子どもをほめる、というのがむずかしい、とこぼしていると、
「子どもの苦労がわかると、同感できる。すると、素直なほめ言葉が出てくる」
という話をきいた。
なるほど。
これは、納得。
すっと心にしみてきた。
子どもの苦労。
それに、共感すること。
まだまだ、見えていないことばかりなのだろう。
今日、給食のときに、おはしがぐちゃぐちゃになりかけ、ていた。
それを、スッと直した子がいた。
つづけてみていると、今度は別の子。片付けのとき。
自分の係でないのに、スッと片付けをしてくれる。
素早く、配ぜん台の上をきれいにしてくれる。
なんで、これまで、それが見えてこなかったのだろう、と思うと、ちょっと悲しくなった。
この子、毎日、そうやって動いていたのだ。
私は、その子が当番だからだと思っていた。
でも、自分の分以上に、さっと身体がうごく、腰かるく動ける子だったのだ。
あれども見えず。
ここから、再度、教師修行のスタート。
2009年10月
音楽の授業時間に、リコーダーの評定をした。
むずかしい、ファのシャープ。
半音、あげる。
この指使いが、できなくてかんしゃくを起こす子もいる。
特別支援の必要な子ではないのに、かんしゃくを起こす場面を見て、
「この子にはこういう面があったのか」と発見した思いだ。
ピアノを習っていたり、音楽については自分は得意だ、ある程度やれる、と思っているからか、
すらすらできない
状況に堪えられない。
そこを、機嫌よくすごさせてあげるのが教師の腕だろう。
かんしゃくを起こしながらも、どんどんと評定をすればよかった。
評定をしたら、もっとダラダラしてしまうかと思って、実際は何度か方法を変えて練習をさせただけ。ここを、評定してやればよかった。
どうせ、やらなければならない曲である。
シャープ、というはじめてのことに、慣れさせ、体験を積ませたいと考えた。
やらない子、笛をもたない子にも、
「1点」
といって、3点満点で評定をしてやればよかった。
基本のファの押さえ方で、まじめにやれば合格、ということをさせていけばよかった。
次回、合格ラインを上げる。4点。ファの音がクリアに出ればよい。
またさらに次の回で、合格ラインを5点にする。ミファ#ソ、と連続して出させる。
このくらいになると、ファがおっくうではなくなるのではないか。
ファ#の音を出すのに、
指の押さえ方がいいね、だとか
今の息の吹き方がいい、だとか、
具体的なことが言えない。
言っていたら、たぶん、子どもたちは冗長な私の説明と意見(実は評価)について、ほとんど聞く耳をもたないだろう。説明が長すぎる。評価に気持ちがこもっていない、と。
(だって、<一般的>で<つまらない>、<同じような言葉>が続くことになる)
そうでなく、子どもたちが聞きたいのは、
「合格かどうか」
である。
であれば、それは、評価ではなく、評定なのだろう。
図工の時間について考える。
1)何曜日の何時間目がいいか。
2)年間のスケジュールをどうするか。
3)一単元にどのくらいの時間数をかけるか。
4)造形遊び、絵画、立体作品、鑑賞、のそれぞれの内容のうち、年間にどのくらいの作品数に取り組むべきか。
5)他のクラスとのかねあいをどうするか。
今のところの考えを書く。
1)2時間目と3時間目、という具合に中休みをはさんでとるのもいい。1時間目は朝会やらなにやらで忙しい。4時間目は給食がネックになる。5,6時間目は、子どもが疲れていてやる気がない。
2)年間を通じて取り組むのが、鑑賞。各学期に、造形遊びから絵画、立体、とバランスよく取り組むことができればよいが、そうもいかない。各学期に製作のメインが何か、ということを意識しておくと、他の題材はそうでなくとも、一つは大成功、というものをつくることができる。
3)4時間、6時間とやれればよいが、場所をとったり、子どもの集中力がとぎれたりするので、とくに工作モノは短期集中で取り組む。土日をまたぐと、なにをしたかったのか忘れたりする。
4)中でも「鑑賞」の授業を年間を通じて系統立てて実施できるとおもしろい。学級づくりにも役立てることができる。こたえのない、言いっぱなしの鑑賞会がいい。発表のルールを徹底させる。その一方で、どんな発言も否定しない。子どもも教師もきもちがよい。子どもの個性が見えてくる。
5)他のクラスの進度、進み具合を知ることが大切。計画どおりだから、と突っ走るとかなりの差が出てしまうことも。そういう場合は、1時間単位の小さなネタを実践し、時間調整を行う。
最後の5)に述べた、1時間単位の小さなネタをいくつか知っておくと役に立つ。
最近は、絵手紙。
これは準備次第で1時間にしっかり収まってくれる。また、否定しないでいいから、子どもたちも気持ちよくかける。どの絵も、「下手がいいんだ、味がある」として、「いいねえー」を連発。子どもの機嫌が一気によくなる。
まさにいい事尽くめである。
社会。
自動車工業。
TOYOTAのバーチャル工場を、PC室で見る。
なぜ教室でないかというと、授業の後半は、各自でしらべる活動にしたかったからだ。
PC室にも関わらず、教師用PCのパワーポイントを起動。
その画面を一斉に配信し、児童は強制的に、私の画面をみることに。
教室では、ほとんどプロジェクターで投影した画面を見ることがほとんど。
PC室では、一人ひとり、自分の目の前のモニタを見る。
「これじゃ、教室と変わらないじゃん」
子どもから不平が。
当然じゃ!
そんなつぶやきには目もくれず、授業を推進。
プレス、溶接、とそう、組み立て、という順序を追って、印象的な写真を見せていく。
一つの写真に一つ、なにか子どもに活動させる。
簡単なものでは、
どちらの写真が日本でしょう。指さして御覧なさい。
ロボットを使って溶接する写真がある。
しかし一枚は、ロボットが2台だけ、もう一枚は、ロボットが連続して並んでいる。
前のはスゥェーデンの自動車工場。
後のは、TOYOTAの工場。
ロボットだらけ、が日本なのだ。
そんな程度のことだけど、最後にTOYOTAの工場の動画を見せると、子どもたちも目が釘付け。やはり、実際の映像はすごい。
見ながら、3つ、気がついたことを書かせた。
さらに、3つめでチェックして、さらに追加して書かせた。目標10個。
明日の授業では、次の二つの発問を。
1)写真や動画には表れてこなかった、画面のこちら側には何があるか。
2)たくさんの車をどんどん製作するためには、自動車工場には○○があるはずだ、という文を書きなさい。
ほめ方、という方法、スキル。
これまでずっと、スキル、という感覚になじめなかった。
ほめる、というのは心がこもった行為のはず。それと、ほめ「方」という言葉がそぐわない気がしていた。
方法、というとらえ方が、ちがうように思っていた。
だが、最近は、やはり、教師としてはスキルというべきものなのかもしれない、と素直に思うようになった。
子どもの一番いいほめ方というのは、子どもの行動に対して「~してくれて、お母さんうれしいな」と言ってあげることです。
というのは、日本アドラー心理学会公認心理療法士の肩書をもつ、星一郎先生。
お母さんでなく、先生でも同じかな、と思って、このほめ方を何度か試している。
試す、というのもちがうかもしれない。
子どもにとっては、すべてが「試される」ものでなく、本番だから。
しかしまあ、こちらは試す意識もあって、いろいろと声をかけている。
感心する、という言い方がしっくりする、ということを、先日、このBLOGに書いた。
「しっくりくるかどうか」という点でみると、へんな気がする。星先生のいう、「うれしい」という感覚も、わからないでもない。ただ、素直に言うのが、なんとなくヘンな気がする。
どうしてか。
「○○してくれた」 とは、思っていないのだ。
教室をそうじするのも、学級全体のこと、当人たちのためだろうから、先生のためにしてくれているのでもない。また、漢字をよく書けるようになりたいと指書きをする姿をみて、
「やってくれている」とは思わない。「やっている」と、見ている。だれも、先生のためにやってくれているのではないだろう。
しかし、まあ、星先生のおっしゃることは、それとはまた一つ、レベルがちがって、
「そうやって力をつけていこうとする、あるいはやさしい気持ちを発揮してくれているキミのその態度をみていると、先生はずいぶんうれしい気持ちになってくるんだ」
ということを、「言え」 ということなのだろう。
それを、心で思っているだけでなく、子どもに対して、しっかり言葉で投げかけていけ、ということだろう。
「感心する」
ことがある。
それを、そのまま口に出す。
すると、どうやら、子どもの心に、しずかーに、浸透していくような気がする。
これが、「とりあえずほめとこう」という口から出たものは、たいして子どもの心に響かない。
心があるか、どうか。
結局、正直な、こういう結論に達するようだ。
気持ちのある行為であるかどうか。
ほめる、ということが。
教師による、子どもに向けての、「気持ちのある」行為なのかどうか。
気持ちのない行為は、一切、無効。
わかっていたつもりだが、でもやはり、計算高い気持ちが湧いてくる。
「よし、ほめておこう」
(子どもを見て)
「みんな、すごい。えらい」
これじゃ、なにも、響かない。
ほめたあとの、「立派な行為」を期待している。
そんな計算が裏にはたらいていたら、子どもにも敏感に伝わるものがある。
子どもは賢い。
そうでない。
ほめる、が意図的になってしまうのなら、作為的になってしまうのなら、
「感心する」のがいい。
ほめよう、ほめよう、と思って、なんとなく気分がおかしくなってきたら、
ふと、ギアを変えてみる。
「感心してみよう」
ふと、子どもたちを見る。
教科書を立てて読んでいる子。
言われたとおりに、ちゃんとやっている子。
鉛筆を置いて、指書きをしている子。
「おおー」
それでいい。
感心して、つい思わず、口からこぼれた言葉。
「おー、いいねえ」
それなら、子どもに通じていく。
インフルエンザで一番騒いでいたのが、先月のこと。
運動会の前、9月中旬からだった。
下旬に控えた運動会に向けて、学級閉鎖、学年閉鎖と続いたため、開催も危ぶまれた。
運動会は連休明けになんとか行うことができた。
しかし、である。
この10月中旬に入り、またしてもインフルエンザが猛威をふるいはじめた。
はしかのように、ほとんどクラスの半分の児童が罹患した2年生は落ち着いているものの、他の学年に、流行の気配が見えてきた。
きっかけは、野球クラブとサッカークラブ。
土日の遠征がたたった。
バス移動の中でおう吐、くしゃみ、いっきにひろがった。
野球クラブの子から、罹患。2,3日中にほぼクラブの児童全員が欠席する事態になった。
密室の、バスの中だ。
これは、感染するための時間だったと思えるくらい、きついスケジュールだった。
さらに、サッカー。
これも、バス移動からはじまった。
前後の席の子、そして兄弟間の感染。
もしや、と思っていたら、わがクラスの児童もついに感染者が。
しずまってほしい。
市内で計画されていた、大がかりな合同コンサートも中止されて、子どもたちは運動会がなくなる以上にショックを受けている。
しかし、これはやるわけにはいかない。
市民会館は広いといっても、それでも学級閉鎖を抱える学校の生徒どうしが、同じ部屋の中で1時間も2時間も、ともに過ごすのだ。
感染するためにやっているわけではないが、実際はそれで、感染者が増えることが容易に予測できる。
市の教育委員会は、英断を下して、この行事をとりやめた。
さあ、どうなるか。
なんの手がうてるのか。
教室に、アルコールをおいた。
手にすりこむためのもの。
自費だ。
この際、しかたがない。
手洗い、うがい、しか、思い浮かばない。
あとは教室のドアや手すりを、ハイタ―で消毒するか・・・。
産経新聞は、免許更新制に賛成らしい。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090921/edc0909211149000-n1.htm
今回、川端達夫・新文部科学相が示した、見直しの指針。
私は大賛成だ。
今年の夏も、ベテランの尊敬する先生が、
「行きたい勉強に行けないで、行かなくちゃならない勉強に行くのはつらいよね」
と話していたが、
意欲ある先生のほとんどは、自分でしっかり計画して、夏休みならではの「学び」を深めようとしているのではないだろうか。
それをすべてキャンセルさせて、大学の講義を聞かせればよい、というものかどうか。
教育評論家の石井昌浩氏が、
「講習を受ける教員は極めて真剣だった。既存の研修と異なる意義があり、講習する側の準備や受ける側の意気込みで高いレベルが期待できる。けっして無駄ではない」と話したそうだ。
産経新聞は、前後に「教員養成に6年かける」という内容の記事をかぶせて、二つの論点をごちゃまぜにして、
「免許更新制はいい制度なのに、それが改悪されようとしている」という意図で書いている。
これは、筋がちがうのではないか。
教員は、自分で計画して、ちゃんと学ぼうとしている。
そのための民間のセミナーや研修、仲間の勉強会、自分で計画したプランがきちんとある。
ほとんどの教員はまじめに、こういうことで必死になって勉強している。
それを、
「研修に来る意気込みが高い。無駄でない」
あたりまえだろう。
自分が高いお金を自前で出して、手弁当でも行きたかった勉強会をすべてキャンセルさせられたのだ。その分、必死になって学ぶのは当たり前だ。講義の質が低ければ、泣いて運の悪さを呪うくらいの真剣さなのだ。それは、教員の質が高いからなのであって、けっして「免許更新制度のために用意された短大主催の講義」の質が高いからではない。
なんだか、意味をひっくりかえして論議しているようで、産経新聞の人、もっと勉強してよ、と思う。
この産経新聞の記事を書いた人はいったい、どんな人なんだか・・・。
おそらく、教育評論家の石井さんの、本当に言いたいことはもっとちがうと思う。
産経新聞の編集に、うまく利用されてしまったように思う。
ちなみに、私の尊敬する先輩は、真剣に講義を受けて、
「なかなかすばらしい講義をするわよ。短大も必死なんだと思う。先生もすばらしかったよ。でも、私は夏休みに自分で計画していた勉強会をしたかった。もっと行きたかったセミナーもある。それをやめなきゃならないのが、本当につらかった。こんな制度が早くなくなればいいのに。」
と話していた。
今回、見直しの指針が出されたことで、夕方の職員室に、歓声が上がりました。
先輩も、
「ほらね!!!やっぱり!!!」
とうれしそうに話していたので、こちらもうれしくなった。
校長も、教頭も、みんなで笑顔でしばらく話をしました。
本当に、うれしかった。
早晩、こんな制度はなくなるだろう、と話していたが、本当にその通りになった。
人は、価値を認めないものには、やはり意欲もわかないようだ。
夏休みに行われている、民間の教員の勉強会に、産経新聞は取材にくるべきだと思う。
どれほどの熱意でもって、会が開催されているか。
身銭を切って、真剣に学ぼうとする教員、一秒でも惜しいと思って勉強する教員の、顔を写真に撮ってほしい。
もっと勉強してください。産経さん!!
アクセスが10万を超えました。
[2006年01月15日(日) ] に開始した、本BLOG。
4年目にして、これほど多くの方に見ていただくことになるとは思っていませんでした。
小学校教員資格認定試験のことや、教員採用試験に特化した情報を多く載せてきました。
そのため、試験にこれから挑戦する方たちから、たくさんの質問や、励まし、応援のおたよりをいただいてきました。
私も、その声にこたえるべく、質問にはできるだけこたえてきたつもりです。
今年も多くの方から、お礼のメールをいただきました。
しかし、お礼はこちらからも言いたいのです。
いろんな立場の方からの質問がくるたびに、自分だったらどうするか、なにを重点にして考えていくか、その都度考えることができました。
この経験は、自分の視野を少しずつ広げてくれたように思います。
また、みなさんが新しいことに挑戦され、意欲を燃やしている姿が想像されると、私自身もたいへんよい刺激をいただくことができました。
ありがとうございました。
これからも、一教員としての立場から、教育界の繁栄をねがって、目の前のこと、小さなことからも少しずつ、取り組んでいきます。そしてその過程で、考えたこと、やってみたこと、記録をしていこうと思います。
みなさん、ありがとうございます。
そして、このような場をつくって支えてくださっている明治図書の皆さん、大変お世話になっています。ありがとうございました。
また、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
人生、という長いスパンを考えている。
この連休は、もっぱらそうやって時間を使っている。
日常に忙殺されないで、「人生」というものを考えるために時間をとる。
本当は、今から一週間くらい、しずかなところで過ごしたい。
8年前、○○県の教員になる、と決めるときは、一時的に無職同然となっていたから、時間がたっぷりあった。
まだ子どももいなかったし、じっくりと考えるいい機会だった。
自信満々で以前の職を辞め、
「さあ、本当にやりたいことをやるぞ!」
というヨロコビと希望で心がはちきれんばかりであった。
そのときの指針は、ひとつだけ。
なぜ、それをしたいか。徹底的に考える。
・自分は向いていないのではないか
・世界は広いのだから、それを自分がやる必要はないのではないか
・もっと別の人がそれをやった方が、全体から見たらよいのではないか
・現状からそれをやるには障害がありすぎるのではないか
・今の世の中に、本当の意味でそれは必要ないのではないか
いろいろと考える。
しかし、それにすべて、反論してみる。
そのうえで、しずかに、決断をする。
10年後、こうなっていたい。
そのためには、5年後、こうなっている。
そのためには、3年後、こうなっている。
そのためには、1年後、こうなっている。
そのためには、半年後、こうなっている。
そのためには、1ヵ月でこのことをやっている。
そのためには、明日、これをしている。
こういうことを、私はパソコンに向かって、WordPad でどんどん書いていた。
そうでもしないと、不安だったからだ。
今、8年前にやっていたことを、再度、やり始めている。
次の10年をえがくためだ。
この秋から冬にかけて、学級の仕事、担任としての仕事以外に、毎日の日課としてやっていく。
そうすれば、春になって、また静かな心境で、次のステージに立てるだろう。
一緒に2次試験を受けた人がいる。
たまたま試験会場で偶然に近くに座った人だ。
番号や名前などくわしいことはお互いに知らない。
ただ、同じ境遇で、同じ試験に挑んでいるという親近感から、なんとなくうちとけて話をした。
「6年目なんです。ずっと講師を続けていて・・・」
彼はずっと市内に住んで、採用試験を受け続けているという。
校長や教頭をはじめ、仲間の教員にもずいぶん応援してもらっている。
ただ、なかなか受からない。
「今回、やっと1次が通ったので、本当にチャンスです」
そう言っていた。
彼と話をしながら、自分がどんな気持ちになっていたかを振り返る。
「合格してほしいな」
素直にそう思った。
できれば、いっしょに合格して、共に辞令交付にのぞみたい。
いっしょに研修もうけてみたい。
素直な気持ちだった。
今考えると、こんな気持ちでのぞんだからこそ、合格できたのかもしれない。
実は、まったくちがう心持ちでのぞんだ試験もあるのだ。
採用試験ではなかったが、自分の力をはかるために、ある検定を受けた。
結果は、期待以下。勉強不足という言い訳はあとからつけたもの。合格はしなかった。
このときの心境を、あとから思い出すと、今回とは大いにちがったのだ。
このちがいに、なにか秘密がありそうで、記憶にとどめたいからここに備忘録として書いておく。
このとき、私は自分より一つ前の受験生をみて、ある気持ちになったのだ。
「自分より上手でありませんように」
この心の余裕のなさ。
今から考えると、なんでだろうと思うくらい。
はずかしいが、事実だ。
自分に自信がなかった。正直な、まっさらとした心境ではなかった。あわよくば、よく見られたい、という欲に浸かっていた。自分の実力以上に、自分をみてほしい、という思いがあった。
(・・・そんな思いはなかった、と思いたいが、実はあったのだと思う)
結果は無残。上手でなかったのは、自分だった。
彼女も、不合格。
人をのろわば、穴二つ、というが、本当だ。
しかし、なんでこういうことが起きるのだろう・・・?
と不思議に思っていたら、これはどうやら脳科学や心理学的な裏付けがあるらしく、有名(というか当たり前)な話らしい。
あまりにも作為的なことが人の心をうたないのと同じように、「脳」というのは本音の、シンプルな部分に共鳴するらしい。
「合格」をイメージしたか、「失敗(上手でない)」をイメージしたか、のちがいがあったのだ。そのイメージが、もっとも強く働くのが、自分自身というわけ。
(自己より発し、自己に還る)
とっさに、瞬時に、すこしも迷わず、隣の受験生の「合格」をイメージできるようになるには、ある程度の積み重ね、日々の鍛錬が必要だ。
「自分」は「合格」にふさわしい、という信念。
信念の強化が必要なのだ。
わたしも、あなたも、「合格」していく、というイメージ。
それが、ふさわしい、というイメージ。
私も、あなたも、共に繁栄するんだ、という信念。
では、そのためにどうするか。
8年前、結婚して、教師になる決心をした。
○○県の教師になりたいと思った。
しかし、免許はないし、難易度の高い試験に合格できるとは到底、思われなかった。
先日、とうとう夢が実現するにいたった。
なんでだろう、とふりかえってみている。
困難な障害は、たくさんあった。
しかし、すべて、のりこえられた。
ふしぎなことに、「障害」を、「障害」と思わなかった。
運が良かった、と思うこともたくさんある。
小学校教員資格認定試験についても、知ることができたから、挑戦できた。
知らないままだったら、今頃、教師をやっていたかどうか、定かでない。
最初の難関は、「一ヶ月間の教育実習」であった。
勤務先の上司に、「君の代わりがいない。一カ月休むことはできない(休むなら辞めるしかない)」と言われた。
なんとかならないかと思って情報を集めていた矢先に、小学校教員資格認定試験を教えてもらったのだ。
これに合格するために、運よくいい本に出会うこともできた。
「国語教育指導用語辞典」である。
試験に合格し、免許状をいただいてからも、○○県の採用試験は難関に思えた。
一般教養の試験がかなり難しい。
赤ん坊が生まれ、教員として勤務を始めてからの受験勉強、どうしたらよいか分からなかった。
そこで、○○県とは別の、△△県を受験した。
△△県には、合格できた。一般教養の試験のレベルが、格段にちがった。基本的な問題を確実に解くことが必要な試験であった。これなら、基本がわかっていれば受かる。
○○県のように、大学入試レベルのひねった問題でないから、大丈夫だったのだ。
△△県で、丸3年間、学級担任として勤務した。
講師で2年。正規採用で1年。
さて、条件がそろった。
○○県の「社会人枠」で受験した。
一般教養は免除してもらえた。おかげで、合格できた。
8年間。あしかけ9年。
夢が実現できた。
この9年間で、自分は何を学んできたのだろう、とふりかえってみる。
一番は、「夢を実現するための方法」を学んだことだ。
教師になる夢、云々、というよりも、このことが一番の、「人生の宝」に思える。
コツは、すこぶるシンプルだ。
自分は、この夢を実現させることができる(それにふさわしい)、という信念を持つこと。
あるいは、できっこない、というまちがったセルフイメージを「持たない」ということである。
生まれつきなのか、両親によく育ててもらったからなのか、人生はうまくいくはず、という思い込みをもっている。
一番大きな原因は、20代の過ごし方、だろう。
20代に、とことん、考える機会があった。
それも、たくさんあった。
考えるのが仕事、という日常があった。
自分の視点を、常に高く高く、と意識せざるを得ない毎日を過ごしていた。
これが、「気がつくと夢を実現してしまう」自分を作り出してきたのだと思う。
夢と言ったって、見る人から見れば、ただの・・・という小さなものかもしれない。
しかし、9年前の自分から見たら、本当に夢だったのだ。○○県の正規採用教員になる、というのは・・・。
だから、こういう言い方を許してほしい。
私は、「気がつくと、夢を実現してしまっていた」のです。
合格を知らせると、
「受験勉強しなかったって?それでなんで合格できたの?」
と、反応がかえってくる。
それに、違和感があった。
どうして、違和感があったのかな、と考えてみている。
私は、受験勉強をしなかった。
今年は、社会人枠の試験を受けた。だから、むずかしい一般教養試験が免除された。
のこるは、専門科目(小学校全科)と、小論文、面接、の3つである。
この3つには、実は、受験勉強は要らないのでは・・・。
逆に、必要な勉強がある。
それは、教師としての力をつける、腕を上げる勉強だ。
それがなくては、受からない。
周囲のみんなに、こう言われた。
「あんた、夏休み中は研修ばっかで、寝る暇もないヨ、って言ってたのに、いつ受験勉強したの」
同じことばかり、何人もの人から言われた。
その都度、「受験勉強はしてないんですよ」とやんわり返していたが、
自分でも、なんで受験勉強していないのに受かったのだろう、と不思議に思えてきた。
そこでつらつらと考えるのに、
「受験に必要なのは、いわゆる受験勉強ではなく、本物の勉強だ」
という考えに至った。
考えてみると、専門科目(小学校全科)の問題には少々慣れやパターン記憶が必要に思うが、大事な小論文や面接には、受験テクのようなものがあまり無い。むしろ、実際の場面を想像しながらいくつも指示・発問・支援・声かけ、その他を考え出せる、「実際の力」が必要だ。
しばらく登校しぶりが続いた子にどう対応するか、という質問には、
「笑顔で明るく声をかけます」
だけでは不合格で、
「笑顔で明るく声をかけ、さりげなく服や、身体の様子、体調などを観察します」
が合格となる。
こういう回答が、受験テクなのか。
それが受験テクなのだ、といわれてしまえばそれまでだが、それは受験専用のテクニックではなく、実際に本物の力として通用するのだから、「受験テク」という言葉におしこめてしまえるものでもない。妥当な言葉とは思われない。
実際の力は、実際の力だ。通用する力なのだ。
繰り返すが、私は社会人枠で受験した。
だから、一般教養の試験は受けなかった。
だから、受験勉強をせずに済んだのだ。
あとは、いわゆる
「教師としての力をつける勉強」
をしていれば、合格する力がついたのである。
さまざまな本を読み、先輩に授業を見てもらい、先輩の授業を見聞きし、多くの原則を知り、セミナーにも通ったから、力がついたのだ。
こういうことをしなかったら、おそらく今回も採用試験には合格しなかったろう。
「社会人枠」に必要なのは、受験勉強ではなく、教師の腕を上げる修業、なのだろう。
採用試験に、受験勉強がかならずしも必要なわけではない。
「社会人枠」受験なら、いわゆる受験勉強は要らない!
本物の力を幾分かでも納得できる力として、自分自身に培っておくのだ。
合格を知った知人から、祝福された。
同じ市内に勤務する、教師たちだ。
いっしょに研修も受けたり、学びあった仲間だから、本当にうれしかった。
ほとんどの人は、私の家庭の内部事情を知っているので、
「本当の本当に、夢がかなったね!」
という<おめでとう!>ムード一色の祝福である。
しかし、その一方で、困惑を隠せないという人もいる。
現職場の人たちだ。
「なんで、別の県に行ってしまうの?」
「そんな、明日にもお別れみたいに・・・。いや、こちらで春までしっかり勤務しますから。だいぶ先ですよ」
と説明するが、それでもなお、質問攻め。
年配の先生は、
「組合にも入ったし、共済の積み立てだって始めたんでしょ。まるきり最初から、よくやりなおすねえ。」
と、さすがに年季の入った人らしい心配をしてくれる。
「しかし、よく受かりましたねえ。そんな勉強する暇、あったんですか?」
みんな、こう言うのがほとんどだ。
夏休みは、教師向けの勉強はしていたが、受験勉強は一切していない。
だから、
「勉強してないけど、受かったんです」
というと、みんなそれぞれの妙な反応をする。
○「そんなはずないでしょう」と苦笑いをする。
○「先生は頭いいからねぇー、ホーッ」という、ため息ともつかない感想。
○「・・・」無言で、?ハテナ、という顔をする人。
○「すっごい!秀才だもんね~」と笑って冷やかす人。(以前同学年を組んだ、気心しれた女性の年配先生。冷やかされた後、引っ越し後の子どものこととか、転校、転園のことなどを心配してくれる。)
せっかく正規の教員として勤務しているのに、
せっかく初任者研修も終わらせたのに、
よくやるわねえ・・・
これが、全体の職場のみなさんの、共通した感想であった。
研究授業で、アメリアアレナス、mite! の授業を行った。
鑑賞ということで、光村図書から出ている、上野行一先生の「対話による鑑賞教育」のマニュアルにそって、まずはやってみた。
子どもに、自由に、主体的に、自ら関わってもらうための鑑賞授業。
そのための方策が、さまざまに配慮されてすでに構築されている。
その肩車にのって、今回は川の向こう側まで渡りたい、ということ。
すでに実践されて、確立されつつある鑑賞教育の方法であり、すでに多くの小学校でも実践されている、というものである。
ただし、わが校ではこういった鑑賞の方法はこれまでに実践された先生は一人もおらず、今回の研究対象となった。
さて、流れはこう、である。
1)授業のルールを確認
2)1枚目。仔牛は行きたくない。
3)2枚目。版画、赤い騎手。
ところが、仔牛は行きたくない、で挙手がやまなくなり、時間がすぎてしまった。
まとめていこうと思ったが、いくつかの分散した意見をまとめる、というのができず、そのまま2枚目に突入してしまった。
さらに、2枚目は時間切れ。中途半端な感覚は否めない。
時間が来たので、45分の授業を終えた。
さあ、どうだったのか。
講評がいろいろあったのだが、今日は、読む暇がない。
子どもが下校した後は、今度の稲刈りの打ち合わせに地域の農家の方のところへ急いで、出かけてしまったためだ。
というわけで、今のところ、他の先生たちの感想はどうだったかよくわからないが、自分なりには、がんばったところとそうでなかったところが両方見えてきた。
子どもががんばったのは、授業のルールを守って、逸脱する子がほとんどいなかったこと。
そして、どんどんと意見を出したこと。
関連して・・・付け足して・・・という意見も出てきた。ここらあたり、子どもどうしの教育力ってすごいなあ、と思う。関連した話が続いて出てくると、わかりやすい。それを、子どももちゃんと分かっている。だから、
「今の、○○くんに関連して・・・」
という発言がどんどん出てくる。
これは感動した。
自分で努力したのは、
「共感的な笑顔」
「児童の言葉をくりかえして、受容的な雰囲気を示す」
「関連した意見を募る」
「まとめられそうだったら、まとめてみる」
「仔牛は行きたくない」では、
男の子が、おびえている、という意見が出てきた。
関連して、さまざまな意見が出た。
このとき、
男の子⇒おびえている
という板書をした。
これで、まとめていきたいと思ったのだ。
しかし、そこから意見が拡散してたくさん出てきて、まとめきれなくなってしまった。
板書を始めたら、きりがなくなるような気がして、ほとんどしなかった。
今ふりかえると、2枚目の赤い騎手をやらずに、1枚目の絵だけを板書してまとめてみるのがよかったかもしれない。
しかし、一番気心の知れた、同学年の先生があとで、
「1枚目の絵が長すぎて、だれてしまっていたように思う」
という意見をくださったので、
そうか、とも思った。
さて、今度の研究会議が楽しみである。
ビデオもとっていただいた。あとで、自分でも見てみよう。
うすっぺらい封筒。
帰宅時、なにげなくポストに手を入れると、○○県、の文字が。
おお!!
もっと遅いと思っていたのに、ついに来たか、通知が!
しかし・・・
ありゃりゃ?
と、意外な気持ちが抑えきれない。
なぜなら、実際の試験会場でも、合格発表は十月下旬と言っていたではないか。
早すぎる、と思うのと同時に、
あ、なるほど、落ちたのか、
と思った。
つまり、不合格者には先に通知が送られるのだろう、と思ったのだ。
合格した人には、順次、次の手続きや資料を同封してから送らなければならない。だから、その分、手続きが遅れてしまっているのではないか。
「こんなに早く、それも薄っぺらい封筒だから、落ちたのだろう」
そんなにショックが無かった。
自分でも不思議なほどだった。
なぜだろう、と自問する。
玄関でくつをぬぎながら、
「ただいま」
といつものように声をかけ、今勤務している学校が心地よいからだろうか、と考えた。
妻が赤ん坊を抱いて出迎えた。
「これ、封筒きたよ」
差し出すと、おおー、とうれしそうな顔をする。
「いやいや、こんなに薄っぺらいよ」
というと、早く開けたがって、リビングに持って行ってしまった。
部屋にかばんを置いてあとを追ってみると、
すばやいもので、もうハサミで封を開けようとしている妻の姿が目に入った。
「薄いからね。それに、思っていたよりも早いし」
ネクタイをほどく。
「そっかー。薄いねー。だめだったか」
封書を開けた妻が、眼を見開いて文面を見つめている。
テーブルにおいてある湯呑に手を伸ばした瞬間、
「あれ?なにこれ?どういうこと?」
と、はずんだ声がした。
口元に運んだ手が、止まった。
「内定って、書いてあるよ。どういうこと?」
え、それ、合格ってことなんじゃ・・・。
あとのことははっきり覚えていない。
落ち着かなく、猛烈な勢いでしゃべりながら、夫婦で廊下やリビングを行ったり来たり・・・。
「じゃ、次の3月は、引越しか?」
妻が、ソファーに腰をおろす音が、静かなリビングに響いた。
私の勤務校の、常勤講師の先生です。
大学4年生のときに受けた採用試験で落ち、今年社会人一年目。
常勤講師として、「かなり」がんばって勤務しています。
傍目からみても、
「もう遅いから明日にすれば・・・」
と積極的に退勤をすすめないと帰らないくらい、いつまでも書類や本を見たり、明日の準備をしたりとまじめです。
7月の一次試験は楽々突破。
要するに、二次試験が問題なのです、と本人もいうくらいでした。
面接と模擬授業。この二つ。
今年は気持ちの余裕もあるし、模擬授業も本人なりにかなりがんばって考えた、そうです。
しかし、結果はアウト。
模擬授業を一度見ていて、助言もした手前、なんだか責任も感じます。
模擬授業を、3回は見ておけばよかった。
昨年助言した先生は、見事合格されましたが、一週間前から何度も練習していました。
何度繰り返しても、同じことば、同じ発問でぴたりと決まる。
子どもがどんな反応するか、それに対してどう受け、どう展開するか、緻密に考えていました。
それにくらべれば、今年の彼は、かなりアバウトだったかなと思います。
昨年の先生は、ほめるタイミングとほめ言葉まで、決めて練習していました。
今年の彼は、わたしもそこまで要求しなかったのですが、なんだか自信たっぷりの様子だったので、
「だいじょうぶかな」
と思ってしまっていた。これが私の詰めの甘さだ。
来年、と本人は思っていて、もう勉強を始めている。
そこがえらい。
あと、面接が終わった翌日、たまたま学校で会ったので感想を聞くと、
「なんだかやけに簡単な質問ばかりだったので、拍子抜けしました」
と言っていた。
これで、いや~な予感がしていたのですが、それが当たってしまった。
何度も採用試験を受けた経験から、
「試験官は、魅力のない受験者に対しては、早く終わらそうという意識と、簡単に終わらそうという意識が働く」
という法則があるとみやぶっています。
それによると、あまりにもあっけない質問がつづいたり、簡単だなあ、楽だったなあ、とふりかえるような面接は、アブナいのです。
なんだかふところをえぐるような質問や、ハッとなにかつきつけられるような質問が続いたり、個人的な考えの深部を考えさせられるような質問が続くときは、面接官が本気の証拠。
つまり、
この人は、OKかもしれない
と思っているのです。
それに真摯に答えることができれば、合格がすぐそこ、ということになります。
という私自身も、もうすぐ発表があります。ドキドキ。
どうかなーと気になりつつ、日常生活の中では、ほとんど試験のことなど忘れています。
今週末には、図工の校内研究発表。
指導案を直さないと・・・。
さて、どんな授業ができるかな。