30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2008年11月

「そんなのいい」というセリフ




児童集会という名目で、1時間、全校生徒が交流しました。
内容は、児童会の企画したゲーム大会です。
大縄とびをすることになりました。


4年生の並んでいる場所をみると、児童会から派遣?されてきた6年生が立っています。
二人で大縄を持ち、競技の用意をしています。

ところが、その立ち位置が、気になりました。
1組も2組も、妙に近いのです。
これでは、跳んでいる子どもたちが、跳びにくいのではないか、と思ったのです。

それで、まだしも空いている空間を指さして、

「こっちに移動した方がいいんじゃない?」

と言ってみました。

すると、その児童会の6年生が返事をしたのですが、それが、

「そんなのいい」

という、冒頭タイトルのセリフだったのです。



これにはおどろき、いや、これではあまりにも危ないし、やりにくいから、ということで移動してもらったのですが、
即座に

「そんなのいい」

と、感覚的な言葉が、パンッと跳ね返るようにくる、というのが印象に残ったのです。

ふだん、話もしたことのないような6年生でしたから、どういう子なのか、ちょっとわからないのですが、なにか、勘違いでもあったのでしょうか。

そこで、その日の帰りに、いつものように電車の中でつらつらと考えたのですが、

あの子を認めていく、とはどういうことか、と考えていました。

認めていく。
そのことでしか、あの子の成長はないな、とは思うのです。
「そんな言い方をするな!」という一時的な指導は、人間関係のできた担任の先生に任せるとして。
どういう具合に、あの子を認めていくのだろうか、と思いながら、窓の外を眺めていました。

生まれてから死ぬまで生涯、人を受け容れ、人に受け容れられて、人を愛し、人から愛されて、安心満足してすごす人生が本当。

あの子が、自分は受け容れられている、と実感できるには、と考え続けることしかない。

ひるがえって、クラスの子どもたち、全員を思い出して、どうか。
そろそろ2学期の成績をつけます。
通知票も記入します。
所見も書いていきます。
それは教師から発せられているように見えて、実は教師に返ってくるもの。
子どもの成績、所見を書きながら、本当はどうか、と悩み、・・・教師はあたかも、わが身を検べている気持になります。

子どもたち全員が、受け容れられている、と実感できる2学期に、なっているかどうか。


最近考えている、「褒める」ということ。

「いいね」
たった3文字でも、あるのと無いのではちがう。

「いいぞ」
先生がにっこりして、言うひとこと。


「受け容れられている」という実感。


ほめる、というのは、その意味のことだな。




二宮康明の紙飛行機




年配の方数人が、紙飛行機を飛ばしていらっしゃった。
遠足で訪れた公園で、お仲間と共に談笑しながら。
のんびりと、ゆったりと、楽しんでおられた。

紙飛行機をとばす、という行動の底には、何があるのだろう。
ひとが、自ら飛びたい、と願う心が隠されているのだろうか。
紙飛行機は、ゆっくりと旋回しながら、滑空してくる。
ずいぶんと長く、空中にいるのだなあ、と思いながら見ていた。

お昼のお弁当の時間。
小学生が敷物をひろげて、おにぎりをパクついている。
その向こうに、その「紙飛行機の会」の方たちが見えたのだ。

「あれ、ずいぶんよく飛ぶ、飛行機だね」
「先生、あれ、紙ひこうき?」
「うーん、紙みたいだなあ」

よし、と話しかけに行く。
広い緑地公園。広場をまたいで、何人かのおじさんの中の、やさしそうな人を選んだ。

「すみません。子どもたちが興味津津で。」

というと、主翼の長さや幅まで教えてくれた。
ただし、胴体部分はヒノキを削ったもの。
お仲間には、主翼にバサラ材を使う方もいるそうだ。
中には、あくまでもすべて厚紙にこだわる、という方も。
やり方が個々人でちがうらしい。

「みんな、自分のが一番と思っているよ」
笑っておっしゃる。

ぜひ真似したい、学校でとばしたい、と思った。

それを言うと、

「それなら、二宮さんの本があるよ。」

と教えてくれたのが、タイトルの<リンク:http://www.bk1.jp/product/02632211>「二宮康明の紙飛行機」</リンク>だ。
本から切り取って完成できるキットだそうだ。
さっそく、購入を決めた。

買うぞ、というと、子どもたちもすでにやる気十分。
さて、2学期。
学期末ギリギリまで、忙しい日々がつづく。
その合間に、みんなで紙飛行機がつくれるといいな。

(女子がどうかな。男子はノリノリの気配なのだが・・・)




ほめる頻度は多いのがよいのか、ということ




「いいね」と言って、ほめる。
褒める、ということで、常に考えることがある。

ほめる頻度だ。
毎日、毎回のように言う必要があるだろうか。

たしかに、評価してくれる人や先生のいうことは聞こうという気になる。
子どもは、学級のためにも活躍しようと言う気持ちにもなる。
しかし、それを毎日、毎回のように、教師は言わなきゃならんのか。

「ほめるのは、甘やかすことになるのでは」
「ほめたら、調子に乗って、増長するのでは」
という気持ちがある。
私自身、親や先生、上司に厳しく育てられてきた。
どうなのだろうか。

このあたりは、やはり、ほめる、という行為をする裏にある、こちら側の動機に関係があるように思う。

ほめて、なにかをさせよう、ということであれば、
「代償」を期待しての「ほめる」にしかならない。
ほめ続けなければ、相手を動かせない、という思いがさらに強くなっていく。
そのうちに、こちらが疲れてしまうだろう。
「ほめなくては」という強迫が生まれてしまうのだ。

だから、余裕がなくなる。
気持ちや心に余裕が生まれてこなければ、毎日の忙しさにまぎれて、「ほめる」材料が見つけにくくなるだろう。
したがって、「ほめる」が自然でなくなる。
とってつけたような「ほめる」になり、甘やかすイメージに陥ってしまう。

増長したら、がつん、とやればよい。
そこの見極めは、こちら側に余裕があればできる。

ほめて、なにかを期待するのではないのだ。

、、、とここまで、考えを進めてきたが、果たして本当だろうか。

少なくとも、居場所を確認してあげる、受けれているよ、というサインをおくること。
これが、「ほめる」の効用だろう。


図工の時間。
あまり図工が得意ではない児童。
前回の版画の時間も、適当にお茶を濁した作品で、早め早めに切り上げようとばかりしていた。
本当に力を注いだ作品にはならなかった。

今回、絵を描いている。
校庭の木だ。
大きな銀杏の木。

始まってしばらくして、そろそろ筆も進んできたころ。
彼の近くまで行き、作品を横から見た。
根っこが少しだけ、茶色で塗られていた。
あとはそのまま。

「いいね」
根っこの茶色を指して、言った。
「自分で作った、色でしょう」

こちらを、ふと気にする仕草があり、コクと小さくうなずいた。

「いいねえ」
と、もう一度、言った。
そして、少しずつ、歩いて彼から離れていった。

「いいね」
たった、3文字である。
しかし、集中して絵を描いている彼の耳元で、
「いいね」の一言は、短くても、ふさわしかったのではないか、と思えた。

遠目で見ると、彼は薄い灰色を、ぬりはじめていた。




ほめるの効用




この一年、ほめる、ということについて考え続けている。

なぜ、子どもたちを、ほめる、のか。
どんな趣旨で、ほめる、をやるのか。
それを、とことん考えたくなった。

たとえば、「いいね」の一言。
先生は、こういうことでよろこんでくれるのか。
じゃ、つぎもやってみよう。
こう思う子もいるだろう。
先生を喜ばせてみたい、という気持ちが生まれるのだ。

それを見越して、ほめるのか?

しかし、それは、続かない。
先生も疲れる。
子どもも、いつまでも、先生を喜ばせようとばかりはしない。

「喜ばせよう」は、まだまだ半人前。
人を喜ばせよう、という気持ちに少しでも「見返り」をもとめる動機が隠れているとしたら、それは決して長続きをしない。
いわば、本物ではない。
子どもが、先生を喜ばせようとする活動は、長続きをしない。そんなことは、必要ではない。
それを目的に、ほめていくのは筋がちがっている。

喜ばせようと、いう気持ちよりも先に、

「この空間、人間関係、場所に、いてもよいと認められている」
という、受け入れてもらえている、という気持ち。
この気持ちが子どもの中に生まれてほしい。
それが先だ。
受け入れてもらえていると確認できるから、この場にいて、力を発揮しようと思うのだろう。
先生、教室、学級の仲間。この空間にいて、活躍しようと思うのだ。

・・・と、現在のところ、考えている。(が、どうだろうか)




30代の方から転職相談を受ける




30代の人たちから、転職相談を受ける。
このブログを公開しているからだろう。

自分でも教師になれるのか、という相談。
メールでいくつかいただいたので、ここで再度、書いておきたい。
実は、これまでに、かなりいろいろと書いている。

○小学校教員資格認定試験 [2006年08月13日(日) ]
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401380.html

○一種の免許をとるためには [2006年08月15日(火) ]
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401383.html

○いよいよ教員採用試験 [2007年08月10日(金) ]
http://arigato3939.publog.jp/archives/54401389.html


検索サイトから、スッと来られたかたには、
すぐには辿りにくいのだろう。


上記の文章などに記しているとおり、
免許なし、高卒、既婚、子持ち、いろんな条件はありましたが、道は決して、とざされているわけではありませんでした。
教育実習を受けなくとも、教員になることもできました。
30代の転職は、十分可能です。
サラリーマンで、1か月も会社を休めない、という方でも、免許取得をねらうことができます。

いただくメールを読ませていただいて、いろいろな境遇の方がいて、なにか、進路選択のヒントをさがそうとしていらっしゃることが分かります。

私のブログでよければどうぞ、いつでもご参考に。
質問は、答えられるときと、すぐにこたえられないときがありますので、ご容赦ください。
(私の学級の事情や行事、スケジュール、体調など、さまざまなことが要因で、なかなかすぐに返事が書けません。メールの返事がなくても、こうしてブログ本文に書くこともありますので、どうぞご覧くださいね。)
転職、応援しています!




初任者を行事が苦しめる




またも、全校行事、である。
正直、本当にゆるしてほしい。
もう、行事はこりごり。
行事ばかりで、学級のことも、授業のことも、非日常の動きばかりが多くなる。
定例の時間割がどんどんくずれ、子どもは落ち着かない。

行事の意義はわかる。
やったら、たのしい。
燃える実行委員が育つ。
それも分かる。高学年のやる気の子たちには、思い出の行事になるのだろう。

でも、多すぎる。
授業が、おくれる。できなくなる。
行事の準備で、時間がとられる。

学級で、これから、とねらっていたことも、考えていたことも、
すべてそれにふりまわされていく。

学校行事には、光と影がある。

光の部分は、輝いている。
反省用紙には、光が書かれる。

やってよかった・・・。
子どもたちも楽しんでいたし・・・。
行事を行う、意義はある。
少なくとも、やり方を変えれば、もっとよくなる。

なるほど、そうかもしれない。



こうした思考のくりかえしだから、

「やめましょう」

この英断が、なかなか下されない。

初任者には、キツすぎます。
初任者をくるしめる、行事が多すぎます。

運動会も、オリンピックと同じく、4年に1度でいいくらいです。

行事を2分の1にへらす運動、「G・2分の1」運動をはじめたい。




林光の音楽(CDと書籍)




小学館から、『林光の音楽』が出版されています。
林氏の60年の歩みを、すべて収録しようという、試みです。

ここに、谷川俊太郎さんが詩を書いた、「きょうがきた」という曲がある。

CDで聴くと、子どもの声ではないにしろ、これを教室でぜひ聴かせたい、というものであった。それを目的にセットを購入したのだから、私はホッと安心した。

もう32年前の曲なのであるが、非常にあたらしく聞こえる、というのは、すべての芸術に共通する褒め言葉だ。

おもしろいのは、これが校歌だ、ということ。

ふつう、○○小学校校歌、というだけ、なのだろう。
それが、きちんと、タイトルがつけられている。
「きょうがきた」
というように。

作曲家は、ソングや歌曲やオペラと同じ引出しに、この曲がしまわれるように、タイトルをつけたのだろう。
林光さんは、別に江戸川区立宇喜田小学校の校歌も作曲されているが、
この曲にも、

「すみわたる空よきけ」

というぐあいの、タイトルをつけている。


そういえば、大学のころ、寮に住んでいたことがある。
寮には旧制のころからの歌が、まだ文化的にも生活的にも現役で生きていた。
そこには
「島根大学雄翔寮寮歌」というだけでなく、きちんと、「青春の歌」というタイトルがあった。

今の勤務校にも、もちろん校歌がある。
この校歌も、歌詞や曲もすばらしく、個人的にも素敵だと感じているが、惜しむらくは、タイトルがない。




ちなみに、YOUTUBEで、青春の歌が紹介されていました。
これを聞くと涙腺が緩んで仕方がありません。



英語の授業




職員会議で、新しい学習指導要領について話があった。
3か月前の夏休み、それぞれ教諭が市の研修(説明会)に参加した。
昨日は、その報告会であった。

国語、算数、道徳、などと各教科の説明もあったが、おどろいたのは、英語。

英語が、
ついに、始まる。


騒然となる職員室。
隣学年の先生あたりから、
「ッたくもう」
というのが聞こえた。


「ALTが必ず配置されるわけではありません」

という教頭の説明に、口をへの字に曲げた顔が見える。
パソコン・ディスプレイの向こう側、主任のS先生だ。


要するに、あまり歓迎されていない。
高学年には週1時間が義務化される、という。

英語の教科担当の先生が、曇った顔をひきつらせながら、
「これから、みなさんの意見を集約できるよう、早急にアンケートをとりたいと思います」
と言っている。
ひきつるのも、うなづける。この職員室の空気じゃあ・・・。


本校として、どのような取組みにしていくのか、早急に・・・


何度か繰りかえして言われる、「早急に」という言葉が、さらにみんなをいらつかせているようだ。


何人かの先生が意見を述べた。
○会話トレーニングよりも、異文化の理解、諸国の文化にふれる、という点がもっとも重要だ、ということ。
○中学校の前倒し学習は、英語ぎらいを育てる可能性があるから避けたい、ということ。
○わたしは教えられません。ちゃんと研修してください、ということ。(←どっと笑いと拍手が起きた)
○保護者に対しては、そんなに期待するな、と言っておきたい、とのこと。


ほとんどの先生(わたしを含めて)は、腕組みをして、うーん、とうなる感じ。



いったい、子どもたちに、どんな指導をしていくのがよいのか。
遅すぎるのかもしれないが、考えなくては。




4年国語 接続語の授業




4年。接続語。

教科書には、
1)それで、だから、などの順接
2)けれど、しかし、などの逆接
3)その上、などの添加

が掲載されている。

最初に、
「ので」
「のに」
「が」
「ために」
「それで」
「しかし」
の札をつくり、黒板に貼った。
読んで確認。

例文を示した。

1)約束した   友達がきた

この文の間に入る言葉を探させた。
ノートに記入させ、書いたことを発表。
日本語としてスムーズか、意味が通るか、と確認した。

2)約束した   友達が来なかった

つづいて、上記についても同様に探させた。
全員で、意味が通るかどうか、確認した。

すでに言葉が貼り付けてある中から選ぶのであるから、簡単だ。
全員が即答できる。

この時点で、全員がピタっと集中するような手ごたえがあった。
やはり、簡単な問で、だんだんとレベルを上げていくのがよい。
だから、最初はこんなに、と思うくらいで簡単がよいのだ。
おそらく、2学年程度下でもわかるくらい、簡単でよい、とのこと。これは担当指導教官より。

続いて、教科書の問をする。
すぐに答えを確認して、練習問題につなげる。

プリントを配布。
1)雨がふった     遠足に行った
などの簡単な問題をする。
順接と逆接だけなので、かんたん。これも、みんなすごい勢いでやった。

次に、
失敗したら (           )
の括弧の中の文をつくらせた。
その後、すぐに
失敗しても(           )
で同じように作らせて、比較させた。

これもすごい勢いでノートを見せにきた。
先着順に、黒板に書かせた。

あの店は安いし、(         )
あの店は安いが、(         )

この2問を連続して出し、両方とも書かせて発表させた。

すると、こう書いた子がいた。

あの店は安いし、まずい。
あの店は安いが、おいしい。

一方で、大半の子はこう書いていた。

あの店は安いし、うまい。
あの店は安いが、まずい。

挙手して、ふたつの文章について意見を言わせると、
どちらでもよい、ということになった。

つまりは、それを言う人の都合や主観により、観点が異なるので、
安い店はまずい、と考えている人にとっては

安いがうまい、と言う場合もある。

逆に、安くてうまい店に行くのが得である、と考えている人にとっては、

安いし、うまい。という言い方で通る。

この辺は、うまく説明できる子と、そうでない子、とわかれた。
また、どう説明して良いか首をひねる子や、友達の意見に
「意味わからん」
とつぶやく子もいた。

どっちも、意味が通るけど、日本語の言い方としては大体、ルールが決まっているようだ、という印象で授業が終わった。

今回思ったのは、
授業開始直後に、易ではじまり、授業終了直前は、難、となっている授業がいちばん歯ごたえがあるし、とっつきやすいのではないか、ということ。つまり、ほとんどの子が集中するし、熱中できる。

しかし、難が本当にわけがわからなくなり、くちゃくちゃになって、混乱して終わるのはよくない。次につなげていく。




ほめるコツ




以下、ほめるコツ。

 1.他の人と比べない。
 2.時と場所を考えタイミングよくほめる。
 3.結果だけを見ないで努力をほめる。
 4.事実に従って具体的に心からほめる。
 5.相手にあった言葉でほめる。
 6.変化をほめる。
 7.喜びをメッセ-ジで伝える。
 8.相手の欲求を満たした言葉を使う。

先輩がノートに記載しておられたのを、校内研修の最中に隣で見て発見。
すかさず、メモをうつさせていただいた。
原典がもちろんある、ということだったが、それがなんなのか、ご本人も忘れた、とのこと。

この中の、時と場所を考えて、タイミングよくほめる、というの。
これが、むずかしい。

本人のいない所でも褒める、ということもある。

保護者会で、子どもを褒める。
隣の教室で、ほめる。
他の学年で褒める。
職員室で、他の先生に対して話す中で、ほめる。

いろいろあるだろう。


しかし、この道が一番けわしい、と思える。
本当に褒める、ができたら、もうプロ中のプロだ、とのこと。(先輩談)




谷内六郎さんの水彩にヒントを得る




ずっと、谷内六郎さんの絵は、油彩なのだ、と思っていた。
それは、私が子どものころに親が買っていた「週刊新潮」の表紙を見ても、そう思っていたし、その後もどこかで見かけるたびに、油彩だ、と思いながら見ていた。

しかし、それが、水彩だと知って、あらためて衝撃だった。
厚紙に、水彩
たまにろうけつ染めや、レース布を使ったり、和紙を使う作品もあったようだが、ほとんどは水彩だったそうだ。

谷内さんの作品集があったので、じっくり見せてもらう機会に恵まれた。

雪。
空。
それも、夜の空。
夕方、夕暮れの空、雨の空。

どれも、油彩のように、厚ぼったく、丁寧に、ていねいに、塗り当てられている。
色が、重ねて、重ねて、置かれている、ように見える。


谷内六郎さんは、病気がちで体が弱かった。
呼吸器のことで、何年も、治療に専念したという。

「いつ死ぬかわかりませんでしたから、一枚一枚が遺作になるわけです。ですから、いつ死んでもいいように、遺言みたいなつもりで描いていました」
という意味のことを、あるところでおっしゃったそうである。

一つ一つ、筆をおく。生涯本気で描き続けた渾身の色づくり、である。そのときの、集中度はいかばかりであったことか。

谷内六郎さんの色づかいは、しんしんと、ふりつもる雪をかくときや、夜の空を描くとき、古い塗り壁の色の変化を描くときなど、とても水彩とは思えない、奥深さや背景を感じさせる。
油彩だろう、と思いこんできたわけだ。


私が、水彩のことを、きちんと知らなかったのだ。
自分の小学生のころからの体験で、水彩というのは薄く、水で溶いて、サーッとうすくぬっていくもんだと思い込んでいた。
NHKの教育テレビで水彩画教室をやっていたが、そこでもまた、絵の先生が山の景色を、木の枝なんかを、淡く淡くサッサッサーと塗っていた。

そういうものだ、と。
水彩は、淡いものだ、油彩のように、あつぼったく、塗りこめていく、色をかさねていくのではない。チューブからひねり出したものを、そのまま塗っていくものでは、決してない、と決めていた。

こうするものだ、と決めていたこと自体が、思い違いだったわけだ。
決めつけられないものを、決めていた。それが、間違いであった。


要するに、私は、こういう絵を、こどもに描かせたい、と思ったのだ。
筆をおくたびに、集中した心が、あらわれてくるような絵。
色が、ガツンと、表示されるような絵。

淡い水彩、ペンキのように、サーッと塗る水彩画は、大人になって趣味でやればよい世界。
この子たちの、心のエネルギーを育てる水彩画は、谷内さんのような、渾身の気持ちが込められるような、絵だ。

まるで油彩のような、絵。
「見つめて描く」絵。
それが、4年1組のめざす水彩画だ。




初任仲間のピンチ




初任仲間から、携帯メールにSOSが入った。
もうだめだ、という。
すぐに、とにかく集まろう、と連絡。
金曜の夜。何人か、本人の承諾を得た、気心知れた初任仲間を集めた。

詳細に、話をきく。

学級がうまくいってないという話は、すでに聞いていた。
初任で、いきなりの高学年。
たよりの学年主任はまだ若手。苦しんでいる隣の学級まで、手がまわらない、といった様子らしい。
これまでも事件があり、他のベテランが持ちたがらなかった学年。
初任に、それが、まわされたのだ。


ファミレスだと、他人の耳に入るかもしれないというので、急きょ、カラオケボックスに入った。歌が目的なのでなく、じっくりと話を聞くためだ。
とにもかくにも、座るやいなや、話をきこう、となった。

えらい。
彼女は、学級の具体的な事実を、レポートにまとめていた。
自分なりに、客観的に分析したい、と思っているようだった。

学級の荒れ。
なにが、原因なのか。
それはむずかしい。
さまざまな要因が、複数からんでいるからだ。
だから、そういう、原因を一気に解明しよう、というアプローチは避けよう、と話した。
コストがかかりすぎる。時間も、体力も、気持ちも。

だから、こう考えてみた。
どこから、いつからが、ターニングポイントになったか。

まだいける、という感覚があったとき。
そうではなく、もうだめか、となったとき。
その境目。


それを聞いたら、徐々にわかってきたこと。

つまり、初任者の会合のために出張していたときに、ある事件が起きていた。
それは、授業に補教で入った、教頭が引き起こした。

教頭は、本来ならば書写の授業をする。
しかし、そうではなく、こどもたちと、クラスのことについて、話し合った、というのだ。

「今のクラスの現状を見ていて、必要だと思った」

あとから教頭から聞かされたそうだが、事前に、担任には何の連絡もなかった。
あとで聞かされたことだった。

担任のいないところで、クラスのこと、学級のこと、担任の先生のことについて、話し合った、というのだ。
そして、何を引き出したのか。

子どもたちの、不満を引き出した、というのだ。

「まず、不満を出させないと、パンクすると思った」

これが教頭の言い分だ。

「子どもとの信頼関係をつくりなおす必要がある。そのために、まずは子どもたちの生の声を直接聞く必要があると考えた」


そして、アンケートまでする。

子どもたちからは、担任への不満、学級全体への不満が、ぶちまけられた。

子どもたちのわがまま、逃げ、責任の転嫁、担任への不満、そういったものを、紙に書かせたのである。

まじめな子たちまで、そういったことを書いた。
あとで担任のもとを訪れたまじめな女子。
「教頭先生が、そういうことをかけ、というのだけど、書くのがつらかった」
と言ったそうだ。

そして、この時間のあとから、
問題行動がエスカレートしていく。
担任を見る目が、あきらかに、変わったものに感じられるようになった、という。
まじめな子で、協力しようという姿勢のあった子まで、まともに見ようとしないようになった。
どうせだめだ、というあきらめムードが生まれたようだ、と。



アンケートに、先生を変えろ、と書いた子。

それを、書かせてしまった教頭。

こういう意見を、受け止めていく、と約束してしまった教頭。

許せない。




初任は行事がつらいです




週案を書いていたら、なんだか悲しくなってきた。
行事だらけ、である。

毎週、特別な企画がある。

○PTA祭り
○お話会
○クリーンデー(地域掃除)
○遠足
○福祉体験学習
○地域交流
○音楽鑑賞会
○合唱大会
○個人懇談
○授業参観・・・。

書いているだけで、疲れてくる。。。


これ、ぜんぶ、本当に必要なんだろうか、と考えてしまう。
ぜんぶ、やらなきゃあかん、のか。


そこに、さらに、教頭から声が。

「○○主任宛てで、こんなの(FAX)が来てるけど・・・」


視聴覚主任の研究集会だそうだ。
△△小学校での会合連絡。

出張扱いだ。
また、これで金曜日の5,6校時がつぶれる。

さらに、初任者研修。
校内研究の授業発表。
指導主事が、初任者の授業を見に来る、など・・・。


これらが、12月上旬まで、毎週、つづく。毎週、だ。


このシステム、仕組み、尋常ではない、と思う。

初任者で、つぶれる人が出るのも、不思議でない。

SOS、を発信する人がいないのだろうか。
こんなところ(BLOG)で書いてみたところで、何も変わりはしないと思う。
しかし、面と向かって、誰にいえばよいかもわからない。

校長か?


教頭先生は、
「たいへんだなあ。よくがんばってくれているなあ」
を繰り返す。

「行事だらけで、授業どころじゃないです。行事って、これ以上、減らないんでしょうか。」

それを聞いても、笑っているだけです。
お立場があるのでしょうから。


これ、みんなが通ってきた道だから、仕方がない、ということなんだろうかなあ・・・。




図工 色づくりか構図づくりか




木々をじっと見つめて

という単元があり、校庭の木を水彩で描く計画をしている。

ところが、この単元での目的、目標が、いまだ決まらない。

というのは、これまでやってきた通り、色づくりをメインにして、八つ切りのさらに半分の紙に丁寧に、ぬっていくのか、どうするか、迷っているからだ。

他の学校の先生の、ある実践を見せてもらった。
ベテランの男の先生だ。

大きな画板を首から下げて、子どもたちが校庭に散っている。
思い思いに木を見上げて、全体の構図をどうやってとろうか、えんぴつで苦闘している。
えんぴつは4Bを持ち、消しゴムがなくなってしまうのではないかしらん、というくらい、こどもたちは、書いては消し、書いては消し、とくりかえしている。

つまり、木の幹と葉と、枝と枝の空間と、それぞれの間合いの取り方が非常にむずかしいのだ。
構図が、きちんとおさまるまでに、そうとうな時間がかかる。

後日、その作品をみせてもらったが、なるほど、構図はなかなかのものだ。枝のしなり具合や重なり具合など、苦労してがんばったなあ、という作品が多い。
その代り、絵具で塗る時間はほとんど残らなかった。
1時間+α、しか。

だから、単色で、スーッとぬっただけ。

水彩だから、これでいいのだ、という感じだ。


これを見て、「うちの子たちにはどうかなあ・・・」
と思うのだ。

構図は難題すぎないか・・・。

それよりも、自分の色をつくりながら、面を塗っていく、これまでのスタイル。
これを、4年生になっても継続していくことの方が、合っているのではないだろうか・・・。

塗り絵、線の中を塗るやり方は、いつもやっている。
目にするイラスト、漫画、アニメは、つねにそういうスタイルだから。
お絵かき帳や自由帳に書くイラストは、線画だ。
それが悪いわけではない。
線画は日本の特徴的な文化ともいえる。

しかし、やらせたいのは・・・。


構図をうまく、写実的にとることが目的ではない。

対象にせまり、その「感じ」を、受けて、自分で味わい、のみこんで、絵にあらわしていく。
写実でなくてもよい。正確でなくてもよい。
そのものにせまった、その子なりの、証を、絵にあらわしてほしい。
そして、似てもいい、似てなくてもいい、しかし、木そのもの、味わった木そのものを、描こうとして書いてほしい。

やはり、色づくりメインだな。
八つ切り画用紙の半分。色つき画用紙で、背景は塗らず。
しぶい色の画用紙に、ていねいに、色をおいていく。
これだな。

木の、全体は要らない。
土と根っこと、幹の半分まで。
これだけで勝負。

それ以上は、中学校でやってもらおう。




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