30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

人間あれこれ

足つぼマッサージで水を浴びるほど飲む

ふと思い立って、足つぼマッサージという店に入った。
夜中によく、足が冷えて眠れないことがある。
足つぼを押せば、まるでマグマのごとく足が温まり、ぬくぬくと安眠できるのではと思いついた。

地元の市の名称と、足つぼマッサージ、という単語で検索し、いちばん近い店を予約した。
足つぼ、という単語は、なんとなく蛸壺(たこつぼ)を思い起こさせる。
わたしは店に行く途中、たこの吸盤のようなものが、足にへばりついて、血流をうながす装置を想像したりした。

「それはいやだ」
すぐに妄想をふり払う。

店に入る前に、どんな服装で行くべきかを迷った。
おそらく着替えなどがあるのだろう。
散々迷った挙げ句、ごく普通のユニクロ上下になった。もっとも日本人らしい姿だ。

さて、たこつぼマッサージの店に行くと、店の方が大きなスキャナーのようなものを用意し、

「足を調査します」

と私の足の裏をスキャンした。
これで、体重の乗っていない部分を特定しようというのだ。

すると、わたしはほぼ足の外側に体重があること、そして指に体重が乗っていない、いわゆる「浮き指」という状態だということがわかった。

これは、指が生きていない状態であり、指に体重をのせないくせがついているんだろう、と教えてもらう。

「指が動いてないので、ふくらはぎの筋肉も使われない可能性が高いです」

どうやら、足の指を使うことと、足の土踏まずのアーチの形成は関係があるようだ。そして、足の土踏まずのアーチがしっかりと形成されていると、ふくらはぎが使われ、そこに筋肉が付くとともに、足の冷えが解消されるのだという。

その方は、その後、足の裏を痛いほどに指圧?してくれた。
足の裏が、ぐりぐりと悲鳴をあげていた。
しかし、帰る頃には、なぜかしらないけれど、非常に足がスッキリしている。
不思議であった。

あるき方も、コツがあるらしい。
ふくらはぎを使うようにしてあるきましょう、と言われた。
ンなことを聞いても、よくわからないが、翌日、学校の長い廊下を歩いていると、ちょっと会得したあるきかたがあった。
それは、踏み出した先の足を、かかとからつく、というあるきカタであります。
これをすると、一瞬だけど、ふくらはぎが伸びる体感があった。
それで、一日歩いてみると、なにかふくらはぎが「妙に疲れている」感じがする。
その代わり、いつものような「重だるさ」とはちがって、運動したあとのような感じがあった。

また、面白かったのは、足つぼマッサージをする間、水を飲め、とさかんに勧められたこと。
水がベッドの横にあって、それをとことん飲むように言われて、飲んでいた。
お店でトイレに行きたくなるほどに飲んだが、それがすごく大事なのだとお店の人は言った。

「ともかく、水が飲めていない人が多くてネ。水飲んでるだけでも、血行がよくなる人多いですよ」

わたしはその夜、2回もトイレに行ったが、翌朝に体調が妙に良かったのを付け加えたい。

みなさん、水を飲みましょう。(といっても飲み過ぎちゃだめらしいので、ほんのちょっと増やす程度がいちばん良いらしい)

下の写真は、なんか海におっこってたモノについて、調査する人たちの図。
すごく面白い写真で、わたしはこの写真を1時間ほど眺めて、ここから始まるSFを考えたが、あと5年ほどしたら発表してみたい。
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人間の共通の思いとは

万引き、という行為がある。
お金の要らないあんぱんまんの国であれば、おなかがへればもらえばいいだけのことで簡単だが、この世の中は資本主義でありますから、そういうわけにまいりません。

万引きを取り締まる人も必要になってきます。
その万引きGメンと呼ばれる人たちが、異口同音に言うのが

「万引きする瞬間を見ていると、ほぼ人は同じような表情になる」

というのです。
つまり、人をだましてやろうとか、お天道さまに顔向けができないようなことをしてやろう、とふと人間が思った瞬間、なにかが働くらしいのですね。
それで、人間は本当に千差万別なはずなのに、だれしも同じような表情になるというわけです。

この話を聴いたときは若いころでしたが、その時は納得がいかなかったですね。
人間は心の内面の作用もふくめて、個性があり、同じ人はいない、と信じていたからです。

だから、「人間ってね、みーんな、同じような心の働きをもっているんだよ」と言われたような気がして、「そんなわけないだろう」と思った。

ところが、人間は同じ表情をするのです。
それはつまり、こころの内側のはたらきというのは、人間は共通している、ということです。
「目が鋭くなって、すごく意地悪な表情なのです。猜疑心と罪悪感と欲望の狭間でいざ悪事に手を染めた瞬間、人は誰もが同じ“悪い顔”になるようです」

これを、多くのお互いに面識のないGメンが、打ち合わせも無いのに異口同音に、言うわけです。
まったく歳も離れた、地域も離れた、別のGメンが同じことをいうのですね。

人間のこころの作用は、非常に似ている、ということでしょう。
人間は千差万別で個性にあふれ、同じ人はいないのに、心の作用は同じなのです

若いころは、これを信じたくなかったのですが、(自分自身が個性にあふれる人間でありたい、と文字通りに考えていたからですが)、教員をつづけていると、素直に納得できます。

それは、人間は、「素直に正直でありたいし、それを受け入れてもらいたい」と思っているからです。これは、一人の例外もなく、人類はみな共通に思っていると思います。

(ただ、ちょっと学術的な面は分かりませんが、一部、サイコパスと呼ばれる狂人の部類に入る人達はわかりません。これはすごく複雑なもので、専門的に学び、医療的な言動が行える人でなければ、サイコパスについて言うことはできないと思います。そして、小学生ながらサイコパスの子もいるだろうと思われますので)

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武器を持っているほうが果たして生き残るのか、という問題

永井隆という方が、なくなる前に自分の子に対してメッセージを書いた。
長崎医科大学で被爆して重傷を負いながら、医師として被災者の救護に奔走した方である。

「武器を持っているほうが果たして生き残るだろうか。
オオカミは鋭い牙を持っている。
それだから人間に滅ぼされてしまった。
ところが鳩は何一つ武器を持っていない。
そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる」

たしかに、武器を持ったから、腕力を誇示できるから、最後には笑っていられるかというと、そうではない。

武器を持って、それで人を刺せるだろうか。
それで、人を撃てるだろうか。
わたしにはぜったいにそれはできない。

今、わたしが刺そうとしているその人は、わたしと同じであり、わたしと同じく、霊峰の向こうからのぞく朝日を拝む人だ。
今、わたしが撃とうとしているその人は、わたしと同じく、子どもの寝顔をみて微笑む人だ。
わたしと同じく、のどを潤して、安堵する人だ。
わたしたちは、はたして、その人を殺せ、と命令されて、できるだろうか。

政治家は、なぜ平気な顔をして、「軍備、軍備」と叫ぶのだろう。
「こちらから攻撃しないと、殺られる」と叫ぶ人の顔を、よくよく見てみよう。
攻撃しようと歯を剥き出すから、攻撃されるのだろう。
人の気持ちを、人の気持ちの動きを、よく考えたことがないのだろう。

じっくりと考えてみたら、きっと誰にも理解できる道。
おそらく、その「じっくり考える時間と場所」が、われわれには与えられていない。

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味の違いについて

たまごは厳密に言うと、1つ1つで味が異なる。
しかし、多くの人は「まあそうはいっても、似たような味だわな」と思って過ごしている。

鶏肉はどうだろうか。
味は、鶏によって味がちがう。たとえ似たような料理法で調理したものであってもだ。
しかし、多くの人はそうはいっても・・・、と思うだろう。つまり、「似たような味」だと思って日々を生きている。わたしもそうだ。

一度、これは味がちがうから、と言われて食べた「鶏のモモステーキ」は、たしかにちがった。なんと表現してよいか分からないが、「味がちがう」ことと、「おいしい」ということが実感だった。

「おなじ鶏肉でも、こんなにちがうのか。だったら、自分の中の鶏肉の味はこういうもの、という常識は、消し去った方がよいだろうな。だってこんなにちがうもの」

わたしはその後、となる成り行きから、食道楽になった。パンでも焼きたてがもっとも美味いのは常識だろうが、朝採りたての野菜はまた格別である。朝、畑から引っこ抜いてきた青梗菜が甘いことや、トマトでも畑でかぶりついたのが一番美味いことも、その後の人生経験でわかってきた。
しぼりたての牛乳は、「これが牛乳なのか」と疑うような味がするし、紙パックに詰めた牛乳と瓶の牛乳、そして乳缶に入れたばかりの牛乳ではまったく風味が異なってくる。
つまり、人間にとって『常に味というのは千差万別』なのではないか、と思うようになった。

みそも、しょうゆも、同様だ。
厳密にいえば1瓶ごとに、味がちがうだろう。味噌だって醤油だって、同じ樽の中でも、ふたに近い部分のみそと、樽の底にあった部分とでは、多少熟成の程度に差があるのだろうし・・・
つまり、味と言うのは、千差万別である。だからこそ、われわれは、そのちがいを楽しむことができる。

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老眼のこと

自分ではまったく恥ずかしいことに、50代という自覚が薄い。
近所に10代、20代からの仲間が住んでいるせいもあるだろう。つい20代の頃の雰囲気で、仲間と話をしてしまう。

かつて自分が描いていた、「50歳とかになったら、すげえだろうなあ。いろいろと世界の見え方も変わってきて、貫禄つくやろうなあ」という妄想は、完全に打ち砕かれている。
というのも、わたしが20代の頃に接していた40代、50代の方たちは、まあ今考えても、世間的に見ても戦国武将のようなたたずまいを備えていたし、発する一言の重みもあり、伊達政宗や北条早雲がそこらへんを歩いているような日常だった。ああなりたいなあ、と思いながら生きていたが、実際に自分が50代になると、まったく自分の中身が成長しないことに愕然としてしばらく言葉を失うほどだ。

変わらなきゃ、とイチローはかつてCMで言っていた。
自分もそう思い、成長しよう、大人になろう、あわよくば北条早雲のように関東八国をたばねたい、と思っていた。「名こそ惜しけれ」というような貫禄を持ちたい、とも。
しかし自分の成長の歩幅に気づいてしまった。北条早雲どころか、何も持たない子どものまま、である。

しかし、身体の方はきちんと年を重ねているらしい。
とにかく、教科書の字が小さく見えてしまう。
だんだんと腕を伸ばしつつ、「えーっと」と目を細めて教科書を見るようになる。
子どもは敏感で、そのしぐさをみるやいなや「あ、あらま先生、老眼だなあ」と言って笑う。
わたしは「うっせえわ!」と思いながら(口では言わない)
「ええと、正しさとは愚かさとは、それが何か・・・」と教科書を読み始める。

週末になって眼鏡屋へ出かけた。
ところが店員さんが示す老眼鏡の、なんと種類の多いこと!

こんなにメニューが豊富とは思わなかった。
おまけに眼鏡屋は、「目のことを知っていただくため、眼科受診も一度なされては」などという。
「かかりつけ医があると良いですよ」とも。

今日は、眼鏡屋ですぐに購入とはならず、ともかく「老眼の第一歩」ともいえる心構え、を教えていただき、なにかお店の会員になったことだけで、すっかりくたびれてしまった。

そもそも眼鏡とは無縁で生きてきたために、ちょっと試しに、鼻の上にかけてみたが、違和感もあるし、目の前になにかある、というだけで妙な気分になってしまう。これに慣れるような気もしない。
だがこれが無ければ、見えにくいのもたしかだ。

帰宅後、外に散歩に出て、遠い山の上を見た。
遠くを見ていれば視力が回復するかと思ったのだ。
じっと見ていると、稜線がはっきりと見える。おお、見える、見えるぞ・・・。

嫁様にそのことを言うと、いつものように冷たく

「老眼はそんなの関係ないじゃない?」

と、かぼちゃを煮ている。

嫁様は器用にコンタクトをつけたり外したりしている。
ずっとそれで生きてきたから、まったく慣れたもので、流れ作業のようにそれをする。

「眼鏡も慣れるよ、すぐに」

と言ってくれたが、そうだろうか。

ただ、歳をとったためか、見えにくくなった、ということにそれほどイヤな感じがない。
別に見えなくても、そんなに困らない、という感じの方が強い。
これは意外だったが、この余裕の感じ、これだけが自分にとっての「50代としての成長」なのかもしれぬ。

人生の本当に大事なことは、薬のびんの裏側のごく小さな文字が読めるか読めないか、ではない。このことを知っているだけでも齢を重ねた意味がある。これが亀の甲より年の劫、ということであろう。

それにしても、化粧品の後ろの文字、薬品の後ろの文字というのは、なんであんなに小さいのだろうか。1錠のむのか、それとも2錠なのか、じっくり見ても分からない。
たしかどこかに虫眼鏡があったが・・・見当たらない。
50代になってこんな苦労をすることになろうとは思わなかった。

用法・用量の『1錠か2錠か』くらい、もっとでかく表示しろ!!と思う。
もう、適当に2錠とかで飲んじゃうよ?こんな小さい字だったら・・・いいの?と、妄想上の◯◯製薬会社の社長さんに向かって言いながら、とりあえず1錠だけ飲んだけどネ。

oomurakon

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちは

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちの方が圧倒的に多い。
教室にはサッカーの才能を持つ子もいるし、野球の才能を持つ子もいる。
空手やダンスに才能を持つ子もいる。
しかし、あこがれ、という気持ち以外に、あきらめ、という感情を持つことだってある。
もうぼくは、レギュラーにもなれないんだ、とか。
そもそも向いていなかったのでは、とか。
いつも力になれない、チームのためになれない、とか。
うまくできない、才能がない、あの子に勝てない、とか。

こういう相談をする子に、どう声をかけたらいいだろう、といつも悩む。
新間草海も、悩むときは悩みます。

・・・

たしかに、何かをはじめたころは、覚えるのが楽しくて仕方がない。
新しいことをたくさん覚える。
道具も新品を買ってもらう。
みんながあれこれやっているのを不思議に思ってみているときと比べたら、
「あ、なるほど、そのためにやってんだな」
と合点していくときの成長は、自分でもよくわかるし実感ができる。
先輩を見習って、自分でも工夫をしていく時代になると、さらに楽しい。
先輩のまねができるのも楽しいが、自分はこうする、こうしたい、というものを見つけたら、もう時間がいくらあっても足りないくらい、熱中できる。

しかし、ある時期をすぎて、なんだか地面が平らに見えるときがくる。
今までは、この坂の上に、この丘の向こうに、なにかあるだろうと思ってやっていく。
途中まではもう上り坂を登っていく感じしかしないから、夢中になって登っていくわけだ。
それが、どうも見晴らしがよくなってしまって、向こうのほうにもとくに何かがあるわけではない感じがしてくるときがある。

このまま歩いて行っても、自分の歩幅でいけば、このくらいだろうなあ、という良くない予感もしてくる。どうにも自分の歩幅が、わかってしまった、という感覚だろうか。あいつほど早く行けない、あいつほど遠くまでいけないだろう、とわかってしまう。そうなると、いくら足を運んでいても、自分が前に進んでいるかわからない、という状態になってしまう。

そうなったときに、「自分に合ったものって何だろうか、自分は何と合うんだろうか」と考えるようになるのかもしれない。世の中でこれが良い、とされるものを求めるのではなく、求めるものが変わっていく。世間がいうものを求めるのではなく、自分と合うものを。

今教室にいる子で、すでに悩み始めている子がいる。
ソフトテニスをつづけるべきか、悩んでいる。
大人だよなあ、と思う。
自分が小学生のころなんて、めざすものもなければ、あきらめるものもない、まだ何の土俵にも立っていなかった。

あのとき、あのころ、ラジカセが家にあったのだから、古今亭志ん生だって桂文楽だって聞けただろうと思う。小学校4年生のころから、毎晩志ん生の「火焔太鼓」のカセットテープを聴いて育っていたら、わたしも夢の舞台に立てたかもしれない。笑点のレギュラーにもなれたかもしれない。
しかし、人生は一度きりだ。後悔はしていない。

大谷翔平や藤井聡太になれない人たちの方が圧倒的に多い。
自分はなにものかに、「なれなかった」と思う人の方がたくさんいるのが、この世の中だ。
ソフトテニスで悩んでいる子は、今、あれこれと考えている。
てっぺんに立つことだけに価値があるのではない。
もしかすると、MVPをとるであろう大谷翔平クンは、ホームランを量産したから価値があるのでもないかもしれない。それはスポットライトの当て方しだいだ。見る人によって、価値は何種類にも分けられる。大谷選手のどこに価値があるのか、何に価値があるのはは、見る人によって異なる。
また、彼には世界中のマスコミからスポットライトを浴びているからまぶしく見えるけれど、もしかしたらどの選手にも、彼のようなスポットライトが当たった瞬間、どの選手も同じように輝いて見えるのかもしれない。

「大谷みたいになれないだろうから、野球を辞めます」

という小学生がいたら、彼には世間のスポットライトが集中して当たっているからまぶしく思えるのだよ、でもだれにだって、スポットライトを当てたら、みんなものすごく輝いて見える、と言いたい。きみだって、なにかに興味を持って、生き生きと行動していたら、それだけで大谷のように輝いているんだよ、とね。

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【朗報】夏休みの宿題、やる気になる唯一の方法

今日、たまたま子どもが学校に来た。
今の勤務校には金管バンドの活動があり、体育館で練習をする。
夏の暑い時間に、蒸している体育館。巨大な扇風機があるので、それを回しながら練習をしている。
先生も大変だが、子どもも大変だ。
しかし、大会(録音参加)が近づいているので、みんな真剣な表情だ。

こっちは今日は午後に研修も控えているので、朝からあれこれと職員室で書類を作っていた。
すると、ちょうどお昼前に練習が終わって、子どもが
「先生いますかー」
と現れた。

児童会で使うプリントの予備が欲しい、というので印刷してやっている間に、なんとなく話をしていると、
「ぜんぜん宿題進んでない」
と言う。
まあ、まだ夏休みははじまったばかり。
「あ、そう」
と軽く受け流していると、その子は
「あー、たぶん今年も最後の3日くらいになって苦しむんだろうなあ」
と冗談っぽく言って笑った。
「エンジンがかかるのが遅いの」
と、自分で言っている。

「あ、そう。(金管バンドの)練習がない日の午前中とか、なにをしてるの?」
と私が尋ねると、
「えー、もうさっそくゲームするかー、それか、だらだらしてるー」
「朝からゲーム?」
「ああ、あと、オリンピック見てるよ」


わたしもそうだったから、何も言えない。
宿題のとりかかりは遅い方だった。
大学の心理学の講義で、「締め切り効果」という言葉を習ったとき、そんなものは小学生の頃から、とっくのとうに気づいてたな、と思ったくらいだ。締め切りの直前に、魔法のように集中力がUPし、ブーストがかかる。信じられないスピードで、作業が片付いていくのである。

さて、それはそれで良いも悪いもない気がするが、いささか博打のような感じもする。
そこで、大人になって仕事をするようになり、さすがに「締め切り効果でブースト」ばかりを目論んでもいられなくなった。
仕事をするようになって思ったのは、
「仕事って締め切りもなにも、ひたすら続いているし、エンドレスなんだな」
ということ。
たしかに、一区切り、というのはある。要するに、目の前に「今日の仕事」とか「今月の仕事」というのがある。わかりやすく言えば。
しかし、その実態は、実は仕事というのは、エンドレスに続いているのである。生きている限り。

イメージとしては、牛舎の前のそうじが該当する。
いくらほうきで掃いても、敷料(しきりょう=畜舎 の床に敷いて、家畜を保護したり、糞尿を吸収させるためのもの)は常に、牛舎の床から通路にはみ出てくる。風にふかれたら、そこら中におが粉は舞っているのである。竹ぼうきで掃いても掃いても、あとからあとから風が吹くために、この仕事はエンドレスである。

この仕事に、締め切り効果、なーんてものは、ないのだ。

わたしは子どもの頃から、「締め切り効果」を最終兵器にして、日常をやりくりしてきたために、牛舎の前をきれいに掃除する、などというような仕事を目の前にすると、なんとも苦痛であった。だれにも頼まれないし、やってもやらなくてもよく、世界の誰からも「締め切り日」を要求されなかったからである。

要するに、「締め切り効果」というのは、それをしないとやばい、という心理的なものがないと、うまく働かないのであります。そして、世の中というのはそういうことばかりではなく、どちらかというと「締め切り」などがない仕事の方が、多いのです。自分でそれらを決めない限り。

夏休みの宿題に悩むその子は、自分で締め切り日を設定する、ということはしないのだろうか。
わたしはそのことを思ったために、こう提案してみた。

「宿題をやる気にならないのは、8月の終わりが締め切りだと思っているからでしょう。7月の終わりが締め切りだ、というふうに、自分で決めたらどう?」

我ながら良い提案だと思ったのだが、これはすぐに却下された。

「えー?だって夏休みなんだもん、そんなふうに思い込むのなんて、無理!」
そして、
「それに、第一、まだ宿題がランドセルに入ったままだもん!」

失敗である。
締め切りの前倒し作戦は、失敗に終わった。

では、どうするか。

🔴やらないと、と思うことがあるときの対処法
さて、わたしがこの世でしばらくの間(あいだ)生きてきて、なにかやらなくてはならないことがあり、しかしなかなかとりかかる気持ちが湧いてこないときの、たった一つの方法は、実はこの世の多くの人が実は実践しているだろうが、以下の方法であります。
ちょっとだけ「準備」をやってみる
この方法は、本来やるべきことの「準備」しかしないのですが、ちょっとだけ、それも準備しかやらない自分を責めない、というのがポイント。

脳裏にすぐに、母親の声で
「そんなすぐにやめてしまうなんてダメ!」
とか
「やったうちに入らないよ!」
とか
「最後までやらないのは、本気だしてない証拠!」
とか、再生される人はかなり洗脳されていますが、早急に親離れしていただき、
「ちょっとだけ準備が進んだな」
と満足することが秘訣です。この場合は。

たとえば宿題がまだランドセルにつっこんだままになっている場合は、とりあえず、そこから取り出して、机の上に置いてみる。
それが「準備」ということです。
それだけでもよい。

次の日、目の前に現れた宿題をみて、ここからここまでやるんだな、とか、パラパラとめくってみる。それだけでもいい。それも「準備」だ。

その次は、筆箱を取り出して、えんぴつをけずってみる。また、夏休み帳の最初のページを開いておく、あるいは、机の周囲を片付けて、きれいにしておく。それだけ。

つまり、ちょっとだけ準備をやって、ちょっと間を置く。
この『間』を置くのがポイントで、そのときに、
「ああ、これってやっておきたいよなあ。早めになあ」
という気持ちが、少しずつ醸成されていく。
この『気持ちの発酵』というのが大事。酵母菌が発酵していないのに、パンをふくらませるのは無理でしょう。いきなり小麦粉をふくらませるのは、物理的に不可能なのです。

だから、「気持ちを発酵させる」

その発酵をうながすのが、「ほんの、ちょいとした準備」なのです。
ランドセルを開けるだけでいい。
そこから夏休み帳をとりだすだけでいい。
えんぴつを削るだけでいい。

そして、「ぼーっ」とする。

「これ、やらなきゃなあ。今やれば楽だよなあ。やっておきたいよなあ」と、ぼーっと静かに考えながら、自分の気持ちが素直になっていくのを見守るのです。そのくらいの落ち着いた、ピュアな心持ちです。決して、追い込むのではなく・・・。

ふと、「よーし、やってみるか」となる瞬間を待つのです。

やらないと死ぬ、とか、やらないと〇〇さんにどう思われるか、とか、余計なことは考えない。それは実力を削ぐ思考で、大リーグの大谷選手のようにはなれません。大谷選手は「打たなければ恥だ、ヒィ」とか「ホームランを打たないと死ぬ(過呼吸)」とか思っていないでしょうね。

気持ちがうまく発酵し、パンを焼く前のいい生地のようにふくらんでくると、自然とパワーが生まれてきます。そして、純粋にやりたくなる。やれるぞ、という自信も同時に、どこからかやってきます。これは断言してもいい。大丈夫、ふと、「やってみよっかな」という気持ちになる瞬間がやってきますから。

そこで、私はぜひ、世の中の小学生のみなさんに、お伝えしたい。

まず、ランドセルから出しなさい!(←キレ気味)
夏やすみ帳を!!(←絶叫)

話はそこからだ!!(←白目)


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プロジェクトXとは真逆の現象

オリンピックにあまり興味関心のなかった私にも、テレビや新聞報道で情報が耳に入る。小山田さんや小林賢太郎さんのことは週刊誌やワイドショーに限らず、ずいぶん話題になっているようだ。

そもそも今回の五輪には、当初からいろんなケチがついていた。
振り返ると、こんな感じ。
■2015年7月:新国立競技場の計画「白紙に」
■2015年9月:エンブレムのデザインも白紙に
■2017年4月:新国立競技場の現場監督が自殺
■2019年1月:JOC会長の贈賄疑惑
■2019年4月:当時の五輪相が問題発言で辞任
■2021年2月:女性蔑視発言で森喜朗会長が辞任
■2021年3月:容姿を侮蔑する企画を提案、開閉会式の統括が辞任
■2021年3月:聖火リレーがスタート、辞退続出
加山雄三さん、斎藤工さん、黒木瞳さん、TOKIO、広末涼子さん、香川照之さん、藤井聡太さんらが辞退。
■7月19日:開会式の作曲担当、小山田圭吾さんが辞任
■7月20日:関連プログラムに出演予定の絵本作家が出演辞退
7月22日:開閉幕式の演出担当者、ユダヤ人虐殺をネタにしていたとして元お笑い芸人の小林賢太郎氏を解任

このあたりの経緯を伝える報道を、NHKで見ていたとき、ふと浮かんだのは、
「これ、心がどんどん離れていった、ということだな」
ということ。

そして、「プロジェクトXとは、まったく正反対の世界だ」と思った。

心がどんどん寄ってくる、集まってくる、知恵が知恵を呼び、奇跡を起こしていく、ということがある。とくに、みんながなんとしても成功させたい、という思いになると、それが伝播するのか、クラス中がそうなる、学校中がそうなる、ということがある。

高校の文化祭がそうだった。

いろんな困ることが起きても、その都度、どこからか「なんとかしよう、のりこえよう」という知恵が集まってくる。人も寄ってくる。
なぜ人が集まってくるかというと、みんな、そこにかかわりたい、という気持ちがあるからだ。
だから、自分の用事が済んでも、なんとなく体育館の方に集まってきて、演劇のメンバーに声をかけてから帰宅するとか、部室の横で、巨大な「はりぼて」に糊(のり)を塗っている子に「がんばれよー」と声をかけ、様子をうかがってから帰宅するとか、していた。

そうすると、なんか困ったことがあっても、知恵が寄るんですね。
〇〇がないんだけど・・・というと、知っている子がいないか、とクラスに報告してくれる子がいて、するとふだんは面識ないけれど、たしか3組のTくんが持っていたと思う、とか情報が集まってきて、Tくんが必死になって翌早朝に届けてくれたり・・・簡単に言えば、そういうようなこと。

こういうモードになると、不思議とさまざまなことが、どんどんと雲が晴れるようにして起きてくる。みんながみんな、まっしぐらになっているから、他の人の動きがよく見えるし、感謝の念も湧く。「ああ、あのメンバーが、ここ、掃除してくれてたんだ!」もう、感謝しかない。


小学校でもそうですね、なにかの発表を成功させよう、と本気が伝わり始めると、みんなの嗅覚やら目つきやらがするどくなって、

「ねえ!〇〇ということにしようよ!」

というアイデアもたくさん出てくるようになる。
これまでの日本は、そういうことが多かったのではないかと思うね。
プロジェクトXなんて、古い番組だけど、あれを見ていたら、そういう仲間の知恵が不思議と集まって、なんとかして苦境を脱する、という奇跡が起きる。そういう奇跡が、各分野・各地域でたくさん起きてた、ということがわかる。

ところが今回の五輪は、心が寄らなかったみたい。できたらかかわりたくない、という気持ちがあるから、トヨタの会長さんまでが開会式に出席しなかった。
心が寄らなくなったイベントは、苦しい。
心が集まらなくなった目標は、だれもその達成を、のぞまなくなる・・・。

人は、自分の心に、嘘はつけない。
本当はやりたくないけど、忖度して顔だけ笑って、なーんて。
そんなウソ、いつわり、まんちゃくが、続くわけない。

問題は、最初はみんな、やる気に満ちていた、ということ。
だってみんな拍手してたもの。テレビでも、芸能人が本当に晴れやかな笑顔で、五輪の開催を喜んでいた。それが、いつの間にか、「かかわりたくねえな」になっちゃった。

そのターニングポイントはどこか。
リーダーが消えたところかな、と個人的には思う。
リーダーというのは、みんなの心が寄るところ、中心にいてくれる人。
みんながやがて集まるはずのところ、その中心にいてくれる人。
部屋の中心、囲炉裏のあるようなところに、どっか、と腰を下ろしてるイメージ。
それが、だれもいない、と感じたら、だれも寄り付かなくなる。

だから担任は、いつも教室で、その囲炉裏の火を絶えないように、消えないように、どっしりとかまえて、薪をくべて、うちわであおいで、じっとふんばって見つめていないといけない。それが学級担任のいちばんの姿。心に夢を期して、火をじっと見ているのが、仕事なのだ。

石原都知事もいなくなり、猪瀬都知事も・・・
みーんないなくなろうとしていて、だれも囲炉裏の火をみてる人がいないんだもの。
これじゃあ、プロジェクトがプロジェクトにはならんわね。
「United By Emotion」 が大会のモットーでしたが・・・

やっぱ、こころが整わないと、形をととのえようとしたってダメですよね。

薪をくべる

山の男、という話

北陸地方の奇談集『北越奇談』に、人間と山男の交流の記述がある。
越後国高田藩(現 新潟県上越市近辺)で山仕事をしている人々が夜に山小屋で火を焚いていると、山男が現れて一緒に暖をとることがよくあったという。
身長は6尺(約180センチメートル)、赤い髪と灰色の肌のほかは人間と変わりない姿で、牛のような声を出すのみで言葉は喋らないものの、人間の言葉は理解する様子がうかがえた。
裸身で腰に木の葉を纏っているのみだったので、ある者が獣の皮を纏うことを教えたところ、翌晩には鹿を捕えて現れたので、獣皮の作り方を教えてやったという。

この話が妙に気になり、奇談集『北越奇談』は、かの葛飾北斎が描いているというから、長野県小布施市の「北斎館」まで行き、本物を見てきた。愛知の岡崎市からだと、高速道路で4時間ほど。日帰りで強攻だったが、嫁様のご機嫌を伺いつつの家族へのサービスも兼ねて行ってきた。

Hokusai_Yama-otoko


どうしてこのような「奇妙で話の通じない者」との交流が気になるかというと、やはり日常において、人と人との話が通じない、理解しあえない、ということがあるからだ。

北斎館

今の政治を見ていると、「ひとと人とは理解しあわないのが普通」ということがよくわかる。
たとえば文科省がツイッターで#教師のバトン という投稿を呼びかけた。
本当の役人側のねらいは、教師の魅力や良さをメッセージに込めて現場から発信してもらい、教員のなり手が劇的に少なくなっている現在、少しでもその「なり手」を増やすことに貢献することであった。

ところが、実際には文科省が頭を抱えるほど教師のむくわれなさと現場の苦しさが訴えられてしまい、ねらいとはまったく逆の結果になっている。これは当然で、役人が現場の教師のことを知らないからであり、なぜ知らないかというと、これも無理もない、しょせん、人はひとのことなどわからないのである。

わたしはこれは確信犯で、文科省はこうなることを当然予測し、効果を見込んでやっていると思う。だって、文科省の予算を削ってるのは「通産省」であり「財務省と金融庁」なんだもの。

話を元に戻して、わたしは「話が通じないだろう、と思う人と、どのように接するか」ということに非常に興味がある。これは母親にも当てはまる。なぜなら、生まれたばかりの赤ん坊は、話が通じない。2,3歳ころから通じたかな、と思うことはあっても、話がくいちがったり、大人の常識がまったく子どもの方には無かったり、当然こう考えるだろう、と大人が思うことも、子どもはそうは思わない、ということが連続するからである。

考えてみれば当然で、わたしたちは、相手の脳内で起きることをすべて計画し、コントロールしているわけではない。相手をコントロールするのは不可能なこと。現在の政府がまったく国民感情を理解しないように見えるのも、これはもう当然のことなのである。

わたしが北斎館でこの絵を見ながら小一時間瞑想にふけっているのを、北斎館の方がちょっと変に思って様子を見に来られたが、わたしが別にただじっと考え込んでいるだけなのをみて、安心して元の場所へ帰って行かれた。

北斎の描いた「山の男」は化け物という感じが強く、とても人の姿とは思えない。しかしよくその説明を読むと、身振り手振りなどをみてきちんと気持ちや考えていること、伝えようとすることは理解するようである。
北越奇談のみならず、全国にあるこのような山男奇談を点検してみると、やはり言葉は通じないが、相手のことを親身になって心配したり、手伝ってやったりと、妙なことになかなか心を通じ合わせることができており驚く。

この絵を見る限り、おそらくロシア系の民族であろう。難破船でほうほうのていでたどり着いたのが日本列島であったのだろうか。たしかに冬は列島に向けて季節風が吹きつける。命からがらたどり着いた異国の地で、言葉も通じぬし、「鬼だ!」と驚かれるし、人目につかぬ山の奥へこもってなんとか生き抜こうとしたのだろうか。このロシア人が日本人の暖を取っている場に来て、少なくとも何度かくりかえして交流を試みているのは興味深い。どんな心境だったのか、人恋しさはあったのだろうか、想像するのが面白い。

静岡に伝わる山男奇談によると、あるときに遠州の又蔵という者が、病人のために医者を呼びに行く途中、誤って谷に落ち、足を痛めて身動きがとれなくなった。そこへ山男が現れ、又蔵を背負って医者のところまで辿り着くと、かき消えるように姿を消した。後に又蔵が礼の酒を持って谷を訪れたところ、山男が2人現れ、喜んで酒を飲んで立ち去ったという。

また、「北越雪譜」第二編巻四によれば、天保年間より40〜50年前の頃、越後魚沼郡堀之内から十日町に通じる山道を通りがかった竹助という者が午後4時頃に道の側に腰かけて焼飯を食べていると、谷あいから猿に似たものが現れた。その背丈は普通の人より高くはなく、顔は猿のようには赤くなく、頭の毛が長く背に垂れていた。害をなす様子はなく、焼飯を求めるそぶりをするので竹助が与えると嬉しそうに食べた。この者は竹助の荷を肩に掛けて山道を先に立って歩き、1里半ほど行って池谷村に近くなったところで荷を下ろして素早く山へ駆け登った。その当時は山で仕事をする者が折々この「異獣」を見たという。柳田國男は「北越雪譜」のこの記事を、山人が米の飯に心を引かれた例であるとしている。

わたしがこの「竹助」であったら、谷あいからふと現れたこの「異人」にどのように対応するのであろうか。きっと体がもう硬直して腰をぬかしてしまい、気絶するやもしれぬ。
しかしこの「竹助」さんは、ちゃんと相手の様子をみて『害をなす様子がない』ことを悟っている。きちんと分析し、相手の出方を見定め、コミュニケーションをとっているのである。すごいなと感心する。

このような「山人」「山男」というのは、実は日常に、すぐ近くにいる。
わたしであり、あなたのことである。
言葉を使っているから、日本語を話すからといって、わかりあっているわけではない。
まったく知らないのである。本心なんて。

教室の子どもたちの本心も、わたしはちっとも知らない。
わかったふりをしている教師がいるだけである。

SDGsでアジア人差別を考えようとする子がいる

母は日本人で父がネパール人、という子がクラスにいる。
わたしはその父親に一度だけお目にかかった。
すごく瞳がきれいで、物腰のていねいな方であった。

生まれて3歳までの時期をネパールで暮らした子で、うっすらとそのころの記憶があるという。
今は日本に来ていて、国籍も日本人として生活している。
母親は、なんと普通の公立学校の教員である。市内の別の小学校に勤務している。

その子は、SDGsに関心が深く、目標の10番目にある、
『人や国の不平等をなくそう』を研究テーマに選んだ。
SDGs10


そして、それを自分の研究に設定した理由をクラスのみんなの前できちんと発表した。

「いま、アジア人や黄色人種が差別を受けています。これをなくしたい」

彼女はどちらかというと、クラス内ではひょうきんものだ。休み時間に爆笑をとるような面白いキャラなのだが、これを言ったときの彼女の顔つきは本当にまじめで、真剣だった。

東京新聞が、
アジア人差別がアメリカで顕著になってきているが、日本人も例外でなく、被害を訴える日本人が増えているという記事をあげていた。

『コロナ被害が拡大し始めた昨年3月下旬から今年2月末までのアジア系への憎悪犯罪は3795件。加害者は、相手の顔つき、体形だけをみて卑劣な犯行に及んでいるとみられる』(東京新聞)

差別は、不安から始まる。
マウントを取らねば、と焦るのは、自尊心の欠如が原因だ。
自分に満足しているメンタル、自分を肯定するメンタルの持ち主は、相手を肯定する。
それがふつうだ。同じこころの動きだから当然。
自分を否定する者だけが、相手を否定する。

ところで、昔懐かしいイソップ童話。
今はもうすっかり忘れ去られてしまい、子どもも知らない子の方が多い。
イソップは奴隷(といってもギリシャの奴隷は奴隷のイメージとはちょっとちがうらしいが)だったせいか、人間観察をつづけ、この寓話の作者になった。
イソップは、うまく心理学を表現している。
「すっぱいぶどう」や「北風と太陽」など、人間の意識の動きをよくとらえている。
わたしは、このイソップ童話から、差別の元のメンタルを考える授業ができないかな、とよく考えることがある。

人は、強制されると反発したくなる。
つまり、人には自分のことは自分で決めたいという欲求があるようなのだ。

「これあげよう」というと「別に要らない」と言いたくなるが、
「あなたにはあげない」となると、それが無性に手に入れたくなる。
こんな程度のことですら、すぐに心がそう動いてしまうのが人間だ。
いつでも、こころの自由を担保しておきたい。
これは、人間のかなり原始的な欲求だろうと思います。
このような心の働きを「心理的リアクタンス」といいます。

イソップ物語の北風が、旅人のコートを脱がすことが出来なかったのがまさにこれです。
無理やりに脱がそうとすればするほど、そうはさせるものか、と反発しようとするのです。
心理的リアクタンスは日常のあらゆる場面で発生します。
isop


差別のこころを解明し、全人類が、自分の心の動きや状態を、じっくり考えるためにはどうしたらいいのか・・・。

『この目標は、国内および国家間の所得の不平等だけでなく、性別、年齢、障害、人種、階級、民族、宗教、機会に基づく不平等の是正も求めています。』

彼女の長い闘いが、今、はじまろうとしている。

戦争とはなにか~やなせたかしの伝記から~

光村図書の国語教科書には、やなせたかしさんの伝記が載せられている。
やなせたかしさんといえば、アンパンマンの作者であり、「手のひらを太陽に」の作詞家としても有名だ。子どもたちにきくと、手塚治虫よりも「やなせたかし」の方が知名度が高い。

「おれ、今でも部屋にでっかいアンパンマンがあるよ」

身体の大きな、背の高い男子が言うと、教室中に笑いが起きた。

「頭にほこりがつもってるけど、本棚からずっとこっち見てる」

本人も笑いながら語っていた。

そのやなせたかしさんの伝記で中心になっているのは戦争のことで、戦争で弟を亡くしたたかしさんは「正義とはなんだろうか」と考え続ける。自分なりの答えを出そうとしてずっと自問して生きている。
たかしさんはあるとき、道で仲良くおにぎりを分け合っている兄と妹を見る。
「おなかが減った妹といっしょに、おにぎりを仲良くわけあって食べている兄を見て、これだ、と思った」
本当の正義とは、おなかがすいている人に、食べ物を分けてあげることだ。
やなせたかしさんは、そこからあんぱんまんの着想を得た。

授業の中では、子どもたちと伝記を読んで、それぞれがそこから自分で考えたこと、生きるヒントをもらったことを文章に書いてみた。すると驚いたことに、こんなふうに書く子がいた。

「やなせさんは戦争で人を殺したと思います」

それがまた、クラスでいちばんよく本を読んでいるような、秀才の女の子だったから、わたしは驚いた。彼女が書いたのであれば、この文面は、よほどよく考えたうえでのものなのだろう。

どういうことか、さらに読み進めて、なるほど、とうなった。

彼女は、教科書の文中の、ある部分が気になったらしい。
それは、戦争について、やなせさんが触れた箇所。
そこには、
「戦争は人を殺すもの」とある。

彼女は、
「あれ?」
と思う。

ふつう、戦争について書く場合、よくあるパターンは、こうじゃないか、と。
「戦争は人がたくさん殺される」

ここがどうしても気になって、考えたようである。
どうしてやなせさんが、殺される、ではなくて、殺す、と書いたか。

さて?どう思われますでしょうか?

あんぱんまんは、顔を食べさせるのが仕事だ。
おなかのへった人に顔を食べさせると、あんぱんまんはもう顔がほとんどなくなってしまい、首から下だけの身体でもって、空を飛んで帰る。
絵本が出版された直後には、苦情がたくさん届いたらしい。
こんなのは偽善でしか無い、と。

ところが、作者のやなせさんは、ひるまなかった。
なぜか。やなせさんが、この主人公に込めた、一途な願いがあったからだ。

たとえば、いじめられている子がいるとする。
その子を救おうと思う。
しかし、そのいじめられた子をかばったことで、逆に今度は自分が標的にされ、攻撃を受けるかもしれない。それでもその攻撃を恐れてはいけない、ひるんではいけない、というのだ。
anpanman

なぜ、やなせたかしさんが、あからさまな「自己犠牲」の価値を言うのか。
それは、「いじめられることなんて、たいしたことがない」と心の底から言い切れるからだ。
だれかをかばって本当にだれかを助けようとし、それで誰かが助かるのなら、たとえ自分が、そのとばっちりを受けていじめられてもぜんぜん平気だ。

多くの子は、このことから、

「やなせさんはえらいなあ」

と書く。
立派な人だから、こういうことが書けるのだろう。
ぼくには、わたしには、とてもそんなことはできない、と。


しかし、前述の彼女は、違った。

「やなせさんは人を殺したと思います。戦争で。命令されて」

と書いた。

もうお分かりでしょう。
自分が痛い目に遭うことなんて、人の命を奪うことに比べたら、へっちゃらだ、というのです。
自分が人を殺した。そのことの痛みは、自分がいじめられるなどということよりも、何倍も大きい。
比較にならないくらいの苦しみなんだ。
だれかを救おうと思い、人を殺した。
当時の日本の青年は、みんなこうだったのではないか。
大東亜、アジア共栄圏の繁栄のため。
アジアの友好のため。
悪い欧米諸国をやっつけ、アジアに大きな独立と平和を勝ち取るため。
八紘一宇、本当の世界をここに実現するため。
そのために、やなせさんは、人を殺したのだ、とその子は書いた。
そして実際に、やなせさんは、人を殺したことが、どれだけ深い傷と闇をもたらすか、ということに苦しんだ。「殺すよりも殺された方が、何倍もマシだったと考えた」

彼女は戦後、やなせさんが苦しみぬいた、加害者としての自責の念をあばいた。
そして、あんぱんまんが自己犠牲に立ち、ぜったいに敵を倒さない、ぜったいに命を奪わない、といういかにもクリーンな主人公になった背景に気づいた。

やなせさんの苦しみを知らない人が、かんたんに言うかもしれない。
「あんぱんまんなんて、うすっぺらいヒーローで、あんなきれいごとばかりで成り立つわけがない。この世はきれいごとばかりじゃないんだぜ」

しかし、やなせさんは地獄を見た。地獄を知ったからこそ、あんぱんまんを生み出した。
うすっぺらい、きれいごと、とみるのは、地獄を知らないから、無知だからこその見方だろう。
人の命をうばった者の、そのつらさ、地獄を知ったものが、ようやく呻吟と苦しみの果てに、腹の底から絞り出すように生み出したのが、あんぱんまんなのだ。

・・・とまあ、そんなことを小学生が自分で気づいて、「感想文」に書くなんて、すごいと思いますね。

教科書の文中には「戦争は人を殺すもの」という文があるけど、「戦争は人に殺されるもの」という文は、この伝記には載っていない。彼女はそこに気づいた。そして、やなせさんがなぜ、人を殺すのが戦争と書いたのかを考え、戦争は殺されるから恐ろしいとは書かなかった理由に思い当たった、これがヒントだった、と、教えてくれました。

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人はなぜ平らな道でも転ぶのか

年末の最後の終業式の日。
そのとき、わがクラスでは事件が起きていて、
その対応でたいへんな日でありました。
事件とは何かというと、Sくんがころんだことです。


Sくんがころんだのは、なにもない、床だけの、階段の手前の広い場所。
たいらで、つるっとしたところ。

自分でも
「なんでころんだのか、わかんない」

ところが膝頭をしたたかに打ちまして、
床にがくっと崩れ落ちた衝撃で、
ひざのお皿がとにかく痛いとのことで、
すぐに病院に運びました。

子どもたちは担任が突然いなくなることにも慣れてますから、
「あとは教室大掃除して、身の回り片付けて、時間になったらさようならして!」
とわたしが居なくなっても
「はーい」
という感じで、淡々とすごして時間になったら帰宅したようです。

わたしは何度もいぶかって、Sくんに確認したのですよ。
それは何かというと、

「なにかにつまづいたのでは? あるいは薄いシートのようなものの上に靴が乗って、すべったのでは? 床になにか落ちていたか?」

ということ。

ところが何度確認しても、そうではない。
何もないところで、Sくんはただ、簡単に言えば、自分から、勝手に転んだのです。
わたしは、最初、ひとは「なにもない、つるっとした、平面の床では、人というのはなかなか転ばない」と思い込んでいた。決めつけていた。
だが、実際には、ひとは「なにもない平らな面でもころぶ」のであります。

人間は、簡単にいうと、以下の2種類に分けられることを、今回理解しました。
ひとつは、「なにかにつまづいて転ぶ」タイプ。
こちらは、ふだん、地面をよく見ていません。
だから、石が顔を出しているとか、木の根っこがところどころにある場合に転びます。

もう一つは、「でこぼこしたところの方がしっかり歩ける」タイプ。
こちらは平らな方が歩きにくい、と感じています。
はっきりと、右、左、と重心を決めて、体重をそちらに交互に傾けることが好き。
山道などで、ちょっとした段差や階段など、左右に体重を移し替えて、ぐっと体の片側に交互に重心を置きながら歩くのが得意です。
だから、階段とか段差のあるところ、あるいは山道の方が転ばない。
でも、なんにもない、平らで、なめらかで、つるっとしたところだと、
「今、どちらに体重をかけていいんだか、わからなくなる」。
そこで、転ぶのです。

人間は得意不得意がありまして。
平らなところを転ばないで走る、という試験だと勝てる子も、
山道はどうか、と試験項目が変われば、まったく勝てません。
逆に、山道では大得意という子も、きれいな競技場のトラックだとうまく走れないのです。

今度駅伝がありますが。
あれはいいですね。チームですから。
山道が得意な子は、山道で。
市街地が得意な子は、市街地を走ればいいのです。

でも、個人対個人になると、やっかいです。
だから、人間は、得意な競技で勝てばいいわけね。
逆に言うと、不得意な競技で負けても、それはそれで、ぜんぜん大丈夫なわけだ。

わたしは、高校入試に「落語」があったらクラスで1位をとる自信があったねえ。
「音楽」に、ホーミーがないのも、惜しい。あるいは口笛、という単元があれば。
評価基準が変われば、世の中のありとあらゆる評価は、がらりと変わるでしょうナ。
大学入試に、落語があれば、と願うひとは、わたしだけでは無いでしょう。

人はなぜ平らな道でも転ぶのか。
なぜかというと、人間にはタイプがあり、それぞれに得意不得意があるから、ということになりますね。
どうでしょうか?

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人間の脳って、そんな程度

「わたしは幼いころ、〇〇をした経験があります」
と嘘をついていると、最初は「というのは嘘だけど・・・」、と本人もわかっているはずだのに、
だんだんと時間が過ぎると、それを本気に思う人も出てくるらしいです。
だいたい、5割の人がそういうトリックにひっかかってしまうらしい。

あるいは、母親がおもしろがって息子に向かって
「ほら、小さいときに熱海の温泉へ行ったでしょう。大きなお風呂に入ったでしょう」
とか嘘を言っていたら、本当の本当に、当人も本気でそう思い込むそうですよ。行ってないのに。

人間の脳って、そんな程度らしいですね。
これ、小学校だったら何の教科の勉強になるのかな。

オロナミン

「キレる」が正当化されない、ということ

学校で、わたしが堅持しているのは、
「キレる」を正当化しない、ということ。
これを認めてしまったら、まあちょっとひどいことになるだろうと思う。

ドラえもんを見ていて、昭和には実際によくあったのかもしれないが、ぜったいに許されないのはジャイアンが周囲の人物をお気軽に殴るシーン。
ジャイアンは、自分の機嫌をそこねる相手にたいして、実にお気軽に手を出してしまう。
これを「いい」としてしまうなら、人間が人間ではなくなっていく。
人間は知的に活動できるからこそ、その価値が出てくるのであって、相手を殴るのを正当化していては、人間としてはまったくもう、負けである。
戦争は、手を出したら負け、である。
何も残らず、何も得られない。
終わった後に残るのは、深い悔恨の念と自責の念、そして傷ついた同胞と焼け野原である。
「キレる」は、人として異常なこと、としていかねばならない。

これを子どもに徹底させるのは、最初は容易なことではない。
なぜなら家で親にそう教育されている場合もあるからだ。
「やられる前にやれ」と教えている家庭もある。
そこに一教師や担任が、「手を出したら負け」と教えるのだから、子どもは混乱する。

しかし、学校で生活していると、その意味がだんだんに分かってくる。
子どもたちが納得していく。
手を出した子は、どうしてもレッテルを貼られるのである。
「手を出す子」として。

相手が傷ついて苦しんでいるのに、それを見てニヤッと笑っているのである。
それを見て、平気でいるのである。
同じクラスで生活している子にとっては、そういったクラスメートは、『気持ち悪い』としか思えないのだ。だから、だんだんに、しずかに、しずかに、孤独にさせられていく。子どもは実に、そのあたりの運び方が自然である。

わたしは教師になって15年。この間に、「友達に手を出す子」ほど孤独な存在はいないと思うようになった。例外なく、孤独である。そして、その子の小学校生活は、例外なく、暗い。
本当の仲間は、だれひとり、いないのである。

そのことを子どもに伝えると、それはそうだろう、と納得する。
だから、家で親になんと習っていようが、実感が勝つ。
つまり、「手を出したら負けだな」と思うのである。

そして、その前に、手を出す前に、「キレる」を正当化しない、というのが出てくる。
キレるのは、戦略としては悪手であり、キレる必要もない。
そう思えるように、学級を育てていかねばならない。
そのためのたった一つの方法が、

「車座での話し合い」

である。
車座は、だれも中心がいない。
そのことがビジュアルで子どもたちに実感される。
全員が同格になっての、意見の出し合いなのである。
それも、しつこく、何度も何度も、毎朝のように車座、である。
そして、どうしたら解決できるか、と何度も話し合う。

これをやっている限り、「キレる」必要はない。
その場で、「困っているから相談に乗ってほしい」と一言いえば、キレる必要がなくなるのである。

そこまでを全部、ひとつのセットにして、指導のワンセット、とするのである。

手を出したら、負け、である。
これを何度も何度も、学級のさまざまなシーンで、わたしは言っている。

手を出すな。手を出したら、負けだ。
手を出したら負け

【教師稼業】もしも私が女神なら

試されるのが好きじゃない。
子どものころからそうだった。
堂々としていたい。
それがいちばん自分の中の正直な気持ち。

だから、何かを訊かれるなら、尋ねられるのなら、相手には堂々と質問してもらいたい。
こちらも堂々と、本当に思っていることを、つつみかくさず言いたい。
それがいちばん、人間と人間の、まっとうな、傷つけあわないコミュニケーションの姿だろうと思う。逆に、こちらも、堂々と質問をしていきたい。うそいつわりのない、本当の気持ちを聞いてみたい。

もちろん、それにはお互いが守らねばならない条件がある。
相手がなにを思おうが、何を考えていようが、どんな言葉をつむぎだそうが、相手をまるごと尊重すること。
そうならないかぎり、「通じ合う」ことがない。
通じ合わなければ、話す意味がない。

だから、幼いころに聞いた、金の斧と銀の斧の話をきいたとき、顔面を殴られたかのような衝撃を受けた。今でもおぼえてる。

3つ、歳(とし)の離れた姉が、わたしに読んでくれた。
わたしは「女神」というのが分からなかった。
姉に尋ねると、神さまの一種だろう、ということだった。

わたしがそれまでイメージする神さまは、やさしい感じのする、爺さま、だった。
しかし、この女神、なんと性格の悪いこと。

「あなたの落とした斧は、金の斧ですか、銀の斧ですか」

そんなの、神さまなんだから知っているでしょう。
ところが、今落とした斧を知っていながら、男を試したのだ。

教師は、この女神のようになってはいけない。
ただひたすらに、もっともっと、この木こりのことを観察しつづけるしかない。
みるのだ。子どもを見る。それが教師の仕事である。けっして、決めつけないで、ああだこうだ、としないで、〇や×をつけるために見るのでなく、ただひたすらに、真摯に事実を見ようとして見る。

女神だって、そうやって本当にみていないと、木こりが正直かどうかなんて、分からない。
また、そのとき正直であったとしても、正直でなくなる瞬間だってあるだろう。人間だもの。
他人の前で正直にふるまったところで、それが本当に良いことかどうかも分からない。また、正直に言わなかったから救われる、というケースもあるし、正直に言うから人を傷つける場合だってある。
正直、ということそのものに価値があるのではなく、『ひとを本当に思う』ということ、その心のはたらき方に価値があるのではないだろうか。

もし教師が女神なら、まずは

「ケガなかった?」

だろうねえ。

いえ、もちろん自分のけがじゃなく、木こりがけがしてないかという・・・

kin

丁(てい)ポイントからのシルバーポイント

レジで金を払おうと待っていた。
目の前は、腰の曲がったおじいさんであった。
一瞬、隣のレジをチラ見したけど、そちらもすでに並んでいた。

おじいさんは現金で代金を払おうとしていた。
わたしは頭の中で、次の社会の授業の展開を考え始めた。
「水産業は終わったから、工業の1時間目だな。さてどうすっか」
いつも、レジで待つときはこうすることにしている。

レジの会計係は、大学生らしきお兄さんであった。
小柄だがシャープな眼鏡をかけたイケメンで、そのまま仮面ライダーの若手俳優になれそうだった。

若いお兄さんは
「Tカードをお持ちでしょうか?ポイントがつきます」
と言った。

その瞬間、目を細めて小銭入れをまさぐっていたおじいさんの手が止まった。

チッ

私は心の中で舌打ちをした。
「余計な情報を・・・おじいさんTカードなんて持ってなさそうだろ」

おじいさんは手の動きを止めたまま、
「丁カードは・・・どうだったけかな」
とつぶやいた。

その様子を見て、わたしの後ろの客は、素早く隣のレジに移動した。
カニのような横移動
見事なくらいで、わたしもすぐにそうしたくなったほどだ。

ところが、私の耳に残った、イントネーションがそうはさせなかった。
おじいさんは、

T(ティー)

とは発音しなかった。

かっこよいほどにクリアなボイスで、

「丁(てい)」

と発音したのだ。

わたしは何事ならんと興奮し、その続きを聴くためにそのままそこに残ることにした。
脳内で、なにかが点滅し、「・・・ブログに書けるぞ、書けるぞ・・・」と繰り返したからである。

「丁(てい)カード」

おじいさんの見事な発音を聞いていると、本来はこっちだったのか、という錯覚さえ起きそうだった。

ちなみによく言われている道路交通法上の「丁(てい)字路」というのは、ただしく「丁(てい)」である。
それをたいした知恵もない若輩者がなにをとりちがえたのか「T(ティー)字路」だと勘違いした。今では国民の約半数が、T(ティー)字路と思っているそうだ。しかし、あくまでも道路交通の法規上は『丁(てい)』。さすが、昭和20年代に策定されただけのことはある。

さて、おじいさんは
「丁(てい)カードはどうだったっけか」
とつぶやきつつ、何かのカードを取り出した。

「いえ、こちらはカインズの会員カードですね」
にべもなく、突き返す若い店員。

わたしはその態度にむかついた。
一緒に探してあげるとか、なにかもうちょっと人間らしいあたたかな心遣いがあろうに。

おじいさんは狼狽した様子でさらに次のカードをレジのトレイに置いた。

「こちら、どこかのクリーニング店のカードですね。Tカードは無いでしょうか?」
スマートな眼鏡の奥で、冷たい目線をいささかも動かすこともなく、店員は言い放つ。

おじいさんはめげずに、
「丁(てい)カードは・・・。はて、ばあさん何か言っとったかナ・・・」

レジはしばらく時間停止状態となった。
おじいさんはロダンの彫刻のように動かず、立派なことに若い店員も見事に停止していた。
ついでに私も目の前のリアルな動画に興奮し、心臓以外は停止していたと思う。

やがておじいさんが三度目に取り出したカードは、どうやら本物のTカードらしかった。
わたしだったら、どうしたろう。
「素晴らしい!お客様、やっと丁(てい)カードが出ましたね!」
と歓喜の声を上げるのではなかろうか。

ところがその冷静沈着なスマートお兄さんはやはり動ぜず、そのままシャッと機械に通し、秒でカードを返した。

さて、ようやく現金払いの儀式にうつることができる。

現金をふたたび探し始めたおじいさん。今度は、『釣り銭を減らす行為』に出た。

「いくらだったかいね?」
「1421円です」


青年はひとことも無駄口をたたくことがない。
「そうですね」もなければ「はい」という合いの手も無い。
よく訓練されたレジマシーンである。
しかし、今はその方が何倍もありがたい。

「ほんなら、21円を出そうかなあ」
おじいさんは指で小銭入れをかき混ぜながら、ゆっくりと言った。
すると、上記のセリフを言い終わるか言い終わらないかのうちに、レジマシーンの見事な技がくりだされたのである。

「Tポイントで21円を出せますので小銭は要りません」

そのとたん、
シャキーン
どこかで、金属音が聞こえた気がした。
そして、青年の四角い眼鏡の縁が、一瞬、まばゆく光った。

彼は活舌が良い。おそらく市内で五本の指に入るくらいだろう。
だから、この長いセリフをたったの1.5秒ほどで言い終えた。
わたしも、かろうじてその前半が聞き取れたくらいだったから・・・。

さて、そのおじいさんには聞き取れなかったのだと思う。
速すぎて。
もしかすると、最後の
「小銭は要りません」
だけが聞こえたのかもしれない。

おじいさんはとたんに相好を崩したような表情となり、
「えええ、ほんまか。ありがとう、ありがとう」

青年はすぐに、じいじから札を受け取り、瞬く間に会計を終えた。

「はい、次の方どうぞ」

にこっとして、彼の白い歯が見えた。
わたしは一瞬、彼を抱きしめたいような気持ちにさえ、なった。

おじいさんは弁当をもち、よっこら、よっこら、と歩きはじめる。
わたしの会計はもちろん丁ポイント。スマートに会計を済ませ、若者の笑顔に送られた。

さて、おじいさんがカードを何枚も持たねばならないのは大変なことである。
ここで提言したい。
日本国民は還暦を過ぎたら、
〇丁ポイント
〇dポイント
〇ポンタ
〇WAON
などはもちろん、マツモトキヨシもビックカメラもナナコポイントもすべて、気にしなくても良いようにしたらいい。
すべて、還暦カード(シルバーカード)に統一するのである。
どの店でも、還暦をすぎたらそのポイントがつく。
そして、そのポイントを使えば、いつでも買い物の会計額のうち、10の位と1の位が、00に自動的にそろうのである。

そうしたら、還暦すぎると買い物が楽でしょうがない。
政治というのは、国民生活のためにあるのである。
だから、政治という仕組みをそうやって便利に使うべきだろう。

ということで、還暦カードのデザインを募集中です。
どしどしご応募ください。
わたしのクラスの子(現在5年生)が、将来の夢で総理大臣になる、必ずなる、と断言しております。なので、一応今からそのように頼んでおきます。いずれ実現するでしょう。間違いない。
(同時に、Tカード丁カードと呼んでよい、という法律もつくってもらいますネ)

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評価って何だろう~自問自答シリーズ~

算数の授業中に、それは突如として訪れました。

「評価」ってなんだろう、という問いです。

正しい評価ってなんだろう、というのは、いつも教員についてまわる「自問」です。

今、5年生は分数の足し算引き算を学習しております。

ご存じの通り、分母が異なる分数の場合は、ちょっと計算がやっかいですな。

つまり、分母を同じ数にしておかねば、計算がスッとはできません。

そう、「通分」をしてから、足し算引き算をするわけですね。

ちょうどその「通分」をどうしてするのか、というところをあれこれと子どもたちと悩んでいる途中、ある児童がですね、

「通分考えた人、あたまいいー」

と面白いことを言ったわけです。

わたしは通分を人類ではじめて考えた人がだれか分からないのですが、

まあ、分数、というものを考えた時点で、通分、ということはそこから自然と導き出されるものでしょう。2分の1という大きさは、4分の2、と同じ大きさなのですから。分数がそういう定義である以上、通分、という仕草は、算数の数理の世界には、当然のように現れてくるのでしょう。

ところが、その子は、だれかが異分母の加減算をするために、

「通分」

を発明したようにイメージしたのです。
そして、「すごい!」「この人、天才か」と思ったわけですね。


クラスの仲間もわたしも、
「そうじゃないでしょ。発明したとかじゃないでしょ」
と思いました。

それでもその子が、
「通分」という数理計算上の工夫?について、「スゴイ」と感動した、高評価を出した、ということが面白くて、ちょっと教室に笑いが起きました。

わたしはそのときに突如、モディリアーニを思い出して、ちょっと算数なのに、モディリアーニの話をしちゃいました。

モディリアーニはご存じのとおり、イケメンのイタリア人画家で、生前はあまり絵が売れずに世間的にはほとんど話題になることなく死にました。

ところが、そのモディリアーニを評価する人物が新聞にその記事を書いたり、少数のパトロンたちが運動をしたりして、それをもとにモディリアーニは世界でも有数の画家となるのですね。

わたしは幼いころ、名古屋市の美術館がモディリアーニのおさげ髪の少女を買ったためにモディリアーニを知り、父も好きで良く模写をしていたことからそのちょいと変わった作風が好きでありました。

わたしがモディリアーニを現在こうして楽しめるのは、当人のモディリアーニのおかげでもありますが、やはりそのモディリアーニの絵の価値を知り、その価値を認めた人がいたからですね。

画家はそういう人が多いですね。ゴッホもそうだと聞いたことがあります。

少数でもパトロンがいて、その絵の価値を正しく見てくださらなかったとしたら、私のような大陸から離れた島国に住む東洋の人間が、彼らの作品を見て楽しむことなんてできません。

つまり、「正しくその価値を認める」ということには、かなりの価値がある、ということです。
価値を認める能力にこそ、価値がある、というわけです。

となると、「通分」の良さをきちんと指摘して感動すらできた、という、この子のセンスは、まったくもって素晴らしいわけですね。価値を認める能力が、ある、というわけで。

わたしは子どものころ、通分に感動したかというと、まったくそんなセンスは持ち合わせておらず、ただひたすら

「算数なんて、くだらないなあ、ちっ」

としか思っていなかったと思います。

そういう私が、くだらなかった、のですな。よくあるパターンです。

osagegami

【DNA】コロナウイルスと先祖の関係は?

コロナウイルスのような感染症は、人間にとっての脅威だ。
このような感染症と人類の戦いは、過去にもあった。
一番古いのは、現生人類ホモサピエンスが、気候の安定とともに、アフリカを出て、各地へ進出しはじめたとき。

これは大冒険だった。
それまでには経験しなかった脅威が、ホモサピエンスを襲ったのだ。
それが、

ウイルス感染!

ホモサピエンスがひょっこりアフリカから外で出てみたら、おそろしいウイルスが、別の土地にはふつうに存在していたわけだ。これで、ホモサピエンスはかなり数を減らします。

ところが、ホモサピエンスの中に、生き残ったのがいる。
それは、実はすでにかなり前に、アフリカを出てヨーロッパや中近東のあたりに住み始めていた、ネアンデルタール人が関係している。

アフリカを遅れて出てきたホモサピエンスは、一部、死に絶えました。
病原菌に冒されて。ヨーロッパやアジアに存在していたウイルスに勝てなかったのです。
ところが、ネアンデルタール人は、そのウイルスの耐性を持っていた。なんとなれば、彼らネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスより数十万年も先に、アフリカを出てヨーロッパやアジアに広まっていたわけ。その間に、ウィルスへの耐性を獲得していった。

我々の先祖は、みんな大急ぎでネアンデルタール人と結婚し、あわててDNAにその耐性を取り入れた。その結果、生き残ることができたらしい。

つまり、今の時代に生きている日本人も、ホモサピエンスである以上、DNAの一部にどの人も、ネアンデルタール人のDNAをかすかに持っているのだ。

もしかしたら、今のコロナウイルスの騒ぎにも、このDNAレベルでのなにかが関連しているのではないか?と研究している科学者もいるそうである。

まだ何もわからないらしいけど・・・。


ネアンデルタール


さて、ついでに。
現在の日本民族には6つの源流が考えられる。

時代的に古くから言うと、
1番めは、まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔。
2番めは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民。
3番めは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられる人たち。
今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとだ。
4番めは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系。
5番めは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びと。
6番めが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っている。
したがって、もっとも古くから日本に住んでいる現在の民族は、縄文人の血を引くアイヌ民族であります。

ヤマト王朝を建国した人々は、ずいぶんとこの1番目の人たちに、遠慮した方がいいかもしれない。
少なくとも、中元歳暮の礼くらいは尽くさないといけない。あとから来たものが、大きな顔をすべきではないからだ。

で、結局、1番目から6番目までがどんどんと混血して現在の日本人ができあがっている。

今の日本人は、このすべてが祖先にあたる。
少しずつ、その遺伝子を、多かれ少なかれ、持っている。
ちょっとずつ、体の細胞の中に、分け合っている。
現代日本の、どの日本人も全員が、一人残らず、祖先のDNAを受け継いでいる。

やはりお盆には、祖先を招き入れて、接待をせねばなるまい。
すべての祖先を引き入れるとなると、部屋がちと狭いが、相手はミクロの遺伝子なので、んまあ広さはどうってことない。

縄文系のご先祖には、縄目の器でお茶を。
海の民のご先祖には、カタクチイワシのおつまみを。
大陸からのご先祖には、馬刺しを。
そして元騎馬民族には、馬頭琴の音楽を聞かせてあげたい。

ともかく、現代人はご先祖をお招きするのに、最低6種類のおもてなし法をマスターすることが肝要うだ。そのうち、100円ショップに、6種類のかんたんなおもてなしグッズが並ぶでしょう。

しかし、今日近所のDAISOへ行ってみたら、なんだかもうオレンジ色のパンプキンのお化けが飾られていたぞ。
ちょっと早くない?あれ、10月だよな・・・外国のお祭りの、外国の先祖が里帰りするやつ。
なんていったっけ?あのイベント・・・。たしか、子どもがお菓子をねだるやつ。
弘法様じゃなくて・・・思い出せんな。

harowin

「自分のあたまで考えるのがカッコイイ」VS・・・

依存はカッコ悪い。
自立がカッコイイ。

 ↑ これはそうとも言い切れない。
そもそも人間は、人とひとの間で生きるのが当然で、すべて周囲から受けたもので生きている。だから、依存するというのも当然で、相互に依存しあって生きているのが事実。相手に依存できることが社会的動物の証でもある。

しかし、自分の感情まで、依存させるのはカッコ悪い。
たとえば、隣の家のおじさんが、

「テリー伊藤はかっこいい」

と言ったので、自分もテリー伊藤を好きになる、というのはいささか短絡的すぎる。
根拠を自分で言えないくらいに、「思慮が浅い」という批判は受けるべきだろう。
なぜテリー伊藤がかっこいいの?と聞かれて、

「えっと・・・隣の人がそう言ってたので」

というしかない程度なのだから。

自分の感情は、自分の中に湧き上がってきたものを見て、あるいは
知恵を使い、自分らしさを追求したうえで
「わたしはこれが好きだ」
というべきである。

自分の好み、という自分の主体性のつまった感情まで、
他人に操作させるのは、カッコ悪い。

---------------------------

と、これに近いような議論を、教室でする。
たとえば国語の授業で、討論になった時に、
「Aだと思う」か「Bだと思う」か「そのどちらでもない」か、
どれかに自分で胸を張って手を挙げる、という場面。

隣の席の剛田武が
「おれはAだ。おいのび太、お前もAだよなあ」
と言ったとき、
「いや、ぼくはBだなあ」
と涼しい顔で、なんの躊躇もなく言えるかどうか、ということ。

このときに、感情的に剛田武になびいてしまうのか、
あるいは精神のよりどころとなるくらいに、日ごろから崇拝してやまない源静香が
「のび太さん、わたしはBよ」
と言ったからBだとするのか、
あるいは自分で考えて、どうも今のところどちらでもないなと判断して
「どちらでもない」
に挙手するのか、ということ。

このときの自分の感情に、責任を持つことって、かっこいいじゃないか、ということ。

------------------------------

剛田武になびくのは、恐怖感に支配された、ということになる。
あるいは源静香になびくのは、崇拝思考(陶酔感)に支配された、ということになる。
どちらも、主体性がないことが共通している。

主体性をもとう、というのが文科省の大方針である。

------------------------------

恐怖感にも自分の魂を売り渡さず、
かといって
陶酔感にも自分の魂を売り渡すな、
というのが、文科省の方針である。
文科省はただ一つ、「自ら主体的に考え、自ら主体的に創造せよ」と教える。

-------------------------------

・・・と、ここまでは理想論であります。

実際は、子どもはうんと「非主体的」になってしまいがちだ。
先生が言うから、友達が言うから、お母さんが言うから、ということで、
いともやすやすと決めてしまい、自分の好みまで深くさぐることがない。

まあだからこそ、小学校教育があるのでしょう。

さらに突き詰めると、この話はいじめにもつながります。
いじめを肯定する子も、ちらほらいます。
自分が気に入らない子をいじめて、何が悪い、と開き直るのです。

これは、むしゃくしゃして鬱積した感情を吐き出したい、というだけなので、良いとか悪いとかの道徳では抑えることができない。<知的ではない態度>に向けて<知的な対話>を促しても、子どもは受け入れません。
その子は、自分ではどうにもできないような、むしゃくしゃした感情に溺れてしまっているから、そこから真に主体的になる道をたどっていかないと本当には自立できないのですが、もう自分がそういう感情に溺れていることすら客観視できないし、自分を取り巻く状況をつぶさにしらべることもできなくなっている。
だから、いじめ、という非道徳的な行為も平気で行ってしまえる。

そういう子に、「自分を見失っているよ」というセリフは届きません。
そんなふうに自己を客観視できる子なら、そもそもいじめなどしないし・・・。
いじめる子は、ただ、どこかで周囲からINPUTされた、勝手な感情を吐き出しているだけです。
そして、そんなふうに吐き出すことの快感に酔いしれているだけ。
まったく主体的ではありません。

このように、主体的態度が育っていない子どもを、主体的に考え行動する子にするにはどうするか、というのが文科省が100年ほど悩み続けていることです。その最中に、太平洋戦争などの不幸な事件も起きました。金属バット殺人事件もあったし、神戸の酒鬼薔薇事件もあったし、最近では神奈川県津久井市の事件もありました。どれも、「感情を吐き出す」ことに酔いしれた事件でした。

で、教師はどうするか、という難問ですが・・・

はっきり言って、難問です。
「主体的な態度」というのは、長い時間をかけて獲得するものなので、
授業でちょっと考えたからといって、なにかすぐに身につくかというと・・・

そうではありません。

------------------------------------

したがって、この方法がいいかどうか、わかりません。
まだ自分でも、考えあぐねています。
しかしまあ、なにかするしかないので・・・とりあえず、この1学期には

「いじめはかっこいいだろうか」

という討論を仕組む、というのをやってみました。

いじめは正しいかどうか、ではありません。
かっこいいかどうか、です。
だから、正解はありません。(かっこいいかどうかは人によるので)

ただし、話し合いの場では、自分はどう思うかを言うことになります。
で、かっこいいなら、なぜそう思うのか、
かっこよくないのであれば、なぜそう思うのか。
その考えの奥を尋ねられる、というわけです。

これまでは「良い悪い」の軸でしか、考えていなかった子ばかりです。
1年生の時からそう習ってきたから、という子もいます。
すると、「〇〇先生がそう言ったから、というのはもう卒業しよう。これからは、自分で考える、というのを大事にしよう」と伝えます。
「いじめは良くないから、カッコ悪い」
という子には、
「なぜ良くないと、カッコ悪いのですか」
と聞きます。
すると、だまってしまいます。成績の良い女の子なんて、困ってしまいます。
そんなの、考えたことない・・・。

『たばこを吸う人だって、身体には決してよくないと思っていても、かっこつけて吸う人いるでしょう。良くないことがカッコイイ、と考える人だっているよね』

というと、さらに混乱してしまいます。

今年はこれをやったら、ほとんど全員がカッコ悪いに挙手したのですが、
いちばんみんなが納得した理由は、
「いじめをする人は、パワハラだからキモイ」
というのでした。
小学生がパワハラという言葉を使うことに驚きました。
解説抜きでみんな理解してました。さすが現代っ子。

わたしが
「なぜパワハラが(キモイの)?」
とさらに尋ねると、
「自分の感情しか見てないから、キモイ」
というような感じでした。

ある女の子は、こうも言いました。
「たぶん、いじめる人は、こういう(話し合いの場)だと何も言わないでごまかしてしまいそうだから」と。

みんなで討論をくりかえすうちに、教室のまんなかに、
いじめっ子の、苦しいような、切ないような『感情処理のようす』が浮かんできたのです。

これは、良い悪いとか、正しいか正しくないか、という視点からは、けっして見えてこない景色かと思いました。
ここでは、子どもたちが、「熟考」するのが当たり前、だときちんと実感することが大事で、感情を吐き出すという友達のせつない姿は、「討論を前提にする子たち」だからこそ、見えてくるのでは、と思いました。

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水木しげる「総員玉砕せよ!」について

ネットのニュースをたまたま見ていたら、
靖国神社で軍人の格好をしているおっさんたちが目にとまった。
無意識に、「総員玉砕せよ!」の水木しげる二等兵の姿をさがしてしまう。
水木さんはいなかったが、人はそれぞれのやり方で、醜悪な戦争をふりかえるのやなあ、と感心した。

さて、ご存じの通り水木さんは個性の豊かな人で、戦地に行ってまず絵を描こうとした話は有名で、上官に呆れられるのですが、世界中でこういう人はいたようですナ。フランスの作家、アルフォンス・アレー(Alphonse Allais)もまた、戦地を戦地と思っていないような態度でのんきに暮らしていたため、上官に怒られたそうだ。

わたしはこの話が好きなのは、子どもも同じような子がたくさんいるからで、教室を教室を思わず、授業中を授業中と思わず、好き勝手に寝転がったり、あくびをしたり、ムシと遊んだりする子はたくさんいる。わたしは呆れるのだが、昆虫の好きな子は、やはり、足元に虫などいたら、掃除中でも箒などほっぽりだして、掃除も忘れて昆虫の背中の羽の色に夢中になるわけです。

コスプレするおじさんたちも、水木しげると同じでしょうね。
水木しげるは、南国の珍しい景色をみたら、スケッチをせずにはいられない。同じように、靖国神社のコスプレおじさんたちは、コスプレの魅力にはまってしまっているのでしょう。やらずにはいられない、という感じ。毎日やるわけにもいかないから、終戦記念日、という大義名分がつけられそうな日をチャンスにしているのでしょう。

さて、授業中にムシに夢中になっちゃう子について、わたしは決して放置はしません。
こころのなかでは、その子らしさを十分に面白がっているのですが、そんなふうな担任の心中は知らせません。
どうするかというと、シンプルですが、今の時間の目的はなんだったか、と振り返ります。
授業は1時間ずつ、その時間の目的と目標があるので、算数なら「今日は、合同な四角形の書き方を明らかにする、だったよね」と、確認します。
たいていは、それで授業に向き直ってくれます。
集中してないなと思ったら、それなりの個別フォロー、全体への指導の時間配分などを変更します。

水木しげるにも、上官が目的を話したでしょうね。わたしと同じように・・・。


上官「馬鹿モノッ!」
しげる「はっ」
上官「ここにお前は何をしに来たんだ!」
しげる「はっ。こんなところへは二度とこられませんので、スケッチをするためであります!」
上官「馬鹿モノッ!鬼畜米英との戦いに来たのだ!米国の兵士と戦うためだっ!」

しかし、合同な四角形の書き方をマスターしよう、というような目的ならわかりますが、戦えといわれても、なんで戦うんだ?というのが水木しげる先生のホンネでしたでしょうね。

しげる「上官どの!なぜ戦うのでありますか!」
上官「馬鹿モノッ!南方を押さえねば、資源が手に入らないではないか!」
しげる「上官どの!なぜ資源が手に入らないのでありますか!」

これ、授業でも扱う場面ですが、なぜ太平洋戦争をはじめたか、という理由には、教科書にも「資源を手に入れようとした」と書いてありますよ。ただし、手に入らないから、という理由はまちがいです。資源はありました。しかし、「余計にほしいと考えた」からですね。東南アジアの資源を、ただ同然で、自国のものにしようとしたからです。

まあ、目的なんてのは、大人でもこうして見間違えたり、勘違いしたりしやすいのですから、常に熟慮しておかねばならないというわけです。

ただし、コスプレには目的なんてものはないでしょう。ただ、あの恰好がしたい、あの服を着たい、という、やらずにはいられない、という心性に突き動かされるようにして、靖国神社へ集っているのでしょう。

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悪口を言いたくて言っているわけではない

教員をやっていて面白いのは、1年の経過だ。
担任になってしばらくすると、だんだんと変化が出てくる。
人を責める場面が減っていく。
このことだけでも、ものすごい変化だと感じる。

やっているのはかんたんなことで、

「〇〇してほしい」

を言えるようにする、というだけのことです。

実際に学級でみんなが生活していると、あれこれと課題・問題が持ち上がる。
これは当然のことで、給食当番のことやそうじのこと、日直の仕事、宿題のこと、
さまざまにみんなでやりくりをしているのだから、話し合うことが当然でてくる。

そのときに、やはり多いのは、相手を責める、ということです。
責めたくなるのは無理のないことで、小学生がみんなで生きていこうとしているのだから、当然だ。

これが大人どうしの話なら、相手の都合もよくわかるし共感もする、立場を理解しようとする心も働く。相手がこうしてほしいと思っているんだろう、ということも察して動く、という配慮もある。

ところが、子どもどうしですから、相手の求めることが分からないのです。
だから、基本的なコミュニケーションとして、ちゃんと伝える、ちゃんと聞く、ということが必要になる。

子どもはモデルを探しながら生きていますから、身近なモデルとしてたとえば友達や、夫婦の会話を参考にするかもしれない。
すると、

「なんで ~ しないんだ」

とか

「〇〇しなきゃだめだろう」

という言い方を、まずは参考にする、ということです。

だから、4月当初、教室はこういう言い方が蔓延している状態。


そこから、先に書いた「〇〇してほしい」という言い方をうながしていくと、
だんだんとその言い方で言えるようになってくる。

たとえば、
「なんでそうじしないんだ!お前、サボり魔だな!」
という言い方をする子がいた場合、いい直しをしてごらん、それじゃ伝わらんよ、とうながすと
「〇〇くんに、ほうきでここを掃いてほしい」
と言い直す。
それも、深呼吸して、相手の目をみて、大きめの声で、ゆっくりと言うようにうながす。

すると、呼吸が合うのか、目が合うのか、気持ちが合うのかわからないが、聴ける体になっている。
で、
「わかった」
といって、その子はほうきで掃くのですよ。

まるで魔法がかかったようです。
今まで、

「そうじさぼんなヨ!」
「なんでやらんのだ!」
「いつもさぼってんな、お前!」
「お前の机、きたねえな!」

などと言うことばが行き交っていた教室が、

「ここを掃いてほしいです」
「はい」

というように、変化していく。

不思議なことですが、〇〇してほしい、といえるようになるだけで、
あたかも 憑き物がとれるように 悪口が消えていくのです。
なんかが憑依していたのかな、というくらいに。

実はこれはかんたんなからくりで、
子どもは本当はこころのなかで、あれもしてほしい、これもしてほしい、というのを常に100くらい思っているのですね。
で、もっと言うと、大人も常時、100くらい、あれしてほしい、これしてほしい、と思っています。40代でも50代でも60代でも100歳でも、人間はつねに100くらい、そう思っている。

しかし、なぜかこの世の中はそれを言ってはいけない空気があり、それを言うと
「甘えるな!」
と叱られるのですよ。

だから、子どもはものすっごく、がまんしております。
(実は大人も我慢してる)

なので、それを開放してあげるだけで、人間心理は安定するのではあるまいか。

一番肝心な点は、

〇〇してほしい、と言うだけで、効果がある、という点です。

べつに、それがかなえられなくてもいいんです。
人間って不思議ですね。〇〇してほしいんだ、そうか、そうか、と相手に受けてもらうだけでいいんです。べつに事柄として、それをしてもらえなくても。

女子に嫌われていたやんちゃくんが、クラスのみんなの前で、〇〇してほしい!と叫べるようになると、変化が起きます。やんちゃくんが、徐々にクラスの味方になっていきます。みんなを助けるようになる。正義の味方になります。
不思議ですよ。まったく。

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『龍の子太郎』を教科書に

たしか私は小学生の2年生ころだったかな・・・昭和のこと。
もう本当におぼろな記憶。

先生たちにうながされて、体育館に入っていくと、見知らぬ人たちがいる。
彼らは演劇をしてくれるお兄さんやお姉さんたちだった。みんなで迎えてくれた。
一人のお兄さんはなんだかジャンプして両足の先に手でタッチをするという曲芸らしきことをし、ぼくらは歓声をあげた。それだけで、ぼくたちはうれしくなった。
このあと、この人たちがぼくたちのために、とんでもなく楽しいことをして見せてくれるんだ、という気がしたからだ。

それが、劇団なんとか(覚えてません)の人形劇「龍の子太郎」でした。
大きい龍も小さい龍も出てきて、幻燈のような仕掛けをつかったりと工夫されている舞台で、悲しいけど見た後には元気が出てくるような、子どもの心をわしづかみにするのに十分な劇でした。酔いしれましたね。見終わった後、泣いてる子もいたし、劇団員の方たちが体育館から出る際には握手をしてくれたのは今でも覚えている。

その方たち、当時はまだ20代、30代の方たちだったろうから、今はもう70代から80代になっているだろうか・・・。
わたしのこの頭の中の、記憶の映像に映っているこのお兄さん、お姉さんたちは、今はどうされているのだろう。


ところで、どうしてこれを思い出したかと言うと、教室で子どもが読んでいたからですな。
それも、松谷みよ子さんの、ハードカバーを。
昭和のにおいがぷんぷんするような、挿し絵の芸術的な本を。

お、と思って少し借りて読んでみたら、思い出してきて・・・
思わず教室で「龍の子太郎」の話をしてしまいました。
ちなみに母龍が自分の目玉を太郎にしゃぶらせて育てたエピソードはずいぶんと面白い。
わたしは、目というのはさまざまなものを見ているから、知恵の意味があるのではないか?と考えています。龍になったお母さんは、自分の知恵を太郎に授けたいと願って目玉をしゃぶらせた、ということになるんじゃないかと。
このあたりは、なんだかゲゲゲの鬼太郎にも通じていくような気がします。
鬼太郎の父親も、実はかなりの知恵者です。わたしが以前見た回では、お父さんは閻魔様とタメで話をしていた。地獄の閻魔様と「やあ」「ひさしぶり」的な会話ができるあの人、霊界ではなかなかのポジションを占めて居るんじゃないか。

ともあれなぜ5年生でこの物語が重要になってくるかというと、5年生は社会で日本の国土を学ぶからですね。火山とか湖とか川とか平野とか山地とか。そうした土地の様子を学ぶ際に、古くから伝わる伝承はそのイメージを大いにふくらませてくれます。

太郎の話も、古くから伝わる民話伝承が元になっています。実際に信州の松本・安曇平はいまは田園風景が広がっていますが、かつてはそうではなく、ただの荒れ地だったらしい。そこに治水を施して水を得て、いくつもの水の流れをつくったことが、こうした物語の背景にあったのではないかと言われています。

物語の最後に、母親龍が見えない目でもって太郎を背中にのせ、大きな岩に何度も体当たりするシーンは涙をさそう。傷ついたからだでも惜しまず体当たりを続けていると、ついに岩がうごき、たまった川の水がついに村の方へと流れていく。龍は傷ついたまま倒れ、ついに動かなくなるのですが、太郎の涙がふれるとあらまあ。最後はハッピーエンドです。

文科省は、なぜこれを教科書に載せんのだ!!怒!!


tatunoko

【コロナ禍】硬直したら、あかん

タモリさんが昔、ラジオの中で

「やる気があるものは去れ」

と言ったってネ。
なんか、わかるわ。
だって、ただの「やる気」って、どこか不健康だもの。

そのやる気、大丈夫?
やる気があるって、なにをやるの?
やる気がありますって、なにをするつもり?
なんのために?
それ、やれなかったら、どうなるの?
そのやる気、なくなったらどうなるの?

「笑っていいともは、スタッフにやる気があったら続かなかった」
だって。

お茶の間の人気者が
「すぐに終了すると思ってた」
と言いながらも、番組がずっと続いたのは、「やる気」がなかったからだそうで・・・。

NHKのブラタモリという番組の、讃岐うどんを放送する回の中で、こうも言った。
「コシがあるのは、ダメだねえ。人間も同じ。コシがあって、しっかりしているのは、だめ。コシがなくって、ふにゃッとしていないと

コシのない子は、しっかりしてない。つまり、世間の価値観とは無関係。
したがって、世の流行や世間体、損得や効率、見た目や評判に左右されず、「外圧」に操作されない状態でいられる。

世間の価値基準とは無関係でいられると、やはりこれは、いいことがある。
自分の中の「探求心」だけで動くことになるから、
なんといってもネ、『飽きない』の。
飽きない、めげない、くたびれない。
これが大事!


飽きないから、ずーっとやっていても平気。
マンネリズムに強い。

その一方で、コシがないから、途中でやめても平気。
やめるのが平気だから、平然としたまま、メンタルがやられてしまわないままで、
「次は、これね!」と明るく言える
プライド無いから、すぐリセットできる。
リセット力に優れる。
リセットできるから、いつでもスタンバイOK、という雰囲気。

コシのない子は、居場所を限定しないで、ふらふらするから、
新しいものに遭遇する可能性の高い子。
そして、世間の評価と無縁だから、自分で「面白い!」を決められる。
コシの無い子は、まだ誰にも評価されていない世界にも、優しい目を向けられる。

つまり、
「まだ形の無い世界」を、
創造できる子。


コロナウイルスの禍が起きて、世界が変わりつつある。
これからはもう、ソーシャルディスタンスをとるのが当たり前。
一斉に何かをする、長時間かけてする、という形が変わっていく。
お医者さんが本当にドライブスルーをやるとは思わなかったもの。

さあ、世の中、どんどん変わっていくぞ~!!

ドライブスルー
まー、硬直しとったらかんわ。(名古屋弁)

「まさか!」志村けんさんの訃報

「まさか」
口をついて、出た。

嫁様も何度も「まさか」とつぶやいている。
志村けんさんが亡くなった。
昭和の小学生は8時になるとわくわくして、テレビの前に座ったね。
一家だんらんが、そこから生まれた。

まさか、まさか。
人生は、まさかの連続だ。
今、世界が騒然としている様子も、毎日ながれてくるコロナのニュースも、
4月に学校が順当に始まるのかどうか危ぶんでいる今の学校の様子も、
みんな、「まさか」だ。
まさか、こんなになるとは、思わなかった。
「まるで、映画を見ているようだ」はテレビのコメンテーターの言葉だか、本当にそう。

人生の3つの坂のスピーチは有名だけれど、上り坂、下り坂、3つめの『まさか』がこんなに毎日のようにつぶやかれている時代は、人生でも初めてだと感じる。

2年前に父が亡くなったときも、
「まさか」
という感じがした。
早すぎる、と思った。もう少し、生きていてもらうつもりだったから。

父の死の後だろうか、「まさか」を身近に感じるようになった。

まさか、こんなに雪が降るとは。
まさか、こんなところに芽が出るとは。
まさか、母がまだ喫茶店をつづけるとは。
まさか、猫を2匹も飼うとは、なぁ。
まさか、自分が小学校の教員になるとは。


考えてみれば、ぜんぶ、『まさか』でできている。
ここにこうして暮らしていること、生きていること。
朝食でホウレン草のサラダを食ったが、それが食べられていることも「まさか」だ。

スーパーの棚に、物がなくなった映像をみたら、
本当の当たり前は、なにも並んでいない、「空の棚」の方が当たり前だったことに気づく。

そこに、物を運ばなければ、運ぶものを用意しなければ、
運ぼうとする人のはたらきがなければ、手が動かなければ、
なにも、並ばないで当たり前。「無い」がふつう。
いつの間にか、そこに「なにかが並んでいることの方」を当たり前にしているけれど。

こうやって毎日、なにかを食べていかれていること自体が、もはや「まさか」なんだろう。

今、こうやってキーボードをたたいて、ブログを書いていることも、
実は、「まさか」の連続で成り立っている事象。
もし、電気がこなければ。もし、指が動かなければ。もし、〇〇がなければ・・・。


まさか、で、当たり前。
その「まさか」を、
ひとの力と意志で、どんどんと爆発的に生み出している
のが、この世の中。
『「まさか」人類がこんなに地球上に繁栄するようになるとは』ということなんだろう。

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【※毒舌注意】社会の力をなめるな

「トイレットペーパーを買わなくては」
これは自衛の心理である。

政府があてにならない以上、自分の身は自分で守るしかない。
そう思うのも、無理はない。
自分のことは自分で、と思うからこそ、自衛しようとするのだ。

社会は見ず知らずの人も含めて、多数の人間が持ちつ持たれつ、生活していく場のこと。
損得だけではなく、公平さや公正さをどこかで考えていくからこそ、社会はまわっていく。
1%のお金持ちだけが幸せになる社会は、結局のところうまくいかない。
1%は、周囲その他の99%が健康でなければ成り立たないからだ。

春になり、家の周囲の田んぼは、荒起こしをはじめた。
冬の間、乾ききって固まっていた土が、掘り起こされ、湿った土の色をみせる。
すると、そこに小さな緑の雑草の芽があるのが見える。
土の表面についたこの種は、掘り返されたこの数日の間に、もうすでに新しく芽吹こうとしている。

同じく、学校は新学期の準備をはじめた。
駅に行くと、街もスタートしようとしている。
商店が春のセールの垂れ幕を出し、パン屋は「春の味」を考え、オフィスは新入社員を受け入れ、工場も動き始めようとしている。

一方、新聞報道では、官邸の記者会見や都知事の見解を流しているし、ワイドショーでは政治とコロナの話をしている。この国は、いや世界はどうなってしまうのか、とハラハラする。
ところが、一歩町へ出ると、どっこい社会はしたたかに生きていて、みんな春の準備をしているわけだ。

隣の田んぼの持ち主は、もう90を越えるおじいさんなので、仕事を頼まれた若者が手際よく耕運機をかけている。若者に向かって、たとえ、コロナが、政府が、という話をそこでしたとしても、

「いや、コロナも知ってるけど、春の準備をしなきゃ」

と彼は冷静に言うだろう。
そこに、『政府に頼ろうとする、政府の指示を待つ若者』の姿は、ない。
季節がめぐってくること、秋の収穫に向けて、春の準備をするという真理については、今の政権はなにも抵抗できないのである。

植物が春に芽吹くことについて、「自粛を要請します」と閣議決定はできない。
それは、地球の自然の真理であり、人々のくらしの真理であるからだ。
一政権がいかに力をもとうと、その真理にあらがうことはできない。

政府が禁止するから〇〇をやめる、のではない。
社会にとってどうか、と個人がお互いのことを考えてそうするのである。
社会が混乱すればその混乱は自分や家族に直結してくる。それが分かるから、そうするのである。
逆に、政府が禁止しないからする、のでもない。
わたしたちは、自分の意見も考えも魂もすべて、政府にゆずりわたしているわけではない。

われわれは、政府がうまくいきますように、とねがって行動しているわけでなく、
実は、社会がうまくいきますように、とねがって行動していたのだ。

そのことに気づくと、買い占めも転売も、
いずれはわが身に返ってくる社会全体のこと、
滑稽で恥ずかしくて、しようとしてもできなくなる。

同じく、テレビに映る閣僚の方たちに対しては、
「せめて、わたしたちと同じ目線に」
と願わずにいられない。

「わたしたちは、社会に目線を合わせています。閣僚のみなさんも、われわれと同じように、社会に目線を合わせませんか」

社会はずっと続いている。
政権は、そのときだけのものである。
政府こそ、社会に目線を合わせてもらいたい。


社会の力をなめるな1

母の計画 inハワイ

母がハワイに行く、と言い出したのが5月。
2年前に父が死んで、「なにもやることがなくなった」と言っていたが、気が変わったようだった。


父が死んだとき、
「これまではお父さんが喜ぶことだけ考えていたら、それで良かった。その相手がいなくなったからなんもすることがない」
若いころからチャキチャキしていて、なんでも思ったことをズバズバ言い、元気がとりえ、という人だったから、その脱力ぶりは見ていて痛ましいほどだった。

「なんでハワイ?ゆっくりしたいのなら、熱海とか、伊豆とか、国内じゃないの?温泉とかで、おいしいお刺身を食べてさ・・・」

国内を勧めたが、今回はハワイだ、と言ってきかない。

「まだ一度もハワイに行ってない。あんた、ハワイの旅館取って、手配して」

母は、ハワイにこだわる。で、結局、面倒くさい旅の準備はこちらに任せる、ということのようだ。

「もうすぐお迎えが来るんだから、その前に、ハワイ」

ちっともお迎えが来る様子は無いがな~、母と同居している姉が苦笑した。

姉と相談しながら旅行の準備を進め、随行することに。
ハワイで何がしたいんですか、と聞いても、特に何もないようだ。
喫茶店をしているので、コーヒーの木をみて、ハワイコナの豆を買いつけるのと、あとはただきれいな海のところへ行きたいんだそうな。

「ハワイコナの農園に見学できればいいよね。それならツアーもあるし」




出発の日が近づいてきた。
あと3日、というところで心配になって電話をかけると、姉が出た。

「お母さん、ハチに刺されたんよ」

足のかかとが、水膨れになっているらしい。

「どっかにハチの巣があるかもしれんで、出発する前に巣を取ってしまって」

出発の日の朝から、ずーっと忙しいぞ、こりゃ、と観念した。



高速をとばし、当日の早朝、実家に着いた。
実家に着くと、そこからすぐに蜂の巣を退治。それが終わったら庭木の剪定。
「本日休業」の看板をみながら、喫茶店の入り口のテラコッタを高圧洗浄機で洗う。
「これからハワイに行く感じがしないぞ」同じように掃除をしていた姉に文句を言うと、まあまあ、と軽くいなされた。

DSC_1356


夕方、中部国際空港で出国手続きをし、あれあれ、という間に機内へ移動。

いよいよハワイか、と鼻歌を歌おうという気分になったとき、隣席の母がふところから取り出したのは、父の写真だった。

「はい、お父さん。いよいよ飛行機にのったよ」

写真にうつった父に、機内をぐるり、と見せている。

「ああ、お父さん連れてきたんだ」

と姉が声をかけると、

「ああ、そうだよ」とすましている。

「喫茶店を10年やったら、いっしょにハワイへ行こう、と話していたんだからね」

どうりで・・・。

今回のハワイ旅行の意味が、ようやく分かった。

このあと、母は父の写真を旅行中に何度も出し、父の目に映るようにまわりの景色を見せたり、料理を見せたり、話しかけたりした。

「おかしな人だと思われなきゃいいけど」

と心配すると、

「思いたい人には思わせておけばいいのよ。人間なんて、思いたいことしか思わない動物なの」

77歳になると、達観するようでありますナ。

はわい


夕暮れ時、母がホテルの前のビーチを散歩しながら、

「お父さん、ここに暮らすのもいいねえ」

と、写真を両手でもって、ずーっと夕日を眺めている。



あたりが暗くなり、ホテルの照明がついた。

母は、ハワイに来れてよかった、と何度もいう。

「お父さんならここに椅子を出して、ずっと海を見てるわ」


買い物もしないし、観光もしない、なんにもしない、77歳のハワイ旅行。

ハワイの酋長に助けられた話

『Down to Earth』 という店で、水筒(ボトル)を買おうとしていたときのこと。

たかが水筒だが、棚にならんだ商品たちはどれもカラフルである。
豊富なカラーバリエーション。明るい黄色もあれば、深い青や淡い水色も、ある。
なかなか日本ではみかけないような極彩色の水筒が並んでいる。

一目で気に入って、これは良い、と選んでいたら、背後に人の気配。
振り向くと、そこに、インディアンの酋長がいた。

正確には、店員だ。

ただ、見た目が、酋長なだけ。

こんな感じ。

img_1



その酋長が、話しかけてきたのだ。


実は、水筒(ボトル)はすべて口が空いていて、キャップは別になっているようだったので、わたしがキャップを別に買い求めようとしているところを、どうやら見咎めたらしい。

その酋長が早口の英語で、

ペーラペラペラ・・・

と話すのですが、

残念なことに、

皆目、わかりません。

ただし、わたしがそのキャップを持っているのを指さしていたので、キャップを買うなよ、というようなことを言っているようでした。レジのところでどうのこうの・・・というような雰囲気。

わたしは、酋長に向けて、

「わたしはこの店内において、この商品を選んでいるところのものであり、正真正銘、このセットが欲しいのである。つまり、一つはこの空のボトルであり、もう一つは、この空のボトルの口に合うであろう、この蓋、である。わたくしは、天地神明に誓って、これらのセットを買おうと思っているのである」

というようなことを懸命に説明すると、

酋長は哀れみ深い顔になった。

そして、さらにクリーミーな、マイルドな声で、幼子を諭すように、

「お前はこの蓋を、ここでボトルに合わせる必要がない。蓋をボトルに合わせるな」

という。

わたしはこの酋長が言いたいことが、いまひとつ、理解できない。

そこで、酋長の正体を知りたくなった。
あれこれと彼の人となりを観察してみると、どうみても、首から上は酋長然としているが、服装はかんぜんに、店員のそれ、である。

上着は他の店員と同じもの、つまり制服を着ている。
しかし、腰から下はまた、酋長、なのである。
どうみても、店員には見えない。

「こいつは、地元の有名なインディアンの酋長で、今日、たまたま店員と同じような服を着ているのかな」

と怪しんでみたが、彼はニコニコとしながら、他の商品をせっせと整理したり、並べなおしたりした。そしてまた、わたしを見て、にっこりとスマイルをしてみせた。どう見ても、しぐさとやっていることは、店員のそれ、である。しかし、店員とみなしてみても、そのセリフが理解できない。

店員であれば、いうべきことは真反対であろう。
挙動不審な日本人がボトルとキャップを握りしめていたら

「お前はぜひそれを買え!」

というべきであろう。

「どうせ日本に帰ったら、そのキャップは買えない。だから今、そのキャップを忘れずに買え!」

と。




わたしは酋長には黙って、ないしょでボトルのキャップを掌(てのひら)に隠すように持ち、レジへ向かった。

そしてレジに行きつくと、かわいらしい若い女性の店員に計算してもらうと思っていたら、直前でアクシデントが起きた。

なんと、わたしがそろそろ順番になるかと思いきや、急にロシア人のような大男があらわれて、

「お次の方、こちらへどうぞ」

と言ったのである。

そいつはむくつけき胸毛を生やし、腕にも剛毛が生えていた。まくりあげた半そでのすそからは、紫色のタトゥーが見える。
しかし、彼もまた、店員なのであった。

わたしはチラッと、若い女性店員をみやった。
彼女は現地の人らしく、小麦色に焼けた肌で、愛くるしい顔つきの娘である。
彼女の細長い指で、レジをピッピとこなしてほしかったが、もう目の前には愛想笑いで人の2倍くらいある頭をもつ、ひげ面の大男がわたしに向けて手を差し出している。

観念してそっちへ行くと、その大男は、短く、Oh!と言い、

ボトルのバーコードはピッと読ませたが、キャップは何か机の下からささっと取り出してボトルの口金のところに入れ、締めたあと、

「これは無料なのだ。ただいまキャンペーン中だ。お前さんは今日はラッキーだった」

といった。

怪しんでレジから出てきたレシートを見ると、たしかに蓋(ふた)の料金は取られていない。
巨人がくれた蓋を見てみたら、彼が正しく締めてくれている。

どうやら、インディアンの酋長と、このロシアの巨人は、2人とも、正しくサービスをしてくれているようであった。見知らぬ東洋人を『だまくらかそう』とはせず、とても良心的なのであった。

わたしは人は見かけによらぬ、ということを常々、自分に言い聞かせているものであるが、今回は海外で慣れぬカードを使ったりと緊張していたせいもあって、そのことを忘れかけていたようだ。

おまけに、ハワイというところは、人種が多すぎる場所なのである。

表に出て歩いてみると、そこは世界人間博覧だ。

白人、頭髪の黒い白人、金色の白人、茶色の白人、赤毛の白人。
黒人、インド系、ロシア系、オーストラリア系、中近東の人。

東洋人にもいろいろいる。
中国人、韓国人、日本人、東南アジア系。

現地の人にもたぶん、いろんな人がまじっている。
ポリネシア系、ミクロネシア系、さまざまだ。

体形がまたすごい。
巨漢の人、激やせの人が、交互に向こうから、歩いてくる。

服装も、やはりすごい。
ビキニの人と、スーツの人、ムームーの人、アロハの人、そしてポロシャツの日本人。それらが、見事に交互に向こうからやってくる。めまいがしそうである。
だから、ハワイに来ると、だれもが隣の人を気にしなくなる。隣が何人だろうが、気にしているとくたびれてしまうからだ。

おそらく、隣に頭に角が3本生えた宇宙人がいても、帽子を足にはいた人がいても、もはやだれも気にしない。それが、ハワイなのである。


その後、なにげなくさきほどの可愛らしいレジの女の子を見てみたら、客がいない隙に

なにやら鼻の穴に白い紙をまいた筒状のものを入れて、吸い込んでいた。
そして、すこしトロン、とした顔つきになった。

あれはなんだったのだろう。
人はみかけによらぬもの。バイアスをかけるのが人間。バイアスをとりのぞく努力は、けっして無駄にはならない。

鉄則は、いつでもどこでも、通じるものだ。
「バイアスは取り除け」
これは、ハワイでも通用する真理なのであった。


organicstore

「怒っているとき」の頭脳が実はヒマな件

先日、怒っているときは頭脳がたいして働いておらず、暇~である、という記事を読んだ。
怒りは興味があるものに対して脳が理解できないサイン


怒りを正当化するとき、必死に頭を動かしているだろう、と思っているけれど、実は

「怒っている」

段階で、すでに脳は合理的に動くのをやめていて、ただ自分の気分を反復し、反芻(はんすう)しているだけだ。

怒っているときは、

◎こうしてほしかった

ということを、ただひたすら、脳の内部で何度もエンドレスで繰り返しているのだ。
実際の事実としては、こうしてほしかった、というその「願い」は実現されていない・・・。

(自分が思ったような現実でないと、こうなる以下)
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現されてないの?こうしてほしかったのに!
・・・え?実現・・・(以下ループ)

脳内のニューロンは、願いを強く刻印する。
この「刻印作業」にも意味はあって、刻印すればするほど、それが順当になぞれた(達成できた)ときの達成感(ごほうび、報酬的興奮、ドーパミン分泌)が多くなる。
つまり、脳内にイメージを刻印し、その達成のあかつきに、大きな喜び(興奮)を得ようとするのだ。

ところが、現実的に、うまくいかないとき。
ひとは、願いが実現されないため、なんとかその『刻印作業』を打ち消そうとする。
その打ち消し作業は、めまいのような混乱を引き起こす。
高速道路で急ブレーキをかけるようなものだ。
急ブレーキは、タイヤと路面の間に大きな摩擦を生む。
その摩擦が、「怒り」というわけだ。

つまり、怒りは合理的思考に努めようとする脳の、正常な規制機能なのである。

混乱に気付くと、人間はアクセルを踏むのをやめ、暴走寸前だった脳の運転を、正常化させようとする。(はず!だった・・・)

ところが、人は言葉をもってしまった。



「怒り」の感情システムは、太古の昔、ヒトがまだ、言語のコミュニケーションをもたなかったころ、できあがったものだ。

神経系の発達で脳の正常化をうながすシステムであった「怒り」機構は、めまいと混乱によって、自身にそれを知らせる、人に正常性をもたらす(リカバリさせる)ためにそなわったものだ。

めまい、混乱、という信号を受け取った人類は、そこで脳への刻印作業を一時停止する。
そして、自分が客観的にどういう状況にいるのかを冷静に見極めようと立ち止まる。
1)事実をみよう、とする。

2)事実はどうか、と信号を受け取りなおす。

3)そこで、どうするかを考え、選択し、行動にうつす。

このように、あくまでも、「怒り」というのは、自分の脳の、合理的な防衛的規制機能だった。つまり、人を正常化させるために備わった、人類の「生きる術」であった。

ところが、現代人になればなるほど、その「生きる本能、もしくは生きる技術としての脳システム」を、きちんと使いこなせていないのだ。

なぜか。

言語をもったとたん、

「おれは◎◎をしてほしかったんだ!」

ということを、何度もくりかえし、相手に説明し、わかってもらおうと延々と繰り返すことができるようになってしまったからだ。

そのことは別に怒りとは無関係の行動にすぎないのだが、人はそこで混線(こんせん)し、「言語で自分の思いをだれかに説明することと、怒りの感情は、セットだ」と思い込んでしまった。

おまけに、◎◎をしてくれていない相手が、『わが怒り』の感情を引き起こしたのだ、と勘違いするようにまで堕落してしまった。

ちがうっ、つーの。(※ひとりごと)

怒りは、自分が自分のために発生させている。

相手は一切、無関係である。

「怒り」さえも、幸福への道。

人間は、最初から、一切が幸福に生きるように設定されている。

(怒りシステム研究道・初代家本「碇屋ポン太博士の怒りシステム解体新書」より)

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『尊敬する』が危険な理由(ワケ)

こういうことは、周囲に暮らす人たちから、空気を吸いながら、のようにして学んでいくのが良いと思っています。
だから、あえて『解説』のような文章を読むと、

わかった気になりやすい
ため、用心、用心。

どんな文章でも、読めば必ず自己解釈で、バイアスのかかった見方となります。

『尊敬する』は危険、という文だけでも、
その人の頭の中で、その人自身のおいたちや、学びの中身、読んだ本、影響された人、両親や兄弟や親戚からの影響、幼いころに接していた祖父母の言葉、あるいは保育者の先生たちの思考、ぜんぶ影響を受け、バイアスをかけ、理解し、把握し、感覚的に受け止めている。

だから、
文章というものは、元来、危険なものだということが、まず言えるでしょう。


しかし、その言葉をきっかけに、ひとはなにかしら考えていくことにはなるので、文章にまったく意味がないわけではありません。

よい文章というのは、できるだけ解説として、頭にすっきり入らない文章です。
その方が、誤解が少ないです。

A⇒B(AだからBになるのだ)、という具合に、すっきりと頭に入れるのは、「スッキリ感」はありますが、ほぼ自覚の無い思い込みを強めていく作用をします。おまけに、その後、考えないようにさせてしまう作用まで働く。だって、わかった気にさせてしまうからネ。

A⇒B、というふうに考えないのが良いのです。
A⇒Bではないので。

お母さんが痩せないのは、このサプリを飲まないからだ、という具合に、どんどんと、A⇒B、という狭い狭い、極小のサイズの了解世界へと、つきすすんでいきます。
まるで、小さな深い穴を掘って、みずからはまりこみにいくようなものです。

そうならないように、できるだけ、文章と言うのは、『スッキリわからせない』というものがよいのです。できるだけ、目に見える効果、というのが、あがらないのがよい。
なぜなら、その効果は、ニセモノだからです。
わかったような、気分になっただけの、害毒のある効果、だからです。


で、あえて、『尊敬する』が危険な理由、という、世の中にさもころがっていそうな文のタイトルを書いてみましたが、ここまでこの文を読んでみた人は、半分裏切られたような気持ちでしょう。
ちっとも理由なんて、でてこないから。

では、書きましょう。
『尊敬する』が危険な理由は、ざっと1000個ほど、あります。

1000個あるうちの、まず1つ目の代表的な理由は、みなさんもすぐに思いつくでしょうが、バイアスがかかっている、ということです。

つまり、色眼鏡で見る、ということです。

なぜ色眼鏡で見てはいけないのか、という理由もべつに見当たらないのですが、実際とはちがうもの(自分の感覚で受け取った印象)を見ているのですから、「誤解している」という自覚さえあれば、べつだん色眼鏡でみるのは素敵なことです。

わたしも、色眼鏡でみるのは大好きです。
朝起きて、天気を見ても、色眼鏡。
しかし、色眼鏡でいくら目を凝らして見ても、午後の天気がどうなるか、確実なことは何一つ言えないのです。ひとについても同じこと。

べつの言い方をすると、「人間は、必ず物事を自分勝手に見とり、見た気になる、という道理」だということです。人間が知らず知らずのうちに持ってしまっているこのような性質について、多くの場合、自覚がないために

「おれの判断は正しい」

という悪魔の自信にまでつながってしまいます。

俺の解釈が正しいのである、というように言い張る人を見ているのは、まわりから見ているひとにとっては、たいへん滑稽な態度に見えますが、その滑稽さもまた、人間が生まれながらにして持つ、愛すべき姿勢なのです。


バイアスには、次のような特徴があります。

偏向(へんこう)性
偏見(へんけん)性
恣意(しい)性
感覚(かんかく)性


偏向とは、『解釈の方向がかたよっている』ことです。
偏見とは、『見方(解釈の仕方)がかたよっている』ことです。
恣意とは、『自分だけの勝手な思いつきである』ということです。
感覚とは、『あくまでも感じとることしかできない』ということです。


尊敬するというのは一つの解釈の仕方のことですから、この4つがどうしてもついてまわります。
これは防ぐことができません。
歴史的にみて、この4つから、逃れられた人類は、未だにだれも、いないのです。
もし、自分はこの4つを克服した!(克服するものでもないのですが)と言い張る人がいたら、それこそ、その人自身が強烈なバイアスをかけて自身のことを解釈している、という具体例になります。


どんなにわかりやすい文章も、わかりやすい、という印象を与えれば与えるほど、この4つのバイアス性質に、たやすくよりかかっているのです。

したがって、子育ても、わかりにくい方が、いいのです。
子どもを見る際に、『ものわかりの悪い親』、である方が、いいのです。
愛情たっぷりで、いつも子どものことを思いやり、子ども目線に立つのだが、
なぜか
「ものわかりが悪い」
という親が、一番良い。

また、そういう先生が、いちばん子どもを上質に育てるのだと自分は解釈しています。

授業はすっきりしているのが良いです。
学問はわかりやすいのが良い。
数学なんてとくにそうです。

しかし、
人間の解釈については、ちがいます。
けっして、わかった気にさせてはなりません。
人生をすごす態度についても、わかった気にさせるのは害毒です。
「こう生きるのが良い」ということも、うかうかと分かった気にさせません。

たったひとつ、すっきりと伝えた方がよいことは、

「人間は自覚無くすぐ、わかった気になりやすく、事実から遠ざかっており、もともと事実を見ることができないという、バイアスによりかからざるをえない脳機能をもつ」

ということです。

したがって、

「休日にあらま先生のブログを読みましたが、こんなにいろいろな(ずっと中略)で、尊敬します

というメッセージを書いてくださった、ついこの4月から新卒採用されて小学校でがんばっておられる愛媛県在住の、おそらく女性のF先生は、

これからはうかつに、

「尊敬します」

などとは書かない方が良いと思います。ははは。


手段と目的を取り違える件

手段と目的を取り違える、という人間の病気は、やはりなかなか治りにくいもののようだ。
この人類が共通して罹る病(やまい)については、心理学的な探求もされていて、
「なんでこうも、みんなが陥るのか」
「世の中でも認識されているのに、なぜ未だに広く行われるのか」
ということが、心理学の世界でもアカデミックに解明されようとしている。
それにも関わらず、やはり全人類が共通して落ち込んでしまうのが、この心理的な「罠」であります。

勤務校では、保護者とのつながりを大事にするために、
「学級通信」
をたくさん出すように、という指令が校長から出ている。


号令がかかると、どうなるか。
すごいです。ボクシングのリングで、ゴングが鳴ったような雰囲気。
真面目に子ども時代を過ごし、そのまま真面目に大学まで進み、けっこうな成績で単位をきちんと取得して採用試験にまで合格するような先生たちでありますから、これはもう、『一斉に』取り組み始めます。元来、先生たちは、「まっすぐ」なのです。やれ、と言われたら、やる。とくに、【保護者との繋がりを持つため】などと、その「意義」を説明されようものなら、ますます鼻息荒く取り組みます。

いや、わたしは学級通信は出すと良いと思いますよ。反対しているわけではない。
ただ、こうした姿を、客観的にいろいろと見ておいた方がよいと思うので。

で、夕方の職員室には、カタカタとキーボードを打つ姿がずらりと並び、壮観ですね。
校長教頭など管理職の目の前には、さまざまな学級通信の原稿が積まれてゆく。
管理職が目を通して許可が出ると、今度はいっせいに印刷に走る。
印刷機の前には列ができます。

やりはじめるとすごいですから。
で、文章が苦手で、なかなか筆の進まない先生など、写真で紙面をうめるためにカメラで児童の作品をパシャパシャ撮っている。いいアイデアですね。子どものノートをスキャンする先生もいて、ノートの指導などを紙面で行っている。みなさん、頭がいいんです。

ところがそういう、忙しい雰囲気のときに、保護者から電話がかかってくると、みなさんだいたいは、

あーー

という困った顔をされて、面倒だな、という雰囲気で、電話に出ることになる。
だって、今、印刷機まわしている最中ですもの。印刷、終わらせたいんですね。

で、結局、早めに電話の要件を終わらせて、印刷機にもどってくる。
電話で話す時間を極力減らし、保護者とは話さずに印刷に精を出すわけで。
つまりは、保護者の言いたいことを聞くのではなく、自分が出したい学級通信を出すことに集中していくようになる。

これは、ある種の「集団ヒステリック」のような状態ではないか、と思う。

売り上げを上げたい営業マンがいて、売り上げを上げるために訪問件数を増やせ、と上司に命令される。すると、その営業マンは訪問して会う顧客にかける時間を減らし、件数だけを増やすようになる。さらにますます件数を増やそうとし、スマホを見、電車の乗り継ぎをスムーズにさせるためのナビソフトを駆使していかに短時間で都内の顧客の会社をまわるかに血道をあげるようになる。

結果として、一日あたりの訪問件数は増える。しかし、短時間で切り上げてしまうために顧客の要望をきちんと汲み取ることができずに売り上げも伸びないということだってあり得るわけで。契約件数が以前より下がる可能性も・・・。まさに本末転倒ですね。

自分は学校にいる教職員であるが、この『本末転倒』をやっていないかが、すごく気になる。
学校には「学力調査」というものさしがあるので、これを上げることにまずは血道をあげたらよいのだろう。しかし、なにか手段と目的を取り違えている・・・ということになりはしないか、一抹の不安が・・・。

学校にある、行動の基準となる『ものさし』。
価値基準。
これがなんであるかが、大事だろう。

いったん、その「ものさし」が決まると、成績を上げるためにありとあらゆる努力をするのが教師という生き物。まじめな先生方は全員、スクラムを組んで全エネルギーを注ぐ。

では、いったい、なにが目的なのか。これが大事。

「価値」に重きを置くのは、どうやら『ちがう』ようだ。
「価値」というのは、ひとが今思っているほどには、重要ではない。
価値がある、とか、価値が無い、という言い回しそのものが、すでに勘違いなのだろう。

価値、からの、脱却。

これが、21世紀、その先のステージだ。

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