30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

いじめ

悪口を言った理由など、ぜったいに聞いてはならない

勤務校に、教育実習生が来ておりました。
コロナでたいへんな時期ですが、人材確保は必要なので、受け入れたのでしょう。
まあ学校は大勢の人が出入りをしておりまして、業者も荷物を搬入するし、PTAの親たちも、ふつうに校内で会合をしております。

教育実習生はたいへんです。
わたしは経験がないのでよくわからないのですが。
なぜわたしが教育実習を知らないのかは、わたしの経歴をごらんください)

先日、実習生がどうやら子どものけんかの仲裁らしいところにいるのを見ました。
どうやら実習生の目の前で、悪口を言うなど、なにかトラブルが起きたらしい。
わたしは通りすがりだったので、担当の教諭がそこへ現れたのをいいことに、そのままお任せして職員室へ行ってしまいました。

去り際に、ちょっとひっかかったのはなにか。
それは、悪口の仲裁のしかた、であります。

「なんでそんなことを言ったのですか」

と、彼女は子どもに向けて言っていた。
これは、悪口の理由を知りたかったらしい。
ところがふつう教員は、『悪口の理由』というのは、尋ねないものなのである。

世の中、なんでもかんでも、理由は必要ではないし、理由を聞いてはいけないものもあるのです。
とくに、子どもの指導の場面では、悪口の理由は言わせません。
なぜ、悪口の理由というのは、子どもに尋ねないのでしょうか。

理由を聞くのではなく、あなたはどうしてほしいのか、を言わせます。
で、その悪口を言うことで、相手がそうなるのか、を考えさせます。
悪口で解決はしません。その馬鹿さ加減を学習する場面なので。

ヘイトをすることで、相手が自分の望んだような行動をしようと思ってくれるかどうかを確認すると、まあ当然なのですが、自分の希望はぜったいにかなえられません。
ヘイトをしてもしても、何度ヘイトしても、ぜったいに自分の希望はかなえられない、という鉄則をここで学ぶのです。

それなのに、なぜヘイトするかの理由を説明させてはいけませんナ。
相手の言い分を、聴いてはいけないのです。ヘイトに関しては。
なぜかというと、ヘイトそのものが、すでに意味がなく、社会を壊すからです。

ヘイトする人の言い分も聞くべきだ、という人もいるでしょう。
しかし、民主主義を守るためには、ヘイトの言い分は一切聞かないのです。

「理由(わけ)を聞かない」というと、人権をふみにじる行為だ、という人もいるかもしれませんね。
でも、ヘイトした時点で、相手の人権を踏みにじっているので、人権を踏みにじる側の言い分を聞いている暇はないし、順番すら間違えている、というわけです。踏みにじる者がまず救われるべきではないのです。その馬鹿さ加減に気づくのが先です。踏みにじる側を救うよりも、救わねばならないのは、「ふみにじられて苦しんでいる側」です。

だから、「なぜヘイトをしたの!?」ということを、先生は尋ねません。
これは教員の世界ではまあ常識でしょう。
しかし実習生ですから、そのへんはまだ、あいまいなのですね。

「なんで、あらまくんのことを、おばけ、なんて言ったのですか」
「だって、あらまくん、おばけみたいなんだもん!」
「どこがどうおばけというのですか!」
「だって顔もおばけだし、髪の毛もおばけみたいなんだもん!」
「顔のどこがおばけなのですか!」
「だって目も鼻も口もおばけなんだもん!」
「髪の毛はどのへんがおばけですか!」
「くちゃくちゃだし変なんだもん!」
「くちゃくちゃでもおばけではないでしょう!」
「だって変なんだもん!くちゃくちゃでねじれてんだもん!」
「どこがねじれてんですか!」
「だってうしろも前も、横もてっぺんも、みんなくちゃくちゃなんだもん!」
・・・

このやりとりを、あらまくんはどう聞けばいいのでしょう。
おそらく、先生がヘイトの詳細な理由を言わせるたびに、『なんでそんなこと聞くんだ!』とくちびるを噛むでしょうし、相手の返答を聞かされるたびに、 『おまえのいい加減な決めつけをなんで聞かされるんだ』と憤慨し、泣けてくるでしょう。

つまり、悪口を言った理由など、ぜったいに聞いてはならないのですね。

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いじめる人がいちばん困っていてさみしい

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まず、4月の学級で、一番最初に行う道徳の授業が、コレです。

いじめ。

これを考えないとね。



「いじめはいけない」と、教える教師は多いでしょう。

しかし、「教えたつもり」・・・では意味がない。



「いじめてはいけない!絶対!」
と、黒板に板書したところで、教えたことにはならない。
強い語調で、力強く教師が叫んだところで、ダメ。
教えたことにならない。

ポイントは、やはり、発問です。

ブラタモリ風、大人向けに発問すると、

『なぜ、いじめはいけないのか?』

となりますけれども。

直球すぎる!!





ここは、もう少し子ども向けにいきましょう。



『自分の機嫌がとても良く、安心して、満足しているとき、友だちのことを憎いと感じているか』



つまり、普通はなかなか、「人を殺したい」とか「あいつの顔面を殴って骨を砕きたい」とは、なかなか簡単には思わないもんです。本気でそういう計画を立てるようになるときは、かなり異次元の心の状態だ。

ここで、

機嫌のいいとき

と、状況を限定します。
すると、

ふだんは、そういえば、人の悪口とかは言わないなー

ということが、浮かび上がる。
結局は、人を悪く思うときというのは、異常な時、と判明する。
たしかに、一日中、人の悪口を言い続けることを想像したら、

「そりゃあ、ふつうじゃないな」

と、子どもでも思いますからね。

『自分の機嫌がとても良く、安心して、満足しているとき、友だちのことを憎いと感じているか』



ウラを返すと、

友だちを悪く言いたくなる時は、自分の中に、ある種の「寂しさ」を抱えているもの。



そうなると、次はかならず、

「ではなぜ、自分はさみしいのだろうか」
「さみしい時は、どうすればいいのか」

となる。

3

ノリ、という文化

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ノリ、という文化がある。

友だちをからかったり、ぼけたり、つっこんだり、話を持っていくテンション、

それをまわりで聴くときのノリ。

ごく自然な雰囲気で、子どもたちはその、

空気のような『ノリ』を感じながら暮らしている。

ノリ、は、テンション、緩急、スピード、雰囲気・・・




ある意味、集団で、その『ノリ』に、酔っている。

『ノリ』くらいしか、見えやすい、分かりやすいものが見当たらないのだ。

唯一、目の前で実際に感じる『ノリ』を、「たしかなもの」として見る。

だから、集団で、その『ノリ』に、依存していく。


「きもい」
「うざい」
「べつに」
「意味わからんし」

こういう言葉がよく聞かれる教室。

笑う声でなく、嗤う声が聞こえる。
こそこそ話がある。
一生懸命は格好悪いこと、だとしたがる。
叱られている時にニヤニヤする。


このことで、担任が困ることはなにも無い。
子どもを変えようとしなくてもよい。

子どもはそれで、良い。
それが自己防衛の姿なのだ。

それが、自然だ。
人間だれしも、心が充たされなかったら、そうなる。




やるべきことは、子どもがどうであれ、同じである。

「きもい」と言う子にも言わない子にも、教師は同じ態度を貫く。


子どもの真意。


「本当はどうしたかったの?」


これを大事にしていくだけで、教室が変わってくる。




「ノリ」だけを観なくてもいいかもよ、と教えるだけで、

あ、ノリだけじゃなかったんだ!と分かる子には分かる。

伝わる子には、伝わる。

そして、実際に、「ノリ」よりも、確実で手ごたえのあるものに出会う。

そのときの感動。




本当は、本当のホントウは・・・



本当に願っていることが言えた時、聞いてもらえた時、

ノリ、という雲か霧のような、

正体不明な、

心の奥ではすごく不安に思う、わけの分からないものが、

スーッと小さく変化する。

「ノリ」に頼らなければ、という不安が消える。

そこにどんな「ノリ」があろうが、左右されなくなる。



子ども自身が、その人の、本当、をみるようになる。

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「悪口」について

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悪口を言われて、

「お前、おれを馬鹿にすんのか!」

と怒鳴る。



あまり、子どもにはない、どちらかというと大人にありがちな会話かと。

しかしたまーに、子どもにも、そういうことがある。

たぶん、本とかテレビとかの影響でしょう。

「お前、おれを馬鹿にすんのか!」

もしかしたら、おうちで、お父さんが言ってるのを聞いたのか、

お母さんが言ってるのを聞くのかもね。

こういう言い方や、セリフを放った後のキレぐあいとか。

どこかで学習してる、ということ。




昨日も、AくんとMくんの間で、そういうやりとりがありました。

Aくん、大泣き。

Mくんも、なにか理由があったらしく、

「だって、Aくんがバカなんだもん!」と。




そこで、みんなで話し合う。

するとですね。

ふだんから話し合っていることが、じわじわと堆肥のように効いているのか、

「えー、そんなの、影響されなきゃいいじゃん」

という子がいる!



シュミレーションをして、

A 「 ばーか 」

B 「なにィッ!こんちくしょう!!ばかとか言いやがってッ!おれを馬鹿にすんのか!」



これを、何人かのペアに、やってもらう。

俳優のレベルがいろいろとあるが、名演技だと、自然と拍手がでる。

いわゆる、キレ芸、というやつに近い。


「どう?言ってみた人?感想は?」

「なんか、言うと、いやになる」



B のセリフを放つと、いっきに心のエネルギーはまっさかさまに急降下する。

「言った後、5から1に下がった」

などと、いう。



「なんで下がっちまうんだろうねえ」

「ばかって言われたから」

「それで、なんで下がるんだろ?」



あーだこうだ、と20分ほど、みんな好き勝手にしゃべって、

「ばかって言われたら、下がるよねえ」

「言い方にもよるかな」

「顔の表情じゃないの。にこにこしながら言われても、あんまり下がらない」

「お前の心の中を下げてやる、という感じで、ばーか、というと、下がる」




あれこれとしゃべったあと、

「やっぱ、どうしたって下がる」

という子と、

「いや、べつに、下がらない」

という子に、意見が分かれた。



下がる子は、

「いや、馬鹿にされたんだし」

下がらない子は、

「だって、下がりたくないから」

「ばかって言われてもサ、にこにこしてさ、いいよ、ばかでも、って言ったら」




こうやって話し合って、とくに結論もなく、

ふうん、どうしてバカって言われて、いやな気持になるのかねえ、と、ハテナのまま。



当初、この話題の提供者であったAくんも、最後には、

「おれも、馬鹿って言われて、下げるの、やめよっかな~」

「なんで」

「だって、下げるの、いやだもの」

だって。

面白いのは、この話の発端をつくった、Mくんの方が、

「そうだよ。馬鹿って言っただけなんだから」

と、すました顔で言ったこと。


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忘れ物がなくなる理由

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もし、仮に。


忘れものをなくしていくには、教師が忘れ物を

恥とし、

罰することでしか

なくならない。



そう思い込まされているのだとしたら、かなりのエネルギーのロスかと思います。

まず、教室に、「恥の文化」が育ち始めるからです。


「あいつが忘れるからいけないんだ」
「忘れやがって」
「あ、あいつまた忘れてる」
「あいつは忘れてばかりだから、苦労してもいいんだ。むしろ苦労すべきだ」
「あいつはダメなやつだ。いじめられてもいいやつだ」

子どもが、そう判断するようになります。



いじめが始まるのは、もしかしたら、こういうことかもしれません。



そのいじめと対峙して、教員はものすごいエネルギーを注がねばなりません。

それよりも賢いのは、そもそもいじめが起きないようにすることです。

いじめを育む、恥の文化を、撤廃することです。

そのほうが、あとで考えても、何倍も楽です。



あと、忘れ物をすると罰する、というの。

これも、なぜかわかりません。

なんで、忘れ物をした子を、罰するのでしょう。

なにか、いいことあるんでしょうか。

恐怖感のあまり、次から、忘れないようになる?

いや、罰しなくても、なくなるのだとしたら?

その「恐怖」、要る?






こう書くと、

「叱ってはいけない、というのか!」

とお叱りを受けるので、誤解を避けるために書きますが、

いい、悪い、というのではないです。

そんなの、好きな方をやればいいですよネ?





困らない、叱らない、という文化でやれば、叱らずに済むのです。

それと、ついでに、忘れ物もなくなっていきます。

わたしは、それが楽しいし、ふつうだと思うし、楽(らく)です。


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【道徳】このうらみ、はらさでおくべきか!

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先日の記事、「銀メダルで、ごめんなさい」のつづき。

「お前はやるべきことをしていない」と言って、人を責めるとき。
自分の心の奥の「恨みや嫉妬心」をなんとかしようとして、人を責める、ということがあります。
根深いものに耐えきれなくなって、それが「人を責める」という形となって、表面にあらわれてくる。

恨みというと、わたしらの世代がすぐに思い浮かべる漫画がある。
藤子不二雄さんの、『魔太郎がくる!!』だ。

「このうらみ!はらさでおくべきか!」

主人公が真っ黒な顔になって、ぎりぎりと歯をくいしばりながら言うシーンが有名です。

またろう2


そこで、恨みを晴らす、ということについて調べていくと、よく分からなくなってくるのね・・・。
つまり、恨みを晴らすとひとくちに言うが、その「晴らした」瞬間というのは、なにをもって晴らしたことになるのか?

対象とする相手が、泣いて謝った時?


でも、
「いまさら謝られても仕方ないのよ」
ということだって、ある。

あのとき、大切にしてほしかったもの。
それを、奪われてしまった、という思い。
あのとき奪われたものは、返ってこない、という思い。

返ってきやしませんよ、そら・・・。

つまり、個々の相手とは無関係に、こちら側の認識だけで、ずっと続いていく。
それが、『恨み』の本質。

実際には、なにをもって晴らしたことになるのか、あいまいなもの。
だから、恨みが連鎖するのだろう。
「恨み」というものは、本来、消えるものではないということかな。
時間が経っても、場合によってはより強くなるときがある。
怨みを晴らそうとして行動すると、「恨みを晴らさなければ、取り返さなければ」という思いが、より強くなる場合がある。あるいは、「晴らさずにいられない」という、強迫的な気分が、より強まっていく。


こう考えていくと、
やはり、最初が肝心なんだね。

人生の初期段階において、すでに、劣等感やら孤独感があるのではないか。満足できない何か、が。
人生のスタートに近い時点から、その気分が抜けきらないまま大人になって、学校に入学したり、就職したり、仕事をしたり、結婚をしたりする。そして、その一つ一つの選択において、隠された動機、つまり「恨みを晴らす」が作用している、ということがある。

「わたしをだいじにしてくれなかった」という思い。
「なんとかして取り返したい」と心の底で・・・。

その、代償としての〇〇を求める。

代償をもとめる、というの。
ありそうですね。
本人は気づかない。しかし、心の奥底に隠された、怨みを晴らなさければ、という動機によるもの。
自分ではそうは思っていないけども、実際には、という・・・。

代償はホンモノではなく、代償に過ぎないから、いつまでたっても満たされない。
だって、それは代償だから、ですよ。
ホンモノじゃないんだから・・・。
かくして、いつまでも満たされない人生ができあがる。

やはり、こういうこと、小学校のうちから、きちんと学ぶのがいいのでは。

自分という人間の理解が、道徳教育の根幹でしょう。

「いじめ」教育の常識を疑う

.
「いじめ」をなくす。
そのために、学校現場ではかなりの取り組みを行う。
実際に、それで効果もあがっていると思う。

だから、それについて、まったく文句はない。
むしろ、わたしもしっかりと、さらに取り組んでいかねば、と思っている。

ところが、ちょっと、思っていることがある。
道徳、人権教育の専門の先生からは、叱られてしまうかもしれないが、今の「いじめ防止」教育とは、真逆のことを一つ・・・。



実は、今のイジメ防止教育は、
「いじめられている子の気持ちになって見なさい」
というものが、多いのです。


ベストセラーになっている本、『わたしのいもうと』(松谷みよ子/文 味戸ケイコ/絵 偕成社)1200円は、その代表作。

いじめられている、いもうと の気持ちを、せつせつと訴えている名作です。

これで、いじめられている子の、気持ちを想像してみると、切なすぎて耐えられない。
自分はもう、絶対に、そういう「いじめ」には、加担しないし、許さない。
そんな気持ちにさせてくれる本です。


ところが、その逆の視点の本が、なかなか、無い。
つまり、

「いじめている子」

の気持ちを、うんと掘り下げて、その子の心情に、ぐいぐいと迫っていくような本です。


わたしは、その、「いじめている子」の側の、さびしさや、切なさ、孤独感、というものこそ、クラスで考えるべきだと思うネ。

実際、あれこれと事件が起きるたびに、クラス会議で考える焦点になるのは、

「加害者となった子のさびしさ、つらさ、生きにくさ、悲しさ」

なのであります。



口汚く、相手を非難し、ののしり、威圧しようとする子。
相手を自分の支配下におこうとし、威張る子。
そんな子自身が抱える寂しさ、つらさ。


つまり、


ジャイアンの孤独、切なさ、悲哀、つらさ


に焦点を当てたらどうなるか。


明確に浮かび上がってくるものがあれば・・・。
人間の弱さ、ひねくれた「ねじれ」のつらさが、見えてくるのではないか。

そこに「ねじれ」が見えてくるのであれば、時間がかかるかもしれないが、その子の、「素(す)」も、見えてくるだろうと。

ふつう、「ねじれ」が見えれば、「素」も見えるよね?

「いじめっ子、ジャイアンの孤独を見る」

だれか、↑こういう題名の本↑を書いてくれないかなあ。
尾木直樹先生、いかがでしょうか?
ジャイアン

「人格教育」が嫌われる理由


大津市でいじめを受けた男子中学生が自殺した問題をきっかけに、いじめ問題に関して都道府県をはじめ各自治体がさかんに新手の対応を考えようとしているようです。
ちなみに、「いじめ発生件数」か、「いじめ認知件数」か、今はどちらが使われているかご存知ですか。

平成18年の事件より、「いじめ認知件数」という言葉が使われるようになりました。つまり、周囲の大人たちにとって、「これはいじめである」という認知ができているかどうかが問われるようになったのです。

「いじめ」が問題視されると、よく世間に広まるのが、

「やっぱり、人格教育を根本にせんとあかんね」

というフレーズです。

今の子どもたちは、人格がなっとらん。
なっとらん子どもたちの、「人格」を鍛えなおすのには、いわゆる知識の詰め込みではダメで、

「人格教育を根本にせんとあかんよね」

ということだそうです。
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【大変です!】アメリカの銃による大惨事


5歳児クラスを中心に少なくとも20名の児童と6名の成人が死亡するという大惨事が発生しました。

事件の場所は、コネチカット州のニュータウン町、ニューヨークから車で1時間半、コネチカット州のビジネスの中心・スタンフォードに至近という、郊外の閑静な住宅地

サンディ・フック小学校という小学校に、狂った銃乱射男が殴り込んできて、子どもたちを殺害した、という事件です。

狙撃犯(現場で死亡)は24歳の男。
犯人は母親を殺害してから、学校での乱射に及んでいるということです。

被害にあった「5歳児クラス」は、「キンダーガーデン」と呼ばれています。
教育内容は、幼稚園と小学校の中間。アメリカでは、無償義務教育の最初の段階として位置づけられています。

多くのアメリカの親は、子どもが5歳になるとこのキンダーに入学させるわけです。
日本の保育園・幼稚園もそうですが、子どもを預けるのは不安が付きもの。

今日は元気で過ごしてきたかな
怪我なく、無事でいてくれるだろうか
帰ってきたら、どんな顔で、お話をしてくれるかな


親にとっては、それが楽しみ(かつ不安)なのでして、遠くの幼稚園に通わせているのであれば猶更、スクールバスに乗せるたびに、胸の中の小さな不安とたたかっているのが、親というもの。


そんなキンダーガーデンで、大変な事件、大惨事が起きてしまったのです。




このことで、意見がまっぷたつに分かれる可能性がある。

A:学校に重火器を持った警官をパトロールさせていれば悲劇は防止できた。

と思う人と、

B:銃や兵器(核兵器も含めて)の要らない世の中を構築しよう。

と思う人で、大きく分かれると思います。


つまり、Aの意見は、
5歳児の通う学校も、自動小銃に火力で対抗できるように機関銃か何かでの防衛をすべきだ
ということですね。


想像してみましょう。

小高い丘にある、○○市立△△保育園。
県道沿いの道を一本、路地の方へ入って、広がる園庭が目に入る。
パステルカラーにきれいに塗られた、すべり台と砂場、ピンク色のうさぎさんの看板が見える。

パンジーのきれいに植わった花壇を進み、PTAの作った、アンパンマンのイラスト入りの、
「来週は、卒園生の親によるバザーです。みなさんお楽しみに!」
と書いてある立て看板を横目にしながら行くと赤いお屋根の教室があり、中からは元気な「クマの子見ていたかくれんぼ!」の歌が聞こえてくる。

中に入ってみよう。
きりんやぞうの絵が、元気よく貼り付けてある、子どもたちの部屋。
廊下から部屋の中を見ると、園のかわいい服に身を包んだ子どもたちがいました。

子どもたちが、元気におイスから立ち上がり、朝の挨拶をしているようです。
ふと見ると、「おはようございます」とあいさつをしている相手は、大柄な軍人のような人。SECURITY と白文字で大きく書かれた防弾チョッキに身を包んだSPで、実弾を込めた自動小銃を肩から下げているわけです。
その銃口から2mと離れていないところに、子どもは座るのです。

はい。

この状況が、クレージーだと思う人と、

いや、これが本当のあるべき姿なのだ、と思う人とで、おそらく・・・

意見がまっぷたつ!!




おそらく国を分けた方がいいでしょうね。


もうこの際ですから、日本の国を道州制とかいってないで、思い切って、まっぷたつに分けましょう。

そして、東日本と西日本、箱根の山のラインあたりでぶちわって、どちらかをどちらかの国にしましょう。自分が好んだ国へ、移住するのです。


「銃には銃を」というチームと。(石原さんと石破さんはこっち)

「銃や暴力やいじめの要らない社会」を、模索しようとするチームと。


もう、世の中がここまできたら、・・・それに合わせて、ここまでやるしかないかも。




【驚愕!!】学力低下の最大の原因は、なんと、いじめだった!


だんだんとタイトルが派手になってきてしまっていますが 。
 お気になさらぬよう・・・。
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○○しろよ。じゃないと、なぐるぞ。


「俺の言うことを聞け。さもなければ、これだぞ」
(と、なぐる真似をする)

こういうことは、したり言ったりしてはいけない。
それを分からせるために、教師は何をするか。

「ばかもん!!そんな脅すような真似をしてはいかん!!」

と怒鳴りつける。
これは最低の「叱り方」です。
なにも響かないまま、収穫ゼロで、恨みだけが残り、将来に禍根を残します。
大人にとっても、子どもにとっても、なにも得られない、という点で、あまり賢いやり方とは言えないでしょう。
発達障害のある子には、これは当然重大な影響が出ます。「わけのわからんことで叱られた。オレのことを憎んでいる」という妄想を抱かせてしまいます。2次障害につながっていくステップを踏んでしまうことになり、二重の意味で非常によろしくない。

子どもは、「たかがこんな程度のことで」と思っているに決まっています。
多くの子は、

「え?そんなばかな。なにがいけないんだ?みんなやってるだろ」

と思っています。
そこで、こう言いましょう。

今のは立派な犯罪です。
そういうことを言うと、脅迫罪という罪になります。
2年以下の懲役、または50万円以下の罰金です。

「きみたちはまだ小学生で、学級とか学校という、小さなコミュニティでもって、社会に出るための準備をしている段階だ。だから、2年も牢屋に入れられる、ということはない。しかし、大人になったら事情はちがう。立派な犯罪を犯したことになる。」

まずはこんな程度のジャブで、叱られていることを明確に伝えます。
イエローカードじゃなく、レッドカードだ、ということを分からせるため。

しかし、それを聞いても、きょとん、です。
先生、何を言いはじめたんだ?
わけわからんわ、という表情です。
いったい、このセリフのどこに、問題があるのか??
ふつうの会話じゃん、ということなのです。

「お前、あっちのチーム行けよ。じゃないと、これだぞ」(と、殴る真似をする)

こんなの、これまでも100回くらい言ってきたし、兄弟間では日常会話だし、うちのかあちゃんも言ってるし、本当に標準的で、日常にもっともよくあるタイプの、一番よく聞いている類の会話だ、という感覚でしょうか。

「宿題終わったんか?宿題やらんと、尻たたきやで」

と、母ちゃんが日常的に言いますので、それをちょっとぼくなりにアレンジしただけで・・・、ということらしい。



ところが、こういうセリフに、非常に苦痛を感じる子だって、クラスにはいるのです。
だから、クラスの中に線引きをしておかなければならない。人の生命や身体に危害を加えることを宣告したうえで、自分の要求を相手に呑ませようとする行為は、この学級ではゆるしません、ということを明確に、クラスのルールにしていかなければならない。


で、ルール化して、それがまずとりあえずのことであって、本格的に切り込んでいくのはそこから。

ルールをつくってみせても、「言うこと聞かんとなぐるぞ」と簡単に言ってしまっている子は、なにも変わっていません。
その子が変わっていくところをサポートするのが、教師(というか大人全般)であります。
だとするならば、

叱って終わり

というのが、まったく何もやらないよりもはるかにたちの悪い所作であることが明白です。
その後のサポートを何もしないのであれば、下手に叱らない方がマシ、と言いたい。
2次障害にするなよ、と。

ところが、保護者懇談会でも話していて、ああ、と思うのは、

そういうのは、大人が本気でビシッと叱ればいいんですよねえ、先生!大人の本気さと迫力で分からせないと!!


という人が多いことかなあ・・・。

<大人の迫力>かあ・・・。それもいいけど、それで何が解決するかと言うと、何も解決していないのです。
大人は言いたいことを言った分、前に進んでいるような気がするだけで・・・。
子どもの気持ちは、「なにか圧迫された」、というだけで・・・。
子どもはやはり立場が弱いですからね。

必要なのは、子どもが育つことなのですが、大人が叱る、ということ自体が目的化している。

そうではないだろう、と。

○自分の中の願いややってほしい、ということを伝えるのに、純粋にそのまま言葉に出して頼む、希望を言う、ということ自体がゆるされてこなかった、あるいは幾度も幾度も裏切られてきた、もしくは茶化されたり、本気に受け取ってもらえなかったり・・・という暗い過去。
○ただ甘える、ということができず、ともかく相手が自分の希望を受け入れてくれている、という<形や状態、結果>をのぞむ、性急さ、焦り、余裕のなさ。
○もしかなえられなかったら、いてもたってもいられず、我慢もできず、どうしていいか分からなくなる、という不安。

こういうことを考えると、

「○○しないと、なぐるぞ」

という子の、切なささびしさ悲しさ、涙が出ます。

で、こういうことをクラスで言うと、意外や意外、3年生でもそのことが分かるらしい。

「自分が困るのがいやだから、なんとかしたいとあせってる」
「そうそう。やってもらえないと、困るのが自分だから」

というようなことを、スッと解説したりする子が出る。
我慢が出来ない、ということ。
いてもたってもいられなくなる、ということ。
追い詰められている、ということ。
かなえられなければ、泣きそうになる、ということ。

「お前、あっちのチーム行けよ。じゃないと、これだぞ」って、Sくんが言ったんだよね。
そして、殴る真似?をしたってことだけど・・・。」

「あのね、最初Mくんに言って、いやだって断られたら、そしたらすっごい大声出して、叫び始めたんだよ」
「・・・」
「Hくんと同じチームがいいから、今度はわざとSくんに動けって命令した」
「・・・へえ」
「Hくんと同じじゃないとだめだから」
「むりやり、Sくんに変わらせようとした」
「・・・そうかあ」

「じゃ、もし、Sくんが嫌だっていったら、どうなるんだろう?」
「・・・」
「泣いちゃうんじゃない」とA子。
みんな、「・・・」。



「赤ちゃんみたい」

という子もいた。

クラスでの話し合いが、このレベルにまで達しているのにも関わらず、当人だけが、なんで自分のことをみんなが、

「赤ちゃんみたい」

なんて言っているのか、ちっとも分からず、きょとんとしている。
そして、なぜ自分がこんなに不安な気持ちにさせられているのか、分からず、おびえている。

「先生が心配しているのは、Sくん。一番すくってあげたいのは、なぐるぞ、といったSくんの方なんだよね。みんなにふつうに、ぼくこうしたいんだけど、どう?って、言えるようになってほしいんだけど」

とわたしが言うと、クラス全体に、

「そうだね」

という空気が流れる。

「なんでそうやってふつうに、みんなにお願いするってことができないのかなあ」
「お願いしてもそうならなかったら、我慢が出来ないから」
「そうか、ガマンができないのか・・・」



「・・・そうかあ・・・。ドッジボールが楽しめなくて、一番困っているのは、Sくんなのかもしれないね。」

最後、わたしが、ゆっくり、しっとりと語ると、教室が、シーンとする。

Sくんは、もうその頃には、突っ伏して泣いている。

「Sくん、だいじょぶかなあ。心配だね」
「これからがんばって、階段登って行ければいい」
S君のすぐ隣に座っていた、まあまあS君とは仲の良い友達の、Eくんが言った。

階段というのは、つねに私がさまざまな機会に、

「かいだんのぼって、成長していこう」

という意味で、階段の比喩をよく使うからだろう。

憐憫の情で包まれ、再度コミュニティにむかえられる、という形にもっていくのが、「やんちゃくん」にする一番いい対応だろうと、今のところは思っている。

「ぼくは成長したいと思っています。がんばって成長したい。だからまた、このクラスで、みんなといっしょにやらせてほしいです」

号泣しながら、5分くらいかけて、それだけを言う。
もう泣きながらだから、しゃくりあげて、過呼吸になりながら、それを言う。

わたしが怒鳴ったり、声を荒げる場面は、ただの一秒もない。
そもそも、その必要がないのだ。

「このクラスのみんなは、Sくんを本当にやさしく見てくれています。そのことが本当にうれしい。感謝しています。きっと、もうSくんは、ひとを脅すことはしないと思うよ。ありがとう」

そうして、何事もなかったかのように、算数が始まります。




高学年の「親友」ほどおそろしいものは・・・


A子に「親友」と呼ばれ始めた時点で、なにかがくるいはじめた。
A子はボス。
クラスの女子の中で、もっとも人の心を「突く」のがうまい。

「親友」という甘い言葉を使いながら、その実は、クラスの女子を自分のお気に入りと、そうでない者とにふるい分けていく。

ずるがしこいのは、それをさらにランク付けにして、5段階ほどの表にする。
それを示して、クラスの女子を競争させるのだ。

「あんたは大親友。B子はただの親友。C子は仲良しの友達。Dはふつうのともだち。Eはともだち未満」

などという。
たわいもないこと、のように見えるが、ランク付けされた当人たちはもう生きるか死ぬか、というくらいに顔が青ざめている。

A子がクラスの女子を支配して、相手の弱みを突く。
A子は、「支配する味」を覚えた。
他の女子は、A子の言動に逆らうような意見をいうわけにはいかない。
あまりにも、グループがセクト化し、セクトの外に出ることの恐怖感が強すぎるのだ。

こんな人間関係は、実は空疎で、すぐに瓦解する。
それは、この子たちが中学校に入れば、とたんに雲散霧消する。

「中学入ってから、一回も話していない」
なんていう。

去年まで、あれほどくっついて、行動していたくせに。

「どうして」

と問うと、

「今までの、本気じゃなかったから」

と、見事なほどあっさり、と言う。



いちばん悲惨なのは、A子であります。
せっかくつくった、パワーバランスの中で、ようやっと自分自身を癒していたのに、それがすべて消えてしまうのです。

A子がいちばん、苦しんでいる。
そういう、いびつな人間関係で、つかの間の「癒し」を餌にして生きてきた。それが、果たせなくなる。
いびつな人間関係を作らざるを得ない、そうせざるを得ない、窮屈な、みじめな洞窟暮らしを続けてきたのだ。

A子をここまで追い詰めたのは、誰だ。

A子がもっともほしいのは、「親友」だ。
「親友」のラベルを友達につけようとしたA子が、実はもっとも「親友」から見放されている。


「親友」という言葉を使えば使うほど、「親友」がいなくなる。
「ともだち」という言葉を使えば使うほど、「ともだち」がいなくなる。
「ほしい、ほしい」と言えば言うほど、得られない。
なんと、皮肉なことよ。




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