30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2009年08月

酒井法子さんの薬物中毒更生とその苦しみ




薬物中毒については、シンナーや覚せい剤の危険を、6年生で教えることになっているのだと思う。
酒井法子さんという有名な芸能人が薬物中毒であったことについて、どんなふうに知らせていくのか、子どもたちの興味関心が強くなっている今、夏休み明けにもしっかりと授業をするチャンスであると思う。

一番、子どもたちに伝えたいのは、中毒状態から抜け出し、心理的にも依存体質から脱却し、体も心も、元に戻る(完全には戻らないが)ことの、簡単でないこと、非常に困難であること、しかしそこから戻ってこなければ、社会復帰はないこと、脳のダメージや心のダメージをのりこえることの相当なつらさ、苦しさ、これが地獄だ、ということ、塗炭の苦しみ、阿鼻叫喚のシナリオ、そのことを伝えることだ。

うっかり手を出し、脳を破壊し、心のダメージを負って体をこわしたあと、そこから社会的に認めらる迄に復帰することのむずかしさ。これは、社会を相手にしたことのない子どもだから、なかなか実感はわかないだろうが、これもあえて、授業にする必要がある。

さらに、自分の心に向き合い、くすりにたよらずに生きていくための心理的な強さを身につけるのに、相当な苦しみを味わう。このことも、地獄だ。毎日、毎日、くすりに手を出した自分を見つめ続けることが必要だ。頭でわかる、というレベルでない、更生のプログラム。生まれ変わることを必要とするレベル。これが、死ぬほど苦しいらしい。
「毎日、銃口を思い浮かべて、それを自分に向けて引き金を引く。その夢を見ながら生きていました」
更生プログラムに向かい合っている最中の人の言葉だそうだ。

更生したい、自分はもうくすりとは縁を切る。そう堅く誓っても誓っても、なおくすりにあこがれる自分がいる。
そのことを自分で見つけ、自分が自分で認められなくなる。しにたくなる。
鬱状態が続く。しかし、しぬこともできない。

それが、何年も何年もつづく。

薬と言うのは、これほど、半端じゃないものだ。
薬物中毒からの脱出は、そんなに甘いものじゃない。

くすりに手を出し、やめると誓い、5年間強制的に施設で訓練を続けても、それでもなお、社会に出て、再度くすりに手を出す人が何割もいる。

人生をほとんど、失ってしまう。

その、更生プログラムが、どんな内容なのか。
更生しようとする人は、何に苦しむのか。
どうして、更生しよう、更生しようと誓っても誓っても、なおかつ、その地獄から抜け出せないのか。

地獄から、抜け出せないこと、それがまた、地獄である。

子どもたちに、地獄を知らせるしかない。

教科書には、薬物中毒の恐ろしさ、と簡単に書いてある。
これでは、まったく響かない。
教師が、専門的な、しっかりとしたプログラム資料を用意し、それをもとに、授業をするべきだ。

そうした教師用の資料が、総務省やら、警視庁やらから、学校に配布されるべきだと思う。
それも、すぐに追試可能な資料が。




現代アートを鑑賞させることについて




現代アートを鑑賞できる子に育てるために、かなりの下準備が要る。

要るってなにが?
そんなもの、アメリア・アレナス流に、さくっと見せてしまえばいいんじゃないの。

しかし、何か気が咎める。
なんだろう、と自問してみる。

つまりは、現代アートにいたるまでの、写実主義からの一歩一歩、人間が歩んできたところをすっとばして、

「なんでもありじゃん」

となってしまわないかなあ、という心配だ。

たとえば、福田平八郎の「水」は、一見、だれでも書けそうな気配がする。
ぐるぐるっとマルをかいて、なにやらマーブルのように、迷路のようにすれば、書ける。

しかし、だ。
そこにいたるまで、30年かけている。
それも、写実で完璧な世界を描いて、なお飽き足らずに追究した結果の、「水」だ。

「こんなの、描ける」
「てきとうにやればいいんじゃないの」

といった、的外れな認識を育てないで、その奥の奥の奥を知ること。
それも、作者側の論理の方・・・。(受け手側の論理でなく)


でないと、鑑賞と表現って一体、表裏であるから、現代アートばかり、それも見当外れに軽く見て分かった気になった児童が、イザ表現、というときになって、

「この間みた、あの現代アートみたいに、適当にかけばいいや、ぐちゃぐちゃ。先生どうこれ。だってこの間みた、あの作品だって、こんなふうだったじゃん。もっとやろう。ぐちゃー。どうだ。これでいいや。あーあ、図工ってつまんない」

こんな風な子どもが育たないかなあ、という不安である。

こうならないように、アメリア・アレナスは、かなり強く、子どもたちの発言をコントロールする。子どもに、コントロールされていない、と感じさせながら、その実、コントロールしていく。そして、発言を編集し、視点をまじえ、そこからさらに子どもたちのつむぎだした言葉をテーマ化、象徴化して、味わう。

これをしないで、適当にやっていたら、かなり危険な「鑑賞」である。
アレナス流は、一部だけを取り入れて、わかったつもりになると、たいへん危険。幼児に刃は持たせないように、というと例えが変だが、ちょっと観点のずれた教師が、アレナス流をわかったつもりのチョイかしこ、天狗になってやっていると、目的とずれる、あるいは目的とはまったく逆の、芸術をナメた子どもを育ててしまうことになる。

、と、ここまで、ほかならぬ、自分への自戒の言葉である。
他のどなたのことでもないので、ご安心を。

あとで、自分で読み返すための、備忘録です。




2次試験に向けて 加点方式と減点方式を心得よ




自治体によっては、2次試験がこれから、という方もおいでだろう。
試験の採点方式にはいろいろとあるから一概に言えない。
多くの自治体で採用されているのが、加点方式と減点方式の両方をあわせもつ採点方式だ。

加点方式の部分をいえば、ずばり、「この人を採用したい」欄だ。
試験官が判断をして、この人はいいなあ、と特に顕著に判断できる受検者については、
「この人を採用したい」欄に○をつける。

しかし、これは誰でも彼でもつければよい、というわけでない。
もちろん、厳しくつけられる。
ほとんど、つけられない、というケースもあるらしい。
相当なアピール、相当な資質を認められなければ、この欄にはしるしがつかない。
縁故採用や、知り合いの受検者を採点者、試験官が見ないよう、チェックもされる。

もう一つは、減点だ。
これは、一応のレベルに達していない、という受検者を切るためのもの。
いわば、足切り、である。
ものすごく上手にできなくても、一応のレベルに達していれば、合格ライン、というもの。
2次試験の内容によって、この

・加点方式
・減点方式

の両方が、ブレンドされて、試験官に採点されるわけだ。

ということは、おのずと作戦が立てられる。

面接などは、もちろん両方だが、加点方式が「ものをいう」。
しっかり長所をアピールできる、ということが大切になる。
面接はソツなくこなす・・・だけではダメ。
面接官の印象に残るような態度、言葉、返答、をしてこそ、プラス評価がいただける。自分の持ち味、自分のこだわり、自分が大事に思っていることの価値を、しっかりとアピールしてほしい。

逆に、水泳やピアノなどの実技については、減点方式が顕著になる。
ともかくも25メートルがまともなフォームで、まともなタイムで泳げればよいのだ。
なにも、国体級、新人戦レベルのタイムでないとだめ、ということではない。
また、ものすごいタイムをだしたところで、それが採用の決定打になる、というものでもない。

2次試験がせまっている人、
これまでの自分の修練、積みかさね、自分の実力を一番知っているのは自分だろう。
その自分が、○○県の採用に当たって、どうなのか。
あくまでも謙虚に、自分をそのまま、正直に出していくことだ。
その正直さ、謙虚さが、かならず好感される。

笑顔で、正直に、いくことだ。




図工鑑賞:研究授業の案に悩む




「鑑賞」の授業を考える上で、最初に描いておくべきことメモ。



○児童にじっくり考えさせたいこと

○児童に少し考えさせた後、教師から説明すること

○教師から説明をすること

○授業では触れないこと




日本の美術品蒐集は





バーナード・デンバーは『印象派全史』(94年)で「おそらく日本は、印象派作品の豊富さにおいてフランス、アメリカに次ぐ第3位を占める」と書いた。ただ、この後には「残念なことにその多くは、個人あるいは企業が所蔵する」と続く。
(朝日新聞記事 ―古賀太:記者―)

これを読む限り、おそらく、「印象派」に限って言えば、日本への「美術品観光ツアー」は魅力がありそうである。実際、そんなツアーがあるかどうか、これから調べていきたい。

さて、研究授業の方向性を、どうするか、いまだに整理がつかない。

1)分析批評で福田平八郎とホックニーの絵画を比較する授業
2)日本の美術品の豊富さをメインにした「美術」めぐりツアーの授業
3)地元に建設予定の美術館の計画を紹介する授業
4)地元の美術大学を紹介する授業


1)だけをやるか、2)とからめるか、3)は最後にちょっと紹介する程度にするか、4)は??

いろいろ考えが浮かんでくる。さあて・・・




日本には美術史に残る傑作がどれだけあるか




このたび、帰省することになりました。
そのついでに、箱根に寄る計画をたてた。

なぜなら、そこに、ピカソの彫刻があるから!!!

そして、モネもセザンヌも、あるから!!

本物が!!



すごいのです。
知らなかった。
日本って、美術品をたくさん持っているのですね。

疑問がわきます。
中国にはおそらく西洋美術は少ないだろう、というのは単純にすぐ思いつくことだが、東南アジアやお隣の韓国、台湾、マレーシアやシンガポール、という国には、どれくらい美術品があるのだろうか。

たとえば、モネの睡蓮は、どれくらいあるのでしょう。

たくさんあるのであれば、日本にわざわざ見に来ることもないな、と思うのです。
しかし、やはり、アジアで美術品を見たければ、日本に行きたいな、というくらいのものがあるのだろうか。
日本には、モネもルノアールもピカソもセザンヌも、モディリアーにもある。
2泊3日であっても、かなりの美術館を回れる。
美術館めぐり、という旅行コースをつくっても、いろいろと考え付く。
多様なコースを設定できる。

これ、もしかしたら、日本人だけでなく、東南アジアからの観光客も、こうした目的で来られる人がだんだんとふえていくかもしれませんね。

以上は、パッと思いついたことです。

○東南アジア諸国には、西洋美術史にのこる傑作コレクションがどのくらいあるのか。
○それは多いのか少ないのか
○日本の美術館巡りは、東南アジアの美術ファンにとっては魅力的かどうか。
○すでにそうしたツアーが、存在しているのかどうか。


これ、お分かりの方がいらしたら、ぜひ教えてください。
あるいは、どのページを見れば、分かるのでしょうか。
ぜひ、よろしくお願いします。

もしこういうことがわかってきたら、観光立国とからみ合わせた、地域おこし、まちづくりと合わせた授業展開を考えて、鑑賞の授業で進めてきた名画を、おすすめのツアー計画づくりをしてパンフレットを作成し、東南アジアの人に向けてアピールする、という授業が考えられないか、と思いました。

いかがでしょうか。




何を鑑賞の題材に選べばよいのか




小学校の教室での鑑賞授業に適した題材がある

これは、乱暴な意見だ、と思われるだろうか。
アメリア・アレナスは、子どもには次の視点で厳選された題材を提示すべきだとしている。

1)物語性のある内容
子どもはお話を作る傾向があるので、そのお話づくりを妨げない作品

2)多様性
異なる時代や異なる文化の人々の作品

3)平面構成の作品で、視覚的に強く働きかけるもの
四方から見る立体彫刻はやめ
展示場所を限定される現代アートはやめ
あまりにも巨大すぎる作品や小さすぎる作品はやめ

4)親しみやすいもの
文化的にあまりにも不明瞭な作品は解釈しようとする子どもたちの意欲をさまたげる


なるほど。
そして、子どもたちが、深く鑑賞し、味わい、さまざまなお話を作ったり、凝視したり、実はこの青いのは空ではなくくるみだ、すっぱいかりんだ、と主観を大いに主張して対話するのがよいのだ。


現代アートか、クラシックアートか、という二項対立で考えていたから、壁を感じたのだな。


アメリア・アレナスは、結局は、「わかりやすい」作品を提示していく、と書いている。
つまりは、親しみやすい作品。あまりにも不明瞭な作品は避ける。
ということは、現代アートの後半、作者でさえ意味を付加していない作品群についてはやはりふれないのだ。
ようやく、ホッとした。

アメリア・アレナスは、難解な作品は避ける、という。
しかし、子どもたちは、最初、「わかりやすい」と感じた作品を、あれこれ皆で鑑賞しているうちに、

あれ?

と思う、と言う。解釈していくうちに、わかりやすいと感じていた作品が、だんだんと難解になっていくのだ。
それは、観察力や解釈の力がだんだんについていくからだ、そうだ。

アレナスは、鑑賞を通して、どれだけ「豊かな感情」を引き出すか、が目的だという。
作品の意味解釈の正当性は、あまり重要視されない。

共通事項に、
(1) 「A表現」及び「B鑑賞」の指導を通して,次の事項を指導する。
ア 自分の感覚や活動を通して,形や色,動きや奥行きなどの造形的な特徴をとらえること。
イ 形や色などの造形的な特徴を基に,自分のイメージをもつこと。


とあるが、アレナスの言う「豊かな感情」が、共通事項のイ、「自分のイメージ」と重なるのかな、と思う。


となると、やはり、アレナス流に、じゃんじゃんと鑑賞活動をやればよいのだ!!



と思い切りたいが、それはそうだが、たしかに必ず進めていきたいが、なぜだかここで、虫がさわぎだす。
すなわち、単元を見通した計画、がほしい。

鑑賞活動のやりっぱなし、ではなく、単元をずっと見通して、活動の集合体が、何につながるのか、そこで何を身につけさせるのか、ということがほしい。

そこで、むりやり、この鑑賞活動を、いま流行中の「観光立国」とつなげていくビジョンを考えた。

(つづく)




なぜアートにとっつきにくい思いを抱くのか




この問いが、ぐるぐると頭をよぎったまま、晩飯を食い、風呂に入り、子どもをねかしつけ、それでもまだぐるぐる・・・。
結局また、パソコンに向かっております。
書きながら、頭を整理する作戦で、ほとんどこのBLOGはこうした独り言ばかりだ。

さて、現代アート。
伝統的なクラシックアートなら、なんとでもなる。
限りなく自然に近く、写実をめざした作品なら、「うまい」「色がどうのこうの」「きれい」「おもしろい」だの、すんなりと、心から言葉が出てくる気がする。

でも、現代アート。これがむずかしい。
どうして、むずかしい、と思うのか。思ってしまうのか、いつからこうなってしまったのだろう。

つまり、現代アートには、<どう向き合えばいいか>がわからない。戸惑ってしまう。おどおど、してしまう。

これがアートだ、という作品を前にして、首をひねる。
なにこれ、と思う。
作者の言いたいこと、企画した意図がわからない。
ふつうに感動する、ということが、できない。


なにしろ、「うつくしい」とは、とうてい思えないシロモノまで、「アートでございます」というような顔をして、美術館におさまっております。

アートでしょ!
美しいものの、はず、でしょ!!

と、怒鳴りたくなる。

だって、学習指導要領には、ちゃんと書いてありますよ!!!

図工の目標には、

(3) 親しみのある作品などから,よさや美しさを感じ取るとともに,それらを大切にするようにする。


5,6年生のB.鑑賞には、

(1) 親しみのある作品などを鑑賞する活動を通して,次の事項を指導する。
ア 自分たちの作品,我が国や諸外国の親しみのある美術作品,暮らしの中の作品などを鑑賞して,よさや美しさを感じ取ること。


と、ある。

つまり、「よさや美しさ」を感じ取る、のが肝要なのだ。

ところがどっこい!
現代アートは、「よさ」よりも「わけのわからなさ」であり、
「美しさ」よりも、ある場合には、「奇妙さ」であり、「見慣れなさ」であり、「ぎょっとする衝撃」である。究極には、「不条理、タブー、エログロナンセンス」という作品まで、包括する。

どうするのだ・・・。

現代アートは、学習の対象にはならないのか・・・。

しかし、子どもたちがそれぞれつくる作品をみると、幼いころから静物と人体のデッサンを朝晩つづけて習得してきました、という子どもが、残念にもクラスに一人もいない場合には、その作品の多くが、わりと現代アート風なことが多い。
教科書の指導に従って、自由な色、自由な素材、自由なかざりつけをさせたところ、

「わけのわからなさ」

を感じることもある。

というか、その方が多い。

また、子どもたちに親しみのある作品を学ばせよ、鑑賞させよ、とありますが、
親しみのある作品というのは、必ずしも伝統的なアートだけではない。

1学期に子どもたちに、スーラの点描画を見せたら、みんな「なんじゃこりゃ!」と驚いていた。
ほとんど、知らないのだ。
なにが、この子たちにとって、親しみのある作品なのだろう、と思うと、それだけで論文がいくつも書けるようなことだろう。

アニメをのぞいて、どんな作品があるのか・・・。
クラシックな名作を格安の入場料で見せてくれる気のきいた美術館が、地域にある、というのならまだしも。
ほとんど、町でみかけるものは大量生産され、消費されるのが前提の商品(というアート)か、お札にかいてある二羽の鶴か、ほかには一体何が・・身近で親しみのある作品なのか・・・。


鑑賞の授業、むずかしい。

伝統的な作品で鑑賞の授業をやれば、「親しみのある作品でない」としかられそうだし、
現代アートで鑑賞の授業をやれば、「よさや美しさを感じられる作品であったかどうか」を問われそうだし、かといって身の回りにあふれている生活品や商品を題材にすれば、ポップアートは低俗だと言われそうだし、そんなものは大して意味がない、とケナされるのがオチだし、思い切って抽象画をみることにしたら、「うわべの印象をおしゃべりしただけで深まらない」と言われそうだし、いったいどうしたら・・・。

現代アートは危険な木の実であり、これを小学校の教育現場にいかなる形で持ち込もうと、かならず壁にぶち当たるというよな気がする。
なぜなら、現代アート自体が、そもそも既定のできない、複雑怪奇な生き物に変化してしまっているからで、なにがアートか、ということをお互いに1週間くらい、寝食を忘れて語りあわなければ、対話すら困難だ、という状況が近づいているからだ。

アートは主張するものだ、という前提さえあやしくなり、一人が個別につぶやくように提示されたものが、アートだ、ということにさえなりはじめている。

さて、美術、図工、芸術、という世界を、子どもたちとともに、<学びて歩もう>としている我々。

どう、切り込んでいくのか?
どう、鑑賞の授業をつくりだしていくのか?

これはもう、すべてを子どもたち自身に任せていく、アメリア・アレナス流の授業でしか、成り立たないのではないだろうか?




現代アートを鑑賞できる子にする?




この問い、もう一度、くりかえしてみる。

「現代アートを鑑賞できる子にする」

先日から繰り返し、頭に浮かんでくる問題なのだが、今日はすこしちがった印象をもったので、それを書くことにする。

つまり、現代アートは鑑賞できて当たり前、なのが、子どもなのではないか。ということ。

アメリア・アレナスによると、
「解釈を深めていくことに価値がある」のであって、
「あれこれと美術の知識を伝えたいという気もちを抑えましょう」
とのこと。
・子どもたちが、自分勝手な解釈をすることがよい。
・なにか先生が意図した「正解」があるのだろう、と万が一にでも思わせてはいけない。
ということなのだそうだ。

実際、アメリアの実践を見てみると、子どもたちは好き勝手なことをしゃべって、結構楽しんでいる。
アメリアの実践には、現代アートの鑑賞もふくまれていて、それらについて子どもたちは、好き勝手に解釈を楽しみ、対話をもりあげている。
つまり、「鑑賞できるか否か」という点でみれば、かなり主観的すぎるきらいはあれど、子どもたちは「鑑賞できている」のだ。


そこで、頭を再度真っ白にして、
「なんでそもそも、子どもたちを、現代アートを鑑賞できる子にする」
などと考えたのだろう、と自問してみる。
実は、そんなこと、あらためて設定をしなくったって、できるじゃないか。


・鑑賞できる
・鑑賞できていない

この差は、何だ。



アメリア・アレナス流には、鑑賞できるかもしれない。
教室ではなく、アレナスの推薦するように、机などをとっぱらった開放的な空間で、大きな作品を目の前にして、地べたに車座になって、時間を気にせずに、適度な人数であれこれと好きに言い合うことができたなら・・・

小学校の教室で、アレナス流の「鑑賞」を、どんどん進めていく。
それはそれで、意味のあることなのだろう。
現在、文部科学省初等中等教育局教育課程課教科調査官をしている奥村高明氏も、アレナスの著作の監修をされていて、アレナス流の鑑賞法を推奨している。


アレナスも、奥村氏も、次のことを重要視しているように思う。
・子どもたちに寄り添う。
・子どもたちと「まなざし」を共有する。


すると、アレナス流の「鑑賞」が、本当に的を射た、鑑賞活動だと思えてくる。
ちなみに、これは鑑賞活動であって、鑑賞指導ではない、という人もいる。
活動ではあるが、指導要素がかなり少ないので、活動なのだ、ということだ。
しかしこれは批判のようであって、批判ではない。
そもそも、鑑賞は数をこなし、鑑賞の体験を増やし、体験活動をじゃんじゃんすればよいのだ。
大人の側の正解を持ち出したり、正解の枠におしこめたりする危険性を考えれば、指導、とみがまえるよりも、体験重視、活動重視でよいのだ。

しかしまたここで、弱気の虫が騒ぎだす。
這いまわる実践、などという言葉が、脳裏をちらりと掠める。

アレナスはそれも見越して、自信を持て、という。
這いまわっているうちに、子どもたちのきらりとした笑顔がみえるようになる。
だから自信をもって行け、というのだ。



しかし、しぶとくも、まだそれに抗いたくなる気持ちが捨てきれない。
藤田令伊いわく、

「アート鑑賞においては、よく『自分の好きに見ればいいんですよ』と言われるが、対象が把握できていなければ、そう言われてもなかなか自分の好きには見られないものである。知らないことで不安が生じ、無知な自分に自信が持てない。とくに現代アートのような得体の知れないものならなおさらで・・・(後略)」 ― 現代アート、超入門!―より抜粋

藤田のいうのは、アートに対して、あまりにも無防備な弱気な自分がいて不安になることの告白だ。アートを前にして、混乱する自分を救う最小の手立てとしての、「とりつくしま」は必要だろう、というのだ。

アートを前に不安になる自分。
まったく解釈の道に、進みこめないでいる自分。
困惑しているだけ、なにを、どう受け取ったらよいか、さっぱり頭が働かない自分。
こんな自分でよいのか、と思うとなお不安で・・・。
そんなアート鑑賞の不安要素をしのぐ、「とりつくしま」が要る。

なるほど、
「とりつくしま」
とは、よく言ったものだ。


しかし、
アレナスをはじめ、奥村調査官は、
「子どもはしょせん、無防備であってもまったく動じず、不安になることもない。だから、子どもにとっては<とりつくしま>も、要らないのだ」
というのだろう。
<とりつくしま>は、大人だけがほしがるのだ、と・・・。
上の言葉は、こちらの勝手な推測であるが。


大人からすると、「とりつくしま」はほしい。
しかし、子どもには、不要だ。
はたして、本当にそうだろうか。

つづく。 




試験の結果をどうのりこえるか




各自治体の教員採用試験。
1次試験が終わり、そろそろ結果が出されてきているようだ。

わたしの周囲の受験生も、合否こもごも。

同じ学校の臨時任用の先生。小論文が自信がなかった、というが、それでも合格していた。
今、2次試験の模擬授業に向けて、さかんに練習されている。
この努力は、結果はどうあれ、かならず本人の実力になっていく。
すばらしい姿勢だと思う。


こうしてブログを公開していると、試験についての質問も届く。
とくに、あと一歩のところで合格に届かず、複雑な思いを抱いている先生。
本当にいろいろと考えてしまうと思う。

試験である。
本当に、その日の、その時の、その場での受け答えが、勝負になる。
各自治体、ほとんどが、「面接重視」としているようだ。

なにをどう受け、答えるのか。
その場の視線、言葉の受け止め方、立ち居振る舞い。すべて、試験官のチェックの対象になる。
面接にこそ、120パーセントの実力を発揮したい。
(そう思っていても、60、70パーセントなのが現実なのだが)


どうして受からなかったのか、と思い悩むこともあるだろう。
大きく言えば、その日の体調もある。
また、面接の現場での、言葉の行き違い、不足、表現の微妙なちがい・・・、考えてみれば、こうしたことは非常に微妙な要素だ。それが合否を分けてしまう。
こちらの発した言葉、それを受け取る側の試験官にも、好きな言葉やきらいな言葉がある。
他の試験官ならひっかからない言葉も、この目の前の試験官は、ひっかかるかもしれない。
一部なのだ。
評価されるのは、その人の人柄そのものではない。
ほんの、一部なのだ。
人間としての価値をすべて評価されたわけではない。ほんの一部の、限定された、局面の一場面なのだ。それでも、そこをうまく表現し、うまく見せて、うまく立ち振る舞える人がいて、合格していく。



どうして受からなかったのか、と考える方法もある。
しかし、それは、正直、分からない。
考えてもわからないことは、考えない。それが、うまく生きていくコツだ。

考えていけることは、ある。
理想の教師像に、自分がさらに、一歩でも二歩でも、近づくことだ。
そうした努力の末に、合格はある。

「どの自治体も、こんな私のような教師を採用しないのなら、よほど見る目がないのだ」

というくらいに、自分が「理想像」に近づく努力をするのだ。

そのために、まず、自分が「理想像」をもつことだ。
どんな教師になりたいか。
いつも、いつも、ここに立ち還ること。
どんな教師になりたいか。具体的には、どの先生か。
その先生が身近にいればラッキー。真似をしていく。コピーする。
最初はいくら真似をしても分からないけれど、そのうちに、「あ、そういうことか」と思うことが出てくる。

小論文は、書き方がある。
ほとんど、きまりきった型がある。
この型どおりに書けているか、どうか。

この型を知らなくては、合格は本当に遠い。
序論、本論、結論、の3部構成がわかりやすい。
起承転結がよい、とする解説書もあるが、苦手な人は三部構成で練習するとよい。
起承転結の4つだとむずかしいが、序論本論結論の3つなら、なんとかできそう、という人も多い。

序論で必ず書くことがある。
もう少し細かく見れば、序論の最初に書くこと、二番目に書くこと、三番目に書くことがある。
本論で書くことがある。
本論がうまく2つにわかれるようであれば(うまく事例が2つ見つかるとラッキー)、段落を変えて4部構成に見せることもできる。
本論の中に、入れておくとよいエピソードの種類がある。
自分のこれまでの経験から、うまくいったエピソードを盛り込むのだ。そして、そのうまくいった事例から、手ごたえをつかみ、練習の大事さ、基本の大切さ、事前準備の必要性などがわかった、とつづけていく。
結論では、自分の理想像を語る。そして、必ずやそれを成し遂げていく、そのために○○をする、とつなげていく。
強く言い切ることも大事だ。

授業と同じで、余計な言葉をできるだけ削り、シンプルな言い回しで、心地よいテンポで、必要な内容を順番に重ねていくようなイメージだ。
小論文は、ほとんど、こうしたコツを知っているかどうかで、ちがってくる。


わたしのところに届くメールのほとんどが、すでにメールを書きながら気持ちを整理し、次のステップをめざそうとする姿勢で書かれている。立派だと思う。さすがは、教師をめざす人だな、と感心する。
合格した人からのメールには、教育の現場で、本当に力ある人を待っているよ、とエールを送りたい。
無念にも不合格だった人には、この言葉をおくろうと思う。
これは、わたしが1年目に不合格だったとき、お世話になっていた先輩の先生がくださったことばだ。

「回り道をした先生の方が、いい先生になる。30歳をすぎてからの先生の方が、いい先生になる」

明治図書から著作も出されている先生だ。
その著作の裏表紙に、サインとともに書いてくださった。
今でも、大切にしている本のうちの一冊である。




美術鑑賞教育 現代アートをどう鑑賞させるか




現代アートを鑑賞できる子に育てる。

なぜか。

クラシックな伝統芸術はもちろん、現代アート、鑑賞できる子にする。

そう考えるのは、なぜか。

学習指導要領の方向は、おそらくそうだと思う。
「表したいことを見付けて表す」ことが重要視されている。

考えてみると、伝統的なクラシックアートはいわゆる「名作」である。
それに比べて、子どもたちが、自分でつくりだす作品は、発想や着想の楽しさがあふれている。そこが魅力だ。なんとかして、その着想を生かしていこうと試行錯誤して作品をつくる。そこを、教師は着実にみとって、作品制作をはげましていくのだ。「モナリザ」のような絵を描け、というのではないし、「ダビデ像」のような粘土作品を作らせるのが目的ではない。
「名作」と、「子どもたちが表したいと着想してつくった作品」を、同じようにしたい、というわけではない。

よいか悪いかは、問わない。
自分は好みとしては、わかりやすいクラシックアートの方が好きだ。
でも、子どもたちをとりまくのは、現代アートにあふれた生活環境だ。
そして、作品の表現・制作と、鑑賞をリンクさせるのであれば、当然、現代アートを鑑賞できるようにしていかなければ、片手落ちだと思うのだ。
「モナリザ」や「葛飾北斎の浮世絵作品」や「ゲルニカ」を鑑賞することは大事だ。
それは、「名作」の鑑賞である。

それはそれでやるが、もし、表現と鑑賞をリンクさせて指導する、のであれば、現代アートが大事になってくる。


えがきたい形、えがきたい構図、を考えさせる。

自分の着想を大切にする。

それをうながす、鑑賞教育だ。
それが、現代アートの、鑑賞教育。

しかし、少し不安なのは、学習指導要領を読めば読むほど、「じゃあ現代アートの鑑賞が大事だね」と思うのだが、「現代アート」という言葉は一言も出てこない。
親しみのある作品、という言い方がしかない。


(5) 各学年の「B鑑賞」の指導に当たっては,児童や学校の実態に応じて,地域の美術館などを利用したり,連携を図ったりすること。

とあるが、地域の美術館に名作ばかりなのだったらいいのだけど、現代アートが多かったら、どうするのか。


やはり、現代アートを鑑賞する授業が必要なのだと思います!




林業の授業を提案する




主張

森林荒廃の害を知るとともに、森林を保全しつつ低炭素エネルギー活用と持続可能な循環型の生活を実現させる取り組み事例を知り、林業エネルギーという基幹産業の百年の国家大計を考えようとする子どもを育てる。

まだ字数が多いな。

森林保全と同時に森林の持つエネルギーを有効活用して日本のエネルギー活用を「循環型」にする仕組みをさぐり、林業という国家百年の大計を考える子どもを育てる。

まだ、ひとくちで、伝わりません。もっと字をけずる!!

日本林業の課題と展望を学び、林業という国家百年の大計を考える子どもを育てる。

やっと一行でおさまった。



野菜一年、
果樹十年、
林業百年、
里は千年。

千年のときを経ても、人間らしい営みを続けられる国をつくる。
里は、ひとのくらしを支える舞台。
その里は、実は、百年きざみで生きる山の林が支えている。
そして、また、十年きざみで生きる果樹が、人のくらしに彩りをそえている。
人の食を保つ野菜は、一年、一年、と人の命を保っている。

千年の里をささえる、林業を学びましょう。


林業は荒廃

しかし本当は荒廃するはずがない

人手不足なだけ

必要な仕事はたくさんある

未利用資源

有効活用がたくさんある

木材のペレット化、家畜の床に

家畜産業と林業とのかい離が問題、○○産業と林業とのかい離が問題

林業となかよくすることで、双方がうれしい、という事例をたくさん紹介

産業というのは互いにむすびついて協力し合うことができることの理解

百年の大計をえがこう

自分にもできそうなことをノートに書いてごらんなさい。

1つ書けたら、先生に見せに来ます。


うーん、こんなにうまくいくのかなあ。
とくに、

<林業となかよくすることで、双方がうれしい、という事例をたくさん紹介>

ここがむずかしい。
なぜなら、林業と他の産業がかい離していることが現代社会が抱える問題そのものなのである。それが解決している事例を引っ張り出せ、というのだ。

それが見つかれば、この授業、なんとかできるように思うのだが・・・

つづく。




記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ