教師として一番大事なことは何か。
教室がよくなること。
子どもたちが言うことをきくこと。
落ち着いた態度で子どもが授業を受け、友達を思う態度で学級をつくりだす、こと。
こういったものが実現すると、うれしい。
・・・というレベルではないだろう。
結果、報酬、自分の頭の中の価値基準モノサシに合う、良いものが得られれば、それでOK、・・・・ということではない。
それは、「自分が正しいとか良いと思うことが実現すれば嬉しいという次元」だ。
わたしの感覚で、「よい・悪い」を決めようとするから、無理がある。
子どもの本当の事実はどうか。
そこを見る力がないから、不登校になったらひどく落ち込む。保護者に何か言われた、ひざがガクガク。表面の出来事を何とかしようと焦って対応し、本当の子どもの事実からますます遠く離れていく。
子どもがちょっと素直になったと思うと、とたんに喜ぶ。
今日よろこんで、明日落ち込む。そのくりかえし。
表面、うわべ、現象だけ見ている。
「○○ちゃんはいい子だ」
「Aさんはこの頃、だいぶよくなった」
「Bのやつは、本当にどうしようもないな」
いい子だと思っていた○○ちゃんが、意に沿わないことをしたら、どうするのだろう。
この頃、だいぶよくなった、と思っていたAさんが、自分の考えにそぐわないことをし始めたらどうするのだろう。
あんなに立派で、落ち着いていた、と思っていた学級が、荒れ始めたら、どうするのだろう。
豹変するのだろうか。
Bのやつは、本当にどうしようもない、と心の中で切っていたら、ふとしたはずみに、Bさんの「立派な行い」を知った。
どうするのだろうか。
豹変、豹変・・・。
わたしの感覚、「良い・悪い」が、それほど確たるものか、どうか。
そんなにあてにできるものなのか、どうか。
真実かどうか。
Aだと思う、Aだと感じる。
だから、Aだ。
Aにちがいない。
きっと、Aだ。
・・・Aだと思う。
・・・・・・・・Aだと思うんだけどなあ・・・・・・
本当にそうか。
感じるとか感じないとか関係ない。真実かどうか。
自分の考えに合っているから、よろこんで、合わなくなったら、とたんに逆の反応をする。
AがあるとBとなり、反応しているだけ。
反応だけなら、リトマス試験紙にもできる。
表面の現象に重きをおいているから、せいぜい、「反応」くらいしか、できない。
本質的なものに重きをおく、とは、どういうことなのだろうか。
一時的でなく、普遍的。
表面よりも中身。
現象面を見るのではなく、その子の本当、事実、実際を見る。
その子の中の一時的な思いや考え、でもない。その子の、本質をみる。
そういう教師になったら、子どもにはどう映るのだろうか。
どちらの先生に受け持ってもらった方がいいだろうか。
子どもが本当に幸福なのは、どちらだろうか。
本質を見る力は、どうやったら身につくのか。
ひとの本質・・・。
言っていることよりも、行いが重要で、行いよりも、その人の中身が重要。
あの人は、ああ言っているから、正しい。
あの先生は、ああ言っているから、えらい。
言っているから、えらい?正しい?
あの人は、ああいうことをしているから、正しい。
あの先生は、ああいうことをしているから、良い。えらい。立派だ。
・・・・・・・。
はたして。
言動はそうかもしれないが、果たして、その人の実際は。
その人の本質は、中身はどうか。
なにかあると、サッと豹変してしまうのであれば、錯覚にすぎないのでは。
どんな状況であれ、どんな人とであれ、変わらない中身・方向があるのかどうか。
問いにもどる。
教師として一番大事なことは何か。
言動?いや。
言っていることとか、やっていることとか、そういうものを一切抜きにしても、隠しても隠しようのないところに、こんなところにまで現れてきてしまうもの。
表わすものでなく、表われるもの。
その子を、本当に大切にする、ということ。
それも、豹変しそうなのではなく、安定、安心の人。
本当に信頼される先生。
自分は豹変しそうではないか、どうか、常に顧み省み、自分も人も本もの本当のものを目指す態度。
2008年08月
知人から電話があり、会うことにした。
転職を考えている、という。
30代だ。
30代転職の経験を話せ、という。
「やりたいことをやったらいいじゃないか」、という簡単な返答では満足できず、いろいろと話をする。
お互い忙しいから、駅前のドトール珈琲で。
注文も早い。
「ブレンド」
と、ひと言である。
これが女性だったら、
「えっと」
と言いつつ、メニュー表をじっと見詰めることになるだろう。
お互いに、中年の親父になってきているのだろう。
めんどうくさいことには、思考が働かない。
こっちも同じだ。
「2つ」
とひと言。
つまり、ブレンドが2杯、ということだ。
店員さんが、
「お会計はご一緒ですか」
「別で」
ちょうどの金をすぐ支払う。
もうすでに、店に入る直前から、ブレンドコーヒーの価格が目に入っているのだろう。
用意が早い。
こういうことを見ていると、お互いに、年をくったなあ。
という感慨が湧いてくる。
それに、おそらく、彼の日常生活もかなり多忙なんだろう。だから、いつもこんなテンポで忙しく生きているのにちがいない。
会うなり、
「どう」
と始まり、
「実はね」
と本題に入る。
お互い、相手の時間を気にしている。
だから、話している時間は楽しいし、いつまでも話していたいのに、ぐっとこらえている。
30代転職。
もっぱら、聞き役だ。
彼なりの、ライフプランを聴く。
教師をめざすのではないが、教育に関連した仕事だ。
子どもから大人まで、幅広い層を対象にした、教育サービス業、というもの。
今の仕事をしながら、大学に通って勉強を続けてきた。
このあたりも、自分と似通っている。
5年計画だ、と言って、始めていた。
それが、もうそろそろ、終わる。
お互いに、相手の進路、考えを、ずっと気にしていた。
参考にし合ってきた。
彼は、私の教師をめざす、という夢をずっと応援してくれてきた。7、8年前は、同じように私の話すライフプランをじっくりと聴いてくれた。今日は、逆の立場だ。
こういう下地を大事にしあう仲だから、人間関係の貯金が、貯まっていく。
信頼が増していく。
話も終盤になったころ、どうしても言いたくて言った。
「いっそのこと、教師をめざしたら」
本当は、興味もあるのだろう。
こちらの話も聴いてくれる。
だが、今ははっきりと、夢がある、とのこと。
彼のような人と、いっしょに職員室でやれたら、と思ったのだ。
しかし、それは、おそらく人間関係の信頼の貯金が、彼のようにたくさんある人と共にやっていきたい、ということなのだろう。
そのくらい、互いに信頼しあえる仲というのは、貴重なのだろう。
今の職場で、彼のように、信頼しあえる仲の仲間をつくっていくこと。
何があろうと、支えていける、という人をつくる、ということ。
いざとなったら、手のひらを返したように態度が・・・
という仲であったとしたら。
そんなレベルではとうてい、真に安心した職場とは呼べない。
人間の一生。
生涯において、本当に力を発揮できる空間を得たいのならば、今の職場だ。
職場を、本当に、信頼しあえる仲間の空間にしていくことだ。
初任者の立場から、それをやっていく。
30代転職をめざす彼と、最後はそんな話をして、わかれた。
コーヒーショップを出ると、駅前の街路樹が見える。
暑い陽ざし。
赤レンガの舗道に、木の葉の陰。
すっと背すじが伸びたような、彼のうしろ姿を見送ると、多くの仲間たち、30代転職組の健闘を称えたい気持ちが湧いてきた。
先生のためのボイストレーニング、という講習を受けた。
最初に、なぜこうしたトレーニングをするのか、
どのような効果を求めるのか、という趣意説明があった。
○健康の為
○指示を通るようにしたい
○カラオケがうまくなりたい
いろいろと効果がある、ということだった。
中でも関心をもったのは、おどろくべき健康への効果、である。
教師は身体が資本。(みんなそうだ)
腹式呼吸が身につくと、鼻で呼吸するようになり、免疫系、副交感神経が活発になり、風邪をひかなくなる、というのだ。
本当かどうか。
あとは、声が通るようになる。
無理がかからない発声ができるようになり、声がれ、などがなくなる。
呼吸器に無理がかからず、これまた風邪をひかないようになる、というのだ。
本当かナァ。
ためしに、と先生がいくつかの発声をしてみせてくれたが、なるほど、腹式と胸式とでは、声の通り方やひびき方、印象までちがってくる。
「大丈夫ですか?」
というセリフを、胸式、腹式、で交互に実演して見せてくれたが、目をつぶって聞いていると、
「あ、自分に向かって、だれかがちゃんと話をしてくれているな」
と感じるのは、きまって、腹式呼吸でかけられた声だったのである。
腹式呼吸の声になると、なんだか、しっとりとした感じがする。また、響く。
響くから、小さな声でもよく通る。
教室中に無理して声をひびかせよう、と力まなくても、遠くの席まで声が届くのである。
この、
「届く」
という感覚が、学べたのは大きな収穫であった。
また、声帯の使い方、高音域を出す際の声帯位置、低音域を出す際の声帯位置、を確認した。一度これを理解すると、首や身体全体に、余計な力を入れなくてすむらしい。
脳が声帯のみ意識するようになるので、首などの筋肉に、「力め!」という命令がいかなくて済むようになるらしい。
実際に、講座を聞いてから、低音⇒高音、と声をだんだんとあげる練習をしたが、高い音を出すときにも非常にリラックスできる。
今まで、高音を出そうとすると、無意識に首が上を向き、「はりあげよう!」といった気持ちになっていたが、そうでなくても、ちゃんと高音が出る。
これも実際にやってみると自らの体の変化が如実にわかって、非常に楽しかった。
実際に行われたトレーニングは、以下の通り。
○胸式で深く息を吸う練習
○腹式で弱く、鼻から吸って、ハア、と息だけ出す。
このとき、おなかに片手を軽くのせておいて、意識をおなかに向ける。
どちらかというと、吐く、という意識があった方がよい。吸うのは、身体が勝手に吸ってくれる、というくらいに考えたほうが合っている。
○腹式呼吸をだんだんと強くする。ハア、の息に、声をのせていく。
○だんだんとはっきりと声を大きくしていく。
このときに、また首やのどに力を入れてしまいやすい。おなか、おなか、と意識を途切らせないように気をつける。息を吐く、たくさん、息を吐く。そこに、声をのせる。
○4拍、ハ、ハ、ハ、ハ と短く強く息と声を出す。5拍目に、鼻から吸う。
4拍のハとハの間は、おなかがしっかりへこんでふくらむ。腹筋が痛くなるくらい。
○上を繰り返す。合計、10拍となる。
○4拍、ハ、ハ、ハ、ハと出して、4拍目についでに吸う。
○上を繰り返す。合計、8拍となる。
○指をのどぼとけ、声帯のところに当てて、低い音から高音へ向けて、ハアーーーーと上げて行く。声帯の移動がわかる。
○逆。高音から低音へ。
○「ハイ!」の特訓。腹式呼吸の発声で、「ハイ!」が言えると、印象が変わる、という。
本当に、ちょっと腹筋が痛くなるくらいのトレーニングでした。
でも、とても大きくはっきりとした自分の声をきいて確認することができ、役立った。
「いいですよ。腹式の声になっていますよ。」
と先生にも言ってもらえたのが、自信につながった。
毎日、毎日、この訓練をすることで、80歳のおばあちゃんの声が、まるで30代の人の声のように聞こえるようになった、らしい。
これらの効能は、すべて先生が、トレーニングの合間に、話をしてくださったことだ。
声帯のまわりを支える筋肉は、すべて訓練しだいでどんどんやわらかく、動くようになるのだそうだ。
また、鼻呼吸と腹式呼吸は深いつながりがあるようで、ぜひとも鼻呼吸にするように、という話である。それには、口にテープを貼って寝るとよい、とのこと。現に、先生はそうして3ヶ月ほどやってから、身体がそれに慣れてしまって、鼻呼吸にすっかり切り替わってしまったそうだ。人間の身体はそうやって、変えられるのだ、という話であった。
「鼻炎の人は、鼻をつかなわいからだ。両方詰まることはないから、とにかく少しづつでも鼻で呼吸するくせをつけていけば、鼻炎も治る」 と、お医者さんが言っていました。・・・と、ボイトレの先生は言った。
本当かなあ、と思うことの多いトレーニングだったが、自分の身体で実感できたことは疑いようもなく、声がたしかに変わる。録音しても、意識していないときの声は自分でも 「なにこれ」とへんな感じの声に聞こえる。しかし、鼻呼吸でしっかりと腹をつかって、腹式呼吸で発声した声は、録音しても、「あ、これは自分の声だ」 と分かる。違和感がないのだ。
こうした体験も、これまでになかった初めての経験だった。
総じて、充実した学びの多い時間をすごすことができたが、さて本当に生かしていけるかどうか、が問題。
魅力的な声づくり、いつまで続くか・・・。
教員は夏休みほど忙しい、とよくいうが、本当にその通りである。
教室の整理、備品の整理、校務分掌の備品がこれまたすごい。
情報・視聴覚担当だから、やたらと備品がある。
高価そうなカメラとか、ビデオソフトだとか、備品シールを管理する台帳がふくれあがっている。
これらをチェックするだけで、2日かかる。
初任者研修も待ってはくれない。宿泊研修、福祉研修、ごまんとある。
会場が毎日のように変わるので、そこまで行く交通機関や時間を調査するだけでも一仕事だ。「駅すぱあと」が無かったら、とうてい行きつけないのでは、と思うくらいだ。
その合間に行われる、校内で企画された研修。
そしてレポート提出。
町内の盆踊りの見回り。パトロール。
校内研究の資料作り。2学期、3学期の研究発表に向けて、案を練る。これがまた会議室が暑くて・・・。
さて、そんなことでめげている場合ではない。
家族が待っている。
「だって、夏休みなんでしょ!」
嫁が何度、このセリフを口走ったことか。
日頃残業ばかりだから、そのツケがある。家族サービスは必須だ。
(職場には、残業をしないでも済んでいる人ももちろんいて、あこがれの姿だ。しかし、まだしばらくは、その域に達することはできそうにない)
家族サービスばかりではない。
自分に貯蓄をしなければ、ひからびてしまう。
子どもを相手にして、わかったようなことばかりを話していると、だんだんと自分の中が空洞化してくるような気がする。
教える、ということと、学ぶ、ということのバランスをとりたくなるのだ。
自分の学び。
自分自身が、学ぶということ。
夏休みは、自分に貯蓄をする、数少ないまとまった時間なのだ。
もちろん、夏休みだけで1年間が乗り切れるわけではない。日常の鍛錬は絶対だ。
しかし、やはり、まとまった時間がとれる、ということは、いつもはできないことをやるチャンスなのだ。
。。。と意識をしながら、またたくまに、お盆にさしかかってしまった。
研修と、わが子の相手、実家訪問など、そんなことだけでどんどん時間がすぎてしまった。
海でわが子と遊んだのはとても楽しかったし、じいじ、ばあばと、一緒にとりたてのトウモロコシを食べたのは、最高だった。
しかし、ここまで2学期のための準備をぜんぜんしていないのだ。
アカンのやないか、と、ちょっと気になりだした。
といいつつ、昨日はサークルの原稿書きと、採用試験を受ける同僚に付き合って相談に乗って。。。
あっという間に、一日がすぎてしまった。
今日はなにをするかというと、ボイストレーニングを行う。
自費の研修である。
前から、教員として、自分の声を見直したい、とおもっていた。
次回に、その詳細を報告したい。
夏が終わると、気になることがある。
北京五輪のことだ。
教室で、どれだけ話題になるだろうか。
話題にならないとさびしい。
しかし、話題になるとしたら、どんな話題として子どもたちは話すのだろうか。
金メダルの数か。
メダルを取った選手のことか。
テロのことか。
あるいは、ドーピングのことか。
最新の時事ネタというのは耳目を集めるから、授業の導入にもいい。
ちょっとした話題の提供や、共有ということだけでは惜しい題材だ。
この地球規模のイベントを、なんらか、知的な話題に仕立て上げて、一つの授業に出来ないか。
たとえば、道徳の授業。
スポーツのシーンにはいろいろなドラマがある。
知られざる苦闘。
過酷な練習に耐えるモチベーション。
記録にこだわる姿勢。
あきらめない、という生き方を伝えていく。
こうしたねらいをもった教材が様々、できるにちがいない。
また、社会的な観点から。
総合的な学習の時間がよいかもしれない。
オリンピックの歴史を振り返り、スポーツの祭典であるオリンピックが2度の大戦を乗り越えても続いてきたこと。
このことだけでも、学ぶ価値はあると思う。
一世紀前にクーベルタンというフランス人が考え出した五輪の旗。これは戦争や独裁の時代を生き延びながら、それでも人類がスポーツという娯楽を通じて交流してきた、ということの証でもある。
第1回1896アテネ(ギリシャ)から始まり、平坦ではなかった戦争の世紀の中、ずっと人類は五輪の祭典を続けてきた。五輪が生き延びてきた年月を思うと、今回の五輪にも成功なり失敗なり、いろいろな側面はあろうが、人類社会が発展していくための一つの節目になるだろう。
中国については、吉田道昌氏が日本語教師として武漢大学に赴任したときのことを本にしている。(架け橋をつくる日本語―中国・武漢大学の学生たち 吉田 道昌:著)
とあるご縁から、吉田氏から、赴任前や赴任中、そして帰国後にも、さまざまな中国の姿を聞くことができた。
パスポートを投げてよこす、税関でのぶっきらぼうな対応、どちらが客か分からない食堂での対応など、せいいっぱい我を通そうと突っ張ろうとする中国の人の生き様に、複雑な思いを抱いたそうだ。
他を出し抜いても、自分が生きていかねばならない。その厳しさの中で、平然と嘘をついたり、手を抜こうとしたりする。
吉田さんは教師として、中国へ渡った。現地でこうした姿にふれるたび、中国での教育に対する情熱がふつふつと、湧き上がったにちがいない。
やがて、武漢大学の学生は、だんだんと自分を開き、意見を率直に交わすようになり、先生を慕い、敬うようになってくる。このあたりのことが、実にありのままに、著書の中では語られていた。
この著書のように、マスコミではない、一般人の書いた、中国が知りたいのだ。
事実、ありのままを率直に報告した、レポート。
ごくふつうの市民どうしが、どう交流したか。
マスコミの流す、妙なナショナリズムに装飾された文脈で語られる中国像を、本当に信じてよいのかどうか、とても不安になる。
ふつうの人の書く、中国交流レポートが知りたい。これからは、こうした文脈の本がますます重要になるだろう。これは、数少ない、ありのままの事実を書いた、素朴な日記風のエッセイである。
この本でも紹介されているのだが、中国の人は一人ひとりをみると、誠実で、マジメで、国を何とかしたい、あるいは故郷の村をなんとかしたい、と思っている人たちが多いようだ。
しかし、国全体を見ると、市場経済としては巨大化しているものの、マスコミは自由そうでないし、健全なジャーナリズムがあるとも思えない。社会の事件をさまざまな角度でチェックする機能があると思えないところがある。(ギョーザ事件など)
また、いわゆるコピー文化が大手を振ってまかりとおってしまっていることからも明らかなように、市場が洗練された文化を求めているようでもない。
一方で、これらは時間が解決するだろう、という期待がある。そのうちに民度が上がり、中国人どうしが、どんどんとお互いを批判しあうこともできるようになり、コピーで満足せず洗練された自分達の独創を発露するようになるだろう、という期待だ。
この期待に、これから中国という国が挑戦していく。
その姿を見つめることは、そのまま自分たちの国、日本という国を見直していく視点を獲得することにつながる。
こうしたところまで、われわれが自分たちの国の民度をふりかえってみようとするところまで、授業を組み立てていくことができないだろうか。
こうした授業は、政治的な要素が多分に加わる。
今は保護者の目を気にする時代だ。
少しでも批判を受けそうな話は、封印される。
(原子力を扱うことですら、おそるおそる、という空気がある)
中国という国を授業の素材にして扱うのには、覚悟がいると思う。
しかし、隣国なのだ。
隣国を知り、自国を知る。
そのためには、五輪を契機に、子どもたちと共に学ぶことが必要だと思う。
8月の決意。
その子の可能性をみとれる教師になりたい。
現象面にあらわれてくる元を見たい。
自分自身についても。
考えや思いや行動よりも、その元になる、自分の中身、実際を見ていく。
そのためには、常に、自分の「方向」はどうか、と省みる生活の連続でなくては、とうてい。
方向を省みるときに、子どもとの関わりをふりかえる。
授業を、ふりかえる。
授業に、教師の人格、そのものが反映されている。
忍んでいても、現れてくるもの。
その人、そのもの。
それが、授業に出てくる。
だから、「授業」を、考える。
「授業」で、子どもと何がしたいのか。
何をねがっているか、希っているか、が、全て、出る。
「授業」そのものが、自分、そして社会の縮図。
教師修行が要る。
メリット・御利益・効果があるからの修行でなく。
どのような方法であっても、どのような行為であっても、「教師修行」の自覚の上で、自分が何を見て、どこに重きを置いて着眼しているか、本質を見ようとしているかどうか常に省みる。
そういうことの積み重ね。
人の方向、人の中の可能性。
本質をみようとしなければ、自分の可能性も、子どもの可能性も、どちらも見抜けないだろう。
人の可能性をみようとしない教師に、「教師の醍醐味」が味わえると思えない。
模擬授業で自分を鍛えるのも、教師修行の自覚を持つのも、どちらも、結果・報酬を求めてのものでない。人の中の、内在された可能性、秘められた方向を見ることをしたいから。そうでなければ、いくら正しきを目指しても、現象面をいじくったり、とやかく言っている間は・・・。
中身、可能性、方向が正しくなれば、現象面はあっという間だと思う。
わが息子は4歳。
寝る前に、就寝儀式として、お話を聞かせている。
「お話をはじめるよ」
というと、寝る体勢に入るから、とても助かる。
どんな話かはまだ頭になくても、とりあえず、この呪文を言ってふとんに入るのを待つ。
スタンバイしたところで、今日は「三枚のおふだ」の話をした。
模擬授業をしていて、声の抑揚がない、と指摘されていたから、ちょっとそこを気をつけた。
どんな具合か。
・高い声の部分をつくった。(ex.うわー、栗がたく~さんあるぞ!という小僧のセリフ)
・逆に、低い声の部分をつくった。(ex.おい小僧。早くしろ。という山姥のセリフ)
・長く伸ばす声を入れた。
・短く、端的に言うせりふを入れた。
・和尚と山姥のセリフの掛け合いで、和尚はのんびりと、山姥は短くぶつぶつと言うようにした。
とくに、高い声、低い声、というのを意識した。
結果、4歳児がすぐ寝ました。
物語の最後、山姥が豆粒くらいに小さくなった瞬間、和尚が餅にはさんで食ってしまったところから、おそらく安心したのか、ホーッとため息をついて、すやすやと寝てしまった。
安心した、というのと、今日は昼寝がなかった、というのと、いろんな要素がかなりあるのだろう。
しかし、それだけでないと思う。
今夜のお話の、声の抑揚。
高い声があった、低い声があった、それらを交互にできるだけたくさん意識して入れたということも、4歳児の耳には、かなり効果的に入って行ったのではないか。
この実験をしばらく続けてみよう。
教室では、これほどまで意識したことがなかった。
声。
大事にしたい。
「崖の上のポニョ」のオープニング。
とても静かなうつくしいメロディが流れる。
林正子さんが歌う、「海のおかあさん」だ。
画面には、とてもたくさんのクラゲやプランクトンが泳ぐ。
映画館全体が暗くなり、しずかな音楽、ゆったりとしたテンポで曲が流れてくる。うちの子(4歳)をみると、この時点で目がとろんとしてきていた。(その後10分後には寝ていた)
この曲、「海のおかあさん」の元になった詩、「さかな」という詩がある。
覚 和歌子さんの詩集を手に入れた。
「100万回生きた猫」という絵本があったが、ふとそれを思い出す。
何度も生まれ変わる、という輪廻転生。
生命は転生するというテーマが底にある。
詩を読むときは、紅茶が合う。
アイスティーにして、さて、と読みはじめた。
嫁と子は友だちのうちへ。
ひさしぶりの、静かな午後。
こんなふうに、
ゆっくり詩を読めるチャンスはあまりない。
いちばん心ひかれたのが、最後の長い詩だった。
「素晴らしき人生」について、という題だ。
おじちゃん、おばちゃん、へ書いた手紙、という体裁だ。
話者は夏休みにおじちゃんの家へ遊びに行き、そこで考えたことをふりかえりながら、おじちゃんおばちゃんへ手紙を書いているのだ。
お元気ですか
東京に帰ってきて もう三日
相変わらず ずうっと三十度以上の日が続いています
こんな書き出しで始まる。
その中に、こんなフレーズがあるので、これで1時間くらい考えた。
人生はそんな甘いもんじゃないんだから とか
働かざるもの食うべからず とかは よく聞きます むかつきます
この箇所で、はたと目がとまって、そこから進まなくなった。
「人生ってけっこう甘い」
というコピーを考えて、ソフトクリーム屋の開店チラシをつくった時のことを思い出した。あのとき、開店直後の店の前で、チラシをくばりながら何度も汗をふいた暑さが忘れられない。
新店長となった友人Uがクーラーの効いた部屋から何度も出てきて、
「暑いね、だいじょうぶ」
とこっちを心配していたのを思い出した。
新店長の友人Uが、ソフトクリーム屋をすることになった、と知らせに来たのは、1ヶ月ほど前だった。
「ついては」
Uは、張り切った笑顔で言った。
「どうやって広報するか、考えたいんだけど」
白いTシャツにプリントをして、スタッフにくばることにした。
その図柄とコピーを考えてほしい、という。
当時、会社の広報部にいた私に、アイデアをくれ、というのだ。
それまでも小さなイベントのコピーを考える仕事をしていたから、おもしろがって相談しに来たのだ。
そこで、あれこれ考えた挙句、
「人生って、けっこう甘い」
というコピーが採用されたのだ。
当時、このコピーを考えるときに友人と、人生をよく語り合った。
ふりかえると、お互いに苦労してきているようなのだが、当人はぜんぜん苦労と思っていなかった。ずっと楽しんできたなあ、まるで春の日のような心地よさが、人生全体に流れていたなあ、と感じていたのを、ふたりで
「お前もそうか!」
と意気投合したのを思い出す。
「俺たちは、愛されてきたなあ」
さかなの詩から、アイスティーを飲みながら、なつかしい20代を思い出したのだった。
窓の外を見ると、日傘をさした女の人が歩いている。
おまつりで買った風鈴が鳴り、アイスティーのグラスについた水滴が、ひとつ、流れて落ちた。
車がないので、遠出のときには、レンタカーを使う。
車を買いたいが、駐車場代だけ見ても、手が出ない。
それに妻は運転できない。土日も不要。
たまの連休か、夏休みくらいにしか、使わないのだから、レンタカーで十分だ。
レンタカーの楽しみは、会社が選べることだ。
トヨタにも乗れるし、ニッサンにも乗れるし、ホンダにも乗れる。
近所には、Nipponレンタカー、Orixレンタカー、TOYOTAレンタカー、と各会社があり、Nipponレンタカーだと日産車に、Orixだとホンダに、TOYOTAだと(もちろん)トヨタに乗ることが多い。
たいてい、TOYOTAに乗ることが多い。
割引があり、安いからだ。
しかし、たまに他社の車に乗ってみたくなる。
今回、近くの川へ家族と遠出した。
いつもTOYOTAだから、とあえてHONDAにした。
Fit、である。
店員に、勧められたことも原因だ。
レンタカーの店員は、こう言った。
「燃費がおどろきですよ。20キロ超えてますからね」
TOYOTAのヴィッツに匹敵する、という。
それは、と驚いた。
ヴィッツでは、少々物足りないところがあるからだ。
高速での加速、車内の広さ、いい車だが、あと少し、という思いがある。
それがクリアできるのだ。
まよわず、Fitを試してみることにした。
公称、20キロ超えの、燃費のよさがどうなのか。
実際をためしてみたくて、うずうずした。
ところが、結論を言うと、とんでもない。15キロもいかない。
14キロにあとわずか、という残念な結果であった。
冷房を効かせすぎたのか?
あるいは、高速をとばしすぎたのか・・・
いや、高速はキープレフト、いつも抜かされてばかりのスピードであった。
Fit、いい車だった。
車内の広さやインパネの感じ、操作性や曲がるときのスムーズな感じ、後輪がしっかりついてくる感覚、いい車なんだが・・・
燃費がよいのは、これまでの経験では、総合してTOYOTA。
MATSUDAのデミオもよかった。デミオはOrixレンタカーで借りた。
NISSANでは、NOTEがよかった。
あまりにもちょうどよく整いすぎていて、逆につまらない、という感じ。
(ということは、とてもよい、ということなのだが・・)
Fit、ざんねんだったなあ。
1日は映画割引の日。
ファーストデイなので、1000円で見れる。
平日だが年休を頂き、4歳の子を連れて映画館へ。
夏休みで混んでいるかと思いきや、とても空いていた。
はじまりのアニメーションが圧巻だった。
海の中が、これほどきれいで、美しいとは。
多様な生物。
泳ぎのリズム、ただよう微生物、はねるように動くプランクトン、光。
CGを一切つかわない、というのがいい。
ハリウッドではこうはいかないだろう。
ハリウッドのアニメ会社が「CGを使いません」と言ったら、PC関連企業から大ブーイングだろう。意見を取り下げるほかないんじゃないだろうか。
リサ、というお母さんがいい。
ぽにょは人面魚というのか、半魚人なのだが、それを見ても、さっぱりしている。
事実をありのままに受け止め、表面の現象よりも、その中身を重要視する人だという感じがする。
「見かけじゃなくて、中身が大事なのよ」
というセリフも、(たしか)出てくる。
このポニョの物語は当然ポニョ、そして宗介という5歳の男の子が主役、対役である。
しかし、年齢のせいか、このお母さんにとても感情移入できる自分がいた。
自分は男、という点で、宗介くんに近いものを感じるし、お母さんには共に子育て世代である、という点でとても親近感が湧く。
わが息子は4歳。宗介くんは5歳。ほぼ一緒だ。
男の子を育てるお母さんの強さ、というものも感じた。
家になかなか帰らない父。
旦那が家をないがしろにしている、というのでふてくされる妻。
その両方の立場を冷静に知って、それぞれの立場を大事にする子。
この設定に共感する家族は多いだろう。
日本の、本当に多くの、多くの、家族の姿がこうなんじゃないだろうか。
家族の絆を大切にしたい、と願いながら、それがかなわないことのジレンマ。
日本人の最も基本的な心象風景。
せっかくの帰宅の機会をふいにされて、腹を立てる妻が、
「そうすけ、もう今日はどっかに食べに出よう!」
というが、静かに
「ぼくは家で食べたい」
という宗介。
事実をそのまま受け、一時の思いや感情にふりまわされず、内面を大事にしようとする子どもを育てよう、というのがリサの願いだろう。
「ぼくは家で食べたい」
といえる子を育てていること。そのことに、気づいているから、旦那への思い、くやしさ、やりようのない寂しさや腹立ちの中に、うれしさもある。
ベッドの上でふて寝するリサの耳元へ、宗介が話しにくるが、そのさっぱりとした男らしさは、リサが何よりも気に入っているものだろう。自分が大事にしたいとねがうものを、この子はしっかりと分かっている。そのことの嬉しさは、他に比べようがないにちがいない。
家族を大事にしたいリサ。
だから、航海中の夫に向けて、光信号を送る儀式を欠かさない。
こういうことでもないかぎり、家族のしるしを濃くできない、というおそれがあるのかもしれない。
家族を演出する大事な行為だからこそ、宗介はそのことに気付いていて、リサがふてくされていても、寝ていても、自分はやろう、と決めて、ベランダに出るのだろう。
そして、その息子の後姿にうながされながら、リサも光源ライトを操作する。
言葉や内容は乱暴であったが・・・。
リサは、ひまわりの家、という福祉施設で働いている。
隣は保育園らしく、園と施設を行ったり来たりする宗介のことを、みんなが知っている。
老人たちが「宗介ちゃん」と明るく声をかけるシーンがある。
家族だけではさびしい。
本当は、核家族だけではさびしい。
映画の中に、そんなメッセージがあるようにも思えた。
老人、が、現代らしく、福祉施設にいて、きちんと物語に登場してくるのがよかった。
世代を越えて、宗介を見守る人々がいる。
そこには、「共に暮らす」という実感がある。
幼い子どもには不審とか疑うという気持ちがない。人や自分を縛るということもない。
そういう子どもに対する方にも、不審とか疑うとか縛るという気持ちは生じない。
お互いが、そうである、という「関係」になっている。
だから、この不思議な町全体に、とてもあたたかな、包み込むような人間関係が、自然に描けている。
ポニョの映画に、老人が出てくることの大きさ。それを何度も感じた。
(人は生まれながらにして、親兄弟など「人と共に暮す」実態を身をもって知っている筈、成長につれて自分を知り多くの人を知り、人と共に暮らす広大な世界に住み得るもの。)
リサの声が、山口智子さん。
ヤマザキパンのダブルソフトのCMで、なんとも豊かな表情の人だなあと印象深いが、この人の声やハリのあるところ、リサに適役だと何度も感心した。
長島一茂氏の父の声も、回数は少ないが、とてもよかった。よく選ぶなあ。選んだ人の眼力がすごいのだな。
ポニョの声には不満が残るが、すべて満足する、ということはないのが自然だ。
ともかくも、まるで生きているような波や、水が表現されているのに終始、おどろかされた。
水中に沈んだ町、建物、家、ものほし竿、せんたくもの・・。
きらきらと水面の光る、透明な水に沈んだ街。
これが、なんともしずかで、不思議で、すてきな絵になっている。
そういえば、「千と千尋の神隠し」でも、線路が水に沈んでいたっけな。
宮崎監督は、水に沈んだ風景が好きなのかな。
澄んだ、深い井戸の中をのぞいたような、そんな不思議な感じがする。
私の中では、千と千尋には及ばなかったが、なかなかの味わい深い作品だった。
魚を食べる日本人だから、これだけの海の作品が描けたのだと思う。
日本人以外の人、とくに内陸の国の人や、欧米の人には、あまり受けないのではないかと思う。逆に、東南アジアなど、海や魚が身近な人たちには、自然と受け入れられるのではないかな。
まあ、どんな評価を受けようが、評価は評価。
実際は実際。
私自身の中でも、また見直すごとに、新しい発見があるのかもしれない。
でもま、自分の中のランキングでは、「千と千尋」が最高だ。
あれを越える作品は・・・・今のところ、見当たらない。
笑顔をつくるために、朝晩、顔のトレーニングをする。
とくに、口の周りの筋肉をきたえるとよいときいたので、やってみている。
しかし、こうして必死になっているのも、他の先生から、
「先生、顔がこわいですよ。とくに黙っているとね。」
とずばり、言われたからである。
「まじめなんでしょう。いい人なんですよ。もっと、笑っていいんです」
これが初任者から言われたのなら文句も言えるが、この道○○年の大先輩の言だったから、素直に反省する気になった。
学校の研修。
研修がひと息ついて、お茶を飲んでいるときのことだ。
とてもきさくな先生で、自校が独自に設定した研修機会に、来てくださった。
数年前まで現役。
管理職をことわり、現役続投にこだわった。
やはり、そういうことを言われるだけあって、笑顔がとてもうつくしい。
うつくしい、というよりも、子どもといっしょに笑っているような笑顔をされる。
ニコニコッ、とされる。
それが、たぶん、自分にはできないのだろう。
顔が、固いのだ。
それで授業やったら、子どもがかわいそう、とまでいわれて、ちょっとへこみそうになったが、そういうことをポンポン言いながら、われわれ現役の教員とコミュニケーションを楽しむ姿をみていたら、へこむよりも、よしいっちょうやってみよう、という気になった。
明るい雰囲気が、そうさせるのだろう。
そういう、包み込むような空気をもたらす、人格。ただようもの。空気。
笑顔かあ。
パタカラでもためしてみるかなあ。