30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

子どもが主人公になるクラス

教員になって、最初の5年くらいは、自分がどんな授業するのかに力が入っていました。
こんな教材、こんなアイディア、新しい本が出ればそれを買い求めて読みました。多くの実践をできるだけ見たくて、研修にも応募しました。

新しい知識を手に入れると、すぐにそれを試して得意になってましたね。どちらかというと、子どもよりも先生が教室の主人公になっちゃうパターンです。

書物や講座、研修を受けると自分が学んでいる気持ちになれました。

ところが、それだけでは、どうしても到達できないのです。自分の授業アイディアが豊富になったとしても、だからといって、本当に子どもが育ったかというと、違うのです。授業のアイディアは豊富な方が望ましいでしょうが、そもそもの立ち位置が違えば、子どもは教室の主人公にはなってくれないのです。

本当に子どもに主体性が育ってるのか?と問いはじめて、これは努力の方向が違うぞと気がついたのが、15年ほど前でしょうか。

それまでは、自分がまずいわゆる上手な授業をして興味を持たせ、さらに子どもにたくさんの課題を示して、その課題を一生懸命にこなさせようと数を目標にしました。しかしそれだと、今度は子供の顔が険しくなってくるんです。

一人ひとりの顔の表情に柔らかさや、楽しさが消えて、まるでサラリーマンのような、追い詰められた顔になっている気がする。そこで、子どもに何かをさせると言うよりも、教師は一歩引いたところで環境整えることに集中しようと考えました。叱らないと言うのもその環境作りです。

子どもには、何よりも安心できるコミュニティーが必要です。
安心できる居場所があれば、勇気も知恵も力も湧いてきます。

そして、自分が今どこを目指そうとしているかと言うしっかりとした見極め、自分の立ち位置をよくわかるような物差しや地図マップ、俯瞰した上空からの航空写真のようなものが欲しいのです。

つまり、多くの先生方が見通しと呼んでいるものですね。

自分と言う人間を理解するための手がかりや物差し、そしてどっちの方向に進んでいくと良さそうかと言う「見通し」が持てれば、子どもはものすごく力を発揮します。

ところが、これは言葉で伝えようとしても、なかなか伝わらないんですよ。
子ども自身が実行を通して、体での体験を通して実感しなければ、しっかりとは身に付かない。

だから、いつもの授業は欲張らないことにしています。正直、指導書の隅から隅までをやろうとは思っていません。
予定時数をオーバーして、学級や余裕のある時間が減ってしまうと、本当にやりたいことがやれなくなってしまうからです。

本当にやりたい振り返りの時間を確保するには、ほとんどの授業では、欲張らないことにしたのです。
普段欲張らないからこそ、結局のところ、本当にやりたかった目標が達成できるのです。

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刃物を持った男が歩いている→畑の草を刈るお爺さんでした

田舎なので、そこら中にいるんです。
でも、それは日本人がおそらく室町時代から続けてきたことですね。

鉄の鎌、鉄の刃物を、持って歩いている!

草刈りをしてるジイサマとバアサマです。

しかし、通報されることがあります。

仕方ありません。

子どもは身の危険を感じたら、子ども110番の家に駆け込んで、大人に伝えろ、と訓練されていますから。

下校中に、同時多発的に電話が鳴り、
「刃物を持った男が出ました!」
職員室に緊張が走ります。
パトロール優先だ、今の仕事はすべてキャンセルし、職員は直ちにパトロールに出動!

同時にもう一件、

「こんどは刃物を持った女です!」

電話を受けた事務室から、さらなる声。

「今度は女か!」
「2件目です!」

バタッと職員室の扉が開いて、慌てて入ってくる刑事、いや、もとい教師たち。

「どうした!事件か」
「刃物持った男と女です」
「場所は!?」
「下校中の子どもからだそうで、その話を聞いた保護者からの電話です」
「保護者が不安で泣いてるそうです」
「保護者が!」

校長は、完全に石原裕次郎の顔で、

「みんな、行ってくれ!」
「はい!」

・・・これが、春は多いんですよ。
いえ、ほんとに不審者ってこともあるのでねえ。

頼むから、一年生の下校の時間だけは、草刈りをやめてくれ。

その時、3件目の電話が!

「刃物を持った男が、歩いてるそうです!」

歩いてる・・・。いったいどこを!?

「校庭の横の畑だそうです!」

いや、不審者ってこともあるのでねえ。

頼むから、草刈りは午前中にしてくれ。

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家庭訪問についての議論

私が神奈川で教員をやっていた時、約20年ほど前ですが、その頃には、まだ家庭訪問がありました。東京でも神奈川でも、家庭訪問は普通に行われていました。
個人情報保護法が叫ばれるようになってから、赤の他人に家の中を覗かれたくないと言う理由で、まず東京都から家庭訪問はなくなりました。

近隣の神奈川県や横浜市などの自治体も相次いでそれに続く感じで、家庭訪問は中止されました。

全国的に家庭訪問は下火になり、消えていく運命かと思われたのですが、いわゆる地方では、まだまだ家庭訪問は続いています。

私の住んでいる地域でも、まだ家庭訪問があります。私自身は家庭訪問には一定の効果があると思っています。
何よりも、親御さんが、人目をはばからずに、自分の子供についての相談をしっかりとすることができること。

学校に来て教室で行う個人懇談もありますね。学校によっては、子供も含めた3者懇談を行うところもあります。

ところが、これは本音が出しにくい。
子供の前では、本音が出せないし、たとえ子供がいない2者懇談の場合であっても、次の時間に廊下に来ておられる別のお母さんがひょっとして聞いているのではないかと思うと、本当のことを伝えにくいと言う親もいるのです。

つまり、家庭訪問は、学校の先生に相談したいことがあるお家の方にとっては、良いチャンスなのですね。

一方、家庭訪問は、お家の人にとっても学校にとってもメリットはありつつ、どうしても学校側にとっては悩みの種になっております。

それは先生たちが家にたどり着けないと言うことです。

Google マップで調べればいいじゃないか、と簡単におっしゃいますよね。
あるいは、ゼンリンの住宅地図があるじゃないか、と。

まずゼンリンの住宅地図は学校には備え付けてありません。ご存知の方も多いと思いますが、あれはめちゃくちゃ値段が高く、学校は貧乏なので買えないのです。

となると、Googleマップで調べれば良いかとなりますが、実はGoogle マップも新しい住所は載っていません。また、細かい番地は、「不明」と表示される割合が高いです。田舎だからかな・・・。

大体、このへんかな、と思うところまでは行けるけれども、お家が2軒隣同士に並んでいる場合、どっちだろうと担任は道路の上で悩むときが多いです。子どもが35人いたら、20人は悩むイメージ。

この時に役立つのがお家の方が出してくださる地図です。
これが役に立ちます。
ポストのある角を曲がるだとか、何とかと言うミシン教室の看板がここに立っていますとか、桜の木があるだとか、水色の壁に沿って歩いていくと、白い壁の家が見えますだとか。

お母さんが書いてくださる地図のわかりやすいことなんの。

ところが、お母さんが忙しくて、お父さんが地図を書いてくださることがあります。お父さんは忙しいので、時間短縮のためにGoogle マップをおうちの家庭用プリンターで印刷してペタっと貼り付ける方もいます。
で、この辺です、と赤い丸がついてる・・・。

お分かりですね、これ何の意味もありません。

Googleのマップなら、担任が握り締めていますから。スマホで見ながら行くんですから。
少なくとも家の近くまではこれでいけるんですから。

担任が躊躇するのは、今目の前にある水色の壁の家の呼び鈴を押して良いのか、ということです。
それともすぐ隣の黄色い壁の家なのか。

細かい番地まで出てこないGoogle マップの場合、担任はある意味、賭けをしなければならない。

一か八か!
黄色か、それとも水色か?

世の中のありとあらゆる地図マップをすべて駆使しても、それらは現在の細かい住宅地図を反映はしていません。
3年位前にできた家ですら、番地を確定できないで、「お探しの番地は不明です」としか表示されないのです。

どこかに表札があれば良いですね。

ご家庭の苗字が表示されていれば、ここで安堵のため息が出て、担任の顔には笑みがこぼれるでしょう。

ところが、昨今、おうちには、表札がありません。

この状態を救うのは、ご家庭のお母さんがお書きになる。詳しい地図や目印です。

ポイント
◯おうちの壁の色を書いてください
◯フェンスがあれば、フェンスの特徴や模様色などを書いてください
◯玄関の横に何かワンポイントになるようなものを置いてください
◯表札があれば、上記のポイントは無視して下さって結構です。そうなんです!表札さえあれば・・・!


しかし、なぜ、今の家には、表札がないのでしょうか?

全国民が、表札を必ず出しているのであれば、すべての悩みは消えますね。

おそらく入学式の時に保護者が受け取るであろうおうちの地図を書いてくださいと言う用紙は、おうちに表札があるのであれば、配られなくても大丈夫だと思います。

現代の日本では、表札はなぜ不人気なのでしょうな。どなたか、考察をお願いします。

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先生用の机を教室の後方に置く

春休み、というのは実は裏返し。
3月4月は、先生たちがめちゃんこ忙しい時期です。

その3,4月だからこそ、できることがあるのでして、
すべてリセットするわけで、クラス替えもあるし、担任の異動もある。
環境がガラッと変わります。
校舎も教室も変わると、職員室から教室へ向かう道すじも変わり、景色がすべて変わります。
これを経験すると、春だなあ、と実感しますね。

わたしはこの春、教室が変わったことをきっかけに、あることに挑戦します。
それは、教卓の場所を変える、というやつ。

これまでは黒板の横、先生の道具を置く棚があったので、その前に先生用の机を横付けしておりました。

これを10年以上変えてこなかったのですが。

ふと、なんだかその気になりまして。

今年は、先生用の机を、教室の真後ろにもってきました。
ふだん、保護者のみなさんが授業参観のときに立つ場所ですね。ここに、先生用の机を持ってきた。

それでね、今日はそのシュミレーションで、座ってみたわけですよ。そうじしたりしながら。

すると、やはり景色がちがう。
子どもがなにをするのか、背後から見守る感じになる。
これは、おもしろそうだ、と思いました。

どうなりますかね。

メリットとしては、どんなものがあるでしょうか。
子どもたちを後ろから見渡せる

授業中の子どもたちの様子や、ノート・タブレットの操作など、全体を俯瞰しやすくなるため、見逃しが減るのでは。

「子ども中心」の教室になる

先生の机が前にないことで、前方スペースが広く使えたり、子どもが主役である雰囲気が出ます。先生も“黒板前に立って指導する人”から“近くで伴走する人”という印象になるのでは。

教室前方をフレキシブルに使える

掲示スペース、図書コーナー、朝の会・帰りの会の場など、前方を多目的に使えるようになるのでは。

子どもとの距離感が変わる

休み時間や授業の合間など、後方で何気なく過ごしていると、気軽に子どもが話しかけに来やすくなることも考えられます。


どうでしょうかね。
やってみて、どうか・・・でしょうかね。

世間の多くの方たちと同じく、先生たちは、いつも4月に、新しい気持ちになっています。。

人間にとって、リセットの季節、というのは、大事ですね。
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寝ていても団扇のうごく親心


江戸というところは、狭い長屋に、何人もの人が、協力して住んでいまして、そこには当然、子供もたくさんいたわけで、生まれたての赤ちゃんに限らず、隣近所の小さな子供を、どんなふうにして子育てしているのか、お互いに見ることが多かったのでしょう。

そうすると、こんな川柳が生まれるわけですね。

寝ていても、うちわの動く親心

なるほどなぁ。
たった17文字ですが、その場の状況がさっと目の前に浮かんでくるようです。

添い寝中にウトウトと寝てしまった親が、それでも我が子をあおぐ手だけは止まらない様子。

親の気持ちが伝わってくる。

なんだ。江戸時代も今も全然変わらないじゃないか。何世代前の親だって、疲れていたら、自分も寝てしまうだろう。しかしながら、子どもを仰いでいたその手は止まらないで、子どもには涼しい思いをさせてやりたいんだろう。

この川柳が載っていたのが、誹風柳多留(はいふうやなぎだる)。
江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集であります。

他にも、こんなのが有名で、皆さん聞いたことがあるでしょう。

これ小判たった一晩ゐてくれろ

今は、キャッシュレスの時代ですが、昔は10,000円札と言うと大金でした。
特に聖徳太子の時代は、他のお札に比べて、ひときわ大きく、お財布の中でも存在感がありました。その聖徳太子も、たいてい短期間でいなくなるのですが・・・。

まあ、想像するに、江戸という街は、向こう三軒両隣というように、お互いの子育ての様子なんかも、暑い夏の夕方の、開け放した障子の向こう側によく見かけたんでしょうね。

そして、そんな長屋の中に、住人たちの親代わりのようにしていたのが、ご隠居さんと呼ばれる老人。あるいは長屋の大家さんが、そういう立場なのでした。

たいてい誰かが誰かの面倒を見ており、逆に、全員、ほかの誰かに見てもらっていたんでしょう。

その中には、大抵はみ出し者もいたでしょうし、吹きこぼれたような素行の悪いのもいたに違いありません。しかしそんな人たちもあれはあれでいいところもあるんだ、と、表面的には現れないその個性の良さを認めてくれるような、大きな広い心が、包み込むようにして、そこに存在したにちがいない。

大家さんやご隠居さんが、そんなふうにして、若い住人たちを、そっと見守っていたのだろう、そしてそれこそが本当の親心というものだろう、と思うのです。

さて、新しい学級がスタートしました。新しい教室、新しい机に、小さな子供が1人1人座っておりましたよ。
そして、元気よく、返事をしてくれました。

私は子どもを一人一人見ていると、その背後に、夏の暑い日、子どもをうちわで仰いであげているような親の姿が想像できるのです。
そしてその親をさらに、そっと支えているような存在が、きっといるのでしょう。さらに大きな大きな包み込むような存在の方が。

ああ・・・
じいじ、ばぁばは、偉大ですなぁ。

きっと、自分も子育てをしてきて、さらに若いお母さんが子育てをしているのを何人も見てきて、それがどんな子育てであろうと、口を出さずに、そっと見守って、本当に何かコトが起きて必要なときには、すぐにでも助けようとする人が、ですね。

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鉛筆いっぽんサラシに巻いて・・・

サトシくんと言う子がいました。
このサトシくんは、筆箱の中に鉛筆が1本しか入っていないのです。

親と同じく、筆箱の中身については、小学校では先生も指導します。
赤鉛筆1本、普通の黒鉛筆を3本4本、よく字の消える消しゴムに小さなミニ定規を1つ、名前を書くためのネームペンが1本、などのように。

サトシくんも、黒鉛筆は3本か4本持ってくると良いよ

と声をかけるのですが、いつも必ず1本しかありません。
しまいには、筆箱すら持ってこなくなりました。机の引き出しの中に鉛筆が1本あるだけです。

おうちの方に電話をすると、しばらく立派な筆箱を持ってきて、ピカピカの鉛筆が5本ほど入ってるのですが、1週間も経つとやはり筆箱ごと家に置いてきてしまい、黒鉛筆一本に戻ります。

彼は、鉛筆一本でこの人生をなんとかしよう、と決めているのです。

料理人が包丁を、野球選手バットを扱うように、サトシくんは鉛筆をいっぽんだけ持って、すべての活動を片付けようとしていました。

いささか、乱暴ですよね。
鉛筆いっぽんだけで、すべてをこなそうとするなんて。

私が、

「いったい、どんな考えで鉛筆1本だけにしているの?」

と尋ねると、

「1本で何とかなるからね」

と、まるで人生を2回か3回、既に経験してきた人のように言います。

包丁1本さらしに巻いて、の歌詞でお馴染みの

月の法善寺横町

は、包丁一本で身を立てる若人の、心情がよく伝わる歌詞です。

包丁一本晒(さらし)に巻いて

旅へ出るのも板場の修業

待っててこいさん哀しいだろが

ああ若い二人の

想い出にじむ法善寺

月も未練な十三夜


(セリフ)

こいさんが私(わて)を初めて法善寺へ連れて来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上った晩やった。「早う立派な板場はんになりいや」ゆうて、長い事水掛不動さんにお願いしてくれはりましたなァ。あの晩から私は、私

は、こいさんが、好きになりました。


腕をみがいて浪花に戻りゃ

晴れて添われる仲ではないか

お願いこいさん泣かずにおくれ

ああいまの私(わて)には

親方はんにすまないが

味の暖簾(のれん)にゃ刃が立たぬ


わたしは、いつもサトシくんを見るたびに、この歌が思い浮かぶのです。
と言っても、本当に思い出すのは一番はじめの「ほうちょういっぽん、さらしにまいてぇー、たびにでるのぉもぉ、いたばのしゅーぎょおォー・・・」のあたりまでですが。

なにかしら、サトシくんの、登校してからの立ち居振る舞いに、生きる覚悟を感じるのですよ。
生きるというのは、本当にあれこれとあるもの、いろいろとあるものです。

あとで、サトシくんが筆箱を家に置いてくるのは、以前お母さんに、鉛筆を無くしたことを叱られたからだ、と判りました。

「一本しか無かったら、絶対に無くさないからね」

サトシくんの、肝の座ったような顔つきは、この時の覚悟から、滲み出ているものだったようです。

お母さんがどんなふうに叱ったのか判りませんが、彼はその時から、自分の生き方に責任を持ったんだな、と思いました。

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小さな失敗 良い失敗

発達障害のある児童の中には、完全エラーレスの場合が望ましい時期やタイミングがあるから、万人にこれが当てはまるとは思わない。
ただ、かなり多くの人にとっては、「小さな失敗は良い失敗である」というのは、言えると思う。

また、成功とか失敗というのが、本質的なものではない、というのは、大前提であろうかと思う。人生において、成功だけにしか価値がないか、充実しないかというと、そんなことはないからであります。

たとえば、事業に失敗したからと言って、ある一面では大成功だと言える面もあるのですね。苦しい事業に取り組んで、その一代だけを見るとかなり大変に思えるが、時代が変わって技術が取り入れられたら、先代の努力が報われるということは非常によくある。つまり、その一代だけでは判断がつかないこともあり、むしろ挑戦者がいたことが周囲に与える影響は多大なのです。

成功か失敗か。
実はそれが本質なのではないことは、さまざまな人間ドラマを目にすれば誰にでも分かる簡単なことであります。
あるいは、無名で一生を終え、誰にも目を向けられることもない静かな人生であったとしても、そこには価値があり、人を感動させる事実はたくさん詰まっています。テレビや新聞、ラジオやネットで話題になるよりも、テレビに出ないでも周囲社会の人を幸せにして、まわりから感謝される人は多いのです。つまり、それが本質ではない、ということです。何者かになることが重要なのではなく、たとえ無名であっても、佳人も佳作も良品も良人もめちゃくちゃたくさんこの世に存在し、この世の多くの人を笑顔にしているわけですな。

そこで、では子育てにとってこのことがどう影響するかというと、めちゃ重要でありまして・・・

幼いときから、なにかあるたびに、

「小さな失敗、良い失敗♪」

と、たえず親が歌うようにするのです。

あとは、

「あなたがやれたことの9割は、他の人の手が入っている(お世話になっている)」

だとか、

「人が一心に打ち込んでいると、そのうちの半分が本当に実現する」

などということを、子どもが思春期になったら、遠くの方を見ながらつぶやくようにするのですね。

とくに学校の教師は、低学年の頃からこれを教室で口癖のように言うことです。

小さな ♪  失敗 ♪  良い失敗 ♪

と、明るく、ね。
子どもはずいぶん助かるだろうとおもいます。

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「人を育てる努力は、結果と比例しない」

先日の日曜日に書いた記事は、「学級経営と言う言葉から離れる」という記事でした。


この記事を読んだ嫁さんが言うには、

「なんか分かったような分からない文」

だと。

「結局、どっちなの?」と尋ねると、

「うん、分からんね」と。

そしたら、今日火曜日になってAERA.netに掲載されたホヤホヤの、鴻上尚史さんの文書が非常によく言ってくれてるのを見つけた。

さすが鴻上尚史さんで、言いたかったことをズバリ書いてくれている。

まとめると、「人を育てる努力は、結果と比例しない」ということです。



鴻上さんは、ある教員の悩みに答えるようにして、アンサーを書いてくれています。やはり劇団を経営してきた人だなあ、と感心しますね。学級経営と同じで、劇団員の生活や恋愛、経済状態までどんなこともひっくるめて、世話をし、相談にのるのが鴻上さんの仕事です。担任も、ほぼ子どもをとりまく全部の世界に関わって世話をします。
悩みを打ち明けた、この先生も、子どもの全てを世話することの意味と価値を問うたのですね。

鴻上さんは、こうも書いてる。

「全てがコントロールできるのなら、全ての責任は自分にある。でも、相手は人間だから、全てをコントロールできないし、コントロールしようとしてはいけない」

私は、鴻上さんのアンサーにとても近いのですが、ほとんど先生には力など無いのでは、というように思ってます。

しかし、この30代の先生を励ますために、このように書かれたのでしょう。
私はそんな鴻上さんの気持ちに、全面的に賛成しますね。

ただ、私は歳をとって、すでにお爺さんの目線で子どもを見ているために、自分に力がなくても、まったく大丈夫だと思うようになりました。なぜなら、子ども自体に力があるからですね。

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学級経営と言う言葉から離れる

今年になって、学級経営と言う言葉が引っかかるようになってきました。

言葉の元の意味としては、全く問題のないことであり、言葉の原点に立ち帰れば当然あるべき言葉です。

しかし、我々教師の意識として、どうにもついて回るうさんくさい意識があり、そのことから、逃れたいと言う気持ちが出てきたのです。

それが経営と言う言葉の後ろに隠されている意識で、「このようにすればうまくいく」と言うものです。

教師がこのような意識で、このような指示を出し、このように子供と接すれば、子供との関係がうまく作れてうまくいくと言うストーリー。これが最近語られている学級経営と言う言葉の意味になってきているような気がします。

ところが、教師がいくら何かを願って、何か行動したところで、それがうまくいったいかなかったと言うふうに捉えるのは間違っていると思うようになりました。

そもそもうまくいくとかうまくいかないと言うことも無いのではないか?というのが、今の心境です。

無い。
うまくいくとかうまくいかないとか、そういうものがそもそもないのではないかと言うことです。
だから、うまくいかせようと思って、何かをすると言うことが、そもそもないのではないか?・・・と。

なぜそんなことを思うようになったかと言うと、年末にある研修を受けたのですが、その研修がもう5分後には嫌になっていて、開始5分後にもう参加しているのさえ辛くなってきたからです。

その研修は、要するに、どういうものだったかと言うと、「こうすれば、うまく子供が操作できる」と言うものでした。

いわゆる教育技術と呼ばれるようなものですね。

20年前の私ならそれを喜んで受け入れたかもしれません。でも、今の私には全く不要だとさえ思いました。
というか、20年前の私ですら、それは害悪だったでしょう。

要するに、子供を操作しようとか、変えようと思うこと自体が、すべての誤りの出発点だったように思うのです。

そして教師が何かをしたから、きっと子供にはこのことが良い影響になるだろうと言うのは、完全に教師の思い上がりであり、私たち教師が何かをしたら、そのことの効果が上がると思っていること自体が思い違いなのです。

教師が何かアクションをすると、きっと良いことがあるだろうと言うのが既に間違いだと思うのです。

では、なぜ教師が学校などと言う制度の中で、子供に対してアクションを起こしているのでしょうか?
それは子供の安全を守るためです。
それと、子供が安心するからでしょう。おそらく・・・その2つでしょうね。

教師が何かをしたところで、うんと効果があるなんて事は無いのです。
おそらくほとんど効果のないことを試しにちょっとだけやってみると言うのが教師の事実です。それらはほとんど効果はありません。もし、あったとしたら飛び上がって喜ぶべきです。さらに言うと効果があったと言うふうに判断するのは、少なくとも10年後の子供たち本人です。我々教師は、口が裂けても効果があったと言い切ってはいけません。

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ひとりごとを、努めて言おう

小学生の近くにいると、彼らが基本的にはリラックスできているのがわかる。
友達や先生と良いコミュニケーションをとり、家族に支えられながら、暮らすことができていると思う。

小学生が大人と違う点はたくさんあるが、その一つは、子どもはひとりごとをよく言う、ということだ。

あれ?

とか、

なんだコレ?

とか、

大人でもまあ、言うことはあるし、人によっても頻度は違うだろうが・・・

それでも大人は、目の前に起きた事象に対して、努めて黙って処理する大人が多い気がする。

しかし、子どもはよく、ひとりごとをつぶやいている。本当に、1人で、自分にだけ聞こえる声で。

この世の中には、誰か、ひとりごとを言う頻度を年齢別に調査した人はいるのだろうか・・・この「人間がひとりごとをいう確率」についてはエピデンスは無いが、たしかにそうだと思う!
長らく小学校の教員を務め上げてきた私の、個人的な見解だが、断言したい。

ここからが本題となるが、その小学生のノリが我が身に伝染してしまったようで、私も独り言が多くなってきてしまった。

これは以前の職業のときには絶対になかったと思う。システムエンジニアや、他の職業をしていたときには、独り言なんて言わなかったし、常に黙って黙々とやり続けるのが私の性格であった。

いや・・・もしかすると、ただ単に歳をとったせいかもしれないナ。

どちらにしても、独り言はとても良い効能がある、ということを、わたしはここで言いたいのである。


ひとりごとには、効用がある。

ぜひここでオススメをしておきたい。

独り言を言うとちょっと客観視できるようになる。
自分が今どんな状況に陥って、そのことに対してどんな反応をして、どんなことを思っているのか、感じているのか、それを一旦表現してみる。
すると、その自身の起こした反応や表現が、自分の耳を通して聴覚として伝わってくる。
その際、今の出来事と自身の反応について、客観視が行われるのだろう。

声のトーンや調子でも、自分の内面がよくわかる。
本当に焦った声なのか、それともむしろこの状況を楽しんでいるのか、めんどくさいと思っているのか、声の調子でも、そのことが自分にはよくわかる。客観的に自分の今のレベルが伝わってくるのである。

お勧めの独り言は、簡単なものだ。

おすすめの1番は、「アレ?」である。

日常生活の様々な場面でこれをよく使っていただきたい。

どんなときも、ひとりごとを言うのですよ。そして、ひんぱんに、あれ? とか、 アレー! とか、ことあるごとに言うのです。1週間やってごらんなさい。非常にこころもちが変わってきます。これは、子どもから教えてもらったことです。 IMG_5104





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