30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

やさしいことをふかく・・・

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

これは、井上ひさしさんの言葉です。

小学校や中学校の、すべての営みがこうあると良いなあ、と思わせる言葉です。
もしかしたら、高校もそうかも。

とくに良いなと思うのは、

やさしいことをふかく

という部分ですな。
易しいことを深く、というのは、思いのほか難しいことです。易しいと一見思われることも、それを本当に真正面に据えて、取り組もうと思えば、なんにしてもなかなかに難しいことであることが多いからで、

すべての授業がこうであるべきだと思いますな。

そんなの簡単!
と、子どもに言わせるようでなければいけないと算数をしていると思いますし、国語の物語を読んでいるときは、あれ?意外と裏の解釈もあるぞ、そっちの方がさらにおもしろそうだ、と言わせたいです。

今、4年生ではごんぎつねを習っておりますが、ただ、狐が死んじゃう話、というだけではなく、作者の新海南吉(『あめ玉』の作者)が、なぜ物語の最後で、兵十にぱったりと火縄銃を落とさせたのか、その心の深い動きまで読み込ませたいと思いますね。

本当なら、昔の国語の教科書5年生に掲載されていた、あめ玉を続けて読ませることで、新美南吉と言う作者が、世の中をどう見ていたのか、考えるきっかけにもできると思いました。

あめ玉では、威厳のあるはずのお侍さんが、実は、普通の人と変わらなく、世間体や体裁、恥ずかしさを感じることがあり、強そうに見えるかもしれないが、実際にはただの弱い普通の人間だ、と言うことになっておりました。

ごんぎつねでも、兵十のことが、狐から見ると、大きな力を持つ存在に書かれていますが、実際にはそうではなく、仲間に神様のおかげだとさとされたら、そうかなぁと半分信じたり、火縄銃を持てば、狐を撃つのですが、すぐにしまった。やるべきではなかったと思うことのできるただの普通の人なのです。


それにしても、井上ひさしさんを、久しぶりに思い出すことができました。
あの、くだらない長編、吉里吉里人の作者だと思うと、あのくだらなさと、今回紹介したこの文章との乖離がすごく印象深いです。しかしまた、井上ひさしが、若い頃に、ひょっこりひょうたん島を書いていたのを知ると、この方の才能の豊かさに、改めてリスペクトの気持ちが湧きます。

もう一度文章を掲載します。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

何度も味わいたい言葉です。

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子どもの「それってあなたの感想ですよね?」にどう返せばいい?

タイトルに有るようなことは、実際にある。
教室でも、そういうことを言う子がおり、わたしは感心してしまった。
本当にそうだと思うからだ。

「え、すごい!そうなんだよね、感想なんで、事実はわからないよねえ!」

わたしが目をキラキラさせてそういうと、ちょっと不思議な空気ができる。

わたしは最初、この有名なセリフ、

「それってあなたの感想ですよね」が、世間で有名なフレーズになっていることをよく知らず、へえ、この子は事実と思いを分離させて考えているのかな、と考えて、ほとほと感心した。

事実はどうなのか。
どうなのか、というよりも、なんなのか。

今、わたしたちが事実ととらえているものは、事実と呼べるのだろうか。
そして、いろんなことがわからないことだらけで、こうじゃないか、ああじゃないか、と思って事実をまわりをぐるぐるとしている。

そのうえで、肝心なこと、つまり私達は、今どうすることが願いを実現することになるのだろう?

「事実に焦点をあてて、考えてみようじゃないか!」

と興奮するわたしの前で、

「先生、知らないの_?◯◯◯◯のこと!」

有名なインストラクターの人がいて、その人がユーチューバーらしく、インターラクティブでインベーダーらしいが、イノベーターでインフルエンザの私にはよく分からない。

ともあれ、子どもは敏感で、事実と感想、ということについて、なにかしら鋭敏な感性をもっており、

◯事実と思いをわけて考えてみる

というようなことにも、実際にはかなり前向きなのだろうと思う。

そのうえで、真正面から「幸福」というものを、子どもなりに考えてみるのも、今の時代には合っているかもしれない。

いわゆる快楽とか気分を消費することが、「幸福」だとは、Z世代は考えないような気がする。

薬物中毒の状態が幸福と言えるかどうか、スーパーに陳列されたものをその場でいきなり食べ始めるようなことが幸福なお互いになる道筋なのかどうか。

道徳の教科書にはお涙頂戴的なおはなしがいくつも掲載されているけれど、実際には真正面から

「幸福」

という2文字を相手にする時代が来ている気がする。というか、今の子たちは、そういう直接的なアプローチしか、効かない精神になってきているように思う。

今はユーチューブなどで、「ほぼ無料で見放題の動画を見て過ごす」ことが人間の一日の主な行動になりつつある。もはや、そのサービスがなければ、人間は快適に暮らすことができなくなりつつあるようだ。一度スマホを手にしたら、幼児も小学生も、大人も老人も、ユーチューブを大きな楽しみとして消費し始めている。

そして、今や表に見えている表面的な出来事の、さらに裏事情までが即座にアップロードされて話題になり、どちらが表の情報なのかすら曖昧になってきた。

こういう時代だからこそ、

「それってあなたの感想ですよね!」で一本とった気になる子が出てきて当然だし、うわべのとりつくろったような化粧や常識は、あっという間にはがされてしまって、その裏の裏までが話題になっていくから、カーブやスライダーを投げたって、子どもに鼻で笑われてしまう。

勝負するのは、もう、直球、ど真ん中、だけであろう。

おりしも、地球環境の問題は、あとにひけない余裕のない課題になってきた。
政治も経済も戦争も、人口の減少まですべて、冷や汗の出るような切迫感がでてきた。

もう道徳の授業は、

幸福はいずこにありや

というド直球でしか、子どもの心情には響いていかないのではなかろうか。

ほんの5年ほど前までは、

幸福、という言葉が、いかにもうさんくさくて、人をだましているようで、本気ではないような気がして、それこそ化粧で包まれたおかしな言葉にも聞こえていた。

それは、今振り返ってみると、心の何処かに、「幸福というものを、心のどこかできちんと把握している」というような自負があったからだろう。だからあえてそんな大仰な言葉を用いなくても、幸福についてさりげない会話やスマートな所作で、とらえることができると信じていたから、使いたくなかったのだ。

しかし、今の子たちはちがう。

ド直球で、「事実とはなにか」「思いや感想とはどうちがうのか」「人間らしさとは」「幸福とは」と、考えていくべき時代だという予感がする。

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教育相談【YouTubeばかり見ている子】

夏休み明けの保護者からの相談。
動画ばかり見ている子、困ったものだと。

この手の話を聞くたびに思うのが、私自身の子供の頃の思い出だ。
つまり、テレビっ子であったこと。

念のために、クラスの子に聞いてみた。
家庭内のルールが、YouTubeは何時間までオーケーか?

1時間、2時間までが多い。
平日に、2時間も動画を見ていたら、子供の生活リズムだとほぼ食事、風呂、宿題、睡眠以外がYouTubeと言うことになろう。

これに+ αでゲームテレビとなれば本当に1日中画面を見ていることになる。

もう少し詳しく聞いてみると、ほとんどテレビは見ないと言う子がかなり多い。
いわゆる地上波、の放送は、既に子供たちが見るものではなくなっているようだ。

では、実際に誰が見ているかと言うと、テレビで育った世代、つまり30代以上だというのがデータで出ていた。20代より下の世代はすでにテレビは見ていない。
最もよく見ているのが50代60代70代だそうである。

総務省や民間の調査によると、20代の地上波テレビのリアルタイム視聴率が10%前後の場合、60代では50%から70%程度の視聴率が報告されることが多いです。


そうなのだ。
昭和に生まれた人たちは、テレビをよく見ていました。
本当にテレビが面白かった時代で、世の中の楽しみが全て詰まったビックリ箱のようなものでありました。

私はなんだか、子供がYouTubeばかりを見ていると叱られるのを聞くと、自分が子供の頃に
「テレビばっかり見てないで勉強しなさい!」
と、叱られたことを思い出す。

そして、休み時間に大好きなユーチューバーの話で盛り上がる子供たちを見ていると、自分がドリフやひょうきん族やアパッチ野球軍や不思議なメルモや海のトリトンやリンプリン物語や遠山の金さんを見て、次の日に、友達とその話をしながら、登下校をしたのが思い起こされる。

遠山の金さんは、早帰りをする水曜日には放送時間に間に合ったので、ほぼ欠かさず見ていたが、悪役の表情作りがなんて上手なんだろうと常に感心してみることができた。

時代劇と言うのは、非常に勉強になる教材で、現代と比較しながら動画を見るために、奉行所と警察と言う共通項で、社会の仕組みを考えたり、たらいをくくりつけた天秤棒を持って、食べ物を売りに来る人が、なぜ現代ではそれほど街に居ないのかを考察することができた。

後はちょんまげの不思議さである。
どうしてちょんまげなのかと言う疑問は、父も母も答えることができなかった。学校の先生もうまく説明はできなかった。夏休みの自由研究で、ちょんまげの不思議について研究しようとしたが、図書館にはちょんまげの本は皆無であった。学研から出版されていた秘密シリーズに、「ちょんまげのひみつ」があれば、誰もが購入したことだろう。

そして、今、私は、YouTube動画で、昔のコマーシャルCMについて見ることにハマっている。そして、驚くなかれ、かなりの率で、
「あ!これ!見たことある!」
と、思い出すのであります。

丸大ハンバーグとか
この木なんの木とか
ネスカフェ違いのわかる男とか
あなたにもチェルシーあげたいとか
ポテトチップス、あしからずとか
グリコアーモンドチョコレートとか
堺マチャアキのラーメンのCMとか。

つまり、私は相当テレビっ子でありました。YouTubeを見ている子には、ともかく
1)睡眠時間は削らない
2)健康に悪影響が出ないようにする
3)依存症という言葉を知っておく

この3つはオススメしようと思っております。

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いよいよ「叱らない」時代へ

このブログを始めた時、タイトルをどうしようかと思って
「叱らないでもいいですか」とつけた。
これは、初任者としてやはりどうしても遠慮がちにならざるを得ない、という正直な感想をもったためでありました。
「叱る」が前提になっている教育現場。そこで何も知らない初任者が、迂闊にも「叱らないで教師をやります」なーんて口走ったら、校長先生にたっぷりと指導を受けそうだったからであります。

しかし、私は妙な人生遍歴から、人に対して「教える」とか「叱る」とか、「相手をコントロールする」という行為がどうしてもできない精神構造になってしまっておりました。
子どもにも、「ふうん、そう思うんだね。そうかなるほど」というスタンスが基本であり、「早くしなさい」というありふれた声がけすら、どうしても違和感があってできなかったのですね。

いやあ、本当に変な精神状態でした。今から思えば。20代に過ごした環境が浮世離れしてたせいで、「早くしなさい」すら、言えない状態でしたね。
そんな状態ですから、叱る、なんてできそうも無い。また一方で、

「叱らないでもやれるんちゃうか」

という思いがありましたから、思い切ってタイトルを、「叱らないでもいいですか」とした。

そしたら、どうも時代がそうなってきてるみたいで、こんな記事を見つけた。



まさに。
学者の方が文章にすると、こうなるんやなあ、と感心しましたね。私の言いたいことが、ドンピシャに書いてある。

私が叱る、叱らない、ということについてこのブログで書いた記事を探すと、たとえはこんな記事がありました。

すべて、叱らない、という教師の思いに関しての、記事、投稿であります。

もし、「叱らない」に興味を持った先生で、このページをご覧になった先生は、ぜひリンク先の記事も見てみてくださいね。

お気軽にお問い合わせください!

教師ならばロシア情勢を語ろう

ウクライナが核を恐れずにロシアに攻め入った。
衝撃だ。相手、敵であるロシアが核を持っているのにもかかわらず、だ。
わたしは朝食を食べながらそのニュースを知り、思わず手にとったカップをもう一度、もとに戻しました。

ここ10年くらいの国際情勢で、もっとも大きなニュースではないでしょうか?

大事な点は、このことが、人類の歴史を変えてしまった、ということにある。
ほら、冷戦後は世界中の人があることを信じていたでしょう?
それは、「核」を持つことにはメリットがある、という点でした。
アメリカもロシアも、それを主張しましたし、他の国もその点は理解していた・・・ということになっていましたね。
ところが、本日、核が戦争を抑止している、という話はどこかに消えてしまいました。すごい話です。
核を持っておくメリットは、相手に攻められないことだ、という話だったはずで、世界中の政治家も識者も学者も市民も、それを前提に話をしていたと思います。

しかし、今の時代はそれが崩壊してしまいました
だって、ウクライナは核を持っておらず、ロシアは核を持っていましたからね。
で、弱小で核を持たないはずのウクライナが、大国で核を保有するロシアに攻め込んだのです。ウクライナは、『実は核は何も「抑止」しないのだ』、と世界にバラしてしまったわけです。
これまでは核を保有する大国どうしが、核をお互いに保有することを宣言し合うことで、お互いの攻撃を避けるだろう、と思われていました。それをさらに、超えるレベルの話なのです。だって、核持っていない国(ウクライナ)が、持っている方の領土に攻め込んじゃったので・・・。

これは、世界情勢をガラリと変えるかもしれません。

そもそも、核で報復するにせよ、最初に使うにせよ、ものすごい被害が出るわけですから、何がそのような大規模な被害を正当化することができるだろうかというモラルや倫理の問題があるために、そもそも核は使えない状況がつづいていました。

それでも世界中で、核はお互いの戦争や紛争を「抑止」するのに役立っているのではないか、という議論がありまして、その立場に一定の理解を示していた人も多くいたようです。
しかし、今回のウクライナのロシア侵攻により、「共同幻想」的な思い込みがくずれてしまいました。

これまでは、周囲に脅威となる国があると認識し、その脅威に対し核兵器は国や体制の存続を保証するものだと見なしている限り核兵器は必要と考えられていたのです。ところが、今の時代は核をもっていたって攻め込まれるわけで、現実にロシアは核をもっているのにもかかわらず、領土を侵犯されたのですね。

わたしが若い頃、アメリカの大統領はブッシュ大統領(息子の方)でして、戦争をやりました。そのときのブッシュ大統領は「戦争に、やる気を見せたほうが得だ」と考えているような節がありました。
9.11の後に、ブッシュ大統領は「これからは抑止ではなく先制攻撃だ」という雰囲気でスピーチしていました。私はそれをテレビで見て、ちょうど数カ月後に結婚を控えた頃でしたが、「これから新しい生活が始まるのにまた戦争かよ」と、げんなりしたことを覚えています。

案の定、ブッシュはイラクへ侵攻しましたが、結局大失敗をして、かわいそうなことにアメリカ国民からも愛想をつかされて政権交代をさせられ、悲しく引退しました。ブッシュ・ドクトリン、とかいってブイブイ言わそうとしていましたが、やはり道理にかなっていなかったのです。

つまり、今の時代には、抑止もダメ、先制攻撃もダメ、ということがわかってしまったのです。
何をしたって、あとで「やらなきゃよかった」になるのが戦争です。

そのうちに各国の首脳が、核って意味あるのかな・・・と本当に考え込む日がやってくる気がします。
たぶんそのうちに、「ああそういえばそんなのあったな」と忘れられる存在になるでしょうナ。

そして、各地域でのもめごとを解決する手段は武力ではなく、まったくちがったアプローチから始まる気がします。
それはもしかしたら政治の側でなく、経済の側から行われると予想します。なぜなら、みんな政治には不信感しかないし投票率も低く真剣でないけれど、経済にはみんな正直だしまじめに取り組むからね。たぶん経済の仕組みがかわることで、政治の問題も解決していくと思う。国同士のもめごとも。


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地震が明日起こるんだって!

「先生、知ってる!?あした、地震が起きるんだって!」

朝、教室に入るや否や、こう言われました。
あなたなら、どんな反応をしますか?

こんなことは、小学校ではあるあるです。子どもは本当に信じていますから、即座に馬鹿にしたり否定してしまってはいけないと思います。
否定したら、もうそうやって、気軽に話しかけてはくれなくなるでしょう。担任としてはそれは避けたいところです。

だからといって、あ、そう!そうなんだー!と、あっさりと同意してしまうのも、何か違う気がします。
同意したとわかった瞬間に、その子は

「だって、新間先生もそう言ってたよ」

と、周囲に触れ回り始めます。
一切、そんなこと言ってないですが。
あ、そうなんだ、と感想を言ったら、先生もそう言ってた!に、なりやすいです。小学校では・・・

高学年だと、確率と割合の違いについて、一緒に考えることがあります。
そして、明日、地震が起きる【確率】と、明日、地震が起きる【割合】と、それらを明確に区別してから考えていくように声掛けをします。

そうすると、後者の言い方がなんかへんだ、ということに気づきます。
あした地震が起きる割合って・・・そんな言い方へんだな・・・

そうです。割合とは、5年生の算数でも習った通り、あるものが全体の中でどのくらいの個数 含まれているのか、ということを示すものですね。
だから、現在(もしくは過去)のことであれば、「全体数が100あって、赤い玉は5こ有ったから5%」という言い方ができるので、割合となります。
でも、確率のように、未来を示すことはできない、のです。

くじが10本あり、つぎに◯◯ちゃんがひいて、当たりくじをひく確率は・・・というのは、未来予測ですね。このとき、全部で10本のくじがあり、その中に明確に1本のあたりくじが「絶対にある」からこそ、10分の1、つまり10%だ、という確率を数値として示すことができます。

ところが地震予測では、未来予測はムリなのです。
なぜなら、わかっているのはすべて過去のことであり、それは過去の「割合」なのです。
こういう地面の動きがあり、同じような地震の分布があり、データを見比べると似たような条件がこれだけあり、そうでない場合がこのくらいあって、地震がこれまでに起きたのがそのうち何回、というようなことだけがわかっている<だけ>です。

つまり、地震学者がなんとかインタビューに応えようとして、

「1年以内に地震が起きる確率は30%です」

なんて言ってますが、これはかなり苦しい言い方です。
明確に当たりくじが1本ある、「絶対にある」って、言い切れないからです。
地震学者は、【割合】から無理やり【確率】を言おうとしているのです。世間に要求されるから・・・

このあたりのことが、以下の本で紹介されています。


デタラメにひそむ確率法則――地震発生確率87%の意味するもの (岩波科学ライブラリー)

要するに、
南海トラフのデータは、かなり少ない(分かってるのがたった数回)のため、その割合から確率を計算しようとすると、ものすごくアイマイな数値しか出しようがない

ということです。
当たりくじつきアイスキャンデーのように、明確に1本の当たりくじがある、とはとうてい言えないような状況を踏まえて、たった数回の過去の事例を「ぜったいにこの間隔で起きる」と断言するようなデータの使い方をして、計算しまっています。(それも過去のデータもかなりあいまいなもの)

なんせ地球の歴史が長すぎですからね。
確率とは、データから計算される割合のことですが、たった数回のデータでは、「割合から確率を計算する」のが、乱暴すぎるのでしょう。

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学校で習う経済と資本主義のこと

経済、と聞いて、ワタシがよく考えるのは、経済と戦争の結びつきのことで、興味を持ったきっかけは、中学校の社会科の教科書で習った朝鮮戦争のことでした。

朝鮮戦争が始まると、日本人は経済が潤った、と書いてありました。
「戦争で人が死んでいくのに、儲かる?!意味わからん」
これが、戦争と経済の関係に興味を持った最初でしょうか。

さて、ウクライナとロシアの戦争が始まって、だいぶ経ちましたね。

そもそも戦争の始まったころのこと。
ウクライナが兵器を恵んでくれとアメリカに依頼(国会での演説〉し、アメリカはそれに応じました。
これで、アメリカ国内では若者の雇用が生まれ、産業が起きてモノが売ったり買われたりし、給料の支払いがされました。コレ、元は税金なので、国富ののばら撒きが起きたわけ・・・。

コロナでも、対策と称して税金を対策に使ったので、ここでも国富は消費されました。

緊急事態は仕方ないのですが、国富を使い過ぎてしまうとマズイですね。国の力が衰えます。
・・・と、ここまでは中学生でもかんたんに習う話なので、国民全員が納得する話だけど、なぜ鈴木財務大臣はじめ、財務省の官僚も平気な顔をしているのかというと・・・

今は緊急時だから。

というわけです。
将来の人がなんとかしてくれるやろ。
今は赤字国債を、発行するが、それでみんな助かるんや!

これを日本はかなり前から、アベノミクスの時はもちろん、戦後のほとんど時代において延々と続けてきたのです。

問題はあるけど、赤字国債でなんとかしてるから大丈夫、というわけです。
本質的にはアカン。でも、赤字国債を、発行すれば、今は大丈夫に見えるやろ?だから大丈夫。

・・・というわけです。

ところかこれは、表面的には大丈夫と見せかけてるだけ。差し迫った危機を回避するためには、将来の問題を後回しにしよう、ということです。

ここまで、実は早ければ中学3年生の社会、ほとんどの学校では高校の現代社会で習います。国債、という言葉の意味を習うのですね。
習った子どもたちは不安になり、「国債を発行する量をたくさんにし過ぎるとまずくないですか?」と思います。そのことについても教科書に載っていて、「マズイです」と答えが書いてある。

ところが、政府の役人や通産省・財務省の官僚や大臣が平気な顔してるので、みんな国民も、あれ?大丈夫かな、と麻痺してしまいます。

株が下落し過ぎたので、財務省はちょっと困ったでしょうね。今回、こんなにでかいニュースになっちゃったから。

これから、どうなるでしょう。

政府は金利を上げたばっかりですが、慌てて元の緩和政策に戻すのではないか。

というのが、ワタシの見立て、です。

なぜなら、今の政府が累積した問題に向かい合うのは、難しいでしょうから。

現在の与党政府には、日本の国の実態に合わせた、国家の等身大の経済の状況に戻していくほどの勇気は、ないだろう、と思います。

話をわれわれ国民の側に戻すと・・・
愛国心を持った勇気のある正真正銘の日本人なら、一度購入した国債を売ろうとはしないでしょう。

しかし、国民がみんな、猜疑心を抱き、もしかしたら、国家は返す力を持っていないのではないか、と判断するようになると、国債は売れなくなります。

ある日、政府が

「国債は、満期でも、お金を返せないので、お金を返すのにあと3年待ってください」

と言ったら、国民は従わざるを得ない。現金にするのに我慢しないといけません。

・・・なーんてことになれば、みんな買わなくなり、国債の価値は下がり金利はどんどんと上がっていくでしょう。

しかし、日本人は到底そんな風には考えないと思います。なので、実際には、金利はそれほど上がらず、国債の発行額も、ますますうなぎ登りに登り詰めていくことでしょう。人口も減っているし、賃金を上げられるほど、企業の売り上げは伸びません。金利を上げられる体力は日本には無いのです。

だから、そうならないために、みんな、国家には、無限の力があると、そういうことを信じているんだと言うことにしておいて、経済活動を続けていくのではないでしょうか。

この時、無限の力を持った国家だということにする、というところがポイントです。

〜と言うことにしておく

これが、経済を、行き詰まらせない唯一の方法です。

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『ぼくとおじちゃんとハルの森』(山末やすえ)

これがおすすめなんですわ。
ぜひ、読書感想文を書きましょう!

クラスの仲の良い友達が引っ越ししてしまい、心に穴があいたようになって、ちょっとさみしくなっていた小学4年のぼくが、夏休みに田舎で心のエネルギーをとりもどす話です。

田舎のおじちゃんのところに行って、犬とおじちゃんとしばらく一緒に過ごすのですが、これがたのしくて。

子どもが大人を見つめる視線って、こんなふうだよなあ、というのがよく伝わる本です。
で、実は大人も、子どもに助けられるんですよね。どちらかというと、大人が救われるわけです。
しかし、この

「ああ、これは大人がすくわれていく話なんだなあ」

というのは、大人になってからしかわからないようです。
子どもは、その視点をもたないで読みますから、この本を読んでもそういう感想は出てこない。子どもの感想文にはそんなことは書かれないのですが、大人はこれを読むと、「おじちゃんは嬉しかったでしょうし、ぼくに感謝しているだろう」と思う。

つまり、大人が読むと「おじちゃん視点」で読むことになり、
子どもが読むと「ぼく視点」で読むことになる、という不思議な本です。

どうでしょうか。
こんなふうに本の中身がちょっとわかると、「あ、読んでみたい」と思うでしょう?

朗報です。
ここで、読書感想文を子どもに書かせるコツを伝授しますね。

お子さんが図書館の本棚をぐるぐると回りながら、
「いい本がない〜」と言っていたら、です。

まず、本にはジャンル、というものがある、ということを教えてあげてくだされ。

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文学であれば、

1)日本のもの
2)外国のもの


という2つのジャンルがあります。
日本がいい、とか、外国がいい、とかのように、こっちが( ・∀・)イイ!! ということをすぐに言える子もいます。

「そんなのどっちでもいい」

という子が大多数ですが・・・

3)むかしばなし
で書ける!
という子もいます。なんとなくストーリーを知っているので、とっつきやすい、というのがあるからかもしれません。

4)すでに知っている話
なら書ける!という子は、わりと多いです。
もうすでに読んだことがある、とか。
教室の片隅に置いてある学級文庫で、実は少しだけ読んだ、とか。

5)小学生もの

これは、主人公が小学生なので自分にも身近な存在に思えるから、まあ読んでみるか、と思うのでしょうか。たとえば山中恒さんの「あばれはっちゃく」とか「くたばれかあちゃん」とか。

6)事件・サスペンスもの

名探偵◯◯、とかですね。コナンとか。銭天堂もこのジャンルかと思います。

いずれにしても、本が選べない〜、と図書館で泣いている子、あるいはお父さんに泣きついている子、お母さんと口喧嘩を始める子、については、

「どうこれ?こんな感じのおはなしだけど」
とか
「これいいじゃない?主人公は小学生でね、◯◯と出会ってたいへんなことがもちあがって、◯◯してすごいことになるんだけどね。知恵を出して仲間とね、ハカセがハチベエとモーちゃんに・・・」

みたいなことをおうちの方がお子さんにお話なさると良いですね。
すると
1)予備知識ができてくるので

2)ちょっと安心して

3)興味をもって

4)ぼくにも書けるかも

となって、読書感想文が書けるわけですね。

つまり、ちょいとした「誘い水」が、あるかないか。
物事は、意外と単純ですね。

あとは、

ぼくが読んだこの本の主人公って、こんな特技があって、こんなことになっちゃったけど実はこんな工夫をして仲間と相談してすごいんだよね。

というように、その本の良いところを先生に教えるつもりで書くと筆がすすむでしょう。

映画にラベルをつけてほしい

映画館についても、なかなか入場する気にはならない。
なぜかと言うと、映画のタイトルやポスター類をみても、どんな映画なのか、よくわからないのだ。

ともかく、私のその時の希望は、

できるだけ音が少なく、爆発などせずに、欲を言えば、あまり複雑なストーリーではなく、できるだけ楽にぼーっとして見られる映画が見たい。

ということだった。

何せ2時間近くも、座っているだけで疲れるのである。
画面の向こうに、大きな音が聞こえて、破裂などしていれば、聞いているだけで疲れてしまう。

できるだけ、静かそうなのが良かった。最後まで、静かでおとなしそうなのが。
できたら、ドキドキハラハラもしたくない。

こんなこと言うと、そんなつまらなさそうな映画どうして見るの?
などと、おそらく、若い人ほど言うに違いない。私も若い頃はそうだった。スリルを求めた。サスペンスが好きで、ハラハラ・ドキドキすればするほど満足した。

自分も今日映画館に着くまでは、自分のことをそうだと勘違いしていた。
実際にその場に着くと、私は自分の年齢を自覚した。もう、ドキドキ、ハラハラすら、求めなくなっていたのである。

その代わり、起承転結も必要なく、できたら、起・承・承・・・・くらいが望ましい。結すら不要である。主人公のその後がどうだろうが、どうでも良い。それぞれが好き勝手にすれば良いだけのことだ。

私は、究極的には、どこかの何も知らぬ爺様が出てきて、そのおじいさまが、朝起きて、起き上がって、椅子に座って、新聞を読みながら、茶をすすっている、たったそれだけの映像を、2時間連続で見たほうが、どんなにか、人生について考えられるかとも思う。

そのような映画があれば、私は毎日でも見に行きたい。
今度のじいさんが、前回のじいさんと、どのようにお茶のすすり方が違うか、それだけでも本当に勉強になると思う。そして、そこから、彼の人生と、これまでの遍歴と、人生観の違いすら感じることができそうだ。
新聞を取っているかどうか、どこの欄から読み始めるのか、お茶を飲むのか、それともホットミルクを飲むのか、あるいは使い古したマグカップなのか、それとも寿司屋の湯のみなのか。

座っている椅子はどんな風か、腰をかけて、どんなふうにため息をつくのか。
その様子を眺めているだけで、人生を考えることができる。

映画館に要望がある。
静かな映画にはサイレントの頭文字である【S】と言う記号を、タイトルの横につけて欲しい。そうすれば、私のようにもうドキドキもびっくりもしたくない。静かにぼーっとしていたい人も、その映画を選択できるからだ。
体力がない。ドキドキする体力は、夏休みの研修をこなしている現役の教師には、もう残っていないのである。

私がそんなふうに、できるだけ静かな映画を探していたところ、1つ見つけた。
それが、【90歳。何がめでたい】という、佐藤愛子さんのエッセイ集を元にした映画であった。

これは、静かだろうな。

直感が当たった。

映画は、期待通りの静けさであった。
草笛光子さん演じる、愛子ばあさんの一挙手一投足を見ているだけで、こみ上げてくるこの満足感がたまらなかった。

火薬はいらない。
盛り上げもいらない。
淡々と人生の日々の出来事が繰り返されていくのが、この人生の最も価値のある瞬間だ。また、その人一人ひとりの自己決定の清々しさを、他人はすべからく尊重するべきで、そうなると、人は必然的に余計な口出しをしなくなる。

【90歳。何がめでたい】は、そんな映画でありました。良い映画を見た、という満足が、帰り道の私の足取りを軽くした。

この夏、オススメであります。

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ぼうや、よい子だねんねしな〜メディアと時代〜

時代は変わったなあ,と感じることが増えてきた。
例えば今の子供たちは「まんが日本昔ばなし」を知らない。

テレビで放映されていたこの番組は、我々の世代は毎週土曜日ともなれば楽しみで仕方がなかった。
2人の声優の、何とも芸術的な声。どんな人物もどんな 鬼も妖怪だって演じてしまう。

たぬきがしゃべったら、ハハァこんな声だろうなと思うし、狐が喋ればこんな声なんだろうなと納得してしまう。

その日本昔ばなしを、今の子どもたちは知らない。

ほんの5年ほど前の子供は知っていたんです。あくまでも私自身の体験ですが・・・

だからこの5年間の間に何らかの変化があったに違いない、と思うのですね。
これはおそらく 親の世代の変化だろうと思う。
親が、自分が子供の頃に見たあの日本昔ばなしを子供に見せてやりたいと思うかどうか。

ほんの5年ほど前まではそういう親がまだ世の中にいたのだろうと思うのです。
あとは、年配の保育士さんがそれを見せていたというのもあるかも。

おそらく、この5年間でそういう保育士さんもほぼいなくなってしまったのだろうと推測されますな。(いらっしゃったらごめんなさい)

従って 今の子どもたちに、

〽︎坊や良い子だねんねしない 今も昔も変わりなく 母の恵みの子守歌〜♪

などという 鼻歌を聞かせても何にも反応がない。

なんの歌?ソレ・・・

である。
番組の終わりに流れる

にんげんっていいな

という名曲すらも、同じだ。知らない。知られていない。何ソレ、初めて聞いたんですが、という感じ。

小林亜星さんの偉大さを思うネ・・・

思わず、私は、この木、なんの木、気になる木、などと言い出してしまう。

〽︎このぉ木、なんの木、気になる木ィ〜

廊下を歩きながら、給食の食缶を運びながら、思わずそれを口ずさんだとき、近くにいて一緒に缶を運んでいた子が、

なんで先生って鼻歌を歌うの?
ソレ、なんの歌?

と聞いてくれたので、私は思わず、

「ちょっとした昔を思い出したとき、人は鼻歌を歌うんだよ、この歳になるとね」

と言うと、その優しい子は

「へえ」

と興味も何も無い様子。

「◯◯さんは、鼻歌は歌わない?」

私がちょっと恥ずかしさを隠す気持ちで、そう言うと、

「歌わない」

と、即答。

「お父さんやお母さんは歌わない?」

「お母さんは、たまに歌うかな」

「なんていう曲?」

「うーん分かんない。昔の曲ダネ」

「あぁなるほど。きっとお母さんは昔のことを思い出してるのかもよ」

という会話をしました。

思い出している暇もなく、現在を生きている子供たちにとって、昔のことを、あれこれと懐かしむのは、老人のやることのようですナ。
しかし、昔の話を、同世代と、あれこれとめちゃくちゃしゃべるほど、楽しい事は無いですナ。

私は、小林亜星の話だけで、秘密のアッコちゃんとか、寺内貫太郎一家とか、ネスカフェゴールドブレンドのCMの話とか、まんが日本昔ばなしのオープニングに出てくる長い胴体の辰のことだとか、何時間でも喋れますね。それだけでごはん三杯はイケますな。
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