ツァラトゥストラはかく語りき。
初任者の悩みについて。
小学校教師の男性教諭は、ふだん、どんな服装をしているべきであるか。
そも、このところの急激なる気候の変化と寒暖の差は如何。
上着を羽織るべきか、それともぬぐべきか。
はて、上着とは何を指すや。
スーツか。はたまた、ジャージ。ウインドウブレーカーなるものか。
ポロシャツは如何。
ドレスシャツが定番と聞くが真なるか。
ボタンダウンでネクタイ無し。
ネクタイ無し、どうも落ち着かない。首元が。
茶系のスーツは鬼門。そんなのめったに見かけないが???昨シーズンよく見かけた色のスーツ。秋冬は暖かで、やわらかい印象だ。
どうだろうか?
ジャケット×パンツ。
高校教師か予備校教師、塾講師ならほとんどがこれ。
小学校教師でも、可?
それとも、やっぱり、Tシャツ、ポロシャツに、ジャージ?定番かなあ。
以前勤務した学校の校長は、ジャージでいい、と何度もおっしゃった。
それは、
「ジャージでいい」のか、「ジャージがよい」のか、本当に判断に困る言葉づかいであった。
しかし、何度も
「ジャージ、ジャージ」とおっしゃるので、校内のほとんどの先生はジャージ姿であった。
でも、なんだか、気合いが入らんのですよ。
ジャージだと・・・
初任者は、こんなところから、気をもんで、気を病んで、気になってたまらないのです。
2008年09月
視聴覚担当であるから、運動会でも放送が仕事。
放送の前日テストはOK。
当日は、早朝から機器設置、放送委員会の子の指導が主である。
その日をむかえてしまえば、あとは子どもたちに任せる部分が大きい。
うしろで相当なトラブルだけを用心し、控えているだけだ。
一か月ほど前から、すなわち、夏休みの終わりごろから、準備がスタートした。
基本は、放送プログラムの立案である。
各学年のプログラムについては、入場時、競技中、退場時、と3つの音楽が要る。
その音楽をどうするか、プリントをくばって、記入してもらう。
それに見合った内容の音楽を入手したり、テープ音源しかないものをCD化したり、音の準備が主な仕事になった。
音源がすべてそろうと、当日のプログラムに即して順序を決め、編集しなおし、あとは子どもたちと練習である。
それにしても、今の子たちはCD等の扱いはが大得意。教室にCDデッキがあるから、何も言わずともすでにあれこれ操作ができる。
さて、当日。
自信をもって用意したCD。
ばっちり音楽が流れて、首尾よくいった、と思っていたら・・・
ある表現ダンスの曲が、どうも音がよくない。
ダンスがはじまったのに、音が大きくなると割れてくる。
「音がわれてる!」
ボリュームをしぼると迫力がでないし、上げると音が割れるし、さんざんであった。
当該学年の先生には平謝りであった。
本当に申し訳なかった。
音をすべて任されているのに、それにこたえることができなかった。
あとで振り返ると、おそらく前半の太鼓の音をもっと大きくしようと、SoundEngineというソフトで編集したのだが、それが裏目に出たのだと思われた。
うーん。
同じあやまちを、二度と繰り返さないように。
朝、子どもたちが教室で本を読んでいる。
始業前は読書をしていなさい、と話しているからだ。
そこへ、ほぼ毎日、きまったリズムで、
「おはようございます」
と入っていく。
最近、この挨拶の声を自分で注意して言えるようになった。
ついこの間までは、朝の型がなかった。
その日その日で、歩調も、声も、セリフも、毎日変わっていた気がする。
ひどい話、と思うのだが、臨時採用1年目の年には、後ろの入口から入る日もあった。
(子どもにとっては、わけのわからん行動をとる先生だと映っていただろう)
以前、農業をやっていた。
小学校教師をやればやるほど、農業を思い出すことが多い。
たとえば、朝の歩調。
職員室を出る。ろうかを歩いてくる。
曲がり角を折れて、特別教室を通りすぎ、クラスの後ろの扉を通り過ぎる。
ここで、何人かの子どもが気づき、それが波及して、教室の空気が少し変化する。
間髪をいれず、前の扉からわたしが入ってくる。
そして、「おはようございます」
これが、養鶏をやっていたころと、ずいぶん重なるのだ。
午後一番、餌やりをする。
平飼いの鶏舎がならぶ農園の、出発点から台車を引っ張り、きまったコースを歩く。
一番最初に、餌をやる連は必ずここ、と定まっていた。
台車の一部がコンクリートにこすれる音がすると、餌だ、とトリが反応する。
間髪をいれず、「入るよ」と、扉からわたしが入ってくる。
そして、餌袋をひっぱりあげながら、かならず同じ箱から餌を入れて、同じように部屋を歩いた。
歩数まで一緒だ。動作も同じ。
これは、やればやるほど、同じになってくる。腰のかがめ方も、声の調子も、餌袋をぴっとのばして、台車に積み重ねていくのも、おそらく一緒だ。
午後一番。この作業を、5年ほど続けた。
最初は、25連を終えるのに、1時間以上かかった。鶏舎2棟分をやるのにたっぷり2時間かかっていた。
それが、2年目、3年目、と速くなり、30分でぴたりと決まるようになってくる。
決まるようになると、ほとんど、ずれがなくなるのだ。毎日、おそらく数分もずれない程度に、型が決まってくる。
こうなると、鶏の気持ちが安定するのか、産卵も安定するし、病気にもかからなくなる。鶏が、人間を信頼しはじめるのだろうか。
1年目は、おそらく余計な動作がたくさんあったのだろう。
その動作が、だんだん削られていって、「型」に昇格していったのだろう。
朝、教室に入る際の、あるいは入ってからのほんの数分。
これが、「型」のようになってきた、ということが、自分には成長だと思える。
先生は「先生」としてぶれない。朝から、そうでありたい。
教室に入るなり、目線を届ける位置。
異変がないかを即座にキャッチする目の力。
そして、笑顔と、はりのある、「おはようございます」の声。
声を意識するようになると、関連して他のことも気をつけるようになった。
それが、「型」の意識につながった、と自分では思う。
運動会で、赤組白組に分かれる。
対抗戦だ。
もりあげるのが、応援団。
応援してもらうと、力が入る。
わたしも、大好きだ。
ところで、運動会が一番、盛り下がるところがある。
ここが、いつも、くやしい。
なにかというと、応援団のつくる、応援歌だ。
この応援歌がむずかしい。
歌詞表をみるならばいざしらず、記憶して歌えるところまで、歌いこんでいない。
うろおぼえで、てきとうに歌うしかない。
だから、小声になる。
応援団でさえ、なんとなしに、小声になってしまう。
昨年も同じことを思ったのだが、今回の練習でも、やはり、声が小さい。
これでは、また盛り下がることになろう。
もうすぐ本番だというのに、なんだか・・・と思ってしまう。
私の立場からできること。
いろいろあろうが、今のクラスで、何回も歌うことかな。
まず、担任である私が、覚えることかな。
そう思って、何度も覚えようとするが、やはりこの歌詞の長さ・・・
そして、慣れない曲に、「徒労」の二文字が脳裏を去来する。
応援歌は、なくてもいいんじゃないか・・・
こわくて、誰にも言っていない。
職員室の常識、というやつだろうか。
初任のくせに、といわれるのが怖くて、誰にも言えずにいる。
しかし、ずっと、思っている。思い続けている。
応援歌、なくてもいい。
初任だから言えずにいる、という私のこの臆病が、すべての根底にある以上、なにかこう、ガラスが曇ったような、すっきりとしない状況が続くのだろうな。
叱られてもいいから、こう思う、と言えたらいい。
結局、叱られるのがこわい、というだけか。
自分ながら、なさけない。トホホ、だ。
給食のあと。
そうじを見て回った。
「しっかりやってるね~」
背景がある。
2学期に入り、掃除分担を変更した。
一人ひとり、掃除する場所を変えた。
心機一転、校内のさまざまな個所を掃除している、はず。
ほめてまわろう。そう思って見回った。
わが校はクラス数が少ない。
そのわりに、20年前マンモス校だった際のなごりがあって、校舎が多く、教室も多い。
必然、掃除区域が多くなる。
1年生以外は、特別教室の掃除や長い廊下の掃除が課され、そうじ時間には校内のいたるところから子どもたちが湧いて出てくる。
遠く離れた棟のトイレに行った。
わがクラスの、掃除区域なのだ。
Fさんが、ほうきを持って、掃いていた。
まだやり方を教わっていなかったらしく、顔を見せるとすぐに
「先生、ほうきで掃いたら、どうするの?」
と聞いてきた。
こまごまと伝えることを伝え、ふと気になって、大便のところ、扉を開けてみた。
すると・・・
糞まみれ、である。
Fさんもびっくり。
「なんだこれー、まだここ開けてなかった」
わたしも、その光景を見た瞬間、
「なんてことだ。どうしてこのままにしておくのか。自分で始末しないのか。どうしてこんなに汚れるのか」
といった思いが、次々に出てきた。
棟がちがうので、めったに他の生徒はこないんだが・・・。
しかし、そのあと、アッ、と思った。
ここは、支援教室のすぐ横、である。
支援教室の児童が頻繁に使う。
そう思ったとき、一人の男子児童の顔が浮かんだ。
先日、引っ越してきたばかりの、Dさん。
慣れないトイレで、苦労して用を足そうとするDさんの姿が目に浮かんだ。
知的障害があり、キャーッと叫ぶDさんの声。
朝会で体をゆらしながら、のけぞるようにジャンプする。
オウム返しに、こちらの言葉を真似する。
口をあけたまま、支援の先生に体ごとぶつかっていくDさん。
どういう対応をとればよいか、困惑する支援の先生。
おそらく、支援の先生は、トイレまでご覧にならなかったにちがいない。
高学年である。
高学年の男子児童。
トイレの大まで、つきあわなくても、そのくらいできるだろう、と思う。
自分がその立場であっても、そう思ったろう。
Dさんは少し落ち着かなくなると、支援の先生をたたき始める。
「痛いです!やめてください!」という女性の声が聞こえて、教頭があわてて飛び込んだら、支援の先生をDさんがバシバシ叩いていた、という話も聞いた。
大柄の教頭が入っていくと、その行為が止んだので、
「あの子は、男の先生とか、この人にはかなわないな、と思うと叩くのをやめるんだ」
とのことだった。
支援の女先生が、高学年男子の大便につきあわなかったのは、もっともである。
ふだんから、叩かれて、蹴られて、痛い目にあっているのだ。
トイレにまでつきあうことはないだろう。
Dさんがトイレに行くとなったら、内心、誰もが、同じ立場を経験したなら、ホッとすると思う。
「トイレですか、どうぞ行ってきてね」
と、言うだろう。
どうしたらいいのだ。
応援団の練習がある。
昼休みが迫っている。
CDラジカセを持って、体育館で練習することになっている。
どうするか。やめるか。
迷ったのは一瞬。
今、やらなければ、いつやるのだ。
Dさんが、この後に、くるかもしれない。
Dさんは、毎日、このトイレで、用を足そうとしている。
これほど、毎日の便が、折り重なって、こびりついているのだ。
今やらなければ。
デッキとぞうきんで、こすりながら、想像以上にこびりつきがすごいのに驚いた。
便器の周りにまで、便が付着している。
ということは、便のついた上履きか、ズボンか、パンツか、何かでここらをこすっているのだ。
ふたを上げると、その裏にもある。
サッとついたのではない。
えぐれた部分に、塗りつけたように・・・。
拭きながら、なんだか涙がこみあげてきた。
どんな姿で、ここで過ごしていたのだろう。
彼にとってみれば、慣れないトイレで、用を足すのはかなり苦痛だったのではないだろうか。
彼の、安心できる空間であったのかどうか。
なにか、Dさんにとって、よほど困ったことが起きたに違いない。
本当は、わからない。
どんな事情で、こういうことになったか。
もっと別の子かもしれない。
であっても。
ここで、その子は、困った、と、 ホトホト困惑したにちがいないのだ。
何度も、水を流した。
デッキの先の柄の部分で、こすりとらねばならないところもあった。
トイレの紙をぐるぐると取り、その上から、爪の先で、こすった。
始業式から、何日経ったか。
その間、一回でも、このトイレを見にきた、大人はいなかったのだ。
彼は、孤独だったろう。
大勢の子がいる。
困っても、助けてくれないと思ってしまっただろうか。
大人は、信頼されているのだろうか。
「そのとおり!」
このセリフが、少し、感覚を変えた。
算数の授業中。
4年、小数。
小数の定義を言わせて、再度確認したときだ。
Hさんが定義をしっかりと復唱し、わたしは心から「よく言えた!」という気持ちでもって、
「そのとおり!」
と言った。
そのとき、なぜだか、「ある状態の」笑顔が、自分の表情になっていることに気付いた。
それは、笑顔トレーニングで、毎晩風呂の中でやっている笑顔だ。
○ほおぼねを意識する。
○顔に大きな丸があると意識する。
○口角があがる。
○目は、息子のかわいらしいしぐさを思い起こすときの、やわらかい目。
この表情をしたくて練習中なのだが、いつもはかなり意識しないとできない。
それが、授業中に、一瞬にして、できた。
このことが、うれしかった。
またできるかな、と思って、その後、5分休みに子どもと話しながら、その顔をやってみた。
これまた一瞬で、その顔になれた。
ところが、次の日は、それがなかなかできない。
スケジュールがころころ変わり、余裕がなかったからか。
いや、まだそこまで練習の成果が到達できていないからだろう。
どんな余裕のない状態であっても、笑顔が出てくるように、なってみたいものだ。
今回とりくんでいる笑顔は、目がポイント。
今までの笑顔は、ほおぼねよりも下ばかり意識していた。
口角をあげることだけで満足していた。
今回は、目がポイントだ。やわらかい、包み込むような眼になっているかどうか。
眉に余計な力は入っていないか。
すこしずつだが、前進していこう。