30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

トランプ大帝国とゼレンスキー大統領

前回の記事で、学校から減らすものなくすもの、そして増やすもののリストをあげた。

そして、その最後に
【始めたり増やしたりするのは簡単だが、終わらせたりやめたりするのはめちゃくちゃ難しい】
と言うことを書いた。

すると、このことについて、私に直接メッセージくれた読者の方がいた。
確かに、そう思う、・・・と。
現にヨーロッパの戦争は、いまだに集結していないではないか、と・・・。

ホントですわ・・・。ゼレンスキーさんよ・・・。

人間関係のことを考えると、結婚もそうだろうと思う。
恋人同士になるのは、割と簡単で、その気になればすぐだ。
結婚するのも簡単だろう。その気になればスムーズなことが多い。

しかし、これを解消するのが難しい。
別れると言う事は、人間は非常に苦手なのだ。付き合い始めるのは簡単だが、それをうまく止めることが難しいと感じる人が多いんだろう。
昭和の歌謡曲だけではなく、万葉集の昔から、人は、過去に生きているために、未練もあろうし、寂しさもあろうし、あの時、あーすればよかったと言う後悔もあるから、やっぱりやめたくない、終わらせたくないと願うのが人間のようである。

子供の喧嘩も見ていると、あっという間に始まってしまう。
喧嘩を始めるのは超簡単なのだ。
これは、人間の認知能力が非常にもともと狭いもので、ある方向からしか物事を見られないために誤解を生じやすいから、致し方ない面もある。

しかし、人間がこれだけ2000年以上も、文明を発達させているのに、喧嘩を止める方法と言うのは、未だ開発されていないところを見ると、多分、私を含めてホモサピエンスには、そのことを思いつく基盤がないのだろうと思う。

基盤がないのだから、要するに、そんな事は、今の人間たちには無理なのだろうとさえ思う。

ちなみに、その方法を、今の時代に誰かが唱え始めたとしても、全く共感はされない。なぜなら、荒唐無稽で、そんなのは無理だと言う概念に違いないからだ。



さて、ウクライナの戦争は、トランプ大統領になってから、なんだか方向が変わってきた気がする。
特に、トランプ大統領がプーチンと直接話し合い、その場にゼレンスキーを呼ばなかったところを見ると、急転直下、物事が進むような気がする。

トランプは、セレンスキーやウクライナのことを考えず、どうやら戦争を終わらせようとしている。
おそらくプーチンにもそのまま占領した領地を認めてしまうのではないか。

セレンスキーさんは、亡命するか、どこかに身を隠すことになる。今やトランプの目の上のたんこぶだからね。

ゼレンスキーを含めた政府首脳がスイスに亡命し、ウクライナの戦争は、トランプの鶴の一声で終わってしまうのではないか。

領土問題はそのままだ。
ヨーロッパも文句は言うまい。誰もプーチンと渡り合える人がいないからだ。

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仮にそうなった場合の次の展開はどうか。

これはアメリカの独走が始まる。
中国はそれに対抗したいだろうが、アメリカは中国とどこまでも様々なチャンネルで脅したり懐柔したり譲歩したり責めたりしながら、なんとか付き合っていくことだろう。
中国政府は恐怖支配をますます強め、監視を増やして1984をさらに進めるだろう。見せかけの民主主義と共に。

人々の考えは、おそらく二分されていく。トランプのように、【即断する強烈な支配】を好む層と、【ゆっくりで良いから弱者に寄り添う】層と。

そして、どちらにも共通する欠点が、

一旦始めた喧嘩を止める方法が見つからない

と言う点である。

ところが、小学校のクラスには喧嘩を止める方法が実は存在しています。
社会学者も、憲法学者も、政治国際学者も誰も注目しないんですが、実は足元に解決方法はあります。

それがお互いに諦めるということです。

小学生、特に低学年はすぐに言いますよ。
「ごめんね」
「いいよ」

特に年配の先生はそれを聞いてぎょっとします。

え?
いいの?
それで許しちゃうの?
ほんとにいいの?

・・・ってね。

夕方になって、保護者にそれを電話で伝えると、

「え?子供は許しても私が許しません!絶対許せないです!弁償してもらっても絶対許しません!」

と、保護者からは文句が出ますけどね。

学校から、なくすものとふやすものをリストアップ

【なくす】
家庭訪問、紙の印刷、通知表の所見、使っていない備品、学校からの配布物、現金徴収、連絡帳(3年生以上)など
【へらす】
授業時数、会議、学年費会計の報告回数、ワークシート、職員室に保管する物、子どもが学校にいる時間、掲示物など
【うつす】
学校通信や学年通信は配信へ、文書は紙からクラウド管理へ、教材作成や健康診断入力などはスクールサポートスタッフへ、連絡掲示板はGoogleクラスルームへ、など
【ふやす】
研修の頻度、外部機関との連携、ChatGPTの活用、Googleカレンダー、欠席連絡・保護者連絡アプリ、職員室のフリースペース、教育書共有本棚、年度末の個人懇談、職員間のコミュニケーションの機会、オンラインでのコミュニケーション、生活科・総合的な学習の時間での地域との関わり


わたしはどちらかというと、最後の
【ふやす】が大事だと思うね。
それらが、不足しているから、保護者含めて子どもたちをとりまく大人たちが、苦しくなっていると考える。
だが、それを【ふやす】ためには、なにかを減らさないとダメ。

ところが、減らすとか無くす、というのは、とてつもなく難しい。

◯仕事を増やすのはかんたんだが、なくすのは難しい。
◯けんかをはじめるのは簡単だが、やめるのは難しい。
◎戦争をはじめるのはカンタン。やめるのが難しい。

↑ 人間が苦しんでいるのは、すべて、これですわ。


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努力して何かを成し遂げる、の怖さ

ブラック企業しか経験してないために、私の評価軸はかなり狂っているのかもしれません。
二十代は、本当に土日という概念がありませんでした。だって休日が無かったからね。

というと、大げさだという人がいますが、本当に1日も休まなかったのですから、これは他と比較しても誰も文句の言えないレベルのブラックだと思います。

さて、三十代は、ブラックでお馴染みのIT業界。その後もブラックの代名詞であります教員と。
ブラック街道を渡り歩いて参りました。

1番のブラックは、教員ですね。IT業界よりも畜産よりも編集よりも販売営業よりもイベント企画よりもブラックです。全部経験して、私自身が証人であります。なかなか世間に居ないかもね、それ全部経験、やった人は・・・。

いや、意外といるのかも?(いらっしゃったらコメントくださいませ。同じ教員という仕事について語りたいです)

さて、ブラック、の本質って何でしょう?

私が考える、ブラックをブラックたらしめるポイントとは何か。

一つは、しない方が良い努力をする、という点。
誰の得にもならない努力があり、正直に言えば、やればやるほど別の方向に行く、ということ。

で、長い人生を考えると、おそらくですが、その「ただしい方向」というのが怪しいのです。それも、Aの方向が正解なのにBを目指してしまった、ということではなくて。
そもそも、「ただしい方向がある」という強迫というか思い込みがすでに間違っている、というわけです。

多くの人は
なにか成し遂げると素晴らしいことがあるんや、この方向や!これがワイの夢なんや!
ということがあって、努力をしていると思います。

で、その方向を間違うと、えらく目的地から離れた場所に行ってしまい、こんなはずではなかった、と思うらしいですな。ブラック企業では、毎日、それが常態化してるのでしょう。

ところが、ブラックとは縁のない生き方をする限り、こんなことは「起こり得ない」のです。
無駄な努力をしない人は、方向なんて考えないのかもしれないんです。

どれだけ働いてもブラックにならない人は、わりと直観で、人間として間違ってない、という程度のことで進んでいる。

やるべきだ、で進まないから、自然に進みたくなるから、間違わないのですね。したがって、後から、こんなはずではなかった、とは断じてならない、というか、非常にそうは、なりにくい。最初から、後悔とは無縁なのです。最初から無縁、というのがポイントかなぁ。

つまり、多くの人が考えるところの、ああ成し遂げた!というのは、一体何を成し遂げたと言うのか、なかなか難しいということです。
もしかしたら、まったく成し遂げてはいない、ってことだってあり得る。
世の中を見てみると、後者の方がどちらかと多いのパターンなのかもしれません。

こう考えると、おそらく人間は、努力、という、なんだか野蛮で、はしたないことを、すればするほど、ズレるのかもしれなくて、

ただ、美味しい飯を食って、家族がいれば家族をささえながら、気分よく何かに取り組む、ということが進み方としては一番良いのかも。

私は血眼になるのは、人間としては面白いですから大好きで、血眼の人を見るのは好きです。
血まなこと言うのは、ある種のトランス状態に近い。
それに、自分も血眼になることは愉快なので時折、それをするんですが、それでも何かを成し遂げるために血眼になるのは、どこか強迫的で品がなく、拒否したい気持ちがありますね。病的な感じがして。「オレは大物にならなくては・・・!」という雰囲気の子が、ごくたまーにいるのですが、ハッキリいって、病的な感じがします。それがブラック、ということですからね。

美味しいカフェ・オ・レを飲みながら、気分よく勉強するのが、ブラックではない人の過ごし方であり、名誉か褒美か、そういう自分以外の何かになるための働き方をするのは、ブラックだと思います。

その意味では、私の二十代は、面白すぎました。もっとも洒落ていた、と今でも思います。
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基本、やらなくて良いことばかり

人生は、基本、やらなくても良いことばかりだろう、と思います。

とは言え、生きていくためにやるしか無いこともあります。
それは、原始時代の人間も、今の人類も、変わらずやることでして、すなわち衣食住のこと。
衣食住の基本部分について、ある程度自分でやれるのが一番で、それ以外は本当は人間がどうしてもやらなければならないことでは、無いのかもしれません。

小学校はそういう意味では、かけるべい時間がもっと衣食住に偏っても良い気がする。

これ、役に立つな!と、
本当に子どもが思えることか、あるいは子ども自身がやりたくて仕方のないことを、やるのですから、みんなやると思います。

さて、現役で教師をしていると、さまざまな親子をみることになるのですが、そういった、ある意味人間にとって原始的な行動をしっかりさせることが、その子のやる気を結局は伸ばすことになると、私は感じておりますね。

宿題、とか
勉強、とか
算数、とか
掛け算、とか、
英語、とか漢字とか。

そういう話題を子どもと話す前に、

食べること、とか
寝ること、とか、
パジャマが快適か、とか
洗濯するとどうなるか、とか
毛布のこと、とか
寒さとか暑さとか、
汗をかいた、とか
病気のこと、とか
この佃煮おいしいね、え、お母さん、つくだにってなあに?とか
残りご飯でチャーハンつくろかな、私も手伝うーとか
お風呂ってなんであんなに気持ち良いの、とか。
頭が上手に洗えたね、とか。

そういう話題でとことん話してますか、ということ。

おそらく、1対50000
くらいの比率で、宿題の話よりも衣食住の話をした方が、子どものパワーは上がりますよ。結果として学習の力もね。案外、遠回りが近道なのかもね。

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伝統的な校則?〜校則が複雑だと誰が得をするのか〜

近年、話題になってる、神社にお参りするときの「二礼ニ拍手一礼」を近所の94才のお婆様がご存知なかったことがショックです。

自治会の年度末の係の寄り合いがあり、待ち時間に駄弁っているときに判明したのです。

若い30代の男性が「二礼二拍手一礼を子どもに教えた」という話をしてたら、「地元の年寄りはそんなの昔は誰もやらんかったわ。今でもやりゎせんけど」と、その94歳の素敵なお婆様がおっしゃってました。

それを聞いて、みんな笑ってましたけど、たしかその場には神主さんもいたんだよね。普段着だったけど。否定してませんでした。

明治期、特に昭和になってから流行してるムーブメントのようで、伝統というわけではないようですね。私はてっきり伝統なのかと・・・。

さて、このように明治期に始まったものが「伝統」と呼ばれるのには違和感を抱くわけですが、江戸時代から、あるいはそれよりも前の神社はどんな雰囲気だったのでしょうか?

まず、今のような二礼ニ拍手一礼、などと言うような決まった作法を、江戸時代の人はそれぞれ持っていなかったようです。町人なら町人、商人なら商人、大工さんであれば大工さん、武士なら武士、と言うそれぞれの人間の、畏敬の念をそれぞれが示していたと言うわけです。

ちなみに落語に出てくる熊さんとか、天神様にお参りしたりしますが、誰もそんな複雑な事はしていません。

明治8年の式部寮による「神社祭式」ではただ「再拝拍手」とのみ記されています。それまでの日本では、古来よりそのことすら定まっておりませんでした。定まってない、ということが伝統だったわけ。

なんだか、校則を想起させますね、この展開・・・。神社の作法と校則の、類似点が凄い。「これが正しい!間違いは許さない!正当なもの以外は排除する!」ってな、雰囲気を感じるんだよねー。

まあ、私が住むような田舎では、江戸時代から昭和を経て、令和に至るまで、礼拝の作法の形はずっと自由だったようで、まあ普通はそうだろうなあ、でなきゃ続かないもんな、と納得したのでした。

それにしても、我々は、江戸時代の庶民の実際の姿や心情を、もっと学んだ方が良いかもしれません。江戸時代の川柳とか、庶民の心持ちに多く触れることができますから。

参考文献・
神道の成立(高取正男・平凡社ライブラリー)
古神道は甦る(菅田正昭・橘出版)
神道の本(学研)

ちなみに、
この神社での作法については諸説あります。
「二回おじぎをして二回拍手、一礼(再拝二拍手一拝といいます)」というポピュラーな作法についても、「いや、拍手をする習慣は宮中にはないので拍手をしてはいけない」とか「男性はいいが女性は拍手をするものではない」とか、「一般神社は再拝二拍手一拝だが、出雲大社と宇佐神宮と弥彦神社は再拝四拍手一拝なのだ」とか、「伊勢神宮は四拝(または八拝)八拍手(八開手・やひらで)一拝だ」とか、「いや、本来古い祭祀を司ってきた白川神道の正しい所作は三拝三拍手一拝で、それが正しいのだ」とか、さまざまな異説、ときに「すべて間違いだ」という指摘があります。
だそうです。非常に難易度が高いですね。これではますます神社が遠いものになりそうです。
こうした論議も、なんだか学校の校則のようで、なんだか残念な気が・・・。


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節分は学校では扱わない方が・・・

私自身は日本の古来から続く良き伝統を大切にしたいと思っていますし、神社のあの静寂さも大好きです。

さて、日本では正式な伝統として名高い「節分」ですが、豆まきは校長先生にはウケが悪いです。

なぜか。

読者のみなさんは、ピンときたかな?

ハイ、ご名答!

「苦情の電話がくるから」

その通りです。
保護者からの電話が鳴る案件は、校長先生としては、厄介なのですね。

「落ちた豆を子どもが食べたらどうなるんだ!」

確かに、不衛生だし、「食べないで」と指導しても子どもは食べちゃう。
落ちた豆を子どもがもし口にしたら、学校としてはマズい。

これ、実は名案がありまして・・・。

ピーナッツでやるんですよ!

それも、殻付きの・・・。
そしたら、豆まきというか、鬼に向かって殻付きのピーナッツを投げた後、回収して、先生が殻をむいて食べれば良いですからね。

そしたら、子どもが言うそうです。

「ズルい!先生だけ食べるなんて!」

ところがこれも保護者からクレームが来たそうです。どんなかって?

「殻付きとはいえ、子どもに落ちたものを食べさせるなんて、ひどい!」
たしかに。
もしかしたら、偶然にも床のホコリになんか良くないものが絡まっていて、殻付きであってもやばいことがあるのかもしれません。

そこで、もう節分に対する解釈をかなり改良?しまして、鬼に向かって投げたフリをする、ということにしました。
実際には投げません。これでクレーム対応はバッチリです。

なにしろ、文科省からはなんとなく、日本の伝統を重んじ、季節を感じる日本の美意識の涵養につながるような行事をやれ、伝統的文化は日本人の心を養う観点からも推奨することが望ましい的な、言葉にならないくらいの圧迫感が現場に降りてくるんすよ。
いや、実際にはハッキリ文書が出てるわけでは無いですがね・・・

そこで、良き日本の伝統文化を子どもに継承するため、今年も先生たちは鬼の面を被って、殻付きピーナッツを浴びようとする。

ところが、これもクレームがはいるのですよ。こうなったらもう、節分には関わらない方が良さそうです。

ピーナッツ・アレルギーの子がいるかもしれないからです。

保護者が知らない、というアレルギーがある。保護者が、そんなにピーナッツを子どもに食べさせたことがなくて、本当にうちの息子がピーナッツアレルギーだと、知らない場合があるんです。滅多にないでしょうが、それでも、あり得る。書類に「ピーナッツアレルギーはありません」で、マルをつけちゃう。

その子は最初、たらん、と鼻水を出しただけでしたが、徐々に呼吸が荒くなって青ざめてきまして、救急車で運ばれたそうです。私も校長先生から聞いた話ですが。

「昔はこういう行事があったらしい」
と、絵本を読む程度にすれば良いのかも。

ちなみに七夕は、起源が中国ということで?の謎クレームが来たことが。

それにしても、かわいそうなのは現場の先生です。

文科省を含めた世間からは、伝統行事を重んじろ!節分も行事もやれ!と言われ、保護者からは、節分行事やめろ!と、はさみ撃ちに・・・
これを、ダブルバインド、と言います。

ダブルバインドって、人を病ませる、一番やってはいけない「価値観の縛り」らしいですな。うつ病の原因らしいです。

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日本が誇るものと いえば

お正月に富士山を見に行きました。
思い出したのは、三四郎の一節です。

夏目漱石の書いた三四郎では登場人物が富士山を褒めるシーンがあります。

「さすが富士山ですね綺麗だな」という主人公に向かって、
「あれは元々日本にあった自然のものですよね。ところが日本には、人間が作ったもので誇れるものは何一つもない」
という有名なセリフがあるのです。

この三四郎が書かれたのは、日露戦争が終わって3年後の、明治三十何年、という時代であります。日露戦争が終わり、われわれは近代化に成功したと、日本人が身の程をわきまえないようになり、だんだんと我が身のサイズを間違え始めるタイミングですわね。

その後、増上慢になった軍部は、1933年には国際連盟を脱退、議会を無視するようになり、天皇直属で統帥権を持ってるのだと世の人を騙して多くの人が犬死にしてしまった、あの太平洋戦争へ突っ込んで参ります。

ほとんどの人が兵糧が無いための餓死だったとあとで分かり、息子の犬死にをなんとしても認められずに「餓死なんておかしい」と、勲章を欲した母の物語はいつ聞いても泣けますわね。

昨年、日本はついに一人当たりのGDPをお隣の韓国に追い抜かれてしまいました。
これを伝えると、今でも70代、80代の方は
「そんなの嘘だろう」
と思うらしいです。さすがバブルを知る世代ですね。

私は、もうGDPを指標にすることを、多くの日本人が拒否したい気持ちになってるんだと思う。実のところは・・・。
だれも、もうそのような世界を追いたいとは、思ってないんでしょうね。だから、日本は、だんだんとそちらへ向かっているのです。ごく自然に心の発する方へ、日本は向かっているのでしょう。

明治の頃の日本の生活レベルでも良いのだと、日本人の大多数が、本当は心の底で思ってるのではないかと感じます。まだ、明治の時代には、「勿体無い」という言葉がまだ社会的にも世間的にも生きていましたからね。

日本人の美意識とか、モノとの付き合い方とか、自然を愛する気持ちとか、見失ってしまっているのでは。
今はかなり無理して、GDPは人間にとって最高の指標と、そう思い込んでいるだけ。かなり目盛りの狂った状態なのではないか?・・・と。

人口で言えば、日本は世界で11番目位です。GDPも11番目位でも良いのかもしれません。そしてそのくらいの方が本当の意味で日本人が幸せになるのではないかと思います。

なんでこんなことを書くかと言うと、忙しすぎる小学校が、おそらくこの世の中の軋轢や圧迫感や強迫観念らしきものと、無縁ではないと思うからです。

子どもたちは大いに余裕を失っております。
そして、その余裕を失っている原因は、カリキュラムの詰め込みすぎです。
また、教育に予算をかける余裕がなく、他のことに予算を使うため、教育にはほとんどお金は回ってこないのです。
カリキュラムがなぜこうも忙しくなったかと言うと、学校で、パソコンやら情報やらインターネットについて教えることになったことや、大きく英語や道徳が教科になったことが挙げられます。

ですが、減ったものはほとんどないのです。昔に比べると低学年の下校時間は、ますます遅くなってますからね。

昔の子供だって、余裕があったわけではありません。
なのに、子供に対する要求度だけ爆上がりしているのです。

なぜ、子供に要求するかと言うと、大人が何かしら焦っているためですね。

その大人は、GDPと言う指標に焦っているのです。
おそらくGDPと言うものを語らなくなった瞬間から、日本は救われていくだろうと思います。子どもは間違いなく救われるし、もしかしたら大人も救われる人が過半数を超えるかも・・・。
ですから、11番目で良いのかもしれないです。本当は。
報道の自由度は、世界70位らしいですから、そんくらいでもいいかもね。

夏目漱石は、三四郎の中で登場人物にこう言わせております。

「身の程をわきまえなくなった日本人は、いずれ滅びます」

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コーヒーに関する雑学

私がおいしいと定義するコーヒーのポイントは、単純に言えば

際立つ印象的な風味特性があり、爽やかな明るい酸味特性があり、持続するコーヒー感が甘さの感覚で消えていくこと。

最後の「甘さの感覚で、コーヒー感が消えていく」と言うのは、1番大切な部分で、この余韻を楽しむために、コーヒーを1口1口大切にすすっている。

職場でコーヒーの話になり、どのコーヒーが1番おいしいの?どう違うの?と聞かれたが、これは非常に子育てに通じることだ、と思った。

こちらに、正しいセンサーがあるかどうか。

小学生の担任となって、はや20年。この間、様々な子供とめぐりあい、一人ひとりと濃厚な時間を過ごしてきたが、どの子も同じだろうと言うのは間違いである。その個性や特徴は、ハリーポッター1冊では及ばない位の文字量が必要になる。

コーヒーも同じで、どれだけ言語化できるかというのは1つの目安になる。
コーヒーを飲んだときに、おいしい以外の表現ができるかどうか。
違うのはわかるけれど、どう表現をすれば良いかわからないと言うのが私の最初の出発でした。
コーヒーの風味の表現は、フルーツやナッツなど、他の食べ物に例えられたり、余韻の長さ、口当たりの感覚、甘さの周囲など様々なコメントをつけることができる。
正確なコメントをつけるには、訓練も必要。

◯柑橘系のフルーツの酸味に似てる
◯チョコレートみたいな香りがする
◯蜂蜜みたいなトロットした感覚がある
◯透明感がある

ただし、言語化する際には、いつもつきまとうのが、その言語が100%合致する事はないということ。
その豆の風味や味わいについて、できるだけ近づこうとして言うことはできるけれども、言語にした瞬間に、少し外れてるなと直感するのがオチなのだ。

子供についてもそうだ。
よく職員室で、あの子はこんな子だね。この子は、こんな特徴があるね。
話題にする事はあるが、言葉にした瞬間に、やはり本当の事実実態としてのその子の本性はもう少し違うところにあるだろうなと予感がされる。

言葉と言うものは、人間の気持ちや、感覚をできるだけ事細かに説明しようとして、発達していった部分があるが、やはり言葉と言うものは、最後の最後にはちょっとズレるものなのだろう。

だからといって、言葉を全く信頼しないと言う事はまずい。
言葉が信頼できなくなったら、もう対話することを諦めてしまうからだ。
100%通じなくても90%位は伝わったら上出来だし、残りの10%は、本当はどうかなとさらに突き詰めていくためのエンジン燃料添加剤になる。

ひとは、ことばを信じることができなくなると、自暴自棄になりやすい。
パワハラや各種ハラスメントが話題になるが、言葉の力を諦めた人が、相手を意のままに操ろうとしたときには、ハラスメントになってしまうだろう。

コーヒーを飲む時も、できるだけ自分自身が正直に言語化してみる。
しかし、そのおいしさを本当に言語化する事はできないので、改めて謙虚になる。この繰り返しが1番良いのだろう。

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6年生の歴史で何を課題にするか〜人類の挑戦を理解させる〜

小学生は、6年生の歴史の授業で、いったい最終的にはどんな態度を身につけることが目標なのか。

みなさんはどう考えますか?

もっとも避けたいシナリオは、

「どうせ滅亡だ」とする破滅論です。

これからの未来はどうなっていくのか、一番希望に胸膨らませてほしい少年や少女たちが、肩を落として「なにをやったって、どうせ無駄なことだ」と意気消沈していたら、本当にこの世は終わりでしょう。

ただ、破滅論にも意味はあるのでせう。これはリスクマネージメントにつながるような意味では必要な論なんであります。
大人の世界にはこういった「リスク」について考える視点が必要で、たとえば南海トラフ沖の大地震は高確率で起こるだろうから、都市機能や行政機能は従来のハブ・スポークデザインで国内に設置するのではなく、個々の都市が重要な役割をそれぞれ持ったネットワーク型にすべき、というような視点は、このような「滅亡イメージ論」から生まれることが多いです。優れた行政マンや政治家がSF好きなのはうなずけますね。SF作品はリスクを眼前に突きつけますから。

ところが子どもたちは、その大前提としての、

人類が平和と平等に向かって突き進みつつある

という第一の王道について学習すべきなのです。

18世紀末ごろからのフランス革命や貴族階級の特権廃止やアメリカの独立革命を端緒として19世紀の奴隷制の廃止、労働運動の高まり、選挙権の拡大が起こりました。
そして20世紀になって社会保障の発達、累進課税、植民地の独立といった流れがあったのです。

まさにこれが今の子どもたちが学習すべき最終地点だと思います。
大きな流れをつかみ、そこから各自が次の世界、社会を想像することが大事なのです。

あくまで長い歴史を見て行った時に、平等に向かう「大きな流れ」は強く存在していると考えることで、今の政治的苦難にどう対処すべきかも見えてくる。
これは昨今有名な社会学者・経済学者であるピケティの言葉です。
まさにこれからの世の中を切り開いていかねばならない子どもたちには、絶対に必要な知であり見識であり、常識ですね。

わたしはこれからの小学生は、平等、ということを学ぶために、おそらく税金をだれが多く負担するか、ということについても議論すべきだと思います。
金持ちの減税をするべきなのか、それとも貧困者の減税をすべきなのか。
減税と叫ぶ政治家の多くは、「金持ちの減税」を実施しようとしています。
富裕層の減税をいくらしたところで、社会の中間層は「では俺達が税を負担しよう。仕方がない」とは思わないでしょう。

小学生は、そのへんのところをどう考えるのか。
平等とは何なのか、面白い議論だと思います。

財務省は小学生向けの「税金を学ぶブックレット」などを出版し、学校で扱うように運動していますが、その内容には「富裕層」「中間層」「貧困層」という区別はまったく書いてありません。
しかし実態とかけ離れてはいけませんから、ぜひ明記すべきだろうとわたしは思います。
それこそ無着成恭のやまびこ学校では、「なぜわれわれは貧困なのか」について、真正面から問うことが生きるチカラを生むのだ、と考えて「考え続ける小学生」を育てました。

かつてこの誇り高い日本には、このような学習もあったわけで、その価値を再認識すべきだろうと思います。

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蜂飼耳さんの意図する世界

5年生の国語の教科書(光村図書)には、蜂飼耳さんの描いた物語が登場する。
以前、記事にしたことがあるが、

蜂飼さんの文章には、物語のある人物の行動を、周囲の人がどのように認知したのかということが丁寧に書かれている。
ある人物の言動について、その受け手がどんな印象を抱いたのか、周囲の人がそれをどのように受け取ったのかと言う受け手側の視点が丁寧に描かれるのは、ありとあらゆる小説の醍醐味だ。
蜂飼耳さんは、受け手側がどのように受け取り、どのように誤解(ごかい)したかを、物語の主題に据えることが多い。
小学校5年生の教科書に載せられた物語でも、小さな誤解というものが、主題になっていた。

考えてみれば、相手の行動や言動をその人に完全に成り変わって意図を理解する事は、周囲の人には不可能なこと。これはキリストでもブッダでも不可能。なぜなら本人では無いのだから。

しかし、いかにも、私はあんたの言いたいことがわかるよとかあなたはこう言いたいんでしょとかあなたは僕のことが嫌いなんだろう、などと言うように登場人物が主人公の意図を勝手に誤解していく事はよくあるパターンだ。
誤解と言うのも違うかもしれない。何故かと言うと、そもそも誤解が当然で、認知が事実とぴったり合うことなんてないわけなので、どれだけ親しくどれだけ相手のことを理解しているつもりになっていたとしても、わからないのが当たり前だ。相手の言動の本当に意図された世界と言うのは、他人にとっては、誤解をする以外にしようのない世界である。

今回、蜂飼耳さんの文章が、大学入試の共通テストの国語で出題されたらしい。
第2問で出題された、2005年発表の蜂飼耳(はちかいみみ)著「繭の遊戯」に、「ヒス構文」が登場したと話題になった。 「ヒス構文」とは、お笑い芸人のラランド・サーヤさんがYouTube動画で発信し、Z世代に話題になった言い回しのことで、「母が論理を飛躍させるなどしながらヒステリックな語気で相手に罪悪感を抱かせる構文」のこと。
・・・だそうだ。

〇〇構文、というのはいかにも学生の世代が使いそうな言葉で、ある決まった文章の運び方、言い回しの事だ。
ヒス構文も、蜂飼耳さんの得意な世界だ。今回話題となった、出題文の中でも、該当の部分は相手の言動を完全に誤解して理解した上に誇張させ、今度はその勝手な印象を、さらなる強烈な誤解とともに相手に押し返すと言う文章になっている。

このように、ヒス構文そのものは大学入試で出てくるくらい普遍的な世界なのだが、改めてネーミングされたことがすごいのだ。「ヒス構文」と、これまで名付けられたことのない言い回しそのものに対して、そこに新たなネーミングをすると言うところが、いかにもZ世代らしい。
ゆくゆくは、「そもそも相手の言動を当然理解することなどできないのだ」と言うことについても、新たなネーミングが始まることだろう。

振り返ってみれば、進次郎構文、石丸構文、などがネットの世界では有名になり、それあなたの感想ですよねと言うひろゆき構文も、今は世の中の人が堂々とは使用できなくなりつつある。なぜなら、このようにネーミングされてしまうほどに有名になった構文は、手垢が付きすぎて、堂々と使うのははばかられる気分が出てきたせいだ。

今、ヒス構文をそのまんま使ったり、「それってあなたの感想ですよね」とか、「また同じ質問ですか?」「もう一回言えってことですか?」などのような構文を使えば、たちまちにして、あっ、◯◯構文を使っているな、と反応されてしまう。

ただ私は、この◯◯構文にも、功罪の両面があると思っている。
なぜなら、空気を読めよと言うような、いかにも世間体を守るのが当然だとするような世の中の空気は、若い世代には、やはり居心地が悪かろうと思うのだ。このいかにも昭和の人間が縛られやすい世間体と言うものについては、その中に巻き込まれていたら、息が苦しくなってしまうと感じる若い世代も多いだろう。
若い世代は、若い世代なりに考えて、1対1の社会の中の人間と、人間同士のコミュニケーションの仕方をあえて作り直そうとしているようにも感じる。
あなたが今進めようとしているその言い方だと私は世間的に巻き込まれそうになります、だから一応リセットして、あなたと私の1対1の社会的な結びつきを確認しましょうよ、と言う気持ちで、「それってあなたの感想ですよね」と言う場合もあろうかと思うのだ。

私のような昭和生まれのおっさんにとっては、カチンと来そうな言い方なのだが、立場の弱い若い世代にとっては、せめてもの、かすかな反撃の狼煙なのかもしれないと思う。

蜂飼耳さんのヒス構文は、相手を世間体で絡めとって、操作しようと言うコスイ考え方が裏に見えている。蜂飼さんは、コミュニケーションの取り方に、何かしら言いたいことがあるんだと思う。小学校5年生の国語の教科書にも、子どもどうしの、かすかなコミニケーションの違和感が主題になっている。主人公の女の子は、自分の勝手に受け取った印象で、相手を思わず決めつけそうになっていた、そのことに気がついて、ちょっと切なく遠くからサッカーに興じる、男の子の姿を見つめ直すのである。
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