30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

キャリア教育

『個別最適化』を読み解く

文科省が出している答申ではこう述べられている。

『全ての子供に基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させ、思考力・判断力・表現力等や、自ら学習を調整しながら粘り強く学習に取り組む態度等を育成するためには、教師が支援の必要な子供により重点的な指導を行うことなどで効果的な指導を実現することや、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどの「指導の個別化」が必要である。
基礎的・基本的な知識・技能等や、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力等を土台として、幼児期からの様々な場を通じての体験活動から得た子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、探究において課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現を行う等、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が学習が最適となるよう調整する「学習の個性化」も必要である。

 「指導の個別化」は一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し、個々の児童生徒に応じて異なる方法等で学習を進めることであり、その中で児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくことなども含みます。ICTを活用することで得られる新たなデータも活用し、きめ細かく学習の状況を把握・分析したり、個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくことで、確実な資質・能力の育成につながっていくことが期待されます。また、学習履歴(スタディ・ログ)、生活・健康面の記録(ライフログ)等、児童生徒に関する様々なデータを可視化し、学習方法等を提案するツールなど、新たな情報手段の活用も考えられますが、そのような新たな情報手段の活用も含め、児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 「学習の個性化」は個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げることを意味し、その中で児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくことなども含みます。例えば、情報の探索、データの処理や視覚化、レポートの作成や情報発信といった活動にICTを効果的に使うことで、学びの質が高まり、深い学びにつながっていくことが期待されます。また、児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 この点に関連し、平成28年答申でも、子供たちが自分のキャリア形成の見通しの中で、個性や能力を生かして学びを深め将来の活躍につなげることができるよう、学校教育で学んだことをきっかけとして、興味や関心に応じた多様な学習機会につなげていけるようにすることも期待されている、とされています。[脚注3] 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の中でも、児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設けるなど、児童生徒の興味・関心を生かした自主的、自発的な学習が促されるよう工夫することが求められています。

「指導の個別化」「学習の個性化」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」ですが、これを教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」です。学習指導要領の総則では「児童(生徒)の発達の支援」の項目において、「個に応じた指導」の充実を図ることについて示しています。[脚注4] 「個に応じた指導」に当たっては、「指導の個別化」と「学習の個性化」という二つの側面を踏まえるとともに、ICTの活用も含め、児童生徒が主体的に学習を進められるよう、それぞれの児童生徒が自分にふさわしい学習方法を模索するような態度を育てることが大切です。』


これを読み解いていかなければならない。
いったいどういうことなのか?
100人の先生がいたら、100通りの解釈のできるものなのか?
それとも、100人の先生が、この文章の意味を、きっちり1つに解釈できるものなのか?

上の文章の中で、「児童」が主語になっている部分を列挙してみた。
これからの時代に児童生徒が自ら学ぶ内容について】

1〇児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくこと
2〇一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し
3〇個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくこと
4〇児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう
5〇個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げること
6〇児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくこと
7〇児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう
8〇児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設ける
児童生徒がこうなるように、上記のような学びができるように、教師は指導をせよ、というのである。

肝心なのは、これを学校生活のどの時間にするべきなのか、というテーマだ。
時間を指定しないと、先生たちは日ごろの行事や授業推進日程に忙殺されてしまい、具体的に実行しないまま時が過ぎる、ということにもなりかねない。時間をいつ、と断定することが大切だ。

1)すべての学校生活を通して上記を実現する
2)総合的な学習の時間内に上記を実現する
3)特別活動や学活の時間に上記を実現する


さて、どの時間帯なのだろうか?

とくに、7番目の
児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、というのは、具体的にどのタイミングで行うことなのだろうか?

これが、いわゆる「個別最適化の時間不明問題」である。

いつやるの?

学習指導要領には言及されていない。

だれか、文科省に聞きに行ってくれる第三者はいないだろうか?

というのも、教員がこれを文科省に尋ねると、すぐに県教委や市教委に電話がいき、担当者から

「なんでいきなり文科省にきくんですか」

と叱られてしまうからである。

だって、市教委に聞いても、県教委に聞いても、よくわからないんだからしょうがない。

このブログを見た文科省の先生、ぜひ教えてください!
コメント欄からでだいじょうぶです。
よろしくお願いします。

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多様化進む子どもの「習いごと」と「趣味」

野球少年が多かった時代は、みんな野球をやっていた。
プラスチック製のバットをみんな持っていて、公園に集まるとみんな野球だった。
ボールはやわらかいテニスの「赤M」で、軟式野球のボールは使われなかった。軟式の球は固いから、ホームランが出ると近所の家のガラスが本当に割れてしまうからである。赤Mならたとえ窓ガラスにあたっても大丈夫だし、体に当たっても痛くないし、ボールがゆがむから、ヘンテコなカーブも投げられた。

だいたい、団地の真ん中の一つしかない公園で、みんなで遊んでいるから、みんなでブームにのり、みんなでブームから離れたのである。

ローラースケートもやったなあ。
ただし、2年くらいしかブームが続かなかった。
みんな買っちゃったから仕方なくやっていただけで、2年目はそんなに盛り上がらなかった。結局、いわゆるブームだったのでありましょう。

という具合に、昭和の子どもたちは、わりとみんな少ない選択肢の中で、あれこれと動いていた気がする。

『アタックナンバー1』のころはバレーボールをやり、『エースをねらえ』の頃にテニスをやる。
我々は、テレビともちゃんと歩調を合わせていた。
「今、時代はコレだな」
と、みんなでそう思っていた。

スポーツそのものが時代に合っていたのだろう。スポーツが神性を帯び、スポーツが社会の中で果たす役割がとても大きかった気がする。

近所の仲間のうち、どうしても野球が苦手なのに、野球部に入っている子がいた。
なんてったって、彼の振るバットに、ボールが当たったためしがない。
また、なぜかフライはいつも彼の頭上を越えていく。
しかし、わたしは彼を馬鹿にはしなかった。
なぜなら彼は、それでも堂々と「野球」の道に進んだからである。
わたしはキャプテン翼が流行し始めた最初の頃で、自分では自分のことを、王道を離れてサッカーに流れてしまった軟派だととらえていた。したがって、野球という硬派な正統的スポーツをしっかりやろうとする彼のことを、ひそかに尊敬していた。

当時の少年にとって、たとえ苦手だとしても、その世界に入りたいと思えるくらい、野球は正統派であり、まぎれもなく【人の生きる道】でありました。

ところが、それが徐々に雰囲気が変わってきたのが、やはりバブルなんでしょう。精魂傾けて精進し、目的を達する、というのが茶化される感じが出てきた。軽薄な時代とよばれたバブルの頃で、ウッチャンナンチャンがいわゆるスポーツ根性もの、スポ根をネタにしてお笑いに変え、コントにして受ける時代がきた。

それまでは王貞治さんを見て笑う人なんていなかったのに、「懸命に精進する人を見て笑う」という文化が出てきた。

今、小学校の教師をしていて思うのは、そういう「精進する人をみて笑う」というのは、今はなくなりました。そう断言してもいい。スポーツ根性物をネタにするような、ウッチャンナンチャンのコントを見ても、今の小学生は笑わないでしょう。笑うのは、当時のことを知っている大人だけだと思います。我々は、古いコントを今見ても、やはり笑えるでしょう。

なんで今の子たちは笑わないのか。
実は、野球は野球、サッカーはサッカー、鉄オタは鉄オタ、古典落語は古典落語、それぞれ人生は一度しかないのだから、やりたいことをやればいいのだという気持ちを、今の子たちはハッキリと持っているのだと思います。
で、大前提として、他の人のそれをぜったいにバカにしない。

昭和の時代に、古今亭志ん生を聴いている中学生は馬鹿にされましたナ。
「なんだい、落語なんて古臭いものに興味なんて持っちゃってサ」
と、後ろ指をさされたものです。

高校に入って落語をやる、と言っただけでネタ扱い。
完全に変人の枠に分類され、小馬鹿にされました。
今のこどもたちに、そういう変な価値観はありません。存在しない。

それはなぜかというと、「知らないんだから、馬鹿にすることができない」という、至極まっとうな考えによるのだと思います。だって、それがどんなものか、よくわからないんだもの。

昭和の時代は、野球かサッカーか、というので「どっちがつおいか」「どっちが王道か」みたいな意地の張り合いがあったのでしょうね。今考えると。
世間的にどちらが価値が高いか、というのとリンクしていたような気がします。
そんなもの決められないのに。

名古屋と東京と大阪と比べてどれがいいか、みたいなテレビ番組がやっていたのを覚えています。そういう価値観があったんです。比較してくらべよう、という雰囲気があったんですよね。で、名古屋はタモリさんに徹底的に馬鹿にされていました。くやしかったです。

今、小学生にそのような価値観はない。
「だって、比べようがないでしょう。なにをもって比べたといえるの?」
なーんて、小学生につっこまれそうです。

クラスに乗馬をやっている子がいますが、どう思いますか?
わたしは最初、すげえめずらしい、と思って大いに反応しちゃいました。

「えー!!乗馬やってるの!めずらしいねえ!かっこいい!!」

わたしが珍しがってもあまり反応がありません。

「はあ」

と静かに言うだけ。
そんなに騒ぐことか?といった表情でこちらを見つめています。

つまり、「人は一人ひとり、ちがうことをして当然だから、乗馬だから、ということに価値があるわけではない」という風なんですよ。伝わるかなこの感じ。

乗馬をやっている小学生は少ないかもしれないが、同じように希少な昆虫の研究をしていたり、近所の化学クラブで実験ばかりしている子もいるし、新しいコンテンポラリーダンスに挑戦している子もいるし、母の影響で毎日ミシンで新しい衣装を作っている子もいる。父の影響で燻製づくりにはまる小学生もいる。

特別だから価値がある、というのでもない。
同時に、王道だから価値がある、というのでもない。
そんな雰囲気になってきた。


逆に言うと・・・

スポーツの人気が、相対的に下がってきている。
スポーツ以外の道が、たくさんあることに気づき始めたというべきか。

考えてみれば当たり前で、苦手な子も「野球」を選んだ昭和の時代とはちがうのだ。
スポーツに向かない子もいるし、集団競技はいやだ、という子もいる。力いっぱいに何かをする、というのが性に合わない子もいるし、だれかと競争する、という文化そのものを受け付けない子もいる。協力するのならやるが、勝ち負けをつけることは下卑た精神だからやらない、という子もいる。

「勝ったとか負けたとかいうのがすでにいやなんです」

という子がいて、体育の時は実に嫌(いや)そうにしていた子もいる。

なんだか時代が変わってきたなあ、と、古い私はそう思ってしまう。
たしかに、「勝った負けた」は世の常だ。
人が勝ち負けにこだわるのは、今の社会の当たり前のような行動である。
しかし、それ以外の価値観もある、ということなのだろう。
勝ったからよい、負けたからよくない、という価値観そのものも、多様化しているのかもしれない。

さて、五輪開幕が近づいてきた。明日ですか?開幕は??
始まってみれば盛り上がるでしょう。基本的にみんなスポーツは好きですから。え?好きじゃない人だっている?

たぶん、本当に心底、五輪に興味のない人もいるでしょうね。
今の子たちはクラスで一切五輪の話題を出しません。
たぶん10年後とかになると、スポーツそのものが少しずつこれまでのように過大評価された地位にはいないかもしれません。少なくとも、「当然のようにみんなが熱中するもの」という地位からは、すこしずれていくのではないかと思います。

野球部が無くなった、という高校が近所にあります。
高校野球、という言葉すら、だんだんとメジャーな地位から降りていっているのですね。
昭和の時代、蔦監督が率いた池田高校の野球を見て快哉を叫んだ私からすると、とても信じられないような、くやしいような話ですが。

tutakanntoku

レアを選べ!

ネコの体は面白い。
チーターやライオンなど、ネコ科の動物特有の筋肉の付き方をしている。
首を動かさないで、前足と後ろ足、全身を油断なく運ぶ。
ネコは歩いていても、目の高さが動かないそうだ。だから、猫の顔や目ばかりみていると、その分肩の筋肉などがずいぶんとやわらかく上下し、しなやかに動くのがよけいに分かる。

家の猫を見ていると、
「猫の体ってのは、ずいぶんとやわらかく、しなやかに動くのだなあ」
とあこがれに似たような気持ちが出てくる。

こちらは齢50となる中年オヤジである。体がかたくて、どうにもならない。
先日は運動会の練習のため、校庭で子どもらと共にラジオ体操をひさしぶりにやったが、気持ちと身体がまったく折り合わず、リズムに合わせて一生懸命に動かしてみても、ちっとも曲がらないどころかどんどんと子どもからテンポが遅れていく始末。

「・・・先生遅いよ」

冷静にクラスのおしゃま女子から指摘を受けると、恥ずかしさで舌をかみたくなる。

ネコが、自分の体の重心を自由にあやつりながら、身体を移動させたり動かしたりする元には、丈夫でしなやかな骨格がある。その骨格に筋肉がついており、それを伸ばしたり引っ張ったりしながら稼働させているわけだ。

なぜこんなふうに意識する癖がついたかというと、先日、ある大学の教授の研究室を訪ね、ちょっと話をしたからだ。
その教授は日本でも珍しい方で、骨格標本をつくることのできる教授らしかった。この教授は骨の専門家なのであった。
私はどういう風の吹き回しか、職員の研修でこの方と会うことになった。

この教授は骨を見て毎日暮らし、骨をつくって日がな一日過ごす。
「骨をつくる」というのは、なかなかふつうの人がやることではないが、要するに動物の死骸を引き取って、そこからあらゆる骨を取り出すのである。

「筋肉が邪魔でしてねえ」

その教授は本当にめんどくさそうに言うのである。

「わたしは骨しか要らんのですよ」

教授は長年の研究の結果、もっとも筋肉を溶かすのに向いているものを発見した。それは、入れ歯をきれいにするためのいわゆる『ポリデント』という商品だそうだ。
他の化学薬品では骨が傷みやすく、ダメだそうである。

「骨までもろくさせてしまうのでは、ダメなんです。骨は残したいが、筋肉は要らん。そのバランスですよね」

教授はいかにポリデントが優秀かを力説するのである。
たしかに、教授の机の横には、ポリデントが段ボールに詰まって大量に置かれており、

「このポリデントで、次はどの骨を取り出しましょうかね」

とにこにこした。

教授はもう毎日のように骨を取り出すためにポリデント溶液をつくり、動物の死骸があると聞けば、すぐに駆けつけてそれを貰い、ひそかに大学構内の自分の研究室まで運んで、たちまちにして骨を取り出すのである。

教授の目下の悩みは、その教授が担当するゼミに、学生が寄り付かないことらしい。

「がいこつ教授、なんてあだ名をつけられましてね。たしかに筋肉を溶かしているので研究室はかなり臭いし、わたしはもう慣れっこで、その異臭の中で弁当なんかも食いますが、ひとり減りふたり減り、とうとう今在籍している学生は、校内広しとは言え、たった1人なんです。この1人が将来、あとを継いでくれる保証はなし、頭の痛いところですよ」

わたしはなぜ、この教授が大学でこんな奇人めいたことをしているのか、分からなかった。
しかし、このときに教授がこの日本でたいへんに価値の高い人であることが、判明した。

警察から電話がくるのである。
ドラマのようだが、事実なのだ。
人骨か否か。
それを正確に判断できる人間が、この世にはなかなかいない。

警察から持ち込まれた骨。
それを教授は神妙な顔つきでみる。
判断は素早い。

「ハクビシンの足の骨ですね」

警察はホッとして、深々とお辞儀をして去る。

・・・そうである。

教授はもう自分がそういうレアな人種であることを自嘲気味にほのめかして、
「ハクビシンはもう、かれこれ五体以上はポリデント漬けにしてやりましたよ」
と、口元をゆるめて言うのでありました。

わたしはその研修というには中身の濃すぎる「研究室訪問」を終えて思うのには、
「後継者問題というのは、どこにでも存在しているのだなあ」
と、深く感じいったのでありました。

骨を研究する人が、日本にはいなければならない。
それが人骨かどうかを、即座に判断できる人も、この世にはいた方がいい。
しかし、そんなレアな職業をめざす若者が、いない。

レアな方が、よいのではないか?
これからの生き方として、レアな方が、生きていく場所ははっきりと固まる気がする。
若者よ、どう考える? 将来をえがいている最中のキミは、大勢が集う道を歩くのか、それとも人がめったに寄り付かない、道かどうかもあやしいような道を、レアな人材になるために歩くのか。

わたしは、レアな道がいいような気がする。
これからの時代は・・・。レアな方が。
たしかに、レアは、たしかに見えにくい。社会からも、見えにくい。
『パッと見』では、発見されない。世の中は、その他大勢が多すぎる。
しかし、一見わからないのだけれども、検索すればたしかにヒットするのが、レアな立ち位置だ。

若者よ、レアを選べ。

人の経験しない道を行き、人の経験しない場を見て、人の経験しない体験を積め。

その教授は、たった一人の研究ゼミ生のために、弁当を取り寄せ、論文も懇切丁寧にみてやり、院への推薦も保証し、ありとあらゆる親切をはたらいているそうである。

「しかし、彼は、ここでは弁当を食わんのですよ」

教授はタイガーのポットからお湯を汲み、お茶をいれて飲みながら、ため息をつくのでありました。

いやはや、人生は深いですナ。

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当てる力(ちから)の衰退

教室から「正解」が必要とされなくなってしばらく経ちます。
文科省が「生きる力」を重要視して、だいぶ変わってきたな、というのを感じています。

正解を当てましょう、という教室文化は、もう・・・消える寸前かな。
教室の中で、クイズ合戦のような雰囲気は、ほぼ無いです。

大人の方には、クイズが好きな人が多い。
だから、まだテレビ番組ではクイズが多いし、
「小学校5年生の問題が解けるかどうか」というのに芸能人が挑戦しています。
つまり、まだわたしを含めた40代以上には、ふだんから

「正解を当てようとする」という雰囲気

がかなり濃厚にあるのではないかな。
現状の小学校についても、たぶん、大人たちはそういったイメージを持っている。
ところが、現状の学校はだいぶちがいます。

教室で重要視されるのは、けっこう間違った意見です。
柔軟に考えられるかどうか、です。
だから、授業のふりかえりをすると、

「今日の授業で最初に出てきた〇〇の意見が良くて、だからみんな一生けん命に考えられた」
「わたしは途中で意見を変えたけど、意見を変える直前に〇〇という意見が出たのがきっかけだった」

というような感想が出るし、教師はそういうふりかえりに価値を認めます。

また、クラスのルールを決める際にも、「正解はないよね」というところからスタートします。
ルールも何度も変えられる。現状や意見に応じて。
このときに、「正解を当てる」という感覚は、・・・無いですね。
つまり、ルールにも正解はない、と子どもたちもわりとふつうにそう感じている、ということ。
子どもたちが気にしているのは、みんなが納得している度合いが深いかどうか、という感じかな。

あとは、将来の職業についての正解を当てる、という気分についてだけど、
これらは、もうほんとうに皆無かなぁ・・・。

昔は、おそらくそういう気分もあったのではないだろうか。
医師や弁護士、宇宙飛行士、プロ野球の選手、デザイナー、芸能人、という具合に。

今は、将来なりたいものアンケートをとっても、てんでバラバラで、取る意味がないです。
少し前に流行したユーチューバーも、子どもからしたら数ある選択肢のなかのほんの一つ。
べつに、流行でもなんでもない。
職業じゃなくて、「沖縄」と書いた子もいる。つまり、沖縄で暮らしていけるのであれば、どんな職業でも可、というわけ。あるいは起業をイメージしている?

すでに小学生の文化から、『正解を当てよう!』というのは、なくなってしまったようです。

でも漢字は正確に書けなくちゃダメよ!

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【遅いのかまだ早いのか】職業について

職業について考える授業をした。
小学校の高学年では
「・社会生活にはいろいろな役割があることやその大切さが分かる。
・仕事における役割の関連性や変化に気付く。
・将来のことを考える大切さが分かる。
・憧れとする職業を持ち,今,しなければならないことを考える。」

ということを考えるのだ、というふうになっている。(文科省資料)

アンケート用紙を配布。
名前を書く。

1)憧れの職業があるか
ある人は書く。
ない人も、できるだけ近いものを書く。
まったくない人も、身近な人の職業でいいので書く。

2)その職業で収入はあるか。

3)その職業を長く続けられそうか。

4)その職業は人の役に立つものか。

5)その職業をえらんだ理由はなにか。

6)その職業は自分に向いているか。


一つ一つ、書くごとに話し合う。
わたしはファシリテートに徹する。
「どうですか」
「なぜそう思うのですか」
「〇〇さん、△△さんはそういっていますが、その意見や考えをどう思いますか?」
「ここでの一番のポイントはなんだといえそうですか」
「このクラスとしてはそういう意見が多そうですが、そういうことでいいですか?他には?」
「では次に進みます」

4)の質問で、多くの子が
「役に立つのかなあ?」
と疑問をもっていたことに驚いた。
当然、職業というのは提供するものがあり、サービスに結びついているのだろう。
だから、子どもたちも『役に立つ』と考えているだろう、とこちらは思っていた。
しかし、
「サッカーの選手って、役に立つん?」
という声が出て、
「そんなの自己満足だ」
という子もいたのである。
これは意外だった。

「そういう意見・・・どう思いますか?」
とまわりにふってみると、
「・・・だって、お客さんが見に来るんだし、そういう人たちは楽しもうとしてくるのだから、そういう人の役に立っているんだと思う」
「あれ、そうか。ファンの役には立っているか」

これは、『将来なにがしたいの?』という聞き方が多いので、
子どもたちにとっては、職業に就く、ということが、役に立つ、という感じから考え始めていなかったからではないか、と推測される。

また、このアンケートの、最後の質問がもっとも難問で、
6)その職業は自分に向いているか。
というの、6年生の現時点で、このことに対して意見を持てるのだとしたらすごいことである。
自分をある程度、客観視したり、あるいは職業についての予備知識や求められる素質を考えていなければ、なかなかかけない。ほとんどの子が、「考えたことすらない」というだろう。
しかし、もしごく少数の子に、なにかしら『意見のようなもの』だけでも出てきたら、そのことをとりあげてみんなで感想を言い合えばよい。そんなつもりだった。

ところが、「向いているか」について、予想を超えて、子どもたちは意見を出したのである。

「向いているかどうかは、その職業についてみて10年くらいしないとわからない」
「今からそのために勉強するので、勉強すれば向くようになる」
「こんなに好きだし、やってみたい気持ちがあるのだから大丈夫だろう」

ここが一番、さまざまな意見が出て、もりあがった。

最後にもう一度、

1)憧れの職業があるか

の質問にもどった。

すると、

「3つくらい、増やしてもいい?」

という。

「いいですよ」

というと、

「じゃ、おれも増やそうっと」

という子がたくさん。

サッカーの選手、としか書いていなかった子が、

「サッカーの選手のために働く人」

と書いた。

「具体的にどんな人なの?」
と尋ねると、
「えっと、チケット売ったり、選手のカレンダーつくったりする人」
「ああ、チームのための人か。・・・サッカーチームの会社の人とか?」
「そう。あと、グランドで練習するときに手伝う人」
「なるほど」

自分がプレーヤーでなくなっても、よくなった、のである。

彼の思考の中で、どんな変化が起きたのか、詳細は分からない。
しかし、自分でこれらの質問に答え、さらにクラスのみんなで討議していくうちに、
「将来、なにがしたいか」
という感覚的なものだけでなく、
「職業そのもの」の意味について、少し考えが変わっていったのだろうと思う。

わたしもこの授業をしたあとに、「職業ってなんだろうか」。
よくわからなくなった。

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将来の夢、サッカー選手がじり貧に

小学生男子の将来の夢。
ひと頃は、サッカー選手が花形でした。
もっとも多かったのは、5年から10年くらい前かな、と感じます。
それが、このところ、少しずつ、少しずつ、減ってきているような・・・。
うちのクラスだけかな・・・?

プロのスポーツ選手、という職業が、子どもたちからすると、遠くなってきているのでしょうか?
どうせなれっこないだろう、というアキラメなのか、それとももっと別の要因なのでしょうか。

サッカーも振り返ってみると、やはり最初は、遊びだったはず。ボールを蹴りっこしながら、みんなで楽しんでいたものが、いつしか魅せるものとして、プロ職業として成立するようになりました。たぐいまれなる技術やワザを見せることが仕事になったのです。

プロフェッショナルという仕事としてそれが成立する、ということは、サッカーを見る観方も成熟している、ということ。
作戦の采配、選手の個人技術、選手同士のコンビネーションの見事さなど。
見る人は、そのはるかに高いレベルの、ほんのちょっとした些細な工夫に、しびれる。
そして、その「しびれ」に、お金、対価を払おうとする。
サッカーのプロとは、そういう「痺れ方」を、人々に提供することができる人々なのでしょう。

これまで、遊びをプロの領域にまで高めた人物、それを体現できる人物が、尊敬されたし、そういう人になりたい、と子どもをしびれさせていました。

ところが、時代は変わってきています。
子どもたちの、労働観、仕事観そのものが、わたしたちの想像とはちがってきているような気がしてなりません。



ユーチューバーになりたい、という子どもに向かって、

「ユーチューバーって、お金がもらえるの?」

と聞くと、

「うん、もらえるんだよ」

と答えてくれます。

「へええ・・・!いくらくらいもらえるのかなあ」

と、聞くと

「先生よりはもらえるんじゃないの。お金持ちっぽいから」

だそうです。
正直、がくっとしながら、

「ああそう。じゃあ、お金持ちになりたいから、ユーチューバーになるの?」

と、最後に一番聞きたいことを聞いてみると、

「ううん。ちがうよ。楽しそうだからだよ」とのこと。




さて。

その「ユーチューバーになりたい子の人数」が、ついに、わたしのクラスでは、
「プロのサッカー選手になりたい子の人数」を、追い抜きました。

努力した結果、遊びをプロ興行、プロ職業、労働にまで高めたサッカー選手は魅力を失い始め、
ただの遊びのようにみえるユーチューバーたちは、興行でもなく、職業でもなく、ただの余暇のように見えるがゆえに、子どもたちの支持を受けているのです。

・・・でもまた、これは際限なく、繰り返されるのかもしれませんネ。

ユーチューバーも、競争になってきて、遊び気分ではやっていられないでしょうから。
ユーチューバーがプロ職業化し、それを見て楽しむ顧客が、さらに精度の高い技術やコンビネーション、編集の采配を楽しむようになって来たら、もう子どもたちは、そこから離れていくでしょう。遊びであり、余暇であり、労働には見えないから「価値がある」と子どもに受け入れられているのです。それが「遊びのように見えているだけの労働だと見破られた瞬間、もう価値は、無くなっているのでしょう。

AIが発達し、現代ある職業の半分が無くなり、消滅するであろう、といわれています。
人間はこれから、労働も余暇も、さまざまにとらえなおすと思います。

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「何がやりたいの」ときく進路指導

何がやりたいか、ときくのが当然になってきているのかと思うネ。

で、子どもの方には、とくに何もないわけ。

そこではた、と困る。
大人も子どもも、困ってしまって、見つめ合うわけ。

「ん?なにもないの?」
「はい」

で、またしばらく、見つめ合う。

これが、今のキャリア教育の実際のところ。

大人は、なにかさせなきゃ、と思うので、焦る。
それで、

〇〇はどうか
△△はどうか
□□もおもしろいよ
♢♢が向いているかも


などと伝えるも、肝心の子どもの方は

「はぁ」

という感じ。子どもには

(できることなら、そんなこと何もしなくてすませたい)

という気持ちがあるから、まったくかみ合わないわけね。

そういう子どもとやりとりをしていると、大人の方の、頭脳の内部が、ちょっとだけ、混乱してくるのネ。

「いったい、なんでおれはこんなに焦って、この子になにかをさせようとしてるのだろうか」

と。

そこらへんになってくると、だんだんと少しずつ面白くなってくる。

仕事って、いったい何だろう?

と、大人も純粋に考えたくなってくる。

大人なんだから、そういうことは分かっているはず、という前提が、ガラガラくずれる。

「お金が必要だし、実際に稼がないと。貧困にさらすわけにいかない」と、大人は唇をかみしめながら、子どもに伝えることになる。

教室の黒板に、でっかくお金のマークを書いて、「¥、これ!・・・¥!これを稼がないと、食っていけないでしょうがっ!」と、心なしか声を荒げて、言うことになりますね。

これが、現状の、キャリア教育の実際のところ、であります。
もちろん、こうであってはなりません。
理想は別にきちんと存在していて、文科省をはじめすでに多くのところで語られているから、実際、今は、多くの教員がもっとちがうアプローチをすると思います。


つまり、なにが違っていたかと言うと、入り口がまちがっていたのだ。

「何がやりたいの?」

と聞くところから違っていたのだ。
スタートがまちがった扉を開けてしまっているので、深い森に迷い込んでしまうようだ。

キャリア教育が開く扉は、まったくちがう扉。

「何がやりたいのか」ではなく、「わたしは何者か」でもない。

さらに、その前から問わないと、子どもに社会をイメージさせることはできない。

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大声を出して応援する仕事につけばいいよ

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キャリア教育の授業の後半、わたしとしてはめまいのするようなことがあったので、ご報告。

Nくんは、一風変わったところのある男の子。
ゲッツ!という、一昔前に流行したギャグが気に入って、今さかんに使っています。
そのNくんが教室の前に出て来て、

「えー、ぼくは何も将来のことが決まっていないので、みんなで考えてほしいです」

といささか投げやりな感じのスタートでした。

「なんにも考えてない・・・」という子は数人いたのですが、Nくんはまったく考えるそぶりもみせず、非常にお気楽な雰囲気です。
他の子は、とりあえずユーチューバーだとか、とりあえず庭師だとか、とりあえず警察官、というように、自分としての第一希望を語るのですが、Nくんは焦るでもなく、困るでもなく、ともかく指名されて、

「なにも考えていないので」

と言い切るのでした。

学級のみんなはそんなこと予想できていたらしく、わたしが
「そんな!Nくん、ずっと前から将来のことを考えるように言ってたでしょう」
と指摘するのをさえぎって、

「うーんとネ・・・Nくんはね・・・」

と考え始めます。

そこで、ゲッツをやるからお笑い芸人、とか、
おうちが農家だから農家、だとか、
なんとなく研究熱心な感じもするから、なにかのハカセ、とか
いろいろと出てきました。
たしかにNくんは理科が好きで、試験管やフラスコを使った実験になると、とてもはりきるのです。級友はふだんから、そういう姿を見ているから、あれこれと言ってくれるわけです。

一通り、あれこれと意見が出た後、一人の女の子が、

「あ、そういえば、Nくんはいつも声がでかいし、運動会のときにすっごく大きな声で応援してたから、応援する人になれば」

と言ったのです。
それを聞いた仲良しの子が響いて、

「そうそう!わたし、みっちゃんと一緒にNくんすごいねー!とか言って、笑ってたよねえ」
「そうそう!Nくんだけ、めっちゃでかい声出してたから!!・・・思い出してきたよ!あんときすごかったよね!ギャハハ!」

Nくんは今年、クラスの中で選ばれて、運動会の応援団に所属していたのでした。
その応援団のときの情熱のこめ方がすばらしくて、印象に残っていたのでしょう。

結論として、Nくんについてみんなのおすすめの仕事は、

「大声でだれかを応援する仕事」


ということになりました。

わたしは、

「えー・・・ッ、それで、お金がもうかるのかなあ・・」

とぶつぶつ言いましたが、だれも聞いちゃいません。

「先生、いいじゃん。きっとだれか、応援してほしいときに、近くで応援してほしいからお金を出そう、という人もいるかもしれないよ」
「そうそう」

わたしはよほど、

「ふざけないで聴きなさい。いいですか、そんな仕事は世の中にありません。金を稼げるわけがない!もっとまじめになりなさい!」


と、のど元まで出かけましたが、やめました。

子どもたちのコミュニティの範囲では、Nくんが大声でだれかを励ましてくれているのがちょうど良いのです。それが、彼をいちばん生かし得る道だ、と思うらしいのです。

Nくんもまんざらでないようで、

「じゃあ、応援する仕事にしようかな」

と、うれしそうにしています。

わたしは慌てて本棚を探して『13歳のハローワーク』を右手に高くあげ、

「そんな仕事、これには載ってないけど!」

と反論しようとしましたが、やめました。


果たして、仕事というのは、何なのでしょうか。
人間らしさというのは、何なのでしょうか。
4年生では、『職業以前の話』をしているのですね。
あなたがこれをやってくれたら、みんながうれしい。この中のだれも、あなたのようなマネはできない。あなたが一番、それをやるのに向いているのだ。ぜひやってほしい。

わかった!まかせとけ!

縄文時代だったら、こういうやり取りでもって、仕事というのは成り立ったでしょうね。

で、仕事というものに、やりがい、というものが、直接的に結びついていたのでしょう。また、嫌々仕事をする、ということにもならないでしょうネ。目覚ましが鳴ると、胃がキリキリと痛むので、胃薬を飲んで出勤、ということもなさそうです。

その証拠に、学級のみんな全員、機嫌が良いのです。
Nくんもうれしそうだし、まわりの、いっしょに考えてあげたメンバー全員(クラス全員)が、なんとなく楽しいし、嬉しいのです。

キャリア教育をやればやるほど、将来が楽しみになるし、クラスの人間関係も良くなるし、人生がばら色にかがやいて見えるようになるのです。

そのかわり、保護者受けはよくないですね。残念ですが。
隣のクラスの子も作文を書いていたのですが、それは
「警視庁に勤めるために、国家公務員採用試験を受けます。そのために大学は〇〇大学を出て・・・」
というものでした。それと比べてうちときたら・・・存在しない、架空の話しかしてないんだから・・・、まったく。

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理想がなくたって、だいじょうぶ。

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あと、ひと月で4月。
これから新しい生活をスタートさせる人も多いのだろう。
新聞記事で、就職のことが特集されていた。
今年は売り手市場だとかで、例年よりは就職率が良かったらしい。
わたしは氷河期世代。どこもかしこもバブルの打撃で立ち直れない時期だった。

「なぜか分からないがどうしても受からない、自分が悪いのだろうか」というので悩む友人や後輩の姿をたくさん見た。日本全国、多くの若者が志望動機など一切封印して、ともかく就職できれば良いからどこにでも行く、という感じだったと思う。

「本当はこうしたい」
「本当はこんな夢がある」
当時は、こんなことは言えない状況だった。
夢を封印した人の、寂しさ、やるせなさ、というのがあっただろう、と思う。
わたしの学生時分の友人たちは、意を屈して、意志をまげて、就職していった者が多かった。そして、今でもそこで石にかじりつくようにして、辞めずに頑張っている。


わたしが久しぶりに連絡をとった大学生時代の友人の中には、
就職してしばらく、愚痴ばかり、という友人がいた。
ひょうきんな顔つきで、愉快な男であったが、自分の希望する職種やジャンルとはまったく異なる、いわゆる営業畑に入り、苦労をしたようであった。

私は、そのうちに彼は辞めるのだろう、と漠然と考えていた。
当初、愚痴ばかり聞いていたこともあって・・・。

ところが、久しぶりに聞いてみると、なんとまだ、そこで働き続けていた。
そして、なんだか、とっても充実しているらしい。
わたしは、内心、とっても驚いた。
あまつさえ、私に向かって彼はこうも言ったのである。

「まあ、人生いろいろだけど、新間も頑張れよな。教員もつらそうだが、辞めるなよ」

彼から感じるのは、まったく後ろめたいもののない、底抜けの明るさだった。



根が明るい人は、理想がどうこう、なんてこと、言わないでも平気なのだという気がする。
そんなことに頼らずとも、平気で、生きていける。
だれが見ていなくたって、平気で、一人でも、生きていける強さがある人のことを、たくましいとか、明るい、とか言うんだろう。

そう考えてみると、「本当にやりたいこと」を考えなさい、と追い込む社会機構、社会システムは、おおむね、暗い、と断言してよい。
「理想」を考えずに済むのが、一番いい。
誰もが、ふと、生きていけるという、そういう明るさが、もっと知られるようになればいい、と思う。
逆に言えば、社会全体が自然と個人を生かすようにセッティングされていると言おうか。個人を追い詰めなくても良いくらいに、社会が進化している状態であること。

「就職」の話題がどうしても苦しさに満ちた記事になっていくのは、そこにどうしても、個人の理想を重ねようとするからだろう。
理想を考えずにいられないというのは、もはや「理想中毒」と呼んでいいのかもしれない。
理想に頼らない生き方が、これからはもっと取り上げられるようになると思う。

オリンピックの羽生選手が、若い人の理想の姿だ、という新聞コラムを読んだ。
このコラムを書いた人は、たぶんおじさんなのだろう。
まだ、まだ、おじさんの思考は、「理想」を追いかけることに夢中になっている。
「こうでなければならない」というの、強いんだろうな。
(というか、そういう価値意識しか習得してこなかったから、一生そのままだろう)


小学校でのキャリア教育でも、「理想」とくっつけた途端、暗くなってしまうことが予想される。
そうならないよう、新しい「人間の幸福」を、見出していけるような人になりたい。
しかし、悩むことはない。
すでに、その答えは子どもたちが持っていて、わたしたちに教えてくれている。


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CAになれると思いますか?

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わたしたちが本当に願っていることは、なんだろうか。

空


CAに本気でなりたい、と思っています、という相談があった。

「高卒からフリーターの24歳ですが、CAになりたいです。遅いのは十分わかっていますが、人生後悔したくないので挑戦したいです。なれると思いますか?」


「〇〇になりたい!」というのが、本当に自分の願っていることではない場合がある。
そんな馬鹿な、とも思うけど、案外とそういうことが多いのが人というもの。

あとで振り返ってみて、

「なんであのとき、自分はそこまでこれをやろう、と思ったのかなあ」
と不思議になることだって、ある。

自分のことなのに、ね。
自分では、「自分はCAになりたいんだ」と思い込んでいるけど、
実は、本心ではそうではない、という状態。
肝心の自分自身が、『本心』を理解しない、分かっていない。

自分の本心が分からないなんて、そんなこと、あるの?

けっこう、ある。
自分の本心が分からない、というのが、けっこうある。
だから、キャリア教育は難しい。


テレビのCMを見て、職業を決めているようなもの。
気分で決めている。
かっこいい俳優が言ったから、やっていたから、
だから商品を買う、だから、その商品を持つことに憧れる。
それと同じ。



なぜ、CAになりたいのか。

CAに憧れた、という。
お客さんを第一に考えて、きびきびと働く姿に憧れた、という。
困っている時に、助けてもらった、親身になってくれた。
だから、わたしもそういう仕事に就きたい、という。

ところが、自分自身がどんな人間なのか、ちっとも分かっていない。

自分のことを、知らない。

だから、あっという間に、CAがちがう職業にコロッと変わっていることがある。

「あれ?先週まで、CAとか言ってなかった?」

「うん。CAもよかったんだけど、もっといいの見つけたから」



もっといいの見つけたのはいい。
しかし、そもそも、自分のことが見えていないから、やはり同じだよね。


自分のことを知らないで、分からないで、調べもしないで、
それでキャリアを考えることなど、ぜったいにできない。

これからのキャリア教育は、職業の説明をする教育ではない。
自分のことを知ること。
人間とは何か、知ること。
社会と自分の接点を、楽しく、わくわくしながら考えること。

自分ひとりで考えていけるわけではないよ。
キャリアは自分のことをよく知る仲間と、いっしょになって、
自分はどんな人間なのか、じっくりといろいろ考え、
成長したところ、気づいたことを教えてもらうこと。
自分の成長は、自分では気づいていないこともある。

周囲の人たちからすると
自分はどんな存在で、どんなことが喜びなのか、いろいろヒントももらって
自分がなにを喜びとすることができるか、周囲の人たちとの関係もふまえて
経験もふまえて、あれこれと自由に考えていく中で、ようやく見えてくるもの。

こんなの、ひととの関係が濃い、学校教育の中じゃなければ、できないかもなぁ。
ひとりきりで考えていたら、ただの思い込みとイメージで決めることになるかもしれないし。

キャリアは
ひとりで考えていても、
なかなか・・・。


だから。
大事な決断は、
気の置けない仲間の助けが要る、ということではないかナ。

【2分の1成人式の記事に反響】寄せられたメッセージから

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先日、2分の1成人式の記事を書きました。(先日の記事はこちら)
ちょっとした反響があり、現役の若い先生からメッセージをいただきました。

「わたしも4年生担任です。わたしは、2分の1成人式では、将来の夢を考えることを主眼にしました」

なるほど。いいですねえ。
わたしと同じです。

「自分が将来、就きたいと思っている職業を一人ひとり考えて発表しあいます。そして、その夢を学級のみんなで応援しあおうと思います。具体的には、お互いにメッセージを書いて、贈りあいます。そして、作文を書いて、学年最後3学期の学習発表会で、おうちの方の前で読むつもりです」


とのことでした。


しかし、その方が、ご自分で一点気にしていることがありました。

「もし、就きたい職業がクリアでない子がいた場合、その子は、夢に向かってがんばる、という作文がうまく書けないかもしれません」


たしかに。
書けない子もいるでしょうね。

「どうしたらいいでしょうか」

との相談のメッセージ。






担任が、教室の子どもたちに、
夢に向かってがんばる、という作文を書かせたいのかどうか
でしょうね。

〇〇になるために、がんばる

という人生の進み方もありますが、四年生段階で、職業を決める、というのは現実的にむずかしい子もたくさんいるわけで・・・。

夢というものを追いかける方法のひとつは、みなさんご存知の通り。
つまり、「ゴールをめざす」というわかりやすい方法です。
具体的には、『めざすゴールを先に明確に決めて、そこに向かって段取りを細かくステップ化し、毎日のルーチンをこなしながら目標に徐々に近づいていく』というものでしょう。

たしかに、こうして夢の追いかけ方を考えるのは、楽しくワクワクすることには違いありません。
ところが、4年生で職業を明らかにするのは、なかなかしんどい。
まず最初の条件、ゴールを明確化する、ということ自体が、なかなかの難題です。


そこで、こう考えたらどうでしょう。
先のゴールがまだぼんやりしているのだし、ほんわかしているのだから、自分には何ができそうか、ということを考える。
「ゴールを先に明確化し、めざす」というやり方ではなく、今ある、自分自身の実感や体験や興味関心をデータ化し、そこから具体的にこんなことがやれないだろうか、というふうに、まずは自分の側のデータをたくさん集めていく方法です。

わたしは、小学4年生なら、こちらのやり方の方が、合っているような気がします。

そう考えると、先のメッセージの中に書いてあった、

「自分が将来、就きたいと思っている職業を一人ひとり考えて発表しあい、その夢をみんなで応援するメッセージをおたがいに贈りあいます。そして、作文を書いて、学年最後3学期の学習発表会で、おうちの方の前で読むつもりです」

という部分の冒頭、

『将来就きたい職業を一人ひとり考えて発表』

を、そうはしないで、

「自分がどんなふうに周囲の人たちとつながっていて、影響を与えたり、喜んでもらったり、役に立ったり、してきたか。自分自身が相手に向けて、してあげたことを通じて自分の側のよろこびだと認識できた体験はあるか。また逆に、自分がしてほしいことをだれかにやってもらって、とっても嬉しかったことがあるか」

ということをあれこれと、小学校生活の中からさがしあてて、

「ぼくはどうも、こういうことをやってみんなに喜んでもらったことが、自分ではとてもいい体験だったように思う」

とか、

「ぼくが活躍できたことで、まわりが喜んでくれたことが、自分の励みになった」

とかということの事例を、たくさん集めたらどうでしょう。

そのことを、作文にして読み、

「もしかしたら、ぼくはこういうことをみんなの中でやっていくことが、人生のヨロコビになるのかもしれない。そういう仕事ができたら、人生が楽しいかもしれない」

と、書いたら良いのではないでしょうか。

(Aさんすみません、こんな回答でよろしかったでしょうか?)

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4年生の行事?『2分の1成人式』にチャレンジ!

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そろそろ今の時期、2分の1成人式を考えています。
わたしはあまりよく知らなかったのですが、世間ではかなり有名になってきている行事らしいですね。
20歳の成人の、ちょうど半分、10歳になる4年生で、その儀式をやろうというわけです。
学年の先生たちと相談し、まあやってみよう、ということになりました。

どんな式にしようか・・・。
やはり、将来のことを考える、というのがいいね。

『2分の1成人式!これまでの10年を振り返る!』
タイトルはこれで決まり。

これまでの10年間で、どんなふうに周囲の人を助けてきたか。
なにをしてあげてきたか。
まわりの人からやってもらって、うれしかったことも集めてみよう。

自分は、どんなことをやって、人に喜んでもらってきたのかを考えてみると、
その先の将来の仕事も、だんだんとそこから見えてくるものがありそうだ。

考えてみると、不思議なんだよね。
人に喜んでもらったらなぜとなく、自分までうれしくなる。
これは、なんでだろう?
DNAに組み込まれているのかも?

自分の働きで、周囲が笑顔になったのを確認すると、DNAの自己保存本能が、「OK」と言うのだろうか。そういう信号が、脳内に発生するのかもしれない。

誰かになにかしてもらうと、人間の脳には、「よかった!」という信号が発生する。
これまた、ごく自然に発生するから、不思議で仕方がないことだ。

おいしいものをもらって、食べると、満足する。
そして、そのおいしいものを運んできてくれて、食べてよいよ、としてくれた人に、
好意が生まれるもの。不思議だけど。

おそらく、洞窟で暮らしていた狩猟採集時代からの本能だろうね。
自分が生きていくために、この人は信頼できる、と分かると、好意が生じる。
そして、その信頼を強くすることを考えて、今度は逆に、なにか自分が手に入れたら、先日自分においしいものを運んできてくれた人に、「ほい」とあげようとするだろう。
そして、おいしそうにそれを食べてくれたら、こっちも不思議なことに、うれしくなる。

弱い哺乳動物の人間は、そうして仲間との信頼を深めることで、餓死する危機を遠ざけ、厳しい自然界の中で生きていく知恵として用い、自分の寿命を延ばそうとしたに違いない。
生きていく力の弱い人類が、他の動物に襲われず、絶滅もしなかったのは、仲間をつくったから。

教室でも、だれかを笑顔にすることで、自分の中によろこびが生じる体験は多い。
その体験をみんなでいっせいにふりかえり、

自分はなにをすることで、まわりの人を喜ばせてきたか。
まわりの人が笑顔になることで、自分までうれしくなった経験があるか。
その体験をもとにして、将来の自分の仕事を考え始める。

それが、2分の1成人式(ハーフ成人式)。

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