保護者が、学年の親どうしで交流を深める機会を企画した。
「こんな企画をしたいのですが・・・」
私の感覚では、保護者は最大のお客様、最大の味方。
共に子育てを行う、仲間、という感覚でいる。
だから、こういう話があれば、積極的に応援し、実現できる方向で動く、と思う。
ところが、こうした保護者企画のことでトラブルが生じた、という連絡が入る。
いつも通り、仲間のメールだ。
2週間に一度、3週間に一度程度の、教師サークルで出会う仲間だ。
他校の話だから、いつもはそれほど聞く機会がない。
しかし、仲間が疲れた表情で
「ちょっと聞いてほしいんですが」
と出してくることについては、同じ教師仲間として親身になって聞きたくなる。
話はこうだ。
保護者の中から、親交を深める目的のPTA行事の提案が出た。
それが、新人の先生にメモ書きで手渡された。
手渡したのは、子どもだ。PTAの役員の子が、自分の担任に、そのメモを
「先生、これお母さんから」
といって、出した。
新人先生は、それを受け取る。
新人先生は、それをそのまま、主任の先生に見せた。
すると、主任先生は不機嫌になって、
「あなた勝手にこんなことを進めようとしているの」
と責めた。
新人先生はメモを受け取っただけだ。何も分からない。
主任先生が急に不機嫌になって、訳がわからない。
主任先生は、親と新人先生が話を勝手に進めていると思いこんだらしい。
これだけなら単なる誤解だから、解消は早い。
もちろん新人先生も、勝手に何か進めようとしているわけではないから、管理職にも誤解を解いてもらうように報告した由。
しかし、問題はここから。
根深いわけは、他にあった。
つまり、保護者が先生を「立てない」ところが気に入らないのだ。
保護者VS先生、という部分が焦点なのだ。
保護者が、先生に頭を下げるべき、という気持ちのようだ。
頭を下げて、お願いにこないところが気に入らなかったようで、このPTA企画の話をしに保護者が職員室を訪れても、自分からは応対に出ない。
新人先生がみかねて職員室に招き入れたところ、
「なんで声をかけてしまうの」
「自分たちから声をかけさせればいい」
と、筋を通そうとされた、という。
気骨あふれる女教師で、筋を通そうと我を張る強さは見事だと思うし、そういう人がいてもいい。いろいろなことが「柔軟に」なってしまう昨今の世の中の流れの中で、なにか一つ、筋を通そうと頑張る人が貴重になってきている。そういう意味では、大事にされていい姿勢だと考えた。
大事にされていい姿勢ではあるけれど。
でも、そこに、人間同士の、親しみがあるだろうか。
これ抜きには、なにもできない、と思う。
そこには、
人と人との間の、柔和で楽しい、お互いを生かしあおうとする、
親愛の情が、あるのだろうか。
この情が無いなら、その先生のめざす「教育」とは、いったい何なのだろう。
すべて、子どもの前でも、同じ質のことをしているのだろう。
だれか、この主任先生に、
「何しに来たんだ」
と言える管理職はいないものか。
2010年03月
水俣を学んでいる。
5年の社会科。
学年末近くになって、「公害」を学ぶ単元がある。
日本の四大公害病を学ぶのだ。
そこで、水俣の資料を使う。
水俣の資料館の、館のもっとも最後のコーナーに、かざってある父親と娘の写真がある。
これを見るだけで、クラスに衝撃が走る。
いきなり見せてはだめで、どういう家族だったのか、水俣の許されない歴史を学んだ上で、最後に登場させる。
家族、という人間の根本的な暮らしの単位に、水俣病がどう表れてくるのか。
すべてをこの娘が背負ってくれたのだ、という「宝子」という言葉、家族の愛。
宝子(たからご)、という言葉を、感想文にたくさん書いていた。
子どもたちの心にも、ずいぶん響いた言葉だったのだろう。
水俣、という言葉、最初はこわい、おそろしい、というイメージしか抱くことのなかった子どもたちに、この「宝子」という言葉、家族の事実は、別のイメージを抱かせた。
学期末、学年末に、しっとりとした、ぴりっとした、授業が展開できた。
なぜか。
教材の力、そして、なによりも、人間の深い深い、真実の姿だ。
それが、子どもたちに伝わっていったのだ。
高学年女子の対応に悩む。
強い調子で叱っていたら、
「私のことがきらいなんでしょ!」
ときた。
一瞬、頭の中に、いろいろなことが浮かんで、ぐっと詰まった感じになってしまった。
「きらいなわけじゃないでしょう。大事に思っているから叱るんでしょう」
これを、間髪いれず、即答できればよかったなあ。
えっと・・・と、頭の中でなにかが回転しているうちに、彼女の頭の中でも、何かがくるくる回転しているはずだ。
それをさせないうちに、
「そんなことない!」
と否定することが、大事なのだ、と思った。
叱るだけでは、だめだ。
楽しい空気が、学級にたくさん、たくさん、なければだめだ。