30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2008年03月

いなほの卒園式




いなほ保育園。
卒園式。

園の看板がない。
地図で探しながら行く。

家畜がいるのに、あまりにおいがない。
土の上に糞はある。
おそらく、かなりの量を人力でどこか別の場所へ動かしているんだろう。
家畜を見ると、最初に糞に目が行くのは、もう癖になってしまっている。
20代で家畜の世話をした経験は、自分にとっては宝物だ。
糞はこの環境だから、おそらくきちんと、堆肥となって畑に還元されていることだろう。


園の庭が広い。
でこぼこしている。
子どもが、ひと息で、かけおり、またかけあがることのできる、起伏だ。
ぐいーん、と叫びながら、かけおりていく子らがいる。

きれいな服を着ている子らが目に入る。
おそらく、今日の卒園生たちだ。
また、少し大きな子たちもいる。
小学生、3,4年生くらいの子も。
なかには、かなり身長のある子がいる。
あとで分かったが、彼、彼女たちは、この園の卒園生であった。卒園式で、きちんと、彼らの出番がある。

しばらく園庭で、わが子(3歳)と遊ぶ。
すっかり気に入った様子。
やはり、かけおりたり、山にのぼったりするのが、楽しいらしい。頂上で、ヤッホー、などと言う。

映画で見たときを思い出した。
そうそう。夏のプール。父母の手作りプールに、子どもたちが次々ととびこんでいく場面。
そのとき、この橋を走って渡っていった、と思い出した。その橋が、ちゃんとかかっている。

卒園式の前に、講堂というのか、式の会場となるホール?(扉がなく、なんとも開放的。天井もガラスや透明なトタンですごく明るい)に行く。

子どもたちの作品。
アイヌの紋様。刺繍の作品が、ずらりと壁にかかる。
アイヌ紋様は、お盆状の板に木彫りになったものもある。どれも、かなり本格的。いったい、どんな作業風景だったのだろう、すごく興味がわく。

あとは、絵。
すべて、お話を聞いて想像した場面。
アイヌの英雄譚、オキクルミの物語や、ドリトル先生アフリカへ行く、の話や、その他もろもろ。
英雄譚にあこがれる、男の子たちの気持ちがわかる。

卒園式が始まった。来賓席に案内される。
K先生の挨拶が、あっさりとあり、はじまる。
大人主体でなく、子ども主体だから、こうなんだろう。
子らが、入場する。
一人ずつ、3メートルくらいの間隔で、堂々と入場してくる。大人は何も合図をしない。ただ、ピアノのリズムだけが流れている。

子らがすわり、名前がよばれる。
ハイ、と返事をして、証書を受け取りに歩いていく。しっかりと、木の床をふみしめ、満場の視線をあびながら、歩いていく。
はだしだ。
木が気持ちがよいことを、身体が知っているのだ。

園長から受け取る。
おじぎなんてない。
子どもが、自分でつかみとり、それを高々とかかげる。子どもが感謝の気持ちを表すなど、気持ちが悪い。子どもは、そのまま、自分のほこらしげな気持ちを示しながら、前だけ向いて歩いて欲しい。そんな気分にさせられるシーンだった。

ありがとう、と子に言わせたくて、世話をするわけではない。
感謝を、そんなふうに表すものではなく、すべて、心と心で通じ合っているから、目で通じるから、これでいいのだ。ここでは、大人と子どもが、そういう、間柄なのだ。


圧巻だったのは、その後、2時間以上にわたって繰り広げられた、リズムや合唱、オペレッタの連続。
オキクルミのオペレッタは、それぞれが刺繍したデザインの紺麻着を着て、セリフや動作、おどりが一体となった、すばらしいものだった。ちゃんと、物語にあるように、すねあてまでつくって、あてていた。

リズムに登場する小道具も、手作りだ。
荒馬の馬。
竹の輪に入り、手綱をにぎり、木の頭部をかかんにゆらしながら、跳躍するおどり。

アイヌのおどりでつかう、短剣はすべて木製。けずったあとが、荒々しい。
弓も手作りだ。
弓や短剣をもち、大地、四方に向かって、恵みの祈りをおどったときは、目の前の幼児がとても大きく見えた。
動作が堂に入り、真剣に見据える目になっている。
見据える。
そんな目つきができる。
それは、大地を感じているから。
毎日、大地を踏んで生きているからだろうか。
幼児が、祈りの世界を、演じている。

心の中で、静かにうなるしかなかった。

アイヌのおどり、
沖縄の踊り、(エイサー)
韓国のおどり、

「自分は子どもの頃、これを踊ったことがあります」
と言えたら、その土地の人に、どんなふうに温かく迎えてもらえるだろうか。

おそらく、アイヌの人も、沖縄の人も、韓国の人も、そんな日本人なら、心から迎えてくれるにちがいない。

どんな知識よりも、踊ったことがある、という実体験があることが大きい。
民族の融和。


帰りの車中で、妻と興奮がとまらない。
ずっとしゃべって、自宅へついた。
自宅でも、今日の話が続いた。

3歳の子が、さっそく、卒園式ごっこ。
先生から証書を受け取るシーンを再生してくれた。
馬の踊りも。


いいなあ。


新学期準備が明日から始まる。
まだ、教室の片付けもある。

そんな春休みの貴重な時間。
しかし、その時間を、120%、生かしたと思う。

指示の言葉がいっさいない、聞かれない、卒園式。
子どもを叱らなくてもよい、卒園式の進行。
すべては、ピアノの音と、日々の積み重ねが、子を動かす。
子をつき動かす、魅力のある、リズムの世界だ。
なにもいわなくても、強いることなく、子は、本能で動き、伸びようとする。
人間の、崇高本能が、伸び行くまま。

一番、たのしくて、楽で、理にかなった、子育ての世界をみた。


教師よ。
子どもを見よ。
ホンモノを見よ。




学級の1年間をふりかえる




保護者会で見せるために、撮っていた子どもたちの写真。
もう最後だ、というので、みんなに見せた。

1学期の頃からの写真。

春。
桜の下で撮影した集合写真がある。

「あれ?こんな写真、撮ったっけ?」

もう忘れている。

授業中の写真。
図工で作品づくりに取り組む写真。
花に水をやるところ。
水やりをしながら、カメラに気付いて、おもしろい顔をする子。

それが映ると、どっと笑う。


掃除する子どもたち。
窓ガラスを磨く子。
床をふく子。

スライドショーを見ながら、
「あ、おれ、ちゃんと掃除してるな」
誰かが思わずつぶやいた声が響き、またそれに笑う。

給食。
デザートのゼリーを、楽しそうに見せ合いながら食べているシーン。

水族館への遠足。
ヒトデをつかまえた手のひらの写真をみると、手首に時計のバンドが見えるので、
「あ!あれ、先生の手だ!」

そうだった、そうだった。
海岸でヒトデをひろって、みんなに見せたのだ。
それを、片手で無理して、シャッターも押したのだった。
そんなふうにして、一年間、撮りためてきた、写真。


まだ、ある。

かぶと虫を闘わせているところ。
男子が、6,7人ほど、頭をくっつけて、のぞいている。

アゲハが羽化する瞬間。
鈴なりの、子どもたち。
とびはじめたアゲハを、指差す子。

クラスの紙飛行機大会で、自慢の飛行機を見せに来た子。
照れて、頭をかいているしぐさが面白いので、みんないっせいに、笑う。

つかまえたトカゲに、耳たぶを咥えさせている子。
それを見て、大はしゃぎしている、まわりの子ら。


スケート教室。
ころぶ姿。
決定的瞬間に、また歓声。

スライドショーに歌をつけておいた。
BGMに合唱曲が流れる。

「あ、この歌知ってる」
いっしょに口ずさむ子もいる。


理科の観察。
ホウセンカをじっと見つめる子。

クラス遊びのどろけいで、うまく逃げ出す子。
走り出した瞬間の姿勢が、かっこいい。
その後ろに、「あっ」と言うような、顔をした子。

どろぼうでつかまえられて、2人がかりで連れて来られた子。
残念そうに、口をとがらせている。
つかまえた方は、にんまり。

ああ、本当に、1年間。

長かった。
いろいろあった。

最後の方は、疲れがピークになってしまって、子どもたちにも余裕の無い姿を見せてしまった。
席替えで、悔やんだことも忘れられない。
クラスの特定の人間関係も、ぶちこわすところまでできなかった。最後まで、のばしのばしにしてきた。まだ、時間がある、と思ってしまっていた。
やろうやろう、と思いながら、結局子どもたちといっしょにできなかった、授業の計画もたくさんあった。

用意しておいた箱に、まだ印刷したものがある。
配られなかった、プリントたち。

こんなふうにしよう、発問をしよう、と練っていたのに。

3学期が、逃げるように、行ってしまった。

最後の日。
写真を見ながら、しっとりとした空気の中で、静かな別れ。

最後の語り。みんなが成長してきた、ということを言った。
真剣に、こちらの表情を見てくれた子。
不安そうな子。

やんちゃな子が、「ありがとうございました」と言ってくれると、つい、涙腺に神経が走る。
涙は見せないが。

男は泣かない、と言ってきた。


全員とさようならをした。
その後、
ある子と、春休みの引越しのことで気になることがあり、別室で話をした。

教室にかばんを取りにもどると、人の気配がする。
黒板の前に、小さな人影が見えた。


チョークで落書きをしている。
瞬間、いつものように、「黒板に落書きしないよ!」と言いそうになって、なんだろう、と見た。

先生ありがとう、と書いて、自分の名前が書いてある。

わたしの気配を察して、おこられる、と思ったのか、笑いながら大急ぎに慌てて、かばんを背負う子。
さよなら~!と、何人かが出て行く。

「先生、画用紙見て!Fからの手紙だから!」
「わたしも!画用紙みてね!じゃあね!」

使いかけの画用紙に、メッセージが残っていた。

「先生へ 一年間ありがとう。先生の授業は、ちょっと面白かったよ」

おいおい。ちょっと、ってなんだよ。

顔がほころぶ。

「先生へ よくなぐさめてくれたりして、ありがとうございました。」

ああ、そうそう。
何度か、泣いたこともあったっけなあ。


がらん、とする。

まだ、体温ののこる、教室。
でも、もう彼らがそろうことはない。




自然も人間も仲良くできるよなあ




異なるもの、異人の世界をえがいた映画作品が、大きなヒットとなりました。

宮崎駿さんの「もののけ姫」や、「千と千尋の神かくし」です。

自然界の倫理と人間のエゴの対立、という単純な構図では割り切れない、現代社会の大きな問題を扱っているようでした。

「自然と人為の調和」いうテーマは、環境問題などでいつもぶちあたる大きな壁です。
どちらも対立するという前提から始った議論が行き詰まっており、これからは、自然と人為はどちらも本来調和しているもの、という新しいステップからの議論が待たれているようです。

私は映画館で「もののけ姫」をみましたが、映画の最後に流れてきた久石譲さん作曲の音楽がずいぶんと心に染みました。
それと同時に、水木しげるさんの作品「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマソングがふいに思い出され、つい比較してしまいました。

久石さんの音楽はどこか物悲しく、人間の業の深さを反省する気分になるのです。

ところが、映画館からの帰り道、ゲゲゲの鬼太郎を口ずさんでいるうちに、あの盆踊り的な陽気なリズムによって、

「自然も人間も仲良くできるよなあ」

という、楽観的な気分になってきます。




異なるものを排除しようとするのか、それとも




異なるものを排除しようとするのか、それとも認めていくのか。

人間社会にもいろいろありますが、異なるものだからこそ、認めようとして近づいていく、相手の言うことをよく聴こうとする姿勢が大事だと思うのです。

男性と女性が惹かれあうのも、自分にはない特性を相手が豊富にもっているからでないでしょうか。わんぱく小僧が近所の少女に妙に優しくなってしまうのは、粗野でがさつな自分にはない、少女の繊細な心づかいに気づいていて、その圧倒的な世界の違いに驚き、惹かれていくのでしょう。

男性と女性はえらく違います。

まったく異質の生物で、男性からみたら女性はまったく宇宙人のように見えますし、女性から見た所、男性は幼稚なのか賢いのか、判断に困ってしまうそうです。
結局、理解するには大変な努力を要するのだ、と半分諦めの境地です。


河合隼雄さんは、著書の中で、夫婦は子育てなど協力関係にあるときはうまくいく。
定年を過ぎて今度はもう一歩進んで、理解し合う関係になる。
そこが難しい。
相手を理解するというのは、自分の信じてきたものをすべて放して新しい価値観を築かなくてはならない。大変なことである、というようなことを言われていました。

分からない、ということがはっきりしていたら、少なくとも謙虚にはなれそうで、私には印象深い言葉です。




「河童の三平」という物語




「河童の三平」という物語があります。

漫画家の水木しげるさんが描かれた作品で、河童によく似た主人公と、主人公の少年によく似た河童が入れ替わりで学校に通ったり、水泳大会で優勝したりと、仲良く過ごすのです。

河童の方は、河童の国からの留学生という身分、人間界の小学校にもぐりこんで呑気に過ごしています。
感動するのは、河童を受け入れる家族です。
少年は本当に隣人、家族同様に河童とつき合い、そこには何の隔たりもありません。どちらも遠慮気兼ねなく、心のままに行動しながら、お互いを思いやるのです。


人間からみたら、河童は異人です。
常識も論理も通用しない、別の世界からきた人。
人間界の観念をそのままあてはめようとしても無理なのです。

こうした場合、人間のものさしだけで物事を考えようとする大人の思考では、河童と自然に仲良く暮らすのは大変なことです。

少年は、不思議なことが大好きで、河童の世界の考え方や、常識にもすんなりと溶け込めるのです。

大人にはない心、異人を心底あたたかく迎える心、どこにも隔てを感じないで、お互いを認め合う、そこがこの物語の魅力なのだと思っています。




「河童はいた?」




家の前の鎮守の森を散歩していると、古い小さなため池があるのです。
子どもは学校が休みになると釣り糸を垂れて、ふなを釣ったりしています。
最近はふなよりもブルーギルという外来の魚が入ってきたらしく、釣りあげてくるのも大半が、その獰猛な小魚となりました。

「河童、いたか?」

ときくと、

「カッパ?いるわけないっしょ」


小学校の子どもはもうぜんぜん相手にしません。
幼年の子はすっかり信じてしまいます。

それにしても、河童という動物のもつキャラクターの可愛らしさ、面白さ、ユニークさには本当に圧倒されます。
私は、この河童が大好きなのです。
どんな漫画家も、これ以上のキャラクターは発明できそうにないとさえ、思うほどです。

相撲が好き、馬をみると引きたくなる、人間の尻子魂(しりこだま)を抜く、頭の上の皿に水があってそれをこぼすと力を失うなど、様々な言い伝えや伝説が河童の魅力を引き立てています。




陶器づくりは、一種の賭け




この世のあらゆる現象は、一つ一つが本当に不思議な、人知を超えた世界だと思います。
森羅万象といいますが、どうしてこんなに精緻な、知恵を尽くしたような世界ができたのでしょう。考え始めると、いつも不思議で仕方がありません。


陶芸家のおじさんが近所に住んでいるので、遊びに行きました。
それにしても、陶器というのは一種の賭けというのか、製作者にとっても、結果がどうなるか最後まで分からないのです。
炎は生き物です。
薬が炎にどう反応するか、薬や土の中に含まれる微少な元素が、鮮やかな色あいを浮かび上がらせます。


織物の染色を勉強している学生の友人がいます。
彼女は、作品ができあがるたびに「思っていたイメージとちがった」と口を尖らせては、再チャレンジを試みています。
作品の出来栄えには、人間の技術力だけではなく、不思議な神様の力も関与しているのかもしれません。

古来から、日本には八百の神がいるといわれているようです。
火の神、水の神、船の神、稲の神・・・。
かまどにはかまどの神がいて、きちんと正月には御鏡餅を飾ったと聞きます。
生活空間のあちらこちらに、日常の人間の世界でない、非日常の神の世界があり、昔の人はそれを大切にして暮らしていたようです。




子どもたちだけに見える、不思議な世界




私の住んでいるところは自然環境の豊かなところで、家の前を狸(たぬき)が通りますし夏が近づいてくると蛍の飛ぶさまが見られ、また大きな鹿が遊んでいるのも見たことがあります。これだけきくと、どんな山奥かと思われましょう?

ところがさにあらず、近くに大きな幹線道路が走っていますし、古いお城のある素敵な市街地にもすぐの距離で、案外と自分では都会人のつもりでおります。
家の目の前が古い神社で、鎮守の森があり、そこを散歩しながらゆるゆると空想を巡らすのが私の趣味というわけです。

私の住んでいる村のはずれに、小さな道祖神が祭ってあります。
子どもたちが登下校の途中で遊び相手にしているらしく、お菓子や小さな土の団子をそなえてあることがあります。
雨の強い日の翌日、散歩がてらに見たときは、こわれた傘でしっかりと覆いがしてありました。子どもたちのやさしさがこんな所に顕されていて、心がなごんだのです。

子どもには、私たち大人とはちがう独特の世界観があると思います。
子どもは擬人化が得意です。

小さな人形を動かしているとき、子どもは心底、意識のある人間を相手にしているかのようにふるまいます。
特に空想好きな子どもの言動は、現実感にとぼしく、時折、あまりにも大人の常識からずれたように感じられることさえあります。

子どもたちだけに見える、不思議な世界があるのかもしれません。




桂米朝さんの「算段の平兵衛」




もう20年前になる。

池下のホールに、米朝師匠がやってきた。
当時高校生だった私が、小遣いをはたいて見に行くのに、決断の秒数はかからなかった。
気付いた時点ですぐにチケットを買ったが、やはり席は真ん中より後ろで、くやしい思いをした。

一番、米朝さんが、ノッテいた時代だと思う。
話にキレがあり、体力もあり、くすぐりにも冒険があった。

今でも目に焼きついているのは、平兵衛が死体をかついで踊るシーン。
死体をかついで懸命に手足を振る男の、汗だくの努力、必死さと、
かつがれた死体の、だらんとした手足が、対照的に表現されていた。

前後に横に、と勝っ手気ままにゆすぶられた、死体のかなしさ、おかしさ。
こわい話なのに、会場はどっと笑う。
すこぶる現代的な笑いだ。
スティーヴン・キングを連想させる。


この話を掘り起こした、米朝さんの努力や、意地、を感じた。
現代に通じる、今の笑いにも通じる世界が、「算段の平兵衛」にはある。


米朝さんの、脂の乗り切った時代、あの時代の高座を見ることが出来て、今、すごく感謝している。いいときに、見ていたな、と思う。
嫁に、米朝の話をすると、いつも
「いいなあ~」
と言う。

「いちばんいいときに、見ていたんでしょう」

高校生、という自分の年も、いちばんよかったし、米朝師匠はおそらく60代、還暦を越えたばかりのころだったろう。その、米朝師匠の年も、よかった。
双方にとって、よかったタイミングで、見ておいてよかった、と思えるものを、見ていた。
この幸運には、自分は一生、感謝しつづけるだろう。


今、そういうものがあるか、とふと思う。

教師の世界に入り、今、一番見ておいたらよいもの。

教師の世界にも、2007年問題はある。
これから5年くらい、退職される先輩方が、とてもたくさんいらっしゃる。
この先輩たちの授業を、みておかねばならない、と思う。
そして、表面だけでなく、発問や動作の、その奥に何があるか、どんな意図があるのか、を見えるようになって、みなくてはならない。
そこまで勉強し、学ぶ時間はないかもしれない。
だから、焦る。

焦りながらも、もしかしたら大事なことなんて見えていないかも、と思いながらも、目に焼き付けるために、隣の教室へ通わなくてはならない。




樹ごころや・THE・SONG




友人の居酒屋が閉店したときにつくったウタ。
記念に残しておきます。
教師になってから、行きたかったんだよ。本当は・・・。

駅から離れていたけれど、ちょうどよい。
店も狭いが、ちょうどよい。
クリスマスには混雑したけど、界隈の連中が集まるのには、ちょうどよい。

なにもかも、ちょうどよかった、あのお店。
記憶にあるうちに。



作曲:kei 作詞:さすらいの鍼灸師(元乳牛部)

「樹ごころや・THE・SONG」

思い出満載のあの店が
MACHI からなくなる日が
こんな形でやってくるなんて
開店前夜に直美のために
救急車呼んだあの日からもう四年

最近行ってないが樹ごころ屋は
俺にとっても心のふるさとだったよ

園子に髪切ってもらえて
咲と遊んで癒されて
鍼灸マッサージの出張所にさせてもらって
酒飲んでたらふく食って
馬鹿騒ぎして
しかもつぶれたら二階で寝れるって

そんな店世界中探しても
樹ごころ屋以外どこにあるんだ
大阪なんか行かないで蒲田に来てくれ


・・・いやすまん君らの気持ちも考えずつい感情的になってしまった
(↑セリフ)

大阪店もいつか必ず行くよ
それまで大阪で元気にやっていてくれ

アディオス アミーゴ
さよならなんて言わないよ

アディオス アミーゴ
さよならなんて言わないよ




善光寺




善光寺。
天気がよかった。

遠くの山もはっきり見えた。

静かな心境がつづく。

黙って、一日、すごす。
めずらしい日。

教師にとって、黙ってすごす一日は、かなり、新鮮。



こんな時間をつくらないと、春の、あの、
想像を超えた、
体力の限界に挑戦する、
なんとも、めまぐるしい季節が、

・・・すぐそこに待っているからね。


名古屋から、特急 しなの。




幸運とは




最近、神妙に長い間、かんがえにふけることがある。

長いこと、教師の道をめざしてきた。
その目標に到達した今、さて、ここまでは順当にきたが・・・と、考えたくなるのだ。


本当にめざす教師像が、はっきりと、えがけているのだろうか。

理想が、えがけているのか。
このことが、なんだか、とても大きいような予感があり、今、どうしても考えたい、考えておきたい、という思いがつのってきている。

土曜日の朝早く、まだ起きてこない嫁さんと子どものいない、居間のイスにすわって、ゆっくりと外の風景を眺めている。
そうして、淹れたてのコーヒーなどすすりながらぼんやりしていると、いろいろと考えがめぐるのだ。



小生、かなり世間ずれした感覚で20代をすごしてきた、のであった。
おかげで、まったく自分のこれまでの境遇に不幸を感じず生きてきた。ほんの6,7年前には無職で1Kのアパートに彼女と二人暮らし、という先のまったく見えない赤貧生活を送っていたにも関わらず。

そういったことを誰かにぽそっともらすと、ものすごく感心される。
へえ~~!よくそんなで平気だったねえ~、という具合。
「貯金も無かったんでしょ?」

そうだった。(今でもそう・・・)

貯金もなく、妻の学費のことや、生活費のこと、なんだかんだと心配の種はさがせばたくさんあったと思うが、にもかかわらず、何も心配していなかった。

よくもまあ、と考えるのだ。
よくもまあ、こんな調子で、ここまでシアワセにすごしてきたなあ、と。
よくよく、ラッキーかもしれない。



人生甘くない、という言葉もあるが、ふりかえってみたところ、ほとんどの境遇で甘い和菓子のような楽しさがつきまとっていて、そこそこに楽しく、あたたかな春を感じて生きてきたと思う。

今も、厳しさを覚悟してのぞんだ職場で、あまりにもやさしくデキた人に囲まれている。その中で、自分はぬくぬくと温室の中であるかのように暮らしている。仕事が、楽しい。学校から帰るとき、ああ終わってしまった、という感覚でいるときがある。それを感じるときは、自分でも不思議なくらい愉快な気がしている。

このところ、妻とふたりでよくこれからの進路を話し合う。子育てのこと、新しい住まいのこと、引越しのこと、次の仕事の話・・・。
つもるハナシがその都度、二転三転し、蒸し返した話をさらにこねてついて・・・、餅でもついてるのか、というくらいに念入りに話している。

で、そのハナシの結果はもうどうでもよくなっていて、今となっては風の吹くまま、という心境である。どこからどんな風が吹いてくるのか分からないが、縁のあるところで、と思っている。
そうしてこれまでのことを考えてみると、まさに風の吹くままに渡ってきた人生だなあと振り返って思い、またなんとまあ、気楽にやってきてしまったのか、と苦笑まじりに思うのだ。

そういえば、HONMAくんの○○学校への送り出しで、仲良し班の世話係のMISAKOさんと話しているとき、テーマがなにかがなかなかしぼれず、困り果てた挙句
「まわりがみんないい人だから、めぐまれすぎて、テーマがみえづらいんだよね」
と言い合っていたことを思い出す。

それを聞いて、MISAKOさん、大笑いだった。

ともかくも、苦労らしい苦労をしてこなかったおかげで、心配したり不安に思ったり、ということが少なすぎる。

もう少し、人生を真剣に生きるのであれば、切迫した、研ぎ澄まされた、あるいは鍛えられた顔になれるのではなかろうか。
今のままでは、あまりにもゆるみすぎて、これではいけないのではないだろうか。



「人生ってけっこう甘い。」

こんなコピーを作った。
友人が、ソフトクリームの店をはじめたからだ。

販促に協力する、ということで、とにかくいろんなコピーを考えてくれ、という。そこで、ノートに50ほど、なぐり書きしていったところ、店長がいくつか選んだコピーのうちの、ひとつだった。

コピーをいくつか、手作りTシャツにプリントした。
ソフトクリーム屋のオープン記念の日。
駅前に、ちらしをくばりに行った。
たまたま着ていたのが、このコピーが書かれたTシャツだった。

猛暑の夏。
ソフトクリームがよく売れた。
汗だくで、この日も開店記念のチラシを配っていた。
調子よくくばっている最中、突然中年のおじさんに呼び止められた。

「おい、人生は甘いことばっかじゃないぞ!」

自転車にのっていたおじさんだった。このコピーに、思うところがあったのだろう。それを言い捨て、そのまま行ってしまった。

僕はちょっと驚いたが、なるほどなあ、そう感じる人もいるんだなあ、と感心した。
たかがTシャツのコピーだと思っていたが、されど・・・

甘いことばかりじゃな・・・かった・・・かもしれなかったおじさんの人生と、それがよく分からないでいる自分の人生。わからないでもいいじゃないか、と開き直ることもまだできないし、あれから7年は経つというのに、分からないなあ、と思うばかりだ。分かろうとして分かることでもないのか。

ただ、こういうおめでたいホシの下に生まれた幸運をよろこべばいいのか、こんなに頭があったかいことを悲しむべきなのか。


(頭の上に井村屋のあんまんをのせたら、あったかくできるかもしれない。)




あと何日だね、という話




わかれの季節。

あと何日だね、という話を、子どもとするようになった。
もうすぐ、卒業式、そして、修了式。
新しい学年に、進級する。

よかったね、成長したね、と言ってあげたい。
無事に、今日、この日まで、みんなといっしょに、歩いてこれたね。


学級で、詩を読んで、みんなで話しあった。

大好きな詩人、まど みちおさんの詩だ。





さようなら


 子供よ、あの赤い夕焼けは、一日が「さようなら」って言ってるのだ。

 子供よ、今落ちた木の葉の、あのしずかな音も、やはりあの木の葉の「さようなら」だ。

 子供よ、お前の持っている鉛筆でさえ短くなるたびに、「さようなら」「さようなら」「さようなら」って書いている。

 ああ、子供よ、耳をすましてみると、なにもかにもみんながみんな、「さようなら」「さようなら」って言ってるではないか。




そうだ。
ときは、一秒たりとも、ほんの一瞬も、止まってはいない。
「さようなら」は、常に流れ続ける。

4月に出会ったときから、一瞬一瞬が積み重なり、かぞえきれない「さようなら」が費やされて、今、この別れのときを迎えている。

成長し続けたみんな。
次のステップへ、進んでいく。


もう一つ。
まど みちお さんの詩から。





どうして いつも


太陽





そして







やまびこ

ああ 一ばん ふるいものばかりが

どうして いつも こんなに

一ばん あたらしいのだろう




淹れたての珈琲




淹れたての珈琲が、うまい・・・。

酸味、甘み、苦味・・・。

それらがすべて調和するとき・・・。

ぜいたくやねえ・・・。



来年から新採用。
今日、採用校が決まった。
校長面接のために、一日年休をとる。
子どもたちには悪いが、一日、自習してもらう。
面接は市役所。

校長と面接し、まだ本決まりではないけれど、という前置きはあったが、一応来年度担任する学年を聞いた。

新しい赴任校を午後から見学し、職員室で挨拶をして、いつもより早い帰宅をする。

途中、喫茶店で一服する。
ひさしぶりに、頭をからっぽにして、コーヒーを飲んだ。


春。
別れの季節。
そして、新しい出会いがある。

あとのこりわずかの3学期。

珈琲を味わうのには、もってこいの、ひとときであった。


珈琲。コーヒー。

だれがどこで発見し、開発し、発展させてきた飲み物なのか。
ここまでデリケートな「淹れ方」を、捜し求めてきた人のエネルギーたるや。

円をえがくように、細く、するすると湯をそそぐポット。
ふっくらとドーム状にもりあがる、挽き豆の粉たち。
蒸らし、ポットに落ちる琥珀色の液体。


カウンターで準備される珈琲。

美味しいところだけをすくいとって、のどへ流し込んでいる、と思う。

ぜいたくや、ねえ・・・。こんなにして、いいのやろうか・・・。バチあたらへんやろか。



ぜいたくな時間をすごして、妻に報告するために、家路をたどる。




乳幼児期の記憶




生まれる前、というのはあるのかないのか知らないが、乳幼児期からそれぞれ各自の持ち味や志向、趣味、感覚、というのは異なっている。

自分のことを思い出してみる。

競争がきらい・・・
だったと思う。
(しかしその後、兄弟でけんかするようになると、勝ち負けにこだわるようになったが・・・)

幼稚園のとき、運動会で園庭にかかれたトラックを、かけっこで一周するとき。
ようい、ドン、で走り出してから、自分が一番前だということに気がついた。
カーブにさしかかり、ふと、うしろから走ってくる子が気になった。
急に、不安になる。
うしろの人にとって、自分がじゃまなのではないか、と思ったのだ。
がんばって走りたいのに、じゃましちゃ悪いな。

アウトコースへ外れ、インコースから後続の子らが通り過ぎるのを待ち、最後になったのを確認したら、安心した。
それから、残りを走った。

これをみていた母が残念がり、というよりもくやしがり、なんであそこで待ってしまったのか、となじった。

同じく幼稚園のとき。

園の横にあった畑で、さつまいも掘りをした。
一列に並んで、畝の間に入り、それぞれ目の前を掘る。
すると、目の前の土の中から、巨大な、幼児の両手にもあまるはるかにでかいさつまいもが見つかった。
ふと気がつくと、すぐ後ろにいた、仲の良い友達が、なにも得られずべそをかいている。それで、せっかく自分で掘り出した芋を、その友達に渡してしまった。
最後に先生が
「なにもほれなかった子!」
と呼んだので、そこへ行った。
すると細いヒモのような芋をいくつかくれたが、自分では大きなものをみつけたのだから、まあいいや、と思って満足していた。

どうやら、昔からそんな性格であったようだ。

生まれたときから、縁側でひなたぼっこをしながら、きれいな庭と空を眺めているのが好きだ。
あらそいを好まず、大きな夢ももたず、近所の人たちとなかよく、季節を感じて生きて生きたい。
ずっとそう、(本音のところでは)思っている、と自分では思っている。(なんかややこしい)




小三治さんの「初天神」




東京落語会。
イイノホール。
柳家小三治さんの「初天神」。

涙が出る。

最高の舞台だった。
この目で見れて、幸福だった。
小三治さんがいて、本当によかった。落語が、ますます好きになった。

まくらの時の所作から、湯飲みに手をのばすしぐさから、そこから、しびれた。

この動き。
背筋がのびて、かといって、力が入りすぎていない、自然体。
ちょっとしたくすぐりで、肩と背の形が変わり、そこが客の笑いを自然に誘う。とても落ち着く。
春風亭柳橋さんの物まねだった。

どうしたら、あんなふうに、座布団にすわれるのだろう。

客におもねず、ゆずらず、それでいて、何も意図せず、といった風。
楽でありながら、すべて計算尽くし、といった感がある。
何が起きても、どんな料理でも、してみせる、という自信だろう。
鍛え上げた、あるいは、筋金入り。
と、言っていい。

力量なのだろう。


教壇に、あんなふうに立ってみたい、と思う。
それができれば、教師としての、名人だろう。

初天神。
むだのないセリフ。
出だしから、いきなり、魅せてくれる。

おっかあ、羽織をとってくれ、といったときの、鼻に手をやるしぐさ、そこからすでに、100%の出来だ。小三治としてはふと、自然に出たのかと思うが、すでに登場人物になっている。見事すぎる。

金坊が、わずかに上を向いて、にこにこ現れるときの、かわいらしさ。
あ、そういえばさ、天神様が初天神だもの、父ちゃん天神様好きだからさ、天神様行くんだろう、・・・

このくだりも、とぼけたような、真剣になったような、子どもの表情が、どうしてこの70歳近い老人の表に、くっきりと浮かび上がってくるのだろう、とため息がでてしようがない。

団子に、蜜と、あんこ、両方を選ばせるところの、セリフのこまかさ。
しびれる。

そして、きわめつけは、蜜のすすり方。
「なんだこれ、この水あめみてぇな・・・これは蜜じゃねえ、水だよ」
最後の方のセリフが聞き取れない、そうだ、そのはず、すでに口元に串をやって、蜜をすすりはじめている。なんともリアルだ。ぐいぐい、ひきこまれていく。無駄の無さ。完璧だ。

これで見せ場が終わり、なのではない。だからすごい。
凧揚げの、セリフ。

「引きがいいねえ・・どうでぇこりゃ、そうらそら・・・・、おっと、こりゃあ、糸、足んねえかな。もっと買ってくりゃよかったな」

このとき、もっと買ってくりゃよかったな、のところは、本当に男のつぶやき、なのである。セリフではなく、つぶやきなのだ。すごい臨場感がある。背中がぞくぞくと震えた。

凧を見上げる視線がぶれない。おそらく、ホールの天井付近から二階席を見上げているのだろうが、本当に凧が、揚がっているように見える。

最後。
「こんなことなら、父ちゃんなんて連れてくるんじゃなかった」

泣けた。
微笑の哲学が生きている。
人間の可笑しみ、さびしさ、楽しさ、思わず出てくる微笑、苦笑・・・。

ああ、人間がいる。
人(ひと)が、生きている。
人がいとおしい、いとおしさの湧き上がる舞台だった。落語の奥深さ、そして哲学、人生が塗り込められた舞台だった。つきぬけるような、人の表現・・・。



人を、愛さずにはいられない、と思う。
落語を聴けば聞くほど、人が好きになる。




本当は、あなたは、どんな子なの?




茶髪。
教師のいない隙に、教室の隅にクラスメートを呼びつけ、命令をする。
命令に従わないと、ひどい目に合わす、と脅す。

万引きしたものを、買わせる。学校に、小遣い(金)を持ってこさせる。
カネをまきあげた、のではなく、売ったのだ、という。正当な行為だ。間違ったことをしているわけではない、と開き直る。
ダボダボのズボン。ネックレスをしてくることもある。刈り上げで、後頭部の一部に、うすい線がわざとみえるようにしている。そういうファッションだ、という。
給食で、デザートを他の子から奪う。奪っているのではない、勝手にくれるのだ、という。しかし、こわいから、取り入ろうとして、自らデザートの供出を申し出る子がほとんどだ。
ギロッ、とにらむ。
目つきが、こわい。
おそろしい。

両親は離婚。父親はすでにいない。母親が、稼いでいる。
親は、連絡が取れない。電話をひいていないので、携帯電話だ。しかし、年度始めに伝えられた携帯の番号は、とっくに不通になっている。
自宅に行っても、誰もいない。(あるいは居留守か)

ただし、子どもを見る限り、きちんとご飯は食べさせている。
育児放棄ではない。
学校がきらいなだけだ。

子どもは、風呂にも入っている。身奇麗にはしている。くさい臭いもしない。ちゃんと寝ているし、風呂も入っているし、ご飯も食べている。そういう世話は、きちんとしている。
親として、一生懸命に育てようと、しているんだろう。
女手ひとつ。
目立たない、どちらかというと地味な仕事をがんばって、三食をきちんと食べさせて、とにもかくにも、大きくなるまで、育てようとしているように思える。

近所の人に訊く。
宅配の配達の仕事をしている、とのこと。
夜遅くまで、土日も働いているようにも見える、・・・のだそうだ。


3人兄弟。
すべて男。
3人が連れ立って、夜の繁華街をうろついている、という。

悪い子か。
そう問われたら、どう答えるだろうか。

自問してみる。

悪い子。
そうだろうか。


悪いことをしている。
だから、その子が悪い子かというと、そうではない。
その子の心が悪いかというと、そうでもない、と思う。



やはり、それまでに、生育の過程で、育ってくる過程が大きいのではないか。
過去に、彼自身を取り巻く環境、生活、人、テレビ、映画、そういうものまで含めて、目に見たもの、耳に聞こえたもの、本で読んだもの、話をしたもの、それら、すべて、受けたものによって、そういう行動をする心、になっている、と言えるのではないかと思う。

そういう行動があったとしても、その人を憎むということはない、と思う。
ややもすると「あいつは悪い人間だ」「悪い子どもだ」と、決めてかかり易い。
あれは性根が曲がってるから、悪いから、と云う。

けれど、その性根が曲がった原因というものは、決して、その人自身ではない。
すべては、彼が受けたもの。
そこが原因だと言ってよいと思う。


本当の彼、がいるはずで、本当を見ようとしなければ。

世の中には、変な人、変な外国人なんていうのが事実としてはどこにもいないのと同じように、悪い人、悪い子、がいるわけではない。
事実の世界には、悪い子は、いない。
現実にはそう見ようとする見方があり、その見方を採用する人間がいて、そう見ようとして見るから、「悪い子」が生まれてしまう、つくられてしまうだけで、実際に、事実、悪い子がいようはずがない。


本当は、あなたは、どんな子なの?


それを見せて、教えて、とたずねていくことをしなければならない。
教師はそれをする。
向かっていかなければならない。
教室の隅の、彼の机のほうを、しっかり向かなければならない。
気がつくと、彼の机を避けて、視線を避けて、身体の向きを変えてしまっていることがあるかもしれないが、教師はそこから逃げてはならない。向いて、目を見て、彼の「本当」を知ろうとすることしかない。




罰する、ということ




ほめる、ということを考えている。
ついでに、罰する、ということについても。

申し訳ありません。
今日の文章は、とりとめがありません。


たとえば、宿題をしてこないと、立たせる。
授業開始に遅れると、ごみを10個拾わせる。
廊下を走ると、もう一度やりなおし。走り出したところまで戻って、再度歩くようにするなど。

いろんな罰があるだろう。

罰は、きつい。
罰は、暗い。
罰は、教師も子どもも、お互いが、きつくなる。さびしくなる。

罰は、本当は要らない。

(本当はそうだが、仕方がない。子どもが悪いことをするから、仕方なくしなければならぬ、という意見もある)

罰で、いいことはひとつもない。
体罰は、もってのほかで、教育の道を逆行する。
さかさま。神に祈って爆弾を恵む、と同じこと。


体罰がいけないことは自明だが、そうではない罰についてはどうか。

そもそも。

学校では、いろんな、○○しましょう、ということがある。
しかし、子どもには、必要性を感じていないことがたくさんある。
なんでやらねばならぬのか、と考え始めると、頭が混乱する。
それはそうで、この世に、しなければならないことはない。
頭の中の、観念の世界に、義務の観念があり、そういう頭で考えるから、しなければならない、と見えているだけ。
やらねばならぬ、ではない。

でも、学校では、勉強をする。
ここは、勉強をするところですから、勉強をします。
勉強をしなくてもいい、というのでは、決してない!

かといって、そもそも勉強はしなくてはならない、というのではない。

でも、あなたは学校へ来る。来ている以上、ここは勉強をするところだから、勉強をします。

・・・という感じかな。

ではなぜ学校へ来るのか・・・。それはご両親へお尋ねください??

(本当は、必ずしも来なくてもいい・・・という立場もあるだろう)



○○しましょう。
廊下を歩きましょう。名札をつけましょう。あいさつをしましょう。
しかし、こんなことは、しなければならないことではない。
しないと、誰がが大変な迷惑をこうむる、生死に関わる、という問題ではない。


学校にたくさんある、○○しましょう、のルール。
ルールは、本当は不要だ。
ルールを与えて、罰で調教するのは、人間をバカにしている・・・?


もっと考えることがある。


人としての自分を知る。
共に生きる人を知る。
人としての、生きることの意味、つまり人生を知る。
人生の舞台である、人間社会を知っていく。

本当は、教えることはできない。
各々、自分で自分を知り、成長しあうことしかできない。


自分を知らない、人間を知らない、社会を知らない、人生を知らない。
だから、「躾」でやろうとしても、・・・それは・・・だ。

自分を知るのは、自分だ。
だから、自分を知ろうとする、そこを共にやるのしかない。

その子が、自分を知ろうとする。
自分を知る。

そこが深い。


考えること、感じること、思っていること。
どうして、そう考えるのか。
どうして、廊下を走るのか。
どうして、廊下を歩くのか。
どうして、先生の声がしたら急にとまって、歩き出すのか。
どうして、宿題をしなかったのか。
どうして、宿題をめんどうくさいと感じているのか。


そういうことを、児童が考えたことがあるだろうか。
おそらく、ないのではないか。
そう、教師として問いかけたこともない。

自分というものが、そこから、ほんの少し、うかがい知れるかもしれない。
(でも、そんなことをしているヒマがないよ、とどこかで自分の言う声が聞こえる)




ほめるということ




2年目の担任が終わろうとしている。

最近の変化。
ほめる、ということ。


漢字を丁寧に書いてきた子に、

「えらい。ていねいだねえ」
「よく丁寧にかけています」

そんなふうにほめてきていた、と思う。

ところが、子どもたちとのつきあいが長くなってくると、言い方が自然と変わってきた。

「いつもそうだけど、今日も丁寧にいけたね。積み重ねているねえ。」
「はねるところに気をつけられるようになってきたね。」
「昨日よりはずいぶんいいです。」

変化。
子どもが、取り組んでいるところ、姿勢に注目するようになった。

子どもの"状態"ではなく、子どもの"変化"なのかな。

ほめるところが変わってきた。
これが、2年間でようやく。




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