子がいる。廊下をダダダ、と走る子ばかりだ。この時間帯は、それぞれの教室近くで、廊下の見回りをした方がいいのではないか。
これには、年配の先生から
「無理だと思うな」
と意見が出る。
実際、休み時間に打ち合わせをしたり印刷したり、教師の大半はとても忙しくしている。子どもと遊んだり、話したり、なんだかんだ、と・・・。そのときに、廊下を見回るなど、忙しくて到底にできっこないだろう。
どうする?
(教員の夢を持っている、というFさんからのメールへ返信)
※同じようなメールをいくつももらうので、ちょっと紹介させてもらいます。
以下、私からの返信メールです。
Fさん、教員の夢をお持ちなのですね。
とてもすばらしいことと思います。
教師は情熱を傾けられそうな仕事、と感じていらっしゃるのですね。
そうした勘が、人生で大切になってくることもあると思いますよ。
私がそうでした。
Fさんは、「でも、自信がないのです」とお書きですね。
わたしも自信がありませんでした。
不安を数えると、100越した数はあったと思います。
結婚して、学生だった妻を養うために稼がなくてはならず、
子どもも生まれていて、免許もありませんでした。
周囲に相談すれば、みんな「むずかしそう」と言いました。
だいじょうぶ、できるよ、と言った人は一人もいません。
でも、情熱を傾けられそうな仕事は、やはり教師だろうな、と思っていました。
たしかな証拠はありません。確証もありませんでしたが、たよりになるのは、
「おそらく、自分はそこに情熱を傾けていけるだろう」
という勘でした。
それだけは、自分で大切にしたいと心から思えることだったのです。
それで、妻と相談して、その道を進もうと決めました。
仕事を辞めて、勉強ができるようにと、近所の職場を探しました。
1度目の転職です。
5年の計画を立てました。
計画を立てると、素直に喜びに似た感情が湧いてきました。
計画表の最後には、
「教員として小学校で勤務を始める」と書きました。
教員になっている姿が見えました。
それを見て、むしょうに嬉しくなったのです。
そのときに、嬉しさを感じている自分を、もう一人の自分が見て、
「お、おれ、うれしそうだな」
と不思議に思っているような感じでした。
それで、確信がさらに深まりました。
「たぶん、おれ、この人生を歩いていきそうだな」
そのあと、100あった不安を一つ一つ、クリアしていきました。
わたしも勉強らしいものからは相当に遠ざかっていましたから、
(高卒のあと、仕事を10年間、ずっとしていましたので)
英語なんて、さっぱりわかりませんでした。
おそらく今の Fさん の方が、英語は達者でいられると思います。
「英語なんて、さっぱりおぼえていないよなあ」
と、当時のわたしも、思ったと思います。
英語だけでなく、さまざまなことで、不安がよぎりました。
でも、5年ある、と言い聞かせました。
5年間は、×365で、1800日以上ある。
この1800日で、1次試験をぎりぎり合格できるまでがんばろう、と思いました。
一日ずつ、少しずつ、です。
30歳を過ぎていたのです。
ゆっくりいくしか、ないではないか、と自分に言い聞かせました。
よくばらないけど、休まないでいこう、という感じです。
隣の人が休んでも、たとえ靴一足分でも、毎日歩こう、という気でした。
英語は、中学生の問題集を一冊、日曜日にちょこちょこと進めたり、音読したりしていました。
通信教育部にも通いましたが、通信制大学の試験は、辞書の持ち込みが可能でしたし、ほとんど教官が試験の範囲や問題を教えてくれていました。だから、事前にある程度の学習があれば、単位がもらえました。
わたしの通った通信制大学が例外ではなく、大勢の社会人が時間を惜しんで学びに来ているのですから、教官もできるだけ単位がとれるようにと、便宜をはかってくれていたように思います。きまった試験範囲を、まじめにやれば、受かる、というのが通信大学の単位取得でした。
さて、ご期待に添えたかどうかわかりませんが、私はすでに教員になった身です。
苦労したことは、合格して勤務を始めた時にはきれいに忘れてしまいました。
苦労とは、そうしたものです。
当時の苦労はあまり苦労とは思っていません。
他の人はわたしに向かって、さぞ苦労したでしょう、と言いますが、合格すればみんなふっとびます。
苦労はあるのでしょうが、ぜひとも、教員をめざしてはいかがでしょう。
今感じていらっしゃる、「情熱を傾けられるだろうという勘」を大事にしてください。
初志貫徹され、教員の世界でともに汗を流せる日を楽しみにしています。
どうぞ、がんばってくださいね。
またブログで意見や質問があれば、コメントでもくださいね。
2年生の図工。
暑くなってくるので、教室用のうちわをつくる。
自分たちでつくったうちわなので、ルールを守る。
「はい、じゃあみんなで1分間だけ、うちわであおごう!」
へたに下敷きであおぐ癖をつけるよりも、うちわであおぐのがいい。
うちわをしまう段ボールも、教室の横に設置しておく。
班のメンバーがみんなの分のうちわも片付けてくれる。
ありがとう、と言えるように指導する。
7月の参観日だけは、廊下に掲示する。
すずしそうな色のうちわが廊下にビシッとならんだだけで、なんだかとても夏の雰囲気がただよう。「涼」を感じてもらえるように、風鈴なども置き、風流な参観日にしてみよう。
家庭から、いらないうちわを持ってくる。
1) 紙をとりのぞく。
おけに水をいれて、うちわをひたす。
うちわにもともとついていた紙がとれる。
とれにくい場合は、たわしでこする。
完全にとれると、プラスチックの骨だけになる。
2) 色遊びをして和紙をつくる
色あそびをして、にじんだ水彩色のついた和紙をかわかす。
(この後、一日か二日、おくとよい)
3) 和紙を貼る。
色のついた和紙をうちわに貼りつける。
表と裏と両方から和紙を糊で貼り付けて、その後、うちわの外枠の形にそってはさみで切り落としていく。うちわの持ち手に近い部分は、のりをわざとはりつけないでおく。すると、持ち手に近い部分は、ぺろん、とはがれるので(当然だ。のりがまだそこだけ貼り付けていないから。のりをつけたのは、外枠に近い部分のみ)、そこを、半円状に切って落とし、いわゆるうちわの形に和紙が整うようにする。
4) 和紙がはがれてこないように、テープで縁取りする。
100円ショップで売っている、カラーのセロハンテープ(8mm か 12mm幅)→今は、なんだかファンシーショップ系のかわいらしいものやカラフルなセロハンテープが売っているので、それを用意する。
うちわの縁を、このカラーのセロハンテープを短く切って、一つ一つはりつけて、縁取りする。
5) 完成!
いらいらして、文句を言ってばかりいる子への指導。(昨年度の事例から)
他のクラスメートの行動に、いらいらして文句を言う。
それを、直接、その子に言えないので、教師に言う。
そういう子を、どう指導していくか。
クラス会議をはじめたころ、N子の提案がものすごく多かった。
いわく、
○○くんがけってきた。
△△くんが順番をぬかした。
□□くんがたたいてきた。
・・・
そのどれも、○○くんの方にもかなりの言い分があり、仲裁していると、ほとんどが双方の意地の張り合いが原因であった。
N子の方も、いたいところをつかれた、という場面もあり、逆にN子が謝らなければならないことも多かった。
N子には、なにかが育っていなかった。
担任の私は、そのなにか、をさぐりあてて、十分に与えてやる必要がある。
仲の良くない、こじれた関係を、どうやって修復していくのか。
クラス会議で、お互いに「ありがとう」を言い合っていても、特定の人間関係からなかなか脱しようとしなかった。
また、他人の気持ちになってみる、ということが、かなりむずかしい。
むずかしいというのは、能力の問題でなく、心境的に、やりたくない、という感じ。
「なんで○○の奴の、気持ちとか考えないかんの」
その後、きまって、
「○○の話ばっかり。うっとうしい」
「○○のわがままにつきあいたくないもん」
彼女は、クラスの大半を敵にまわしても平気だった。
担任としては、ともかくも、N子にふりまわされず、のぞましくない言動にはとことん注意を払わず、注目しない作戦に出る。
ほとんど、無視。
そのかわり、クラスの中の、仲の良いシーンをしきりと見つけては、みんなの前で感心してみせる。
N子がぼろくそに言っていた、○○くんのいいところや、ほんの少し、みんなのために、と行動していたことを見つけては、「感心」していく。
○○くんは、やさしいなあ。いいやつだなあ。クラスに、○○くんみたいな子がいて、みんな助かるよなあ。
N子が、マイナスの行動でこちらの注目を得ようとするも、ほとんど無視。
うるさくても、N子との力比べをしない。
その、どれもが、N子のため。
N子だって、居場所がほしいはず。
N子も、みんなから認められたいはず。
N子には、余計な言葉かけはしない。
しかし、
「注目はしているよ」
というメッセージを送り続ける。
授業中、きちんとすわっていたら、うれしそうにアイコンタクトを送る。
本を読んでいたら、「いい勉強してる」。
静かにしていたら、「協力してくれてる」。
「うっせえ!」
「おめえのためじゃねーよ」
「協力なんてしてないわ」
と、暴言はいつものとおりだが、心の中では、みんなの仲間に所属できていること、認められていることが心地良いはず。
長い道のりだが、彼女の本当の心根を、信じ続けよう。
12月に研究授業で発表をする。
生活科である。
これからその記録を記していく。
まず、現状では、まったく生活科とは何か、分からない。
2年生は初任の時に担任したが、最初の一年はそれこそまったく右も左も分からず、とにかく主任先生がしろ、と言われたことをただひたすらに追いかけていっただけ。
ねらいも何も、わけが分からない。
視点もない、ねらいもない、やる内容も不明・・・
まあ、お話にならないレベルであった。
それから生活科とは無縁の月日が流れ、総合もよくわからないで中学年、高学年をやり・・・
言い訳はこのくらいにして、と。
学習指導要領や教育課程審議会の資料から、生活科をしらべはじめた。
同じ研究グループの先生にそのことを言うと、
「いいじゃない。そこからスタートすれば」
とのことであったので、恥も外聞もなく、頭を下げて、そこからスタート。
平成10年7月の資料で古いが、教育課程審議会の答申による文があり、
「活動や体験の中で生まれる知的な気付きを大切にした指導をする」
とある。
気付き、という言葉が本当に、不思議な言葉である。
気づく、という言葉は、わけがわからない。
正しさに気付く、というのであればまだ分かるが、その正しさとは、客観的な正しい事実でないこともある。ウソ、いつわり、ただの思いこみ、そうしたものすら、本人が
「気付いた」
といえば、気付きになってしまう。
そうしたことで、いいの?
そもそも、正しさ、ということが本当にキビシイ話で、えらい哲学に踏みこみそうになる。
まあ、そこまで言わずとも、気付く、というレベルがある。
思った、というレベルから、気付く、というレベルには、階段の差でいえば、何段もあるような気がする。
ともあれ、気付く、ということが、ただの感想とはちがうレベルに達するには、それに至るまでの段階がかならずある、ということ。
えっ、とか、おおーーっとか、うーむ、とか・・・ニュアンスでいくと・・・。
多くの、様々な感慨をもちつつ、ある感想の高みに至る、という感じがある。
そこに至るまでの、ドラマが必要で、そのドラマをドラマと感じるまでに、かならず「大変さ」と「困難さ」があるように思う。
うさぎを飼育することを通して、いったい何を獲得させたいと思うのか。
N子は私語のとまらない子。
叱っても注意しても、私語のくせがなかなか抜けない。(本当の癖になってしまっている)
また、悪いとも思っていないふしがある。
なぜ、わたしがしゃべりたいときにしゃべって悪いのか、という風。
注意したこともあったが、
「なんでこんな授業受けなきゃいかんのか」
という感じで、なんとも指導のむずかしい、めんどうな子であった。
さて、そういうN子に対して、まわりも非常に冷たい。
先生!N子がうるさい!!
すると、N子はものすごくふてくされた顔をして、ほんのひとにぎりの、自分に調子をあわせてくれる仲の良い女子に、こそこそ、としゃべり、男子をにらみつける。
教室の中に、火花が毎時間、散っている、という感じであった。
さて、この教室に一番必要なものは、いったいなんであろうか。
「安心感」?
人間関係を構築し直すために、クラス会議をした。
ところが、クラス会議が成り立たない。
発言は、トーキングスティックを持っている者に限る、としたルールがいつまでたっても、守られない。
自分のきらいな女子、きらいな男子の番になると、あきらかに発言を妨害している。
それに、売られたケンカは買うぞ、といきりたつ双方。
教師に一番必要なスキルは、けんかの仲裁スキルだ、という気がする。
学校は勉強をするところ。
学校は、なかよくなるところ。
授業は、きくもの。
教室は、学習しようとする者のためにある場。
教室では、休み時間や自宅ではないので、別人になりなさい。
口がすっぱくなるほど、言って聞かせるが、砂漠に水をまくようなもの。
仲の悪いのって、本当に不幸だなあ、としみじみ、思う。
学習に身がはいるわけもなく、テストも満足に解答できず、クラス中が不満そうに日々が過ぎていく。
ほんとうに、砂金をさがすようなもので、
クラスにほんのひとつぶ、見つかるような、ハッとする出来事、
消しゴムをひろってくれたとか、そんなものでも・・・
それを、100万倍に広げて、感心してみせる。
それのくりかえし。
淡々と・・・。
仙台で大学時代を過ごし、そのまま仙台の人となっている高校時代からの友人がいる。
メールがひさしぶりに届いた。
仙台で苦労しつつも復興に向けてがんばっている、と。
気仙沼市の友人が未だに行方不明である、ということ。
被害が甚大であり、小学校も大きな傷跡を負った、ということ。
彼自身も、気仙沼の小学校を起点にして復興活動を行っているということ。
そこで、学校への感謝が記してあった。
「マスコミにはほとんど流されないが、秩序がきちんとしているのは、ここにいる被災者がほぼ全員、学校生活を体験しているせいではないか」
というのだ。
「大きな騒動や泥棒、順番を無視する行為、われ先にと他の不幸を足場にして自分の得を、といった行動がほとんど見られない。日本人だから、と多くのマスコミが記事にしている。多くの人がその記事の論調に賛同している。」
でも、と彼はつづける。
「日本人だから、というふうに書く記事が多い。しかし、自分はもっとちがった感想をもつ。それよりも、この避難所が学校である、ということが大きいのではないか。小学校の体育館で、子どもたちとともに過ごす市民が、われ先に、というのではなしに、順番を守ろうとするのはごく自然なことと映る」
さらにつづく。
「そして、なにより肝心なのは、この避難生活を送っている市民の多くが、小学校での生活を経験しているのだ。炊き出しがあるときは、みんな食器をきちんとそろえて待つ。順番があれば、それを守る。ごみは、きれいに整理される。待つ場面があれば、「待ってください。あと何分くらい」と、頼んでもいないのに、みんなで声をかけあっている。誰かが全体に大事な連絡をするときには、きちんと黙って聞こうとする。」
こうしたことは、みんな、小学校で習ってきたこと、その経験があるからではないか、というのだ。
「暴走族もまだいるんだよ。この地域。で、その子たちも、きちんと並ぶわけ。また、着てる服とかだらしないし、見た目もヤンキー、という子が、体育館の入口をきちんとぞうきんがけしている。みてたら、ちゃんとぞうきんもしぼっている。ぞうきんを、ひろげて、きちんと干している。これは、小さいときに家でも学校でも、そうした生活をしてきた体験があるからだろう。」
わたしが小学校の教師をやっていることにからんで、
「全国の小学校の先生に、感謝の念が湧いてきた。その光景を見てて」
と、記してあった。
教育の効果は卒業後に出る。
53-26
一のくらいをひく。
3から6はひけない。
十のくらいから 1くりさげる。
5は4。(※ア)
1のくらいに10をかく。(※イ)
10ひく6は4。
3と4で7。
十のくらいをひく。
4-2=2
こたえ 27
数年前は、(※ア)と(※イ)のところを、
「5を4にして、10をかく。」
と、一気に言わせていた。
ところが、この言い方は短く言えるし、テンポが良い反面、
「5を4にして」というところの意味がはっきりしない子が出てしまい、
そこを抜かしてごまかしてしまう子もいた。
なので、
5は4。
この言い方に変えて、さらに、2は1、3は2、4は3、5は4、6は5、・・・・
ということを何度もくりかえして考える、あるいは言わせる、というふうにした。
ほとほと疲れて、身体を集中的に休ませることにした。
女房に断って休みをもらう。
子どもをうまく友達といっしょに遊ばせてもらうことにし、昼前より近所の温泉へ。
温泉につくと、まずは水を一杯のみほす。
ゆっくりと、温泉になじんでいこうと思う。
ともかくも、身体をじんわり、じっくりとあたためる作戦だ。
そのために、半日かけるつもり。
そのくらいのつもりで、身体を芯からあたためたい。
自宅のせまい風呂では、どれだけがんばっても1時間入れば飽きてしまう。
本を読んだり、ビニールをかけて雑誌をみたり、防水仕様にして(ようするにビニールをかけて)テレビをみたり、とやり方はいろいろあろうが、それでも限度がある。
しかし、温泉だと、それが可能だ。
わたしが今回、4時間過ごした方法を紹介する。
4時間後、よろよろと温泉を出て、休憩場所で横たわった(倒れた)ところ、身体の感覚が非常に鋭敏になっていた。
やはり、あたためるとちがう。
自分の身体に意識が向き、自然と身体をいたわる動きになる。
「休もう」と、心から思える身体になっている。
そのまま頑張り続けるのが、これまでのパターンだった。
身体に鈍感になってしまうのだ。
疲れに鈍感になってしまう。
すると、ある日、ものすごいコリとともに激痛が走り、ぎっくり腰になる。
それが去年。
今年はそうはさせないぞ、と。
温泉に入るところから。
1)まず脱衣場で水をゆっくり一口だけ飲む。(ウォータークーラーがある)
2)しずかに洗い場で身体をあらう。
3)髪も洗う。
4)ゆっくりと立ち上がり、脱衣場でもう一度、一口だけ水を飲む。
5)サウナに3分だけ入る。
※これは、最初に身体をさっとあたためるため。しかし身体の中央、芯の部分はなかなか急にはあたたまらないから、表面だけだ。
6)洗い場にもどり、つめたく濡らしたタオルで顔から頭から少しずつ冷まし、深呼吸する。l
7)落ち着いたところで、やおら立ち上がり、ゆっくりと歩いて移動し、ジェットバスへ。
8)ジェットバスに、ひざ下のみ浸かり、ふくらはぎにジェット水流をあてる。5分以上。
9)内湯は熱いので、露天風呂の方へゆるゆると歩いていき、下半身のみ浸かる。10分以上。
10)ゆるゆると屋内へもどり、洗い場で身体を拭く。水で冷ましたタオルで、何度も身体の表面を拭いておく。
11)決心できたところで、再度水をのみに脱衣場へ。
12)脱衣場で水を一口だけのんでもどる。
13)意を決して、サウナへ。2回目。
14)目標10分。力尽きて8分で出る。
15)2回目のサウナでは、汗の出方がちがってくる。1回目の3分のときは、身体の水分がふつふつと表面に出てきた程度であった。しかし、2回目は、なんだかねっとりした汗が出てきた。なんだろう?あぶら系の汗?
16)洗い場のイスに腰をかけて、ため息をつきながら、何度も冷水で身体を拭く。ザバーっと冷水を浴びる人も多いが、心臓に負担があるとNHKの知ってるつもりで見てから、それはやめた。タオルで拭くようにしている。時間をかけて、冷水に浸したタオルで、拭いている。
17)ふたたび、ジェットバスの湯へ。
18)ふくらはぎの2回目。10分程度。
※このとき、なんだか身体が冷えてきていることを実感。肛門のあたりは温かいが(おそらく穴があいているため、湯温がダイレクトに人体にとりいれられているのだろう)、その他の部位がなんとなく冷たい。冷水でひやしすぎたか?いや、ほとんど水など浴びていない。タオルで拭いているだけで、ザバーっと景気よく冷水浴びている人にくらべたら、身体が冷えてくる理由がないのだが・・・。不思議だ。
19)身体の冷えを感じ、熱めのうち湯に浸かる。半身からはじめて、5分後には全身浴。しかし、なかなか暖まらない。不思議だ。
20)それでもじんわりと、熱を感じだした。
21)お湯がある程度、ぬるく感じる。さっきはすごく熱く感じたのに。
22)そのまま過ごした後、もう一度露天へ。
23)露天で浸かるが、やはりぬるく感じる。オレの身体はどうなってしまったのか。もう一度、内湯へ移動。
24)さすがに疲れてきた。疲れがピークになったので、(もうどうしようもなく、ふとんに横たわりたくなった)出ることにした。
25)ぐったりとなって、脱衣場へ。こんなふうに風呂場でなってしまうのは、久しぶり。
ところが、この日、20分後に自宅へ到着してみると、なんとまあ、身体が快調!!
気分もスッキリして、目が冴えてきた。
いったいなんだか、わけがわからない。
夕方、いろいろと読書がしたくなったが、グッとこらえて、ためしに横になってみた。
すると・・・
瞬く間に、寝てしまっておりました。
いつの間にか、嫁様の敷いてくれた布団で、寝ておりました。
翌朝の目覚めが、とてもとても、快調だったのは、言うまでもありません。
ひさしぶりだね、こんなに眠れたの。
眠るのって、すごい。
眠れないから、疲れがたまるのかな。
身体があたたまったことと、眠りの質がどう影響し合っているのかわかりませんが、また同じように疲れた日に、温泉利用して、こんなふうに疲れを癒やしてみたいと思いました。