30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2008年01月

次年度の、持ち上がりをめざす




持ち上がりたい。
そう思えるかどうか。

「この子たちと、もう1年、学級をつくっていきたい」

教師にとって、そう思えることが、どれだけ幸せなことだろうか。

そう思えるように、学級をつくっていく。
4月から、一年後の、その思いを実現させるために、学級づくりに傾倒していく。

そんな話を、学年主任の先生に、していただいた。

今、3学期の真ん中。
そう思えるかどうか。
どうだろう。
自分の心に向き合って、きいてみる。

しかし、素直に、YES、とは出てこない。l

どの子も、かわいい、と思える。
しかし、かんべんしてくれ、と思うときもある。

育てていないのだ。
何か。
心の、あたたかさを。

元気があって、子どもらしい。
意見は率直で、正直だ。
面白いことには反応し、そうでないことには耐えようとしない。
言葉をかえると、粗野で、乱暴なのだ。

やさしい子もいる。
言われない仕事をすすんでやることもある。
驚くような配慮を見せることも有る。

だが、持てあますときがある。
どうしたらいいのか、
つい大声で、ということが何度も有る。


終了式に、どんな心境が待っているか。
のこりの数十日に、かかっている。




サーカスのライオン(東京書籍3年生)




物語文教材をどうすすめていくか。
別学年の先生が、簡単な問題を100個つくる、というので
教えていただいた。
そのとおりに自分でつくってみたもの。

1 題は何か
2 作者はだれか
3 さし絵をかいたのはだれか
4 サーカスがやってきたのはどこか
5 サーカスには何がいるか
6 サーカスには何があるか
7 見物人の数は多いか少ないか
8 それはどんな表現で分かるか
9 季節はいつか
10 それはどんな表現で分かるか
11 まるで、~のようだった、で短文づくり
12 バタバタ、とハタハタ、のちがい
13 テントを近くで見ているか、遠くで見ているか
14 主役は誰か
15 対役は誰か
16 主人公が最初にでてくる段落は
17 じんざのいる場所はどこか
18 じんざはそこで毎日何をしているか
19 夢、の反対語
20 対比します。現実のじんざは何をしているか
21 対比します。夢の中のじんざは何をしているか
22 じんざには兄弟がいるか
23 サーカスに、他にライオンはいますか
24 「さあ、始めるぞ」ではなく、「始めるよ」なのはなぜか
25 音をあらわすことば、擬音を一つ書く
26 P66で、時をあらわす言葉はどれか
27 夜になると、サーカス小屋はどうなるか
28 夜になると、時折、○○がほえる⇒どんなふうに
29 おじさんがのぞきにきたわけ
30 人間の服を着たのは何か
31 人間の服を着たのはだれか
32 そのときのじんざの気持ちをあらわす言葉
33 なぜ、外はいいなあ、と思うのか
34 男の子はなぜ見舞いに来たか
35 じんざはなぜ、むねのあたりがあつくなったのか
36 男の子はじんざがタオルをまいている間、どうしていたか
37 男の子のアパートは○○○の上に立っている
38 ゆうべ、を辞書で引く
39 次の日、じんざの足にまいていたものは
40 そっとかくしたのはなぜか
41 足首は、○○○○○○といたかった
42 痛いときの、他の言い方
43 男の子は自分でもチョコを食べたか
44 それがわかる表現は
45 男の子がいつもすること、2つ
46 じんざはそのたびに、どうしたか
47 サーカスを見るのに、お金はいるか
48 サーカスに男の子が見に来る、ときいて、じんざの体はどうなったか
49 だしぬけに、を辞書でひく
50 まっすぐに走り出たときの姿は人間の格好か、ライオンのままか
51 ライオンの体は火事をみるとどうなったか
52 ぐうんと大きくなった、ということは、どうなったのか
53 じんざの足はまだ痛むのか
54 それがわかる表現は何か
55 「中に子どもがいるぞ」、と聞いたとき、子どもとは誰のことだと思ったのか
56 じんざの足はまだ痛むか
57 それがわかる表現は
58 ウォーの字がちがうのはなぜか
59 その声、とはだれのどんな声か
60 じんざは誰に子どもをわたしたか
61 早くとび下りるんだ、とは誰がだれに言ったのか
62 すすけた色⇒ぴかぴかに輝く と変わったとき、じんざの身に何が起きたのか
63 なぜ、ライオンの曲芸はさびしかったのか
64 それでもお客が手をたたいたのはなぜか
65 お客の中に、男の子はいたか
66 この物語の中のクライマックスはどこか
67 じんざの考えや行動を変えたものは何ですか
68 物語の場所は大きく2つ。どことどこか


その先生は、100問が目標だということだったが、
必死でやってみて、自分では68問まで。




デジカメか、それともフィルムのカメラか




テレビの話題。
プロの写真家が、子どもたちに、写真を教えている。

ははあ、こんなに便利な道具があるよ、と教えているんだろう。
そう思った。
いろんなものが写せて、手前の液晶画面にうつる。
気に入った写真があれば、プリントアウトする。
そんなことをしているのだろう、と、思った。

ところが、見ているうちに、そんなことではない、と思い始めた。
現代日本の教育へのアンチテーゼ。
写真家・立木義浩氏。

あえて、子どもたちに、一眼レフを渡す。
重い。
子どもは悲鳴をあげる。
「すごい重~い!」

でも、手軽なデジカメを、安易に渡さない。わざと。
よいしょ、とふんばって、苦労して写真をとらせるのだ。

フィルム写真である。
一枚撮ったら、暗室で、地道な作業をして、できあがりをみる。
ところが、まったく、面白くない。
子どもにも、そのくらいわかる。

一枚の大きさ。
一瞬の、シャッターの、押し方。
それが、だんだん、こわくなってくる。
手軽さ、便利さ、何度でもやり直しのきく、気軽さ。
それとは正反対の、
面倒な、手数のかかる、やりなおしのきかない、世界を体験させる。

子どもは、それだけで、??となる。
なんでこんなに、不便なことをするのだろう。
なんで、もっとかんたんに、「よい」やり方でやらないのだろうか。

「よい」、の基準がちがうから、立木さんのやり方が、まったく不可解だ。
子どもたちがもっている「よさ」の基準は、いわゆる、私たち一般の大人社会の基準だろう。
それで、社会は、どんどんと、手軽で便利なものを追及している。


子どもたちは、失敗をのりこえていく。

削除ができない。

デジタルは、気に入らなければ、削除ができる。
フィルムは、削除できない。
すべてのコマを、手間ひまをかけて、再生してみることになる。

子どもたちは、これまでとはちがった緊張感をもって、被写体に向かう。
真剣になる。
デジタルで、この真剣さは、生まれてこない。
アナログだからこそ。

子どもたちの撮った写真に、立木氏がつぶやく。
「きれいだね」
子どもは、一瞬、うれしそうになる。しかし、立木氏がつづける。
「でもこれは、だれだって、撮れる写真だ。君にしか、とれないものを見つけてごらん」

子どもはますます、壁を感じる。
のりこえなくてはいけない、壁をみつける。

「手軽にポンポン、はダメだと思うんです」

写真はコミュニケーション。
被写体に感謝する気持ち、挨拶する心、がなければならない。
最近は、挨拶も抜きで、かんたんだから、とパチパチ撮って知らん顔、が多すぎる。

立木氏のコメントが、いちいち、心に残る。
なるほどなあ、と思う。

授業について。

ふと思い返す。

汗をかくような準備をした授業と、そうでない借り物の授業。
(職員室にあったプリントを、簡単だからやってみようと、安易に進めてしまったときの後悔)
雲泥の差。

子どもは、授業の表面で反応するのではなく、職員室その他での準備の姿に反応しているのではないか、もしかすると、子どもたちはどこかで、職員室をのぞいているのではないかとすら思う。

人と人がつながるときというのは、汗をかいた分、そのぶんだけ、つながれるのかもしれない。

だから、カメラは重たい方がいいのだ。
写真を撮るときは、緊張した指がいいのだ。
押してよいかどうか、余計な緊張を心に強いて、シャッターを押さねばならないのだ。




エジソンの母




「エジソンの母」という新しいテレビドラマが始まっている。
私はほとんどテレビを見ないが(見る時間がないが)、我が家の嫁様がチェックしていて、先日夕飯時にその話題になった。
HDDに録画している、というので少し見てみると、驚くべき光景が展開され、腰がぬけそうになった・・・

というのは大げさすぎるが、・・・まさか1年生の担任で、あの服装はないよ。
小学校教師の規子(伊東美咲)の服装だ。

あんなおしゃれ着で、校庭を歩かないよ・・・。
それに、小学校の先生で、あんな豪邸に住めない。
授業中の格好も、あんなきれいな服でどうするのか。

あれじゃあ、子どもの鼻水がついた、クレヨンでよごれた、といっては毎回お気に入りの服を洗濯しなければならない。
1年生の担任は、おしなべて、古着同然のトレーナーとジャージである。
子どもと鬼ごっこをして、校庭の土の上ですべってころんでひざ小僧に穴があいたら、つぎをあて、縫ってまた、はく。
やぶれたら縫え、ヤブれたら縫え、の精神である。

なのに、伊東美咲のあの服装は。

そして、教室のうしろのロッカーの上。
雑然としすぎている。
目をうたがうのは、ボールがそのままロッカーの上に置いてあったこと。
あれでは、毎日毎日、毎時間毎時間、ボールをひろわなくてはならないよ。
ドッジボール大好きな1年生が、教室で、うしろのボールが気になって何もできないよ。


さらに、きわめつけは、1+1=2じゃない、という、あのシーンだ。

まず、賢人くんが、きちんとハイ、といって手をあげること。
その姿勢を、とことん褒めちぎらなくてはならない。
内容よりも、その姿勢だけで絶賛、100点満点である。

内容については、
「チョークがわれた。あ、1+1=3になった」
という点で、クラス討議に持ち込めば、かなり面白い展開になるのでは。

さらにその前段で、仲間わけに習熟するべきでは。
テレビの中でも、概念の違うものを足し算しようとして混乱するシーンがあった。ドラマではなんだったかわすれたが、例えば、うさぎ+カメ、という話になる前に、うさぎだけ○つけてごらん、カメだけぐるっと○してごらん、という仲間わけをいっしょにやっていくべきではないか、と考えた。
いかがであろうか。

TBSテレビドラマ、エジソンの母。
これを題材に、職員室で盛り上がること、まちがいなし!
あした、さっそく話題にしようっと。

(研究発表の準備で、それどころじゃないか)




ルービックキューブ




「ルービックキューブを持ってきてもいいですか」

ふだん、サッカーで活躍するTくんが、話しかけてきた。

「学校に必要の無いものは持ってきません」
即答する。

「やっぱりか」
「持ってるの?」
「うん」

そうか。
DSやWii、ゲーム機ばかりかと思いきや、そんな古典的なパズルもあるのか。

好奇心が湧いて、少し尋ねてみる。

「何面できる?」
「1面はできる。2面もできたことががある」

ルービックキューブ。
私が小学生の頃、大流行した。

ブームは異常なほどで、全日本人がいちどきに熱中したのではないか、と思うほどであった。
ねこもしゃくしも、という感じで、テレビでも大会が放映されるし、近くのデパートでも大会が開かれた。

1980年代というのは、まだ世の中が純粋だった。
隣の人がやれば、それを見てわたしも、という考えの人が多かった。
おそらく、全日本中の子どもたちのほとんどが、その年のクリスマスプレゼントに、1980円のキューブを買ってもらおうとしたと思う。
そのくらい、白熱した。

21世紀の今日。
世の中は、そんなに単純ではなくなった。
自分は自分、ひとはひと、である。
大ブームなどが起こらない社会に変貌した。

忙しくて、関心の無い人も多い。テレビを見ない人、新聞を見ない人も、大勢いる。そんな状況では、大ブームなど起きないのだろう。

ところで、そんな話題を少し、職員室でふってみたところ、みんな研究発表大会が近いせいで、充血した赤い目をしていても、ルービックキューブの話題には食いついてきた。

「年齢がばれるわー」
と、笑いながら話している30代。


そういえば、1面そろえるのがやっとだったな。自分も。
改めて、ちょっと、挑戦したみたくなった。




イチロー プロフェッショナル仕事の流儀




NHKのプロフェッショナル仕事の流儀、という番組で、イチローが出た。
第一線で活躍するプロの仕事に密着するドキュメンタリーだ。

イチローが、試合をするために球場へ向かう。
徐々に、顔つきがけわしくなっていく。
そして、いつも、同じ手順で、身体と道具を用意していく。

毎日、同じ手順だそうだ。
毎日、同じことのくりかえし。

これが、普通の人には、なかなかできない。


以前、若い頃、養鶏をしていた時を思い出した。
餌をやる手順は、すべて、決まっている。
時間も、方向も、身体をひねる向きまで、すべて決まっている。
牡蠣ガラの入った箱をひっくりかえす。
その箱を持ち上げる高さまで、毎日、同じでいく。

鶏のいる部屋に入るときも、右足から入る部屋、左足から入る部屋、すべて決まっている。

同じことのくりかえしだから、鶏にストレスがかからない。
人間が、毎日同じことをするから、鶏が安定している。
同じであることの大事さ、重要さを、わからないながらも、毎日、体感していた。
ちがうことをすると、身体に無理がかかった。
それに、作業に時間がかかった。

一番、シンプルで、無駄の無い動き。それは、毎日、一定で、かわらない。

イチローは、一日二食。昼前に、朝昼兼用のカレーを食べる。
これも、渡米してからの7年間、ずっと変わらないそうだ。
番組の中では、司会の茂木さんも驚いていた。

イチローは、
「同じ栄養バランスで、いつも変わらないものを出してくれる。それが、妻のすごいところです。同じであることに対して、これだけマジメに取り組んでくれている。感心しますよ」
と言っていた。

3学期が始まる。
毎日、同じ時間に起床し、同じ電車にのり、同じように職員室へ行き、教室へ向かう。

教室へ行くまでの、その移動時間が、すべて、その日の授業の為の、準備過程だ。

この準備過程が、無駄の無い、シンプルな、的を得たものになっているか。

朝、家を出るときに、あ、しまった、あれを持っていかなくては、ということのくり返しではいけない。すべて、流れるように、決まった動きがあり、それが子どもたちにとって、満点の授業を生みだす「しかけ」になっていなくてはいけない。

教室のレイアウトを変えた。
それと同時に、自分の家の、小さな個室。ここだって、いわばイチローのロッカールームと、同然だ。精神と肉体を準備する、一番重要な部屋だ。
プロフェッショナルの部屋にしていかなければいけない。

イチローは、これまで身につけてきた技術は無駄かもしれない、と言った。
なぜなら、ストライクゾーンの球を打てたら、ヒットが打てるからだ。ボール球をふらない、ということができれば、これまでのような、ピッチャーの投げる悪球をなんとかヒットにする、そのための技術が不要になる、という。イチローにとって、悪球をふらないことこそが、ヒット量産のための一番重要なポイントなのだ。

教師にとって、ストライクゾーンとはナンだろうか。
無駄なこととは、ナンだろうか。

無駄な叱正。
無駄な決まりやルール。
無駄な取り組み。
無駄な見栄や、プライド。

こうした行為が、見えるようになりたい。




山尾三省さん




山尾三省さん、という詩人がいた。
屋久島を愛し、農、林、森に生きた人。

写真を見ると、やさしい顔。
でも、身体はおそらく頑強そう、だ。

農業者の友人から教えてもらった。
その後、図書館へ行き、野草社という出版社の本でみることができた。

中に、「山で」
という作品がある。
3歳の男の子が登場する。
最初は、山の寂しさ、静けさ、大きさにこわくなり、泣きべそをかいている。
しかし、山の仕事、椎茸のホダ木を下ろすという仕事がある。
幼児がそれを、やりとげようとする。
やりきろうとする。

老詩人は、山仕事をしながら、ホダ木をかつぎおろしながら、この男児に声をかける。老人が、幼子に声をかけていく。
幼いミチトクンは、泣いているが、しだいに男の顔になっていく。
男と男の、関係が生まれている。


これを読んで、ぐっと、くる。
私にも、3歳の男の子がいるからだ。

子どもは、すごい。

以前、臨時任用の講師として赴任していた学校で、ある先生が言っていたことを思い出す。

「・・・だからねえ、子どもって、本当にすごいなあ、と思うよ」

職員室の遠いところで、どなたか他の先生と話をされていたが、上記のセリフだけ、私の耳に入ってきた。

このセリフの前が聞きたかった、と今は思う。
遠い、窓際の会話に入り込める状態ではなかったので、確かめることが出来なかった。

とても印象に残る言葉だった。


すごいなあ、と思えること。

子どもを尊敬できる、ということ。

これが、教師の、生きる楽しみではないか。
醍醐味ではないか。
そう思うからだ。

三省さんの詞では、「すごい」という単語は使われない。
でも、その詞の底に、「子どもって、すごいなあ」という声があるような気がする。

詞の中に、
山というところは 本来は怖いほどに淋しいところなのだということが よく判った
そしてその怖いほどに淋しい空気が
大人の僕を浄めてくれるのだということも判った

という部分もある。
山は、本来は、幼児にとっては泣きたくなるほどに、さびしい場所なのだ。
だから、大人は、それで浄められるのだ。

山に向き合う大人の三省さんには、ミチトクンの大変さが、ずっしりと感じ取れたのだろう。

三省さんは、2001年8月28日、癌のため屋久島にて亡くなった。



※「びろう葉帽子の下で/山尾三省詩集」(1993年、野草社刊)より




春を見越しての準備




これまでの1年間で、一番忙しかったのが、春。
3月から4月にかけての期間が、一番、いそがしい。
ほとんど、アドレナリンが出っ放し、という感じだ。
夜も、あまり眠れない。

寝ようと努力するが、苦しい息がつづく。肩で、ハアハアと息をする状態。
寝るまえに、ちょっとでいいから、休憩がほしい。
そんな心境で、なんとか、生きていた。

だから、春が、くるのが、こわい。


それを正月の間に考えて、それから教室を見てみると、
あれやこれや、気になることがたくさんある。
レイアウトは、来年度もこれでいくのか。
ものの置き場所を、もっと考慮しなくても良いのか。
そうじ当番は、これまでのような画用紙の紙表示でいくのか、それとも、マグネットボードに貼り付けるようにした方がいいのか・・・。

おそらく、春になったら必ず迷う。
そういうことが、すでにいくつか、目に付いてしまう。

「3月になったら、すっごく悩みそうだなあ」


ふだんの暮らしの中で、不便を感じていることもある。
教室の前方に、赤鉛筆をたくさん置いているが、この場所でいいのか。
赤鉛筆を忘れる子どもがいちいち、そのたびに、前に出てくる。
それを考えると、黒板のすぐ横は、あまりよくないな。
フラッシュカードも、すぐにとれる場所がいいけど、あまり子どもの目につくところだと、カード置き場がふだんから目立ちすぎて、教室環境としてはどうかな・・・。


それで、3学期は、来年度の試行期間としてもとらえるように考えた。
つまり、この3学期は、これまでの1、2学期の修正、というとらえ方と同時に、来年度春以後の教室運営の、試行でもある。
そうとらえることにする。

春からやればいいや、と思っていた、モノ入れの移動。
これを、今、やることにした。冬休み中にやれば、3学期が試行期間にできる。
案配がよければ、春からも続ける。
もし、具合がよくなければ、修正がきく。

こう考えると、金属でできた、重い灰色のモノ入れロッカーを、動かす気になれた。

ようやく。
(実は、この1年間、どうも具合がナア、と思い続けていたのだ。早くやればよかった。)




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