30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

レアを選ぶ行き方

再録シリーズ 2020.9

映画「国宝」が話題となって久しい。
多くの人が最初の映画泥棒を含め3時間を超えるこの大長編を映画館で見たようですが、私は途中で必ずトイレに行く気がしてならず、恐怖に襲われてまだ見ることができないでいます。

私の職場のある先生は、これを見に行って、なかなかに深い洞察を得たようで、「ぜひ新間先生も映画館で見てくださいよ」と、何度もおっしゃっていました。

歌舞伎役者の血筋に生まれたからには、その役者を志すと言う、生きる道筋が、バーンと目の前に見えているわけですね。
私は高校生の頃に、自分がどのような将来を歩めば良いのか、全く見当がつきませんでした。学生と言う身分や状態と働く仕事をすると言う状態との間に、まるでぽっかりと真空空間が現れたかのようで、どのようにしてその先に進めば良いのか見当がつかなくなっておりました。

今でもこういう立場の子はたくさんいるんじゃないかと思います。ニートや引きこもりと言う状態も、こういう真空状態に吸い込まれた感じがあり、自分が何者になれば良いのか見当がつかないと言う状態ではないかと思います。

人生を半分以上過ぎて、50代も半ばに差し掛かろうとする今になって思うこと。
「何者かになろうとする」のではなく、とにかく目の前にあるいわゆる【仕事】を何でもしていこうとする気持ちが、実は人生を楽しむ手っ取り早い方法なのではないか。

お金になる仕事もありましょうし、目に見えないような仕事やお金には何にもならないような仕事だってあるわけですが、その仕事に差を設けるのではなくて、とにかく人間の仕事と思えるようなことをどんどんやっていくのが自分を前に進める1番大事な気持ちなのではないか。稼げるか稼げないかではなく。

本を読むのだって仕事。
自分の興味のある土地へ出かけていくのも仕事。
それは、自分自身が人生の側から託された宿題のようなものです。人生があなたに働きかける夏休みの宿題のようなもので、それを課された感じがするのであれば、それはもうあなたの仕事なわけです。

鴻上尚史さんのエッセイに触発されて、こう思うようになりました。つまり正解の側にいようと思うのは邪魔でしかないと言うことです。

それが世の中的にレアであろうが、レアでなかろうが、そんなのも雑音です。レアな業界で幸せになることもあれば、レアでない世界で幸せになることもあります。そんなこと、誰もやってないよということが関係はしないのです。幸せになるかどうかにはね。

ところで、以下の記事を以前書いたのですが、ちょっと関連するから再録しておきます。

➖➖➖➖➖

ネコの体は面白い。
チーターやライオンなど、ネコ科の動物特有の筋肉の付き方をしている。
首を動かさないで、前足と後ろ足、全身を油断なく運ぶ。
ネコは歩いていても、目の高さが動かないそうだ。だから、猫の顔や目ばかりみていると、その分肩の筋肉などがずいぶんとやわらかく上下し、しなやかに動くのがよけいに分かる。

家の猫を見ていると、
「猫の体ってのは、ずいぶんとやわらかく、しなやかに動くのだなあ」
とあこがれに似たような気持ちが出てくる。

ネコが、自分の体の重心を自由にあやつりながら、身体を移動させたり動かしたりする元には、丈夫でしなやかな骨格がある。その骨格に筋肉がついており、それを伸ばしたり引っ張ったりしながら稼働させているわけだ。

なぜこんなふうに意識する癖がついたかというと、先日、ある大学の教授の研究室を訪ね、ちょっと話をしたからだ。
その教授は日本でも珍しい方で、骨格標本をつくることのできる教授らしかった。この教授は骨の専門家なのであった。
私はどういう風の吹き回しか、職員の研修でこの方と会うことになった。

この教授は骨を見て毎日暮らし、骨をつくって日がな一日過ごす。
「骨をつくる」というのは、なかなかふつうの人がやることではないが、要するに動物の死骸を引き取って、そこからあらゆる骨を取り出すのである。

「筋肉が邪魔でしてねえ」

その教授は本当にめんどくさそうに言うのである。

「わたしは骨しか要らんのですよ」

教授は長年の研究の結果、もっとも筋肉を溶かすのに向いているものを発見した。それは、入れ歯をきれいにするためのいわゆる『ポリデント』という商品だそうだ。
他の化学薬品では骨が傷みやすく、ダメだそうである。

「骨までもろくさせてしまうのでは、ダメなんです。骨は残したいが、筋肉は要らん。そのバランスですよね」

教授はいかにポリデントが優秀かを力説するのである。
たしかに、教授の机の横には、ポリデントが段ボールに詰まって大量に置かれており、

「このポリデントで、次はどの骨を取り出しましょうかね」

とにこにこした。

教授はもう毎日のように骨を取り出すためにポリデント溶液をつくり、動物の死骸があると聞けば、すぐに駆けつけてそれを貰い、ひそかに大学構内の自分の研究室まで運んで、たちまちにして骨を取り出すのである。

教授の目下の悩みは、その教授が担当するゼミに、学生が寄り付かないことらしい。

「がいこつ教授、なんてあだ名をつけられましてね。たしかに筋肉を溶かしているので研究室はかなり臭いし、わたしはもう慣れっこで、その異臭の中で弁当なんかも食いますが、ひとり減りふたり減り、とうとう今在籍している学生は、校内広しとは言え、たった1人なんです。この1人が将来、あとを継いでくれる保証はなし、頭の痛いところですよ」

わたしはなぜ、この教授が大学でこんな奇人めいたことをしているのか、分からなかった。
しかし、このときに教授がこの日本でたいへんに価値の高い人であることが、判明した。

警察から電話がくるのである。
ドラマのようだが、事実なのだ。
人骨か否か。
それを正確に判断できる人間が、この世にはなかなかいない。

警察から持ち込まれた骨。
それを教授は神妙な顔つきでみる。
判断は素早い。

「ハクビシンの足の骨ですね」

警察はホッとして、深々とお辞儀をして去る。

・・・そうである。

教授はもう自分がそういうレアな人種であることを自嘲気味にほのめかして、
「ハクビシンはもう、かれこれ五体以上はポリデント漬けにしてやりましたよ」
と、口元をゆるめて言うのでありました。

わたしはその研修というには中身の濃すぎる「研究室訪問」を終えて思うのには、
「後継者問題というのは、どこにでも存在しているのだなあ」
と、深く感じいったのでありました。

骨を研究する人が、日本にはいなければならない。
それが人骨かどうかを、即座に判断できる人も、この世にはいた方がいい。
しかし、そんなレアな職業をめざす若者が、いない。

レアな方が、よいのではないか?
これからの生き方として、レアな方が、生きていく場所ははっきりと固まる気がする。
若者よ、どう考える? 将来をえがいている最中のキミは、大勢が集う道を歩くのか、それとも人がめったに寄り付かない、道かどうかもあやしいような道を、レアな人材になるために歩くのか。

わたしは、レアな道がいいような気がする。
これからの時代は・・・。レアな方が。
たしかに、レアは、たしかに見えにくい。社会からも、見えにくい。
『パッと見』では、発見されない。世の中は、その他大勢が多すぎる。
しかし、一見わからないのだけれども、検索すればたしかにヒットするのが、レアな立ち位置だ。

若者よ、レアを選べ。

人の経験しない道を行き、人の経験しない場を見て、人の経験しない体験を積め。

その教授は、たった一人の研究ゼミ生のために、弁当を取り寄せ、論文も懇切丁寧にみてやり、院への推薦も保証し、ありとあらゆる親切をはたらいているそうである。

「しかし、彼は、ここでは弁当を食わんのですよ」

教授はタイガーのポットからお湯を汲み、お茶をいれて飲みながら、ため息をつくのでありました。

いやはや、人生は深いですナ。

pori






家庭の三つの役割

「家庭が担うべき役割は、次の三点に集約されます。

(1)数多くの過ちを許容する場としての機能
現在の能力で「達成可能なこと」だけをこなしていても、人間的な伸長は望めません。
挑戦と試行錯誤のプロセスを経てこそ、深い洞察や理解は深まるものです。
失敗とは、「より実りある人生を送るためのデータ収集」にほかなりません。
挑戦を避けること、それこそが最も避けねばならぬ失策と言えるでしょう。
家庭は、失敗を許容する場でありたいです。

(2)多様な性質を受け入れる場所としての機能
人は皆、生育環境も思考様式も得意とする分野も異なります。
その「相違点」こそが、知識を得るための源であり、世界観を広げる鍵となります。
「皆が同じであるべき」ではなく、「それぞれが違っていて良い」のです。
まずは親が我が子を他の子と比較したり、似せようとしたりしないことです。
比較しようとしなければ、子どもに他者との違いを尊重し合う態度を育てることができます。
これは、今後の社会を生き抜く上での土台となります。

(3)社会全体をより良くするための基盤であること
幼少期は、試験に合格するためだけに存在する時間ではありません。
それは、社会に存在する課題と真摯に向き合い、より良い未来を創造するための原動力です。
人生は学ぶことの連続です。家族全員で「学ぼうとする姿勢そのものを学ぶ家庭」であってほしいと願っています。
結局のところ、
「人間とは、生まれながらにして自由で尊厳ある存在である」
この真理を、精神と身体に深く刻み込む場所、それこそが「家庭」なのです。

animal_chara_gorilla_family

5時になると変わるもの

それは、ビジネスマンとしての意識と、家族や家庭の中の養育者としての意識です。

この切り分けが難しい。
あるいは変身するのが難しい。
企業で競争したあと、家に帰宅したら、養育者にならなきゃいけない。

競争の意識から、養育者の意識に変換されなきゃいけない。これが難しい。帰宅するときの電車の中や車の中で、駅のホームで、じわじわと自分の意識が180度、変わらなきゃいけない。

ビジネスマンで競争していた人が、そのままの競争式で子供に接すると、おそらく余裕は無い。
脅し文句が多くなる。〇〇しないと、だめだ、と強く成果を求めるようになる。これは当たり前だ。夕方5時や6時まではその意識だったんだから。

もっと効率よく成果を上げろ!

親からプレッシャーをかけられた子供は、失敗は許されないと感じるとともに、相手が弱くなれば良いのだ、見た目の点数が上がれば良いのだと、自分を守るための、卑怯なメンタルまで持つようになる。

学校のクラスの友達で、成績の良い子が風邪で休むと、今度のテストで順位が上がると喜ぶ子。

1000円あげるから、俺の宿題やってよ、と、金で労働(宿題などのハードワーク)を買う子。

これは、市場原理をそのまま、学校や子育ての現場に持ち込むと、始まる病理です。

非常に大きな勘違いなのは、欲しいのは学力ではない、必要なのは、いわゆる学力ではないと言うことです。
ところが、親は、見た目の学力を欲しがります。これが親のビジネスモデルなのですが、その結果、効率よく子供の商品価値を上げようとするわけです。

ところが、大事なのは、

「市場で勝つために必要なのは、単なる学力ではなく、失敗から立ち直る力(レジリエンス)や創造性だ」

と、いうことです。
この失敗から、立ち直る力は、叱咤激励だけでは生まれないわけです。たとえ傷ついたり破れても、一旦ベースキャンプに戻って、傷を癒し、自分の力を蓄え直して、作戦を練り直して挑むことが大事であり、諦めずにチャレンジすれば、新たな価値を創造できるのだと言うことを、温かい家庭から学ぶしかないのですね。

これは体験するしかない。

養育者に必要な視点とは、このように時間的にも気持ち的にも、失敗する余裕を与えることです。
ところが、その養育者である親は、つい1時間前までは企業戦士だったわけで、顧客や株主に対しては、競争意識を見せつける必要があります。他社には負けない、他店には負けない、という、競争意識を受け入れて、その役割をスマートに演じ切ります。健全な市場原理と、経済的な競争は、今の資本主義社会では普遍的なものです。夕方5時までは少なくともこの意識が必要です。

家庭に帰ったら、失敗は逆に良いものになってくるわけです。その失敗を乗り越えるチャンスが生まれたからです。そしてそう考えられる余裕は、負けたら終わりだとする企業の意識ではなく、家庭の養育者と言う意識の中から生まれるわけです。

IMG_0960

年をとるとイライラする理由

スーパーの駐車場で、パパ、パパーッと連続してクラクションが鳴りました。
私は店を出てすぐだったので、ちょっと離れたその景色を見ました。
すると、若い女性が子供の手をひいて、入り口の方へとこちらへ向かってくるのでした。
そして、クラクションを鳴らした車は、その女性と子供が邪魔だったのでしょう。

とっても、イライラしたようなクラクションの鳴らし方で、私は女性が何かとんでもなくひどいことをしたのかと疑いました。

私の目の前で、おばさん2人が、何あれ?、と言いました。

わかりません。
子供が何か危険な真似をしたのでしょうか?
それとも歩き方が単に遅かったのでしょうか?

それにしても、強引で、圧迫感のある鳴らし方でした。ついそちらを見てわかったのは、運転していたのがおじいさん?だったことです。

60代か70代か。

どうして、あんな風にイライラしたのか、わかりません。
でも、ほんの少し、おじいさんの気持ちもわかる気がします。

もう、自分の人生を振り返って、マイナスの方が大きいんだと思います。
楽しいことも少なかった。苦労ばかりした。
それに引き換え、報われることの少ない人生だった。悔しくてならないんだろうと思います。
誰も自分のことを尊重してくれない。
誰も自分に良くしてくれない。

そういったマイナス感情が積もり、積もった場合は、その矛先は他人に向きます。DVと同じで。
また、自分よりも強い相手には向かいません。
自分よりも弱そうに見える、おじいさんには、そう見える相手に向かうのです。実際にはそうでなくても。

ただ、おじいさんの気持ちになってみると、とにかく自分には時間がないから、目先のことだけよくしてほしいと言う気持ちにもなるかと思います。遠い将来のためになんて言う政策は嫌いで、持続可能と言うのも嫌いです。他人の将来なんて関係がない。とにかく我が身が気持ち良ければ良いと言う感覚でしょう。

残りの人生がハッピーであれば、世界全体の持続可能なんて、そんなことまで考慮しなくても良いと言う極端な考えの人も中には混じっています。めったにいないと思いますが。そういう考えの人がいる可能性はあります。中には「俺の言う通りにすれば良いんだ」と、話し合いまで拒絶する人も。

民主主義はとにかく時間がかかりますが、それは大勢の意見を公平に聞こうとするためです。
このプロセスがあまりにも効率が悪いとして、矢継ぎ早に効率よく政策を進めたがる人もいます。その方が効率が良いと。良い政策であれば、自然とその良さが後でわかるんだ、と。

しかし、その強引さは、かえって非効率になります。大勢の人の気持ちがついていかず、共感を得られず、協力してもらえないから。

日本の国がマイナーカードの普及に相当苦労している様子を見て思ったことがあります。これは進め方のプロセスにかなり問題があったなと。
国民に大いに理解、共感してもらえてから進めていけばよかったのです。いろいろな疑問点やそのことが果たして良いことにつながるかどうかと言う確信が、国民の間にまだまだ生まれてきていない状況で、ポイント、還元等と言う目先のにんじんをぶら下げるような政策は不評を買いました。よくないことを強引に進めようとしていると言う感じや印象が広まってしまったのです。効率よく進めたい、そのことに溺れてしまったのだと思います。そうではなく、民主主義のプロセスを踏めば良かったのです。そうすれば最初は時間がかかるように見えても、共感を得てたちまち広がったでしょう。

民主主義は非効率に見えて、かえって短期的な快楽に溺れやすい人間の思考を抑えてくれます。
公平に意見を聞く態度は、一見すると非効率に見えるが、多くの人が考えのプロセスを共有できるために、多くの納得が生まれます。そのため、かえって効率の良い進め方となるわけです。民主主義は一見非効率だけど、実際には効率的と呼ばれています。

クラクションを鳴らすおじいさんにとってみたら、話しかけて、もっと早く歩いて欲しいとか、危ないですよとか何とかやるよりも、パパーッと鳴らして、脅かしてやるのが効率的と思ったのでしょう。おじいさんの虚栄心は、それで満足しましたが、それを見ていた多くの人たちの気持ちは、ずいぶんざわついたと思います。おじいさんは、そこまで俯瞰的に見ることはできないのです。

クラクションを鳴らして脅かしてやれ!
こういう、「相手の心情などどうでも良い、すぐに脅かせば良いのだ」する権威主義は、俺が権威なのだから言うことを聞けと言うことです。
女子供は黙って家に引っ込んでいろと、極端に考える人までいます。

政治家が目の前の事しか見えなくなってくると、やけに勇ましい口調に変わりますね。統率したがる、命令したがる、自分は偉いんだと言いたがる、部下に、あれこれやらせたがる、椅子を引かせたり、ドアを開けさせたりします。極め付けは民主主義の悪口を言い始めます。遠回りだけども、本当は効率的である民主主義を馬鹿にし、権威主義になっていくのです。

こういう政治家が増えると、その結果、権威の言うことさえ聞いておればよい、と考える人が増えます。これは短期的に見ると楽で簡単に世の中を変えていけますが、長期的に見ると、自分がこの国を支えるんだと言う愛国者は激減します。どうせこの国のやることなんて、と他人事でつまらないと感じるようになり、自分の国だと言う感覚が薄れて、国力は落ちていくでしょう。「女子供は家に引っ込んでろ」の家父長制度と権威主義は、まさに国を滅ぼす考え方だと言えます。

女性の天皇はまかりならん、と強く、憤るおじいさんもいます。何故かと問い詰めていくと、自分が男性だからと言う理由です。アホらしいです。

それでも、私だって、我が身を振り返ると危険なんです。
もうすでに、50代半ば。
あと何年かで還暦です。
完全に中年のオヤジであり、どちらかと言うと、家父長制度のような権威主義の誘惑を感じることだってあるのです。
私が一言言えば、全員がその指示を受け入れ、統率された動きを見せるなんて!すげえ!と、誘惑にかられますね。本当はめちゃくちゃ気持ち悪いけど。

権威主義という誘惑に負けたおっさんたちの、いわば、最後の砦が、そろそろ崩れようとしています。それが選択的夫婦別姓です。

IMG_7672

高市総理への期待

私がブログを書き始めた20年ほど前、叱らないという言葉の響きに大変大きな反響がありました。

女性の先生からは、賛成の声。
男性の先生からは、反対の声。

なぜだろうなぁと当時から不思議でした。
男性の先生は、声の大きさもあるし、ピシッと統率するのが大好きな先生が多い傾向があると思います。これは私の勝手な偏見ですが。偏見としてそう思います。もちろん、そうではない先生方もたくさん知っています。私の尊敬する先生は、男性の先生もたくさんいますが、まったく横暴ではありません。

女性の先生は、どちらかと言うと、子供の言うことを共感的に受け止めながら、今ふさわしい方向性を明らかにして協力していこうと諭すタイプが多いと思います。

私が提唱している【叱らない】というキーワードに、反応が多かったのは、男性の先生です。

◯そんなバカな
◯統率できないではないか
◯子どもがそれでは育たない
◯あなたの主張は、教育界に大きな不安を押し付ける
◯不安になることを言うな
◯そんな迷い言を言うと新しい先生たちが迷ってしまうではないか
◯子供のしつけを舐めるな

どちらかと言うと、感情的で説得力がなく、私のセリフをお前は新人だからと決めつけて脅すような言葉が多かったです。

これはまぁ想定内でした。
これまでの教育はほとんどそうでしたからね。
私は、そこにアンチテーゼを唱えたかったので、世間の反発があればあるほど、あぁこれは本当に必要な提言だったのだなぁと自分で考えておりました。

予想外にありがたかったのは、主に女性の先生たちからの私もそう思いますと言うご意見でした。雑誌の編集者や、大学の先生からも、メッセージをいただいたことがあります。その編集者も大学の先生も女性でした。もちろん、応援してくれる中身であり、内容でした。


要するに私の意見とは、女性的だったのです。
これは、他人をコントロールしたがると言う男性的な考え方に対して、コントロールされる側ではなく、自立した決定権を持つ人として、人の尊厳を大切に考える女性的な考え方の意見だったのです。

そんな考えを唱えたものだから、反発されました。私のことを若い女性の先生だと勘違いしている人もたくさんいました。30代で転職したおっさんなのに。
男性の先生たちから、特に中年以降のベテランだぞ!と自分のことを言っているような男性の先生たちから、批判を浴びたのです。

あまりにも、コメント欄が炎上するので、明治図書の運営していたEDU BLOGからは撤退をすることにしました。私の意見も擁護してくれていた女性の先生が、コメント欄で誹謗中傷されるようになってしまったからです。これは見過ごしてはいられなかったので。

今なら、もっと賢い運用ができたかと思いますが、私としては、当時は、緊急処置として閉鎖せざるを得なかったのです。

また、記事をアップする際に、記事の後半は希望者しか見られないようにパスワードをかけたりもしました。
今、現在も、パスワードを入力しないと読めない記事が過去の方にはずいぶんあります。これはその時の防御反応でした。

時代は進んできました。
選択的夫婦別姓も、頑なに認めようとしなかった人たちが、徐々に認め始めています。
同時に、小学校や中学校でも、大声を出して、威圧的に子供たちを統率しようとする教師は格段に減ってきました。

そこに来て、女性天皇も、認められる機運があります。そもそも推古天皇は女性でしたし、アマテラス大御神は、女性です。

とどめは、女性総理大臣の誕生です。
私はこれから世の中がさらに明るくなると思います。高市早苗総理が、女性の生きる権利を、しっかりと保障してくれると信じます。

ただし、夫婦別姓について、高市さんはなんだか後ろ向きな気がします。私はそこが残念でなりません。しかし、きっと、世の中はそうなっていくと思います。なぜなら、それが女性にも男性にも生きていくのに楽で楽しい世界だからです。
その自然の摂理や理(ことわり)に、抵抗しようとすれば、必ずその反動があり、苦しい目に遭うのです。

高市早苗先生、期待しています。

FullSizeRender

それをすると、どうなるか、という指導法

それをするとどうなるのかを考えられること。
子どもがつける力のうち、1丁目1番地がこの力です。

様々な子どもがいます。
あらゆる状況環境に置かれている子どもたちです。必要な支援の行き届かない子どもたちもたくさんいます。すべての子に行き届く支援が必要なんです。全員に、つけてあげたい力です。

例えば。
ここにものを置いたらどうなるのか。
床の上にものを置いたら、35人もいる教室で、誰かが間違って踏んじゃうのではないかと考えられるということ。
机の端っこにギリギリで牛乳瓶を置けば、何かの拍子にそれが落ちるかもしれないと考えられること。

こういう事は、人生のあらゆる所作の積み重ねで学習していくことです。
ところが、そこでの学習が行われない限り、何度も同じ失敗を繰り返すことになりがちです。

実際に、学級には、1週間に1回は牛乳をこぼす子もいます。

友達の耳元で大きな声を出して、友達がびっくりした顔をするのが大好きな子もいます。もうやめてとお願いをされているにもかかわらず、面白いからとそれを何度もやろうとする子。

自分の筆箱を床に置いて、誰かが踏んづけたら、その踏んづけた子を徹底的に責めようとする子。

これを見逃す教師はいないと思います。

たいていは、どうして床の上に筆箱を置いたのかを責める口調になり、それを延々と指導しますね。
ところが、何度も繰り返すんです。
これで、先生たちは疲弊する。

だからそのような指導はしません。
牛乳瓶を1週間に1度はこぼしてしまう子、机の端っこに置いたらだめだよと指導してもそれは繰り返される。つまりこの指導はポイントを外しているわけ。

友達の耳元で大きな声を出したらダメだよ。友達が困っているよ、と伝えてもそれを繰り返してしまう子。
耳元で、大きな声を出すのはダメ!絶対!禁止!
と、何度伝えてもそれを繰り返す。
つまり、この指導は、何かを根本的に間違えている。

ここでヒントになるのは、子供の中に何を育てようとしているのか、教師側に本当の軸があるのか、ということ。

大事なのは、脳の中の記憶事項を増やすことではない。

それに頼っていると、ワーキングメモリの少ない子は、もう覚えることがいっぱいで追いつかない。

ワーキングメモリーだのみの指導は、限界を迎えやすいのです。

床に筆箱を置くのはダメ、これで1つ覚える、耳元で大きな声で叫ぶのはダメ、これでまた1つ覚えることが増える、牛乳瓶は、机の端っこに置いてはいけないと言うのを覚えるので、これでまた1つ覚えなきゃいけないことが1つずつ増えていく。子どものワーキングメモリーは、それでパンパンに膨れ上がる。

ワーキングメモリー頼みの教育は、いずれ失敗します。

この時に必要な指導は、たった1つ。

【◯◯さんは今、それをしたけど、それをすると何か良いことがありそう?】

例えば、床の上に筆箱を置いたままにしている子。そこに置くと何か良いことありそう?と質問してみる。

すると今までそんな事は考えたことがなかったと言う表情をする。

それをすると、どうなるか?
それをすると、どんな良いことが起きるか?

これまで、そんなふうに考えた事はなかった。
だから、不意を突かれた表情になる。

それをすると良いことがあるのかと言う質問に対し、まゆをひそめ、わからないと答えるか、あるいは首をひねるか。

「え?別にない」

たいてい、その子は、良い事は起こらないかも、と言う。

そこで、そこに置くと、誰かが踏むかもしれないよ?と、初めて新しい情報を伝える。

◯◯になるかもしれない。

これは未来予測です。
未来予測と言う脳の働きは、非常に高度です。
周りの状況をよく見ていないと、未来予測はできません。〇〇してはいけないと言う紋切り型のワーキングメモリーばかり消費する脳の働かせ方とは全く違う、脳機能の高度な使い方です。

35人以上の子供が1つの教室と言う空間に、お互い協力し合いながら生きている。大人でも35人の人とともに給食を食べたり、掃除をしたり、グループで学習活動していれば、あれこれと未来予測が必要です。子どもは、まだ、トレーニング中ですから、未来予測を何度も練習するのです。

それをすると良いことがあるの?

という質問は、子供の未来予測をする力を育てます。これは思考力です。ワーキングメモリーを消費するのではない、新たな脳の使い方の指導なのです。

友達の耳元で大きな声で叫ぶのを楽しんでいる子に、何か良いことがあるのと聞くと、楽しいと答えます。あぁそうなんだ。楽しいからやっているんだね、とまずはその子の気持ちを受け止めます。するとそうだ。僕は楽しいからやっているとそこまで思考が進みます。そうなって初めて、次に進むのです。次のステージに進めるのです。

でもその子は困っているんだよ、やめてとお願いしているよ、と初めて現実に気づかせてあげるのです。

友達がやめて欲しいと言ってることをするのはだめです、と、きっぱりと伝えます。あなたは楽しいからやるんだけど、友達が困っていたらやってはいけないのです。納得した表情をします。

なぜこの子が納得できたかと言うと、僕は楽しいと思ってやっているんだ、この行動は、僕が選んだ行動なのだ、と理解が始まるからです。
人間と言うのは、反射的に過ごしているのではなく、思いつきで、感情的に動くのものではなく、何かしらの考えがあって、それを行うのだと言う基本が身に付いていきます。このことが理解できないと、自分の身をコントロールすると言う気持ちには全くなっていきません。

IMG_0913






新しい国家のあり方〜津田出(つだ・いづる)

自公連立が解かれ、新しい時代に、どうやら進みそう。

私が興味があるのは、明治維新です。
新しい国のあり方を探るために、岩倉使節団など猛烈な動きが起きました。モデルを探し回ったのです。青写真が欲しかったんですね。国家の。
これから、新しい国を作っていこうとするときに、いろんな国を見て回って、こんな国家がいいなと言うふうに探し回るわけです。

今の政府にも、もしかしたら、青写真が必要なのかもしれません。国家の。いや、すでにあるんだけど、今だけ見失っているのか、あるいは忘れているのかも。

教科書には載っていませんが、和歌山県から出た津田出(つだ・いづる)という人がいます。
西郷隆盛がこの人のところに行って、あなたの言う通りに国家を作りたいとお願いした話はとても有名です。

この津田さんは、青写真を頭の中にちゃんと持っていたんですね。
偉いですな。こんなふうに先を見通せるというか、ちゃんと理想があると言うのはすごく大事ですよね。方向が見えてきますから。

今のZ世代と呼ばれる若い人たちは、俺たちがこれから目指す世界はどんなんだろうと、ちゃんと考えていると思います。

きちんと話し合いができる国。
少しずつ進むことを軽視しない国。
「あいつのせい」だと他責の思考で進むのではなく、相手と協力できる点を見つけようと日々、努力する国。
勢いと扇動とスローガンで進むのでなく、そのスローガンで置き去りにされてる人がいないかを気にする国。


国、を、クラス、や、学級、と言い換えることができます。
今、小学校では、大きな声で叱りつける先生はほとんどいなくなりました。
ようやく、絶対王政から、脱却できた気がします。16世紀から、21世紀へ。ようやく。

明治の偉人、津田出が取り組んだのは、職業選択の自由を認める、という改革でした。
メガトン級の革命政策だったらしいですが、人々はすんなりとそれに馴染んだそうです。
歴史は、正しい方向に進むと、すんなり、なのですね。誰も苦しくないからだと思います。

苦しい人がいたら、必ず揺り戻し、やり直しが起こるのが、人間の歴史だそうです。

IMG_0850



高石自民党総裁は、理想派か現実派か?という問い


あるお医者さんが書いていました。
以下の通りです。

『これから高石さんは、アベノミクスを継承し、サナエノミクスをするという。ところが、円安・株高は、ちっとも庶民の暮らしを良くしないと言うことが安倍さんの時代に証明されてしまった。
ゴールドや株を買えるような富裕層だけが儲かるのであって、庶民の財布は、ちっとも暖かくならなかった。

安倍晋三さんは思いっきりこの政策を進めたので、ある意味社会実験のようなことになった。実験の結果がはっきりしたために、かえって日本国民も潔く、このことを諦めると言う方向に進むべきだと思う。

私は庶民の財布事情が良くなれば、それは広い意味で一番大きな巨大な推進力となり、国防につながると思っている。日本人が豊かになり、その経済力でヨーロッパのものや中国のものや韓国のもの、そしてアメリカのものをたくさん購入できるようになれば、日本を疎んじる国はなくなる。
相手にとって、大切なお客様だからである。庶民とは、そういう感覚で生きている。

サナエノミクスを進めたらおそらく日本は誰からも不要な国と思われていくだろう。それは国を守るどころか、全くの逆効果にしかならない。国防力は減衰していく。

昔の自民党は、法人税をたくさん取った。
それは理屈があったからだ。昔の自民党は日本中に豊かな会社をたくさん増やそうとした。そのため利益の上がらない会社からは税金を取らないようにした。破産させてはいけない。従業員を守ろうと考えた。そのため、利益の上がらない企業からは税金を取らない仕組みにした。それが法人税である。

そのかわり、利益をきちんと上げている会社からは、法人税を取った。消費税は不要であった。庶民が大企業で働いて、その大企業が豊かになって繁栄し、利益を上げた場合にのみ、そこから社会に還元していたのであります。利益が上がらない場合には、税金は取らなかった。そこがはっきりしていたから、会社はどうせ法人税で取られるんだから、従業員の給料を上げようとも考えた。

今の自民党は、昔の自民党とは真逆であります。新しい自民党はアベノミクスを採用しましたが、昔ととは真逆の政策でした。それでも社会にきっと還元されると言う謳い文句だったが、やはり当初の懸念通り従業員の給料を上げようとする会社は少なかった。アベノミクスは、実験としては失敗に終わった。

今こそ、昔の自民党の時代に戻るべきです。田中角栄の時代に戻って欲しい』

・・・と。

このお医者さんと同じような考え方の人は、今の世の中に多いのだろうか?と、私はそこが気になる。

もし多いのであれば、自民党はそういった庶民の声を聞いて法人税率を上げていくんじゃないかと思う。
しかし、現状では、そんなふうに見えないから、やはりこのようなお医者様の考え方はごくごく少数派なのだろうと思われる。

高石早苗さんは、理念と理想を高く掲げる理論派だと思う。断固として、妥協許さない。諸外国に対しても、理念は絶対に負けませんと言う誇りの高い政策を取る。

それに対して、このお医者さんのような考え方は、実に現実的で、庶民感覚、人間感覚である。

これは、喫茶店のマスターに聞いた話。
コーヒーを買い付けに来た日本人を、ホンジュラスのコーヒー農園の主は、日本人は、友達だ。日本がさらに豊かになって繁栄することを願っているよとメッセージをくれていた、と。

それが当たり前の普通の感覚だと思う。

お客さんを大事にすると言う人間心理に基づくものだ。理想派か、それとも現実派か、と言えば、こちらの方が現実派だと言えよう。

さて、理想派が勝つか、現実派が勝つか。
世の中、どちらが優勢か。
これまで54年間生きてきた経験を振り返ると、どうも現実派の方がやや優勢だと思うけどなぁ。

IMG_0844

1年ごとに子どもは成長する

1年生と2年生は全く違うし、2年生と3年生もものすごい違う。

子供は1年経つと、こんなにも変わるかと言う位に成長する。
時間軸を短めに取り、1週間でみても、かなり変わっているのだと思う。本当は。

子供は音を立てて成長していく。

昨日は運動会だった。
6年生を見ると、なんでこんなにも背が高く、なんでこんなにも足が速いのかと驚く。
また、キビキビと準備を手伝う6年生。
指示を的確に聞き、少しずれていたら自分で直してくれる。
6年生だなぁ、すごい気がつくようなぁと思う。


今年は本当に久しぶりに1年生から6年生までが一緒に午前中の4時間余りを共に過ごした。
1年生は、他の学年の競技を全て見ることができたし、コロナ禍のために中止されていた、おそらくほとんどの見たこともなかった大玉送りを全校でやることができた。

大玉に空気を入れて膨らませていたら、4年生の子がやってきて「何この玉!」と言ったのが職員室で話題になっていた。
4年生の子ですら、見たこともなかったのだ。
「こんなの、学校にあったの?知らなかった」

職員の先生たちだけが、6年前を知っている。


現在の小学6年生は、2020年度に1年生、2021年度に2年生、2022年度に3年生でした。
彼らが小学校に入学した2020年以降、学校生活の多くが制限下にあったため、全校生徒が一堂に会する従来の形式の運動会を経験していないのです。これは、おそらく全国的に見て珍しいことではないように思います。

2年前からは、コロナもだいぶ落ち着きを見せていた。そこで午前中開催と午後開催に分け、3学年ずつの前半後半交代制で行っていた。
そこでやはり一年から6年生までが全て揃ったわけでは無いから、大玉送りなんてやらなかったのです。

一番面白かったのは、綱引きで、これも1年生の子たちが興味津々で大縄を見て叫んでいたことですね。私が担任している3年生も、なんだあれは!と驚いていました。

こうしてみると、コロナウィルスが人間の生活や成長に大きな影を落としていたことがよくわかります。

6年生は確かに手際が悪かったです。しかしあの子たちは初見なのです。小さい時から見慣れていた光景だったら、どんなふうにやればうまくいくか、先輩の姿が確かに頭の中に残っていて、もっとうまくやることができたでしょう。

でも、私はその手際の悪さを責める気にはなれませんね。上手にはできなかったでしょうけど、その場で色々と気がついて、何とかして進めようとしてくれていました。10年前の運動会を知っている先生たちからすると、モタモタしているように見えても、誰もそんなことで腹を立てる先生はいません。彼らは初めて見たものに、一生懸命取り組んでいたのです。

片付けの時、いい光景がありました。
大縄は、引きずってしまうと、土ぼこりでものすごく汚れてしまうので、空中に上げて、そろそろと片付けるのですな。
すべての競技が終わった最後、その大縄が運動場にビヨーンと伸ばされ、3メートルおきに、子供がずらりと並んで、綱を泥汚れから守るために、一生懸命に空中にあげている姿は感動的ですらありました。

でも、みんなの顔が笑っていましたね。
生まれて初めてやることだから、楽しいんです。
何回もやったから飽きちゃったよと言う雰囲気はしませんでした。だから、今年の運動会は、なんだかいつもよりもとても楽しく微笑ましく感動的でした。

思うんですが、あれが楽しかったから、またやろうと言うのは時折やめてもいいんじゃないかと思いますね。0から考える、1から考える。そういう運動会があってもいいんじゃないかと思います。

私がやりたいのは、靴飛ばし競走です。
誰が1番靴を遠くに飛ばせるか。
令和の子供はやったことがないと思いますから。

私は職員会議で必ず出すのですが、却下されています。先生たちみんな笑顔になるんですけどね。お約束の冗談だと思われているみたいです。

FullSizeRender

自由研究あるある

私の住んでいる自治体では、夏休みの課題として理科の自由研究を出します。

おそらく日本中で自由研究は、子供たちが取り組むことになっているでしょう。

これは各家庭で非常に捉え方が違い、それぞれ個性があり、ユニークで私はとっても大好きです。

お家の方と一緒に熱を上げて作ったと思われる作品は見ていて、心があったかくなります。

また、おそらくおうちの方針で、子供にとにかく最後まで自力でさせると言う作品もあります。
これはこれで全て子どもが自分の発案と自分の労力と、自分の時間のかけ方で勝負するわけで、これまた味のある良い作品が多いです。

ある子はゲームばかりやっているので、親が自由研究のことを心配したところ、

「お母さん大丈夫だよ。敵の倒し方を研究するんだから」

と言ったそうです。

そして、実際に、

①主人公の能力の上げ方
②パーティーの組み方
③バトル時のマナーと戦略
④アイテム一覧と、自分の推しアイテムとその理由
⑤ストーリーを進める中で、最も心に残った出来事
⑥最も幸せだったと思うエピソード
⑦このゲームは、買いか、否か

と言うので、超大作を作った子がいました。

理科の先生に怒られていましたが(なぜなら、理科ではないので)、研究の着眼点や検証の進め方などは、とても合理的で、対象となる敵を分野ごとに分けたり、スムーズに勝つための最も合理的とされる方法について、推論を立ててみたり、実際にそれを行ってみて、比較検証をしたりするあたりはなかなかのものでした。

その子は、スズメバチが好きだったので(なぜなら最強の虫だから)、同じような合理的な結果の導き方をスズメバチの研究で発揮すれば、おそらく県レベルで優秀賞を取ったでしょう。

とまあ、いろいろな研究があり、私は職場の数少ない楽しみの1つとして、放課後にゆっくりとコーヒーを飲みながら、その自由研究を全校のありとあらゆる教室のものを見て回ることにしています。

中には親が作ったのがバレバレのものもあります。

ところが、現場の先生たちは、みんなそんなことを一切責める気持ちはありません。
むしろ喜んでいます。
おそらく、その時間を親と子供で様々話し合いながら過ごしたのでしょう。
もっと子供と関わってほしいと、どの先生たちも思っていますから、親がそんなふうに愚痴をこぼしながらも、自由研究をダシにして交流するのは嬉しい限りなのです。

途中まで、自由研究の字が乱雑だったのに、後半のある部分はとても丁寧な字に変わってることがあります。
とても同一人物が書いた字には思えない。

ははぁ、中学校にお姉さんがいたナ、確か。

それもいいじゃないですか。
家族で協力した証なんです。
先生たちは、そんなことを全く否定的に捉えてはいません。

同じように、毎日の宿題をお姉さんが手伝ったとか、お兄ちゃんが手伝ったとか、親が手伝ったとか、普通によくあることです。いいじゃないですか。
孤独に苦しんでいるよりよっぽど良いです。
長谷川町子さんのサザエさんの漫画にも、カツオが口をとがらせて、
「お父さん、終わったの?」
と、ハチマキをしめてカツオの宿題を解いている波平さんを描いた漫画がありました。
もちろん、ほとんど99%の親は仕事から帰ってきて、直行で家事をしてそれだけで精一杯です。
とても宿題なんて見られないでしょう。気にもしていられないと思います。

先生たちはそんな事は期待はしていません。
だからできるだけ宿題は出さないようにしています。私はドリルやワークシートなどの課題は何とかして学校でたくさんやらせます。

宿題で出す先生もいますが、私は学校でやらせる派ですね。
なんとなれば、その方が子供のリアルな状況をしっかりつかめるからです。

ただし、いつも時間は足りません。
この時間を作り出すことを、これからもずっと苦労していくんだと思います。

IMG_7672
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ