これはわたしの悪いところ、短所なのですが、校長先生に馴れ馴れしくしてしまいます。以前は時折、タメ口で話してしまったために、自己嫌悪に陥ることすらありました。
これは20代の過ごし方に問題がありまして・・・。
通常の人は、生活のほとんどを敬語か丁寧語で過ごしているのが普通だと思うのですが、わたしは20代の約10年ほどをまるっと、「無敬語」で過ごしました。おそらく、こんな人は人口の中では0.1%以下だと思います。
これでも中学・高校時代の部活はPL学園ほどではなくとも、一応縦型社会とも言われた体育会系でしたし、大学の寮は400人規模の破壊的なくらいの超縦型パワハラ社会でくらしました。先輩の無茶振りやパワハラにも耐えて過ごしましたね。実はめちゃくちゃ楽しかったのではありますが、若い頃のわたしは敬語をふつうに使えていました。
でも、やはり、20代の経験は大きいですね。
敬語を使わない暮らしを一度経験すると、これが楽でラクで・・・
どんな人も、肩書きで見ない、立場で見ない、性別や家柄や、能力や行動、影響の大きさなどては見ないというクセがついちゃった。誰に対してもタメ口。親戚のおじちゃんや、いとこのニイちゃんと話してる感じ。お母さんとか・・・、家族と話す雰囲気。ほら、そんな中なら、敬語じゃあ、逆に変でしょう?
こんな経験をすることはほぼ不可能なので、いくらわたしがこんなことを、ここて熱弁したとて意味はないんですが・・・
とにかく、ラク。
同時に、若い人が私に対してタメ口で話しても、弟・妹的な目線なのでまったく問題無いどころか、それが普通という気がする。
教室でも子どもが私には、タメ口です。
普通です。
わたしに敬語で話してくる子は、6年生の児童会の子くらいしかいません。これを批判する方もいます。もっと先生への言葉遣いはきちんと丁寧語でするように躾けたほうがよい、と。将来のためだ、と。わたしは教員になりたての頃に、そう注意されまして、教員という職業はまだ始めたばかりでわからないことだらけでしたから、そういうものか、と思いまして、かなり子どもたちにもいちいち注意したものです。 このブログでも、敬語については何回か書いたかなと思います。
今の私は、研鑽に研鑽を重ねまして、校長先生に敬語を使うことができるようになりました。今はまったく、敬語が普通になりましたね!見てください、この晴れ姿を!ここまで10年くらいかかりました。
つまり、敬語に染まるのは時間がかかるのですが、不要となれば、明日からでも敬語を手放すことはできるのです。10年間まるっと無敬語、という生活も、だれでもすぐにできる、というわけですネ、人間という生物は・・・。経験上、それが言えます。
ところで、前回の記事のように、人と人との間に、まったく「存在価値の差や違い」が無いとしたら、パワハラはなくなりそうに思いますが、なかなか無くなりそうにありません。こうしたらどうでしょう。「ノー敬語デー」をつくるのです。上司に対して、その日は敬語を使わない、という日。お互いに、ですから、だれかを特別扱いはしないのです。国家がそれを推進するのなら、どんな上司もぐっと耐えるでしょうからね。
「人はだれでも心から好きな人やモノがあり、愛することができるわけで、どんな人をも馬鹿にすることはできない」と、朝8時になったら日本人は全員これを唱和しまして、総理大臣がテレビ中継、インターネット中継で「本日はこれより、どんなオフィスでもノー敬語です」と宣言します。面白いと思いますがねえ。
今のわたしは、職場ではもうかなり年齢が上になってしまいまして、コピー機の前に立つと、若い子たちが「あ、すぐに終わります」とかいって、ゆずってくれようとしますし、みんな私に敬語を使います。今はもうその環境に慣れちまいましたが、自分はノー敬語でもまったく問題ありません。どんな若い先生も弟や妹の気分ですから。この感覚はどうしようもない。そういう人生を歩んできてしまったので。
パワハラの新聞記事を読むたびに、そんな想像をしています。パワハラがなくなればいいのに、と思います。DVとか。
ところで、ノー敬語デーのときに、なんでワシに対してみんな敬語を使ってくれないんや!と腹を立てる上司がいるんじゃないか、とみなさん思いますか?
わたしは、案外とそんなにいないのではないか、と思いますネ。
そうして、敬語じゃないと腹が立つ、という人がいなくなったとたんに、敬語は本来の輝きをとりもどし、正常に機能し始めると思います。そうなってはじめて、敬語の良さが際立ってきて、お互いに敬語で話し合えることの良さを、日本人全体が享受できるようになるのでしょう。まあそうなったらパワハラは日本から消えますが、パワハラが無くなれば、自分を誤解して卑下してしまう日本人は、居なくなり、日本全体の大きな国益に繋がると思いますナ。
これは20代の過ごし方に問題がありまして・・・。
通常の人は、生活のほとんどを敬語か丁寧語で過ごしているのが普通だと思うのですが、わたしは20代の約10年ほどをまるっと、「無敬語」で過ごしました。おそらく、こんな人は人口の中では0.1%以下だと思います。
これでも中学・高校時代の部活はPL学園ほどではなくとも、一応縦型社会とも言われた体育会系でしたし、大学の寮は400人規模の破壊的なくらいの超縦型パワハラ社会でくらしました。先輩の無茶振りやパワハラにも耐えて過ごしましたね。実はめちゃくちゃ楽しかったのではありますが、若い頃のわたしは敬語をふつうに使えていました。
でも、やはり、20代の経験は大きいですね。
敬語を使わない暮らしを一度経験すると、これが楽でラクで・・・
どんな人も、肩書きで見ない、立場で見ない、性別や家柄や、能力や行動、影響の大きさなどては見ないというクセがついちゃった。誰に対してもタメ口。親戚のおじちゃんや、いとこのニイちゃんと話してる感じ。お母さんとか・・・、家族と話す雰囲気。ほら、そんな中なら、敬語じゃあ、逆に変でしょう?
こんな経験をすることはほぼ不可能なので、いくらわたしがこんなことを、ここて熱弁したとて意味はないんですが・・・
とにかく、ラク。
同時に、若い人が私に対してタメ口で話しても、弟・妹的な目線なのでまったく問題無いどころか、それが普通という気がする。
教室でも子どもが私には、タメ口です。
普通です。
わたしに敬語で話してくる子は、6年生の児童会の子くらいしかいません。これを批判する方もいます。もっと先生への言葉遣いはきちんと丁寧語でするように躾けたほうがよい、と。将来のためだ、と。わたしは教員になりたての頃に、そう注意されまして、教員という職業はまだ始めたばかりでわからないことだらけでしたから、そういうものか、と思いまして、かなり子どもたちにもいちいち注意したものです。 このブログでも、敬語については何回か書いたかなと思います。
今の私は、研鑽に研鑽を重ねまして、校長先生に敬語を使うことができるようになりました。今はまったく、敬語が普通になりましたね!見てください、この晴れ姿を!ここまで10年くらいかかりました。
つまり、敬語に染まるのは時間がかかるのですが、不要となれば、明日からでも敬語を手放すことはできるのです。10年間まるっと無敬語、という生活も、だれでもすぐにできる、というわけですネ、人間という生物は・・・。経験上、それが言えます。
ところで、前回の記事のように、人と人との間に、まったく「存在価値の差や違い」が無いとしたら、パワハラはなくなりそうに思いますが、なかなか無くなりそうにありません。こうしたらどうでしょう。「ノー敬語デー」をつくるのです。上司に対して、その日は敬語を使わない、という日。お互いに、ですから、だれかを特別扱いはしないのです。国家がそれを推進するのなら、どんな上司もぐっと耐えるでしょうからね。
「人はだれでも心から好きな人やモノがあり、愛することができるわけで、どんな人をも馬鹿にすることはできない」と、朝8時になったら日本人は全員これを唱和しまして、総理大臣がテレビ中継、インターネット中継で「本日はこれより、どんなオフィスでもノー敬語です」と宣言します。面白いと思いますがねえ。
今のわたしは、職場ではもうかなり年齢が上になってしまいまして、コピー機の前に立つと、若い子たちが「あ、すぐに終わります」とかいって、ゆずってくれようとしますし、みんな私に敬語を使います。今はもうその環境に慣れちまいましたが、自分はノー敬語でもまったく問題ありません。どんな若い先生も弟や妹の気分ですから。この感覚はどうしようもない。そういう人生を歩んできてしまったので。
パワハラの新聞記事を読むたびに、そんな想像をしています。パワハラがなくなればいいのに、と思います。DVとか。
ところで、ノー敬語デーのときに、なんでワシに対してみんな敬語を使ってくれないんや!と腹を立てる上司がいるんじゃないか、とみなさん思いますか?
わたしは、案外とそんなにいないのではないか、と思いますネ。
そうして、敬語じゃないと腹が立つ、という人がいなくなったとたんに、敬語は本来の輝きをとりもどし、正常に機能し始めると思います。そうなってはじめて、敬語の良さが際立ってきて、お互いに敬語で話し合えることの良さを、日本人全体が享受できるようになるのでしょう。まあそうなったらパワハラは日本から消えますが、パワハラが無くなれば、自分を誤解して卑下してしまう日本人は、居なくなり、日本全体の大きな国益に繋がると思いますナ。