30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2009年07月

(美術鑑賞)アメリア・アレナスを越えて




図工の鑑賞の授業をやることになった。

さて、これが奥が深い。
なにをめあてにするのか、それだけでも各論さまざまで、「良い、悪い」は決められない。
ともかくも、現学級の子どもたちの実態をつぶさに感じながら、脳裏に「ああでもない、こうでもない」と思いをめぐらせるばかり。

アメリア・アレナス、という人の鑑賞教育がすごいらしい。
しかし、批判もある。

「何が見えますかと問い続けるだけでよいのか」
「美術史の知識をどうかみ合わせるのか」
「対話なのか,単なる会話なのか」といった批判だ。

私は個人的にはアレナスの授業をぜひ受けてみたいと思うくらい、「おもしろそうな授業だなあ」と思う。
「絵は正しくみるもの」という思い込みが強いから、「まったく主観的に見てよいのだ」といわれたら、相当な自由を感じる。解放された気分がわいてくる。
そして、そうして見て感じたことを発言すると、アレナスはそれをうまくひろって生かし、学級全体に広げてくれそうだ。
こういうのって、いいなあ。

しかし、時間がゆるせば、である。

学校には時間がない。
したがって、アレナスの授業ばかりをやるわけにいかない。
そのへんが、先ほどのアレナス批判につながってくるのだろう。

とりとめもないおしゃべりになってしまいがちな「会話」を、教師が強力に「ファシリテート」し、「対話」にもっていくことができればよいのだが。

道徳の授業で、というのもありか。

「何が見えますかと問い続けるだけでよいのか」
「美術史の知識をどうかみ合わせるのか」
「対話なのか,単なる会話なのか」

こうした批判は、当たっていないような気もするが、まあ時間がないよ、という教師側の実感からくるのだろう。
(教師の実力不足もあるだろうが)


そこで、アレナスに習っていきつつ、現実には分析批評にも学び、比較鑑賞、といったあたりに落ち着きそうだ。

福田平八郎の「漣」と「水」、ホックニーの「SUNBATHER1966」、葛飾北斎の冨嶽三十六景から「東海道金谷ノ不二」、同じく北斎の諸国滝廻りから「和州吉野義経馬洗滝」あたり。

そうです。水の表現を追究した、お三方であります。
この水の表現の追究、かけた人生を背景に感じながら、児童がそれぞれ自分の思いによる「曲線」や「かたち」の表現ができるように。


指導案を次回。




わかった、よりも、できた!、がいい




信号が赤だから、止まる、と思っている。

なぜ、止まるのか。
信号が赤だから、止まる。

これが、当たり前となっている。
でも、実際はそうなっていない。

赤でも、そのままブイーン、と加速して交差点を通り過ぎていく車もいる。
目の前で、そのまま行ってしまうから、目がテンになる。

「おいおい!今の、赤だったろ!!」

と思うが、実際、走って行ってしまう。

こうなると、自分の頭の中にあった、

「車は赤で止まるもの」

という定義が、ガラガラとくずれていくのがわかる。

実際は、そんなことないのに、「車は赤で止まる」と、している。
自分がそう思っているんだ、と心の中でなっているうちはまだいいが、そうでなく、
「事実、車は赤で止まるんだ」とまで思いこんでしまっていることがある。
案外、そういうことが多いのではないか。
だから、目の前でそういう車がいて、通り過ぎていく光景を見ると、

「ええええーーーーーーーーー!!」と非常に驚愕してしまう。
「自分がそう思っているのだ」と、頭の中で整理できているのなら、そこまで驚くこともないのだろうが、実際は、頭の中に、「そういうもの」とこびりついていて、事実がこうだ、と思い込んできめてしまっているから、オドロキ、驚愕し、信じられない、という思いで頭がいっぱいになってしまうのだ。


同じようなことで、「そんなはずがないのだが」ということがある。

天気予報で、水曜日は晴れる、と言っていた。
たしかに、Yahooの天気予報で、月曜日の予報では、晴れマークになっていた。

だから、

水曜日は晴れるはずだ、と思っている。
そこで、事実実際、雨が降ってくると、

「ありえない!!!」

と言ってみたくなる。
実際に目の前に雨が降っているのに、「ありえない」と言いたくなる。
そのときの事実、実際よりも、自分の頭の中で「事実化(事実はこうだとした)」した世界が正しいのだ、現実はちがうのだ、と逆転している。

明日は晴れるはずだ、明日は晴れるはずだ、と頭の中でいくら唱え、思い込んでみても、それは自分の頭の中のこと。いくら強くそう思い込んでみても、地球はそれとは一切、無関係に動いていて、雨が降る。
それでも、おかしい、晴れるはずなのだ、と言う。

現実が見えなくなっている。
盲目。


現実よりも、自分の頭の中で「これが事実だ」としたことを、優先したくなる。
そういう人間のくせ。
これは結構、キツい。


なんで、そうも、自分の認識に自信ができてしまうのだろうか。


なんでも「知る」ことがよい、としているからだろうか。
「○○○ということにしておこう」と、一応そう考えよう、という具合にしておきたいのだろうか。

「聞いたことだから正しい」「見たことだから正しい」となるのも、実際のことは知らないのに、「そうであるはず」とすぐに思いたがるからか。
一応、そうだ、ということにしておく(認識しておく)」のなら、まだましだ。
すべて、自分の頭が認識したことは、「一応」という修飾語がくっついているはずなのだが、
そうではなくて、「一応」が、「ほぼ正しい」に、「絶対正しい」にまでなっている。

そうしてしまうことで、子どもの伸びる要素が、かなり摘まれてしまっているのだとしたら・・・。

頭の中で「事実だとしてしまった」ことを優先するあまり、目の前の現実から目をそらしてしまう、頭でっかちの「現実無視派」。
考えるよりも、「そういうことになっているはず」であり、もう考える必要のないことである、とする「思考停止派」。
これは、伸びない。

どこまでも、実は自分の頭がとらえているだけのことであり、目の前の現実とはちがうものであるから、謙虚になって、「本当はどうか」と現実を見ようとし続ける「謙虚派」。
「そういうことにしている」けれども、それは「一応」のことであるから、自分の頭の認識の具合を過信するのでなく、「待てよ、実際はもっと・・・」と考えつづけよう、さぐりつづけよう、とする「慎重派」。
こういう態度の子どもは、伸びる。どこまでも、探求する、追究する。「追究の鬼(オニ)」になれる。


「知ることができる」と思い込んでいる子どもにするのか、
それとも、
知ろうとしても、知ることのできない」子どもとして伸ばしていくのか。

「わからない!」か、「わかった!」か、ということに、あまり敏感になりすぎるのもよくない。
わかった、わからない、という感覚の強い子、は、気持ちのアップダウンが強くなりすぎるのではないか、という不安がある。
どうせ、人間は「知ることのできない存在」なのだから、「わかった!!」とか、「わからない!!」とか、あまり重要ではないのだ。一喜一憂する必要もない。
分かるか分からないか、その軸で考えなければならないのでもない。
分かるか分からないか、そのものさしで、計る必要もないのではないか。

こう考えてくると、
あまり、「わかった!!!」とさせることがいい、のでもないかもしれない。
たとえば、算数は、「わかった!!!」が最終目的なのではないかもしれないな、とも思う。


「まてよ、事実は・・・本当は・・・」と考え続けていける子。
わかった、というステキ(?)な感覚でとらえていくのではなく、(それもあるかもしれないが、そこで安住するのではなく)。

だとすると、たとえば、小学校の算数の目的は、問題解決して、「やった!わかった!!!!」が目的なのではなく、

「できた!!」が目的なのではないか。

文章題にしても、その目的は、数や量の置き換え、関係の結びつけ、運用ができるようにすることではないか。
だから、文章題を前に、自分の力で乗り越えていく力がついている、のが当然で、その力もないのに、やみくもに解かせるのは無謀だ。

やみくもに追い詰め、懊悩煩悶の果てに「わかった!!!」と叫ぶ。
快感だろうと思う。
でも、それは麻薬と同じで、危険な気がする。

わかった、ではなく、できた!!、であるなら、まだいい。それなら、いい。

微妙だし、相手は子どものことだ。
「できた!」と言うニュアンスで、「わかった!」ということもあるだろう。
だから、これは表面上のセリフのことでなく、意味合いとして、だ。

「できた!!」と、子どもが快哉を叫ぶ。
それがいい。

「わかった!!」だと、その次が、シューン、としぼんでしまうような気がする。




理論・原理・法則がある、ということ




自分の頭で考える、ということを先日書いた。 (教員は夏休みほど忙しい)


事実がある。
それを、常識、としてとらえている。
当たり前、としてとらえている。
実際、法則、というような言葉で、把握している。

これは、ある事実について、人間の認識が働いて、理論化、法則化されている、ということ。

りんごが落ちる。
これは、目の前で起きた現象。
なぜか。
引力が働くからだ。
古典物理学では、こういう説明がされる。

こういう、一見、わかりやすい?説明がされると、そうか、とストンとくる。
それ以上、本当はどうか、事実はどうなのか、・・・とは思わない。

万有引力!なるほど、そうか。と納得する。
頭の中で、とても納得する。
そうかー、引力かー、となる。なるほど、なるほど。

しかし、これは、地球上のモノが落下する現象などから、いろいろと人間の認識が働いて理論化されているにすぎない。

では、なぜ、そういえるのか。

・・・というあたりにはなかなか、考えが及ばない。
自分で考えていくには、相当な力が要る。

つまり、ある程度、「そうか」と納得してしまうと、それ以上、本当はどうか、事実はどうか、と考えていく力を急速に失ってしまう。

その後、アインシュタインが登場して、一般性相対理論を提唱する。
すると、もはや、ニュートンは古典となってしまう。
物体の落下の現象は、「重力の場のゆがみ」である、と説明されるようになる。

ニュートンでの<納得>は、いったいどうなってしまったのか。
あの、「ああ、そうかー、引力かー、なるほどなるほど!」
という、あの<納得>は、いったいなんだったのか。

しかし、ここで、アインシュタインが本当だったんだなー!となってしまうと、同じ穴のムジナで・・・。

「なるほど、そうかー、りんごが落ちるのは、引力じゃなくて場が作用しているからかー」

なるほど、なるほど。
納得、納得。

いや、・・・まてよ。ついさっき、同じようなセリフを、言ったような・・・。
おかしいぞ。


ある時点で、そのようにとらえた人がいて、理論化する。
それを聞いて、大勢の人が納得し、<原理原則>として、定着する。
常識、理論、法則、文化として、定着する。
ああ、そういうものなのだ、そういう法則があるのだな、と納得している。

納得して、終わってしまう。
知的な営みが、そこで完結したかのようになって、

「ああ、そうなんだあ」

と納得したような気になって、そこから先へ進まない。

そこを、打破していくのが、夏休み。

1年に一度くらい、こういう頭の使い方をしておかないと、ね、と思う。


これが、「自分の頭で考えていく」、ということなのか、と思う。
原理原則がある、というのは、そうなのだろう。事実がある、ということ。否定できない。
では、原理原則としてみた場合、それが、なぜそういえるのか。
本当は、どうか。今、見えている、理論化できていることとは、もっと別のところに、あるのではないか。

近いかもしれないが、事実は、見えていない把握できていない部分に、ある。(事実は永遠に把握できない)

事実の見えていない自分である、ということから、出発する。
その謙虚さが必要。

子どもを相手にしている。
子どもが、見えている、という悪自信から、自分自身を解放していく。
そして、事実に、立脚する、ということ。立脚しよう、とすること。




教員は夏休みほど忙しい




「教員は夏休みほど忙しい」とよく言われるが、本当である。

8月の終わりまで、スケジュール帳がうまってしまった。

あちらこちら、博物館や図書館や美術館で勉強をしてみたかったのに、まったくもってそんな時間がとれない!

いったいどういうことなのか?

1)これだけは、という仕事の優先順位を定める。
2)義理を少しは欠くようにしなければならない。(そこは大人の知恵で乗り切る)
3)嫁との十分な話し合いをもとに、家族サービスを最小投資・最大効率で実現しなければならない。
4)身の回りを整理し、「モノを探す時間」を絶対に無くさなければならない。
5)本を20冊読む→どこで、いつ、読むのかまで決めなければならない。
6)本を探す→どこで、いつ探すのか、まで決めなければならない。
7)追究するテーマ選びについては、神経をぎりぎりにまで研ぎ澄ませなければならない。少しのブレが、時間の浪費に直結するからだ。
8)家族サービスの渦中においては、仕事のことはこれっぽっちも考えてはならない。最大効率が失われるからだ。
9)今、誰を大切にしようと思ってやっているのか、常に考えなければならない。その先に、100万人の子どもたちが見えているか。
10)自分の頭で考えること。→ このEduブログ(で)、考え続けること。


忙しい、という心の状態から、「やるだけ」の状態へ。スッキリと。




オノマトペの授業 導入案1分つかみ Part2




「今から聞こえる音。なんて聞こえたか、ノートに書いてね」

トライアングルをならす。
書けた子どもを指名して発表させる。

キーン、チーン
など。


1)ドアのイラストを見せる。

「ドア」

2)ドアをたたくイラストを見せる。

「ノック。・・・なんて聞こえる?」

トントン

「なるほど、もっと強くたたくと?」

ドンドン

「ドンドンを、ひらがなにすると、意味がちがってきませんか?」

目の前で歩いてみせる。

「ほら、今、先生がしていること」

どんどん歩く。

「そう。どんどん歩く。どんどん走る、どんどん進む、なんていうふうにも使います」

入道雲と鰯雲の写真を見せ、

「もくもく、はどちらの絵を表していますか。」

(挙手させて確認)

「入道雲のほうだね」
「キーン、トントン、どんどん、もくもく」
このように
音や様子をあらわす言葉をオノマトペと言います。
言ってごらん。


オノマトペ

今日はオノマトペの勉強をします。




オノマトペの勉強 1分間つかみ




1分間の授業対決をすることになった。
授業の導入部分、いわゆる、つかみ。
この1分で、どんなふうに、子どもたちを引き付けるか。

授業案、導入案の1分。




善光寺参りのベルギー人夫妻




駅前のコインロッカーに、荷物を入れようとした。
すると、長野駅は今日はやけに混んでいて、空きがない。

なんだ。
と思って、別のコインロッカーを探そうとした。

すると、同じように困っている人がいた。
目立つ赤の旅行用ケースをひいている。
欧米の人である。
若い夫婦らしい。

顔を見ると、目が合った。
奥さんが、にこっと笑う。

おたがい、困りましたね、というような表情をしたら、なにか通じたような気分になった。

「フル」と言いながら、困ったような笑顔で、ロッカーを指す。
旦那さんは、念のために、というように、奥の方まで見ていたが、やはりダメであった。

そこで、私は別の場所にロッカーがあることを思い出し、いっしょに行こう、と指をさす。
すると、OK、というように、二人そろって、私のあとをついてきた。


駅の反対側、善光寺側でない方は、比較的すいているのかな、と思って出かけた。
二人は、でかい旅行用ケース。
それを、旦那さんが両方とも持って、引きずっている。
奥さんも背の高い人で、力もありそうなのに、ここは旦那さんががんばるらしい。
さすが欧米?なのか。
旦那ががんばる文化なのだろうか。

なにしろ、二人とも、非常に美しい。
ギリシャの彫刻のような顔をしている。
肌もきれいで、なんだか、芸術品を連れている気がする。

私が片言の英語の単語を言うと、向こうも、片言の英語の単語。

エレベーターに着き、1階まで下りると、なんだかすごい人だかりであった。
どうやら、何かのイベントがあるらしい。
大物落語家が、この長野の地に来ているのか??

小三治か、はたまた、三枝か、小朝か、もしかすると喬太郎かも・・・。

見たところ、みんな10代か20代。
若い女性ばかりである。
みんな一様に、特徴のあるおしゃれをしていて、雰囲気が似ている。

こんなギャルたちが集うのだ。
これは小三治ではないな。彼女たちに小三治はまだ早い。味が分かる子はまだそうはいないだろう。とすれば、小朝か、喬太郎・・・?
はたまた海老名家の三男坊、三平君かも。
彼にはコギャルもついてくる。

この巨大なコンサートがあるがゆえに、コインロッカーもうまってしまったようだ。
コギャルがコインロッカーから、たくさん出てきた。

まだ残っていますように。
そう思いながらロッカーにたどりつくと・・・。

ここも、満杯、である。
わずかに3つほど、小サイズのロッカーが余っていて、私は入れることができた。
しかし、外国人夫妻、「あれま」という顔をしている。

奥さんが、
「ノー。ノー。サイズ。ディスバッグイズ、ビッグ」
というような、超簡単なフレーズを言った。

私は自分の荷物を入れて、ひと安心。
しかし、この欧米から来た二人をどうするか。
彼らの旅行用ケースはでかい。
このでかいケースを入れるロッカーもあるが、そこはすべて、先客がいて、空きがないのだ。

ここで、二人にいろいろとたずねてみた。
「アーユー、フロム?ホエアー?」

「◎×△◆#!」

分からないので、
「ドゥーユースピーク、イングリッシュ?」

「ノー、フレンチ」
納得がいった。
彼らはフランス語なのだ。
それで、私の姉がフランスで絵を学んだ話をすると、

「それはわかったが、あいにく私たちはフランス人ではないのだ。もっとその上、北の方にある国からきた。首都はブリュッセルだ」

と言った。
「オー、ぶりゅっせる!」
と私が言うと、うれしそうな顔をした。
わたしはブリュッセルがどこの国の首都だか、そのときは自信がなく、何も言えない。
そのまま、二人をインフォーメーションセンターに連れて行った。

すると、長野駅の構内中央付近にある大きな観光インフォメーションセンターのお姉さんたちは、さすがに英語がペラペラで、私よりもはるかに流暢に、コインロッカーの場所を説明してくれた。あと2か所ほど、善光寺側の1階に、ロッカーがあるようであった。

しかし、私はそれも危惧した。
今日のこの雑踏、それも巨大な落語のビッグコンサートがあるような日。
特別な人の出があるような日に、ロッカーの空きがあるのか??

そこで、JR側のインフォメーションセンターをふと見ると、こちらは初老のおやじさんが一人。
むしろ、こっちの人の方が、年の功でいろいろと知っているのでは。
ひらめいた。

そこで、ベルギー人夫妻をそこに待たせて、おやじさんに聞きに行くと、

「善光寺側の1階に、クロネコヤマトの荷物窓口がある。そこのおばさんが、一時預かりをしてくれているようだ」

という。
さすが。
亀の甲より年の功!

それで、ベルギー人夫妻に報告すると、旦那さんは奥さんを慮(おもんばか)って、

「一度、わたしがチェックをしに行く。でないと、このケースが重すぎて」

とかなんとか、英語でしゃべる。
私も自信がないから、それがいい、とついていくと、ベルギー人の旦那は先に1階のコインロッカーを見に行った。
しかし、やはり、空きがない。
ギャルたちがたくさん、そこから列をなして出てくる。
先にとられてしまった。

あちゃー、という顔をする、ベルギー人の旦那。

そこで、私がクロネコヤマトの窓口に足を踏み入れて、おばちゃんに聞くと、

「はい、ひとつ500円ですわ」

とのこと。
やった、これで旅行用ケースを預けられる。

「でも、あいにく夕方5時に閉まるんです」
なるほど。それでもいい。

ベルギー人の旦那に説明すると、よし、という顔に決意の表情を浮かべて、奥さんのもとへ急ぐ。
急いで階段をのぼる彼に、ショップが5時でクローズする、ということを教える。
しかし、目が血走ってきた彼は、足が長いのと速いのとで、私がちょっと追いつけない。
階段の下からのぼって追いながら、

「ヘイ!」

と言うとふりむいて待ってくれたが、さすがにヘイ、では芸がないと思って名前を聞くと、

「ピエーだ」という。

「ピエー?」
「イエス、ピエー」


ピエール、というとフランスっぽいな、と思って、

「ピエール?」と確認したら、
「オーイエス、ピエール」

という。
こちらも聞かれたので、ソーカイだ、と答えると、

「おー、ソーカイ!」

という。
「おお、そうかい」
と二人で言った後、ショップのクローズを説明すると、それでよい、とのこと。

そこで、二人がそろってくるのを待ち、クロネコヤマトのおばさんに荷物を預けるのを確認した。ここでトラブルがあったら、おばさんも夫妻も両方かわいそうだ、と思ったのだ。

クロネコのおばちゃんは、二人の背の高い外国人が急に入ってきたので、思いきり不安そうな表情を浮かべている。
瞳孔が開き、目が宙をおよいでしまっている。

「あ、あ、なんでしょうか・・・」

そこで、私が登場し、日本語で説明をすると、ようやく安堵した表情になった。
しかし、

「あの、500円かかるんですけど・・・」
と何度か繰り返した。

わたしは、ピエールに向かって、赤いケースを一つ指さして
「ファイブ、ハンドレッド、ィェン」
と言った。
ピエールも、復唱する。「ファイブ、ハンドレッド、ィェン」
私は落ち着いて、またもう一つのケースを指さし、そのまま低い声でつづける。

「ファイブ、ハンドレッド、ィェン」
ピエールも、おとなしく、復唱。
「ファイブ、ハンドレッド、ィェン」

おばちゃんは、われわれのやり取りを、不安げな顔つきで、眼鏡越しに見つめている。

「オール、ツーバッグ、・・・ワンサウザンド、ィェン!」
私がひときわ大声で、これを言うと、おばちゃんはたじたじ、となって2、3歩店内をあとずさりした。

ピエールも、万事了解した、といわんばかりに、深くうなずき、
「OK」という。

背の高い美人の奥様が、にっこにこしながら、荷物を置いて、ミニポーチを取り出した。
これで、よし、というふうに。

荷物を預けたことを確認して、ふたりに
「シーユー」
というと、
「サンキューベリマッチ」
と言って、奥さんとピエールも、ふたりとも、ものすごい笑顔になった。


しかし、あそこから、きちんと善光寺へお参りできたのかな・・・


自分でもわりと気軽に、見知らぬ外国人に話しかけられたことに、われながら驚いたが、これも教師をしているせいだろう。
帰りの電車の中で、自分でそう解釈した。




テスト週間とその後の一週間




今週はテスト、テスト、テスト・・・

1時間目に国語の漢字テスト、
2時間目に算数のテスト、
3時間目に理科のテスト、
4時間目はまた、国語の文章読み取りのテスト。

悲鳴があがりました。



ごめんね・・・


気がついたら、テストやっていない、ということになってしまったのだ。
悔やむ。
もっと早くから、1週間、2週間前くらいから、計画的にテストをすればよかった。

ところがどっこい、テストを見たら、

「あっ!こんな問題が出とる!まだ教えとらん!」

ということばかり。
あせって慌てて、授業にかける。
ところが、慌てているからか、大事なところを抜かしたりする。
次の日に気づき、

「今日、テストって言ってたけどね、まだできないからね、もう少し復習」

だとか子どもに言い訳して、残りの要点を手早く片づけました。



ということの繰り返しで、気づいたら、もうあと2週間でおわりです。
1学期もあっという間。

気づいたら、テストをやっていなかったわけ。

・・・で、冒頭のように、
1時間目テスト、2時間目テスト、という始末になってしまった。


「5年生だからね、分量多いよね~」
前の席の先生が、午後の紅茶を飲みながら、同情してくださる。

しかし、である。
同情の声をかけていただくが、職員室の他の高学年の先生は、
みんなちゃんとやっている。
えらいなあ。不思議やなあ、なんであんなにできるんだろ。

そう思っていたところ、すごい人がいた。

「テスト?やってないよ」

というのだ。

つまり、テストを見ながら、こどもたちと一緒に教科書で確認しつつ、空欄をうめてしまった。

「それでいいのよ。しょせん、プリントと同じでしょう。成績なんて、それだけでつけてるわけじゃないんだから。」

豪のモノ。
もう、あと数年で定年という、大ベテランの先生だ。
さすが、言うことがちがう。境地がちがう。

さて、テスト週間がおわると、今度は短縮だ。
今年は短縮時間の始まる前に、成績をつけなくてはならず、とても大変。
定刻に帰宅したんじゃあ、いつ成績なんてつけられるのか。
残業を前提とした勤務体系です。残業代はないけれど。

短縮が始まると、いったい何の授業をしたらよいのか。
さあて。それも悩みの種。
一応、やることを終わらせてしまっているからなあ。




最初の1分間でつかむ!




最初の1分間でつかむ!

どういう要素が、こどもの視線、意識、注意、関心、興味をつかむのか。

最初の1分。

そこに、すべてをかける!

今、要素を考え始めています。


いくつか教えていただいた中から、要素を3つ。

1・楽しい活動。
2・知的なおどろき。
3・モノづくりや実験。

この3つが、ぐっとハートをつかむのだ、(らしい)。


1.楽しい!……話す聞くスキルやあいうえお作文など、活動が多く、
すっごく楽しかったという印象を与えればOK

2.驚き!……知的な驚き。知らなかった!なるほど!ほぉ~!という内容。

3.モノ……全員に物作りをさせたり、実験をさせるというのが好評。


この項、つづく。




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