30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

保護者懇談会で話題になったこと〜甘やかすとは〜

保護者の中のお一人とお話をしていて、どうも話の噛み合わない点があって、これはおそらく日本の教育において、かなり大きなトピックだと思いました。ここで、考えを整理してみます。

話題になった子は、幼い時からチックがあったとのこと。
チック、と言うだけで、もうこれは論文が何百も何千もあり、著作がこれだけで何百冊とあるでしょうから、本当はすべてを読み終えた上で論じるのが必要です。

この親を批判するわけではありません。そうではなく、おそらくこれが世間一般の教育やしつけに対する考え方だろうと思ったのです。いわゆる子育ての常識、あるいはしつけのスタンダードな意見でしょう。

チックがある子に、お医者さんにこう言われたとのこと。ストレスを緩和するように、何がストレスなのかを見極めること、そのストレスを与える状況を少しでも緩和したり変化させたりすること。

まぁこれは妥当です。
どこの小児科医も児童心理学の先生も、身体症状が出ている子に対して、まずは健やかに健全に育つことを願うのです。チックは何かしらの心の訴えでしょうから、まずはその子がストレスに耐える力をつけると言うよりは、まずはそれらを取り除き、ストレス要因を緩和してあげるのです。親ができる事は環境を整えてあげることです。

ところが、そのことに対して、
甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。
というような意見がある、と。
だから、【甘やかすべきではない=ストレスは与え続けても良い】
という結論。
それについて、先生はどう思われますか、ということでした。

その方は父親で、それもわかるとおっしゃっていました。つまりその父親からしたら、両方ともうなずけるのだと言うことなのです。
世間一般によくある、甘やかすのはダメだ、という論調。それもわかるし、我が子を支えたい、それは甘やかすことになるのか、どうなのだろうか、とお悩みでした。

世間一般、多くの大人は「甘やかすのは良くない」と考えるのてしょうが、教員の多くはそうは考えないから、保護者懇談会などでは、ズレが生じるのです。

私はこの論、つまり「失敗をさせないのは間違い。だから甘やかすのは間違い」という論の展開は、無理があると思います。
まず、失敗をしない子はいません。計算間違いをしなかった子は、世の中にいるのだろうか。
怪我を全くしなかったり、漢字をすべて書けたりする子の方が少ないのでは。
ケンカをしたり、お茶をこぼしたり、普通はみんな、失敗ばかりです。

甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。

もう一度文章載せました。
上記の意見では、もしかしたらもっと程度の大きな失敗のことを指すのかもしれません。
受験の失敗でしょうか? あるいは恋人との破局でしょうか。子ども時代のことを話題にしているのですから、成人までという括りで考えてみると、学生時代の恋愛かあるいは大学進学あるいは希望する会社に就職できなかったと言うような失敗挫折の経験を指すのかもしれません。

だとすると、これらの失敗を回避できたのは甘やかされたからでしょうか?
本人が頑張って努力して、自分の実力に見合った志望校を選んだ結果、ストレートで合格できたと言うだけのことのような気がします。合格できたのは甘やかされたからでしょうか?

あるいは恋愛の成功は甘やかされたからでしょうか。逆に恋愛に失敗したのは甘やかされることがなかったからでしょうか?

こう考えてみると、ここで言う成人までの挫折や失敗と言うのは、一体何のことを指しているのか、疑問です。

小学生での挫折や失敗とは何でしょうか?
毎日小学生は失敗ばかりしていますが、同時にリカバリーをしています。消しゴムで消して書き直したりしています。あるいはうまく発表できなくて、言葉が詰まったときに誰かからひそひそ声で教えてもらうこともあったり、友達と相談したりしてうまく言い直せたりしています。
これは甘えたからでしょうか?

これを甘えだと言うのであれば、わざとみんながその子を無視したようにして、正解を教えたり、助けたりとかしないほうがよかったのでしょうか。そしてそのようにして、友達から助けてもらったり教えてもらったりすることを、無しにすると、成人してから失敗や挫折をしないのでしょうか?

挫折や失敗を恐れず挑戦する勇気や、挑戦しながら様々にうまくいかなかった場面が出たときに、どのように解決していけば良いのか、自分だけでなく周りの人の意見を聞いたり助けを借りたりしながら、人々の協力に感謝しつつ、成功あるいは実現を目指していけるのはどちらのタイプでしょうか?

失敗をすればするほど、鍛えられて強くなると言う論理は、わからないこともありません。昭和のスポーツの世界はそうだったと思います。現代でも通じる部分は大いにあるかと思います。

しかし、スポーツの世界であっても、失敗をしたら、もうそれで放って置かれるだとか、誰もヒントを与えず、誰も協力せず、誰も練習の相手にならず、お前はダメだと突き放しておいて、その子は何かを得ることができるのでしょうか?

甘やかすとはどういうことでしょうか。
この文脈だと、まるで正反対になってしまいました。

私は、挫折をしやすい子育てるんだったら、簡単なのは、周囲がその子と関係を断つことだと思います。
関係を絶たれた子は挫折をしやすくなります。
なぜなら、人を信頼できないからだし、こうしてほしいと、自分の希望を伝えることもありませんし、人と協力しようと言う素振りを見せなくなるからです。そんなふうに、ひとと交わらずに成長するほかなくなるのです。一人でやらねばと考えている限り、挫折はすぐでしょう。

つまり、挫折をしやすい子と言うのは関係を絶たれた子です。
関係を絶たれた子は、自分だけのエコーチェンバーの中に浸り、自分だけの身勝手な価値観で生きていくようになります。

逆に、自分の失敗や成功も含め全てひっくるめて受容してもらい、周囲の反応を得て、何かしらのコメントをもらい、困ったときには相談に乗ってもらえると安心感を得ていた子は、まわりから十分な関心を得て育つことができたために、人の助けを借りることの感謝を覚え、自分もまた人を助けようと言う気概をもつために、挫折をしないのです。

もう一度、あの文章を見てみましょう。

甘やかされると、成人までに失敗や挫折を知らないから、独り立ちしたときに何もできなくて失敗する。また、失敗したときに、それに対処する術を持たないから、回避することができなさそう。それまで親が全部障害を取り除いてくれたんだろうから。だから、甘やかされた子は、挫折しそう。

いいえ。十分に甘えさせてもらえば、挫折はしません。それどころか、十分に人の心を理解する子に育ちます。

逆に、親の顔色を伺うことが常で、甘えることができず、親の機嫌を取りながら育った子どもは、心の中では、人を信頼することをせず、誰かを頼ったり人に感謝したりすることを知らないで育つでしょう。挫折するのはどっちでしょうか。


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リンゴスターのYくんの話〜ひとを受容するとは〜


月曜日は、とくべつな日です。

月曜日の朝、子どもたちの様子をみると、その子の土日の過ごし方が、なんとなしに伝わってきます。

最初から、わたしに何かを言いたくて、にこにこしながら、近づいてくる子がいます。

また、そうでなくとも、満足げな子もいます。

なんとなく、眠そうにして、ボーッとしている子を見ると、昨日はいつ寝たのかな~と心配になる。


印象に残る子がいます。

友達とおしゃべりしている子でも、目が生き生きとして、たいへんに友達に丁寧に接している子です。

友達の話を聞いて、目をまるくして、

「○○くん、すごいね」

と話をしている子は、本人の満足度が高いのでしょう。

他の子の話を、聞いてあげられる余裕があるのです。

聞いてもらった子も、うれしかったようで、そこにあっという間に、イキイキとして、明るい楽しげな空間が生まれてきます。

そういう雰囲気をサッとつくってしまう子が、Yくんです。

Yくんは、なかなか利発そうな子で、いつも大きい目をくりくりさせている子です。髪の毛が、ビートルズのリンゴ・スターみたいで、ちょっとかっこいい。

Yくんのことでは、とても興味深いことがありました。

Tくんという子がいるのですが、彼はいわゆる「すぐに友だちを叩いてしまう」子で、女の子からは少し、敬遠されています。

同じ保育園の女の子の口癖は、入学時から、

「もう!Tくんったら!」

でした。

さらに、

「Tくん!やめてよ!」

です。

そう言われると、Tくんもプライドがあるから、そういう女の子の口を封じるために、さまざまに動いてしまうし、それが先生に見つかると、大体はTくんが悪いことになって、思い切り叱られてしまいます。

そういう保育園時代を過ごしていたものだから、Tくんは、入学してからもずっと、さみしいのです。





そのTくんにとって、尊敬できる友だちが、リンゴ・スターのYくん。


「先生、これ、Yくんのと、同じだよ」


と、得意げに、Tくんが自由ノートを見せてくれたことがあります。

お絵かきの好きな1年生ですから、休み時間になると、自由ノートにお絵かきする子がたくさん。
自分のノートに、恐竜やら、ロボットやら、なんでも落書きをしていると、あっという間に、ノートを消費してしまう。

Tくんも、お母さんに言って、新しいノートを買ってもらっていました。
これまでのノートには、白いところがなくなるくらいに、ぎっしりと、恐竜を書いていましたから。

その新しいノートを、朝、わたしに見せにくると、

「これ、Yくんと同じだよ。同じ赤い花があるし、恐竜もあるしね。これ、漢字?これなんて読むの?」

Tくんは、自分で気になったことを、すべて言わずにおれない衝動性があります。だから、私に話す時も、一度に、一気に、3つも4つも、話をします。

Yくんと同じノートを買った、ということが自慢でならないらしく、わたしに見せた後、教室に「おはよう!」と入ってきたYくんに、さっそく見せていました。

「Yくん!赤い花でしょう。このノート、Yくんと同じだよ。昨日、アピタで買ったんだよ。ね、ぼくのお母さん、アピタの近くで働いているから」

そこまでを一気に言うと、Tくんは、嬉しそうにニコニコしています。

ショート・ヘアのYくんも、最後まで聞いてあげると、

「ああ、いっしょだねー、赤い花だしね。ぼくのお母さんも、アピタで買ったんだよ。いっしょだねー」



この対応を聞いていると、Yくんのことが好きなTくんの、感性は正しいのだな、と分かります。

Yくんは、Tくんが話してほしいことを、的確に話している。

コミュニケーションが、正しい。

同じ1年生で、こういうコミュニケーションをとれる子がいるのです。

なぜかな、と私はそこが気になります。

同じ1年生、同じような男の子でも、まったくTくんと、コミュニケーションがかみ合わない子もいるわけですから。




もう少し、Yくんのことを書きますと、

Yくんは、どうやら、人の気持ちが分かるようです。

なぜそう思うか。

時折、教師の私にはすぐにパッと、分からないようなことが、教室で起きるのです。

1年生の教室は、そういうことが、頻繁に起きる。

たとえば、

「座りなさい」

といっても、なんでか、なかなか座らない子がいる。

なぜか、プリントが1枚、余る。

なぜか、Kくんの水筒が、教卓にのっかっている。

なぜか、R太くんが、泣いている。

なぜか、水の入ったバケツが、廊下に出ている。

・・・・・・



私が職員室から帰ってくると、ほとんど毎回、不思議な光景が出現しています。

まあ、それが1年生なのでしょう。


そうしたときに、活躍するのが、リンゴスターのYくん。

「先生、R太くんね、S紀ちゃんが宿題プリントふんじゃったから、泣いてるみたい」


とっくに宿題プリントは机の中にしまわれているから、わたしは何が原因か、見ただけでは分からない。
ホームズじゃないんだし・・・。R太くんが、泣きじゃくっているときは、ちっとも分からない。
プリントが1枚あまったのも、どこかで列がずれて、もらわない子がいたらしいけど、それもYくんが、

「なんか、見てたら、U美さんのところから、ナナメに行ったんじゃないかなと思う」

と、教えてくれない限り、迷宮入りであります。



なかなか座らない女の子、「どうして座らないの?」と聴いても、うまく説明できない。

Yくんが、横から、

「先生、たぶん、うしろのTくんが、さっき鉛筆でつつくまねをしてたから、それがイヤなんだと思う」



女の子は、「Tくんにつつかれた」なら、はっきり述べることができたでしょうが、つつくマネをしていただけですから、ずばりと「イヤ」ということが言えずに、すこし困惑状態だったのでしょう。

それを、ちゃんとフォローしてくれるのが、Yくん。




気を回すとか、気を遣うとか、親切だとか、気働きができる、というの。

そういうニュアンスではない。

Yくんは、人と、ただしく、会話ができる。

相手が、「そうしている」。・・・で、Yくんは、相手の「そうしている」の真意はなにか、と知ろうとしている。

・・・ですね。(それがなかなか難しいわけです)

学級のリーダーを決めない理由

私は転職をして教師になりました。
教師になったのが35歳の時。
18歳で家を離れ、20歳の時から働き始めました。大学は卒業していません。

20歳の時から15年間、リーダーってなんだろうと真剣に考えてきました。
リーダーと言うものを決めない組織にいたからです。一応、リーダーらしき存在はいたのですが、それがまた、コロコロと変わるのが特徴でした。
第一、上司が誰だかよくわからないようなスタートで、上司に対してタメ口をきいても何も言われず、中学や高校で培った「先輩・後輩文化」が自分の中で崩れていくのがわかりました。

そんなことから、私は担任になって、学級長を決めたことがたったの1回しかありません。教師になった最初の年だけです。隣の学年主任の真似を全てしていたので、学級長を決めていました。

私は、どうも、教師になる前の15年間で、リーダーと言うのは、どこかの権威が決めて良いものではないと言うような予感がしておりました。
自然にできたものならいいんです。そういうものは誰しもが納得しているからです。
なんとなく、

「この人が中心だといいな」
「この人がまとめてくれるとすごく安心できるな」

というような存在っているんですよね。
ありがたい存在です。
みんなで支えていきます。

そういう存在が、いない時もあります。それはちょっと寂しいです。でも、組織が、まだ未発達の段階では、どんな組織であっても、よくあることだと思います。まだ、構成員一人ひとりが、個性を出せていない段階で、集団としての方向性もまだ組み立てている最中と言うような時ですね。
そんな未成熟な組織の段階であれば、誰が中心だと良いのか、誰がどんな人なのか、まだお互いに探り合っている段階ですから、この人がいいなと言うものもまだ出てこないんです。また、中心になるのにふさわしい人物本人も、あっ、俺が中心でやればいいんだな、よし、声をかけていこう、とまでみんなの気持ちを受けたり、感じ取ったりすることができていないです。

ですから、リーダーという存在がいるというのは、なかなか奇跡的なことだと思います。

ところが、先生は鶴の一声で、その奇跡が起こせちゃうのですな。

「はい、学級長を決めるよ。◯◯さんにしてもらいます」とか、
「誰か推薦してくれる?多数決で決めていいよ」とか。

これを言えば、ほぼ当日中に決まりますね。クラスのリーダーは。

私は、この点がどうしてもしっくり来ず、仲の良くなった先輩に聞いてみたことがあるんです。

「学級長って決めたほうがいいんですか?」

そうすると、その先輩は正直に教えてくれました。

「そのリーダー役をやった子が、その立場を経験することで、学ぶことがたくさんあるでしょう。うまくいくことだけではないけど、その子自身は随分と学べるでしょう。だからやる価値はあると思うね」

いかがですか?
皆さんはどう思われるでしょうか?

私はそれを聞いて、あっ、だったらやめておこう、と即断しました。

その子が学べるだけと言うのであれば、大した事はありません。大事なのは全員を巻き込んだ40名なら40名の学びが大事なんです。私は1人よりも40名の学びを取りたいと思いました。

そこでその後、一切リーダーや学級長と言う立場を決めることをしてきませんでした。
そのかわり、エネルギーを注いだのは、本音が言えるクラスということです。単純なゲームをたくさんやって、単純によく笑って、友達の気持ちを代弁することをたくさんやって、こんな気持ちだったのかな本当はこうしたかったのかなと言うことをたくさんたくさん話をして。

まぁ、そうしてきますと、リーダーってやっぱ出てくるんですナ。
じわっ、じわっ、とね。
あぁよくそこまで気を遣って考えてくれたんだな。
あぁ、〇〇さんの気持ちをうんと分かろうとしてくれてたんだ。
みんなが良くなるようにって考えてくれて、その発言になったんだね。
もちろん、そうやってフィードバックを返していきます。クラス全体で、話します。

「◯◯くんが言うと、何か知らんけど、説得力あるよね(笑)」と、ひょうきんな男の子が言ってくれたりします。するとそこにそうだよなぁと言う空気が生まれる。

この時が級長と言う名前はなくても、学級長の役割をする人が存在していると言うことです。

これを4月の最初に、じゃあAさんにやってもらうね、と決めていくと、まぁ形はスムーズに流れるかも分かりませんが、役割を背負った本人も苦しむケースがあるし、その子がリーダーの役割を勘違いして、指示や命令を繰り返すようになれば、一気に学級は崩壊していきます。

担任が「長」と名のつく立場に対して、係、という以上のなにかを求めるから、おかしなことになるので、係だと認識しているのであれば、まだ被害は防げると思います。でもまあ、結局はそれを決めない方が、子供たちに誤解を与えずに済むと言う点で、良いことがあると思います。

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ChatGPTは日本ではまだ浸透しないと思った件

急に富山に行くことになった。
そこで、富山までの道のりを調べてみると、いくつかルートがある。
代表的な3つのルートをここで紹介しておきましょう。
1つ目は、岐阜経由・山の中をくねくねと進んでいく道。
2つ目は、新潟経由・山の中をくねくね進む道。のこりの一つ、3つ目は、新潟経由・オール高速道路(しかしこれがまたかなりの遠回り)
これで3通り、3つのルートがあったと思ってください。

私は病人を運ぶから、できるだけ山道は避けたかった。くねくね道を行くのは、どうしたって体に負担がかかりそうだからだ。
ところが、オール高速道路は道は良さそうだけれど、うんと遠回りで時間もかかるのです。
高速道路なんだけど、ちっとも早くつかない。むしろ1番時間がかかるのでした。したがって、この高速道路案は却下です。

考えられるのは、長野の山の中を抜けて新潟経由で行くか、それとも岐阜の山の中を越えていくかです。どちらも似たような時間で、ほとんどかかる時間に誤差はありません。正直、迷いました。

そこで最近、スマホにインストールしたばかりのChatGPTに聞いてみることにした。
まだ使い方はよくわからないのですが、色々と聞くと、ポンポンと返事を返してくれるようなので、もしかしたら教えてくれるかもしれないと言う期待を込めたのです。

どうなったと思いますか?

そうなんですよ。タイトルに書いた通りで、期待はずれだったんです。このままでは、まだまだ日本人には、あまり浸透はしないだろうなぁと思ったのです。

1番の問題は言葉の強さです。
おそらくChatGPTにとって、日本語はまだ苦手なのではないかと感じました。英語の直訳だと考えれば、非常に納得のいく訳し方だと思います。ChatGPTの返してくれる言葉を見て、これは元は英文だったのだろうなぁと思うと、なるほどよく雰囲気が伝わってきます。

ところが、日本語を使い慣れている我々にとっては、その言葉が、どうにもきつく聞こえてしまう。おそらく昭和世代には人気が出ないのではないかなと思います。もしかしたら今のZ世代の若者たちにとっては、AIの言うことを100%信じる人はほとんどいなさそうなので大丈夫かもしれませんが。

最初私は、時間を調べました。
そうすると、こんな結果でした。
1位 岐阜の山道 2時間53分。
2位 長野・新潟の山道 2時間57分。
3位 オール高速道路 3時間13分。

1位と2の差は4分しかなく、ほとんど誤差でしかありません。つまりかかる時間はほぼ同じと考えて良さそうです。

ここでChatGPTに丁寧に聞いてみました。
【最も曲がり道が少なく、酔いにくい体に負担のかからないルートはどれですか?】

すると、こんな回答です。
1位の岐阜の山道です。この山道は、途中、安房峠にトンネルが建設され、最も時間が少なく済みます。体に負担もかからないでしょう。

どうです。この回答を見たら誰だって、嫌な予感がしますね。私はどの道が酔いやすいか、くねくね曲がり道なのか、そして最もくねくね曲がらずに、体の負担のかからないルートは何かを聞いたのです。しかしChatGPTの回答は、時間が岐阜ルートが1番短いのだから、きっと体にも負担がかからないだろうと言う投げやりな回答でした。

私は距離も聞いてみました。
結果はこうでした。

1位 岐阜の山道 136キロ
2位 長野・新潟の山道 181キロ

賢明な皆さんであれば、この2つに45キロメートルの差があることが見てとれますね。
それにもかかわらず、時間はほとんど大差がないわけです。
皆さんはどちらがくねくね道かわかりますね。

ところが!

ChatGPTの答え→【岐阜の山道経由がお勧めです。このルートが距離も時間も短く、最も効率的なルートだといえます。昔は難所だとも言われましたが、安房峠にトンネルが整備されたおかげで、現在ではとてもスムーズに峠を越えることができます。そのため、岐阜の山道経由が最も効率的であり、体に負担がかからないルートだと言えましょう。どちらも同じ位の時間で、より短い距離を走る岐阜の山道ルートが、車に乗っている時間が短く、乗り物酔いのリスクを下げることができるのです。】

↑ こんなにはっきり言うんですよ。ChatGPTは。
それも自信に満ちて。
おそらく大いにうなずきながら、語っているんでしょう。いいかいわかるかい坊や、と言うような。
少し大人ぶった感じにも聞こえますね。ワタクシはコンピューターで、世の中のありとあらゆる情報を見て、正しく計算をした結果、あなたにこのように進言申し上げているのです。しかしあなたはそのことをしっかりと把握されていないようで、疑心暗鬼になっていますね。それは人間の浅はかさと言うようなものですよ。いいですから信じなさい。私を。

・・・って、聞こえて来ちゃいました。
はい、気のせいですが。


この話を整理してみますと、賢明な皆さんがしっかりと計算された通り、スムーズに通れてくねくね道の少ないのは、完全に長野新潟の山道経由です。逆にChatGPTがお勧めする岐阜の山道経由は、距離は短く、長野新潟の7割ほどしかないのに、それにもかかわらず、時間は同じだけかかると言うわけです。いいですか、距離は短いのに長野新潟の山道経由と同じだけ時間がかかるのですよ!

・・・という事は、きっとその道は、うんとくねくね曲がっているに違いありません。平均時速は遅く、ゆっくりとしか走れない道なのです。

しかし、改めて再度聞いたとき、AIは言い切りました。
お勧めは岐阜の山道ルートです。同じくらいの時間で、より短い距離を走るため、体に負担のかかるリスクを減らすことができるからです。乗り物酔いのリスクも減らすことができます。
私は論破王ひろゆきのような気持ちになり、時間はもう一度聞くがどのくらいなのか、そして距離はどのくらいなのか。さらに、平均時速はどのくらいと考えられるのか。ふつう、平均時速が遅い方が、山道をくねくねとより一層曲がりながら走っていると言えるのではないか。・・・という点を一つ一つChatGPTが理解しやすいように噛み砕くようにして教えていきました。

すると、最後に、ChatGPTはついに負けを認めたのです。

【おっしゃる通りです。以上の点を再度検証した結果、長野新潟経由の山道の方がよりスムーズにカーブをできる限り避けながら、スピードを落とさずに効率よく走れることがわかりました。私の説明に混乱を招く表現があり大変申し訳ありませんでした。】

潔く訂正できるところはChatGPTの良いところです。しかしさっきまでのあの断固として、岐阜の山道が最も優れているのだと断言していたあの強さ、あの自信に満ちた態度はどこから来るのでしょう。

私は日本人向けにもう少しChatGPTの仕様を変える必要があると思います。
少なくとも、言い切らないように。
語尾の最後を次のようにするのを、システムエンジニアの方、設計の方に向けて進言申し上げる次第です。

【今現時点では、〜の方が、ご要望に沿う可能性が高いかと存じます。しかし、私めのこれまでの考察の過程において、本来考慮しなければならない点を見過ごしている可能性もまだございますゆえ、もし気がかりな点がございましたら、今すぐ教えてくださるようにお願い申し上げます】

特に、われわれ昭和世代の人は強く言われると、そうなのかいなーと簡単にころっと信じ込んでしまいますので、ぜひお願いしたいところでございます。

こりゃ、子どもが使うには、まだまだだナ。

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NHKドラマ『あんぱん』の考察

もう4年も前になるだろうか。
やなせたなしさんの、アンパンマンについての文章が6年生の教科書に載っており、その授業について書いたことがある。

さて、今週の『あんぱん』の総集編を土曜日に見た。そして、あれっ?と思った。

いよいよ、やなせさんの生きる哲学の核心である、【絶対的な善】についての解釈が明らかになるかと思って待っていたのだが。

ところがストーリーはそうは進まなかった。

もしかしたら、多くの読者に刺激を与えないように、マイルドな表現になってしまっているのか・・・。やなせさんはそんな生易しいレベルで生きてきた人ではないので、私としてはしっかりと、人を殺すことの地獄と究極の善、について、ドラマの中でも描写して欲しかった。

たしかにまだ物語が終わったわけではない。これからそのシーンが出てくるのかもしれないが、なんだか嫌な予感がするナ。

NHKのドラマの作者としては、人を殺すと言うことについての実体験を持つ人たちを刺激するわけにはいかないのかもしれない。

8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式で石破総理が式辞を述べた。この式典では、先の大戦で亡くなられた全ての人々を追悼し、戦争の惨禍を二度と繰り返さないという不戦の誓いを改めて表明した。13年ぶりに「反省」という言葉を使ったことが特に注目された。

私はここでの反省と言うのは、人を殺したことについての反省、人を人として扱わなかったことについて、反省する、そういう意味だと思う。
そして、そのことが、まさにやなせさんがアンパンマンを生み出した原動力だったと思う。

しかしドラマでは、どちらかと言うとやなせさんの夢を追う姿勢やアイデンティティーの確立、というところに主眼が置かれていたように思う。


ご存知の通り、やなせたかしは、『手のひらを太陽に』の歌の歌詞を書いた。いずみたくが作曲し、これは大ヒット。やなせたかしは、漫画家になる前に、詩人として大成功をしてしまう。

ドラマでは、やなせ崇(やなせたかし)の「漫画家になりたい」という強い思いと、「詩人として成功した」という現実の間の葛藤を強調して描いている。

「手のひらを太陽に」のヒットによって、崇が詩人として一躍有名になり、漫画を描く時間がなくなるほどの忙しさを経験するのだが、漫画家としてはなかなか芽が出ず、自分の夢が遠ざかっていくように感じる。
このように、ドラマは「どちらか一方しか成功できない」という状況を作り出すことで、崇の苦悩をより強く表現した。この葛藤こそが、後の「アンパンマン」の誕生につながる重要な経験だったと描いているのです。

実際のやなせたかしは、詩人やイラストレーター、デザイナーなど、多岐にわたる分野で活躍していました。しかし、漫画家としては長年苦労し、アンパンマンがブレイクするまでは「売れない漫画家」としての時期が長く続きました。
ドラマは、この「売れない漫画家」としての苦悩を、「詩人としての成功」と対比させることで、よりわかりやすく、視聴者の心に響く物語にしているわけです。
つまり、
詩人として成功 → 漫画家になりたい夢との葛藤 → 漫画家としてアンパンマンを創作 → 大成功
という物語の流れを強調することで、やなせたかしの人生の軌跡と『アンパンマン』のテーマを深く結びつけているのです。

私は、少しだけ不安に思う。
これだけでは、視聴者が本当にやなせたかしを理解したとは言えないだろうと言う点。
自分のこだわりの夢を追い続けることではなく、目の前の人の要望や願いに沿ってその要望を受け入れることで、自分の夢との折り合いをつけ、多くの人を楽しませることが大切だ、とならないか。自分のこだわりや夢と、世の多くの人たちの要望に答えようとする役割任務の遂行者としての納得から、アンパンマンが生まれた、となってしまわないか。 

アンパンマンが最初に登場した時、多くの読者から反響があり、「こんなのはヒーローではない」「ただ食べ物を分け与えるなんて、いやらしい偽善だ」「えらそうに食い物で人を釣るな」と叩かれた。
その、偽善だ、という世間の評価に全く怯まず、自分自身の絶対的な価値観を信じ続けたこと。
なぜ、怯むことがなかったのか。
なぜ、反響が悪くても、あんぱんまんを書き続けようとしたのか。

もしかしたら、この続きで、きちんと明らかになるかもしれないな。来週の放送が楽しみでならない。人を殺す地獄、が、きちんと描写されるかどうか、だ。
(この点の論考は、本記事の1番上にあるリンク先から、「戦争とは何か」について6年生の女の子がたどりついた結論を参照してください)

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学級経営のむずかしさを世間が理解できない点

学級経営、という言葉があり、その難しさをまだまだ世間は理解していない、と思うことがあります。
子どもは人間ですから、さまざまなことを考えます。そして、します。

学習指導要領は、子どもがいろんなことをする、というのを外して考えている気がします。
よくある間違いは、

教えたら、わかるはずだ

という勘違い。

次は、

教えたら、覚えているはずだ

というもの。

さらにその次は、子どもは前を向いて座る、という勘違い。

全くもって、そんなことは当然では無い。できて当たり前なものではないです。

でもまあ、このへんまではよく言われることだし、世間の人も承知していると思います。
なぜなら、まったくもってこれ、大人だっておなじてすからね。

もっと話を進めると、このへんは世間の人々が分かってないことかも、というのがあります。
例えば、

子どもはみんな健康な状態で登校する

とか。実際には、普通に、発熱しながら登校します。これは保護者が悪いのではありません。保護者が休めない勤務体系そのもの、つまり日本の雇用システムそのものに、課題があるのです、

また、これも世間では知られてないと思われるのが、一度やれたことは、できるようになった、という判断。つまり、昨日できたことは、今日もできる、と思ってる、ということです。
「昨日、みんなでやったでしよ!」と思うのですよ。「あんとき、できたでしょ!」と。

ところが、そうはいかない。

あとは、

子どもは学校生活以外は悩みが無い、という誤解。いえ、子どもの心は、部活のこと、放課後デイのこと、児童クラブのこと、塾のこと、親のこと、兄弟のこと、さまざまなことで、心はちりぢりバラバラに乱れております。

こういうこと、文科省はどう考えているのだろう、と不思議に思う。よく、10教科も詰め込んだ
ナ、と。よく夕方まで詰め込んだな、狭い教室に35人も詰め込んだな、下校時間が16:00、歩いてうちに帰る頃は、冬なら日が翳って暗くなりますが。文科省は、よくやるよなぁ、と。凄いことを計画するな、と思います。

常に空腹を、訴える子もいます。
これも親が悪いのではありません。
余裕が無いのです。
今の社会システムでやってると、親にはとうてい、余裕なんてありゃしないのです。

さあ、夏休みもあとわずか。
8月が終わると、2学期が始まります。

いろんな状態の子が、登校します。
授業よりも先にやることがありそうです。
そして、十分にそこをサポートすると、子どもは元気になって、自ら学び始めます。大人もまったく同じですよ。心と気持ちがサポートされて、自分はこれで大丈夫だ!と思うことができたら、力を発揮したくなるのですし、人の役に立って、笑顔が見られることが喜びになるのですね。

何よりも、無事故で、教室に集まれたことを一日中、喜びあいたいと思うね。

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「◯◯◯市って、世界遺産なの?」の違和感

私が暮らしている市は、観光地であります。

したがって、夏休みにコンビニに行くと、他府県のナンバーをつけた車がたくさんある。
そして明らかに観光客だなと思われる服装やスタイルをした人々に出会う。
良いことであります。経営者も張り切っているでしょう。

コンビニだけでなく、大きなスーパーに行ってもそうです。駐車場に大きなキャンピングカーが止まっていました。
中から中学生らしい子が出てきて、慣れた様子で、お母さんと買い物です。遅れて下の子が出てきて、この男の子は、小学校の高学年ぽかったです。教員は見ただけで何年生位だなとまで考えてしまうので、これは職業病ですね。

その男の子がですね、衝撃的な発言をしたわけです。私はたまたま、です。聞く気はないんだけど、たまたま隣に駐車しちまったもんで、耳に入って来ちゃいました。
それが、タイトルのようなセリフだったわけ。

「お母さん、ここって、世界遺産なの?」

これは面白いですね。
もしかしたら、キャンピングカーで移動しているような家族なので、あちこち、世界遺産を訪ね歩いたことがあるのかもしれません。
さらに言うと、観光地でありまして、夏休みには特有の活気を呈しています。他府県から来たと思われる自動車がたくさんあります。関西じゃないのに関西弁をが聞こえてくることも。
そんな雰囲気を敏感に察して、その男の子は、お母さんに聞いてみたくなったんでしょう。

私は最初それを聞いて、世界遺産だから観光するってあるのかなと疑問が湧いた。

世界遺産に登録されようがされまいが、そんなお墨付きのようなものとは無関係に、人類の営みはそれぞれ価値があります。
世界遺産に登録された途端に、価値が跳ね上がるようなものではありません。
私が住んでいる市には、古代から人が住んでいた旧跡が残されております。どうやら縄文時代には人がいたらしい。人が住んでいる以上、そこには必死の営みがあり、生きるための努力があり、人々が協力してきた証が残されております。それらの価値は、世界遺産に登録されようが、ユネスコが何を言おうが、政府が何を言おうが、そんなこととは、無関係に独立してあるわけです。

富士山が文化遺産登録された時、テレビで万歳を叫ぶ政府関係者が映りましたが、はて、妙だなと思いましたね。コレ、なんのバンザイ?
テンションが凄くて、凄みというか、ある種の狂気さえ感じました。
富士山の文化的な価値は、政府が決めたり、ユネスコが決めたりするものではないのですがネ。

まあ、それでも一般的に、世の中の人が、世界遺産として話題になったときに興味を持つ、普通にそういうことってあるんだろうなと思います。世界遺産と書かれたハンドブックも売られていますし、世界遺産に認定されたと言う話を聞いて、興味が湧いて調べたくなったと言う事はあるんでしょう。

ハイ、そこくらいでちょうどいいです。
そこくらいまでで、充分なんです。


しかし、ワタスの高校の同級生が当時のツイートでつぶやいてましたが、日本ほど世界遺産登録を大々的に政府関係者が喜んだりニュース報道したりしてありがたがる国は見たことないと言ってました。他の国ではニュースにすらならないらしい。
今、イタリアと中国が多いそうです。世界遺産の登録数が。まぁ歴史のある国ですから。

で、彼が言うにはその2つに差ができてきているそうです。それは何かと言うと、イタリアは、だんだんともう登録に飽きてきたのか、もう登録なんてしなくていいよと言う自治体が増えてきているそうです。古代の遺跡だから登録はするが、登録をすると、守る義務が生じ、自治体としてはそれはなかなかの負担になるとの事で。

しかし、中国は割と真剣に報道もし、政府関係者が出席するそうです。つまり国威発揚、ですね。世界一を取りに来てるわけです。オリンピックの金メダルの数のように。

モロ、政治なわけ。
政治的に利用価値があるとみなされているわけです。
政治家がやろうとしてるだけなんです。地元はそうでもない。むしろ、傍迷惑だなと感じていたりします。
中国は、「中国すごい」を、言いたい。
イタリアは、別にそんなこと言わなくても良い。
この辺、ちょっとした趣味の違いなんですね。

佐渡の金山が、世界遺産に認定されたとき、岸田首相が首相官邸のホームページでメッセージを出したとニュース報道で知りました。この時岸田首相が、そのメッセージにほとんど意味のないデマを加えていたために、社会科の先生の間では少しだけ話題になりました。

それは、
「江戸時代初期に手工業で純度の高い金を精錬していたわが国の金山は、当時、世界で算出される金の量のうち1割を算出していたと言われています」
という言葉で、アカデミックな大学教授や専門家たちは、「1割って、誰が言うたの?」と、あっけにとられたそうで。
当時の産出量は、なにしろ16、17世紀のことなので、世界の生産産出量を計算している学者が当時はいなかったのです。分母がわからない。それはアカデミックに合理的に考える人たちにとっては常識のこと。

ところが、スピーチの元になった文化庁の資料には「1割」って出てきてしまうわけ。そのわけのわからない、根拠のないデマの数字が。

数字を言うと迫力が出る。日本スゴイ、が言いたくてたまらない当時の岸田首相にとって、世界の1割を算出したんですよ!ということでの【国威発揚】が、欲しかったのでしょう。喉から手が出るほど。

つまり、世界遺産と言うのは、政治的に作られている側面があるということです。

でも、別にユネスコは1割も算出しているから凄いからだから、世界遺産登録したわけではない。そこが1割だろうが、0.5割だろうが、3割だろうが、そんな数字とは無関係に価値があると判断しているわけです。だから岸田首相は言わなくても良いことを言ったわけ。言わなくてもいいのに言いたくてたまらなかったと言うところに、何かしらの狂気を感じるわけです。

日本すごいと言いたくなってしまうのはどうしてでしょう?

事実、実際の人々の営みの価値と言うものは、権威とは無関係に価値があるのです。
国が言及しようがしまいが、人間と言うのには価値があるんですよね。生まれただけで価値があるんです。命ですから。

そして人々が集団になって協力し合うのは誰かがそれに価値を認めたから、急に価値が出てくるわけではなく、誰かがそれはすごいとかすごくないとか立派だとか評価する前から価値があるわけです。評価されて、初めて価値が出てくるわけではなく、評価の前に既に価値があるわけです。

だんだんと教員向けの話になってきましたね。
そうです、通知表は価値をつけますが、あるいはつけたように見えますが、算数の欄に2重丸を記入する前から、すでに価値があるんです。我々教員がそこにを記入した書き入れたその瞬間に、価値が生まれるわけではない。

世界遺産に登録しようが、しまいが、文化的な価値はあるわけです。考えてみたら当たり前ですね。でも、多くの人は、日本すごいと誰かが言ってくれて、初めて日本には価値が出てくるんだと勘違いをしやすいんです。日本すごいと言われようが言われまいが、誰もそんなこと言わなくても価値があるんです。多くの人はそのことを知っているので、別に日本凄いと他国に言われなくても、あるいは自分自身がそれを連呼しなくても価値かあると知ってます。

しかし、中にはこういうタイプの人がいます。
「日本すごいを言わないと価値がなくなっちゃう。日本すごいと言わないのは、自虐なんだ」

いや、別に日本すごいを言わないのは自虐ではありません。

日本すごい、と、誰かに言ってほしい心象とは、何でしょうか?

報われなかった人が「日本すごい」という言葉に惹かれる心理は、いくつかの要因が絡み合って形成されていると考えられます。

「自分は価値がない」「社会から認められていない」と感じている点。

   人は誰しもこのような気分になる事はあります。誰だって。
そして、このような時、人は「自分自身」ではなく、「自分が所属する大きな集団」に価値を見出すことで、失われた自己肯定感を補おうとします。国家(=日本)という大きな存在を「素晴らしい」と賛美することで、その一員である自分もまた「素晴らしい」という感覚を得られるのです。これは、個人の失敗や不遇を、「日本人全体」の成功や偉大さで覆い隠そうとする心理です。これは誰でも起こり得ることなんです。

   報われなかった自分の人生を直接肯定することは難しい。そこで、自分の不満や挫折を、国家という対象に投影し、その国家の偉大さを賛美することで、間接的に自分自身の価値を代償しようとします。
   「私個人は成功しなかったが、私が所属する国はこんなにすごい。だから私自身も決して報われなかったわけではない」という心の安定を求めるのです。

   「日本すごい」という言説は、しばしば日本の歴史や文化の美点だけを切り取って提示します。これは、現実の厳しい社会や、自分の報われなかった境遇から目をそらすための、一種の「心理的な現実逃避」として機能します。

これらの心理的メカニズムは、報われなかった個人が、失われた自己肯定感を回復させ、社会への不満を解消し、現実から目をそらすために、「日本すごい」という言葉に強く惹かれる理由を説明しています。それは、自分自身を直接肯定することが困難な時に、国家という大きな枠組みを通して自分を肯定しようとする、切実な心の動きだと言えるでしょう。

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夏休みの宿題について

東京の、とある公立小学校は、夏休みの宿題を全廃したらしい。
また日本中を見渡すと、全校児童とまではならなくとも、学年単位で先生たちが話し合って、止める学年があったり、継続する学年があったりと、そういう学校は、かなり多くあるらしい。

小学生中学生の子どもを持つ親にとっては、この問題はなかなかに、気をやきもきさせる問題である。

私は、この宿題問題は、文科省が裏で手を回していると思う。
従来のような知識の量や正確さを問うことを学力と言うのではないことにしたいのは、なんといっても文科省である。

中教審で、多くの大学の先生たち、アカデミックな先生たちが、文科省で提言していたのも、学力という言葉を、従来の色から変えていこうと言う話ばかりであります。

文部科学省が提唱する「学力」は、いわゆる教科の点数、という意味ではない。
単に知識を暗記していることだけでなく、より幅広い能力を含んだもの。これを文科省では「確かな学力」と呼び、以下の3つの要素から構成されると説明している。
 * 知識及び技能: 「何を知っているか、何ができるか」という、基礎的・基本的な知識や技能のこと。
 * 思考力・判断力・表現力等: 「知っていること・できることをどう使うか」という、知識や技能を活用して課題を解決したり、自分の考えをまとめたりする力のこと。
 * 学びに向かう力、人間性等: 「どのように社会や世界と関わり、よりよい人生を送るか」という、学ぶ意欲や、自ら課題を見つけて主体的に学習に取り組む態度、多様な人々と協働する力などのこと。

ところが、一向に世の中に浸透しない。
「学力」といえば、多くの人はこれまで通り、教科のテストの点数を思い浮かべる。

それは当たり前だ。これまで100年以上ギチギチにそのシステムで進めてきてしまったからだ。戦時中の軍隊のシステムもすべてそうであった。高度経済成長も全てそうであった。脳髄に染み込んだこの考え方を根底から変えていこうと言うのだから、大変に決まっている。

手元にスマホがあれば、いわゆる知識にすぐにアクセスできる。
これからの世の中、コンピューターを手元に持って、AIと一緒になって仕事をしていくようになる。それが世の中の人の当たり前、スタンダードになっていく。
このことに、まだ、学校社会や人間社会全般がついていけてない。

だから、保護者がしっかりとドリルをやらせましょうと言うことに対して、どちらかと言うと賛成になるのはうなずける。
実際に宿題をなくした学校は、保護者から大いなる突き上げをくらったらしい。「なぜ宿題を出さないのか、出すのが当たり前じゃないか」と。

ところが、この問題の難しいところは、そうではない親もまた多いと言うことだ。

ある親は言う。
「子どもは、社会の中のある課題に対してどのようにアプローチし、その解決方法を探るのか、すべてひっくるめてまなぶべきた」と。
子どもは、問題提起の仕方やアプローチの仕方、情報の集め方確認の仕方、計算の仕方、パソコンの使い方、全てひっくるめて勉強していけば良い。それがまさに実践的なのだ、と。

こんなふうに、様々な考えで、喧々諤々と社会全体が騒いでいる最中に、学級担任が何かを言えるわけがない。様々な解釈を持った保護者に対して、これだという【答え】を示すことはできない。

これは日本中の保護者を巻き込んだ、あるいは日本社会全体を巻き込んだシステム改変の問題だからだ。根本の人間の哲学に関わる問題だからだ。たかが夏休みの宿題なのだが、哲学の根本につながる大問題なのだ。

そこで私はこうすれば良いと思う。
宿題は用意はする。ドリルも用意はする。
しかし、やるかやらないかはその子に任せるのである。その家庭に任せるのである。

夏休みに時間のできたお父さんが、こんな時こそ子供に2桁の掛け算のやり方を教えてやりたいと言うのもうなずける。その時に問題を用意するところから、お父さんが獅子奮迅しなければいけないのは確かに気の毒なことだ。

「学校は、宿題を用意はするが、しなくても良い」と言うふうに文科省の1番の大臣が言えば良いのである。
そうしたら、あっという間にこの問題はカタがつく。

そして、だんだんと、世の中全体で、大臣が一声言えば、それでいいのかと言う問題を深掘りしていけばいいのだ。

さらに、「なぜしなくても良いと言う当然のことを、しなければならないと言うふうに、いつの間にか思い込むようになってしまったのか」を、お昼のワイドショーでみんなで考えていけば良いのだ。

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後件肯定の誤謬(こうけんこうていのごびゅう)

ここでいう「こうけんこうていのごびゅう」は、ちょっとむずかしい言葉ですが、例えば「見た目で決めつけるのはちがうよ」ということが、その一例です。

より具体的に言いますと、

 * 雨がふると地面がぬれるかもしれません。でも、地面がぬれているからといって、雨がふったとはかぎりません。
   (ホースで水をまいたのかもしれないですね)

 * かけっこが速い子は、運動会で一番になるかもしれません。でも、運動会で一番になったからといって、かけっこが速い子とはかぎりません。
   (転んだ人がたくさんいたのかもしれない)

このように、見た目のことだけを見て「きっとこうだ!」と決めつけるのは間違いです。そう見えた原因はたくさんあるのであって、他にも色々な理由があるかもしれないからです。

真面目に勉強する生徒は、いつも宿題を完璧に提出するかもしれない。しかし、宿題を完璧に提出するからといって、真面目に勉強する生徒とは限りません。

つまり、ある結果(後件)だけを見て、その原因(前件)を決めつけるのは誤り、なのです。

他人の気持ちを思いやれる子は、公共の場で静かにできるかもしれません。しかし、公共の場で静かにできるからといって、他人の気持ちを思いやれる子とは限りません。

ここで、ちょっと振り返ってみましょう。
我々教師は、静かにしている子を見ると、立派な子だ。この子は周囲の人々の気持ちを思いやれるのだ。思慮深くて、思いやりのある子だ、と判断しやすいのです。私自身を含めて、教師はこういう癖があるのです。そのため表面的に静かにすることをすぐに求めてしまいます。そして静かになったらあぁ心まで成長したと勘違いしやすいのです。教師が教室内をパッと見、静かにさせたいと願うのは、その裏にこういった心理が隠されている場合があるわけです。

成績が良い生徒は、授業中に積極的に発言するかもしれません。しかし、授業中に積極的に発言するからといって、成績が良い生徒とは限りません。

ところが、われわれ教師はよく、「手を挙げなさい、手を挙げて発言しなさい」と指導しがちです。なぜそう指導しがちかと言うと、見た目としてたくさん手を挙げている子が増えたら、全体的に学力が上がっていると感じやすいのです。担任はそう感じたくなってしまい、見た目(め)的にに手を挙げる子を増やしたいと言う心理が働いてしまうのです。
確かに、まだ手を上げたり発言したり自己表現したりと言う、アウトプットの苦手な子はたくさんいて、手を挙げる、と言うことを促す指導は必要です。しかし、手を挙げるようになったらこれで良いのだと安心してしまうのは間違いです。それはただのワンステップに過ぎないのです。

同じように、

 * 引き出しの中がいつも片付いているからといって、その子の心身が安定しているとは限りません。
 * 自分の持ち物を大切に扱うからといって、責任感が強いとは限りません。

この辺も、教師は、少しずれた指導をしがちです。引き出しの中をしっかり片付けなさい。きれいにしなさいと言う指導をして、机の中がきれいになったら、その子自身の心や知性があたかも成長したかのように受け取ります。しかし、それはただ単に机の中をきれいにしたと言うだけのことに過ぎず、やはりただのワンステップなのです。きれいになったらおしまいではなく、きれいになったことを喜んだり、使いやすくなったことを実感して、その良さを話し合ったり、これからそれを続けていけそうかどうか本人の見通しを聞いてあげたり、どうしたらそれが続けられそうか。作戦を立てたり、やる事はまだまだ続くわけです。

さらに、学校教育に関する事例をいくつか。

* 塾に通っているからといって、学習意欲が高い生徒とは限りません。
 * 先生の話を静かに聞くからといって、授業内容をよく理解している生徒とは限りません。
 
その他
 * 試合に勝ったからといって、練習熱心とは限りません。
 * 友達が多いからといって、コミュニケーション能力が高いとは限りません。
 * 絵や物語に深く感動するからといって、感受性が豊かな子供とは限りません。
 * 一つの遊びを長時間続けるからといって、集中力が高い子供とは限りません。

こうしてたくさんの事例をあげてみると、結果だけを見て原因を決めつけるのは誤りであるという点が、より明確になるかと思います。

「AだからB」という因果関係を考える際には、「本当にAが原因でBが起こっているのか?」「Bの原因はA以外にもあるのではないか?」と、立ち止まって考えることが大切。
同じ結果に見えても、その背景にある原因は人それぞれで、一つに決めることはできません。

こういうことは、人生の初期、つまり小学生の段階からわかっていることが結構大事です。
ところがこれを学習するとなると道徳なのかなぁと思うんですが、道徳の教科書には、こんな論理性の勉強は無いわけです。つまり、文部科学省としては、後件肯定の誤謬を学習する際は、教科書で論理を教えなさいとはしていないのです。

おそらく子供たちにより実感しやすいように、生活の中の事例や、道徳の教科書の中のわかりやすい事例などから、自身の多くの体験と合わせて考え、話し合いを通じて、後件肯定の誤謬を教えなさいとしているのだと思います。

ところが、多くの先生たちは、こんなこと教えてないと思います。

私は、これをちゃんと、【後件肯定の誤謬】として、きっちりと道徳の教科書に載せるべき、と思います。(もしかしたら道徳ではなく、算数なのかなぁ?)
(※ちなみに、ChatGPTの回答にも、前提に誤謬が含まれた場合があるので、おそらく人間社会全般がそうなのでしょう。ChatGPTは、それらから情報をたくさん進めてくるので、結果として、ChatGPTが論理の誤謬を含んだ表現をしてしまうのでしょうな)

写真は、まだ朝の温度。
(午後は37度まで上がりました。それも日陰で)
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世間の考える、理想の先生像は


勤務開始2時間前6時に登校、教室整備、授業準備、早く登校する児童対応。朝の会は児童の心を打つ話からスタート。給食指導、アレルギー対応も抜かりなし。

分かりやすい授業は児童を引きつけ、机間巡視や発問も的確。自作の授業プリント、各テストも児童の理解進捗度を測れる内容。児童の学力は向上し、採点・評価も適切で早い。放課後も個別相談、遅れがちな児童の学習支援。

いじめ対応も完璧。激しく教員を叱責し、責める保護者に対しても冷静に対応。いじめた側、いじめられた側の親子とも円満解決。

日々の指導も公平、ケガやトラブル対応も完璧。

会議は適切な発言、管理職もうなる内容。運動会など行事も中心で企画運営。

児童との関わり方も良く、クラスの児童は笑顔が絶えない。不登校児童も勤務時間外の家庭訪問・家庭連絡も含め、適切に対応。少しずつ登校日数が増え、40人全員が教室に揃う。

これが、理想の先生です。
この境地をめざし、日々の鍛錬です。

決してムリだとは思わない。
しかし、日本中のすべての学校がそうなるには、実現まで、あと300年かかる。

しかし、たった一つの工夫で、これがただちに実現します。

わたしはその奇跡のアイデアを知ってます。

たった一つの工夫。
それは、ずばり教室の人数を最大20人までとして、さらにどの教室にも個々の副担任を配置するのです。1組にはA先生、2組にはB先生と。つまり、単純に教師の数を倍にする、ということですね。
子どもの人数に上限を設けてかつ、教師を倍に増やす。これらを同時にやるだけで、夢が実現しますゾ!

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