授業中に、ある先生が
「わかりましたか?」
と聞いたのだそうだ。
子どもたちが、きれいに声をそろえて、
「はい!」
と元気よく、こたえた。
よくあるシーンだと思う。
ところが、これを見て、ある先生が
オレは、「わかりましたか?」とは聞かないなあ。と感想をもらした。
なぜですか、と尋ねると、
「そんなふうに聞いたら、全員、はい、というにきまってるじゃん。きまっていることをあえて聞くような時間がないよなあ」
とのこと。
そうか、それは子どもも、反応しちゃうよ。
お決まりのしぐさとして、「はい」というだろうなあ。
お決まりのパターン。
さらに、かのセンセイはこうおっしゃる。
「あえて聞くなら、わからない人?と聞くかもしれないね。教師は、まだわからない子の方を知りたいわけだから。」
それを聞いて、隣で焼酎を飲んでいた他の先生が、
「わからない子?と聞くか~?・・・聞いたって、勇気ある子しか、手をあげないよ。自分がわからない、ということをみんなに知らせることになるでしょう。恥ずかしくて」
では、わかった人?も、わからない人?も、どっちも聞かないってことですか?
「そう。それが正解。そういうことは、聞かない。」
この話を飲み屋でしているのが、夏のお疲れさん会に集ったわが校の教師陣。
おもしろい話題なので、ビールのみつつ、枝豆つまみつつ、みんなで盛り上がった。
わかった人?と聞くタイプと、わからない人?と聞くタイプと、どちらも教師としての考えが底にある。その考えの種類によって、2つのタイプに分かれるのだろう。
わかった人?と聞くタイプは、おそらく、わからない子は返事をしないと思っている。それをみて、「返事をしない子はいないかな。もしいたとするなら、どの子かな」とチェックしようとしている。しかし、大半の子は、その場では返事をしてしまう。チェック機能としては、あまりあてにならない。そのことに気づいていない。
わからない人?と聞くタイプは、わからない子は返事をする、と思っている。
学級経営がうまくいっていて、教室ではまちがえるのが当然、まちがえることで勉強が進む、教室はまちがえるところだ、という主張が子どもたちにも深く根付いているのだろう。
そうであるとしたら、これはとてもいい質問かもしれない。
でも、そうでない場合は、
やはりわからない子は返事をしない可能性が高いから、またこれも意味のない質問のように思う。
つまり、
「わかった子?わからない子?」というような教師の発言は、そんなに意味がない。
いや、どちらも、もっと他に、なにか別の意図があり、必要に駆られて聞いている質問なのかもしれない。そのあたりはさらに深く、しらべていく必要がありそうだ。
でも、・・・・実際、よく言ってるよなあ・・・・
2010年08月
教師は夏休みほど忙しい、という記事を書いたばかりだが、やはり夏休みだからこそ、できることがある。
ずっと気にかけていた、NHKの連続テレビドラマ、「ゲゲゲの女房」を一気に見た。
2カ月分ほど、溜めてあった。
テレビと接続したハードディスクに録画してあったデータを、一度に見よう!というもの。
子どもを早く寝かせて、二晩(ふたばん)かけて・・・。
いやあ、おもしろい。
ちょっと向井理さんが若すぎるイメージがあったが、それも次第に慣れた。
水木さんの人生ドラマは何冊も著書を見たから、ほとんど筋書きが分かる。
ちょうど今は、鬼太郎がブームになり始めたころ。「ガロ」の周辺や、家族のお見合い話、当時の池上遼一氏をはじめとするアシスタントの話が話題になっている。
これが、奥様の視点から観察されたようにして、ドラマが展開されていく。
もちっと、奥さんの独り言や、感想や、他の人とのかけあい、話、おしゃべり、などが前面に出てくると、「ゲゲゲの女房」という題名にふさわしいタッチになっていくと思うがなあ。
水木しげるの半生記をたくさん読んだ人にとっては、ただただ、水木茂の周辺を撮影していくばかりでは、なんだか、「それだけか」という気がして惜しいです。(NHKさん、お願いします)
水木しげるの人気がなぜこんなにあるのか?と嫁さんに話すと、
「そういう前提で話を始めよう、というところからして、なんだかうさんくさい」
と言われた。
つまり、ちっとも売れていない頃から、石鹸でもシャンプーでも美容液でも、
「なぜこの○○○せっけんは、こんなにも売れているのか?!」
という主題と前提でもってPR、CM、広報、世間に対するアッピールを行うことが、広告業界のひとつの定石的な作戦であることから、
わたしが
「なんでこうも、水木しげるが・・・」
と話をはじめたのが気にくわないらしい。
そういう話をしながら、ふと足元の新聞に目をやると、
「なぜザ・プレミアム・モルツはこんなに売れるのか?」という本の広告が目にとまり、思わず女房と大笑いをしました。
教員も、同じようなテクニックを使って、授業をします。
たとえば、まだ何も説明をほとんどしていないのに、
「なぜ、ここの足し算を先にしてはいけないのですか?」
などと聞いたりする。
なかには、え?先生、何言ってんの?足し算やればいいじゃん・・・という顔をしている子もいるが、カシコい何人かが、いつもよりも勢いよく手を挙げて、
「となりのかけ算から、先にやるからです!」
だとか、
「足し算と引き算よりも、かけ算と割り算を先にするからです!」
なんて、言ってくれる。
「なぜザ・プレミアム・モルツはこんなに売れるのか?」と、同じようなことを、教師もやっている、というわけで、人の意識をコントロールする技術は、広告業界も教員も、劇団員も俳優も、みんな同じような共通項を持っているのだと振り返ったのでした。
「トイ・ストーリー3」がとてもいい、と同僚の先生から教えてもらい、子どもと土日に見に行くことにした。
ところが、映画館でチケットを買う寸前に、
3D
という文字が見えた。
これはまずい。
以前、なにか他の映画で 3D を経験したが、めがねが面倒くさい。
うちの子は入る気満々で、メガネも別に平気らしいが、わたしが面倒なのだ。
同じような時間に、
「借りぐらしのアリエッティ」も上映していた。
「こっちでもいい?どう?」
と聞くと、
「あ、アリエッティ!こっちがいい」
と案外とまあ、都合よく・・・・
数日前に、テレビでどうやらアリエッティのことを見たらしく、興味を持っていたようだ。
幸運。
ホッとした。
さて、アリエッティの上映前に大いに驚いた。
他の映画の予告編がこれでもか、と映しだされたのだ。
少しくらいなら、と思うかもしれない。
いくつやったんだろう・・・。10作品は超えていたと思う。
ハリーポッターから海猿から、いろいろと。
その、どれもが、
ドッカーン、ズゴーン、というようなとてつもなく大きな衝撃音で彩られて、演出されている。
ドガーン、バチコーン、と音がするたびに、思わず笑ってしまった。
さて、アリエッティは静かな映画であった。
シーンとする場面がいくつもあり、思わず引き込まれる。
原作はイギリス。
小物も家のつくりも、庭の様子も、原作では当然のことながら、ことごとくイギリスの事物であるのにも関わらず、それがジブリ作品となって見事に日本の景色に溶け込んだ。
メアリーノートンの原作がすばらしい。
調理に例えれば、最高の食材が手に入ったのと同じ。
調理師は、その食材をうまく生かし、皿に盛り付けてやるだけだ。
ジブリはうまくやった。
原作の良さを損なうことなく、うまく絵にすることができた。
ジブリは、成功した。日本風の味付けで。
5歳の息子は、当然、これは日本のお話、と思い込んでいる。
すばらしい。
ハルさんの声は、樹木希林さん。
これはぜったい、希林さんのイメージが先にあって、あとから絵をつけたな。
ハルさんは、希林さんとそっくりでした。
なぜ今の時代に、この古い1950年代の作品をもってくるのかな、と思うと、環境問題に関心が高まった点については、2010年の今と、1950年代と似ているからかなと思った。
「絶滅する種族」
なんていう言葉が、ずしんと重みをもって響くのは、1950年代の、都市生活のゆきつくところ、涯を感じさせた時代と、今とが同じニオイを持っているからだろう。
メアリーノートンが、近代文明の行く末に大きな危惧を抱いていた、というのは、児童文学作家の猪熊葉子さんが、岩波少年文庫の巻末の解説で指摘している。
ノートンは、この「床下の小人たち」の続編で、小人たちがさらなる危機を迎えること、そしてなすすべなく、時代の波にのみこまれていくさまを描いていく。
学校が変われば、学校長の判断で、指導方針や対応も変わる。
たとえば、私が以前勤務していた小学校では、その方針がころころと変わった。
赴任した最初の年。
最初の職員会議で、こんな指示があった。
「教室の前面、黒板の周囲には目立つ掲示をしないようにしましょう」
これは、発達障害児童に対する支援だ、ということだった。
黒板をみるときに、どうしても視界に入ってしまう。
そのときに、集中力が途切れる。
だから、黒板の周囲には「学級目標」などの掲示をしない、というのだ。
なるほど、と思った。
集中しない原因になってしまうのか。
であれば、まあしないでおこう。
しかし、そのことに対して、お局先生から「待った!」がかかった。
2年目。
その方針は、ゆるやかなものになった。
校長先生も、まあ刺激しない程度の掲示なら、大丈夫じゃないか、ということであった。
どちらかというと、「規制と指示がゆるんだ」ということで職員間では受け止められ、各学級ごとに、学級目標を黒板の上部、つまり教室の前面に掲示する人もいれば、これまでどおりしない人もいた。
3年目。
お局先生の運動が功を奏し、各学級、教室の前面に学級目標を掲示しましょう、ということになった。
発達障害の児童への配慮、ということの効果よりも、教室全体に担任教師と児童の合意の上で、教室を一年間統率できる「学級目標」の掲示をする方が、指導上効果的だ、ということであった。
「学級目標を貼らないなんて、要するに教師が何もしていない、ということになるよね。サボりたい教師に都合のよい論理だけど、発達障害の子にとってはそれほど掲示が害になるわけでない。そういうことを持ち出して、面倒くさいことから逃げたい、と言うだけ。学級目標をクラスの児童全員で確認しないでどうするの」
ということだったようだ。
そのときの剣幕がすごかったので、
「そうかあ。発達障害の子も、そんなに関係ないのか。だったら、学級目標貼るべきだよなあ」
(サボった教師と思われて、あとからイロイロといじられるのもいやだしな)
という感想を持ち、私は3年目に、他の先生方と同じように一応、学級目標を教室前面に貼りつけたのでありました。
ところが新しい県の、新しい学校へ来てみたら、スクールカウンセラーや特別支援コーディネーターの招く先生の講座で、
「教室前面の掲示はなくしましょう」
と言われた。
「あらら・・・」
と、これまでの経緯を思い出す。
くわしくは、こうだ。
先日の講座で、発達障害を専門とされる先生の言われることになるほど、と思った。
つまり、人間の視野には、中心視野と周辺視野、というようなものがあり、それをセレクト(選別)できているのが通常である。
だから、目自体は、多くの情報を一度に脳に届けているものの、注意を一点に絞るために、その他の情報をわざわざスモークガラスでかぶせたようにして見えにくくし、取り除いているのが通常の脳の処理なのだそうだ。
ところが、発達障害を抱える児童にとっては、その脳内の処理ができない。
つまり、常に、100%近い情報が、脳に届いてしまうのだそうだ。
その中から、これ、というべきものに注目していかなければならないので、非常に疲れるらしい。
本当かどうか、知らない。
だが、発達障害の専門家の先生が、言われたのだ。
科学的なことなのか、それとも、まだ科学的には分かっていないことなのか。
発達障害を抱える子どもにとって、どれほどそのことのハンディがあるのか。
「疲れる」というのも、どの程度のことなのか。
いろんな疑問が脳をかけめぐったが、その場の校長の結論、教頭の結論は、こうであった。
「子どもたちのためにも、教室の前面の掲示はできるだけシンプルにし、学級目標も教室のうしろにできたら貼るようにしてください」
わたしは3年前を思い起こしながら、
「また、この方針が変わっていくのではないか」
という思いを持ちつつ、
「まあ、とりあえず、それに従おう」
と考えたのであります。
しかし、この
・中心視野を見るために、周辺視野をわざとボカす、という脳の働きは、本当なのか。
・それがしにくい発達障害の子は、ではどうやって、モノを見ているのか。
・集中するために、疲れる、というが、どのくらい疲れるのか。
このあたり、本当はどうか、とても知りたくなりました。
「教員は夏休みが一番いそがしい」とよく言われるが、本当にその通りである。
おそらく、教育委員会の配慮もあるのだろう。
絶対に、教員を遊ばせないぞ!という信念がある。
しかし、教育委員会がいかに公的な講座やセミナー、会議をつくろうが、そんなものとは一切無関係に、教員は夏休みこそフル稼働で自らのために動くのである。
そうでなければ、この間に貯金をしなければ、残りの期間をすごせないからである。
本当に忙しい、子どもとの妥協のない生活が、残りの11カ月、あるからなのだ。
今日は東京へ出張。
妻にはいろいろと難癖をつけられるが、頭を下げてあやまりながら、自らの修業に赴く。
かばんには、この夏に読んでおかなければと思う本を何冊も欲張って入れていく。
この夏に、体力、知力、理論、技術、すべて学ばなければならない。