教材、というより、きょうは教具の話。
教室で使用中のノートPCに、Windows Live One Care というソフトを入れた。
これはセキュリティ確保のためのソフトだ。
教師たるもの、安全確保、危機管理は当然だ。
パスワードや暗号化もするが、通信もするPCである以上、ネットワークのセキュリティ確保もかならず行わなければならない。
Microsoftが出しているソフトで、ネットワーク上の問題はもちろん、フィッシング詐欺についても、スパイについても、もちろんウィルスについても、すべてチェックしてくれる。
すぐれものだ。
コンピュータ上の危機管理状態が、タスクバー上に表示されているのもうれしい。
Microsoftの Windowsアップデートについても、情報が確実にもたらされるのもうれしい。
だが。
問題があった。
教室で起動しようとすると、かなり起動に時間がかかる。
この一点だけが問題なのであって、いったん起動してしまえばなんてことはない。
あとは料金的にもリーズナブルだし、利用価値は高い。
・・・と思っていた。
しかし。
この一点、つまり、教室で使いたいときに、5秒でも早く起動して欲しい、ということがある。
この5秒で、教室の空気が、よどんでしまう。
そのことが、ゆずれない。
そのため、本日、Windows Live One Careを、アンインストールしました。
ちがうソフトを買わねばなりません。
雑誌を見てみると、いろいろと出ている。
各会社、それぞれのソフトで、かなりのちがいがある。
性能、各会社のサービス、信頼度・・・。
どれにしようかさんざん迷って、結局、ウイルスセキュリティ0(ゼロ)にした。
決め手は、料金。
2007年11月
潜望鏡をつくった。
必要なもの。
牛乳パック2本と、しょう油のペットボトル、100円ショップの手鏡2枚。
ペットボトルがあると簡単だが、ボール紙をまげてもできる。
(ボール紙は購入が必要だが、ペットボトルは児童に家庭でいらなくなったものを持ってきてもらえばよいから、費用面で助かる)
牛乳パック2本をたてにつなげ、ペットボトルを輪切りにしたものを、接続部のつなぎにする。
上下のパック部分が回転できるようにする。
牛乳パックの先部分に、手鏡をななめ45度につける。
完成品を用意して、
「机にかくれても、向こう側が見えるよ」
といって、教卓に隠れる。
完成品で、向こう側をのぞくと、みんなが手をあげたり、へんな顔をするのが見える。
「おお!手がたくさんあがってるぞ!!」
というと、もっとたくさん手があがる。
「Aさん、あれ、おかしな顔してるな~」
というと、みんなゲラゲラ笑う。
Aさん、得意そう。
しかし、2時間ばっちりかかった。
思ったより、時間がかかる。
完成品を、じっくり見ていなかった。
完成イメージを、たっぷりつくっておかねば、あれ、と思うようなところでミスをする。
それでも完成した子から、中庭で潜望鏡体験を楽しむことができた。
たっぷり遊ばせて、教室へ戻し、いつもの理科の時間のお約束。
「今日やったこと」の作文。
ノートにしっかりと、なにをしたか、なにを発見したか、なにに気付いたか、を書かせていく。
前方をみたときは、上下が正しく見えたのが、くるりと向きを変えて、背中の方、つまり後方をみようとすると、鏡面が変わり、見える風景が上下さかさまになることについて、何人もの子が記述できていた。
光の勉強をしたばかりなので、「ものの見え方」について、敏感になっているのだと想像。
鏡が、太陽の光をはねかえすだけでなく、風景そのもの、光そのものを反射することを、いくばくかは、身体で体感できただろうか。
お父さんは、単純な結論に陥りがちな会話をサポートしてくれる。
つまらない上に確信のもてない情報交換から、より確信がもてて、楽しい会話へとお婆さんたちを導き、救ってくれるのだ。
お婆さんたちは、楽しい待合室を欲している。
だがこれまで、そういう楽しさを分かり易く演出してくれる人がいなかった。だからなお、お父さんの登場が待たれるのである。
待合室を楽しくするための工夫は、いろいろと考えられる。
看護婦が呼びにくるまで、ゆっくりとお茶を飲むスペースを設けるとか、あるいはホールでビンゴ大会をしてもいい。
診察券の裏側にナンバーが記してあり、震える指で穴を開けながら楽しむのである。
数字がそろって「ビンゴ!」と叫んだとたんに、ひざの痛みがすっかりなくなってしまったりするかもしれぬ。そうすると、これはビンゴ療法ということになろうか。
人間が日常生活にエンターテインメントを求める習癖を有しているなら、お婆さんたちも例外ではないだろう。
そして、そのお婆さんたちの日常生活の大半は、待合室において営まれている。
今、待合室には新しいエンターテインメントが期待されている。そこに目をつける病院が、これからの時代にのびていくのではないか。
見ると、診察を終えたお父さんが、最後の薬袋を受け取り、今しも出ていくところであった。
取りまきのお婆さんたちもすでに帰りかけていたが、何人かが気づいて会釈をした。
お父さんも会釈を返したが、なんだか人気俳優のようであった。
お父さんの通り抜けたガラス扉の向こうは、そろそろ午後の陽差しがやわらかく届く時刻になっていた。(おわり)
お父さんは驚くほど勉強していた。
たとえば、○○先生は、どこの大学を出て、いったん刈谷市の病院で修業をした後、この総合病院へ腕を見込まれてやって来た。
その腕を評価しているのは、名外科医と称される当病院の部長先生である。診療時にはよく話もきいてくれるし、なかなかやさしく面白い先生だ、でも、この間は医者のくせに風邪をひいていた、案外ドジなのだ、いう具合である。
「やぶか、名医か」という二極分裂の構図しか話題にならなかったコマーシャリズムの呪文に比べて、お父さんの語るジャーナリズム的説明のなんと豊かなことか。
「あの先生、いいよ、名医だよ。あの先生に予約しやあ」と熱心に勧められることもあるかも知れない。
だが、それよりも、なんとなくその先生の人間臭さがうかがいしれる情報の方が、効果的なコマーシャルになるのではなかろうか。「清く正しく腕が立つ」の一点張りではない、人間臭い視点から気軽に語った、お父さんのジャーナリズム的情報の方に、人間は興味を抱くのではあるまいか。
このように、病院をジャーナリズム視点でみて解説してくれるお父さんのような存在を、待合室のお婆さんたちは心待ちにしている。
たとえば。
「あの先生は評判がいいだに」
という短文は、最初のうちこそ説得力をもつだろうが、そのうちに消えてなくなり、雲散霧消する寿命の短い呪文であろう。
なぜか。
それは、より詳しいと信頼される別の情報、第二次情報によって、簡単にひっくりかえされてしまうだろうからだ。
こんな会話があったと仮定する。
「あの先生はええらしいよ」
「あれ、いやあ、なにいっとんの。あんた知れせんの?あれやぶ医者だがね」
「ええ?やぶ?(・・・うっそ。しらなんだ。なんか新しい別の情報があるのかしらん・・・)」
どうであろう。
人の気持ちは、三秒で簡単にひっくりかえる。
このように、簡単に寿命のつきてしまう呪文を、コマーシャリズムとよべるのだろう。
それは、はっきりした具体的な根拠をじっくりとつきあわせることのない、単なる噂でしかない。
コマーシャルで「スカッとさわやか」などというようなもので、空気中に漂う架空のマボロシようなものに過ぎない。
また、たとえば、日頃頼りにしている身近な人に「コカ・コーラまずいじゃん」と言われたとたんに、ペプシに変えようか、と思い始めるのが普通の人間の心理ではないだろうか。
待合室で話題の中心にいた、病院評論家のお父さんは、かような失敗をしなかった。
お父さんはどこにルートがあったか知らないが、驚くほど勉強しているのだ。
お婆さんが多い中に、一人だけ禿げたお父さんが座っていて、ひときわ声高く盛り上がっている。
そのお父さんは人徳者らしく、ビニール椅子の上にあぐらをかき、周囲のお婆さんたちの病状を、盛んに相づちを打ちながら聞いているのであった。
一人のお婆さんが自分の病状をすっかり話し終えると、顔をくしゃくしゃにしたお父さんは、しばらく腕組みをして考えた挙げ句、
「それは○○というんやろ、足の先までしびれがきとるんなら、もうこりゃかなり重傷だわ」
などと言っている。
それをきいた周りのおばあさんが、当たった、当たった、と言って目を丸くしている。
占い師まがいの芸も持つこのお父さんは、ふだんは自営業で靴屋を経営しているそうだ。
だが、整形外科の道が長いらしい。
病院の先生たちの評判にもめっぽう詳しく、あの先生は上手だ、今度来た新しいのは駄目だ、などと講釈をしている。
それを聞いて、周囲の視線はだんだんと熱い視線に変わってくる。
プロの病院評論家、という職業があったら、成功しただろうに、つくづく惜しく思われる。
その会合は
「あんたえらい詳しいねえ」
「あんたが医者やらなかんわ」
という、ある一人のお婆さんの「かんわ」発言でどっと笑いをとり、締めくくられていた。
この世に、コマーシャリズムとジャーナリズムとがあるのだとしたら、まさしくそのお父さんの談話は、ジャーナリズム的であった。
「あんたら、どこに目つけとんの。ずっとおったがね!」
御母様は大変負けん気の強いお方らしかった。
まるで、イタリアマフィアのドン、といった感じのゆうゆうたる歩調で、娘たちの軽率さをびしっと叱り、
「まったく、よーさがさんだでかんわ」と、とっておきの名古屋弁で締めくくったのであった。
しだいに、静かだった待合がざわめきはじめた。
そこかしこで、知り合いどうしが会釈をしたり、会話を始めたりするようになってきた。
ここまではまだ、長い待合物語の序章に過ぎなかったのである。
だんだんと、時がすぎるにしたがって、ときおりはしゃいだような明るいざわめきまでも聞こえてきだした。
中に、まるで、おやおや、クラスメートに会ったのかしらん、と思うような会話があった。
「あらまあ、お久しぶり。その後、どう」
「まーどんなけ注射打ってもよ、まーあかんだでかんわ」
読者は、話が、寄り道にそれることを許して欲しい。
どうしてもふれておきたい。
この言葉に注目。
「あかんだで、かんわ。」
これは、一見、二重否定とも思える構文なのだが、実はちがう。
かんわ、というのが、この場合、「強調」を意味する。
名古屋弁でもっとも重要なのは、この「かんわ」という語尾である。
これをあらゆる場で多用すれば、しだいに名古屋弁特有のリズム感が身についてくるだろう。
時を経るにしたがって、午後の待合室が変貌していく。
注意深く見ていると、ここかしこに、小共同体コミュニティが網の目のようにつくられはじめているのがわかる。
会話のはずむ小コミュニティの数々。
あちらこちらに、そうしたコミュニティが、できはじめている。
とつぜん、元気のいい声が出し抜けに聞こえてきた。
振り向くと、患者の方につき添ってこられたのだろう、若い女性二人が大きな声で話しながらやって来る。
それが全部、筋金入りの名古屋弁なのだ。
「あれ、おばあちゃん、おれせんがね、どこ行ってまった」
「なにー、おれせんの、ちゃんと待っとりゃーって、言った?」
「言ったにー、あかんがね、どこ捜してもおれせんでかんわ」
どうも、その二人は姉妹であるらしく、入院したての母親を見舞いに来たところらしい。
彼女たちがたいへん陽気に登場したため、それまでどんよりと沈んでいた待合室に、何かおもしろいことが始まるらしい、というようなムードがただよいはじめた。
すると、まるでその期待にこたえるかのように、廊下の曲がり角からガラガラと、何かを引きずるような音とともに、その御母様が現れたのである!
御母様は、威厳のある風貌で点滴の道具をぶらさげた物干し台の支えのようなものを自力でひっぱりながら、やってきた。
「あんたら、どこに目つけとんの。ずっとおったがね!」
折から持病の腰痛がひどくなり、病院へ出かけた。
病院という場所は、覚悟はしていたものの、とにかく人間が多い。待合いは、さながら人間の博物館だ。
ビニール製の長椅子にじっと止まったまま、朝からじっと動かないおばあさんがいる。
体中の水分がすべて蒸発してしまったのではないか、と思われるくらいしわくちゃのそのおばあさんは、小さな体を紺色の上品な和服で包み、まるで置物のようにちょこんと収まっていた。
そういったたぐいのおばあさんが約三ダースほど並んだ先に、この世はまったく闇だ、というような顔をした茶髪の若者が、口を尖らせガムを噛みながら座っている。
全体に憂鬱である。
どんよりとした曇った空気が、冷たい廊下やコンクリートの壁をつたって、人々の頭上に重くのしかかってくるかのようである。
時折、はっきりと聞き取れない、くぐもった声でマイクの呼び出しがかかる。そうすると、今まで痛みをじっとこらえていた表情がそのときだけ少しやわらぐ。
お婆さんはどっこいしょと椅子を下りると、軽く会釈をして診察室へ入っていく。
待合室の空気が少しだけ動き、その動いた分だけ、ため息がもれる。自分の番かと期待したあとの、かすかな失望の息なのである。
待ち時間はまだ、無限にあるかのごとく思われる。(つづく)
動物の気持ちが分かる、という人がときどきいます。
縁側で横になっている猫を見て「この猫、眠たそうね」って、そのくらいは誰でも分かりそうなものですが、イルカと話をする有名なダイバーや、「わが家の飼い犬は人語を解する」と主張する人もいます。
動物にはよく見ると豊かな表情があり、「動物と話が出来る」というのはうなずける気がします。
いくつかの短いフレーズを駆使して、人に対して話しかけるチンパンジーもいるようです。
それどころか、驚いたことに植物にさえ気持ちが伝わると、確信する人もいます。
花好きの友人が 「挨拶すると、少うし、笑うのよ」
というのは、花壇に植えてある黄色い水仙の花のこと。
花が笑いかけてくる、というのは何とも幸せな感じ方です。
牛を飼っている別の友人に聞いてみると、
「牛どうしは話しているんじゃないかな。群れ全体が急にまとまって動き出すときとか。こっちの範疇を超えて、コミュニケーションをとっているらしい」と言います。
先日、小さな一、二歳の子どもが何人かで熱心に話をしている現場に行きあわせました。何やら真剣に話しているのでそっと聞き耳をたててみるのですが、日本語に関して経験の長い私にも、ちっとも理解できませんでした。ところが、彼らはお互いの意志が確認できたようで、深くうなづきあっては新しい遊びを始めたのです。小さな子どもの世界には、到底大人の理解できないテリトリーがあるように思いました。
将棋をブームにしようと画策を始めている。
たとえば、
1) 将棋入門、という子ども向けの本をさりげなく学級文庫にまぜておく。
2) 給食を食べ終わると、読書か将棋をすること、と学級ルールに定める。
3) 将棋大会を、定期的に行う。(参加自由)
など、である。
とくに、2学期に入って、運動会後から、ブームが加速。
原因は、 3) の将棋大会だろう。
最初は、8人だけだった。
ところが、大会を地道にやっていると、やってみたくなる子が増えた。
見ているだけでは、やはりものたりないらしい。
初回の大会は、私が優勝。(これは決して譲らない。たたきのめす)
私が優勝するのは確実であるが、先生と戦うことができた、ということが勲章である。
つまり、児童の中では、一番になれた、ということ。
それが、闘争心に火をつけるようだ。
そんなことをしていたら、保護者がそれを聞きつけて、子どもに持たせて新聞記事を見せてくれた。
それには、
「かしこい子は指している」
というキャッチとともに、小学生が将棋を指しているところが写真で掲載されている。
何新聞なのか、ちょっと今は分からない。
つい最近の記事だ。
文面によると、効用は以下の通り。
1) はじめます。負けました。ありがとうございました。など、丁寧な礼儀作法の習慣が身につくこと。
2) いろいろな作戦を考えるので、考える姿勢が身につくこと。
3) 負けてくやしくても、くさらない、という、心の耐性が身につくこと。
4) 順番を守るために、待つことができるようになること。
5) 飛 など、 漢字を覚えるという思わぬ収穫があること。
まあ、5)はつけたし、であろうが、なるほど、と思わせる。
上記のような効用が「めあて」ではじめたわけではないので、そんな効用は一つも実現しなくてよいと思っている。効用など、「無いであたりまえ」である。
無いであたりまえ。
だけど、将棋に熱中している姿は、なかなか凛々しく、子どものたくましさを感じる。
それが、見たいのだ。
秋の遠足。
朝、職場へ早く行く。
なにが起こるかわからないのが、行事の日。
コンビニに寄って、弁当を忘れた子用のパンを買う。
ついでに、自分用のお茶を購入。
遅刻の子に電話。
バスが出発後、学校に電話。携帯が無事につながるか、確認。
バスが下手で、急停止、急発進するので、気持ち悪くなる。
しかし、子どもより先に教師が吐いていてはあかん、と気合を入れる。
いろいろあって、無事に弁当。
弁当をひろげてみんなで食べはじめて5分後、もじもじと一人の男子が
「先生・・・」
と言いに来る。
様子が変だ。
目が、おどおどして、泣きそうだ。
いつもは元気な子なのに。
赤白帽子のひもを、あごのところで、ぐい、と握ったまま。
うながしても、なかなか話さない。
友だちがまわりにいるから、話しにくいのか。
それでも話をうながすと・・・、
「・・・ふたをあけたら、アレ、わすれちゃったのかな、というか・・・」
歯切れが悪い。
てっきり弁当を忘れたのかと思って、先生のをいっしょに食べるか、というと、
「ちがう!」
という。
「箸がない」
あ、そう。
すぐに自分の割り箸を折って、半分わたす。
「うーん、これで食べられるかなー」
あと、ごはんが真っ白な子が、残念そうに
「なんにもかかってないや」
ふりかけを期待したんだろう。
逆に、クマが描いてあった、というので、喜んでいる女子がいる。
また、
「今日はなに、かな~♪」
という機嫌のよさそうな声で、にこにこしているので訊くと、
「だって、おかあさん、ぜったい、フルーツいれてくれるんだもん!」
という。
それが、楽しみで、しかたがない、ということ。
一方、
白いごはんと、茶色のチンしたおかずだけの男の子。
聞こえるか聞こえないか、という声で、
「・・・野菜がない・・・」
残念。
弁当が、一大イベントだ。
イルカショーなんかよりも、おうちの人の、お弁当がいちばんだ。
それが、なによりも、最高の、イベント。
ほめことば、について、以前も考えていたことがある。
最近、クラスにいろいろなほころびが生じ、そのおかげで、また考えている。
ほころびとは、人間関係。
つまり、いじめ、いじわる。
いやだ、ということをくり返しされたら、いじめ、になる。
今のうちに、手を打たねばならない。
放課時間に、マンツーマンで話し合っている子がいる。
そうでもしなければ、心のうちを、語ってくれなさそうだ。
いじめ、の加害者意識がない。
事実はあるのに、やっていない、とシラをきる。
シャアシャア、と言ってのける。
2人の言い分に、大きなちがいがある。
教師はその現場を見ていない。
だから、キメツケてはいない。
ただ、本当はどうか、とつめていくだけだ。
くいちがいがある。それをうめる作業をする。問いかけ続ける。
本当は、先生は知らない。だから、知りたい。そのくり返し。
被害はウソなのか。
それとも、やってしまったことを、認めないだけなのか。
あくまでも、自分から何かを言って欲しい。
祈るような気持ちで、両者から、交互に話を聞き続けている。
その一方で、クラスの他の子たちに、ふだんどんな接し方をしていたか、ふりかえってみている。
いじめをしてしまう子。
家庭環境をみると、ふびんだ。
どうしたら、認めてあげられるのか。
認めてきたつもり、ほめてきたつもり。
でも、心の奥底にまで、教師の言葉が届いていないとしたら。
さびしさ、ほっておかれた寂しさ、孤独さ。
あたたかさを感じない子、感じたことのない子が、他の子に、どれだけやさしくできるか。
無理だ。
ほめるって、なんだろう。
ほめことば、ってなんだろう。
考え続けている。
Clix2に、さっそくテキストファイルを移して、表示させてみた。
できる。
教科書の会話文、テキストとして選んだ、「ぜったい音読」の会話文も、ちゃんと表示できる。
打ち込みが必要だが、この程度なら、と思うことにした。
会話短文なら、ちょっとずつでも、打ち込んでいけるだろう。
日曜日の昼下がりに、タッタカ打ち込んで、またClix2に移動させ、表示してみた。
CDからの音声ファイルも、移動させる。
これで、ネイティブの発音を聞きながら、テキストを同時に表示させ、みながら確認できるようになった。
本を取り出す必要がない。
本と装置を両方持つ必要がない。
同じ装置で、音声とテキスト表示を同時に扱える。
操作する対象が、ひとつに限定された。
おまけに、胸ポケットのあるシャツに、しまえる。
これで、学習意欲ががぜん、向上した。
(これまでの流れ)
学習指導要領の改訂など、昨今の教育界の変革に対応するために、英語を自ら学ばなければならない、と思うようになった。
具体的な作業として、毎日の通勤電車の中でどう英語を学習するか、を悩んできた。
問題点は、次のとおり。
込み合う電車の中で、次の動作をすることになる。
1)かばんから本を取り出し、
2)両手で本を開き、
3)(機器操作のため)それを落とさないよう片手に持ち替える。
4)さらにウォークマンにスイッチを入れ、
5)聞きたい場所、聞き取り練習に該当する箇所を探し出し、
6)再生や一時停止を頻繁に操作しながら、
7)片手で(本が手から落ちないよう、指に力を入れながら)持った本のテキスト文を目で追う。
これを、(くどいようだが込み合っている)電車の中で、立ったまま、体勢を変えながら、行う、ということ。
どうしたらこの操作関連を簡便化できるか、と考えてきた。
(ここから本編)
そして、ついに、解決法を思いついた。
以下のとおり。
本を取り出す動作を省略する。
つまり、音声の出る装置に、テキストが表示できればよい。
それも、自分で好きに入力したテキストファイルが表示できるとなお、良い。
それに見合う装置が、すでに販売されている。
まったくもって、世間からだいぶずれていたようだ。
時代遅れ。
つくづく、情けない。
時の最先端は、すでにこれを解決する道具を世に送り出していた。
ヨドバシカメラに出向いてみた。
そこに、「ipod」があった。
なんとなく知ってはいたが、手にとって見たのは初めてだった。
ところが、ipod の画面をいろいろと見たが、小さいなあ、という印象。
もっとでかい画面がほしい。
店員に尋ねてみたら、
「それなら、Nintendo DSがよいでしょう」
という。
DSは、小学生に大流行だから知っていたつもりだが、ちなみに、と店員といっしょに別の売り場まで見に行く。
ヨドバシカメラの店員は、やさしいなあ。
別の売り場まで、つれていってくれるんだもの。
DSと、英語習得のためのソフトまで見せてくれた。
「けっこう出ています。人気です」
とのこと。
「これで、英会話学習される方、多いです」とのこと。
しかし、だめだ。
見て、すぐにダメ、と判断。
なぜか。
重すぎる。
DSを、夏の軽い半そでシャツの胸ポケットにしまえるか。
NOだ。
書籍と同じだ。いちいち、かばんから取り出さねばならないではないか。
百歩ゆずって、上着のポケットに入れられるとしても、夏場は無理。
「DSはでかいから、ダメ」
というと、それでは、とまたAudio関連の元の売り場へもどった。
DSより小さく、現行ipod の画面よりも大きい。
ipod touch という製品も見た。かなり小さい。DSよりも小さく、画面は大きい。
これかなあ、と一度迷う。しかし、手に持った感じは、やはり大きすぎる。
あとひとまわり、小さくなって欲しいなあ。だって、夏場は、Yシャツの胸のポケットに入れたいのだもの。
これしかないのかなあ・・・。
再度、希望を整理してみる。
・定期券サイズ、シャツの胸ポケットに楽に入る大きさで、軽いもの。
・しかし、画面は最大に大きくて、テキストファイルが表示できるもの。
これを伝えて、さがしてもらった。
そして、ついに、その装置が見つかりました。
iriver という韓国メーカーの、Clix2 という商品でした。
みた瞬間、「これだ!」
定期券サイズ。ジャストだ。
持ってみて、軽い。
テキストファイルが表示できる。
そのテキストの文字の大きさも、カスタマイズして、大中小と見比べてみたが、使えそうだ。
中学生英語の短文くらいなら、画面をそれほど頻繁に切り替えなくても、1、2画面でおさまりそう。字の大きさも、目が疲れるほどでないだろう。朝のほんの10分程度だし。
ipod の画面は、このClix2に比べたら、もっと小さい。小さすぎると、さすがに目も疲れそうだ。
即断し、購入。
あとで、iriver メーカーのホームページからも購入できることがわかった。
それで、シリコンのカバーは、帰宅後にそのWEBサイトから購入した。
学級文庫として、たまたま将棋の本を買った。
「将棋入門 小学生向け」
買って並べたまま、忘れていた。
ところが、この2学期の間に、かなりの子がこれを読んだようだ。
家でも、お兄ちゃんと対戦した、という子が出てきた。
将棋盤を買ってもらった、という子もいた。
5分休みに、これまた、たまたま将棋の話になった。
すると、あとからあとから、やりたい、という声が出た。
さっそく、トーナメントでやることにした。
勝ち負けを決める、ということになって、ひるむ子が出た。
しかし、やってみる、という子が8人。
じゃんけんでシードを決める。最後に勝ち残った勝者が、最終決戦で先生と戦う。
勝手に、トーナメントの紙をつくり、これをやる、と宣言する。
これは、児童にはやらせない。
格をあげるためだ。
「将棋トーナメント」、という字も、教師が墨と筆で、かなり凝って書いた。
翌日、掲示されたトーナメント表の前に、何人も立ってみている。
ルールに関する質問が出始める。
しめしめ、だ。
「先生、本当に名人なの?」
優勝カップと王冠の絵の横に、最後に、先生と戦う、と書いている。
そのわきに、K名人、と書いた。それをみて、先生は本当に強いのか、と聞いているのだ。
「そう。名人だ」
ひょうひょう、と言っておく。当たり前だよ、という感じで。
女の子は、すごいなあ、という目が大半。
男の中には、本当かな、という疑わしい目もある。
「まあ、先生をたおしたら、小学生では全国レベル。将来、確実に、羽生名人級」
と言っておく。
おもしろくなってきた。