4年生の学習では、動物を学ぶという。
5年生では植物を学び、6年生では鉱物を学ぶとのこと。
例外なく、6年生くらいの子になると、鉱物が大好きになる、という。
本当だろうか。
しかし、この学園の先生たちが経験上、口をそろえてこうしたことを言い、確信の元に、カリキュラムをつくっているのだ。
なにか、あるだろう、と思う。
授業に四苦八苦していると、いろんな情報を知りたくなる。
いろんな見方や考え方があり、どれが最高ということはない。
しかし、なんらか、情報として自分に入れておこうという気になる。
それらはすべて、単なる情報でしかない。
だから、通過してしまう。
ほとんど、残ることはない。
しかし、そうした情報を、あたかも食べて消化するかのように、自分の中に通過させていく過程で、自分の中の、センサーが動いていることが分かる。
「本当はどうか」
本当。
本物。
人間として、普遍的なこと。
人間の成長、ひととしての成長の上で、すべて、欠くことのできない、理(ことわり)。
すべての人間が、あてはまる、真理。
たとえば、ほめる、ということ。
ほめる、ということが、まだ、わからない。
口だけでほめる、ということ。
形だけほめる、ということ。
態度でほめる、ということ。
それぞれ、自分が、何をしているのか、本当に分かっているのか、という自問。
自分はほめている、つもりでも・・・・。
2008年06月
論作文のコツ。
自分が、どのような学級経営をするのか。
どのように児童と接していくのか。
どのように学習指導を行うか。
また、生活面の指導をどうするのか。
こうした具体的なことを書かねばならない。
さらに、真髄をつくコツが、これ。
そうした、具体的な場面を書く前に、
序論のところで、自分がなぜ教師をめざすのか、簡単に、数行程度でふれるとよい。
さらに、
本当の、本当のコツが、ある。
その、なぜ教師をめざすのか、という理由のところに、
○わたしは周囲の人、あるいは教師に、あるいは校長に、認められ、応援されている
ということを、ニュアンスで入れてやる。
「・・・私は教育実習先でお世話になったA先生に、あなたなら一緒に学年を組みたい、と最高の励ましの言葉をいっていただいた。そして、A先生のように夢や希望を与えられる教師になりたいという一心でこれまで生きてきた。私は児童のよさを見つけられるように、以下のように学習指導を充実させる。・・・」
あるいは、
「・・・私は自分が小学生だった時、担任のA先生に、将来A先生のようになりたい、という夢を話したことがある。するとA先生は、あなたなら必ずなれる、大丈夫、と応援してくださった。「十年後、職員室で会いましょうね」という言葉にどれだけ励まされたことか。私はA先生のように、児童のよさを見つけられる教師になろうと思い、生きてきた。そのために、以下のように学習や生活の指導を充実させていく。・・・」
事実、こうしたことがなければ書けないが、思い出してみて欲しい。
もし、教師から応援していただいた言葉が思い当たらなければ、以前の職場の先輩や上司、あるいはボランティア先の方など、いわゆる一般的な社会で活躍する人にだって、応援していただいていることを書いたらよい。
人は、応援してもらっている人を、応援したくなるのだ。
応援が、応援を呼ぶ。
これは、人の、情である。
情に訴えかける、論作文を書こう。
児童が、何でもやりたい放題、勝手な行動をとるようになる。
授業中の立ち歩きが平気になってしまう。
とても授業どころではない。
授業の進度が、当然、遅れる。
保護者から、
「このクラスだけ、授業の進度が遅いようだ。どうなっているのか」
とクレームが来る。
・・・・こうした場合、どう切り返していくか。
初任者の仲間たちで、どうするか、話し合った。
初任者研修の、合同グループ討議が始まったのだ。
ところが、このグループ討議の最中、すすり泣く声がする。
見ると、ハンカチで顔を覆い、泣いている女性が一人、視界に入った。
提示された課題が、・・・身につまされるのだ。
まさに、自分が置かれている状況だからか。
話を聞いてみると、つい先だって、まさに同じことが起きた、という。
校長以下、管理職が守ってくれたわけではない。
「○○さんもがんばっていることは分かる」
というなぐさめの言葉はあった。
でも、学級をどうしていったらよいか、具体的なアドバイスや行動は、皆無だった。
年配の学年主任に、
「結局、あなたが担任なんだから」
と言われたそうだ。
初任だからといって、甘いことは言ってられない。
その主任の方の気持ちも、分かる気がする。
しかし、今、一番弱っているのは、彼女だ。初任の、何も分からないまま、現場に立ちすくんでいる、彼女なのだ。
保護者からのクレームが、どれだけの影響があるものなのか、それすら分からない。
ただただ、自分がいけないのだ、と思う。
なんとか打破できる、という自信はない。不安のかたまりだ。
それでもなんとかしなければ、と思うが、緊張で心臓が飛び出しそう。
どうすればよいのか、途方に暮れるから、余計に、頭が働かない・・・。
その彼女に対して、甘いことはできない、と放っておいている。
何年か、現場を経験すれば、
「いろんな保護者がいるから」
「なんだかんだいっても、夏休みがくるし、1年だってあっという間に終わるよ」
「どれだけがんばったって、まともに見てくれる保護者は、所詮、そうはいないものだ」
「内容をできるだけ削って、とばしていけば、まだなんとかなる」
いろんな思いも湧いて来るだろう。
しかし、まだ、初任者なのだ。
未経験で、教壇に立ってしまった、初任者なのだ。
絶対に、してはならないことをした、というほどの、思いをいっぱいに抱えて、顔面蒼白、青息吐息である。
初任者研修のグループ討議が、なんともいえない空気に包まれる。
学級の荒れている様子を聞く。
すさまじい。
授業はおろか、教室を正常な状態に保つことすら出来ていないのだという。
給食の後、掃除をしない子どもたちの前で、ひたすらこぼれた汁を拭く、という。
牛乳のパックが、教室のあちこちに放置されている。
それも、中身の入ったまま。
無言で片付ける教師。
手伝おうとする子も、いないのだそうだ。
顔を見合わせる十人のメンバー。
しかし、どの顔も、みんな、疲れていて、
明日はわが身、と思いながら、聞いているのだ。
だから。
下手ななぐさめの言葉もなかったし、
「なんとかなるよ」というような、無責任な言葉かけも、無かった。
ただただ、
「あと、20日です。最低限のことをできるだけやって、夏休みになるのを待ちましょうよ」
という感じの話ばかりだった。
ハンカチをとると、泣きはらした目で、みなさんありがとうございました、と礼を述べていらしたが、またそれが、痛々しい。
なんともいえない沈痛な表情で帰ることになり、無口のスーツ姿の男女が、何十人も会場を立ち去る姿がまた、この集団の、あまり明るくない将来を暗示しているかのようであった。
初任者研修は、きびしい現実に直面する場だ。
歯を食いしばって、歩き続けなければならない。
身を硬くして、立ち向かっていかねばならない。
それをあからさまに知って、それとは正反対の、自分の自信のなさにも直面して・・・。
初任者研修。
ようやく、その意義が、見えてきた気がする。
リニモに乗った。
小さな頃、小学生の頃、「未来の超特急!」と思っていた、リニアモーターカー。
それが、現実になっている。
ただ、超特急で走るものではなく、ごくふつうに、通勤や生活の便利な道具として。
愛知県長久手市。
万博、「愛・地球博」が開催される頃、リニモは登場した。
初めて乗るときの感動。
いっしょに乗った乗客たち。
息を詰める、といった感じの、車内。
大勢の人が、満席で、立っている人も大勢いたのに、車内はおどろくほど、静かだった。
みんな、感動しながら、目を凝らして窓の外を見つめていた。
スーッと、流れるように車が動く。
だれも、身じろぎしない。
音がしない。
あまりの静けさに、顔がにやけてくる。
藤が丘の駅を出発し、しばらくして、地下から地上へ出る。
風景ががらりと変わり、まるで高速道路を走っているかのように、家屋やビルの上を走っていく。
そんなリニモにも、もう何度乗ったことか。
愛・地球博記念公園へ行った。
朝起きて、ふと、その気になって行ける距離だ。
温水プールがある。
4歳児を連れて、波のくるゾーンで遊ぶ。
たまの休日。
親子で、のんびりすごすのが、いい。
1学期も折り返し地点を過ぎ、まもなく成績のシーズン。
疲れもピークだ。
身体に蓄積された疲労が、抜けずに、たまっていく。
モリコロパークで、リフレッシュ。
たまにはゆっくり、学級を忘れて、ボーっとすることも必要なんじゃないかなあ・・・。
・・・と、自分に言い聞かせた一日だった。
(保護者に会わなくて、よかったなあ!!!)
帰りの会で、またボスの攻撃。
「先生!A子がそうじの時間に、ぞうきんを足でふいていました。」
ボスが、どうしてもA子をつぶしたいらしい。
ぎゃふんと言わさなければ、ということのようだ。
A子はたしかに、ちょこまかしていて、口もある程度、達者である。
また、クラスの人間関係にあまり敏感でない。
つまり、ボスに一歩譲る、という関係を持っていない。
他の子は、ボスに従っている。
ボスの一言に、敏感な女子が多い。
ボスとほどよく距離を置いているのが、かしこいやり方、と心得ている。
ところが、A子はそうではない。
元来、わがままなのだ。
だから、ボスに対して、一歩ひく、ということをしない。
ボスは、それが目障りでしょうがないらしい。
A子が、ボスにおべっかを使い始めたら、本当にこわいことだが、今はそうでない。
クラスの人間関係が、固定化されていくのがこわい。
ボスを、どこかでつぶす必要がある。
それは、卑怯なまねをしたとき。
卑怯は許せない、というメッセージを、教室で浸透させておく必要がある。
作戦が必要だ。
当面は、ボスをつぶす前に、A子を助けておかねばならない。
すくなくとも、ボスがこれ以上、巨大化、強力化するのをふせがねばならない。
ボスから、子分を、ひとりずつ、しずかに剥がしていかねばならない。
ボスのいいかげんさ、ボスの身勝手さ、を、あぶりだしていかねばならない。
そこで、
「これまでに、ぞうきんを足でふんだことのない人、手を挙げなさい」
というと、なんとボスが手をあげない。
そうなのだ。
ボスが一度、ぞうきんを足でこすっていたのを、私が叱っている。
このあたりが、ボスの正直なところで、私が大好きな点だ。
まだ、4年生なのだ。
高学年になったら、シャアシャアと、うそをつく子もいるが、ボスは正直だ。いいなあ。
他にも、同じく雑巾を足でふんでいた、という子がいる。全部で3人。
再度、念を押す。
「4年生になって、一回でも、たった一度でも、ぞうきんを手で持ってふかずに、足で扱った人、立ちなさい。」
「先生、一回でも?」
「もちろんです」
すると、さらに1名、起立する。
「正直だネエ。すばらしい。立たなかったら、○○さんは所詮そんな程度で、平気でうそつくんだな、と思っていたところです。でも、正直に立ちましたネエ。すごく好きです。」
後から立った男子、えへへ、という感じだ。
そこで、全員に、
「ぞうきんは、手で使います。足で使う人は、本当にそうじをやったうちには入りません。全員でしっかりそうじをします。次からは気をつけます、と言いなさい」
と簡単に言わせて、サッと切り替えた。
少なくとも、A子だけを叱る場面は防ぐことができた。
さらに、ボスも起立していたところを、みんなが見た。
「なあんだ」
と、声には出さないが、思ったはずだ。
正直で、まじめで、おとなしめの女の子たちの視線に、背を丸めて立つボスの姿が、目に焼きついたはずだ。
こうしたことを、積み重ねて行く必要がある。
ボスとの格闘に、だんじて、負けるわけには行かない。
まもなく採用試験だ。
面接でのシーンを思い出したので、書いておく。
愛知の1次試験。
集団面接。
こんな質問があった。
「これだけはやってみたい、という授業はありますか」
よい質問だと思う。
とっさに、出てくる人と、そうでない人がいた。
考えがある人、あらかじめ考えていた人は出てくる。
しかし、出てこないので、本当に返答に四苦八苦していた人もいた。
冷や汗が出た。
この質問の返答の仕方が、明暗を分けた。
集団面接は、6人のグループだった。
こんなことを言っては申し訳ないが、隣で聞いていて、
「内容がないな」
と感じた人は、ことごとく落ちたようであった。連番だったので、同じ受験者の大体の番号が分かる。
1次試験の合格通知、結果を確認してみると、うまく答えた人の番号だけが掲載されていた。この質問が、本当に分かれ目、だったのだ。
これだけはやってみたい、というニュアンスがくせものである。
授業というのは、指導要領にそったことをやる。
あらかじめ、決まっていることをするのだから、どんな授業をしたいか、ということであれば、
「指導要領にしたがって、児童に学ばせる必要があることを、きちんと学ばせる授業をしたいです」
というのが正答だ。
しかし、
「これだけは教師人生をかけて、ぜったいにやってみたい!」
と思うような授業があるか、という質問なのだ。
そんなニュアンスで聞かれるから、どぎまぎしてしまって、
「あの、その・・・」
と、ろくに返答できない受験者が多い。
今なら、どうこたえるだろうか。
たとえば、
○国語です。暗唱をします。まじめに覚える子をほめられるからです。まじめに努力する子が正当に評価されるクラス、学級をつくりたいと思うからです。暗唱することで、よい文にふれ、語句の使い方や言い回しを覚えることができます。これは、文を書く力を育むことになると考えます。古典や文化に親しみを覚える児童が増えることも期待できます。
どんな内容でもよいから、はっきりと、こうです、と言えるか。
それに理由をしっかりと言えるか。
この回答の裏に、どんな学級をめざすのか、というねらいが垣間見えるか。
いっしょに受験した仲間で、
○子どもたち全員にオーケストラの指揮をさせたいです
○鶏をさばいたり、牛を飼ったりする授業がしたいです
○オリンピックの選手を呼ぶなど、子どもの夢を育む授業がしたいです
というような、ファインプレー的な、あっと言わすような回答をした受験者はみな落ち、国語とか算数とか理科とかの地道な話を、素朴にして、子どもに学習の力をつけたい、という回答をしていた人が、みな受かっていた。たまたま、偶然かもしれないが・・・。
(試験官によっても、受け取り方や評価が多少は異なるでしょう)
ともあれ、採用試験の面接、1次からの自治体が多いようだ。
昨年の今頃は、私も、過去問をとくなどして、準備をしていた。
熱意と周到な準備があれば、大丈夫。
『努力は人を裏切らない。』
これは、オリンピック金メダリスト、ヤワラちゃんこと、柔道の谷 亮子選手が、テレビのインタビューで答えていた言葉だ。受験時代に聞いて、とても印象に残った。
受験生のみなさん、ぜひ、がんばってください。
ボスが、他の子をこきおろした。
「先生!A子のこと、ちゃんとみてない!」
ボスは、なにかやましいことがあるのかもしれない。
大体、ひとが、何かを批判するとき、攻撃するときは、自分のことを批判されたり攻撃されたりすることを回避しようとするときだ、・・・(と習った。大学の心理学講義で・・・)。
A子が、自分の好き勝手に、グループをつくり、命令をしている、という。
B子が、A子の命令を受け、指示に従わせられている、という。
「B子がかわいそうじゃん!奴隷だよ」
A子とB子については、その周囲の子の状況を、個別に聞いて把握している。
いじめではない。
確信がある。
B子のさびしさ、A子のやさしさ、お互いの気持ちも聞いていた。
A子が強く出るときもあり、やりすぎもある。
しかし、それ以上に、いっしょに遊ぶ楽しさがある。だから、B子からの訴えはないのだ。
B子に個別に、本当に大丈夫か、と確認しているが、今のところはいじめではない、と判断していた。
これは、要するに、ボスが、めざわりな他の実力者を排除しようとしているのだ、と考えた。
A子が、ボスの目にとまったのだ。
こっちは、ボスが、A子を、つぶしにかかった、と見た。
そのA子つぶしに、教師を利用しようとしたのだ。
だんじて、のってはならない。
のる、とはどういうことか。
「他の人に聞きましたが、A子さん、命令をして、いじめているのではないですか」
と、クラス全員の前で、詰問することだ。A子さんを立たせて。
これは絶対にしてはならない。
それをみて、ボスたちが「やった!」とにんまりするシーンが目にうかぶ。
そうはさせない。
のらりくらり、スジを確認しながら、あなたたちは、まさか命令なんてしてないよね、と確認しながら進めて行く。話を、A子から、「あなたたち」へと移して行く。そうしながら、本来のあり方、人に命令する、などという非人道的な態度について、おさえていく。
最初はそう思った。
しかし、ボスたちの口撃がものすごい。
こっちの心がヤワなのか、口で人をこきおろす、というのをガンガンと聞いていると、ゲンナリしてくる。
A子がいかにひどい人間なのか、これでもか、というくらい、言ってきた。
「そうか。先生も話をしたつもりなんだけどなあ。」
「つもり、じゃいかんが!ちゃんと話をしないと!」
「そうか。じゃあ先生ももう一回、話をするよ。先生も、A子ちゃんに、人に命令したり、自分の勝手な考えで、感情のままに、行動してしまう人にはなってほしくないからなあ。どんな人間になりたいか、ということ。これを考えていきたいなあ。ひとりひとり、みんな。・・・クラス中でね」
最後に、クラス中で、と言って、ニッと笑う。
ボス連は、クラス中で、と聞いて、サッとひく。
この後、「人に命令する」とはどういうことか、つっこんで、話し合おう。
指揮と命令の違いについても。
なによりも、焦点を当てたいのは、ボスが、「命令って、かっこ悪いな」と思ってくれることだ。
ボスが先。
A子対応は、2番目だ。
順番をまちがえてはならない。
社会見学で消防署を見学した。
列の順番で並ばない子がいる。
「俺はいつも後ろ。なんで順番でならばなあかんの」
いつも後ろで我慢しているのだ、という。
勝手に列の前半へ出てきて、歩こうとする。
制止するも、しつこくくり返す。
大声で文句を言う。
文句の内容が、だんだんすり替わってくる。
なんで俺だけ!
よくあるパターンだ。
俺だけ、差別されている。
教師が差別している。
俺は我慢している。その我慢を強いているのが、教師だ。教師は他の奴をひいきし、俺だけを特別に虐げている、という論理だ。
「そうか、君はよく我慢しているな」
という声かけをする。
これはレベル1。
次第に、そんな声かけくらいでは、我慢できなくなり、列を無視して歩き始める。
勝手にさせておかない。
これがレベル2。
「今は列に並んでいかないといけない。後ろで見にくい、というのがあるんだなあ。でも、勝手に順番を変えて良い訳ではない」
あなたは勝手に、順番を変えようとしている。
「自分勝手に、ルールを決めて、行動している。」
このことをこちらでぶれさせず、気持ちの軸にすえておく。
口をとがらせて、文句たらたら、歩いている。
「後ろばっかりにさせてやがる」
「自分のところに並びなさい」
「いやだ」
「並びなさい」
「なんで勝手に決めるんや」
「並びなさい」
シンプルに、繰り返す。
目を見る。視線をそらさず、同じ指示を繰り返す。
猿の調教風だなあ、と思うが仕方がない。
見学が終了すると、教師への文句が爆発だ。
「ちっともおもしろくなんかなかったわ。先生が勝手に順番決めて」
これもよくあるセリフで、『先生が、勝手に・・・』という。
先生の決めたことは自分は守りたくない。自分は自分の決めたルールで動きたい。というわけだ。
「そうか。おもしろくなかったか。順番で行かなきゃならんもんなあ」
同意はしないが、共感する。この程度で、さらりと流した。
見学後、ひとりで残す。これがレベル3。
少しだけ、話をする、というと、素直に教室に残っている。
これをみると、まだ4年生だなあ、と思う。
一人だけ、というのがポイントだ。
取り巻き連中がいるが、小物といっしょにはしない。
個別に話をする。
でないと、個人個人、一人ひとり、かかえている問題もちがえば、家庭環境、生育歴もちがうのだ。どんな話がでるか、飛び出てくるか、本当にわからない。プライバシー保護が大切だ。ボスだって、一人でいると、ポツリと本音をもらすことがある。
先生は、あなたのことも大切だけど、他のみんなも同じように大切だ。
だから、あなたが自分だけで決めたルールを、クラス全員を巻き込んで通すことはできない。
という話をする。
不満顔は、おさまらない。
「いつも後ろだものね。我慢していることが多いかもね。でも、そうやって後ろの人がいるから、前の人がいるんだね。全員前、というわけにはいかないからな。」
「後ろばっかりで、やる気無くなる!」
「そうか。一番前で見たい、と思うくらい、今回の社会見学、やる気だったんだな」
「・・・」
「そういえば、後ろだ、といって文句言ってたけど、ノートはしっかり書いてたなあ」
「・・・」
あなたのことは、意識しているよ、わかっているよ、見ているよ、・・・
と思いながら、5分ばかりつきあった。
大きくなってくるにしたがって、個別の対応が増えてくる。
もちろん、クラスのルールを平然とやぶる行為、誰が見ても明らかなルール違反については、クラス全員の前で、毅然と叱る必要がある。ただしこれは、現行犯であったり、確実な証拠があがっていて、どうあがいても子どもに勝ち目がない、言い分はない、というときだ。
そうではなく、なにか言いたいことがたまっているようなとき、ルールにはふれないが行動が気になるとき、個別に対応する。
ほめるときも、集団の中でほめる場合と個別の場合がある。ふさわしさ、がある。
それは自分で、感覚をみがいていかなければならない。
名前を出さずにほめ、
「今、○○をして、がんばっていた人がいます。みんなは気付いていないかもしれませんが、いたんですよ。名前は言いませんが、立派だなあと思います」
すぐに視線を合わせて、うなずいてやる。
あからさまに目立つことをいやがる子の場合は、とくにそうする。
男子のボスと、気になる女子の大半についてはそうする。
おとなしくまじめな子、性格がよく好かれている女子は、名前を出してあげる。
これは名前を出しても、他の子から攻撃や嫉妬の材料にならないことがほぼ確実であることと、全体の場に出すことで、その子にもっと自信をもって、力を発揮して欲しいからだ。
叱る場合も、集団、個別、どちらがふさわしいか、考える必要がある。
今回は、列を乱そうとした、勝手な行動をとろうとした、ということだ。
全員の前で、「ルールを守りなさい」という意思表示はできた。
人の身体や心を傷つける、という行為でもない。
だから、個別に対応することにした。
注意も、ソフトに。
どちらかというと、共感する、という感じで、話をきいた。
ただし、くぎをさしておく。
「そうか、いろいろと考えや事情があったんだね。」
と事情に共感したあと、
「ただ、勝手に列を離れるのは、自分勝手な行動だったな」
その後、彼のほうから話を変えて、友人のことを話し、帰っていった。
指揮法がわからなかった。
「究極のポイントだけ、かいつまんで、おしえていただけませんか。」
そんなポイントなど、あるわけがない、と叱られる。
専科の先生を長く続けてこられた方だ。
「そこをなんとか」
アホか、とまたお叱り。
つまり、世の中はノウハウばかりで、裏ワザみたいな一発芸ばかりがまかりとおっている。
そんな不安定な道を歩むよりも、一歩一歩、真に地に足の着いた、進み方があるだろう、ということ。教師の世界も、あともどりしないですむような、確実な道がある。そこを行くしかないよ。それは、自分でつかみとっていくものだよ。
それは重々承知の上で、明日の授業に間に合いませんので、取り急ぎどうか、ということで、以下のことを学ぶ。
○指揮者は口パク。歌わない。
○起立(C)礼(G7)直れ(C) 礼のG7が強く、Cの音は収める、整えるための音。
○姿勢は肛門を締める。Vの字の形に足を置き、少し前後に(右が前)にずらす。
○左手はあまり動かさない。いざというとき、小技で使うときに効果がでるように。
○指揮の最初は、1拍あれば充分。
○指揮の最初、速い曲の場合は2拍が適度。
○八分休符で息を早く吸うときは、その合図を送ってあげる。
○手はあまり身体に近づけすぎないで、少し前の方(相手に向け)に出す方が念が伝わる。
○手よりも目と息が大事。息を吸うところで、いっしょに息を吸ってやれ。
○力を入れる、がんばれ!というところで、目を最大に見開け。
○前後左右に身体がぶれないように、無意味に揺れないように、下半身を鍛えよ。
あと、一番大事なのは、歌詞を全部あたまにいれること。最低限のこと。
イメージの世界を充分にもっておき、こみあげてくるものを感じて指揮棒を振れ。
いろいろとお話を伺ううちに、少しずつ、参考になる話が聞けた。
指揮を、やりたくなってきた。
楽しみだ。
最後にひとこと。
「子どもの前で、目標100回で指揮をとれ」
これをすると、腕が上がるそうです。
考えてみれば当たり前の話だが、実践するとなると話は別で、まじめにやる人だけが、浮かばれるのだろう、と思いつつ、今夜の学びに感謝しました。
囲碁の簡単なセットを用意した。
9路盤とよばれる、もっともシンプルなものだ。
将棋は大体の子どもがやる気を見せたが、囲碁となれば、どうか。
実験でもしてみる感もありながら、子どもたちに紹介してみると、
なんと。
いつの間にやらルールを覚えて、きちんと正対して勝負をしている。
どこでどういう情報をもってくるのか、だれかが、知っているのだ。
「Kくんが知ってるから、教えてもらった」
Iくんが片づけをしていたから尋ねると、クラスの秀才の名前があがる。
なるほどねえ。
昼休みに、囲碁の勝負をしている子どもたちを見て、なんとなしに違和感が。
そんな背中を丸めて・・・、ったくもう!!!
子どもらしくないなあ!!!
外で思い切り、遊んでおいで!!
「雨の日だけです。晴れている日は、外で遊んでおいで」
しぶしぶ、教室を出て行く子ら。
囲碁もいいけど、外遊びもね。
姿勢をよく注意する子がいる。
ぐでん、という格好。
だらしなく、机によりかかる。
イスを、ギシギシ、させる。
足を投げ出す。
すぐ隣をむく。
その子のせいだ、と決めていた。
ところが、よくある話で・・・
今日、たまたま、放課後、教室の棚を整理していて、彼のイスにこしかけた。
すると、なんか、妙な感じなのだ。
イスが、少し、姿勢を変えただけで、
ギシギシッ・・・
というのだ。
ボルトがゆるんでいるのか?
ためしに、前後にゆすってみる。
すると、おどろくほど、揺れる!!
たまげました。
こんなイスになっているなんて。
他の子のイスには、腰をかけたときがある。
だから、だいじょうぶ、と思い込んでいた。
ふつうのイス、それが全部だ、教室のイスは、全部、ふつうだ、と思っていた。
それが固定観念のキメツケだったとは。
彼のイスを、即刻、取り替えた。
高さも、もしかしたら、合っていないのかもしれない。
申し訳ないことをした。
「先生、このイス、なにか座り心地がよくないです」
とは、言えなかったのだろう。
いつも、注意されてばかりだから。
先生からいつも叱られているのに、そんな頼みごとなんて、できないだろう、と思ったのかもしれない。
彼のこちらを見るときの「目」が、しきりと今、脳裏に思い浮かんで仕方がない。
うったえていたのかもしれない。
子どもの前で拍手する。
ナイス!と思わず言ってしまうような意見を言ったり、見事な演奏をしたり、できなかったことができるようになったりした場面だ。
すると、つられて、拍手してくれる子がいる。
なんとなく、教室が明るくなる。
ホッとする。
クラスが楽しくなる。
これで、味をしめて、
「よし、子どもの前で、拍手をしよう!」
と考えるようになる。
おそらく、教師として、これはとても自然なことだ。
うまくいったこと、経験を生かすのだ。
ところが、思わぬ落とし穴にはまる。
2回目。
同じようなことがおきる。
子どもが、目の前で、リコーダーの演奏を見事にしてみせたのだ。
「よし!今だ!」
心の中で、舌なめずりだ。
「すごくうまかった!ちゃんと高いレの音が、きちんと出せている!」
ほめながら、
「これは拍手だね!」
とびきり、最高の笑顔で、みんなにもうながすように・・・
ところが、子どもが拍手をするかと思いきや、少人数の女の子だけが反応し、クラス全体には広がらないのだ。
あれ?と思う。
なにか、おかしかったかな・・・
あとでふりかえってみて、いったい、自分は何をしたかったのか、と愕然とするのだ。
人の心を、動かそうとしている。
それで、動くわけがない。
動かそう、動かそうとして、「人の心は動く」、と思っている。
それは、大いなる、勘違いなのだ。
人の心が動くのは、感動によって、だ。
うそやいつわり、瞞着があれば、感動は逃げていく。
教師が一人拍手するだけでいいのだ。
教師が感動し、思わず出てくる拍手。
その子自身に対する、賞賛。
その子に、「よくやった、おどろいちゃった!」と手をたたいている。
そのこと、だけなのだ。
他に、2つめのなにかをねらうのが、落とし穴。
水をやるのは、その花のため。
見栄や他の何かの目的で水をやるのではない。
純粋に水をやる、というのではなくなっている。
それで、花が本当にうれしいと思うか。
純度がうすれている。
純度が100%でないから、感動がうまれないのだ。
心底、純粋に、手をたたいていないから、本物の拍手でなくなる。
その、うそにまみれた拍手をもらって、子どもが育つか。
もう一つ。
うまかった、上手だったから、拍手をもらうのでは、さびしい。
がんばったこと、がんばっていること、現在進行形の努力を認める拍手を贈りたい。
さっきより気をつけてやれた人!
さっきはかけなかったけど、何とかがんばろうとして、二回目をかけた人!
拍手!
こういうことでありたい。
初任者研修。
いろんな研修方法があるが、中でも一番興味深いのが、初参観だ。
つまり、各学級、先輩方の授業を参観させていただき、学ばせていただく機会である。
初参観の始まる前に、どんな授業をするのか、概要を少しだけ、立ち話程度にしておく。
この立ち話が、効く。
予習である。
先に、年間計画もあるし、初参観の予定もほとんど書き込まれている。
それをみれば概要は分かるも同然。
しかし、顔をつき合わせて、少しだけでも教えていただくことが効果的だ。
さすがは教師、ツボを、10秒程度に縮めて、教えてくれる。
だから、座って話すのではなく、たって話すことにしている。
先輩達だって、時間が短く、効率よく話したいと思っているはずだろうから。
初参観で、気をつけていること。
○はじまりの時間に遅れないこと。
○終わりに、必ず礼をし、感想を一言、云うこと。
「・・・で子どもに考えさせたところが、とても参考になりました。」等
○学級の掲示物を見る。
○時間配分で気になった点について訊く。
○単元全体の中で今回の授業を考える⇒あらかじめ事前に指導していた点を訊く。
○子どもの発言の背景が分からないときに、真意を訊く。
○教材の工夫について訊く。
○教科を通して、どんな力をつけてあげたいとねらっているのか、一番ねらっていることはどんなことか、尋ねる。
○子どもをほめるとき、一番気をつけていることは何かを訊く。
今、思い浮かぶことの整理。
評価のはなし。
ボールあそびとして、運動会の玉入れで使う紅白玉を用意。
玉をキャッチボールしたが、なかなか、とれない子もいる。
さて、評価をどうみるか。
(これまでの考え)
ほとんど間違いなくとれた子⇒A評価
何度か落としたがまあまあの子⇒B評価
よく落としたりとれなかったりしていた子⇒C評価
これでは、とれない子がうかばれない。
どこで評価すれば、児童が全員満足し、自己評価を高め、体育の授業が好きになり、ひいては意欲が増していくのか。
評価のあり方で、ずいぶん、変わっていく、と聞いた。
どうするか。
手を前に出し、パーを出して待ち、玉をとらえたらギュッとつかむ、という動きができる子。
この子たちを、全員、B評価、とするのだ。
こういう「身体のウゴキ」ができる、達成できた、とみるのである。
そういうウゴキをして、なおかつ、手から玉が落ちることもあろう。
それは、
「しかたない、またやろう!」
ということ。
A評価はどうなるか。
身体のウゴキは当然できるにしても、さらになお、手を自在に動かして、とりやすいように工夫する。つかんだ手を、そこからまた落とさないようにお腹の前にかかえこむ、とか。
このような評価を、子どもたちにも伝える。
文字通り伝えるのではなく、伝え方にも工夫をする。
一つは、そのような動きをしている子を見つけて、それを評価して行く。
「うまく玉をつかんでいるな」
ではなく、
「玉を待つときに、手がパーになって、しっかりとろうと準備している!」
とか、
「玉をつかんだら、もうぜったい離さない、というように、ギュッとつかんでいるな!」
という具合だ。
つかんだ、落とした、という二元論の評価にしない、というところがポイントで、
二元論で評価しているときに浮かばれない子どもたちが、
評価のポイントを変えると、急に顔つきが晴れ晴れとして、やる気になる、ということがある。
・・・という話を、聞いた。
なるほどなあ。
次に、しっぽとりゲーム。
このゲームで、どう評価するか。
しっぽをとった、とられた、の二元論の泥沼に落ち込まないために。
「相手におしりを向けていない!」
これがB評価になる。
これなら、たいがいの子が、意識していくことができる。
意識して動作ができれば、B評価は達成なのだ。
あるいは、
「相手の目をよく見て、うごきを感じようとしている!」⇒A評価
「ばんざいをして、しっぽを守っている!」⇒B評価
ということもあろう。
「相手を見たまま、足をクロスさせて横に逃げている!」⇒A評価
・・・・・・という話を聞いた。
くりかえしになるが、なるほどなあ。
風船をふくらます。
その、「風船をふくらます」が、意外とできない。
クラス35人。
7人が、ふくらますことができなかった。
肺活量の問題か?
さらに、15人が、ふうせんの口をしばることができなかった。
先生、やって、やって、の大合唱。
風船って、いつからふくらますことができるようになったんだろう。自分のことを振り返ってみる。
記憶が定かでない。
しばる、ということに関して、きちんと習ったことがないのだろう。
あるいは、人の手つきを見たことがないか、
もしくは、どうやったらうまく縛れるのだろう、と考えたこと、体験がないか。
風船をポケットから出すと、とつぜん、子どもたちが集中する。
視線を感じる。
色彩が、色とりどり、派手だからか?と考える。
あるいは、風船の感覚。ふんわり、ゆらゆら、ゆったり、という感じが、子どもの気に入るのだろうか。
雨の日、風船で遊ばせたらどうかな、と思い、体育館でひとしきり遊ぶ。
最後に、風船を割ってもらった。
ところが、これが、割れない。
割り方を知らないか、割ったことがないか、マスコミの影響なのか。
割るとものすごい音がする、と言う。
まだひとつも割ったことのないうちから、「やめて!」と叫ぶ子がいる。
「先生、なんで割っちゃうの?!」
「割ったら、頭いたくなる!」
すごい反応だ。
事実は、風船が割れる。風船の割れる音がする。
・・・というだけのこと。
(まてよ、・・・○○だけ、と思うのも、感覚だ。"事実"ではないな)
しかし、子どもたちの想像の中の、風船の割れる音は、巨大な爆発音で、耳をつんざく音、のようだ。
「じゃあ、遠くで先生が割るよ」
ステージまで持っていって、一つずつ割っていると、
「あれー」
と見にくる。
やれる?と聞くと、やれる、という。
そこで、割ってね、というと、試みる子が数人。
なかなか割れない。
ようやく割れて、
ホーッとした顔の男子。
「おれ、風船わったの、初めて!」
このセリフには、驚いた。
4年生で、初めて、とは。
そうなのかなあ。
他の子にあれこれと命令をする子がいる。
○○ちゃんとは遊ばない方がいいよ、と他人を操作しようとする。
どうして、彼女は、つねに人間関係を格別、気にしているのだろう。
なぜ、他人を操作してまで、自分の安心感を得ようとするのだろうか。
情報操作の仕方や、仲のよい子との人間関係の固定化をはかる言動。
それが、妙に、長けている。上手だ。
人間関係の海を、たくみに泳ぎまわっているように見える。
意識的にか、あるいは無意識的にか。
おそらく、男子のほとんどは、そんな七面倒くさい手続きや思考はなしで、生きている。
それでも、まったく平気なのだ。
しかし、彼女にとっては、こうする行為に、とても意味があるのだろう。
あるいは、あったのだろう。こうまで、心理操作の技術を身につけなければならなかった理由。
そうせざるを得なかった理由があるにちがいない。
生活がタイトなのか。
スケジュールがきつく、ストレスを感じているのだろうか。
あるいは?
どこで、こういった情報操作の技術を、学んだのだろう。
この子が、本来持っていた、技術なのではない。
発明したものではない。どこかで、習ったのだ。学んだのだ。
学ばざるを得なかった、なんらかの、理由があったのだろう。
事情を理解しつつ、この子に、どう接していけば良いのだろうか。
現実的に、彼女のおかげで、混乱し、困る子がいる。
一人ではなく、数人が、困惑させられている。
時期をずらして、複数人が、入れ替わり、惑わされ、困り、相談に来る。
人を脅すような言葉に慣れていない子は、いわれただけで、びっくりするのだ。
「○○しないと、もう絶交だからね」
にらむような目つきで言われて、混乱する子が多い。
この子を、救うには?
あなたは、ありのままで、愛されている、と、伝えていくには?
人を操作しなくても、あなたを好きな人はたくさんいる、と伝えていく。
教師は、そのための、手段を見つけなくてはいけない。
さて、どうやって??