30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

コースケ1 ~小2児童を世話する~




コースケは、夏休みのキャンプに来た子どもだ。

これは、今から10年ほど前の、夏の出来事だ。
私は当時、農場で働いていたが、村のキャンプ場を訪れた子どもと、出会いがあった。
まだ教師をめざす前のことだ。

今ふりかえってみると、この頃から、子どもの成長に関わろうとする気持ちが、自分の中に育っていたように思う。
そのときのことを、少し、ふりかえってみたい。

キャンプの期間中、子どもたちは勝手気ままに遊びつくす。周りには田んぼや畑、牛舎もあるし、カブトムシのいる林もある。川もあれば野球の道具もある。今日は何をしようか、明日は何をしようか、という具合で、子どもたちどうしで自由に遊んでいたようだ。
僕は、キャンプ場への行き帰りなどに、林の中で遊んでいる子どもらの様子をちらりと横目で見、
「ははあ、やってるな」
と思いながら、脇を通ったりしていた。

キャンプのプログラムの中に、ある面白い計画があった。
これを「マンツーマン計画」と呼んでいて、この日は一日中、どの子も全員、それぞれ一人づつ、キャンプの大人の人にくっついて、日が暮れるまで生活を共にし、山の暮らしを体験する。

今回、僕も、そのマンツーマン計画に加わることになっていた。
マンツーマンの日が近づいてくると、事務局から、一枚のFAXが届いた。
「明日、子どもとマンツーマンをしてもらいます。安全面に気をつけて、楽しくやってください」
僕は、FAX用紙を眺め、目で一字一句を追いながら、
「うひゃあ」
と、叫んだ。
相手は、小学校2年生だ、と書いてある。
「あれ?2年生って、いったい何歳(いくつ)なんだっけ?」
僕は、自分が小学校2年生だった頃のことを思い出そうとして、腕を組んだ。
・・・いったい、この子に、どんな一日を用意したらいいのだろう?




みんなの気持ちが聞けるクラス




「人間の考えは常に変わり得るもので、その都度、違ったり変わったりするのが当然で、固定できるものではないから、自分も人も誰の考えや行いも、良いともダメともしないで受け入れていけるのです。」

真の討論をやりたい。
勝ち負けのない討論、最後のない討論、ずっと「つづく」の討論。
考えを変えるのって、楽しいね。考えなんて、ころころ変わるね。
みんながよい、って考えるのって、楽しいね。
で、それも、結果がよいから絶対だ、とのキメツケなしで・・・(そもそもキメツケできないしね)。

わたしの心、わたしの気持ち。
いったい、本当は何をもとめているんだろう。本当の本当は、本当の本当の本当は・・・。
・・・と、考える。

それも、わたしだけでなく、Aちゃんは、Bちゃんは・・・。

いじめなんて、おこりっこない。
それができるクラスにしたい。




いちじく6 いちじくの価値




自分は幸運なことに、20代の大半を、田舎で過ごしていた。

いちぢくの木を間近に見る暮らしだった。牛のうんこを掃除する体験も、ある程度、積んだ。牛に小便をひっかけられそうになり、慌ててよける技術や、牛が便意を催した瞬間の気配までも察知できるようになった。

牛は、うんこをする直前、ひょいっと尻尾を持ちあげる。うんこが跳びはねて、自分の顔についたら、どんな気分になるのか。それだって、幾回も体験している。はっきりと正直に申し上げると、それがとびちった瞬間に、うしのしっぽの振り子運動によって、自分の口に直接飛び込んできたこともあった。
田舎には、畑や牛舎や鶏舎などがある。たまに野良着になって、草引きをしたりもした。

こういう状況に身を置いたことで、最近ようやく、あのクラスメートの気持ちを受けとめられる気がしてきた。
嬉しそうに「家(うち)でとれたから、どうぞ」と実を差し出す、その心が痛いほど嬉しいし、伝わってくる。あのとき、なぜすぐに「ありがとう」と言えなかったか。

今、こうやって、二十年以上も後になってようやく、それを悔やむ。
あのときの「田舎くさいなあ」という軽蔑するような気持ち、あれはどこから湧いた感情だったか。

ともすれば、泥臭さを消そうとする自分。その高慢な感情は、どこからきたのだろう。 自然に対しても、人間に対しても、根本は同じなのだろう。自然に対してプライドをちらつかせていた私は、友人に対しても、世間に対しても、同じように高慢であったにちがいない。

いちじくには、うまい、と叫んで、瞬時にむしゃぶりつくべきだったのだ。簡単なことだったのだ。
なのに、それができなかったのは、私が本当のいちじくの価値を、知ろうとしなかったからだ。私の頭の中は、あまりにも他のことで忙し過ぎたのだ。(いちじく・完)




いちじく5 牛の糞




以前、福井県の若狭湾海岸で、ロシアの船から重油がもれた事件があった。おびただしい量の重油が流れ、その回収作業がさかんに行なわれた。朝日新聞の記者は、その様子をこう記した。

「重油はまるで、牛の糞のように、岩にべっとりくっついて容易に剥がれない」

これは、牛の糞を知っている者にとっては、すこぶる言い得て妙、ピタリと分かる表現であろう。その色合いも、容易に剥がれない、という感じも、見事に言い表わしていると思う。
牛の糞というのは、粘性のあるものなのだ。うさぎや山羊の糞などとちがって、乾いたり、ころころしたりしていない。だから、牛の糞をスコップですくおうと思うと、ちょっとしたコツがいるくらいだ。ひと息に、サッとすくってしまわないと、たちまちスコップの横からボタッ、と落ちる。また、時間を置いて乾いてしまったりすると、さらに粘着性を増す。

おそらく、岩にこびりついた真っ黒い重油の固まりは、スコップですくっても、たちまちボタッと落ちてしまったにちがいない。これがウサギの糞のように、丸くてころころと転がるようなものであるなら、いっぺんに掃き寄せて、まとめてチリトリで取ることもできたかもしれないが。

この表現は、ある情景を表現するのに、いわば殺し文句のような効果をもっている。「牛の糞」という、きわめて具体的なたとえを使うことで、読者の印象に深く分け入り、その中身を直接実感させる。ここで用いられた言葉は、それだけのパワーを秘めていたはずであった。
はずであった、と書いたのには、わけがある。

実は、この表現は、実際には使われなかったのだ。編集部内で物議をかもし、最終的にはデスクの判断で消去されてしまったらしい。その理由は、「この表現が分かる人が、今の時代、もう少ないのではないか」というものだった。(つづく)




いちじく4 牛にさわること




遠足で牛を見た、という子どもは大勢いる。
生活科が導入されて以来、そうした生活に密着した学習機会は多くなる傾向にはあるようだ。しかし、その中身は空疎なものらしい。文字どおり、「見た」だけ、なのだ。牛は黒色と白色だった、ということまでは分かったが、そこから先への、もう一歩が進めない。これは、もったいないことだと思う。

私は、もし仮に自分自身が、もう一度子ども時代にもどれるなら、できるかぎり、本物をみて、いろんな感じ方をし、味わってみたいと思っている。

牛のうんこはどうだったか、皮膚をさわった感じはどうか、何を食べていたか、舌の感触はどうだったか、牛の口のなかに直接手を入れてみて、何を感じたか。そういう具体的なことを実感してみるところまで、やってみたいと思う。

ふつうは、そこまでやらせてもらえないらしい。無理もない。怪我でもしたら、親から酪農家の責任が問われる。危険なことは、いくら頼まれてもやらせないのである。

牛のうんこを見たことがないというのは、困ったことだ。自分には、つくづく、そう思えてならない。(つづく)




いちじく3 自然体験の少ない子ども




自分は、自然体験・生活体験といったものに、まるで乏しい子どもだった。
第一、いちぢくが実をつけて、木になっているところを見たことがなかった。畑の土をさわったこともないし、果樹園も家畜も、身近な存在ではなかった。
柿の木は見たことがあった。また、たとえばリンゴがなる様くらいなら、あるていどは想像できた。蜜柑がなるのも何となく分かる気がする。しかし、いちぢくは見当がつかなかった。
いちぢくだけではなく、植物や野菜全般の本物の香り、味、実の成る姿を知らないで育った。土壌のこと、肥料、水やり、消毒、育っている環境などのことはもちろん、生産者の苦労やつくる喜びなどについては、まったく知る由もない。

「教育と環境」という雑誌に、興味深いデータが載っている。
小学生の自然体験を調査したもので、
「野外でテントをはって寝たこと」については、一回もないと答えたケースが66%あったという。
「日の出日の入りをみたことが一度もない」は41%、1000メ-トル以上の山を歩いた体験については、65%が「一回もない」と答えた。
魚釣りは、35%の児童が「まったくしていない」と答え、豚の世話、牛の世話、鶏の世話にいたっては、いわずもがな。ほとんど、体験したことのない子どもばかりだという。(つづく)




いちじく2 都会と田舎




高校は郊外にあった。
付近には地下鉄の大きなラインが走り、高速道路にも接続する地区で、車の交通量はかなり多い。一帯は、大きなマンションの立ち並ぶ新興住宅地だった。

私は、箱の中を困惑した表情でみていた。
窓からさしてくる昼間の太陽に照らされて、赤く半透明の球形の実が、ひとつひとつ、あざやかにみえるのであった。まっ裸の果実には光が当たって、そこだけ赤い絵の具を溶かしたような色で、てかてかと光った。

どうも、妙な感じだったのである。
それはあまりにも生き生きとし過ぎていて、灰色の鉄筋コンクリートの中では、かえって、落ち着きのない、間の抜けたものに見えたのだ。 最初、嬉しそうな顔をして見せてまわっていた当の女の子だったが、周囲の褪めたような視線を感じたのか、だんだん元気がなくなって、結局、恥ずかしそうに果実を箱ごとしまってしまった。

そのうちに、午後の授業が始まった。
私は、ずっといちぢくのことが気になっていた。彼女は、海の近くに住んでいるのだ、ということも、その時に思い出したりした。

放課後、帰り支度をしていた彼女に、私は声をかけた。
実は、さっきのいちぢくをもらいたいのだ、と話すと、彼女は笑顔になって、
「箱ごと、あげる」
と言った。
そうして、急いで手提げ袋から取り出すと、そのまま私に渡した。

私は、その箱を誰もいない屋上に運び、一人で中身を食べた。
新鮮だし、甘い。何かの工夫をして冷やしていたらしく、なんだかとてもうまかった。
しかし、感心する一方で、正直なところ、
「こんなものを持ってくるなんて、やっぱり田舎だなあ」
と、当の女の子をからかうような、どこか軽蔑するような気持ちもわいたのだった。(つづく)




いちじく1




高校生の頃。
お昼休みの、なにかホッとするような時間をすごしている時、クラスの女子の一人が、
「これ、食べて。家でたくさんとれたの」
と何か箱のようなものを、私の机まで持ってきた。

これ、と見せられた箱の中を見ると、なんと、真っ赤ないちぢくである。私は、それがあまりにもだしぬけだったので、意表をつかれた思いがした。

箱は、私の机の上に、ちょこんと置かれた。

昼休みの間に、いちぢくは、こうして何人かの机の上を、転々と引っ越してきたのであった。箱の中のいちぢくは、まだ一つも減っていなかった。誰も、手を出してそれを食べようとしなかったらしい。教室には、何十人も生徒がいたのに、である。
それは、まるで、居場所を失った小動物のように、私の机の上に置かれた。

箱の中を覗くと、真っ赤に熟れた果実が、箱の中でいくつも積み重なっていた。
私は、正直なところ、困った、と思った。教室の中で一人だけ、いちぢくにむしゃぶりつく様は、あんまり格好よくないな、と思ったのだ。

生徒の大半が地下鉄で通ってくるような、乾いた都会の高校である。いちぢくの土臭さが、教室の中では、妙に浮いてみえるのだ。

当の女の子は
「みんな、食べない?」
と言って、他のクラスメートにも、ずいぶん声をかけてまわったのだった。

おそらく、実家の畑でとれたものを、こうして大切に持ってきたのだろう。親に言われてそうしたのか、自分でおいしそうだと思ったからか、長い通学時間を、朝の電車や地下鉄の中を、彼女の手によってここまで運んできたのだ。そうして、昼休みになって、ようやくチャンス到来とばかりに、皆の前に披露したのであった。 (つづく)




子どもたちの幸福




子どもの幸福を、本当にみることができるから、
いつもゆるがない人がいる。
淡々としている。
事態の変化にも、悠々と対応している。
逆に、よいなあ、とみんなが見ているときにも、

(あっここ!)

と注意を喚起できる。
(S小のSさん)

幸福とは。

子どもの心が分かるようになりたい。
心の、奥の奥。
本人さえ気付いていないかもしれない、奥。
最後のどたん場に、正体になってあらわれてくるもの。
本気の本気。
真の個性、真の持ち味。




何をねがっているのか




本当の本当は・・・、といったって、本当がすぐにみえるわけでない。
ただ、簡単なことならいえる。

ねがっている、ということがある。
自分は何を、ねがっているのか、ということ。
いつも、そこに立ち還ろうとしている。

自分の本心は、本当は、何をねがっているのか。

「何がしたいのか」という問いには、動作所作をこたえてしまう。
「本当のあなたは」という問いには、次元や過去未来の別までを考えてしまってきりがない。
「何を学んだか」という問いには、本当にはわかっていないことを学んだ、わかったと言ってしまう。
「どうしてそうするの」という問いには、「やりたいから」とこたえてしまう。

そうやって、安易に答えてしまうたびに、あとで心の片隅が、
「本心はちがうかもね」
とささやく。それがわかる。

ただ、本心を衝く、衝くことのできる、「問い」がある。
問われるたびに、本心が、こたえようとすることがわかる。

それは、
「自分はいったい本当は何をねがっているのか」
という問いだ。
この問いには、いつも考え込んでしまう。謙虚に考えたくなる。どこまでも。

○○ちゃんは、本当は、いったい、なにをねがっているのだろうね。
心の奥底、本当の、本当の心の底では・・・




記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ