30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

これからの、新しい概念について

んなわけない、ということ

わたくしには、「こんな気がしてならない」というの、がある。

○仕事はできないほうがいい
○努力はしないほうがいい
○できるだけ無能なほうがいい
○まちがった方がいい
○できるだけ、達成せず、成果がでず、わくわくしないほうがいい
○しゃべらないのがいい
○みんなでなにかをやらないほうがいい
○反応しないのがいい
○夢は、ないのがいい
○感動しないのが、いちばんいい
○高みに登るより、一番底へたどりつけば全部見える。

さかさまダー。


聞く人はみな、
はなから無視するか、
馬鹿じゃないか、と思うか、
意味不明、と呆れるか。

そんな調子です。



でも、たまに、これを聞くと、

「にやっ」

として、私の顔を見る人もいる。

私も思わず、「にやっ」としてしまうネ。


あまのじゃく、というのは、ちょっと恥ずかしい。
良いものでは、ないね。

ゆめ

梅原猛と梅棹忠夫~科学と哲学の間~

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高校の図書館で、梅原猛さんの本を一時期、順に読んでいた。
その隣に並んでいたのが、梅棹 忠夫さんの本。

両方とも、名前が『梅』なので、゛うめ゛繋がりで面白がって読んでいるうち、双方に共通のもの、あるいは少しちがったものを感じ取り、一年くらい楽しんだ記憶がある。
梅原(うめはら)と梅棹(うめさお)。
この2人を、交互に読んだのは、今でも幸運だったと思う。

梅原は、(日本文化の根本思想とは)生きとし生けるものと共生する哲学であり、科学や科学技術も、そのような哲学に裏づけられなければならない、と書いた。
梅棹は、科学は人間の業だ、と言った。
科学が人間を破滅に追い込むことは自明(原発事故が象徴的)だが、それは人間の業(ごう)である、と。

高校生の私は悲観して、じゃあ人間は自分でも抱えきれない、把握しきれない科学の影響から破滅してしまうってことか、と泣きたくなった。
しかしこの哲学者、科学者のお二人は、そうでない、と。
暗黒の中に、光明がある、と。

それは、「共感」だ。
梅棹先生は、「英知」とも言っていました。

知的にならなければならない。
人は、『知的』だから、光明を見るのだ、と。

人間が暴走するかしないか、紙一重。
そこに、人間ならではの共感する力が発揮できれば、暴走を一歩前で食い止めることができる。

たしかに、原子力発電所も、いわゆる利権があり、運動があり、経済の影響があり、それでお給料をもらって暮らす人もいれば、反対運動もあって、非難もされる。

推進派と反対派の、両方がいる。両方の立場がある。
そこには、「話し合い」はない。
マネーの力でごり押しし、我慾、我利を押しつけ合う姿や、それに抵抗しようとする姿はあるが、話し合いになっていかない。

梅棹先生は、原子力発電についての広報誌の中で、
「原発はきちんとコントロールするから大丈夫」という電力会社の人に向かって、

「民族学をやってる立場からいうと、人間ってのは、案外とあてにならんのです。まともでないことをしでかすのが人間。原発は高度なコントロール下におけば大丈夫という。そうかもしらんが、そのコントロールをなんでかしらんが、間違ってしまうのも人間なのです

というようなことを言っている。

原発をあきらめきれないのと同じで、人間は科学をあきらめきれない。
それが、業だ。(麻薬みたいなものだね。やめられないのだもの。やめられないのが麻薬だから)

しかし、その業と向き合うときに、だれかが、社会が、共感してくれたら、救われる。
人間は、業を抱えるけれども、その業が、人の共感で、解消する(やめられる)ことがある。

人間が、科学と添い遂げられぬ悲しみ。

その気持ちに共感さえしてもらえば。

解消することも、ある。

共感、を、祈り、とよぶ人もいる。

震災直後、なんでも博士の荒俣宏さんが、東京の街の節電風景を見ながら、「人々の祈り」のようなものを感じ取った、と語っていたが、こういうことかも。

ついでに思い出したが、鶴見俊輔は、「真理とは方向感覚である」とのこと。

もうこれで、日本の哲学者が3人もいなくなったことになる。
梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - 2019年1月12日)
梅棹 忠夫(うめさお ただお、1920年6月13日 - 2010年7月3日)
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年6月25日 - 2015年7月 20日)

梅原たけ

【自由研究】錦織圭の強さの秘密

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父親「練習に行こうと親が言ったことはありません」
日本の若手トップアスリートにおける両親の教育方針に関する一考察
http://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2010_2/5010A317.pdf
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科
氏名:杉山芙沙子
 ↓
杉山愛
宮里藍
錦織圭
石川遼
 ↓

体罰・罵声・強制・威圧など、強い口調での指導⇒0人
自発的な子どもの意思と周囲の十分なサポート⇒4人

 ↓

子どもの意思を最大に尊重する周囲環境

 ↓

大人の意思も最大に尊重される

 ↓

評価の在り方

よくできた
うまくできた
上手にできた
立派にできた
(1割)

やりたいことができた
みんなの力を借りてできた
つぎの工夫もみえてきた
さらにやりたくなった
みんながよくなることができた
何より自分が楽しめた
(9割)

 ↓

事柄、現象、やること、内容は、実はなんでもよい

 ↓

学校での評価から一歩離れたところでの評価(自己評価や満足を含む)を得られる
裏文化
枠外での活躍

 ↓

子どもの何をみていくのか
内面・心情・人格的なもの
(評価するでなしに、まずは満足が得られているかという点)

 ↓

自分が「満足」したときの仲間への声かけ

 ↓

現代っ子⇒強い評価にさらされたときの衝撃に弱い
(内面が育っていない、なにが大事か、ということが分からない)
(「賞」をとるのが良い、有名になるのが良い、評判の良いのが良い、という偏った観方に陥る)

 ↓

引きこもり
(平成24(2012)年には63万人)
自殺
(30代までが年間7000人)
ニート

 ↓

外面(そとづら)、外見をよくしようとする。(就職活動うつ・内定ブルー)

 ↓

「人は、外見を見ただけでは判断できない」

 ↓

みんなのことを思って動こうとする子は、⇒ほうきで隅まできちんと掃く(かもしれない)が、
ほうきで隅まできちんと掃くから、⇒みんなのことを思って動いている(とは限らない)。

心が健康な子は、⇒毎朝元気に笑顔であいさつする(かもしれない)が、
毎朝元気に笑顔であいさつをすれば、⇒心が健康だ(とは限らない)。

心が荒れている子は、⇒隣の子が牛乳こぼしても助けないかもしれないが、
隣の子のこぼした牛乳を拭かないから、⇒心が荒れている、とは限らない。

心の栄養が不足している子は、⇒校庭のマラソンをしないかもしれないが、
校庭のマラソンをしないから、⇒心の栄養が不足しているとは限らない。

 ↓

「1回3時間の練習を週6日間やり、試合初出場から約1年後には初優勝を果たしている。筆者は非常に近くで杉山愛と接していたが、テニスに関して口うるさく言った記憶は全くない。常に彼女の意思を尊重にし、叱った経験もごくわずかだ。筆者はコーチ、ディレクター、そして母として杉山愛に一人の人間として接し、「テニスは楽しく、すること全てを楽しむ」ことや「自主性を重んじ、強要はしない」ことを教えてきたつもりである。」
(杉山芙紗子)

 ↓

どれだけ外面(そとづら)がよくても、悪くても、

「どうしたい?」

と聞いてもらえて、素直に、正直に、

自分の内面について、言うことのできる人間関係がなければ、

どんな活動も、子どもの本当の姿をみとったことにはならない。

 ↓

(場所)学校だけ
(人間関係)外面や態度面で良い子を演じる関係
(評価されること)うまくできたかどうか

 ↓

(場所)学校や地域全体
(人間関係)内面や心の満足について語れる関係
(評価されること)お互いに満足しているかどうか
素のままでいられるお互いの、子どもと大人の人間関係があれば、どんな活動も、プラスになるに決まっている。

逆に、内面を正直に、嘘偽りなく、良い悪いの評価を超えてあらわし、純粋に励ましてもらえる人間関係がなければ、どんなに「良い」とされる活動をしても、なんの足しにもならない。

 ↓

そうやって励ましあえる人間関係に。
もっともスムーズに入るために。

まず手始めは、やっぱり、自分のなかの最も分かり易いマイナス(?)の感情、「怒り」と真剣に向き合うことからかな。

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8月15日に神社へ行く

昔から神社が好きです。
木立ちを抜けて、朝陽のさす中を歩いて、お参りしました。
なんだか落ち着くのが良いし、静かなのもいい。
日本人に生まれてよかった、と思う瞬間ですネ。

わたしが日本がユニークだな、と思う一つの理由は、縄文時代です。

縄文時代には、100人ほどの単位の村が数多くあったと言われています。また、他のコミュニティとの間に、ほぼ殺し合いや大きな闘いはなかったとみられています。
自然が豊かで、争う必要もなかったのでしょうか。食生活の豊かさは、最新の研究によれば、かなりのもの。アサリ、ハマグリ、クリ、ドングリ、シイなど、おいしそうな素材ばかり見つかっています。栗を使ったクッキーなど、工夫を凝らして仲間みんなで楽しんでいた様子まで見えてきます。

縄文時代、身近にある食べ物は季節毎にバラエティーに富んでおり、縄文人はそれらをうまく組み合わせて食べていました。イノシシを飼養した跡も見つかっています。何らかの事情である食べ物が手に入らなくなっても、代わりになる食べ物はいくらでもあり、縄文人は飢えとは無縁の生活をしていたのです。飢饉が発生するようになったのは、主食を米という一つの作物にしぼりこみ、貯蓄を始めた弥生時代以降です。

縄文時代に、なぜ争いがなかったのか、なぜそれが1万年以上も続いたのか、未だ定説が無く、分かりません。
弥生時代になると、骨に矢じりのささった人骨が見つかります。甕棺(かめかん)の中の人間の骨は、闘いの悲劇を語っています。稲作になり、貯蔵すると同時に、不安感が社会全体を覆うようになった、と想像されているのです。

貯蓄をしない時代は⇒貯蓄がないにも関わらず不安が無く⇒殺しあいもない。

考えてみると、このことは実に不思議です。
さかさま、じゃないでしょうかネ・・・?
ふつうは、こう考えて当然でしょう。

貯蓄をしたおかげで⇒安心感が出て⇒そのため不安がなくなり⇒殺し合いもなくなる。

とね。

ところが、史実は逆であります。
貯蓄をせっせと頑張る弥生時代になって、急激に殺し合いが増える。これは、弥生時代になにか、別の要因がたくさん生まれたのではないかと考えるべきなのでしょうか?
弥生時代にはまだ手つかずの大地や自然がたくさんあり、人の住める原野が広がっていたにも関わらず、「貯蓄不安」がダーッと人々の心を占めたのです。まるで、それまでの平和な縄文時代とは人(ひと)が変わったかのように・・・。
なぜ、貯蓄をすると不安が生まれるのか
コミュニティを護る発想のなかった縄文時代は、コミュニティを超える者同士の殺し合いが起きず、同時に「不安やヘイト」もなかったのです。

では、いつ「不安」は生まれたのか?
「不安」は、いつ、日本に上陸したのでしょう?
弥生時代、米と一緒に、「貯蓄」という概念と一緒に、遠くから運ばれてきたのでしょうか。


・・・


わたしは朝早くの、誰もこない拝殿の真ん前で、そこだけ照らされている広場の土の上に腰を下ろして、しばらくそんなことを考えていたようです。

「アイタタ」
わたしは腰をあげて、立ち上がりました。
そして、神さまのおわしますところの本殿へ向かって、敬虔な祈りを捧げました。

「人々の心に神様が生まれる前の縄文時代、三内丸山遺跡の頃の日本には、『不安』はなかったのでしょうか。どんな社会が広がり、どんなふうに人間のくらしが営まれていたのでしょう」

じっと考えを進めます。わたしの想像の中で、スサノオノミコトや天照大神が動き回りはじめます。

しばらく考えて、神様が返事をしてくれますね。(わたしの頭の中で)

「不安がなければ、相当数、多くの物や概念、考え、心理状態をふくめて、無くなるものが多いだろうね。うちらも含めて・・・ガハハ(笑)」


不安が無くなれば、同時に消えてなくなるもののことを、「縄文脳内テーゼ」と呼んだらどうでしょう。

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カジノ店内の貸金業を学校教育で扱う

カジノでは、負けるとお金を支払うことになる。
「カジノは儲かる」という点だけを強調して覚える子がいるからだ。
まずは、そのことを学校で教えるべきだ。

つぎに、カジノでよく起きる、客の心理について学ぶべきだろう。
たとえば、投下したコストを回収したくなる「サンクコスト効果」という心理現象がある。
コスト、と認識した額だけは、「回収しなければ」と思う。

本当は、負けはじめた瞬間に「ここでやめよう」と判断するのが一番損が少なく済む。
あるいは、最初から、今日は〇〇円負けたらやめる、と理性的に判断してから賭けることがよいだろう。
しかし、そのどちらも、強い意志が必要だ。
人間は意志が弱くなる瞬間があり、脳も、ふだんはとても正しい判断をしているはずの人が、ぼけたり、勘違いしたり、間違えたり、うっかりしたり、注意不足になったりすることがある。
そのため、上記の

「サンクコスト効果」

に、自分が陥っていることに気付かない。
そのリスクを、あらかじめ日本国民には教育として教えていくべきだ。
それが、射幸心教育、である。

カジノの店内には、おそらくアコムなどの金融窓口が置かれ、借金に借金を重ねる人が出てくるだろう。
「もう一度、賭けたら当たるかもしれない」
こう考えて、つい借金を重ねる人の気持ちも分からなくもない。
自分の金なのか、他人の金なのか、区別・境がわからなくなり、どんどん摩(す)る、感覚が麻痺して自分の置かれている状況が客観視できなくなるようになる人が出るかもしれない。


カジノは本来、海外からやってくる観光客からの利益を集める装置として、国が設置するもの。
だとすれば、日本の国民がその罠(わな)にはまり、生活を破綻させたり、人生を狂わせたりするのは、日本国としても、政府与党としても、望んではいないはずであり、文科省もそれに対応するべきだろう。つまりは、ただしい「射幸心教育」を我が国の国民には施すべきである。

英語外国語教育が軌道に乗り、つぎはプログラミング教育が軌道に乗る。

そのつぎにくるのは、カジノ業界で働く人材を育て、さらにはカジノで人生を棒に振らないようにするための教育だ。中毒や依存癖、耽溺する精神状況、〇〇アディクションという自分にはコントロールできなくなる強迫症状からわが身を護るための、「射幸心・心理教育」を軌道に乗せるべきだろう。

gyanburu

悪口について

4,5月に問題になったのは、「悪口」でした。
たいていのクラスで、最初にぶつかるのが、この「悪口」問題です。

友達関係が安定するためには、この「悪口」の問題を超えていかなければなりません。
さもないと、みんな安心してクラスで過ごすことができません。

悪口の問題を、クラスの全体がなんとか超えていくと、その先の展望が、少しずつ明るく見えてくるのが、ほとんどの学級のたどる道なのではないでしょうか。

そして、その「悪口」というのが、実は子どもが「ことば」に直面するのに、もっとも必然的で、実践的で、必要な対象なのでしょう。

子どもが「ことば」に直面する授業の展開

これこそが、道徳の授業、だとおもう。

ことばの問題は、とってもデリケート、繊細なものだ。
ことばを信じる度合は、ひとそれぞれで、まったく違う。

同じ地域から、同じような子どもが集まっていても、まったく異なるリアクションが出てくる。
「使っている言葉に対する、認識の違いがこうまで顕著だとは・・・」
という実感。
自分の認識の仕方は、おそらく世界唯一、自分だけのものだろう、という予感。これが、自立の第一歩か、とも思う。
個人の感想は、どうあがいても感想に過ぎず、推測にすぎず、人類普遍のものには成り得ない。

「ひとが言っている言葉は、いくら聞いても、まったくわかるものではない」

そのあまりにも当然なことを、子どもたちと、一つ一つ、確認していく作業。

このことのうえに、国語も、道徳も、成り立っていく。

ことばから、すべての推測を奪い切る、という単純な作業が、子どもにもっとも響いていく。

結果、悪口もだんだんと、フェードアウトしていくようです。

「これまでは、ことばに、感情がもっていかれていた」ことを子どもたちが、なんとなく、把握できていくからでしょう。

言い換えてみると、ことばに、余計な権力を与えない、ということになろうかと思いますネ。

ことばで相手を理解しようとするのが、もっとも困難である、という開き直り。

しかし、理解しよう、と思わないでも、まったく困らないほどに、すでに通じ合っている、ということ。

こういう一つ一つのことを、学級皆で確認しあっていくのが、面白い。
また、小学校という場に多くの子どもを集めている、ということの意味は、実はこのことなんでしょう。

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英霊が諭してくださること

わたしは、自分のことを、一人の普通の日本人だと思っている。
「いま日本が危ない」ということを聞くと、すぐに「日本と、そこに住む人たちを守りたい」とも思う。

日本、というのは国家である。
国家でもっとも大切なのは、人である。
その個人を、とことん大事にするために設けた組織が国家である。

人は、いろいろ、である。
その多様さを、その人の奥深い<自身の人格そのもの>を、その人の身体を、とことん、大事に考える、のである。


先日もまた、人を大事にする、というのはどんなことか、と考えながら神社へ行った。
近所にありましてね。
休日の、散歩コースにしています。

まずは正式に、一の鳥居をくぐり、すぐの参道の脇にある手水舎で身を清めようと思いまして、


「神社で手を洗うと、なんとなく気持ちがすっきりして、なんだかまるで、自分の汚れた心が洗われたようになる」


と嫁様に言うと、

「洗心って、書いてあるから、そんなふうに暗示を受けたんじゃない?」
と言う。

断じて、そんなことはあるまい。大和民族の男児たるわたしが、そんなに安易に洗脳されたり、暗示を受けたりするわけがないではないか。

境内へ行って、木で建てられた建物を見たり、石の彫刻をみたり、陽の当たる広々とした地面をみたり、落ち葉を見たり、いろいろとのんびり、する。

すると、やはり、当然のことながら、生身の人間の考えることなんて、たかがしれてる、と思うようになりますワネ。

これはおそらく、日本古来の神が、わたしに向かって何らかの働きかけをしてくださっているのでは、と思うくらい、明晰なメッセージだ。

その神社の片隅には、「〇〇一等兵の碑」というようなものがある。おそらく戦時中に建てられたのだろう。戦死された兵隊さんの、ご家族が建てたのではないかと思う。

そういう、英霊がわたしに向かって、

「きみ、浅い、浅い」

と、教えてくださっているような気もする。

「その子にとって、どうか、でね。大人にとって、どうかではなく。その子自身が、気持ちよく育つように、な」

と、どこかから、聞こえてくる。



ころんだから、立ちなさい、ではダメよ。
友達を叩いたから、やめなさい、だけではダメ。
分からないから、教えよう、ではない。
外に向いているから、正面を向かせる、ではない。

ああだから、こう、ではない。

ころんだように見えたけど、あなたのいう「ころんだ」ではない。
叩いたように見えたけど、大人のいう「たたいた」ではない。
分からないように見えたけど、あなたのいう「分からない」ではない。
外に向いているように見えるけど、大人のいう「外」ではない。
ああ、というように見えるけど、あなたの「ああ」ではない。
A、のように見えるけれども、大人が思うAではない。

だから、日本を守る、の前に、やることがある。
「あの国のせいで」という前に、そういいたくなる自分なのはなぜか?と
知ること、やることがある。
北朝鮮の将軍のせい、若い世代のせい、悪い奴らのせい。
〇〇のせい、としたくなる、言いたくなる。
そのことが良い悪いと反省する前に、なぜ、そうしたくなる心理なのかを。

「誰かのせい、としたせいで、オレぁ、死んだのやぜ」

そう、英霊が教えてくださっているわけだ。
ご先祖様たちが、間違えるな、と諭してくださっているのだよね。



ありがたい。

わたしはそうつぶやいて、立ち上がる。

わたしはふたたび、「洗心」の手水をつかって、身を清めたいと思う。

小さな、小さな、わたしが、広い、広い、広い道のほんの片隅で、『道が狭い!けしからん』と叫んでいる滑稽さ。



「守りたくなればなるほど、間違った道しか見えなくなってるということ」

これを、「国防教員の心得」といおう。

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「絶対そうだ、と言えるか」

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フランシスコ・ザビエルに向かって、ある一人の日本人が質問した。
「神がこの世をおつくりになられたのなら、なぜ私たちの発見が遅れたのでしょう」

つまり、大文字のGODが世界をつくったのなら、GODは日本もつくったはずだ、と。そのGODが日本を知らないはずがない。創造主なんだから・・・。
しかし、なぜわざわざヨーロッパから来られたあなたがたに伝えてもらうまで、日本人はGODの存在を知らなかったのか、という素朴な疑問です。

ザビエルはこの質問に窮したらしく、のちに

「わたしは神学校で修辞(レトリック)を習っていて本当に良かった。そうでなかったら、あのとき何も言えなかったろう。これから日本に来るつもりの宣教師は、わたしのように、修辞レトリック法を習わなければならない」

と、ローマカトリック教会に手紙を書いているそうであります。

(修辞というのは、悪い言葉で言うと、理屈をどうつけるか、ということですナ)

日本人はどうやら、大文字のGODを「絶対」であるとは考えにくい素養であるらしく、どうも物は物、人は人、と相対的に物事をとらえることが当たり前になっていて、なかなか「絶対」というものを理解することができない。
言い換えると、「絶対」というものを考えなくても済んだ、ということかもしれない。「絶対」というのは便利なものです。たとえば、人間の上に創造主を置いてみましょう。すると、それ以外の人間は全部、神の子であるわけですね。その結果、人々の間に平等感が生まれます。
日本人はこの便利な「絶対」を用いずに過ごしてこれたという点で、世界的に稀有な存在なのでしょう。


さて、この1年、子どもたちとあれこれと考えてきたなかで、「絶対そうだ、と言えるか」という視点がありました。

これは子どもたちの毎日の会話や発言のなかに、

「ぜったいそうだ!」

という言葉がたくさんあったことに、わたしがひっかかって、

「ぜったい、ってみんな言うけど、ぜったいって、どういうことなの?」

と、何度も問い返したことが発端でありました。


教室で、Aくんが消しゴムを投げた。
「Aが、俺を狙って投げてきよったんじゃ!」
「え?Bくん、キミをねらって?」
「ぜったいそうじゃ!」

絶対、そうじゃ!



2学期も終わりごろ、ふりかえってみると、そういえば
「絶対」という言葉が、なんとなく聞かれなくなってきたな、という気がします。

なんでだろうか。

その理由の一つは、授業だと思いますね。
毎日、授業で問いに向かっていると、Aだと思ったことがBだった、ということの連続を体験します。つまり、自信がなくなってきて、本当は分からんということを、骨身にしみて感じるようになるからだと思います。授業で学べば学ぶほど、やればやるほど、知らない、分からない、今日の学習問題もまた、ぼくの予想を裏切りそうだ、という感覚が増えていくからではないでしょうか。

はてな

情報モラルの研究から

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子どもたちが21世紀をたくましく生き抜くために、もっとも必要な資質能力は何だろうか。
わたしは、「情報活用リテラシー(能力)」だと考える。

子どもたちの、情報モラル、情報リテラシーなどの資質能力を向上させなければならない。
これは世の中が求めるとても大切なもので、この力がなければ到底、これからの国際競争に勝てる人材は、わが日本国からは生まれてこない。

そこで、ネットの世界には、本当にごくまれではあるが信用できない情報が紛れ込んでいることがある、という資料を見ながら、4年生なりに学習問題をたて、クラスごとに話し合い、学びあうことにした。

ネットには正しい情報もあれば、間違った情報や思い込みが紛れ込んでいる、という話はすでに世の中の大半の大人の常識になっている。

一方、子どもたちはどうだろう。ユーチューブを見たり、ホームページを見たり、ブログを見たりしたとき、そこに置いてある情報を、どう受け取っているのだろうか。

一応、大人の常識としては、すぐには信用しない、というのが当たり前のリテラシーであろう。
検索してなにか情報がヒットしたとしても、一応、自分の眉につばをつけて、信用してよいかどうか、自分が情報に対して酔ったようになっていないか確かめつつ情報をゲットすることになっている。少なくとも、大人は。

しかし、・・・小学生はどうなんだろうか。


ユーチューバーが、「この薬はとても元気が出る」と言ってたら、信用する?その薬を、ほしいなあ、と思う?

とクラスの子に聞いてみると、男子と女子とで、反応が分かれた。

男子の大半は「無料でくれるんならもらう」と、なんともすっきりした素直な反応である。
ところが、女子の多くは疑い深いのか、「口に入れるものはもらわない」とのこと。

「じゃあユーチューバーが、マツモトキヨシに売っている◎◎という薬が、すごい元気が出る、と言ってたら、信用するかな?」

男子の多くは、実際にその人にそういう体験があるんだったら、それなりに信用する、と。
女子は、べつにこれ以上、元気になる必要が無いため、そんな薬は要らない、と。

わたしとしては、

「たとえ、大好きなユーチューバーが言ったことだとしても、すべての情報は本当かどうか判断がすぐにはつかず、即断できないので、十分に自分自身でもよく調べ、よく検討して、納得してから結論を出す」

と、言ってほしかった。

そこで、さらに質問を変えて、

「じゃあ、スーパーの野菜コーナーの、アボガドがすっごく栄養が高くて、疲れが吹き飛ぶし、健康にいい、風邪もひかなくなる、お肌もきれいになると言ってたら、信用する?」

男子は、アボガドってきらい、と。美味しくないから要らない、と。
ところが女子の数人は、
「え、それ本当なの?」
と目をキラキラさせて、
「きれいになるなら、ほしいかも」
と言った。


うーん、何か焦点がずれる。

信用する、というときの、判断の根拠や程度を問題にしたいのだが・・・・

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そこで、さらに質問を変え、

「魚を食べると、頭が良くなる、とユーチューバーが言ってたら、信用する?」

子「うん。だって、本当にそう言ってたもん。お母さんが」
子「食べない。おいしくないから」
子「うそー。おいしいじゃん。お刺身なら食べる!」
子「さんまの焼いたやつなら、食べる!」

子どもたちが、うまく問題をとらえることができていない。
そこでしょうがなく、こんな事例を話した。
やせたいと思っている人が、やせるよ!と宣伝していた薬を買ったが、ちっとも痩せなかった、という話。
子「その人、やせる気がなかったんじゃない」
子「たぶん、お菓子とか食べてるよ。ないしょで」

・・・ぜんぜん、問題の焦点が合ってない。
子どもたちに、学習のポイントが伝わっていない!
どうやらこれまでの事例は良くなかったようなので、さらにこんな事例を。
ある食品を食べると、すっごく美容効果があり、がん予防にもなり、お通じもよくなる、と書いてあるホームページを見た人が、その食品を食べ過ぎて、自分の腸に詰まらせてしまった、という話。

身体によいと聞くと、食べ過ぎてしまうようになるのは、なんでだろうかな。

子「健康になりたいから」
子「これを食べていれば大丈夫、と思って、どんどんやりたくなったと思う」

そうそう。そうやって、どんどん気持ちとしては食べたくなるのは分かるけど、でもなんで、食べ過ぎちゃうまで、食べようとしてしまうんだろうか。

子「なんか、これさえあればすっごく元気になれるーって、やったー!って、思いすぎたんじゃない」

ようやく、焦点が定まってきた。
〜すぎる、という言葉がポイントか。

今、『これさえあれば元気になれる』って言ったけど、世の中に、これさえあれば、なんてものが、あるのかなあ。

子「いや、それだけあってもダメでしょ。夜は早く寝た方がいいし、歯も磨かないと」

じゃあ、世の中に、これさえあれば、というのは、無いと?

子「うん」

しかし、これさえあれば、というモノが、世の中にあってほしい、と思ってしまうのはなんでかなあ。

わたしがなおも食い下がると、

子「いろんなことを、あれもこれも、たくさんやらないと、と思うと、面倒だからじゃないの」

さらに食い下がって、

なんで面倒なんかなあ?

子「宿題と同じで、やんなきゃいけない、と思っているからなんじゃないの」



ここでほぼ、授業時間が終了・・・。

幾人かに、まとめを言わせると、

「なにかやらなきゃいけないと思うと、かんたんにホームページを信用してしまう」

と、ずいぶん簡潔な文を発表。

そこで、情報リテラシーの力をつけるには、まずは自分が「しなければ」と思っていることに気付くこと、ということになりました。



うーむ。情報リテラシーの授業をするには、ずいぶんと、発問をひねらなければならないですナ・・・。

金融を教える【財務省官僚を育てる教育】

.
わたしの教え子が、将来、財務省の官僚になる可能性がある。

したがって私は、文科省がこれから進めようとしている、

いわゆる 『金融教育』 を、きちんと進めていかねばならない。


「金銭の大切さ」

とか、

「計画的な使い方」

というところが、小学校の金融教育の内容だろうけど、


ところが、現代社会はさらにその先を行く。

下記をご覧あれ。


初のキリスト教仮想通貨が誕生 キリストコイン

キリスト教で初となる仮想通貨「キリストコイン」が発行されることになった。慈善活動や宗教的実践を通じて集めることができる。

どうした行為がどれほどのコインになるのかは現在のところ明らかではないが、聖書を読んだり、ボランティア活動、教会の行事に参加することで通貨を獲得できる。

教会では「人道活動を支えて、自身の跡を世界に残してください。仮想通貨に、自らの精神的生活に投資して、追加の利益を得て、十字架や寄付を通じて自身の教会を支えてください」と信者に呼びかける。

宗教に資本主義を組み込むことは、信者の立場からは疑わしい取り組みであるが、仮想通貨は基本的にだれでもアイデアを出し、発行することができることから、宗教が金融を取り込もうとすることは自然な流れであり、これからもこうした動きや取り組みが続くだろう。



仮想通貨や地域マネーが大流行する昨今、これらの金融教育は当然の流れだ。

ニューヨークもロンドンも北京も上海も、みんな金融に真剣だ。

この社会情勢のもと、日本だけ乗り遅れるわけにはいかない。

子どもたちが暮らしを良くするための地域通貨発行を考え、

教室内でシュミレーションする活動も、まもなく始まると思われる。



本当にねがう社会のデザインを、子ども自身が、考えていく。

それが、新しく始まる、『コミュニティ・デザイン教育』

そして、『通貨・デザイン教育』
だ。


以下、わたしの好きな名言(By Rob Curedale)です。
“Design is creativity with strategy.”
デザインとは、戦略をもった創造性だ。


日本には、未来を創造的に切り拓いてゆく、賢い戦略が必要なのではないでしょうか。


もしかしたら、まったく現代人が予想もしないような、
「通貨」に対するアイデアや、概念が生まれるかもしれない。

これらを規定していくのは、これから大人になる、子どもたち。

金融教育

バタフライ効果とエビフライ効果

.
NHKの「ピタゴラスイッチ」の、終わりかけの部分がテレビ画面に流れていて、

急に部屋に入ってきた息子が、

「あ、レコードがまわっとる」


↑ 途中のプロセスは全部、すっとばして、結果だけ見ると、こうなる。


最初と最後だけ見ると、どう思うかというと、

「ボールを入れたら、レコードが回った」



たしかに関連はあるはずなんだけど、

途中にある坂道が、あの角度だったから、とか

うまい具合に、ドミノが倒れてくれたから、とか

ひもの長さが、ちょうど木の板にあたって、板を倒すことができたから、とか

玉が転がりすぎないで、ちょうど穴に入って落ちてくれたから、とか

そういった、複数ある途中のプロセスには、目を向けず、

最初と最後だけをくっつけて、

「ボールを入れたら、レコードが回った」

と言い切ってしまうと、

なんだか急に、バタフライ効果のような、ゆらゆらした、めまいのような幻惑を感じることになりますナ。

いやいや、板とか、いっぱい倒れたからやで!!




バタフライ効果、というのは、ご存知のように、

「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」

というものであります。

ブレーズ・パスカルが『パンセ』に記述した、

「クレオパトラの鼻が低かったら、大地の全表面は変わっていただろう」

という格言も同じような発想に基づいたものと言えましょう。



すべからく、すべての物事は関連しあっているのは当たり前として、

Bすれば、Aになる。

という言い方は、ピタゴラスイッチの、最初と最後だけしか見ていない場合に

よく当てはまる。

こういうふうに、他の要素を抜きにして、とりあえず

分かりやすい要素だけを特に抜き出し、単純化して把握していこうとするのは、

シンプルを好む、人間の知恵の一つと言えましょう。



学校の長い廊下の端に、

「走るな!危険」

と書いた看板を立ててありまして・・・。

ずいぶん以前にお勤めでいらした先生の発案で、置かれたものです。

今年になって、新しくこの学校に来られた先生が、

「あそこは人通りも多いし、看板を外してもよいのではないでしょうか」

と職員会議で提案をしました。


ところが、昔から居る先生は、どう感じたかと言うと、

「あの看板があるから、子どもたちがあそこを走らないで歩くようになった。

効果が上がっているのだから、外さない方がいい」

でありました。


看板があると、子どもは廊下を歩くようになる。

Bすれば、Aになる。



本当にそうでしょうか。

見ているのは、ピタゴラスイッチ装置の、最初と最後だけ。

これを、ピタゴラ識(しき)と呼んでいます。

視野に入らない世界





子どもに、なんで廊下を走らないの?と聞くと、

高学年の女子は、こう言ってました。

「え?だって、疲れるから・・・」

看板があることを伝えると、

「え?そんな看板、ありましたっけ?・・・ああ、あそこのやつ!・・・あれ、そんなこと書いてあったっけ。忘れとったー。とりあえず、邪魔だからよけて歩いてるけど。何が書いてあるかなんて、ふだん見てないし」

これを、エビフライ効果、と呼びたい。

エビの身の大きさとは比較にならないほど、大きな天ぷら粉の衣(ころも)をつけて、実態よりもはるかに大きく見せることで、真実を見えなくさせる効果のこと、つまり、

事実が見えなくなることを、エビフライ効果、と呼んではどうか。




この場合の正しい語句の事例としては、

「バタフライ効果を信じたあげく、エビフライ効果に陥る」

というものがあります。どうぞ、ふだんから日常生活の中で、

〇バタフライ効果とエビフライ効果

セットでお使いください。

「努力と競争」に変わる言葉

.
暇なので、BOOKOFFに行ってきた。

すると、懐かしい漫画がたくさんある。

「巨人の星」や「あしたのジョー」。

「キャプテン」に「ドカベン」。

だれが読むのかな、と思っていたら、やはり手に取るのは大人たち。

懐かしいのかもね。




今の子たちにとっては、難しすぎる。

ハードルが高い。

それも、心理的なハードルが。



スポーツ根性のストーリー。

今の小中学生からしたら、驚愕する世界だろう。

「こんなしんどい世界は、見たことが無い」と。

どこか、特別に遠い、非日常の世界だろう、と。




ところが、まだ我々が子どものころは、

根性と努力で難敵に立ち向かっていく世界が、

まだまだ自分たちの身近なストーリーだった。

「努力すれば、必ず・・・!」 というのが、生きていた。




週刊少年ジャンプの、発行部数が過去最低らしい。

世の流れ、ということか。

すでに、「仲間、努力、勝利」 という言葉自体に、子どもたちの心がフィットしていない。



わたしたちは、つくるしかない。

競争、努力、根性とはべつの、変化した(進化した)、あたらしい価値観の言葉を。


ジャンプ2

将来の夢と目標について

.
目標を本当に立てられるくらい、しっかりしてる人は、

「目標とは、達成するのが目的ではない」ということが、

きちんと分かってる人のことだと思う。


達成できたら、素晴らしい。
大喜びすると、もっと気分がいい。
人生の中の、とっておきの楽しみだ。
しかし、達成するのが目的ではない。


学校で、読書目標というものが、決められている。

一人、何冊!
クラスで何冊!
達成しよう!
・・・と、呼びかけられる。


そこで、ある子は、

1年生用の絵本を30秒くらいでナナメ読みして、

「はいっ!!読んだ!!マルしよっ!!」

と、チェック表にマルしてた。


まあ、確かに本を読んだのは事実だけどナ・・・。


読書目標って、何だろう。



そもそも、目標って、何だ・・・。



これと同じ「匂い」のするのが、

将来の夢、というやつ。

夢は、「達成する」のが、目的ではない。



満たされない、という思いを、

「目標」にすがることで、満たそうとしていないか。

それが、明確でないとネ。

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【新語】ヘイト脳とは

いま、教室で、子どもたちとまったりと、卒業前の、なんともいえない幸福なひと時を過ごしている。

「なんで、けんかするのだろうか、なんで、つらくなるんだろうか、なんで不幸になるんだろうか」

この1年を振り返りながら、何度も何度も、こういったことを子どもたちと考えている。

すると、人を憎む、とか、嫌う、とか、攻撃するとかの、【自分以外のどこかへ不安をぶつけようとする心理】が、どうにも不思議に思えてくることがある。

最近。
それは、もしかしたら、特別な心理状態によるもの、というよりも、ある種の「脳の働き」というべき、ごくふつうの、だれにでもある、普遍的なもののような気がしてきていた。


そして、本日未明。

まだほの暗い、強風のふきすさぶ夜明けの淡い光の中で、わたしの脳は、新しい言葉を生み出した。

それが、

「ヘイト脳(強迫ヘイト症候群)」

という言葉だ!!




「ヘイト脳」

これは、自分の身に感じられる『つらさ』を持った瞬間、つらさから逃れようとして慌てて、ラグビーのように他者へ向けて『つらさ』をパスしようとする脳の働き。別名、「保身脳」とも。

自身の持つ不安が高じ、自身の中で強迫的に他者をヘイトせずにいられなくなる心理。

これ、だれにでもある。

ヘイトするのは、仕方がない。
子どもが泣くのと同じだ。
大人だって、泣きたくなることがある。

大人は、ワンワンなくことができない。
だから、ヘイトしようとする。

だれだって、そうなる。


それを、

「ヘイト」は禁止!

なんていうから、おかしくなる。



そうではない。

ヘイトとは、泣きながら、苦しみながら、するものだ。
狂おしいほどの自閉的、孤独感、閉塞感があるからこそ、ヘイトを叫ぶのだ。

ヘイトするものの、心中の苦しみを、

「助けて!」という、慈悲を求めて止まない心を、

われわれは、

ヘイトの姿勢の中に、打ち震える声の響きに、見つけようとしなければ。



幸福になることは単純だ。
みんなで、ヘイトのからくりを理解することだ。

人間は、理解すれば、ヘイトから「さよなら」するよ。
大丈夫。案外、賢いもの。

オオカミの牙

新しい概念について

.
この1年、ブログでぼやきつつ、新しい言葉を考案してきた。

一字一句すべて同じ言葉、というのは、だれも使っていないはずだ。

なぜなら、一応、「こういうことって、世の中ではどう表現するんだろうかな?」と迷って、検索したからネ。

しかし、検索ではひっかからなかった。

たぶん、わたしがもっと的を射た適切な言葉を思いつくことができなかったからだと思うけど・・・。

おそらく、同じようなこと(概念)を、だれか考えているはずで、わたしがその人の使う言葉を知らないだけだ。




だから、以下、くるしまぎれの造語だらけとなった。

もしご存知でしたら、世の中一般的にはこう言うんだよ、ということを教えていただけると幸いです。

一応、下記のようにまとめてみました。

情報、求む、です。

よろしくお願い致します。




『クエスチョン型発問』から『アビリティ型発問』へ。
(よさの関連を問う)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55573967.html

支え目線のしつけ』
(困っている子がいる⇒その子をたすけるというしつけについて)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55572292.html

無人格反応
(突発的感覚的な思考なしの会話のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55572252.html

体罰という発想がない=ヘルフリーズ発想
(体罰、などという行動様式そのものの発想がないということ)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55571835.html

相手を尊重する感じ、自分を尊重する感じ
(そのまま)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55570679.html

Offensive worry
(不安から発生する他人への文句のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55566598.html

ブレイミング・アディション(非難嗜癖)
(だれかを責めたくなる気持ちのこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55552948.html

コントロールルック
(友達を取り締まる目線のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55545713.html

同格教育
(人間を許すとか許さないとかがありえないということ)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55543283.html

人間の価値依存癖(Value-dependent addiction*バリューディペンデント・アディクション)
(人間が「価値」に左右されやすいこと)

ビフォーシェイピング
(ひとの行動の前にあるもの)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55539389.html

アンネセサリーインサイド
(他人の回答が無用である自分の内面のこと)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55535784.html

主体性のあるマンネリズム
(飽きずに、ずっとやっていたくなること)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55532999.html

superior addiction /スピアリア・アディクション
(「なにものかでいなければ」という強迫)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55532509.html

認知の逆説
(ガンだと見なければ、ガンにならないということ)
http://arigato3939.publog.jp/archives/55507330.html

もし、このような概念に関する情報をお寄せいただきましたらば、本当に感謝感激雨あられ・・・、です。


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「なぜするか」と問うか、「それをする良さは何か」と問うか

.来年度の児童会の活動を、勤務校で見直すことになった。
PTAの会議で、

〇子どもたちが、アルミ缶を集めるのは意味があるのですか
〇子どもたちが、ペットボトルの蓋を集めるのは意味があるのですか


などと、父兄から意見が出されたからである。

そのご父兄のおっしゃるには、子どもたちが児童会活動に役立てるために自発的に行われているものかどうか、が大事で、そうでないならやめたほうがいい、という意見であった。

職員会議で、それもそうだ、ということになった。
ただし、アルミ缶は引き取り業者もいてお金に変わるし、そのお金で児童会の画用紙を買ったり、1年生にプレゼントを渡したりしているので、有効活用している、という感じはある。

ペットボトルの蓋を集めているのはもう6年以上続いているが、要するに、きれいなプラスチックなのに捨てるのはもったいない、ということであった。
再利用できるものは、協力していく。そのことが地球環境保全につながるのでは、という意味らしい。

ところが、それが疑問視され、子どもたちがただ惰性で、言われたからなんとなく集める、では意味がないだろう、ということで、今回のように、会議の俎上にのせられた、というわけ。

そこで、子どもたちにも聞いてみよう、ということになった。


わたしは、委員会の子どもたちを集めて、なんと問うていけばいいだろうか、と数日悩んだ。

それは、

「なぜエコキャップを集めるのか」

と、子どもたちに問うたなら、

「資源がもったいないから、再利用するため」

という答えしか、出てこないと思われたからだ。

もちろん間違いではないが、それは子どもたちから出てきたというよりは、どこか大人の言説から出てきたような文章である。つまり、子どもたちは、まるでテストに答えるようにして、頭の中身をスキャンし、おそらく大人目線からみて、正解に近いであろう、という文章を、口にするのではないかと思われた。

そこで、問い方を変えた。

「エコキャップを集めることの良さは、なんだろうか」

すると、もちろん資源の有効利用、という言葉は出てきたが、それ以外にも、

〇もしかすると落ちているものも、だれかが拾うかもしれない。
〇そしたら、住んでいる場所がきれいになる。
〇ふたを集めるから、中身が入ったまま、捨てる人がいなくなる。
〇ふたを外す時に、ペットボトルの中身も洗いたくなる。
〇1年生でも軽いから持ってこれる。
〇アルミ缶とちがってお酒のにおいがしないから、1年生でも持ってこれる。
・・・

などと、意見がバンバンと出てきた。

「なぜエコキャップを集めるのか」 → 正解を出そうとしてしまう
「エコキャップを集めることの良さは、なんだろうか」 →さまざまな面から見ようとする

これ、大事だと思うんだよね。
つまり、理由をきくという、『クエスチョン型発問』から脱却する。
そして、よさの関連を問う、『アビリティ型発問』に変換していく。

21世紀は、こうでなくちゃ。
『クエスチョン型発問』から『アビリティ型発問』へ。

授業の発問にも使えるし、人間の活動のありとあらゆる面で、

「質問の中身」

を変えていきそうだと思う。


このことに気付いたので、さっそく、授業に応用してみた。
今、社会の歴史で、最後のところをやってる。


つい先日まで、授業でこう発問しようと思っていた。

『日本が国際交流や国際協力をしているのはなぜか』

これだと、おそらく教科書的な回答であるところの、

「文化交流ができて豊かになる」とか「困っている国を助けることができる」

と、子どもたちは答えるであろう。

『日本が国際交流や国際協力をしているのはなぜか』
これは、クエスチョン型発問である。

これを、アビリティ型発問に、変換してみよう。
すると、こうなる。

『日本が国際交流や国際協力をする良さはなにか』
これが、アビリティ型発問である。

この発問だと、どんな反応が出てくるか、楽しみである。
3学期の社会の授業が、待ち遠しい。

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「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

.
「○○くんが、ちゃんとやっていません」

この言葉の、なんとも微妙な、複雑な、なんだろう、この心理って。
○ちゃんとやらなきゃいけないのに、やっていない。
○ちゃんとやらないで、一人だけ楽をしている。ずるい。
○Tくんのせいで、みんなが迷惑する。
○わたしが注意しても、ちっとも聞いてくれない。もう、Tくんったら。
○なんでわたしが、「やめなよ、ちゃんとやりなよ」って言ってるのに、Tくんはわたしのいうとおりにしないのだろう。
○よし、こうなったら、先生に言っちゃおう。
○Tくんは、やんちゃ坊主で、悪者。
○わたしたちは、おりこうさん。

まあ、ふくざつですよね・・・。

ところで、男子で、こうやって女子に騒がれると、本能的に、「しめた」と思う子も多いのであります。

女子に、キャーキャー言われるの、本来、男子は好きなんだよね。


男子は、騒がれるのが好き。
女子は、騒ぐのが好き。


つまり、この場合、男子も女子も、両方とも、自分の満足することをしている、というわけ。
無意識なのか??

合法的に、授業の勉強内容や課題から視線をそらして、ちがう世界で「あそべる」。

まんまと先生がこのワナにはまって、男子を叱ってくれたり、おまけにヒートアップして、いつもの先生とはちがった興奮した顔を見られたら、それはそれで見ものです。月9のドラマより、オモチロイ。



それで、わたし、そういう場合、大体3通りくらい、状況によって変えて対応する。


「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

1)あらまー(苦笑)

一番シンプルなの、これ。

その後、

モノや道具を持ちながら、サッと切り替えるようにして、

「見ててね」


というだけで、男子も女子も、すぐにこっち見るから、もうそれだけで、叱る必要もなく授業に移行できる。

黒板にすぐになにかを書いて、

「これ」

と指さすだけで、状況がすぐに整うときもある。

叱らず済むね。




「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

2)「あ、困ってる??えっと、今、だれが一番、困ってるのかな~」


というときもある。

「一番困っている人、なんで困ってるのか、お話、してほしいな。できる?」

という。

頭のよい女子が立ち上がって、

「えっと、Tくんが、ほんとは字を書かなきゃなのに、勝手に絵をかいてるから」

「あそう。それであなたが困っているの?」

「えっと、お隣さんと見せ合う時に、Tくんが字を書いてないから・・・(話し合いが進まないから)」

「あそう。じゃ、私が困るから、Tくん字を書いてねって、やさしく伝えてみたら?」

わたしがちっともTくんを叱らないので、女子が困惑する。



「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

3)「気になるの?なんで気になる?なにか、Tくんのことが心配?」

「うん」

「あそう。やさしいねえ。Tくん、よかったねえ。やさしい子がまわりにたくさんいて」

「・・・」

「Tくん、ここ見てね。じゃあ、クラス全員でここ読もう。さんはい」




つまるところ、まったく、関与いたしません。



こういう対応を続けていると、そのうちに、先生はちっとも叱らないのだ、と思うようになってくれる。

すると、不思議なことに、

「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

が、なくなっちまうのネ。


「これ、やらなきゃだめじゃん!」

と言って、男子を叱る女子が居なくなってしまいます。


○せんせー、Tくんが、体操服しまっていません。
○せんせー、Tくんが、ごはんこぼしました。
○せんせー、Tくんが、まだじゆうちょうに絵かいてます。
○せんせー、Tくんが、先生のギター勝手にさわってます。
○せんせー、Tくんが、わたしのランドセル叩いてきます。
○せんせー、Tくんが、耳元で、大きな声でさけびます。
○せんせー、Tくんが、たいいくずわり、していません。
○せんせー、Tくんが、じゅんばん、ぬかしました。

これすべて、

「あそう」


で済みますね。基本的に。

そんで、

「えっと、それで・・・。今、だれが一番、困ってるの?」


このときに。



教室をつつみこむ、なんとも不思議な空気感が、たまりませんな~。


「じゃ、困っている子を、たすけてあげようよ」

「・・・」

------------------

やっていない⇒叱られる

が、行われない。

やっていない⇒困っている子がいる⇒その子をたすける

というふうに、進む。

叱らない子育ては、助ける子育て。

これを、『支え目線のしつけ』、という。

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わざわざ言わなくてもいいこと

.
あるブログで、おもしろい記事を見つけた。
学校で、わたしが常々、思っていることを書いてくれている気がした。

【わざわざ言わなくてもいいこと・ワタナベ薫】
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いくつか、事例があるので、楽しくてならない。

以前、似たようなことを、みんなで考えたことがある。


【発問】

だれかが、「これ、好き!」と言っているときに、「わたしはそれ、キライ」と言う人がいます。

どう思いますか?


この筆者のワタナベ薫さん、という方は、

「そんなことはいちいち、言うものじゃない」


と言っている。

子どもたちは、最初、

「そんなことは分かるけど、でも、言いたくなる」

と。


なるほど。

そんなことは、言われなくても分かっている、と。

だけど、なぜか言いたくなる。

で、言ってしまう。なにが問題なのか。


ある子が言った。
〇場の空気がまずくなる。

〇せっかく「好き」と言った人と、気持ちが通わなくなる。

「えー、わたしはキライだな」

と言った瞬間、気持ちが通わなくなるんだって。

そういうこと、ある?


しばらく考えて、

「うん、うん、そうかも・・・」という感じ。



気持ちが通わなくなる、という気がする人?

(学級の、ほぼ全員が手を挙げる)



じゃあ、なんで、言いたくなっちゃうんだろう。

「わたしも言いたいから」

「自分のことを、言いたくなるから」




ここが不思議。

Aさんが、「好きだ!」と自分の気持ちを表明した。

ついで、

Bさんも、「きらいだ!」と自分の気持ちを表明した。



どちらも、自分の気持ちをただ単に表明しただけ。

なのに、どこか違う。



Bさんの発言は、なんだかその場の空気を変えてしまう。

なにかしら、くいちがいのようなものが、違和感のようなものが、その場に残る。

なんだろう、その感じ・・・。


実は、Aさんの会話が、まだ終わっていないのだ。

Aさんは、自分の気持ちが十分に伝わり切っていないうちに、Bさんの会話が始まったから、それが不完全燃焼の理由なのだろう。

Aさんの気持ちが、十分にBさんに伝わったうえでなら、Bさんの

「わたしはキライやなー」

というセリフも、まったく違和感がなくなる。


ああ、そうなん?

Bさん、なんでキライなんやろ。

へえへえ、ふんふん。ああ、そう。


お互いの好みを言い合うことが、おしゃべりの楽しさにもつながる。


だから、ワタナベ薫さんが、「そんなことは言わなくていい」というのは、「まだ十分に気持ちが伝わらないうちは、まだ言わなくていいし、最初の人の気持ちをくんであげよう。言いたいなら、その後で言おう」ということなんだろう。決して、条件反射のようにならずに。あたかも、言わずにおれないような、切迫したような私の気持ちの表明、衝動的な表明したい気分におぼれることなく・・・。人生、そんなに急いでどうする。

Aさん 「わたし、これ好き!」

これに、感覚的な条件反射をしてしまう人が多い。

まるで、ベルが鳴ったらよだれがでてくる犬のように。

Aさんの言葉の余韻が、消えるか消えないうちに、

「えっと、えっと、ワタシの好みで言うと・・・」と言いたくなってしまう。

ワタナベさんは、このことを言わんとしているのだろう、と思う。


本当は、なんで人間は、こんなに急速な、まるで反射的な会話をするようになったのだろう、ということ。相手の気持ちを十分に受け取らないうちに・・・。

こんなのは、本当の会話じゃあ、ない。

ワタナベさんは、そこまで言いたいんじゃないかな。


「先生、ギター上手だよね」

と子どもが言う。


「いやあ、下手な方だよ」

と言ってしまってから、

(あ、今のは条件反射だよな)

と思う。

こういう脊髄反射を、脳の表面での突発的感覚的な思考なしの会話、という意味で、

『無人格反応』という。


つぎに、子どもが言いたかったのは、なんだろうか。

本当に、伝えたかったのは、どんな気持ちなんだろうか。

それを考える前に、相手の発言をバシッと、体育館の床に叩き落とすような感じで、

バレーボールのアタックを決めるような感じで、

「いや、下手だよ」

と言ってしまう。

下手だよ、と言う先生に、

「ゆずの〇〇という曲を弾いて」

とは、頼みづらいではないか。


「ありがとう」

と先生が微笑んで返してくれたら、「ねえ先生、ゆずの・・・」と、切りだそうとしたのかもしれないのに。

こんな下手くそな会話ばかりしているのかも。

【いいね!】体罰を無くすための講義~日体大~

.
日体大が、体罰をなくすための本気の講義を行った。

遺族からの話を聞きながら、涙を流す受講生たち。

これで日体大出身者を将来の加害者にさせないことができるかもしれない。

わたしはこの取り組みを評価する。

しかし、たった一つ、忘れてはいけないことがある。

これを忘れたら、この講義のすべての意味がなくなる。

それは、

「なんのためにスポーツをするのか」

ということ。


良い記録を出すことが、目的ではない。

大会で優勝することが、目的ではない。

しかし、多くの指導者が、これをいつの間にか、目的化してしまう。

大事なのは、人間がどうして、手段をいつの間にか目的にすりかえて錯覚してしまうのか、という人間の心理だ。

ここを解明しないことには、いくら遺族の話に涙を流したとしても、意味は無い。



多くの指導者が、大会のために練習している、と思っている。

だから、練習のメニューやら方法やら、コーチングだとか、ミーティングだとか、なんだかんだとその他の物が全部、「必要だ」と思い込んでいく。

間違っていることの自覚がないから、「方法」に溺れてしまうのだが、本人は「良い」と思っているし、「方法」に耽溺していること自体で満足しているから、なにも省みることがない。

「〇〇が必要だ!」

と叫ぶ指導者は、すでに、大会で優勝することが目的になってしまっている。

そこには、すでに小さな「体罰」の芽が含まれている。



強く思い、強くねがって、がんばってがんばって、とやっている人ほど、目的が見えなくなるし、手段しか目に入らなくなる。だから、コワイ。

体罰の芽は、ない人には無いけど、ある人にはある。

ある人が、一生懸命に「無くそう」としても、それは無くならない。

社会に根深く存在しているのだから、だれも逃れようがない。

「体罰のない」社会であれば、「体罰の無い」学校であれば、体罰の無い人が育つ。

体罰を禁止し、体罰をやめよう、と頑張るだけの学校には、まだまだ、体罰はずーっとありつづける。




日体大が、本気で「体罰をなくす」という。

わたしはその「本気で」というフレーズに、心が動く。

しかし、ただ頑張るだけ、被害に思いを致すだけではダメだ。

「体罰が無い」という社会、スポーツを、とことんまで考えないと、ダメだ。

具体的に、スポーツに関わる人間すべてが、一点の曇りも無く、明るく生きられるようにならなければだめだ。
そして、それはあまりにも簡単なことで、これを難しい、と言う人がいるから、体罰は無くならない。

「人間らしさ、人間としての・・・」

(体罰なんて、なくならないよ、という人。どうぞ、そう思っていてください。・・・そう、本気じゃないのネ?)


体罰をなくす、のではない。
体罰のない社会、体罰の無い人間、なのだ。

概念がちがう。
「体罰をなくす」は、努力だ。
「体罰がない」は、そのまま、だ。

努力の必要が無い。
最初から、努力をしなくても、身についている。
あるいは、余計な「体罰発想」が、もともと無い状態。

体罰、などという行動様式そのものの発想がない。
だから、起こりえない。人をなぐる、蹴る、という行動の発想すら、存在しない。

これを、けっして起こりえない、ということから、『ヘルフリーズ発想』という。


叱らないでもいいですか、という、このブログの。
一番元に通じる記事を、ひさしぶりに見た。

P1160999

コミュニケーションの力を育む授業~普通名詞でなんという~

.
コミュニケーションの力とは、いったい何か。
何をさして、コミュニケーション、と言っているのか。

ひと言でいうと、「ひとを尊重する」ということ。
それが、できるかどうか、だと思う。

「尊重」という言葉。
この言葉は子どもたちに、響く。

「尊重するって、むずかしい言葉だけど、みんなはどんな感じで思ってる?」

大事にする、大切にする、ぜったいに邪魔をしない、きいてあげること・・・
子どもたちは自由にいろいろと、そこからイメージをひろげる。


「当たり前のこと。ふつうのこと」

こんな意見まで、出てくる。

なるほど。

ひととして、ひとを尊重するのは、当たり前か。
そうだよね、自分を大事にするっていうことも、含まれるもの・・・。

kids_gokko_asobi

話すこと、聴くこと、伝えること、書くこと、読むこと。
コミュニケーションというと、このような具体的な力もあるだろう。
しかし、もっとも根幹にあるのは、この、

「相手を尊重する感じ、自分を尊重する感じ」

なんだと思う。

しかし、このことを示す『言い方』が、ない。
「共感」もいいけど、それより以前のもの。「共感」よりも、前にくるもの。
「信頼」もいいけど、それより絶対的に無条件で無くならず、たしかにあるもの。
「自尊」もいいけど、それよりももっと普遍的で他者を含む、あまねく広がりを感じさせるもの。
「愛」という言葉は、もう手垢でマックロ。残念だけど、使えない言葉になっちゃったし・・・。

日本語で、いい言葉が見つからない。
おそらく、一般名称がないのだろう。今ある普通名詞のなかに、いちばんしっくりくる言葉が、見つからない。


これは、日本人にとってとても不幸なことで、言葉が人間の基本的な思考の枠を決めていくのだから、当然、普通名詞があるべきだろう、と思う。

いったい、どういえばよいのだろうか。
「相手を尊重する感じ、自分を尊重する感じ」

これが自分の気持ちの中に、そしてコミュニティの中に、充満してくることの幸せを知ったら、人間誰しも、楽しくて仕方がないことだろうと思う。

言葉を、みつけたい。
すでにあるのであれば、知りたい、と切に思う。

(あるいは、つくる、べきなのだろうか?)

先生、椅子の高さが・・・

.
1年生や2年生、低学年を担当したことの多い先生は、さすがだな、と思うことが多い。

だいたい、言葉数が少ないし、話すことに要領を得ないことが多いから、先生があれこれと気を回して、子どもの状態をキャッチしようとする。すなわち、アンテナがむちゃくちゃ高い。

すると、

「先生、おなかいたい」

というたった8文字に、おそらく文章化すると8000字くらいの内容が詰まっていることを見抜くわけ。

さすがだな、と思う。


先日、私のクラス、

「先生、椅子の高さを変えてほしい」

と言ってきた子がいた。

で、椅子の高さを変えてあげました。

すると、

「おお、よくなった~」

といって喜んでる。

これ、高さを変えるの、わざわざ子どもの見ている前で、やってあげる。

工具をもち、眼鏡レンチをまわして、ボルトとナットを外して、このくらいの高さかなあ~、とか言いながら、子どもとしゃべりながら、あれこれと時間をかけて、やってあげる。

これ、子どもが見ていない時にサッとやってしまっては、ダメですよ。
かならず、その当人が見ている前、で当人と気軽におしゃべりしながらでないと。

先生と、なにか話したくて、そう言ってきていることが多いから。
そうやってあれこれやっているときに、

「どうよ、〇〇くん、先週サッカーの大会があったんだって?」

なーんて、話をする。それをしながら、レンチをまわしたり、椅子をひっくり返したり、いろいろとやるわけ。
そうすると、いっしょに膝ついて、ナットをくるくる指の先でさわりながら、

「それがさー、キャプテンに選ばれちゃってさー」

なんて、報告してくれるんす。

「でも、キャプテンだと〇〇やらなきゃいけなくてさー・・・」

なーんて。

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こういうこと、低学年の担任をやることで、感性が磨かれてくると思う。
サインなんだ、ということ。子どもは、常に、なにかしらサインを出すものです。

で、なにかが、不安だ、ということが多い。

あるいは、プレッシャーを感じている。

または、なにか、他の人から「言われた」か。




そういう場合、だれがなにを言ってきたか、プレッシャーをかけたのはだれか、そこまで聞く。

すると、実はいちばん不安に苛まされているのは、大体はその当人ではなくて、

「他人に対して細かな文句を云ってくる友だち」

の方である場合が多い。

細かな文句を他人に言う子ほど、なにかしらの不安にかられていたり、びくびくしていたりする。

これを、不安による他人への文句、つまり攻撃的な心配、『Offensive worry』(オフェンシブ・ウォーリー)という。

その友達を見つけ出して、様子を見、

「大丈夫」
「安心してね」

とメッセージをおくるまでが、学校教師の一つの仕事です。

「いじめ防止対策推進法」の件

.
いじめをなくすために、何が大事か。

一番は、「ひと」に最大の価値をおいた学級をつくること。

実は、それ以外にはなにも無い。

要するに、心から「仲良い」お互いであれば、「いじめ」は解消する。



しかし、文科省は緊急対応を呼びかけている。

「いじめ防止対策推進法」がそれだ。

ここの総則(第四条)に、「児童等は、いじめを行ってはならない」と文言が盛り込まれた。

また、第二十五条には、
第二十五条 校長及び教員は、当該学校に在籍する児童等がいじめを行っている場合であって教育上必要があると認めるときは、学校教育法第十一条の規定に基づき、適切に、当該児童等に対して懲戒を加えるものとする。
とされた。

禁止すれば、いじめはなくなる。
取り締まれば、いじめはなくなる。
懲戒を加えれば、いじめはなくなる。



・・・ということになっている、というのが現状だ。




ところが、現場の感覚はすこしちがう。

仲良くなれば、
自分について考えられる子に育てば、
相手について考えられる子に育てば、
お互いの人間の関係をきちんと考える機会が与えられれば、
いじめはなくなる、という感覚だ。


取り締まっても、いじめはなくならない。
懲戒を加えても、いじめはなくならない。

かならず、ぶりかえす。


学校が、大人が、最低限、身につけなければいけない教養は、
「人間について知る、自分について、知る」 という姿と行動だ。
大人がそういう毎日を生きていることが、子どもに影響を与えていくのは当然。
そうでなければ、いじめはなくならない。



取り締まることこそだ大切な仕事だ、という気分でいっぱいになった大人の中では、
友達を取り締まる目線で生きる子が育つ。

友達を取り締まる目線のことを、『コントロールルック』という。


「おまえ、ボールペン持ってきていいのかよ!」
「おまえ、ノートにこんなことしていいのかよ!」
「おまえ、こんな点数でいいのかよ!」


けっこう、成績の良い子がいじめる側になることって、あるんだよね。
むしろ、そういうケースが増えている感じがする。

大人の姿を真似た、ミニ大人のような子どもが、増えていく。
友達を取り締まる目線をもつ子が、「いじめ」の誘惑に勝てるだろうか。
相手を責めることの誘惑に、勝てない子もいそうだ、と思う。
相手を責めた瞬間に、思考停止するからね。
(自分について考えようとする視点を無くしてしまう)


友達を取り締まる目線をもった子が、いちばん寂しい。
いちばん、必死になって、自分を護ろうとしている。
自分には決して焦点をあてないで、守ろうとする。
心を開くのも、時間がかかる。
最終的には、クラスの全員で、彼の成長を見守っていくしかない。


こういった子どもの心の動きには、焦点が当たりにくい。
いじめ対策基本法の、最初のところに、こういう子どもの心について、書いていかないのは、「甘い」。

(基本理念)
第三条 いじめの防止等のための対策は、いじめが全ての児童等に関係する問題であることに鑑み、児童等が安心して学習その他の活動に取り組むことができるよう、学校の内外を問わずいじめが行われなくなるようにすることを旨として行われなければならない。


法律の主旨にもとづけば、いじめが行われなくなるように・・・、という部分が、中心になっていくはず。
だとすれば、
自分とはなにか、劣等感はどうか、どんな動機で生きようとしているか、嫉妬はどうか、責める自分かどうかなど・・・、ここに焦点をあてていくこと。
そこを授業化する道徳を、まずもってわれわれ教師は考えて実行していくしかない。

教師がすすめていく急所を外さないこと。
対策、対応、という言葉で追われているのでは、まるでダメだ。

いじめは、後手後手にまわるのでは、ダメだ。
命に関わることだ。

責める、ということ。
責めることを当然とする自分の常識。
責めることを「したくなる」自分の心や気持ち。
ここに焦点を当てると、「いじめの問題」は、氷が溶けるように、解消していく。

だれかを責めたくなる気持ちを、『ブレイミング・アディション(非難嗜癖)』という。
『コントロールルック』による、『ブレイミングアディション』に気付くことのできる授業が、道徳の授業の肝要だ。

氷

Aくんが学校に来るのは、なぜか

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Aくんが学校に来るのは、なぜか、と考えたことがある。

彼にとって、学校とはうるさい先生があれこれと指示命令をし、座る場所まで強要される、おそろしく居心地の悪い場所である。

しかしそれでも、彼は学校に来る。

Aくんは、他の子をつめでひっかいたり、顔をパンチしたりするので、担任の先生から目の敵(かたき)にされていた。
Aくんが教室の一番前の席で、先生ににらまれながら、怒られているところを、私は何度か目撃した。

Aくんに、学校へ行く価値を教えたから、彼は学校に来ているのではない。
彼は、学校がきらいだ、と明言したことがある。
来たくない、と言ったことも、もちろん何度だって、ある。

しかし、彼はめげずに学校へ来ている。




わたしはAくんの担任ではないけれど、Aくんのことで何度も相談を受けたから、Aくんがちっとも折れずに、ちっとも暗くならずに、学校へくることは知っていた。だから、彼がちゃんと学校へ通ってくることに、なんともいえない彼自身の力を感じていた。

ひとつ言えるのは、

〇学校へくると算数ができるようになるよ
〇学校へくるとお友達ができるよ
〇学校へ来ると楽しいドッジボールができるよ
〇学校へくるといいことがあるよ


というような、学校へ来ることの価値を教わったから、来ているのではない、ということ。
彼は、そんな屁のような(押し付けられた)価値を知って学校へ来ているのでは、毛頭ない。

ではなぜ、一見、彼にとっては価値のなさそうに思える学校へ、彼は毎日通ってくるのだろう。


三年寝太郎が、地元に巨大な用水路をつくるために目の前の地面を掘り始めた時、最初、だれも手伝おうとしなかった。大人はだれも、そのことに「価値」を認めようとしなかったからだ。
ところが、子どもたちは手伝う。
用水路とは何か、その価値とはなにか、と子どもは問おうとしないからだろう。

三年寝太郎と子どもたちが、用水路堀りを毎日やるうちに、大人の中にも、そこに参加する人が現れてくる。
日頃あまり、「夢」とか、「価値」とか、「意味」とか、「意義」などを語ろうとしない人たちから、だんだんと参加し始める。

そこが、人間の不思議なところ。



用水路が1割ほどできあがり、堤が目に見えて分かるようになると、それを「意義づけ」る賢い大人がようやく表れる。この用水路づくりには意味がある、と認めるのだ。
そうなってから初めて、参加し始める人たちもいる。


この話から分かるのは、人間は「価値」にとらわれつづける、ということだ。
社会が価値を認める、ということに、われわれ大人はとても敏感になるし、そのことに依存する。


このことを、「人間の価値依存癖(Value-dependent addiction*バリューディペンデント・アディクション)とよぶ。


Aくんが学校をどう評価していても、彼は学校へ来たいのだ。
あるいは、学校へ来たくなくても、毎朝、登校することを選択しているのだ。

そこで、大人が震えながら、なにかを恐れながら、

「学校には価値がある!!」

と叫ばずにいられないこと自体が、なにか病的なのだろう、と思う。

学校の価値を語らずとも、
価値があるかどうかを問わなくても、
Aくんが学校へくることを喜び、大人はそこでもっとも人間らしくふるまいながら、Aくんと共にすごす、ということだろう。なにしろ、われわれは、生きていること自体がヨロコビであるのだから。

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『指導死』という言葉

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『指導死』という言葉を聴いた。

指導し、責めて殺す、ということだ。

子どもは、

「おまえのせいだ」

と言われ、何も言えなくなって、死をえらぶ。

「おまえのせい」

とは言っていないにしても、子どもはそう受け取っている。

おまえのせいだ、と言われて、ではどうしたらいいのか、子どもは混乱したまま死を選ぶ。

そこに「指導」とよばれる、「正しいことへのいざない」が隠されているから、初めてこの言葉を聴いた者に、あるショックを与える。

「指導」は、なんのためか。

人が幸福になるための「指導」のはず。

しかし、そうなっていないときがある。

指導によって、人が「責められる」。

責めて、攻めて、責められてどうしようもなくなって、死ぬ。

それが、『指導死』だ。




人を責め、人から指摘されると感情を害する、怒る。

それが、すべての間違いだ。



教員が、子どもに対して、

「責める」

ということがあるはずがない。



ところが、部活の成績、学業の成績、人間関係のいざこざ、

すべて、

「お前が悪い、お前のせいだ」

と、指導するときがある。



どうしたらいいか、手をこまねいているのが生徒であるはず。

ところが、教師が、その生徒を責めつづける。



実は、責める側の教師こそ、困っている。

どうしたらいいのか、わからなくなっている。

自分が何をねがっているのかさえ、分からない。

それで、馬鹿の一つ覚えのように、不安を他人(生徒)にぶつけているだけなのだ。

教師も、何をしたらいいのか、さっぱり分からないのだ。

ただ、教師は、『不安』なのだ。

この世の中の、不安という不安が、身に迫って押し寄せてくるような錯覚に陥っているのだ。

部活で優勝しなければ、自分の教師としての指導力を責められる、と勘違いしている。

ひとりの児童を守るために、もうひとりの児童を責めなければどうしようもない、と思い違いをしている。

親から苦情の電話が入ったら、自分の指導がまずかったのだ、と思うのが当然だと思っている。




教師としても、もっと楽しい部活をしてみたい。

正月くらい、休んでいたい。

夏休みも、もっと楽しく子どもたちと会話したい。

ところが、そんなことをしていたら、子どもたちが練習しなくなるだろう、と見えない幻影に怯えきっている。

本当の教師としての気持ちを抑えて、抑えて、ふたをしまくってきて、相当に歪んでしまったのが教師だ。

その歪んだ教師が、何も手を打てずに、最後に陥るのが、


子どもを責める


という手段なのだ。

教師は、自らが、『コントロールルック』に陥り、『ブレイミングアディション』に陥っていることに気付くべきだ。


救われるべきは、追いつめられた子どもであり、同様に追いつめられている教師である。


この社会は、子どもと教師、そして親たちを追いつめる社会なのだ。


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(ヤフーニュースより引用)
教師が子どもを追い詰める―― 「指導死」の現場から
9月12日(月)14時1分配信

許す、許さない、という話についてのアイデア

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ときおり、殴り合いの喧嘩があります。
先日もありました。
けっこう、バシッと、勢いよく決まってます。

こういうことがあると、小学校だなあ、と思いますね。
大人の世界では、あまり見かけない。(犯罪だし)

まあ、小学校だと、そういうことがある。
大人、教師が止めに入ります。

なんで殴り合いになったのかについて、当の子ども本人が語る。

「〇〇〇〇〇で、許せない、と思った」

どう思います?


許せない、ということらしいです。
分かりますね?


そうすると、教師は、あーだこーだ、言いますけれども。
結局のところ、

「許せ」

という話をする場合があります。


ところがね。
わたしは、「許せ」とは言いません。
「許す」とか「許さない」とか、そもそも、言葉としておかしい、と考えるからです。

この、「許す、許さない、はあり得ない」というアイデアは、なかなか通じる方がいないので、あまりしゃべったことがないけれど、わたし自身は、ずーっとそうとしか思えない。そのため、わたしは子どもに対して、この「許す」「許さない」という言葉は、ほぼ使ったことがありません。



みなさま、「許す」とか「許さない」という言葉の意味、分かります?

私はいつの頃からか、この言葉にとーっても違和感があって、使うことができない。
というか、よく考えると、意味が分からなくなる。

実際の現場では、殴り合いの喧嘩をして「〇〇〇〇〇で、許せない、と思った」という子に対して、「ああ、そう」と反応するけれども、そこで、許せ、とは話しません。言いません。

ともかく、殴ったら痛い、ということと、それを一方的に他に強制している、ということ、殴るで解決にはならない、あなたが本当に解決したいことは別である、と言う話をしていきます。もっとちがうアプローチでしか、あなたは幸福にはならない、ということですね。


でもそれが、「許す」というアプローチなのではない。
断じて、違います。

子どもに「許す」「許さない」を覚えさせたら、生涯にわたって、その子は何かにつけ「許していく態度」「許さない態度」しかとれない人になってしまいます。これ、不幸の始まりですよね。

そもそも、人間が、なにかを許す、許さない、なんてこと、あるの?

ということです。

謝るとか、許すとか。
許さない、とか。
違和感、ありませんか。

「許していきましょうよ」というから、人間が苦しくなる。
それで解決すると思ってしまうから、なおのことややこしくなる。

眉間(みけん)にしわの寄った努力型人間が、がんばって心ならずも相手を許す社会。
これ、いかに生きにくいか。こんな社会にしたら、人間みんな、目が死んでしまいますよ。
想像できますよね。

許す、じゃあ、ないんです。
気に入らないけど、許してみる、じゃあない。

こういう話すると、「相手を許す、自分を許す」とかいう人がいるけど、もっとワケがわからん。
なにそれ。フハハハ・・・。

学校で、「許す」「許さない」を教える道徳教育、そんなの道徳じゃあないだろう、と思いますね。
「許す」「許さない」をいうから、安定しない。

これからの学校道徳教育は、人間とは何かを知る勉強。
人間が人間を、許すとか許さないとか。そんなのあり得ない、ということを学ぶのが、「道徳」、ということになりそうです。

これを、『同格教育』といいます。


それなら、子どもたちも納得!チャンチャン!!

ゆるそう

銀メダル選手が「ごめんなさい!」

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銀メダルをとった吉田選手が、「ごめんなさい」と謝った。
なぜ謝るかというと、周囲から責められることを想定したから、でありましょう・・・。

この「ごめんなさい」に、違和感を覚えた人がたくさんいたようだ。

「謝らなくてもいいのに」
「だれも責めないよ!」
「銀メダルの吉田選手をなじるのは、不機嫌な酔っぱらいのおやじだけだよ」

とか・・・。

日本経済新聞スポーツ面  2016/8/19 13:34
「絶対女王、まさかの涙 レスリング吉田「ごめんなさい」

「金メダルを取らなくてはいけないところだったのに……。ごめんなさい」。試合後のインタビュー。顔をくしゃくしゃにして、何度も何度も謝った。

 「女王」にふさわしい勝ちっぷりで順調に決勝まで勝ち上がったが、頂点をかけた一戦では24歳の米国選手にジリジリと点差を広げられた。1―4とリードを許して残り25秒。逆転を狙った渾身(こんしん)のタックルが相手の右足を捉えたものの、ポイントは取れなかった。

 「お父さんに怒られる」。試合直後、母の幸代さん(61)と兄の栄利さんが待つスタンドへ駆け寄り、そう話したという吉田選手。幸代さんは「大丈夫、大丈夫」とねぎらい、涙の止まらない娘を抱きしめた。


吉田選手の本当の内面は、だれにも分からない。
世間に対しての言葉か、お父さんに向けての言葉なのか。
また、ごめんなさい、の言葉の意味も、みんなが思っているものと違うかもしれない。
金メダルをとる、と思っている自分に対しての言葉だったかもしれないし。


みんなが反応したのは、どの部分だったのだろう。
「金メダルをとらなきゃいけない」 のところ?
それとも、「ごめんなさい」 のところ?
あるいは、「お父さんに怒られる」 のところ?

わたしは、こう考える。
つまり、テレビを見ていた人は、吉田選手の内面に触れたのだ。
オリンピック史上でも本当の例のないほどの勝者の、いわば内面が、ひゅっと見えてしまった。

「あ、今まで見ていたのは、外側だったんだ」

ということに、みんなが気づいた。
「ごめんなさい」という言葉と号泣する姿で、視聴者がピンときたのだ。

「いつも金メダルをとる、すごくレスリングの強い人」としか見ていなかった自分が、はじめて、吉田選手の心の内面に触れた気がしたから、これほど揺さぶられるのだ。そして、反応したくなる。

「いいんだよ!ぜんぜん、謝る必要ないよ!銀メダルだって立派だよ!よくがんばった!」
というふうに。



われわれは、吉田選手の内面、オリンピックに挑戦してきた動機がなんであったのか、急に心配になった。

オリンピックに挑戦するほどのすごい人が、実は内面で抱えていた世界は、いったいどういうものだったのか。どんな心の状態で、オリンピックに挑戦していたのか。
その『内面』が、急に見えてきてしまって、心配になった。

怒られる、という不安。
誰かに責められるかもしれない、という不安。
もし、不安にかられて、という動機で頑張っていたのだとしたら・・・(吉田選手は、そうではないと信じるけど)もし仮に、そういう人がいたとしたら、それは・・・せつないよネ。


元陸上選手の為末さんが、こう書いている。
「結果は運だが、挑戦は意思だ。挑戦をするという意思を持って厳しいトレーニングをし、その場に立った。結果の前にそのことをまず尊敬し、そこから姿勢を学ぼうとする社会であってほしいと私は思う。」

結果の前のものを、尊敬する。
結果の前のもの、とはいったい、何か。

吉田選手の言葉、「お父さんに怒られる」をきくと、吉田選手だけでなく、なにか日本人全体を追い込んでいる風潮があるのかもしれないな、と思う。日本に住むわれわれは、スポーツの、何に対して価値をおこうとする社会にしていくのか。

日本人の、「がんばる」、という美しい姿がある。
そして、その人の中身、どんな動機かに、もっともっと世間が注目するようになったら・・・。
怒られないように頑張る」とか、「雪辱を晴らすために頑張る」という以外の、本当の動機があるのであって・・・。

ひとの行動の『動機』が変われば、社会の雰囲気も、変わっていく。

ひとの行動の前にあるもの、結果の前のもの、形に現れる以前の物。

それを、『ビフォーシェイピング』と言う。
ここに注目する社会をつくるために・・・。

とんぼの道

悩み相談の本質とは何か

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新聞などに、よくある「悩み相談」。

悩みには、2種類しかない。
どこぞの立派なお坊さんの言葉だそうですが、

1)人間関係の悩み
2)それ以外

この2種類しかないそうです。


さて、毎日新聞の朝刊に、
人間関係の悩み についての投書が、掲載されていたらしいです。
結婚に反対する親からの投書なんだとか。

奥様はどうやら、お嫁さんになる女性が気に入らなかったようで・・・。


そうだん


奥様の相談。

「相手の服装や第一印象が悪く、将来子どもに宿題を教えられるかも疑問です。どうしても彼女との結婚は許せません。」

これに対して、回答する側は、

「なにが問題なのか、分かりません」

と答えている。


あることについて 「気に入らねえ」というタイプと、まるっきり問題と認めることさえしないタイプ。
この差は、すごい。
グランドキャニオンの谷より深い。ぜったいに埋められそうもない。

もし可能なら、奥様はこう話したいはず。

「だって、見た目だけでも、すごくチャラチャラしているし!ハイヒールもこんな高いし、口紅の色も見たことが無いくらい赤くって・・・。言葉遣いだっておそまつで、髪の毛も今日のために慌てて染めたような風だし・・・」

回答者 「えー、正直に申し上げて、それの何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「おつむの程度も知れてるでしょう。ろくに勉強もしてこなかったような様子でしたよ! 将来子どもに宿題を教えられるはずがありません!」

回答者 「ははあ。しかし、それも、とくに何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「挨拶だって言葉が足りないし、口元に品がない。とにかく一般常識がないんでしょう。だらしがないにもほどがあります」

回答者 「なるほど。しかしそれも、何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「とにかく、あたしゃ、気に喰わないんです!あのふざけたような女に!」

回答者 「結局、何が問題なのか、わたしにはわかりません。」

奥様 「あんな女に、息子をとられると思うと・・・死んでも死にきれないッ!ぐやじぃ~ッ!!!

回答者 「あなたが嫉妬していることは分かりました。•••で、あとはとくに•••ホントウに、何が問題なのか、わたしにはちっともわかりません。」

回答者は、奥様の悩みに関与することができないのです。
むろん、これは世界中のだれにも関与できない。
不可能なのですね、他人には。
なぜなら、それは奥様固有の問題だからであって、奥様の心の問題であるからです。
奥様が自分のなかで持て余している、心の内面のこと。
オモシロクナイ!キニイラナイ !
嫉妬心、優越・劣等感、そうしたもの。
こころの中の、寂しさ。
「あんたのことが気に入らない!」と叫びたくなる気持ち。


しかし、今日のこの回答、これは、回答者が悪いでしょう。
ちっとも洒落た回答になっていないではないですか。
質問する奥様の気分がスカッとするような回答、してあげてないもの。
以下、奥様の気分を損ねない回答例。


「ずばり、あなたの言う通りです。その女はアホですね。賢い息子さんがそんな女を選んだこと自体が悪夢ですが、一時的な気の迷いなのか、もしくは魔がさしたのでしょう。めげずに、こちらは作戦をたてて、とことん嫌がらせをしてやりましょう。おそらくそのことで、親子が断絶し、夏休みになっても顔さえ見せず、孫を抱かせてももらえないかもしれませんが、そんなのは些末な問題です。そんな女の産んだ子どもですから、抱かなくてもOK。こちらからお断りですよね。むしろ、お年玉やお盆玉を出さなくてもよく、全然、平気だよ~、くらいの涼しい気持ちでいてください。」


奥様は、困っていらっしゃるのです。
回答者の役目としては、奥様のさみしさに、とことん共感してあげなくては。



【結論】
「自転車のチェーンが外れてしまいました。どうすればよいでしょうか」
「無理せず、専門店に相談しましょう」
というような、物をどうするこうするとか、事柄(コトガラ)の相談と回答なら、新聞に載せるべき。

しかし、そもそも解決不可能というか、他人の関与することが本質的に不可能であるはずの心の内面、寂しさなど、「人間関係の悩み相談」について、最初から回答しようとするべきではないと思います。


しかし、人間関係のことや内面のことに、真正面から回答を出せる、と思い込んでいる人が多い。

他人の回答が無用である自分の内面のことを、『アンネセサリーインサイド』と言います。

アンネセサリ―なインサイドは、そっとしておくこと。



そうだん2
そうだん3

せっかちに日常を超えようとするな

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相模原市津久井で起きた、大量殺人事件。
このことに、とにかく考えさせられている。
新聞やテレビの報道も、ほんの一部しか見ていないけれど、自分が聞いて分かったことからだけでも、いろんなことを考えた。


センセーショナルな解決法、について

容疑者は、よく分からないけど、<何か>を解決したかったみたい。
(※注・殺人で何かが解決できるとは理解不能だが、彼の頭の中はそうなっていたらしい)
さらに、そのやり方が、人道的だった。
で、容疑者は、こんな派手でセンセーショナルな解決法が自慢だったみたい。

この感覚って、なんだろうか????




たしかに我々も容疑者と同じように、何かを解決しようと思って日々を過ごしている。
そして、心のどこか奥で、

「センセーショナルな解決法っていいな」

と思っていやしないか。

このことに気付いて、ちょっと、自分で用心しながら、考えてみようとしている。



そもそも、だれだって、
「100%理解したい」
「よくわかりたい」
「完全に説明できるようになりたい」

と、常日頃、思うことはよくあるのではないか。

その結果、たぶん、突き詰めて考えることができるだろうし、
疑問をきちんときれいに(完全に)整理できるだろう。
また、だれかにきちんと説明することだって、できるにちがいない。

そう思って、日々を生きている。

なぜ、そう思っているかというと、
おそらく、そのように対象を完全理解し、課題解決することで、自分自身の主体性をきちんと実感できるから、なのではないだろうか。

対象を理解し、きちんととるべき手段を選択し、自己実現のために行動する。
あるいは、その行動をくりかえすなかで、自己実現的な感覚を感受できる。




ところが、
「なんでも分かろう、結果を生み出そう」
と、せっかちに日常を超えようとすることで、その結果、主体性を十分にとりもどし、自分の人生をとりもどせたかというと・・・

残念なことに、
意に反して、

ちっとも、主体性を感じられないまま、われわれは生きている。
それが実態だ。




だから、容疑者は、自分をどんどんと追い込むしかなかったのではないだろうか。
容疑者はむしろ、「理解して解決しようと思わずに自由になる」べきだった。
解決できる自分になろうと思わずにいながら主体性を取り戻そう」とするべきだったのだ。


これは、たいへん難しい問題である。
これまでの社会が提供してきたシナリオとは異なる自己物語り・のための言葉が必要だからだ。


われわれの社会は、相模原殺傷事件の植松容疑者を擁している。
彼だけがいびつであったのではない。
そのような彼を生み出す社会を、わたしたちがつくっているのである。

そのわたしたちの社会が、取り組むのは、むしろ
「わかろう」「整理しよう」「賢く選択しよう」そして「自己実現しよう」という道筋自体を、手放すことかも。


こうあるべき、というものを手放すのは、そんなに簡単ではない。
その証拠に、右も左も、どの立場も、
だれもがみんな、「こうあるべき」を、手放そうとはしない。


そりゃそうだ。
「こうあるべきもの」
と固く、自身の中に打ち固めてきたものを手放すなんて。
自分の生きていく主体性までを手放してしまうようで、そんなおそろしいことは、到底できまい。



ところが、その主体性を放してみると、肝心の主体性が手に入る。
ふと手元を見ると、放したはずの主体性が、きちんとある、のである。
今まで握って離そうとしなかった主体性は、幻想だったのだ。
つまり、『幻想』を、幻想としてきちんと把握すると、ちゃんとホンモノが見えるのである。

これは、「個性の問題」と似ている。
個性を探し、分析し、見極めて、手に入れようとすると必ずそれは誰かのマネになってしまっている。
しかし、そんな個性は幻想だった、と手放してしまえば、いつの間にか、きちんと個性が表出される自分になっている。
つまり、今まで追い求めてきた『個性』は、幻想だった、ということ。


お金を使うと、「ああ、自分らしさを発揮したなあ」という感覚のある人。
国家を論じ、政策を論じ、ナショナリズムを鼓舞するときに「権力をふるうことの快感」を感じる人。
「自分らしさを実現しよう、個性を発揮しよう、他の誰でもない自分になろう」、ということに価値を感じて、「なにがしかの人物として立つ」ことが目標になっている人。

それは、幻想の一種かもしれない。

幻想を捨て去ってみると、
「一時的な派手さ、ドラマ、息をもつかせぬ物語、永遠の夢」・・・は、無くなる。

しかし、逆に、

飽きずに繰り返せること、何度でもやりたくなること、
人から褒められなくても、相手にされなくても、やっぱり自分はこれを続けたいと心底思えること、
くりかえし、くりかえし、やりたくなること、
飽きずに、ずっとやっていたくなること、

と、出会える可能性が増える。




それは、関わる全ての人を、くたびれさせず、疲れさせず、飽きさせない。

センセーショナルな解決を欲する欲望とは、まったく異種のもの、である。
これを、『主体性のあるマンネリズム』という。


緑の実

相模原の殺傷事件

.
「なんと過剰なことか」
と思った。

津久井で起きた、戦後最大級の殺人事件のことである。
(相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が死亡し、職員2人を含む26人がけがをした事件)

植松容疑者が、「ほめられる」ことを期待していた、というマスコミの報道を見た。

(以下、マスコミ情報の引用)
 「障害者なんて、生きる意味なくないですか」。やまゆり園の関係者は、植松容疑者から話しかけられてぞっとした。職員にも「障害者なんて死んだ方がよくないっすか」と笑みを浮かべながら話しかけていたという。

「重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない」
「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」。


植松容疑者の書いた衆院議長あての手紙の文面には、このような主張がA4用紙3枚にわたってつづられていた。なかには、今回の殺人に関しての報酬を期待するような文もあったという。

 園の関係者によると、植松容疑者は今年2月ごろ、園周辺の家庭に、「障害者なんて生きていても無駄だ」などと書いた文書をまいた。県によると、園の利用者にも直接、人権侵害のような言葉を吐いたという。園は「大変危険な発言だ」と注意したが、植松容疑者は「自分は間違っていない」と激しく主張した。

どうして、「ようし俺が」と思ったのか。
このことで誉められる、と思ったのはなぜか。
自分は間違っていない、と激しく主張する彼の心には、どんな思いが湧いていたのだろう。

なんらかの思想に染まり、その思想の価値に過剰に同調することを求められていたに違いない。
また、彼はその実現に向けて、自己を強迫するようにして、行動に至ってしまったのだ。

この過剰なまでの依存、過剰な思い込み。
こうしなければならない、とする思想に耽溺していく背景に、いったい何がひそんでいるのか。

この「過剰」という病理は、今の世の中を如実に示している。


彼の発言で、気になることがある。

「・・・決断をする・・・世界をより良い方向に・・・全人類の為に・・・」

という文句だ。

いったい、何を決断し、解決したかったのだろう。
そして、センセーショナルな行動を考えた。
けっして、実現してはいけない、非人道的な方法を。



「自分はなにがしかの意味ある存在であり、他の人とはちがった価値をもつ個性だ」

そう思っていたいのが、われわれだ。

植松容疑者は、それを追い求めることを、過剰に自身に課した。



植松容疑者が、

「無駄なエネルギーを使わないで生きる」

ということの心地よさを、知っていたら、この事件はなかっただろう。

生きるは楽しい。
太陽を見るは楽しい。
散歩は楽しい。
人と話すは楽しい。

そういう実感がないがゆえに、さらなる迷路に迷い込み、自身を責め続けたのではないだろうか。

彼は、
「誰でもいい者である自分」
「なにがしかの人物として目立つことのできない自分」

そういう自分自身のことが許せなかった。

「なにものかにならなければ」
ということを、自身に課していたから、
「なにものかになれない自分」を責め続けたのだろう。

この、「なにものかでいなければ」という強迫。
「なにものかであるべき」という嗜癖。
これを、『superior addiction /スピアリア・アディクション』という。

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モンスターはいるかいないか

モンスターというのは居ない。
想像上の動物なんであって、現実にはいません。

というと、
「いや、いる」
という人もある。
どうやら、その人の世界には、居るよう。

しかし、現実にはいない。
「いるんだ」、という人だけに、見える。
それが、モンスター。

さて、うちのクラスにいる、ちょっと教師を舐めてる感のある子。
前の担任から、

「この子がいちばんのガンです」

・・・なんて、ひどい言われようでした。

この子に対して、わたしは最初から、

〇〇くん、〇〇くん、と親しく呼びました。

で、最初の日に、〇〇くんがいないとき、〇〇くんを褒めました。
クラスの皆の前で、かなりハッキリと、褒めました。

すると、男子の一人が、

「すげえ、〇〇が褒められた」

と驚きのつぶやきをもらしていました。



〇〇くん本人は、そのことを知りません。
直接彼の前でそれを言ってもいいのです。
しかし、おそらく、その段階では、〇〇くんは、かならずそれを否定すると思います。
ほめられたことさえ、否定する、という心の状態があるのです。
ひとは、素直になっていないと、受け付けないのです。
ほめられても、けなされても。
その、どちらも、受け付けない。

ふたが開いていないので、そこに無理やりに言葉を流し込もうとしても、無理です。
だから、わたしは本人の前で褒めない。
本人の前でほめるのは、ふたが開いてからです。


4月。わたしは、〇〇くんを少しずつ、気にして暮らします。
〇〇くんをよく見るし、目を合わせる。にこり、とする。
本当は120%くらい、気にしているのですが、そんな素振りは見せません。
クラスの中で、他の子よりも、ほんの少し、塩ひとつまみ分だけ、ちょっと気にするんです。


当然、その波長は、本人にも届くのですが、あまりにも微細なオーラなので、本人の苦にはならない。


その微細なオーラは、少しずつ、彼の心を開かせることになりますが、けっして彼を特別扱いすることはありません。彼をほめるときは、必ずだれか他の子と抱き合わせで、同時に褒めます。
単独で取り上げるのではなく、他の子と抱き合わせでいっしょに褒めるのなら、本人も否定しないからです。


べたべたしませんが、彼を大切に、大切にしていきます。
彼の意思のままに学級が動くようなことはさせませんが、彼の意思の、尊重できるところはしていきます。
意見があれば、最後まで聞きます。なるほど、と一定の理解を示します。
そこは他の子についても私の態度は同様なのですが、彼の意見はぜひ聞きたいな、という態度で、身を乗り出すようにして彼の意見を聞こうとするのです。

4月、5月のスタート時点で、そのように少し、塩ひとつまみ分だけ寄り添うこと。
教師が、笑顔を見せていくこと。
それだけで、表情がずいぶんやわらいでくる。

前年度の先生が、

「最近、彼の表情、いいですねえ」

と言ってくれます。



周囲のだれも、彼のことを

ガン

と思っていない、という環境が、〇〇くんの表情が良くなる唯一の原因だと思います。



ガンだと見なければ、ガンにならない。
ガンだとみると、ガンになる。

これまた、美しい逆説でありますね。

この逆説のことを、『認知の逆説』と言います。

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