フィンランドを舞台にした、映画「かもめ食堂」を見た。
静かな雰囲気が、ずっと続く映画を、ひさしぶりに見た。
テレビ自体をみることが、ひさしぶりだったから、とても新鮮だった。
見終わった後、なんとなく姿勢を正したくなった。
毎日、毎日、やることがある。
それを、淡々と、しかしながら、意欲をもってぐいぐいと、進めていく実行力。
主人公の女性に、そんな、凛とした姿勢を見た。
こんなせりふがある。
「ついに、かもめ食堂、満席か」
ちっとも客の来なかった食堂が、いろいろなめぐり合わせと工夫で、満席になる。
主人公は厨房に立ち、満席の食堂を見渡して、満足げにうなずく。
もう一つ。
「明日が世界の終わりの日だとしたら、あなたは何をしますか。」
そんな問いが、映画の最中に、投げかけられる。
どうだろうか。
自分の心に訊いてみる。
教室で、授業をする、かな。
ちょっと、かっこよすぎるか。
でも、そんなふうに、心底、言えるようになりたい。
2007年09月
国語の授業は、ほとんど毎日ある。
そして、その国語で、かならずあるのが、漢字だ。
だから、漢字が好きな子は、幸福だ。
なぜなら、毎日、漢字学習があるからだ。毎日行うお勉強が、好きなのだ。これほど幸福なことはない。
逆に、漢字を苦手だと意識する子は、毎日がつらいものになる。
教師としては、漢字を好きになって欲しい。
だから、いろいろなことを考える。
古代文字を用意して、そこから漢字の成り立ちを考えるのも面白い。
太郎次郎社から出版されている、「漢字はみんな、カルタで学べる」(伊藤信夫/宮下久夫著)を読んだ。
おもしろい!
いろいろと授業で扱ってみたくなる。
これを使ったら、ふだん気乗りのしなさそうなあの子だって、やるかもしれないな、と思う。
特に、部首がいい。
部首は、意味がある。
その意味をもつ言葉が、関連してたくさん存在する。
グループなのだ。
海 と 池 と 湖 は、みんなさんずいだ。
湖には、月がついている。湖からは、きれいない月がみえたのかしらん。
昔の人と、交信している気分になる。
どうして、あなたは、月をつかおうとしたのです?
あなたの知っている湖には、月がうつっていたのでしょうか?
「101漢字カルタ」や、「98部首カルタ」など、楽しいカルタが紹介されている。
教室にほしい!!!!!
メモ帳の活用について。
メモ帳といっても、ただの紙だから、どんなことも書き付けることが可能だ。
数字、記憶しておきたい時間、段取り、どんなことも書く。
しかし、必ず書いているのが、「やること」だ。
明日、二~三日中、一週間以内、一ヶ月以内、期限は色々だが、内容はシンプル。
やらねばならないこと、やった方がよいこと、やりたいこと。
これらを、どんどんと書き連ねる。
これを書く時間について。
いつ、そのメモを書くのか。
私の場合は、単純だ。
思ったときに、とっさに書く。
あっ、と思ったら、書くようにする。
職員室の机の上に、メモ帳は置いておく。
また、帰宅時に、手持ちカバンの一番とりやすい外側にサッと入れ込んでおく。
そうでないと、根が不精(ぶしょう)だから、書かないようになってしまう。
帰宅時、電車のホームで電車を待っている間が、いちばんよい。
鞄から、サッと手帳を取り出す。
そして、はさんであるボールペンで、今思い浮かぶ、ありとあらゆる項目、やるべきことの列挙を、書き連ねていくのである。
翌朝、起きたばかりのねむたい目で、朝のホームにたどりつく。
まだ、人はまばらである。
ホームのイスに座って、おもむろに、昨夜のメモを見る。
すると、おどろくべし、どんなに眠たくても目が覚める。
そして、一日が終わる頃、かなりの項目を消すことができる。
単純だが、シンプルな習慣になっているためか、ここ何年か、ずっと続けられている。
30代で子持ち受験者の私には、ホッとできるところがない。
居場所をつくらねばならない。
家に帰ると、ホッとするが、子どもの遊び相手になる必要がある。
ふだんはそれでもいい。わが子を見ているだけで、元気をもらえる。
しかし、心底くたびれた、大きな行事を成し遂げた、ふだんしないような頭の使い方をした、という時がある。
そのために、土日のどちらかを妻と相談の上、一人で外出させていただく。
外出といっても、たいがい、行く先はまず、学校だ。学校で仕事。これはほとんど定例化している。
経験の少ない私にとっては、1週間の授業プランを整理するのに、集中した時間を確保しなければならない。教育実習も、初任者研修も受けない身で、本当に何もわからないところから、授業を任されている。勉強をして準備をしなければ、教室で、子どもたちを目の前にして、何も出来ず棒立ち、絶句することになりそう。それがこわい。ともかくも、妻からもらった特別な休日の前半を、学校ですごす。
そして、その日後半。
自分だけの時間、何もしない時間をすごしに、とっておきの喫茶店に行く。
ひと月に、一度くらい。それも、30分程度だ。短い。しかし、それでも、かけがえのない憩いの時間だ。
じっと、いろいろな考えにふける。
それが何よりも、自分をふりかえる、いい時間になっている。
あとは、ずっと、息をきらしながらマラソンしているような日常だから。
これが、居場所のうちの一つ、である。
一人で、じっとすごすための、静寂を過ごす為の、場所である。
ただし、これだけではない。他にも居場所をつくっている。
二つ目は、図書館である。
無料で勉強させてもらえ、机とイスがあり、空調がきいている。
おまけに、冷たい水も飲めて、トイレにもいける。
この図書館で、1次試験のための勉強ができた。とても、はかどった。
図書館がなかったら、どうだったろう。
学校でも家でも勉強の出来ない私は、とうてい1次に受からなかったにちがいない。
図書館には、今もたまに通う。
それは、ちょっと集中してノートにまとめものをしたり、教科の本を読むときだ。授業プランに参考にしたい本も、3色ボールペンをにぎりしめて、集中して読む。図書館はとっておきの、学習ルームである。
さて、実は、もう一つ、ある。
喫茶店である。さきの、心静かに、落ち着いて過ごす店ではない。
いわゆる、ファミレスだ。
ここは、図書館が休みだったり、あまりにも時間がなかったり、図書館が閉館時刻になってしまってしまったときの、緊急時に利用する。
ドリンクバーは、おかわりOK。本を開いて読んでいても、多少の時間なら目をつぶってもらえる。机がひろいから、ノートもとれる。
緊急時のみだから、1時間以上も居たためしがない。しかし、どうしても今日中に仕上げたい仕事があり、それが学校では集中してできないとき、あるいは教頭命令で早く帰る必要があるときに、仕事を進める避難場所として活用する。
30代子持ち転職組の臨任講師が、受験や仕事のために確保するべき居場所は、おそらく、この3つがおすすめです!
養老孟司さんの講演会を聞いた。
8年ぶりに、極端な知的興奮を得ることができた。
というのは、8年前にも、脳について同じようなことを考えたことがあったからだ。
さて、講演会だ。
下記は、覚えていることのメモである。
(メモをとらず、覚えていたことを思い出して書く。実際は、話を聞いていると夢中になり、ほとんどメモがとれなかった。・・・というより、メモをするために下を向く時間がもったいなくて、メモを取ることができなかった)
一つ目。
脳は、インプット(入力)とアウトプット(出力)の二つがある。
その二つをしないと、脳は発達しない。
だから、じっとしていてはダメだ。人は動くことで、その二つの動きを関連させ、ダイナミックにすることができる。歩いて身体が動けば、見えてくる光景も変わり、刻々と目や耳からのインプット内容が変化し、それに合わせて筋肉を動かす指令がアウトプットされるようになる、つまり、出力される。両者が連携されるのだ。
身体を動かすことは、その意味でとても大事で、身障者や老人を、かわいそうだからと部屋にじっとさせることは、逆にかわいそうなことなのだ。
とくに若い頃は、身体を動かすことが大事。脳が活性化する。
二つ目。
見ているものは、事実ではない。
聞いているものは、事実ではない。
嗅いでいるものは、事実ではない。
それらは、脳内に入り、処理された記号である。
事実と、脳に入力し処理した記号とは別である。
三つ目。
大脳新皮質は、ことばをもった。言葉は、なんでもひとくくりに概念化するクセがある。犬、という言葉で、本当は一匹一匹異なる固体の生物であるのに、"おなじ"、と考えるように仕向けてしまう。同じ犬じゃん、と考えているのは、言葉をもつ人間だけ。犬どうしは、言葉がないから、事実のとおりに(あるいは事実に近いように)とらえている。つまり、一匹一匹、一頭一頭、個体はすべてちがうものだ、ととらえているだろう。
人間はすぐ、あれとこれと同じ、と考えるけれど、この世に一つとして、同じものがあるか。
昨日と今日は、すでにちがう。しかし、同じ一日、と考える。どこが同じだと言えるのか。
地球は一瞬もとどまらずに動いている。万物、すべて、同じもの、同じ瞬間などない。
同じ、というのは、人間だけの思い込みだ。教育評論家などが、「個性が大事です」、などと言うのは、このあたりの認識が甘いからではないか。
四つ目。
お金は、等価交換の道具だ。
だからきわめて人間的な道具。
「同じ」という概念の無い動物には、「等価交換」はない。
だから人類の初期の交換は、「等価交換」ではなく、「贈りあい」であった。ナンに使うのか分からないような、不思議なもの、びっくりするもの、首をひねるようなもの、ワケのわかんないものを、オモシロ半分で届けに行った。それが、だんだんと言葉の発達や交流の中で、「同じ」と認識することが増え、「等価」という概念が出来だした。お金が流通しだしたのは、それからだ。
以上である。
特に、大脳新皮質のくだりが、印象に残った。
先日、職員室の机の中を大掃除して、たまっていた書類を一度に処分した。
地球は一瞬もとどまることがない。
職員室も、人の頭の中身も、予定表に書き記された言葉も、世の中の情勢も、すべてが瞬間瞬間に、刻々と変化している。
その中にあって、よどみなく対応していくためには、こうでもしないと、という気分になったからである。
書類を処分して、すっきりした。
あらためて、すっきりしたのは、なんでだろう、と思い直した。
実は処分したのは、書類ではなく、あの紙の束を大事なものだと決め付けていた「思い」だったのだろう。
引き出しの中がすっきりしたのではなく、自分の中がすっきりしたのだ。
要するに、長い間、私は、自分をすっきり、させたかったのだった。
4月は多忙だ。
新学期、あたらしい先生、あたらしいクラス、様々な行事が重なる。
4月は、他の月の2ヶ月分、忙しい。
この4月を乗り切り、5月のゴールデンウイークをすぎても、なおかつ、忙しい気分が抜けない。
特に、講師1年目はそうであった。受験が近づいてきているというのに、受験要綱を取り寄せる手続きも、危うく忘れそうになるくらいであった。
しかし、受験要綱を取り寄せてから、ハッとした。
多少、目が覚めた感じになった。
今、こんなに忙しいが、受験勉強ができるだろうか。
不安だったが、とにもかくにも、締め切りが近づいているのだから、やるしかない。
それからいろいろと本をそろえたりなどし、勉強を始めると、驚くべし、意外にもはかどるのである。
たしかに、家族の協力や、周囲の方の配慮もあったのだろうと思う。学級の雰囲気がつかめてきたとか、環境に慣れてきた、などの影響もあるだろう。
しかし、学校での仕事は、事務関係、授業関係、そこそこにこなすべき量はあるのである。4月とそんなに変わらないくらいかも、と思ったくらいだ。
それでも、受験勉強ができる。やりだすと、頭が働くのである。
これは不思議だったが、案外とこう考えると道理がいった。
つまり、日常の仕事と、こういった受験勉強とでは、頭の使い方が違うのではないか。
頭の回路がちがったふうに働くから、脳みそにとってはそんなに負担ではないのではないか。
同じことをつづけていれば誰しも飽きるが、目先のかわった刺激を受けていると、しばらく集中して続けられる。おそらく、そんなふうに、頭が好反応してくれたのではないか。
そういえば、最初の転職をしてすぐの頃、コンピュータやセキュリティの仕事をしていたときも忙しかったが、案外と土日にスクーリングに行くのが楽しみであった。脳が逆に休まる気がした。まったく角度の違う内容をインプットしていくのと、論文書き、というアウトプット作業もあるので、平日、研究所で強い緊張を強いられるような頭の使い方とはまったく異質だったことがよかったようだ。
思い出しついでに中学や高校時代を思い返すと、そういえば私は、ながら族であった。
ラジカセにヘッドフォンをつないで、ビリー・ジョエルを聞きながら、数学を解いていた。
(そういう姿を見て、親は文句を言っていた。)
私にとっては、シーンとした空間にひとりでいると、逆にいろんな思いが湧いてきてしまって集中できない。ビリー・ジョエルが流れていれば、うわついた思いはそこに結晶して、すいとられてしまうから、残りの気持ちを勉強に集中させることができたのである。
私は典型的な、「ながら族」 なのだろう。
だから、臨任講師をしながら、受験をする、というのも、苦ではなかったのかもしれない。
ながら族派ではなかった人は、もしかすると、受験に集中した方がいいのかもしれない。私はタイプがちがったから、たまたまうまくこなせたのかもしれない。
一点集中型の人は、いろいろと煩雑な仕事をこなしながら、というのではなく、ある程度の期間はじっと受験勉強を取り組んだほうがよいだろう。
受験だけに集中できる人は、その方がよく、私のように講師をしながらの方がハングリーで集中できる、というのなら、講師をやればよい、と思う。
受験に、小論文がある。
日ごろ、論文のように、論説や理論の有る文章を書く機会は、あまりない。
といって、日記のように、論というのではないが、ストーリーがある文章を書いているわけでもない。
日常書いているのは、週案簿や授業記録メモ、手帳などのメモ類だけだ。
それは、文章ではなく、メモ、つまり、言葉、単語の羅列である。
ふだん、そんな程度の「書きモノ」しかしないで、試験日にいきなり小論文が書けるのだろうか。
そう思って、小論文の勉強をしようと考えた。
一番よいのは、書いて、どなたかに見ていただくことである。
しかし、何を書いていいか分からないのと、だれに頼んでいいか分からないのとで、どんどん時間がすぎる。結局、1年目は、有効な勉強ができなかった。
1年目の反省を元に、2年目は、あれこれ考えた。
つまり、頭の中が、論理的な思考になれていることが必要だ、と考えた。
論旨をつかみ、端的な言葉をさがして、理の通った筋道で、表現すること。
それを段落にわけること。段落を、序論、本論、結論、と分類すること。
そして、テーマ・主題に正対した内容であれば、大方、よいのではないか。
100点満点はとれずとも、合格ラインにいけるのではないか。
そう考えた。
そうなると、受験用の小論文ではなくとも、いつもの学級通信ですでに書いているな、と思った。
学級通信を、たましいをこめて、書く。
学級通信は、学級の子どもに対しての強烈なメッセージである。
生きた、現実の出来事を、そのまま教師の視点でまとめて書く。
子どもへの、「先生からの手紙」として、書いている。
もちろん、親にも見せるように伝えている。
学級での具体的な子どもの様子、立ち居振る舞いをできるだけ率直にあらわし、そこから幾分、抽象的な心の話題にもっていく。最後は、「論」とまではいかないが、先生の言いたいことを明確に出し、できるだけ、子どもが読んで考えていくように仕向ける。
そんな学級通信を出したいと思い、書き続けている。
小論文対策は、(先にも書いたが)合格論文作文集を読んだくらいで、実際に書くことができなかった。
でも、今ふりかえると、学級通信を出していったことが、多少の訓練になっていたかもしれない。
食育の重要性が叫ばれている。
私の育った家庭は、朝ごはんをしっかりと食べる家であった。
朝の5時には、台所でガスの火をつける音が聞こえた。
母は、味噌も自分でこさえた。梅干しもつけた。
昭和の時代の、典型的な母であった。
ところが、私は20代で、農業に携わってから、朝ごはんを食べなくなった。
理由は明確で、朝ごはんを食べると、胃が重たくて、体が動かないからである。
肉牛や乳牛の世話をしていた。
相手は牛。
とっさに身体が動かないと、致命的だ。
朝ごはんなし。朝、起きた姿そのままで牛舎に直行する。
牛舎の横の水道で顔を洗って、そのまま仕事を始めた。身体が軽いから、まるで踊っているように牛舎の中を動いて回れた。
20代のはじめである。いちばん、身体が動くときだ。
乳缶運び、牛移動、角切り、去勢、かんたんな病気の治療。獣医に言われたことをやるために、毎日牛を捕まえては薬を塗る。つかまえるのがタイヘンだ。輪にしたロープを、角にひっかける。しばったり、すりきれたりと磨耗がはげしいから、新しい投げ縄をいくつも用意する。ほんとうにカウボーイだった。
当初、朝ごはんを食べていたら、身体が動かなかった。
思い切って朝食をやめたら、その方が身体の調子がいい。
だんぜん、ちがうのだ。
そのスタイルが、習い性となった。
もちろん、そうは言っても、だんだんとエネルギーが切れてくる。
そこで、少し早めの昼食をとる。10時30分には職場を引き上げて、昼寝をしに部屋に戻った。そのリズムが身体に合ってとてもよく、毎日が快適に過ごせた。
30代前半。教職をめざすようになった。そのための過程で、いわゆるビジネスマンをした。
コンピューターの仕事。
じっと、身体が動かないままだ。
目と頭と手だけが動くような仕事だった。
当時、身体がなまるから、わざとお客さんの部屋まで行く用事をつくったものである。
長い廊下やビル街をてくてく歩いていき、お客さんの部屋まで直接訪ねて行けば、お客さんに重宝がられて一石二鳥であった。
あまり身体を動かさないからお腹もすかないが、それでも朝ごはんは食べるようにした。少量だけ食べた。あとは珈琲をぐいっと飲んで、そのまま集中してパソコンの画面に向かっていた。
今、教師という任に就き、毎日子どもと接し、授業をする。
朝ごはんは、ビジネスマン時代の流れで、当初は食べていた。
しかし、次第に、食べなくなった。
理由は明確である。
胃が重くて、反応がにぶるからだ。
20代のときと同じだ。
朝の食習慣は、牛飼いの時代に逆戻りした。
教師という仕事は、システムエンジニアの仕事よりも、農業に近いのだ。特に、身体の動きは・・・。
どうも、身体がにぶると、頭までにぶる気がする。
多少ハングリーな状態で授業をしていると、自分でも神経が細かくなるのが分かる。
神経が細かくなるのは、口うるさくなるのとはちがう。
子どもの微妙な表情や、独り言や、授業の反応を、細かく見えるようになる、ということだ。
ノートにマルをつけるスピード、赤鉛筆が走るスピードも、朝ごはんを食べていたら、今よりも遅くなるような気がする。
一日を、ハングリーに過ごすと、夕方まで闘志が持続する。
その闘志を、図書館での勉強に役立てる。
1次試験までの間、そんなふうに、仕事をしていた。
今は、毎日の体調に合わせて、朝食はその都度、とったりとらなかったりしている。
前日の仕事の量や、晩御飯の時間帯などによっても、微妙に体調が異なってくる。
結局、その日の体調に合わせるしかないな、と思うようになった。
朝がダメなら、夕方だ。
夕方、仕事に一段落つけてから、職員室で受験勉強をしようと考えた。
しかし、それは無理だった。
目の前に、仕事が山積みである。
他の先生が、いろいろと仕事のことで話しかけてこられる。
それはそのときにやっておかないと、忘れてしまうことばかりだ。
仕事は即、実行。
職員室にいれば、仕事がある。
「もっとこうしたらいいな」と、アイデアが浮かんでしまう。
時間があれば、やっておこう、ということを、つい、してしまう。
結果、職員室では、まともに受験勉強はできない、ということがわかった。
次の手は、早く帰る、という手だ。
自宅に帰る。
自宅で、勉強しようと考えた。
マンションの一室を、書斎にしている。
子どもがまだ幼いからできるワザだ。
30代の転職組の、家族持ち。
自分の居場所を確保しなければ、勉強もおぼつかない。
家族には無理をしてもらってでも、本棚と机を置くスペースをつくり、受験に向かう環境を整えた。
しかし、実際は勉強どころではなかった。
2歳の子どもが、
「パパが帰ってくる」
遊ぼう、と待っているようになった。
しかたなく、遊んでやる。頃あいを見て、ごはんとお風呂。お風呂も一緒に入って、洗ってやる。
そろそろ寝よう、ということになって、ようやく机に向かうことが出来た。
ただ、1年目は、まだ子どもが早く寝てくれたが、2年目はそうもいかなかった。
3歳になり、言葉をしゃべりはじめ、遊びも多様化してきた。○○ごっこ、というふうに、進化してきた。面白い遊びにならないと、いろんな提案もしてくるようになる。そして、きわめつけは、早く寝てくれなくなったことだ。
これでは、帰宅してから勉強ができない。
結論。
夕方5時台に学校を出て、学校近くの公共図書館に直行。
図書館の勉強室に参考書や問題集を持参して、勉強する。
つくづく、図書館のありがたみを知った。
もし、図書館が近くになかったら、おそらく1次の合格はなかっただろう。
図書館には、本当に多謝、多謝、である。
しかし、振り返ってみて一番たいへんなのは、5時台に職員室を出る、という実践であった。
山積みの仕事と明日の準備をかかえながら、そこをふりきって職員室を出る、ということに、かなりの決心と努力が要った。
それを可能にしたのは、
・仕事の分類
・明日の段取り
・学級運営の省力化
・メモ帳の活用
・月間ノートの活用
などの、事務力である。
これは、総合的にみれば、20代に身につけた財産であった。
採用試験を受験する際に、迷う人が多いと思う。
受験に専念するのか、それとも、学校で講師として勤務するか。
私自身は、悩むよりも先に、家族を養うために働くことが前提であった。
しかし、もし自分に家族がいなくて、収入も無くてよい、という環境にあったなら、どうだったろうか。それでも、あえて、講師を希望しただろうか。
わからない。
今ふりかえって言えることは、講師をして得したことがたくさんあった、ということだ。
前回書いたように、模擬授業を見てもらったことは、本当に心強い経験になった。
試験会場でも、心の中で、
「問題点は全部指摘してもらった、それを修正した。今、自分にできる一番よい授業をするんだ」
と、思うことができた。そう思うことで、緊張感がとれ、やるぞ、という前向きな気持ちに変わってくれた。
他にも、面接で質問された際に、すべて自分の教室や学級を思い起こしながら、回答することができた。
実際には、面接で、講師経験者と新卒者の差をできるだけつくらないような配慮はされるだろう。
新卒であっても、子どもによりそった視点での回答はできると思うし、教師に向いている、と判断されれば合格できる。
しかし、講師の経験があれば、その経験を最大に生かすことができる。
実際の子どもの様子を思い起こしながら、答えるのだ。こんな声かけをしたら子どもは安心するだろうな、保護者は安心するだろうな、と思いながら回答する。まるきり、経験がないよりは、そうした具体的な質問には答えやすいと思う。
やる前には、本当に両立できるかどうか、自信はなかった。
特に、1次のペーパー試験が気になる。
合格できるだろうか。
しかし、ふみきってしまえば、なんとかなるものだ。時間は、つくりだすもの。ひねりだすもの。
時間をどうやって生み出すか。
当初は、朝、生み出そうと計画した。しかし、朝はだめだった。
なぜか。
朝は、当日の授業のことで、頭がいっぱいだからである。
受験の頭には、切り替わらなかった。
では、夕方はどうか。(つづく)
採用試験のことで、周囲の方から、いろんな質問をされる。
私が免許無し、妻子もち、の身で、小学校教員資格認定試験や採用試験を受験したことから、一体どんな勉強法でのりきってきたのかを、知りたいというのだ。
知人、教育実習生、いろんな関わりの方が、来年度受験予定だとのことで、私に受験体験をいろいろと尋ねてこられる。
せめてもの恩返しだ。
記憶の薄れないうちに、記録しておこうと思う。
私自身、さまざまなWEBページを見て、諸先輩たちの勉強法を参考にしてきた。
今のうちなら、多少は書くことができる。
模擬授業について、もう少し書こう。
模擬授業に取り組む中で、何がよかったかというと、一番は、身近な先生方にみてもらえたことである。
職員室で、これから模擬授業をします、というと、みんな忙しいにも関わらず、私の教室にまでわざわざ来てくださった。
教室で準備をしながら、ふと窓の外を見ると、外の渡り廊下をぞろぞろと、この教室へ向かって歩いてくる。職員のほとんどが、やってくる。何人かでこっちをみて、笑っている。
それを見て、本当に感動した。
うれしい気持ちと、これは絶対に受かってみせる、との闘志が湧いてきた。
中には、校長と教頭もまじっていた。
教室に入るや、こっちに向かって、「ごくろうさん」、といって座ってくれた。
みんなが入ってから、模擬授業の仕組みについて説明した。
年配の先生で、
「おれたち、模擬授業なんてやったことないな」
とおっしゃる先生がいたからである。
持ち時間のこと、生徒役のこと、試験官のすわる場所のこと。
「たださ、おれたちは、試験官がなにを評価するのかわからんからなあ」
「要するに、授業のわかりやすさ、じゃないかな」
みんなで口々に、いろいろ言っている。
すると、2年目の若い先生が、自身の経験から、
「姿勢とか、声の大きさとかもありますよ」
と基本的なアドバイスを言ってくださる。
ほかにも、いろいろと好き勝手にしゃべっている。
なんとなくみなさん、気楽に楽しんでいる感じ。
そんな中で、
「では、お願いします」
と、授業を始めた。
しかし、始めると途中でいろんなチャチャが入る。
「なにかその字、変じゃない?」
内容教科が国語の漢字を扱ったので、漢字カードの字を、厳しく見てくれたのだ。さすがだ。感心する。
「○の漢字は、二画目、留めだよ。払っているように見える」
「なるほど。ほんとだ。」
他の人もあいづちをうっている。
ほかにも、
「そこは、子どもに先に訊くよりも、~です、と説明してから発問、の順がよくない?」
「その方がいいよ。いきなり言われても、子どもわからないもん」
とにかく目につくことを全部言って貰った感じで、うれしかった。
すぐに、そのすべてを直し、修正した。
後日、同学年の先生など、何人かの前で再度やってみたところ、
「あー、ずいぶん良くなったよー。すっきりして納得。」
と言って貰えた。
こう言ってもらえたことが、本当によかった。
試験会場でそのセリフを思い出しながら、これだけ準備したんだもの、と心を奮い立たせることができた。
教員採用試験にいどむ際に、一番悩んだのは、
講師と受験は両立できるか、という問題だった。
クラス担任を持つこと。
授業の責任を負うこと。
子どもたちの学校生活そのものを最優先しながら、自身の受験対策を進めていく。
その両方が、可能かどうか。
おまけに、自分は三十代。妻と子どもがいる。土日には家族サービスもする。どこかに連れて行ってよ、と言われたら、それもしてやらねば、と思う。どこぞの模擬試験など、受けている暇はなさそうだ。
ああ、こんなことで、1次のペーパー試験に、受かるのだろうか。
集団面接で、教育時事について訊かれたら、まともに答えられるのだろうか・・・。
両立が、可能か。
自分でも自信はなかった。
でも、振り返ってみると、講師をしていてよかった、と断言できる。
なぜなら、生きた勉強ができたから。
そして、実際の教員が、仲間になってくれたからだ。
年配の先生方、新卒の先生、みんなが私の合格を願って協力してくれる。
こんなにすばらしい環境は、ないだろうと思う。
講師生活との両立は、一長一短ある。
どちらがよい、とは決め付けることができない。
ただ、私はすでに家族がいて、家族のために稼ぐ必要があった。
それで講師をした。不安はあったが、杞憂だった。
むしろ、かけがえのない財産を得た。人、という財産であり、経験、という財産である。
子どもたちが、長いキャンプを終えて帰るとき、迎えに来た親たちと、にぎやかに帰り支度をする様子が見えた。
少年たちは、夏休みを終えても、学校が始まっても、同じようにエネルギッシュに育っていくことだろう。残念なことに、その一部始終を映画のように見てみたいが、それはかなわない。
今回、たった一日であったが、ひとりの人間がだんだんと育っていく様子を、すぐ横で眺めることができた。
これはもしかしたら、ものすごいドラマをみていることにならないだろうか。
駅へ向かうバスが、子どもたちを大勢のせて、出発していく。バスの後部席に、派手な色をした子どもたちのリュックサックが並んで見えている。ちゃめっけのある少年が、後ろ向きに座ってにこにこしている。近所の大人たちが、手を振りながらそれを見送っている。
いこいの森の方から、涼しい風が吹き渡ってきた。
そして、子どもたちの歓声がとだえた静かなキャンプ会場にまでやってきて、窓の軒に吊った風鈴を、不規則なリズムで鳴らせていた。(コースケ・完)
コースケは、徐々に薮の茂みの奥の方へと歩みを進め、だんだんと見えなくなりつつあった。
僕は、声を張り上げて、聞いた。
「コースケ、釣りはどうするのーっ?」
コースケが、何か、大声で返事をするのが聞えた。
「なにー?もういちど、言ってー!」
僕は、もう慌てて竿を引き上げ、針の位置だけ確認すると、コースケの返事に耳を澄ませた。
「兄ちゃん、あのカタツムリ、とってー!」
セミではなく、カタツムリを発見したらしい。兄ちゃんは、おのれの思考スピードが、現実についてきていないのをもどかしく思いながら、
「とにかく、舞台はあっちだ」
と、コースケの声のする方へ、走っていくのであった。
その晩、僕らは、トカゲの卵と、カタツムリをみやげに、キャンプ会場へ戻った。
コースケは、トカゲの卵をポケットの中で割ってしまい、無理から産まれた赤ちゃんトカゲは、30秒くらい動いた後、この世を去った。コースケは、それを埋葬し、遠い目をして、空のかなたを眺めた。
なんだろう。
このコースケのもつ、魅力とはいったい何だろう。
このすがすがしさ、実行力とは、いったい何だろう。
キャンプ会場へもどるとき、コースケは、足取りも軽く、会場へ戻っていき、二度とお兄ちゃんを振り返ることはなかった。
「お兄ちゃんとしては」
僕は、一人ごちた。
「最後に、握手くらいしたかったよ、コースケ・・・」
僕はプロ野球のピッチャーにあこがれていた。
ジャイアンツの新浦投手や、堀内投手が投げていた時代だ。あの頃は、草野球でゴムボールを投げながら、自分たちはプロ野球の世界に、こうして近づいているんじゃないか、と思ったし、グローブを磨いているときなんかは、明日にも新浦投手になれるような気持ちがしていた。
コースケは、釣り糸をたれながら、プロの釣り師の世界に、心をあそばせているのだろう。そうしたプロの世界に自身のイメージを重ねあわせ、心に醸成させることで、今、この少年は音を立てて成長している最中なのだ・・・。
僕は、岸辺で竿を持つコースケをみながら、ふと、とてもいとおしい感情が湧いてくるのを感じた。
「兄ちゃん、ちょっと竿をもってて」
コースケが甲高い声で言った。
僕は、何だろう、餌の準備でもするのかな、と思って竿を受け取った。
いろいろと、作戦上の用意がいるのだろう。そうしたコースケの動きに合わせて、ちょっとでも役に立てたらいいのだ。コースケが思い切りやれるように、僕は何でもやらせてもらおう。それがお兄ちゃんの役目なのだろう・・・。
僕は、
「これが親心、というのだろうか」
などと殊勝なことを考えながら、あたたかい気持ちがあふれてくるのを感じ、コースケの方を見た。
「あれ?」
コースケは、薮の中に入っていく。
急に、おしっこでもしたくなったんだろうか?
「コースケ、どこに行くの?」
すると、コースケはこう答えた。
「セミ捕まえるの」
「え?」
その瞬間、僕の顔は、たぶん口をパカッとあけたまま、目をぱちくりさせ、ほとんど放心状態にあった。
コースケは、初めて釣り糸をたれた3分後、ついに昆虫採集へと、本日のメインイベントを移行させたのだ。
竿を貸してくれたおじいさんの顔が、僕の脳裏に浮かんで、消えた。
池は、しんとして広がっていた。
風が吹くと、山の木の陰が水面に映って、ゆらゆら揺れるのが見えた。大きな池には、釣り人は他にいなかった。コースケが、大きな竿をぶんまわして、浮きを投げ入れると、浮きは、ちゃぽんと音を立てた。
僕は、たいしてすることがなかった。ただ、コースケの安全を、大人として見守るだけだ、と思った。
「いざとなったら」
と、僕は考えた。
「この池に飛び込んで、コースケを救わねばならない」
池は、その深さを暗示させるかのごとく、霞のかかった群青色をしていた。水面に浮かぶ木の葉が、波に揺れながら、黒い輪郭をもつ森の陰にひきこまれて、どこまでも深く落ち込んでいくかのようだった。
コースケは、こちらの心配をよそに、竿をふらふらとただよわせながら、
「ほら、餌だよ~」
と、ご機嫌だ。
最初に投げ入れて、2分もしただろうか。コースケが、
「釣れないなあ」
と、言い出した。
「えっ?」
「この池、魚、いないんじゃない?」
「ちょっと、コースケ、結論を出すには、早すぎるんじゃない?まだ2分しかたってないよ」
「だって、ぜんぜん食べに来ないんだもん」
子どもの時間感覚というのは、いったいどのようになっているのだろう。僕は、驚いた。
コースケの頭の中では、きっと、伝説の釣り師のように、カジキマグロやタイなどを、次から次へと釣り上げる光景が、フラッシュして離れないのだろう。
コースケは、つれないなあ、と言いながらも、浮きの動くのを真剣に見つめている。
僕は、自分の小さな頃のことを静かに思い出していた。
僕らは、村のおじいさんのところに、竿を借りに行った。
おじいさんは直前まで昼寝をしていたらしく、よぼよぼとおぼつかない足取りで玄関に現れて、
「なんじゃいな?」
と、珍客を前に、ぼそっとつぶやくように言った。
「釣りに行くんです」
僕は、できるだけ元気に、快活にみえるように胸を張って言った。
「それで、竿を貸していただきたいんです」
おじいさんは、僕を見ていた視線をずらして、今度は、コースケを見た。
口元がほころんだのが見えて、僕には、おじいさんがこの小さな来客を面白がっているのが分かった。
「何を釣りなさる?」
おじいさんは、幼い釣師にむかって尋ねた。
コースケは、最前まで僕に向かって堂々と、スズメダイだの、カジキマグロ、だのと論じていたくせに、おじいさんからそう聞かれると、急に小さな声になって、
「鮒(フナ)」
と答え、僕の着ていたシャツのすそを、ギュッと引っ張った。
道具を手に持って、僕らは近くの池へ行った。
池のほとりに着くと、コースケはテキパキと準備をはじめた。
竿が長いので、先端をしっかりと延ばすためにちょっと持っていてくれ、と頼まれた以外は、すべてコースケが用意した。
コースケが、みみずをぐいぐいと針にぶっさしていく様は、なかなか壮観でもあった。
コースケは、飲み干すなり、
「兄ちゃん、釣りに行こうよ」
と言った。
どうも、釣りが大好きらしい。
沖縄の小浜島に行ったことがあり、海釣りもしたんだ、と得意そうに話しはじめた。
「スズメダイを釣ったんだ。ミノカサゴも釣れたよ。カジキマグロなんて、すっごく大きいんだよ」
話し出すと、だんだんと思い出してきたようで、リールがどうの、ルアーがどうの、と知っていることを何でも話す。
「僕の家の近くに池があるよ。ハスをねらうんだ。ブルーギルはすぐに餌を食べちゃうからいやだ」
話しだけならよいが、だんだんと昂奮してきて、
「ねえ、竿とかある?近くに池ある?」
と、いかにも行きたくてたまらん、という顔で聞いてくる。
ところが、あいにく、僕は釣りをした経験が少なかった。
ブルーギルを釣ったことはあるが、あれは本当に、誰でも釣れる魚なのだ。
僕は、何か、子どもに教えなくてはならないのでは、と思い込んでいた。だから、コースケが針のこととか、重りのこととか、尋ねてきた時に、たちどころに正解を言わなくてはならないという強迫観念を抱いていた。
僕は、ゆっくりと考えるふりをしながら、どうやって諦めさせようか、頭をひねった。
「あんまり、兄ちゃんは釣りが得意じゃないのだ。竿とかの道具だって、そろえないとないし。・・・たぶん、道具がないよ。あきらめな」
こう言って、諦めさせようとするのだが、コースケは実行力をふんだんに秘めた子らしく、
「兄ちゃんじゃなくて、僕がやりたいんだよ。道具だって、借りたらいいんだし」
と、つぶやくように言う。
なるほど、道理である。
コースケは、それから尚も、僕を口説きにかかった。そしてそれは、ものすごく、説得力があった。
3分もたたないうちに、僕は
「じゃ、釣りに行こうか」
と口走っていた。コースケは、それが当然だ、と言うような顔で、僕のあとにくっついて歩いてきた。コースケは、泥のついたサンダルを懸命に動かしながら、僕のスピードについてきた。
歩きながら、もしかしたら、と僕は思った。
「もしかして、こいつは大物になるかも知れん」
僕は、やりかけの仕事があったので、コースケを連れて職場へ戻った。
キャンプでは昼寝の時間を設けている、と聞いていたので、コースケにも確認したのだが、昼寝をしたいかどうか聞くと、
「ねるのは、つまんない」
と、首を振った。
僕が職場でやりかけの仕事をしている間、コースケはロビーのソファーの上にごろりと横になって、天井を見つめていた。
仕事を切り上げて、パソコンの電源を落とし、ようやく終わった、と思ってコースケをみると、コースケがいつの間にか立ち上がっていて、おまけに何かを手に握り締めているのが見えた。
どうやら、窓から入り込んできたセミをつかまえたらしい。
セミをみて心躍らせる彼を見ながら、僕はある感慨を得た。
いつの頃からだろうか?昔は、僕も昆虫大好きな少年であった。セミをみると、わけもなく心がふるえたものだ。セミの顔をつくづくと眺めて、かっこいい、と単純に思っていた。ところがどうだ。今の僕にとっては、セミとハエとが同程度に思える。すなわち、どちらも「うるさくてやっかいな虫」だ。
「ああ」
僕は、そんなふうにしか、見えなくなっている自分を嘆いた。
コースケは、にこにこしながら、セミの顔をじっと見ている。
のどが渇いたので、職場の冷蔵庫を開け、オレンジジュースのパックを取り出し、指でこじあけて、グラスに注いだ。オレンジジュースは勢いよく出てきて、グラスをすぐにいっぱいにした。お盆にのせて、コースケの前まで運ぶと、コースケはジュースを飲もうとして、一瞬、手のひらのなかのセミを見た。
そのグラスは大きかった。大人にとっても、ちょっと大きいくらいだった。コースケが片手だけで持つには、手に余るほどの大きさであった。
彼は、セミをどうしようか、ちょっと手間取った。
そうして、ズボンの前をパッと開けると、ちょうどおへその部分にセミをはさみこんだ。ズボンのゴムとおへその間に、はさむようにしてセミを格納したのであった。
コースケは、これでいい、とひとりごちて、両手でたっぷりのオレンジジュースを持つと、ゆっくりと飲んだ。
セミは、ゴムの圧力に耐えながら、へそに向かって止まり、じっと黙って主人の用が済むのを待っていた。
当日。
昼前になって、キャンプ会場へ迎えに行った。
僕の姿を認めると、キャンプの世話係の方が、
「はい、コースケくんは、このお兄ちゃんとマンツーマンです」
と言った。
コーケくんというのは、どの子なんだろう、と思っていると、小学校二年生にしては背の高い、利発そうな子が飛び出してきた。
コースケは、こうしたキャンプに参加するのは慣れているらしく、会うなり、
「ねえ、兄ちゃん、お昼のご飯食べるの?」
と言った。なかなか素直でよろしい、と僕は安心をした。
たしかに食事がまだだったから、僕はコースケを連れて、村の食堂に行った。
コースケは慣れているらしく、大人用の大きな茶碗や皿を持って、きちんと食卓まで運んだ。
食卓は大人の背丈に合わせて作られているから、コースケが座ると、喉元のあたりに茶碗やコップが並ぶ。それでもいっこうに平気らしく、半分伸び上がるようにして、けなげに飯を食っていた。
僕が、茄子ときゅうりの漬物をぽりぽりとつまむと、コースケはそれをみて、
「僕もちょうだい」
と、皿に取った。
僕は、これはどうなるだろう、と好奇心を膨らませてそれを見た。
漬物である。ぬかづけ、である。
果たして、子どもが、これを好むのであろうか?
僕自身の体験から言えば、漬物というのは、おばあちゃんが好む食べ物であった。また、全体に、それは大人の好む味であった。僕は小さい頃には、漬物を食った記憶がない。おそらく、
「これ、まじい(まずい)」
と言って、食わなかったのだろう。
好んで食べるようになったのは、大学を中退して、田舎に暮らすようになってからだと思う。
コースケは、茄子を口にほうり込み、ぽりぽりと音を立てた。
「どう?うまい?」
僕が訪ねると、コースケは表情を変えずに答えた、
「うん、乙(オツ)な味だ」
僕は、驚いた。
オツな味、なんてことを、ふつうの子どもが言うだろうか?
どうも、変わった子のようだ。
僕は、これからの一日を、どうやって無事に過ごせるか、だんだんと気にし始めた。
コースケは、夏休みのキャンプに来た子どもだ。
これは、今から10年ほど前の、夏の出来事だ。
私は当時、農場で働いていたが、村のキャンプ場を訪れた子どもと、出会いがあった。
まだ教師をめざす前のことだ。
今ふりかえってみると、この頃から、子どもの成長に関わろうとする気持ちが、自分の中に育っていたように思う。
そのときのことを、少し、ふりかえってみたい。
キャンプの期間中、子どもたちは勝手気ままに遊びつくす。周りには田んぼや畑、牛舎もあるし、カブトムシのいる林もある。川もあれば野球の道具もある。今日は何をしようか、明日は何をしようか、という具合で、子どもたちどうしで自由に遊んでいたようだ。
僕は、キャンプ場への行き帰りなどに、林の中で遊んでいる子どもらの様子をちらりと横目で見、
「ははあ、やってるな」
と思いながら、脇を通ったりしていた。
キャンプのプログラムの中に、ある面白い計画があった。
これを「マンツーマン計画」と呼んでいて、この日は一日中、どの子も全員、それぞれ一人づつ、キャンプの大人の人にくっついて、日が暮れるまで生活を共にし、山の暮らしを体験する。
今回、僕も、そのマンツーマン計画に加わることになっていた。
マンツーマンの日が近づいてくると、事務局から、一枚のFAXが届いた。
「明日、子どもとマンツーマンをしてもらいます。安全面に気をつけて、楽しくやってください」
僕は、FAX用紙を眺め、目で一字一句を追いながら、
「うひゃあ」
と、叫んだ。
相手は、小学校2年生だ、と書いてある。
「あれ?2年生って、いったい何歳(いくつ)なんだっけ?」
僕は、自分が小学校2年生だった頃のことを思い出そうとして、腕を組んだ。
・・・いったい、この子に、どんな一日を用意したらいいのだろう?
「人間の考えは常に変わり得るもので、その都度、違ったり変わったりするのが当然で、固定できるものではないから、自分も人も誰の考えや行いも、良いともダメともしないで受け入れていけるのです。」
真の討論をやりたい。
勝ち負けのない討論、最後のない討論、ずっと「つづく」の討論。
考えを変えるのって、楽しいね。考えなんて、ころころ変わるね。
みんながよい、って考えるのって、楽しいね。
で、それも、結果がよいから絶対だ、とのキメツケなしで・・・(そもそもキメツケできないしね)。
わたしの心、わたしの気持ち。
いったい、本当は何をもとめているんだろう。本当の本当は、本当の本当の本当は・・・。
・・・と、考える。
それも、わたしだけでなく、Aちゃんは、Bちゃんは・・・。
いじめなんて、おこりっこない。
それができるクラスにしたい。
自分は幸運なことに、20代の大半を、田舎で過ごしていた。
いちぢくの木を間近に見る暮らしだった。牛のうんこを掃除する体験も、ある程度、積んだ。牛に小便をひっかけられそうになり、慌ててよける技術や、牛が便意を催した瞬間の気配までも察知できるようになった。
牛は、うんこをする直前、ひょいっと尻尾を持ちあげる。うんこが跳びはねて、自分の顔についたら、どんな気分になるのか。それだって、幾回も体験している。はっきりと正直に申し上げると、それがとびちった瞬間に、うしのしっぽの振り子運動によって、自分の口に直接飛び込んできたこともあった。
田舎には、畑や牛舎や鶏舎などがある。たまに野良着になって、草引きをしたりもした。
こういう状況に身を置いたことで、最近ようやく、あのクラスメートの気持ちを受けとめられる気がしてきた。
嬉しそうに「家(うち)でとれたから、どうぞ」と実を差し出す、その心が痛いほど嬉しいし、伝わってくる。あのとき、なぜすぐに「ありがとう」と言えなかったか。
今、こうやって、二十年以上も後になってようやく、それを悔やむ。
あのときの「田舎くさいなあ」という軽蔑するような気持ち、あれはどこから湧いた感情だったか。
ともすれば、泥臭さを消そうとする自分。その高慢な感情は、どこからきたのだろう。 自然に対しても、人間に対しても、根本は同じなのだろう。自然に対してプライドをちらつかせていた私は、友人に対しても、世間に対しても、同じように高慢であったにちがいない。
いちじくには、うまい、と叫んで、瞬時にむしゃぶりつくべきだったのだ。簡単なことだったのだ。
なのに、それができなかったのは、私が本当のいちじくの価値を、知ろうとしなかったからだ。私の頭の中は、あまりにも他のことで忙し過ぎたのだ。(いちじく・完)
以前、福井県の若狭湾海岸で、ロシアの船から重油がもれた事件があった。おびただしい量の重油が流れ、その回収作業がさかんに行なわれた。朝日新聞の記者は、その様子をこう記した。
「重油はまるで、牛の糞のように、岩にべっとりくっついて容易に剥がれない」
これは、牛の糞を知っている者にとっては、すこぶる言い得て妙、ピタリと分かる表現であろう。その色合いも、容易に剥がれない、という感じも、見事に言い表わしていると思う。
牛の糞というのは、粘性のあるものなのだ。うさぎや山羊の糞などとちがって、乾いたり、ころころしたりしていない。だから、牛の糞をスコップですくおうと思うと、ちょっとしたコツがいるくらいだ。ひと息に、サッとすくってしまわないと、たちまちスコップの横からボタッ、と落ちる。また、時間を置いて乾いてしまったりすると、さらに粘着性を増す。
おそらく、岩にこびりついた真っ黒い重油の固まりは、スコップですくっても、たちまちボタッと落ちてしまったにちがいない。これがウサギの糞のように、丸くてころころと転がるようなものであるなら、いっぺんに掃き寄せて、まとめてチリトリで取ることもできたかもしれないが。
この表現は、ある情景を表現するのに、いわば殺し文句のような効果をもっている。「牛の糞」という、きわめて具体的なたとえを使うことで、読者の印象に深く分け入り、その中身を直接実感させる。ここで用いられた言葉は、それだけのパワーを秘めていたはずであった。
はずであった、と書いたのには、わけがある。
実は、この表現は、実際には使われなかったのだ。編集部内で物議をかもし、最終的にはデスクの判断で消去されてしまったらしい。その理由は、「この表現が分かる人が、今の時代、もう少ないのではないか」というものだった。(つづく)
遠足で牛を見た、という子どもは大勢いる。
生活科が導入されて以来、そうした生活に密着した学習機会は多くなる傾向にはあるようだ。しかし、その中身は空疎なものらしい。文字どおり、「見た」だけ、なのだ。牛は黒色と白色だった、ということまでは分かったが、そこから先への、もう一歩が進めない。これは、もったいないことだと思う。
私は、もし仮に自分自身が、もう一度子ども時代にもどれるなら、できるかぎり、本物をみて、いろんな感じ方をし、味わってみたいと思っている。
牛のうんこはどうだったか、皮膚をさわった感じはどうか、何を食べていたか、舌の感触はどうだったか、牛の口のなかに直接手を入れてみて、何を感じたか。そういう具体的なことを実感してみるところまで、やってみたいと思う。
ふつうは、そこまでやらせてもらえないらしい。無理もない。怪我でもしたら、親から酪農家の責任が問われる。危険なことは、いくら頼まれてもやらせないのである。
牛のうんこを見たことがないというのは、困ったことだ。自分には、つくづく、そう思えてならない。(つづく)
自分は、自然体験・生活体験といったものに、まるで乏しい子どもだった。
第一、いちぢくが実をつけて、木になっているところを見たことがなかった。畑の土をさわったこともないし、果樹園も家畜も、身近な存在ではなかった。
柿の木は見たことがあった。また、たとえばリンゴがなる様くらいなら、あるていどは想像できた。蜜柑がなるのも何となく分かる気がする。しかし、いちぢくは見当がつかなかった。
いちぢくだけではなく、植物や野菜全般の本物の香り、味、実の成る姿を知らないで育った。土壌のこと、肥料、水やり、消毒、育っている環境などのことはもちろん、生産者の苦労やつくる喜びなどについては、まったく知る由もない。
「教育と環境」という雑誌に、興味深いデータが載っている。
小学生の自然体験を調査したもので、
「野外でテントをはって寝たこと」については、一回もないと答えたケースが66%あったという。
「日の出日の入りをみたことが一度もない」は41%、1000メ-トル以上の山を歩いた体験については、65%が「一回もない」と答えた。
魚釣りは、35%の児童が「まったくしていない」と答え、豚の世話、牛の世話、鶏の世話にいたっては、いわずもがな。ほとんど、体験したことのない子どもばかりだという。(つづく)
高校は郊外にあった。
付近には地下鉄の大きなラインが走り、高速道路にも接続する地区で、車の交通量はかなり多い。一帯は、大きなマンションの立ち並ぶ新興住宅地だった。
私は、箱の中を困惑した表情でみていた。
窓からさしてくる昼間の太陽に照らされて、赤く半透明の球形の実が、ひとつひとつ、あざやかにみえるのであった。まっ裸の果実には光が当たって、そこだけ赤い絵の具を溶かしたような色で、てかてかと光った。
どうも、妙な感じだったのである。
それはあまりにも生き生きとし過ぎていて、灰色の鉄筋コンクリートの中では、かえって、落ち着きのない、間の抜けたものに見えたのだ。 最初、嬉しそうな顔をして見せてまわっていた当の女の子だったが、周囲の褪めたような視線を感じたのか、だんだん元気がなくなって、結局、恥ずかしそうに果実を箱ごとしまってしまった。
そのうちに、午後の授業が始まった。
私は、ずっといちぢくのことが気になっていた。彼女は、海の近くに住んでいるのだ、ということも、その時に思い出したりした。
放課後、帰り支度をしていた彼女に、私は声をかけた。
実は、さっきのいちぢくをもらいたいのだ、と話すと、彼女は笑顔になって、
「箱ごと、あげる」
と言った。
そうして、急いで手提げ袋から取り出すと、そのまま私に渡した。
私は、その箱を誰もいない屋上に運び、一人で中身を食べた。
新鮮だし、甘い。何かの工夫をして冷やしていたらしく、なんだかとてもうまかった。
しかし、感心する一方で、正直なところ、
「こんなものを持ってくるなんて、やっぱり田舎だなあ」
と、当の女の子をからかうような、どこか軽蔑するような気持ちもわいたのだった。(つづく)
高校生の頃。
お昼休みの、なにかホッとするような時間をすごしている時、クラスの女子の一人が、
「これ、食べて。家でたくさんとれたの」
と何か箱のようなものを、私の机まで持ってきた。
これ、と見せられた箱の中を見ると、なんと、真っ赤ないちぢくである。私は、それがあまりにもだしぬけだったので、意表をつかれた思いがした。
箱は、私の机の上に、ちょこんと置かれた。
昼休みの間に、いちぢくは、こうして何人かの机の上を、転々と引っ越してきたのであった。箱の中のいちぢくは、まだ一つも減っていなかった。誰も、手を出してそれを食べようとしなかったらしい。教室には、何十人も生徒がいたのに、である。
それは、まるで、居場所を失った小動物のように、私の机の上に置かれた。
箱の中を覗くと、真っ赤に熟れた果実が、箱の中でいくつも積み重なっていた。
私は、正直なところ、困った、と思った。教室の中で一人だけ、いちぢくにむしゃぶりつく様は、あんまり格好よくないな、と思ったのだ。
生徒の大半が地下鉄で通ってくるような、乾いた都会の高校である。いちぢくの土臭さが、教室の中では、妙に浮いてみえるのだ。
当の女の子は
「みんな、食べない?」
と言って、他のクラスメートにも、ずいぶん声をかけてまわったのだった。
おそらく、実家の畑でとれたものを、こうして大切に持ってきたのだろう。親に言われてそうしたのか、自分でおいしそうだと思ったからか、長い通学時間を、朝の電車や地下鉄の中を、彼女の手によってここまで運んできたのだ。そうして、昼休みになって、ようやくチャンス到来とばかりに、皆の前に披露したのであった。 (つづく)
本当の本当は・・・、といったって、本当がすぐにみえるわけでない。
ただ、簡単なことならいえる。
ねがっている、ということがある。
自分は何を、ねがっているのか、ということ。
いつも、そこに立ち還ろうとしている。
自分の本心は、本当は、何をねがっているのか。
「何がしたいのか」という問いには、動作や所作をこたえてしまう。
「本当のあなたは」という問いには、次元や過去未来の別までを考えてしまってきりがない。
「何を学んだか」という問いには、本当にはわかっていないことを学んだ、わかったと言ってしまう。
「どうしてそうするの」という問いには、「やりたいから」とこたえてしまう。
そうやって、安易に答えてしまうたびに、あとで心の片隅が、
「本心はちがうかもね」
とささやく。それがわかる。
ただ、本心を衝く、衝くことのできる、「問い」がある。
問われるたびに、本心が、こたえようとすることがわかる。
それは、
「自分はいったい本当は何をねがっているのか」
という問いだ。
この問いには、いつも考え込んでしまう。謙虚に考えたくなる。どこまでも。
○○ちゃんは、本当は、いったい、なにをねがっているのだろうね。
心の奥底、本当の、本当の心の底では・・・
現代人は毎日、足りなさを指摘されて生きている。
栄養が足りない、ビタミンが足りない、能力がない、パワーがない、無神経だ、感性がとぼしい、余裕が無い・・・。
だから新しい栄養剤が流行するし、新しい感性のファッションが拍手をもって受け入れられる。たえず、どこかで流行がつくられ、消費されていく。
それはしかし、古い観念がただ目先の変わった観念に塗り替えられているだけだと思う。観念が観念にとってかわられ、それがしっくりこないからまた新しい観念をほしがる。ずっと欲しがりつづけるけれども、けっして満たされることはない。
視点を変えて、今の自分たちの生き方は、もしかしたらいろんなことが過剰なのではないか、と思って見てみると、むしろずっと楽になれるような気がする。
過剰さに気がついたら、それを放してみることだけである。持たない、放すという理念は消費とは無縁だからだ。
セラピーや癒し、宗教や占いなど、精神の安定をもたらそうとする商売が巨大な産業として成り立つ時代の背景には、まだまだ何かが足りない、不足している、という極端な思いこみがあるのではないだろうか。
過剰さに気づく、そうしてそれを放す、という発想。それだけで、現代人はもっと楽になれるような気がしてならない。