30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

クラス会議

久しぶりのクラス会議を・・・

クラス会議を復活させました。
何年ぶりだろうか・・・。

今のクラスの実態に、合うかもな、と思ったのがきっかけです。
担任としては、いろいろと試してみるべきですし。

〇一周めに、ありがとうを言う

これが、GOODです。
ほとんど日常、ありがとう、を言ったことのない子が、小さな声でも、それを言います。
そのときの、彼の態度が、ちょっと面白い。
キザな感じになる。だけど、それをみんな、受け入れている。暖かい!!

〇二周めに、「困ったこと」を言う

2学期になって急にはじめたから、どんどん出てくる。
だけど、まるきり出ないってのよりも、すごくイイ!

「先生、すぐに解決できやんのちゃうの?」

と子どもたちから出てくるけど、それもいい。

「できそうなのを、とりあえず考えて見ようか」

「ふーん」



先週もやったけど、今日もふと時間ができたから、やってみました。
すると、前回のことが生きてくる。

子ども「前回も出たけど、また今回も出た」
わたし「どうする?」
子ども「ちょっとアプローチを変えてみたら?」

困った、と言い出した子に、聞いてみる、ということも自然発生した。

だれか「〇〇ちゃんに、どうか聞いてみて」
司会「〇〇ちゃん、どう?」
〇〇ちゃん「-うーん、まだ試してないから、A案を一週間、やってみる」
みんな「じゃ、それで」


このサイクルが回りだすと、なにか、落ち着く。

クラスが、落ち着く。

やっぱ、かっちりしたことの好きな子が多いんなら、やってみる価値あるなあ。
今のクラスなら、会議形式も、自然に進む気がする。何よりも、ルールでカッチリ進んだ方が、安心する、という感じがある。子どもによりけりだが、やんわりと、フィットするかな。


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『卒業式まで』手作りカウントダウンが始まった!

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『卒業式まで、あと30日!』

教室に、カウントダウンカレンダーが貼られるようになる。
子どもたちが手作りしたカレンダー。
毎朝、日直当番がめくって、

「ええー、みんなで給食食べるのも、あと30日!・・・えっと、これを書いたのは〇〇くんですネ」


みんなで描いたカレンダーやイラストを、日めくりして、卒業式までをカウントダウンし、ワイワイやっている。


この頃になると、なんだか本当に、言いようのない確信と、言いようのない滑稽さ、複雑な感情がぶわーっと湧き出てくる。

『叱らない先生』をやりはじめて、これで丸6年が経った。

卒業文集には、思い出の修学旅行、運動会、キャンプの思い出などのほか、「新間先生のこと」なんて記事も書いてある。
気恥ずかしくなるような褒め言葉が書かれていて、ちょっと躊躇する気持ちが出る。書き直しを、それとなくすすめてみるか・・・。いや、でもまあ、子どもが書こうとして自分で書いたものなんだし・・・。

「わたしは、6年になって、新しい先生になり、すごく学校が好きになりました」
「授業が面白くなり、よく聞こうと頑張っていると、算数ができるようになってきました」
「とくに6年生のクラスは、ぼくには最高のクラスとなりました」


「6年生になり、一度も休まずに学校に来ました」

これは、5年生のときまで、20日間以上休んでいた子。
なにかあると、すぐに休む、と言われていた子。
結局、一度も休まずに学校に来た。

A子とB子は、5年生まで犬猿の仲。
バスの座席をめぐっての長期にわたる大げんかが、保護者同士のけんかにまで飛び火しそうになった。
結局、6年生になってなにもない。

「ぴたっとやんだな」
昨年のことを知る教頭先生が、愉快そうにおっしゃる。

圧力をかけるのをやめれば、どんどん教室が良くなる。
こんな記事を、毎年書きつづけて、結局、6年経つ。

はじめの3年間まで、自分でも半信半疑だった。
叱らないでいいわけがない。
どこかに、自分でもそう思おうとする感じがあった。

でも、もう、6年間たつ。
圧力無し、という教育メソッドが、そろそろ研究テーマにあがってきてもいいんじゃないか?と思う。


たぶん、誤解があるんだろうネ。
「叱らない、イコール、子どもに迎合する大人」
となっているんだろう。

そうではない。
わたしは一切、流行している芸能ネタなどしゃべらないし、子どもどうしの会話にノリノリで首をつっこむことをしない。(そもそも、できないし・・・)。
子どもから話しかけられない限り、長い休み時間は職員室にいることが多い。

「叱らない、イコール、迎合」

としか見えてこないなら、なにか、視点が失われているのでしょう。

「叱らない」は、もっと基本で、ベーシックで、プレーンで、なにもない、ってことだと思います。

写真は、森で出会った小さな妖精。
3

「もっと協力しなさい!!」は、あぶない

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担任が子どもたちに、

「もっと協力しなさい!」

というときは、ほとんど、うまくいっていないとき。

そんなときは、やることや内容、目標なんかを見直した方がいいように思われる。


子どもは不思議なもので、心の中では協力してる、と思っていることが多い。

なにかあれば動こう、声がかかれば動こう、と考えている子は本当に多い。

クラスメートからの要請があれば、まあやろうか、動こうか、頼まれたらやろう、となる子ばかりだと思う。

ところが、目標が高すぎたり、内容が不透明だったり、やることがはっきりしていないとき、あるいは、そもそもやろうとする気がまったく起こらないような場合は、全体の動きがにぶくなる。大人も同じだよね。
担任が掛け声をかけてなんとかできるレベルを、とうに超えている。


そのとき、

「もっと協力しなさい!!」

と、指示が出るのかもネ。

でも、その

「協力しなさい」

という指示で、なんとかなるなら、もうそもそも問題が生じていないわけで。



それから、「協力しなさい」と言うと、今度は子どもたちは、

「いっしょにやる」ことを、目標にしてしまいます。

一緒にやること自体が目的になり、なんだかちぐはぐな感じになりがち。

つまり、「あの人、いっしょにやろうとしていない!してくれない!」と、相手を責め始める。

これは、なんだか変でしょう?



たぶん、教師は

「協力しなさい」

と子どもに言う場合は、用心した方がいい。

「これ、そもそも無理があるんじゃ?」

と思った方が良いのかも、ネ。


(写真は、セントレア中部国際空港にて撮影)P1150026



いちばん面白かった授業 その4(おわり)

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よく、クラス全員、だれとでも話をして良いですよ、ということをする。

すると、みんな、お互いにあれこれと相談しあうことになる。

たとえば、まず仲の良い子に自分の考えを言いに行き、一応念のために男子にも女子にも話を聞いて、最後に隣の子と情報交換をして・・・



こういうことをするのは、クラス全体に大きな疑問が出てきたときで、考えやアイデアの多様性が予測される時。

いろんな意見が出て、考察していく場合に、もっとも効果的だと感じている。

今回も、MくんとSさんが相次いで出てきた後、子どもたちどうし、誰でも話し合っていいことにした。

P1172019


さて・・・つづき。
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いちばん面白かった授業 その3

いよいよ卒業間近。
クラスの雰囲気は、さらにしっとり。
一日一日を、惜しみながら送っている感じ。

昨日、一人の子が、咳をしていて、途中で早めに帰宅することになった。
熱はないものの、しんどいし、おなかも痛い、というので。
保健室の先生から、
「ベッドで休ませています。これから帰宅させますね」
と連絡が入る。

すると、別の子が準備してくれた。
昼休み、遊びに行く約束をしていた子が、それをわざわざキャンセルしてまで。
自分が保健室へ、ランドセルなどの荷物を届けに行く、と。
友達がすぐに下校できるように。
別のもう一人が、明日の時間割の連絡など、メモ書きしたものを用意してくれている。
保健室で休んでいる子は、すぐに友達が動いてくれて、ホッとしているだろう。


 ↑ こんなことくらい、6年生ともなれば当たり前だという人もいる。

だけど、やっぱり、友達を慮る気持ちが、なんとも言えず、味わい深い。
お互いの間柄を、もう一度、確認しあっているような気がして、なんだか子どもたちがみんな、頼もしく見えてくる。


愛知県にも雪が降った日


さて、前回からのつづき。続きを読む

いちばん面白かった授業 その2

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事実をみていくって、すごいむずかしい。

と、子どもの感想。

その後、面白かったのは、それを聞いた別の子が、

「いや、むずかしくないよ。そっちのほうが簡単なんだよ」

と言ったこと。

さらに楽しいのは、その返答をきいた本人が、思い直して、

「ああ、そう、そう。結局は簡単なんだけど、最初、すげえ難しかった」

ちょっと、わくわくする場面だった。





さて、今年度も、あとわずか。

一昨年の1年生の担任も楽しかったが、6年生は6年生になりに、楽しかったなー。

これで小生、1年から6年までどの学年も担任したことになります。
どの学年が一番好き?と聞かれたことがあるけど、ぜんぶ、いいネ。
どの学年も、その時代、その成長のタイミングで、元気いっぱいの姿がみられる。
どれがいい、とかは無いな~。

つるのある植物


事実とは?
これ、オモロイよね。
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6年間で一番面白かった授業は~アンケート~

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自分たちでこんなアンケートを取っていた。
班の学級新聞に載せるためである。

そんなのきいたって、どうせ低学年や中学年のころの授業なんて覚えていないでしょう、と言ったら、

「そんなことないよ」

だって。


理科好きのNくんは、3年生の時の乾電池学習、4年生の時のソーラーカー学習、5年生の時の電磁石など、理科の単元を軒並み並べて、

「ひとつくらい載せてよ」

とみんなにお願いしていた。




さて、今回の話はここから。

話し合っている中、一人の子が、

「先生、こないだのあの授業って、国語なの?道徳なの?教科は何?」

と聞いてきたのでありました。

みんなが興味を持って、

「ああ、あれか!あれって国語でしょう?でもちがうか?」

などと口々に言っている。



子どもたちが話題にしたのは、現6年生の、ある授業のこと。

「あの授業、面白かった?」
「うん。ああいうの、またやりたい」


それは、国語の授業です。
説明文を読んだ後に、それについての批評文を書く勉強。

教科書の「手引き」の中に、

事実と意見を分けて考える

という項目が、あるのです。




思わず、二度見しました。
たしかに教科書の中に、

「事実と意見を分けて考える」

と、厳然と書かれている。

これはすごい、と思わず腕組みをして唸りました。

筆者の意見は、数々の事例や実践例、事実を列挙した後に、
以上のことから、こう考えられるのだ
というふうに解説される。

事実のあとに意見が書かれるから、説得力が増す、というわけ。
単に、考えだけを述べたのではなく、そこにはレッキとした、事実データがありますよ、ってこと。
だから、この話は、『確実』ですよ、『絶対』ですよ・・・、ということだ。



わたしはこれをみて、授業構想を練る。
ひとまず、事実とは何か、をみんなで考えるか、と思った。

・・・

結果として、子どもたちが
6年間でいちばん面白かった!
と断言する授業に展開されて行った。

やはり、子どもの脳はやわらかいし、あきらかなことを見通すのだね、と思いましたナ。
P1172012

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いわゆる、勝ち負け感 について

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負けることに我慢ならない時がある。

子どもの頃、姉とおやつの取り合いで、じゃんけんに負けると、本当に頭がおかしくなるくらいに口惜(くや)しくなった。

たとえば、「かっぱえびせん」。
ひと袋を半分に分ける。
慎重に、均等に分けたあと、さらにじゃんけんをして決めた。
ほんの数グラムの違いだったろうが、敵の方が多いと見積もると、悔しくてくやしくて、自分のじゃんけんの弱さを嘆いたものだ。


負けた、となると、どうしてああも、悔しくなるのだろうか。
あの、全否定された感覚。
人生そのものから、拒否されたような感覚。

あたかも、
「お前には、勝たせないよ~だ」と、
全能の神から、いじわるされた気分。

そして、絶望と、虚無感・・・。




なぜ、負けると、人間はこうも虚しさに包まれて、不足感に苛まされるのだろう?


相手が、勝った勝った、と喜ぶ姿を見るとなおさら、だ。
向うが得意げな顔になって、「してやったり」とほくそ笑む顔をみると、どうしてこうも胸がかきむしらられるほどに、せつなくて、くるしくて、さみしくなるのだろう?

こういうこと、なぜ?と考える人は、少ないかもネ。
しかし、人間である以上、なぜ?と考えていくのが、通常の神経だと思う。
だって、自分の中身が不思議な状態のまま、それをほっておくのって、勇気が要るでしょう。
自分の心のあり様をちっとも考えないまま、何年もほうっておく?


なんで、負けるとくやしいのか。


これ、子どもたちと考えたいねえ。




写真は、オリンピックのメダル(半分ずつ)。

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水戸黄門で哲学するクラス

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小学生も、勧善懲悪は薄っぺらだ、と思うみたい。

水戸黄門を見て、「やった、悪が懲らしめられた。よかった」

では終わらない子どもを育てる。

そもそも、その善とは?悪とは?なんの定義で?だれがそう判断しているの?と、

深く追究できる子に育てよう、というのが、PISA型(追究型)テストにも対応できる子だ。


越後屋、伊勢屋、大黒屋が悪いということになっているけれど、
では、その越後屋さんが本当により良く生きていけるようにするには?


学級全体が、SくんやTくんが良く生きていけるためのものに進化することで、
じゃあ、みんなはどう考えればいいのか?
学級の仕組みで変えられるもの、みんなの認識で変えていけるもの。


「あっ!野菜残してる!悪いやつだ!」

と指さして平気で言っちゃうクラスは、だれもが幸福に暮らせるクラスではない、という確信がある。

大体こういうことを大声で指摘して騒ぐ子自身が、淋しくて苦しんでいる場合だってあるのだし・・・。



野菜を残すってことは、きっとなにかあるんではないだろうか・・・、と。

少なくとも、ナスを残したから「懲らしめよう!」という発想にはならないと思う。

分かりますかねスズメ蛾1

気持ちを聞けた、と思い込んでしまって・・・

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前回からの、つづきです。


教室に、いろいろな、「責め現象」が起きたとき。

わたしはわりとすぐに、気楽に学級会にしてしまいます。



この日も、5時間目をすぐに学級会にしてしまった。

さ、どんな展開だったでしょうか・・・。




このようなときは、

大抵、だれもがびっくりするような結論と展開で終わります。

◯◯くんは、どうやら、まったくりんごが要らなかったわけではなかったようなのです。じゃんけんに勝ってから、自分のお皿の上に、りんごを置いてみたら、


なんだかしらないが、
とても大きく見えてきてしまった。



じゃんけんするときは、自分の気分ももりあがり、高揚していたから、りんごのあと一つくらい、すぐに食べられると思っていた。でも、目の前にしてみると、どうやら1つは多いな、と・・・。



ところが、じゃんけんで勝って手に入れたものだから、半分食べて、半分残す、ということになると、みんなから何か言われそうだ、と思った。

それで、あわてて、



「やっぱり、要らない」



と、なったのです。

これは、聞いて見ないと、分からないことでした。



みんな、

「◯◯くんは、りんごがまるごと要らないんだ、と思っていた。だから、きょうのは、じゃんけんがしたかっただけで、本当はりんごなんて、要らなかったんだと思った。要らないんなら、じゃんけんはするべきじゃない。・・・そう思ったから、◯◯くんは、良くなかった、と思った」


ああ、そうだったのか、となってから、初めて、


「じゃあ、◯◯くんを責めるべきじゃなかった」


という感想が、ようやくここで、出てくるのです。



なんで、

最初の時点で、

よく◯◯くんの気持ちを聞きもしないで、


あるいは、「◯◯くんは、要らないって言ってた」(全部まるごと要らないって言った)と、あたかも彼の気持ちを聞いた(聞けた)、と思い込んでしまって、

責めたり、良くない、と言ったり、判断したり、するのでしょうか?



ここを考える時、たいてい、子どもたちは、シーンとする。

先生が何か言うんじゃないか、と、わたしの顔をじっと見ている。



わたしは、(これはお説教じゃないんだぞ、考えるんだ、考えよう)という気持ちで、黙っている。


そのうち、子どもの中の数人が、(あ、これ、お説教じゃないな)と感じ取るようだ。

そして、ようやく、


「なんで、責めたくなるんだろう?」


と、ようやっと、考え始める。




つづく。

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給食のりんごが余りました

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給食はみんな、楽しみにしているものだ、と思うのですが、思い方は、一人ひとり、ちがいます。また、その日の体調でも、気分もちがってくるでしょう。

給食のじゃんけん、というのがありますね。



あるとき、フルーツのりんごが余りました。

ある子がじゃんけんに勝って、もう一つもらえることになったのですが、

「やっぱり、要らない」

教室では、よく、こういったことが起きます。

じゃんけんに勝った途端、急に要らなくなったのです。


人間というのは、つくづく、
計算通り、
予定通り、
ではないものだ、ということを思います。

これを、非難する子もでてきます。

「先生、◯◯くん、せっかくお代わりしたのに、残そうとしているよ」

すると、じゃんけんに負けた子たちから、ものすごいブーイング。

「勝ったのに、残しちゃいけないんだよ」

お代わりした子は、なぜか分からないけど、さっきはあんなに欲しかったりんごが、今となっては急に要らなくなってしまった、そのことに、自分自身も動揺しています。みんなからも責められるし・・・

ところで、ひとは、なぜ、「間違い」を見つけて、非難したくなるのでしょう。



りんごは、2番目に勝った、Sくんがもらうことになりました。

すると、実はこの事件の背景、水面下で、

◯◯くんがSくんと取引しているか、あるいは一方的に、脅されてまきあげられたのではないか?

という疑惑が生じます。

事態はドロドロの、疑惑に次ぐ疑惑。
ロスの三浦さんも真っ青な、疑惑の5時間目になだれこんでいきます。

だれも◯◯くんの本当の気持ちがわからないのに、


なぜだか攻めたくなる、

責めたくなる、

落ち着かなくなる。





こんなはずではなかったのに、ということ、よくありますね。

わたしは、こういうとき、

なんで、人間はこういうことがあると、落ち着かなくなるんだろう

ということを思います。

そして、算数やら社会の授業はほって置いて、子どもたちとともに、そっちの研究に入ってしまう。

なにか、センサーが動くのです。

このことが、実はとても大事な勉強になるのではないか、という予感です。

わたしは、急遽、5時間目を「学級会」にしてしまいます。


つづく
フルーツがあまった

「えっと、『きちんとお願いする、のワザ』にします」

.
「先生!AくんとNくんとRくんが、僕をこちょこちょしてくるんです」

「困っているの?」

「困っています!」

「じゃ、会議!」



こういう、何でもないような、チープな議題で、
会議をする癖をつけていく。
重い課題は、いずれ、かならずやってくる。
その時に、じたばたしないために、いつもいつも、どんな話題でも、

○子どもたちが
○お互いに解決に向けてアイデアを出して
○全員の幸福を「目的」として


話し合うようにしていく。
これは、クラスの雰囲気を、画期的に変えてくれます。
何より、

私たちのクラスは、私たちが主人公!

という当たり前の意識が、きちんと身に付く。
そして、隠された価値観を、自然と理解する。
(つまり、人間関係が最も大事だ、という価値観ね)



さ、というわけで、

会議実行まで、最速5秒程度。



「じゃ、当時の様子を、みんなにヴィジュアルに伝えて!」

「はい!」



Yくん、Aくん、Nくん、Rくんが登場。

Yくんが、他の3人から、こちょこちょされる。

「うひゃひゃははははーッ!」

「すげえ笑ってる!」

「やめて、やめて、やめて!!」

「おもしれー。喜んでるから続けよう」



はい、ストップ!!(カチンコ、と教師用コンパスで合図を送る)



俳優陣、席に着く。




Y君の願いは何?

「こちょこちょを、やめてほしいことです」

それは、伝わった?

「ぜんぜん伝わりませんでした」



はい、アイデア募集!


「転げまわりながらでもいいから、先生に言う」
「やり返す」
「あとで3倍返しだ!と言って脅す」
「新間先生がいなかったんだったら、隣の竹下先生に言う」
「相手に水をかける」
「助けを呼ぶ」
「きちんと言う」



最後の!もう一回、くわしく!


「きちんと、もうこちょこちょはいやだ、といって、別の遊びをやろうって言う」

Yくん、どう?


「えっと、笑い過ぎて声が出なくて、なにか言うってこと自体が、もう無理な状態でした」


はい、別のアイデア募集!


「じゃあ、もうやめて、のポーズをとる」
「首を横に振り続ける」
「オルガンの下に隠れる」
「相手に抱きついて、相手の手を動かないように締め上げる」
「やっぱ、他のクラスから、助けを呼ぶ、じゃないかなあ・・・」



Yくん、どう?


「えっと、一応、ぜんぶやったんだけど・・・」


それでも、やめてくれなかったの?

「はい。でも、呼吸が苦しくなって、笑い過ぎて苦しくなったときは、みんなやめてくれました」


はい、さらに別のアイデア募集!



「じゃあ、やめてくれた瞬間をねらって、もう本当にやめてほしい、ということを言って、別のことをやろうって提案するのがいいのでは?」



Yくん、どう?


「それにします」


じゃ、Yくん、このアイデアに、ネーミングしてください。

「えっと、『きちんとお願いする、のワザ』にします」


あとは、なにかにつけて、このワザを口にして、流行するまでやたらとネタにします。
しばらくすると、子どもたちの口から、友達どうしで、

「それ、きちんとお願いしたら、どう?」

というように、言葉が出てくるようになります。






写真は、煉瓦で組んだ、ロケットストーブ。
簡単に火がつき、スゴイ勢いで燃え続ける。

ロケットストーブ

解決しないけど、解消するパターン

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クラス会議のつづき。

机を動かすのを忘れてしまい、掃除の時間になると女子に怒られている男子の話のつづき。

クラス会議の場で、自ら、

「漢字練習の罰を決めれば、机を必ず動かすようになるはず」

というので、罰則(ペナルティ)を設定しようとしたところ、
そんな罰では、本当にはよくならない、という意見が出て、話し合い続行しておりました。


うちのクラスは、クラス会議ですべて結論がパッパッと出るわけがない、ということを見越しております。クラス会議で意見を言い合うだけで、時間なんてあっという間に過ぎてしまうのであります。


単純に、どうするかを選択する、というような会議であれば、そりゃあ、パッパッと進むこともありましょう。
わが学級も、クラスの係りを決めたり、林間キャンプの班を決めたり、バスの座席を決めたり、運動会の練習の計画を立てたり・・・という場面だと、そんなに時間はかかりません。

そこまでこだわる内容でもないとなれば、みんな、子どもというのは、案外サバサバしているものです。
(サバサバ、という雰囲気になっていく学級になのかもしれないが)


ところが、いろいろと身近な問題で、

困った事態、困った状況、困った心境をどう考えるか

ということになると、そうは簡単に運びませぬ。

いろいろと、実は心の動きと言うのは複雑で、あるいはありとあらゆる方向から、考えが及んでくるもので、ああも考えられる、こうも考えられる、というように、思考と言うのは拡散する傾向があるのでしょうな。

Aくんが発した考えで、Bくんの脳みそが、フル回転しだす、ということもよくある。

すると、その自分の脳みその、ある状態を説明するのに、案外と時間を要するものです。
だって、今まで、そんな考えになったことがないのだから、うまく説明をしたい、となると、言い方も言葉も、なんだか不思議と、うまく扱えなくなるのです。

「えっと、えっと、だから・・・」

と言い続けることも、子どもならたくさんあります。
それらを、辛抱強く、最後まで聞こうとするのが、大変な手間でありまして、その手間を考えると、クラス会議でなにかが

パッパッと

決まる、決められる、なんというようには、考えない方がいいのです。ハナから。


そこで、クラス会議は朝の学活の、たったの5分間だけ開催されることもあれば、木曜日の6時間目に、たっぷりとそのつもりになって話し合うこともあり、いろんな時間枠と形態があるのです。
大事なのは、

決めた時間になったら、すっぱりと止める。

これが、黄金のルールです。
でないと、長続きしない。


さて、続行していた例の机の話ですが、土日をまたいで、この火曜日にまた、クラス会議を行ったところ、

あっさりと、罰則はやめになりました。

裸の大将Mくんが、

「えっと、漢字練習は宿題でやればいいから、別に机のことではやらなくてもいいかなと」

と開始早々に意見をだし、全員がそれなら、と納得して、収束しました。

それは、また別の子が、

「とにかく動かしてなかったら、すぐに声をかけて、みんなでやればいい(動かせばいい)」

という至極単純な意見を出したことも、みんなに影響したのでしょう。

まあ、考えてみれば、単純な話だったのです。

「ようするに、やりゃあいいんだよなあ?」

と、発言力のあるFくんがつぶやいたことも、みんなの気分を変えたようです。

土日をはさむと、気分が変わるものなのです。


で、その後、じゃあ、どうする、という新たなアイデアは、出ませんでした。
なにか、新機軸を打ち出す、とか、新たなルールを創設する、とか、特別委員会を招集する、とか、
そういった、新しい動きを期待していたのですが、そういうものは、出てこなかったのです。

「じゃ、どうする?今のところ、ともかく何も手を打たないまま、ということになりそうだけど・・・」

わたしが会議の時間が終了する直前に、全員に尋ねますと、常に冷静沈着でバスケの得意なKさんが、

「先生、とりあえず、みんな机をきちんと動かしているから、しばらくこのままでいいんんじゃないですか」
と。


つまり、とくに何か新しいことをやらなくても、もう実態としては、困った状況にはなっていないので、いいだろう、ということです。全員、気を付けて(?)いるからか、サッカー男子も全員、声を掛け合って、実態としてはきちんと机を動かしている。
ふと気づけば、だれも困っていないので。

ということです。

つまり、これは、【解決しないけど、解消するパターン】なのです。

クラス会議をやっていると、こんなパターンばっかり。

解決感、という言葉があるのかどうか知らないけど、達成して、みんなで解決した!やった!という感覚【解決感】は一切ないのですが、気づけば、いや・・・それ、解消しているでしょ、というの。

なんで、クラス会議をしていると、こんなパターンが増えるのか、というのは、謎~!!



(写真は、田んぼで見つけた、なぞの生物αアルファくん!)
なぞの生物を発見しました

「罰をもらえば、僕たちは良くなる」【クラス会議】

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クラス会議が絶好調だ。

今の勤務校では、こんなスケジュールになっている。
【4時間目】⇒【給食】⇒【お昼休み】⇒【そうじ】

給食が終わると、たちまちみんな、サッカーボールをもって外に出ていく。
そして、そのあとの【そうじ】の時間になると、机を動かして、教室を掃除する。

ところが、問題なのは、掃除の時間が短いことだ。
掃除の時間になってからだと、当番だけで、クラス全員分の机を動かさなければならない。とても大変だ。
だから、あらかじめ、各自で机を先に動かしておく。
どこのクラスも給食が終わると、自分で自分の机を動かし、次の掃除時間にスムーズにぞうきんがけができるようにするのだ。


このあたりの動きが、子どもたちにも分かっているのだが・・・
ともすると、サッカーのことで頭がいっぱいになり、男子の一部は、机を動かすのを忘れてしまう。
だから、【そうじ】の時間になると・・・

女子の声が、教室中に響く!


「ちょっと!男子!!」

サッカーでご機嫌になって帰ってくる男子に対して、女子からのお小言が!

「男子の机、動かしてないが!!」

男子は、ちょっと口を尖らしながら、机を動かすことになる。


このことが、クラス会議で話題になった。

「机を動かさない人がいて、当番がやることになって大変なので、困っています」


みんな、身に覚えがあるので、話し合いすることになった。

さて、どうするか・・・。



みんなであれこれ、いい考えを出そうとして、全員が円になり、2周ほど意見を回した。

出てきたのは、恰幅の良いひょうきんもの、Mくんの意見だ。

Mくんは、ひょうきんで明るい一面が目立つ一方、どことなく「裸の大将」的な人生の悲哀をにじませる、味わいの深いキャラをもっている。

「机を動かさない人は、給食のお替わりなし、にするといいと思います」

ところが、この意見は、

「もともとおかわりをしない、という人もいるから」

効き目がないんじゃないか、ということで、変更を迫られた。

Mくんは意見を変えて、次のように言いなおした。

「机を動かさないなら、宿題を増やして、漢字の勉強をするといいと思います」

私は、できるだけ身を小さくして、目だけを見開いて、子どもたちの会議の様子を見守っている。

先生はほぼ、何も言わないことが分かっているから、子どもたちは、ルールだけを頼りに、自分たちで会議を進める。

私が介入するのは、ルールが不明瞭になってきたときだけだ。
ルールを、再度、明確にするジャッジは、私がつかさどる。
そのことにより、子どもたちの安心感が増すからだ。

さて、罰則を決めて、机を動かさない怠惰な男子を厳しく律しよう、という意見に対して、男子も賛成をした。

私は非常に驚いた。
まさか、自分たちに対して、罰を与えるとは。
ところが、その後、やはりそうなるのだな・・・、とも思い直した。
罰則で自分たちを律しようというのは、社会全体がそうだからだし、1年生の頃から、あるいは幼稚園や保育園のころから、心や脳内に刷り込まれたやり方なのだ。

いわば、いちばん、馴染んでいる。

逆に、こういう、罰則で自分たちの行動を改めさせる、という方法、それ以外の「なにか」方法を、他に持たないからなのだろう。
バリエーションが貧弱すぎる。
こういう場合の、「よい考え」というのは、ほとんど他に思いつかないらしい。

そして、話はどんどんと、ずれていく。

話の核心は、机を動かすのが遅れると、掃除の時間が足りないから間に合わなくなる、ということである。
あるいは、机を動かすのを忘れてしまう子がいるのでどうするか、ということなのに・・・

静かに聞いていると、話の中身は、どんな罰がよいか、という内容に変化してきた。

「漢字1ページだと足りない。2ページなれば効き目が増すだろう」
「漢字は得意だからいいや、と思う人がいるかもしれない。そういう場合は算数を」
「いーや、効き目で考えれば、宿題にしないで、それこそ休み時間中に漢字の書き取りをさせればどうか」



ところが、全員一致しないので、この問題は、先送りになりました。
つまり、異議を唱えた子がいたのです。
勇気を出して、声をあげたのは、身体の一番小さな、まだ幼さの残る、Yさんでありました。

Yさんだけが、はっきりと、

「罰で直そうとしているけど、意味ない」

と言ったのです。


そして、

「全員が机を動かせたら、動かせた日を数えていって、たとえば1か月、ずっとできたらなにかいいことができる、というようなのがいい」

つまり、減点と罰則による締め付け法ではなく、加点とご褒美による褒め育て法にしよう、というわけ。


話はまだこれからなのですが、最後に、裸の大将のMくんが、


「要するに、おれが机のこと、忘れそうでサ・・・自信がないんだよねー。で、この間の漢字テストが悪かったから、おれにとってはさ、たとえ机動かすのを忘れても、その後で漢字が勉強できて、一石二鳥かなって・・・」


みたいなことを口走ったので、

えーーーー!!


と女子のほとんどがガヤガヤ言い始め、チャイムが鳴り・・・


さ、続きはまた来週です。



↓写真は、夜、テントにおとずれた蛾の顔。
夜、おとずれた蛾の顔

クリスマスが近づくと教室で巻き起こるサンタ議論

クラスの子が、

「サンタさんが煙突に入れないかもしれない」


というので、心配していた。



あんなふとっちょな人だから、煙突に入れないと思う。



クラス会議になった。

意見は、いくつかに分かれた。

「お母さんが言うには、昔は煙突がどの家にもあったので、煙突を使った。今では煙突は使われていない。現代ではどの家にも駐車場があるため、トナカイとそりを駐車場に停めて、窓から入るのだと思う」

いつもは日直のスピーチもまともに言えないような子が、がんばってこれだけの意見を言う。

「えっと、えっとね」

を多用するから、よく分からない言い回しになっているが、クラスの仲間は全員、それをなんとか聞き取ろうとする。

「窓はカギが締まっているから入れないと思う。今の意見は、ちがうと思う」

と背の一番小さな女の子が言うと、

「いや、たしか、僕の家では、サンタさんが入ってこられるように、ママが一つだけは開けているはずだ」

と、クラスの中では賢いとされている男子が口をはさむ。

一旦、それぞれ、隣近所の子で自発的な対話が始まっていく。


そのうちに、合点したように、大きな声で意見を言うものが現れる。


「サンタは妖精の一種だから、窓やサッシの鍵は、関係がない」

つまり、そこを通れるってこと?

「そう」



賛否の声が、幾重にもかさなりあって、教室にこだましていく。

わたしは、それをずっと聞いている。




一人の女子が、

「先生、ちょっと、チョーク使っていいですか」

と、断りを入れてから、

「えっと」

と黒板の前に出てきて、持論を展開した。


「わたしが見たのは、トナカイがおうちの上のところで止まっていて、サンタだけ屋根の上から降りようとしてた」

彼女は、こっちにトナカイで、こっちにサンタ、これが家で、まど・・・と、くわしく絵を描く。

オーッ、とため息が出る。
なぜとなく、説得力を感じる言い方だったからだ。

「Hちゃん、すごーい」

おまけに、先生のように黒板を使って説明をするなんて、なんだかとてもカッコよく見える。


「屋根から降りて、それで、窓から入る」


そうかー・・・。

おそらく、そうなんだろう、という空気が、教室を包み込んでいく。


「はい」

手をあげる者がいる。

見ると、足し算のさくらんぼ計算が得意なEくんだ。

「それって、絵本?」

それはどこで見たのか、という、するどい追及なわけ。(将来は弁護士か工学博士に向いてるナ)


Hちゃんは、手についたチョークをパンパンとはたきながら、

「ケーキ屋さんの入り口に、そういう絵が貼ってあった」

ケーキ屋さんは、なんだかクリスマスのことに詳しそうだから、おそらく、それが正しいのだろう、ということになる。なぜか理由ははっきりしないけど、ケーキ屋さんはクリスマスになると、サンタのことを多く扱うようになるから、ケーキ屋の中にはたぶん、よほどサンタに詳しい人がいるのだろう、という意見が出た。



すると、それまで黙っていた、ADHDの診断を持つTくんが、


「おれにも書かせて」


と黒板の前に出てきて、言った。

さっき、Hちゃんがやったように、<黒板を使ったプレゼン>がやってみたかったようである。


「Tくん、サンタさんのことだよ」

↑これは、日頃からTくんに尊敬の念を持ちつつ、お世話を焼いているUくんのセリフ。
思わずTくんが何するのか心配になって、先にこういうことを言ってしまうのが、Uくんの個性であります。


Tくんは、仲良しのUくんの方を見て、

「知ってる」

と難しい顔を固持したまま、言い放つ。


そして、みんなに説明をする。

「えっと、サンタさんは、家の煙突からくるんだけど、小さくて入れないから、太っちょだからね。」

Tくんは、家とサンタを書く。

サンタは、かなり太っている。


みんな、Tくんの説明をしーんとして、聞く。


「で、サンタさんは、この服の中に、こんくらい(激ヤセのサンタを描いて)の細い感じなんだよね」


みんな、あまりのことに、声も出ないで、Tくんの絵を凝視し、固まってしまう。


「煙突に入るときは、本当のサンタになるから、こんなくらい。で、みんなには、太っちょに見せてるから、仕事が終わって煙突から出てきたら痩せてて、それからすぐにこっちにもどる」


つまり、モビルスーツのような太っちょの着ぐるみを着て、ふだん周囲には、その姿を見せているのだそう。

「本当は、こんくらいね」


本物のサンタは、激ヤセなのだ、という意見。



サンタ側に何らかの理由があって、そのような太っちょの姿を、世間には提示して見せているだということである。さすればあれは、サンタの<世を忍ぶ仮の姿>、ということになる。

電通や博報堂など、世に流布されているサンタのイメージ作戦に惑わされているから、本物の姿を見失っているのが現代の子どもたちだ、ということなのだろうか。

Tくんのサンタ・レポートは、「サンタには真の姿がある」という、衝撃的なものであった。


ここで、

「あ、そうか~、それだったら、説明がつくね」

と言ってくれるUくん。本当にTくんのことが好きなのだ。



さて、しかし、女子の一部には腑に落ちない者が居るようで、

「なんで、わざわざ、太っちょに見せるわけ?」

と、首をかしげている。

たしかに、考えてみると、その必然性が、分からない。

みんな、不安げに

「そういや、よく分からないよね」

ざわざわ・・・。

かっこよく決まった、と思ったのに、そうならなかったTくん。
表情が固くなったまま、なんでみんな分からないんだ、と不満げであります。

そんなTくんを、Uくんも心配そうに見守っている。

みんなは顔を見合わせて、なんで、なんで?と騒ぎ始めています。



不満そうに口をとがらせる、Tくん。


ついに口を開き、大声で、





「だって、ガリガリだと、寒いじゃん」



あーっ、・・・・なーる・・・・


全員、納得したのでありました。


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