30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2008年05月

「○○小まつり」より「プール掃除」が




プールを掃除する。

4年生と3年生で、プール槽の外、つまりプールサイドや更衣室やくつ箱、を清掃することになっていた。

3年生の先生と打ち合わせをして、先に4年生がやることになった。
その後の残り、やりきれなかった分を、3年生がする、というのだ。

4年生70人。
それが、思い切り仕事をして、
「やった!」
となるには、と考えた。

とにかく、中途半端で終わりたくない。
役に立った、というヨロコビを味あわせてやりたい。
いつもの簡単清掃ではない。
いわば、非日常のそうじ。美化作業。イベントだ。
掃除まつり、だ。


掃除の内容と、道具をできるだけたくさん集めた。
ほうき。ちりとり、箕、石を拾う缶。ぞうきん。
それらを豊富に用意して、
やりきったヨロコビ、充実感、達成感を味わう。

やってみると、やはりその意気が伝わるのか、子どもたちもどんどん動く。
つるくさを引っ張ったり、排水溝に挑戦したり、なかなかすごい。
本来、子どもはやる気にみちている、のだ。
めんどうくさい、というよりも、おもしろいこと(=みんなでやるとすごくきれいになること)・・・が起きるのでは、という興味の方が勝っているのかな。

4年生がそれなりにがんばって、3年生にバトンタッチした。
しかし、まだやりきれていないところがある。
プールサイドの四隅も、わずかに土が残っているし、排水溝も若干つまり気味だ。
下駄箱だって、数が多すぎて、まだきちんと拭けていないし・・・

3年生が、時間になって現れた。
まだ十分ではないけれど、あとはおまかせします、よろしく。と言って引き上げる。

その後、3年生の先生に尋ねてみると・・・


「いやあ、すごいきれいだったんで、プールの中のおたまじゃくしとか、見てました。すぐ終わっちゃって・・・そうですねえ、15分くらいで帰っちゃいました」


とのこと。


このとき、とっさに出てきたのは、しまった、という感情。
○3年生に仕事を残しておくべきだった。
○もう少し、区分をはっきりさせておくべきだった。

3年生だって、仕事を思い切りやる、ということを楽しみたかったかもしれない。
元気な男の子たちが、
「先生!こんなに拾った!」
といって、石拾いの缶を差し出すシーンが4年生にはあったが、3年にはそれがなかったのではないか。

「すみませんでした」

というと、

「いえいえ、こちらこそ、4年生にずいぶんやっていただいてすみませんでした」

という。

まあ、それはそうなのだが、やはり、こちらが謝るべきだろう、と考える。

なぜなら、プール掃除=こなさなければならない仕事、というだけではないからだ。
それは、子どもたちの楽しみであり、成長のチャンスであり、味わいの対象である。
ほとんど、4年生だけが、味わってしまった。


考えてみると、こういった「仕事」ということが、学校にはもっとたくさん必要な気がする。
その代わり、親の楽しみが先にあるPTA行事や、○○小まつり、朝の全校集会や音楽朝会、そういった行事の類はほとんど、不要だ、という気がする。子どもが、つまらなそうな顔をしているから、同情する。

もっと、ホントは、子どもは、エネルギーがあるよ。
「○○小まつり」、より、「プール掃除」の方が、よっぽど真剣で、いい顔してたな。




初任研で出張




学級経営案をもちよって、初任者が集った。
指導主事のお話を聞く。
それぞれの学級の様子を出し合う。

「苦しいです。」

目の前の、スーツ姿の仲間が、口を開く。
冒頭から、重苦しい話題になりそうだ。

・授業の始まりに、時間がかかる。
・子どもたちの中の、リーダー格の子が、だんだんに威張りだしている。
・授業をどうしたらいいのか、わからない、・・・など。

どんな学級にしていきたいか、話し合う。

学級目標に掲げたもの。
ADHDや自閉症の児童に対応しようとして工夫して書かれた箇所。
学級経営案に、それぞれの担任の、苦心が見えてくる。

元気な学級、がんばる学級、という言葉が出てくる。

元気とはなにか。がんばる、とは、なにをがんばるのか。そもそも、がんばる、というのはどういう状態をさすのか。なにで評価できるのか。

いろいろと話し合うことになる。

うーん。
頭を悩ませるわれわれ、初任者たち。
むずかしいなあ。

あらためて、学級とはなにか、自分はどんな学級をめざすのか、考える機会になった。

自分の学級経営に、「一歩踏み出すクラス」という文がある。
この、一歩踏み出す、とは何か。

目の前の、他の初任の仲間に、尋ねられた。

踏み出す前と、後で、どんなちがいがでてくるのか。
子どもは毎日成長している。
そのことと、あえて、意識して、一歩踏み出す、ということのちがいは何か。
一歩踏み出すとは、カラをやぶることだ、と話した。


しかし、殻をやぶる、という言葉にしたって、それがいったい、なんなのだ。
具体的な、子どもの動く映像となって、自分にはそれがはっきりと具体的にえがけているのか。


子どもの強さや弱さ、課題、悩み、そういったものをひっくるめて、理解して、なお、本質的な「殻やぶり」をうながしていくこと。
自らの、内なる目的を知ろうとする人間に、育っていくための、「殻やぶり」でなければならない。
初任研の会合を終えて、それぞれ、駅までの、川のほとりの道を歩きながら、ぼんやりと考えが続いた。
ひさしぶりに、夕焼けの見える時間に、帰宅できるな。
駅ビルのガラスに、オレンジ色が照りかえる。
また、あした。




ピーマンの絵




ピーマンの絵を描いた。

昨年、同時期に、ソラマメの絵を描いている。
同じ絵ではつまらないだろう、と考えた。

ピーマンは、形がふにゃふにゃしている。
安く、たくさん、手に入る。

ただし、ソラマメほど、大きくない。
どうしようか、迷った。
題材として、どうか。
ふさわしいのか。


教科書では、絵の具を使った遊びが紹介されている。
それも実践してみたが、やはり、なにか、モノを描いて見たい、という気持ちがある。
絵の具遊びでは、絵の具を画用紙にボタボタと落としてみたり、スタンプのように模様をつけてみたり、画用紙をナナメにして、すじをつけてみたりした。

まあ、おもしろかった。

でも、「まあ」がつく、程度だった。

絵の具遊びが終わってから、子どもたちが、さあ、本番だ、という顔で、こちらをみている。

遊びは終わったよ、次が本番なんでしょう。今年は、なんの絵を描くの?
そういうことだ、と感じた。


生き物を描きたい。
本当は人間がいい。
秋には、校庭の大きなイチョウの木を描く。これはもう、予定されている。

でも、それまでに、もっともっと、パレットの上での色づくりや、筆先に集中することや、息を詰めて色を置いていくことだとか、重ね塗りをしない、ということなど、練習しておきたいことがたくさんある。
それを、今の時期に、少しでも、やっておきたい。
経験させておきたい。

そこで、野菜。
いのちあるもの。
旬のもの。

子どもの中のいのちと、向き合える素材。

本当はカナヘビでもよかったけど、動くからなあ・・・。


ピーマン。

小松菜やほうれん草でもよかったけど、葉脈とかがかなり複雑だ。
そこで、豆がいいかな、と思った。
あるいは、実か。

ピーマンを選んだ。

画用紙は、しろではなく、色のついた画用紙を子どもに選ばせた。
枯草色、くるみ色、灰茶色、くちなし色など、しぶい和風の色。
そこから、思い思いの色を、選んで、ピーマンをのせてみた。

1)じっくり見てみる。

半分にたてにわられたピーマンを、じっくり見てみる。
色をたくさん、見つける。
緑、白、というだけでなく、その中に、どんな色がまじっているか、発表させる。
たくさん色をみつけた子をほめる。

2)下書きする。

大体の形をとらせる。これは線描き、というよりも、うすめの線。
頭の中に、ピーマンの写真をとるつもりで、描いて覚えるための線だよ、と伝えた。
線は、あとで絵の具に消えてしまうからね、とあらかじめ伝えておいた。
塗り絵方式ではなく、今回は、線をも塗り消してしまう方式をとった。
今回は、墨汁の線を生かすような、絵手紙のようなものをめざしているわけではないからだ。


3)へたのあたりの色をパレットに作る。

へたの色をつくる。白、だけではない。黄土色、黄色、黄緑、灰色などに、白をまぜて、白っぽい色だけで、5色くらいつくる。これで、パレットの上半分が占められる。

4)緑の部分の色を、パレットに作る。

緑色の部分の色をつくる。これも、ただの緑やビリジアンだけではない。緑に、茶色、灰色、白、黄色、黄緑、赤などをまぜて、7色くらいの緑っぽい色をつくる。これで、パレットの下半分が占められる。

5)へたの色から、塗り始める。一箇所を塗ったら、そのとなり、そのとなり、という具合に色を変えながら、ぬり進めて行く。
とびとびで、塗ったりはしない。目がうろうろしないためだ。ここ、という場所を見て、目をうろうろさせず、隣の色、隣の色、というように、色の変化をたしかめて見ていきながら、パレットの色を駆使して、塗り進めて行く。

これで、4時間集中。(2日間)

ピーマン。
みんなが、それぞれ、やった、という顔のできる作品に仕上がりました。


別の先生に見ていただいたところ、いいね、というお褒めの言葉とともに、色の作り方が、もっともっときめ細かくなるレベルのお話をしていただきました。
「12色の絵の具だと、こんなものかもしれないけれど・・・」
ということでした。

12色であっても、赤紫、灰色、エメラルドグリーン、などを単色でチューブ購入jして、それぞれの児童がもっていれば、かなり深みの有る色が出せる、ということでした。

ふーん、奥が深い。




総合で環境問題・・・本がないよ




総合的学習、で環境問題を扱う。

最初、環境問題を、かなりしぼった方がよいのではないか、と考えた。
水、とか、農、とか、食、とか、というふうに。

なぜなら、環境問題、というのが漠然としすぎていて、難しいからだ。
さらに、環境問題、という言葉で、本をさがすと、たいへん難しい本ばかりである。

つまり、4年生にとって、ふさわしい本が、あまり見つからない。
サイトをさがしても、「環境問題」のサイトは、簡単ではない。
シンプルな、子ども向けの、サイトは見つからない。
(もし、これを見てくださる方の中で、4年生向けのサイトや本をご存知の方がいらしたら、ぜひともコメントをくださるようお願い申し上げます。とても助かります)

それで、環境問題、という切り口ではなく、授業として成り立つ内容を教師が選択して、それを資料にして、子どもたちがさぐっていく、という形を考えた。

ところが、これがむずかしい。
総合、の授業を、わたしが担当していないのだ。
臨任の、初任者の時数を担当するために来られた方が、総合の授業担当をしてくださっている。

その先生と、学年主任と、わたしの3者で、総合の時間をどう進めて行くか、考えた。

ところが、あまりいい案が出ない。

子どもたちに家で本をさがさせて(といっても本が家にあるか疑問だが・・・)、それでやってみましょう、となった。

案の定、子どもたちは、「家に、本なんてないよ」とのこと。

さて、どうするのか。

サイトはむずかしい。
図書館には本が少ない。あっても、高学年以上向けだ。なにしろ、単語が難しい。
「これ、なんて読むんですか」の連発だ。
辞書でしらべなさい、と言っていたが、辞書をひく回数が多すぎて、調べ学習にならん。
つまり、調べ学習というものの、なにをたよって調べたらよいのか、皆目わからない。

おそらく、総合の時間、調べ学習、ということでの苦労なんだろう。
多くの先生が、おそらく、通ってこられた道なのだろうと思う。


わたしも、まったく同じ、道をたどって、同じように悩んでいる。
歴史は繰り返すのだ。

さて、総合の時間。
環境問題をしらべる力を身につけさせる。

国語辞典を片手に、遊びだす子どもたち。

「本がないよ」
「なにみたらいいの」
「この漢字、なんてよむんですか」
「土壌って、なに」
「汚染ってナンですか」

こういうとき、すべてに、こう応えている。

「国語辞典で、しらべなさい!」


総合の時間で、国語の辞書をフル活用している。
フルに。
つまり、全部、ということ。

国語の時間に、辞書を引く練習をたっぷりやっていて、本当によかった。

・・・で、いったい、なにをしらべりゃいいんだ?
悩みは尽きない。




放課後、黒板にメッセージを書く実践




放課後、静かな教室で、じっと考える。

机をみまわし、今日の、その子の、動きを思い起こす。

その日に、見つけた良さを、記録する。

目標がある。
一日、3人。
もっと書ければ、書く。
書けないときも、3人、3人、と唱えて、書くように努力する。
自分に、それを、課す。

八つ切りの画用紙の、半分。
リングに通し、児童のカルテとする。

これに書くだけでなく、黒板に板書する。


○○さん、そうじのとき、うしろの本棚を特別にきれいにしてくれます。
みんなが気持ちよく過ごせますね。

○○さん、今日の理科の実験は、力が入っていましたね。集中していたね。みんなのお手本になります。

○○さん、体育の時間に、急に、オニやってね、といったのに、すぐに協力してくれました。さっと動ける身軽さは、みんなのことを考えられる心が育っているからだと思いました。ありがとう!


これを、「一日一光発見」というのだそうだ。



このことの効果は、子どもにもあるのかもしれないが、一番如実なのは、教師のほうの精神衛生を保つ、ということだ。
自分が、明るくなる。
自分が、子どもが好きだ、という実感が、よみがえってくる。
これは、なによりも大切なことだと思う。

ほめて、子どもがよくなるか。

本当はどうか、分からない。

でも、自分が「子どもが好きになる」のは、実感があるから、たしかに分かる。手ごたえを感じる。

今、これをはじめて、ちょうど一週間。
いつまで続くか。取り組んでいる。

ほんの森出版、月刊学校教育相談 2007年6月号。
先輩にいただいて、読んでいる。
この冊子に、山田暁生氏が執筆、掲載されていた。




図工の授業は一番難しいと・・・




だんだん、図工の授業がいちばんむずかしい、と思うようになった。

図工で、子どもたちを満足させられる、ということは、相当な力がある証拠なのではなかろうか。
・・・と、最近、思うようになった。

絵をかかせるにも、筆がすすまない。
色をつくらせるにも、手がうごかない。
まじめで、ふだんがんばれる子が、そんなふうになってしまうのだから、

アレレ

と思う。

ほめる。
ほめちぎる。

それで、うまくいくか。

うまくいくように思うときもある。

実際、それしかない、と思ってもいる。

感動する。
驚嘆の声をあげる。

だいじょうぶ、と低めのトーンで、伝えてあげる。

いいじゃない、と、耳元で言ってあげる。

おお、この色、よくつくったねえ。

ここ、おー、集中した証拠だ!

これは工夫したぞ。

これは、ていねい、だねえ!!

いろいろと言ってみる。

しかし、本当に、はげます、というのか、
いいぞ、いいぞ、ということを、伝えなければならない。


でなければ、すぐに、子どもたちの自信がゆらぎ、
作品が、すーっ、と、音をたてて、しぼんでいく。

あーーーーーーーっ、せっかく・・・

と思うのだが、

彼らの心や気持ちのエネルギーを、ぼんぼんとふくらませるまでに、
いたらないのだ。


国語、算数、理科、社会、そんな教科だったら、ここまで、如実にならない、と思っている。

図工が、きびしい。
子どものエネルギーが、テキメンだ。
テキメンに、作品にあらわれる。


おそろしや、図工。

教師は、図工ができれば、すべてできる、のではあるまいか。

児童が図工で満足すれば・・・、

教師として、かなりの線、いい線をいっている、のではあるまいか。


だから、図工が気になる。今のままでは・・・、と唇を噛む。




正義感の強すぎる子 その1




正義感が強い。
本来なら、褒めてしかるべきだ。


正確には、「正義感が強い」とは、少しちがうのかもしれない。

神経質、というべきか。


他の教室へ移動するために、整列する場面。

「ならんでください!」
「しずかにしてください!」
「右に寄ってください!」

整列させる係り、というわけではない。
だが、これを、ずーっと言い続ける子がいる。


周囲の子が、なんだこいつ、へんなことばかりいうな、という感じで見ている。

なんだろう。

どういうふうに、この子を、みていけばいいのだろう。




「あいつだって、やったよ」




物を投げる、という態度を、きびしく戒めている。

なにもそこまで、という意見もあるかもしれない。

だが、教室の中で、物がとぶ、という状態が、ふつうではない、という気がしている。

最初、ケシゴムのカスが、飛んだ。

すぐに立たせた。
なにをしたのかを確認し、クラスのルールとして許さない、ということを伝えた。
趣旨も伝えた。

手から離れたものは、どこへ飛んでいくか、コントロールすることができない。
とっさにそこへあらわれた、友だちの目に入ることだって、ある。
危険なものが飛んでいた場合、一生をつぐなうことにだってなる。

目から血が出たときの話をする。
何も見えなくなる。
角膜が傷つき、角膜を交換するために膨大な順番待ちがあることを話す。

一番傷つくのは、投げた本人だ、ということを告げる。

また、物を投げる、という行為が、その人の心の質を落としてしまう、ということを話す。
球技やボールを広い場所で投げる、ということではない。
教室で、みんなのためにあるもの、みんながお勉強する為に用意されたもの。
それを投げるということは、物の背景にある、多くの人の願いを馬鹿にすること、ふみにじること。
それを感じていないにしても、自分では気がつかないでも、心の質が、落ちて行く。

という話をする。


こうして、4月、5月、とすぎてきた、昨日。


中身のない、給食着を入れる袋が、ふぁーん、という感じで、教室のうしろを飛んだ。

目撃し、すぐに子どもの動きを止めた。
「今、なにかが飛びました。ナンですか」

動こうとする男子の、身体の動きを制する。

「止まりなさい。だまって、こちらを見なさい」

「もう一度。・・・なにが飛んだか、分かる人、いいなさい。」

すると、こんなふうに声がした。

「Tだって、やったよ!」


出た。
あいつだって、やったよ、だ。

窮鼠、猫を噛む。

自分の不利を見て取ると、がまんができず、公平さを求めるのだ。

待ってました。
これを、待ってた。

「Tさんが、何をしたのか、Kさん、言いなさい。」

「Tくんが、最初に、落ちてた袋を、投げました」

「そうか。Tくんが、最初に投げたんだね・・・。Tくんが投げたのを、他に、見ていた人はいますか?・・・ははあ、何人かいるみたいですね。ところで、Kさん、あなたは投げたのですか?」

「・・・はい」

「Tさんと、Kさんが、投げたのですね。Tさん、投げましたか?・・・はい。他にはいませんか。」

「いません」



おそらく、あいつだってやったよ、という言い方は、悲鳴に近いものなのだろう。
自分がやったことを暴露しながらも、捨て身になって、全体の処罰の公平さを求める、ということなのだ。
これが出ると、カタがつくのが早い。

けんかなどでも、事実をジリジリと詰めて行く途中で、ぽろっと、このセリフが出てくることがある。
そうなると、事実が見えるのはもう、間もなくだ。


「あいつだって、やったよ!」
が、以前はいやだった。
仲間を非難する前に、素直に自分の非をわびるべきだ、と思っていたからだ。
だが、よく考えてみると、今やりたいのは、子どもの非を責める前に、事実を明らかにしたい、ということなのだ。
事実を明らかにする前に、叱ったり、非を責めたりすることは、まずい。
それに、
こちらは、子どもが一見、素直そうに謝る姿を見たい、のでもない。

まちがった行動や社会的に迷惑な行動を、是正したい、正しい姿を伝えるのが叱る目的だ。

「Tくんもやった」というセリフは、事実を明らかにするためにこそ、扱うべきである。
さらに、事実を明らかにする為に、とても大事だし、活用できる大切な証言である。
「きちんと、言ってくれたな」と、という感じさえしてくる。


・・・と考えてくると・・・、

「Tくんだって、やったよ」
「TくんのことはあとでTくんに聞きます。あなたはどうなの!」

という対応では、「Tくんだって、やったよ」というセリフを言ったこと、すなわち、セリフを言う行為を自体を叱った、感じ・・・になってしまう。
だから、目的にそぐわない。


「Tくんだって、やったよ」
「Tがやれば、あなたもやるんですか!人のことを言う前に、自分のことをしっかり反省しなさい!」

という対応でも、その「Tくんだって・・・」のセリフを言う行為そのものが、非難されている。
これは、見当違いだろう。


・・・と考えて・・・

「Tくんだって、やったよ」

この手の報告、このタイプの証言については、ああそう、というふうに聞いて、すぐにそこから、事実を明らかにするのがよいと考えるようになった。




「お友だちに、笑われちゃうよ」




土曜日。
幼稚園の親子レク、というイベントがあった。

入園やクラス替えのあった機会に、親子ともども、親睦を深めようとするものだ。
親もかなりの数が参加している。
100人程度の児童数、両親やジジババも含め、300人程度のビッグ企画になった。

これが、幼稚園の周囲の路地や神社仏閣や公園をポイントラリーで歩く。
班に分かれて、クイズやゲームでポイントをかせぎながらゴールをめざす。

なかなかの企画だと思った。
発想もよいし、なによりも目的にかなっている。

友だちのいないママだって、参加しているうちに、いつしか会話を楽しむようになっている。

きわめつけは、ラリー途中の公園。
幼稚園の父母でうめつくされていた。
なにをしているのかと思ってみてみると、バレーボールを落とさずにできるだけ多くパスをしあう、というもの。

これが、熱中する。
それまで黙っていた人も、大声を出しながら参加していた。
おもしろかった。




ところで、道中、ずっと
「ママ、だっこ」
と自分で歩かない子がいた。
ママとパパが最初から最後まで、ずっと抱っこ。

で、その間、ママの言葉かけがすごい。

「ほら、あんただけよ。歩いていないの」
「お友だちに、笑われちゃうよ」
(すれちがった友人に 「○○さん、見て!ほうら、でかい赤ちゃん。自分で歩けないの」
「笑ってあげて。この子、赤ちゃんなの」


これを、ずーーっと続けていました。


当の女の子、ずっと泣きべそ。

お父さんもお母さんも、ちっともわたしの気持ちを、知ろうとしないんだな。
わたしの気持ちなんて、関係ないんだな。
お父さんもお母さんも、自分の都合優先で動くんだな。


たっぷりと、こういう感情を、学んだ一日だったのだろう。
まだ、さびしそうな顔ができるから、いい。
そのうち、さびしい顔すらできなくなる。
これが、当たり前だ、ということで。

そうなると、そのさびしさを、どうやってまぎらすのだろうか。
平気な顔で、どんなことをするのだろうか。




給食に魔法の水を-保護者より




個人面談。

いったい、どうしたらよいのか。

母親が、目の前に、小さなペットボトル容器を差し出した。

「これ、家で使っている水なんです」

この方の面談時間も終わりが近くなり、あとは算数の勉強の話などして、そろそろお終いにしよう、と考え始めた矢先だった。

コーチの鞄から取り出した、その容器を前に、なんじゃこりゃ、理科の実験で使うのかな、とのん気なことを思った。

すると、お母様の口が動いて、こんなふうに言うのが聞こえた。

「これを、給食にかけて食べさせたいんです」

いつものくせで、すぐには反応、即答しない。
深くうなずきながら、話を聴いている。
できるだけ、共感したい、との思いからだ。
言葉をえらぶのは、たしなみだし、教師の良心だ。

頭が混乱した。

「ほー、そうですか」
(いつもの口癖だ)

頭がまっしろになる。

「・・・ということは、・・・・水かかって、水びたしになるんじゃ・・・」

と言いながら、馬鹿みたいな返答だな、しまったな、と思っている。

ピンクのブラウスに、大き目のブローチをつけ、それに似合う大きな目をくりくりさせながら、母親が身をのりだしたのが分かった。

「ええ、そこまでふりかけなくても、効果があるんですよ」

舌なめずりこそしなかったが、母親の説明意欲にスイッチが入ったらしかった。

それから、3分間、この水の、すばらしい効果が語られた。
・保存料が無害になること
・添加物が無害になること
・おいしさが増すこと
・健康になること

「・・・ほー、そうですか・・・」
また、言った。

それから気を取り直して、

「なるほど、そうして小さな容器に毎日入れて、持参されるわけですね」
「はい、もう本人も分かっていますから」
「給食のたびに、水をかけたかどうか、聴いてみることが必要でしょうか」
「いえ、それは大丈夫です。本人が勝手にやるので、先生のお世話は要らないと思います」

そこまで話して、次の疑問が湧いた。

「それを毎回取り出してふりかけている姿をみて、おそらく他のお友だちが興味をもつと思います。中には、ひやかすような言葉をかけたり、なんでそんなことをするのか、としつこく尋ねる子もいるかもしれません。ちょっとそのあたり、心配ですね」
「ええ、そうしたら、その子にも、かけてあげていいです。これ、いい水だよ、と教えてあげたらいいんじゃ・・・」
「ああ、本当にいい水だ、ということなんですねえ・・・。しかしまあ、給食については、保存料についても、添加物についても、安心なようにつくられていますので、ご心配はいらないと思います」
「まあ、そうは思うんですが、たとえ微量であっても気にはなるので、やっぱり水をかけてやりたいんです」


遠まわしに、そんなことはやめてほしい、と伝えているつもりだが、通じない。


「保存料を無害にするため、ということでS君が納得しても、周囲のお友だちはなんでわざわざ、と不思議に思うでしょうね。ぼくの食べているのは、おかしいのかな、水をかけないといけないのかな、と」
「ええ、できたら、みんなもかけたらいいのに、と思っています」


ここまで話して、どうして、自分は、この件について、やめさせたい、という気持ちが強く湧いて来るのかな、と思い始めた。

要するに、教室の中で、一人だけ変わったことをする、という状態になるのがいやなのか。

あるいは、S君の行為の前提としてある、
「みんなの食べている給食は害がある(かもしれない)」
というような感じ方が、いや、なのか。

給食は、安心だよ、みんな、そのまま、何も疑問を持たずに、食べたらいいよ。

できたら、そう思いたい。そう、子どもたちには言ってやりたい。

S君の行為を認めたら、そんなセリフは言えなくなりそうだ。

「給食に、ケチをつけるな!」

というのが、今の自分の正直な気持ちなのかもしれない。

S君の行動が、拒否したくなっている。


しかし、S君の行為は、給食にケチをつけるのではない。
不安を解消したいのだ。
まるで、おまじないのようなものだ。

・・・と、そう考えたら、気が楽になるだろうか。


給食の食べ方に、二通りある。

害があるかもしれない、と考え、おまじないをして、食べる、食事法。
もう一つは、
無害だろう、と考え、そのまま信頼して食べる、食事法。

あ、もうひとつ、あった。

害があるか、無害なのか、よく分からない。
だが、そんな調べようのないことにこだわることをやめ、ただ、ありがたく、いただく、という食事法。


害があるか、それとも、ないか。
あるかないか、の土俵には乗らない。そんなことでの討論には参加しない。そんな試合にはでない。

害があろうがなかろうが、今、食事のできる幸せをひしひしと感じつつ、ありがたくいただく。
味わっていただく。
食事の背景を知り、生命のありがたさを思い、農家の営みをイメージし、調理の風景を心に思い浮かべながら、あじわっていただく。


子どもたちを守り育てるには、こうした指導が必要なのだろう。
食事自体が、食事行為そのものが、豊かであれば、水かけ問題も、気にはならないし、次第に雲散霧消するのではないか。
なによりも、親に言われて、水をかけずにいられなくなっている、その子が。
魔法の水をかける必要のない子に育っていくのではあるまいか。



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(※以下、2011年3.11 福島原発爆発以後に追記)

(放射能を気にしなくてはいけない時代になったので、そもそも給食を食べない、という選択肢も当然あります。それは事が事ですから、お互いに認め合えるようにしていくのがいい。おまじないの水もいいけど、そもそも食べない、という選択肢はとても明確でいい。放射能は数値で出てくるのだから、科学的だしね。心配なら調べればよいのだ。で、その数値を見て、いや、やめとく、というのか、まあ、いいだろう、というのか。それは親と本人が判断すればいいことだ。どちらにしても、判断の根拠や、行動・考えについて、Aがいい、Bがいい、とどちらにしても好きなことをすればいい。まったく否定は要らない。)




コーディネーター




○○先生がこうしているのは、こういう意味があるんじゃないかと思いました。
△△先生が、ああしているのは、これこれこういう効果があるんじゃないかと思いました。

お互いのやっていることを認め合うこと。
そして、学級担任がやろうとしていることを、認めていくということ。
担任に、寄り添う姿勢でいること。
担任のやることを否定しない。
がんばっているところを認める。
その上で、支える方法を提案してくれる。
そして最後になって初めて、意見を言ってくれる。

こういうコーディネーターが居る。

とてもありがたい。
感謝すると共に、こんなコーディネーターのいる学校、市、にともに居られることの幸運を感謝したいと思う。

担任は、日々の対応、今日のことで精一杯だ。
自閉症児、あるいは叱ってくれる人のいないまま育った王様、たばこのにおいをさせる子、その子たちに向かうエネルギーだけで、精一杯なのだ。

その担任を、「だいじょうぶだからね」と支えてくれる、サポーター。
支援コーディネーター、あるいは管理職がいる、ということ。


どれだけ、心強いか。
明日、こうしてみよう、とアイデアが湧くのも、知恵が働くのも、気力がもつのも、すべて、支えてくれる仲間がいる、という強い安心感だ。


あなたも大事だけど、クラスのほかのみんなも、大事なのよ、と言い続けた担任の先生がいる。
叱るのではない、諭すのでもない。
わたしのつぶやき、実感、ことば。
ひとりとひとりの、向き合った、人間どうしの言葉。

対話。


あなたはもちろん大切な生徒だ。わたしの子だ。だから、あなたにも学んで欲しいし、楽しんで欲しい。友だちとの交流もしてほしい。学校が本当は楽しいところだ、ともう一度、知って欲しい。
そのために、先生は努力するよ。
しかし、あなたの身勝手は、あなただけの問題じゃない。クラスの他のみんなを、先生は大切にしたい。あなたも大事だけど、クラスのほかのみんなも、あなたと同じように、先生は大事なのだ。
先生の大事な子を、馬鹿にするようなことだけはしないでほしい。
そして、あなたは、それをちゃんと分かっている、ということを知っているよ。



クラスを飛び出し、勝手気ままにふるまう態度。
いろんな先生を右往左往させ、心配させ、他の子のびっくりしたような顔や目を楽しむような行動。
おれは、これだけ、大人をふりまわすことができるんだぜ!アンチヒーローだ!!

その手は食わない。
静かに対応する。
そして、落ち着いたとき、呼吸が深くなったとき、ふっと軽くなったとき。

「あ、落ち着けたね」
「お、5年生らしくなってきたね」


潜んでいる気持ち、隠されている、本当のやる気の心に、うったえる。

子どもはみんな、本来、やる気に満ちている。

そう、信じて、仕事に向かうのだ。
教師は。



それを、自分の生活や時間をかえりみず、懸命に成し遂げようとされている先生方がいらっしゃる。
そういう先生方と、同じ学校にいられることを、誇りに思う。

そして、その先生たちを、誇り高くさせてくれているのが、

わが校の、特別支援コーディネーターの方たちだ。




保育園長さんとの対話




思うところがあり、近くの保育園へ出かけ、園長先生と話した。

ゆったりとした園庭。
にこにこした園長先生。
笑顔がとびきりだ。

この笑顔で迎えられたら、子どもたちもさぞうれしいだろう。
プロの笑顔。
昨年、40周年を迎えられたそうだ。
10年間の無認可期間を経て、苦労して、この園を育ててきたのだ、ということだった。

園をつくってきた、という自負がある。
自信と、学ぶ姿勢が共にある。そんな園だと感じた。

園児が食事をする場所に案内された。
広いテーブルに、大皿。
みんなで取り分けて、いっしょに食事をするという。
お茶をいただきながら、園の話、それから卒園生の話をお聞きすることができた。


「私も、小学校の先生と話をしたかったのよ」
と、気さくにお話をしてくれた。
ありがたかった。


園長先生が、今一番気になるのは、「気になる子」たちの5月、だそうだ。


3月、保育園の卒園式。
みんな晴れがましく、卒園していく。
どの子も、精一杯の成長をなしとげて、保育士や保護者の愛情をたっぷり受けて、たくましくなり、卒園していく。

しかし、5月になると、気になるニュースが舞い込む。
園の電話が鳴り、

「朝になると、登校をしぶるようになったんです・・・」
という、保護者の電話。
誰にも相談できない悩みを、なつかしい保育園の園長に相談しようとするのだろう。


「どんな問題のある子でも、多動の子でも、自閉症かな、と思う子でも、園ではたっぷりと面倒を見る。どの子も、ここの暮らしを味わっている。そして、祝福されながら、卒園していく。だって、大きくなることは、うれしいでしょう。小学校へ行くんだ、といって、胸を張って卒園して行くんですよ。だれだって楽しみにしています。それが、5月になると、きまって妙なニュースになって、耳に入るようになるんです。学校が楽しくないって、朝になると暗い表情になるとか、行きたがらないとか・・・」


お聞きしながら、うーん、そうですか・・・と黙るしかなかった。


楽しみにしていた学校が、楽しくない、というのだ。

保育園とはちがう。
生活がちがう。
くらしがちがう。
スタッフの人数がちがう。
先生と生徒の割合がちがう。
スケジュールがちがう。
カリキュラムがちがう。

ちがう、を挙げたら、キリがない。


だから、小学校では、そこまで面倒が見切れないんですよ。
小学校では、できることしか、できません。
できないことは、できないんです。

そう、言うしかない。


しかし、・・・そう言いながら、歯軋りをする。



卒園式のビデオを見せてもらった。
園児が、先生たちといっしょになって、歌い、おどっている。
卒園のシュプレヒコール、歌、リズム・・・。

「○○小学校へ行きます!」

晴れがましく、大きな声で、一人ずつ、宣言するシーンがあった。
どの子も、誇りに満ちた顔だ。
いい顔、というのは、こういう顔だろう。


この顔を、暗くさせることの罪。
子どものせいに、してはならない、と思う。

行きにくさは、すなわち、生き難さ、なんだろう。
学校という巨大な装置の中で、暮らしていくことについての、大きな困難が、あるのだろう。
困難を、その子のせいにして、知らんふりを決め込むのか、どうか。

周囲の理解が、何より必要なことだ、と佐々木正美先生はおっしゃる。

特別支援学校が手一杯でとりこぼした子を、特別支援学級が引き受ける。しかし、そこでも「手一杯」で、こぼれおちた子がいる。
それは、通常学級にいる子だ。
どの学級にも、いる。

その子たちが、耐えられる学級、授業、行事、を組み立てていかなければならない。

まず、学校の行事を減らすことだ、と思う。
多くの発達障害児のために、日々の変化をできるだけとりのぞいた教育課程をつくることだ。
これができないと、
「まず、子どもありき」
の学校にはならないのだろう。

さて、10年後、この文章を、自分自身が、どう読み返すのだろうか。
悔し涙で読み返すのか、それとも、別の感慨をもって、読み返すことができるのだろうか。




個人面談でなんだか泣けてくる




個人面談。

初日。
紺色のスーツ姿で迎える。
教員も保護者も、両方とも、いくぶん緊張している。

不思議なことに、今日はこんなことを話してくれました、というたわいのない、一つのエピソードを話しただけで、とたんに打ち解けて行く。
おもしろいな、と思う。
同じプロジェクトチームの仲間、という感じがする。
気分は、戦友、だ。


おそらく、お互いの脳みその中に、同じ子どもが生き生きと描かれているからだろう。
大人が二人で、一人の子どものことを話し合っている。
そのことが、すでに、「あたたかい」光景なのだと思う。



あの子、こんなところがあるんですよね
そういえば、この間はこんな話をしてくれました
今日はお友だちとこんなことをしていましたよ

話すほどに、保護者の顔がほころんでいく

△△さん、がんばっていますよねえ
それはお母さんが大好きなんですね
やっぱり、ちゃんとわかっているんですね
道理をわきまえているから、そこでハッとするんですよね
けっこう、慎重な姿勢があるんですね
みんなを楽しませたいんですね

いろんな回答が、自分の中から湧いて来る。



あるお母さまと話しているうちに、なんだか泣けてきた。

子どもが兄弟げんかをして困る、という話だった。
どういうふうに対応しているか、お母様が語っていた。

毎日けんかばかりで、本当に困るんですよ。
下の子に、つらく当たるんです。
最初に謝りなさい、というんですが、むくれているんです。
素直じゃないんです。
兄なんだから、と言うと、でも下が悪い、と頑ななんです。
それでワタシ、もう知らない、と言ってやるんです。
お母さんは悲しいワ、と言って、別の部屋に行って、食事の片付けをしています。

すると、そのうちに、

お母さんごめんね、ごめんさない、といって、兄弟げんかをしたことを謝ってくるという。
そのことを、何度もくりかえして、お母様が話をされた。

そのときは、弟の手をひいて、兄として先に謝らなきゃ、という感じだそうだ。

「弟も、そのときはしおらしく、兄の後をついてくるんです。」

そういう話をしながら、お母様は、涙でにじんだ目をしていた。

なんだか、子どもがいじらしくて、ならなかった。

○○くん、お母さんが大好きなんですね。
きっと、それは、お母様がいつも○○くんに、「あなたが大好きよ」と伝えていらっしゃるんでしょう。それが、きちんと伝わっているんですね。

子どもは、ちゃんとわかっていますね、と、二人でにっこりした。

教室を出るとき、深々とおじぎをされ、一年、よろしくお願いいたします、とおっしゃった。
同じことを、本当に言いたくなった。
こちらこそ、と言った。

子育ての幸福とは、何だろうか。
子どもにとって、お母さんの存在がいかに大なるものか。
それを知っているかどうか。


お母様の歩かれていく後ろ姿と、廊下に校長がかざった、白い蘭の花がかぶさってみえた。




アジナイホール・・・モンゴルの音楽




少し前のことになるが、モンゴルの音楽グループ、「アジナイホール」を聴きに行った。

昨年度の学年主任の先生が、

「教師は、心のエネルギーが要る。たえず、自分の心に、さまざまな形のエネルギーを貯蓄していくこと。いくら貯めても、貯めすぎることはない。それは必ず、子どもたちにもたらされていくからだ。そして、貯蓄を怠ったときから、カスカスの教育に落ち込んで行く」

ということを、常々、おっしゃっていたからだ。

心のエネルギーを、どんな形でたくわえていくか。
それは、各々のスタイルややり方があるのだろう。

ひとつは、芸術にふれることだ。
そして、人間、大地、自然、というものにふれることだと思う。

今回、馬頭琴やホーミー、モンゴル琴などの演奏を聴き、一体何を、心に涵養できたのだろうか、と考えた。

舞台に目をむけ、生の演奏家の顔や表情、身体、筋肉の動きをみてきた。
呼吸を感じてきた。
メンバーどうしの、息の合わせ方を、感じてきた。
一番前の席で見たのは、そんなことも感じたかったからだ。

大きなホールで、それも巨大な左右のスピーカーで聴くのだから、もっとも音のよい席はおそらく、ホールの中央部分か、それよりももっと後ろの方なのではないか、と思う。
しかし、表情までリアルに感じられるのは、最前席ではないかと思った。

NHKの新シルクロードでは、ユーラシア、大陸、中央アジア、東西文化の交流、というようなイメージがふつふつと湧いてくる音楽が聴けた。
ヨー・ヨー・マの音楽。ふだん聴きなれない音であるからこそ、理解する、というよりも直感的に感じることの多い音楽だと思う。好きだ。
それと同じような感想を抱いた。巨大な草原の風景、馬の走る風景、スーホー、というような単純なイメージではあるけれど、ふだんの日常では見えない景色が、心の中にひろがって感じ取れた。

チュカ、と呼ばれるモンゴル琴の名手。
ものすごい集中力。
若いのに、すごいなあ、とプロ意識を感じた。

馬頭琴の二人もおそらくこの道で精進する、と決めているのだろう、純粋なプロ、という感じ。
なんだか、うらやましくなる。どうして、そういうふうに、自分の「懸けていく道」というものにめぐりあえることができたのだろう、と思う。

モンゴル、という国について、知っていることは少ない。
断片的な知識しかない。
だが、今回、モンゴルの古典楽器や民俗音楽にふれることで、こういう旋律や音楽をつくりだしてきた人々、歴史、というものに、思いをめぐらせることができた。それが、たとえ1時間ほどであったとしても、日常をはなれて、心を遊ばせて見る、ということが、心の涵養になっていくのではないか。
帰りの電車の中で、そんなことを考えながら帰宅した。

20代に農村で出会った友人がいる。
地球環境の保全活動のために、懸命に心を砕いていた友人だ。
その友人のお母様が、ソプラノ歌手として、今回のコンサートにゲスト出演した。
ホールで、旧知の友人に会った。
それも、またうれしい出来事であった。




国の不幸




前述の、著書を読み込んでいる。

「発達障害の子どもたち」杉山登志郎・著

泣けてくる。

P206

「通常クラスには参加できない高機能自閉症の児童の保護者が、ようやく特別支援クラスへの転級を納得したが、実際に行かせてみると個別への対応は何もなく・・」

個別の対応がないのである。

「多動で言葉もない子どもに、体力のないお年寄りの担任が完全にかかりきりで、また挑発を繰り返す別の多動児が他児にいじめを繰り返すのを担任は止めることもできず、特別支援クラスが学級崩壊状態であったという例・・・」


二回、泣けてくる。
一つは、このような現状が事実ある、ということ。
二つ目は、特別支援級では多動児の面倒を見切れない、という理由で(!)、特別支援クラスから通常級へ戻される自閉症児がいる、ということだ。


二つ目の例は、この著書には書いてない。あまりにも非常識なので、著者の杉山氏もご存知ないのだろう。わたしの近隣校の先生に伺った実際の事例である。


悲劇なのは、この児童であり、両親である。
こうした児童に対して、何をしてよいか混乱している学校と、地域である。
特別支援にエネルギーをかけるべきだ、と感じている人は多い。
教師もほとんどがそうだろう。
なのに、そうならない。
歯軋りをしながら、毎日学校へ通う教師が、不幸だ。

不幸な教師をかかえた、国こそが不幸だというべきだが、国は責任を放棄しているようにさえ見える。だから、弱い。

責任をもたないという姿勢は、弱いのだ。
弱いから、見捨てられる。
人心が離れる。

人の心が離れると、国は、崩壊していく。
国の歴史が後退する。

たとえば、特別支援学校をなぜもっとつくらないか。
充実させないのか。

教育はあとまわし、でよいのかどうか。
人間は、こんな程度なのだろうか。
あまりにも、さびしいではないか、と思う。




トイレの水を何度も流す自閉症の子




こだわりの強い自閉症児。
トイレの水を、何度も流す。
時には、1時間もトイレにいる。
そして、水を流し続ける。
何度も、何度も、やりつづけてやめようとしない。


母親は困った。
やめなさい、と怒鳴る日々が続いたそうである。
子どもがトイレに入ると神経が苛立つ。
トイレに入る前に、すぐに出なさい、とクギをさすが、きかないわが子。
そのうち、トイレのドアを開けて、監視するようになる。

しかし、なおも流し続けようとするわが子に対して、力ずくで対処するしかない、とがんばる。トイレに居続けようとする子の腕を引きずって、トイレから出そうと努力を続ける。
泣き叫ぶ子。
パニックになる子をみて、母親も疲れ果てる。


神経科に相談すると、とんでもないことを言われた。

「やらせておきなさい。心ゆくまでやらせるんですよ。心が満ち足りないから、補償行動をするんです。いろんなことで満足がいくようになれば、自然と辞めますよ。それまで待つ勇気が必要です。」

母親は迷って、やらせるべきか、やらせないべきか、悩んだ。


さて、どうしたらよいか。

相手は自閉症児である。
自閉症児は、決まった行動を続けることが好きだ。それで安定する。
だから、トイレの水を流す行為を、続ければ続けるほど、続けることでの安定を求める。
すなわち、やればやるほど、やりたくなる。飽きる、ということはない。

佐々木正美先生は、
「お金をとって相談した相手が、こんな回答しかしないんですから・・・。こんなアドバイスをしてはいけませんね」
とクールに流していた。


佐々木正美先生が言うのには、

1)~なさい、という肯定の言葉で、何をしたらよいかを示す
2)指示する際は、あいまいな言葉をできるだけはぶく
3)声かけは言語による表象的な指示なので避け、できるだけ視覚に訴える

というポイントをおさえて、

「水、一回、流す」

という字を書いて、トイレに貼っておいてはどうですか、とアドバイスした。

すると、見事に一回で、トイレから出てきたそうである。


発達障害の子どもについて、だんだんと、きちんと知ろうとする人が増えてきているらしい。
ワタシの身の回りにも、そういった情報が、たくさん目に付くようになってきた。
おかげで、勉強することができる。

「発達障害の子どもたち」 杉山登志郎・著

上記の本を、学校の先生に教えていただいて、GW中に読んでいる。
佐々木正美先生の講演と、つながることが多い。
発達障害の子どもが直面するつらさを、しっかり書かれている。
とくに、小学校の教師として自覚しなければ、と感じるのは、
当の子どもたちが感じる、「迫害」ということ。

迫害、である。
正直、重い言葉だ。

しかし、生きにくさを感じながら、困難な中を生活していく子どもたちが、クラスのいじめや陰湿な迫害にあうことが、無視できないほど多くあるらしい。

それを、正面から相手にできるのは、教員だけだ。




事実は「やる気」に満ちている




4月のある日。

なぜだか、子どもが、がんばっているなあ、と共感できた。

朝から。

学校に来たくない子もいるだろうに、全員、来ているなあ。

と思えた。

心から。

そうすると、なんだかけなげになって、

「みんな、がんばっているなあ!」
と素直に口に出てきた。

朝読書で、本を読んでいる子。
起立で、しっかり立っている子。
そうした子たちの、その子なりの、がんばりが、その日は目に見えた。

漢字ドリルで、漢字をきれいに書こうとする子が、なんだかやけにいとおしい。

いつもはこんなふうに、思わない。
そんなこと、 「して、当然」 と思っている。


図書の時間、読書カードに、なにやら書いている子がいると、
「もう書いているのか!えらい!!」と思った。
「そろそろカードに書きなさい」と、まさに言おうとする直前だった。

これも、よく考えるとおかしい。
だって、その前から、いつも、「しなさい」と、言っているのだから。
図書の時間には、カードに記入しなさい。と、前から伝えている。
教師がしなさい、と指示したことを、そのとおりにやっているだけのことだ。

だが、なにか、おかしいのだ。
その日にかぎって、
「こんなのめんどうくさい、と思うのだろうに、やろうとしてくれているなあ」
と思ったのだ。

体育の時間も。

集合!と声をかける。
いつもなら、おそい子に、こう言っていた。

「○○!遅い!走って壁タッチしてきなさい!」

罰を与えるのだ。

しかし、その日はなにかがちがう!!(自分がちがう。自分の心境が)

最初に集まってきた何人かが、やけにいとおしいのだ。うれしいのだ。その努力、がんばりに、感動する。

「いいなあ!すぐにサッと集まった!うれしいなあ!」

これが、わざとらしくなく、本音で出てきたのだ。

なんだか、クラスがあったかい。
雰囲気がいい。
笑い声がたくさん出る。

その日は、なにかがちがった。

はてさて。




ダメ、のことばが、子どもにつきささる




自分を否定された、と思うことほど、苦しいことはない。
ところがどっこい、子どもを否定している。

「そんなんじゃ、ダメ!」

ダメ、のことばが、子どもにつきささる。




ほめるために叱る




周囲の先生に、どう見られるかが気になる。
校長先生にはどう見られるだろうか。
教頭には?
隣のクラスの学年主任には?
他の学年の先生には?


そういうことを考えることで、余計なエネルギーを消費し、疲れている気がする。
そのことが、子どもにはねかえってしまう。


子どもがさわいでいると、隣のクラスに申し訳ない、と思うし、
朝礼で、しっかり並んでいないと、正直、やばいな・・・、と思う。
他の大人の視線が気になる。

だから、子どもを叱る。

本当は、
「たのむから、やめてくれ!しずかにしてくれ!」と叫びたい。



・・・・・

たぶん、こういうことが、バックボーンにあって、
それで、子どもをしかる、ということがあるように思う。


なんのために叱るか。
目的が、ぶれている。
子どものためではなく、自分の為でしかない。自分の評判のために、子どもを叱る。
子どもを、自分をよく見せるための道具に利用している。
だから、まったく本当の行為でなく、何の益もない。

はやく、こんな叱り方から、足を洗いたい。


なんのために叱るか。
自分の為でなく、子どものため。
子どものために叱る、とは、どういうことか。

早くしなさい、ぐずぐずしない!すぐに並びなさい!
きちんと全部、最後までやりなさい!
静かにしなさい!
廊下は走らない!


これらはすべて、
廊下を走ったらあぶない、すぐに並ばないと時間がない、
最後までやらないと他の子と差がついてしまう、静かにする癖をつけないと・・・
という親心。
教師の愛情のつまった言葉だ。

・・・と、思っていた。



しかし、こうした言葉の、原点が、どうなのか。
もしも、自分の評判を気にする姿勢が原点にあるのなら・・・
いったい、これらの言葉が、子どもにどんな影響を及ぼすか。
敏感な子どもたちは、きっと、なにかを感ずるだろう。
それが積もり重なって、教師との間に、信頼が築いていけるだろうか。

言葉の原点。
叱るとき、叱り言葉の、背景にあるもの。
表にはでないから、子どもにはわからない、というのはウソだ。
子どもは、何でも知っている。

何のために、叱るか。



「叱るのは、ほめるために叱るのだ」

という言葉に出会って、アリャ、と思ったことがある。

おっしゃったのは年配の先生で、なにかの会話の途中で、ひょい、と出てきた言葉。
でもそれが、頭の中で、何度も響いた。




春の野草さがし




川を歩く。
JRの駅から、緑化公園をめざす。

途中、いろんな草や木を見て歩く。

柿の木がある。
葉を見て、びっくりした。
なんとも新しく、やわらかそうにみえる。

こんなに、おいしそうな葉なのか。
そういえば、柿の木は、季節が秋にならないと、気をつけて見ていないかもなあ。
春の柿の木。それほどしっかりと、見てはいなかった。
柿といえば秋、といった、固定観念があったらしい。


落ちていた柿の葉を一枚いただく。
あとで天ぷらにしてみよう。


ホトケノザ
ヒメオドリコソウ
ムラサキケマン

ムラサキケマンはおもしろい。
さわると、実がはじけて、くるっと返る。
あまり遊ぶと、かわいそうだから、少しだけにして終わりにする。


イヌノフグリがあったが、オオイヌとは少しちがうようだ。
毎年、植物相が変わるのか?

ポケット版で調べると、タチイヌノフグリ?らしい。
今年は、タチイヌが、オオイヌを駆逐したのか?


ナズナはたくさんある。
ヤエムグラも。


ヤエムグラは、葉の表面がざらざら。
いちおう、お約束、を思い出す。
葉をすこしちぎって、Tシャツにつける。ぴったりだ。
やると、安心する。
幼児期の記憶を、追体験して確認した、という感じ。


キュウリグサも、ひさしぶりに、手でもんでみる。


ハナニラがたくさんある。

ショカッサイは、見るたびに、漢字ではどうかくんだろう、と思う。
でもまだしらべていない。

カラスノエンドウは、豆科だと思ったので、一応収穫。
天ぷら予定。
豆なら食えるだろ・・・。


土手の桜の木の根元に、小さなピンク色が見える。
かわいらしい。ヒメウズだ。
葉も小さくて、いいなあ。


黄色いカタバミ。
元気に咲いている。
安心する。


食べられるもの、というので、ヨモギとユキノシタをさがす。
ヨモギが少なくなったなあ。
どちらも、ほんの少し、収穫。


ノビルは、これはおそらく、葱の仲間だろう。
収穫。くえるだろ。


コバンソウは見つからない。


イチリンソウが静かに咲いている。
本当に、一輪しか見当たらない。
さびしい気がする。
でも、一輪だけで、のびのびとしているのかもしれない。


アカネ発見。
葉のようで、葉でないのがある、と聞いたことがある。
上から見ると、十文字。
根っこをほると、赤橙色。

アカネ、赤ね、茜、アキアカネ。


楓の花と実も、観察する。
カエデは、実がそのへんにちらばっている。
鳥が来たのかしらん。

川にそって上流をめざしているのだが、途中の橋で、大きなくるみの木を発見。
赤っぽい色の、花らしきものがバァーッと咲いている。
また、枝の上の方に、白っぽい、形はフジの花のような、たれさがったものが見える。
おそらく、雄花と雌花のちがいだろう。
(あてずっぽです)


終点に近づくころ、嫁さんと子どもの足取りがにぶくなってきて、
会話が少なくなってきた。
いやあ、がんばりましたねえ。

わが子を、はげまし、はげまし、おやつを与えて。
がんばりました!



途中、庭木にからみついた大きなシマヘビを見たし、トカゲの交尾?も見た。
なんだかいろんなことが・・・

・・・春ですなあ。


家で、天ぷら。
ついでに、庭のツツジの花と、たんぽぽ、フジの花も天ぷらにしてみたけど、
食べられました。
おいしいかどうかは、ふつう、です。
あまり味はしませんでした。

タンポポだけは、独特の味で、春の味、という感じです。
これはまた来年もやろう。




子どもによりそうとは(実例)




2年生が、校内探検、と称して、学校中を探検して回っていたのだが、
担任の先生に連れられて、職員室も見に来たのだ。

職員室の扉はしまっている。
だから、がやがやという声と気配と、担任の先生のはりあげる声で、子どもたちが来たことがわかった。

2クラスだから、2人の担任の先生が、続けて来た。
そして、2人とも、同じように、職員室の説明をした。

ところが、微妙になにかがちがう。
空気がちがう。
子どもたちの感じ取っている、なにかも、おそらくちがうのではないか、と感じた。

1組も2組も、担任の先生が
「ここが職員室です」
と言った。
ここまでは同じだった。

次がちがう。

1人目の先生。
すかさず、
「とびらにさわらない!」
大声である。

そして、
「職員室の扉をあけるときは、きちんとここに書いてあります。失礼します。何年何組のだれそれです。M先生に用事があって来ました。と、こう言います。今日は中でお仕事をしているから、開けません。でも、みんなが今度なにかのご用事でくるときがあったら、こういうぐあいに言ってくださいね。」

なんとなく、子どもたちのがやがや、という雰囲気がある。
それに負けないように、先生が声を出している、という感じ。

それを聞いて
教頭「学校探検も大変だなあ」
ワタシ「そうですねえ」


ところが、その直後に、別の先生とクラスの子どもたちが来た。
2組の子たちである。

「ここが職員室です」
先生のはりのある声がする。
でも、なんとはなしに、リラックスした声だ。

「あ、うしろの方の人で見えない人がいます。前の方の人、すわってください」
急がせる風でもない。声がそういう声質なのかな?リラックスした感じがある。
そこで、おそらく、何人の子かが座ってくれたのだろう。
「はい、うしろの方の人、見えますか?」
担任がもういちど、確認をしている。

「はい。ではもう一度。ここが職員室です。ここに、H先生もいます。用事があったら、みんなもここにくることができます。先生に伝えなくちゃ、と思ったことがあったら、ぜひここまで来て下さい。ここに、もう来たことのある人!」
(ハイ、ハイ)
「うわあ、もう来たことのある人もいる。どうですか?ちゃんと先生とお話ができましたか?」
(○○先生いた!校長先生もいた!)
「そう。校長先生もいます。お話しましたか?」
(お話した!)
「よかったねえ。ひとつだけ。お話しするときのお約束があります。先生たちをよぶときは、○○先生!ガラ!と開けたりしません。先生たちがびっくりしてしまいます。先生たちがよくわかるように、みんなの言い方があります・・・・」


なんとなしに、2組の子たちが、リラックスして、学校探検を楽しんでいる風が伝わってきた。そして、おそらく、クラスの仲がいいのではないか、と予想できた。


うしろの子で、見えない子がいる。

そのことを、担任がとっさに心配している。
前の子にすわってほしい。
そのときの言い方も、

「はい。前の子、すわりなさい」

と、のっけから言うのではなく、

「うしろの子で、見えない子がいます。」

と、事実をまずはみんなに伝えている。
その後、前の子はすわってください。という指示を出す。
そして、うしろの子、見えますか?だいじょうぶですか?という確認の配慮がある。

うしろの方に立っていた子で、これで先生を好きになった子がいるだろう。


そういう、価値の有る、ひとことだった、と思う。




小朝と三枝




二人会。

三枝さんが最近とりくんでいるネタ、今回はかなりよくなっていた。

最後、兄弟が集まって、米寿の祝をふりかえるシーン。
ケーキに88本もろうそくを立てようと提案した末っ子の修平と、長男・信一郎が少しばかり言い合うシーン。

「今日は、ご苦労さんやったな。」
ビールグラスを手にして、乾杯にうつろうとする場面。
なんだか、場面がさっと変わったのが、よく分かった。

三枝さんの体調にもよるのだろうが、前回同じネタを見たときは、ここあたりの描写がよく伝わってこなかった。
場面展開が、荒かった。
長男の顔、おじいさんの顔、修平の顔、どれもちがう。
今回は、
「今日は、ご苦労さんやったな」
のセリフと顔の表情だけで、あ、信一郎だ、と分かった。

急いでいない。
前回とはちがった、余裕を感じさせた。
話を、常に工夫する三枝師匠の探究心を、素直に学びたい。

さて、教員として、授業の語りをどう探求していくか。

ちょっとした、言葉のえらび方、タイミング、どれもちがってくる。
子どもの表情をどう読み取るか。

落語に学ぶことは多い。




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