30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

政治・まちづくり

政治と経済の失敗は何が原点なのか

自民党が窮地に追い込まれている。
リクルート事件を超える、巨大で組織的な計画性の高い脱税疑獄だそうだ。

安倍さんはどうやら幹事長時代に組織的脱税を知り、やめろ!と指示を出したらしい。しかし首相になったら黙認してしまい、それが横行してしまった。今後、おそらく閣僚や大臣経験者から、逮捕者が出るだろう。英国BBC放送でも、日本の政治の危機を報道した。

岸田内閣が、と言うよりも、今の自民党の体質ややり口が、国民から批判されている。

「政治は今良くないねぇ」
と言うだけならまだいい。
経済はもっとダメである。
ガソリン代増えた、食品の内容量が減った、値段が上がった、景気は落ちた、これが逆ならありがたいが。

どうしてこうなってしまったかと言うと、それはもう原因を一つ一つ、数えれば、何億と言う理由があります。

もし、単純に、その原因を一言で、言い表すと、欲がないと言うことに尽きると思う。

日本人は欲がなくなった。
周りの人を幸せにする欲、大欲がなくなった。
残った欲は、名誉欲やほんの小さな承認欲求、自分だけの欲である。

昔、竹中平蔵という閣僚が、経済の自由を高らかにうたったことがある。人間の欲望のままに、市場原理を信じていれば、正しい競争が行われて、日本はもっと豊かになるということであった。
ところが、完全に失敗したと、最近どの経済誌を見ていても批評されている。

竹中さんは、本当の欲と言うものを持たなかった。彼に本当の欲があれば、必ず、人間の思い違いや思い込み、間違いと言うものを計算に入れたはずだ。人間は、ふとした、見間違いをたくさんする。聞き間違いもする。一度思い込んでしまったら、間違ったことを信じてしまうこともある。10年20年と、勘違いを続けることだってある。死ぬ間際になって、ようやくその勘違いに気づくことだってある。
市場原理を信じよう、本能だけの競争原理に全て任せれば良いと言うのは、大変な思い上がりである。

そのことを小泉内閣の時代から指摘していた学者はたくさんいたが、人気が出なかった。なぜなら、人間は間違いをおかすものだと言われると、誰もが「俺に限っては間違わない」と思うからだ。

残念なことに、実際に人間は思い違いをする。思い込み、決めつけて、数々の失敗をする。そのことを計算に入れないのは、欲が小さいからだろう。本当に欲があるのなら、人間のそういった本質を必ず計算に入れるはず。

原子力発電所を建設しようと言う時、これまた多くの人が反対をした。
中曽根さんが原子力発電所の建設を躍起になって進めたが、中曽根さんは欲がなかった。本当に幸せな社会を作ろうと言う気持ちが薄かったのだろう。
中曽根さんは、
「人間というものは、戦争も起こさず、手順も間違えず、決してサボらず、どんな災害も防ぎつつ、一万年以上、人は原子力発電所を運営してゆける
と、かなり楽観的に考えた。
でも、福島原発は、一万年ももたないまま、数十年で大事故を起こした。

その昔。東海村で、有名な臨界事故が起きたとき。ウランをバケツでリレーしたので、大事件になった。それを聞いて、多くの人が、人間は間違いが多いので、サボりたくなるかもしれないし、焦って手を滑らすかもしれないし、疲れるかもしれない、もしかしたら作業の手順を間違うかもしれない、と、考えた。

そんなことはない、と信じられる人が、作業を進めたが、実際には作業中に被爆してしまい、尊い命が失われた。

人間が必ず失敗をせず、粛々と、何万年もの間、正しく、機械を整備し、装置の異常を点検しながら、金属疲労を完全に防ぎながら、決してどの国とも戦争をせず、ミサイルを打ち込まれるようなこともなく原子力を管理できる、とかんたんに思い込める人は少なかった。

欲の小さな人だけが、それを信じることができる。

なぜなら、そう思い込んだほうがストレスが少ないからだ。大きな欲を持っている人は、その大きな欲を実現するために、ものすごく大きな精神的なエネルギーを使う。もしかしたら、と考えるからだ。
人は、間違うかもしれない、とする。
そのことに耐えられない欲の小さな人だけが、まぁ、大丈夫でしょうと、事柄だけを先に進める。

よく考えることをしない、と、いうのが、欲の小さな人の特徴だと思う。

100年後、200年後の日本を今の政治家が考えているだろうか。
それを考える人は、大欲を持つ政治家だ。
しかし、その政治家を支えるのは、欲深い国民だけだ。目先の小さな欲しか持てない国民が、ポピュリズムに陥る。

さて、私は小学校教員なので、100年後、200年後の日本のために、世界のために、授業をしなければならない。

ただ、欲を持てといっても、そんな国民にはすぐには育たない。
1番大事なのは、人間は間違いをするものだ、どんなに良いと思っても、それが本当に周りのみんなにとって良いかどうかよくよく考えればならない、ということ。これだけを基準にして、学校教育が行われても良い。

したがって、子どもたちは、討論ばかり行う。クリスマス会のゲームは何にしようか。そのことだけで3時間も4時間も話し合っている。
しかし、この3時間4時間が、非常に良いトレーニングになっている。
もういいから決めちゃおうよ、と言う意見が出ると、いや、まだ〇〇ちゃんの意見が出ていない、と声がでる。

この光景を、岸田さんが見たら、どんな感想を言うだろう。派閥政治とは、無関係の思想を、子どもは最初から持っている。

岸田総理の秘書の方、ご連絡お待ちしております。IMG_3829

高市早苗さんを擁護する

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高市早苗さんに、果物を贈ろう。
今なら、おいしいイチゴがとれる。

おいしい、腹が満たされる、
心まで満たされる、本当に手づくりの、心のこもったおいしいものを
贈ってあげたい。



冷たい声をかけるのではない。

あたたかく、あたたかく、じわーっと、

こころを溶かすように、接することだと思う。


美味しそうに、心づくしのイチゴをほおばる高市早苗さんを想像してみよう。

そして、イチゴの甘酸っぱい味に目を閉じて、頬をほころばせ、それから、
やさしい笑みを浮かべて、

嘆息まじりに遠くの山の緑を眺め、
静かな、静かな時間を過ごす、

そんな高市早苗を想像してみよう。




責めるのは、もう、やめよう。

悪い人ではない。





小学校でも、居場所が無くなるくらい、子どもを叱ることは、ない。
きちんと、逃げ道を用意する。

2度、3度、とくりかえして、反省の色が見えない子にも、やはり、次の道は用意する。

子どもだから、というのではないよ。
人だから。

ひと、人間、にんげんだもの。
心の底から悪い人間なんていないので。




高市早苗さんは、 「やせ馬に、荷が勝ちすぎた」ケースでしょうか。


愛されなかった犬は、この世を恐れてよく吠える。
見かけの強さを欲する。

「愛」を知らないからこそ、「力」にあこがれてしまう。
この理屈は単純でしょ?


見かけだけの、分かりやすいものに、惹かれてしまう、という、その意味は
みんな、だれしも、よく分かることだ。

心が不安でいっぱいだったら誰でもそうなる。

高市早苗が人生を通して、幼い頃からずっと抱きつづけてきた大きな不安に焦点を当てずして、解決することは何もないだろう。

「もし、一切の怖れが無かったなら、あなたの願いは何?」

高市早苗に、聞いてみないと。




愛とは何?

何よりも、彼女が国民の声を聴く、という姿勢になるのは、

周りからの愛を、自分が愛されていることを、
きちんと理解してから、だと思う。



高市早苗さんの政治的な思い(思考の癖)を覆させるのは、おそらく無理でしょう。

高市さんの頭の中の、ことなので。

しかし、もともと同じ人間。
お互いを理解しあうことで、お互い「人の心」を、「人の心」にもどすのは、案外、できる話かもしれない。




みんなで、おいしい果物を贈ろう。自民党に贈ろう。

高市早苗さんに贈ろう。

そんな気分になった、選挙間近の夜。

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兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか~緊急事態条項~

兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか、という文章を
読んだことがある。


米軍の心理カウンセラーが書いた本。

ポイントは、

なにも考えさせないこと。

やれ!

と言われたら、

ハイ!

と、すぐに大声で、返事をし、身体を即座に動かせるように訓練するそうだ。

これを、徹底的に繰り返す。


機械的に、反射的に、とっさに何も思考せず、余計なことを思わず、

すぐに身体が反応できるようにしていくことで、殺人が可能になる。

「殺せ!」
「ハイ!」




なんで、そんなことを思い出したかというと、

ふだんはちっとも本など一切読まないのに、

小学校で英語が始まるので、準備するため、

なにかヒントになる本がないだろか、と久しぶりに本屋に行ったら、

「男20代にしておくべきこと」
「男30代、やっておかないと後悔すること」
「老いてもなお男の美学を」
「人の上に立つ成功戦略」
「勝つための男のコミュニケーション」
「歴代武将に学ぶ人生設計」

という感じの本が、大量に並んでいたからです。


え、こんな本があるの!?


とびっくりしながら、おっかなびっくり手に取って、最初の方をパラパラとめくると、

なんとまあ、どれもこれも、この手の本は、すべて

命令調

なのであった。

「できる男になりたきゃ、〇〇しろ」

という感じ。



マゾ様仕様にも程がある!!


これを読んだ読者は、命令ばかりされるんで、

余計に、劣等感が増していくんじゃないの?

と、ちょっと不安になった。



命令されて、それを受け入れる、というパターンで、

戦争が始まったと考えると、

「共にさぐる」

「いっしょに考えていく」

「考えていく仲間になりあう」

というのでは、戦争は無理なんだろうね。


単純に、

えらい人が 命令をして それを受け入れる

という文化がなければ、やはり人を殺す現場では、役に立たないのだろう。

そもそも、自分の命を捧げたくなるほど、えらい人がいないといけない。



まずは、本屋に並んでいる、こういった命令調の、

「男はこうしろ!」

という文体の本を、読まなければならないほどに、

あるいは、読んだ結果、「そのとおりにしなければならない」というくらいに

追いつめられた男を、社会的に『生み出さない』ことが大事だ。




フーテンの寅さんのような男が、

「男はつらいよ」

と言えるのが、日本のよいところ。



「やれ!」

と言われたら、

「ハイ!」

と言う代わりに、隣のタコ社長をみながら、

「そんな必要、あるのかねえ」
「やりたかあ、ねえよ、そんなさ、人を殺めるなんてコワイことをねえ!」
「女子どもってのは、いじめるものじゃないよ、助けてかわいがるものでしょう、ねえ」
「政府のえらい人が、人を殺せ、殺せって、そんなの、いいのかねえ」
「男はつらいよ!」

というのが、いいんじゃないの。

その方が、日本人には合ってる気がするな。

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LGBTQと副大臣についての懸念

自民党の簗和生(やなかずお)衆院議員が5月20日の党会合で、LGBTなど性的少数者の話題で「生物学上、『種の保存』に背く。生物学の根幹にあらがう」と言った趣旨の発言をしたことが話題になって います。
「発言について答えることは差し控える」としていますが、「LGBTなど性的少数者をめぐる理解の増進は必要なことであると考えております」と答えています。



どうも上記のようなことは、昔から気にはなっていました。
人権意識のない発言が国会の議員から出てくるとはどういうことだろう、と。
あってはならないが、と懸念しておりました。

ところが先日の内閣改造で、この栃木選出の簗和生(やなかずお)衆院議員が副大臣になっちゃっているではありませんか。こともあろうに、文部科学副大臣に。

いやあ、公教育の教員からすると、この方、わたしの上司になりますわ。
この上司の元で働かなきゃいけないと思うと、げんなり、です。
どうやらご本人、LGBT差別の発言については反省をしているらしいですが、ちょっと怖いです。

そもそもなぜわたしがこのことを恐ろしいと感じているかというと、LGBT差別の発言が、今話題のカルト教団の教義と似ている部分があると思うからです。

「LGBTや同性婚、夫婦別姓は「生活共産主義」とされ、認めさせてはならないと説いている」とwikipediaに書いてありまして、本当かどうかわかりません。
もし事実、そのように説いているのであれば、残念でなりません。

一人ひとりの個性に着目し、お互いがお互いを見てそのまま尊重しあうことで、できる限り個としての人間が生きていきやすいように社会環境を整えていく、ということが現代の民主主義社会でして、どんな人間でも「生きにくさ」を感じずに済むように、わたしもあなたも、AさんもBさんも全員区別なく、お互いに全員が全員を助け合うのが今の人権尊重社会です。それを邪魔するのはファシズムであり、人権を無視するということです。

もし簗和生(やなかずお)副大臣が上記のようにLGBTQ差別を心の中でおこなっているのであれば、全国の教員が「あーあ」と声にならないため息をついていることでしょう。

簗和生(やなかずお)副大臣は、性的少数者と呼ばれる人たちを見たくないのか、どうなのか知りませんが、意識から外したところで人間は多種多様にそれぞれが元から自由に思考し、考えて行動するわけです。その元来自由さをふんだんに持つ、もともと生まれたときから自由に思考し行動する自由人としての人間の本来性を無視することなど、できっこない話です。

ちょっと話が変わりますが、こういう思想の人もいます。
「人権が過剰→個人に人権を与えすぎ→だから家族をないがしろにするのだ」
今の世の中が乱れているのは、家族がないがしろになっているからで、家父長制のようなしっかりとした大黒柱の父親が尊敬されていないせいだ、と考えるようでして・・・。
それは、個人に人権を与えてしまったからだ、というのです。
だから、人権が過剰になっている。過剰になった人権を認めるわけにいかない、という支離滅裂な論理展開です。どうもこのようなカルト思想に「はまってしまった」人の中に、LGBTを差別する人が多い気がします。

要するに、ひとが自由に行動し、自由に思考するのが気に食わない、という感じでしょうか。
自民党の簗和生(やなかずお)副大臣におかれましては、このようなことのないように願いたいです。子どもが自由に思考し、自由にアイデアを出すことを応援してください。また、自分以外のクラスメートが、それまた自由に思考することを認められる子どもになれますよう、応援してください。

「おれの意見が正しいと認めてほしいが、あいつの意見はまちがっとることにしてほしい」
「おれの人権は認めてほしいが、あいつの人権は認めんぞ!」
「行き過ぎた個人主義は行き過ぎちゃう!範囲としては俺の決めた範囲が絶対としてほしい!」

というようにならないように、してほしいのです。
とくに最後の「行き過ぎた個人主義」というフレーズはどうやら流行らしいですね。しかし、もともと人間の思考に範囲などないのが当然であり、自分たちの決めた常識の範囲を超えているからダメだとして規制をかけたいなあ、というのはワガママとしかいいようがありません。人間は、別にあなたの思考範囲の中に沿うように生まれてきてないワ!ということですね。

こういう夜郎自大な思想になってしまうと、広くアジアに限らず諸国の人々から軽蔑されます。
副大臣へのお願いです。日本という豊かな国の子どもたちが、未来に向かって世界のどの人にも敬愛されるような「人権思想」を身につけられるように応援してください。(くれぐれも、悪い予感が当たりませんように)

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カルト防止教育が一躍脚光を



わたしが約1年半前に記事にした「カルト防止教育」が、今こそ必要になってきたのかもしれない。
ここ何日か、ものすごい勢いでニュースになりつつあるのが、安倍元総理のことである。
安倍さんを撃ったとされる容疑者が「安倍元総理がカルト教団とつながりがあったと思い込んだ」と発言した(奈良県警提供の記事・情報)。
どうやらその【思い込み】が事実であったらしい。



こちらの番組で、その事実が明らかにされていた。
激震 旧統一教会と日本政治
問われる政治との距離感は
「教団票」で選挙支援“政界侵食”の原点は
今も続く被害…「先祖解怨」とは
植民地支配の恩讐も 文鮮明氏の対日観
旧統一教会は本当に保守的な宗教なのか


★ゲスト★
山口広(全国霊感商法対策弁護士連絡会代表世話人)
櫻井義秀(北海道大学大学院教授)
後藤謙次(ジャーナリスト)
パトリック・ハーラン

ここで報道されたのは、自民党とカルト教団との癒着であり、先祖があなたを許さない、という強い口調で人を脅し、金銭をとことんまきあげる詐欺行為で多くの裁判が発生している「統一協会」という団体が、今の自民党や安倍元総理とつよいつながりをもち、政治にかなりの影響を与えていたのではないか、というもの。

わたしには真実は分からないが、どうやらこのことの意味するものは大きい。
小学生から、【カルト防止教育】をはじめなければ!

信者をどう入信させたか、という過程が重要。
どうやら政治の中枢に切り込む方針だった旧統一協会は、

①ボランティアで選挙を手伝う。
②政治家の秘書に入り込む(ほぼボランティア)。
③選挙時の日常的な戸別訪問の過程で「国会議員事務所の人間」と言って信用させる。
④名簿をつくりセミナーに誘って入信させる。

などの工夫をしていたといいます。

また、霊感商法のトラブルの解決を支援していた弁護士の方によると、統一協会がよく使うフレーズに

先祖解怨(せんぞかいおん)=せんぞのうらみをとく

というものがあり、先祖のためにも入信しなさいというもの。
現世であなたが邪教にはまれば、先祖が報われない、先祖は助けてくれとあなたに言っている、先祖が合図をおくるとあなたを苦しめる、交通事故、愛情に恵まれない結婚、トラブル、そういうものにあなたがみまわれる、地獄に落ちた先祖があなたに合図を送っているのです、その先祖を苦しめないために、お金を積みなさい、というそうです。(山口弁護士による)

先祖と現世との「つながり」を納得させるそうです。

こういうもっともらしい話を聴き、信じる人もいる。
これは「信教の自由」の範疇を超えており、不安にさせ、脅して金を巻き上げる、という点では、詐欺でありましょう。

こうしたことを行うことで入信する政治家もおり、政治家は国民の公的な福利のために仕事をするのでなく、カルト教団のために政治をするようになっていくわけですね。

このことを小学生時代にきっちりと指導しなければ、多くの人が「カルトとはなにか、洗脳とは何か」を知らないまま人生を生きることになってしまう。小学校で指導しないといけないのです。
ちなみにカルトとは何か、裁判所で示されていまして、
①正体を隠して勧誘
②監禁して洗脳
③強制的集金義務
④内情について他言を禁じ世間には嘘をつく

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上記が札幌地方裁判所の平成24年3月29日の判決文を基準にしたもの。
それに、
⑤脱会を許さない
ということを付け加える識者の方もおられます。


この上記の項目だけでも、小学校の高学年~中学生~高校生くらいまで、教えることが必要でしょう。一昔前なら、大学へ行けばカルト洗脳について学べたらしいですが。

写真は、霊感商法で売りさばかれた3500万円の壺だそうで。
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安倍さんの事件

小学生の担任としては、今回の事件は残念でならない。
なぜなら子どもに対して、暴力を肯定することになるから。
「だって大人だって暴力に頼っているじゃないか」
こう考える子に対して、教師はひるんでしまう。

人間はどうやら、うまくいかなかったりなにか原因があり、手間のかかる道筋をたどることができなくなると、

「もうやめた」

と思ってしまう生き物らしい。
一つひとつ、他の意見と比較したりすりあわせたりと、民主主義の進み方は手間がかかる。
その手間がかかる、という一点にものすごい価値があり、だからこそ冷静になって暴力を避けることができるのだが、それを忘れて「自分の思い通りにことを運びたくなる」。
そこで、「だったらもういっそのこと暴力で」と考えてしまうようだ。

メディアが安倍批判をくりかえすから、それに影響された犯人が一線を越えて撃ってしまったのだ、という人もいる。(のちの報道で、それは事実ではなく特定の宗教団体への恨みから、ということがわかりまました)

ところがこの筋道はおかしくて、安倍批判ができるのであればむしろ暴力は抑えられます。
安倍批判ができなくなったので、「批判が無理ならいっそのこと暴力で」となったと考えるほうが筋道が通るでしょう。

安倍批判がしっかりできて、その批判や言説がきちんと取り上げられ、安倍さんの方もその批判に向き合ったことがよく分かるのであれば、もしくはそれに対する反論がきちんとした形で(あいまいな答弁や正対しない答弁だったのでなく)なされたのであれば、むしろテロは起きません。

ところがそうでなかった。
黒塗りだらけの資料、まともに答えない答弁(国会中継をみると非常によくわかります)、「仮定の話にはお答えをいたしません」という回避、資料の改ざん、法に定められた保管期間を無視してシュレッダーにかけてしまうというような証拠隠滅行動など、言論を馬鹿にするかのようなことが次々と起きたために、

「ああ、もう言論では無理なのかも・・・だったらいっそのこと暴力で」

と考えるような思考になってしまう人も、おそろしいことですがあるかもしれない。

議会制民主主義を人間が選択するようになった背景には、王という絶対権力者の横暴を避けるため、独裁という暴力を避けるため、どうしたら暴力で双方が滅亡する道をたどらずにすむか、ということを真剣に考えてきたという歴史がある。

日本の民主主義も、太平洋戦争という大きな代償を払って、ようやく「暴力以外」の選択肢をとることしかない、というふうに育ってきた。
ところがここで、戦後の努力をかなり減らしてしまうような暴力事件である。
犯人は「言論よりも暴力」という、戦前の軍事思想をわれわれに押し付けてしまった。

たしかに権力をにぎった政治家が暴走することはある。
権力側に居る人間がその権力をかさにきて好き放題してしまう、私利私欲に走ってしまう、ということがあるかもしれない。権力があればそういうこともできてしまうわけですが、それを言論がなんとか歯止めをかけることができた、それが戦後の民主主義国家の前提でした。

しかし、政権への自由な批判、内閣政府への自由な批判をひるませるような世の中の空気が醸成されてしまえば、これは「いくら言ってもだめだ、だったらもういっそのこと暴力で」と考える一定の人達を生むことになってしまう。

小学生の教室も、まったく同じ民主主義国家の中の学校であり、同様に言論が自由に行われ、それらが保証されていなければならないし、言論が保証されているからこそ、けんかをふせぐことができている。教師は、児童がなにを話してもいい、話す内容を保証し、その機会を与えなければならない。

頭ごなしの指導は、その言論を封鎖することになる。

土台、民主主義というのは根性も必要だし、ねばりも必要、自制心も必要、論理的な思考も必要であり、かなり難しい高度なことである。だが逆に言えば、これらを目指し、これらに準拠さえできていれば、最悪の事態は避けることができる。殺し合わずに済む。

大人も民主主義に慣れていない。民主主義が地球全体で機能するためには300年かかる、という人もいる。大人ですらそうなのに、子どもが中心となる教室はさぞかし難しいだろう、という人も多い。

しかし、大人がすぐにあきらめて「言えないのなら、いっそのこと暴力で」と考えるのにたいし、子どもは案外と「◯◯ちゃんといっしょに考えて相談したほうがいい」と考える。
それは世の中をそれほど諦めていないという点、すてきなことがたくさんあるという元来の肯定感、期待感、友達はやさしくしてくれるものだという信頼感など、大人にとっては忘れ去られた道徳を子どもはなぜか持っているからだ。

教師はそれがあるからこそ教室の秩序を保てていたのに、今回のような事件がおきたら、子どもを不安にさせ、その不安が子どもの本来の安心感を損なうことになるかもしれない。そこが残念だし心配だ。

かくなるうえは、子どもにたくさん気持ちを出してもらい、語ってもらうしかない。
ふだんから安心して話ができる教室、ふだんから安心して友達と遊んだり学んだりできる空間。

安心感、信頼感。
さいごに頼るのは、こういう人間の根幹にあるものに突き当たる。
これらはやはり、「政治家が口で言うことと実際に行うことの両方のうち、実際にやっていることをみる」という基本的な国民の姿勢があれば、みえてくるし、醸成されてくる。

勇ましい口ばかり、リップサービスばかり、希望的なイメージを語るだけの儲け話ばかり、ではだめ。
実際に弱い立場にすぐに落ちてしまう国民すべてを大切にする行動をとっているかどうか。
さあ、明日は投票だ。行こう。

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『終わり』という感覚がない子

学期末に近づくと、子どもたちは荷物を持ち帰ります。

最終日、両肩に荷物を食いこませる。

その上、さらに両手にも荷物をぶら下げて帰宅する猛者もいる。

「せんせ・・・くるしぃ・・・」

だ、だいじょうぶ?と聞くが、

「なんとか・・・帰ります・・・」

歯を食いしばって歩いていく。



これは、どうしてこういう事象が起きるのか、不思議ですが、子どもからすると

「まさか、休みがくるとは思わなかった」

ということらしい。(事前に忠告は何度も受けているのに、ですよ?)

永遠に、毎日のように自分の人生は繰り返されて行くのだ、という感覚になっていて、朝起きてご飯を食べたら靴を履いてランドセルをしょい、友だちと道を歩いて教室に入り、みんなとすごすのがつづく、と思っている子がいる。

もちろん、きちんと毎日のようにカレンダーを見て確認し、

「最終日まであと10日。よし、そろそろ絵の具は持って帰ろうかな」

と計算できる子もいる。

しかし、まさか、この学年が、この学級が、おわってしまうとはついぞ考えたことが無かった、という子もいるのである。

いよいよ終業式が終わり、教室も片付いて、通知表ももらって、

「春休みですね、みなさんさようなら」

となってから、ぼうっと立ち尽くす子もいるのである。
「まさか、こんな形で終わるとは」
「人生に、こんな区切りがあるとは思わなかった」
「この毎日が、俺の人生のすべてだったのに」
「ずっとこの日常が、毎日が、くりかえされていくと信じていたのに」

とまあ、こんな雰囲気の心情であるのだろう。(推測)

とてつもなく不安な顔をしたまま、その子はゆっくりとランドセルをしょい、
水彩画のセットを肩にかける。
そして反対側の肩から画板をさげ、その上から今度は体操着袋をあらためて背中に背負う。

そして左手に図工の木工作品や家庭科でつくった布の袋や裁縫道具などを入れた巨大な「作品袋」を持ち、右手に上履きやらぞうきんやら、しばらく学校に忘れていたジャンパー等を入れたこれも大きな袋をさげたところで

「先生、ぼうしを頭にのせてください」

と言う。

見た目はもう、

特別に仕上げた雪だるまのような雰囲気。

さらに、そのまま、画板をあちこちの机の角にぶつけながら歩いて昇降口へ移動すると、お世話好きで心配そうに見ていたクラスの気の利く女子から、

「あ、Kくん、これ忘れてる」

と理科の観察バッグと地図帳の入った袋を渡されるが、もうなんとしてもどこにも持つことができず、女子にうしろからランドセルをあけてもらって、そのふたの部分で地図帳と観察バッグを無理やりにはさみこんでもらって、なんとか『ほうほうのてい』で下駄箱へ行き、泣きそうになりながら靴をさがしてもらってはかせてもらい、まるで遠くから見ると人ではなく荷物が移動しているかのような恰好で、帰宅するのである。

すべての子がこういうわけではないが、こういう子も中には、いる。

「まさか、この幸福な毎日に、突如として終わりがくるとは信じられない」

という感覚でしょうか。

最後に「これでおしまい」ということになってから、

「え!?終わっちゃうの?ほんとうに?」

と言った子がいて、そのセリフを実際にわたしは聞いたことがありますが、子どもというのは、時間の感覚も大人とちがうし、なにかが終わる、という感覚も、まだ育っていないのでしょう。

ただ、大人の方がそれに縛られている、という見方も一方では存在しています。
別に、本当はどうでもいいのかもしれません。
春だからこうしようとか、秋だからこうしよう、というのも、ね。
キメツケないでもいいことでは、ありますナ。

というか、本当に人間にふさわしいシステムというのは、もしかしたら違うかもしれない。

1年ごとに区切りをつけなくてもいい、という前提で社会のシステムをつくった方が「生きていきやすい」という人もいるだろう。

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麻痺していく言語感覚と価値観のゆらぎ

1949年に刊行したイギリスの作家ジョージ・オーウェルのディストピアSF小説。
それが「1984年」だ。
これを教材にできないかと考えている。
SDGsを学んでいくうえでの大切な視点を、子どもたちが学べると思うからだ。

物語の中は、特別な世界だ。
この世界の市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

これは子どもたち自身が感じ始めていることと、非常にリンクする。
たとえば、学校で使うipadは、すべて検索の履歴や表示の履歴が教育委員会のサーバーに残っている、と聞いて、
「え?これみんな親にばれるの?」とTくんが不安な顔つきになったのもつい最近ことだ。
Tくんはそれ以後、ipadでゲームの検索をするのをあきらめた。
いわば、実体験があるから、「当局によって監視」されているというのは、よくわかる。いや、これまでのどの時代の子どもたちよりも、このことの意味はものすごく肌で実感できるのだと思う。
つまり、ようやく、時代が追い付いてきたのだ。この「1984年」というSF小説を教材とする、もっともふさわしい時代になったというわけ。

1984-Big-Brother
小説では、主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄(かいざん)作業を行う。それが彼の仕事業務なのだ。
改ざん、ということの意味について、小学生の子には今一つぴんとこないだろうが、中学生以上なら理解できるだろう。
つまり、1984年は「・・・ということになっている」という建前が唯一の判断のもとになる世界であり、けっして【合理的な事実】によって何かを判断するのではないのである。

さて、この1984年の世界については、もっとも大切な「嘘とはなにか」が、SDGsにはもっとも大事になってくる。具体的には、SDGsの数々の目標を達成するために、どうすれば良いのか、という点について様々な考えや視点があるが、なかには合理的で実際のものではなく、虚構や偽りがまぎれこんでいるかもしれない。ここは重要なポイントだ。

たとえば、プラスチックではない、紙ののストローを使っているからわたしの消費行動は善である、という論理はどうだろう。ストローを植物繊維でつくる紙製のものに替えたら、その人の行動は残りも含めてすべて〇(まる)かというと、そうとは限らない。しかし、「わたしはこんなに気を付けている」(だから他のことは多少どうだっていい)という免罪符になってしまうのではないか、という点だ。
これが企業規模になると、もっと大きな話になる。庭に草木を植え、社員がマイカー通勤をしないからエコに取り組んでいるのだとしても、当の企業が地下水を汚染したり必要以上に汲み上げたりしているのなら、SDGsに資しているとはいいがたい。

そういう意味で、SDGsには厳しい「内省の目線」が必要であり、大きくは前進することが難しくても、一人ひとりが自然や社会に対して真摯に向きあうことが大事なのだ。そして、人として『お天道さま』に恥じない行動をとろうとするることが重要なのである。それは決して、「見た目」をとりつくろう精神では達成できない。周囲にうしろ指をさされるからやるとか、悪い評判がたつのを防ぐため、というのではだめだ。「わたしはとりくんでいる」ということにしておこう、というのでは不純である。形や見た目、体裁をととのえる目的ではSDGsは成り立たないのだ。「ということにしておく」という建前では、意味がない。あくまでも、合理的・実際的に、事実として目標達成に近づくのでなければ。

そのことを小学生が学ぶために、SF小説を授業の教材に持ってくるのは、いささか飛躍しすぎだという人もいるだろう。しかし、事実よりも「・・・ということになっている」ということにする、という欺瞞が、この小説ほどにわかりやすく示されているものもないと思われるため、これを選ぶしかないのが現実だ。

他に、身近な事例があればそれを教材にしてもいいのだが・・・。

最期に、1984年の世界でもっとも有名な言葉を紹介しよう。
この小説の中では、町中に党のスローガンが掲示されている。
戦争は平和である (WAR IS PEACE)
自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
無知は力である (IGNORANCE IS STRENGTH)

人々は、この矛盾した言葉を何度も頭に叩き込むことで、違和感をなくしていく。
当初はふつうに「おかしいな?」とか「それは筋が通らない」などと思っていても、どんどんと教育されていき、しだいに「感覚がマヒしていく」のだ。

「WAR IS PEACE」を連呼するうちに、麻痺していく言語感覚。
これらは、二重思考、と呼ばれる、思考コントロールの技術だ。
アクセルとブレーキを同時に踏むかのような、本来は矛盾した言葉を繰り返すことで、人の感覚は麻痺していく。
つじつまがあわなくても、しだいに平気になっていく、困惑した心理。
筋を通すのが本当だ、という感覚がなくなっていき、「どうでもいいや」となっていく思考放棄。

1984年の世界では、この「言語感覚の麻痺」こそが、みんなが落ち着いて暮らせるすばらしい社会にするための、最初の政策だ、ということになっている。

政府が、人々の「まっとうな言語感覚」を放棄させるため、あえて意図的に仕組んだ言葉とロジックの破綻(はたん)この作戦がじわじわと人々の心に作用し、ついに1984年には、主人公のスミスは、心を破壊させてしまう。スミスは愛情省の「101号室」で自分の信念を放棄し、党の思想を受け入れ、処刑される日を想って心から党を愛するのであった。

きちんと筋を通したい、と思う子どもが育つか、あるいは
筋など通さなくても、どうでもいい、と考える子が将来の日本をつくるか。
この「1984年」こそが、教科書に載るべきだと思うネ。なんたって、今年の大学共通テストの世界史Bにこの小説が出題されてるんすからナ・・・。

世界史B
1984年

義民たちの尊い犠牲の上に今の生活がある

平和は、願ったり叫んだりしてもやってはこない。
どうすれば次の世代につなぐことができるのか。
夏は、その重みを痛感する季節だ。
とくに、昨日は8月15日。いろいろと考えることがあった。

特攻隊という人の命を無駄にする、悪魔の所業があった。
その作戦を立て、命令する、ということがあった。
想像すらできない世界だが、実際のこと。
それから、まだ100年も経っていない。

特攻隊経験者は語る。
「特攻隊が【無駄死に】するなどのの犠牲があって、その犠牲を強いた犯罪に対する深い反省と悔恨があって、今があることを忘れてはいけない」。

深い反省と悔恨、二度と繰り返さない、という覚悟が今の時代の繁栄を支える基本。
それは、人類が学んだ、貴重な「学び」だ。
人は悪魔にもなれる。
これは現実だ。
目をそむけるわけにはいかない。

わたしの姉はフランスにしばらく住んでいた。
姉は、よく日本の市民の意識と、フランス人の意識の違いを評して、こんな話をした。
フランスの市民は王政を実力で撤廃した。
だから、今でも政治が気に入らなければ声をあげる。
自分が認めた政治の仕組みでなければ、おおいに意見を言うのが伝統であり、市民としてのアイデンティティを支える根幹なのだ。

日本もそうだ。
王政ではないが、「天皇は現人神」という理念を撤廃した。
そして、やはり自分たちが納得できる政治をつくろうとする。
人間はおろかになりがちだ。権力を持つと、その蜜の味を知り、私利私欲に走る。そして、市民の生活を顧みない政治家が出現する。フランスのように日本もかつては声をあげてきた。

日本の市民革命ともいうべき動きは、たくさんあるが、なかでも有名なのが【加助騒動】だろう。
長野県安曇野市にある貞享義民記念館のサイトにはこう紹介してある。
貞享騒動は貞享3(1686)年、松本藩で起こった百姓一揆【ひゃくしょういっき】。この年、松本藩では、米が不作だったのに、1俵あたり年貢米を3斗(1斗=約18リットル)から3斗4、5升(10升=1斗)に引き上げる決定をしました。周辺の藩は1俵あたり2斗5升だったため、加助らが立ち上がり、年貢米の軽減を求め、訴状を提出、各地から多くの農民が結集して、騒動になりました。訴えはいったん聞き入れられました(後略)。

わたしはもっとも気の毒なのは、王、であると思う。
権力を持つことを強いられ、本心では願わないでも、大勢の取り巻きに囲まれ、いいように利用される。これは結局、精神的に支配されているのと同じだ。王はなにも意のままにできないのである。なぜなら、その立場を利用する者がいるからだ。

はだかの王様、という泣ける童話がある。こんな童話があること。それ自体が証明している。
王、という立場である人間こそ、もっとも意志を曲げられ、なにも知らされず、ただ周囲に利用されるだけの存在なのだ。

上述の安曇野の義民たちは、訴状を出して政治を動かしました。
しかし分を超えたふるまいであると処罰されます。一揆を扇動した首謀者であることから、加助は処刑されるのですが、ともかくも自分たちの意思で、政治を動かして見せるという尊い行動でありました。処刑され、いのちは奪われたのですが、この尊い命の犠牲の上に、今のわたしたちの生活があるといってもよいでしょう。

今は亡き義民たちの存在を胸に刻み、「彼らの犠牲を忘れないでほしい」と願う。過去を正しく知り、未来に継承することが、今を生きる人の責務だと考えるからだ。

政治にものを申せる社会。
納得のいく政治をみずからがつくっていく社会。
けっして、はだかの王様を世に生み出さないと知恵を働かせ、一握りの者に権力を独占させたり、にぎらせたりすることのない社会。

「義民たちの犠牲があって、今があることを忘れてはいけない」。

この夏、義民記念館を訪問し、あらためて考えたことでした。

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上の写真は、東京朝日新聞に連載された「義民嘉助」。
この連載物の作者は、樋口一葉と恋人関係にあったと噂された、半井桃水(なからい・とうすい)。

作者の半井桃水は、この連載の最後に、このように記しています。
「昔時領主の暴政にたえず、百姓の疾苦を見かねて、奮然犠牲となった義民が、めいめいの裡(内面の意味)に教訓を与えて、永く郷党(郷土の意味)を益する事は、言うまでもない遺徳である」
今の世にも通ずる、考えさせられる一文だと思います。

プロジェクトXとは真逆の現象

オリンピックにあまり興味関心のなかった私にも、テレビや新聞報道で情報が耳に入る。小山田さんや小林賢太郎さんのことは週刊誌やワイドショーに限らず、ずいぶん話題になっているようだ。

そもそも今回の五輪には、当初からいろんなケチがついていた。
振り返ると、こんな感じ。
■2015年7月:新国立競技場の計画「白紙に」
■2015年9月:エンブレムのデザインも白紙に
■2017年4月:新国立競技場の現場監督が自殺
■2019年1月:JOC会長の贈賄疑惑
■2019年4月:当時の五輪相が問題発言で辞任
■2021年2月:女性蔑視発言で森喜朗会長が辞任
■2021年3月:容姿を侮蔑する企画を提案、開閉会式の統括が辞任
■2021年3月:聖火リレーがスタート、辞退続出
加山雄三さん、斎藤工さん、黒木瞳さん、TOKIO、広末涼子さん、香川照之さん、藤井聡太さんらが辞退。
■7月19日:開会式の作曲担当、小山田圭吾さんが辞任
■7月20日:関連プログラムに出演予定の絵本作家が出演辞退
7月22日:開閉幕式の演出担当者、ユダヤ人虐殺をネタにしていたとして元お笑い芸人の小林賢太郎氏を解任

このあたりの経緯を伝える報道を、NHKで見ていたとき、ふと浮かんだのは、
「これ、心がどんどん離れていった、ということだな」
ということ。

そして、「プロジェクトXとは、まったく正反対の世界だ」と思った。

心がどんどん寄ってくる、集まってくる、知恵が知恵を呼び、奇跡を起こしていく、ということがある。とくに、みんながなんとしても成功させたい、という思いになると、それが伝播するのか、クラス中がそうなる、学校中がそうなる、ということがある。

高校の文化祭がそうだった。

いろんな困ることが起きても、その都度、どこからか「なんとかしよう、のりこえよう」という知恵が集まってくる。人も寄ってくる。
なぜ人が集まってくるかというと、みんな、そこにかかわりたい、という気持ちがあるからだ。
だから、自分の用事が済んでも、なんとなく体育館の方に集まってきて、演劇のメンバーに声をかけてから帰宅するとか、部室の横で、巨大な「はりぼて」に糊(のり)を塗っている子に「がんばれよー」と声をかけ、様子をうかがってから帰宅するとか、していた。

そうすると、なんか困ったことがあっても、知恵が寄るんですね。
〇〇がないんだけど・・・というと、知っている子がいないか、とクラスに報告してくれる子がいて、するとふだんは面識ないけれど、たしか3組のTくんが持っていたと思う、とか情報が集まってきて、Tくんが必死になって翌早朝に届けてくれたり・・・簡単に言えば、そういうようなこと。

こういうモードになると、不思議とさまざまなことが、どんどんと雲が晴れるようにして起きてくる。みんながみんな、まっしぐらになっているから、他の人の動きがよく見えるし、感謝の念も湧く。「ああ、あのメンバーが、ここ、掃除してくれてたんだ!」もう、感謝しかない。


小学校でもそうですね、なにかの発表を成功させよう、と本気が伝わり始めると、みんなの嗅覚やら目つきやらがするどくなって、

「ねえ!〇〇ということにしようよ!」

というアイデアもたくさん出てくるようになる。
これまでの日本は、そういうことが多かったのではないかと思うね。
プロジェクトXなんて、古い番組だけど、あれを見ていたら、そういう仲間の知恵が不思議と集まって、なんとかして苦境を脱する、という奇跡が起きる。そういう奇跡が、各分野・各地域でたくさん起きてた、ということがわかる。

ところが今回の五輪は、心が寄らなかったみたい。できたらかかわりたくない、という気持ちがあるから、トヨタの会長さんまでが開会式に出席しなかった。
心が寄らなくなったイベントは、苦しい。
心が集まらなくなった目標は、だれもその達成を、のぞまなくなる・・・。

人は、自分の心に、嘘はつけない。
本当はやりたくないけど、忖度して顔だけ笑って、なーんて。
そんなウソ、いつわり、まんちゃくが、続くわけない。

問題は、最初はみんな、やる気に満ちていた、ということ。
だってみんな拍手してたもの。テレビでも、芸能人が本当に晴れやかな笑顔で、五輪の開催を喜んでいた。それが、いつの間にか、「かかわりたくねえな」になっちゃった。

そのターニングポイントはどこか。
リーダーが消えたところかな、と個人的には思う。
リーダーというのは、みんなの心が寄るところ、中心にいてくれる人。
みんながやがて集まるはずのところ、その中心にいてくれる人。
部屋の中心、囲炉裏のあるようなところに、どっか、と腰を下ろしてるイメージ。
それが、だれもいない、と感じたら、だれも寄り付かなくなる。

だから担任は、いつも教室で、その囲炉裏の火を絶えないように、消えないように、どっしりとかまえて、薪をくべて、うちわであおいで、じっとふんばって見つめていないといけない。それが学級担任のいちばんの姿。心に夢を期して、火をじっと見ているのが、仕事なのだ。

石原都知事もいなくなり、猪瀬都知事も・・・
みーんないなくなろうとしていて、だれも囲炉裏の火をみてる人がいないんだもの。
これじゃあ、プロジェクトがプロジェクトにはならんわね。
「United By Emotion」 が大会のモットーでしたが・・・

やっぱ、こころが整わないと、形をととのえようとしたってダメですよね。

薪をくべる

排除すればいい、という風潮

先日、子どもたちの話し合いを見ていて、気が付いたことがある。
それは、「ひとは、都合の悪いものを簡単に排除しようと思う人ほど、全体への視野をもたず全体への配慮を欠く」ということである。

なぜなら、ここからは単に私の推測だが、ひとはかんたんに目に見える結果を欲しがる」態度をとる時ほど、全体への配慮ができない、視野を広げられない、客観視できないからだ。

具体例を書く。

実は、わたしがあまり怒らなく、注意もしないからだろうか。
最近まで、うちのクラスは、理科室への移動に時間がかかっていた。休み時間の後、おしゃべりに花を咲かせてなかなか支度ができない子がいる。あるいは、自分が夢中になっているドッジボールから帰ってきた後、ぎりぎりになって思い出したようにトイレに行く子もいる。それで、全員が時間通りに理科室にそろわないのである。(チャイムが鳴る直前には自分たちの教室にはいるのだが、そのあとで、別の棟の2階まで移動しなければならない)
わたしは時間がかかりすぎることや、45分の授業が結局は40分ほどにしか確保されていないことを子どもたちに伝え、「これはみんなにとってはどうなのか」と問うた。

すると、理科は楽しいので、45分しっかりやりたい、という。
その方が自分たちにとっては得だ、という子もいる。

しかし、現実はそうならない。おしゃべりばかりで支度をしない。理科の教科書やノートも持って行かないといけないが、それらの準備を放っておいて、チャイムが鳴るまで自分の教室で時間をつぶしてしまうのである。
で、チャイムがなってあわてて準備をしだす子がいる。

クラス会議になった。

すると、
1:一人ひとりが自覚を高めないといけない。
2:前もって理科の準備をしておこう。
3:おしゃべりしている人は気づいていないか忘れているから、声をかけよう。

というような意見が出てくる。
ここまでは例年の動きであり、ふつうの光景、毎年(とは限らないが、毎年のように)繰り返される光景である。

しかし、なかには、こんな意見も出るのである。

4:遅れた人には、ペナルティを与えればよい。

わたしが今回気づいたのは、この4:遅れた人にペナルティを与えよう、という意見を出す子が、どういう子か、ということである。

おそらくみなさんも予想される通りだ。
つまり、「よく遅刻し、おしゃべりをし、他の子に話しかけ、トイレにぎりぎりにかけこむ子」こそが、「ペナルティを与えればよい」と言うのであります。

なぜか。
わたしもよくわからなかった。
メタ認知ができていないからだろうか?
ふつう、自分がいつも遅れているな、しゃべってしまっているな、反省しなきゃな、と思う子は、「ペナルティ」なんぞ言い出さない。自分がとばっちりを受ける可能性が高いから。
しかし、そうは考えない。自分のふだんの様子や姿には関心がないのか、気づいていない・・・。

だから、いとも簡単に【罰を与えればよい】的な発言をしてしまう。おそらく自分の姿を認知できていないことが、「ペナルティを与えれば済む」という発言に表れるのである。

逆に、いつもはけっこう時間通りに行動できている子が、かえってその子のことを心配して、「ペナルティはやめた方がいいのでは?」とおずおずと提案するわけ。なぜなら、その子に対してだけでなく、将来先々まで見通したり、自分を含めたまわりの子たちのことまで、さまざまな影響についても含めて考えているから。

言われた子は、自分が心配されていることに気づかず、ただ自分の主張を邪魔された、反対されたように思って

「なんでだよ!ペナルティを決めないとぜったいにみんな遅れちゃうよ!」

と言ったりすることだってある。
このときの態度は、かなり強い。声を荒げ、熱弁する。なんでみんなわかってくれないんだ、となる。

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周囲の落ち着いた子たちは熟考に入る。

わたしならちょっと意地悪に、
「そこまでペナルティを主張するなら、一度、やってみればいいじゃないか」
とでも、言いたくなる。きっと、自分がペナルティを受けたらよくわかるだろう、と考えるからだ。

しかし、クラスの優しい子たちはそうは言わない。
どうしたらこの子に、きちんと理解させることができるだろうか、とじっくり考えるのである。
そして、言葉を変えたり、言い方を変えたり、具体例を示したり、と工夫する。

残念だけど、その行為はむくわれない。なぜなら、前述の【ペナルティ主張者】はそんなことをすべて一蹴するからだ。

「みんなぐちぐち言ってるけど、それじゃなにも進まないよ!ガツンとペナルティを与えれば、一度にぜんぶ言うこと聞くようになるって!!

わたしはあまりにもこの構図が今回、切断面がきれいに見えるほどにあざやかだったので、非常に印象に濃く残った。

整理してみよう。

メタ認知できない子にとって、自分の姿は自分からは見えない。
また、問題や課題というのは、実は何が問題なのか、問題の焦点はどこか、問題と思っている自分の見方そのものの整合性や合理性はどうか、などには思い至ることがない。心の中では、そういうことをじっくり考えるのはめんどうなので、できたら避けて通りたい、と思っているようだ。

したがって、いつも遅刻する当人たちは
勢いよく、ズバッと、単純に解決できるもの
と考えてしまう。

実際にはさまざまな要素が複雑にからみあうし、さらに全体を見通さなければ結論など容易にでるものではない。この事象ひとつとってみても、関係者は多数いるのだ。
しかし、【ペナルティで罰を与えれば万事解決と思う子】は、視野の外側や周囲にある、自分自身も含めた、それらの存在に思い至ることがない。(思考するのには、相当な負荷がかかる。その負荷に耐えられないかもしれない)

わたしが感動したのは、それでもその子に対して、ペナルティをやめよう、と声をかけつづけた子たちの存在だ。
「わたしだってうっかり忘れることがある。あなたにもその可能性はある。だれにだって、ついおしゃべりすることがある。それを見とがめて、罰を与える、という判断はだれがするのか。そこまで考えたらどうだろうか。おしゃべりをした子を見て、今のはアウトだと判断した子も苦しい、された子も苦しくなる。お互いに罰を与え合うという泥沼のような状態が生まれる。それをこの大切なクラスにつくるのか。わたしは嫌だ。みんなで自覚を高めあい、声をかけあって、遅刻しないようにするのをまずは真剣にすべきだ」
というのである。
それも、言わんとすることを確かめるようにして、何度もゆっくりと考え、言葉をたしかめながら・・・。

くりかえすが、これを言うのは、日ごろちっとも遅刻などせず、きちんと準備をして、ぬかりなく理科室に間に合うようにいける子なのだ。


どうです?
一見、矛盾しているでしょう?
つじつまが合わない。


ええと、この場合の矛盾というのは、おそらく
『都合の悪い行動をとる者を罰により貶(おとし)め、排除すればいい』という意見が、その「都合の悪い行動をとる子」の主張である、という点だ。
また、逆に、どんな人も排除しないでいよう、という意見は、時計の時間に間に合わせようと努力できる子の主張であり、おそらく排除される対象ではない側の子の意見なのである。

まことに人というのは、不思議なんであります。

【6年国語】話し合おう~五輪を開催すべきか~

光村図書の国語の教科書には、「討論をしよう」という単元があります。
正しくは、『聞いて,考えを深めよう』。

最初は、
①「中学生も電車の運賃は大人の半額にするべきである」
②「小学生は携帯電話を持っているべきである」
③「大人の方が得である」
などのテーマ設定をするつもりであった。
肯定側と否定側に分かれて作戦を練り、いわゆるディベートをする。

ところが、そうは問屋が卸さない。
クラスのどちらかというとひょうきんキャラで通っているSくんから、いわゆる五輪問題で話合おう、という意見が出たために、みんながそれにのってしまった。(たぶんSくんなりに、ちょっと受けをねらったのではないか、と思う)

【目標】
・テーマに沿って、話し手の意図をとらえながら聞き、自分の意見と比べるなどして考えをまとめることができる。
・互いの立場や意図をはっきりさせながら、計画的に話し合うことができる。
・討論会における言葉の使い方などについて関心をもつことができる。


生き生きと討論会に取り組むように、児童は肯定側・否定側・聞き手の3つに分かれ、聞き手は肯定側・否定側どちらがより説得力があったかの客観的な判断を行って、勝敗を競うゲーム的な要素を取り入れる。


【五輪を開催すべきである】

クラスの半分を肯定側にし、残り半数を否定側にすると、肯定側からブーイングが出た。
しかし、双方の立場を経験することがわかると、「なーんだ」とブーイングは止(や)んだ。

五輪開催をめぐっては、今現在、大人の世界でも激論が巻き起こっている。
たとえば政府分科会の尾身会長は6月2日衆議院厚生労働委員会で、オリパラについて踏み込んだ発言をした。
「今のパンデミックの状況で開催するのは普通はない」
そして、開催するなら政府・五輪委員会に厳しい責任と強い覚悟がいる、一般の人は家で静かにテレビ観戦と伝えないと、感染対策ができない、などと強く主張。尾身会長は“厳しい責任と強い決意”を政府や組織委員会に求めたのだった。
しかし、菅総理は、「専門家としてもきっちりと感染対策をする、ということだと思う」と、あくまでも推進の立場。
同じく竹中平蔵氏は、尾身会長の発言に対し『明らかに越権』『五輪の中止議論自体が不毛』など怒り爆発。
推進側の丸川珠代五輪相は「我々はスポーツの持つ力を信じてやってきた。別の地平から見てきた言葉をそのまま言っても、なかなか通じづらいというのが私の実感」との見解を述べる。

国会でも議論していることを、6年生の児童がどこまで話すのかなーと思っていた。
もしかしたら、国民の代表者が考えている以上のことを話すかも?
ときに、子どもは本質を見抜くから・・・と、ちょっとだけ期待もした。

しかし、結果、それほど盛り上がらない。

肯定側の多くは、スポーツっていいじゃない、という意見。
「わたしはバレーボールが好きなので、スポーツが盛り上がるのはうれしいです」
などの意見が出て、少し推進しちゃおうかな、という感じ。

否定派は、
「(五輪の影響で、感染症で)死ぬ人が増えるかもしれないのにやる本当の理由がわからない」
という感じで、やっぱり

さすがに大人ほどは盛り上がらない。

そんなものかな、と思う。
だって、6年生なんだもの。

でも、最後の『五輪って本当の本当は、何のためにやるの』に、推進派も否定派も、クラスのだれも答えられず、結果、否定派が勝ちとなりました。

子どもの世界では、盛り上がらない話も、
テレビや大人の世界では、がぜん盛り上がってくるのが、不思議といえば不思議か。

五輪



オリンピックの実施について、朝からテレビでは大討論会の様子だ。日曜日のモーニングショー、ワイドショー、芸人から文化人から専門家まで、喧々諤々、実施すればいいだの、反対だのとかまびすしい。
「反対派をおさえこめ」と排除しようとする動きも感じる。しかし、メタ認知できない人ほど、目の前のうるさい蠅を追い払えばよい、という考えになっている。より全体を見通す力、後世までの影響を深く考えていかねばならないし、即断即答でおしつぶせばいい、というのではぜったいにないと思う。時間がかかって当然で、オリンピックはなんのためにやるのかを、よい機会だから全世界の小学生、中学生もまじえて、みんなで討論すればいい。そのための国連だと思うし、国会だと思う。

『内輪ノリ』と『おもてなしのこころ』

通勤で使っている道を、聖火が走ることになった。
勤務校の近くでもあるから、わたしは正直、わくわくしている。
約1万キロ離れたアテネから、はるばると海を渡ってオリンポスの神々が宿る聖火がこの地に運ばれてくることを思うと、幼い時に「学研まんが」でこの事実を知ったとき以来の愉快さを覚える。
自分の目では、実際に聖火をみたことがないし・・・

で、聖火が走るのが数日後であることを知り、職場でその話をしたいと思いながら通勤した。
ところがだ。

「だれもそんな話しとらーん」(磯野波平の声で)

そもそも考えてみると、この町自体で、ほとんど盛り上がっていない気がする。
広報誌には掲載されていたものの、街にそんな雰囲気があまり感じられない。
「聖火がここを通ります!」みたいなお店の看板や広告も、ほとんど・・・見ない。
この町の人は、市役所の人(それも担当者のみ)以外、そのことを気にしていないんじゃないか、と思うくらい。

とうとう我慢できず、退勤する時間の間際になって、
「五輪の聖火が通りますよ」
と話題にしてみたら、話しかける方みんな、気の毒そうな顔になり(!)
「それで混まなきゃいいんだけどね。じゃ、さよなら」
と、まったく意にも介さない。あげくは交通事情の心配だ。
これではオリンポスの神々に対して、顔向けができないではないか。
せっかく凹面鏡で太陽神(これはゾロアスター教の流れを汲む)が意図してつけてくださる火なのに・・・神の火ですよ!?そんなのめったに見られないのに!

しらべてみたら、全国的にそんな感じらしい。
どうもスポンサーである企業や関係者だけの「おまつりさわぎ」になっているようで、
こういうのをさして、
『内輪ノリ』という。

内輪ノリは、基本的にきらわれてしまう。
仲間外れにされる、という人間の基本的な感情のマイナス面に働きかけるからだと思います。

つまり、聖火がこんなに愛されないことになってしまったのは、
「内輪だけで盛り上がる」ことになっちゃうからでしょう。
逆説ですね。周囲を巻き込もうとして『関係者』が盛り上がった状態を見せていると、ますますそれが「内輪だけの」ものにみえてきてしまい、さらに周囲が引いていくという・・・。

スポンサーは、派手にやればやるほど、訴えかければ訴えかけるほど、周囲から
「なんだあれ、内輪だけでノってやがる」
と思われて、意図とは真逆に「きらわれる」のであります。
コカ・コーラはもう方針を変え、でかいトラックも廃止して、山伏の修験者みたいな格好になって世を忍ぶ感じを出した方がいい。逆に、ひそかに、目立たぬように、決して内輪でもりあがっているのでありません、という体で声を忍んで夜中の2時くらいに走るようにした方が、好感度をとりもどすことになるでしょう。

そうすると、いかにも神の火を扱っている感も出るし、修験道の厳しさや、「おのれのための修行」感も増してきて、神々しくもなってくる。その修行のバックスポンサーがコカ・コーラ社だと知れば、なかなかコーラもやるではないか、という評価になると思う。

さて、内輪ノリを防止する、というのは小学校教師にとってはぜったいに身につけなければならないスキルでもあります。クラスの中に、内輪ノリをつくってしまってはいけないからです。
そこで、担任はつねに、教室に入るや否や、すばやく目を室内にめぐらし、
〇ひとりでいる子はいないか
〇表情の暗い子はいないか
〇ふだんと雰囲気が異なる子がいないか

などを感じ取らねばなりません。
そして、すべての子に、「あなたを気にしていますよ」というサインを送ります。

〇「なにしてるの?」と楽しそうに話しかけたり、
〇その子の好きなテレビ番組の話をしたり、
〇その子の飼ってるペットの様子を気にして話したり、
〇なにも話題がなければTシャツのプリントの文字を和訳して「いい服だねえ。いいメッセージが書かれてる」とほめたり

します。
そこからが本番で、そのことを、周囲に広げます。

「ねえ、Jちゃん、ワンちゃんの散歩で昨日、〇〇くんと会ったって。〇〇くんのところの犬の方が大きいんだよね。みんなえらいねえ、ちゃんと世話して」

というようにして、その話題に『反応してくれそうな』数人に、まずは話してみます。
しばらくその話題で場をあたため、徐々に教室内の温度を、0.1度きざみで上げていくのですね。

そうすることで、内輪ノリを防ぎます。
〇〇ちゃんの飼っている犬がどんな行動をとったのか、10分後にはクラスのみんなが知っているように願って。

『内輪ノリ』で盛り上がれば盛り上がるほど、周囲の子たちから冷ややかに見られてしまう、という高学年”あるある”の日常は、こうして担任が少しずつ減らしていかないといけません。
微々たる努力ですが、1年間積もり積もると、なかなかのものです。
配慮したクラスと、配慮してこなかったクラスとでは、大きな違いが出てきます。

小学校の教室、という小さな場でさえ、毎日のように話題が変わり、毎日のように新しい情報が「上書き」されていくのです。
五輪という大きなイベント、火を燃やし続けるというオリンピックならではのナイス・アイデアにのっかろうというのですから、スポンサーの各社は「聖火」に関して、自分たちだけ盛り上がっている雰囲気、というのを廃し、あくまでも

「今の日本に暮らす大多数のひとびと、市民、世間一般の庶民の暮らし」

というものに目を向けて、メッセージを発していかないと、ますます嫌われてしまうことになりはしないか・・・

わたしは、大きなトラックが派手な色づかいで大きな音を出しながらパレードするよりも、
修験道の行者が、夜中にやまぶしの恰好で、わらじをひたひたと鳴らしながら市内をまわり、

〇ギリシャはアテネの太陽神がもたらす聖火 と
〇山伏の聖地・那智の滝から運んできた水 とを組み合わせて持ち、


コロナの火が消えますように、と願ってそっと聖火を吹き消してみせたり、静かに夜中の3時に静かにイベントを終えたりした方が、より好感度が上がると断言したい。
だって、国民みんな、心配してるんだもの。五輪でその心配を消すことはできない(火は消せても)。楽しみを得たいか心配をなくしたいか、と聞かれたら、心配の方を無くしたいんだよね、国民って。(お祭りで盛り上がるのもイイけど、心配ごとがあるうちは、なかなか正直、盛り上がる気分になれないのが人の感情というもの)

根底にあるのはただ一つ「おもてなしの心」。
これに尽きますね。教師はこれを忘れてはならない。

seika

「タブレット端末を家に持ち帰る」で職員室大論争

卒業式が終わり、いよいよ職員室は戦闘モードに突入した。
これから学校の公的文書の中では最後の砦と言われてきた、「要録」づくりが始まる。
それと同時並行で、
〇どの先生が異動になるか
〇その先生の仕事をだれがどのように引き継ぐか
〇そもそも次年度の校務の分掌はどのようにするのか
〇備品の紛失はないか
〇教科書をどの部屋において、チェックするのはいつか
〇教室は来年度どの先生がどのクラスがどのように使うか
など、多岐にわたるチェックと大引っ越し作業がはじまるからだ。
なんせ、異動だけで十名を超える。
小規模な学校だと約3分の1が異動である。学校が変わる先生も大変だが、残る先生も引っ越しだ。2階から3階へ、というだけならまだしも、別の棟や建物に引っ越すとなると、なかなか大変だ。

愛知県内を東西南北くまなく異動した経験から、引っ越し大名、と言われるS先生が、途方に暮れたような声で
「あの荷物、どうやって引っ越そう」とぶつぶつつぶやいており、周囲の先生たちから失笑を買っている。
S先生は独自に作成する教材教具づくりのプロであり、その教室内での実践は子どもたちからも人気があってすばらしい。ところがいざ今日になってみると、それらは宝物ではなく、ただ単に引っ越しをしにくくさせる厄介な荷物に見えているようだ。

さて、そのさなかに「職員会議」と呼ばれる御前会議が10くらい計画されており、そのつど、次年度のための非常に重要な決定がされていく。次年度は、ほぼここで出された線で、実行されていくのだ。
「3月の時点で、方向が決まっておりました」
というのは、どの先生も使う、いわば伝家の宝刀だ。年度途中でさまざまな意見が出てきても、最終的には担当の先生がこの時期に出した「この方向」と呼ばれる答申が職員会議で承認されていたら、どの先生もそれに従わざるを得ない。

頭の中は、しっちゃかめっちゃかである。

目線の先には引っ越しの荷物が見えており、頭の中は次年度の運動会のことを考えており、ところが参加している職員会議ではGIGAスクール構想について議論している、というのが、今、全国の多くの小学校でもくりひろげられている実態だろう。小学校は全国に2万校ある、といわれており、教員は40万人いるらしいから、その40万人の中の半分は、こうして目線と頭と会議が乖離していると思う。(個人の印象にすぎません)

さて、今日はひさびさに血沸き肉躍る大論争がもちあがった。
GIGAスクール担当の私と、職務上それを進めざるを得ない教頭が矢面に立ち、一斉攻撃を受けた。

実は、市から、

「今度くばられるタブレット端末を、家庭に持ち帰って自主学習などに使え」

という指針が出されている。

ところが、これが職員室に火をつけた。

「1年生が無事に持ち帰れるとは到底思えません!」
「1年生の中には、ランドセルのふたをしめないでひっくり返している子が日常的にいます!」
「田んぼの中に落としても無事なんですか?防水とか?」

tanbo


わたしはおどおどしながら体を揺らし、前かがみになって手をもみ、

「いえ、防水ではありません。田んぼに落としたら、その時点で故障確定、電源は今後いっさい入りません」

というしかない。
そのあまりに無責任な回答に対し、おおー、というどよめきが起きる。
あちこちの島で「無理よねえ」「こんなの許せない」というつぶやきまではっきりと聞こえてくる。
わたしは追い打ちをかけるように、

「ええ、持ち帰ってもし使ったとしても、充電ができない、という問題があります」

教頭がうらめしそうに私を見る。

「なぜなら、家庭には充電ケーブルは配られないし、電気代がかかることに嫌悪感を示すご家庭もあるだろうと思います。また、無線LANで接続できるはずですが、おうちでその設定をしなければならず、無線LAN機器のSSIDと呼ばれるパスワードを入れたりとか、一定のご負担をご家族にお願いすることになります」

「それを、児童全員に強制する、ということでしょうか!」

定年近い年配の先生は、ほとんど怒声に近い声でそれを言う。

「そんなことを、勝手にこっちで決めてしまっていいんですか?第一、保護者にはなにひとつこういった説明をしていないじゃないですか!」
「無線LANがある前提のようですけど、みんながみんな、そうじゃないですよ!」
「そうですよ、保護者の中には、そんなこと聞いてないよ、という人も多いと思いますが!」

わたしは目線を下げ、ほとんど腰を曲げて、その怒声をうやまうようにして聞く。

担当者というのは、こういうものだ。
ちらっと、テレビでこういうの、見たことあるな、と思う。
政治のしりぬぐいをさせられる官僚が、こうやって頭をさげているのを見たことがある。

「とにかく、タブレットを家に持ち帰る、なんていうのは、現段階では保護者の同意がない限り、学校側で勝手に決めてしまうことではないと思います!」

ほとんどの先生がそれに賛成だった。
わたしと教頭は、引き下がった。

さて、どうなるのだろうか。

鄧小平が「富める者から豊かになれ」と指示したのが先富論であった。
しかしそれは巨大な格差を生み、中国はいまだに人口の半分以上が貧困に悩んでいる。
李克強首相が掲げる経済政策で、貧困層を救う「リコノミクス」が提唱されるが、それも遅々として進んでいない。おそらく、富んだ者が社会全体を親愛の情で見つめる、というのは理想に過ぎない。富んだ者は自身がつかんだ経済的な富は、競争の中で勝ち取ったと理解する。それは、弱者を切り捨てる、ということと同義だからだ。

写真は、リコノミクスを掲げる李 克強(り こっきょう、り こくきょう)首相。
RIKOKKYOU


タブレットを学校に配備し、児童が使えるようにする、というのは、必要なことだと思う。
しかし、あまりにも、そのことを進めるための、地盤整備が遅れている。

「えっと、新間先生、その場合、家庭に『充電ケーブル』を配るんですか?」

わたしは、それを聞いたとき、とっさに充電ケーブルをアマゾンでポチりたくなった。購入数のところを、「500」にして。

五輪開催できる根拠を動画で説明してほしい

日本という国は、基本的には絵画を大事にしてきた国だと思う。
平安時代は日本風の絵画が飛躍的に発展した時代だった。
有名な技法である「吹抜屋台」は、絵巻の画面展開が地平を斜め上から見下ろす構図をとって描かれている。そのため、舞台が室内であったとき、その様子を表せないので、建物から天井を取り払って描く。絵画はその後も江戸時代、明治大正昭和平成と、どの時代でも愛されてきた。

ところが武士が活躍する鎌倉時代だけは、様子がちがう。
絵画よりも彫刻が愛されたのだ。
絵画というのは主に屋内にある。一方、当時の武士はもっぱらアウトドア志向である。
武士には家の中でじっとして絵をみるというスタイルは合わなかった。野良仕事の帰りに、あるいは馬を駆って行くところに彫刻があれば見る方が好まれた。

土台、文字が読める武士はほとんどいなかった。室内で絵画をみながらその説明を受けるというほどリテラシーが整っていなかった。説明を受けるよりも、直感的に一目(ひとめ)で見て、すぐに理解できる彫刻の方が、性(しょう)に合っていた。

そのため、仁王像の顔は、怖くなくてはならなかった。
何よりも、わかりやすさを求められたからである。
門番のように立っている仁王像をみて、

「ああ、この人は怖い人だ。いうことを聞かねばなるまい」

と思わせなくてはならない。
だから万が一でも仁王像は、赤子をなだめるような優しい温和な顔つきをしていてはいけなかった。

あるいは空也の像のように、旅の姿をした坊様の口元から、ほとばしるように念仏が放出されているような演出が必要であった。それをみればすぐに誰でも、

「ああ、この坊様は、旅をして歩きながら念仏を唱えられたのだろう」

と理解できたからである。
このように考えると、鎌倉の時代は、なによりもリテラシーの低い民であっても、ひとめで理解できるようにと宗教家や為政者が心をくだいて、わかりやすいように、わかるように、と努力したことがわかる。

現代でもそれは同じである。
書物を読まなくなった我々の目の前に、スマホが登場した。
スマホの動画をみて、直感的に理解したいと思う人が増えた。
社会全体が、文字よりも、説明よりも、言葉よりも、動画、がよりふさわしいと考えるようになった。今の時代にユーチューバーがもてはやされるのは、動画が鎌倉時代の彫刻のように、直感的でわかりやすい、とされているからだ。

さて、東京五輪が開催できるかどうか、で世論が割れている。わたしにとっても他人事ではない。
なぜなら、来年の修学旅行の計画を、もう立て始めているからである。
私と同じような立場で、来年の夏の行動を確定しなければならない人が、世の中には大勢いるだろう。この企画にGOサインを出してよいのかどうか、と気を揉んでいるに違いない。

そこで、動画の出番だ。

五輪は開催できる派の人に、お願いしたいことがある。
それは、五輪が開催できる、という根拠がよく理解できるような動画をぜひ作ってほしい、ということだ。五輪が開催できない、という方にも、それがよくわかる動画を作ってほしい!
というか、本当はそれを政府がやるべきだ。国民が選んだ国民の代表ということになっている人たちが、それをやらないと、国民が迷っております。私のように、ね。

五輪がどんな雰囲気で、みんながどんなマスク姿で、選手がどのタイミングでマスクを外すのかとか、宿舎での食事風景とか、スタッフの手洗いの様子とか、万が一感染した場合はどの病院が受け付けるのかとか、無観客だとどんな雰囲気なのかとか、金メダルをつくる方法とか、税金がどのように使われるのかとか、五輪終了後、競技場がどんなふうに活用されるのかとか、地下鉄がどのくらい込みそうなのかとか。選手は選手村と練習場以外の行き来ができないようにするというが、その様子を、とか。

そういうのが、鎌倉時代の仁王像くらい、わかりやすい動画で説明されるようにしてほしい。
そうでもしないと、鎌倉時代に武士が「死んだら浄土へ行ける」と喜んで戦ったようにはならないと思う。選ばれた少数のアスリートだけでなく、日本の全国民がある意味、戦うことになるのだから、政府はこのくらいの努力をしてほしい。

「わかりやすい」は危険な面もあるが、やはり世論を動かすと思う。
なによりも、丁寧な説明が欲しい、と多くの国民が思っている。
五輪はやれるのか、やれないのか。
ていねいな、説明を。ぜひ、動画で。為政者のみなさん、お願いします。

tv_video_hensyu

丁(てい)ポイントからのシルバーポイント

レジで金を払おうと待っていた。
目の前は、腰の曲がったおじいさんであった。
一瞬、隣のレジをチラ見したけど、そちらもすでに並んでいた。

おじいさんは現金で代金を払おうとしていた。
わたしは頭の中で、次の社会の授業の展開を考え始めた。
「水産業は終わったから、工業の1時間目だな。さてどうすっか」
いつも、レジで待つときはこうすることにしている。

レジの会計係は、大学生らしきお兄さんであった。
小柄だがシャープな眼鏡をかけたイケメンで、そのまま仮面ライダーの若手俳優になれそうだった。

若いお兄さんは
「Tカードをお持ちでしょうか?ポイントがつきます」
と言った。

その瞬間、目を細めて小銭入れをまさぐっていたおじいさんの手が止まった。

チッ

私は心の中で舌打ちをした。
「余計な情報を・・・おじいさんTカードなんて持ってなさそうだろ」

おじいさんは手の動きを止めたまま、
「丁カードは・・・どうだったけかな」
とつぶやいた。

その様子を見て、わたしの後ろの客は、素早く隣のレジに移動した。
カニのような横移動
見事なくらいで、わたしもすぐにそうしたくなったほどだ。

ところが、私の耳に残った、イントネーションがそうはさせなかった。
おじいさんは、

T(ティー)

とは発音しなかった。

かっこよいほどにクリアなボイスで、

「丁(てい)」

と発音したのだ。

わたしは何事ならんと興奮し、その続きを聴くためにそのままそこに残ることにした。
脳内で、なにかが点滅し、「・・・ブログに書けるぞ、書けるぞ・・・」と繰り返したからである。

「丁(てい)カード」

おじいさんの見事な発音を聞いていると、本来はこっちだったのか、という錯覚さえ起きそうだった。

ちなみによく言われている道路交通法上の「丁(てい)字路」というのは、ただしく「丁(てい)」である。
それをたいした知恵もない若輩者がなにをとりちがえたのか「T(ティー)字路」だと勘違いした。今では国民の約半数が、T(ティー)字路と思っているそうだ。しかし、あくまでも道路交通の法規上は『丁(てい)』。さすが、昭和20年代に策定されただけのことはある。

さて、おじいさんは
「丁(てい)カードはどうだったっけか」
とつぶやきつつ、何かのカードを取り出した。

「いえ、こちらはカインズの会員カードですね」
にべもなく、突き返す若い店員。

わたしはその態度にむかついた。
一緒に探してあげるとか、なにかもうちょっと人間らしいあたたかな心遣いがあろうに。

おじいさんは狼狽した様子でさらに次のカードをレジのトレイに置いた。

「こちら、どこかのクリーニング店のカードですね。Tカードは無いでしょうか?」
スマートな眼鏡の奥で、冷たい目線をいささかも動かすこともなく、店員は言い放つ。

おじいさんはめげずに、
「丁(てい)カードは・・・。はて、ばあさん何か言っとったかナ・・・」

レジはしばらく時間停止状態となった。
おじいさんはロダンの彫刻のように動かず、立派なことに若い店員も見事に停止していた。
ついでに私も目の前のリアルな動画に興奮し、心臓以外は停止していたと思う。

やがておじいさんが三度目に取り出したカードは、どうやら本物のTカードらしかった。
わたしだったら、どうしたろう。
「素晴らしい!お客様、やっと丁(てい)カードが出ましたね!」
と歓喜の声を上げるのではなかろうか。

ところがその冷静沈着なスマートお兄さんはやはり動ぜず、そのままシャッと機械に通し、秒でカードを返した。

さて、ようやく現金払いの儀式にうつることができる。

現金をふたたび探し始めたおじいさん。今度は、『釣り銭を減らす行為』に出た。

「いくらだったかいね?」
「1421円です」


青年はひとことも無駄口をたたくことがない。
「そうですね」もなければ「はい」という合いの手も無い。
よく訓練されたレジマシーンである。
しかし、今はその方が何倍もありがたい。

「ほんなら、21円を出そうかなあ」
おじいさんは指で小銭入れをかき混ぜながら、ゆっくりと言った。
すると、上記のセリフを言い終わるか言い終わらないかのうちに、レジマシーンの見事な技がくりだされたのである。

「Tポイントで21円を出せますので小銭は要りません」

そのとたん、
シャキーン
どこかで、金属音が聞こえた気がした。
そして、青年の四角い眼鏡の縁が、一瞬、まばゆく光った。

彼は活舌が良い。おそらく市内で五本の指に入るくらいだろう。
だから、この長いセリフをたったの1.5秒ほどで言い終えた。
わたしも、かろうじてその前半が聞き取れたくらいだったから・・・。

さて、そのおじいさんには聞き取れなかったのだと思う。
速すぎて。
もしかすると、最後の
「小銭は要りません」
だけが聞こえたのかもしれない。

おじいさんはとたんに相好を崩したような表情となり、
「えええ、ほんまか。ありがとう、ありがとう」

青年はすぐに、じいじから札を受け取り、瞬く間に会計を終えた。

「はい、次の方どうぞ」

にこっとして、彼の白い歯が見えた。
わたしは一瞬、彼を抱きしめたいような気持ちにさえ、なった。

おじいさんは弁当をもち、よっこら、よっこら、と歩きはじめる。
わたしの会計はもちろん丁ポイント。スマートに会計を済ませ、若者の笑顔に送られた。

さて、おじいさんがカードを何枚も持たねばならないのは大変なことである。
ここで提言したい。
日本国民は還暦を過ぎたら、
〇丁ポイント
〇dポイント
〇ポンタ
〇WAON
などはもちろん、マツモトキヨシもビックカメラもナナコポイントもすべて、気にしなくても良いようにしたらいい。
すべて、還暦カード(シルバーカード)に統一するのである。
どの店でも、還暦をすぎたらそのポイントがつく。
そして、そのポイントを使えば、いつでも買い物の会計額のうち、10の位と1の位が、00に自動的にそろうのである。

そうしたら、還暦すぎると買い物が楽でしょうがない。
政治というのは、国民生活のためにあるのである。
だから、政治という仕組みをそうやって便利に使うべきだろう。

ということで、還暦カードのデザインを募集中です。
どしどしご応募ください。
わたしのクラスの子(現在5年生)が、将来の夢で総理大臣になる、必ずなる、と断言しております。なので、一応今からそのように頼んでおきます。いずれ実現するでしょう。間違いない。
(同時に、Tカード丁カードと呼んでよい、という法律もつくってもらいますネ)

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小学生は自治体験を積むが大人になったら忘れる件


前回の記事について、BLOGのメッセージ機能を使って、コメントをいただいた。
コメントをいくつか読む中で、あらためて次の疑問がわいてきた。

大人になったら、どうして「話し合い」ができなくなるのか。

子ども時代に「話し合い」を体験し、クラスの運営について経験を積んだはずだ。
自治についての困難さもわかり、責任や言論の重さもわかったはず。
そして、なによりも、「だれかに服従するのではない自由さ」の良さ、そして「仲間とともにつくりあげていく社会のだいご味」を知った。

「自分たちが仲間であり、仲間は知恵をだしあうことができる」ということ。
そして、「仲間の知恵が危機を救い、その知恵と相手を思うやさしさが、自分をこんなにも元気にしてくれる」ことを知った。

パワハラ体質の先生の言うことに服従するのではなく、自分たちお互いを一人残らず良くするための知恵を出して、自分たちが解決していく心地よさは、なににも代えがたいことを知ったはず。

ところが、大人になるとどうしてそれができなくなるのか。

土曜日の朝から、遠くの山をみて、いろいろと思いつつ、気づいたことがある。

「大人は自治をさぼっているからだナ」

小学生は、毎日、自治を現実にすすめている。
なによりも、クラスという35~45人の組織があり、構成員はすべてが仲間意識でつながっている。一人残らず発言が許され、その発言はお互いに尊重しあって、みんなが聴きあう。

また、クラスだけのことであれば、すぐに、アイデアが生かされる。

給食の配膳に関して、疑問点が出されたらすぐにそれを解決しようとする。
解決するためのアイデアが出されたら、それをすぐに実行しようとする。
また、実行したら、次の日に「やってみてどうか」をすぐに意見交換しあう。

このくりかえしをしているから、どんどんと生活が、具体的に変わっていく。
この、ダイナミックな生活の実体験があるから、手ごたえがあるから、子どもはみんな、やる気に満ちている。だって、自分の意見がすぐに通るんだもの。あるいは、みんなが聞いてくれるんだもの。そしてどんなアイデアも、「言わないよりは、言ってくれた方がいい。どんな意見も、あとでみんな財産になる」という考えのもと、全員に笑顔で迎えられるのだから。

この自治の実態があり、それをまさに実現しているという具体的な

腹の底からの実感

があるから、子どもはみんな、自治を全身全霊ですすめている。

ところが、大人にはそれがない。
だから、大人になると、

「話し合いはダサい」

と考える人が徐々に増えてくるのではないだろうか。
そして、具体的に目の前の事実や生活のこまごましたことを話し合うよりは、なにか大きなイメージやふわふわした幻影を夢想するようになるのではないだろうか。

これを打破するには、小さな町や村などの単位での、自治意識の高揚が必要だ。
しかし一般の行政区割の上での、村や町は、すでに緻密なシステムでがんじがらめ。
だからそれ以外の、コミュニティ意識が芽生えてくるような、ゆるやかな地元意識を大切にしたつながりをつくるべきだ。
今の公民館では、なかなか難しい。今の公民館はすでに既存の仕事でいっぱいだから・・・。

今の公民館とは別の、ニュータイプの

ジェネラル・パブリックのための広場、学び舎。

これをあちらこちらに乱立させよう。

そうすれば、夢見がちな「ニッポンすごい。オレは日本人だからオレもすごい人間なのだろう」という雰囲気は解消し、足元にしっかりと根付いた、等身大の自分や、実際の自分自身の生活に向かい合い、話し合うことのできる人が増えてくるのではないだろうか。

「自治ができないのはダサい」

という雰囲気が、小学生の生活には、かなりむんむんと、ありますよ。

祇園絵

「頭つかって考えるとか、ダサくね?」という風潮

学校というのは、なぜこんなにも嫌われるのだろうか。

いや、わたし自身も、自分が中学生だったころの一時期、学校が嫌いだったこともある。

「頭をつかってしっかり考えたいのに、考えないのってダサいしつまらない」

と、常々、思っていた。
だから、思考停止している学校の生活が、いやだった。

どのへんが思考停止かというと、

「そうじをしろ!」

という感じかな。

ただ作業しろ、という圧迫されたような感じがしたのです。
頭はいっさい使わず、思考するのを放棄して、ただ作業しろ、とパワハラ風に迫る。
これは嫌でした。

わたしが特にいやだったのは、ただ「そうじ、やれえぇッ!!」とヒステリックに叫ぶ教師。
思考停止のように見えた。
わたしがそんな話をすると、仲の良い山田くんは、「本当にそうだ」と賛同してくれていた。
おまけに、澤井君も、吉川くんも、みんな
「そうだそうだ。あんな思考停止したアホな教師はいやだよな」 と賛同してくれた。

つまり、世の中には、「思考停止は嫌だ」と考える人が、一定数の割合で、いるようである。

しかし、だ。
逆の考え方をする人も、いる。
詳しく言うと、「頭を使って考えるとか、ダサいよね」というタイプ。 さっきとは、真逆です。
この風潮も、今の日本には、かなり多くあると思うナー・・・。

たしかに、居丈高に「気候変動がー」とか「今の社会はー」とか言う人がいて、ふんぞり返って偉そうである。高慢ちきにみえる。その人たちの特徴は、ともかく高慢な感じである。そういう人たちが、「頭を使っている雰囲気」を得意げに披露しているのを見ると、

「頭つかってしゃべるのとか、政府のことをとやかくいうのとか、ダサくね?」

と思ってしまうのもわかる。


整理してみよう。
今の世の中は、次の2つに分かれる。

1)「頭をつかわないのはダサいよな」派
パワハラ親父風が大嫌い。「思考停止」も大嫌い。ともかくまっすぐ突き進むタイプが大嫌い。
話し合いが大事で、どんなことも話し合いで進めなければ納得しない。
話し合いをしないのなら、幸せになるわけがない、と考える。
(真の民主主義でこそ幸せになる。見た目や形よりも気持ちや精神性の自由さ、豊かさが大事)

2)「頭をつかうのはダサいよな」派
高慢ちきなインテリ風の「やたら早口」で、なにかにつけて「ちゃんと話し合えばいい」というタイプが大嫌い。
話し合いだけで幸せになるわけがない、と考える。
(民主主義で幸せになるわけがない。もっと見た目や形が分かりやすく豊かにならないと)

これらの2つのタイプがいて、
お互いに、相手のことを責めているようだ。
一方がもう一方に対して、「話し合いをしろ!」と責め、
責められた方は、「話し合いをしても幸福にはならん!」とかたくなに拒む。

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本ブログの筆者であるわたし、新間草海としての見解をのべるとすると、

どちらも惜しい。

わたしは、小学生が正解だと思う。

小学生は、パワハラ親父風に結論をともかく押し付けようとする、なんてことはない。
クラス会議でも、そんなふうに押し付けて押し切っていこう、という態度をとる子は、まぁー、ほとんど、皆無です。国会議員が研修で見に来る方が良いと思うね。

もうひとつ、やたら早口で結論をまくしたてる頭よさそうなインテリ、もいません。
みんな、ゆっくりです。当たり前ですが、俺だけが正解を知っている、お前ら馬鹿どもに教えてやる、というふうな子は、一人もいません。

小学生は、ゆっくりと、じっくりと、結論を急がず、でもたしかに毎日のように前進します。
ともかく、一生懸命に考えることに価値をおくのです。そして、より良きをさぐり、まず、だれかいやな思いをしたり悲しかったりする子はいないか、と考えるのです。「〇〇ちゃんが泣いているよ、どうしたんだろ」というのは、小学校生活では本当に大きな事件なのです。

そして、結論を急げ!というような、外野の声には耳をかしません。
小学校では、締め切りがどうこう、というのはありませんから。
あわてたうえに、結論がこれだ!と興奮して思い込んで、
あとで悔やむなんてことは、人間が何度も繰り返してきたことです。

だって、思い込んで間違っていたら、引き返さなければなりません。
人生、よく「あるある」なのです。
オーストリアとオーストラリアを間違うことなんて、頻繁にあるのです。

急げ!と成田からオーストラリアに向かったところ、あとで

「いや、ちがうって!目的地はオーストリアだよ!!」

と言われたら・・・。

そういうことばかりです。人生は。
もしそうなったら、再度引き返すのですぞ!コアラとカンガルーのいる大陸から、急旋回で一路ヨーロッパをめざす!
もうそりゃあ、タイヘンですよ!!
おまけに、大損ですよ。コストがかかりすぎます。
しかし、多いのです。こういうことが。
原発しかり、五輪しかり・・・。

だから、結論を急げ、と言われても、慌てないのがいいのです。
まだじっくりと航空チケットを見直したり、本当に古都があるのはどちらなのか、音楽の都はコアラのいるオーストラリア大陸なのか、それともヨーロッパの方なのか、きちんと考え直しながら行動した方がよさそうです。

「オースア」のオーストリアなのか、
「オースリア」のオーストラリアなのか?
自分が行くべき先は、鳥(トリ)なのか虎(トラ)なのか、どっち?

しかし、大人になってしまったら、もう話し合いなんてしている暇はないようです。
じっくりゆっくり考えるなんてことは、大人になってしまったとたん、もう無理!
GOTO政策も、ポピトンヨードの感染予防効果も、世界の気候変動も、閣僚の靖国参拝も、黒塗りの議事録についても、桜を見る会も、教育勅語の暗唱指導をしていた某幼稚園についても、とにかく『熟慮』『話し合い』なんてしている暇はありません。
ですから、政治がこれだけ混とんとしているのでしょう。

仕方のないことなのかもしれません。
子ども時代は、少なくとも、じっくりと「話し合うこと」をさせてあげたいと思います。
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水木しげる「総員玉砕せよ!」について

ネットのニュースをたまたま見ていたら、
靖国神社で軍人の格好をしているおっさんたちが目にとまった。
無意識に、「総員玉砕せよ!」の水木しげる二等兵の姿をさがしてしまう。
水木さんはいなかったが、人はそれぞれのやり方で、醜悪な戦争をふりかえるのやなあ、と感心した。

さて、ご存じの通り水木さんは個性の豊かな人で、戦地に行ってまず絵を描こうとした話は有名で、上官に呆れられるのですが、世界中でこういう人はいたようですナ。フランスの作家、アルフォンス・アレー(Alphonse Allais)もまた、戦地を戦地と思っていないような態度でのんきに暮らしていたため、上官に怒られたそうだ。

わたしはこの話が好きなのは、子どもも同じような子がたくさんいるからで、教室を教室を思わず、授業中を授業中と思わず、好き勝手に寝転がったり、あくびをしたり、ムシと遊んだりする子はたくさんいる。わたしは呆れるのだが、昆虫の好きな子は、やはり、足元に虫などいたら、掃除中でも箒などほっぽりだして、掃除も忘れて昆虫の背中の羽の色に夢中になるわけです。

コスプレするおじさんたちも、水木しげると同じでしょうね。
水木しげるは、南国の珍しい景色をみたら、スケッチをせずにはいられない。同じように、靖国神社のコスプレおじさんたちは、コスプレの魅力にはまってしまっているのでしょう。やらずにはいられない、という感じ。毎日やるわけにもいかないから、終戦記念日、という大義名分がつけられそうな日をチャンスにしているのでしょう。

さて、授業中にムシに夢中になっちゃう子について、わたしは決して放置はしません。
こころのなかでは、その子らしさを十分に面白がっているのですが、そんなふうな担任の心中は知らせません。
どうするかというと、シンプルですが、今の時間の目的はなんだったか、と振り返ります。
授業は1時間ずつ、その時間の目的と目標があるので、算数なら「今日は、合同な四角形の書き方を明らかにする、だったよね」と、確認します。
たいていは、それで授業に向き直ってくれます。
集中してないなと思ったら、それなりの個別フォロー、全体への指導の時間配分などを変更します。

水木しげるにも、上官が目的を話したでしょうね。わたしと同じように・・・。


上官「馬鹿モノッ!」
しげる「はっ」
上官「ここにお前は何をしに来たんだ!」
しげる「はっ。こんなところへは二度とこられませんので、スケッチをするためであります!」
上官「馬鹿モノッ!鬼畜米英との戦いに来たのだ!米国の兵士と戦うためだっ!」

しかし、合同な四角形の書き方をマスターしよう、というような目的ならわかりますが、戦えといわれても、なんで戦うんだ?というのが水木しげる先生のホンネでしたでしょうね。

しげる「上官どの!なぜ戦うのでありますか!」
上官「馬鹿モノッ!南方を押さえねば、資源が手に入らないではないか!」
しげる「上官どの!なぜ資源が手に入らないのでありますか!」

これ、授業でも扱う場面ですが、なぜ太平洋戦争をはじめたか、という理由には、教科書にも「資源を手に入れようとした」と書いてありますよ。ただし、手に入らないから、という理由はまちがいです。資源はありました。しかし、「余計にほしいと考えた」からですね。東南アジアの資源を、ただ同然で、自国のものにしようとしたからです。

まあ、目的なんてのは、大人でもこうして見間違えたり、勘違いしたりしやすいのですから、常に熟慮しておかねばならないというわけです。

ただし、コスプレには目的なんてものはないでしょう。ただ、あの恰好がしたい、あの服を着たい、という、やらずにはいられない、という心性に突き動かされるようにして、靖国神社へ集っているのでしょう。

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【GIGAスクール】ZOOMでの授業の前に

文科省が前のめりで導入しようとしている【GIGAスクール】。
2020年5月11日 学校の情報環境整備に関する説明会が

YOUTUBEで紹介されるや否や、全国の教員に衝撃が走っております。

ところで今、コロナ禍のピークが過ぎたという印象がマスコミを中心につぶやかれるようになり、学校も都道府県によっては再開されつつあります。
文科省がGIGAスクールを唱えたのは時すでに遅し、ということでしょうか?
いや、そうではありません。むしろ、このタイミングで出さなければなりませんでした。もしもここで手をこまねくか、あるいは安心して無策になってしまったとなれば、次に来るパンデミックに対応できないからです。

遅かれ早かれ、GIGAスクールは実施されるでしょう。そして、教員はそれに対する【備え】をしなければなりません。

わたしはその備えとしてもっとも大切にすべきだと思うのは、今の授業の改革です。
すでに改革は始まっており、(実は、もう10年以上前から始まっていると思う教員が大多数だと思いますが)その改革をし終えなければならないことが、今回のコロナ禍によって明らかになったのだと思います。
その改革とは、「学びは子ども主体であること、子ども発で考えること、子ども発のプロジェクトになること」です。実は、そのことと、個別である、ということが、イコールにはなりません。ここが難しいところです。

子ども主体で考えることは、子どもを個別にするとは限りません。むしろ、子どもの脳が活発に「思考」をめぐらせるためには、個別であるよりも、同じような点で疑問を持つ仲間が必要になります。教室で一斉授業をするメリットは、この「同じような課題を共有できる仲間と息を合わせるようにしてダイナミックに思考をめぐらせる自由さと楽しさ」にあります。次の「学び」へと向かう意欲は、この「仲間と共に考えることの楽しさ」が背中を後押しすることが多いのでしょう。

ところがパンデミック時においても、そのダイナミックさを少しも損なわずに実現することに、まだ多くの教員たちは自信をもっていないと思います。各家庭の子どもたちとともに、思考発展の自由さや楽しさをけっして無くさないで、授業を進めるという点について、オンラインでの経験が少なすぎます。(オンラインでの経験のない教員がほとんどです。特に公立小学校では・・・)

さて、ここからは長年小さな会社を経営してきたわたしの叔父に登場してもらいましょう。
わたしの叔父はすてきなロマンスグレイのわりとイケメンなスポーツマンです。
10~15人程度の小さな事務所を経営し、なによりも従業員の家族も含めて非常に家族的な経営をしてきた方。自分の給与を減らしても家族同様の従業員に渡す給与を1000円でも多く、と心がけてきた、今の日本に非常にたくさんいると思われる典型的な70代です。

ときおり、日本の政治についてや社会情勢について話し合うので、今回もその叔父と話しました。

叔父「GIGAスクール、大至急進めてほしいものだね。子どもが家にいたとしても、勉強できないわけじゃなかろう」
わたし「本当にそうです」
叔父「とくに勉強ができる子なんてのは、どんどんと課題をこなして進んだらいいじゃないか。この際、飛び級も認めたらいい。政治だって自由な特区をつくって今までの利権構造を打破しただろう。やる気のある子はどんどん飛び級させろ」
わたし「叔父さんは飛び級が大好きですね。それは置いといて、子どもたちは仲間と共に学んでいくのですから、GIGAスクールで自宅での学習ができるようになったとしても、今の学級やクラスの枠組みは同じですし、仲間といっしょに知恵をしぼって考えていくスタイルは変わらないですよ」

わたしは午後のやわらかい陽ざしを受け、紅茶ポットからカップに注ぎながら言いました。

叔父「そんなバカな。もう個別でいいじゃないか。子ども発ということは、一人ひとりの子どもから発する課題ということだろう? その子自身がその子の意思でもって調べたり考えたりしていくことだろう。個別でやれるだろう。やればいいじゃないか。いや、むしろ、個別だからこそ学ぶ効率もあがると思うな」
わたし「おじさんは効率が大好きですね。それは置いといて、子どもたちの頭がいちばん活性化するのは、同じ課題を考えあう『話し合い』なのだという研究結果があります。話し合いといいながら、実はたくさんのさまざまな意見を『聴きあう』体験です。話し合いというより聴きあいですね。その聴きあいを通して自分の頭の中を何度も「再構成」し、自分の納得するひとつの解にたどりつく、というのが授業ですから、完全に個別でいい、ということでもないのですよ」
叔父「GIGAスクールはすべての子どもに家庭教師をつけるようなものだと思ったが。違うのか?・・・それはともかく、お前のいうことをするのだったら、ZoomかLarkかteamsで、全員が会議に参加しなくてはならないな。ぶっとい光回線が必要になるぞ」
わたし「光回線ですか、・・・叔父さんはインフラ投資が大好きですね。それは置いといて、ZoomかLarkかteamsでも、授業はなかなかできないのではないか、というのがわたしの見解です」

叔父さんはロマンスグレイのまだ豊かな髪をかきあげながら、心配そうに言いました。

叔父「なんでだ。だったらやっぱり、目の前に人を集めなきゃいけないじゃないか。コロナの第二波がきたらどうする。ザ・エンドだぞ。・・・いや、ジ・エンドか」
わたし「叔父さんはザ・〇〇、というのが好きですね。それは置いといて、そうなんですよ。問題はまさにそこです。わたしが感じている問題点は、授業は生ものである、ということです。ZOOMの画面で、子どもたちが生き生きと反応しあえるためには、担任が子どもたちの表情をよく汲み、興味や関心の高まりを感じ取りながら少しずつ課題を整理し道筋をつけていかねばなりません。その道はこうしかありませんという上意下達的なものでなく、子どもたちに聞きながら、こんな課題でいいかなとやりとりしながらつくりあげていくものです。それがZOOMの画面でできるのか・・・」
叔父「なんだそんなシステム上のことか。そんなの、体育館で巨大スクリーンをみながら担任がやればいいじゃないか。30人くらいの表情ならぜんぶ見渡せるだろう。そうだな、差し渡し、10m×10mくらいのスクリーンで・・・予算は・・・」

叔父さんは空中をにらみつつ、指を折って考えています。

わたし「さすが零細企業の社長。いうことが違いますね。そんな巨大スクリーンを買う予算なんて市にはありませんよ。マァ、予算は置いといて、子どもによってさまざまな課題を抱えているのが実際ですからね。なかなか意見を言えなかったり、正解を気にしすぎていたり、自分の意見を言うだけ言って聞かない子とか、考えはあるのにその場で出せない子とか。目の前にいればすぐに担任が何かしらのフォローを入れたり、あるいはそのフォローのあり様(よう)そのものについて他の子にも考えてもらったりするところですが、ZOOMの画面を子どもたちが駆使して他の子の表情を読み取ろうとすることができるかというと、なかなかちょっと・・・。実際に友だちの近くにいてその子の顔を見るのとでは、ずいぶんちがうでしょうね」
叔父「零細企業の、は余計だぞ!・・・しかし、なるほど。じゃ、やっぱりZoomかLarkかteamsだけやっていてはだめだな。実際に会うことに意味がある、ということか。では第二波がやってきた暁(あかつき)には、全員防護服を着用して校庭に2m間隔で並び、巨大スクリーンで授業をするしか・・・」

叔父さんは大きな身振りでスクリーンのような四角をかくしぐさをしました。

わたし「叔父さんは本当に巨大なものが大好きなんですね。まあそれは置いといて、実際にはごく少人数の5、6名のグループを基本にして、学級全体を15~18名程度とし、感染症拡散の度合いをグレード化したうえ、最少数の5,6名で登校するパターンと、最大数の15~18名で登校するパターンを情勢をみつつ微調整して登校するのが一番いいのではないかと思います。いえるのは、もはや今ある教室で過密をふせぐためには、教室空間そのものを広げるか、あるいは人数を減らすしかない。教室を広げるのはほぼ不可能ですから、学級に所属する子どもの人数を減らすしかないと思います。そして、その少人数で子どもたちが自分たちで立てた計画に沿って課題追究していくのが現実的なストーリーかと思いますね。その一方で、自宅でのZOOM学習も補完的に組み合わせていくのが筋かと考えます」
叔父「いや、無理なことはない。100兆円ほど紙幣を印刷すれば、校舎を改築し、教室を2倍に広げる工事なんか簡単にできるだろう。安倍政権ならやってくれると信じるぞ・・・いや、紙幣を刷るのは麻生さんかな・・・。なんならわが社も参入してもよい!うちの会社は、水道工事ならできるからな!」
わたし「さすが叔父さん!そうこなくっちゃ!(白目)」


さて、どうなるのでしょうか。

ニューヨークに学ぶ 日本の教育現場でやれること

このところ、ずっと家庭訪問をしてきた。
長い臨時休校が続いたこと、とくに新学年になり、担任が変わったというのにほとんど会えぬままであったことから、子どもに自己紹介をする意味でも、顔を見せたかったからだ。
マスクをしたまま玄関から2m離れ、「はじめまして!」と大きな声で自己紹介をすると、笑ってくれる子どもの表情は、本当の救いだ。
しかし、それも『非常事態宣言』により、やめるようにお達しが出た。

学校には、低学年の子を中心に、約20%くらいの人数の子たちが登校している。
両親ともに在宅勤務がかなわず、どうしても預かる場所が見つからない子どもたちだ。
高学年はほとんどいない。留守番もできるし、場合によっては料理もするだろうし、危険回避をする知恵もある。学校にくるのは、低学年がほとんど。

しかし、ニュースは一向に明るくなる兆しがない。
おそらく、この低学年の子たちが学校に来れなくなる日も近い気がする。
この学校の区域内で、感染者が一人でも出れば、外出はもっと厳しくなりそうだ。
また、児童の保護者や教員の家族に感染者が一人でもでれば、おそらく学校は閉鎖だろう。

わたしが気になったのは、子どもたちの中には、あきらかにメンタルに不安を抱える子がいるだろう、ということだ。
当然だろう。大人であっても、そうだ。仕事のこと、生活費のこと、また子ども・家族に対しての負い目が発生しやすい。いつものようにいかないのだ。生活スタイルを思うように進めていけないことによるストレスがかかる。

今回の家庭訪問で、わたしは、最初の一言を決めていた。
玄関を開けて子どもの顔が見えた瞬間に、
「よかった!元気そうだね!」
と言うことにしていた。

その一言で、子どもの表情がぱっとほころぶのが分かった。
元気でいてくれさえしたら。なんとかあと少し、休校の間、健康に気を付けて過ごそう、と思ってくれたら。

玄関先に出てきてくれた保護者の中には、こういう人も多かった。
「先生、GW明けには、学校はぜったい始まりますよね。それでなかったら、困っちゃいますよ、ほんとうに」
わたしは、あいまいに笑うだけだ。

ニューヨーク市長は、9月まで公立校を再開させないことにした。
ニューヨークに住む人たちが、スーパーの入り口で、2mどころか5,6m近くも離れて立ち、それでもめげずに1時間待つことも我慢しながら買い物をしている風景を
ニュースの映像
で見た。
夜7時になると、町中から拍手が聞こえる。命がけで医療行為にあたる関係者へのねぎらいと尊敬のサインだ。
これほどの感覚が、まだ日本にはないような気がする。少なくともわたしの住む地域には。

「最悪を想定しなければ」

職員会議で、校長が言った。

もしも、このまま禍(わざわい)が収束せず、仮に5月下旬まで休校ということになれば、夏休みは一日も無いだろう。行事もすべて無くし、これまでの授業を取り戻さなければ。

しかしそれも幸運が味方してくれた場合の話だ。
先の話で、地域に感染者が出たら、また1,2週間の休校措置はありうる。

国が動かないのであれば、県で。
県が動かないのであれば、市で。
行政が、大きな公共の建物を建設するお金を教育費にまわし、機材を貸してくれないだろうか。
あるいはどこかの、ふとっぱらの大事業主が、タブレット機器をすべての小学生に貸与(与えなくても、この期間中だけ貸してくれればいい)してくれないだろうか。

そして、先生たちがそれぞれ、心のこもった動画をアップすればいい。
「こんな内容では公開できない」と責めたり、その動画の質や授業の質、内容を責めるのは、すべての禍が終わった後に、すべての教師の、動画アップへの努力をほめたたえた後にしてくれ。
教育委員会は、先生たちの真心を信じたらいい。授業がうまいへた、じゃないのよ。すぐに、子どもたちが、一日でも早く、「学校を感じる」ことが必要だからね。スピードなのよね。

絵本を読んでくれる先生がいてもいい。
自分の担任の先生が、いつもの顔を見せてくれて、自分たちだけのために絵本を読んでくれたり、話しかけたりしてくれるだけで、子どもたちの心にはぜったいにプラスになるでしょうよ。

算数の得意な先生は、黒板を前に、ていねいに教えてくれたらいい。
社会の得意な先生は、写真や資料をみせながら、考えさせてくれたらいい。
理科の得意な先生は、実験をしてみせてくれたらいい。

それを、教育委員会が「これは許可する」「これは許可しない」とやるから、心が疲弊する。
現場ではマスクをしようと注意喚起していたのに、WHOが「マスクは効果ない」とか言ってたから、広がった面もあるでしょう?
きくところによると、医療現場では「この人を検査したい」と判断しても、保健所が許可しないからできない、と困っていた現場のお医者様は、たくさんいたらしいですね。
つまり、現場ではなく、どこかの会議室で判断しようとするから、初動が遅れるのです。

今は、『非常時』。
現場が動かない、現場の判断で動けないのは、『非常時』には、まずいのですね。
非常時は、現場に権限を与えなければならない。(←と、諸葛孔明が言ってた気がする)

jikennha

【※毒舌注意】社会の力をなめるな

「トイレットペーパーを買わなくては」
これは自衛の心理である。

政府があてにならない以上、自分の身は自分で守るしかない。
そう思うのも、無理はない。
自分のことは自分で、と思うからこそ、自衛しようとするのだ。

社会は見ず知らずの人も含めて、多数の人間が持ちつ持たれつ、生活していく場のこと。
損得だけではなく、公平さや公正さをどこかで考えていくからこそ、社会はまわっていく。
1%のお金持ちだけが幸せになる社会は、結局のところうまくいかない。
1%は、周囲その他の99%が健康でなければ成り立たないからだ。

春になり、家の周囲の田んぼは、荒起こしをはじめた。
冬の間、乾ききって固まっていた土が、掘り起こされ、湿った土の色をみせる。
すると、そこに小さな緑の雑草の芽があるのが見える。
土の表面についたこの種は、掘り返されたこの数日の間に、もうすでに新しく芽吹こうとしている。

同じく、学校は新学期の準備をはじめた。
駅に行くと、街もスタートしようとしている。
商店が春のセールの垂れ幕を出し、パン屋は「春の味」を考え、オフィスは新入社員を受け入れ、工場も動き始めようとしている。

一方、新聞報道では、官邸の記者会見や都知事の見解を流しているし、ワイドショーでは政治とコロナの話をしている。この国は、いや世界はどうなってしまうのか、とハラハラする。
ところが、一歩町へ出ると、どっこい社会はしたたかに生きていて、みんな春の準備をしているわけだ。

隣の田んぼの持ち主は、もう90を越えるおじいさんなので、仕事を頼まれた若者が手際よく耕運機をかけている。若者に向かって、たとえ、コロナが、政府が、という話をそこでしたとしても、

「いや、コロナも知ってるけど、春の準備をしなきゃ」

と彼は冷静に言うだろう。
そこに、『政府に頼ろうとする、政府の指示を待つ若者』の姿は、ない。
季節がめぐってくること、秋の収穫に向けて、春の準備をするという真理については、今の政権はなにも抵抗できないのである。

植物が春に芽吹くことについて、「自粛を要請します」と閣議決定はできない。
それは、地球の自然の真理であり、人々のくらしの真理であるからだ。
一政権がいかに力をもとうと、その真理にあらがうことはできない。

政府が禁止するから〇〇をやめる、のではない。
社会にとってどうか、と個人がお互いのことを考えてそうするのである。
社会が混乱すればその混乱は自分や家族に直結してくる。それが分かるから、そうするのである。
逆に、政府が禁止しないからする、のでもない。
わたしたちは、自分の意見も考えも魂もすべて、政府にゆずりわたしているわけではない。

われわれは、政府がうまくいきますように、とねがって行動しているわけでなく、
実は、社会がうまくいきますように、とねがって行動していたのだ。

そのことに気づくと、買い占めも転売も、
いずれはわが身に返ってくる社会全体のこと、
滑稽で恥ずかしくて、しようとしてもできなくなる。

同じく、テレビに映る閣僚の方たちに対しては、
「せめて、わたしたちと同じ目線に」
と願わずにいられない。

「わたしたちは、社会に目線を合わせています。閣僚のみなさんも、われわれと同じように、社会に目線を合わせませんか」

社会はずっと続いている。
政権は、そのときだけのものである。
政府こそ、社会に目線を合わせてもらいたい。


社会の力をなめるな1

センバツ中止でショックを受ける小学生

春のセンバツ高校野球が中止となった。
選手のことを思ったら、ぜひ開催してほしかったが仕方がない。

高野連は、「もしも開催するのなら」というシナリオを考えていた。
無観客だ。
もし大会中、観客の中に陽性の人がいた、ということが報道されたら、選手は集中して試合にのぞめないだろう。また、選手の中に陽性が出たとしても、同様だ。陽性になってしまった高校生は周囲から責められ、自分でも自分を責めるだろう。その子のせいではないのに・・・。
だから、無観客は当然のことだ。わたしは理解できる。

同様に、オリンピックをもし開催したとしても、それぞれの競技の会場は基本的には無観客であるべきだ。わたしは水泳が好きで、できたら見に行く予定にしていたが、仕方がないからあきらめなければならない。

学校の校庭に遊びに来ていたクラスの男児は、リトルリーグで活躍する猛者だが、
「先生、センバツ中止だって」
と話していた。残念なのだ。テレビで観戦するのを楽しみにしていた。
彼はリトルで活躍するピッチャーで、体は小柄だが、頭を使って投球するため、勝率は良い。
図工でも作文でも、題材はほとんど野球のことだった。
その彼が、センバツ中止を嘆いている。
日本全国で、こういう小学生がたくさんいるのだろうと思う。

さて、高野連はなかなか偉い。
ギリギリまで開催の可能性を探っていたらしい。
具体策として、次のことを考えていた。
・試合と直接関係ない人の来場をできるだけ避けるため、出場校の応援団を含めてすべての観客を入れない無観客での開催
・出場校の派遣人数を1校27人に。メディアを含む大会関係者も最小限。
・ロッカールームや廊下など、濃厚接触となる可能性がある密閉空間で多人数が密集する機会を避ける
・大会関係者全員のうがい、手洗い、マスク着用、せきエチケットの徹底
・開幕前日から大会終了まで、医師2人1組が24時間臨戦態勢で選手の体調や予防などに関する電話相談を受け付ける。
・日本高野連、毎日新聞社、阪神甲子園球場の3者で緊急対策本部を設置し、緊急時の対応に当たる

【球場内】
・球場出入り口で全入場者に検温と手のアルコール消毒を実施。マスク未着用者、37・5度以上の発熱者は入場禁止
・ベンチやベンチ裏、審判控室などにも消毒液を設置し、試合終了ごとに各所を消毒。ドアノブやエレベーターなども定期的に消毒
・除菌効果のあるオゾン脱臭機をベンチ裏や控室などに計17台設置
・試合中は円陣を禁止。マウンドに集まるときなどはグラブで口を覆う
・インタビューなどの取材は受けない。ただし、試合終了後に限り、密集を避けるために戸外であるスタンド内の風通しの良いところで短時間で実施可。
・救護所に医師、看護師を常駐させる

【選手の移動、宿舎】
・宿舎から球場までの移動は大会本部が用意した各チーム専用バスを使用。車内に消毒液を設置
・要請があれば大会本部から1人あたり1日3枚のマスクを配布
・宿舎にも消毒液を設置。食事は個別または一般客と時間や場所を分けての提供にしてもらう。大浴場などの利用は控える
・選手らは朝晩2回の検温、呼吸器症状の有無をチェックシートに基づいて確認し、大会本部に毎朝報告
・責任教師や監督が認めない宿舎からの外出を禁止
などである。

ここまで考えていたのに、結局中止になった。
残念でならない。

五輪でもおそらく、同じようなことを検討しているはずだ。

たぶん五輪はこうなる。

1)無観客
2)マスコミの報道は無し。インタビューも無し。選手も大会中、一切無言。
3)競技場内で選手同士の接触をできるだけ避けるため、レース形式でないもの、個別のタイムを競うような種目については、時間差で一人ずつプレイする。選手同士はちがう入り口から入り、ちがう出口から出る。
4)陸上は8レーンに2人ずつの競技とする。選手間に2m以上の空間をもうける。
5)水泳も8レーンに2人ずつ。塩素濃度は通常の2倍濃度に。
6)柔道は寝技禁止。組み合う時間も5秒以内。どちらが先に相手を一本背負いできるかで決める。
7)フェンシングは剣の長さを2mに延長。
8)試合会場は2日前から除菌し、除菌後は一切の人の出入りを禁止する。
9)選手は除菌されたユニフォームを身に着ける。
10)審判は全員防護服を着用。
11)サッカーやバスケットのボールはハーフタイムで洗浄、除菌。バレーボールはサーブ毎の除菌。
12)試合中の円陣や味方の選手同士が口を開けて話をすることは控える。もしどうしても意思疎通をしたい場合は2m離れて行う。
13)夜間に選手村から町へ出るなどの出入りはすべて禁止。空港から競技場までも送迎専用の高度除菌車で直接送迎。
14)選手は毎日2時間ごとに検温し、医師2人1組の診察を受ける。
15)検温を拒否する選手の出場権を、はく奪。
16)できるだけ人が集まる時間を短くするため、表彰などのセレモニーはカット。国歌もなし。
17)ロッカールームは使用しない。選手村の自分の部屋からユニフォームで直接会場へ。
18)選手村の選手の個別の部屋は2時間ごとに消毒。部屋と部屋との間は無人の空間を5m確保。
19)マスコミが競技場の検問を突破してインタビューをするため、もしも選手に2m以内にまで近づいた場合は国家反逆罪として逮捕。5m以内でも報道権をはく奪。10m以内でも以後の出入りを一切禁止。
20)期間中、選手一人につき1日7枚のマスクを供与。
21)大浴場などの風呂は禁止。レストランも廃止。(各自の部屋へ幕の内弁当を供与)


このくらいやったとしても、五輪はやるべきである。
何よりも、わたしは水泳が見たいのだ。
男子100メートル平泳ぎは個人メドレーで東京五輪出場が内定している瀬戸大也(ANA)が59秒93で優勝した。
この泳ぎが見たい。
だから、このくらいやったとしても、ぜったいに五輪は行うべきだ。

olympics_2020tokyo


全国すべての公立小中高休校へ 首相表明

職員室に怒号が飛び交う。
「あべえええええええ!!!どうしろってんだァァァァ!!」
ふだんは温厚で、おだやかな表情しか見たことのない1年生の先生が、怒りで震えている。

かわいい1年生。
ほうっておける親がどれだけいるか。
親も、生活がかかっている。
勤務をそうたやすく、休めるわけがない。

そこまで、考えていないのか、首相やそのまわりの人たちがどれだけ「考えた」のか、どうしても疑問視したくなる。当然、親はどうするか、ということへの言及がなされるべきだ。
ところが、ニュースでそのことに触れた形跡がまったく、無い。

1年生の子を何週間も、朝から夕方まで、ほうっておける親がいるのか・・・

安倍首相の目線の先には、どんな家庭像が映っているのだろう。
はたらいている親の姿は、見えないのか。

夕方、ニュースが流れた直後、先生たちの動きが加速した。
印刷機のまわりには行列ができる。
「〇〇先生、それが終わったらついでにこれも印刷お願いします!」
「はい、わかりました」
「ここの印刷機、終了です。次、何年生の先生が刷りますか?」

つまり、子どもたちへの課題を今から印刷し、
明日渡さなければならないのだ。

たしかにまだ決定ではない。
しかし、準備していませんでした、では話にならない。
もしかしたら、2日から本当に休校になってもおかしくないと感じさせるような、首相の発言である。首相の脳裏に、職員室に飛び交う怒号と、自身へ向けられた呪詛、そして先生たちのけわしい表情が浮かんでいるだろうか?想像できるのだろうか、この首相に・・・

慌てて印刷機へ大集合する教員、
他の学校へ緊急連絡を行う教頭、
急遽、自動車で会合へ向かう校長、
子どもへくばるもののリストを作り始める若手教員、

「明日のおたより、全面改訂ですッ!見出し、これでいいですかーッ!」
「その見出し、ストップです!!印刷止めてください!停止、停止ーー」
「〇〇先生、その印刷済みの地域子ども連絡会の書類も、廃棄です!別の箱にしてくださいッ!!」
「△△先生、緊急のお電話です!」
「先生、児童センターから〇〇先生が来られてますッ!」

もう、なにがなにやら・・・みんな目が泳いでしまっている。

気を利かせた若い先生が一人、

「おにぎり買ってきます!ほしい方、挙手してくださーーーい」
「はい」
「はい!」
「ハイッ!うちの学年、全員分お願いします!」
「わ、わかりました!!」

この状況が、おそらく全国の大半の小学校で、
今現在、まきおこっていることだろうと思います。

konran

ハビビ元大統領と東ティモールのこと

今年9月、インドネシアの元大統領が死去した。

ハビビ元大統領だ。
その大統領が病床に臥せっているとき、お見舞いに来たのが、東ティモールの大統領。
つまり、宿敵が来た。
敵がきたから、緊張して迎えるのかと思ったら、なんと抱擁した。
ふたりとも、お互い両者とも、人間として大きかったのだ、というしかない。

いのちをわずかに残した宿敵に、いったいなんと言葉をかけたのか。
東ティモールはもともと、インドネシア領ではなかった。ポルトガル領だった。
スハルト大統領の独裁政権にむりやりに併合された歴史を持つ。
だから、市民からすると、独立は悲願だった。

大きな人間、というのは、何だろう。
「人の生きる道を、示してくれる存在」だろうか。
ひたむきな情熱を、もやしつづける人間は、すぐ近くにいる人たちの心をつかむ。そして、火を灯す。
東ティモール大統領のグスマン氏も、ハビビ大統領も、おたがいにそういう人間だったにちがいない。

まさに東ティモールが独立せんとする2000年ごろ、わたしは友人のTから手紙をもらった。Tは国連職員で、東ティモールにいたのだった。手紙には独立のための住民投票がいかに困難を極める作業だったかが書かれていた。

「投票」というものを、強権的な独裁しか知らぬ人々に、いかに伝えるか。
Tは、苦心しつつも、それを伝え、普及していく地道な広報活動に、たずさわっていた。
ところが、悲しいことに、人々にはなかなか伝わらなかったそうだ。
多くの人が投票に行く、と約束してくれたが、その練習となる模擬投票に、ほとんどの人間が来ない。あるいは、金をもらうために並ぼうとする。
せっかく並んでくれたのに、邪魔する人々もいる。
大切な働き手が、のんびりと行列に並ぶのをよしとしない家族たちが、腕をひっぱって、連れ帰ろうとするのだった。

つまり、強権的、強圧的に、飼いならされていきてきた人たち、
小さなころから武力や脅しを受けて生きてきた人たちが、

「自分たちで、自分たちの生活を、ルールを、法律を、人生を、自分たちのアイデアと文化、知恵でつくりあげていく」

ということが実感できるようになるためには、相当の話し合い、教育、考える時間、身につける時間、思考してみる時間が必要なのだった。

わたしはその手紙を受け取って、そこに書いてある内容の大変さに驚いて、とても一度では読み切れず、なんどもその便箋を開いてみては、読み返したと思う。

主体的に考える人材を生み出すためには、時間がかかる。
ほかのことをやっている暇があったら、もっともっと、主体的になれるための時間を、つくりだした方がいい。

とくに学校は。
われわれは、強権、強圧、圧政、といわれるような文化とは、まったく別の文化、というのを、具体的に伝えていかねばならないのだから。


神戸の教師が、おかしくなったあまり、同僚をいじめた、という動画がニュースになった。強圧的に、強権的に、激辛カレーを食べさせようとして、羽交い絞めにしたのである。
もう、教師自身が、「強権、強圧、圧政」の文化に、どっぷり漬かっているわけだ。だから、同僚にも武力、強制、強引、独裁、というような精神文化で、つきあおうとしていく。当然、子どもにも・・・。

教師が、「強権」しか、知らないのだ。
そういう精神文化しか、習得してこなかった。

おかしくなっているのである。おかしくさせられている。
教員がおかしくなっていく原因が、あるように思う。人間らしさを失っていく文化が、あるいは失わせるようないわば、『強権的な文化』が、学校にじわじわと迫ってきている。

flag-east-timor

韓国の悪口とアッポーペン

これはどこでインプットされたのかなあ、と不思議に思うことですネ。
韓国のことをどれだけ知っているのか、ほとんどなにも知らない小学6年生が、韓国の悪口を言っております。

おそらく、何の気なしに、というか、あまり意味なく、なにかそのフレーズを聞いたままに、そのまま口に出したのか、と思う。
もしかしたら何か考えがあるのかと思って聞いてみましたが、

「なんでそう思うの?」
「だって、そうなんでしょう?」

なるほど・・・。

・・・これは、マア、言葉は適当でないかもしれないが、「洗脳」されてる状態です。
マスコミからなのか、身近な大人からなのか、どこかで聞いた言葉フレーズが、そのまま脳内で再生され、口に出しているだけ。本人が、なにか深く考えているわけではない。お笑い芸人の発するギャグを、そのまま教室で言うのと同じ。

むかし、芸人さんの、リンゴにペンを指すパフォーマンスが受けたとき。
教室中のどの子も

「あっぽーぺん!」

と、日に何度も何度も口にする日々があったけど、あんな感じ。

テレビ番組でコメンテーターが韓国政府に怒って見せる。
その言動や雰囲気を察して、そのまま、見たまま聞いたままを、まねしている。
全国の小学生の中には、それをそのまま「そうなんだー」と理解し、大人の言っていることだし、やっていることだから、「おれもちょっとやってみっか」と思う子も、いるだろうと思われる。
むしろ、純粋で、大人の言うことをある程度信頼して聞こうとする子ほど、激しい大人の言動、直接的な気分を顕わにする言動を見て、
「ああ、よほど大きな出来事なのだなあ。俺もこの波に乗らねば」
と思うのかもしれない。

安直でわかりやすいので、マネしやすいのでしょう。アッポーペンよりもはるかに、今回の方が、マネをしやすい。アッポーペンは、気分的には玉虫色で、いわく説明しがたい感情の発露であろうと思います。それに比べりゃ、怒り、というパフォーマンスの方がわかりやすい。

古坂大魔王扮する「謎の千葉県出身シンガーソングライター」たるピコ太郎(ピコたろう)が、なにを思い、どんな経緯で、どんな前後の複雑怪奇な物語のはてに、あのセリフを言うようになったか。それを適切な語彙を用いて説明することのできる小学生は、ほとんどいません。

そう考えると、今回の「韓国の政府は馬鹿ばかりで許しがたく、罰せねばならない」というような『怒りの表現』は、うんとわかりやすい。要するに、この人、腹立ててっけど、なんだかいろいろと気にくわないんだろうナー、と子どもだって理解できます。

幼児期の子どもは、気に入った友達とだけ、遊び、つきあっておればよろしい。
だから、いやなやつは、「気に入らねえ」と声を高くして言えばよく、その後のことや周囲のことは一切気にしなくとも済んでしまう。韓国は嫌いだ!と叫べばいいだけなのだから、幼い小学生の子どもたちにとってみれば、すごくよく理解できることなのです。
逆に、おそらくピコ太郎がりんごにペンを刺さねばならなくなった原因や、そのリンゴをその後どうするかまで責任をとる姿を想像すると、ピコ太郎はずいぶんと複雑な背景を背負っている気の毒な大人であります。小学生にとってみると、「わかりにくい」存在といっていいでしょう。

だから、子どもたちは、アッポーペンを、たった1,2カ月で捨てました。
9月下旬にマスコミが、ジャスティン・ビーバーがツイートしたことを報じて話題になったのですが、実際につがるやふじなどのりんごがスーパーで売られるようになるころには、もうすでに飽きられていましたからネ。

「おれ、家でペン刺そうとしたら、姉貴が、PPAPは古いとかいうからやめた」

という会話を、実際にわたしは愛知県岡崎市の教室で聞いている。あれは、おそらく、1月にはなっていなかったろうナ、と思います。

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つまり、幼児は、複雑な背景のあるもの、人間の背景にある物語を理解するのを、面倒がるのでありましょう。ピコ太郎の物語を、背景を、理解し心情を汲みとろうとはしないのです。

幼児期は面倒な人間関係を避けて通れば済むが、おとなはそうはいきません。
気に入らないいやな奴とも何とか妥協点を見出して付き合っていかなければならない。そして、お互いに妥協点をさぐるうちに、相手は相手なりに背景を抱え、家庭や会社の事情の中で、もがきながら交渉していることが分かってくる、理解もできる、その過程でリスペクトも自然に湧いてくるものなのでしょう。

あいつが悪い!と悪者を定めて成敗し、追放すれば残りは全員天使のごとく浄化されているかどうか。この世を白と黒でたった2つに分けよう、という発想は、幼児のものでしょう。黒さえなくなれば、あとはみんな真っ白だと思い込めるのは、幼児だけです。自我の芽生えに満たない幼児は本当に、そう思い込みます。

これは、思春期以後、大人になるまでに自我が育ち、自己の姿を客観的にとらえることができるようになれば、問題は解決するでしょう。社会の中での自分、というものが、自分の内面のありのままの自発的な表現のもたらすものであり、自分が主体的な意志で動き、あらゆる自分の行動を自分が決定し、自分が責任をとるのだ、と実感できるようになれば、おのずと解決するハナシであります。

「あいつは悪者で、あいつさえいなければ浄化され、一切合切すべてが良くなる」と言いたくなる気持ちが消滅し、発生しなくなるからですネ。その理由は、「人間は根本が同じであって、自分を含めたすべての人が考えを変え、行動を変え、自己決定を変化させながら成長している」ということを知ったためでありましょう。

だから大人は、桃太郎で鬼ヶ島の鬼を退治してしまえば、あとは未来永劫、究極の善人だけの国が誕生し、未来永劫、善人だけの歴史がはじまるとは、思わないのです。鬼ヶ島から見れば、われわれ桃太郎の国もまた、かの国の言葉で「鬼ヶ島」と呼ばれていはしないか、ときちんと冷静に分析することもできるし、鬼と呼ばれたからといって、実は鬼ではない、ということが、容易に予想できるからですネ。そして、どの国ともWIN-WINの関係をつくり得ると考え、そういう未来を実現することだけが、目標になるからです。

『土用の丑の日』を改革しよう!・・・水産庁の方へ

以下は、水産庁の方がひょっとしたら見てくれるかもしれないので書きました。
水産庁に所属する以外の方は、深く考えず、読み飛ばしてください。

◎なぜウナギを食べるのか

7世紀から8世紀に編纂された「万葉集」に、ウナギを詠んだ歌があります。
石麻呂に吾れもの申す夏痩せに
よしといふものぞむなぎとり召せ

(大伴家持)

「夏の暑さで大変でしょう。身体が弱ってきたと感じたのなら、むなぎ(ウナギ)を食べると良いよ」
友人の石麻呂という人に、家持がそう勧めたという歌です。
現代の栄養学と照らし合わせても、合理的だと言えるでしょう。

◎ウナギは大切な水産資源

日本人が、「土用の丑の日、うなぎの日。鰻を食すれば、夏負けすることなし」という平賀源内のコピー文に魅力を感じて、家族そろって鰻を食べてきたことは、とてもユニークだし、楽しいことです。

ところが、水産資源を一度に大量に消費することには問題があります。特に、現状のような売買の仕組みそのままで、消費することは大問題です。

売れ残りが、大量に出ます!

そして、それらはほぼ全量、焼却処分です!

日本人が完全に予約制でウナギを注文するならまだ被害は軽微で済むかもしれません。水産業の現場にまで1匹単位で予約をいれて、完全にその予約の数に従って仕入れをするのなら。
しかし、天然であれ養殖であれ、売れるかどうかわからない数を大量に「かば焼き風に仕上げて販売網にのせてしまう」ために、売れ残りの量が毎年3割もあり、それらが消費者の意識にのぼらないところで廃棄され、重油で燃やされていることを考えれば、水産資源を

今しかない!
この道しかない!
今でしょ!


と、ヒートアップした感覚で大量に売ろうとするのは、合理的ではありません。

人間は常に冷静である方が得をします。
生きているのだから、人間もたまにはヒートアップしたいときも無論、あります。そして、時と場合によってはヒートアップすることが楽しいのです。しかし、他国との関係やこういった経済に関係する思考は、できるだけ冷静なのがよいのです。

そこで、提案をします。

「年に一度だから」という理由のために経済的損失がでかくなってしまった、というこの風習を変えるため、うなぎを食べる日を、合理的に増やしましょう!

たとえば、もう一度、こよみを見直してみましょう。
なんと、土用の丑の日は、年に何度もあるじゃないですか。

【2019年の土用の丑の日】
1月28日、4月22日、5月4日、7月27日、10月31日

【2020年の土用の丑の日】
1月23日、4月16日、4月28日、7月21日、8月2日、10月25日、11月6日

水産資源の貴重さを十分に学習してから、(公共広告機構などでCMするといいと思います)今年は鰻をいつ食べようか、と7月に集中しないように考えるのです。

土用の丑は、春にも秋にもある!

ということです。

こう考えると、ウナギだけではありません。
クリスマスケーキの大量廃棄も、大問題です。
これも重油で燃やすらしいです。
せっかく中東の国から地球を半周してまで日本に運んできた貴重な重油。
ケーキを燃やしてよいわけがありません。

そこで、増やします。

【2019年のクリスマスケーキの日】
2月28日、5月22日、7月4日、9月27日、12月24日

クリスマスだ、と言っているのではありません。
あくまでも、クリスマスケーキを年に分散して食べよう、という日です。

おそらくジャニーズやよしもと興業の芸人さんたちが、

「おれは2月に食うよ」
とか
「おれは新緑のすてきな5月」
だとかテレビで言えば、日本人はすぐに「じゃわたしも」と考えるでしょう。

しかし年のチャンスが5回あるわけですが、そのすべて5回ともケーキを食べると不幸が訪れる、という都市伝説も一方で流しておいた方がよいかもしれません。食い過ぎです。それは。


christmas_cake

ブラックとよばれて

11月ごろから更新がおぼつかない日々。
土日もほとんど無いから、ブログが書けない。

「最近、アップされる記事が少ないですが」

ある方からメッセージを頂いたが、申し訳のないこと。

夜、早く帰ってくればいいのだが・・・。

残業の上限は月45時間” 教員の働き方で国が新方針
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181206/k10011736701000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_007

「これがブラックと呼ばれる所以(ゆえん)か」

夜中まで、先生たちは平気で職員室にいるけど、どの先生も遅くなればなるほど口をきかなくなっていく。そりゃそうだ。誰しも、一刻も早く帰りたいから。

自分の席から、コピー機まで、走っていく先生。
ボタンも、パッパッと押し、コピーしている間、目をとじて考え事をしている。
コピーが終わると、電光のごとく、用紙を手にしてあっという間に席にもどっている。

夜8時すぎに、電話が鳴る。
教頭がちゃんと受話器をとって、対応している。

教頭がぽつん、と言った。

「明日の時間割だった」

・・・

だれも反応せず、職員室にしずかな時間が流れていく。
カタカタカタ・・・
ピー
ゴトゴト。

シャッシャッ、という音は、赤ペンを走らせる音だ。
みると、1年生の先生。赤く、大きな〇をつけている。
いいなあ、低学年。問題数が少ないもの。
しかし、間違えた字などをていねいに直しているから、これまた時間はかかる。


一番の原因は、日本人の体力が落ちていることだろう。
だから、夜間の仕事の能率が上がらないのだ。
もっとも影響を受けるのは、目だ。
目が、しょぼしょぼしてくる。

年配の先生が、「あー、もう目がしょぼしょぼしてきた」と言って、パソコンの画面を何度も目をこすりながら見ている。

これが、教員がブラックと呼ばれる一番の原因だ。
しょぼしょぼしてきた目で、仕事の能率が上がるわけがない。

ブラックの名を返上するためには、ブルーベリーで目の健康を促進することだ。
ブラックには、ブルー。黒には、青で対抗だ。

ぜひ、文科省のえらい人に、提案したいです。
全国の小学校に、ブルーベリーを届けてください。
毎日毎晩、ブルーベリーを食べながら、心を満たしながら、先生方はがんばることと思います。
文科省に感謝しながら、よし、がんばろう、がんばるんだ、やりきろう、やりきって帰ろう、と。
そう思うことができるはず。

ブラックを、ブルーに。全国のPTAも、賛成してくれると思うネ。

ブルーベリー

学校の設計に世間が無関心であること

今の勤務校は、PTAがつくった学校だそうだ。
なによりも、学校を立ち上げる際には、村人がこぞってPTAの集会に集まり、どんな学校にするのか、1年生の教室をどこに配置するか、池をつくるかどうか、木は何を植えるか、芝生にするか、掃除のときのバケツの水を捨てる場所まで、あれやこれやと喧々諤々、だったらしい。

こんな愛情が込められているのだもの、いい学校になるに決まっている。

低学年は、広い教室が良いだろう、というので、国で決められた基準よりも大幅に、広い。
それも、1クラスごとに独立していて、静かな環境を整えてあげようとする当時の親の心遣いに満ちている。
小さくても採光のための空間があけてあり、ろうかも教室も、明るくて風通しが良い。

おまけに低学年棟は、当時の食堂にいちばん近い。
1年生が一番先に、食堂にきて、ゆっくりゆっくり食事ができるように、という設計だったしい。
(当時は、全校児童が食堂に集まって、一斉に食べた)

当時の記録を読んでいると、涙が出てくるほど、人間の愛に満ちている。

幼い村の子どもたちを、いかに大事にしていたか。
子どもの笑顔がみたくて、みたくて、そのために大人たちが大騒ぎしながら、学校の設計に取り組んだ。

学校建設のために私有地をゆずった地主さんは、その条件として、学校の周りには大きな建物が立たないように、村にきっちりと働きかけたそうだ。

ところが、最近、同じ県内に新しくできた学校の先生と話す機会がありまして。

県の教育センターで、教員の研修を受ける際にいっしょになり、世間話をしていると・・・

「新しいのはいいのですが、コスト重視でネ。見た目はいいけど、教育には向きません」

その先生の学校は、昨年できたばかり。
東京の建築デザイナーが、鳴り物入りで現れて設計したらしい。
外側からみた、体育館の見た目が奇抜で、カッコイイ。
ところが、木を植えない、草を生やさない、鉄骨むき出しの階段、風通しの悪い校舎・・・

「校庭と低学年教室との距離が、いちばん離れているんです」
「子どもを知らない大人が設計したとしか」

なによりも、PTAが一切、設計に関わることができなかったとか。
たしかに予算、建築計画、地元の土木業者との関係など、政治がらみの事情はあったろう。
あれやこれや、突貫工事であっという間にできた校舎を、だれも愛せないとしたら。

なんのため、なんのため。
目的からどうしても、ずれるのが、人間の思考の癖らしいネ。
期限内におさめることが、なによりも優先されると、ひずみが出るよね。

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【非常事態】自分の命を救う防災教育を

5年生の社会で、日本の土地利用について学ぶ。

日本は南北、東西ともに細長くのびていて、大陸に接していない。
弧を描いて、大陸から離れている。
寒い土地もあれば温かい土地もあるし、標高も高いところ、低い所、いろいろとある。
また、海に接している土地もあれば、山の盆地もある。離島も多い。

5年生は、この1学期に木曽三川を学び、輪中を習った。
輪中では堤防をつくり、川の氾濫に負けないような土地の利用の仕方をしている。
愛知県には日間賀島のような漁業が中心の土地もある。そこで、津波や高潮による被害を防ぐために、堤防や防波堤をつくり、島の暮らしを守っている姿も、実際にみてきた。

ところが、今回の大雨は想像を超えている。
ニュース映像で流れている写真、映像、どれも水のこわさを伝えていた。

防波堤、土留め、土砂災害を防ぐための工事やダム建設など、人々の工夫や災害に対する備えは、あった。それでも、その備えを超えた、自然災害が起きた。

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(写真は朝日新聞記事より引用)

災害、というものを真正面からとらえる、学習内容をつくるべきである。
防災教育を、まともにやるべきだ。社会の教科書に、防災、という単元をきちんと位置付け、ボリュームを増やすべきである。現状ではたかだか数ページしかない。少なすぎる。

ここは日本だ。

災害の多い国だ。


阪神の震災で、何を学んだか。
東日本大震災での避難の実態はどうであったか。
津波、放射能から逃れるために、国の情報提供はどうだったのか。
そして、肝心な、

「情報は頼るべきだが、情報が無くても動く勇気、情報が届く前に動く勇気を涵養すること。最後にたよるのは政府の報道ではなく、自分の判断であること。自分をすくうために直接に責任を負うのは自分自身であること。自分の命は国や政府の下に所属しているのではないこと。一方、政府は災害から国民を救うために、事前の努力を最大にしておくのが任務であり、いざ災害が起きた時は日頃の訓練を生かして人々を救うための人材を確保する」

ということを、学校教育で教えられるようにしていきたいものです。

「政府から連絡がないから、まだ行動しない」

という子にならないように、国はしっかり教育をしなければならない。
そのためには、『国民の命は国に所属しない』『国民の命を守るために国を組織する』ということを、きちんと位置付けるための学習指導要領の制定が必要でありましょう。
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