30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

まるで逆さまな話

タモリさんが冒頭のあいさつから1時間以上“沈黙”をつらぬいた理由

.
テレビ局は、「中立の立場」をとることに、なっている。

この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。

実は、・・・ということになっている、(けれども、そうなっていないこともある)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事。


過去に、TBSというテレビ局が、「町の声」として、「いつもでる町の人」を使ったことがあった。

映像を見ると、芸能人の事件の時になると、なんだか何回も出てくる女性の人がいて、その人が今回もインタビューに出ている。

そして、いわゆる適切な、・・・ということになっている、「町の声」を代弁していた。

これは、TBSの下請けのニュース制作会社が、表向きは、時間をかけて事実実態を報道する・・・ということにして、実際には、役者さんを雇ってセリフを言わせることにより、短時間で仕事を済ませていた、ということなのだが、それを、いかにも

「たった今、ふつうに街を行く人に、たまたまインタビューしたのです」

・・・ということにした、というあたりが、まあ、問題と言えば問題だ、ということで、当時はずいぶん、このことが問題視された。




さて、小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、

「ネットでは、それぞれの人が真実を語っている、ということになっている」

という命題を学習する。

それは同時に、

「・・・ということになっているが、その真偽のほどは定かではない」

ということである。

これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。

「先生、ネットの書き込みってうそばっかりなの?」

というから、

「いや、本当、ということになっているだけで、本当かどうかは、だれにも分からないんだ。本当に本当かもしれないし、嘘かもしれないし、一部の人には本当かもしれないし、またちがう立場の人には嘘かもしれない」

と答えている。

すると、子どもたちは、とても不満そうである。

「なんで、本当のことを言わないの?」


なるほど、至極もっとも。

「いや、本当かもしれないしね。もっともっと調べてみないと分からない、ということもあるし。また、調べてみても分からないことがたくさんある。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある。ほら、STAP細胞って、あったでしょう?」

ここまでいうと、子どもたちは



「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」


と言う。


もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。


テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
NHKは中立・・・ちゅうことになっておる。
中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
プーチンは理由もなく善人を攻撃した悪人・・・ちゅうことになっておる。
アメリカは正義でいつも正しいことをしている・・・ちゅうことになっておる。
北朝鮮は核開発をしている・・・ちゅうことになっておる。


こうしてみると、

・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・

という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なります。


つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。


・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。

みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられないのだろう。


しかし。

これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか
おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)

情報弱者という言い方もあるが、情報収集量が少ない、ということではない。すぐに全体像が分かった、あるいは自分には分かる能力がある、と思ってしまう思考のことを「情報に弱い」というのだろう。


情報リテラシー


先日、タモリさんが18日夜、ロシアのウクライナ軍事侵攻を伝えたテレビ朝日系の報道番組「タモリステーション」で、番組冒頭のあいさつから1時間以上“沈黙”を貫いた。

タモリさんは、終了間際に「一日も早く平和な日々がウクライナに来ることを祈るだけですね」とコメントした。

これ以外に何も発言しなかったことについて、賛否両論あるらしく、ネットでもマスコミでもあれこれと話をしている。

なぜこのタモリさんの行動がいまさらながらにピックアップされているかというと、

「分からないことは分からない。ただ一つ、自分が平和を願っていることだけが確か」

という、あまりにも当たり前の姿勢を、なんの粉飾も、飾り立てもせず、タモリさんがごく自然にとったからだろう。
そして、そのことに、改めて多くの人がハッとなり、「初心にかえった」からではないだろうか。

知らないこと、分からないことを、そのまま「分からない。知らない」とできる強み。

これこそが、小学生が身につけるべき、情報リテラシーの根幹でありましょう。
そして、全国の教師は、「いまだ知りえず」ということに勇気を持たなければならない。
いちばんやっちゃいけない教育の根幹は、

「嘘を教える」

ことであり、まだ分からない、まだ知らない、ということについて、
教師は命をかけても、必ず、ぜったいに、知ったかぶりをしては『断じて』ならない。

※情報リテラシーの意味

「情報を活用する創造的能力」のことを指し、情報手段の特性の理解と目的に応じた適切な選択、情報の収集・判断・評価・発信の能力、情報および情報手段・情報技術の役割や、情報による影響に対する理解など、“情報の取り扱い”に関する広範囲な知識と能力のことをいう。」(By 情報マネジメント用語辞典)

【悲願の金】←変わるかも

子どもたちと15年間ほど、毎日いっしょに暮している生活が続いている。
なんとなく感じているのは、これまでとは常識がちがってきている、ということ。
マスコミがつくってきたストーリー、映画でつくられてきたストーリー、世間でよく語られてきているストーリーとは、またちがった個人のストーリーをたくさん見てきた。
そして、人々が求めているものは、必ずしも、世間で語られる価値観とは一致するわけではない、ということに、遅ればせながら私も気付くことになった。

「みんながみんな、〇〇がほしい、というわけでもないよね」

こういう話をすると、多くの人が、「そりゃそうさ」と言う。
みんながみんな、ポルシェに乗りたいわけではない。
場所や用途によってはポルシェは不要。
ポルシェはかっこいいけど、堆肥を積むのは軽トラが良い。
そんなことはみんなわかっている。

実はそんなことをねがっているのではない、というのはよくある話だし、自分のことをふりかえると、たしかに実感できる。

そこで、以下を考えてみてもらいたい。
金メダルがほしいか、といわれると、「そうでもない」という人がいることに、あなたは驚く?それとも、それはそうだろうな、と思う?

これを子どもに聞いてみる授業を、2学期になったらやってみようと計画している。

なぜこんな授業を思いついたかと言うと、日刊スポーツの以下の記事を読んだからである。
https://www.nikkansports.com/sports/column/ogishima/news/202108040001225.html
2021年8月5日1時48分:
「国も順位もなし」がスケボーの常識 このカルチャーで「五輪が変わる」

スケボーの世界には、より難易度の高い技に挑戦することにリスペクトがある。
それを尊重しあい、お互いに励ましあう。成功すればみんなで喜び合う。
「いっしょに競技をする相手を応援する」「相手の成功を願う」
そこには『個人』はあるが、国の別や政治の力は働かない。政治を寄せ付けない、と言うべきだろうか。

また、結果よりも過程を重視する、という感じがある。
結果がどうあれ、どう挑むか、挑む気持ちがあるか、挑戦しているか、ということに最大の注視がある。だからなのか、金メダルだった、銀メダルだった、などに興味関心がそれほどいかない。もっというと、どこの国の選手がメダルをとったかなどは、話題にすらならない。そもそも、自分の国籍に頓着していない。人気にあやかりたい政治家にとっては、もっとも扱いにくい選手たちになっている。

マスコミも、どう報道してよいか悩んでいるふしがある。
よく記事のタイトルに「悲願の金」という言葉が使われる。
「金にしか意味がない」とメダルの色にこだわるのは、よく聞く話だ。
それは間違ってはいない。柔道でもレスリングでも他の競技でも、間違ってはいない。

しかし、スケボーには「悲願の金」という使い古した定番の文句が書けない、使えない。
記事を書く人間は、スケボーにだけは、苦心してタイトルをつくらねばならない。

金メダルが悲願ではないと?
では、選手はなにを願って、人一倍つらい練習をこれまでしてきたのか?

スケボーに出場する個人は、一人ひとり、ちがう人格をもつ。
その一人ひとりが、いったい、何を願っているのか。
それが国威発揚のためでもなく、親や恩人・コーチのためでもないのなら、いったい何を願っているのか?
金メダルを取ることが、目的ではないのだとしたら?

これを授業の核に据えたらどうか。

スケボーの選手たちは、なにを願っているのだろうか?


子どもたちは、いったい何を感じ取り、どう考えるだろうか。

スケボー

【書道】半紙の右に名前を書いた子に

みんなが書き終わったのを見ていたら、ひとり、半紙の右側に名前を書いた子がいた。

みなさんなら、どうされますか?

わたしはとりあえず呼んで、いっしょに見ながら

「これ、どうする?」

ときくと、

「どうしたらいいですか」

ときかれた。

「みんな左に書いているから、へんに思われるかも」

というと、

「でも右でいいんなら」

という。

つまり、へんに思われようがなんとおもわれようが、平気だ、というわけ。
このあたりは大物です。

「気にしない?」

と確認すると、

「ええ」

とのこと。

で、結局、そのまま掲示しました。

ひとりだけ、教室で、半紙の左側でなく右側に名前が書いてあります。

「字を書いてみたら、右側がけっこう空いていたから」

という合理的な判断だ、と本人は理由を述べておりました。

しかし、いちおう、

左側に書くことに、書道の世界では、いちおうそうなっている。

芸術は、自分の作品の『終わり』に、署名するんだ、左側がおわりなのだ、ということも伝えました。

しかし、

「今回は最初に書きました」

という。

おそらく、書道の世界が千何百年以上(?)つづいているけれど、作品の冒頭にサインをしたのは初めてでしょう。

わたしがそれを言うと、目を輝かせて

「え!じゃ、ぼくが歴史上、最初の人間ですね」

と言った。

頬を紅潮させ、笑みまで浮かべている。

こんなに目をかがやかせられたら、教師の負けです。

教師は、目がかがやいていない子に対しては何か言えるかもしれないが、
ぴかぴかに目を輝かせている子には、文句をつけられない。


★写真は、朝陽にかがやいている大銀杏(おおいちょう)。
大銀杏

大リーグボールから『禅』へ

先日、いきなりだしぬけに巨人の星を思い出すことがあり(※前記事参照)、あれこれとこの連休中に自宅で思い出にふけっているうち、妙なことを思い出した。

それは、『逆説』ということである。

つまり、世の中にはやけに「逆が真なり」ということが多い。

わたしは人生のかなり初期の段階から、なんでこう、常識とはまったく逆さまだと思えることが、世の中には多いのだろうか、と不思議に感じていた。

きっかけは、
糸川博士の「逆転の発想」を読んだことだったかしらん。

高校生時代にこの古い本をなにげなく古本屋で手に取ってみると、なかなか暇つぶしとして面白かった。ためしに近所の同級生で、同年代では随一の読書家であった山田くんに「読んだ?」と聞いてみると案の定読んでおり、彼もまた「常に、真実は逆にこそ存在するのであるナ」と喝破したので驚いた。

ちなみにこの山田君は政治家の秘書になって裏から政界を操作してやる、と中学生のころから息巻いており、実際に現在は内閣の裏方をどうやらしているらしいから、一度かたく思い込んだ、人間の怨念と言うのは恐ろしい。彼は中曽根首相の悪口を当時から「中学生がここまでいうか」というくらいに語っていて、その内容はわたしにはちんぷんかんぷんであったが、中学生のくせに日曜日になると父親と政治のことで午前中いっぱい論議するという彼のことであったから、それはおそらく彼の父から学んだことであっただろうと思う。

さて、逆説と星飛雄馬がいかに結びつくかについて書きますと、
やはり飛雄馬が大リーグボールのヒントを得る重要な場面でして、

〇飛雄馬がここぞと投げたボールがライバル左門(大洋)に打たれてしまう
〇飛雄馬は悩み、禅寺で座禅を組む
〇すると禅僧がやたらと警策で肩を打ってくる
〇最初、飛雄馬は「なんだばかやろう、肩ばかりねらって打ちやがって」と反感を持つ
〇しかし反感を持てば持つほど、禅僧が自分ばかりねらって打ちこんでくる
〇警策は長い木でできているが、それが死ぬほど痛い、心がイタイ
〇自分ばかりねらいやがって、と怒れば怒るほど、心がイタイ
〇しかしそのうちに心境が変わり、もうどうせなら、打たれようと思ったとたん打たれなくなる
〇不思議に思っていると、禅僧がつぶやく
〇禅僧「打たれまいと思うから打たれる。打たれようと思えば逆に打たれない」
〇飛雄馬は、ハッとしてグッとくる
〇飛雄馬は禅寺をあとにして、苔むした参道の石畳の上を歩くと、木立の間を抜けてそよぐ風や鳥までが新しい魔球「大リーグボール」の誕生を祝うかのように飛雄馬にほほえみ、語りかけてくる
ということがあったわけですな。すみませんおぼろげな記憶と多少脚色が入ってます(謝罪)

見事な逆説ではありませんか!

がんばればがんばるほど結果が得られず、すっと力を抜いたとたんにいともたやすく実現するのです。

こういうことが人生にいやに多い。やけに多い。死ぬほど多い。ほとんど世の中すべて、こういうことばかりであって、もう全体にそればかり、といいたくなるくらいに多い。

本ブログの読者諸兄にも身に覚えがあらんと推察される。

教育界での逆説と言えば、

成熟社会では、「みんな仲良し」的な教育は、逆説的なことに、人を平気で差別し、危害を加える人間たちを量産する

ということでしょうかなあ。

ちなみに、本ブログでの「逆説」に関する記事は、以下の通り。

〇叱れば叱るほど、叱る必要が増す
〇教育における逆説とは何か
〇困るとは何か

うーむ、どうも逆ばっか。この世は逆さま、というのが本当のようでありますナ。

hyu-ma

始業式も運動会もなく、過ぎていくが・・・

いちばん驚いているのは、

「なくてもいけるんやなー」

ということ。

始業式もないままでしたが、(放送で短時間、校長先生のお話がありましたが)
とくに何事もなく、ふつうに授業が始まっております。

また、運動会もやらない、ということになったままで、とくに支障がありません。
(まあ、やった方が楽しいし、子どもたちは楽しみにしていたので残念です)

学校生活としては、さまざまな行事が、『無いなら無いで』、とくに支障なく過ごせているのです。

実は昔から多くの教員が指摘していたことですが、
学校は行事が増える傾向にありました。

増やすのは、イイコトだから、やりやすい。
しかし、
減らすのは、たいへんなので、やりにくいです。

非難もくるし、するどい質問もくるし、電話もかかるし、
まあはっきり言えば、クレームが来ます。
そのクレームは、教頭先生が受話器をとって、聴かねばなりません。

「どうして組体操をやらんだ! みんな楽しみにしとるやないか!」


ネクタイをしなくなったときと同じような、あっけなさで、

運動会がなくなり、
式典がなくなり、
〇〇集会がなくなり、
あれこれがなくなりました。

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クールビズもびっくりしましたからね。
まさか、ネクタイをしないビジネスマンがでるとは思わなんだ。

古い話で恐縮ですが、その昔、半袖背広姿の大平首相が記者の前にあらわれたときは世界がひっくりかえったかと思いました。まあ、実際、その後、スーツの上着が半そでにはならなかったのですが。

oohira


そのニュースをテレビで見ていた母が

「まあ、ネクタイはなくならないと思うよ」

と言っていましたが、実際に10年以上経つと、しっかりと総務省の運動が根付いてきました。
今では、かなり多くの人がネクタイをしていません。
ビジネスマンが真夏、地下鉄の駅から地上へ出てきますが、ネクタイのない人も多いですものね。


あっけないものです。

「社会人は真夏でもネクタイをするもんやで」

と語っていた母の予想は、まちがっていたのです。

ネクタイも、組体操も、無くなりました。

で、とくに困っていません。



もしかしたら、ですが、
なくても困らないもの、というのは、たくさんあるかもしれません。

そういうの、なくなると、あっという間ですよ。
ネクタイと同じです。組体操と同じです。

べつに、なくても困らんことに、みんなやってみたら気づいたわけですね。

授業も、宿題も、そういうのが多いかもしれない。

ためしに、教師の仕事をできるだけ、減らしてみよう。
できうるかぎり、省エネルギー、省セリフ、省『生徒指導』、いるかいないか判然としない透明人間のような教師像を、ためしにやってみるのがいいと思う。

すると、実際はやらなくてもいいことが、多いと思うね。
で、そこまでやると、ようやく見えてくると思うね。

全部捨てることで、ようやく、見えてくる。
それまで見えてこなかったものが見えてくる。
いかに些末なことに日常を忙殺されていたのか、そこでようやく腑に落ちる。
これまで手を抜いてきた授業の準備、力を入れてこなかったあれやこれや・・・。
本当はいちばん大切だったこと。

「本当にやるべきことが、こっちにたくさんあったわ!」とね。

ネッシー

幽霊の存在について

休み時間、子どもから怖い話をリクエストされることがある。
わたしは一瞥をくれるだけで、
「悪いけどそんな話、してる暇ないでしょ。先生は御覧の通り、超絶忙しいですわ」
と、ノートに赤ペンを走らせる。
子どもに付き合っている暇はない。貴重な休み時間は宿題のチェックだ。

ところで怖い話を聞きたがる子どもは多い。
なぜ、子どもはそうなのだろう?

NHKで以前、ひつじが動く大人気の動画が放映されていた。
みなさんご存じ、「羊のショーン」だ。
クレイアニメ、という分類で、粘土でつくった動物を写真で撮影して作る。

クレイアニメの撮影はとことん時間がかかるらしい。
以前、イギリスのBBC放送が、羊のショーンの製作現場をドキュメンタリーで放映していた。
実際の粘土で作ったキャラクターを、少しずつ、ずらしながら撮影している。
それらを、連続して映すと、あら不思議、ひとの目には、いかにも粘土がそれ自体の意識をもって、連続的に動いているように見える。

ふつうのアニメーションもそのようにしてつくるが、何枚も絵を描かなければならない。
今はデジタル技術が進んで、コピーも可能なのだろうが、ひとの目に誤解させるという点では、クレイアニメも同じ仕組みである。

ところで、なにが誤解かというと、実際には動いていないものを、動いているように見てしまう、という点だ。人間はいつの間にか、この羊が動いている、と思い込む。

マジックも同じで、ひとに、ある現象を、こうだ、と思い込ませる。
たとえば瓶の中にはなにも入っていない、と思わせる。
しかし、蓋の裏にはしっかりとコインが貼り付けられている。

人間の目には、「知覚の恒常性」とよばれる性質がある。
これにより、網膜に映った画像は再構成されて見えている。電光掲示板やアニメが動いて見えるのはこの仕組みによるものだ。

けっして、電光掲示板の字が、動いているわけではない。
また、アニメも、動いているわけではない。
しかし、わたしたちの目は、「動いている」と認識してしまう。

UFOも幽霊も、わたしはお話としては大好きだ。しかし、大半は『ひつじのショーン』と同じで、実際には動いていないものを、動いているかのように見てしまっただけである。

で、こういう話を、こわい話に夢中な小学校高学年の前ですると、

いやがられる。

それはそうだ。幽霊が、いるかもしんない、と思うから、こわいのだ。
目の錯覚だ、認知の問題だ、メタ認知しろ、などと言われたくない。
たった一つの偶然の現象を、知識や経験によるその人のスキーマで書き換えて都合よく怖い話にしただけだ、などと解説されては、せっかくのこわい話も台無しである。

しかし、こっくりさんなどが流行するときは、こういうメタ認知の学習を進めることがある。
超常現象を信じてしまう認知エラーと、偏見や差別を生み出す認知エラーは同じもの。

「人間は、常に認知のエラーを繰り返しながら生きている」

日ごろから、こういう認知の方法、という自分自身についての学習は、するチャンスをつくらないといけないと思っている。

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原因は「そこ」じゃない【ヒト間課題】

電子ボードは、何年か前に、市教委から「鳴り物入り」で学校に配備された、最新の機器であります。

これをもって授業その他を行えば、

「児童の参加型学習指導が行える」

というのが、当時の説明でありました。

画面に映された、学習課題。

その画面にタッチさえすれば、たちどころに画面が反応し、テンポよく授業を進めることができる。

児童はタッチペンを使い、40インチの大画面に、思うさま、自分の考えをそこに描くことができ、賛成する児童はそこに付け足しを、反対する児童は別の考えをそこに書きつけて、全員の思考をずんずんと深めることができる。

なによりもすばらしいのは、そこに現れる、写真の数々だ。
クオリティの高い写真を見て、どんな子どもたちも、学習課題に前のめりになり、視覚優位の子どもたちの興味もぞんぶんに惹きつけることができる・・・・・・。

ところが、この電子ボードが、あまり、使われていないのであります。

市教委主催の研修に行くと、さっそくにそのことが話題になり、

「どうも、先生方、この装置の魅力をご存じでないようで」

という説明の後に、いかにこの装置が魅力的か、授業にどんなふうに生かしたらよいのか、懇切丁寧な説明が繰り返されたのです。

ところがこれは的外れでありまして、こんな説明をしても、先生たちは、「使わない」。

なぜかというと、原因は、職員同士の人間関係に起因するのでありました。

情報機器教育担当の方は、半年たってもまったく使われないこの装置を、どうにか使ってもらえるようにと、

次の手段に出ます。

最初、

魅力が伝わっていない

ということで、授業での使い方、ユースウェアを説明していた市教委でしたが、次は脅迫に出ます。

実際の使用頻度について、毎回記録をしてください。何年何組が何時間使ったか、データをとります。

ということを言い、各クラスで、実施することを、暗黙に要請します。

しかし、先生たちは、使わない。

やっきになった市教委は、

さらに!! 次なる手段に出ます。

校長会に訴えたのです。

指導を受けた校長たちが、次は具体的に職員室の先生方に、直に指導するようになりました。

「先生方、この装置には、たいへんなお金がかかっております。これをば遊ばせ、使わないのであれば、これはすなわち、税金の無駄使いということになる。今、たいへんにマスコミ、保護者からの視線が厳しくなっているこのご時世で、税金の無駄遣いということはあってはなりません。ぜひ、ひと月に一度は、授業で使用してほしい」

校長が檄をとばしても、この装置は使われない。

やがて、2年経ちます。

校長も半分あきらめ、市教委もあきらめ、夏の研修のときには、市教委の主事先生が

「なかなか使われずに、ほこりをかぶった電子ボードがあるそうで・・・」

という苦笑交じりのスピーチをすると、会場の先生方からも笑い声が漏れるほどで。



これ、不思議ですよね。

会議室(現場以外)で考えることには、的外れが多い、というのは、ずばりこういうことだろうと思います。

状況を変えよう、ということばかり、考えているし、「状況」の話ばかりしている。

「だって、ガッコウに1台しかないですからね。使うと目立つし、他の先生たちが使いたい時に、本当は使いたかったのに、その時間に〇〇先生が使ってたから使えなかったのよ、って言われたら、いやですもん」

つまり、

「ベテランの、文句を言われない先生たちだけじゃないですか。使えるのは・・・」

ですって。

「いつ使っても、だれも文句や陰口を言われない、ベテランズの先生たちだけが使えると思いますよ」

若手の先生は、使えない、ということね。

いろいろと、あとで言われるのがイヤだから。

ベテランの先生にあれこれと言われたり、使ってどうだったかとか、あれこれ説明することになったら面倒だし、ともかく奇をてらった行動のように思われて、とばっちりを受けるのがいやだから、使わないのが一番、ということのようでした。


もしもこれを聞いたら、市教委の先生は何をいうのか知りませんが、

「そんな遠慮しないで、高い備品ですから使って下さい」

というのでしょうが、「使って下さい」といわれても、根幹の「人間関係」ができていないから、使えないのです。

だって、人間だもの

いろいろと、言われるのが、イヤ

なんですよ。

こんな、気を使ったり、気をもんだり、自分の言いたいことが言えなかったり、自分のやりたいことがやれなかったり、陰で相手のことをあれこれ言ったり、悪く言ったり、圧力をかけてやりたいことをさせなかったり、目立つ行動をとやかく言ったり、それを恐れて縮こまったり、あれこれ言われるのがイヤでやれなかったり、遠慮したり、びくびくしたり、おどおどしたり、わたしは間違っているのではないかと不安に思って窮屈になったり、・・・・

そこから脱却するにはどう考えるか、と。
ここが「教育革命」の第一歩だと思います。
ちまたで言われるような「教育界を変える!」というものの、ほとんどは、この話とは無関係だから惜しい。

教育革命とは、職員室の人間関係の革命、ということを抜きにしてはすべて机上の空論化してしまします。「世の中のすべての問題は結局は人間関係の問題に起因する」のです。

このことを、「ヒト間課題起因説」といいます。

不思議ですよね。ただの電子機器の活用方法に問題がある、と人は認識しているのに、
その根本をしらべていくと、人間関係に起因していく、となっていく。

社会問題ならわかりやすいですが、電子機器の利用ですよ。こんなものまで、すべてヒト間に起因するなんて・・・。

コロナもつまるところ、この「ヒト間課題起因」かもしれませんぜ。

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マスクで呼吸が苦しい子どもたち

頭痛など、熱中症らしき症状を訴える子が増えてきた。
校庭で遊ぶときは外してもいいけど、建物の中に入ったらマスクをつけることになっている。だから、2時間目のあとの休み時間に帰ってくる子たちは、息をはあはあ言わせながら、あわててマスクをつけている。顔がのぼせている。

だいたい、おにごっこがいけない。
なぜなら、走るからだ。
このご時世では、危ない。
小学生の休み時間の過ごし方は、一切、走らないのがのぞましい。
マスクをして息をはあはあ言わせるのは、熱中症の危険がある。

また、国語の時間が危険である。
音読をするからだ。
大きなはっきりとした声で、クラス全員で声をそろえて教科書の文章を読む。
すると、2ページほど読み終えたころから
「はあはあ」
という息の粗さが目立ってきて、

「先生、水をのんでいいですか?」
と訴える子が出る。

その子は水筒を口に運び、往年のカーク・ダグラスのように、ゆっくりと味わって飲む。そう、できるだけ、ゆっくり、と・・・。
その間は、マスクが外せるからだ。

というか、音読がいけない。
音読などをさせるから、熱中症にかかってしまうのである。

というわけで、今の小学校では、校庭でのおにごっこ、および国語の時間の音読を全面的に禁止にすべきである。

そうじもよくない。
なぜなら、聞き分けのよい子ほど、すみずみまで丁寧にそうじをしようとするからである。
そのため、腕を伸ばしてきゅっきゅっと床を力をこめて磨いたりする。
それで、はあはあ、となってマスクでの呼吸が苦しくなってしまうのである。
机などを持ち上げて運ぶのもよくない。もちあげて何個か運んだら、呼吸が荒くなってしまうからである。

閣議決定が待たれる。

『小学校で即刻禁止すべき事項として、次の3点を定め、東京五輪の開催日まで禁止するものとする。
1)そうじ
2)おにごっこ
3)音読


文科省ではこんなことはとうに討論しているはずだ。文科省のえらい人たちは、小学校の子どもたちの様子を毎日のように見に来ているはずだから。

マスクをしなければならない

ニューヨークに学ぶ 日本の教育現場でやれること

このところ、ずっと家庭訪問をしてきた。
長い臨時休校が続いたこと、とくに新学年になり、担任が変わったというのにほとんど会えぬままであったことから、子どもに自己紹介をする意味でも、顔を見せたかったからだ。
マスクをしたまま玄関から2m離れ、「はじめまして!」と大きな声で自己紹介をすると、笑ってくれる子どもの表情は、本当の救いだ。
しかし、それも『非常事態宣言』により、やめるようにお達しが出た。

学校には、低学年の子を中心に、約20%くらいの人数の子たちが登校している。
両親ともに在宅勤務がかなわず、どうしても預かる場所が見つからない子どもたちだ。
高学年はほとんどいない。留守番もできるし、場合によっては料理もするだろうし、危険回避をする知恵もある。学校にくるのは、低学年がほとんど。

しかし、ニュースは一向に明るくなる兆しがない。
おそらく、この低学年の子たちが学校に来れなくなる日も近い気がする。
この学校の区域内で、感染者が一人でも出れば、外出はもっと厳しくなりそうだ。
また、児童の保護者や教員の家族に感染者が一人でもでれば、おそらく学校は閉鎖だろう。

わたしが気になったのは、子どもたちの中には、あきらかにメンタルに不安を抱える子がいるだろう、ということだ。
当然だろう。大人であっても、そうだ。仕事のこと、生活費のこと、また子ども・家族に対しての負い目が発生しやすい。いつものようにいかないのだ。生活スタイルを思うように進めていけないことによるストレスがかかる。

今回の家庭訪問で、わたしは、最初の一言を決めていた。
玄関を開けて子どもの顔が見えた瞬間に、
「よかった!元気そうだね!」
と言うことにしていた。

その一言で、子どもの表情がぱっとほころぶのが分かった。
元気でいてくれさえしたら。なんとかあと少し、休校の間、健康に気を付けて過ごそう、と思ってくれたら。

玄関先に出てきてくれた保護者の中には、こういう人も多かった。
「先生、GW明けには、学校はぜったい始まりますよね。それでなかったら、困っちゃいますよ、ほんとうに」
わたしは、あいまいに笑うだけだ。

ニューヨーク市長は、9月まで公立校を再開させないことにした。
ニューヨークに住む人たちが、スーパーの入り口で、2mどころか5,6m近くも離れて立ち、それでもめげずに1時間待つことも我慢しながら買い物をしている風景を
ニュースの映像
で見た。
夜7時になると、町中から拍手が聞こえる。命がけで医療行為にあたる関係者へのねぎらいと尊敬のサインだ。
これほどの感覚が、まだ日本にはないような気がする。少なくともわたしの住む地域には。

「最悪を想定しなければ」

職員会議で、校長が言った。

もしも、このまま禍(わざわい)が収束せず、仮に5月下旬まで休校ということになれば、夏休みは一日も無いだろう。行事もすべて無くし、これまでの授業を取り戻さなければ。

しかしそれも幸運が味方してくれた場合の話だ。
先の話で、地域に感染者が出たら、また1,2週間の休校措置はありうる。

国が動かないのであれば、県で。
県が動かないのであれば、市で。
行政が、大きな公共の建物を建設するお金を教育費にまわし、機材を貸してくれないだろうか。
あるいはどこかの、ふとっぱらの大事業主が、タブレット機器をすべての小学生に貸与(与えなくても、この期間中だけ貸してくれればいい)してくれないだろうか。

そして、先生たちがそれぞれ、心のこもった動画をアップすればいい。
「こんな内容では公開できない」と責めたり、その動画の質や授業の質、内容を責めるのは、すべての禍が終わった後に、すべての教師の、動画アップへの努力をほめたたえた後にしてくれ。
教育委員会は、先生たちの真心を信じたらいい。授業がうまいへた、じゃないのよ。すぐに、子どもたちが、一日でも早く、「学校を感じる」ことが必要だからね。スピードなのよね。

絵本を読んでくれる先生がいてもいい。
自分の担任の先生が、いつもの顔を見せてくれて、自分たちだけのために絵本を読んでくれたり、話しかけたりしてくれるだけで、子どもたちの心にはぜったいにプラスになるでしょうよ。

算数の得意な先生は、黒板を前に、ていねいに教えてくれたらいい。
社会の得意な先生は、写真や資料をみせながら、考えさせてくれたらいい。
理科の得意な先生は、実験をしてみせてくれたらいい。

それを、教育委員会が「これは許可する」「これは許可しない」とやるから、心が疲弊する。
現場ではマスクをしようと注意喚起していたのに、WHOが「マスクは効果ない」とか言ってたから、広がった面もあるでしょう?
きくところによると、医療現場では「この人を検査したい」と判断しても、保健所が許可しないからできない、と困っていた現場のお医者様は、たくさんいたらしいですね。
つまり、現場ではなく、どこかの会議室で判断しようとするから、初動が遅れるのです。

今は、『非常時』。
現場が動かない、現場の判断で動けないのは、『非常時』には、まずいのですね。
非常時は、現場に権限を与えなければならない。(←と、諸葛孔明が言ってた気がする)

jikennha

んなわけない、ということ

わたくしには、「こんな気がしてならない」というの、がある。

○仕事はできないほうがいい
○努力はしないほうがいい
○できるだけ無能なほうがいい
○まちがった方がいい
○できるだけ、達成せず、成果がでず、わくわくしないほうがいい
○しゃべらないのがいい
○みんなでなにかをやらないほうがいい
○反応しないのがいい
○夢は、ないのがいい
○感動しないのが、いちばんいい
○高みに登るより、一番底へたどりつけば全部見える。

さかさまダー。


聞く人はみな、
はなから無視するか、
馬鹿じゃないか、と思うか、
意味不明、と呆れるか。

そんな調子です。



でも、たまに、これを聞くと、

「にやっ」

として、私の顔を見る人もいる。

私も思わず、「にやっ」としてしまうネ。


あまのじゃく、というのは、ちょっと恥ずかしい。
良いものでは、ないね。

ゆめ

まじないは悪いものではない

.
すぐ前の記事の

「おまじないはフィクションだ」

という文章に、読者からの反応があったため、追記しておきたい。

おまじないは、悪いものではない。
また、その著者を否定するものでもなく、楽しみを奪うつもりもない。
おまじないが効く!と思うことで、プラシーボ効果さえあると思うし、実利も生まれるかもしれないからだ。

しかし、やはり弊害は大きい。
江戸時代から明治にかけて、東大生であった井上円了は、人々がなぜフィクションを信じるのか、その謎を解明するために生涯をかけている。井上が迷信を世の中から一掃するために取り組んだ原点は、人の命がむだに死んでいくことからだった。

つまり、医学的に患者の身体を温めなければならないはずであるのに(当時でさえそのようなことはわかったはずであるのに)、近所の奇石に神仏が宿り、著しく感応している、という土地の伝説を信じて、寒い夜に火を焚き、無理に患者を連れ出して結果、衰弱死させてしまうなど。

なぜ人はフィクションを信じるのか、どうして合理思想が普遍化しないのか。
そのことの解明に、前記事の山片蟠桃も、井上円了も、挑戦していたのであろう。

繰り返すが、おまじないそのものが悪いわけでは、ない。しかし、うかつにもやはり事実実際から目をそらさせてしまう弊害は、いつまでもつきまとう。

理科の実験で、わたしが静電気を起こして見せると、
あまりにもAくんの髪の毛が、劇的に逆立つので、子どもたちはいっせいに驚く。

そのとき、わたしがもしも仮に、天に祈るしぐさをしてみせたら、どうだろう。
もしかするとクラスの何人かは、

「静電気が起きたのは、先生が天に向かってなにか言ったからだ」

と思う子も出てくるだろう。

『劇的な効果』を利用して、人になにかを「確信させる」ということは、たやすい。エレキテルで万病が治る、という奇説を流布して、金儲けをした明治の人は、そのことを利用したわけだ。実際には、エレキテルが単発作用したわけでなく、治る治らないは、その患者を取り巻く、数えきれないほど多くの環境要因がさまざまに合科、作用して為されたものであったでしょうに。

小学校は、方法によっては、子どもにまちがったフィクションを信じさせることができる場である。われわれ教員は、井上円了と同じだ。フィクションによって現実、事実実際を見ることができなくなる弊害を、科学の力でとりのぞかねばならない。われわれは、迷信バスター、なのだ。

mig

上は、日本をつくってるところ。(神が)

『非暴力』について

.
そろそろ文科省も本気になってきて、これまでの旧態依然とした道徳教育を根底から改革し、真に国を憂える子に育てようとしはじめた。

生命を大切にする心や他人を思いやる心,善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けることは,とても重要。
(文科省のページより)

国を愛する、ということは、そこに暮らす人を大切にする、ということである。
大切にする、とは、どこまでも暴力ではなく、非暴力で、ということである。

暴力で命は大切にできないし、
他人を思いやるのに、もっとも邪魔なものは、暴力であろう。
また、善悪の判断に際し、いちばん大事なのは冷静さと知的さゆえの「非暴力」である。
知性、人の道から外れ、暴力に依存してしまう姿は、もっとも規範意識からずれているといえよう。

だから、道徳としてもっとも肝心なのは、「暴力」をどう考えるか、ということでありましょう。

なにをもってしても、暴力の問題から離れることができない、と腹をくくるとすれば、これはもう、「暴力」ということをどう考えるか、が、ずばり道徳教育そのものである、と言えるのではないだろうか。

つまり、道徳教育とは、その内容は100%ずばりそのまま、『非暴力教育』のことである、といえましょう。

すると、ですね。

子どもに、「非暴力」という字を見せて、

「読める?」

という。

子どもは、「ひぼうりょく」

と読む。

「はい、今日はこれがお題だよ。10秒間、考えてみましょう。はい、10、9、8・・・」

子どもからは、困惑した声が出てくるわけね。

「当たり前」
「保育園で習った」
「痛いことはしてはいかん」
「取り返しのつかないことになるから、頭が悪い人のやること」
「暴力は結局、だれかがくるしいから、自分も苦しむ」


わたしが驚いて、すごいねえ、こうまですらすら意見が出てくると思わんかった、と言うと、

「こんなの、当たり前すぎて・・・」
「保育園でずっと話し合ってきたよ」

つまり、道徳というのは、すでに保育園で習得したものである、ということになる。

保育園で習うことが、大人になると忘れてしまうために、復習をしつづけていかねばならない、というのが、道徳教育の本質なのでありましょう。となると、教室でわたしが道徳の時間に教師面をしていることが、こっけいに思われますナ。だって、相手は優秀な小学生ですよ。わたしは非常識極まりない、大人の中のひとり、ということですからネ。

世界こども会議、というのが国連でありまして・・・
そこで何十年か前、国際児童年、というのがあって・・・
各国の児童代表が話し合って出てきたのが、
「少なくとも、戦争をやろうと言い出したのは大人であって、子どもではない」
という、痛烈なメッセージ。

子どもよりも大人の方です。
「自分は分かっている」と言いたがるのは。
少なくとも教師は、「ひぼうりょくが分かっている。できる」とは言ってはいけない。分かった、と、その課題を終えてしまったとたん、向上しなくなり、下落が始まる。そんな姿を、教室で子どもたちに見せてはいけない。

大気汚染でも記念写真

「叱ってはいけない」と勘違いされやすい件

.
タイトルを変えて、1年が経つ。

ブログの前タイトルは、「叱らないでも、いいですか」
であった。

叱るが前提の学校現場。
当時はまだ新人だったわたし。
その新米教師が、言うことを聞かない子どもを、叱らないでいいはずがない。
現場の常識にそえば、だれしもそう判断するであろう。
ところが、叱らないでも、ちっとも困らない。
そこで、遠慮しながら、こういうタイトルをつけていた。


遠慮がちに、つぶやくようにブログを書いていたつもり・・・だったが・・・
実は、ブログを始めてみると、いろんな方からメールやメッセージが届くようになった。

「叱らなくてもいいのですか?叱ってはいけないのですか?」

というものが、多かったかな。
現場の先生や、若い教師からだった。

インターネット、という場所だから、
「まさかこんな個人のブログ、だれも読みゃしないだろう」
という予想は外れたわけだ。

また、関連して、
〇腹を立ててはいけないのですか。
〇悲しんでもいけないのですか。
〇マイナスの感情が湧き上がるのはダメなのですか。

という、なんだかすごい質問まで来たことを思いだす。
こりゃ、たいへんなタイトルなんだな、と改めて感じたものであった。

腹を立てるのは別に相手のせいではないから勝手に立てるのはいいだろうし、
悲しみ、という感情も相手のせいではないし、特段悪いものではないから、
悲しむときは大いに悲しみという感情にひたればよいと思う。

腹を立てることで味わう切なさが、甘酸っぱければ甘酸っぱいほど、自分が抗(あらが)っていることの自覚のようなものが、静かにやさしく、私自身を包み込んでくれることが分かる。腹を立てたことで、抗う自己世界の隙間から(偶然にも)ちょっぴり見えてくる安堵の世界、心底安心の世界があるわけで・・・。


それが、タイトルの言葉だけに反応し、
「腹を立てるのはダメなんすか?」となるのが不思議。
なぜ、そんな話になってしまうのか、ずいぶんとややこしい回路になっているのがみてとれる。

今、
「困らないけど、いいですか」

というタイトルに変えたら、そういうメールはめっきり、減った。

一度だけ、中国地方(山陰)のお寺の若い坊さんからメッセージが届いたが、それはむしろ「タイトル、おもろいですね」というだけの簡単な感想だったネ。


とまれ、今年も叱らない、困らない、で一年を過ごしていきそうだ。

えんどうの花3

迷惑をかけるな、に代わる教育方針は

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迷惑をかけるから、廊下でしゃべってはいけない。
迷惑をかけるから、体育館でボールを蹴ってはいけない。
迷惑をかけるから、校長先生の話をきくときは、黙っていなければならない。
迷惑をかけるから、授業中に立ち歩いてはいけない。
迷惑をかけるから、掃除をしなければならない。
迷惑をかけるから・・・

さて、こういう『禁止規範意識』が、わりとへいきな子もいるかわりに、
こういう「しなければならないルール」の多さで、メンタルがまいってしまう子もいる。

ユニバーサルデザインを意識すれば、当然、この

「迷惑をかけるから・・・ルール」のあり様とはべつに、
どの子にとっても優しい、受容しやすい、指導の在り方、というものがあるだろうと思う。
(↑これは仮説ね)

本当は、しゃべりたいときにしゃべりたい。
でも、しゃべっちゃいけない。
本当は、体育館でボールを蹴りたい。
でも、蹴っちゃいけない。
本当は、校長先生がしゃべっているときに、何か言いたい。
でも、言っちゃいけない。
本当は、掃除をしないで、水槽の魚を見ていたい。
でも、見てちゃいけない。


『規則・禁止事項・命令』が身の回りにたくさんあるんだ、と、
頭の中で思うだけで、「ウワーッ!」と叫びたくなる子、いるんです。
かつての、子どもの頃の自分を考えても、よく分かる。
わたし自身は子どもの頃、ずっとこうでしたナー・・・
(世の中は広いから、まったく命令や規則に抵抗感を覚えない人もいるのかもしれない?)


で、問題なのは、
そういう子を見た時に、その子自身を見られなくなること。
その子の実際の姿、その子らしさが見えないでいること。

目に映る現象、その子の姿だけを見ている先生の目には、
「ルールを破って言うことを聞かず、勝手なことばかりやる子」
としか見えない。1年間、ひどい場合は2年間も3年間も、ずっとそうとしか見えない。

その子自身の本当の姿が見えないまま、

「言うことを聞けない子」

と見ているだけで、過ぎてしまう。

なぜかというと、あまりにも先生の中で、

「規則通りに行動すること」

が巨大化していて、そのことが重要すぎるので、それ以外が目に見えなくなる、ということ。

迷惑をかける、かけない、ということに学校教育がこだわりすぎていて、
「その子らしさ」を見よう、というエネルギーが湧いてないのではないだろうか。



廊下を歩くときにおしゃべりしたくなるのは、
本当は「おしゃべりがしたいからする」ではない場合が多いと思うね。
人の気を惹きたかったり、友だちに笑ってほしかったり、
自分がさびしかったり、なにかその後のことで不安があったり、など
その行為(おしゃべり)になる原因、過程もあるだろう。
自分ではどうにもならない気持ちがあって、不安やさびしさが募って・・・
ということ、あると思う。

そこを理解しよう、というふうにならずに、ダメだなおしゃべりする子!としか見ないのであれば、さみしさ、不安にますます拍車がかかるだけ・・・。


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コロコロコミックの肖像画落書きの件

.
チンギスハーンの肖像画の上に、落書きをする、という内容の漫画が掲載されたので、朝青龍が激怒した、という話。

わたしは、朝青龍はよく自分の意見が言えてよかったな、と思う。
黙っていたら、『はらふくるるわざなり』で、イライラが募っただろう。

品格がない日本人‼許せない‼謝れ‼謝れ‼謝れ‼(by朝青龍)

そこで、「謝れ!!」と何度も繰り返しつぶやいた、というが、わたしはモンゴルでも、「謝る文化」があるのか、ということが気になった。

謝る、ということを、ことさら大事にするのは、日本人だけかと思っていたが、
モンゴルでも謝ればよし、とするのだろうか。

小学校では、子どものトラブルに謝罪はつきもの。
双方でごめんなさい、と言わせるのが、デフォルトの指導である。
朝青龍も子ども時代に、そうやって指導されてきたのだろうか。

ただ、これからの時代、
何かをされた⇒迷惑だ⇒謝罪要求
という流れは、だんだんと減っていくように思う。
仲が悪くなる、その原因がどうやっても見当たらない。

そこまでいかないと楽しくないし、
逆に言えば、そこまでいけるとも思う。
子どもの方は、割合に速く、そうなり得る。
そういう子たちの前で、「謝って解決」という枠組みから抜けられない大人が、道徳を教えられるわけがない。

道徳を教える、という自分を、徹底的に見直すことからしか、なにも始まらない。

Shazai1

嫉妬、という感覚

.
嫉妬、ということについては、人類が古くから、その正体を見極めようとしてきた。

ブッダは嫉妬について、法句経でこう述べている(らしい)。


ブッダの言葉

他人の良くないところは
とてもよく見えるし、
調子にのって指摘したくもなる。
見えにくいのは、
君自身の良くないところ。
他人の問題点を指摘することで、
「ちゃんと指摘できる
立派な自分には問題がない」と
錯覚するがゆえに、
自分自身の問題点が
隠されてしまう。それはまるで、
ギャンブルでサイコロを振って、
自分に不利な目が出たら
イカサマして隠してしまう
ギャンブラーのよう。

(法句経)『超訳 ブッダの言葉』より



また、ニーチェによれば、ルサンチマン(嫉妬)を持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。(ルサンチマンは、主に強者に対しての、弱い者の憤りや怨恨、憎悪、非難の感情。つまりは、嫉妬。)

ブッダもニーチェも、説明に苦労しているようだ。

賢人とされる彼らでさえ、「善悪や道徳で説明しなきゃ」と思い込んでいるので、あれこれ、考え過ぎてしまっている。

嫉妬、の正体を、きちんと見極めることができたら、かなりの程度、人として、ふつうに暮らせることができるようになるのではないだろうか。

福寿草

体罰を根本的になくす方法

.
怒りの感情があるからこそ、幸福になれる。

とっても逆説的だけど。

で、怒らないで生きられる。

つまり、

よくよく考えてみれば、

怒りを否定せず、悪いものとも不必要とも思わないようになり、むしろ感謝できて、

怒らないでいいことを十分に理解でき、怒らずにいられるようになり、

困らないでもいいようになり、

怒りの感情に感謝こそすれ、けっして否定的な気持ちが一切、生じないままに、

決して怒らず、幸福に過ごすことができるようになれるってわけ。



怒って当然だけど、本当に怒りが当然なら、

怒りが当然であるがゆえに、

人は怒らないようになれる。

先生たちによる体罰なんて、すぐに無くなるはず。

まったく難しい事でなく、もっとも簡単でやさしいこと。

「怒り」は当然、しかし、「怒り無し」もまた、当然。

それを選択すらできないように思い込んでいる。

sensei_okoru

自分が、自分が・・・

.
高速道路 前から太いロープで引っ張られるような自動運転状態。

ハンドルを操作しないでも、引っ張られて行く感覚。

人生は案外と、こうして引っ張ってもらっていることの方が多い。

ところが、「自分で運転している」、とみな思っている。

逆さま、だよね。



自分が思う、と思っている。

しかし、何かを思ったあとの感情は、他人のせいにしていることがある。

自分で思う内容は選択できるはず。

なのに、感情は「ひとのせい」にしてる。

矛盾に気づかないまま、人生を過ごしている。



自分のせいでもなく、他人のせいでもない。

だれかのせい、ではない。

あることを思ったら、ある感情が出てくる、ということ。




ごく自然に、そうなっている。

ごく自然と、まるで引っ張られているような雰囲気で。


常に、世界に、引っ張られている。

人は、「連れられていく存在」といえようか。




ふと気づけば、

自分が、自分が、というの、あまり言わないようになると思う。

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『価値』を信じて!?

.
現代では、見かけよりも中身が大事、と言うことになっている。

だから、いかに見た目が美しくて、

精巧な技術で、ち密に磨き上げられ、

ピカピカと輝くようなガラスや水晶も、

ダイヤモンドに比べたらその価値はほとんどない、ということになっている。



ところが、ある人はガラスの指輪を持っていて、

精密にカッティングされた工芸品に、

なんどもため息をもらし、なんどもその美しさを称えて、

満足しきって、これまで暮らしてきた。

そんな話を聞くと、それがたとえガラス玉だといっても、

その美しさに、価値がなかった、というわけではあるまい。




見た目が美しい(と思うこと)にも、たいへんな価値が、ある。

そしたら、いちいち、そのことに満足している人たちに向かって、

「それ、中身はガラスだから。ダイヤのニセモノだから」

なんて、言わなくてもいいんじゃない?

ニセモノだろうがなんだろうが、断然、美しいと思ってるわけだし、

アクセサリー、というジャンルでは、

それこそ、きれいなビーズ、ガラス、水晶が、

きちんとした素材でもあるんだから。




化学的な原子構造がきちんとダイヤモンドである、ということにしか、

価値はないのだ、という言説、だれが広めているのだろう。

もしかしたら、ダイヤモンドを売ってる会社?



ダイヤモンドを売る会社の人からしたら、

「所詮、イミテーションに過ぎぬわ!」

「ダイヤの本物、ホンモノにしか、本当の美しさはない!あとはガラクタ!」

ということを、世の中の全員に、信じ切ってほしいでしょうナ。




われわれは、どうやら、外見よりも中身が大事、という文化なんでしょう。

それは一方で、とても良いことのように思えますが、

しかしまた、

周囲も必ず同じふうに考えてくれなくては、困るため、

「中身にこそ、価値があるのだ!」

と、ずっと、ずーっと、声高に主張し続けなければならないのだとしたら、

なんだか、それはちょっとばかり、胡散臭さを、どこかに隠し持っているようで・・・。




「いいの。ガラスでも、綺麗だから」

「私は、これが好き!」

と、明るく言い切っちゃう人ばかりになったら、

『本物証明』に価値を置こうとしてたダイヤモンドの会社は、困るのか・・・。

まぁ、べつに困らないか。

ガラスが美しいと、ダイヤモンドが汚れちゃう、というわけでもない。




結局、カチって、なんなのか?

「ここに価値がある!」と叫ぶとき。

みんなが本当に心底、自由な感じにふるまうような社会になってきたら、

どう変わるんだろうか。


yubiwa_diamond

海の日の【子どもの泣き声】について

.
海の日がありましたでしょう。

どうやら、近所の家に、そこのお孫さんが遊びに来ていたらしい。

朝の8時ごろでしたでしょうか。

わたしゃ、家で、つめたい氷を口に入れて、ボーッとしておりましたら、

かすかに、ほんのかすかに、遠くの方から、子どもの泣き声が聞こえてきたんですわ。



「ん?」

と思いましたね。

瞬間、昭和に戻ったような。

ゴダイゴが銀河鉄道999を熱唱し、国際児童年が謳われたような時代には、
全国のご家庭で、子どもの泣き声がしていたような気がする。



しかし、時代が変わりました。

今は、子どもの泣き声を聞いたら、通報することが奨励されてますからネ。

児童虐待と思しき事態を感じた時点で、通報する義務があります。

これまで、児童相談所全国共通ダイヤルは10桁の番号(0570-064-000)でしたが、覚えやすい3桁の番号にして、子どもたちや保護者のSOSの声をいちはやくキャッチするため、平成27年7月1日(水)から「189」(いちはやく)という3桁の番号になりました。

ところが、わたしはそこのお孫さんたちを知っているし、その兄弟が、しばしば喧嘩をすることを知っている。

だから、通報はしません。わたしの主観的な判断で良いのですから。通報するかどうかの判断は、その人個人に委ねられていますからネ。わたしの脳みそは、それは児童虐待とは判断しなかった。



子どもは泣くものだ、ということ。

これが、どうにも、社会全体で、常識にはなっていないらしく、

いつのころからか、

子どもが泣いているのは、異常

という認識があるようです。

なんでだろう?




一つには、虐待防止キャンペーンが、思わぬ逆作用を生んでいるのでは、と思うことがあります。


児童虐待防止キャンペーンのチラシに、

「近所から泣き声が聞こえてきたら要注意」

というような文面があり、これはまずいだろう、と思ったことがあります。



これは逆でしょう。

「近所から、泣き声もしないような、火の消えたように静か~な子育て家庭があったら要注意」

が、本当ですよね。

おそらく、泣き声をたてることすら許されないような関係は、かなりいびつで、その子のこころを捻じ曲げているように思う。

子どもは思い切り泣くことを許されるのか、

それとも泣くことが許されないのか。

この、どっちが虐待か。



子どもが、泣くのは、平和のしるし。

ホントの虐待なら、声を絶対にたてさせていない。

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子どもが先生の世話をする

.
ずいぶん昔のことですが、学校で、「給食残飯グランプリ」というのがありました。

給食で、おかずやご飯が、残ります。

すると、その残滓の量をはかるんです。

お昼の放送で、

「今月、残滓の少なかったクラスは6年1組でした!おめでとうございます!」



いや、食べ残しが少ないのは、あっぱれなことです。

それは、それで、「素晴らしい」。

しかし・・・。




これ、おかずを残すと、担任の先生が叱るのです。

そして、缶をカラにすると、めちゃくちゃ褒められる。

すると。

今度は、そのことが、子どもたちの一番の関心事になってきます。




6年生ともなれば、知恵がまわるので、

残滓を巧妙に処分して、何食わぬ顔。

食缶をすっかり空にしてから、給食室に返してます。

給食室の先生から、

「さすが6年生、空っぽだね!!えらい!!」

なんて、言われて・・・。

(実は担任にナイショで、階段下のトイレに流してます)

つまり、食缶を空にするのが、目的化しちゃう。

子どもたちなりの、保身術なのだね。

でないと、先生たちの機嫌が悪くなるから。




残滓の多いクラスも発表されます。

すると、つらいですよ・・・。

ただ、放送で、

「◯年◯組は、もっと食べ残しを減らすようにしましょう」

と、言われるだけですが、

なんだか、全校にさらし者にでもなったみたいで、いやなものですよ。

放送を聞いて、いちばん、いや〜な顔をするのは、もちろん担任の先生。

子どもたち、その顔を見て、

「やべえ」と。




残さず食べるのは良いことだ。

そこまでは、分かる。

みんなの体が元気な証拠だもの。

だが、しかし。

つぎに、 「良いことだから、やれ」となるところが、ヘン。

上からかぶせていく感じが、ヘン。




アメとムチで、経営をしていると、

子どもたちはどうしても、逆の視点で動くようになります。



本当はその気もないことなのに、

〇〇しないと、先生の機嫌が悪くなる、

〇〇していかないと、先生が困る(おかしくなる)、

〇〇していかないと、学校全体として、まずいみたい。


と考えて、

「まあ、仕方がない。このシステムにつきあうか・・・」



これ、子どもが先生や学校の世話をしてるのですナ。


縄文時代25

自分のために時間を使うことの恐怖

.
毎日、いろいろと話し合っていると、

なにかの流れで、

クラス全員、幸福になりたいと願っている

と、判明することがある。



そんなもの、人間だもの、当り前じゃないのか、と思われましょう。

しかし、実は、「幸福」という言葉ほど扱いにくいものはないので、

きちんと解明してみないことには、分からない。
クラス全員が、「満タン」になりたいと、願っていたこと

このことに、改めて気づいて、へ〜〜、となる。

「はー、やっぱり」





で、意外なのは、

「え、先生も?」


ということであります。


小さな子どもたちからすると、

まさか、先生も、満タンがいいとは

ということもあるようで・・・。

「えっ?先生も、なの?・・先生はもういいんだと思ってた」




大人はスーパーでスペシャルなので、

もうそんな領域はとっくに超えていて、

満タンになりたいなどとは、思っていないのではないか、とどこかで思っているらしい。




もう一つ、意外なのは、

「学校では、そんなふうなことは考えちゃいけないと思っていた」

というもの。


堂々と、満タンタイムをやってしまうことに、どこかしら、

「え?こんなに堂々とやっちゃって、いいのかなあ」

と、はばかるものがある。


学校とは、苦難に耐え、ひたすらにどこか遠くにある目標をめざして歩むところ。

だから、今、自分の内面をFULLにすることなど、とんでもない堕落した行為だと、

子どもも、どこかで思っている。



「本当に、満タンになってしまって、いいのだろうか・・・」

すでに7歳、8歳にして、これを思い悩む子がいるのですが。

自分のために時間を使うことの恐怖。

この恐怖、要る?

family_happy

コシの無い子

.
タモリが昔、ラジオの中で

「やる気があるものは去れ」

と言ったってネ。

なんか、わかるわ。

だって、ただやる気があるのって、不健康だもの。




そのやる気、大丈夫?

やる気があるって、なにをやるの?

やる気がありますって、なにをするつもり?

なんのために?

それ、やれなかったら、どうなるの?

そのやる気、なくなったらどうなるの?



「笑っていいともは、スタッフにやる気があったら続かなかった」


だって。

タモリが

「すぐに終了すると思ってた」

といいながら、ずっと続いたのは、「やる気」がなかったから?


タモリは、NHKのブラタモリという番組の、讃岐うどんを放送する回の中で、こうも言った。

「コシがあるのは、ダメだねえ。人間も同じ。コシがあって、しっかりしているのは、だめ。コシがなくって、ふにゃッとしていないと」



コシのない子に育てる。

コシのない子は、しっかりしてない。
世間の価値観が、分からない。

その分、世の流行や世間体、損得や効率、
見た目や評判に左右されないから、飽きない。

飽きないから、ずーっとやっていても平気。
マンネリズムに強い。

その一方で、コシがないから、途中でやめても平気。
やめたら、次は、となる。
プライド無いから、すぐリセットできる。
リセット力に優れる。
リセットできるから、いつでもスタンバイOK、という雰囲気。

コシのない子は、居場所を限定しないで、ふらふらするから、
新しいものに遭遇する可能性の高い子。
そして、世間の評価と無縁だから、自分で「面白い!」を決められる。
コシの無い子は、まだ誰にも評価されていない世界にも、優しい目を向けられる。

つまり、
まだ、形の無い世界を、創造できる子。


今ある職業に、やる気をみせてる子もいいけど、
今はまだ無い職業を、創造できる子も、素敵でしょう?

コシのない子にこそ、その可能性があると思うなあ。


今、コシのある子も、みんなちょっとしたコツで、
コシのない子になれる。

コシのない子の、フラのある仕草をみるのは、人生の楽しみ。

写真↓は、福岡の「腰抜けうどん」。コシがないことを売りにしている。
腰抜けうどん

「忖度(そんたく)」について

.
世の中がまっすぐ進むのなら、あえてそこを右や左にずれながら進んでみたい、という思考が、粋(いき)なのだろう。

表側ばかりを見る世間に対し、あえて裏地に凝ることで、ズレてみせる。


内田百閒は、小学生の時点で、くわえ煙草をしていたらしい。

先生が注意をすると、

「校内は禁煙とは書いていない」

と言い張ったそうだ。



これなど、意識的にズレているのだろう。




「忖度(そんたく)」というのは、ズレ、ではない。

恥ずかしいくらいに真正面から、過剰に正しく反応してしまうこと。

だから、無粋なのだ。

その、「忖度」を平気で他人に対して求めているのは、もっと無粋だ。



芸術家は、ことごとく、ナナメ上を目指している。

ピカソは物の形を極限まで追いつめて、常人の想像を超えていった。

マティスもそうだ。写実から離れて、形の面白さを追究し、最後は切り絵の世界にはまってしまった。

当時の大衆が求めるものはこういうものだろう、と、「忖度」を気にする画家であったなら、ぜったいに達し得ない世界だ。




人間の面白さ、ユニークさ、たった一人のその人らしさ、というのは、

周囲に「忖度」したり、させていたりする世界には、輝いて見えてくるわけがない。



しかし。

この世に、ごく自然な「忖度」がある。

大人が、子の気持ちをおしはかってする、「忖度」である。


親が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。

先生が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。

どちらも、忖度の方向性は、一方通行で決定している。



親が子に向かって、自分の機嫌を忖度させてばかりってのは、逆さまな話。

  (でた!・・・また、サカサマな話かよ!)


写真は、マティスの『オレンジのある風景』。

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1年生の順応性がすごい、という件

.
1年生になった子たちは、本当にすごいと思います。

これまでとはまったくちがう世界に飛び込んで、あっという間にあれこれとルールやしくみを理解し、すぐに順応していきます。

1年生の担任になった先生が、

「あの子たちが適応していこうとする力ってすごいよ。人間として尊敬しちゃう」

とおっしゃっていました。


これまでの保育園、幼稚園など、園での生活とは、しくみもルールもスケジュールも、まったく異なっているのです。子どもなりに、頑張って、はりきっているのでしょうね。

一番ちがうのは、なんといっても先生の役割です。

園の先生は、指導をする、というよりも、子どもたちの主体的な活動が確保されるように見守っています。子どもたちが遊んでいるのを見て、そこから成長や学びを読みとっていきます。園では、子どもが先生に対して、自分のしていることやしたいことを話すのがふつうです。

たとえば、絵を描いて

「先生、みてみて!これはね、パパが踊っているところだよ」というふうに。

ところが、学校の先生は、カリキュラムに従って勉強を教えます。
だから基本は、先生が子どもに話す時間が圧倒的に長いのです。

また、時間内に決められた内容をしっかりと理解させるのが仕事ですから、口調がきびしくなることもありますし、決められた作法で(起立して発表する、そうじ道具を決められた順序で扱うなど)行動するようにと指導が入ります。

1年生では、ときに厳しい表情の出る先生をこわがってしまう場合があります。〇〇しなさい、と強く指示されるという場面が、子どもによっては「初体験」ということも。

多くの小学校では、入学してからの最初の一か月間は、スタートカリキュラムにしています。

5月ごろまでは、45分間の区切りも柔軟に考え、とくに朝の時間は、幼稚園や保育園でやっていたような歌や手遊びなどの活動も入れています。

時間の概念を育てるために、時計の文字盤を工夫して見やすく数字を入れたり、絵をかく学級もあります。

こういう工夫を見ると、どの先生もみんな、1年生が大好きなんだなと思います。1年生の教室に入ると、どこでも見事な工夫がしてあります。びっくりします。

最近、たまたま見せていただいた教室では、イラストやマークで、学級で使うのりやペン、かばんの置き場所など、本当にていねいに区分けしてありました。それも、色で役割をわけて。



どの子も、安心できるように、という配慮です。



こんな雰囲気でつつまれた学級なら、みんな安心するだろうと思います。

1年生の教室から、怒声や罵声は、ほとんどありません。

どこまでも子どもの現在の姿を受け入れる。

こんな受容的な雰囲気が、ずーっと6年生まで続くとどうなるんだろうか、と思いますネ。




「いつまでも子どもを甘やかすんじゃない!!」

と怒られるかもしれませんが・・・。




子どもを受容すると、依頼心の強い子になってしまう、というぬぐいがたい観念をもっているのが現代の大人の大半なので・・・。

しかし、逆かもしれません。

世はまさに逆手なり、と昔から言うように、

子の現在を受容しないから、学校生活がつまらなくなってしまい、「ぼくは誰にも共感してもらえなかった」と、劣等感の強い子になってしまうのかもしれません。

1年生

怒声罵声はなぜ発生するか

.
運動会が近くなると、校庭に罵声がとぶようになる。

なぜか。

不安だからだ。

ピラミッドが完成せず、観客から

「あ~・・・」

と言われるのが怖いのだ。



だから、罵声や怒声をひびかせ、子どもたちを有無を言わさずコントロールしよう、となる。

教師は、不安にかられ、つい大声を出す。


「なにやっとんじゃーー!!」




ところが、妙なことに、不安が増大していく。

ここが、人間心理の不思議なところ。

不安は、どんどんインフレするのですナ。



罵声が飛んだあと、先生の不安は解消されるかと思いきや、そうではない。
不安が増大しているのです。

「できないのはマズイ」
「なんとか完成させないとマズイ」

という恐れに似た気持ちが、叱り飛ばす前よりも大きくなっている。



これを、不安増大のスパイラル、と言います。

不安に駆られて行動すると、さらに不安が強まっていくのです。

そのスパイラルにつかまってしまうと、怒声が絶えることがありません。





怒声ではなく、「願い」を子どもに伝えるのは、まったく違います。

「ピラミッド、完成するといいなあ」

それは、不安ではなく、ただのふとした楽しい思いつきです。

ところが、

「ピラミッドを完成させなければならん!」

これは、恐れと不安からくる、心理的に病的な状態です。

完成、という結果を得るために、盲目になっていきます。

手段は問わない、とにかく完成させるんだ、となる。

結果、不安に駆られて叱り飛ばし、叱責したうえ、なんとか形になりますが、

よーく見ると、どの子もげんなりとした表情のピラミッド。

もうズレまくって終わりの状況。



それじゃ、教師が

「ピラミッド、完成させたいなあ!アハハ・・・」

と、ほんわかとした感じで言えばいいのかというと、ちがいます。

指導の方法が、大事なのじゃあないです。




その前に、やることがあります。

仲の良い、雰囲気のいい学級にしておくことです。

みんなの心のガソリンタンクが、満タンになっていることが条件です。



で、おもしろいことに。



ガソリンタンクが満タンだと、

気合を入れたら元気が出るし、

ピラミッドがあっという間に完成し、

うまくいかなくても、友達を責めないし、

協力できたことでみんなが自信をもつし、

支えてくれる友達への感謝も湧いてくるし、

見に来てほしい、と心から親に言うようになるし、

そこで初めて、『誇り』のようなものも生まれてきて、

見に来てくれた人たちへの感謝の気持ちも湧いてくるし、

運動会が終わったあと、勉強もがんがんやるようになるんですな。





「そこ!早くしろヤッ!!」と、怒声罵声で仕上げたピラミッド。

感謝もなく、自信もうすれ、「誇り」は生まれようも無く、

親に来てほしいとも思わず、運動会がおわると、

教師も子どもも、ずいぶん疲弊するんです。

だから、運動会のあと、教室が荒れます。

勉強も、やる気が出ません。

崩壊が始まります。

ジ・エンド。




このすごろく、そもそも、スタートがちがうんですよネ。

教師が、不安を持っていると、「先生の不安解消のためのコース」を選ぶことになり、最後は「学級崩壊」がゴールです。

教師に不安が無いと、「安心でたのしい運動会コース」を選ぶことになり、最後は笑顔の記念撮影、です。



ところが、不安が無い、というのが分からない先生もいます。

「不安を無くせったって、どうやったら無くせるのかわかりません」

と。


かんたんです。


まずは、子どもには心がある、ときっぱり思うこと。

つぎに、なにかにすがることをすっきりやめること。

そして、子どもをしっかりとみること。



この、
きっぱり!すっきり!しっかり!
3つのプロセスで、あなたの不安は

きれいさっぱり、

無くなります。

「曇りなき眼で見定め・・・」

アシカダ!

肝心なものは手に入れられない

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運動会でうんと高いピラミッドが完成しても、なんだか中身がスカスカだと、後味が悪い。

校庭に、怒声罵声が響きわたり、嫌みや皮肉を言われまくって、子どもたちがげんなりした顔でつくったピラミッド。

親も先生も、後味が悪すぎて、感動も何もないもの。

結果は手に入れたかもしれないけど、肝心なものは手に入れられないままで・・・。



完成したピラミッドが欲しいのではなかったんだ、と、いつも、終わったあとに気づくのよネ。


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「なんか、世の中、ずるいよね~」

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職場の親睦会(飲み会)がありました。
研究会や部会、学年会でまだお互いにほとんど話したことのない人がいる。
出会ってまだ2週間のお互いで、ちょっと懇親会、ということになった。


二次会で、複数の先生にさそわれて、岡崎市内の小さなお店に行きました。
ちょっと人生を語り合う感じになりました。

結婚していてもしていなくても、幸福になる人。
合格してもしなくても、幸福になる人。
賞をとってもとらなくても、幸福になる人。
なにかになってもならなくても、幸福になる人。

不思議とそういう人が結婚したり合格したり賞をとったりする。

「なんか、世の中、ずるいよね~」

と、酔っ払った女性の先輩が、ビールを注文しながら叫んでおりました。



「すでに幸せな人だけが、さらに幸せになっているように見える」のだそうです。

「〇〇ちゃん(後輩の先生)なんか、あんだけ仕事できるのに、そのうえ、かっこい彼氏がいてさ~」



以下、先輩談。



この野郎、と思う。

うちも、と思う。

そこで、イチかバチか、人生の大博打に出ると、なぜか失敗してしまう。



ところが、すでに心が満足している人で、

「もうあんたはおなかいっぱいでしょ!要らないでしょ!」

という人にこそ、幸運が舞い降りて、

現世の利益を享受しているようにも見える。




皮肉というか、

サカサマというか。

「なんか、世の中、ずるいよね~」

だそうです。



そして、結果がほしい人のところには、結果が来ない、のだそうです。

あるいは、結果(のようなもの)を得たとたん、破綻する。


「よく分からんよ、世の中は!」

という、先輩。



たしかに、なあ、と思います。

世の中の思考が、サカサマだということを、またひしと感じた夜でありました。

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不安も無く、困りもしない

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「〇〇にならないかな、あの子どうなるんだろう、だいじょうぶかな、心配だな~」

(ああ、そういうふうに不安になるのか)


「あの子、大丈夫だと思う?」

と聞かれたから、

「うん」

というと、

なんとも意外な表情で、あっけにとられたように、

「なんでそんなに心配にならないの?ぜったい大丈夫って、どうして言えるの?」

と不思議そうに問われたから、

「もともと問題はないし、これからも問題はないでしょうから、ネ」

と答えた。

大丈夫です。
そういうものなのです。

それでも不安を放そうとしない人に、何を言っても関係ないとは知っていながらも、

逆に、
「なんで心配になるのか、なんで困るのか」
と、聞いてみたい。

28

本当の元気とみかけの元気

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よく、「元気な子」と言われる子がいます。

しょっ中、大声で騒いでる。
朝読書の時間も、隣の子になんやかんや、と話している。

そうじの時間も、ほうきをふりまわしながら、
友だちにちょっかいばかりかけている。


一方で・・・

1年生の入学式で、拍手をし続ける子がいましてネ。

一年生がたくさん入場してくる。
その間、ずっと拍手をしています。

ふだん、とても静かな子です。

この子のお母さんは、家庭訪問にいくと、

「静かな子でねえ。もっと元気に外遊びとかしてくれたらいいのに!」

と言います。





どちらが、元気な子でしょう。

うちのクラスでは、

あとの子の方が、元気だ、ということになっていきます。

これ、私がそういうから、ではないですよ。

子どもが、自然と、そう思って、そう言うようになります。


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