30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2011年04月

発達障害児でも叱るべきか




実は、この休みに入る直前の勤務日、相談されたのだ。
相手は、臨時任用の講師のSさん。
Sさんは、講師歴も6,7年ある、という方で、むしろ私なんかよりもよほどてきぱきと仕事をされている。
惜しいことに、旦那さんの勤務の関係で引越しが多く、正規の職員ではなく臨時任用をされているとのこと。


このSさんが、

「実は、迷っているんですよね」


と語りだした。

もう職員室には数人しか残っていない。

最初は、わたしとでなく、別の方と話をされていた。
1年生の不適応児童を専門に関わってくださっている先生と、いろいろと話をされていた。

ふだんなら、なにげなく帰ってしまうところだったのだが、どうやらなにか、深刻そうな気配。

「どうしたらいいのか・・・」

というつぶやきが、お二人の会話から聞こえてきたので、なんとなく

「まだお帰りじゃないんですよね。私はそろそろ帰ろうと思いますけど・・・」

と声をかけたら、冒頭のように、相談をされたのである。


まだ相談などしっかり受けられる自分ではないにしても、話を聞くだけ聞いてみよう、として座って話を聞いていると、こういうことであった。


実は、S先生がもたれているクラスの学級経営の方向が見えない、とのこと。
1年生対応の先生も、一昨年度によく関わった子がいる学年であり、子どもの顔や特長をご存じであった。そのため、おふたりで、これまでもいろいろと子どものことを相談なさっていたのだそうだ。


学級経営の方向とはどういうことか。

実は、かのS先生は、学年主任ではない。
学年のほとんどのことを、もう一人の主任先生にお伺いを立てて、すすめている。
最初に、この立場的な意味を理解したうえで、先を聞いた。

実は、主任先生のクラスにはグレーゾーンの子がおらず、ほとんどの子が、臨時任用のS先生のクラスにいる。
これは、前年度の先生が転出されていなくなったものの、学年はそのまま持ち上がりであったからだ。
前年度主任の先生のクラスをまかされたのが、臨時任用のS先生だった。
そのクラスに、グレーゾーンの子、また発達障害と思われる児童が複数いるのだ。

話の前提はここまで。


そして、S先生は、発達障害と思われる児童がたくさんいることから、クラス全体に以下のポイントを押さえて関わろうとしていた。

○基本的に叱らない
○言葉で注意するのでなく、子どものとる行動を変える手立てをとる
○できる限り、癒し系の教室にする


ところが、主任先生を始め、周りの先生たちは、

○もっと叱るべき

というのである。



もちろん、発達障害のことを考えて、あまり叱らない方がいいと考えている、と伝えた。
でも、そこで微妙に食い違う。

○あの子は、発達障害なんかではなく、ただ甘えているだけ


というのだ。

さらに、

○発達障害の可能性があるにしても、いいことと悪いことを、明確にして行動を変えさせないとダメ

といったらしい。



S先生は、自分の見方に自信はない。
昨年から隣のクラスの先生として、いろいろと見て知っている先生たちがいるのだから。
その先生たちが

「あれは怠けだ」

というのに、

「怠けではなく、障害です」

と言いきるだけの自信はないのだ。



さらに、反抗挑戦性障害のようなタイプの男の子、石を投げたりなど、あぶなっかしくてとても心配な子がいる。
その子に対して、強くしかる、というのがどうなのか。

もちろん、暴力や怪我につながるような行為はやめさせなくてはならない。
でも、基本的に、

○もっと叱れ

というのは違う気がしている・・・、とのこと。




さあて、難問だ。
ここまで話をして、1時間半。
われわれを残して、みなさん帰宅された。
校内は職員室を残して真っ暗だ。


明日からはゴールデンウイーク、ゆっくり寝られそう。。。。と思った夜に、とかく、こうしたことがあるものだ。


わたしは、「障害があれば、叱ってもそのことの意味が正確に分からないのでは。叱らない、というので続ければいいのでは」

と意見を言った。

しかし、相手はすっきりしない。

他の子から、こう言われた、というのだ。


「なんで、先生は、Aくんのこと、叱らないのか」

他の先生なら、ぜったいに強く強く、叱ってくれた。
だから、Aくんも、少しはおさまっていた。
だけど、先生が変わって、あまりAくんを叱らなくなった。
だから、Aくんは調子にのっている。
わたしは、Aくんをしっかりと叱ってくれる先生がいい。

と言ったそうだ。


「なるほどねえ・・・」

ここからが、教師の腕の見せ所。
叱ってくれ、と言ってきた女の子も納得させながら、クラス全体にも相互理解の空気をつくりつつ、Aくんにも最適な対応をしていかなくてはならない。

さあて・・・




採用試験の概要発表され始めました




愛知県の教員採用試験の概要について発表されています。
平成23年4月22日(金曜日)発表
http://www.pref.aichi.jp/0000040787.html


愛知県には、次のような選考枠も用意されています。

○元教諭・講師経験者特別選考
○現職教諭特別選考
○社会人特別選考

こうした動きを積極的に活用するのがいい。


配布時期。
平成23年4月28日(木)~
となっている。
つまり、今日からだ。

中央県民生活プラザ、県民生活プラザ(県内7カ所)及び県教育委員会教職員課で配布。

とある。

願書受付期間 平成23年5月11日(水)~5月24日(火)

試験日  第1次試験 平成23年7月21日(木)
第2次試験 平成23年8月22日(月)・23日(火)


これは、愛知県の平成24年度 教員採用試験概要。



わたしの知人も、また同じ学校の講師の先生も、チャレンジしようとしている。
春の、1学期の、忙しい時期にも関わらず、教室で勉強されている姿がある。
面接も、複数のベテランの先生、教頭先生にみてもらっている。


ぜひ、受かってほしい!
夢を、実現してほしい!
エールをおくります。



(かつて受験者だった自分に、さまざまに応援を下さった方への御礼、いつもこの時期になると思いだしています。まったく知らない人なのに、丁寧にいろいろと教えてくださった方もいらっしゃいました。本当にうれしかったです)




「ハガネの女」アスペルガー毒にも薬にも




テレビ朝日のドラマ、「ハガネの女」シーズン2。

今晩、第二話が放映された。
扱われた題材が「アスペルガー」症候群ということで、興味津津。

結論。
毒にも薬にもなりませんでした。

感想は、


「・・・」


です。
自分でも、もっといろんな感想を思うのではないかと自分で自分に期待していたので、これは肩すかし、でした。ざんねん!


視聴者が、この放映によって、アスペルガーをどう理解するか。
この一点のみで、見ていましたが、結論は、

「あまりよくわからない」

というか、印象に残らなかったのでは・・・?

アスペルガー、という名称だけはハッキリと出ていたので、

「なんだそれは」

と思った方も多いと思う。

では、その説明はどんなふうだったかというと、

「他の人の気持ちが分からない障害」

ということをサラリとハガネ先生が言うだけ。
これだけでは、よくわからない・・・。


実際のドラマの中で、アスペルガーの子が周囲の子に多大な迷惑をかけているシーンがそもそも映らない。

見ていた人も、
「なんでこの子が、他の人の気持ちがわからないの? わかってるじゃん。」
と思ったと思う。

「気持ちが分からない障害」

というフレーズが、ドラマの展開とはあまり密接なつながりなく、ポンと出てきた印象で、

「は?」

という感じ。


視聴者代表として、どんな感想をもったか、嫁様に聞いたが、

「気持ちが分からないとかって、どの場面のこと?」

と言っていたので、よくわからなかったのだろう。

そもそも、アスペルガーの説明に、「気持ちが分からない障害」というのは疑問。
ドラマの中の子は、そのことでの困難を感じている子ではなさそうだったから、なんで的外れな説明をわざわざハガネ先生がしたのか・・・。

消火器の使用方法に関しての認知の仕方についてトラブルがあったのだから、そうした認知の独自性についての説明だったら勉強になったのに。 
あるいは、なわとびができないのだから、身体的な感覚統合、共応動作の困難さや課題についての説明ならふさわしかった。

ハガネ先生は、アスペルガーの一般的な説明をしたかったのかもしれないが、「気持ちがわからない」は、登場人物のあの子にはあてはまらなかったのだし、なんでそんな説明をしたんだか、つじつまが合わないんだけど・・・

(きみ、背が小さいね、とかの、相手の気持ちを察しないで発言してしまう態度などは、ドラマではいっさい見られず、クラスメートもそのことを問題とは考えていないので・・・)


嫁様の印象をまとめると、

「アスペルガーの男の子は、おとなしくてとても聞きわけがよく、品がいい。人に迷惑をかけないと努力している。なわとびが下手。電車が好き。」


というものだった。

この程度なら、恐れていたことにはならなかったな、ということで、ホッとした。



と、ここまで書いて、要するに、このドラマではアスペルガーについてはほとんど何も語らなかったのだ、と気がついた。

ある意味、世間に対して小石くらいは、ポチャンと投げてくれるかと期待していたのに、期待が過剰であったようだ。


○黒板の三角定規その他は今日もそのまま貼られていたので、それが常態であろうと推測されたこと。
○保護者の意思を聞かずに「アスペルガー」と診断名を口にしてしまったので懲戒免職。
○子どもの在籍に関してクラスメートが決定権を持つというありえない事態。
○ハガネ先生の学校には、特別支援学級が存在しないこと。
○ハガネ先生が体育の時間に赤白帽子をかぶっていたこと。



など、いくつかのどうにも気になって止まない点はドラマだから、と眼をつぶるとして


アスペルガーの子がかかえている不安

ということについては、ほとんど触れられなかったので・・・



なんだか、

味のしないガムを噛み続けているような1時間

でした。




ドラマ「ハガネの女2」でアスペルガー




ドラマ「ハガネの女」でアスペルガー症候群について描かれるらしい・・・
放送は28日木曜日。


悪い予感がする・・・


アスペルガーについて、おそらく、正しい情報は伝わらない。
おそらく、誤解や良くない印象を与えるような、風評が、この放送によって広まってしまうだろう。

これは、アスペルガーの正しい理解を広めていこうとする立場の人にとっては、たいへんな障害になるだろうと思う。

テレ朝は、今から謝罪することを考えておいた方がいい!!!


(これが私の一方的な誤解であってほしい!!!テレ朝は、アスペの子の子たち、その親たち、教師たちの立場をもっと深く考えた上での放送をしてくれるのであってほしい。

いやあ、ホッとしました・・・

という記事を、28日の夜書いていることになっていればいいが・・・!!!)

リンク

「ハガネの女」アスペルガー毒にも薬にも 4月28日




ハガネの女 時代考証ならぬ教室考証を




テレビはめったに見ないが、嫁様が見ていたのでなんとなく見た場面で、

「これはないよ」

と言ってしまったがために、嫁様から


「うるさい。ドラマなんだから嘘があったっていいでしょう!」


と叱られました。

ハガネの女(シーズン2)という作品です。
見たのは本当にたったのワンシーンですが、教室が映りまして・・・

その瞬間、チラッと見ただけなのに、そんなふうに文句をつけたので、嫁様の怒りを買いました。申し訳ありません。


違和感があったのは、教室の前面。黒板です。

黒板に、無造作に三角定規やその他のマグネットがぺたぺたと貼りつけてありました。
さすがに、通常はこんなに、ぺたぺたとは貼らないでしょう、と思ったのです。


たしか、三角定規、分度器、丸マグネットがカラーでたくさん、青や緑や黄色、赤など・・・。

発達障害の子がみたら、集中しづらいだろうなあ、と気の毒になります。

いまどき、こんな大量のマグネットを黒板にできたデキモノみたいに、ブツブツと貼りつける先生はいないだろう、と思う。

かけ算、という言葉が板書してあって、いったい何の単元だ・・・

その授業の板書の下の方に、なぜか

「サッカー教室」という紙ぺらが、これまた無造作にはり付けてあり・・・

授業と関係のある紙だとしたら、はっきりと見える字の大きさでなくてはならないが、とても小さな字で、うしろの子はほとんど見えないだろう。
だとしたら、おそらく授業とは無関係の紙だと思われる。
そんな紙を張り付けたまま、授業に突入したのだとしたら、クラスが荒れてしまうのでは・・・



前の時間が算数だからか?
それにしても、無造作すぎる。雑すぎる。ふだん、こんなふうに黒板の左側が隠されていても平気なのだろうか?ハガネの先生は・・・。


ということを、嫁様にしゃべっていたら、冒頭のように叱られました。
すみません。本当に。お楽しみのところを・・・



黒板の大量のマグネット。
いかにも、撮影のスタッフが、無造作をよそおって貼りつけているみたいで、うそくさい。

大河ドラマなどの時代劇では、時代考証を専門スタッフが行う。
その時代にふさわしい言葉、小道具、風景であるかどうか・・・
うそがたくさんありすぎたら、それを一つでも減らすために努力する。
学園ドラマでは、そういうことはしないのだろうか。

もし、教室考証、というような役割があれば、もっともっと、本物っぽく、教室をつくるだろうになあ、と思いました。




全国の教師、先生たちは、忙しすぎて、こんなテレビのワンシーンに文句付ける人などいないのでしょう。

でも、もし見たら、同じように感じる人もいると思う。
ぜひドラマの制作にかかわる人に、


「教室考証」


という仕事を、してほしいと思います。
もし、希望でしたら、わたしがやりますよ!
テレビ製作に携わる方、ご連絡お待ちしております。




ハテナ草(ソウ)と名付けて 春のたより




前述した、イヌナズナ。
まだ、この正式名称を、みんな知らない。
わたしも、知らないふりをつづけている。
子どもたちが、どこまでしらべることができるか、知りたいのだ。

「せんせい、あの草、ハテナ草だよね」

と子どもがつぶやいたのをきっかけに、クラスで「ハテナ草」という言葉が流行しだした。
もちろん、そうなるように、わたしがオーバーに反応しているからだ。

すると、さすが。
子どもたちはすんなりと調べてしまった。
それも、友達のお母さんに尋ねる、という方法で。

Mくんの家のすぐそばに咲いていたので、そのままMくんのおうちのお母さんに聞いてみると、

「あれはね、イヌナズナ、というのだよ」

と教えてくれたそうだ。
そのことを、朝一番に、職員室まで報告に来た。

報告に来たのがYくんで、それを教えてくれたおうちの、Mくんもいっしょだ。
Mくんは何をするでものんびりで、やることがわからないと固まってしまうタイプ。
でも、にこにこしながら一緒に来た。

Mくんは、手に、本をもっていた。
野草図鑑、という渋い、古そうな本だった。

みるとそこにだいだい色のふせんが、ぴょこり、と頭を出しているのが目に付いたので、

「これかな?」

と聞いてみると、はたして、そのページに

イヌナズナ

のイラストがあったのだった。
きちんと、ナズナとの区別まで書いてある。
食用にならないため、イヌナズナ、と名付けてあるそうな。

それを、大々的に朝の会でとりあげ、みんなで感心してみる。


○わからないことを、考え続けようとしていたこと
○わからないことは、どうやったら分かるようになるか、考えたこと
○実際に、大人の人に尋ねてみたこと
○わかったことを、みんなに紹介したこと


一番大事なのは、自分だけがわかった、としないで、みんなにもきちんと知らせようとしたこと、だろうか。
クラスの仲間とつながろうとした視点、態度、それが立派だった、ということを、子どもたちによくわかる言葉づかいで、何度も繰り返し、語っていきたいと思う。




やんちゃくんが イヌナズナを発見




生活科で、ナズナを見つけて、教室まで持ってきた。
みんな一本ずつ紙の上において、今度スケッチをしよう、と話す。

すると次の日。
朝、教室に来てみると、なんと、ナズナととてもよく似た草が、机の上にある。
よく見ると、花の色がきいろだ。ナズナは白だから、ちがう草。でも、本当によく似ている。

あまり似ているので、本当におどろいた。いっしょに見ていた子どもたちも、えらい驚いて興奮していた。
クラスの中の、やんちゃくんが持ってきたらしい。うれしくなる。

実の形をみてみると、ナズナはハート形。今見ている草の方はまあるくて少し長い。楕円に近い。これが、ナズナの実のように、ついていて、そっくり!

よく見つけてきてくれた。
やんちゃくんが、確実に心をひらいてくれようとしている。

うれしいなあ、と連発した。

こんな草があるなんて、知りませんでした。
これもきっと、春の野草でしょう。
そして、なにかきっと、すてきな名前があるのだと思います。

やんちゃくんに調べてみよう、とさそったが、それは面倒らしく、首を横に振った。でも、顔はほころんでいて、うれしそうだ。
なにか、きっかけをさぐって、またなにか一緒にやれることをさがしてやりたい。




どうやらやんちゃくんとうまくやれそうです




五感散歩(ごかんさんぽ)という言葉があった。
どこかで聞いた。思い出せないが、自分の中には残っている。

五感をはたらかせながら、さんぽをする。
むずかしいようで、単純で、でもやっぱりむずかしい。

田んぼのあぜ道にたくさん生えているナズナをさがして、

「これ、知っている?」

子どもたちは、ナズナ、とすぐにこたえる。
すごい。さすがだ。  (神奈川の子とはちがうなあ・・・と心の中で)

ナズナを見つけて、みんなでスケッチすることにした。
鉛筆のみ。
色はつけない。
形、そこに集中するため。

自然界の形は、すべてこれ、意味がある。
どうしてこの形か、この大きさか、すべて意味があり、それが生命活動の維持に直結している。
江川多喜雄先生が、東京の小石川植物園を講義しながら歩かれていたとき、そんなことをおっしゃっていた。

だから、色はつけない。
まずは、えんぴつのみで、線画を書かせる。

うまいへた、ではない。
その植物に、直面していくこと。それだけで、子どもはものすごく充実した顔つきになる。
おそらく、こんなふうに「スケッチ」したこともないのだ。

さて、そのナズナをスケッチした次の日、なんと、クラスの中の暴れん坊将軍が、

「せんせい、こんなのはえてたゾー」

と持ってきたのが、なんともおもしろい。ナズナにとてもよく似た植物。
色が黄色で、ぺんぺん草の実、通常はうちわのようになっている部分がまあるい。

これなんだろうねえ。すごいの見つけたなあ。
見つけて、ちゃんと持ってきてくれたのがうれしいなあ。

「うれしい、うれしい」
を連発する。
これだけで、暴れん坊将軍がとてもいい顔になった。
その瞬間、

オレ、こいつが好きになれそうだ、という気がした。
この感覚を忘れないで行こう。
去年のやんちゃ姫のことは、どうも好きになれずにきてしまった。
教師が子供を好きになれずに、どうして教育できようか。
教師から出ている「キライビーム」は、教室全体を暗くする。

そうならないよう。

「うれしいー!」

を連発している。




原発のことをどう授業するか




原発の大事故。
スリーマイルを超えるレベル、歴史的な事故。
(えっ、そんなに?と思うけど、新聞記事を読む限り、そうらしい。

国連原子放射線影響科学委員会(UNSCEAR)のバイス議長は6日、ウィーンで記者会見し、福島第1原発事故の重大性について、旧ソ連チェルノブイリ事故(86年)と米スリーマイル島事故(79年)の中間との見解を示した。


さて、これを無視するわけにいかず、どう授業するか、悩んでいる。
10年後、


「当時の○○先生、ちっともそんな話しなかったよね。ちゃんと教えてくれるべきだった。」

と教え子から責められたら、本当に教育者としては恥じるべき姿で、平身低頭で謝るしかない。


教師に、ことの是非をいう資格はない。今回の場合は。東電の責任者を責めるとか、政府を責めるとか、メーカーを責める資格もないと思う。

ただ、どう考えていくか、ことの現実を、子どもたちに示していく必要はあると思う。
デマに振り回されないようにするために。
風評被害も出ている。
現実、事実を知らされないから、風評被害にあう。また、風評を信じ込む態度に出て、さらには加害者側に立ってしまう。
子どもたちが、風評被害の加害者立場に立つことについては、教師が防ぐことができる。



とはいえ、相手は2年生。
大丈夫だよ、と言いたい。
基本は。
でなければ、この小さな精神と身体が、不安でいっぱいになってしまう。


しかし、こわさもまた、どこかで伝えなければならない。
「想定外」というこわさも。


「もんじゅ」が、制御棒の操作ができず、稼働運転もできず、かといって廃炉にもできず、中途半端な運転のまま、まったく発電できないでいること。年間の経費がン億円も無駄になっていること。

こういうことを、どう子どもたちに知らせたらいいのか。


もんじゅの事故は、想定外であった。


今回の震災。
津波も、地震の規模も、想定外。
想定外には、だれも責任を取らない。


大学祭の特別講義を思い出す。
原子力発電所が話題になった。今から、もう20年も前の話だ。

ある質問者が、もし想定外の巨大地震が起きたらどうなるんですか、と聞いた。


「そのときはみんな死ぬのでしょうね」
竹内均先生が悲しそうに言われた。

雑誌、ニュートンの編集長をされていた。耐震設計を信じるしかない、ということ。
竹内先生は、だからといって、脱原子力というのは今の人間にはできない、と言われた。
それだけ、電気の必要性が増している。

作家の広瀬隆さんは、火力と水力でまかなえる、という。
でも、電気事業連合会の広報誌では、火力と水力ではまかなえない、と言っている。

実際は、だれも知らないのでは。

3年生くらいなら、こう言いそうだ。



「本当に火力と水力だけではたりないかどうか、ためしてみたらいいと思います。」

まあ、これもありか。
結局、計画停電で病院も老人ホームも工場もピタッと強制的に停電させられてしまっていたのだもの。(これもひどい話だと思うが)
ためしてみる、それもいいかも。

ともあれ、電気に関して、大きな宿題を背負ったまま、この子どもたちは、大きくなっていくしかないのだなあ、と、教室の子どもたちをみて、思いました。
(同時に、わたし自身も、子どものときにチェルノブイリやチャイナシンドロームが話題になっていたのだし、同じことですね)


原発を扱うのは、総合的な学習の時間か。


学習指導要領の解説に、環境問題に関してふれているところがある。


「環境問題をより科学的に認識するためには,温室効果を確かめる実験や風車をつくって発電する実験などをしたり,環境保全にかかわる機関に見学に行ったりする活動が効果的である。
また,自分たちが深く環境問題とかかわっていることを実感するためには,家庭や学校での水の使用量や,排出するゴミの種類と量を調査するような活動が有効である。こうして調べたことや実験などで分かったことを発表・討論させることを通して,具体的にどのように行動を変えればよいのかを考えさせたりそれを深めたりする・・・」

(PDFファイル)


、とある。

これだな。
学校予算でガイガーカウンター購入するところもあるかもしれない。(放射線被ばくを避ける生活の仕方や、日蔭と日向での数値の差、屋内と屋外の数値差、天気予報と被ばくの関連、風向きと被ばくの関連、給食や学校農園内の作物の数値など)

校庭活動に放射線基準…文科省

上記のようなことを書いて、アップした直後に、こんな記事を見つけました。
これから、ガイガーカウンター購入が、どうやらふつうのことになりそうです。
ガイガー常備。
学校だけでないかもしれないね・・・。




テンプルグランディンさんのこと2




テンプルグランディンさんの話題、前回の続き。

さて、グランディンさんは、牧場の設計をされている。
その中で、牧場の牛たちが非常に落ち着かないのでなんでか調べてみたがなかなか分からない。

グランディンさんが行ってみて、牛舎に入って、牛と同じ視線で、牛の立場で考えていると、ひらひらする影が、地面にうつっている。これを恐れているのでは、とひらめいた。

(グランディンさんは、牧場の設計をする仕事をしている。
USAとカナダの牧場の約半数が、グランディンさんの設計だ。
屠場と一体化している牧場の多いUSAやカナダでは、牧場の設計という仕事が非常に重要になってくる。年間何万頭という牛が処分されるので、牛が屠場まで気分良く歩いてくれないとお話にならない。せまい通路に牛が固まって止まってしまったら、それこそ阿鼻叫喚である。時間が経ってしまい、夜になってライトに照らされながら人間が必死になって牛を追う羽目になる。屠場のスケジュールが成り立っていかないのである)


さて、グランディンさんが赴いた牛舎。グランディンさんがひらひらと地面の上で揺れている、旗の影に気がついた。これをなんとかしないかぎり、牛が落ち着いて餌を食べてくれない。

そこで、隣の敷地に立つ病院の、庭先にあるポール、そこになびいていた病院の旗をおろしてみると、牛がそれで安心して歩き始めた、というのだ。




これを聞いて、自分も同じような体験をしたことを思い出し、なんだか急に、グランディンさんが身近な人のような気分になった。

わたしが20代の最初に牛を飼っていたとき、牛がどうしても進まない。
昼飯の時間が近いので、なんとか動いてもらいたいが、ダメ。

出産の棟で出産をして、さあていよいよ、搾乳が始まる子。搾乳の施設まで、移動しなければならない。ところが、催乳の牛舎棟まで、どうしても動いてくれない。最初はゆるゆると調子よく歩いてくれたのに、途中まできたら、そこからぴたりと動かなくなった。
牛の目を見ると、ぎらぎらして、なにかにおびえている。
だが、何がこわいんだか、ちっともわからなかった。

今から思うと本当に牛飼いとしては初歩的なことだったのだが、目の前に、細い雨水路があり、そこはアルミ格子のふたがかぶせてあったので、それを越えて歩くのがイヤだったのだ。

当時の私は、まだ牛を飼い始めたばかりのしろうと。大きな図体の牛なら、歩幅よりもうんと小さい幅で、軽々とこえていけるもの。もりあがっているわけでなく、地面と同じ高さなのだし、見た目は色が金属のアルミ色をしているものの、まったく怖いものではない。

・・・と思っていた。

グランディンさんなら、当時の私にこう言うだろう。

「それは、あなたが概念でモノを見過ぎているのです。あなたが見ているアルミ格子は、「うんと軽く、せまく、ちいさく、牛が気にならないもの」としか認識できていないでしょう。でも、もっとしっかりと見てください。こんなにも、色がちがうのです。アルミの色は、牛をつなぐスタンチョンが床に固定されている部分のくさりの色と同じです。たぶんこの牛は、そのくさりにイヤな思い出があるのでしょう。あるいは、そのアルミの格子をふんだときに、すべった記憶があるのかもしれません。」



グランディンさんは、専門家の目でみる。
くわしく、細部を見る。
こういうことは、あらゆる仕事をする上での、本当に大切な部分だと思う。
逆に、そういう「細部への視点」がなければ、プロにはなれない。

多くの人は、プロになるために、大人になってから、あるいは修業中の身の上として、全体だけでなく、細部を見る練習をする、のだと思う。

しかし、アスペルガーの人は、最初から細部をみることに長けている。だから、逆に、大人になっていく過程で、「全体も」見られるようになる、訓練をする必要があるのだろう。

全体をみるのは、むずかしい。ことの軽重、バランス、全体の混ざり具合、というポイントが出てくるからだ。これらは、アスペルガーの人にはむずかしい。
特に、人間関係のバランスがむずかしい。
人間同士の付き合いの上では、<仲の良いふり>、というのもあるんだ、というのが分からない。親友とまあまあ親友、ふつうの友達、あいさつ程度、面識程度、というレベルを区別して理解することが非常に困難なのだ。




テンプルグランディンさんのこと1




テンプルグランディンさん。
佐々木正美先生の講演の中で、何度か出てきていた。
ご自分が自閉症であることを知り、そのことをほとんど初めて大人になって解説し、自閉症とは、発達障害とは何か、ということを世に知らしめた方だ。

この方の話を聞くと、やはり「発達障害(Developmental Disorders, Developmental Disabilities)」という言葉が、なんだかとても間違っているように思う。
やがて、日本語訳としてふさわしくない、ということが、だんだんに一般的な認識になっていくだろうと思う。(もうすでに、佐々木先生をはじめ、多くの専門家が「訳語として使わない方がいいのでは」と発言されていますが)


発達障害とは何か、という説明をするときに、私の学校の特別支援コーディネーターの先生は、

「発達障害といいますが、発達が遅れているわけではないのです」

と、最初に必ず言う。

そして、付け加える。

「よく、誤解されるんですが・・・」


だったら、やはり、言葉を変えることを進めるのがいいと思う。
言葉は概念を引っ張ってくる強力な武器であり、言葉をつくったり、広めたりすることが、概念をつくったり、広めたりすることになるからだ。

さて、このグランディンさんの映画もあるようなのですが、英語バージョン等はあるが、まだ日本語訳化されたものは、発売されていない。
これの日本語訳が、本当に待ち遠しい。


そのグランディンさんの講演が、聞ける。日本語の字幕が出るので、助かる。

テンプル・グランディン: 世界はあらゆる頭脳を必要としている



講演の最後に、アスペルガーがいなければ、人間はまだ洞窟で火を焚いてくらしていたでしょう、という発言が出てくるが、こういうことはまだ日本の教育現場では

「はは!!なにをいってんの(笑) あはははははは」

というようにしか、受け止めてもらえないように思う。
また、多くの母親をはじめとする親や保護者、ジイジやバアバにも、

「ウワハハハ、そんなあほな」

と思われているように思う。



たしかに、今の学校で、適切に指導も受けられないアスペルガーの子に対して、校長も教頭も、

「この子は天才予備軍」

とは思っていないのではないか。

だって、やっていることが、社会的ルールのしつけ、ということにいかにも偏っている。
難しいのも当然で、教室でじっとしていられない子に対して、テンプルグランディンの言うように、その子の興味関心のスイッチを押し、心に火をつけてやる、ということはなかなか難しい。学級担任がそこまでやれたらいいけど、支援級の先生も本当に大変で、アスペルガーの子が3人もいたら本当に疲労困憊の様子。原級の先生も、そこまでは見ていられない。だって余裕がないもんなあ・・・。行事が多くて・・・。行事と研究授業の打ち合わせばかりで、本当に職員室って修羅場。毎日の、アスペルガー児童の日常の世話なんて、後回しだものなあ。(すみません、愚痴になりました)




断・捨・離 のとりくみ、始めました




・モノが入ってくるのを 「断」つ。
・家の中のモノを、「捨」てる。
・過去のモノ、今使っていないモノ、使う予定のないモノ・・・
そうしたモノに、とらわれた考えを「離」す。

これらの行為を、あたらしい言葉にして、概念として認知してもらおうという動きがあります。
断捨離(だんしゃり)というそうです。

(「離す」の字は、とらわれの心を離す、という意味においては、「放す」の字がふさわしいと思うけど)




我が家も、家の中のモノを、捨て始めました。



・・・すごいすっきりする。


妻とふたりで、

「これ、だんしゃろう」
「いいね。だんしゃっても。どうぞ」
「だんしゃっちゃおうかなー。どう思う?」


などと、ダンシャる、という動詞を勝手に使って、大掃除をしています。

服はかなり捨てられましたが、本が捨てられない。
この本に助けられるだろう、役に立つに違いない、という気持ちが強いのだ。
しかし、確信はない。とりあえず、ともかくもとっておこう、という本が多い。
まだ読んでないし・・・。というものもある。
ではいつ、それを読むのか。
ちっとも、計画はないのだ。
だから、おそらくまた夏休みに大掃除をするときに、

「あーあ、読もうと思ってたんだけどね」

となるにちがいない。
そうやって、2年くらい、あっと言う間にたってしまった本がいくらもある。
要するに、・・・別に捨ててもよいのだ。
一度に、すっと捨てられたら、部屋の中がまたかなり軽くなるに違いない。


さて、その中に、「山びこ学校」がありました。
ご存知、無着成恭さんの本です。
高校生のころに読んで、まだ持っていました。
すごいねえー。
数え切れないほどの引越し、職場の変更、住む場所の変更、があったにも関わらず、ずっと持ち続けています。なのに、ほとんど読んだためしがない。

でも、持っている、というだけで、なにかしらこちらの精神状態に働きかけてくる本です。
つまり、背表紙をみるだけで、私の中に、なんらかの化学変化が生じるような・・・。
昔読んだ際の感動や、考える観点のようなもの、宿題のようなものが背表紙から立ち上ってくるかのようで、こればっかりは、読んでいませんが、捨てられません。

断捨離の教えの中に、

「今現在、使っていないものは思い切って捨てよ」


というのがあります。



ところが、この本、「山びこ学校」は、
使っていないようで、使っている。
そういう本なのだ。
背表紙を見るだけで、他の本の何倍も、わたしの気持ちに働きかけてくる。
だから、使っていないけど、使っている、というわけです。




叱らず、子どもと闘わず・・・




「叱る」と「ほめる」について、何年も考え続けている。
そのことが、ブログにかいているとよくわかる。
ブログは日記だ。
人に読んでもらうというよりも、自分の備忘録という意味合いが強い。
すると、何年も前にも、

「叱る」と「ほめる」 について考えている。

という記事が出てくる。

同じようなことを、何度も考えるのが教師という仕事らしい。




さて、頭の中で何年も寝かしつつ、考えが渦巻いているのだが、はたしてこの春、ボーっと遠くの山を見ていたときに、ふとこんなことを考えた。

それは、昨年度担任した、反抗挑戦性障害児のS子のことを考えていた時だった。

S子が離席するのをなんとか座らせ、黙らせ、クラスの他の子どもたちと共に過ごさせるのに、10分も15分もかけていたことがあった。
そのときのS子は、いつも、

「なんでそんなことしないかんのだ!やだね!!」

という。


つまり、なにも納得していない、ということ。
教室で勉強する、ということについても、つまりは納得していない。いや、なのだ。なんで座らないかんのか、なんで勉強しなくてはいかんのか。

それを、

「教室は勉強をするところです。座りなさい!」

とやっていた。


大声で怒鳴ったことも何度もある。正直、怒鳴らない授業をしたかったが、<怒鳴る>をしてしまったこともある。


そんなことをつらつら思い返していたときに、ふと、

「同じ土俵で戦わない方法がないかな」

と思った。
これまでは、教育は格闘技だ!と思っていたし、なんとか抑えつけなければならない、と感じていた部分もある。

だが、結局、同じテンションで戦っていて、何も得るものはなかった。
S子以外の子や、他の学年の子にも
「先生はこわい」
と思われたが、それは、得られた、というポジティブなものではない。


「S子さん、席に着きなさい。だまって前を向きなさい。ほら、話をしない!勝手なおしゃべりは休み時間にすることです。今は授業時間です!身体ごと、前を向きなさい!」

これを続けるのは、本当にしんどい。
朝からほめてほめて、気持ちよくさせていたって、いざというときに指示が通らない・・・。


そこで、S子がどうしたいか。それをもっと聞いていくしかないのでは、と思った。

「S子さん、授業の約束教室の約束がありましたね。今、2回注意をしました。3回目になると、教室を出て、職員室へ行くのでしたね。さあ、約束を守れますか?」

つまり、S子が、自分の進路を選択するのである。
S子の意識、注意の向ける場所が変わる。
先生が叱る、言うことを聞く、ということではなく、自分が約束を守るかどうか、ということに、気持ちが向いていく。

そうなるように仕向けていくしかないのでは。




うさぎを飼う  適任の先生探し




うさぎを飼うことになっている。
2年生の担任となった。

そうだとはいえ、うさぎを飼うかどうか、本当に決めるのはわれわれ新年度の2年担任団である。
子どもたちの実態に合わせて、どう考えるか、だ。
教師がやりたくてやる、という以上に、実際の、今年度2年生の子どもたちにとってどうか・・・、ということ。

しかし、すでに1年生のころから、旧2年生たちがうさぎの飼育をしているのを見ているから、

「ぼくたちも、2年生になったらお世話できるね!」
とうれしがって心待ちにしているという。

であれば。

やるしかないではないか。


さあて、どうするか。
いったい、2年生の子供たちに、どんな力をはぐくんでいくか。
つけさせていくか。
生活科を通して・・・。
一年の計は元旦にあり、というが、学級の始まりは今。
この時期に、考えておかなければならない。


そこで、つらつらと休みの日に考えてみるに、
○うさぎをペットとしてしかとらえていないのではないか
○そもそも、うさぎの生命そのものは、ペットと既定される前から、ある。
○野生として生きていける命を、ペットとしているのは人間の側。
○うさぎは食用、という国もある。(欧米)
○キャラクターやペット、というイメージが強いから、すぐに触ったり抱きたくなるのではないか。
○抱くという行為も、うさぎからしたらどうなのか、という視点が必要ではないか。

いろいろと考える。
でもまあ、2年生だからな・・・。

まだまだ、考えている途中。
思考を寝かしつつ、来週また、考える時間をとろう。




教育実習に行ってないけど教師です




4月1日は、あたらしい先生方を職場に迎えての、歓迎会があった。
夜、駅前の通りを歩いて、指定の店。

宴会。
今の時期、大震災のさなかに行うのはどうか、という意見もあった。わが校長は、
「不安がうずまく今の世の中で、平常心で動くこともまた大事。平常心を失うから、買占めやら他を責める気持ちも生まれる。平常心の中で、粛々と子どもたちの大切な環境をつくっていく。そのための歓迎会なのだから、やるべし」と判断。

個人的には、本当によかった。その通りだ、と思っていたから。

さて、新しい先生方8人。(小規模校、12学級しかない学校で8人も先生が変わるってすごい規模だと思います)
自己紹介などいろいろと語り合っているうちに、

「○○小学校の教頭先生が、わたしの教育実習の時の先生でした」

という話題が出てきた。

それを聞きつつ、うらやましい気分。
私は、教育実習を受けていない

サラリーマンだったし、妻子がいたから、定職を離れるわけにはいかず、一か月も職場を離れることも無理で、教育実習なんて受けている余裕がなかったのだ
なんてったって、一か月会社休むって言ったら、

「じゃ、辞めてもらうしかないな」

と真顔で上司に言われたからね・・・。

いつもは冗談ばかり言い合うような人だったのに、あのときは真顔だったから、やっぱり無理なんだな、と観念しました。
大事な収入を途絶えさせるわけにはいかず、結局会社勤務を続行し、教育実習は受けない、とするしかなかったのです。


そこで、これも何度も体験済みのことですが、

新しくお見えになられた先生が、私に向かって、
「先生は、どちらで教育実習を受けられたのですか?」
とお尋ねになった。

となりでいっしょに聞いていた他の先生が、
「いえ、○○先生は(私のこと)、去年まで△△県にいらしたのですよ。だからこちらでは教育実習されてないですよね。ねえ、先生」

わたしは、ちょっと複雑な顔で言うしかなくなる。

「いえ~・・・、そうなんですけどねー。わたし、そもそも、教育実習を受けなかったんです」
というと、ちょっと一瞬、みんなの周りに不思議な空気が流れる。

「え?」
「なんでですか。受けなかったら教師になれないでしょう」

「えー、へへへ・・・」


ここから、私はどうやって、何を言おうか、本当に迷う。
笑ってごまかそうか、正直に転職の話をしようか、小学校教員資格認定試験のことを言おうか、どうやって言おうか・・・

しかしまあ、酒の席でなんとなく試験の話なんてのは、かたっくるしくていやな気もするので、ちょっと面白い顔をして笑いながら、

「いやあ~、受けないで教師になっちゃったんですよー!」

とか言ってごまかしたつもりになって、みなさんのグラスにビールを注ぎ、
「教育実習の先生が、隣の○○小の教頭先生になられているんですねえ。いいですなあ。縁がある、ということでしょうねえ」

こうしてなんとか凌いでいる。
グラスの中の泡が、ふっくらとビールのうまさを引き立てているようだ。
「お待たせしましたー、こちらでよろしいでしょうかー」
店の奥から、また別の料理が運ばれてきた。




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