30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

正解にする力 By 文科省

昔、文科省で教科書何か作っていた、という大学のとある先生が、面白いこと言っていました。
それは、「正解にする力」という言葉で、ちょっと面白いなと思ったのです。

教科書を作ってた位の人だから、これが正解だというのを書いてたわけです。
しかし、正解がこれだと言うのではなく、あることを、自分で環境や条件を整えて、正解にする、と言うわけです。

講演会でその言葉を聞いたとき、面白くて印象に残りました。ちょっと面白いでしょ?

最近、「正しい選択ってなんだろう」と考えることがよくあります。
仕事でも暮らしでも、後から振り返って「あっちを選んでいれば……」と頭によぎる事は、大小はあれど、誰にでもあることだと思います。

そんな時にふと思い出す言葉があります。
「電柱が高いのも、ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」

昭和の人には何か懐かしい響きに感じるかもしれませんね。

私は最初この言葉を聞いたとき、どちらかと言うと、世の中を呪うような、本当は自分だって誰か人のせいにしたいのにと言うような少し苦しい言葉なのかと思っていました。

しかし、大人になると、このことの見方が変わり、これこそ自由を謳歌するための言葉だと思うようになりました。
このことを、人生で1番深く考えたのは、25 26歳位の時でしょうか。

求めないと言うのは何なんだろうかとずっと考え続けていた時期がありました。

全て自分の責任と言う言葉がきつく感じます。確かにずいぶん極端な言い方です。

私はこの言葉を「全部を自分が背負わなければならないのだ」と言う意味ではなく、「自分で決めたと思える方が、全て解決策が見つかりやすく、次に進みやすい」と解釈して受け取るようになりました。

確かに他の何かのせいや条件のせい環境のせいだと言うふうに思うのはとても簡単なことなのですが、そう思うと何か石🪨につまずくようにして前に体重がかけられないのですね。最初の一歩が踏み出せないことがよくあります。

授業も同じ。指導も同じ。

どんな指導が正解か、どんな授業の流れ方が正解だったのか。
それは人それぞれまたその時次第です。

どんな授業でも「これ子どもの心にきっと響いた」と思えた瞬間があれば、それはもう、その時の子どもたちにとって正解だったのだと思います。

仕方なく、そうさせられたとか、世の流れ、人の流れに、巻き込まれた、というのではないのです。

自分で選んだと考える。
正解を探し続けるよりも、その時自分の目の前にあったものや自分が選んだものを少しずつ本当の意味での正解にしていく。
そんな感覚で授業も楽しめたらいいなと思っています。

ふと、通勤途中の車の窓の外を見ると、既に畑から何か緑色のものが覗いていました。
あぜ道に注意深く見ると、小さなモヤモヤとした緑色の葉っぱらしきものがたくさん伸びていました。
季節はすっかり春の気配なのですね。
植物はきっとここに生えてきたこと、ここに根を下ろしたことについて、色々と言いたい事はあるのかもしれませんが、今から時間をじっくりとかけて、しっかりと根を伸ばして、しっかりと茎を伸ばして、葉を伸ばし、自力でその場に咲いたことの正解を作っていくのだと思いました。

これは人にも言えますね。
私の息子が今年専門学校を卒業して就職しますが、自分らしくこの道を選んだこと、人生の側から自分自身に問われたことに真剣に向き合って、正解を作っていってほしいと思います。

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心理的な安全を担保する

叱らないと言う話をしていたら、あるベテランの先生から、心理的安全の担保だね、と言われた。

まあ、そういうことになるか。

心理的安全というのが確保されると、途端に子供たちは生き生きとし、混乱をしなくなります。

ところが、心理的安全が確保されない場合は、おどおどしてこちらを上目遣いに見つめ、指示を待つ格好になります。アンテナをこちらに向けるのがよくわかります。そしてできるだけ何もしないでおこうと言うふうに構えます。

できるだけ何も問題を起こさずにいようというふうな保守的な態度です。下手なことをして、注意を受けないでおこうという感じになるわけです。

大谷選手、メジャーリーグの大谷選手は、できるだけ何もしないでおこうと言う風には考えなかったのでしょう。

心理的安全と言うのは小さなことから始まります。
例えば、子供に予定を知らせると言うこともそうです。
来週はこんなことがあるよから始まり、次のステップは明日はこういう予定だったねと言う確認も、大きな心理的安全につながります。
また、その日の朝になったら3回目ですが、やはり伝えるのです。
今日はこんな予定だったよね。どんなことに気をつけたらいいかなと。

そんな事は自己責任だから、放っておけば良いのだと言うスパルタ方式もあるでしょう。
しかし、できるだけ心理的な安全は、確保してあげるのです。
そうすると、どんどんと心理的安全を与えてくれる人の方に本音を話すようになります。

この人はわかってくれると言うわけです。

本当に大事なことや、自分自身が大事に思っている事は、心理的安全が図られる人の前では話すのです。

ヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905–1997)は、オーストリアの精神科医であり心理学者です。彼は、フロイト、アドラーに続く「ウィーン第3学派」の創設者として、「ロゴセラピー(意味による心理療法)」を確立したことで知られています。

フランクルは、私たちが「自分の人生にどんな意味があるのか」と問うのではなく、「人生のほうが私たちに問いを投げかけている」と考えました。
そして、人間は、人生からの問いかけに対して、自分の人生をもって答えなければなりません。この「問いに答える責任」を負っているという点において、すべての人類は対等であり、一つの大きな家族のような連帯感を持つべきだと彼は考えました。

そう考えると、教員も子どもも、その意味では、等しく、学びの途中であるわけです。

人生からの問いかけ、に答えるために、人間は等しく自分に与えられた時間を使って良いのです。
そのために大事なのが、心理的安全と言うわけです。

つまり、心理的安全がなければ、心理的安全が与えられなければ、人間は、問いに答えることができないのです。問いに対しての答えを忘れてしまうのです。と言うよりも、問いかけられていることそのものを見失ってしまうのでしょう。

子どもにとっての時間は、自分自身の「問い」を探し、不器用ながらも応答の練習をする時間。
教員(大人)にとっての時間もまた、完成された存在として振る舞うためではなく、自分自身もまた「人生から何を問われているか」を更新し続ける時間。

心理的安全がある場所では、この「試行錯誤する時間」が許容されます。そこでは「正解」を出すことよりも、自分なりの「応答」を紡ぎ出すプロセスそのものが尊重されるはずです。

心理的安全が脅かされると、人は「自分がどう応えるか」ではなく、「どうすれば安全か」「どうすれば怒られないか」という「反応」に終始するようになります。

• 「応答」:内なる使命感や意味に基づいた能動的な行動
• 「反応」:外部の刺激や恐怖に基づいた受動的な行動

「問い」を見失うということは、自分が人生の主人公(応答者)であることを放棄し、単なる環境の「産物」になってしまうことを意味します。だからこそ、心理的安全を担保することは、その人が「人間であり続けるための権利」を守ることと同義なのですね。

教員も子どもも、互いに「人生の問い」に耳を澄ませる「共鳴者」になれるような空間。そんな場所では、知識の伝達を超えた「存在の教育」が行われるのでしょう。

フランクルは著作「夜と霧」を書きました。

彼が戦後に『夜と霧』をわずか数日で書き上げることができたのも、収容所という地獄の中で、すでにその内容を「生きて」いたからだと言えます。

フランクルは「未来のどこかで、あなたを待っている『何か』や『誰か』がある」と説きました。

• 成し遂げられるのを待っている仕事
• 愛されるのを待っている人間
• あなたの帰りを待っている家族

人生とは、自分が何かをする場所なのではなく、人生から問われていることに対して、人生から期待されていることに対して、私はどのように答えるかを考え、実践する場所だと言えましょう。

私の知人が市会議員に立候補します。
実は、私の知人は、市会議員に立候補する方が多いのです。どの方もリスペクトできる方たちばかりです。人生何を問われていると言う風な視点に立てば、自分がそれに答えるためにと言う気持ちになるのがとてもよくわかります。

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そもそもなぜ教員になったのか

最近わかってきた。
私は教員になることが目的ではなかったようだ。

20年ぐらいやって、ようやく見えてきました。
自分自身が、なぜこの道を歩いてるのか、ということが。

私は多分、ブログを書くということの方が本来の目的だったのだ。
ブログを書く書きたいという思いが、まずは根底にあって、それを叶えるツールとして選んだのが教員という仕事だったわけだ。

だから別に、本当は教員でなくてもよかったんだろう。

20代で、出版社に関係し、新聞作りの仕事をしていたときの事。その時は、これこそ自分の天職だ、と思っていた。
取材をして、写真を撮り、記事を起こし、インタビューをして。そのすべての行動が楽しくて仕方がない。朝もバッチリ目が覚め頭がフル回転。次はどんなことをしてやろうと計画するのがワクワクしてたまらなかった。

この時も、それはただのツールでしかなく、本当の目的は書くためでした。
この世の何かを解き明かそうとして、自分は調べている調査員のつもりでした。書く記事は、その調査の報告でした。
別の惑星からやってきて、この星の調査をしていると言うCMがありました。サントリーのボスと言うコーヒーのコマーシャルです。
Tommy Lee Jonesは、宇宙人ジョーンズとして、この星の生物、人間に関する調査をしているという設定でした。
気分はそんな感じでしたからね。

インタビューをしながら、この人はどうしてこんな風な境地に思い至ったんだろうと言うふうに思うと、どんどんと質問したいことが湧いてくる。インタビューと言うのはそういう仕事でした。それをまた自分が咀嚼し直してから記事にする。

自分の記事が掲載されると、それを何度も読み返しながら、もっとこんなことが聞けたのになぁと言うふうに思いながら過ごすのが極上の楽しみでした。

今子供たちと一緒に暮らしながら調査員と言う私の立場が変わっていないことに最近気が付きました。私は編集者である以前に、また教師である以前に、システムエンジニアである以前に、調査員だったのです。

宇宙科学研究所で勤務している時も、なんでこの人たちはこんなふうにして別の惑星を調査してるんだろうと思いながらネットワークやセキュリティーの仕事をしていました。

ひのとり、とか、ようこう、とか、MUSES-C(はやぶさ)とか、かぐや、とか。
なんでこんなに調査をしているんだろうと言うふうに思いながら、調査をする人たちを調査している感じでしたかね。

最近、私が調査しているのは、人間は、仕事と言うものについて、今一度捉え直したほうがいいんじゃないかと言うことです。
全く掃除をやろうとしていない男の子がいたとします。なんでやらないのかと聞くと、おそらくめんどくさいと答えるようなタイプの子です。
その子はあることをきっかけに、急にお掃除に目覚めて、爆発的なエンジンを持ってお掃除を始めるわけですが、この事は非常に調査の対象になりますね。

脳の仕組みに関係があるんでしょうか?

そういう子たちを、日々見ながら、その子たちの正直な感想や態度や表情などを見ながら、なぜ人間はこういう時にこんな感情に陥るのだろうと言うことを、日々調査しているのが、私の仕事なわけです。

この調査癖(へき)、というのは、私はどうやら生まれながらにして持っていたものと言うよりも、小学生低学年から中学年位にかけて開発されて濃厚に持つようになったと思います。
それが、学研と言う会社が出していた雑誌で科学と学習というのがありました。その雑誌が私に対してものすごく大きな影響を持っていたと思います。これが私の調査癖を、増大させました。

また、もう一つは、光のくにと言う出版社が当時はありまして、その会社が出していた図鑑シリーズの挿絵が素晴らしかったことにもよります。全部手書きの挿絵だったんですよ。昭和の時代ですからね。そしてその絵が、なんとも美しく味のある絵だったわけです。おそらく紙芝居を書いていた人たちが、戦争が終わった後にいろいろな出版社に集められて、ベビーブーム世代のために、挿絵を書いたのでしょう。図鑑の。

一つ一つの挿絵に込められた芸術性に、私は打たれまして、世の中はどうなっちゃってんだろうかと言うふうにページをめくるごとに驚愕したのを覚えています。特に大好きだったのは深海魚ですね。深海魚は年に1回は見に行くほうが良いと思います。この世の中は人間だけでできているのではないと言うことを骨の髄から教えてくれる施設です。

まあ、こういうことが、徐々に徐々に私の中に貯金されていき、今の【調査癖(へき)】になったんでしょうね。

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【祝㊗️】ブログ開始おめでとう。20周年!

今年は、新間草海のブログを開始してからちょうど20年。記念すべき節目の日となりました!パチパチ、パチパチ!


思えば、20年前!
不安いっぱいで始めた教師稼業でしたが、19回の担任を重ねるうちに、チョークを持つ手も、手慣れたものです。

漢字を鏡文字で書くのは、3年目、4年目ごろから急にできるようになりました。

小学校の授業時間は45分ですから、45分と言うタイマーが自分の体の中に格納されたようで、時計を見なくても、45分で話をまとめたくなります。おそらく他の職業になったとしても、例えば営業になったとしても、私は45分たったら自動的に、みなさんトイレに行きましょう、と言って話を終えるでしょう。

1番たくさんブログを記事を書いたのは何年ごろなんでしょうかね?
毎日書いていた時期もありました。
思えば、あの時、私は若かったと思います。

今ではすっかり老いぼれ果て、記事を書くのも大変になってきました。

大体、今の小学校の教員で20年間学校のことを毎日のように記事に書き続けてきた人は他にいるのだろうか。

しかし、このライブドアのブログでも、古参の先生方は、まだ地道に、ブログを書き続けていらっしゃるので、私なんかまだ若造かもしれません。
まだまだ、ハナタレ小僧です。

私のブログを読んでくださっている方に呼びかけて、1泊2日のイベントをやったのも楽しかった思い出です。イベントのタイトルも「叱らない先生を実践する方法」というので、そもそも人が集まるのかどうか、危ぶまれました。しかし蓋を開けたら全国から何人もきてくださり、叱らないと言うキーワードにピンと響いてくださった方がたくさんいたと言うわけで、まぁ今となっては当たり前のことかもしれませんが、20年前は確かに【叱らない】という言葉には、センセーショナルな部分があったと思います。

30代で転職するのは、なかなか勇気の要ることだったのですが、55歳になって振り返ってみると、30代はまだまだ若い、転職も特別なことではない、挑戦してみて良かったと、振り返って思いますね。

なにしろ、当時は教員免許を取るところからのスタートだったのと、既に結婚していて、妻が大学生だったと言う特殊な事情のおかげで、働きながら、給料を得ながら、教員免許を取り、さらに教員採用試験に受かると言う試練があったわけです。

もし独身であれば、試験に落ちても「もう一年頑張ろう」という選択がしやすいかもしれません。しかし、家庭があり、将来の生活設計がその試験の合否に直結している状況では、不合格は単なる個人的な挫折ではなく、家族の生活基盤を揺るがす危機を意味します。その背水の陣で挑む精神的な負荷がなかなかでした。

家計を支える「一家の主」としての役割と、
教員免許取得を目指す「学生」としての役割と、
採用試験という難関を突破しなければならない「受験生」としての役割。

これら3つの異なる顔を同時に、しかもどれ一つとして手を抜かずに、という状況で、深夜までシステムエンジニアの仕事をしていたのですが、それでもなんとかなったのは、明るくて呑気な妻のおかげだったと思います。

しかし、あの時が1番楽しかったような気もするんですよね。不思議なことに。

私は20代がバラ色で、とくに哲学をやりたかったので、ソクラテスのように、人と話をするのが大好きでございました。それも、大勢のひとと輪になって、「あーでもない、こーでもない、あげだい、こげだい(出雲弁)」と話をするのが。

私はそれがしたくて、わざわざ、旧制高校に近い雰囲気の寮を全国から探して、ほとんど大学に行くのが目的ではなく、寮生活をしてみたかった、という理由で松江の雄翔寮に入ったのです。
それから幾許かの時が流れまして。
20代は、ほぼ10年の間、輪になって人と話すことができる、という理由で人の多い職場におりました。楽しかったですなあ!そこをあえて去りまして、教職を目指したわけで。

20代の成功体験(バラ色の記憶)があればあるほど、働きながら勉強する苦しい日々の中で、「あのままでいれば今頃もっと楽しく笑っていたはずだ」という誘惑が何度も襲ってきましたな。

その過去の自分を振り切り、家族を支えながら「教員」という未知の未来に賭けたのは、今から思えば単なる転職ではなく、人生のOSを入れ替えるような痛みを伴うものだったとおもうのですが、それでも妙に明るくて呑気でした。これはやはり妻のおかげでしょうね。
まぁ、30代ならやれるよな、と、今となっては思います。もしこの文を読んでくださっている30代の方がいたら、そしてもしかして教員になろうと言う気持ちをお持ちの方でしたら、きっと大丈夫だと背中を押してあげたい気持ちです。

30代転職、教員人生20年、ブログを書き続けて、記事の数は 2112記事を越えました。なんと2,000記事をこしとるがな。我ながらよう書くなぁ。

当ブログは、まだつづきます。
これからも読者の皆様どうぞよろしくお願いいたします!

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絶対に反省しない、謝らない、というスタイル

絶対に謝ってはいけない。謝ったらおしまいだ。

こう考える人は、割と欧米には多いと思う。
欧米の「欧」はあんまりよくわからないが、「米」の方にはなんだかやっぱり多い気がする。
とは言え、これは私の勝手な思い込みで、マスコミやその他の一般的な情報で推測しているだけ。バイアスは大きい。

有名なところでは、トランプ大統領、そして、テスラのイーロンマスク氏。自分が絶対に間違っていない、謝る必要なんて、これっぽっちもない。それが強さを示す男のあり様だ、という感じか。

それに比べると、日本人はすぐに謝ってばかりで、アメリカと日本の文化の違いをまざまざと感じる。MLBと日本のプロ野球でもそうだ。
大谷翔平選手が投手のとき、ボールを投げる際にデッドボールを投げてしまった。すると、大谷選手は相手の打者に対して謝った。この様子はニュースになった。MLBでは、投手は絶対に謝らない。いかにも日本人らしい態度だと言うので、様々な番組やPodcastニュースで取り上げられた。

おそらくこういう態度と言うのは伝染するようだ。
ゲームの世界でもそうらしい。ネットで通信しながら、世界中のプレイヤーが戦うゲームがある。日本人のプレイヤーは、ミスをすると謝るらしい。ところが、他の国の選手は絶対に自分が悪くないと言い張るそうだ。逆にお前が悪いと責める。

しかし、こう書いていたら、やっぱり日本人でも謝らない人は謝らないなと思い出してきた。私は絶対悪くないと言い張ると言うのは、世界的に見てよくあることなのだ。年配の男性のほとんどが謝らないと思います。スーパーの駐車場でドアを開いて、隣の車に当てた人が、やっぱり謝りませんでしたね。私の車ではなかったですが、通りすがりに大きな声だったので目立ちました。

逆に、気を遣って、相手のことを大丈夫かと心配する人もたくさんいます。日本人ではなくとも。つまり、その人の生い立ちなわけです。人種は関係ないですね。

保護者にも、謝らない人はいます。
しかし、つい5、6年前までにはこんな事はなかったと思うから、だんだんと人間はこのことに対しての耐性が薄れてきているのかもしれません。やはり世の中は5年10年がするとずいぶん変わるものだと思う。

「私が悪いと言うわけではないですよね?」

と、確認する保護者。
教師が保護者を責める事はほぼないと思う。
それでも、誰も自分のことを責めていないと言うことについて確認をしたいのだ。

これは、やはり幼い頃か若い頃から常に責められてきたから、こういう反応するのではないかと思う。お前のせいだと何度も何度も言い続けられてきた人は、やはり心の底で自分は悪くないと言いたかったのではあるまいか。

大人の世界に入ると、相手を責めると言う事はずいぶん少なくなる。それよりもフォローしたり、カバーしたりして状況を改善しようとしたり、その人の手の届かないところをどうやったらみんなで手が届くことにするか、と、一緒に考えようとする。

ところが、そういう話を私がしたら、

「そんなことない」

と、知り合いに否定された。
大人の世界でも、相手を責めることがよくあると言うのだ。フォローされるなんて事はなく、あんたどうするの?とずっと執拗に責められたことがあると言う。

そういう状況に置かれたら、誰だって自分が悪くないはずだと声を大にして言いたくなるに決まっている。

これまであまり責められたことがなく、幸運な人生を歩んできた人は、相手を攻めたところで、状況が変わらない事は重々承知である。
というか、仲間であるはずの身近な人間を責めたら、その人は弱ってしまい、トータルに考えると、自分のチームは弱くなる。

自分の仲間だと思えば、励まし、その人の本来の力を出せるようにフォローし、励ます。その方が、結局は自分にとって得である。

トランプさんがなぜそんなに周囲を圧迫しようとするのかを、社会学的なアプローチや心理学的なアプローチ、あるいは経営者としてのマネジメント的な立場から分析する人たちがたくさんいる。
アメリカ本国の中にも、自分の国の大統領は、一体どうしてそういう風な態度を取るのかといぶかって、その正体を知りたくなり、分析を始める人たちがたくさんいる。

そこで、話題になっているのが、次の人だ。

ロイ・コーン。

政治の勉強している人は知っているらしいです。私は知りませんでしたが。有名な人のようですね。


マッカーシズム時代に「赤狩り」の急先鋒として知られた悪名高い弁護士です。若き日のトランプ氏に、メディア対応、攻撃的な交渉術、絶対に謝罪しない姿勢など、現在のトランプ氏のスタイルに通じる多くの影響を与えたとされています。

ダイヤモンド・オンライン
映画『アプレンティス』は、トランプの台頭と彼のリーダーシップスタイルの起源に焦点を当てています。この映画は、トランプの成功の裏にある複雑な人物像と、ロイ・コーンとの師弟関係を掘り下げています。映画が描くトランプの成長物語は、彼のビジネスマンとしての側面と政治家としての手腕を理解する鍵になります。トランプのスタイル、「攻撃・攻撃・攻撃、否定・否定・否定、勝利をつかみ、決して敗北を認めるな」の元はロイ・コーンでした。

ロイさんだって、本当は人を責めたくはなかったのかもしれませんね。ロイさんにはロイさんの、生い立ちやら、師匠やら学習してきた内容やら、いろんな影響受けて、その思想を持たざるを得なかったのかもしれません。

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メキシコ国境と、麻薬の罠

私が中学校の頃、最も驚いた事件が、「アヘン戦争」でした。
こんなひどいことを、人間がやるのかと驚きました。
トランプ大統領がメキシコ国境に地上軍を派遣するというニュースがあったとき、また、その大義名分が「麻薬対策」と聞いた時、思い浮かんだのが「アヘン戦争」でした。

私は、中学校の頃に、このアヘン戦争について調べたことがあります。中学校の時の社会科の教師が偉かったですね。おそらく少ない時間数をやりくりして、時間を生み出していたのでしょう。このことだけでかなり時間を使ったと思うんです。
しかし、私には今でも印象に残っている、大切な授業体験になりました。

19世紀に起きたアヘン戦争と、いま現在アメリカを苦しめている「オピオイド危機(フェンタニル危機)」は、時代も場所もまったく違います。しかし、その中身をよく見てみると、驚くほど似た「闇の仕組み」が隠されていることがわかります。

どちらの事件も、「人々に薬物の依存症を植え付けることで莫大な利益を得る」、そして「自分たちが儲けるためなら、他人の国や社会がボロボロになってもかまわない」という冷酷なビジネスの論理で動いているからです。

私が子どもの頃に驚いたのも、この冷酷なビジネス論理と言うものに対して、でした。

かつてのアヘン戦争では、イギリスが中国(清)との貿易で大赤字になったことがきっかけでした。イギリスはその損を取り戻すために、植民地のインドで作らせた麻薬の「アヘン」を、中国へこっそり運び込んで売りつけました。
すると、瞬く間に中国中で中毒者が増え、真面目な役人や農民、さらには国を守るはずの兵士までもが仕事ができなくなってしまったのです。

国のお金は薬代としてイギリスへ流れ、清の社会は内側から崩壊していきました。これはまさに、「他国の人を病気にして支配し、富を奪い取る」という、国が主導した恐ろしい麻薬ビジネスだったと言えます。

いま、この悲劇が形を変えてアメリカで繰り返されています。きっかけは、数十年前に製薬会社が「痛みに効く魔法の安全な薬」として、強力な鎮痛薬(オピオイド)を大量に売り出したことでした。

アメリカは日本のように誰でも安く病院に行ける制度が整っていないため、怪我をした労働者などは、高い治療を受ける代わりに安価な痛み止めに頼らざるを得ませんでした。

こうして「合法的な薬」から始まった依存の連鎖は、やがてより安くて強力な、アヘンの数百倍も強い「フェンタニル」という合成麻薬に取って代わられました。現在では、毎年10万人を超える人々がこの薬物で命を落とすという、戦争以上の被害が出ているのです。

トランプ大統領は、この現状を止めるために「メキシコ国境に軍隊を送り、密輸組織(カルテル)を直接壊滅させる」という非常に強硬な姿勢を見せています。

しかし、歴史を振り返れば、力ずくで押さえ込むだけでは解決しないことがわかります。国内に「薬を欲しがる人(需要)」が大量にいる限り、一つの組織を潰しても、すぐに新しい組織がさらに強力で隠しやすい新種の薬を持って現れるからです。
実際に、フェンタニルよりもさらに数十倍も強い「ニタゼン系」という新型の合成麻薬もすでに広まり始めており、取り締まりとの「いたちごっこ」が続いています。

さらに、こうした混乱の中でトランプ大統領が見せているのは、麻薬対策だけではない大きな野心です。彼は北極圏にある巨大な島「グリーンランド」をアメリカが統治したいという意欲を隠していません。

そこには電気自動車やスマホの製造に欠かせない貴重な天然資源が眠っており、北極を通る新しい航路をコントロールする軍事拠点としても非常に重要だからです。

また、南アメリカ全体に対しても、アメリカが絶対的な主導権を握る「覇権」を広げようとしています。トランプ大統領自身が、【モンロー主義】という、これまた中学校の社会科の教科書に載っていそうな言葉を使ってスピーチしています。これは、ライバルである中国などの影響を南米から追い出し、アメリカの周辺地域を自分のルールで管理しようとする動きです。

結局、アヘン戦争から200年が経った今も、根本にある「支配と利益」の構図は変わっていません。
このことを日本人はどう受け止めていけばいいでしょうか。こういう時に、人間のふだんの思考クセが、表面に出ます。

パワハラ体質の人は、「パワーこそ正義だ」という論展開に賛同しやすい傾向があるそうです。
また、普段の暮らしの中で、あるいは生活の中で、「弱者の立場」を経験している層は、そういった覇権主義を嫌う傾向にあるようです。自分自身のトラウマが影響するんですね。自分自身の価値観をそこに投影してみるのが人間の心理ですから。

50代60代70代の男性の多くが、トランプを応援しているそうです。
また、男性だけでなく、自力でビジネスを展開したり、ある団体の長に登り詰めたような女性も同じ傾向があるようです。

逆に、自分では何もできないことがわかっていて、周囲の人の助けや支援に感謝しながら、何とか生きている、という実感を持っている人たちは、トランプ大統領のような頑固で、周囲の迷惑を顧みない強引な政策は、見ていられないものに映るようです。

この両者は、共通の言語を持ちませんから、いつまでたっても理解し合うことがありません。


日本人や米国人を問わず、ある一定の、彼を支持する層の人々には、トランプ大統領の頑固で意地を張っている姿は、「凜としたリーダーのとるべき姿」として見えているのかもしれません。

「強さを経験し、それを正義としてきた人たち」が、自分たちの価値観を守るために大統領を支持している……。
そう考えると、この騒動は単なる政治問題ではなく、「アメリカンドリームによる成功哲学」と「アンクルトムの小屋から続く差別を嫌う人権意識」の最終戦争のような様相を呈していると思えてきます。


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「劇的なもの」のゆくえ

パッと輝く。
さっと色が変わる。
こうしたものに子どもたちは、目を惹かれます。
多くの人間がそうでしょう。
なので、理科の実験の時は、そういう「劇的な瞬間」というのを見せるようにしています。
子どもたちの興味の持ち方が変わります。

大人もそうですね。
派手なものには、目を向けたくなるし、派手な動きには神経を研ぎ澄ませてみたくなります。
スポーツの人気があるのは、そういうことでしょう。

「劇的」といえば、平賀源内を思い出します。
日本で広告キャッチコピーと言うものを最初に始めたのが彼だと言われていますね。
人々の耳目を集めるのに、劇的な言葉を使うと言うことに気がついた人なんでしょう。
彼は物産展を開き、多くの人を驚かせました。
人を驚かせるのが趣味だったのでしょうかね?
彼は最初に、珍しいものを集めて並べる物産展で話題を集めます。特に評判を呼んだのがエレキテルでした。
静電気の火花を見せると、多くの人が目を見張って驚きました。魔法使いかと思った人もいたと思います。

こんなふうに、人を驚かせるのが好きだった。彼の生涯はどうだったかと言うと・・・

最後が不遇だったんです。
平賀源内自身の人生もまた、非常に「劇的」で、最後は「孤独」だったのです。

• 絶頂期: エレキテルや戯作、そして広告の才能で江戸中の人気者になり、時の権力者(田沼意次など)とも繋がりました。
• 悲劇的な最期: しかし晩年は、事業の失敗や周囲との不和が重なり、最後は誤って人を殺めてしまい、獄中で孤独に亡くなりました。

「劇的な展開を好む人の晩年」は、恵まれないことが多いようです。どれほど世の中を驚かせ、時代の寵児となっても、その「劇的な手法」が誠実さや周囲の人の【心と心の交流】という土台を欠いてしまうと、最後は誰からも助けを得られない孤独に陥ってしまう……。


人間の普遍的な心理に照らしてみると、平穏な日常も大切ですが、一方で「何かすごいことが起きるのではないか」「この人が世界を変えてくれるのではないか」というワクワク感に、人は抗えません。

高市総理が「1月解散」という劇的なカードを切るのも、まさにこの「源内的な演出」が、今でも一定以上の人々の心を掴むと知っているからでしょうね。

源内の時代は、まだ「驚き」そのものが希少な価値でした。しかし、今は誰もがスマホで24時間、源内のエレキテル以上の「ぎょっとするニュース」を浴び続けています。

その中で、我々は気がつかないうちに、情報に対してのアップデートを済ませてしまったんではないかと思います。おそらくそれは2024年から2025年に起きたのではないでしょうか?

何かを見せるとか、「うわべ」を整えるとか、そういうことに大衆は心を動かなくさせたのではないか。あまりにも、そうしたことで、事実実態と表現が異なる姿を見せられてきたからです。
本当はどうかと言うふうに、大衆の気持ちがアップデートしてしまっているんだと思います。

これまで私たちは、素晴らしいキャッチコピーや、キラキラした映像、そして「劇的な演出」によって、実態以上に良く見せられたものを何度も見せられてきました。そして、その後にやってくる「中身が伴わない」という失望を、数えきれないほど経験してきました。

大衆の感覚がアップデートされたというのは、「演出」という魔法が解けてしまった状態だと言えます。
面白いですが、広告なんですけど、アイフルと言う消費者金融がありますね。偶然ですけど、そこに愛はあるんかいと聞いています。まさにそれは今の令和の新しい人たちの感覚なんでしょう。皮肉にもそれが既に広告になっているわけですが。

現代の大衆がアップデートしたというのは、

「驚かされることにはもう飽きた。だから、その奥にある『本当のこと』を見せてくれ」

という境地に達したということなのかもしれません。

劇的な演出で人々を喜ばせる「源内的なエンターテインメント」としての政治は、そこに愛(実体)はあるのか?、という冷徹な視線にさらされているのです。


高市総理がどれほど「広告的」に自分を演出し、強い言葉を発しても、それを受け取る側が「あ、これ広告だな」と気づいてしまった瞬間、その魔法は消えてしまいます。
2月の選挙に向けて、「そこに愛(誠実さ)はあるんかい?」という静かな問いが、SNSの喧騒を超えて、投票箱に静かに積み重なっていくのかもしれません。
「広告の時代」が終わり、「実体の時代」が始まった今、これから私たちは「嘘のない言葉」を政治や社会に求めていく姿勢がより強まっていると思います。
高市総理は、自分を「現代の源内」のような革命児だと思っているかもしれませんが、とにもかくにも、周囲の自民党内での分裂をさせないように頑張る必要があると思います。地道な折衝は時間がかかるかもしれません。また大勢の県や地方の国会議員に理解をしてもらうには言葉を尽くしていく、説明していく誠意を見せる必要もあるでしょう。

今回の解散で、高市早苗総理が、晩年を孤独で寂しく過ごすのか、あるいは社会に貢献してくれたと言うふうに受け止められて、感謝をいつまでも伝えてもらえる人になるかが決まると思います。
今、周りにいる人に、「総理大臣だから」と、利用価値がある存在として、ただ利用されるのではなく、本当に愛されていくのかどうかがこの解散で決まると思います。

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テスラとトヨタが、サンタのソリを設計したら

前回の話の続きです。

テスラがサンタのソリを開発するなら、超強引なそれが出来上がるでしょう。まさにモンスター・マシンの出来上がりです。

テスラの挑戦は「物理法則への挑戦」と「破壊的イノベーション」を剥き出しにした、極めて西洋的・野心的なプロダクトになるはずです。

テスラ版サンタ・システム:『The Sleigh-X(スレイ・エックス)』

1. トナカイは「完全解雇」

テスラ(イーロン・マスク)の合理性において、トナカイは真っ先に「非効率な旧時代の遺物」として切り捨てられます。

「トナカイはバイオ燃料(草)を消費し、メタンガスを排出し、睡眠を必要とする。何より時速何万キロという配送スピードに耐えられない」。テスラは迷わず、トナカイを「超高出力・電気駆動プラズマモーター」に置き換えます。
その理由は、西洋的合理性の極致として、「目的地に最短で着く」というHow(機能)を追求した結果です。トナカイはエンジニアリング上の「ボトルネック」と判断されるのです。

2. デバイス:剥き出しの「物理的パワー」

ソリの外観は、伝統的な曲線美を捨て、ステンレス鋼の多角形(サイバートラック的)なデザインになります。

自動運転(FSD: Full Self-Delivering)により、 サンタはもはや手綱を握る必要すらありません。
数億枚の屋根の画像を学習したAIが、ミリ秒単位で着陸ポイントを特定します。「サンタが操作する」という東洋的な人馬一体感よりも、「機械が人間を超越する」という西洋的進化を提示します。

あとは、ソリが常時、スターリンク接続をします。世界中の子供たちの「良い子ランク」をリアルタイムでクラウドから同期。プレゼントの在庫管理と配送ルートを0.1秒ごとに最適化します。
以上のように、電力をたくさん使いますから、12月のクリスマスイブのために、イーロンマスクは電力会社ごと支配下におこうとするでしょう。もしかしたら原発まるごと購入しようとするかもしれません。

3. AI:合理的かつ「挑戦的」なパーソナリティ

X(旧Twitter)との連動をするでしょうな。配送の様子をライブストリーミングし、それぞれのサンタの「仕事の効率」を全世界のユーザーがスコア化して競わせるでしょう。賭けの対象になるこもしれません。競馬的な・・・?もう、子どもの世界のものではなくなりますね。大人が、目を血走らせてギャンブルを始めますから。

さて、テスラに任せていたら、弱肉強食の恐ろしいサンタストーリーが始まってしまいますが、我らがトヨタだったらどうでしょうか?

トヨタ版サンタ・ソリ
『八百万(やおよろず)ハイブリッド・システム』

1. 自然の「気(エネルギー)」を乗りこなす

トヨタのソリは、テスラのように自らのエンジンパワーで空を「こじ開ける」ことはしません。
• 環境調和型・流体制御: 日本の龍が雲を呼び、風に乗るように、ソリの表面に巡らされたナノ・デバイスが周囲の「雨、雲、風、水蒸気」とダイレクトに対話します。
• 現象: 水蒸気の密度を調整して浮力を生み、風の乱れを推進力に変える。つまり、ソリそのものがパワーを持つのではなく、「自然界に満ちている力を、知能(AI)によって最適な流れ(フロー)へ変換する」ことで浮上します。

2. 動力源は、『スピリット・ハイブリッド』

ここでトヨタの代名詞である「ハイブリッド」が、物理を超えた次元で実装されます。

1)「デバイスの精密な計算」(西洋的・分析的合理性)
2)「サンタと自然との共鳴」(東洋的・神通力的な全体論)
この二つをリアルタイムで調和させる「ハイブリッド・トランスミッション」こそが、トヨタ製ソリの心臓部です。天候が荒れれば自然の力を借り、急ぎの場面ではデバイスが補佐する。この「補い合い」こそが、最も効率的で安定した飛行を実現します。

3. ドラえもん的な「自働化」デバイス

• 自働化(知能化): ソリに搭載されたAIは、単に自動で飛ぶのではなく、サンタが手綱を引く「感覚」を尊重します。
• 人馬(龍)一体: サンタの微細な精神状態を読み取り、まるでドラえもんがのび太の成長を見守るように、必要な時だけ「自然の力を操るサポート」を差し込みます。サンタは、自分が龍の背に乗って風を操っているかのような一体感を得るのです。

4. トヨタの弱点: 「ハイブリッドゆえの複雑さ」

• 弱点: すべてを調和させようとするため、システムの「深み」が無限に増していきます。
• 現象: 自然界の全ての水蒸気や風と対話しすぎるあまり、時として「今は風と対話中なので、少し待ってください」と、ソリが瞑想のような状態に入ってしまう(高度な環境最適化による一時停止)。とくにハイブリッドの場合、冬場の暖房が入りにくく、それがあったまるのに時間がかかります。また冬場は燃費が悪くなる傾向があります。
「バッテリー保護のために飛行速度を制限します(カメさんマーク点灯)」と表示され、配送スケジュールが遅延するリスクがあります。

このように、企業風土や文化が違うと設計思想が異なるために、やっぱりそこから生まれてくる製品もかなり違ったものになると思います。
トヨタは、トナカイを解雇しませんが、テスラは即刻クビと言うのも、企業風土のなせる技でしょう。

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サンタクロースとは何者か、と言う問いを立ててはいけない理由

サンタクロースに関しては、1年生を担任した時が一番面白かった。
クラスで2時間くらい討論した。
どこから家に入るのか?

問いの立て方が、具体的だった。
サンタって、何だろう?というような、ふわっとした問いなら、あんなに盛り上がらなかったと思う。

ところが、この時の問いは違った。
「サンタはどこから家に入るのか」
この問いは、とても具体的だった。

私が問いを立てるときに気をつけていることがある。
数学者の岡潔が本で書いていたことだ。
「問いを静かに3回繰り返して唱えろ。その間に複雑化するようであれば良い問いだとは言えない。しかしその間にシンプルに定まるようであれば良い問いだ」

色々と注釈をつけたくなったり、頭の中で解説が始まったり、枝葉の部分が増えるようであれば、それはまだ吟味されていない問いなのだ。
そして、問いと言うのは、自分の中心から発するものであるべきで、よそからの借り物ではまずい。岡潔は数学者だから、思考そのものに美しさを求めた。

さて、「サンタはどこから家に入るのか」という問いは、「サンタは何者か」という問いとは大違いである。それは、whatやwhyを問うような、東洋的な思想ではなく、How toを問う。近代の合理性に基づく、西洋的な科学的な思考であります。

従って、非常に教室の中での討論には向いている。

実際に教室の中で問うべきなのは、こういった西洋的なハウツーを話題にするのが良い。様々なアイディアが出てきても、合理性と言う1点で、全員の納得を得られる【解】が存在するからだ。

ところが、教師側が誤って、東洋的な思想を用いて、「サンタとは何者だろうか?」と言う問いを立ててしまうと、それはどこにも合理性を見出すことができず、全員が合理性と言う1点を指針にすることができなくなり、どんな解でも、それぞれの納得と言うものがあれば、それで良いと言うことになってしまう。つまりこの時の討論は、話題は広がるが、収束はしなくなる。

以前の記事に、小学1年生がこの討論をしたときのことを載せた。反響がずいぶんあり、先生の仲間から、「私もやってみました。面白かったです。」と言ってもらったりして、なるほど。問いの立て方は大事だなぁと勉強になった。


さて、今年は3年生である。
3年生の教室で、給食の時間にふと話題になったのが、サンタのそりは、なぜ飛べるのかと言う点であった。
これは、「サンタのソリは、どのような仕組みで飛んでいるのだろうか」と言う問いにすることができる。これはかなりシンプルである。岡潔のように、静かに3回繰り返しても、心の中で複雑にはならない。

これを言い出した子は、ただの面白いことを言った、ちょっと受けた、と言うだけでおしまいにするつもりだったようだ。話題にして30秒も持てば大丈夫、と言うつもりだったと思う。

ところが、私は、その問いが面白すぎて、次の時間に、15分ぐらい使って、みんなに紙を配ってその理由を書いてもらうことにした。

クラスの半数以上が、西洋的な魔法を信じていることがわかった。サンタが主体的な態度により、ソリとトナカイに、ある魔法をかけているのです。それは、魔法の粉とも言うべきもので、実際にディズニーの映画もしくはアニメの中で、サンタが、魔法の粉をふりかけたのを見ている子が何人もいました。

ここからが大事なんですが、多くの子がその行為によって、「あ!だから、そりは飛ぶことができているのだー」と納得をしたということなんです。彼らは西洋的な理解の仕方をしています。ソリは自分の知っているソリと同じです。しかし、そのソリには、具体的に粉を振りかけられたので、デバイスが、その能力を得たということです。

さらに、3割ほどの子は、理由はないが、なんとなくサンタの存在ってそんなもんなんでしょ、なんか神がかってるんでしょサンタって。
・・・という、東洋的な理解を示していました。天女が飛ぶのと、同じ納得の仕方です。あるいは浦島太郎で亀が喋るのと同じで、なんかそういったもんなんでしょと言う理解です。
ソリというデバイスに、何か具体的な、納得のできるような工夫があるのかどうかは問わないのです。「なんかそうらしい」と言う、曖昧模糊とした納得の仕方でも、大丈夫だと言う層が3割いるわけです。

少数派でしたが、クラスの1割ほどは、よくトレーニングされたトナカイが、生体デバイスとしてグレードを上げるのだと言っていました。

「にんじん食べるでしょ?」

私は古い人間で昭和生まれなので、このことを知らなかったのですが、何か、クリスマス・イブの夜ににんじんを屋外に吊り下げると言う風習があるんですか?

イブの夜、西洋の子どもたちはトナカイのために「ニンジン」を外に置いておきます。これを食べることでトナカイが超人的なパワーを得る、という説明です。

この子たちも、ただ単に、いきなりトナカイが、重たいそりとともに、空中に飛ぶわけがないと信じているわけです。
これを納得させる何かしらの処方が必要となったわけで、そこで西洋の大人社会は、イヴの夜にイベントを仕掛けます。窓の外ににんじんをぶら下げるのです。すると、世界中の子供たちがにんじんをぶら下げることになり、その子供たちの夢の詰まったにんじんを食べることにより、デバイスに変化が生じ、トナカイは空を飛べると言うことです。これは西洋理解です。

そのため、こんなふうには思わないのです。

「トナカイってのは、たまには空を飛ぶんだよ」

サンタとはそういうものだ、と言う理解はしないんですね。というかできないのです。これは西洋の合理的知性が、「そんなわけないだろう」と、否定するからですね。
ところが、東洋の子供たちは納得を先にします。天女は空を飛ぶんです。そして、龍は、風と雲をあやつって、自在に空を飛べるんです。羽がなくても。

今、クラスには、西洋的な理解で納得する子が半分、東洋的な理解で納得する子が半分。
つまり、2025年のクリスマス時点では、日本と言うのは、ちょうどその半々、中間の地点に、国民性としては位置しているんではないかと思います。

西洋の子供たちは、Howを問うことを鍛えます。
東洋の子供たちは、どちらかと言うとそうではなくて、どうしてプレゼントを配るんだろう、というような哲学、サンタの存在意義は何か、という問いをもち、全体的なストーリーとして「理解」しようとすると思います。まずは不思議な存在を受け止め受容しようとする気がします。

昭和の子どもも、TBSで放送していた、まんが日本昔ばなしで、龍の子太郎がでんでん太鼓を持って、龍の背中に乗って飛んで行きますが、あの龍には羽根なんて生えてません。それでも飛ぶことにみんな納得していたわけです。
これは合理性とは言えませんね。龍の持つ精神性と、神通力と、雲や風と言う自然の力と、「気」の流れで、ストーリーとして、龍が飛ぶのは、あり得る、と納得するのが、昔からの日本人の性質です。

「あの龍、羽が無いのに、飛ぶわけねーだろ」

と、騒ぎになった事はありません。
ところが、西洋の子供たちは違います。あくまでも合理性を追求したくなる心理性を持っております。だから、アメリカ合州国の子どもに、あのオープニングの動画を見せると、

「このドラゴン、羽が生えとらんやんけ」

と言うそうです。

確かに、エルマーと龍でも、あのドラゴンには羽根が生えていますもんね。デバイスのほうに、何か仕掛けがない限り、飛ぶわけないだろと思うわけです。だからエルマーとりゅうの挿絵では、龍はしっかりと羽を動かして飛んでおります。

東洋的理解と西洋的合理性、どちらが優れているかは分かりません。
風と気をあやつる龍と、羽を動かすドラゴン。
どこに重点を置くかが異なる国民性なわけです。

ここが、トヨタとテスラの違いです。
Appleは、東洋思想を重視したスティーブ・ジョブズがいましたので、その中間に位置します。

話が長くなったので、トヨタとテスラの違いはまた今度しますね。

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「たくろう」本当は喋りたくない

M1で優勝した「たくろう」。
あれ以来、各局で引っ張りだこだ。

テレビで漫才を見ながら、ふと思った。
彼らは、
『本当は喋りたくない』という漫才をしてるのではないか。

話題を設定する側のきむらバンドさん。
対する赤木さんは、基本的に「ノーガード」に思える。
きむらバンドさんの振ってくる話題やワードを、慌てながらも必死になって受けて反応する。
観客はその必死さと、とっさにでてくるとっぴでウィットに富んだ返しに笑う。

私が気になったのは、赤木さんだ。
赤木さんは、何かを言いたくて、この場に出てきたのではない。
何故かわからないが、連れてこられたという感じがする。相方から言われるがまま、とりあえず来てみましたけど、という雰囲気がある。
赤木さんは、本来なら、何も話す事は無い、と言う立ち位置だ。

しかし、私たちは、赤木さんの立ち振る舞いに妙に惹きつけられてしまう。
今年のM-1は、この赤木さんが、
「すべて持って行った」
と最高の評価を得ている。

なぜ、私たちは、ここまで赤木イズムに魅力を感じるのだろうか?

ここで私が思い出すのは、竹内敏晴さんだ。

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竹内敏晴(たけうち としはる、1925年 - 2009年)さんは、日本の演出家であり、「竹内レッスン」と呼ばれる独自の身体表現・コミュニケーション論を確立した、戦後演劇界の非常に重要な人物です。

彼は「啞(あ)者は最も雄弁に語る」という言葉を残しました。彼の思想の核である「からだ」と「言葉」の関わりを象徴しています。
竹内さんの思想を紐解くと、なぜ赤木さんの姿に私たちが強く惹きつけられるのか、その理由がさらに鮮明に見えてきます。

竹内さんは、プロの役者から、重度の障害を持つ方、不登校の子どもまで、幅広い人々を対象に「レッスン」を行いました。
彼が求めたのは、あらかじめ用意された「上手な演技」ではなく、その人の「からだ」が今、この瞬間に何を感じ、どう反応しているかという生々しい事実でした。

「たくろう」の赤木さんには、「笑わせてやるぞ」というのを一切感じないでしょう?
普通の漫才は、ボケが能動的にボケて、ツッコミがそれを正します。しかし赤木さんの場合、きむらバンドさんの言葉に対して「反応せざるを得なくなって、変な出力が出てしまった」というだけです。

役者が「自分を良く見せよう」と力んでいる間は、その人の本当の姿は見えてこない。その力が抜け、途方に暮れ、ただ立ち尽くしたときに初めて、その人の「存在」が立ち上がる。

竹内さんが「啞者は最も雄弁だ」と言った背景には、彼自身が少年時代に難聴を患い、一時的に言葉を失いかけたという原体験があります。

• 言葉を操れない人は、その分、全身で他者と触れ合おうとし、からだ全体で何かを訴えかけます。
• それは、記号化された「論理的な言葉」よりもはるかに、相手の心の深層に届く「震え」のようなメッセージになります。
• 赤木さんが、言葉が詰まったり、視線を泳がせたりする時、私たちは彼が発する「言葉の内容」ではなく、彼が「そこに必死でいようとするエネルギー」そのものを受け取っているのです。

竹内さんは、コミュニケーションを「情報の伝達」ではなく、「からだ」と「からだ」が出会い、響き合うことだと定義しました。

• 赤木さんの漫才において、相方のきむらバンドさんは、いわば「世界(あるいは社会)」の象徴です。
• 赤木さんがきむらさんに合わせようとして失敗し、戸惑う姿。その「不全感」こそが、観客という「他者」と最も深く共鳴するポイントになっています。

竹内さんの視点で赤木さんを見ると、彼は「舞台上で最も無防備で、最も誠実な存在」と言えるかもしれません。

「何かを表現しようとするのではなく、そこにいることの困難に耐えている姿が、結果として最も強く他者の心を打つ」

小学校の教室にも、赤木さんのようなタイプの子はたくさんいます。うまく言えなくても、うまく伝えられなくても、それでも必死になって自分のあり様を考え、困惑しながら言葉をつむごうとする。
クラスの子たちは、この姿から学ぶことが多いです。上手にスラスラ、だけが、お手本というわけでは、決してないのです。


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