テリー伊藤さんの書いた、落合監督についての本が話題になっているらしい。
落合監督についての本を探した。
たまの休日。日曜日の朝。
近所の集会所での朝掃除(年数度の地元行事)を終えて、まだ朝早い時間に、読書を開始。
鳥のさえずり、カッコウの声もひさしぶりに聞こえた。
落合博満氏の本では、「コーチング 言葉と信念の魔術」があった。
ここで、落合監督は試合を振り返りながら、選手にどんな言葉をかけるか、吟味するのは当然だという。
一番気を使うのが、「ことば」なのだ。
何を言うか。
そして、何を、言わないか。
まだ、半分しか読めていない。
子どもとゼニガメを買いに行ったから、午後はほとんどつぶれてしまった。
テリー伊藤さんは、ジャイアンツファンなのに、落合監督についての本を出そうというのが面白い。
なんでだろう?
まだシーズンは始まったばかり。交流戦も終わり、これから6月。ジャイアンツに注目すべきなのに、どうして落合監督に注目してるのか。
落合監督の考え、行動の裏にある意図、それらを詳細に記した別の本もあり、並行して読んでいる。落合監督漬けのこの頃である。
そういえば、王選手やイチロー選手に関する道徳の授業はしたことがある。
落合監督についても、なにか切り口を用意して、授業化できるように思う。
どんな切り口か。
しばらく考えたい。
2010年05月
田植えをした。
5年生が土曜日にそろって集合。
学校の近所にJAの方が用意してくださった田んぼに入る。
・前回の代かきでは田んぼに足も入れられなかった子が、一歩踏み出して、入っていたこと。
・苗の量が多すぎて(本数)、やり直しをしていた子がいたこと。
この2点をほめた。
やり直しをすることは、悪いことではない。
上手にやろうとしても、一列やり終わって気付いてみたら、直した方がいい。それに気付いて、直そうとして、実行した。そのとき、本人の頭の中にあったものはなんだったか。面倒くさいという思いか、隣の人に負けないで、はやく次の列をやってみたい、という思いか。
もしかすると、叱られないように、とか、指摘されるといやだから、という後ろ向きの理由があったのかもしれないが、それでもきちんとやりなおそうとして実行したことを、ほめた。
実は、やり直しをしようよ、という声かけを、私がしていた。
その声かけに、響いてくれた子たちがいた。それをほめた。
伝えたことを、その通りに素直にやろうとしてくれている。そのことを、ほめずにいられなかった。
ずいぶん以前、キャンプ指導に出かけた時のことを思い出した。
数年前の当時、初任のころにぶちあたったテーマが、最近、また思い出される。
4年生を率いて、キャンプ場へ出かけた。
社会見学、総合の授業の一環だ。
宿舎を使わせてもらう。
子どもたちが半日以上そこで暮らすのであるから、事前に指導しておくべきことがたくさんある。
教員も宿舎の使い方について事前に研修があるし、細かく児童にも伝えておかなければならない。
ところが、宿舎の使い方を子どもたちに説明をし、事前に写真を見ながらの確認もするのに、現場に行ってみると、子どもたちはさっぱりそれらを覚えていないのである。
それも、数人がそう、というのではない。
ふだん、立派に仕事もするし掃除も率先してやるような、いわゆる「いい子、できる子」たちも、初めて見る宿舎の中に入ると、思ったように動かないのだ。
教師の期待に反して、迷いながらトロトロとしか動かない子どもたちを見ていて、
「なにやってるんだ!!」
と怒鳴りたくなる先生もいる。
同じ学年の先生は、荒い声でどんどんと檄を飛ばし、仕事をどんどん進めようとしている。
いったん、よい動きをしていた子どもたちを見てホッとするのだが、5分もたつと、その子たちが
「終わりました」
と報告にくる。
しかし、その子どもたちに、次は何をせよ、その次は何を・・・と指示する教員の方も、全体像がつかめないからイライラしながら立っている状態。
「自分たちで必要な場所にどんどん入って行きなさい!」
と言うが、そんなふうに器用に動ける子はむしろ少ない。
これは、段取りが悪かったのだ。
子どもを責めるわけにはいかない、と私はすぐに思ってしまう。
私はほとんど、叱る、という気持ちはなくなって、とにかくあれをしてこれをして、という指示だけを思いつく限り出した。
指示をすれば、素直な子どもたちだ、きちんと動こうとする。
むしろ私はその素直さをほめてやりたい気持ちであった。
しかし、反省会のムードはまるでちがった。
「自分たちで動くことのできない子どもたち」
「力のない子たち」
「自分で考えることのできない幼い子たち」
子どもたちの、「できなかった」点がクローズアップされて、子どもの非難合戦のようであった。
たしかに、ふらふらとしていて、何もしていなかった子もいる。
また、半分遊びながら?掃除をしていたように見える子もいたし、友達が大変な思いをしながら毛布を畳んでいるのに、それを横目でみながらも、何も手を出さない子もいた。
「なにやってるの!!目の前の人たちを見なさい!遊んでいる人間はいないはずだ!!」
こう言いたくなる気持ちもわかる。
何人かの同学年の先生たちの会話を聞きながら、一番年下で、経験の浅い私はずっと黙っていた。
そのうちに、「○○先生は、ほとんど叱らなかったけど、きちんと叱った方がいい」
という指導が、私に対して、あった。
「子どもに嫌われてしまうことを恐れているのかもしれないけれど、嫌われたっていい。むしろ、きちんと、あなたたちは力が無い、できない、ということを知らしめてやった方がいい。叱る場面をのがしてしまっていた」
というようなことであった。
学年主任の先生以外にも、他の先生も同じような意見であったし、その補足としての忠告や指導もあったから、これが常識なのだ、と素直に反省した。
しかし、正直に言うと、自分の感覚が本当におかしい、というふうにも思えない。
よくわからない。
どう考えるのが本当なのか。
自分は、教師としての感覚がずれている、という状態になってしまっているのか。
本当に心の中での解決ができていないから、これは今後、何年にもわたる私自身のテーマになるのだろう。
「先生は、叱らないのですねえ。びっくりしました。」
これは、先日、たまたま私の学級へ児童の様子を見に来られていた保健室の先生がおっしゃった一言である。
複雑な思いで、これを聞いた。
叱る、ということが、どういうことか、これは本当に一言で言い表せないからである。
ちょっと注意したことや、伝えたつもりのことと、叱る、ということが同じなのかどうか。
「早くやらないと、給食の時間が遅くなりますよ」
という一言は、叱ったことになるのかどうか。
それぞれ、先生の受け取り方がちがう。
だから、
「○○先生は叱らない」
という風評だけが、職員室にでまわると大変なことになる。
廊下を走っているのを見て、
「走らない場所だよね、歩こうね」
と言った場合。
これは叱ったことになるのかどうか。
私の基準では、これは叱ったこと、ではない(気がしている)。
教えた、ということには入るだろう。
でも、叱った、ではないと思う。
その時の雰囲気や口調や表情や、その他、もろもろの様々な要因も影響するのかもしれない。
しかし、基本的には、人の命にかかわるような悪質なことをしたり、心を傷つけるようなことをしたり言ったりするのではないかぎり、「教える」はあっても、「叱る」は必要ないと思う。
罵声、怒声、「なにしとるんだ!おまえは!!」
という大きなどなり声は、「叱る」という雰囲気に近いと思うが、それは相当な場面で発せられるようなもの、と思う。
それが日常的になると、子どもたちはどうなっていくのだろう。
表情の険しい、暗い、表情になっていくのだと思う。
では、そうじをサボル子について、どうしたらいいのか。
それは、きちんと、伝えていく必要がある。
そうじ以外にも、いろいろと取り組むべきことがある。
そして、やはり論理的に、ロジカルに、他に迷惑をかけた分だけの責任をとらせる必要がある、として周囲の納得を得るための手立てを打つべきだ。
しかし、それを、怒声、罵声でやらせるのであれば・・・
くやしいが、昨年は怒声も出てしまった。
今年は、まだ怒声はない。
それで、養護の先生は 「叱らないですねえ」と言ったのだろう。
さて、今後はどうなるのだろう。
自分では、叱らずに教える一年にしたい、と思っている。
教えて、ほめる、で行きたい。