これまでの仕事歴を振り返ってみて、教員歴がいちばん長くなった。
転職を繰り返した身であれば、このことにやや、感慨深い思いが浮かんでくる。

教員の職業病であろうか。
どこか、自分のこころの動きに対して、いつも警戒するようになった。

複数の子どもを毎日観察していると、この子はいったい何を考えたり感じたりしているのかな、とわかりそうでわからない。
わからないので、結局、自分の都合で子どもの気持ちを解釈してしまうだろう、と思う。
そのことの警戒心が、常にある。我ながら、面倒くさい。

子どもと暮らしていると、その行動や性格にもいろいろと個性があることに気づく。一生懸命にルールを遵守しようとする子、先生の仕事を手伝おうとする子、話をよく聞いているような感じの子、一生懸命にそうじをしてくれている子、そんなのどーでもいい子・・・

教員らしく、一生懸命に子どもを理解しようと思えば思うほど、
「ま、これは俺の勝手な感想だネ・・・」
という諦念がつきまとう。

しかし、そのことがわかっているのに、それでもなお、観察しようとしてしまう。
病気である。『観察病』だ。

その病の良くないところは、「徒労感」である。
だって、けっきょく、その子のことがわかるはずないもの。
ただの、予想であり、ただの、自分勝手な感想を持つだけのこと。
教員は無力です。

ただひたすら、座禅を組むようなものです。
「師匠、なぜ座禅を組むのですか!?」
「意味を問うな。ただ、ひたすら組むのだ」

只管打座(しかんだざ)、という言葉の通り、ただひたすら、子どもを観察するのであります。
観察したからと言って、なにもいいことはありません。
でも、観察するのです。

そんなふうに言いながら、
「きっと、なにか良いことがあるんだろう」
って思われるでしょう?

ところが!観察したところで、なにも良いことはないのです。
15年教師をやっても、何も得られません。

ところが、いいことは、なくてもいいのです。
良いことが、なにひとつ起きなくても、大丈夫。
教員と子どもの関係は、
不安と圧迫と誤解と決めつけがなければ、両者は極楽の関係です。
なにもいいことがなくてもネ。

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