30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

これからの、新しい概念について

都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアス

その日はたまたまいろいろな偶然が重なってわたしは空き時間をGETした。
半分浮かれながら、トイレの

個室に入った

と想像してください。

まだ、あれやこれやが終わっていない状態です。
そのとき、ふいに、職員用のトイレの入り口の扉がひらく音がしました。
わたしは、おかしい、とまゆをひそめた。
だって、今の時間、空いているのは校内には、わたし一人しかいないはず。
校長は1年生の教室へ、教頭は2年生の教室に行っているはずで、それらは別の棟だ。
わざわざこんなところに来る先生はいない・・・。事務の先生は女性だし。

すると、甲高い子どもの声で、
「あ、だれかいますか?」
と声がしたのだ。

わたしは意外に思いながら、なにか子どもが間違って入っちゃったのかな、と思った。
子どもは入らないようになっている職員用トイレだ。子どもたちはふつう、入らない。しかし、たまにどうしても、という子がいて緊急の場合に入るのかもしれない。
「それにしても」
とわたしはなお、不思議に思う。
この職員室のトイレは、子どもたちの教室からはちょっと離れている。
わざわざ、こっちまで来ないだろう・・・おかしいな・・・。

わたしの勤務校の職員用男子トイレは申し訳ないほどのスペースしかなく、個室は1つのみ。
幼い声がつづいた。
「あの、ぼく、うんちしたいんですけど」

それは非常に幼い感じの、まだあどけなく、かわいらしい声だった。
要するに、1年生か、2年生の子の雰囲気である。

「入っている方、どうですか?出てこれますか?」

わたしはさらに不思議になり、同時に緊張してきた。
なぜなら、通常、1年生とか2年生とかの子が、一人きりで、こんなところに来るケースは無いと思われたからだ。なにか、わたしの想像を超える出来事が発生している!
いったい、なにが起きているのか・・・!!!

扉の向こう側から、かわいらしいひよこのような声がつづく。

「あの、すみません。ぼくの方ですが、うんちが出るまで、もうあまり我慢できないです」

わたしは依然、便座に座りながら、もはや事情は分からないが、なにかの危機が迫っていることをここでようやく察した。この子がなぜここにきたかを推測している場合ではない!
のんきに「なんでこんな子が?・・・いったなぜ、ここにいるんだろう?」などと、明智小五郎のように推理なんかしてる場合じゃなかった!

それよりも、この子は、うんちをしたがっている!

個室の外で、声がつづく。
「我慢はしているのですが、限界が近いです」

頭の中に、レッドの回転灯が光り始めた。

「この子、もらすかもしれぬ!」

もはや猶予はない。
わたしはおそらく本能から、扉越しにその子に話しかけた。

「え、ええっと、うんちをしにきたのね?」
「はい。そうです。うんちです」

わたしはなぜか危機に瀕した場合に、急に冷静になる、あの例の『正常性バイアス』にかかっていたのだろう。頭の中で、別のことを考え始めた。
それは、

「ほお、1年生のようであるが、敬語の使い方が合っているじゃないか。国語の力はありそうだ」

という、教員のくだらない評価癖です。
正常性バイアスとは、何らかの異常事態に直面した際に、
「自分だけは大丈夫」
「なんとかなるだろう」
「そんなこと起こるわけがない」
「いまの状況は正常な範囲内のことだ」

と判断して、都合の悪い情報を無視したり、過小評価してしまう認知バイアスのことであります。
わたしは、扉の向こう側に、敬語でていねいに「自分の便意」を伝えてくれる少年がいることを、「いまの状況は正常な範囲内のことだ」と、正常性バイアスにかかって思ってしまったのです。

おまけに、その子は、こうも言ってくれた。

「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます」

そのとたん、わたしは非常に愉快な気分になることができた。
ちゃんと、こちらの事情を汲んでくれたではないか。
そして、1分あれば、これからわたしは紙で拭いてズボンをたくしあげ、タンクの横のレバーで流し、立ち上がることができるだろう。
そう思ったからである。

「おお、いい子じゃあないか! ちゃんと、時間を教えてくれるところも気が利いている。そして、最後まで敬語を忘れないところをみると、なかなかのしつけを受けた子らしいな。ふむふむ。出たら、よく我慢してくれたね、と頭をなでてあげよう」(←やめろ)

しかしそれは一瞬でありました。
その子は、セリフをこう続けたからである。

「でも、まだ大丈夫です。まだ、1分はがまんができます・・・(5秒の間)・・・ああ、でもやっぱり、のっぴきならないようです・・・だめかも。もう出ちゃう」

しかし、わたしはまだ、正常性バイアスにとらわれていたようだ。
その言葉、そのセリフを聴いたとき、わたしは
尻を拭く以前に、あごに手をあてて考え込み、
「のっぴきならない、という言葉は1年生で果たして使えるものだろうか・・・彼は、1年生でこの言葉の使い方をしっかり理解してスキルとして身につけている。まったく、たいしたものだ・・・。果たして同学年で調査した場合、何人の児童が『のっぴきならない』の意味を理解しているだろうか。おそらくクラスに2人もいまい。この子の国語のセンス、そして語彙の豊富さを、担任にぜひ伝えてあげたい」
と、しばらくの間、ぼうっとしながら考えたからであります。

最後にその子が「いいんですか、もう、出ちゃいますよ」と言った瞬間と、わたしが大急ぎでズボンをたくしあげて個室の扉を開けたタイミングはほぼ同時でありました。

その子は苦しそうな息のもとでわたしを見上げ、

「ああ、6年生の先生でしたか」

と最後まで丁寧語を忘れないのでありました。

そして彼はわたしと入れちがいに個室に入り、どうやらちゃんと無事にコトを済ませたようで、わたしはようやくホッとして廊下に出ました。

廊下に出てしばらく進むと、体育館へのびる通路の手前に養護教諭の女性の先生がいらした。

女の先生「あ、Sくんがトイレに入るの見ましたか?」

これでようやく合点した。
彼は校内を自由に闊歩して回っているSくんで、たまたまこちらに来たので、ついでにトイレに入ったようだった。

それにしても、こうやって扉の外から、「いいですか。もれそうなんですが」と、家族以外の他人から、何度もくりかえし話しかけられる経験も、人生に何度もない気がする。
貴重な体験であった、としめくくりたい。
わたしが正常性バイアスにとらわれて、その子の便意を限界に追い込んだことについては、大いに反省している。二度とこのようなことがないようにしたい。今回のことは、なんとか水に流してほしい。

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『叱らないでもいいですか2022』スタート!

『叱らない』を始め、はや13年目に突入しました。
はっきりと「あ、叱らないでもよさそうやな。よし、それでやってみよう」と思ったのが3年目でしたから、そこから数えて、ということです。

調べてみたら、

2010年05月10日に、

「叱らないですね、先生は」
という記事がありました。

どうも、そのころから、のようです。
自分の中で、自分として大切にしたいことだったのでしょう。
そこから、基本的にわたしは、「叱らない」先生になりました。


今年、学年主任になりまして。
4月1日に、学年のチームになった先生たち4人とともに、最初の会合を開きました。
学年会ですね。
そこでわたしは、

「どうだろうか。基本的には叱らないでいきたいんだけど」

と、丁寧にちょっと自分の意図を話しました。

そうすると、やはりまじめな先生たちなので、
「いやでも、やはり叱る場面はあろうかと思いますが」
と言います。
当然でしょうね。これまで、これ以外の反応を返した先生は1人しかいません。

わたしは
「そうですね、なので、『基本的に』ということなら、どうでしょうか」
というと、

これがびっくりなんですが、そこにいた全員が、

「はい。そうしましょう」
というのですよ!!!!



これはわたしにとっては革命的な日でしたね。
もっと叩かれるか、意見が出てきて紛糾するかと思った。

もちろん、人を傷つけたり、いじめが起きたりすれば、これは「厳しく」話をするし、子どもにも話をさせ、詰めていくときもあります。決して人の道は踏み外すな!という感じでしょうか。

しかし、
〇宿題を忘れた
〇掃除なのに適当にやっていた
〇授業中に関係のない会話をした

くらいで、叱ることはしません。

学校教育は大きく2つのやり方があります。
「叱る」教育と、「叱らない」教育です。
そのうち、わたしがとるのは、「叱らない」教育だ、ということです。

「・・・↑という感じで進めたいんだけどね。どうでしょうか。先生方の忌憚のない意見を聞かせてください。年度の初めだからこそ、もとのところを確認して進めたいのです」

みなさん

「基本、叱らないでいきましょう」

だって。

どうなってんの?


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修学旅行ですれ違う高校生との距離感に悩む

先日、修学旅行に行った。
東京に行けなかったので、愛知県内だ。
ちょこっと足を延ばして犬山城とか、岐阜の長良川とか、静岡の浜名湖、なんていう案も出た。
コロナがいちばん猛威を振るっていた夏の間に決めなくてはならなかったため、おとなしく県内旅行になった。

ところで、修学旅行で訪れた、とある観光地での出来事。
わたしたち小学生が、お行儀よく2列にならんで、参道を歩いていたと想像してください。

そこにですな、男女の高校生が大勢、たむろしていたのですよ。
わたしは20代の頃にしみついたものがあって、高校生くらいの子たちをみると、いっしょに肩でも組んで車座になり、陽気にギターで歌いたくなる病気を持っている。もちろん、50代の教員ですからそんなことしませんよ。もうすでに常識をわきまえる年ごろになったので。(ああ、ずいぶん遅いですが)

さて、その高校生たちが、なんとも活気がない。
しずかーにしているのです。
小さな声で、ひそひそしている。
おそらく、「他にも一般の人たちがいるんだから、大きな会話はしないこと!」なんて
注意を受けているのでしょうナ。

また、もちろん、いい若いモンなんですから、こんな古びた神社仏閣なんぞに来たくなかったのだろうというのも想像できる。つまらないよ、こんな古い場所・・・。
しかし、景色はよいし、空は晴れているし、友達どうしなのだし、仁王像は見上げれば感心するくらいにこちらをむいて「あ、うん」なんて言ってるわけだから、もっと楽しそうになるはずだ、とわたしは勝手に思いながら、その子たちを見ていました。偏見ですがね。

するとですね。
私たちの行列が通りすがって、その子たちの前を通った時、なんだかすごくこっちを見るのがわかったのですね。こっちはがやがややっています。そんなにうるさくはないけど、「おお仁王像すげえ」とか「先生、のど乾いたー」とか「先生、おさいせんあるの?」とか。
高校生はお行儀良く、わりと物静かにしていました。
で、私たちが通り過ぎるのを待ちながら、こっちを面白そうに見ているわけね。

わたしはそのときになにか、こう、すごく高校生に話したくなった。

だって、ふだんは小学校の教室の中に、まあいい方が悪いけど、
「閉じこもって勉強してる」
わけですよ、こっちは。

それを、生きた勉強ができるっていうんで、バスに乗って外へ出てきた。
いわばシャバに出たわけだ。
教室以外のところでこそ、学べることも多いだろうし、本当はそっちの方が多いんだろうと思うね。人生経験を積んでくると、そういうことも実感されてくる。
だから、こういうところへ来た小学生と、高校生とが、こんなふうに時間を同じくして過ごすんだったら、お互いに交流したらいいのに、と

教師の直感でぴんときた

状態になりました。
わたしの頭の中にはさまざまな発問が湧いてきて、授業のシナリオがぐるぐる頭の回転とその遠心力によって、ふわふわ浮かんできた。

たとえば、小学生と高校生と2人ずつグループになって、お互いに神社仏閣についての感想を言い合うとか、この寺についての印象、知識を一つずつ教えあうとか、もっともインスタ映えする場所と角度を見つけ、お互いに意見を交わしながら紅葉の写真を撮るとか、一緒にこの寺の『ゆるキャラ』を考案してみるとか。

小学生は高校生の知識の量と、気の利いたアイデアに驚くだろうし、
高校生も小学生にわかりやすいように自分のアイデアについて説明をしなければならないから苦労しそうだけど、それを乗り越えたところに、大きな満足もありそうに思う。
ただ時間をつぶしている、というような状態とはちがって、「学びの場」になろうと思う。

そういうことをすれちがっている20秒くらいの間に、脳内のシナプスがパパパパとスパークしました。

でも、勇気がないし、時間もないし、という言い訳を心の中でしてました。
で、最後に、向こうの担任とおぼしき同世代の男の方とすれちがって、そのまま小学生の列の先頭に立って、ご本尊のお近くへ行き参拝しました。「ああちくしょう、いいアイデアなんだけどなあ」と思いながら。

わたしはいろいろとこれまで多数の予言をしており、このブログでも公表しているのですが、
これでちょっとひらめきました。
おそらく、5年後、10年後の修学旅行って、たぶん小学校単体とか、高校単体とかではやってないと思います。

小学校はできるだけ他の学校と交流する、他の団体と交流する、
できるだけ異年齢と交流する、なんてのがスタンダードになっていく気がする。(予言)

また、同じ中身を市内のどの学校でも、ほぼその通りになぞる、という修学旅行は、もう無くなっていくのではないか。
隣の小学校はこうしたから、うちもこうする、というのが消滅していくのだろうと思います。

もっと発展すると、去年こうしたから今年も同様に、というのも無くなっていくだろう。

それからもっと進むと、隣のクラスがこうしたからこっちも同じようにこうする、というのも無くなるだろう。

さらに一歩進めると、クラスのこの子が課題にするものと、あの子が課題にするものと、ちがってくるかもしれない。

そうなると、いよいよ文科省が提唱する『個別最適化』が本格的にスタートするんだろうと思う。

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『個別最適化』を読み解く

文科省が出している答申ではこう述べられている。

『全ての子供に基礎的・基本的な知識・技能を確実に習得させ、思考力・判断力・表現力等や、自ら学習を調整しながら粘り強く学習に取り組む態度等を育成するためには、教師が支援の必要な子供により重点的な指導を行うことなどで効果的な指導を実現することや、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどの「指導の個別化」が必要である。
基礎的・基本的な知識・技能等や、言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力等の学習の基盤となる資質・能力等を土台として、幼児期からの様々な場を通じての体験活動から得た子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、探究において課題の設定、情報の収集、整理・分析、まとめ・表現を行う等、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が学習が最適となるよう調整する「学習の個性化」も必要である。

 「指導の個別化」は一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し、個々の児童生徒に応じて異なる方法等で学習を進めることであり、その中で児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくことなども含みます。ICTを活用することで得られる新たなデータも活用し、きめ細かく学習の状況を把握・分析したり、個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくことで、確実な資質・能力の育成につながっていくことが期待されます。また、学習履歴(スタディ・ログ)、生活・健康面の記録(ライフログ)等、児童生徒に関する様々なデータを可視化し、学習方法等を提案するツールなど、新たな情報手段の活用も考えられますが、そのような新たな情報手段の活用も含め、児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 「学習の個性化」は個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げることを意味し、その中で児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくことなども含みます。例えば、情報の探索、データの処理や視覚化、レポートの作成や情報発信といった活動にICTを効果的に使うことで、学びの質が高まり、深い学びにつながっていくことが期待されます。また、児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう、教師による指導を工夫していくことが重要です。

 この点に関連し、平成28年答申でも、子供たちが自分のキャリア形成の見通しの中で、個性や能力を生かして学びを深め将来の活躍につなげることができるよう、学校教育で学んだことをきっかけとして、興味や関心に応じた多様な学習機会につなげていけるようにすることも期待されている、とされています。[脚注3] 主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善の中でも、児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設けるなど、児童生徒の興味・関心を生かした自主的、自発的な学習が促されるよう工夫することが求められています。

「指導の個別化」「学習の個性化」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」ですが、これを教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」です。学習指導要領の総則では「児童(生徒)の発達の支援」の項目において、「個に応じた指導」の充実を図ることについて示しています。[脚注4] 「個に応じた指導」に当たっては、「指導の個別化」と「学習の個性化」という二つの側面を踏まえるとともに、ICTの活用も含め、児童生徒が主体的に学習を進められるよう、それぞれの児童生徒が自分にふさわしい学習方法を模索するような態度を育てることが大切です。』


これを読み解いていかなければならない。
いったいどういうことなのか?
100人の先生がいたら、100通りの解釈のできるものなのか?
それとも、100人の先生が、この文章の意味を、きっちり1つに解釈できるものなのか?

上の文章の中で、「児童」が主語になっている部分を列挙してみた。
これからの時代に児童生徒が自ら学ぶ内容について】

1〇児童生徒自身が自らの特徴やどのように学習を進めることが効果的であるかを学んでいくこと
2〇一定の目標を全ての児童生徒が達成することを目指し
3〇個々の児童生徒に合った多様な方法で学んだりしていくこと
4〇児童生徒が自らの状態を様々なデータも活用しながら把握し、自らに合った学習の進め方を考えることができるよう
5〇個々の児童生徒の興味・関心等に応じた異なる目標に向けて、学習を深め、広げること
6〇児童生徒自身が自らどのような方向性で学習を進めていったら良いかを考えていくこと
7〇児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、取り組んでいけるよう
8〇児童生徒が自ら学習課題や学習活動を選択する機会を設ける
児童生徒がこうなるように、上記のような学びができるように、教師は指導をせよ、というのである。

肝心なのは、これを学校生活のどの時間にするべきなのか、というテーマだ。
時間を指定しないと、先生たちは日ごろの行事や授業推進日程に忙殺されてしまい、具体的に実行しないまま時が過ぎる、ということにもなりかねない。時間をいつ、と断定することが大切だ。

1)すべての学校生活を通して上記を実現する
2)総合的な学習の時間内に上記を実現する
3)特別活動や学活の時間に上記を実現する


さて、どの時間帯なのだろうか?

とくに、7番目の
児童生徒がこれまでの経験を振り返ったり、これからのキャリアを見通したりしながら、自ら適切に学習課題を設定し、というのは、具体的にどのタイミングで行うことなのだろうか?

これが、いわゆる「個別最適化の時間不明問題」である。

いつやるの?

学習指導要領には言及されていない。

だれか、文科省に聞きに行ってくれる第三者はいないだろうか?

というのも、教員がこれを文科省に尋ねると、すぐに県教委や市教委に電話がいき、担当者から

「なんでいきなり文科省にきくんですか」

と叱られてしまうからである。

だって、市教委に聞いても、県教委に聞いても、よくわからないんだからしょうがない。

このブログを見た文科省の先生、ぜひ教えてください!
コメント欄からでだいじょうぶです。
よろしくお願いします。

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麻痺していく言語感覚と価値観のゆらぎ

1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説。
それが「1984年」だ。
これを教材にできないかと考えている。
SDGsを学んでいくうえでの大切な視点を、子どもたちが学べると思うからだ。

物語の中は、特別な世界だ。
この世界の市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

これは子どもたち自身が感じ始めていることと、非常にリンクする。
たとえば、学校で使うipadは、すべて検索の履歴や表示の履歴が教育委員会のサーバーに残っている、と聞いて、
「え?これみんな親にばれるの?」とTくんが不安な顔つきになったのもつい最近ことだ。
Tくんはそれ以後、ipadでゲームの検索をするのをあきらめた。
いわば、実体験があるから、「当局によって監視」されているというのは、よくわかる。いや、これまでのどの時代の子どもたちよりも、このことの意味はものすごく肌で実感できるのだと思う。
つまり、ようやく、時代が追い付いてきたのだ。この「1984年」というSF小説を教材とする、もっともふさわしい時代になったというわけ。

1984-Big-Brother
小説では、主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄(かいざん)作業を行う。それが彼の仕事業務なのだ。
改ざん、ということの意味について、小学生の子には今一つぴんとこないだろうが、中学生以上なら理解できるだろう。
つまり、1984年は「・・・ということになっている」という建前が唯一の判断のもとになる世界であり、けっして【合理的な事実】によって何かを判断するのではないのである。

さて、この1984年の世界については、もっとも大切な「嘘とはなにか」が、SDGsにはもっとも大事になってくる。具体的には、SDGsの数々の目標を達成するために、どうすれば良いのか、という点について様々な考えや視点があるが、なかには合理的で実際のものではなく、虚構や偽りがまぎれこんでいるかもしれない。ここは重要なポイントだ。

たとえば、プラスチックではない、紙ののストローを使っているからわたしの消費行動は善である、という論理はどうだろう。ストローを植物繊維でつくる紙製のものに替えたら、その人の行動は残りも含めてすべて〇(まる)かというと、そうとは限らない。しかし、「わたしはこんなに気を付けている」(だから他のことは多少どうだっていい)という免罪符になってしまうのではないか、という点だ。
これが企業規模になると、もっと大きな話になる。庭に草木を植え、社員がマイカー通勤をしないからエコに取り組んでいるのだとしても、当の企業が地下水を汚染したり必要以上に汲み上げたりしているのなら、SDGsに資しているとはいいがたい。

そういう意味で、SDGsには厳しい「内省の目線」が必要であり、大きくは前進することが難しくても、一人ひとりが自然や社会に対して真摯に向きあうことが大事なのだ。そして、人として『お天道さま』に恥じない行動をとろうとするることが重要なのである。それは決して、「見た目」をとりつくろう精神では達成できない。周囲にうしろ指をさされるからやるとか、悪い評判がたつのを防ぐため、というのではだめだ。「わたしはとりくんでいる」ということにしておこう、というのでは不純である。形や見た目、体裁をととのえる目的ではSDGsは成り立たないのだ。「ということにしておく」という建前では、意味がない。あくまでも、合理的・実際的に、事実として目標達成に近づくのでなければ。

そのことを小学生が学ぶために、SF小説を授業の教材に持ってくるのは、いささか飛躍しすぎだという人もいるだろう。しかし、事実よりも「・・・ということになっている」ということにする、という欺瞞が、この小説ほどにわかりやすく示されているものもないと思われるため、これを選ぶしかないのが現実だ。

他に、身近な事例があればそれを教材にしてもいいのだが・・・。

最期に、1984年の世界でもっとも有名な言葉を紹介しよう。
この小説の中では、町中に党のスローガンが掲示されている。
戦争は平和である (WAR IS PEACE)
自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

人々は、この矛盾した言葉を何度も頭に叩き込むことで、違和感をなくしていく。
当初はふつうに「おかしいな?」とか「それは筋が通らない」などと思っていても、どんどんと教育されていき、しだいに「感覚がマヒしていく」のだ。

「WAR IS PEACE」を連呼するうちに、麻痺していく言語感覚。
これらは、二重思考、と呼ばれる、思考コントロールの技術だ。
アクセルとブレーキを同時に踏むかのような、本来は矛盾した言葉を繰り返すことで、人の感覚は麻痺していく。
つじつまがあわなくても、しだいに平気になっていく、困惑した心理。
筋を通すのが本当だ、という感覚がなくなっていき、「どうでもいいや」となっていく思考放棄。

1984年の世界では、この「言語感覚の麻痺」こそが、みんなが落ち着いて暮らせるすばらしい社会にするための、最初の政策だ、ということになっている。

政府が、人々の「まっとうな言語感覚」を放棄させるため、あえて意図的に仕組んだ言葉とロジックの破綻(はたん)この作戦がじわじわと人々の心に作用し、ついに1984年には、主人公のスミスは、心を破壊させてしまう。スミスは愛情省の「101号室」で自分の信念を放棄し、党の思想を受け入れ、処刑される日を想って心から党を愛するのであった。

きちんと筋を通したい、と思う子どもが育つか、あるいは
筋など通さなくても、どうでもいい、と考える子が将来の日本をつくるか。
この「1984年」こそが、教科書に載るべきだと思うネ。なんたって、今年の大学共通テストの世界史Bにこの小説が出題されてるんすからナ・・・。

世界史B
1984年

侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!

『侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!』
という記事が、スマホの画面を派手に飾る。
どの記事も、選手ががんばった様子やうれしがっているコメントを載せている。
識者が「感動した!」と興奮する様子が、だいたいその記事の後半にくっついている。

オリンピックのこの報道。
スポーツをさらに面白くするためには、この報道のスタイルをほんの少し変えることだ。

野球は世界的にみると非常にマイナーで、人口の少ない競技であります。
だからなかなか参加する国も少ないし、これまでも五輪の公式な競技にはならない場合があった。

私自身はそのことをとても惜しいと思うし、クリケットと比較してもそん色ないほど、ベースボールはショーとして見ごたえのあるスポーツだと思う。

五輪での日本の金メダルは、「野球がこんなに面白い」というのをアピールする良い機会だ。しかし、金メダルをとった、というだけの報道しかないのは惜しいことだと思う。

多くの人にとって、野球のルールや面白さは、あまりよくわからないと思います。
それは言語化されないし、記事にもならないから。
ところが、野球というのは、たった一球にドラマが詰まっているのです。
その1球を、解説してくれたら、もっともっと、野球の楽しさが伝わるのに、と思うのです。

たとえば大昔のことですが、「江夏」という大投手がいました。
この江夏の話で、ノンフィクションの小説が出ているのをご存じでしょうか。
1979年の11月4日に大阪球場で行われた、プロ野球の日本シリーズの第7戦の近鉄バファローズ対広島カープの試合で広島のリリーフエースである江夏豊が9回裏に投球した全21球のことを、小説にしたのです。あるいはこの話は、NHK特集で1時間の番組にもなりました。
なぜこんなに注目されたのでしょう。

それは、「投球内容が詳細に説明された」からです。

実は、毎試合ごとに、野球と言うスポーツには壮大な物語が生まれているわけですが、だれもそんなの気にしていないために、記者は記事に書いたりはしないのです。
これは逆なんだと思います。
記者が、そこを記事にするようにしていくと、多くの人が野球の本当の醍醐味を知り、

おもしれえなー

と興奮するようになるのです。

ふつうの人にとっては、解説がなければわからないのです。
なにも見ないで聞かないで、試合を見ているだけでそこまで到達できる人は、ほんの一握りのマニア、というわけです。

江夏の21球とは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。
両チーム初の日本一をかけた日本シリーズ。
近鉄も広島も、両チームが譲らず、3勝3敗で迎えた第7戦のことでした。
7回表が終わった時点で4対3と広島カープがリードしていました。

広島が1点リードで迎えた9回裏。
日本一をかけ、江夏豊がマウンドに上がります。
江夏の投じた1球目は、6番羽田耕一にセンター前ヒットを打たれ、広島に暗雲が立ちこめます。
近鉄は1塁に代走を送ります。羽田に代わり、シーズン代走盗塁記録をもつ藤瀬史朗を送ります。

ここで、球場は割れんばかりの歓声につつまれます。
藤瀬選手は、ものすごい足が速く、この年には盗塁をばんばん決めていたからです。
江夏はピンチを迎えます。

ノーアウト1塁。
迎えた7番クリスアーノルドに対して、江夏はボールを2つ続けて出してしまいます。
この時、もちろん江夏バッテリーは盗塁を警戒するわけですから、こうなるのも無理はない。

4球目に見逃しのストライク。

さらにこの後です。

5球目にボールとなるのですが、藤瀬がスタートして盗塁を決めます。おまけにキャッチャーの送球がそれてしまい、ノーアウト3塁という決定的なピンチを迎えるのです。

やばいですよね。
心臓がバクバクする展開です。
ノーアウトですよ。
同点のランナーが3塁にいるんですよ、それも足の速いやつが。
そして、カウントは1ストライク3ボール。

決定的に不利じゃないですか!

このあと、21球まで江夏は投げるのですが、結局0点に抑えて、広島が優勝するのです。

1球ごとに、江夏と水沼捕手との間に、あるいはベンチとの間に、言葉ではない、水面下の作戦が展開されるわけですが・・・

こんなもの、球場で見ている人にもわからない。説明されないと。
しかし、説明されると、すげえなあ、となる。

そうなのです。
野球は小さな活動が一つ一つ、積み重なってゲームを構成する。極端に言えば、投手の投げる一球ごとにドラマが枝分かれしていく。
だから、そのドラマの行方や可能性をさまざまに考え、実際の投手と捕手がどう判断するか、それらを野手が理解して動けるのか、そこがみどころなのだ。

しかし、それを選手と同じように感じたいと願うなら、さまざまなデータや意味の把握に長けた解説が必要になる。

うまく解説し、どうして選手がそこで悩んだのか、なせその行動を選んだのか、教えてくれる人が必要なのだ。

前の打席でこの球をファールにされているから、組み立ては似ているけれど最後の1球だけ全くちがう球種にして裏をかこう、と捕手が考えたとする。

しかし、投手は自分の制球が今一つ調子が良くなく、最後のスライダーがすっぽぬけたら『まずい』と考える。

投手が首を振ると、捕手はその意味をすぐに理解し、ではちがう作戦に出よう、とまた新たな提案をする。

たった数秒間にこれだけの情報のやり取りを行うわけです。球場でもテレビ中継でも、それらをぼーっと見ているわれわれのような大多数の観客には、その意味がなかなかつかめない。やはりマスコミがそれを解説してくれることが必要だ。

今回の五輪報道でも、江夏の21球のように、この回のこの投球の組み立てはどうだったのか、と細かく教えてくれるといいのだが。

野球ファンが新たに増えるチャンス。
ぜひNHK特集で、今回の五輪のこまかなドラマの内実を、詳細に伝えてほしい。

きっと、江夏の21球、魔術のような「スクイズ外し」に負けないようなドラマがあっただろうと思うね。

スクイズ外し

【悲願の金】←変わるかも

子どもたちと15年間ほど、毎日いっしょに暮している生活が続いている。
なんとなく感じているのは、これまでとは常識がちがってきている、ということ。
マスコミがつくってきたストーリー、映画でつくられてきたストーリー、世間でよく語られてきているストーリーとは、またちがった個人のストーリーをたくさん見てきた。
そして、人々が求めているものは、必ずしも、世間で語られる価値観とは一致するわけではない、ということに、遅ればせながら私も気付くことになった。

「みんながみんな、〇〇がほしい、というわけでもないよね」

こういう話をすると、多くの人が、「そりゃそうさ」と言う。
みんながみんな、ポルシェに乗りたいわけではない。
場所や用途によってはポルシェは不要。
ポルシェはかっこいいけど、堆肥を積むのは軽トラが良い。
そんなことはみんなわかっている。

実はそんなことをねがっているのではない、というのはよくある話だし、自分のことをふりかえると、たしかに実感できる。

そこで、以下を考えてみてもらいたい。
金メダルがほしいか、といわれると、「そうでもない」という人がいることに、あなたは驚く?それとも、それはそうだろうな、と思う?

これを子どもに聞いてみる授業を、2学期になったらやってみようと計画している。

なぜこんな授業を思いついたかと言うと、日刊スポーツの以下の記事を読んだからである。
https://www.nikkansports.com/sports/column/ogishima/news/202108040001225.html
2021年8月5日1時48分:
「国も順位もなし」がスケボーの常識 このカルチャーで「五輪が変わる」

スケボーの世界には、より難易度の高い技に挑戦することにリスペクトがある。
それを尊重しあい、お互いに励ましあう。成功すればみんなで喜び合う。
「いっしょに競技をする相手を応援する」「相手の成功を願う」
そこには『個人』はあるが、国の別や政治の力は働かない。政治を寄せ付けない、と言うべきだろうか。

また、結果よりも過程を重視する、という感じがある。
結果がどうあれ、どう挑むか、挑む気持ちがあるか、挑戦しているか、ということに最大の注視がある。だからなのか、金メダルだった、銀メダルだった、などに興味関心がそれほどいかない。もっというと、どこの国の選手がメダルをとったかなどは、話題にすらならない。そもそも、自分の国籍に頓着していない。人気にあやかりたい政治家にとっては、もっとも扱いにくい選手たちになっている。

マスコミも、どう報道してよいか悩んでいるふしがある。
よく記事のタイトルに「悲願の金」という言葉が使われる。
「金にしか意味がない」とメダルの色にこだわるのは、よく聞く話だ。
それは間違ってはいない。柔道でもレスリングでも他の競技でも、間違ってはいない。

しかし、スケボーには「悲願の金」という使い古した定番の文句が書けない、使えない。
記事を書く人間は、スケボーにだけは、苦心してタイトルをつくらねばならない。

金メダルが悲願ではないと?
では、選手はなにを願って、人一倍つらい練習をこれまでしてきたのか?

スケボーに出場する個人は、一人ひとり、ちがう人格をもつ。
その一人ひとりが、いったい、何を願っているのか。
それが国威発揚のためでもなく、親や恩人・コーチのためでもないのなら、いったい何を願っているのか?
金メダルを取ることが、目的ではないのだとしたら?

これを授業の核に据えたらどうか。

スケボーの選手たちは、なにを願っているのだろうか?


子どもたちは、いったい何を感じ取り、どう考えるだろうか。

スケボー

【驚愕!】サンデーモーニングで【Z世代の紹介】が!

若いころから『Z』というアルファベットには、人しれず情熱を覚える質(たち)である。
なんといっても、アルファベット26文字の最終段階。
これ以上はあとがない、という文字。
おそるべき宿命を負った、最終的な字なのだ。

さて、そんな怪しい興奮はそっちに置いておいて、昨日のTBS番組『サンデーモーニング』をご覧になっただろうか。そこで、なんと『Z世代』と呼ばれる若者たちのことが紹介されていた!『Z世代』・・・もうすでにご案内の方も多かろう。

わたしはサンモニの放映を直接は見てはいない。嫁様の号令のもと、庭の草むしりに夢中になっており、見逃したのだ。しかし、夜になって知人(先輩)のフェイスブックに投稿があり、それを知った。

動画を見てびっくり!

まず、ドイツのアンゲラ・ドロテア・メルケル首相がなんとも慈愛に満ちた聖母のごとき表情で
「アメリカ国民ありがとう」と言っていたので、まず最初のびっくり。
これは2017年にパリ協定を離脱した前トランプ大統領の方針から180度ひっくりかえって、今のバイデン氏が「また気候変動に備えて削減します」と宣言したのを受けて、だ。
メルケルさんも齢をくい、お顔のしわは確実に増えているものの、こんなふうにはっきりと【希望】と【道しるべ】を語れるのはすごいと思う。

気候変動サミット

さて、気候変動はおそろしいスピードで環境を壊そうとしている。
これまでも人類は「自然と調和してる」と思っていたはず。
ところが実際は、かなり人類側のわがままと暴力だったみたい。
20世紀にかなり自然をいためつけてきたらしく、どうやらこのままではまずい、ということになってきた。21世紀は人類という大きなくくりで協力せねばならず、これはなかなか「難しい」。

人間は業が深く、どうしても自然を痛めつけないではいられない。
原発だってやらないではいられないし、核を制御できる、何万年も地下に埋めて安全に管理できる、と思いたいのが人類である。

ところがZ世代は、なかなか現実派だ。どうしても理想論に傾きやすいバブル世代と違い、現実に足元をみつめて少しずつ毎日の暮らしを現実的につくっていきたい、と考えるらしい。

考えてみれば、原発、という幻想も、ただの楽観論に基づいた「理想」にすぎない。
原発推進する方の心情は、5歳の男の子と同じだ。
5歳の元気な少年が、「ぼくだって、スキーできるよ」と言いたい気持ちと同じだろうか。たしかに最初ちょっとすべって、「ぼくスキーできる」と言いたくなるのはわかる。
ところが、そのあと、道なき道を、予測できない道を、ぜったいに安全に、ぜったいに失敗せず、はるか遠方のゴール?をめざして進み続けることができるとは、なかなか思えないのがふつうではないだろうか。
自分はけっしてケガをせず正確な道を決して間違えることなく進んでいける、というその自信はどこからくるかというと、おそらくただの、「認知のゆがみ」でしかない。

その20世紀風の認知の仕方を訂正し、21世紀風の現実路線でいく、というのがZ世代の特徴だろうか。もうリニアモーターカーや原発に、空想的な幻想をいだくという姿勢そのものが、老いた世代の「認知のゆがみ」なのだろう。

わたしも50代。バブルも経験し、あの頃の熱狂的な軽薄ブームの享楽さも、ちゃんと覚えている。しかし、楽しかった気分は、やはり引き締めなければならない。現実に目覚める必要がある。
「おじいちゃんたち、いつまで夢を見ているの?現実を見て」
それが、Z世代の声であろう。実際にサンモニを見た多くの若者が、そういいたいのではないかと思う。

さっそく、GW明けに教室でこの動画を見てみようと思う。
そして、ベン図で比較する。
左が「20世紀」、右が「21世紀」だ。
左が「理想論で動いた時代」で、右が「現実を見て動く時代」だ。
左は「人間が自然を制御できると信じた時代」で、右は「自然と人為の調和をさぐる時代」。
左は「ぼくたちはまだ生まれていない時代」で、右は「これからぼくたちが現実に生きる時代」だ。
ベン図旧世代とZ世代比較

考えてみれば、五輪というのも、たぶんに幻想的なものだ。
気分はたしかに消費できる。いっときの興奮も得られるだろう。
しかしそのあとに、医療のリソースを東京に割いてよかったのだろうか、多額の税金を他に使えなかったのか、というとても切ない反省会が国会で開かれることになり、これはたしかに現実的に厳しくつらい時間になりそうだ。
つまり、五輪を「幻想的・理想的・一時的・ムード的」にとらえるのが20世紀だとしたら、
Z世代は五輪を「現実的・事務的・継続的・ロジック的」にとらえるのだろう。

旧世代は焼き鳥屋で酔っ払ってくだを巻く客のようなものだ。
「原発作ってモーターカーを走らせれば理想と夢の世界が広がって便利に・・・くどくど・・・」
たいしてZ世代はそんな客を軽くいなして帰宅させる店のお女将さんのような存在で、
「まあまあそんな理想ばかり言ってないで、ささ、召し上がったらもうええ加減終わりにしないと終電も出てしまいますよ。さあさ、お勘定にしなはれ」
居酒屋でも気候変動サミットでも、実際には現実派の方がどうやら優勢のようで・・・


焼き鳥屋の客と
教室の子どもたちは、2010年生まれなので、Z世代よりもさらに下、ZZ世代と呼ばれるようになるのかも。

あなたは悲観的な未来を描くかそれとも・・・

小学生こそ、今の世の中について意見を言わなければならない。
なぜなら、「当事者だから」。
あきらめ気分の大人を叱咤激励するか、あるいはお疲れ様、と大人の肩をやさしくたたくか。
いずれにしても、

「当人たちが生きて働き、夢を持ち希望をたずさえて、子どもを産み育て、育つ社会」

なのだ。
それを、無関心にさせておいていいはずがない。
今の教師が子どもたちにこそ、

「大いに意見を言おう、まちがっていたとしてもいい」

と言わねば。
そして、子どもたちの意見に「それはまちがっている」といえる大人はほとんどいない。
なぜかというと、こんなに問題が山積みなのに、子どもの知恵や意見を借りないわけにはいかないし、大人が全部課題を解決できるという保証もない。

大人が言えるのは、

「まちがっているかどうかはわたしたちにもわからない。やってみよう。ともに」

ということだけだ。

先日書いた記事
にも書いたが、
いつの時代も、課題は山積みだが、それにむけて希望も同時に見えてきているはず。
わたしたちが子どものころもそうだった。携帯電話をみんなが持つようになる、という夢物語をきいて、「そうなったらどこにいても連絡が取れるから、どんなに便利だろう」と思った。

実際に、便利になりましたね。
たしかに、みんながスマホで写真や動画やテキストをやり取りするようになり、一層理解しあえるようになった部分もある。
しかしその一方で、それ以上に世界が広がりすぎて、やはりまだ「知らない、よくわからない」ということも爆発的に増えたようだ。ヘイトなどを安易に信じ込む人が増えたのも、逆にこうして「近くに見えてきた(ように感じる)」という感覚、とらえ方に影響を受けていると思う。断片的な情報ばかり増えたからね。人が一生のうちに口にする断片的なうわさ話の量は、江戸時代に比べて数億倍に増えているらしいから。

私の嫁さまは、モスクワの天気を見て、本日の愛知県の気温と比べて

「モスクワって寒いと思ったら意外とあったかい日もあるね」

としゃべっていたが、モスクワの天気など気にならない暮らしを何十年もつづけてきたからか、毎日のようにこうしてモスクワの気温と自分の住んでいる町の気温を比べることの良さが、今ひとつわからない。しかし嫁様はとてもこの行動を楽しんでいるらしく、

「だって、世界中の人の様子を想像できるし、おもしろい」

という。
モスクワ

モスクワの人が今日はセーターを脱いで、軽めのカーディガンとか薄めのジャケットで過ごしているのを空想し、

「ふふふ、モスクワの人も春がきてうれしいねえ」

と毎日5秒くらい、考えるのだそうだ。
あほか、と思うが、今はそういう楽しみ方もできる、ということ。

1980年代も2020年代も、そういう意味では変わらない。
できることもあるし、困ったこともある。
また、今後できそうでクリアになる課題もありそうだし、
逆に、さらにリスクの増す課題もありそうだ。

そんな中で、子どもたちが国連に働きかけたり、企業に働きかけたり、新聞社に手紙を書いたりするということには、非常に意味がある。
で、どうやってプラスチックを減らし、どうやって水源を守るかを大人を巻き込んで運動していくことについては、大人が勇気をもって、彼らを勇気づけねばなるまい。大人もまだまだ力不足なんだと認めて。

子どもを勇気づけるのに、大人の勇気がまずは必要だというオチ、ね。

加速する未来への『心の準備』を小学生とともに

〇空飛ぶ車
〇量子コンピュータ
〇3万2000の遺伝的疾患
〇寿命脱出速度の加速
〇培養肉
〇量子ドット
〇脳が直接インターネットに繋がる
〇メタ知能
〇学歴の意味はなくなる
〇水がもっとも希少な資源となる

漫画<アキラ>の中で、大友克洋氏はオリンピックの中止を予言した。
予言というものの中には、たまには当たるものが、混じっているようだ。

上記の予測は、予言というよりはもうすでに実際に進みつつある現状だ。
したがって、ほぼ100%、世の中はこんなふうに進んでいくらしい。
水の問題は深刻で、水源を確保した企業は最高に儲かるが、水源を確保できなかった自治体は生命のカギをにぎられ、弱体化するとのこと。(日本の山のふもと、水源になる土地は、これから世界中の多国籍企業が買い占めていくだろう)

固定電話の権利というものが、ずいぶん昔は売られていたものだが、今はそれを買う人はほとんどいない。「固定電話には価値があるだろう」と信じる人が多い場合は、それが売買され、利用する人も出る。学歴も同様。固定電話と同様に、「うーん、要らないかな。なくても平気かも」という人が徐々に増えていくだろう。そうなればなるほど、学歴を信じてもらえる世界はほとんどなくなり、信用する人もいなくなる。企業も学歴を信じるのではなく、実際のその人物のアビリティを見極めるようになる。

さて、現時点で小学生の子どもたちは、なにをどうすればいいのか。
わたしは、子どもたちが「未来予測」をすればいいと思う。
未来がこうなる、という予測をするには、そうなる証拠を集めなければならない。
また、それが単なる雑な情報なのでなく、論理的に推理できるための有力なデータでなければならない。ごみのような情報か、有力なデータか、見極めるのがむずかしいのである。しかし、そこを小学生なりに真剣に考えていくのが楽しいのではないだろうか。

国語算数理科社会も、もちろん大事だ。
音楽体育道徳家庭科も、むろんだ。

しかし、「未来予測」ほど、楽しい学びは、他に見当たらないくらいではないかと思う。
人間は、未来を考えるのが、基本的には楽しいのではないかと思う。特に子ども時代は。
(わたしはもう若くなく、日曜日にちょっと畑を耕した程度ですでに腰が痛い。人生も折り返し地点を過ぎたようだと、未来はあまりどうでもよくなってくる気がする。しかし、死ぬまでになにができるかを考えるのは、基本的には楽しいことにちがいない)

空飛ぶ車

宿題をマインドマップで考えさせると・・・【思考ツール】

どうして小学校で思考ツールが流行し始めたのだろう。
文部科学省初等中等教育局視学官としてご活躍されている田村学という先生がいる。
その先生が以前、中学校の授業で思考ツールを使ってみた。
「深い学び」っていうのが、これじゃないか、ということになり、タブレット端末とも相性がよいことから、徐々に広がってきたようだ。
文科省の中でも話題になり、全国で講師になって招かれる主事の先生たちがこれを取り上げているようで、現場の先生たちにこれらを紹介したことで、全国的な流行がきているようだ。

思考ツールの原点は、古代インドの曼陀羅だ、という人もいるし、いや、イギリスのトニー・ブザン氏のマインドマップだ、という人もいる。
また、いやいや、カードを使ったデータ整理法「KJ法」で有名な川喜田二郎教授だろう、という人もいる。トニー・ブザン氏と川喜田二郎氏はお互いに仲が良く、ともに「頭脳の取扱説明書」を探し当てようとして研究をすすめた同志であったようだ。

わたしは大学生の頃に「KJ法」に出会ったが、それはとある講習会で、答えがあるようなないような、禅の問答のような思考実験をくりかえしていたさなかに、
「この講習会でこうやってあれこれと考えていた川喜田先生が、ここからヒントを得てKJ法を提唱された」
と聞き、なんじゃそれは、と思ったことがきっかけだった。

たしかに人間の思考というのはとらえどころもなく、拡散すると思えば収束し、結論を導いたと思った瞬間にまたわからなくなり、まことに思考というのは妙なものである。
また、一人の頭脳があるキーを探し当てて夢中になっていると、その人のつぶやきを聞いた別のある一人が、あたかもパスボールを受け取るようにして思考を進め、それを聞いてさらに新しいひらめきを得る、ということが起きる。
思考とかひらめき、脳のインスピレーションというのは、キーとなる要素が複雑にからみあい、遠くのものが一瞬にして結合し、どんどんともつれあい刺激されあいながら、汲めども尽きぬ知恵の鉱脈のように再生産を繰りかえす。

小学校で「学ぶ」ということが、これまでは知識中心であったが、そういう時代が今こそ本当に終焉するらしい。国語辞書、百科事典、新聞記事、研究者ネットワーク、ぜんぶインターネットにまかせる。それでよい、ということのようだ。いまやスマホで簡単に、学会・学術ネットワークにもアクセスできる。
これまでは、「そうはいってもな」という雰囲気があった。そうはいっても、知識は必要だし、その情報を蓄積するのは、授業でさまざまなことを学びながら少しずつ、ということであった。

でも、どうやら文科省は、本気らしい。今度こそ。

人間は、知識の量がどうこうというより、「思考する」のだ、という感じ。
わたしだって、小学生が思考ツールを使いこなす、ということに、大きく違和感を持つ世代なのだが、どうやら時代はそういうことになってきているようだ。

で、そもそも大きな目的が、

「自分で自分の学びを計画できるようにさせる」

ということのようなので、

わたしはそれこそ、「宿題を自分で思考して計画し、決めていく」というのを、子どもがやったらいいのでは、と思いついたというわけ。

では具体的に、なんだろう。どんなツールで?

昨日からずっとそれを考えていて、

トニー・ブザン氏の マインドマップか。
あるいは川喜田二郎氏の KJ法か。
それとも、古代インドに源流を置く、マンダラートか。


この3つのうちのどれかで、いちばん小学生向きなのが、トニー・ブザンかな、と思った次第。

KJ
写真は、川喜田次郎氏。

『ずるさ』の学習~トーンポリシング~

道徳で、『ずるさ』を考えた。
ずるいという意味が人によって異なるため、一応の定義をしなければならない。
基本は「相手を自分の思う通りに操作しようとする」動作を「ずるい」と規定した。
意見を押し付けようとする動作はすべてこれにあたるから、意見の押しつけはすべて「ずるい」ということになる。

これはネットに広がる言論を理解するために必要なリテラシーの一つで、小学生の時代に学んでおくべきネットリテラシーの学習の一つに分類されている。
いわゆる、「思い込み」「きめつけ」に陥らないための相続力スイッチである。
欧米では、相手の意見を封じ込める言い方、対応の仕方を「トーンポリシング」といい、やってはいけない、と指導されている。しかしまだまだ人は思い込みが強く、相手を自分の都合の良いように操作しようとするから、トーンポリシングに対抗する力を得るには訓練が必要だ、ということになっている。大人でもパワハラで苦しんでいるんだから、これからの新しい時代を生き抜いていく子どもたちには絶対に必要な素養だと考えられているのでありましょうな。

このトーンポリシング、という言葉を知ったとき、ポリシング、というのはポリスと同義かなあ、と思って調べてみたら、やはりTone Policingで、Police(いわゆるポリス、警察の原義にあたる言葉で、統治、監視、というような意味)の親戚筋にあたる言葉であった。

授業では、「どっちもどっち」ということを題材にした。
いわゆるネットにはびこる、「DD論」である。
これはリテラシー授業では初歩の学習だけど、たぶんなんとなく子どもたちも日常で耳にしたりであったりしたことがあるからだろうと思う。

〇どっちもどっちじゃないか。別に問題視することはない。あなたが言える立場じゃない。
〇あなたの方にだって問題がある、課題があるじゃないか。指摘する資格がないよ。
〇言い方が悪いんだよ。そんな言い方では伝わらないからダメ。聞き入れてもらえなくて当然。

どれも今苦しんでいる人にどう聞こえるか、という視点で授業を進めます。
ネットでは冷笑系、と呼ばれている『反応の仕方』に分類されているようだけど、その冷たさを十分に味わいます。ロールプレイングをすると、みんな硬直したような表情になる。

「ひでえ」

思わず見ていた子が反応してつぶやいた一言です。
そう。冷笑って、キツイんですね。当事者ならそう思える。


どうして冷笑になるのかというと、過去にうまく伝えられなかったトラウマがあるから。
うまく伝える、という「伝えてよかった」経験値がかなり低く、伝えることに自信がないから、冷笑、という「ひねくれた」表現になってしまって病的になっている。

ところが子どもはまだそのトラウマがないか少ないから、ひねくれてこじれた大人よりもしっかりと物事に向き合えている。子どもの持つパワーですね。

「〇〇くん、〇〇してね、ときちんとお願いしたらいい」

それが授業で子どもたちが見つける答えです。
かんたんです。

「もう少し、机をうしろに下げてほしい」

これが言えるかどうか。

「おかずをもう少し多くよそってほしい」

これが言えるかどうか。

「机をえんぴつでコツコツやるのをやめてほしい」

これが言えるかどうか。

言えない子が、冷笑系に走る。走りやすくなる。あるいはそうなる素地を「抱えてしまう」。


きちんとお願いできる子は、きちんと交渉している。相手を尊重している。

冷笑する子は、孤独に悩んでいる。孤独におびえている。過去のトラウマにおびえている。
それで、お願いの仕方や友達の反応を悲観的に想像して心をこごえさせている。
しかし、友達のあたたかさや血の通ったコミュニケーションを思い出せば、きちんと話してみよう、と相手を尊重することができる。
心が柔軟性を失ったとき、想像力を失ったとき、あまりにも硬直しきったときは、相手を「あなたのそれはトーンポリシングじゃないか!」と(←逆トーンポリシングという)非難することさえ起きる。自分を守ろうとしての精一杯の努力なわけだ。言いたいことを言うことすらできず、相手の言動を封じようとここまでひねくれることがあるのだから、やはり人間は自分の伝えたいことをしっかりと伝える、ということができにくく育っているものらしい。

【発問1】
自分「かばんをここに置かないでよ」
相手「え?もっと早く言ってくれたらよかったのに」

言われたときに感じた気持ちはどうだろうか。
まず自分でノートに書く。できるだけくわしく。
そのあと、みんなで交流。発表しあう。
心が広がり、安心感が増えたかどうかで判断する。
「伝えてみてよかった、と思えたかどうか」

【発問2】
自分「わたしのこと、テリーって呼ばないで」
友人A「伊藤だからそう呼んだんだよ。そこまで傷つくことかなあ」
友人B「悪気はないんだからいいじゃない」

言われた時の気持ちを考える。
「お願いしてみたときの気持ち、お願いしてみてよかったと思えたかどうか」
「そのあとこう言おう、と考えましたか。そのつづきは、どう答えますか?」

【発問3】
(自分の側で考える)
自分が、今、苦しんでいる、という気持ちを伝えることができましたか?

【発問4】
(自分の側で考える)
相手に配慮してもらえる、という安心はありましたか?

【発問5】
(相手の側で考える)
相手を自分の思い通りにさせようとしたかどうか。
こちらの気持ち、自分の思いを伝えることはできたかどうか。

【発問6】
相手の心の状態がよくなったと思いますか。
自分の心の状態がよくなったと思いますか。

【発問7】
このやりとりの良くない点、欠点はなんですか。

【発問8】
トーンポリシングをどう思いますか。

〇わたしとしては、最後の「トーンポリシング」という言葉を、小学生段階で知り、使いこなせる言葉にできる、というのが、この授業の目的のように思う。

「われわれが論争するとき犯すかもしれない罪のうちで、最悪のものは、反対意見のひとびとを不道徳な悪者と決めつけることである」(ジョン・スチュアート・ミル)

2

「タブレット端末を家に持ち帰る」で職員室大論争

卒業式が終わり、いよいよ職員室は戦闘モードに突入した。
これから学校の公的文書の中では最後の砦と言われてきた、「要録」づくりが始まる。
それと同時並行で、
〇どの先生が異動になるか
〇その先生の仕事をだれがどのように引き継ぐか
〇そもそも次年度の校務の分掌はどのようにするのか
〇備品の紛失はないか
〇教科書をどの部屋において、チェックするのはいつか
〇教室は来年度どの先生がどのクラスがどのように使うか
など、多岐にわたるチェックと大引っ越し作業がはじまるからだ。
なんせ、異動だけで十名を超える。
小規模な学校だと約3分の1が異動である。学校が変わる先生も大変だが、残る先生も引っ越しだ。2階から3階へ、というだけならまだしも、別の棟や建物に引っ越すとなると、なかなか大変だ。

愛知県内を東西南北くまなく異動した経験から、引っ越し大名、と言われるS先生が、途方に暮れたような声で
「あの荷物、どうやって引っ越そう」とぶつぶつつぶやいており、周囲の先生たちから失笑を買っている。
S先生は独自に作成する教材教具づくりのプロであり、その教室内での実践は子どもたちからも人気があってすばらしい。ところがいざ今日になってみると、それらは宝物ではなく、ただ単に引っ越しをしにくくさせる厄介な荷物に見えているようだ。

さて、そのさなかに「職員会議」と呼ばれる御前会議が10くらい計画されており、そのつど、次年度のための非常に重要な決定がされていく。次年度は、ほぼここで出された線で、実行されていくのだ。
「3月の時点で、方向が決まっておりました」
というのは、どの先生も使う、いわば伝家の宝刀だ。年度途中でさまざまな意見が出てきても、最終的には担当の先生がこの時期に出した「この方向」と呼ばれる答申が職員会議で承認されていたら、どの先生もそれに従わざるを得ない。

頭の中は、しっちゃかめっちゃかである。

目線の先には引っ越しの荷物が見えており、頭の中は次年度の運動会のことを考えており、ところが参加している職員会議ではGIGAスクール構想について議論している、というのが、今、全国の多くの小学校でもくりひろげられている実態だろう。小学校は全国に2万校ある、といわれており、教員は40万人いるらしいから、その40万人の中の半分は、こうして目線と頭と会議が乖離していると思う。(個人の印象にすぎません)

さて、今日はひさびさに血沸き肉躍る大論争がもちあがった。
GIGAスクール担当の私と、職務上それを進めざるを得ない教頭が矢面に立ち、一斉攻撃を受けた。

実は、市から、

「今度くばられるタブレット端末を、家庭に持ち帰って自主学習などに使え」

という指針が出されている。

ところが、これが職員室に火をつけた。

「1年生が無事に持ち帰れるとは到底思えません!」
「1年生の中には、ランドセルのふたをしめないでひっくり返している子が日常的にいます!」
「田んぼの中に落としても無事なんですか?防水とか?」

tanbo


わたしはおどおどしながら体を揺らし、前かがみになって手をもみ、

「いえ、防水ではありません。田んぼに落としたら、その時点で故障確定、電源は今後いっさい入りません」

というしかない。
そのあまりに無責任な回答に対し、おおー、というどよめきが起きる。
あちこちの島で「無理よねえ」「こんなの許せない」というつぶやきまではっきりと聞こえてくる。
わたしは追い打ちをかけるように、

「ええ、持ち帰ってもし使ったとしても、充電ができない、という問題があります」

教頭がうらめしそうに私を見る。

「なぜなら、家庭には充電ケーブルは配られないし、電気代がかかることに嫌悪感を示すご家庭もあるだろうと思います。また、無線LANで接続できるはずですが、おうちでその設定をしなければならず、無線LAN機器のSSIDと呼ばれるパスワードを入れたりとか、一定のご負担をご家族にお願いすることになります」

「それを、児童全員に強制する、ということでしょうか!」

定年近い年配の先生は、ほとんど怒声に近い声でそれを言う。

「そんなことを、勝手にこっちで決めてしまっていいんですか?第一、保護者にはなにひとつこういった説明をしていないじゃないですか!」
「無線LANがある前提のようですけど、みんながみんな、そうじゃないですよ!」
「そうですよ、保護者の中には、そんなこと聞いてないよ、という人も多いと思いますが!」

わたしは目線を下げ、ほとんど腰を曲げて、その怒声をうやまうようにして聞く。

担当者というのは、こういうものだ。
ちらっと、テレビでこういうの、見たことあるな、と思う。
政治のしりぬぐいをさせられる官僚が、こうやって頭をさげているのを見たことがある。

「とにかく、タブレットを家に持ち帰る、なんていうのは、現段階では保護者の同意がない限り、学校側で勝手に決めてしまうことではないと思います!」

ほとんどの先生がそれに賛成だった。
わたしと教頭は、引き下がった。

さて、どうなるのだろうか。

鄧小平が「富める者から豊かになれ」と指示したのが先富論であった。
しかしそれは巨大な格差を生み、中国はいまだに人口の半分以上が貧困に悩んでいる。
李克強首相が掲げる経済政策で、貧困層を救う「リコノミクス」が提唱されるが、それも遅々として進んでいない。おそらく、富んだ者が社会全体を親愛の情で見つめる、というのは理想に過ぎない。富んだ者は自身がつかんだ経済的な富は、競争の中で勝ち取ったと理解する。それは、弱者を切り捨てる、ということと同義だからだ。

写真は、リコノミクスを掲げる李 克強(り こっきょう、り こくきょう)首相。
RIKOKKYOU


タブレットを学校に配備し、児童が使えるようにする、というのは、必要なことだと思う。
しかし、あまりにも、そのことを進めるための、地盤整備が遅れている。

「えっと、新間先生、その場合、家庭に『充電ケーブル』を配るんですか?」

わたしは、それを聞いたとき、とっさに充電ケーブルをアマゾンでポチりたくなった。購入数のところを、「500」にして。

ブルース・スプリングスティーンの『ボーン・イン・ザ・USA』

中学生のころ、洋楽が流行した。
わたしもご多分にもれず、友達といっしょにレコードショップでLPを探したり、ビルボートのチャートを毎週チェックしたりしていた。
懐かしすぎる話題なので、LPが分からない方は「LP(エルピー)レコード」をググってください。

友だちはお小遣いをはたいてLPプレーヤーを買ったところ、ものの数年で販売される新曲がことごとくCDばかりになり、唇をかんで悔しがっておりました。わたしは貧乏でしたらかどちらも買えず、ずっとカセットデッキでしたね。東芝のちっちゃい奴。宝物でした。

友だちがレコードをレンタルすると、その話を聞きながら、同時にカセットを仲間内で貸してまわしていき、一通りなかまの間をカセットが回ると、みんなで音楽の評価を語り合うのがルールになっておりました。

その中に、「Born in the USA」がありまして、狂ったように繰り返すフレーズが耳にこびりつき、癖になるような感覚を覚えました。
歌詞を知らずに聞いていると、なんとなく元気が出てくる。
テンポもいいし、大声で叫ぶ感じもすごく明るい。
わたしは最初、すごく人々の元気を鼓舞する歌だと思った。

ところが・・・のちに自衛隊に入隊した友人のKくんがこれを大のお気に入りにして、何度もこの歌に関する様々な話をしていたのですが、歌詞が絶望的に暗いのです。
体制側への強烈な皮肉を込めた歌詞で、聴くだけで陰鬱な気分に囚(とら)われること間違いなし。
『俺はアメリカに生まれたけれど、この自分の悲惨な運命はどうしても国家の判断ミスからそうなった』といわんばかり。「Born in the USA」は強烈な国家への皮肉を込めた、愛国反戦歌なのでした。

この愛国反戦歌の大好きなKくんは、その後無事に入隊し、今ではけっこうえらい人になっているらしい。いいよね。強烈な国家への皮肉と哀しみを、いつも好んで口ずさんでいた彼が、自衛隊のおえらい人になってるって。・・・なんか、いいでしょう?

ところで、星野源くん。
みなさんは、彼が大みそか、紅白歌合戦で歌った曲を覚えておいででしょうか。
彼の歌もまた、歌詞にとらわれずに聞くと、とても元気が出てくる。メロディやリズムに癒されながら、最後には元気が鼓舞される雰囲気がある。
紅白で熱唱したのは、「うちで踊ろう」の紅白バージョンなのですが、歌詞の中に

「僕らずっと独りだと 諦(あきら)め進もう」

というような言葉がありました。

孤独だと諦(あきら)めよ、というのですから、なかなかの言葉です。
諦める、という言葉の意味はいったいなんだろうか、と深読みしたくなる。
ともすると、なんだか鬱になりそうなほどの、暗いイメージがします。
曲は明るいのに、歌詞は暗い。このあたり、ブルーススプリングスティーンとかぶります。

しかし。

あきらめる、というのは、元は、明らめる、ということ。
あきらかにする、という意味だったそうですね。
だとすると、そんなに暗い言葉では、ない。

独り、という言葉にも、否定的なイメージを持つ人が多い?・・・かもしれないが、結局、自分が自分をお世話することを最高に楽しくやろう、という意味ですから、それがやれるのがまずは第一だというわけ。独りでもかまわないし、独りでいい。むしろ、独りでこそ、まずは自分自身を最高にお世話しようとするだろう、という。

他のためになにかしなければ、という余計な道徳観念でなにかをするわけではなく、わかりもしないのに、おせっかいな不都合を相手におしつけるわけでもない。頼まれもしない圧力ほど厄介に感じるものもないのですからな。だいたい、自分がしてほしいことを、相手が本当に理解しているはずがない。自分がしてほしいことを、一番細かく丁寧にキャッチできているのは、自分。

星野源くんの歌詞の本当の意味は、本人に直接尋ねていないから分からないけれど、緊急事態宣言が出されるかという瀬戸際で、なかなかの歌詞だったな、と思います。
ブルース・スプリングスティーンも、ときの政権や体制に向けて強烈なパンチをくらわせた歌をうたったのですが、源くんもある意味、世の中に対して強烈なパンチを見舞った感がありますね。

「僕らずっと独りだと 諦(あきら)め進もう」

まさに原点。
「自分を世話する」を全世界の人間が真剣にやる、という時代です。
まずは自分をかわいがろう。それも、とことん。

星野源

コロナで変わる学校

コロナの情勢が厳しい。
かつてない勢いで陽性の人数も増えているし、死者も増えている。
緊急事態宣言についても検討されている。
英国は一日に5万人の陽性が出て、恐怖に陥っているらしい。
なんでもこれまでのウイルスとは違う、変異したモノだとか。
学校も変わらざるを得ない。

以下、おそらくそうはならないとは思う、ならないとは思うんだけど・・・
でも、だ。
もし仮に、実際の感染者やコロナが要因と認められる死者がさらに驚くべきスピードで増加したら。
そう考えて・・・
今から、日本の小学校教師として、思考実験をやってみる。
最悪の事態を想像してみようと思う。

学校は、もしかしたら休校措置がとられるかもしれない。
また、9月入学をふたたび検討することになるかも。
もしくは、どの学年も1年の休眠措置(冬眠のような)がとられるかもしれない。

そうはならなくとも、学校はいつ休校になるやしれない。
あるいは、従来の進度を気にすることなく、大幅にその学習内容が緩和されるかもしれない。
もしくは、小学校6年間が合計8年間のように増えるかもしれない。
その8年の間に、これまでのような6年生までの分を勉強してください、というように、

これまでの8分の6に、スピードが緩和される

などの措置が出るかもしれない。
これは世界的にコロナウイルスの変異種がさらにさらに増加し、休校が繰り返されるなど、あまりにも特殊な場合の予想だ。

で、そうなると、社会が、学校が、法律が、これまでの常識が、すべて、いったん見直し。
0(ゼロ)からみなおしになりますね。ゼロからってすごいです。
家と学校とで、両方で子どもはどう日中を過ごすか、ということが大きな課題になる。
これは大きいです。本人にとっても家族にとっても、学校にとっても。

宿題をバンバンだして、課題をせっせとこなす子どもたち

というようなことでは、もうしのげないのではないか、と思うね。
だって、教えてないことも、どんどん勉強してほしいもの。

要するに、

学校で習わないことも、自分で勉強できる子ども

に育てることが、学校の大きな使命になるかもしれません。

となると、保護者の側も、大きな発想転換を求められます。
だって、子どもが自分で勉強するんですよ。学校で習ったことがないのに。
昭和・平成までの思考なら、考えられないことですな。
「学校で教えてもらってないことを、子どもが分かるはずがないでしょう」
と多くの親も考えるかもしれない。

しかし、コロナの情勢如何では、もうそうするより、他の道がなくなる、ということです。

学校はずっと休校のようになるかもしれない。これまでのようなイメージでは続けられなくなるかもしれない。
オンラインで教えればいい?
たしかにそうするのも必要でしょう。
しかし、今の大学の講義のように、オンラインがいかにやりにくいかということも分かってしまったので、メリットもあるかわりにデメリットの大きさも考えると、オンラインの授業さえできれば大丈夫、というふうにはならないでしょうね。

昨年の春以後、多くの大学がZOOMや録画等でオンラインの授業を行ったようですが、なかなか厳しい意見もあるようです。
調査では、「あなた自身が最も好ましいと考える授業形態はどちらですか」との問いに対し、「対面授業」と答えた学生が54%に上り、「Web授業」の22%を大きく上回った。

「秋学期もWeb授業が継続されるとなれば賛成ですか、反対ですか」との問いには「賛成・どちらかと言えば賛成」が40.1%、「反対・どちらかと言えば反対」が59.9%で、ほぼ6割の学生が対面授業の再開を望んだ。Web授業の継続に反対する声は下級生ほど強く、1回生では7割近くに達している。
朝日新聞Globe+の記事より抜粋


小学生でも、自分で「まなびの計画」をたてて、自分で興味を持ってしらべたり考えたりする、というのがスタンダードな学校のスタイルになってくるかもしれない。

となると、学習の計画ですね。
これを立てられるようにならないと。
そもそも、

興味を持って ⇒ しらべて ⇒ まとめてみる

このことのスタート地点に、小学生が立つこと自体が、難しいのですね。
多くの学校の先生が、いちばん苦労しているのも、そもそも興味をもってもらう、ということです。
国語も算数も社会も理科も、音楽も家庭科も体育も。
いろんな資料や情報を小出しにしながら、子どもの目がちょっときらきらしてきたり、自信をもって意見が出てくるようになってきたところで、大きな課題に向かわせる、というのが定番。

興味を持ってもらうために、子どもに物を見せたり、資料をつかませたり、話してみたり、ということが必要なんだけど、それが個別にできるかというと難しい。

でも、それをしなければ、最悪の事態に備えることができない。
ここらをずっと、この先、われわれは考えていくことになりそう。

小学校の先生の仕事の中心が、教室で知識を注入することではなくなって、
その子なりの学習計画が立てられるように支援するマネジメントが本業になってくる。
学校には、その学習計画をちょっと背中を押すために集まってきてもらう、ということかな。

どう?次の学習はどうする?
こんなのから興味をもてるかな、ちょっと本を読んでみようよ。
どうかな、まずはいろいろ見てみよう。
友だちはこんなレポートを書いて発表しているよ。どう?


こんなやりとりを、ひとりひとりが教師とやって、納得したら家に帰っていく。

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ピンチをチャンスに

世界中がピンチだ。
ピンチをチャンスにする。

どうしてそう思うかというと、無理がでてきた、ということは、
「変えろ」のサインだと思うから。

なにを変えるかというのが難しい。
「変えなきゃいかん」
と気負ってがんばったら、さらに悪くなる、ということもある。
これまでの日本はそういうことが多かった。
ひとつの答えらしきものを求めて、それがわかったと思ったら突進する。

民営化が正解だと頑張ってみたらそうでもなかった。
JRは民営化で成功した!民営化しかない!と思っていた時期が長い。
給食も民営化するとサービスが向上するはずだと思ったら、ちがっていた。
給食が民営化されたとたんにコストカットで悲惨な給食になっちゃったとか。だれも食べない給食の残飯を捨てるのにすごいコストがかかってるとか。企業はその処理費用もまた給食費に寄せるから、ますますコストカットされて・・・
ほかにも、民営化が正しいと思って突き進んだら、市民病院がつぶれて医療が崩壊とか。
つまり、「勤勉なバカほどはためいわくなものはない」という格言通りになることも多かった。

大事なのは、ひとつの答えをみつけた、と思うな、ということだ。
それが答えだと思っても、考えることをやめてはいけない。
教科書に書いてあるからとか、えらい先生が言ってるからで「正解」と決めてはいけない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
考えることをやめると、人間社会というのはとたんに停滞する。

ソ連が崩壊したのも、マルクスレーニン主義だけが正しいとしたからだし、
江戸幕府も朱子学が国学であり、唯一の正しい学問だとしたとたんに停滞した。
蘭学が入ってこなかったら、さらに何十年も停滞しただろう。
同じように儒教だけが正解と思えば停滞するし、そんなのは歴史の枚挙にいとまがない。
人間というのは、たった一つのドグマに依存するということを、してはいけない存在らしい。

コロナで学校も毎日消毒している。
机も水道の蛇口も。
教室には常にアルコール消毒液がおかれているし、給食中はだれもしゃべらないことになっている。
子どもたちもけなげに頑張っている。

これまでのことを思い出すと、大きな声でおかわりのじゃんけんなどしていた。
それが今はできないが、おかわりじゃんけんをしていた時代がなつかしいとさえ、感じる。
もう、そのころには戻れないだろう。
学校は完全に変わった。

これからは、学校がひとを集められなくなるかもしれない。
そうなる前に、児童が自分で追究していく学習スタイルをとるしかない。
学校主導ではなく、個が確立して学ぶスタイルだ。
まだ個が確立しているとはいえない児童だからこそ、そこを支える。
もう、教科書は半分でいいのかも。
コロナに合わせて、教科書の改訂も必要かもしれない。
あるいは、教科書を全部やらんならん、という思い込みを外すか。
そのどちらかが、すでに必要になってきているのかも。

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『学びの最適化』に向けて

学びの最適化、ということが叫ばれて久しい。
なぜ最適化する必要があるかというと、人間が「学び続ける」ためでありましょう。
学校を卒業してしまったとたんに、

「あーあ、せいせいした」

というのであっては、まったく学校というのは価値がない。
その後の人生を、生涯にわたって豊かにしていくために学校がある。
そう考えたら、「一人ひとりが、自分が学び続けるための強固なエンジンを身につける」のが学校という装置であります。

学ぶというのは、常に自分の中の情報や価値観や考え方、感じ方をリフレッシュするということであって、それがなければ、ただの奴隷以下。生きる喜びは一切皆無でしょう。

自分が自分として学び続けられるようになるために。
他とともに知恵を分かち合い意見を比べることのできる身近な共同体があればなお豊かだ。
これを具体的に実現させるのが、小学校の責務だ。
現在の小学校の基本方針は、コレでありましょうし、もうすでに長いこと、こうやって学校は成り立ってきた。

さて、ところが学校の現在の実情としては、少々上記から、ずれた部分がある。
たとえば、ある子が急になにかのきっかけで、算数の熱が高まり、算数が異常におもしろく感じちゃったらどうするか。4年生なのに、方程式にめざめてしまい、代数とかに興味が出ちゃったら。
今日はもう、国語じゃなくて、社会じゃなくて、大好きな体育よりも給食よりも、なにをおいても算数、算数、となったら。

現在のカリキュラムでは対応できません。
4年生は4年生の学習をすることになってる。
しかしこれは逆にいうと、ものすごく親切に、その子にだいたい合うように、カリキュラムが組まれている、というわけで、これはこれでたいしたこと。実にすぐれたシステムがすでにできあがっている、というわけ。
しかし、これからもう一歩、頭一つ抜け出そう、というのがSociety5.0だ。

これからの学校は、
1)基本的な学年に応じた従来のカリキュラムでの学習
を基本にして
2)個別の素質や習熟度、要望に応じて組み立てることのできる学習
を付け足し、ハイブリッド型にしていくことになるだろう。

このハイブリッド方式のうちの2)を積み上げていくためには、その子なりのカルテのようなものがあったらいい。個別の学習計画と呼ばれるものだ。これを電算化して、本人や親、そして周囲のクラスメートも、さらには担任も、それを見ながら助言するようにしたらいい。


朝の10分間の活動で、子どもたちが一人一台のタブレットにアクセスし、自分のポートフォリオを見ながら計画する。

本人「よし、今度はこういう学習をしたいな」
クラスの友達「Aくん、それもいいけど、こんなのはどうかな」
親「この間家族でこんな話をしていたから、こんな勉強もつけたしたらどう?」
担任「では、図書館でこんな本があるから、これをまとめてみたらどうだろう」
クラスの友達「いいねえ。じゃあぼくも関連した勉強をするから、終わったら二人で発表会をしようよ」

これをデジタルでやる。
デジタルはこういうことは強い。
一度に情報が共有化される。
デジタルは、分類したり、仲間を見つけたり検索したりが得意だ。
このことが、「デジタルの世界が寄与できる、学びの最適化」だろうと思う。

担任は、教える、というよりも、助言する、という立場に、どんどんとなっていく気がするね。
授業の上手な、快活な先生もいいけど、いつもそっと静かに、近くにいる先生、というのも、渋くてよいでしょう?


二人で1

【ついに】『ごはん論法』が教室でも!

ごはん論法、という言葉はどれほど一般的か、分からない。
わたしもたまたま姉との会話で教えてもらっただけで、ふだんからニュースもテレビも見ていないから、ちょっと知らなかった。

ちょっと調べると、こんなふうに紹介されている。

ある言葉にAB二通りの意味がある場合、どちらの意味であるかを明らかにせずに、その言葉を使い、Aだと思わせておいて、あとで、都合が悪くなると、AではなくBの意味で使ったのだと居直る論法を「ご飯論法」という。【文春オンライン 池上彰「WEB 悪魔の辞典」】

以下が、いわゆる「ごはん論法」である。
Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」

Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

Q「では、何か食べたんですか?」
A「お尋ねの趣旨が必ずしもわかりませんが、一般論で申し上げますと、朝食を摂る、というのは健康のために大切であります」

Q「いや、一般論を伺っているんじゃないんです。あなたが昨日、朝ごはんを食べたかどうかが、問題なんですよ」
A「ですから・・」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。ご飯、白米ですね、それは食べましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の食生活をすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、大臣としての業務に支障をきたしますので」

これをこのまま教材にしたら、子どもにとってはとても学習しやすいと思うが、ときの大臣の答弁のひどさを指摘して作ったものだから、ちょっとまずいかもしれない。

ごはん論法には、2通りの種類がある。
1)意味の縮小ではぐらかす
2)意味の拡大ではぐらかす

実際に起きた国会での答弁がきっかけで作られた『ごはん論法』は、上記のタイプでいえば、縮小タイプである。
ごはん、というキーワードが(白米)も(パン)も含むのに対し、わざと(白米だけということに縮小)して答弁しているのだ。
これは、悪いことをして、それをなんとか隠さなければならないという場合に使用する。

2つめの拡大タイプとしては、こんなのが考えられる。

Q「昨日、ちゃんと診察してもらってきたの?」
A「ああ、病院ね、昨日ちゃんと行ったよ(友達のお見舞いをしただけだけどね)」

Q「悪いところや気になるところ、全部お医者さんに診てもらってきたのね?」
A「全部といわれても、身体のことだから全部ってどこからどこまでか」

Q「診断はなんて言われたの?」
A「診断っていうかどうかちょっと分からないが、お医者さんとは話をしたから(あいさつしただけだけどね)」

Q「いや、きちんと病名を教えてほしいのよ。おじいちゃんが昨日、病院でなんといわれたかが、問題なんですよ」
A「だから、お医者さんの顔をしっかりとみて、ちゃんと話はしてきたって(偶然そこにいた医者にあいさつしただけ)」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。お医者さんとはどんな話をしたのですか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私のその時のセリフをすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、もう記憶が定かではありませんので」

これは、病院へ行く、という言葉が、ほぼ「診察を受ける」という意味だとして話をしているのに対し、わざと「お見舞い」もその意味に含めるようにして意味を拡大している。

この「意味の拡大は、ごはん論法の用法としては第二用法ともいうべきものである。
先に述べた縮小タイプなにか悪いことをしちゃったという場合に使われるのに対し、
拡大タイプは、やらねばならない重要なことをしていないという場合に使われることが多い。


なぜこんなことを考えているのかというと、もうすでに、小学校の教室に、この『ごはん論法』(主に第二用法【拡大】)が姿を見せ始めているからだ。

それは、『宿題をしました論法』である!!

Q「宿題をしましたか」
A「宿題はしたよ(算数はしていないけど、音読はやったもんね)」

Q「全部したのですか」
A「全部といわれても、ちゃんと正解したかどうかまでは分からないし、中には分からないものもあったから・・・」

Q「では、なにかやれなかった宿題があったのですか」
A「なんで先生がそれを聞くのかちょっと分からないけど、ぼくは勉強はやっぱり大事だと思っています」

Q「いや、一般論をきいているのではないんです。あなたが昨日、宿題をやったかどうかが問題なんですよ」
A「だから、宿題は大事だし、勉強も大事だということは重々承知をしております」

Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。放課後、うちに帰ってからの学習ですね、それは何と何をやりましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の家での生活ぶりをすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、生徒としてのプライバシーに支障をきたしますので」

これは隠ぺいのタイプとしては、
〇しなければならないことをしていない場合
だから、【第二用法】である。

全国の小学校の先生がた!!
事件ですぞ!!

わたしの勤務校では、
ほぼ、これに近いことが起きたらしいです!
(隣のクラスの先生談)


そのうち、
〇悪いことをして隠ぺいしたい場合
の【第一用法】も出現するかもしれない。


ごはん論法

「頭つかって考えるとか、ダサくね?」という風潮

学校というのは、なぜこんなにも嫌われるのだろうか。

いや、わたし自身も、自分が中学生だったころの一時期、学校が嫌いだったこともある。

「頭をつかってしっかり考えたいのに、考えないのってダサいしつまらない」

と、常々、思っていた。
だから、思考停止している学校の生活が、いやだった。

どのへんが思考停止かというと、

「そうじをしろ!」

という感じかな。

ただ作業しろ、という圧迫されたような感じがしたのです。
頭はいっさい使わず、思考するのを放棄して、ただ作業しろ、とパワハラ風に迫る。
これは嫌でした。

わたしが特にいやだったのは、ただ「そうじ、やれえぇッ!!」とヒステリックに叫ぶ教師。
思考停止のように見えた。
わたしがそんな話をすると、仲の良い山田くんは、「本当にそうだ」と賛同してくれていた。
おまけに、澤井君も、吉川くんも、みんな
「そうだそうだ。あんな思考停止したアホな教師はいやだよな」 と賛同してくれた。

つまり、世の中には、「思考停止は嫌だ」と考える人が、一定数の割合で、いるようである。

しかし、だ。
逆の考え方をする人も、いる。
詳しく言うと、「頭を使って考えるとか、ダサいよね」というタイプ。 さっきとは、真逆です。
この風潮も、今の日本には、かなり多くあると思うナー・・・。

たしかに、居丈高に「気候変動がー」とか「今の社会はー」とか言う人がいて、ふんぞり返って偉そうである。高慢ちきにみえる。その人たちの特徴は、ともかく高慢な感じである。そういう人たちが、「頭を使っている雰囲気」を得意げに披露しているのを見ると、

「頭つかってしゃべるのとか、政府のことをとやかくいうのとか、ダサくね?」

と思ってしまうのもわかる。


整理してみよう。
今の世の中は、次の2つに分かれる。

1)「頭をつかわないのはダサいよな」派
パワハラ親父風が大嫌い。「思考停止」も大嫌い。ともかくまっすぐ突き進むタイプが大嫌い。
話し合いが大事で、どんなことも話し合いで進めなければ納得しない。
話し合いをしないのなら、幸せになるわけがない、と考える。
(真の民主主義でこそ幸せになる。見た目や形よりも気持ちや精神性の自由さ、豊かさが大事)

2)「頭をつかうのはダサいよな」派
高慢ちきなインテリ風の「やたら早口」で、なにかにつけて「ちゃんと話し合えばいい」というタイプが大嫌い。
話し合いだけで幸せになるわけがない、と考える。
(民主主義で幸せになるわけがない。もっと見た目や形が分かりやすく豊かにならないと)

これらの2つのタイプがいて、
お互いに、相手のことを責めているようだ。
一方がもう一方に対して、「話し合いをしろ!」と責め、
責められた方は、「話し合いをしても幸福にはならん!」とかたくなに拒む。

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本ブログの筆者であるわたし、新間草海としての見解をのべるとすると、

どちらも惜しい。

わたしは、小学生が正解だと思う。

小学生は、パワハラ親父風に結論をともかく押し付けようとする、なんてことはない。
クラス会議でも、そんなふうに押し付けて押し切っていこう、という態度をとる子は、まぁー、ほとんど、皆無です。国会議員が研修で見に来る方が良いと思うね。

もうひとつ、やたら早口で結論をまくしたてる頭よさそうなインテリ、もいません。
みんな、ゆっくりです。当たり前ですが、俺だけが正解を知っている、お前ら馬鹿どもに教えてやる、というふうな子は、一人もいません。

小学生は、ゆっくりと、じっくりと、結論を急がず、でもたしかに毎日のように前進します。
ともかく、一生懸命に考えることに価値をおくのです。そして、より良きをさぐり、まず、だれかいやな思いをしたり悲しかったりする子はいないか、と考えるのです。「〇〇ちゃんが泣いているよ、どうしたんだろ」というのは、小学校生活では本当に大きな事件なのです。

そして、結論を急げ!というような、外野の声には耳をかしません。
小学校では、締め切りがどうこう、というのはありませんから。
あわてたうえに、結論がこれだ!と興奮して思い込んで、
あとで悔やむなんてことは、人間が何度も繰り返してきたことです。

だって、思い込んで間違っていたら、引き返さなければなりません。
人生、よく「あるある」なのです。
オーストリアとオーストラリアを間違うことなんて、頻繁にあるのです。

急げ!と成田からオーストラリアに向かったところ、あとで

「いや、ちがうって!目的地はオーストリアだよ!!」

と言われたら・・・。

そういうことばかりです。人生は。
もしそうなったら、再度引き返すのですぞ!コアラとカンガルーのいる大陸から、急旋回で一路ヨーロッパをめざす!
もうそりゃあ、タイヘンですよ!!
おまけに、大損ですよ。コストがかかりすぎます。
しかし、多いのです。こういうことが。
原発しかり、五輪しかり・・・。

だから、結論を急げ、と言われても、慌てないのがいいのです。
まだじっくりと航空チケットを見直したり、本当に古都があるのはどちらなのか、音楽の都はコアラのいるオーストラリア大陸なのか、それともヨーロッパの方なのか、きちんと考え直しながら行動した方がよさそうです。

「オースア」のオーストリアなのか、
「オースリア」のオーストラリアなのか?
自分が行くべき先は、鳥(トリ)なのか虎(トラ)なのか、どっち?

しかし、大人になってしまったら、もう話し合いなんてしている暇はないようです。
じっくりゆっくり考えるなんてことは、大人になってしまったとたん、もう無理!
GOTO政策も、ポピトンヨードの感染予防効果も、世界の気候変動も、閣僚の靖国参拝も、黒塗りの議事録についても、桜を見る会も、教育勅語の暗唱指導をしていた某幼稚園についても、とにかく『熟慮』『話し合い』なんてしている暇はありません。
ですから、政治がこれだけ混とんとしているのでしょう。

仕方のないことなのかもしれません。
子ども時代は、少なくとも、じっくりと「話し合うこと」をさせてあげたいと思います。
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【原因と結果】こたえが2になる式を書きましょう。

国語の時間がとれないので、道徳の授業として【原因と結果の授業】つづきをやることにした。
以下、授業プラン。

学習問題①:こたえが2になる式を書きましょう。

4-2
6-4
1+1
1000-998
【原因】いろいろとある【結果】2

このことからわかること:
〇たとえば、1+1、というのはきっかけの一つ。
〇結果の2が、1+1のこととは限らない。4-2かもしれないし、6-4かもしれない。

学習問題②:
さまざまに起こる目の前の現象。
原因は一つといえるだろうか。
たとえば、『先生がこの服を着ている。原因は奥さんにほめられたからだ』は正しいか。

【原因】いろいろとある 【結果】先生がこの服を着ている。

このことからわかること:
〇奥さんにほめられてその服を選んだということはあるかもしれない
〇しかし、その服を着ているからといって、常に奥さんにほめられたからだとは限らない。
つまり、『原因』というものは、必ずひとつきりではない。

学習問題③:時計の針が3:00を指している。

【原因】いろいろとある【結果】時計の針が3:00を指している。

〇実際の時間とは無関係に、時計は動いている。
〇だから本当の時間はわからない。
〇ともかく結果は目の前の時計の針が3:00をさしているということ。

学習問題:先生が、「おなかがへった」と言った。

【原因】いろいろとある 【結果】先生が「おなかがへった」と言った。

このことからわかること:
〇本当におなかがへったかもしれないが、口で言っているだけかもしれない。
〇先生は、体の状態とは無関係に、口で「へった」と言える。
〇だから原因がおなかがへったせいだ、とは限らない。
〇先生が「おなかがへった」と口でしゃべった、ということだけ。
〇原因はひとつではない。

指示:
①例文)1+1は2になるが、2だからといって、直前の計算式が絶対に1+1だとは言えない。
上の例文のように、〇〇であるが、だからといって〇〇とは言えない、限らない、というような文を作ってみましょう。

②奥さんがほめると先生がその服を着たくなるかもしれないが、その服を着ているのは奥さんがほめたからとは限らない

③実際の時間が3:00のときに、時計の針が3:00をさすかもしれないが、時計の針が3:00をさしているからといって、実際の時間が3:00とは限らない。

④おなかがへったので先生が「おなかがへった」ということはあるかもしれないが、だからといって、「おなかがへった」といったから実際におなかがへっているとは限らない。

⑤雨が降ったら試合が中止になるかもしれないが、試合が中止になったのは雨がふったからだとは限らない。(他にも中止となり得る原因がごまんとある)

⑥雨に濡れると風邪をひくかもしれないが、風邪をひいたのは雨にぬれたからだとは限らない。


このように、実際はある現象についての【原因】は一つではないのですが、原因を一つしかないと考えることを『迷信』と言います。つまり『迷信』とは、原因が一つだとして考え、かならずそうなるとは限らないものをかならずそうなる、と信じることを言います。

迷信と戦った人に、井上円了、という人がいます。

なぜ井上円了は、迷信と戦おうと思ったのでしょうか。

井上円了は「鬼門」とよばれる迷信と戦いました。
昔の日本には、家の中心からみて、北東にあたる方角を鬼門といい、縁起の悪いことやよくないことがその方向からやってくる、という言い伝えがあったのです。そして、家の人が病気になると、北東に神棚を祀ったり、塩を置いたりしたのです。

みなさんは、この話をきいてどう思いますか?

〇なぜ北東なんだろう
〇鬼ってどういうことだろう
〇塩ってどういうことだろう
〇まったくわからないことだらけだが・・・

井上円了は、

【原因】北東から鬼がきたので【結果】熱を出した

とは考えなかったのです。
井上円了は、どう考えたのでしょう。ノートに書きましょう。

〇原因が一つとは考えなかった。
〇鬼が来て熱を出すことはあるかもしれないが、熱を出したのは鬼が来たからとは限らない、と考えた。

そうですね。井上円了は原因を一つと考える迷信をなくし、実際はどうかもっと考えよう、ある現象が起きるための原因というのはたくさんあるという考え方を日本に広めようとしました。

(この後、井上円了のやろうとしたことや経歴にふれ、井上円了のことを感想に書いて終わる予定)

Enryo-tetugaku

【温(ぬる)い社会へ!】今こそ創り変えていく時機(チャンス)!

コロナで社会が大きく変わろうとしている。
なにが正解なのか、みんな見通しを持てていない。
人の気持ちや社会通念(今までこうだとしていたこと)が、大きく変化している最中だ。

その『変わり方』で大切なのが、日本人のテンポ、だと思う。

幼い頃、おじいさん、おばあさんを観察していると、
ぬるい感じ
がしていた。

シュッとして、チャンとして、カチっとしているのが、自分の母親なのだとしたら、
祖父や祖母の家にいくと、なんとなく感じる、「ぬるさ」。

そうじ機も、自分の住む家の掃除機は、シュッとして、かっこいい。
デザインが、いい。

しかし、ばあちゃんが使う掃除機は、なんとなくもっさりとしてぬるく、
爺さまがわかす風呂は、ぬるかった、のであります。

まあ、わたしが幼かった、というせいも、ありましょう。
そりゃそうで、熱過ぎる風呂に、孫をいれようとは思わない。

いや、わたしがここで言ってるぬるさは、温度のことじゃない。

そうじ機にしても、母親なら、パッと手に取って、シュッと電源コードを差し込み、たちまちにして、サーッ、サーッ、と掃除をはじめる。

ところが、おばあちゃんはですね。
もっと、動作がのろいんです。はっきり言えば、遅い。

まず、コードが掃除機にまきつけてある。
それを、ぐーるぐる、ぐーるぐる、と・・・。
次に、ようやく掃除機をもちますが、一回で、スイッチが入らない。
何度か、指の先をすべらせて、ようやくパッチン、と入れる。

そこでサーッと始まるかと思ったら、そうじゃない。
そうじ機の吸い口が、やたらとつっかかる。なにかにぶつかるわけでもないのに、スーッといかない。
重そうに掃除機の本体を引っ張り、コードがひっかかり、ガタガタ音がして・・・音まで、ぬるい。
しかしそれでもばあちゃんは、丁寧に掃除機をかけて、ああきれいになった、とわたしにむかって、にっこりとして見せる。


今思うと、子どもを育てるのは、この「ぬるい」感じが似合うと思うねえ。
「遅い」とか、「のろい」とかだと、非難されて責められそう。

しかし、「ぬるい教育」だと、なんだか許される気がする。
とくに漢字で書くと、「ぬるい=温い」。

わたしは母親の掃除するところは、なにやら追い立てられる感じがして、見ていられなかったけど、
ばあちゃんが掃除しているところは好きで、ずーっと、飽きないで見ていられたもんネ。

子どもには、適温がある。
今こそ【ぬるい】という価値観へ、日本全体がシフトすべきだ。
断じて、元通りの「せっかち」が良い、という社会通念に戻してはいけない。
それは、多くの人を不幸にする。
ネットで注文したらすぐ届くのが良い、としていないか。
その気持ちは、どこかで宅配便の業務を圧迫しているのかもしれない。
子育ても同じだ。

全精力を傾けて、日本人が古来より大切にしてきた、ぬるさ、を復活させよう。
おそらく、日本人はついこの間まで、ぬるく、生きていたはず。
持続可能は、「ぬるい」からこそ実現できる。

family_ofuro

コロナと敬語

今朝、一年生の子が

「ねえ、なまえ、なんていうの」

と聞いてきた。

ため口、である。
いや、あなたとわたしは、タメではない。かなり、離れている。
おそらく、あなたの母親や父親よりもわたしの方が年上であるぞ。

ところが、一年生の子は、

「ねえ、これ折って」

とか、

「こっちじゃない。あっちだ」

などと、わたしをタメであるかのように、扱う。


わたしは、敬語って何だろう、といつも考えている。
敬語でなくてはならん!とまことしやかに言う人も多いが、わたしは敬語でなくても平気である。

この、敬語でなくても平気、というのは、いつからか身につけてしまった私の思考癖で、これはもう、「癖=(へき)」である以上、変えがたいものだ。

だから、一年生が敬語を使わずわたしとしゃべっているのが、なんとも心地よい。
これはもう、癖(へき)だから、仕方がない。

癖(へき)だから、敬語抜きが、心地よい。
世間には申し訳ないが、気分がいい。

周りの先生は、
「こら。ていねいな言葉で言いなさい」
と指導している。

それはそれでいいが、相変わらずその少年とわたしは、タメで話をする。
私「どうする。これ、そんなに飛ばんぞ」
子「じゃ、こっち折れば」
私「そんなに折ったら飛行機じゃなくなる」
子「棒みたいになった」
私「ただの、紙の棒だな、それは」

日本中から、世間から、いっさいの『敬語』がなくなったら、どうなるだろうか。
おそらく、そのくらいの変化が、今、世の中に起きていると思う。

コロナウイルス騒ぎで、戦々恐々としている現代日本。
あなたを感染させない、というのと、自分を感染させない、というのが、これほど如実に同意義になる、わかりやすい例がなかったと思う。

つまり、わたしとあなた、は、如実に同一価値である。

同一価値が、お互いを敬うのは自然だから、自然な流れで敬語が生まれたのだろう。
と考えれば、敬語には本当の愛が詰まっている。

しかし、「わたしに向かって敬語を使わないとは何事だ!」と王様や先生が怒るとなったら、それはあんた、ちがうだろう、と言ってやらねばならない。

大事なのは、あくまでも、自然さ、ということだ。
お互いが、お互いを、『同一価値』とわかりぬいてからの、「しぜんさ」が。
幼子も老人も、人として、個人の尊厳の価値は、同じであるわけだから。(←世界人権宣言より)

しかし、おたがいが本当の本当に、心底尊敬しあったら、敬語は消滅する気もするね。しぜんさ、という点で、タメの方がちょっと分があるかな。

↓ Universal Declaration of Human Rights.
Universal Declaration of Human Rights


【道徳】対話になるかならないかは〇〇にかかっている

対話するためには、何が必要か。
それは、「あれ?本当に、おれ、わかってないな・・・」という体験だ。
「自分はわかっている、知っている」という意識が少しでもあれば、対話にはならない。

文科省は次代の教育の根幹に、「対話」を掲げた。
対話するためには、本当のことを知ろう、という『超絶謙虚』な姿勢が必要条件となる。
つまり、「知っている」という傲慢さを、子どもたちから奪わなければならないのだ。
それが、われわれ教師の使命・・・。

文科省が掲げたテーマは、正しくは
「主体的・対話的で深い学び」
である。

今、必要なのは、主体的に自ら、
「わからない自分」
に飛び込んでいく勇気なのだ。

それを邪魔するのが、
「正しいことを知っている」
というプライド。
子どもにだって、プライドがある。そして、「対話」の邪魔をしている。
だから、授業がつまらなくなる。お互いに発表をするだけになってしまう。
先生たちも、みんなそれで悩んでいる。
「ちっとも対話にならないんですよね」
授業研究会で、真っ先に話題になるのが、このことだ。
意見をすりあわせ、昇華させていくことがないまま終わってしまうという点。
授業では、これを突き崩すための、手練手管が必要となる。

初心者の先生や若い先生がいちばん取り組みやすいのは「道徳」だろう。
成績の優秀な子や、自信を失った子、自己肯定感の低い子ほど、

正しいという価値

にすがろうとする傾向が強いからだ。
したがって、自己肯定感をはぐくむためには、正しさの正体に出会う授業を仕組むしかない。
「道徳的な正しさ」と向き合う授業を、慎重に仕組むことがこれからの教師には求められる。

ところがある意味、この授業は危険である。
教師の方に、〇〇が正しい、という意識が強ければ、授業は不可能だからである。
教師が「超絶謙虚」でなければ、そもそも、子どもとこんな授業をしてはいけない。
ひどい場合には、けっして許されないような「差別」を子どもに教えることになる場合だって起きる。すでに人類は、そのことで手ひどい失敗をしている。
太平洋戦争に突き進む、昭和初期の軍人教育は、道徳的な正しさを突き詰めた先の、「殺人」を教えているからだ。

『鬼畜米英』という言葉。
この言葉を発明し、米国人・アジア人・オーストラリア人他の殺人を遂行したのが先の戦争でありました。

道徳(的な正しさ)をつきつめたら、殺人になっちゃった。

 ↑ これが、対話のない教育の結果、である。
だからこそ、文科省は、『対話』をすすめているのである。
二度と、戦争の惨禍を繰り返さないために。歴史から学んだのである。

鬼畜米英なんて言葉を発明してしまうのは、「正しさ」に依存していたから。
「正しさ依存」というのは、ほとんど逃れようのない、文明の病である。人間は弱いため、すぐに外部評価で自分の価値をはかってしまう。ただの評判(感想)なのに、その評判こそが自分の実体なのだ、とかんちがいしやすい。
自分自身の心に劣等感を抱え、外部評価に飢えた状態であれば、なおさらだ。
周囲から「あなたが正しい(←感想)」と言ってもらえることに依存するようになる。

自分自身に価値がない、と感じている劣等感の強いパーソナリティの保持者であるほど、声高に保証を欲しがる。いわばのどがかわいた砂漠の旅人のようなもので、「自分の価値」を認めてほしいという強烈な欲求をもつ。
自己肯定感の低い子は、麻薬のように、覚せい剤のように、「正しいと言ってもらえる快感」に酔いしれるのだ。
そして、その快感があれば、あたかも自分の自己肯定感が増すかのように錯覚する。
しかし、そこに一歩、つられてしまえば、足を踏み入れてしまえば、底なし沼が待っている。
正しさに溺れ、呼吸困難になり、もう何も考えられない。つまり、「対話の放棄」である。

「対話」は、常に、「正しさ」に寄りかからない、と決める姿勢のことである。
その姿勢でいられるときにはじめて、

「ああ、こうやってみんなで話し合っていくことで、基準を変えながら、判断を変えながら、徐々に徐々に修正しながら、よりよきを願って、進んでいけるんだ」

という実感とともに、自由さの中、ほんのりとした「自己肯定感」が、胸の底からこみ上げ来るのを知るのだろう。それは、「対話」ができるようになった自分、という最強の自分に出会えたことの、よろこびからくる本当の自信なのでありましょう。

sensou_senjou

やり直しのとらえ方

やり直し、ということを、「ありがたいチャンス」と思うかどうか。
社会全体が、「省エネが良く、やり直しはできるだけ避ける子を育てている」という気がするネ。

そのためか、教育現場でも、生産性を上げることが良いことだから、能力の秀でている(とされている)子の言うことをみんなで黙って聞くのが良い、と教えている気がするが、どうだろう。


なんだか途中で、おかしいかも?と思っても、
「そんなわけない。気のせいだ」
と言って前進一路!ということになる。

前進して、景気よく進んでいる時は
「ほらみろ、正しいのだ」
となりやすい。

まだ元気だし、道はきれいだし、みんなで歩いているし、歩きやすいし。
「信じてよかった!新しい時代の幕開けだ!」
「男のロマン、夢、人間の可能性を信じよう」
って、だれかが言うと、みんな感動して、
「やってよかった、進んできてよかったのだ」と応える人も多いだろう。

ここまでは、みんなそう。


ところが、だんだん藪の草が伸びてきて歩きにくくなってくると、あれ、と思う人も出る。
「あれ?この道でよかったんだっけ?」
すると、やり直しを認めない人は、
「草など想定外だ。藪も、本来あるものではないはず。こんなことは千年に一度のことだろう」
と、誰かが言い出すと思うね。

道が無くなり、なんだか戻りたい、という気持ちが出てきた時にさえも、人間は
「いや、これでよかったはずだ。この道しかない。計画はまだ道半ばだ」
と強く言いたくなるものだ。
やっぱり計画を見直し、別の道を選ぶところ、三差路の場所まで戻ろう、という気になる人は少ないようだ。

やり直しをチャンス、ととらえる子と、
やり直しは損なコト、ととらえる子。

どちらが、未来を切りひらくか。
新しい業態を発案し、実験していくのはどちらか。

『チキチキマシン猛レース』でも、最後まで勝負は分からないもの。
ところが、「やり直し」を嫌って、間違った道を勇気果敢にどこまでも突き進もうとしたのが、第二次世界大戦でのインパール作戦だった。

昭和万葉集に、たしかこんな内容の歌があった。

『「あなたはこの戦争に負けるかもしれない、とはお考えにならなかったのですか」と、妻がわたしのうしろでそっと言った』

上記の歌、内容しか覚えていない。
うたを、そのまま正確に、ここに記せないのが残念だ。


この奥さんは、「さっさと降伏してほしかった」
と思ったことがあったのかもしれない。
しかし、時代が『あともどり』というか、「やりなおし」を禁じた。



子どもたちと、「やり直し」ってなんだ、と考える道徳の授業をしてみたら、と思い浮かべている。「引き返す勇気とやり直しは、決して無駄にはならない。むしろ正確な道を歩むチャンス」とまとめる子が出てくるのではないかな。

P7150609

「怒っているとき」の頭脳が実はヒマな件

先日、怒っているときは頭脳がたいして働いておらず、暇~である、という記事を読んだ。
怒りは興味があるものに対して脳が理解できないサイン


怒りを正当化するとき、必死に頭を動かしているだろう、と思っているけれど、実は

「怒っている」

段階で、すでに脳は合理的に動くのをやめていて、ただ自分の気分を反復し、反芻(はんすう)しているだけだ。

怒っているときは、

◎こうしてほしかった

ということを、ただひたすら、脳の内部で何度もエンドレスで繰り返しているのだ。
実際の事実としては、こうしてほしかった、というその「願い」は実現されていない・・・。

(自分が思ったような現実でないと、こうなる以下)
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現・・・(以下ループ)

脳内のニューロンは、願いを強く刻印する。
この「刻印作業」にも意味はあって、刻印すればするほど、それが順当になぞれた(達成できた)ときの達成感(ごほうび、報酬的興奮、ドーパミン分泌)が多くなる。
つまり、脳内にイメージを刻印し、その達成のあかつきに、大きな喜び(興奮)を得ようとするのだ。

ところが、現実的に、うまくいかないとき。
ひとは、願いが実現されないため、なんとかその『刻印作業』を打ち消そうとする。
その打ち消し作業は、めまいのような混乱を引き起こす。
高速道路で急ブレーキをかけるようなものだ。
急ブレーキは、タイヤと路面の間に大きな摩擦を生む。
その摩擦が、「怒り」というわけだ。

つまり、怒りは合理的思考に努めようとする脳の、正常な規制機能なのである。

混乱に気付くと、人間はアクセルを踏むのをやめ、暴走寸前だった脳の運転を、正常化させようとする。(はず!だった・・・)

ところが、人は言葉をもってしまった。



「怒り」の感情システムは、太古の昔、ヒトがまだ、言語のコミュニケーションをもたなかったころ、できあがったものだ。

神経系の発達で脳の正常化をうながすシステムであった「怒り」機構は、めまいと混乱によって、自身にそれを知らせる、人に正常性をもたらす(リカバリさせる)ためにそなわったものだ。

めまい、混乱、という信号を受け取った人類は、そこで脳への刻印作業を一時停止する。
そして、自分が客観的にどういう状況にいるのかを冷静に見極めようと立ち止まる。
1)事実をみよう、とする。

2)事実はどうか、と信号を受け取りなおす。

3)そこで、どうするかを考え、選択し、行動にうつす。

このように、あくまでも、「怒り」というのは、自分の脳の、合理的な防衛的規制機能だった。つまり、人を正常化させるために備わった、人類の「生きる術」であった。

ところが、現代人になればなるほど、その「生きる本能、もしくは生きる技術としての脳システム」を、きちんと使いこなせていないのだ。

なぜか。

言語をもったとたん、

「おれは◎◎をしてほしかったんだ!」

ということを、何度もくりかえし、相手に説明し、わかってもらおうと延々と繰り返すことができるようになってしまったからだ。

そのことは別に怒りとは無関係の行動にすぎないのだが、人はそこで混線(こんせん)し、「言語で自分の思いをだれかに説明することと、怒りの感情は、セットだ」と思い込んでしまった。

おまけに、◎◎をしてくれていない相手が、『わが怒り』の感情を引き起こしたのだ、と勘違いするようにまで堕落してしまった。

ちがうっ、つーの。(※ひとりごと)

怒りは、自分が自分のために発生させている。

相手は一切、無関係である。

「怒り」さえも、幸福への道。

人間は、最初から、一切が幸福に生きるように設定されている。

(怒りシステム研究道・初代家本「碇屋ポン太博士の怒りシステム解体新書」より)

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『虐待・いじめ・強圧』をどう考えるか

虐待してしまう、というのは異常である。
また、人をいじめる、ということも異常。
強圧的に人に接することが癖のようになってしまうこともある。
もし仮に「他人を自分の意の通りに操縦できない」という状況に陥った時、血圧が上がったり、大きな声で叫びたくなったりと、精神的に興奮してしまうというのは、異常な状態である。

なかには机の上のガラス瓶をこなごなに打ち砕く人もいる。
お皿を投げたり・・・
怒りに身をまかせて、衝動的に物を壊し始める。
これはたしかに、正常ではない。

読者は、「異常」という言葉について、どう思われるだろうか。
「異常」という感知の仕方ができる、そのこと自体が人間としてのリカバリ本能なのだろう。子どもを虐待しても正常、というようにしか認識できないようなら、ヒトはもう、「種(しゅ)」としても存続していかれなくなる。つまり、もしかしたら子を痛めつけている今の自分の状態は異状なのではないか、と自省できること自体、正常、ということだ。

自分が異常かどうか、ということについて、厳しく見ることができる。
それが正常だ、ということだろう。


さて、自分の状態が異常であれば、そうなっている(自分をそうさせている)原因を取り除けばよい。
異状からの脱却をはかること。
それを繰り返し、試みていける状態を、正常、と呼ぶのだ。


正常というのは、異常ではない、ということ。
虐待をしなくても済む、ということ。
誰かをいじめなくても済む、ということ。
強圧的に人を脅さなくても済む、ということ。

その必要を感じなくてもよくなる。
その衝動を感じなくてもよくなる、ということ。
虐待、いじめ、強迫について、正当性を主張しなくてもよくなる、ということ。

あぁ、と力を抜き、やれやれ、と肩の荷をおろす、ということ。
どっこいしょ、と椅子に腰かけて、「もういいな」と明るく思える、ということ。

この先、なにがあっても、だいじょうぶ、ということ。
なにがあっても、虐待はしない。
なにがあっても、虐待が起きない。
なにがあっても、いじめなくてもよく、強圧的に人を操縦しようと思わなくても済む。

ここに、ひとつ方法がある。
それは、豊かで生き生きとした人間どうしの交わり。
嫌悪の無い、嘘の無い、こびへつらいの無い、
上下感の無い、差別の無い、嫉妬の無い、交わり。
そうした人間関係があれば、次第しだいに、人を操縦しなくても良くなっていく。
気が付くと、パワハラ、なんていう言葉とは無縁で生きられるようになってくる。


ではどうしたらそういう人間関係を手に入れられるか。

自分の中に、「見方」を確立すること。
嫌悪感の無い「見方」になること。
ありのままを見る人になること。
偏見をなくすこと。

これがもう、大変なのだ。
「偏見」が、ぎとぎとの油のようになって目の前にこびりついている。
ぎっちりとこびりついてあるから、苦しい見方しかできない。
一年中、「ひと」への嫌悪感の中で、生きている。

「おれ?だいじょうぶ。オレ、嫌いな人がそんなに居ないからネ」
といいながら、なにかあればすぐに眉をひそめて、他の行動が気に入らないと言う。

となりの芝生が青く見えたり・・・
嫉妬の炎がめらめら燃えたり・・・

「気に入らない」がない、という状態になったら、どうなのか?


ところで、気に入らない、を深く考え続けていくと、「気に入らない」が無くなってしまう。
まるで、長年の肩こりがスカッとほぐれるように、「気に入らない」が消滅する。

当たり前だとしていることから、考え直してみよう。
修行も勉強も先生も教科書も、無いところから。
一度深く、考えてみる。それから。
再出発のスタートは簡単であればあるほど、いい。


「自分は、なんで腹が立つのか」
「なんで、いやなのか」
「なぜ、気に入らないのだろう?一体【何】を、気に入らない、としているのだろう?」

それほど、探究されていない。

学校でやればいいと思うが・・・。
英語が増えて、余裕もない、行事は減らず、教科書は分厚くなり・・・今の小学生はキツいよ。
昭和の小学生はいかに余裕があったか、思い返すと泣きたくなるくらい・・・。

こんなこと考えているような学習時間はもう無いんだが・・・でも、子どもたちと考えたい。学校でやれるといいよナァ・・・。



ついでに、大人向けもやってみたいネ。(研究会しますか?)

怒り

『尊敬する』が危険な理由(ワケ)

こういうことは、周囲に暮らす人たちから、空気を吸いながら、のようにして学んでいくのが良いと思っています。
だから、あえて『解説』のような文章を読むと、

わかった気になりやすい
ため、用心、用心。

どんな文章でも、読めば必ず自己解釈で、バイアスのかかった見方となります。

『尊敬する』は危険、という文だけでも、
その人の頭の中で、その人自身のおいたちや、学びの中身、読んだ本、影響された人、両親や兄弟や親戚からの影響、幼いころに接していた祖父母の言葉、あるいは保育者の先生たちの思考、ぜんぶ影響を受け、バイアスをかけ、理解し、把握し、感覚的に受け止めている。

だから、
文章というものは、元来、危険なものだということが、まず言えるでしょう。


しかし、その言葉をきっかけに、ひとはなにかしら考えていくことにはなるので、文章にまったく意味がないわけではありません。

よい文章というのは、できるだけ解説として、頭にすっきり入らない文章です。
その方が、誤解が少ないです。

A⇒B(AだからBになるのだ)、という具合に、すっきりと頭に入れるのは、「スッキリ感」はありますが、ほぼ自覚の無い思い込みを強めていく作用をします。おまけに、その後、考えないようにさせてしまう作用まで働く。だって、わかった気にさせてしまうからネ。

A⇒B、というふうに考えないのが良いのです。
A⇒Bではないので。

お母さんが痩せないのは、このサプリを飲まないからだ、という具合に、どんどんと、A⇒B、という狭い狭い、極小のサイズの了解世界へと、つきすすんでいきます。
まるで、小さな深い穴を掘って、みずからはまりこみにいくようなものです。

そうならないように、できるだけ、文章と言うのは、『スッキリわからせない』というものがよいのです。できるだけ、目に見える効果、というのが、あがらないのがよい。
なぜなら、その効果は、ニセモノだからです。
わかったような、気分になっただけの、害毒のある効果、だからです。


で、あえて、『尊敬する』が危険な理由、という、世の中にさもころがっていそうな文のタイトルを書いてみましたが、ここまでこの文を読んでみた人は、半分裏切られたような気持ちでしょう。
ちっとも理由なんて、でてこないから。

では、書きましょう。
『尊敬する』が危険な理由は、ざっと1000個ほど、あります。

1000個あるうちの、まず1つ目の代表的な理由は、みなさんもすぐに思いつくでしょうが、バイアスがかかっている、ということです。

つまり、色眼鏡で見る、ということです。

なぜ色眼鏡で見てはいけないのか、という理由もべつに見当たらないのですが、実際とはちがうもの(自分の感覚で受け取った印象)を見ているのですから、「誤解している」という自覚さえあれば、べつだん色眼鏡でみるのは素敵なことです。

わたしも、色眼鏡でみるのは大好きです。
朝起きて、天気を見ても、色眼鏡。
しかし、色眼鏡でいくら目を凝らして見ても、午後の天気がどうなるか、確実なことは何一つ言えないのです。ひとについても同じこと。

べつの言い方をすると、「人間は、必ず物事を自分勝手に見とり、見た気になる、という道理」だということです。人間が知らず知らずのうちに持ってしまっているこのような性質について、多くの場合、自覚がないために

「おれの判断は正しい」

という悪魔の自信にまでつながってしまいます。

俺の解釈が正しいのである、というように言い張る人を見ているのは、まわりから見ているひとにとっては、たいへん滑稽な態度に見えますが、その滑稽さもまた、人間が生まれながらにして持つ、愛すべき姿勢なのです。


バイアスには、次のような特徴があります。

偏向(へんこう)性
偏見(へんけん)性
恣意(しい)性
感覚(かんかく)性


偏向とは、『解釈の方向がかたよっている』ことです。
偏見とは、『見方(解釈の仕方)がかたよっている』ことです。
恣意とは、『自分だけの勝手な思いつきである』ということです。
感覚とは、『あくまでも感じとることしかできない』ということです。


尊敬するというのは一つの解釈の仕方のことですから、この4つがどうしてもついてまわります。
これは防ぐことができません。
歴史的にみて、この4つから、逃れられた人類は、未だにだれも、いないのです。
もし、自分はこの4つを克服した!(克服するものでもないのですが)と言い張る人がいたら、それこそ、その人自身が強烈なバイアスをかけて自身のことを解釈している、という具体例になります。


どんなにわかりやすい文章も、わかりやすい、という印象を与えれば与えるほど、この4つのバイアス性質に、たやすくよりかかっているのです。

したがって、子育ても、わかりにくい方が、いいのです。
子どもを見る際に、『ものわかりの悪い親』、である方が、いいのです。
愛情たっぷりで、いつも子どものことを思いやり、子ども目線に立つのだが、
なぜか
「ものわかりが悪い」
という親が、一番良い。

また、そういう先生が、いちばん子どもを上質に育てるのだと自分は解釈しています。

授業はすっきりしているのが良いです。
学問はわかりやすいのが良い。
数学なんてとくにそうです。

しかし、
人間の解釈については、ちがいます。
けっして、わかった気にさせてはなりません。
人生をすごす態度についても、わかった気にさせるのは害毒です。
「こう生きるのが良い」ということも、うかうかと分かった気にさせません。

たったひとつ、すっきりと伝えた方がよいことは、

「人間は自覚無くすぐ、わかった気になりやすく、事実から遠ざかっており、もともと事実を見ることができないという、バイアスによりかからざるをえない脳機能をもつ」

ということです。

したがって、

「休日にあらま先生のブログを読みましたが、こんなにいろいろな(ずっと中略)で、尊敬します

というメッセージを書いてくださった、ついこの4月から新卒採用されて小学校でがんばっておられる愛媛県在住の、おそらく女性のF先生は、

これからはうかつに、

「尊敬します」

などとは書かない方が良いと思います。ははは。


「主体的な」論考 その2

自分の人生を主体的に生きている。
そう、自覚している人は多いのではないか、と思う。

もちろん、わたしは自分の人生を主体的に生きている、と。

たしかに鎖でつながれているわけでもなく、自分で日々の計画をたて、好きなスーパーで買い物したり、今日は大根を買おう、というように買うものを選んでいられるのは、われわれ大人がだれかの奴隷ではないからであります。

ところが、

「心理的な背景をもとに、無自覚に、隠された動機で人間は活動してしまう」

ということが、ありますね。

言い換えると、

「ひとは誰でも、隠された、というか、無自覚的に、無意識的に、『意図しない動機』を持ってしまう

ということです。

背後から、支配する心理がある。

これは、『主体的』の、正反対に位置するもの。
もっとも、ひとを『主体的な生き方』から遠ざけるものでしょう。



本当に、そうしたくて、そうしている場合と、
そうでない場合がある。

われわれ教師は、そこに敏感でなくてはならない。

がんばって勉強している。
そのこと自体はとても素晴らしい。
しかし、「人から認められなければ」「良い評価を得なくては」というくらい、苦しくなるほどの動機で勉強しているとしたら、どこかに不健康さがあるのでしょう。

もっとひどくなると、「他人を見返してやらねば」という動機で、がんばることだってある。
子どもがそこまで思うだろうか、とひとは思うだろうが、それが実際、あるのである。

そして、他の子よりも自分の点数や成績が良かったことが分かると、だんだんに他の子を見下すような言動が出てくる。
わたしがそういうとき、まっさきに感じるのは、

「子どもらしさの欠如」

である。

その子らしさの欠如、と言い換えてもいい。

だれかを見下さないと生きていかれない。逆に言えば、ありのままの自分ではいられない、ということだろう。これは苦しい。どこかでツケがまわってくることになる。

「がんばっている」の背後にかくされた、自分をありのままではいられなくしている動機。
これが顕在化していればまだしも、隠されているところに、問題の難しさがある。
総じてこれが、『主体的』をむずかしくさせる原因であろう。

また、逆に言えば、

これほど「主体的」がむずかしいからこそ、文科省は何度も何度も、繰り返し繰り返し、そのことを実現したくて、実現したくて、実現したくてたまらないのである。

そして、まだ叫び続けていても、どれだけ叫んでも、なかなか実現できていかないのだ。

(本当は主体的な子が多く、どの子も素直に伸びているのが現実なんだが、社会の仕組みや常識がマッチしていないために、主体的であることを抑えられているか、もしくはすでに主体性があるのにも関わらず、それが認められていないのかもしれないーだって内面が大事、主体性が大事、と一方で言いながら、外見だけを評価してずいぶんほめそやす文化が学校教育にはいまだあるのだから)

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主体的な・・・


大きなゴールは、いったいどこにあるのか。
学校の中に、それがあるのか?それとも無い、のか?


わたしは、人生が幸福になるためには、

「自分自身が自分の人生の主人になること」

が必要だと考える。

文科省がそう教えているから、そうだと思う。
文科省は、ことごとく、「主体的な」という言葉でもって、
自分自身を主体的に行動させること、自分が自分の主人になること、を強調する。

わたしは、文科省の言うことが、すべてゼッタイに正しいといいきる判断力を持っていないが、しかしながら、他者がわたしの人生を操作する、というよりかは、はるかに
自分が自分自身を主体的に運営していく
、という考えの方が、幸福に近いように思う。


そうなるために、必要なものはなにか?

・そうなるように考えていく、そのためのきっかけになる視点。
・考えていこうとする意欲。
・自分とは何か、に向き合うための筋道。

結局は、自分とは何かを知る、という体験か。
それが学校にあるかないか、でしょうか。

・・・ところが、自分とは何か。これにどう向き合えばいいか、どう考えたらいいか、それが分からない。分かるのは、

「なにかきっかけがあればすぐに腹をたて、いろんなことが不満で、劣等感や恨みから派生する様々な悩みに苛まされ、自分の人生なのにも関わらず、まったく主体的にはなれそうもない自分」

である。

文科省は、すべての根幹に位置する理念として「主体的な個の確立」を謳っているんだけど・・・なかなか。

主体的に、というの、どういう意味か、まだ判然としない。

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してもよい、しなくてもよい、というのは本当か

数々の職を経て、転職を繰り返した挙句に教員になった。今、学校という社会の中で生きるようになっても、頭のどこかで、「これが絶対のルール、ということではない」という考えは、ずっと滲みついて離れない。現に、学校のルールだって、見直しがあり、変わっていく。ぜったいにしなければならないと思っていた行事が、来年は校長の意見で廃止されることだってある。A校長が「家庭訪問は絶対に大事」と言っていたが、B校長は「廃止します」と言える。可能だからである。

「してもよい、しなくてもよい」ということがある。
たとえば、日曜日に礼拝にいく敬虔なキリスト教徒であったとしても、基本的には礼拝に「行ってもよいし、行かなくてもよい」という認識でいるだろうと思う。(想像)
また、われわれ市民の憩いの場である公園を、ひとが思い思いに散歩することについて、「してもよい、しなくてもよい」ということが言えるだろうと思う。
居住地についても、人間は選択をすることができて、〇〇県に住むことについては、「住んでもよく、住まなくてもよい」のだろう。

ところが、「してもよい」⇒「してよい」⇒「したほうがよい」と、進化する場合がある。

なかなか公園の利用機会が増えないので業を煮やした市役所行政係が、市民は公園を利用してくださいとよびかけて、公園の利用者にはペットボトルの備蓄用水を無料で配布したとしましょう。すると、これは、「してもよい」レベルではなく、官がそれを肯定している、つまり市民としては積極利用していくこと、に進化します。

さらに、「したほうがよい」から、「しなければならない」になる場合もある。

公園を利用しないと税金を高くします、という市長が立候補して当選し、公園利用者は経済的な恩恵を受けるが、利用しない人からは税金をたんまりとる、ということになる場合がそれだ。

ほとんどの市民が、日曜日に公園を散歩しないやつは馬鹿だ、ということになり、われもわれも、とみんなで公園を散歩しだすだろう。それが当たり前の風潮になってくると、ちょっとまずい。

ある人が
「おれはべつに、散歩しなくてもいいし、したい気が起きないので、散歩しない」
というと、

「おまえ、馬鹿だなあ。税金がとられるじゃないか」
といって、馬鹿にすることが起きる。

どうだろうか。
いつの間にやら、世界が変わっていることに気付きますね。
もうすでに、「してもよいし、しなくてもよい」という世界は、そこでは消滅しているのである。
「しないやつは馬鹿だ(白い眼)」
「しなければならないのだ」
と、なっているではありませんか!(びっくりですナ!)

人間社会の基本的なルールというものは、「してもしなくてもよい」であったのに、それをどんどんと放棄していくのが、現代という社会の宿命なのでありましょう。
(安楽死・尊厳死も、そのうちに「早めに安楽死しないと税金が高くなるから、早く死ね」と行政が言うようになるかもネ。嘘ウソ・・・こわーい・・・)

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