30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

6年生はイスラエルを学べ

イスラエルと言う国について学ぶべきだと思う。

小学校では、高学年の6年生になると、日本にゆかりや縁の深い国を学ぶことになっております。
まぁ北アメリカの合州国だったり、お隣の韓国や中国人民共和国、そしてオーストラリアなどを学ぶことになっております。

つい最近までブラジルだったりサウジアラビアもその中に入っていたような気がしますが、教科書が変わりサウジアラビアは取り除かれました。

ところが、先日6年生の先生と話をしていて、サウジアラビア、やっぱり勉強したほうがいいんじゃないのと言うのです。まぁそれはそうで、今石油タンカーがホルムズ海峡を通れなくなっていて、日本の我々の生活にもかなり影響があるからですね。子供たちは、ポテトチップスの袋が銀色になったと言って騒いでおります。

まぁ、そういったことがあるんですが、私はイスラエルと言う国をもっと真剣に学んだほうがいいと思います。
どうしてあんなふうに戦闘的なのか、それは追い詰められているからなんですが、そのことの意味や国が政治的にどのような立ち位置に立っているかなどをよく理解しないといけない。
これからは日本人は日本の国としてイスラエルとどう向き合っていけばいいのか、真剣に考えなければいけないですよね。

数時間学んだらわかるような国ではないのです。
小学校中学校高校とまぁ大学ででもですね。かなり重要な国としてイスラエルと言う国の成り立ちやら、歴史やら政治的な主張やら立ち位置やら、なぜ中東で紛争を続けるのかなどをやっぱり理解することが必要だと思います。

その上で理解した上でですね、
トランプ大統領とイスラエルがどのような意見交換をして、トランプ大統領はイスラエルにどのように支援を約束したのかなどを考えていかないと、やはりその事は理解ができないわけです。

私はイスラエルと言う国について、日本人はもっと真面目に勉強しなければいけないと思いますね。相手を知らなければ、どんなことも対応ができないわけで、相手を知ることが1番の武器になると思うからです。そしてそれは日本の国益に、直結してつながります。

トランプ大統領はこれ以上戦争は続けたくないとしています。建前としてはです。当然ですよね。

しかし、そうはならなくて、攻撃を続けてついになんとなく全面戦争的な感じになってきてしまいました。

まだアメリカ軍は海兵隊などを地上戦に持ち込んではいないので、そういった意味だけで言えば、まだ全面戦争とは呼べない。
空爆ですから。ミサイル飛ばしてるんですから。ドローンやミサイルで空から攻撃してるだけで、地上戦にはしたくないようですね。

地上戦になったら、「全面戦争」と呼ぶことになるでしょう。本当に悲惨なことになりますし、アメリカの兵隊に死者がたくさん出てしまいます。国際的にも叩かれるでしょうから、今のスタンスでいるのでしょう。

おそらくイランはそのことに対して徹底して対抗していくわけで、アメリカは税金をたくさん使ってしまい、まぁトランプは結局失敗した大統領と言うふうにレッテルを貼られてしまうでしょう。

トランプは半分そのことを予感してわかってるような気もします。
イスラエルとともに攻撃に踏み切った時点で、これはもしかしたら悪いくじを引いたかなと言う顔をしていましたから。

もうわかってやってるわけですよね。

ともあれ、その元になっているのはイスラエルですから、イスラエルと言う国がどのような成り立ちだったのか、そしてどのようなことを望んでいるのか、日本と言うのは、地理的には大変離れた国ですが、やはり小学校の高学年位になれば理解してあげないといけないと思います。

新しい学習指導要領にもなりますので、ぜひそこにイスラエルと言う国の成り立ちを学ぶと言う項目を社会科の国際理解と言う単元の中に入れてほしいと思います。

しかし、トランプ大統領は、本当に人を下に見ているというか、馬鹿にしているというか、もうありありとそういう表情を浮かべるようになってしまいましたね。以前はもう少し顔つきに演技力があったんですけど、もう人を馬鹿にしてる感じをありありと表情に浮かべるようになってきてしまいました。

私は表情をよく見ています。どんな政治家でも大統領でも首相でも、スピーチするときの表情や人に語りかけるときの目つきとかよく見ます。

これを何十年と癖にして見ていると、だんだん政治家の運命が当てられるようになってきました。

トランプさんは最後裏切られるような気がします。(この予感が外れますように)

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皿の上の宇宙(コスモス)


年季の入った洋食屋の暖簾をぶらりとくぐった。
そこは創業100年、戦前には旧制高校の尖ったエリート学生たちがマントを翻して集い、コーヒーを飲みながら、最先端の西洋思想を熱く議論したという伝説の店だ。


お品書きを開いて、私は思わず目を見張った。
「ナポリタン」
「オムライス」
「ビーフカツにポークカツ」

見事なまでに、海の向こうの異国情緒を漂わせるカタカナ名が並んでいる。しかし、私は知っている。彼らの素性を。

悩んだ末に私が注文したのは、この店の看板メニュー「オムハン」だ。
運ばれてきた大きな白い平皿を見て、私は心の中で快哉を叫んだ。これぞ、いかにも日本人風。皿の左半分には、目の覚めるような赤いケチャップが乗った黄金色のオムライス。右半分には、濃厚な漆黒のデミグラスソースの海にどっぷりと浸かった煮込みハンバーグ。

一つの皿の上で、二大巨頭が堂々と領土を分け合っている。一粒で二度美味しい。この、良い意味での節操のなさ、贅沢な欲張り方こそ、日本人の真骨頂である。

オムライスのスプーンを口に運びながら、私はふと考えた。
そもそも、この皿の上に佇む彼らは、一体どこの国の人間(料理)なのだろうか。

例えば「ナポリタン」というスパゲッティーがありますね。
いかにもイタリアの陽気な港町・ナポリからやってきた顔をしているが、本場のナポリ市民に「ナポリタンくれ」と言っても「はあ? 何それ」と一蹴されるのがオチだ。
あれは戦後、横浜のホテルニューグランドで米兵がケチャップをパスタにぶっかけていた野蛮な(失礼、合理的な)食べ方を、日本の天才シェフが「これではいかん」と大真面目にトマトソースの技術で昇華させ、さらに街の喫茶店が「やっぱりケチャップが一番ご飯に合う!」と再改造した、100%純国産の料理である。

「カツ」もそうだ。もともとはフランス料理の気取った「コートレット(肉のバター焼き)」だったはずが、日本に上陸した途端、天ぷらの技術でたっぷりの油にドボンと沈められ、サクサクの衣を纏った「カツ」へと変貌した。

それどころか、日本語の「勝つ」と音が同じだからという理由で、受験生が必勝祈願に貪り食う縁起物にまで上り詰めた。フランス人も、まさか自分たちの肉料理が極東の国で神頼みに使われているとは夢にも思うまい。

そしてこの「オムライス」。西洋のオムレツの腹を割き、日本人の命である「白いご飯」を詰め込んで包んでしまった、世紀のハイブリッド魔改造である。

ハンバーグの肉汁を味わいながら、私の思考は日本の食卓の境界線を越え、はるか古代ギリシャへとタイムスリップしていった。

紀元前4世紀、哲学者のディオゲネスは「お前はどこから来たのか」と問われ、「私はコスモポリタン(世界市民)だ」と大見得を切った。国家や地域という狭い境界線を飛び越え、この宇宙の広大な秩序そのものを故郷としよう、という高邁な理想の誕生である。

現代でも、世界のあちこちで「アメリカ・ファースト」だの「我が国第一主義」だのと、涙ぐましく自国のアイデンティティの境界線を厳しく引き直そうとする動きがある。世界を一つにするか、あるいは心を閉ざして国境を閉じるか。人類はその二者択一にずっと頭を悩ませてきた。

だが、我が日本の先人たちが編み出したソリューションは、そのどちらでもなかった。彼らが掲げたのは、コスモポリタンでもナポリタンでもなく、そう、「洋食」という謎のジャンルである。

考えてもみてほしい。「洋食」という二文字の漢字の並び、これほど強烈に「和風」な言葉が他にあるだろうか。西洋の料理を指しているはずなのに、言葉の響きも発想も、完全にドメスティックな日本の息吹に満ちている。

ヨーロッパの国々であれば、イタリア料理、フランス料理、イギリス料理は、それぞれの国家のプライドが詰まった侵すべからざる「他者の文化」だ。だが、日本人はそれらを一括りに「洋食」という自作の鳥籠(カテゴリー)に放り込んだ。

そして、国際政治のルールなどお構いなしに、「我が国の白いご飯に合うかどうか」という絶対防衛線の一点のみで、すべての異文化を審査したのだ。ウスターソースをぶっかけ、ケチャップで炒め、醤油を隠し味に忍ばせる。

「君の国の料理、なかなか面白いね。でもそのままじゃご飯に合わないから、ちょっと我が国仕様に魔改造させてもらうよ」

相手を敵視して排除するのではない。
かといって、相手に平伏して自分を消すのでもない。「まあ美味いからいいじゃないか」と半分面白がりながら、相手のアイデンティティを自らの血肉へと居直り同化させてしまう。この底知れない懐の深さ、これぞ日本人が誇るべき、真の「世界市民(コスモポリタン)」的態度ではないか。

ここまで考えて、私はハッと我に返った。

「待てよ……私は毎日、教室でこれと同じ『魔改造の歴史』を子どもたちに熱弁しているのではないか?」

私は毎日、黒板の前に立ち、子どもたちに「漢字」を教えている。

「はい、みんな注目。この『漢字』という文字、名前に『漢』と入っている通り、もともとは海の向こうの中国(漢の国)の人たちが大昔に発明した外国語の文字なんだよ」

子どもたちは、漢字を日本古来の伝統だと思って、毎日一画一画、ノートに書き取っている。だが、その実態は壮大な魔改造のSFストーリーなのだ。

大昔の日本人は、文字を持たなかった。そこに中国から一文字で意味と音を表す凄まじいテクノロジー(漢字)がやってきた。普通の民族なら、「なるほど、これが文字というものか」と、中国語そのものを公用語として受け入れただろう。
しかし、我が先人たちの魔改造DNAがそれを許さなかった。

彼らは、漢字の複雑な形を「めんどくさいな」と強引に省略し、パーツを削り取って「ひらがな」や「カタカナ」という独自のハイブリッド文字を勝手に発明した。それだけではない。漢字の読み方に、中国の発音である「音読み」を残したまま、日本語の単語を無理やり当てはめる「訓読み」という超絶技法を編み出した。

その結果、「山」という文字を見て、中国風に「サン」と読んでもいいし、日本風に「やま」と読んでもいいという、世界でも類を見ない奇跡の二重構造システムを完成させてしまったのだ。

西洋の「カットレット」を「カツ」と縮めてご飯に乗せたように、中国の「漢字」の角を削って「ひらがな」にし、日本語の文章の中に混ぜ込んで愛用している。

つまり、私が国語の時間に「はい、今日の漢字はこれです」と教えている行為は、単なる言語のレッスンではない。

「我が国はね、大昔から、外国の優れた道具や文化を見つけては、自分たちの都合のいいように、楽しくて、便利で、美味しいものへと『魔改造』して生き抜いてきたんだよ。君たちが今書いているこの文字こそが、その強かな精神の証拠なんだ」

という、民族の遺伝子レベルのサバイバル歴史を伝承していることに他ならないのだ。

目の前のオムハンは、すでにデミグラスソースとケチャップが混ざり合い、皿の上でカオスな、しかし完璧な調和を保つ小宇宙を形成している。

世界がどれだけグローバル化の波に揺れ、あるいはナショナリズムの壁でギスギスしようとも、我が国の子どもたちには心配いらないだろう。
彼らの手元には、スマホという最先端のテクノロジーがある。彼らはそれを、かつての旧制高校の学生たちがコーヒーをすすりながら洋食を味わったように、いとも簡単に使いこなし、世界の笑いや文化を日々フラットに吸収している。

そしてきっと、彼らが大人になる頃には、AIだろうが宇宙人の文化だろうが、白いご飯(あるいは彼らにとっての絶対の軸)に合うように、ケチャップを絡めて見事に「魔改造」してのけるに違いない。

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「わかることに疲れた」の心理

ある日の教室のワンシーン。

うちのクラスでは、友達やクラスの仲間にこうして欲しいと言う願いがあったら、それを公表することにしています。

ある子が、
「私はこういう気持ちになっちゃう時があるので、わかって欲しいです」
と、クラスの仲間に語りかけました。

この時の返答が、次です。

「わかんない。まあでも、いいよ」

これを聞いたときに、さすが面白いなと思いましたね。子ども同士の会話ってこんな感じの時があります。

大人だと、相手から「わかって欲しい」と切り出されたら、ふつう「あぁわかるよ」と返答するか、あるいは黙ってうなずくかですよね。
「いや、わかんない」・・・とは返さないと思うんですよ。

でも、その子ははっきりと

「わかんない」

と、答えたわけです。
ただし、その後に、「でも、いいよ」と、付け足している。これはあなたの気持ちは正直わからないし、理解できないところもある。だからわかんない。しかし、あなたがそうして欲しいならいいんだよ。賛成するよ。あるいは協力するよ。・・・ということなんですね。

大人だとそれを「わかった」と言うんだと思うんです。
私はあなたの要望にも答えるよ、協力するよと言う気持ちであれば、大人だったら

「わかったよ。あなたの気持ちを理解したよ。わかったよ」

と答えるんだと思うんです。

子どもは正直なので、

「わかんない」

と答えるのですね。

私はこの時に脳内が激しく反応しまして、

「わかんないでもいいよな」

と、革命が起きた気がしました。

わかってほしいと言われて、
ごめん。正直わからない。でもあなたを認める。という立場があるんだということ。
新発見でした。

確かにわからなきゃいけないって勝手に思ってる。大部分の大人はそうですよね。
わかることをよしとする。

だからわかることに疲れるんだと思います。大人は。
そして、勝手に疲れて、ある危険な状態になることだってあります。

それは、「もうこんなに複雑なことをわかるのなんて無理だからもういいや単純化してしまえ!よし、あいつが悪モノ、私が正義と言うことにしておこう」

つまり、単純化に憧れてしまうのですね。この単純化に強く惹かれてしまうのは、その裏にわからなければならないと言う強迫が見え隠れしているのだと思います。

わからなくても良いのだと言う立場があることに気がついていれば、別に、その強迫観念は生まれてこないわけですから、単純化への憧れも、そもそも起きようがないわけです。
「分かることに疲れた」と言う状況にもなりにくいと思います。

なぜ、現代人がこんなにも「わかることを強制され、わかることに疲れているのか」は、世の中が複雑になってきているからです。
昔のように、単純に、あいつが悪い、だから、あいつを排除すれば、残りの人はみんなクリーンだから大丈夫、とはなりにくいのです。
世の中は正解がはっきりしないことの方が多いし、グレーなことばかりです。そして、実は正解が間違いの中に潜んでいることもあるからですね。

しかし、多くの大人は、そこまで考えることに疲れちゃったんですよ!
めちゃくちゃ疲労しているわけです!

もうやだ!疲れた!・・・と。

したがって単純な勧善懲悪のストーリーの方がしっくりくると言う人が、一定の割合でいるわけです。世の中には。
だからトランプさんは人気があるのでしょう。トランプさんは、あいつが悪者だ!と、いとも単純に、叫んでくれますから。・・・わかりやすいことをこの上ないんです。

しかし、そもそもが、複雑性の高い事象やストーリーを、わからないけれども、わからないと言うことにしておく、わからないけれども、相手を認める、ということで前に進めるようになっていたら、トラブルは起きようがないわけです。

今のトランプ大統領にそれを説いても始まりませんから、まずは身近な教室の中だけはそうなるようにしていきます。

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日本人って、つくづくすごい民族

「日本人って、つくづくすごい民族だなと感 銘を受ける。古代から自然と共に生きてきた日本人。こういう大事な話は、義務教育で教えて欲しい」

保護者の中には、熱心な古代ファンがいらっしゃいます。
そして、古代の日本はすごかったから、日本のそういう素晴らしさを教えてほしいと言う話をされます。古代の日本がすごかったと言うのは主に縄文時代の話ならできますね。縄文のヴィーナスとか世界の他の国にはないようなアートですし、文化だったと思います。ただ、縄文時代の話となると、実際には6年生の社会科の授業でしか、なかなか触れることができません。

ところが、小学校の教室で毎日のようにやっているのは、古代の中国はすごかったからだと言う話になります。

私はほぼ毎日、子どもたちに漢字を教えておりますが、漢字の成り立ちを考えていくと、古代人の気持ちがうっすらわかる気がしてとても楽しいです。

特にたいしたものだなと感心するのが、諸子百家の時代です。
大まかに言うと、紀元前6世紀から紀元前3世紀頃(西暦で表すとマイナス500年代からマイナス200年代頃)になります。今からおよそ2200年から2500年も前のこと。

途方もない昔の話ですが、現代人も、この頃の思想家たちの考えにまだまだ及ぶことがありません。
現代人は、これらの時代の人間の考えを理解することはできるのですが、このような思考を生み出す事はできていません。つまり人間は、思想的にはこの頃の人たちを超えたとは言えないのです。

いやいや、そんな事は無い、現代人の方が思想的に優れている、と言いたくもなります。2500年も思想的に進んでいないなんて考えたくもないですからね。でも正直にとらえると、今の現代思想のほとんどが諸子百家の思想に含まれてしまっています。

例えば、権力の暴走を止めると言う点では、法家の韓非は、身分や血筋といった古い特権を全否定しました。「王様の親戚であっても、手柄がなければ平民に落とせ。農民であっても、戦争で首級を挙げたら大臣に引き上げろ」と主張しています。権力装置を暴走させないために、当時の人々の思想は、ここまで徹底しているわけです。ある意味現代の方がここまで合理的にはなっていません。当時の人の合理主義が極まっていることがよくわかります。

2500年前と現在を比べると、科学技術や社会のシステム(ソフトウェア)は劇的に進化しました。スマートフォンで行き先を調べ、AIと会話ができる時代です。
しかし、それを使う人間自身の脳や感情、つまり「ハードウェア」は2500年前からほとんど進化していません。

* 身近な人に認められたい(承認欲求)
 * 死ぬのが怖い(生存本能)
 * あいつばかり得をしていてずるい(嫉妬)
 * どうすれば幸せになれるのか(幸福の探求)
こうした人間の根源的な悩みや性質が変わらない以上、当時カオスな乱世を生き抜くためにリアルな人間観察から導き出された「諸子百家」の答えは、今でも100%そのまま通用してしまうわけです。
念を押しますが、科学技術の話では無いですよ。思想の話です。

その頃、漢字はドンドコどんどん作られており、また小さな国ごとにあるいは地方ごとに形もスタイルも意味も全く違っておりましたので、まさに漢字を生み出す創成期だったと言っていいでしょう。

ちなみに孔子は「魯(ろ)」という国の出身で、まだ原始的な漢字を使っていました。今よりもよっぽど丸みを帯びた可愛らしい漢字を使ってたことがわかっています。

授業では、漢字の成り立ちを学ぶときに、いろいろと予想を立てます。子どもは、「たぶん、昔の人はこう考えたんじゃないかな?」と考えます。

ほとんど見当違いのこともあるんですが、なかなか本質を突いた意見もあり、そんな時、私は日本人の子供も捨てたもんじゃないな、と感心しています。古代の中国人もスゴイが、現代の日本人もなかなかスゴイ!

私は「日本人はスゴイ!」と言う保護者の方には、漢字の話をして、その子が漢字をキラキラした目で学習している様子をお話しすることにしています。

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鉄面皮症候群とは

鉄面皮症候群(てつめんぴしょうこうぐん)とは、私の造語です。
それは他者と折り合うことなく、自己の物語のみを信じ、社会に押し通すことを決めた人の態度であり、当人はそれ以外の態度をメンタル的に選ぶことができなくなってしまった病的な状態のことを指しています。


私がこの言葉を勝手に作ったのは、実は25年ほど前のことです。
アメリカのツインタワーに飛行機が激突した、911事件の時。
ブッシュ大統領がこの事件を受けて、テレビで国民に語りかけました。
この時、鉄面皮だったのです。
私は、今だったら「これってAI?」と思ったでしょう。表情が無かったから。

この人は人の心が無いのではないか、と衝撃を受けたのですが、今、その意味がわかる気がします。

あれが、「鉄面皮症候群」だったのです。始まりと言っても良い。
あれが、鉄面皮の時代の幕開けでした。

ブッシュ(息子)氏の時代を振り返ると、「何が本当の始まりだったのか」という構造が非常によく見えてきます。

特に、ブッシュ(ジュニア)政権の時代は、現代の「鉄面皮症候群」や「事実(ロジック)よりも態度や世界観を押し通す政治」の基礎が作られた決定的な転換期だったのかな、という気がします。

彼らの戦い方を振り返ると、現在の状況に繋がる重要な伏線が見えてきます。

2000年代のブッシュ政権(特にイラク戦争の時期)を象徴する、有名な言葉があります。当時の大統領補佐官(カール・ローヴ氏とされています)が、懐疑的なジャーナリストに対して放ったとされるセリフ

「君たちメディアは『事実に基づいたコミュニティ』に生きているから、現実を観察して分析するのが仕事だと思っている。だが、今の世界は違う。今の私たちは帝国(権力)であり、行動することによって自ら現実を創り出している。君たちがその現実を分析している間に、私たちはまた次の新しい現実を創り出す。私たちは歴史の主役なのだ」

この「客観的な事実やエビデンス(証拠)がどうあれ、権力や声の大きさで『新しい現実(ストーリー)』を強引に作って押し通せば、それが正義になる」という姿勢は、まさに現代の鉄面皮な対話術の原型です。

大量破壊兵器が見つからなくとも、「テロとの戦い」「自由の防衛」という大義名分(ナラティブ)を笑顔や力強い態度で語り続けることで、当時のアメリカ世論を熱狂させ、押し切ってしまいました。

ブッシュ政権が「国家・組織の力」を使って現実を書き換えたのだとすれば、トランプ氏はそれをSNSという武器を使って「個人インフルエンサーの力」でやってのける形に進化させました。

   トランプ政権の誕生時、側近が放った「オルタナティブ・ファクト(もう一つの事実)」という言葉が話題になりました。
事実が一つではなく、自分の陣営に都合の良い事実を「これが真実だ」と言い張り、絶対に謝らないスタイルです。

立花氏や石丸氏、斎藤知事のやっている「独自の条文解釈」や「メディアとの徹底対立」という戦術は、このブッシュ氏やトランプ氏が世界規模で証明してきた「事実の客観性よりも、自分の信じる物語の強度(態度)で押し切る」という手法の、まさに直系のバリエーションと言えます。

「対話や事実を軽視する病理(鉄面皮症候群)」が、ここ20年以上の歳月をかけて世界政治のトップから地方自治体、そして現代のネット社会や身近な職場へと、時間をかけてじわじわと滴り落ちてきた(浸透してきた)歴史そのものを表していると思います。

これは、人間の本来持っている機能の低下だと思います。
これは、小学校の教室の中にもあります。一切、他の子の意見を聞こうとしない子。自分の意見だけを繰り返し述べて、他の意見を聞いても「私が適切」と言って退けてしまいます。

サイコパス感がありますが、現時点での率直な感想からすると、まさに今、令和8年度今の段階で、割合としては1000人に1人くらい、います。私は以前、その子の担任になりましたが、チャーミングで愛想も良くて、一見すると普通です。立花孝志さんもそうですよね。一見するとチャーミングで愛想が良くて、コミュ力も高そう。

しかし、それが鬼の形相に変わる時がありまして。
その引き金はいつも決まっていて、
「あなたの考えはおかしい」と言われた時です。
つまり、他人からの指摘は一切、聞き入れない。鉄面皮て押し通す。あるいは逆ギレします。

そして、共通するのは、言語能力の突出した高さ、です。
周囲の子が「ひく」ほどに、まくしたてます。

一見して「病的感」があるので、私はすぐにカウンセリングの専門家に繋げました。なんとか落ち着いていきました。彼は、カウンセリングの先生のもとで、半年以上、自己をふりかえる、というトレーニングをしたと思います。

「今、自分のしたことを言葉で正確に話してごらん、余計な感想は一切なしで」
「それをすると、どんな良いことがあるの?」

これは、トレーニングが必要なのですね。他者と折り合う、ということは。

トランプ大統領も、トレーニングをすると違う人生があったと思いますし、もしかしたら彼にとってはその方が幸福な人生を送ることができたのかもしれません。

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光村図書 4年生国語「一つの花」

発問と作業指示の一覧

お父さんがゆみ子のことを大切に思っている証拠となる言葉や文を10個探しなさい

ゆみ子は「一つだけちょうだい」と言うようになったのはなぜですか?

食べ物が足りないのはなぜですか?

「一つだけ」という言葉は幸せな言葉ですか?それとも違いますか?

ゆみ子は、本当はたくさん欲しいのですか?

停車場でゆみ子が泣き出した時、お父さんは、おにぎりをくれる人を探したほうがよかったのではないですか?

お父さんは、人のたくさんいる場所ではなくて、なぜプラットフォームのしっぽに行ったのですか?

お父さんがコスモスの花を差し出す時、言った言葉を書き抜きましょう。

お父さんのセリフに出てくる、「一つだけ」は、幸せな言葉ですか?

お父さんが大事にするんだよと言いましたが、ゆみ子が大事にしたことがわかる文や言葉を見つけなさい

お父さんはなぜ、ゆみ子の顔ではなく、1つの花を見つめながら行ってしまったのですか

お父さんの願いは叶いましたか?

お父さんが、もし生きて戻ってくることができたら、コスモスの花を見て何と言いますか?



中心の発問は、「お父さんの言った、一つだけ、と、ゆみ子の言った、一つだけは、どんな違いがありますか?」

で、徹底的に考えようと思いました。

しかし、補助的な発問をいくつか繰り返さないと、いけませんでした。どう違うかと問うだけ、では、なかなか、二人の言葉の意味の違いがはっきりするまでに時間がかかりました。

そして、今回、ますます戦争が遠くなっていることを実感しました。
もはやアメリカと日本が戦ったことを、はっきりわかっている児童はほとんどいません。
また知っている子もどのように戦ったかについて語れる子はほとんどいません。

広島の原子爆弾でさえ、小学校4年生の児童が、イメージを持てていません。

おそらく、歴史なんて知らなくても、次の時代の準備はできると思っている人の方が増えてきたんだと思います。
社会に対する興味、人間に対する興味が、いっそう失われていっている時代だと思います。

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マオリ族の「ハウ」と5つの新しい単語


フランスの高名な人類学者クロード・レヴィ=ストロース。
彼は、かつて南の島やアマゾンの先住民たちのなかに、私有も支配もない、等身大のまま誰も傷つけずに生きる「野生の思考」を発見した。

さらに、ニュージーランドのマオリ族の間には、贈り物に宿る霊的な気配を「ハウ」と呼ぶ文化があったという。

あなたはこれを、面白い感覚だと思わないだろうか。
贈り物そのものに、「霊」が宿るというのだ。
その霊は、その贈り物を受け取った人間に、次のような気持ちを起こさせる。

「あいつからもらったから、今度はあいつにお返ししなきゃな」
「あいつはどんなものをもらったら喜ぶんだろう?」
「よし、家にあるあれとあれを使って、こんなものができないかな。それを贈ったら、あいつはきっと喜ぶだろう。」

このような気持ちが自然と湧き起こるので、この自然と湧き起こる心の動きや感覚は、「霊」か起こした、と考えたのです。

この「ハウ」の響きが、実に素晴らしい。これは近代的な「お返しをしなきゃ怒られる」という怯えの義務(圧)ではない。贈り物を受け取った人間が、次のように感じることなのだ。

「おやおや、世界の心地よいキャッチボールを自分のところで止めてはマズいぞ。自分ばかり美食を楽しんでいては気が引けるな」

これは、お腹の底からソワソワ、ワクワクすることだ。自発的に次の人へバトンを投げ返したくなるような、生き生きとしたリズムのことだ。クラ交換の本質には、他者をコントロールするようなギスギスした「圧」など1ミリも存在しない。あるのはゲームの順番が回ってきたときの、「ニヤリ」とするような心地よい緊張感だけである。


そんななか、現代の文化人類学者・松村圭一郎氏は、私たちが国や市場の「圧」に頼らなくても、日々の暮らしの貸し借りや気遣いのなかで、十分に平和な秩序を作っていけるのだと優しく説いた。

しかし、松村さんの作戦には、致命的な「うっかりミス」があった。彼はその美しい営みを、あえて「アナキズム」という物属しい劇薬のラベルを使って説明してしまったのである。

「暮らしのアナキズム」――インテリのウィットとしては座布団の一枚もあげたくなるが、社会の冷酷な監視システムをナメてはいけない。
私はそれを恐れる。

現代の高度なアルゴリズムや世間の目は、文脈など一切読まずに「アナキズム」という不穏な文字だけを検出し、ある日突然、一網打尽に「排除・削除」のレッドカードを突きつけてくるかもしれない。

これでは本当にその知恵を必要としている誠実な人々が警戒して逃げ出してしまうではないか。松村さんは、戦略として、完全にやらかしてしまったのではないか。

かと言って、他の学者たちが好む「ケア」や「福祉」「共生」といった言葉に逃げてもダメだ。
それらの言葉には「牙」がない。
資本主義の富裕層から「おやおや、弱者をいたわる優しいボランティア(チワワ)だね」と、上から目線の慈善事業として都合よく処理されて終わりである。


さらに日本人が昔から使っている「お互い様」なんていう言葉にいたっては、昭和以降の「お前も我慢しろ、俺も我慢するから」という陰湿な同調圧力の道具として使われすぎて、もはや手垢まみれの説教臭いゾンビワードに成り下がっている。

私たちに必要なのは、新しい言葉だ。
新しいフレーズが必要なのだ。

劇薬の「アナキズム」でも、牙の抜けた「ケア」でも、ゾンビの「お互い様」でもない。
マオリの「ハウ」のように人間の野生の活力を爆発させ、「お上」の検閲網を「真面目な優等生の顔」をしてすり抜ける、まったく新しい言葉の創作(ブリコラージュ)が必要なのだ。

そこで、あれこれ考えた。
新しい言葉を考えました。
日常の地べたから立ち上ってきた生命力を、誰もが「それだ!」とニヤリと納得できる、5つの言葉として今、発明しました。

これらのことを、日常的なコミュニティーの中で、少し意識するだけで、おそらく人間社会から格差とか、貧富の差とか、メジャーとかマイノリティーとか、そうしたものが少し薄くなります。

つまり、人々は、実態のあるもの、自分の気持ちに正直なものを信頼するようになり、頭の先だけで考えたことや、どこからか与えられた世間のルールと言うものには、縛られなくなるのです。

 ① 【 湧還(わっかん) 】

自分の持っている能力や富を「自分の所有物」として囲い込むのではなく、井戸の水がコンコンと湧き出るように、ただ自然にその場の共有財として流し出し、巡り巡ってまた自分に還っていく生命のリズム。

「ケア」のような偽善っぽさはゼロ。水が湧いて流れるのは自然の摂理であり、そこにお説教の圧は存在しない。「ちょっとこれ湧いちゃったから、みんなの場所に還しとくね」と、等身大のままでニヤニヤしながら使える言葉である。

② 【 息合(いきあわせ) 】

「息が合う」を能動的に起こすこと。誰かがフッと息を吸ったら(困っていたら)、もう一人がサッと息を吐く(差し出す)ように、あ・うんの呼吸で生み出す自発的な調和。

「お互い様」の我慢比べとは無縁だ。ルールで縛るのではなく、ただ同じ空間に生きる生身の人間として「呼吸のテンポを合わせるだけで、勝手に平和な空間になっちゃうよね」という、究極に無理のない身体感覚の言葉である。

 ③ 【 巡良(じゅんら) 】

「巡ることで、みんなが良く(心地よく)なる」の意。「自分ばかり美食では気が引ける」という、あの健康的なソワソワ感をエネルギーに変換したもの。
「溜め込まずに巡らせた方が、結果として自分が一番安全で心地よい」という打算と知恵を含んでいる。弱者を救うお高くとまった姿勢ではなく、全員が「そっちの方が楽しいし、得じゃん」とニヤリと笑い合えるパワーがある。

④ 【 添流(そえながし) 】

自分の能力や富を「自分の実力だ」と威張るのではなく、「たまたま天から預かって、いま手元に余っているだけだから、サッと場に流す」という、所有の概念を根本からハックする作法。

現代の「ギブ&テイク(等価交換)」という決済の圧力を完全に無効化する。「これ、今の俺の余りだから、流しとくわ」と言うだけで、受け取った側も過剰な感謝を強いられず、ただ「次は俺の番だな」という心地よい「ハウ」の余韻だけを宿すことができる。

⑤ 【 空地(くうち / あきち) 】

国家の管理(圧)も、資本主義(独占)も、理不尽な道徳も1ミリも立ち入れない、自分たちの手の届く範囲に勝手に作り出す「心理的・物理的なシェルター(防衛圏)」のこと。

「アナキズム」が持つ破壊 of イメージを、完璧に無害な子供の遊び場の風景(カモフラージュ)へと反転させている。検索システムには「ただの空地」としてしか引っかからないが、その内実では、等身大の命がニヤニヤしながら交差する究極の聖域を意味している。


言葉のラベル(名前)なんてものは、外のシステムを騙すためのただの飾りだ。松村さんのように言葉のウィットに溺れて劇薬の看板を出す必要はない。本当に賢い戦略家は、外の目(検索や管理職、世間)に対しては、どこからどう見ても完全に無害で、真面目で、従順な「スーツ」を着てやり過ごす。しかし、その無害な看板の裏側で、誰にも気づかれないようにひっそりと、これらのシステムを淡々と駆動させるのだ。


これは、小学校の教室での「コミュニティづくり」にも全く同じことが言えるだろう。教室から教師の「上からの圧」を完全に消し去り、子どもたちと地続きの信頼のなかで、誰も傷つかない空間を当たり前のように作ってしまうこと。それは本来、人間として当たり前の、最も心地よい「野生の調和」のはずである。

しかし悲しいかな、これをまだ世間(大半の管理社会)は「よし」としていない。彼らは「ちゃんと圧をかけてコントロールしなさい」と迫ってくる。

だからこそ、私たちは不穏な名前など一切名乗らず、完璧に無害な顔をして、名無しのままで、この足元から世界をひっそりと、術中にはまった大人たちを尻目にニヤニヤしながら、世の中の常識を書き換え続けていくのである。

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合理的ということ

「合理的」という言葉を子供たちと共有する。
そうすると、合理的かどうかが、話題になる。子供たちは、物事を「合理的かどうか」で捉えて、考え始める。

しかし、すぐに合理的と言うのは、よくわけのわからない言葉になってしまう。
何が合理的か?
それは大人でもよくわからないのです。

たった1つ、それを測ることのできる定規があるとすれば、
「自分や周りのみんなにとって本当に良いかどうか」
と言うたった1点。

1部の人だけ良くて、他の人が傷ついてしまうのであれば、それは本当にコミュニティー全体の利益にはならない。
あるいは、たった今、みんなが気分良くなったとしても、1ヵ月後に全員が傷つくのであれば、それは合理的とは言えない。100年後でも、1000年後でも同じだ。


と、いうわけで、私はしょっちゅう合理的、合理的と教室の中で繰り返すのであります。そして、そのたびに教室には不思議な空気が流れて、「みんなが良くなるってどういうことだろう?」という、人間のコミュニティーが、ぶつかる最大の問題が、いつも目の前に立ちはだかるわけです。

この問いからは、逃げると損です。
面倒だからとか、時間がかかるからと言う理由で逃げてはいけません。損をしてしまうからですね。
コミュニティーの将来にとっては、この問題から遠ざかったりこの問題を無視したりすることは、全体の不利益になることが決まっています。
あるいは、問題を先送りすることで、じわじわとコミュニティーの体力や健康さが失われていくわけです。

そもそも、この問いから逃げているから、30代になっても40代になっても、自分探しを続けなければいけない人が多いのではないでしょうか。
子ども時代にしっかりと毎日この問いに向き合っていれば、おそらく日本人は迷走しないでしょうね。

私は、自分自身が高校生の時に、むさぼるようにして、文化人類学の本を読み、レヴィ:ストロースの本なんぞ読みふけっておりました。
それは人間とは、何かということについて、自分なりに模索する途中だったからで、とにかく落ち着いて大人になるためには、「そもそも人間って、なんなの?」と言う問いに対して向き合う必要があったからです。

あらゆるシステムやプロパガンダに踊らされる前の人間とは。
太平洋の島に住むひとが、どのようなコミュニティーを作り、他のコミュニティーとは、どのような関係を結ぼうとしていたのか。レヴィストロースは、独自の解釈で解き明かしていくわけです。

今、私は、ふてぶてしいほどに態度が大きくなってしまいましたが、その原因は、こうした人間研究を自分ながらに、35年以上は続けてきたからでしょう。
そのために、1年生に対する態度と校長先生に対する態度が、ほぼ同一になってしまいます。どうしても同じ人間だと言う感覚が正面に出すぎてしまうからです。

合理的と言うことについて考えれば考えるほど、あの人とこの人が対等だと言う風な気分が増えてしまいます。
有名な人ほど偉くて、身分が高い方が良いのだと言う考えは、レヴィ、ストロースの本を読めば、消えてしまいます。

そして、教室にいるありとあらゆる子供が全て対等だと言う事と、私自身も含めて対等だと言う気分が、あまりにも当たり前のようにして存在するのです。

そして、もし学級で、「合理的」と言う言葉で、何かを判断しようとするのならば、お互いが一寸の狂いもなく対等だ、というところから始めなければ、その合理的の意味はなくなってしまいます。

合理的だと叫ぶ人の、内面が試されるわけです。

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怒りという「通貨」


本来、人間の感情にはそれぞれ固有の応答があります。


不安には、安心を与えること。
悲しみには、慰めること。
恥には、受容すること。
無力感には、支えること。

しかしある家庭では、これらすべてに対する応答が「怒り」でした。

泣いたら、怒られた。
怖がったら、怒られた。
寂しがったら、「甘えるな!」

つまり柔らかい感情はすべて「悪」とみなされる文化です。

この環境で子どもが学ぶのは、こういうことです。

柔らかい感情を出す → 叩かれる。
怒りを出す → 相手が動く。

ここで怒りは「通貨」の役割を獲得します。

怒り=通貨、の力学が、あるのです。

通貨とは何か? 相手を動かす交換手段だ、ということ。

お金を払えばモノが手に入るように、怒りをぶつければ要求が通る。

相手に言うことを聞かせたい → 怒る。
状況を変えたい → 怒る。
自分の正しさを証明したい → 怒る。
不安を黙らせたい → 怒る。

ネジも、釘も、ボルトも、ハンマーで叩く。
食事も、交渉も、愛情表現も、すべて「怒り」で支払う。

この人にとって怒りは感情ではなく、万能の道具であり、唯一の社会的資源です。

だからこそ怒りを手放すことは、この人にとって「財布を捨てろ」と言われるのと同じ恐怖なのです。

怒りがなければ、誰も自分の言うことを聞かない。
怒りがなければ、自分は無力なまま放置される。
そう信じている。

しかし、世の中には通貨がなくても成り立つ関係があります。

それは信頼関係です。

信頼関係とは、こういうことです。

黙っていても、相手は去らない。
弱さを見せても、叩かれない。
頼んでもいないのに、支えてくれる。
「怒り」を使わなくても、自分の存在が尊重される。

ここには取引がない。
だから通貨が要らない。

お金が不要な関係——つまり「怒らなくても大丈夫な関係」の中では、怒りは万能通貨の座から降り、数ある感情のうちの一つという本来のポジションに静かに戻ります。

怒りが「たまに登場する一感情」に過ぎなくなったとき、ようやく他の感情たちが息を吹き返します。

「あ、自分は今、不安なんだ」
「これは悲しみだったんだ」
「本当は、助けてほしかっただけだ」

「なんで腹が立つのか」という問いすら必要なくなる。なぜなら、腹を立てて何かを勝ち取る必要がそもそもないからです。

怒り=通貨の世界では、こう回ります。
要求がある → 怒りで支払う → 相手が従う → 「成功体験」 → 怒りへの依存が強化される → すべてのコミュニケーションが「取引」になる。

信頼=通貨不要の世界では、こう回ります。
気持ちがある → そのまま出す → 受け止められる → 怒りで支払う必要がない → 怒りは本来の小さなポジションに戻る → 感情の多チャンネルが回復する。

つまり、こういうことです。

怒りが通貨である人は、すべての人間関係を「市場」として生きている。常に何かを支払い、何かを勝ち取り、損得を計算している。

信頼の中に生きる人は、人間関係を「家」として生きている。家の中では、お金を払って居場所を買う必要がない。ただ、そこにいていい。

怒りを手放すとは、「通貨を捨てる」ことではなく、「通貨がなくても自分は大丈夫だ」と知ることです。

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「怒り」は強さ・・・という思い込み

怒鳴ることが強さの表明だ、と、勘違いしている文化について。

相手に共感する事は、弱さの表明だと思っている人が、います。

逆ですよね。

相手の気持ちに寄り添う事は、自分の感情を大切に保持しながらも、相手を受け止めようとするわけで、強いわけです。

これはちょっと、人によってはキツイ話ですが、相手に共感したら負けなのだ、という心的状態である方もあります。
ずっと感情的になって、子供を叱り続けてきた経験を持つ親にとっては、これを受け入れるのはかなりきつい。

共感する
→ 子どもの痛みが見える
→ その痛みの原因が自分だとわかる
→ 自分が「加害者」だったという事実
→ 自己像が崩壊する
→ 耐えられない
→ だから共感しない

体罰と怒声罵声で後輩をしごき上げる有名なスポーツクラブがあったとしましょう。これはなかなか変わらないと思います。残念ですが。

それは何故かと言うと、後輩の気持ちに共感したら、自分が加害者だと言うことがわかってしまうわけですから、耐えられないわけです。だから決して共感はできないんじゃないかなと思います。

元巨人軍の、桑田真澄さんがいますが、桑田さんは、この状況をなんとか変えようとしていろいろ発言されておりますね。

最近の教育心理学研究によれば、結局共感能力が育たないのは、以下の図式のようです。

自分が共感されなかった(幼少期の欠損)
→ 感情を識別する能力が育たなかった
→ 感情=排除すべき問題、と学習した
→ 共感=弱さ、と信じるようになった
→ 共感しないことが自己防衛になった
→ 子どもに対しても共感できない
→ 子どもも共感を学べない

ということのようです。


柔らかい感情は、どうも、「弱い」と勘違いされやすいのかも?

相手の気持ちをしなやかに受け止め、相手の感情に共感する行為は、決して、「弱さ」では無いのですがね。


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