その日はたまたまいろいろな偶然が重なってわたしは空き時間をGETした。
半分浮かれながら、トイレの
個室に入った
と想像してください。
まだ、あれやこれやが終わっていない状態です。
そのとき、ふいに、職員用のトイレの入り口の扉がひらく音がしました。
わたしは、おかしい、とまゆをひそめた。
だって、今の時間、空いているのは校内には、わたし一人しかいないはず。
校長は1年生の教室へ、教頭は2年生の教室に行っているはずで、それらは別の棟だ。
わざわざこんなところに来る先生はいない・・・。事務の先生は女性だし。
すると、甲高い子どもの声で、
「あ、だれかいますか?」
と声がしたのだ。
わたしは意外に思いながら、なにか子どもが間違って入っちゃったのかな、と思った。
子どもは入らないようになっている職員用トイレだ。子どもたちはふつう、入らない。しかし、たまにどうしても、という子がいて緊急の場合に入るのかもしれない。
「それにしても」
とわたしはなお、不思議に思う。
この職員室のトイレは、子どもたちの教室からはちょっと離れている。
わざわざ、こっちまで来ないだろう・・・おかしいな・・・。
わたしの勤務校の職員用男子トイレは申し訳ないほどのスペースしかなく、個室は1つのみ。
幼い声がつづいた。
「あの、ぼく、うんちしたいんですけど」
それは非常に幼い感じの、まだあどけなく、かわいらしい声だった。
要するに、1年生か、2年生の子の雰囲気である。
「入っている方、どうですか?出てこれますか?」
わたしはさらに不思議になり、同時に緊張してきた。
なぜなら、通常、1年生とか2年生とかの子が、一人きりで、こんなところに来るケースは無いと思われたからだ。なにか、わたしの想像を超える出来事が発生している!
いったい、なにが起きているのか・・・!!!
扉の向こう側から、かわいらしいひよこのような声がつづく。
「あの、すみません。ぼくの方ですが、うんちが出るまで、もうあまり我慢できないです」
わたしは依然、便座に座りながら、もはや事情は分からないが、なにかの危機が迫っていることをここでようやく察した。この子がなぜここにきたかを推測している場合ではない!
のんきに「なんでこんな子が?・・・いったなぜ、ここにいるんだろう?」などと、明智小五郎のように推理なんかしてる場合じゃなかった!
それよりも、この子は、うんちをしたがっている!
個室の外で、声がつづく。
「我慢はしているのですが、限界が近いです」
頭の中に、レッドの回転灯が光り始めた。
「この子、もらすかもしれぬ!」
もはや猶予はない。
わたしはおそらく本能から、扉越しにその子に話しかけた。
「え、ええっと、うんちをしにきたのね?」
「はい。そうです。うんちです」
わたしはなぜか危機に瀕した場合に、急に冷静になる、あの例の『正常性バイアス』にかかっていたのだろう。頭の中で、別のことを考え始めた。
それは、
「ほお、1年生のようであるが、敬語の使い方が合っているじゃないか。国語の力はありそうだ」
という、教員のくだらない評価癖です。
正常性バイアスとは、何らかの異常事態に直面した際に、
と判断して、都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアスのことであります。
わたしは、扉の向こう側に、敬語でていねいに「自分の便意」を伝えてくれる少年がいることを、「いまの状況は正常な範囲内のことだ」と、正常性バイアスにかかって思ってしまったのです。
おまけに、その子は、こうも言ってくれた。
「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます」
そのとたん、わたしは非常に愉快な気分になることができた。
ちゃんと、こちらの事情を汲んでくれたではないか。
そして、1分あれば、これからわたしは紙で拭いてズボンをたくしあげ、タンクの横のレバーで流し、立ち上がることができるだろう。
そう思ったからである。
「おお、いい子じゃあないか! ちゃんと、時間を教えてくれるところも気が利いている。そして、最後まで敬語を忘れないところをみると、なかなかのしつけを受けた子らしいな。ふむふむ。出たら、よく我慢してくれたね、と頭をなでてあげよう」(←やめろ)
しかしそれは一瞬でありました。
その子は、セリフをこう続けたからである。
「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます・・・(5秒の間)・・・ああ、でもやっぱり、のっぴきならないようです・・・だめかも。もう出ちゃう」
しかし、わたしはまだ、正常性バイアスにとらわれていたようだ。
その言葉、そのセリフを聴いたとき、わたしは
尻を拭く以前に、あごに手をあてて考え込み、
最後にその子が「いいんですか、もう、出ちゃいますよ」と言った瞬間と、わたしが大急ぎでズボンをたくしあげて個室の扉を開けたタイミングはほぼ同時でありました。
その子は苦しそうな息のもとでわたしを見上げ、
「ああ、6年生の先生でしたか」
と最後まで丁寧語を忘れないのでありました。
そして彼はわたしと入れちがいに個室に入り、どうやらちゃんと無事にコトを済ませたようで、わたしはようやくホッとして廊下に出ました。
廊下に出てしばらく進むと、体育館へのびる通路の手前に養護教諭の女性の先生がいらした。
女の先生「あ、Sくんがトイレに入るの見ましたか?」
これでようやく合点した。
彼は校内を自由に闊歩して回っているSくんで、たまたまこちらに来たので、ついでにトイレに入ったようだった。
それにしても、こうやって扉の外から、「いいですか。もれそうなんですが」と、家族以外の他人から、何度もくりかえし話しかけられる経験も、人生に何度もない気がする。
貴重な体験であった、としめくくりたい。
わたしが正常性バイアスにとらわれて、その子の便意を限界に追い込んだことについては、大いに反省している。二度とこのようなことがないようにしたい。今回のことは、なんとか水に流してほしい。
半分浮かれながら、トイレの
個室に入った
と想像してください。
まだ、あれやこれやが終わっていない状態です。
そのとき、ふいに、職員用のトイレの入り口の扉がひらく音がしました。
わたしは、おかしい、とまゆをひそめた。
だって、今の時間、空いているのは校内には、わたし一人しかいないはず。
校長は1年生の教室へ、教頭は2年生の教室に行っているはずで、それらは別の棟だ。
わざわざこんなところに来る先生はいない・・・。事務の先生は女性だし。
すると、甲高い子どもの声で、
「あ、だれかいますか?」
と声がしたのだ。
わたしは意外に思いながら、なにか子どもが間違って入っちゃったのかな、と思った。
子どもは入らないようになっている職員用トイレだ。子どもたちはふつう、入らない。しかし、たまにどうしても、という子がいて緊急の場合に入るのかもしれない。
「それにしても」
とわたしはなお、不思議に思う。
この職員室のトイレは、子どもたちの教室からはちょっと離れている。
わざわざ、こっちまで来ないだろう・・・おかしいな・・・。
わたしの勤務校の職員用男子トイレは申し訳ないほどのスペースしかなく、個室は1つのみ。
幼い声がつづいた。
「あの、ぼく、うんちしたいんですけど」
それは非常に幼い感じの、まだあどけなく、かわいらしい声だった。
要するに、1年生か、2年生の子の雰囲気である。
「入っている方、どうですか?出てこれますか?」
わたしはさらに不思議になり、同時に緊張してきた。
なぜなら、通常、1年生とか2年生とかの子が、一人きりで、こんなところに来るケースは無いと思われたからだ。なにか、わたしの想像を超える出来事が発生している!
いったい、なにが起きているのか・・・!!!
扉の向こう側から、かわいらしいひよこのような声がつづく。
「あの、すみません。ぼくの方ですが、うんちが出るまで、もうあまり我慢できないです」
わたしは依然、便座に座りながら、もはや事情は分からないが、なにかの危機が迫っていることをここでようやく察した。この子がなぜここにきたかを推測している場合ではない!
のんきに「なんでこんな子が?・・・いったなぜ、ここにいるんだろう?」などと、明智小五郎のように推理なんかしてる場合じゃなかった!
それよりも、この子は、うんちをしたがっている!
個室の外で、声がつづく。
「我慢はしているのですが、限界が近いです」
頭の中に、レッドの回転灯が光り始めた。
「この子、もらすかもしれぬ!」
もはや猶予はない。
わたしはおそらく本能から、扉越しにその子に話しかけた。
「え、ええっと、うんちをしにきたのね?」
「はい。そうです。うんちです」
わたしはなぜか危機に瀕した場合に、急に冷静になる、あの例の『正常性バイアス』にかかっていたのだろう。頭の中で、別のことを考え始めた。
それは、
「ほお、1年生のようであるが、敬語の使い方が合っているじゃないか。国語の力はありそうだ」
という、教員のくだらない評価癖です。
正常性バイアスとは、何らかの異常事態に直面した際に、
「自分だけは大丈夫」
「なんとかなるだろう」
「そんなこと起こるわけがない」
「いまの状況は正常な範囲内のことだ」
と判断して、都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアスのことであります。
わたしは、扉の向こう側に、敬語でていねいに「自分の便意」を伝えてくれる少年がいることを、「いまの状況は正常な範囲内のことだ」と、正常性バイアスにかかって思ってしまったのです。
おまけに、その子は、こうも言ってくれた。
「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます」
そのとたん、わたしは非常に愉快な気分になることができた。
ちゃんと、こちらの事情を汲んでくれたではないか。
そして、1分あれば、これからわたしは紙で拭いてズボンをたくしあげ、タンクの横のレバーで流し、立ち上がることができるだろう。
そう思ったからである。
「おお、いい子じゃあないか! ちゃんと、時間を教えてくれるところも気が利いている。そして、最後まで敬語を忘れないところをみると、なかなかのしつけを受けた子らしいな。ふむふむ。出たら、よく我慢してくれたね、と頭をなでてあげよう」(←やめろ)
しかしそれは一瞬でありました。
その子は、セリフをこう続けたからである。
「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます・・・(5秒の間)・・・ああ、でもやっぱり、のっぴきならないようです・・・だめかも。もう出ちゃう」
しかし、わたしはまだ、正常性バイアスにとらわれていたようだ。
その言葉、そのセリフを聴いたとき、わたしは
尻を拭く以前に、あごに手をあてて考え込み、
「のっぴきならない、という言葉は1年生で果たして使えるものだろうか・・・彼は、1年生でこの言葉の使い方をしっかり理解してスキルとして身につけている。まったく、たいしたものだ・・・。果たして同学年で調査した場合、何人の児童が『のっぴきならない』の意味を理解しているだろうか。おそらくクラスに2人もいまい。この子の国語のセンス、そして語彙の豊富さを、担任にぜひ伝えてあげたい」と、しばらくの間、ぼうっとしながら考えたからであります。
最後にその子が「いいんですか、もう、出ちゃいますよ」と言った瞬間と、わたしが大急ぎでズボンをたくしあげて個室の扉を開けたタイミングはほぼ同時でありました。
その子は苦しそうな息のもとでわたしを見上げ、
「ああ、6年生の先生でしたか」
と最後まで丁寧語を忘れないのでありました。
そして彼はわたしと入れちがいに個室に入り、どうやらちゃんと無事にコトを済ませたようで、わたしはようやくホッとして廊下に出ました。
廊下に出てしばらく進むと、体育館へのびる通路の手前に養護教諭の女性の先生がいらした。
女の先生「あ、Sくんがトイレに入るの見ましたか?」
これでようやく合点した。
彼は校内を自由に闊歩して回っているSくんで、たまたまこちらに来たので、ついでにトイレに入ったようだった。
それにしても、こうやって扉の外から、「いいですか。もれそうなんですが」と、家族以外の他人から、何度もくりかえし話しかけられる経験も、人生に何度もない気がする。
貴重な体験であった、としめくくりたい。
わたしが正常性バイアスにとらわれて、その子の便意を限界に追い込んだことについては、大いに反省している。二度とこのようなことがないようにしたい。今回のことは、なんとか水に流してほしい。