コースケは、夏休みのキャンプに来た子どもだ。
これは、今から10年ほど前の、夏の出来事だ。
私は当時、農場で働いていたが、村のキャンプ場を訪れた子どもと、出会いがあった。
まだ教師をめざす前のことだ。
今ふりかえってみると、この頃から、子どもの成長に関わろうとする気持ちが、自分の中に育っていたように思う。
そのときのことを、少し、ふりかえってみたい。
キャンプの期間中、子どもたちは勝手気ままに遊びつくす。周りには田んぼや畑、牛舎もあるし、カブトムシのいる林もある。川もあれば野球の道具もある。今日は何をしようか、明日は何をしようか、という具合で、子どもたちどうしで自由に遊んでいたようだ。
僕は、キャンプ場への行き帰りなどに、林の中で遊んでいる子どもらの様子をちらりと横目で見、
「ははあ、やってるな」
と思いながら、脇を通ったりしていた。
キャンプのプログラムの中に、ある面白い計画があった。
これを「マンツーマン計画」と呼んでいて、この日は一日中、どの子も全員、それぞれ一人づつ、キャンプの大人の人にくっついて、日が暮れるまで生活を共にし、山の暮らしを体験する。
今回、僕も、そのマンツーマン計画に加わることになっていた。
マンツーマンの日が近づいてくると、事務局から、一枚のFAXが届いた。
「明日、子どもとマンツーマンをしてもらいます。安全面に気をつけて、楽しくやってください」
僕は、FAX用紙を眺め、目で一字一句を追いながら、
「うひゃあ」
と、叫んだ。
相手は、小学校2年生だ、と書いてある。
「あれ?2年生って、いったい何歳(いくつ)なんだっけ?」
僕は、自分が小学校2年生だった頃のことを思い出そうとして、腕を組んだ。
・・・いったい、この子に、どんな一日を用意したらいいのだろう?
「人間の考えは常に変わり得るもので、その都度、違ったり変わったりするのが当然で、固定できるものではないから、自分も人も誰の考えや行いも、良いともダメともしないで受け入れていけるのです。」
真の討論をやりたい。
勝ち負けのない討論、最後のない討論、ずっと「つづく」の討論。
考えを変えるのって、楽しいね。考えなんて、ころころ変わるね。
みんながよい、って考えるのって、楽しいね。
で、それも、結果がよいから絶対だ、とのキメツケなしで・・・(そもそもキメツケできないしね)。
わたしの心、わたしの気持ち。
いったい、本当は何をもとめているんだろう。本当の本当は、本当の本当の本当は・・・。
・・・と、考える。
それも、わたしだけでなく、Aちゃんは、Bちゃんは・・・。
いじめなんて、おこりっこない。
それができるクラスにしたい。
自分は幸運なことに、20代の大半を、田舎で過ごしていた。
いちぢくの木を間近に見る暮らしだった。牛のうんこを掃除する体験も、ある程度、積んだ。牛に小便をひっかけられそうになり、慌ててよける技術や、牛が便意を催した瞬間の気配までも察知できるようになった。
牛は、うんこをする直前、ひょいっと尻尾を持ちあげる。うんこが跳びはねて、自分の顔についたら、どんな気分になるのか。それだって、幾回も体験している。はっきりと正直に申し上げると、それがとびちった瞬間に、うしのしっぽの振り子運動によって、自分の口に直接飛び込んできたこともあった。
田舎には、畑や牛舎や鶏舎などがある。たまに野良着になって、草引きをしたりもした。
こういう状況に身を置いたことで、最近ようやく、あのクラスメートの気持ちを受けとめられる気がしてきた。
嬉しそうに「家(うち)でとれたから、どうぞ」と実を差し出す、その心が痛いほど嬉しいし、伝わってくる。あのとき、なぜすぐに「ありがとう」と言えなかったか。
今、こうやって、二十年以上も後になってようやく、それを悔やむ。
あのときの「田舎くさいなあ」という軽蔑するような気持ち、あれはどこから湧いた感情だったか。
ともすれば、泥臭さを消そうとする自分。その高慢な感情は、どこからきたのだろう。 自然に対しても、人間に対しても、根本は同じなのだろう。自然に対してプライドをちらつかせていた私は、友人に対しても、世間に対しても、同じように高慢であったにちがいない。
いちじくには、うまい、と叫んで、瞬時にむしゃぶりつくべきだったのだ。簡単なことだったのだ。
なのに、それができなかったのは、私が本当のいちじくの価値を、知ろうとしなかったからだ。私の頭の中は、あまりにも他のことで忙し過ぎたのだ。(いちじく・完)
以前、福井県の若狭湾海岸で、ロシアの船から重油がもれた事件があった。おびただしい量の重油が流れ、その回収作業がさかんに行なわれた。朝日新聞の記者は、その様子をこう記した。
「重油はまるで、牛の糞のように、岩にべっとりくっついて容易に剥がれない」
これは、牛の糞を知っている者にとっては、すこぶる言い得て妙、ピタリと分かる表現であろう。その色合いも、容易に剥がれない、という感じも、見事に言い表わしていると思う。
牛の糞というのは、粘性のあるものなのだ。うさぎや山羊の糞などとちがって、乾いたり、ころころしたりしていない。だから、牛の糞をスコップですくおうと思うと、ちょっとしたコツがいるくらいだ。ひと息に、サッとすくってしまわないと、たちまちスコップの横からボタッ、と落ちる。また、時間を置いて乾いてしまったりすると、さらに粘着性を増す。
おそらく、岩にこびりついた真っ黒い重油の固まりは、スコップですくっても、たちまちボタッと落ちてしまったにちがいない。これがウサギの糞のように、丸くてころころと転がるようなものであるなら、いっぺんに掃き寄せて、まとめてチリトリで取ることもできたかもしれないが。
この表現は、ある情景を表現するのに、いわば殺し文句のような効果をもっている。「牛の糞」という、きわめて具体的なたとえを使うことで、読者の印象に深く分け入り、その中身を直接実感させる。ここで用いられた言葉は、それだけのパワーを秘めていたはずであった。
はずであった、と書いたのには、わけがある。
実は、この表現は、実際には使われなかったのだ。編集部内で物議をかもし、最終的にはデスクの判断で消去されてしまったらしい。その理由は、「この表現が分かる人が、今の時代、もう少ないのではないか」というものだった。(つづく)
遠足で牛を見た、という子どもは大勢いる。
生活科が導入されて以来、そうした生活に密着した学習機会は多くなる傾向にはあるようだ。しかし、その中身は空疎なものらしい。文字どおり、「見た」だけ、なのだ。牛は黒色と白色だった、ということまでは分かったが、そこから先への、もう一歩が進めない。これは、もったいないことだと思う。
私は、もし仮に自分自身が、もう一度子ども時代にもどれるなら、できるかぎり、本物をみて、いろんな感じ方をし、味わってみたいと思っている。
牛のうんこはどうだったか、皮膚をさわった感じはどうか、何を食べていたか、舌の感触はどうだったか、牛の口のなかに直接手を入れてみて、何を感じたか。そういう具体的なことを実感してみるところまで、やってみたいと思う。
ふつうは、そこまでやらせてもらえないらしい。無理もない。怪我でもしたら、親から酪農家の責任が問われる。危険なことは、いくら頼まれてもやらせないのである。
牛のうんこを見たことがないというのは、困ったことだ。自分には、つくづく、そう思えてならない。(つづく)
自分は、自然体験・生活体験といったものに、まるで乏しい子どもだった。
第一、いちぢくが実をつけて、木になっているところを見たことがなかった。畑の土をさわったこともないし、果樹園も家畜も、身近な存在ではなかった。
柿の木は見たことがあった。また、たとえばリンゴがなる様くらいなら、あるていどは想像できた。蜜柑がなるのも何となく分かる気がする。しかし、いちぢくは見当がつかなかった。
いちぢくだけではなく、植物や野菜全般の本物の香り、味、実の成る姿を知らないで育った。土壌のこと、肥料、水やり、消毒、育っている環境などのことはもちろん、生産者の苦労やつくる喜びなどについては、まったく知る由もない。
「教育と環境」という雑誌に、興味深いデータが載っている。
小学生の自然体験を調査したもので、
「野外でテントをはって寝たこと」については、一回もないと答えたケースが66%あったという。
「日の出日の入りをみたことが一度もない」は41%、1000メ-トル以上の山を歩いた体験については、65%が「一回もない」と答えた。
魚釣りは、35%の児童が「まったくしていない」と答え、豚の世話、牛の世話、鶏の世話にいたっては、いわずもがな。ほとんど、体験したことのない子どもばかりだという。(つづく)
高校は郊外にあった。
付近には地下鉄の大きなラインが走り、高速道路にも接続する地区で、車の交通量はかなり多い。一帯は、大きなマンションの立ち並ぶ新興住宅地だった。
私は、箱の中を困惑した表情でみていた。
窓からさしてくる昼間の太陽に照らされて、赤く半透明の球形の実が、ひとつひとつ、あざやかにみえるのであった。まっ裸の果実には光が当たって、そこだけ赤い絵の具を溶かしたような色で、てかてかと光った。
どうも、妙な感じだったのである。
それはあまりにも生き生きとし過ぎていて、灰色の鉄筋コンクリートの中では、かえって、落ち着きのない、間の抜けたものに見えたのだ。 最初、嬉しそうな顔をして見せてまわっていた当の女の子だったが、周囲の褪めたような視線を感じたのか、だんだん元気がなくなって、結局、恥ずかしそうに果実を箱ごとしまってしまった。
そのうちに、午後の授業が始まった。
私は、ずっといちぢくのことが気になっていた。彼女は、海の近くに住んでいるのだ、ということも、その時に思い出したりした。
放課後、帰り支度をしていた彼女に、私は声をかけた。
実は、さっきのいちぢくをもらいたいのだ、と話すと、彼女は笑顔になって、
「箱ごと、あげる」
と言った。
そうして、急いで手提げ袋から取り出すと、そのまま私に渡した。
私は、その箱を誰もいない屋上に運び、一人で中身を食べた。
新鮮だし、甘い。何かの工夫をして冷やしていたらしく、なんだかとてもうまかった。
しかし、感心する一方で、正直なところ、
「こんなものを持ってくるなんて、やっぱり田舎だなあ」
と、当の女の子をからかうような、どこか軽蔑するような気持ちもわいたのだった。(つづく)
高校生の頃。
お昼休みの、なにかホッとするような時間をすごしている時、クラスの女子の一人が、
「これ、食べて。家でたくさんとれたの」
と何か箱のようなものを、私の机まで持ってきた。
これ、と見せられた箱の中を見ると、なんと、真っ赤ないちぢくである。私は、それがあまりにもだしぬけだったので、意表をつかれた思いがした。
箱は、私の机の上に、ちょこんと置かれた。
昼休みの間に、いちぢくは、こうして何人かの机の上を、転々と引っ越してきたのであった。箱の中のいちぢくは、まだ一つも減っていなかった。誰も、手を出してそれを食べようとしなかったらしい。教室には、何十人も生徒がいたのに、である。
それは、まるで、居場所を失った小動物のように、私の机の上に置かれた。
箱の中を覗くと、真っ赤に熟れた果実が、箱の中でいくつも積み重なっていた。
私は、正直なところ、困った、と思った。教室の中で一人だけ、いちぢくにむしゃぶりつく様は、あんまり格好よくないな、と思ったのだ。
生徒の大半が地下鉄で通ってくるような、乾いた都会の高校である。いちぢくの土臭さが、教室の中では、妙に浮いてみえるのだ。
当の女の子は
「みんな、食べない?」
と言って、他のクラスメートにも、ずいぶん声をかけてまわったのだった。
おそらく、実家の畑でとれたものを、こうして大切に持ってきたのだろう。親に言われてそうしたのか、自分でおいしそうだと思ったからか、長い通学時間を、朝の電車や地下鉄の中を、彼女の手によってここまで運んできたのだ。そうして、昼休みになって、ようやくチャンス到来とばかりに、皆の前に披露したのであった。 (つづく)
本当の本当は・・・、といったって、本当がすぐにみえるわけでない。
ただ、簡単なことならいえる。
ねがっている、ということがある。
自分は何を、ねがっているのか、ということ。
いつも、そこに立ち還ろうとしている。
自分の本心は、本当は、何をねがっているのか。
「何がしたいのか」という問いには、動作や所作をこたえてしまう。
「本当のあなたは」という問いには、次元や過去未来の別までを考えてしまってきりがない。
「何を学んだか」という問いには、本当にはわかっていないことを学んだ、わかったと言ってしまう。
「どうしてそうするの」という問いには、「やりたいから」とこたえてしまう。
そうやって、安易に答えてしまうたびに、あとで心の片隅が、
「本心はちがうかもね」
とささやく。それがわかる。
ただ、本心を衝く、衝くことのできる、「問い」がある。
問われるたびに、本心が、こたえようとすることがわかる。
それは、
「自分はいったい本当は何をねがっているのか」
という問いだ。
この問いには、いつも考え込んでしまう。謙虚に考えたくなる。どこまでも。
○○ちゃんは、本当は、いったい、なにをねがっているのだろうね。
心の奥底、本当の、本当の心の底では・・・