30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。

気になる子ども

この記事は、3年以上前に書いた記事の原稿ですが、非常に具体的な事例なので、身近に気にされる方がいると困ると思い、あえて公表を避けてきました。

既に3年以上が経過し、既にその子は小学校を卒業、また私も勤務校が変わったために、長いこと下書き状態であったこの記事を改めて書き直し、新たに編集し直し、初めてアップすることにしました。


では、ここで言う気になる子とは?

実は、その該当児童は、「被害を訴える」ことにたけていたのです。

気になる点は、そのことだけです。
本当にとても良い子で、クラスのために何度も活躍したし、勉強も頑張るし、とても素直な良い子でした。友達もたくさんいて、その子が笑うとみんなもつられて笑うようなコミニケーション能力も高い子でした。

そんな子だったから、あえて気になったことなのかもしれませんが・・・

さて、その子は、被害を、オーバーに脚色してしまうのです。
例えば、

肩を触られた→ 叩かれた
ここに置かないでと言われた→なんでここに置くんだ!馬鹿野郎!と怒鳴られた
椅子の背をトントンとした→椅子の背を思いっきり引っ張られた

と言うふうに、他に言いふらしてしまうのです。
実際に私が見て、これは違うよな、何とかして被害を大きくして言おうとしているんだな、と全てを目の当たりにして思ったことが「何度も」ありました。

ここで私が問いたいのは、
その子がそのように被害を受けた、あるいは被害を大きくして言わなければならなくなる、そういう精神状態に追い詰められているのであれば、なぜそのように追い詰められているのか、という点。

友達とその直前まで仲良くしていたはずなのに、特に何かその子を怒らせるような要素が他にあるわけでもなさそうなのに、誰もその子を責めてはいないのに・・・。

それにもかかわらず、他の子を徹底的に責めようとする。
あるいは自分が被害者だ被害を受けたのだと言うことを切に訴えようとする。

これは、何だろうか?
と、当時、強く思いました。

そして、これは、防衛反応だろうなと直感しました。
責められ責められ、謝罪を要求され、これまでの人生のどこかで否定を受けてきたためでしょう。

誰もクラスの友達でその子自身を非難したり、蔑んだり、恥ずかしめを受けさせたり、責めたりする子どもなんていないのです。
それでも、そのように、振る舞わざるを得ない、彼の心の状態。

彼の人生の中で学んできたことの大きさを思います。

自分が被害者であり、決して自分は加害者ではないと、周囲に常に申し開きしなければならないと言う状態。
自分はシロです、というか、自分は被害を受けた側の被害者です!と、叫んで回らないと、自分の身に何か良くないことが起こると言う予感です。

この子の心が癒され安らぎ。安定してくるために、どんな関わり方をしていけば良いのかな、と考えました。

1番は、彼が【自分が被害者である】と叫ばないでも、周囲から決して責められないと言う安心感です。
2番目に、誰もあなたを責めてないよと言うメッセージを明確にすることです。
3番目は、あなたが被害者だから救うのではないよと言うことです。被害を受けていなくても加害者だとか被害者だとか、そういうお互いの関係以外のところでも十分にあなたの希望には協力するよと言う姿勢を示すこと。人間関係はもっと豊かで、単純な加害者と被害者、どちらかに偏ると言うものではないのです。
4番目は、実際にあなたの希望を教えてね。ぜひ協力させてねと言うことを常に常に伝え続けることです。

具体的には
「僕は、◯◯してほしいです」
「僕は、さっき、◯◯して欲しかったです」
と言う言い方で、あなたの気持ちを教えてね、と言い続けるようにしました。

別に、あなたがかわいそうな身の上で、かわいそうな被害を受けたから、保護するのではなく、あなたがどんな状態であれ、常にあなたを応援するのが周囲の大人ですよと伝えるのです、

あなたは何がして欲しいの?と、とにかくその子に聞いていくのです。
そしてきっちり言わせます。
日本語としてきっちり言わせていきます。
話型を、確実にその子にインプットさせるのです。「〇〇してほしい」

そして、それが言えたら褒めます。
はっきり教えてくれてありがとう。これで協力しやすくなったよ、と。

「ぼく、〇〇して欲しい」
が、使える子供に育つと、どんどんと子育ては優しくなります。簡単になります。僕は被害者なんだ!と言うことを言わなくても協力してくれる。そんな大人が周囲にいることがはっきりとわかるからですね。

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友だちを強く注意する、と言う問題

世の中から、パワハラ問題がなくならない。これは人々の意識の中に「〇〇しなければならない」と言う意識が濃厚なためで、なかなかそう簡単にはなくならない。

怒鳴りつける上司の方にも言い分があり、そうは言ったって得意先のあることだからそうは言ったって締め切りがあるのだからそうは言ったって。さらに上の上司から叱られるのだからそうは言ったって・・・、という部長なら、部長の課長なら課長の言い分があるのです。

そこで、脅し暴力と言うものが使われるようになります。安易に相手がひるみ恐れ言うことを聞き従うからです。
この方法は、あまりにも安易で簡単で、シンプルで効き目が強いために多くの人がこれに頼るようになります。しかし、長い目で見れば、組織は徐々に弱体化し、その組織はそれを続けている限り、長続きはせず、良い人材は離れ、求人にしても、人は集まらなくなり、噂が噂を呼んで、退職者が増え、組織は成り立たなくなっていくのです。

従って、本当の会社の存続を願う社長は、パワハラをする中間管理職の方をやめさせるか、その行動や意識を全て是正していかなければならないのです。

さて、小学校の教室にも、中間管理職が現れます。いわゆる、「学級の中間管理職問題」です。

これは先生のように教師のように強く何々してはいけません。何々しているのはダメだと思いますと言うふうに、同じ子供を、学級の友達を、非難し、なじるということです。

これを放置しておくと、学級が荒れて行きます。問題が地下に潜り込んで、教師の目に見えにくくなることもあります。表面上はおとなしくても、早くこのクラスが終わるといいなと子供たちが考えるようになるのです。

子供が子供に注意するのをそのまま放置しておく事は私は基本的にはありません。注意ではなく、きちんと言葉を使って、「◯◯してほしいです。△△だと⬜︎⬜︎になるので、それよりももっとこうして欲しいです」と言うように、指導します。

あるいは、「◯◯だと嫌な気持ちになってしまうので、そのことをわかって欲しいです」という言い方も教えます。

わかって欲しい、という言い方は、なかなか子どもはしませんね。知りません。

でも、言い方を教えると、便利に使うようになります。

◯◯してほしかった、と過去形で言う言い方も教えます。

これも、ずいぶん使うようになります。
つまり、こっちの心情を慮ってほしかった、というのを、言えるようにするわけ。

これが言えるようになった子で、すぐに手が出たり足が出たりする子が、暴力に依存しなくなったケースは山ほどあります。

◯◯するのは悪いのでダメ!
なんでそんなことするの!
△△しなきゃダメでしょ!

・・・という言い方を覚えた子は、その言い方に依存しているだけなので、依存しなくても良いんだよ。別の言い方があるよと伝えることで、中間管理職を辞めるようになっていくわけです。

これは権力の味と言うものを教えることにもつながっていきます。権力者の言うことだから従わなければならない、権力者の言うことに従わなければひどい目に遭う、権力者の言うことに従わなければ、このグループからつまはじきにされる・・・
いつの間にか、こんな間違った概念が、子供たちに浸透しているのです。
権力者などどこにもいないと言うことを、子供には骨の髄から教えていく必要があります。

「あー!いけないんだ!悪いことしてる!!〜しちゃいけないって校長先生が言ってたんだよ!」
「他の子もみんな、そう言ってたよ!なんでしないの?!」

こんな言い回しをしている子供を見つけたら、教師は本当に気をつけなければいけません。それはパワハラを教えることになり、差別主義を教えることになるからです。ファシズムやレイシズムにもつながる、危険思想です。

小学校の教員は、中間管理職を見つけたら、よほど気をつけなければならないのです。よっぽど気を入れて慎重に慎重に考えなければいけません。権力を笠にきた言葉を使うことで、相手を意のままに操作しようと言う子供を1人でも生み出してはならないのです。

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レオ・レオニ展へ

冬に備えてせっせと食べ物集めに勤しむ仲間を尻目に、働かずぼーっとしているフレデリック。「お日様や色やことばを集めているんだ」と言います。そんな彼に仲間はちょっと怒り気味です。冬になり蓄えた食べ物も尽きかけ皆の心が荒んできた頃、フレデリックは集めた「光」や「色」や「ことば」を語り始めます。目を閉じて聞く仲間たちの心はどんどん癒され満たされていくのです。“物質的な豊かさ”だけではなく“心の豊かさ”の大切さを考えさせてくれるお話です

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レオ・レオニが絵本の絵の登場人物は、横顔を描かねばならない、と言っているらしい。なんで正面ではないかというと、絵本の登場人物は常に横にいる何か、つまり第三の登場人物を見たり、それに話しかけたりするためで、登場人物が真正面を向いたらそれは読者を見据えることになってしまう。
そのためにレオレオニの絵本に出てくるねずみは全員が横を向いております。
小学校の教室では友達の横顔を見て成長するわけで、家でも兄弟の横顔を見ている時の方が、なんだかいろいろと学べる気がします。ひとの横顔を見ているときは、人生とか世間とかを、かなり客観視してるときですな。

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ドッジボール!勝ち負けにこだわらないルールのまとめ

小学校3年生くらいが、最もドッジボールを楽しめる年頃かもしれない。まだ力の差も少なくて、クラス全員が参加できる。
クラスの半数は、まだ投げる力が足りず、外野まで届かせることができない子も多い。だからこそ、外野まで投げられる子が非常に重宝されるし、憧れの存在になる。
力が足りない子はより、遠くへ投げたいと言う意欲が募ってくる。この憧れに似た気持ちと自信を鍛えたいと言う気持ちの相乗効果で身体能力が伸びる時期だ。

さて、通常のドッチボールだと、頭をあまり使わないので、体力、勝負になって単調になってしまう。
そこで、かなり色々と工夫をして、頭を使ってゲームを進めるように仕向けていく。勝ち負けにこだわらなくなるのがポイントだ。勝った負けたは、時の運も大いに作用する。買ったから、万歳をし、負けたから悔しがると言う、決まりきった態度をとるのが、だんだんと面倒になってくるのが非常に良い兆候だと思う。
勝ち負けに、非常にこだわるタイプの子どもも、時の運や頭の使い方で、どんどんと勝ち負けの状況が変わっていくのであれば、もう勝ち負けなんて、とんでもなくめんどくさいことに思えてくる。これは人生を長くやってくれば誰でも感じることで、同窓会に久しぶりに出てきた友達同士が、履いてきたハイヒールやハンドバック、服装や時計や髪型やらで、相手の持ち物を一瞬のうちに判断して、バチバチと勝った負けたを繰り返していると、疲弊するのと同じである。

さて、ここに一筋縄ではいかないドッジボールのルールをまとめておこう。
低学年にはオススメをしない。なぜなら、ルールが複雑だからだ。

まずは定期定番の、これら。

王様ドッジ、秘密王様ドッジ、コーンドッジ、火の玉ドッヂ、利き手じゃないドッヂ、転がしドッヂ。

コーンドッジは、自分の陣地の真ん中に小さなコーンを立てておき、ともかくも、それが倒れたら負けなのであります。人間に当てるよりも、はるかに多くの子供が、その小さなコーンをめがけてボールを投げますが、なかなか当たりません。人間が狙われにくいので、ドッジボールは嫌だと言う女の子が多い場合は、これで慣れさせていくのが良いでしょう。

火の玉ドッジは、途中で火の玉タイムがありまして、教員が「火の玉タイム!」と叫ぶと、火の玉タイムになります。やがて、火の玉タイムは終了!という合図があると、普通に戻ります。途中で約1分ほどそういう時間をつくります。火の玉をつかめる特別な子供しか、ボールを触れない状態です。中に小さな子が混じっている場合に有効です。その小さな子しか火の玉は触れないわけです。

1番複雑なのは、下記に記すドラクエドッジです。

ドラクエドッジボールは、最初に役職係を決めておきます。王様ドッチボールの亜流ですね。


まずは、👑王様(キング)が一名。

役割: チームの中心人物。
特徴: 当てられるとチームが敗北するため、守ることが重要。

🛡️ 戦士

特徴: 通常のボールでは当たってもアウトにならない。
弱点: 勇者や魔法使いのボールに当たるとアウトになる。

⚔️ 勇者

特徴: 戦士をアウトにできる唯一の存在。
特性: 戦士をアウトにした数だけ、自身が当たってもアウトにならない回数が増える。

🧙‍♂️ 魔法使い

特徴: バウンドや転がったボールでも、触れた相手をアウトにできる。
制限: 魔法使いのボールは、他の魔法使いしかキャッチできない。

※サンソンさんの「レクで学級をHappyに!」を参考に書かせていただいてます。感謝🥲

💧 スライム

特徴: 3人以上で肩を組むと「キングスライム」に変身し、その間は当たってもアウトにならない。
制限: キングスライムが当たると、30秒間合体できなくなる。

🔓盗賊

特徴: 最初に当てた相手の職業や能力を奪うことができる。

🧝‍♀️ 僧侶

特徴: 敵をアウトにすると、仲間を1人生き返らせることができる。

💃 踊り子

特徴: 当てた相手は10秒間コートの外で踊らなければならない。

👻 ゴースト

特徴: 敵の外野に入り、ボールを取って味方にパスできる。
制限: 敵の内野には入れない。当てられるとアウトになり、自陣外野にしかいられなくなる。

💣 ばくだん岩

特徴: 当てられると「爆発」し、周囲のプレイヤーを巻き込んでアウトにする。

どうだろうか。高学年向きだと言うことがわかっていただけたでしょうか?

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1・2年生の通知表【廃止】へ

日本のどこかの自治体で、廃止することに決めたそうです。
朗報と思います。
全員に、【頑張ったね】と言ってあげるのが必要で、それ以外に必要な言葉ってあるの?と思うからです。

不登校であっても、ウチで頑張っていたことがあるわけで、朝、新聞を取ってくるだけでも、机の上を片付けただけでも、その子の頑張りがあるわけで、それを認めるのが母性だと思います。
で、低学年は母性が十分に与えられる時代ですわね。

母性と言うのは、かなり誤解を受ける言葉で、今の時代に使うのはなかなか注意が必要です。
母性と言うのは、女性とは違います。性とは異なる概念で、女性にしかないと言うものではありません。男性にももちろんあります。
また逆に父性は女性にもあります。

母性とは何でしょうかね。母なるもの、命を産む者、産み育てるもの、というイメージで、泣いている赤子の全てを受けとめる、と言うイメージでしょう。
受け止めると言うのは受け流すのではなく、しっかりと受容する認めるという意味です。

大丈夫ですよ。あなたに必要なものを与えてあげましょう、安心してこの世に生まれてきてください、安心して育ってください、あなたは何が欲しいのでしょうか?欲しいものが与えられるのですよ。

と赤ちゃんにとっては必要なものが与えられていくのです。

良い声で泣かないと、ミルクがもらえませんよ?そんな泣き方でいいと思ってるんですか?おしっこはちゃんと3時間おきにしましょう。そうでなければ面倒は見ませんよ。
・・・これは母性とは言わないのです。

低学年は母性が必要な時代です。
だから、私は通知表の低学年廃止には大賛成です。
そして、低学年の子は、通知表を誤解しがちです。三角がついていたら、あなたにはそもそもその素質や能力見込みが全くないので完全にアウトです、と宣告されてしまったと言うふうに受け取る親もいます。そして子どもはその三角を親に指差されて叱られるわけです。隣のななちゃんは2重マル◎だったらしいよ?なんであんたは三角なの!

通知表と言うのは、ガンライそういうことをするためのものではないのですが、親や子供自身が誤解してしまうようなツールになり下がってしまっています。なので、いっそのこと廃止するのが正しいのです。

現代の若い人は、評価に弱くなった、と嘆くビジネスパーソンがいます。評価されることを嫌がる、怖がる。
最近、そんな若い人が増えて大変だよと言う記事が、プレジデントとか、軽めのタッチのビジネス雑誌によく掲載されていますよね。

私は若い人だけではないと思う。
世の中、全体が、評価と言うものを取り違えて捉えていると思います。
そのことをここに書くと長くなってしまうので、たった一言で言うのであれば、その子供と共に自己評価をその子がまずは判断し、その自己判断する際のお手伝いをしっかりサポートするのが教師になるべきです。

現状よくあるタイプの通知表は、国語の知識理解が◎とか、算数の思考表現が
とか書いてあり、とても自己評価とは言い難い。

これからの世の中を生きていく時に、必要なのは、自己評価と他者評価との違いを切り分けるリテラシーで、例えばパワハラとか各種ハラスメントや社会的なデマに対して強くなるには、他者評価に対するリテラシーは強くならなければなりません。暴言やデマに対して、あるいはカルト教団の狂った言説に対しては、リテラシーを持たないといけないのです。

その一方で、自己評価に対して各種データを提供し、その自己評価について自信を深めるようにアドバイスサポートすることができれば、それはその他者評価をうまく活用できたと言うリテラシーに発展します。

つまり、この今の現代の世の中を生きていくには、相当の覚悟とスキルとリテラシーが必要になってきたということです。昭和の比では無いのです。せやから、ネット上で噂される伝説も、真偽を見破る能力がなければならんやで。

こんな時代に、昭和の通知表と同じく、◎や◯やだけで、子供や親にその内容を深く伝えられるわけがありません。

誤解をされて当然なのです。

ちなみに、通知表を自分で作っていく自己評価支援スタイルに変えていくならば、低学年からでも、通知表の存在はあると良いと考えます。今の通知表や今の評価スタイルでは、まず低学年からなくしていくのが良いと思います。
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教師がゴールデンウィーク明けに話すこと

休み明けに、学校にやってくる子どもたちの表情はさまざま。
眠たそうな子も多い。
なんとなくスッキリした顔の子もいて、そういう子を見ると、ああ、良い充電ができたのだろうなあ、と思う。

ただ、全般的にはまだテンションは低め。

私はよく来たなあ、来たくない子もいるだろうけどなあ、と思うと、感心してしまう。

そこで、朝の会では、子どもの元気が出るような話をしようと思い、ゴールデンウィーク中に読んだ、かこさとしさんの科学の大サーカスの話をした。

子どもたちには、ありとあらゆる魅力的な世界が広がっている。
こちらは、人生の中で何度も繰り返し聞いてきたことでも、それを初めて聞く子どもたちは、目を輝かして聴く。

あまり長々とは話をしないのがコツ。
また、興味がある子は調べてみて、で終わる。

それにしても、小さな子たちが、毎日、毎日遠くからせっせと歩いて学校にやってくる。このことを純粋に静かに考えようとすると、今の私なんかよりも立派な子どもたちはたくさんいると思うし、その熱意と情熱と行動に、何とか応えてあげないと、と思わされる。

本来ならば、学校の教室にたどり着いた時点で、めちゃくちゃ褒めてあげたいレベルだ。今の学校には、それが足りない。教師のエネルギーが足りない。教師は疲弊しきっている。

休み時間になると、さっきのお話だけど、と続きを聞きに来る子もいる。また、「さっきの化学のはなし、僕調べてみる」と、静かな決意を報告しに来る子もいる。素敵だなぁと思います。

また、休み時間は、このゴールデンウィークにどんなことがあったのか、教えてくれる子もたくさんいます。だから、やはり教員は聞き役なのですね。歳をとるとともに、教員の経験を重ねれば重ねるほどに、教員は聞き役だなぁと思うようになりました。どれだけしてあげられるかよりも、どれだけ受けてあげられるか。

その子が一人ひとり持っているユニークさは、掘れば掘るほどにじみ出てくるもので、私はそのセンサーを自然と磨くことができていきます。私の方が磨かないと、それを感知できないのです。そのためには、どんな子なのかを知ろうと、毎日コツコツと、彼らに近づかなければいけません。
まるで長い長いトンネルを掘るような作業です。
スプーンで少しずつ少しずつ掘るから、1年経つと、その子のことがほんの少しわかってきます。そこに、教員としての私の学びがつまっていると言うわけです。

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教員が鍛えられることとは

どんな仕事を通じても、その仕事によって人が育てられると言う面はある。

私は、職業をコロコロと変えたので、それぞれに思い出がある。
若い頃はともかく、体力勝負の仕事もあったし、時間に間に合わせるのが第一の仕事や、見落としのないよう、正確にすることを求められる仕事もあった。

そして、それぞれの仕事で、仕事のコツやら、配慮すべきことや、最も重要視しなければならない点などが違い、何かを思い込んで勝手に進めてしまって、失敗することも多々あった。仕事をするようになってしばらくしたあるとき、学生の時よりも、仕事をすることの方が、勉強することが多いなぁと思った。これは多くの人がそう思ったでしょう?本を読む量も学生の時の何倍も読むようになりますし。アタリマエのことですが。

特に教員になって、自分が鍛えられたなと思う点は、徹底して人を嫌いにならないと言う点であります。

これは子どもについては当たり前っちゃ、当たり前なんですが、どんなに言うことを聞かない子でも、彼や彼女の追い詰められた事情が感じられてくるとしだいに情がわくものですし、長い間、これを続けていると、どんな人にもそう表出するにはその蓄積があるのが当然で、腹も立ちません。それに、その人のユニークさは付き合えば感じられてくるもので、面白さを少しも持たない人は、この世には皆無ですからね。人間全員が、小説の主人公に向いてると思います。

この、人を嫌いにならない、という姿勢は自分自身にも静かに向いているもので、わたしは何故だか自分のことも嫌いにはなれません。それは、子どもたちを相手にしているうちに、鍛えられてそうなったのだろうと思います。若い頃は、結構クヨクヨするタイプだったのですがね。

今は、だいたいどんな時も心のどこかで、こんなことやってるよオレ・・・アホやなー、おもろー、と言ってる気がします。子どものおかげですな。

どだい、教員をやってる、という時点で自分ではある部分では詐欺のようだし、世を偲ぶ仮の姿のように思うし、なにかの洒落かギャグのようにも思えます。金が要らない、というのがある種の高度な洒落かギャグのように感じられることと、同じように、ね。

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モンシロチョウなんて呼ぶな!

「それ、モンシロチョウだよ」

わかってるって。
図鑑とか、世間一般にはそうなんでしょうよ。

「じゃ、この生き物に名前をつけようよ」

私がそう言うと、教室中に不思議な空気が流れました。
名前をつける?

いや、ゲド戦記ではないです。
影との戦いではないですよ。
千と千尋の物語でもないです。
ただ、子どもは名前をつける権利があると思って・・・。

だって、せっかく、この世に生まれてきたんですから。
そして、この世は不思議なものに、満ちているんですから。

生まれたら、この世の全てに、もうすでに名前がつけられてた、なんてのは、楽しくないですからねえ。

いいんです。モンシロチョウで。
それは、否定しません。
日本では「一般的にモンシロチョウという」で、それはそれとして理解すれば良い。

でも、せっかくこの世に生まれた自分として、この生き物と、真摯に向き合った時に、自分としてはこの子を何と呼ぶか、自分のオリジナルな感性で、決める行為をしたい。

これを、子どもに保障するのは、大人の義務だと思うね。

で、みんなで勝手に名付けました。

ふわふわちょう、ひらひらちょう・・・

「なるほど、最後にやっぱり、ちょうってついた方が良さそう?」

「だって、ちょうだもん」

「そこも変えていいのだとしたら?」

「え?そこも変えて良いの?」

ここからが、面白かったですな。
え?保育園で、そんなのは卒業するべきだって?

その通りです。
保育園で、ちゃんと「この初めて見る生き物に名前をつけよう」が、行われ、保証されてるならね。
横から誰かが、「それはモンシロチョウです!」というのはナシで。

もし、やってないなら、仕方ない、小学校でやるべきでしょうなあ。1人の人間として、尊重されるために。

ちなみに、下の写真は、モンシロチョウではなく、スジグロシロチョウ。

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やってみて、どうですか 😂

私は20代の頃、何をやっても

「やってみて、どうでしたか」

と、問われる、という日常を送っていました。

まるで禅の修行のようですが、まさに今考えるとよくやってたなと思う位です。

その時に身に付いたものがあり、私は今でも学級クラスで、

「やってみて、どうだった?」

と聞きます。

時折、自分でも不思議に思いますね。
三つ子の魂百まで、じゃないですが、20代の頃に、耳の奥にこびりついた言葉と言うのは離れないもののようです。

ところが忙しくなると、このやってみてどうかをやらない。
次から次へとこなすようになる。
そうすると、子どもの顔は疲れていきます。

私は4月は特に遊びまくります。
教室でゲームばっかりやります。
そして、やってみて、どうだったかと、問うのです。

「友達の顔見ると、よくわかったんだね」
「友達にちゃんと伝えようと思ったら伝わったんだね」
「めんどくさいなぁと思っていると楽しめないんだね」

子供が色々と感想言うので、それを整理していくだけです。
ゲームと言うのは、奥が深いです。
集団で目的を共有すると言うことですから。
気持ちが1つになっていくと、ものすごく盛り上がるし、楽しいのに、少しでも心が離れると途端にめんどくさいものになってしまうのがゲームです。

ゲームを1つやるだけで、そしてそのことをつぶさに見て取ることで、自分の心の状態や友達の心の状態までしっかりと整理されて、俯瞰できるのがゲームの醍醐味です。

ときにはゲーム自体より、その振り返りの時間が長いことすらあります。
その振り返りの時間こそが楽しいのです。私はゲームの時はそれほど力を入れません。ゲームの進行は淡々とやります。でもゲームが終わった途端にみんなにどうだったかと全身全霊で聞くようにしています。

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本よりも子ども

職員室で本を読んでいました。
それは教員になって1年目のこと。
とにかく、明日の授業の指針が欲しくて、本を読みまくっておりました。
真面目な性格ですね。
自分でもそう思います。

当時は、明治図書にはまっていて、明治図書の本を大量に買って読んでいました。
イチローではありませんが、今はお金をかけるときだ、と思って、良さそうな本があれば躊躇なくAmazonで買っていました。毎日のように届く書籍を見て、奥さんが家の家計を心配していましたね。

得られたものもそれなりにあったのですが、今になると思うことがあります。

職員室の話に戻りますね。
夢中で本を読んでいた私に向かって、帰宅間際の先輩が、机の上を片付けながら、

「新間先生、本読むのもいいけど、先生の目の前には子どもがいるでしょう。子供に教えてもらったらいいのよ」

と、言ったのです。

私は当時、その意味することが10分の1ほどもわかっていなかったです。

ところが、今になると、本当にそう思うのです。
子どもに教わる、と言うのがスタートであり、ゴールだとも思いますね。
ここ最近は本を買っていません。
もちろん、本を否定するつもりはありません。私自身も読書に助けられていますし、教科書だってはっきり言えば本ですからね。

しかし、そういうこととはまた意味が違って、目の前の子どもの様子をみて、学ぶことが、大きいということなのです。

そして、その大きさは、日増しに増えていくのですよ。

子どもの表情やセリフや、やる気や、行動や、日々の所作から、人をいたわる気持ちや、自分自身を励ます行動や、人間らしいユーモアも含めて、学ぶことがたくさんあると言うことです。

ズバリ言えば、人間を学ぶというか、歴史を学んでいる気さえしますね。人というのは古代から、こんなふうにコミュニティーを作り、こんなふうに人と関わり、知恵を見出し、伸びよう、伸びようとしてきたのだろうかと思うと、教室の「静かなる喧騒」の中で、時折、ジーンと感動することもありますよ。

静かなる喧騒、というのは言葉が矛盾していますが、小学校の教室の様子を表すには、最適のフレーズだと思います。
子どもたちの教室って、静かだけど、騒がしいんですよ。そして騒がしいけど静かなんです。これは、人間が本来持っている、人の良さ、に起因すると、私は解釈しています。

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