30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

来年何を飼育するかで悩む

学校ではそろそろ次年度の動きを考え始めます。次年度どんな計画で、学校の運営を進めていくのか、今年の反省を踏まえて、どの職員もグループになり考え始めます。

私は立場上、学校内の全体の話を考えるのですが、1つには学校で飼育する動物について考えております。
生活科の教科書が、今年新しくなったために、そのページをよく見てみると、なんとドーンと大きなヤギの写真が!

一昔前までの生活科と言うと、うさぎがメインだったはず。
これはうさぎならば、都会でも飼育しやすいことが理由でしょう。そして、うさぎより小さな生き物だと、ほとんど虫になってしまうからです。

神奈川県の小学校勤務だったときには、生活科と言えばダンゴムシでした。
学校の中に小動物を飼うスペースや設備はなく、植物か、せいぜいダンゴムシが飼育できるものだったのです。
ダンゴムシなら、春から秋までずっと動いてくれますし・・・。

ところが、ダンゴムシでは、ちまちました作業になってしまいますから、それほど子供たちも盛り上がらず、低学年の担任は悩んでいるのが常でした。

新しい教科書に、ヤギがドーンと載っていたのには、どうやら、文科省の意図が隠れていそうです。
文科省の立場からすると、下じもの小学校には負担をしていただき、ぜひ、教育効果の高い動物を飼育することを推奨したいらしいのです。

そこで私はウサギに代わる動物として、ヤギ、羊などを考えました。
ところが、どちらも、ある程度どう猛であることに変わりはありません。
昔話や絵本のイメージで、ヤギも羊もおとなしい動物だと思われがちですが、実際には、血気盛んで、人に体当たりする事だってあります。

特に、オスのヤギの凶暴さについて、知人の農家の男性T氏が語っているのを聞きました。
T氏は、ヤギはおろか、ポニーやうずら、鶏などを飼育する農業のプロです。学生時代は、虫や酵母菌についてもレベルの高い研究をしていて、ここでは、あまり書けませんが、酒はほぼ自作していました。私は自分の結婚祝いに、彼からどぶろくをプレゼントされましたが、恐る恐る飲み終えるのに、半年以上かかりました。

彼は
「体力が余ってるから、たまにこうやって遊んでやらないといけないんだよね」
と。
T氏は、そう言いながら、ヤギの頭を、長靴の裏でバチコーンと蹴っています。
私が驚いて、そんなことをしていいのと聞くと、鼻で笑って、
「こんなの向こうは何も感じていないよ」
といい、また、何度も靴の裏で、バンバンとヤギの頭突きを受けています。
驚くのは、ヤギも遊び方を心得ているようで、津村氏に向かって、いかにもやって欲しそうに頭を向けて突進していくのです。
津村氏はまた来たかと遠くを見つめながら、まるでこれを10年以上続けているプロのように、長靴の裏をヤギの額に合わせて、ポンポンとはずみをつけて蹴っているのでした。

私はムツゴロウさんか!と、心の中でツッコミましたが、ヤギはそのくらい元気が良いし、体力もあるし、よく動くのです。

そこで私はヤギに関しては少し恐れがありまして、羊はどうだろうかと思ったのです。羊のショーンなどを見ると柔らかくて、ふわふわしているし、ガラガラドンに出てくるヤギのような凶暴性は比較的、無いと思ったわけです。

そこで今回は、とあるMと言う町に行きまして、羊を観察しに来たのですが、とてもおとなしいようです。私が与えた草もぺろぺろ食べましたし、お前はおとなしいのかと聞くと、ふわふわした白い毛で、はいそうですと言うような表情。

よし、オッケー。
私は心の中で来年度生活科で買うのはこのひつじだと決めました。

ところが・・・

念のため、例のT氏に聞きますと、



「え?羊?ひつじはジャンプすると、大人の背の高さ位は飛び越えるよ」

とのこと。

やはり、やめときます・・・。

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四年生国語・ごんぎつねで恋バナ

ごんぎつねの中で、意見の分かれる箇所がある。
それは、ごんが、本当に優しい狐なのかどうかと言う点だ。
第1場面から第4場面くらいまでを読むと、ごんが、素直で心の優しいキツネだということがよくわかる。
なぜなら、自分がやってしまったいたずらのために、兵十は母親にうなぎを食わせてやれなかった。それを深く反省し、償いを始めているからだ。
それも毎日のように栗や松茸を持っていってやっている。

怪しくなるのは第5場面だ。
栗や松茸が毎日のように家に届く兵十は、それを神様のお恵みだと認識するようになる。実際は、ごんが持っていってやっているのに、だ。

そこで、ごんはこう思う。

へえ、こいつはつまらないな。おれが、くりや松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、おれは、ひきあわないなあ。

ある子が言う。
「本当に心が優しいのなら、兵十は栗をもらって喜んでいるのだから、それを見て満足すればいい。兵十を喜ばせることができた、で、良いじゃんか」

しかし、ごんは欲張ってしまう。
自分がうなぎのいたずらをした償いのために、せっせと栗を運んでいるのだと言うことをわかって欲しくなった。兵十にその献身的な振る舞いを認めて欲しいと思った。褒めてもらいたくなってしまった。

この辺が、だんだんと、読み取りを進めるうちにはっきりしてくる。
すると、ごんという狐は心の優しい狐です、という単純なフレーズでは、間に合わなくなってきてしまう。

いや、そもそも第1場面の初めから、ごんは厄介ないたずらギツネだとして、登場してくるではないか。
畑へ入っていもをほりちらしたり、菜種(なたね)がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家(ひゃくしょうや)のうら手につるしてあるとんがらしをむしり取ったりしている。

ここらへんを、再度、しっかりと読み直す。すると、

【ごんは、◯◯なきつねです】

という単純な言い方では、収まりきれないような感じがしてくるから不思議だ。

「本当は心優しいはずなんだけどなぁ。毎日、栗を拾ってくるし、お母さんのことも心配したり、悲しく思ったりしているんだから。でも、ごんはいたずらするんだよなぁ。そして、僕のことを見て欲しい。わかって欲しいと思ってるんだよなぁ」

教室の中に、ごんというキツネが、なんとも生々しい、生きた存在として、あるいは、非常に複雑な心の状態を抱えた登場人物として、くっきりと浮かび上がってくる。

ひとりぼっち、という叙述に焦点を当てる子もいる。兵十のことを見たごんは、
「おれと同じひとりぼっちの兵十か」
とつぶやいている。
そもそも第1場面からそう書いてある!と、改めて見つける子もいる。

ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に穴(あな)をほって住んでいました。


だから、自分と同じようだから、気にしているのだ。そばに行ってあげたくなるのだ。
第4場面で、わざわざ後をつけるのも、そばにいたいのかも・・・。

さて、第6場面まで、つまり最後までを通して読んでのまとめ、を考えよう。

ごんが第6場面で、兵十に対して思っている事は何だろう。
一番の切ない思いは、「わかって欲しい」だろう。わかってくれなくても構わない、兵十が栗を食べてくれたらそれで良いと、忍んで耐えるごんではない。見て欲しい、気づいて欲しい、とさらに兵十に近づいてゆく。そして、近づき過ぎて・・・

最後まで読み終えて、あらためて

【ごんは、◯◯なきつねです】

としてまとめてもらうと、
子どもたちは、
「ごんは、兵十に、僕を見て欲しい!こっち見て!と構って欲しいキツネ」
と書いた。

かまってちゃんだよ。

誰かがそっとつぶやいた。この一言に、教室中が笑い出した。

そうか!

いたずらばかりしていたのも、こっち見て欲しいサイン、かまってちゃんサインだったのかも・・・

ある子が言った。
決まった女の子だけに意地悪を言う男の子っているよね。他の女の子に対しては全然普通の態度なのにさ!特定の子にだけ、ちょっと意地悪するんだよね。

そしたら女の子が、「なんでそんなふうにイジワル言うの?」って、その子が目の前に来て自分に言うもんだから、その時はもう、心臓がドッキンドッキンしてるんだよ!そういう男の子、いるんだよね!

これで一気に教室中が爆発的に沸いた。

ごんは、一人ぼっちだから、友達が欲しかったんだよ。

という意見が出ると、ほとんどの子が自分も同じ意見だと表明した。
寂しいから、友達が欲しいから、かまって欲しいから、自分が優しいってわかって欲しいから、だから、近寄っていくんだけど・・・

別の子が、それに付け足した。

でも、だからこそ、いたずらをしちゃう時があったんだよね。

ははぁ・・・そうか・・・(笑)


ノートに書かれた、最後のまとめを読むと、こう書いてある。

ごんは、相手が困っていたら、助けてあげたくなるくらいに、本当の本当は、友達思いなんだけど、恥ずかしくていたずらをしてしまう、キツネ。

この授業の後、なんとなく教室の中の雰囲気が柔らかくなりました。そして、男子が女子に、女子が男子に、近くなって話をしているのです。
誰かの冗談に、男子も女子も一緒になって笑っている姿がありました。

みんな、一人ぼっちなんだよ、そして、友達が欲しいんだよ・・・

ごんの姿を通して、子供たちの心に響いた何かがあったのでしょう。 あと、このクラスは半年だ。みんな、なんとなくそれを感じ始めている。5年生になったら、クラス替え。今隣にいて話ができている、この友達と、こんなふうに話ができていることの嬉しさ。
新美南吉さんの物語は、直接的ではないからこそ、やはらかいからこそ、心の琴線にふれたのでしょう。

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花火大会の有料化から想像する世界

全国の花火大会が、実は稼げる商業イベントなのだと自治体は認識し始めた。

昔は早い者勝ちだったためにいわば誰でも根性があれば見られたのに、今はS席、A席などに区分けされて料金を支払って観るようになった。
つまりお財布の事情によって、子どもたちは花火が見られる子と、見られなかった子に分けられることになる。

次の日の学校ではきっと、
「俺、花火見たー」
と無邪気に喜ぶ子と、
「うちはお金がかかるから行かなかった」
と残念がる子の、両方がいるのでしょう。

公共の場が、マネーの世界に飲み込まれ始めたわけで、これは国鉄がJRに変わったように、民営化の流れがある以上、確定した流れであります。
郵便局は株式会社ゆうちよ銀行になり、田舎のATMはどんどん維持費削減のために撤去されています。
昔、住民のため、と用意された『公共』は、今では、マネーのため、と撤去されているのです。この流れは、新たな哲学が生まれるまでは、さらに進んでゆくでしょう。

いずれ、学校も、マネー主義に飲み込まれるかもしれません。いや、すでに私立校があるではないか、と思うかもしれません。しかし、それ以上の世界が近くまで来るのではないかと私は恐れています。

琵琶湖の花火大会のように、教室の座席も、自治体がマネーになる!と発想を変えていくのではないか。
これからの新しい時代に取り残されないために、マネーを導入し、新自由主義の風を吹かそうとするのではないか、と危惧します。

教室もコンサート会場のように、S席、A席ができるのでは。
そして意識の高い消費者はスマホで申し込むのでは、と。

ところが、そうはなりません。
なぜか。
実は、人の繋がりを感じられる空間では、新自由主義は居心地が悪いのです。マネーの病理は蔓延しないのですね。
教室は、小学校は、まだ人の繋がりを感じられる空間ですから、マネー主義の壁を作ってマネー主義の板かなんかで公共空間を囲い込んでしまおうと意図しても、人の体温でボンドが溶けてしまい、穴が空いてしまうのですね。完全なマネー主義を構築するのは無理で、資本主義だけのマネー純粋主義は実現できないのです。

「S席を買ったの、俺だけかよ」

となった花火会場があったら、楽しいでしょうか?というのが、どうも人間の心理のようで、

自分だけ美食では気が引ける

というのが、人間という生き物。

知り合いばかりのクラスで、金の力で他の子を差し置いて、自分は
「金を払ったんだから良い席で当然!」
と、大きな顔をできるか、ということね。

これ、他の人が全部知らない他人ばかりなら、成り立つのですよ。マネーは、人間関係が希薄だとパワーを持ちますから。

でも、人間同士が知り合いだったり、お互いが親しく振る舞おうとするコミュニティなら、俺は良い席、お前は遠くの席、金の力で決まるんや!・・・とはなりにくい。

マネーは、人の繋がりの薄さに、つけ込むわけです。

ゆうちょ銀行のATM撤去も、そこに他人しか住んでないから、撤去しよう、となるわけで。
田舎のJRも、路線バスも、どんどん撤去されていくけど、都会人からすると他人だからでしょうね。

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やさしいことをふかく・・・

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

これは、井上ひさしさんの言葉です。

小学校や中学校の、すべての営みがこうあると良いなあ、と思わせる言葉です。
もしかしたら、高校もそうかも。

とくに良いなと思うのは、

やさしいことをふかく

という部分ですな。
易しいことを深く、というのは、思いのほか難しいことです。易しいと一見思われることも、それを本当に真正面に据えて、取り組もうと思えば、なんにしてもなかなかに難しいことであることが多いからで、

すべての授業がこうであるべきだと思いますな。

そんなの簡単!
と、子どもに言わせるようでなければいけないと算数をしていると思いますし、国語の物語を読んでいるときは、あれ?意外と裏の解釈もあるぞ、そっちの方がさらにおもしろそうだ、と言わせたいです。

今、4年生ではごんぎつねを習っておりますが、ただ、狐が死んじゃう話、というだけではなく、作者の新海南吉(『あめ玉』の作者)が、なぜ物語の最後で、兵十にぱったりと火縄銃を落とさせたのか、その心の深い動きまで読み込ませたいと思いますね。

本当なら、昔の国語の教科書5年生に掲載されていた、あめ玉を続けて読ませることで、新美南吉と言う作者が、世の中をどう見ていたのか、考えるきっかけにもできると思いました。

あめ玉では、威厳のあるはずのお侍さんが、実は、普通の人と変わらなく、世間体や体裁、恥ずかしさを感じることがあり、強そうに見えるかもしれないが、実際にはただの弱い普通の人間だ、と言うことになっておりました。

ごんぎつねでも、兵十のことが、狐から見ると、大きな力を持つ存在に書かれていますが、実際にはそうではなく、仲間に神様のおかげだとさとされたら、そうかなぁと半分信じたり、火縄銃を持てば、狐を撃つのですが、すぐにしまった。やるべきではなかったと思うことのできるただの普通の人なのです。


それにしても、井上ひさしさんを、久しぶりに思い出すことができました。
あの、くだらない長編、吉里吉里人の作者だと思うと、あのくだらなさと、今回紹介したこの文章との乖離がすごく印象深いです。しかしまた、井上ひさしが、若い頃に、ひょっこりひょうたん島を書いていたのを知ると、この方の才能の豊かさに、改めてリスペクトの気持ちが湧きます。

もう一度文章を掲載します。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。

何度も味わいたい言葉です。

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子どもの「それってあなたの感想ですよね?」にどう返せばいい?

タイトルに有るようなことは、実際にある。
教室でも、そういうことを言う子がおり、わたしは感心してしまった。
本当にそうだと思うからだ。

「え、すごい!そうなんだよね、感想なんで、事実はわからないよねえ!」

わたしが目をキラキラさせてそういうと、ちょっと不思議な空気ができる。

わたしは最初、この有名なセリフ、

「それってあなたの感想ですよね」が、世間で有名なフレーズになっていることをよく知らず、へえ、この子は事実と思いを分離させて考えているのかな、と考えて、ほとほと感心した。

事実はどうなのか。
どうなのか、というよりも、なんなのか。

今、わたしたちが事実ととらえているものは、事実と呼べるのだろうか。
そして、いろんなことがわからないことだらけで、こうじゃないか、ああじゃないか、と思って事実をまわりをぐるぐるとしている。

そのうえで、肝心なこと、つまり私達は、今どうすることが願いを実現することになるのだろう?

「事実に焦点をあてて、考えてみようじゃないか!」

と興奮するわたしの前で、

「先生、知らないの_?◯◯◯◯のこと!」

有名なインストラクターの人がいて、その人がユーチューバーらしく、インターラクティブでインベーダーらしいが、イノベーターでインフルエンザの私にはよく分からない。

ともあれ、子どもは敏感で、事実と感想、ということについて、なにかしら鋭敏な感性をもっており、

◯事実と思いをわけて考えてみる

というようなことにも、実際にはかなり前向きなのだろうと思う。

そのうえで、真正面から「幸福」というものを、子どもなりに考えてみるのも、今の時代には合っているかもしれない。

いわゆる快楽とか気分を消費することが、「幸福」だとは、Z世代は考えないような気がする。

薬物中毒の状態が幸福と言えるかどうか、スーパーに陳列されたものをその場でいきなり食べ始めるようなことが幸福なお互いになる道筋なのかどうか。

道徳の教科書にはお涙頂戴的なおはなしがいくつも掲載されているけれど、実際には真正面から

「幸福」

という2文字を相手にする時代が来ている気がする。というか、今の子たちは、そういう直接的なアプローチしか、効かない精神になってきているように思う。

今はユーチューブなどで、「ほぼ無料で見放題の動画を見て過ごす」ことが人間の一日の主な行動になりつつある。もはや、そのサービスがなければ、人間は快適に暮らすことができなくなりつつあるようだ。一度スマホを手にしたら、幼児も小学生も、大人も老人も、ユーチューブを大きな楽しみとして消費し始めている。

そして、今や表に見えている表面的な出来事の、さらに裏事情までが即座にアップロードされて話題になり、どちらが表の情報なのかすら曖昧になってきた。

こういう時代だからこそ、

「それってあなたの感想ですよね!」で一本とった気になる子が出てきて当然だし、うわべのとりつくろったような化粧や常識は、あっという間にはがされてしまって、その裏の裏までが話題になっていくから、カーブやスライダーを投げたって、子どもに鼻で笑われてしまう。

勝負するのは、もう、直球、ど真ん中、だけであろう。

おりしも、地球環境の問題は、あとにひけない余裕のない課題になってきた。
政治も経済も戦争も、人口の減少まですべて、冷や汗の出るような切迫感がでてきた。

もう道徳の授業は、

幸福はいずこにありや

というド直球でしか、子どもの心情には響いていかないのではなかろうか。

ほんの5年ほど前までは、

幸福、という言葉が、いかにもうさんくさくて、人をだましているようで、本気ではないような気がして、それこそ化粧で包まれたおかしな言葉にも聞こえていた。

それは、今振り返ってみると、心の何処かに、「幸福というものを、心のどこかできちんと把握している」というような自負があったからだろう。だからあえてそんな大仰な言葉を用いなくても、幸福についてさりげない会話やスマートな所作で、とらえることができると信じていたから、使いたくなかったのだ。

しかし、今の子たちはちがう。

ド直球で、「事実とはなにか」「思いや感想とはどうちがうのか」「人間らしさとは」「幸福とは」と、考えていくべき時代だという予感がする。

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教育相談【YouTubeばかり見ている子】

夏休み明けの保護者からの相談。
動画ばかり見ている子、困ったものだと。

この手の話を聞くたびに思うのが、私自身の子供の頃の思い出だ。
つまり、テレビっ子であったこと。

念のために、クラスの子に聞いてみた。
家庭内のルールが、YouTubeは何時間までオーケーか?

1時間、2時間までが多い。
平日に、2時間も動画を見ていたら、子供の生活リズムだとほぼ食事、風呂、宿題、睡眠以外がYouTubeと言うことになろう。

これに+ αでゲームテレビとなれば本当に1日中画面を見ていることになる。

もう少し詳しく聞いてみると、ほとんどテレビは見ないと言う子がかなり多い。
いわゆる地上波、の放送は、既に子供たちが見るものではなくなっているようだ。

では、実際に誰が見ているかと言うと、テレビで育った世代、つまり30代以上だというのがデータで出ていた。20代より下の世代はすでにテレビは見ていない。
最もよく見ているのが50代60代70代だそうである。

総務省や民間の調査によると、20代の地上波テレビのリアルタイム視聴率が10%前後の場合、60代では50%から70%程度の視聴率が報告されることが多いです。


そうなのだ。
昭和に生まれた人たちは、テレビをよく見ていました。
本当にテレビが面白かった時代で、世の中の楽しみが全て詰まったビックリ箱のようなものでありました。

私はなんだか、子供がYouTubeばかりを見ていると叱られるのを聞くと、自分が子供の頃に
「テレビばっかり見てないで勉強しなさい!」
と、叱られたことを思い出す。

そして、休み時間に大好きなユーチューバーの話で盛り上がる子供たちを見ていると、自分がドリフやひょうきん族やアパッチ野球軍や不思議なメルモや海のトリトンやリンプリン物語や遠山の金さんを見て、次の日に、友達とその話をしながら、登下校をしたのが思い起こされる。

遠山の金さんは、早帰りをする水曜日には放送時間に間に合ったので、ほぼ欠かさず見ていたが、悪役の表情作りがなんて上手なんだろうと常に感心してみることができた。

時代劇と言うのは、非常に勉強になる教材で、現代と比較しながら動画を見るために、奉行所と警察と言う共通項で、社会の仕組みを考えたり、たらいをくくりつけた天秤棒を持って、食べ物を売りに来る人が、なぜ現代ではそれほど街に居ないのかを考察することができた。

後はちょんまげの不思議さである。
どうしてちょんまげなのかと言う疑問は、父も母も答えることができなかった。学校の先生もうまく説明はできなかった。夏休みの自由研究で、ちょんまげの不思議について研究しようとしたが、図書館にはちょんまげの本は皆無であった。学研から出版されていた秘密シリーズに、「ちょんまげのひみつ」があれば、誰もが購入したことだろう。

そして、今、私は、YouTube動画で、昔のコマーシャルCMについて見ることにハマっている。そして、驚くなかれ、かなりの率で、
「あ!これ!見たことある!」
と、思い出すのであります。

丸大ハンバーグとか
この木なんの木とか
ネスカフェ違いのわかる男とか
あなたにもチェルシーあげたいとか
ポテトチップス、あしからずとか
グリコアーモンドチョコレートとか
堺マチャアキのラーメンのCMとか。

つまり、私は相当テレビっ子でありました。YouTubeを見ている子には、ともかく
1)睡眠時間は削らない
2)健康に悪影響が出ないようにする
3)依存症という言葉を知っておく

この3つはオススメしようと思っております。

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いよいよ「叱らない」時代へ

このブログを始めた時、タイトルをどうしようかと思って
「叱らないでもいいですか」とつけた。
これは、初任者としてやはりどうしても遠慮がちにならざるを得ない、という正直な感想をもったためでありました。
「叱る」が前提になっている教育現場。そこで何も知らない初任者が、迂闊にも「叱らないで教師をやります」なーんて口走ったら、校長先生にたっぷりと指導を受けそうだったからであります。

しかし、私は妙な人生遍歴から、人に対して「教える」とか「叱る」とか、「相手をコントロールする」という行為がどうしてもできない精神構造になってしまっておりました。
子どもにも、「ふうん、そう思うんだね。そうかなるほど」というスタンスが基本であり、「早くしなさい」というありふれた声がけすら、どうしても違和感があってできなかったのですね。

いやあ、本当に変な精神状態でした。今から思えば。20代に過ごした環境が浮世離れしてたせいで、「早くしなさい」すら、言えない状態でしたね。
そんな状態ですから、叱る、なんてできそうも無い。また一方で、

「叱らないでもやれるんちゃうか」

という思いがありましたから、思い切ってタイトルを、「叱らないでもいいですか」とした。

そしたら、どうも時代がそうなってきてるみたいで、こんな記事を見つけた。



まさに。
学者の方が文章にすると、こうなるんやなあ、と感心しましたね。私の言いたいことが、ドンピシャに書いてある。

私が叱る、叱らない、ということについてこのブログで書いた記事を探すと、たとえはこんな記事がありました。

すべて、叱らない、という教師の思いに関しての、記事、投稿であります。

もし、「叱らない」に興味を持った先生で、このページをご覧になった先生は、ぜひリンク先の記事も見てみてくださいね。

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教師ならばロシア情勢を語ろう

ウクライナが核を恐れずにロシアに攻め入った。
衝撃だ。相手、敵であるロシアが核を持っているのにもかかわらず、だ。
わたしは朝食を食べながらそのニュースを知り、思わず手にとったカップをもう一度、もとに戻しました。

ここ10年くらいの国際情勢で、もっとも大きなニュースではないでしょうか?

大事な点は、このことが、人類の歴史を変えてしまった、ということにある。
ほら、冷戦後は世界中の人があることを信じていたでしょう?
それは、「核」を持つことにはメリットがある、という点でした。
アメリカもロシアも、それを主張しましたし、他の国もその点は理解していた・・・ということになっていましたね。
ところが、本日、核が戦争を抑止している、という話はどこかに消えてしまいました。すごい話です。
核を持っておくメリットは、相手に攻められないことだ、という話だったはずで、世界中の政治家も識者も学者も市民も、それを前提に話をしていたと思います。

しかし、今の時代はそれが崩壊してしまいました
だって、ウクライナは核を持っておらず、ロシアは核を持っていましたからね。
で、弱小で核を持たないはずのウクライナが、大国で核を保有するロシアに攻め込んだのです。ウクライナは、『実は核は何も「抑止」しないのだ』、と世界にバラしてしまったわけです。
これまでは核を保有する大国どうしが、核をお互いに保有することを宣言し合うことで、お互いの攻撃を避けるだろう、と思われていました。それをさらに、超えるレベルの話なのです。だって、核持っていない国(ウクライナ)が、持っている方の領土に攻め込んじゃったので・・・。

これは、世界情勢をガラリと変えるかもしれません。

そもそも、核で報復するにせよ、最初に使うにせよ、ものすごい被害が出るわけですから、何がそのような大規模な被害を正当化することができるだろうかというモラルや倫理の問題があるために、そもそも核は使えない状況がつづいていました。

それでも世界中で、核はお互いの戦争や紛争を「抑止」するのに役立っているのではないか、という議論がありまして、その立場に一定の理解を示していた人も多くいたようです。
しかし、今回のウクライナのロシア侵攻により、「共同幻想」的な思い込みがくずれてしまいました。

これまでは、周囲に脅威となる国があると認識し、その脅威に対し核兵器は国や体制の存続を保証するものだと見なしている限り核兵器は必要と考えられていたのです。ところが、今の時代は核をもっていたって攻め込まれるわけで、現実にロシアは核をもっているのにもかかわらず、領土を侵犯されたのですね。

わたしが若い頃、アメリカの大統領はブッシュ大統領(息子の方)でして、戦争をやりました。そのときのブッシュ大統領は「戦争に、やる気を見せたほうが得だ」と考えているような節がありました。
9.11の後に、ブッシュ大統領は「これからは抑止ではなく先制攻撃だ」という雰囲気でスピーチしていました。私はそれをテレビで見て、ちょうど数カ月後に結婚を控えた頃でしたが、「これから新しい生活が始まるのにまた戦争かよ」と、げんなりしたことを覚えています。

案の定、ブッシュはイラクへ侵攻しましたが、結局大失敗をして、かわいそうなことにアメリカ国民からも愛想をつかされて政権交代をさせられ、悲しく引退しました。ブッシュ・ドクトリン、とかいってブイブイ言わそうとしていましたが、やはり道理にかなっていなかったのです。

つまり、今の時代には、抑止もダメ、先制攻撃もダメ、ということがわかってしまったのです。
何をしたって、あとで「やらなきゃよかった」になるのが戦争です。

そのうちに各国の首脳が、核って意味あるのかな・・・と本当に考え込む日がやってくる気がします。
たぶんそのうちに、「ああそういえばそんなのあったな」と忘れられる存在になるでしょうナ。

そして、各地域でのもめごとを解決する手段は武力ではなく、まったくちがったアプローチから始まる気がします。
それはもしかしたら政治の側でなく、経済の側から行われると予想します。なぜなら、みんな政治には不信感しかないし投票率も低く真剣でないけれど、経済にはみんな正直だしまじめに取り組むからね。たぶん経済の仕組みがかわることで、政治の問題も解決していくと思う。国同士のもめごとも。


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地震が明日起こるんだって!

「先生、知ってる!?あした、地震が起きるんだって!」

朝、教室に入るや否や、こう言われました。
あなたなら、どんな反応をしますか?

こんなことは、小学校ではあるあるです。子どもは本当に信じていますから、即座に馬鹿にしたり否定してしまってはいけないと思います。
否定したら、もうそうやって、気軽に話しかけてはくれなくなるでしょう。担任としてはそれは避けたいところです。

だからといって、あ、そう!そうなんだー!と、あっさりと同意してしまうのも、何か違う気がします。
同意したとわかった瞬間に、その子は

「だって、新間先生もそう言ってたよ」

と、周囲に触れ回り始めます。
一切、そんなこと言ってないですが。
あ、そうなんだ、と感想を言ったら、先生もそう言ってた!に、なりやすいです。小学校では・・・

高学年だと、確率と割合の違いについて、一緒に考えることがあります。
そして、明日、地震が起きる【確率】と、明日、地震が起きる【割合】と、それらを明確に区別してから考えていくように声掛けをします。

そうすると、後者の言い方がなんかへんだ、ということに気づきます。
あした地震が起きる割合って・・・そんな言い方へんだな・・・

そうです。割合とは、5年生の算数でも習った通り、あるものが全体の中でどのくらいの個数 含まれているのか、ということを示すものですね。
だから、現在(もしくは過去)のことであれば、「全体数が100あって、赤い玉は5こ有ったから5%」という言い方ができるので、割合となります。
でも、確率のように、未来を示すことはできない、のです。

くじが10本あり、つぎに◯◯ちゃんがひいて、当たりくじをひく確率は・・・というのは、未来予測ですね。このとき、全部で10本のくじがあり、その中に明確に1本のあたりくじが「絶対にある」からこそ、10分の1、つまり10%だ、という確率を数値として示すことができます。

ところが地震予測では、未来予測はムリなのです。
なぜなら、わかっているのはすべて過去のことであり、それは過去の「割合」なのです。
こういう地面の動きがあり、同じような地震の分布があり、データを見比べると似たような条件がこれだけあり、そうでない場合がこのくらいあって、地震がこれまでに起きたのがそのうち何回、というようなことだけがわかっている<だけ>です。

つまり、地震学者がなんとかインタビューに応えようとして、

「1年以内に地震が起きる確率は30%です」

なんて言ってますが、これはかなり苦しい言い方です。
明確に当たりくじが1本ある、「絶対にある」って、言い切れないからです。
地震学者は、【割合】から無理やり【確率】を言おうとしているのです。世間に要求されるから・・・

このあたりのことが、以下の本で紹介されています。


デタラメにひそむ確率法則――地震発生確率87%の意味するもの (岩波科学ライブラリー)

要するに、
南海トラフのデータは、かなり少ない(分かってるのがたった数回)のため、その割合から確率を計算しようとすると、ものすごくアイマイな数値しか出しようがない

ということです。
当たりくじつきアイスキャンデーのように、明確に1本の当たりくじがある、とはとうてい言えないような状況を踏まえて、たった数回の過去の事例を「ぜったいにこの間隔で起きる」と断言するようなデータの使い方をして、計算しまっています。(それも過去のデータもかなりあいまいなもの)

なんせ地球の歴史が長すぎですからね。
確率とは、データから計算される割合のことですが、たった数回のデータでは、「割合から確率を計算する」のが、乱暴すぎるのでしょう。

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学校で習う経済と資本主義のこと

経済、と聞いて、ワタシがよく考えるのは、経済と戦争の結びつきのことで、興味を持ったきっかけは、中学校の社会科の教科書で習った朝鮮戦争のことでした。

朝鮮戦争が始まると、日本人は経済が潤った、と書いてありました。
「戦争で人が死んでいくのに、儲かる?!意味わからん」
これが、戦争と経済の関係に興味を持った最初でしょうか。

さて、ウクライナとロシアの戦争が始まって、だいぶ経ちましたね。

そもそも戦争の始まったころのこと。
ウクライナが兵器を恵んでくれとアメリカに依頼(国会での演説〉し、アメリカはそれに応じました。
これで、アメリカ国内では若者の雇用が生まれ、産業が起きてモノが売ったり買われたりし、給料の支払いがされました。コレ、元は税金なので、国富ののばら撒きが起きたわけ・・・。

コロナでも、対策と称して税金を対策に使ったので、ここでも国富は消費されました。

緊急事態は仕方ないのですが、国富を使い過ぎてしまうとマズイですね。国の力が衰えます。
・・・と、ここまでは中学生でもかんたんに習う話なので、国民全員が納得する話だけど、なぜ鈴木財務大臣はじめ、財務省の官僚も平気な顔をしているのかというと・・・

今は緊急時だから。

というわけです。
将来の人がなんとかしてくれるやろ。
今は赤字国債を、発行するが、それでみんな助かるんや!

これを日本はかなり前から、アベノミクスの時はもちろん、戦後のほとんど時代において延々と続けてきたのです。

問題はあるけど、赤字国債でなんとかしてるから大丈夫、というわけです。
本質的にはアカン。でも、赤字国債を、発行すれば、今は大丈夫に見えるやろ?だから大丈夫。

・・・というわけです。

ところかこれは、表面的には大丈夫と見せかけてるだけ。差し迫った危機を回避するためには、将来の問題を後回しにしよう、ということです。

ここまで、実は早ければ中学3年生の社会、ほとんどの学校では高校の現代社会で習います。国債、という言葉の意味を習うのですね。
習った子どもたちは不安になり、「国債を発行する量をたくさんにし過ぎるとまずくないですか?」と思います。そのことについても教科書に載っていて、「マズイです」と答えが書いてある。

ところが、政府の役人や通産省・財務省の官僚や大臣が平気な顔してるので、みんな国民も、あれ?大丈夫かな、と麻痺してしまいます。

株が下落し過ぎたので、財務省はちょっと困ったでしょうね。今回、こんなにでかいニュースになっちゃったから。

これから、どうなるでしょう。

政府は金利を上げたばっかりですが、慌てて元の緩和政策に戻すのではないか。

というのが、ワタシの見立て、です。

なぜなら、今の政府が累積した問題に向かい合うのは、難しいでしょうから。

現在の与党政府には、日本の国の実態に合わせた、国家の等身大の経済の状況に戻していくほどの勇気は、ないだろう、と思います。

話をわれわれ国民の側に戻すと・・・
愛国心を持った勇気のある正真正銘の日本人なら、一度購入した国債を売ろうとはしないでしょう。

しかし、国民がみんな、猜疑心を抱き、もしかしたら、国家は返す力を持っていないのではないか、と判断するようになると、国債は売れなくなります。

ある日、政府が

「国債は、満期でも、お金を返せないので、お金を返すのにあと3年待ってください」

と言ったら、国民は従わざるを得ない。現金にするのに我慢しないといけません。

・・・なーんてことになれば、みんな買わなくなり、国債の価値は下がり金利はどんどんと上がっていくでしょう。

しかし、日本人は到底そんな風には考えないと思います。なので、実際には、金利はそれほど上がらず、国債の発行額も、ますますうなぎ登りに登り詰めていくことでしょう。人口も減っているし、賃金を上げられるほど、企業の売り上げは伸びません。金利を上げられる体力は日本には無いのです。

だから、そうならないために、みんな、国家には、無限の力があると、そういうことを信じているんだと言うことにしておいて、経済活動を続けていくのではないでしょうか。

この時、無限の力を持った国家だということにする、というところがポイントです。

〜と言うことにしておく

これが、経済を、行き詰まらせない唯一の方法です。

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