30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

子育てあれこれ

道徳的な価値では子どもは動かない件

大学で増加中「散歩サークル」活動は「結構ガチ」(AERA)

かつて、この記事が目に留まったとき、
面白い!
ついに、時代が動き始めたか、という気がした。


要するに、記者からしたら、
「面白くもないことを、なんでやってるの?」
ということだろう。
しかし、その問いこそが、大学生の心情からしたら、「???」なわけね。

このすれ違い。おもしろ~い!!

「面白い」ということに、価値がおかれなくなってきていることに、
この記者が、すかさず食いついてきていることに、読者の自分もドキドキする気がした。


大学生「べつに、『面白くなくても』いいんですけど」
↑これが、理解できない。ふつうは・・・。

えっ!!面白無くてもいいの??そんな、馬鹿な・・・。
・・・てね。

◎積極的に汗を流す
◎コンパで盛り上がる
×ひたすらその辺を歩くだけ

こんな価値観が透けて見えてきます。

こういうことに、興味を覚えたこの記者は、センスがいいと思います。
というか、おそらく、この記者は、そのすれちがいを、楽しんでいる。
分かっている。
そして、世の中の多くの人が、

「これが価値ってものでしょう!」

として疑わないことに、ちょっとしたクエスチョンを投げかけているのだ。

この記事を書いたのは、朝日新聞の記者、「古田真梨子」さん。
どんな人だか、会って話してみたくなった。

こういうセンスの持ち主だから、今後、若い層を中心に、

「なにもしない、やる気もしない、でも鬱でもない、言われたらやるけど、そこまで頑張ってやろうとおもわない。道徳的な価値では動かない。」

という、一見、白けたような世代の行動を、きちんと理解してくれるのでは、と期待してしまう。

さて、今の小学生も、いわゆる「お仕着せ」の価値には、ちっとも感動しません。


その結果、まじめな先生ほど、悩んでいる気がする。

道徳の授業、どうしたらいいのか、ちっとも分かりません!

答えを教えようとする道徳は、過去のもの。
子どもが自身から見つける道徳が、ほんもの。

道徳の授業を、もっともっと開発できるような教師になりたい。憧れる。

けやきの木

【2分の1成人式の記事に反響】寄せられたメッセージから

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先日、2分の1成人式の記事を書きました。(先日の記事はこちら)
ちょっとした反響があり、現役の若い先生からメッセージをいただきました。

「わたしも4年生担任です。わたしは、2分の1成人式では、将来の夢を考えることを主眼にしました」

なるほど。いいですねえ。
わたしと同じです。

「自分が将来、就きたいと思っている職業を一人ひとり考えて発表しあいます。そして、その夢を学級のみんなで応援しあおうと思います。具体的には、お互いにメッセージを書いて、贈りあいます。そして、作文を書いて、学年最後3学期の学習発表会で、おうちの方の前で読むつもりです」


とのことでした。


しかし、その方が、ご自分で一点気にしていることがありました。

「もし、就きたい職業がクリアでない子がいた場合、その子は、夢に向かってがんばる、という作文がうまく書けないかもしれません」


たしかに。
書けない子もいるでしょうね。

「どうしたらいいでしょうか」

との相談のメッセージ。






担任が、教室の子どもたちに、
夢に向かってがんばる、という作文を書かせたいのかどうか
でしょうね。

〇〇になるために、がんばる

という人生の進み方もありますが、四年生段階で、職業を決める、というのは現実的にむずかしい子もたくさんいるわけで・・・。

夢というものを追いかける方法のひとつは、みなさんご存知の通り。
つまり、「ゴールをめざす」というわかりやすい方法です。
具体的には、『めざすゴールを先に明確に決めて、そこに向かって段取りを細かくステップ化し、毎日のルーチンをこなしながら目標に徐々に近づいていく』というものでしょう。

たしかに、こうして夢の追いかけ方を考えるのは、楽しくワクワクすることには違いありません。
ところが、4年生で職業を明らかにするのは、なかなかしんどい。
まず最初の条件、ゴールを明確化する、ということ自体が、なかなかの難題です。


そこで、こう考えたらどうでしょう。
先のゴールがまだぼんやりしているのだし、ほんわかしているのだから、自分には何ができそうか、ということを考える。
「ゴールを先に明確化し、めざす」というやり方ではなく、今ある、自分自身の実感や体験や興味関心をデータ化し、そこから具体的にこんなことがやれないだろうか、というふうに、まずは自分の側のデータをたくさん集めていく方法です。

わたしは、小学4年生なら、こちらのやり方の方が、合っているような気がします。

そう考えると、先のメッセージの中に書いてあった、

「自分が将来、就きたいと思っている職業を一人ひとり考えて発表しあい、その夢をみんなで応援するメッセージをおたがいに贈りあいます。そして、作文を書いて、学年最後3学期の学習発表会で、おうちの方の前で読むつもりです」

という部分の冒頭、

『将来就きたい職業を一人ひとり考えて発表』

を、そうはしないで、

「自分がどんなふうに周囲の人たちとつながっていて、影響を与えたり、喜んでもらったり、役に立ったり、してきたか。自分自身が相手に向けて、してあげたことを通じて自分の側のよろこびだと認識できた体験はあるか。また逆に、自分がしてほしいことをだれかにやってもらって、とっても嬉しかったことがあるか」

ということをあれこれと、小学校生活の中からさがしあてて、

「ぼくはどうも、こういうことをやってみんなに喜んでもらったことが、自分ではとてもいい体験だったように思う」

とか、

「ぼくが活躍できたことで、まわりが喜んでくれたことが、自分の励みになった」

とかということの事例を、たくさん集めたらどうでしょう。

そのことを、作文にして読み、

「もしかしたら、ぼくはこういうことをみんなの中でやっていくことが、人生のヨロコビになるのかもしれない。そういう仕事ができたら、人生が楽しいかもしれない」

と、書いたら良いのではないでしょうか。

(Aさんすみません、こんな回答でよろしかったでしょうか?)

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4年生の行事?『2分の1成人式』にチャレンジ!

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そろそろ今の時期、2分の1成人式を考えています。
わたしはあまりよく知らなかったのですが、世間ではかなり有名になってきている行事らしいですね。
20歳の成人の、ちょうど半分、10歳になる4年生で、その儀式をやろうというわけです。
学年の先生たちと相談し、まあやってみよう、ということになりました。

どんな式にしようか・・・。
やはり、将来のことを考える、というのがいいね。

『2分の1成人式!これまでの10年を振り返る!』
タイトルはこれで決まり。

これまでの10年間で、どんなふうに周囲の人を助けてきたか。
なにをしてあげてきたか。
まわりの人からやってもらって、うれしかったことも集めてみよう。

自分は、どんなことをやって、人に喜んでもらってきたのかを考えてみると、
その先の将来の仕事も、だんだんとそこから見えてくるものがありそうだ。

考えてみると、不思議なんだよね。
人に喜んでもらったらなぜとなく、自分までうれしくなる。
これは、なんでだろう?
DNAに組み込まれているのかも?

自分の働きで、周囲が笑顔になったのを確認すると、DNAの自己保存本能が、「OK」と言うのだろうか。そういう信号が、脳内に発生するのかもしれない。

誰かになにかしてもらうと、人間の脳には、「よかった!」という信号が発生する。
これまた、ごく自然に発生するから、不思議で仕方がないことだ。

おいしいものをもらって、食べると、満足する。
そして、そのおいしいものを運んできてくれて、食べてよいよ、としてくれた人に、
好意が生まれるもの。不思議だけど。

おそらく、洞窟で暮らしていた狩猟採集時代からの本能だろうね。
自分が生きていくために、この人は信頼できる、と分かると、好意が生じる。
そして、その信頼を強くすることを考えて、今度は逆に、なにか自分が手に入れたら、先日自分においしいものを運んできてくれた人に、「ほい」とあげようとするだろう。
そして、おいしそうにそれを食べてくれたら、こっちも不思議なことに、うれしくなる。

弱い哺乳動物の人間は、そうして仲間との信頼を深めることで、餓死する危機を遠ざけ、厳しい自然界の中で生きていく知恵として用い、自分の寿命を延ばそうとしたに違いない。
生きていく力の弱い人類が、他の動物に襲われず、絶滅もしなかったのは、仲間をつくったから。

教室でも、だれかを笑顔にすることで、自分の中によろこびが生じる体験は多い。
その体験をみんなでいっせいにふりかえり、

自分はなにをすることで、まわりの人を喜ばせてきたか。
まわりの人が笑顔になることで、自分までうれしくなった経験があるか。
その体験をもとにして、将来の自分の仕事を考え始める。

それが、2分の1成人式(ハーフ成人式)。

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部活を続けなくてもよい

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部活やスポーツ教室をすぐにやめてしまう子がいて、

「すぐやめてしまった」

と、教師が残念がっていることがあるが、

まったく心配は要らない。



わたしには、教師がなんでそれでひっかかるのか、分からない。

「やめてしまった」

という言葉そのものに、すでに、ざんねんな感じが込められているよう。





テニスをやめる。

いいじゃないですか。

次、きっと、またなにか、やるでしょう。

先生も、いっしょになって、わくわくしてたら、いいじゃないですか。




部活、しなくてもよい。

テニス、しなくてもよい。




「投げ出さずに、続けるのがいい」


と、思っている人がいるけど、


子どもの動機が、

「先生やコーチに叱られるのが怖いからやる」

という程度だったら、

その子にいったい、なにが育つといえるのでしょう。

強要されなくなったら、やっぱり、投げ出すでしょう。




人生は長い。

自分が気づいて変えたもので人は生きていく。

強要されたものでは、人の核心は、なにも変わらない。





「まったく、すぐにやめてしまうんだから・・・」

困っているのは、大人。

子どもは困っていない。

なんで大人は、そのことで、困るのだろうか。

よく考えたら、不思議になってくる。




なんで、困るのか。

と、考えたことが無いから、困るのかもしれない、な。


困らないけど、いいですか。

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目に入れても痛くない話

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国語で、ことわざを習った。

目に関することわざ。



国語辞典を調べていた子が、

『二階から目薬』を発見し、

「そんな階段の上から目薬って、そんなん、無理やろ!」

みんな 「ウワハハハ!!」

・・・てなことを話していたら、



「目に入れても痛くない」って、どういうこと?

という子がいた。

なんでも、おばあちゃんがわたしに

「目に入れても痛くない」と言ったそうだ。

意味がわからない。

今、目に関することわざをしらべていたから、急に思い出したそうだ。



「へえ、そんなこと言われたん」

「目に入れるってどういうことだろう?」

席の近い子たちが、反応してる。



「えっと、目に入れても痛くないって、聞いたことある人?」

しーん。

クラスで、ほんの5,6人しか、手を挙げない。

その中の一人が、

「わたしも、おばあちゃんから言われたことある」




どうやら、この言葉は、おじいさんやおばあさんが、孫に対して言う言葉らしい。

「目に入れるって、なにを入れるん?」

謎めき過ぎてます。

目に入れるのは、目薬だと、相場が決まってます。

この場合、何を入れるんでしょうか。

各自の、宿題になりました。


「えっと、おじいさんやおばあさんと一緒に暮らしている人は、ぜひ聞いてみてください」

「あ、今度の連休で、ちょうどじいちゃんの家に行く!」

「あ、そりゃ、ちょうどいい」


どんな会話になるのでしょうか。楽しみです。



「じいちゃん、目に入れても痛くないって、どういうこと?」

「は?」

「なんか、じいちゃんが孫に言う言葉らしいんだけど・・・」

「お、おおう・・・」




おじいさまが、機転の利いた返答をしてくれるよう、祈ります。

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子どもをどこまでも理解しようとする、ということ

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わたしがエンジニアを辞めて、小学校教師になってすぐ、の頃。
不登校の子がいました。

あれから十年近くになるのに、今でもスッと顔が浮かんできます。
いい子でした~。

なにかわからないが、朝になると、学校へ行けなくなる。
わたしが担任するようになって、少し元気になって、去年よりはずいぶん学校へ来れるようになった、と喜んだものです。

1学期はまあまあ。

ところが、2学期になると、これない日が増えました。

「行事が重なって、疲れてしまったのでしょうかね」

校内の支援コーディネーターの先生に相談すると、なんとなくそんな雰囲気。
こっちは初任の1年目で、ちっともわからない・・・。
そんなものか、と思うくらいで・・・。


朝、お母さんが、下の子を保育園へ送った後、校門のところへ連れてくる。
校門のところで、お母さんの自転車にしがみついたまま、離れない彼。
泣き顔で、行きたくない、と繰り返す。
困惑する母親。

そこへ私が駆けつけ、なんとかなだめすかして、教室へ連れてくる。
しかしそのうち、教室に来れなくなり、保健室登校になった。
さらに、それもできなくなり、やがて、お母さんも彼を連れてこないようになった。

彼の欄にだけ、欠席のしるしがずらーっと並ぶようになった。
これはきつかったですね。
不登校は、担任の精神力をかなり減らします。
こたえますね・・・。

多くの担任がそうするでしょうが、わたしも例にもれず、みなさんと同じように、自分を責めました。
責めて責めて、土日も、ずっと彼に申し訳なくて、なにがいけないんだろう、と考え続ける日。
咳が止まらなくなり、耳鼻咽喉科に通って咳止めの薬をずっと飲み続けていたのもこのころです。
しかし、ある時から医者が、

「精神的なものも大きいからね。年度末で軽くなるよ」

という。

そして、・・・その通りになりました。
ベテランのお医者先生はすっかりお見通しだったわけ。


3月になって、彼の母親と次年度のことを見越して、かなり長めの懇談をしました。
そのときのこと。



教室に来ていただき、二人でお話しました。
お茶を用意すると、それだけでもうハンカチを用意されて、
最初から涙を拭かれていたのを、今でも思い出します。
少し暖かくなってきていて、春を感じる季節です。
静かな、午後でした。


秋の学習発表会の話が出ました。
実は彼、9月の運動会には来ることができたのです。
でも、11月にあった学習発表会へは、参加できなかった。

9月に運動会に来れたので、次は学習発表会だ、というので、しかるべき対応を取ろうとしていました。コーディネーターの先生も支援級の先生も私も、みんなで学習発表会に来てもらおうと、かなり念入りな作戦を立てていました。
彼にはずっと前からそのための予告をし、クラスの中で彼の持ち場をつくり、すこうしだけ、目立つ場面に出てもらう作戦です。

セリフがあり、学習内容を読み上げて、同じ班のみんなと模造紙の順番を入れ替えると、学習結果がきれいに見ええてくるのです。会場からは、その瞬間、オーッ、とため息がもれるはず。
クラスの中でも、班の中でも、見栄えのする役、けっこうおいしい、と思う役をまかされて、当初は彼も、

「これならやれそう。行きたい」

とお母さんにもらしていたといいます。

それを聞いたお母さんはさっそく、うれしい報告、ということで担任にも連絡帳で知らせてくれました。わたしもそれを見て、夕方すぐにお返事の電話をして、あまりプレッシャーを与えないで淡々とその日までの準備を少しずつやりましょう、とお母さんに話しました。
お母さんも、うれしそうな声で
「今回は出てほしいと思います」
と期待していたようでした。
私もドキドキしながら、「ああ、来てもらえそうだ」との予感を強くしたのです。

しかし。

いよいよ、という時になって。
予想通りの展開になってきます。


前日の夜、彼は「ちょっとおなかがいたい」といい始めました。
お母さんはそんなこともあろうか、と予測をしていたので、落ち着いて対応をしました。
朝になってみたらどうなるか様子をみましょう。ともかく、今日は寝ましょう、と・・・。
すると、彼も、「そうだね」と落ち着いて、にこにこしながら横になり、やっぱり明日は楽しみだ、と言って寝たそうです。
ここでお母さんもうれしくなって、ご主人にも

「明日、いけそうよ」

とうれしい報告をしています。

ところが、朝になって、起き抜けに、不機嫌な声で、靴下がない、と騒いだのです。
これはお母さんも必死になって靴下を探し(というか目の前にあったのですが)、できるだけ静かな感じで、ここにあるから大丈夫、といって落ち着かせようとします。
むくれて靴下をはく彼。
お母さん、一瞬、何か言いたくなったそうですが、ぐっとこらえて、そのまま機嫌よく(と冷静さを保ちながら)朝食へ。

すると、朝食の場面で、彼の中でなにか、歯車が狂い始める。
ちょっとした弟の行動に腹を立てて文句を言い始めます。
お母さん、ぐっとこらえて、できるだけ早く朝食を済ませて、なんとか学校へ行かそうともくろみます。
だって、年に一度の学習発表会ですからね。本番なんです。

弟との口げんか、弟の方がひどく泣きましたが、もはやお母さんにも意地がありますから、軽くスルーしていつものように片付け、ランドセルを確認し、トイレ、ハンカチ、ティッシュ・・・と・・・。

ところがです。
ダイニングにある椅子から、いっかな、降りようとしない。

どうしたのでしょうか。
お母さん、ここで、すっかりわからなくなります。
昨日まで、あんなに楽しみにしてくれていたのに・・・。

どうして息子は、行ってくれないのか。
もしかしたら、このまま今日は、いけないのかも・・・。

こう思うと、本当につらくなって、

せっかく!!

という気持ちがぐぐっと頭をもたげてきて、

「なんのために練習もしてきたの、今日はぜったいに行きなさい! 行くって自分で言ってたでしょう!!」

と大声を出してしまう。

ここで、お母さん、一瞬しまった、と思ったようです。
でも、仕方がありません。
彼はもちろん、ふてくされてちっとも動かない。
「今日は行かない。行けない。行きたくない」
と言い続け、さらには、ぼろぼろと泣き始めます。

ここで「つなひき」をしても、仕方がない。
お母さんは、コーディネーターの先生と、「綱引きの土俵からは降りる」という約束をしていました。そこで、今、息子と綱引きが始まりそうだった、というのがわかって、ちょっと冷静さを取り戻します。
そこで、

「行きたくないんだね。そうか、エネルギーがまだ貯まらないんだね」

と言い、お皿を洗い出します。

「まあ、いいよ。・・・そこで座ってて、エネルギーが貯まるの?・・・どうせなら、時間かかってもいいから、自分の心にエネルギーが貯まることやりなさい」

彼の状況をと受け入れて、心のエネルギーをためるところに照準を合わせて話します。

すると、これもまあ、よくある筋書き通りですが、

「発表会に、ぼくは出ないけど、みんなのを見に行く」

と言い出すのです。

お母さんは表情を変えず、そう、それならそうしましょう、ということで、ゆっくり支度をして、学校へ行くことができました。

そこでもお母さんは、もし出られなくてもしょうがない、と思う気持ちとともに、もしかしたら学校へついたら、友達がさそってくれないかしら、顔をみて、○○くんって誘ってくれて、すんなり息子も舞台に出て発表してくれないかしら、と半々の気持ちになります。あきらめと期待が、入り混じったような感じでしょうか。

すると、これも筋書き通りで、彼に話をしたわけではないのに、

「お母さん!!学校に行くだけ・だよ!見に行くだけ! ぼく、ぜったい舞台には出ないよ!!!!」

と強い調子で言うのです。
まるで超能力。お母さんの気持ちを、すっかり感じ取って見通しているわけ。

お母さんはそれを聞いて、まあ9割方あきらめ顔になり、それで教室へ行きました。

すると、息子は舞台になっていた視聴覚室の小さな舞台、机の並んだ場所にはいかず、そこから少し離れた廊下にいて、そこから部屋に入ろうとしません。
カーテンがひいてあるのをいいことに、そのカーテンのかげにかくれて、みんなのことをじっと見ている。

お母さんもそこに付き添って、まあ部屋に入るんだか入らないんだか、という妙な場所に突っ立って、それでも内部の様子が見えるから、そこからクラスのみんなの舞台発表を見ていたのだそうです。

もうそこまできたらあきらめの心境が優っているから、

「○○くん、今、上手にセリフ言えたわね」

とか、

「○○さんが言っている暗唱文って、この間、Jくんが言っていたやつ?」

とか、普段通りの会話でもって、息子としゃべっていた。

ところが最後、クラスのほぼ全員がそろってリコーダー演奏をしたり、社会見学のときの小さな劇をしている姿を見たり、本当は息子が出るはずだった、いうはずだったセリフを、まったく初めてとは思えないほどの上手さで、別の子が巧みにしゃべって発表したのを見た時から、

「ああ、うちの子は本当は、先生にも友達にも、信用されていなんだ」

と思ってしまい、さらには、あそこの舞台の上に、なぜ息子が立っていることができなかったんだろう、なぜ、うちの子はあんなふうに、ほかの子と同じように笑ったり、発表したりができないんだろう、と考え出すと、つらくて涙が頬を伝ってきて、もう声が出そうになって、必死になって立っていたのだそうでした。

そうすると、これも案の定ですが、

「お母さん、もうやだ、帰りたい」

と言って、息子が手を引っ張るので、私に向かって目礼をして、すぐに帰宅したのだ、ということでした。

ここまで話を聞いて、私も、しばらく何も言えずに、シーンとしていました。

今、こうやって振り返って整理してみると、


すべてお母さんの心境に合わせて、
子どもが動いていることがわかる。




しかし、この話を目の前で聞かされているときは、自分が責められているような気持ちで聞いていましたので、教師ってつらいなあ、ということを思ったことを覚えています。

とくに、代役の子を立てて、(ひそかに、でもないつもりでしたが)練習をさせていた、ということを責められた、と思ったのです。

私は、お母さんに謝りました。

しかし、お母さんは、まったくそんな必要はない、ということをおっしゃってくださいました。
そして、

「わたしがこうやって、息子と、ぐるぐる・ぐるぐると、なにか迷路のようなところを回っているのには、きっとなにか意味があることと、思うようにしています」

とおっしゃったのです。

いま、こうやってブログに書いてみていると、本当にそうだなあ、と思います。
お母さんが、子どもにテストされているみたいなものですものね。
お母さんが子どもを受け入れた時は、子どもも母を受け入れるし、
お母さんが子どもを受け入れられないときは、子どもも母を受け入れないのです。

ここまで見事に一致していると、すごいと思うけど・・・。


彼から、今でも、年賀状が届きます。
去年の年賀状には、中学校に入学するので、新しい制服を着ている姿が、写真に写っていました。
あのときと同じような、素直そうな、いい笑顔がありました。
そして、横で、お母様も、笑っていらっしゃいました。

入学式3

学校教育の中で、いちばん大事なこと

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子どもというのは、失敗を多くする。

失敗を繰り返しているけれども、

その失敗をしたときに励まして、

一回や二回の失敗でくたばったらだめだ、

ということを教えることだと思う。


<あなたの荷物が世界でいちばん重たい荷物なのよ>


思わさないことが、

学校教育の中で、いちばん大事なこと。

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雑巾をなかなか干さない子

.
子どもたちの椅子の下に、雑巾をつるしている。

他の学校は知らないが、愛知県の小学校ではよくあります。

椅子の下に、せんたくばさみをとりつけていて、

子どもの椅子の下には、床すれすれのところに、

ぞうきんが干してあるのです。


ところが、そのぞうきんが、どうしても床に落ちる子がいる。

つまり、せんたくばさみで、いちいち、はさんでつるすのが、面倒なんでしょう。

だから、洗濯バサミをつかわず、つるん、と

棒にひっかけておくだけ。

したがって、授業中に椅子をゆらしたり、立ったり座ったりすれば、

かんたんにそこから、ずり落ちてしまうのであります。


これを、教師は、負けちゃいけない、とばかりに、

何度も注意します。


ところが、こういうケース、ちょっとした、ささいなことであればあるほど、

教師から見て、「そんなもの、すぐに直せる癖だ、かんたんだ」

と思うものであればあるほど、

なかなか、直らないのです。

洗濯ばさみで、ちょちょっと、はさむ。

その動作を、面倒がって、やらないのであります。

大人から見ると、超、かんたんなことなのに。



するとね。

先生は、


こんなに簡単なことなのに!
自分の言うことを聞かない子だ!



と思うわけ。

めげたり、いらいらしたりしちゃう。



こういう場合、言葉での注意、うながしは、やめた方がいい。

たぶん、その子自身も気づいていないような、なにか「事情」があると思います。

つまり、その子にとっては、なにか合理的と思えなかったり、方法が気に入らない場合や、

「ぼくはもっとこうしたい」という思いが、潜んでいたりするときがある。

あるいは苦手意識や、よくない思い出など、

なんらかの潜在的な理由があるのではないか、とみます。



こういうとき、まったく新しいやり方を提案すると、良くなるときがあります。

「ぞうきん、そこにかけるの、やめようか」

「うん」

「そこだと、すぐに落ちちゃうね」

「うん。下にかがむのが面倒くさい」


こういう子、います。

かがむ格好を、生理的に嫌う子。

大人からすると、信じられないけど。




「じゃあ、置き場所を変えよう。この箱の中にしよう」

Aくんの場合は、そうじロッカーの金属面に、マグネットでくっつけておける、小さなバスケットをとりつけて、そこにかけておくことにしました。

バスケットは、100円ショップで買ったものです。

一発で気に入りました。そして、かかさず、そこに入れ続けてくれています。

「そうじ道具は、みんなここ」

Aくんの頭の中も、すっきりできたようです。

汚れて「きたない」雑巾が、自分の座るイスの下にある、というのが、

なんとなーく、気になっていた(いやだった)みたいです。

綺麗にすすいで洗ってるのだし、そんなん気にするかよ、と思うのですがね、

こっちからすると・・・。




小さなことほど、やり方を大々的に変えると、効果的なことが多いです。

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「しつけ」がむずかしい時代になった

.
保護者会などで、よくスマホのゲームとか、テレビゲームのことが話題になる。

よく言われるのが、

「学校の方で、一律に、ルールを決めていただきたい」

というもの。

つまり、家で子どもを叱るときに、

「ほら、学校でもルールで決まっているんでしょ!」

といって、ゲーム機やスマホをとりあげやすいから。




昔は、こんなことで、あまり苦労しなかったと思うね。

なぜなら、わたし自身を振り返れば、よく母親が言うのは

「金がないから、無理」

というセリフでありまして、

それ以上の理由も説明も、なにもない。

べつに、それで躾をしよう、と意図したわけでなく、

「そんな金、どこにある。新しいものは要らん。無理、無理・・」

と言っておれば、うまいこと躾けられた(ような雰囲気になった)のではないかと思う。

隣近所も、なにかそんな雰囲気だったから、まだまだそれでいけた。

今のように、ほとんどの人がスマホを持ってる、という時代とはちがったのです。




・・・ということは、現代のお母様方が悩んでいらっしゃるのは、時代のせい、かも。

お母さんたち自身に、躾の能力があるとかないとか、そんなことではなく、

昔の母親がいちいち考える必要のなかった、

スマホやゲームのルール作りなどまで、自分でしなければならなくなったからです。



家庭で考えていかなきゃいけない諸問題が、多すぎる!

これが、今の世の中が採用する「子育てシステム」の、つらいところ。

今のお母さんたちは、それでかなり苦労している。

一人ひとりのお母さんの、キャパを超えているでしょ?

新しい時代の、新しいしつけ、新しい子育て、

新しい社会を見越しての助言など・・・こりゃ大変だよ。



それを、すべてのお母さんが一人でこなしていくなんて、

超難関な事業です。

苦しいのは、母のせいじゃ、ない。

ひとりのお母さんだけで、「現代版子育て」なんてできるものじゃない。



世の中が変わっているのだから、

社会全体の子育てのシステムも変えたらいいはず。

どうやら、

「伝統的な価値観での子育て」では、

無理、という時代に


なってきているようです。


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「褒める」が分からない話 その2

.
いつのころからか、「ほめる」は、不要、と思い始めた。

それまでは、要る、と思っていた。

必須、と思っていた。

だから、わたしが教室経営をうまくやっているとしたら、その原因は、

「子どもをうまくほめているからだ」

と思っていたことまである。

それくらい、今の教員は、「ほめる」に頼っている。

「ほめるから、うまくいくのだ」というふうに、これはもう分かちがたいものとして、考えているのが、今の多くの教員だと思う。



しかし、ガラリと考えが変わってしまった。

「ほめる」を特に意識しないでいても、ふつうに暮らしていることができた。

子どもに何かしよう、という意識よりも、子どもに

「どうする?」

と聞いていることが多かった。

子どもからの言葉は、たくさん出てきたけど、最終的には、

「そうかー。先生はこう思う。こうしてほしいな」

というと、子どももすんなりと、

「先生がそう思うなら」

と、クラスが進んでいった。



学んだのは、

子どもに、何かを「思わせよう」としなくても、ちっとも教師は困らない、ということ。

「こうしてほしい」

と伝えれば、すべてがOKだった、ということ。

子どもは、大人の言うことを、案外と、聞きたがっている、ということ。

また、子どもがそうしなくても、こっちは困らなければいいのだし・・・。



まったくストレスのない、教師と子どもの関係がある。

(関係と言うのかな?)



そのときに、「ほめる」 は、フェードアウトして、舞台の上から、消え去ってしまった。

私の頭の中からも、気持ちからも、スーッと消えてしまった。

褒める、ということについて、考えなくても良くなってしまった。

もう、子育てや教育のことを話す時に、私は

「褒める」

という言葉を使わない。

「叱る」もね。


しっかり褒める
しっかり叱る
どっちも要らない。



どっちも要らない子育て。


そのかわり、
子どもの不安を取り除く子育て。

気持ちを、きちんと伝え合う子育て。

「こうしてね」(ねがう)

「こうしたよ」(なにかする)

「そう!オッケー!良かったね!」(うれしい)

跳び箱だって やった!

「褒める」が分からない話

.
教育現場において、

「褒める」ほど、難しい言葉はないと思う。

おそらく、「ほめる」という言葉の中には、とても多くの事例が含みこまれている。

だから、わたしは、「ほめる」という単語を、使うのに、躊躇してしてしまう。



本音を言うと、ネ。

子どもや大人の関わりのなかで、

「ほめる」が広すぎて、雑すぎて、あまりにもおおざっぱで誤解を招くから、

『言葉』としての寿命を感じるというか、もう、使えない気がしている。


担任の心の状態って、それこそ千差万別、いろんな場合がある。



褒めるのが良い

褒めましょう




と結論を出した気でいるけど、


その、言葉をかけたくなった担任の、心構えや考え、背景は、どうか?


○喜ばせようとしての言葉がけなのか。

○それとも、「喜ばせよう」とはちがう言葉がけなのか。

○教師の「評価」なのか。

○教師の「ねがい」なのか。



いろんな意味で曖昧なのに、

先生どうし、お互いに

「褒めましょう!!」

と言い合っていても、

その内容や質が、フワフワしていて、

本当に実現したい子どもとの関係が、

ちっとも、つかめないまま。




先生たちどうしで、

「なんで褒めるのか、褒めるとは何か」

と、話したこと、ないものなー。




うれしい~

お母さんが困るのは・・・なぜか。

.
登校しぶり、と言われている子がいました。

子どもたちが登校する玄関ではなく、職員が通る通用口の玄関があります。

そこに、親子が2人で立っていました。

つまり、他の子といっしょの児童用玄関からは、入りたくなかったのでしょう。

たまにそういうケースもあるので、わたしも「ああそうか」と事情を汲んで

挨拶しながら、学校の建物に入ろうとしました。




すると、そのとき。

お母さんが、苦しい顔つきで、子どもの手を引っ張りながら、

「お母さんだって、困る!」

と言ったのが、聞こえたのです。




子どもは泣いていました。

子どもの足は、動きません。

子どもは、何も言いませんでした。



お母さんは、これからお仕事へ向かおうとされているのでしょう。

スーツ姿で、ビシッとされていました。

営業なのか、事務なのか、どんなお仕事なのか分かりませんが、

朝の8時です。これから出勤しないと、間に合わない、という時間なのでしょう。



お母さんだって、困るんだから!!



お母さんは、確実に困っていらっしゃったようです。



〇子どもは困っている。
〇お母さんも困っている。


そこに、観音さまが現れて、2人を救ってくれたらいいのですが。

ところが、この場面には、2人しかいないのです。

あ、もう一人いた。

先生です。

見ると、先生も、苦痛にゆがんだ顔をしています。

〇先生も困っている。

3人3役、3者全員、困っている。




あんたが困っていると、わたしだって困るわよ。

と、全員が思い合っているのです。

ヘビ → カエル → ナメクジ の3すくみ状態に近い。


子ども「お母さんが困るって言ったって、そんなこと言われてわたしが困るじゃん!」

母「子どもが困るって言ったって、そんなこと言われてわたしだって困る!」

先生「子どももお母さんも、2人で困ると言い合っていたら、わたしだって困る!」




優先順位を決めた方がいい。

この場合は・・・???







どう考えても、大人が子どもを理解するのが優先でしょうナ。

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おかあさん

.
どの子も、お母さんのことになると、真剣に作文を書く。

どの子も、自分のお母さんはとくべつに、いい、と思っている。


お母さんの誕生日に、なになにをしてあげた、というのを、子どもが日記に書いてくる。

すると、お母さんはとてもよろこんでくれた、と、たいていは書いてある。

兄弟が3人いて、いちばん上のお姉ちゃんは、〇〇を、

中のお兄ちゃんは、〇〇を、

わたしは〇〇をしてあげました、と書いてある。



詳細が記してあり、

上のお姉ちゃんのプレゼントについては、お母さんはこう言った。

中のお兄ちゃんのプレゼントについては、お母さんはこう言った。

わたしがあげたプレゼントについては、お母さんはこう言ってくれた、と書いてある。

子どもは、言葉の端々まで、ぜんぶ、そのままきっちりとよく、聞いているのです。




夕飯のあと、お母さんが片づけをしながら、口笛を吹いていたので、

「おかあさんが口笛を吹いてる」と言ったら、

「あんたたちのプレゼントがうれしかったからね」

と言っていました。

そんなことまで、ぜんぶ、覚えていて、日記に書いてくる。



「うちのお母さんって、こうなんだよ」

ということを、聞いてくれる人が要るのでしょう。

だから、手近な、先生に話すのでしょうなあ。




お母さんのやることなすこと、みんな、嬉しいのですナ。

おかあさんは、やはり、特別だなあ、と、

教師生活を続けているほどに、その思いは深くなっていくばかりです。

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心が健康という件

.
こころと脳の、ともに健康な子を育てる。

すると、どうなるか。


会話が、こうなる。

〇〇したいなァ
〇〇になったら面白いなァ
〇〇は、すてき
〇〇は、いいねえ
〇〇にしてみるか
〇〇するのもいいねえ
〇〇というのもあるゾ
〇〇にならないかなあ
〇〇やってみるよ
〇〇やろうかな

つまり、楽しい事ばかり、浮かんでくる。

ストレスが無いから、病気しらずで、
心と頭の中の世界が豊かだから、さみしさが無い。
孤独感しらずで、嗜癖(中毒・耽溺・盲目)が要らない。
無いと困るということがなくなり、目を閉じているだけで満ちている。

やる気がとくにあるわけではないけど、知恵やアイデアが泉のように噴き出し、的確である。
実行できるかどうか、定かではないけど、常にそのための準備が進んでいく。

そして、やる気は無さそうに見える。たぶん。
「頑張って、目標達成するぞ!」なんて、言わないし。
周囲を説得して歩く、なんてしなさそうだし。

でも、いつの間にか、いろんな準備をしてる。
やる、やらないには、こだわらないけど、いつの間にか、やってる。



そういう子ばかりになったら。

たぶん、今ある職業のようなものは、すべて、無くなる。
一人の人間が、毎日、同じことばかりを繰り返す、というの、無くなる。
これまでのような、職業という感覚、それ自体が無くなる。

仕事という仕事はすべて、完全に、「倶楽部」という感じになるかもね。
同好会、というか。

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鉛筆を削ってあげたい

.
わたしは、もし自分が母親だったら、

子どもの筆箱を開けて、ウハウハと喜び勇んで、鉛筆を削ってあげたいですな。

それを見た子どもから、

「お母さん、もう自分でやるからいいよ」

と言われたら、

「あ、そう。ざーんねん!!もうあと、ちょっと、やりたかったなあ」

と惜しそうな顔をして、言ってみたい。



お母さんは、

学校の先生みたいに、

「きちんと削っておきなさい」

なんて、言わないのがいいなあ、と思うんですけどネ・・・。

お母さんは、ほかにいないのだから。



わたしが教室で、鉛筆を削ってあげる子がいます。

その子は、家にお母さんがいないからね。

ちょっとおせっかいを楽しんでます。



休み時間、その子は、鉛筆を削るよりも遊びを優先しているので、

すきをみつけると、わたしが削ってしまいます。

隣の女の子は、いつもそれを楽しみにしていて、

休み時間が終わると、

「〇〇くん、もう先生が削っちゃったよ!」

と、伝えています。

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「忖度(そんたく)」について

.
世の中がまっすぐ進むのなら、あえてそこを右や左にずれながら進んでみたい、という思考が、粋(いき)なのだろう。

表側ばかりを見る世間に対し、あえて裏地に凝ることで、ズレてみせる。


内田百閒は、小学生の時点で、くわえ煙草をしていたらしい。

先生が注意をすると、

「校内は禁煙とは書いていない」

と言い張ったそうだ。



これなど、意識的にズレているのだろう。




「忖度(そんたく)」というのは、ズレ、ではない。

恥ずかしいくらいに真正面から、過剰に正しく反応してしまうこと。

だから、無粋なのだ。

その、「忖度」を平気で他人に対して求めているのは、もっと無粋だ。



芸術家は、ことごとく、ナナメ上を目指している。

ピカソは物の形を極限まで追いつめて、常人の想像を超えていった。

マティスもそうだ。写実から離れて、形の面白さを追究し、最後は切り絵の世界にはまってしまった。

当時の大衆が求めるものはこういうものだろう、と、「忖度」を気にする画家であったなら、ぜったいに達し得ない世界だ。




人間の面白さ、ユニークさ、たった一人のその人らしさ、というのは、

周囲に「忖度」したり、させていたりする世界には、輝いて見えてくるわけがない。



しかし。

この世に、ごく自然な「忖度」がある。

大人が、子の気持ちをおしはかってする、「忖度」である。


親が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。

先生が、子どもの気持ちを忖度する、という方向。

どちらも、忖度の方向性は、一方通行で決定している。



親が子に向かって、自分の機嫌を忖度させてばかりってのは、逆さまな話。

  (でた!・・・また、サカサマな話かよ!)


写真は、マティスの『オレンジのある風景』。

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家庭訪問は学びの宝庫

.
親は本当にすごい。
子どもをすべて受容する。

家庭訪問でどの家庭で、どのご両親に会っても、頭が自然に下がる。
子どもは、この愛のなかで育まれている。

お母様のお話を短い時間に集中して聞かせていただく。
わたしはもちろん、正座。
これは、そうでしか聞けないくらいの心境になる。

たっぷり子育ての大切さを聞かせていただいて、わたしはどうしても体調のことやお友達のことで聴けなかったことだけを、少しお願いして聞かせていただく程度。
それで十分だ。

おうちの方に、たっぷりと、お話して頂けることが、最高だ。



少し気になるとすれば、なかには、どうも自分のお子さんとなると自信がない方もいて、

「うちのはまるでダメですが」

とおっしゃる。

それはまことに惜しい。

ただの謙遜にしたとしても・・・



ご自身の家庭のお子さんのことも、本当にありがたい子です、と言っていいのに、と惜しく思う。

たとえば、お母さんがこういう話の展開をされる。

1「わたしは子どもをどう育てるべきか十分に分かって、躾もしてきたのですが」
   ↓
2「この子に限っては、まるでダメですわ」
   ↓
3「なぜなら、この子が期待通りに動いたり考えたりしてくれないから」
   ↓
4「でも先生、わたしはこの子を正しく育て上げるために力を尽くします」
   ↓
5「結局ね、先生。教育というものは、子どもの生きる力をいかに大事にするかなんですよ」




わたしは、すべて聞く立場。
お母様の話を聴くだけである。


「教室では本当に機嫌よくすごしてくれているのですが、おうちでしっかりとお母様にみていただけているからですね。ありがとうございます」

と言うくらいで・・・。


まことに、教師の幸福とは、このこと。
つまり、家庭と学校の往復をする、子の姿の確認にあるだろうと思われてならない。


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教室に赤ちゃんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!

.
授業参観がありました。

中には、1歳にもならないくらいの赤ちゃんを連れて、授業参観に来る方もいる。

赤ちゃんを連れてくるの、全然問題ありません。

まったくOKです。

むしろ、わたしは赤ちゃんがくると、テンションが上がる。

授業中に赤ちゃんが泣いたりすると、子どもたちも、ほっとするんです。

みんなで、その赤ちゃんを祝福したいような、一緒に泣きたいような、抱っこしたいような気持になる。

それが、教室にいる子どもたち全員、先生、そばにいる大勢の保護者の顔が、いっせいに和むのですから、そりゃあ、赤ちゃんのもっている「なごみパワー」って、すごいものです。



ずっと、そう思ってきました。



ところが。

予期に反して、こんなことが起きました。


赤ちゃんが泣いたとき、

「ママがいるでしょ!!!」

と強い口調で言い、黙らせたのです。

「まったくこの子は泣いてばかりで、すっごい『びびり』なんですよ・・・」

ああ、もう、困ったわ、という感じでしょうか。


「びびり」って。

赤ちゃんはびびるのが普通やで。



しかし、若いママも、泣くと迷惑と思い込まされているためか、泣きやませようと

を入れ続ける。



その赤ちゃんのふくふくとした顔と泣き声と、お母さんの激しい口調がギャップがありすぎて、思わずわたしは絶句しましたが、それでもかまわず赤ちゃんが一瞬びっくりしたものの泣き続けたので、クラスは爆笑に包まれました。


でもネ・・・。

よく考えてみてくださいよ?


親に困られると、本当に赤ちゃんとしては、うんと困りますよネ。

赤ちゃんからすると、

「ねえママったら!!!あなたが困ってる場合じゃないでしょっ!」

と、つっこみたくなる場面だと思うのです。

こんな、すぐに困るようなお母さんでは、赤ん坊としてはたいへんに困る。

この世で、困ってよいのは、赤ちゃんだけだ、というのは誰の名言でしたか・・・。




親が困ると、子が困ります。

でしょう?

親は、子どもを困らせないようにしなければ・・・。



両方困ったら、万事休す。

それでも親が困るのをやめないんだとしたら・・・、

まあ、世の中、ぶっとんでる、ちゅうことになりますナ。

にこにこ

「うちの子、野菜を食べないんですけど、大丈夫でしょうか」

.
家庭訪問 ちぐはぐな会話・その1


「うちの子、野菜を食べないんですけど、大丈夫でしょうか」

「あ、そうですか。正直、あまり気にしていませんでしたが、なにか気になりますか?」

「給食の野菜を食べないので、前の先生から、よく叱られたそうで」

「ふーむ。叱られた・・・わたしも、叱った方がいいですか?」

「あ、いえ・・・食べなくてもいいんですか?」

「どうでしょう・・・。本人は、どんな感じですかね。なにか困ってる様子があります?」

「・・・体の方は大丈夫かな、と」

「健康面は・・・まあ、学校は一度も欠席なく、体育の授業でも思い切りやれているみたいですけどね」

「ははあ・・・あんまり野菜を食べないので・・・野菜は食べなくても大丈夫ですかね?」

「ははあ・・・大丈夫だと思いますけどネ・・・。どうでしょうネ」


このあと、わたしは、保護者の方の片方の目を、かぎりなくじっと見つめます。


すると、おうちの方は、少し動揺したような表情で、

「ははあ・・・大丈夫でしょうか、ねェ・・・」


と、たいてい、繰り返し、腕を組んで、おっしゃいますナ。


わたしも、同じ回数だけ、

「ううん・・・大丈夫だと、思うんですけド、ねェ・・・」

と、腕を組んで、言います。


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同じ服装になる高学年女子のこと

.
気の合う友達と、「みんなで同じ服装にしよう」ということになったようだ。

コートを同じような色とデザインのものにして、お揃いのようにして着ている。

コートだけでなく、中に着る服装も、なんだか同じようなデザインのもの。
当人たちは、ニッコニコ、である。


まあ、ものの一週間もすると、そんなことに急に醒めてしまうらしく、普段通りにもどっていきますよ。大抵は、ね。

こっちは気にも留めないが、頭の片隅の1%だけ、気にする。
そのことが、当人たちを苦しめていないか、という一点について、心配をする。



ところが。
もし、同じ服装、というのが1週間つづき、さらにつづくようだと、心配レベルを少し、上げないといけません。
また、万が一、さらに翌々週も同じ服装ゲームがつづくようだと、ちょっとひとつ、アクションを考えなければならないでしょうな。


わたしは、

「ともだちは、契約してできるものじゃない」


という話をする。

友だちとは、どんな関係のことをいうのだろうか。


たぶん、そのままでいいよ、という関係のことだ。

〇〇してくれないとダメ、とか、契約条件を結んでる?
そういうのが、無いのが、友だち。

〇〇してくれなかったら、にらむ、とか。
〇〇してくれないなら、話をしない、とか。

そういうのは、友達じゃなくて、契約者。
本当に仲が良かったら、契約は要らないもの。




もし、あなたを責める人がいたら、責める方の心に、なにか寂しさや、苦しさがある。
人を責めたくなるのは、自分が寂しかったり、苦しかったりするとき。

寂しくなくて、苦しくなくて、ごはんがきちんと食べられていて、あったかい布団でしっかり寝ているときは、だれかほかの人を、苦しめようとは思わないし、責めようとはしない。

だから、あなたを責める人がもしどこかにいたら、その人は、なにか心が苦しい人かも。

あなたがどれだけ楽しそうにしていても、友達なら、文句を言わない。
あなたがどれだけ嬉しそうにだれかと喋っていても、友達なら文句は言わない。

もし、文句を言いたくなる人がいたら、その人の心が、なにかで重くなっているかもしれない。
だから、その人のことを、心配したくなる。それが友達。



こういうことみんなで考えて、あーだこうだ、と学級で話をしていると。

同じ服装ゲームは、いつの間にか、無くなります。

ひと言も、たったの一度も、「服装」の話なんか、していないのに。

「責めるとは何か」ということを考えていくと、個性が出てくるんです。
不思議です。なんの脈絡もなさそうなのに。

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子どもとの会話について

.
子どもに、なにかを伝えるときのこと。

あてにしないで、伝えてみる。

子どもが何かを伝えてきたとき。

不思議なことを言うなあ、と聞く。


子育てのコツは、これか、と思うようになったネ。

もうかれこれ10年にわたり、ほとんど毎日のように小学生と話をしてきて、これにたどり着いた。

肝心なのは、

やりとり

ですか、ね。

目線とか、ボディランゲージもあるけど、やはり会話。

自分が発する言葉の、

口調。

音声。

そこらへんも味わいつつの・・・。




子どもが何か言っても、

「うむむ、さすが未来人。言うことが一味違う・・・。さっぱり・・・分かるようで、おれにゃ、分からんなあ」

という感想。



だから、あらま先生は、なんとなく、

信用できない感じ

だそうだ。

いいよね、このスリリングな感じが(爆)。

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「だれだって、怒られたくない」

.
教師に怒られるのがイヤで、ドリルの答えを写してしまう子がいます。

間違いを恥とし、点数の高い低いで教師に脅され、「そんなんじゃ、幼稚園の子にも笑われるぞ」なんて言われたら、脅しによる恐怖を避けるために、裏道を行こうと考える子だっているでしょう。

素の姿を見せると罰を受けるという恐怖から、本当の姿や素直な心持ちはひたすらに隠し通し、波風を立てぬよう、親や教師の前ではいい子でふるまう。

決して、間違いを口にしたくないのです。

すべてにおいて、教師に「非」を悟られたくない。
そもそも自分の行動の一つ一つ、それが「非」かどうかの判断を誰がするのでしょうか。

教師がする?
だとしたら・・・
そりゃあ、教師に対して、「警戒心」も発達するでしょう!
ともかく教師には余計な詮索をされたくない。

何かをするたびに指摘され、<裁きと罰>で脅されていたとしたら、どう感じるようになるでしょう。きっと素直な考えを口に出すことをためらう子がでるのではないでしょうか。

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大人だってそうです。
素直な思いを口にした途端、腹を立てたり、言葉じりをとらえて気にしたりする上司がいれば、だれも思ったことを口にはしなくなるでしょう。

思ったことが言えない空間、教室、学校。
だれもそんな場所に、いたいとは思わないでしょう。

考えてみれば、私たちは、「怒られないために、叱られないために、悪く思われないために、迷惑のかからないように」と、先回りして心配し、何か手を打たねばと焦って行動することが多いです。
教室の子どもたちも、まったく、その通りであります。


人にどう思われるか、と我慢している子は、素直で思ったことを言う子に対してやきもちをやきます。

教室で発生するいじめの首謀者は、本音を言えない、さびしい、友人のいない子がほとんどです。
親にも友達にも教師にも、だれにも心を開けない子。
心を開かない子が、開いている子の自由さにあこがれて、足を引っ張るのがいじめです。
自由でないから、憂さを晴らす。ストレスをぶつける。

大人が感じるべきなのは、その子の表面に出てきたものでなく、その子の内面でありましょう。そのためには、決して、<裁きと罰>を即効的に持ち出さないことです。
<裁きと罰>で脅せば脅すほど、その子は、カムフラージュの術にたけていくだけです。

卒業を目前に、
「叱られたくない」という一心で、卒業式の合唱練習をするのだとしたら、その合唱の意味は何でしょう?
カムフラージュの合唱が「透きとおった歌声」なんかになるわけがない。

クラスの中で、安心して過ごしているかどうか。
その「安心」だけが、その子の「素」を引き出すのかと思います。
卒業式の合唱を聞いて、どう聞こえるか。
そこに、教師が1年間、積み上げてきたものがすべて、現れるのでしょう。

見た目の態度や行動やセリフなんて、ぜーーーんぶ、薄っぺらな、表面だけのもの。
それでなにかを評価されたり、判断されてたら・・・

「大人なんて、かんたんにだませるな」

ということになりますネ。

新間先生の方を向いて、歌おう、という子がいたら、その子の目を、しっかりと見つめようと思います。

人間の良さ、をどう表現するか

.
世の中一般に、『黒い黒熊』、などという言い方は、あまりしない。
黒いのが当たり前だから、あえてそんな修飾語を使わないのである。
もし、白い黒熊がいるのだとしたら、あえて黒い黒熊、というときがあるかもしれないが。

(・・・と、ここまで書いて、あっ、白い黒熊って、パンダのことだ!・・・と気づいた)

さて、

同様に、「のろいカメ」とは、だれも呼ばない。
亀はのろい、というのが人間の共通理解であり、前提だから。
もしも、けっこうなスピードでガンガンと走るような亀がいたら、人間はおどろいて、

「これは、速いカメだ」

と、修飾語でおぎなって呼ぶほかなくなるけれど。



同じように、わざわざ「狡い政治家」、「明るい卓球青年」とは、言うことはない。


「政治家」というと、今はなんだかとても、〇〇〇なイメージになってしまっているから、ごくごくふつうの、しっかりした政治家に出会うと驚いて、

「なんとも誠実な政治家がいたものだ」

という少々の感動を覚えながら、

「彼は誠実な政治家だ」

と、言葉を足して、言うほかなくなる。
だから、その言い方は、社会の中で許容されるのである。
(逆に言えば、ずるい政治家、という言葉は、当り前でくどいからか、なかなか使われない)



さらに、卓球青年は昔とちがって、今はとても明るいのがふつうになってきている。
オリンピックの影響が大きいかもしれない。

わたしが、タモリの真似をして

「卓球は暗い」

というようなイメージでかまえていると、現代の子どもたちはまったくそんなことを思っていないことに気付き、元卓球部で自虐的なわたしは、少々恥じることになる。

したがって、いまどきは、
「卓球青年」は明るいのが当然なのだから、
あえて、『明るい』卓球青年、とは言わないのが当然なのである。


さて、話がもどってきた。


黒い黒熊
のろいカメ
狡い政治家
明るい卓球青年


もし、あえて、わざわざ、このように言うことがあれば、
それは、その人間の無意識の価値観を照らし出しているのである。

言葉になにか、自分が無意識にくっつけている『修飾語』をよく見てみてると、
自分が、なにを前提にしているのか
が、みえてくる。


わたしは先日、子どもに対して、

いい子

と言ってしまった。

子どもは、いい、に決まっているのだから、わざわざ 『いい』 なんて、言わなくてもいい。

そのことは分かっているのだけど、他に、言い方が見つからない、というところに、現代教育の悲しみ、親子関係のゆがみ、苦しみ、おかしさ、未熟さ、ということが詰まっているように思う。

逆に言えば、

いい子

というのを、もっと別の言葉で、べつのニュアンスで、べつのやり方で、べつの雰囲気で、べつのアプローチで、べつのメンタルで、

言うことができれば、それはもう、本当に人間の認知の、社会全体の、大革命につながると思う。

ぱんだ

むぎ茶が何とも言えず美味い件

.
「酒、強くなりたいな」

学生の時はたらふく飲んでいたし、平気だったのに。
たぶん、なにも感じずに、ともかく勢いで飲んでいたのでしょう。
その後、十年ほど、まったく飲まないでいました。

今も、たまの付き合いくらいで、ほとんど呑みません。
でも。
スーパーに買い物に行き、ビールがずらーりと並んでいるのを見ると、つい手を伸ばしたくなります。
一瞬考えて、やっぱり買わないのですが。
身体はそんなに欲してないな、という感じかな。

ところが。

ノンアルコール、というのを、ある時きっかけがあって飲んでみたら、これはなんだかいける。
つまり、炭酸飲料だと割り切って飲んでいると、なかなかうまい。

で、この1年間。
実にドイツやオーストラリア、米国、韓国、日本など世界各国の10銘柄以上を購入、吟味し、かなりのエネルギーを費やして飲み比べてきた結果・・・

昨年の夏以来でありましょうか。
このたびようやく、ある一つの解にたどり着くことができました。
熟考の末、私にとっての『BEST・ビア』が分かりましたので発表します。

それが、コレ。

ビール


メーカーは、日本ビール、という会社。
聞いたことないが・・・。

これを売っているのは、近所の生協しかない。
おそらく生協オンリーなのだろう。

味は、まあまあのビール味で、材料的にはモルトとhopなので、ビールと同じだ。
他のごちゃごちゃしたものが入っていない。
ただし、アルコール分が無いので、リッチな感じはしない。

嫁様は、ひと口のんで、

「まっず」

と言い、二度と飲まないと誓っていました。
「こんな水っぽいだけの、酸っぱく苦いもの、ちっとも美味くない」

これも私には好都合で、家の中で私しか飲まないでいられるのは最高の気分である。

嫁様は、麦茶が一番だ、と言い張る。

一理ある。この人は冷静ですな。麦茶は美味いから。

夏の間、わたしはこのノンアルコールビールばかり飲んでいたのですが、最終的にはまた飲まなくなった。

なぜかというと、味に飽きてしまったからです。

つまり、酒というものは、嗜好品として飲んでいる場合には、あれこれと銘柄を変えなくてはいけない、ということです。

わたしの祖父はそうではなく、嗜好品だとか言ってる段階ではなく、まさに命の水、というような勢いで飲んでいました。

え、こういうような、自分の使命感をもって飲んでいる場合には、銘柄は固定してしかるべきでしょうな。おれはこの酒と共に生きる!と断言しているのですから。
実際に祖父は、頑として「鬼殺し」という恐ろしい酒ばかり呑んでました。またその酒を呑むときの、表情がすごい。最初は微笑みから入り、徐々に顔が赤らんでくると、目が据わってきて、表情がなくなり、目を閉じて静かーーーに飲み続けるのです。

まー、怖かったでかんわ。(名古屋弁)
「鬼殺し」を飲む祖父のイメージは、とても凄いものがありました。


わたしは、飽きっぽいのかな。
わたしは、ふと気分を変えて呑むから、いつまでたっても、コレ!というのに出会うことができないでいるのかもしれない。

子どもは、答えを『答え』にしない件

.
子どもは、答えを『答え』にしない。
答えを、一応のものとして聞き置いて、先に進もうとすることが、できる。
いったん、「うん、わかった」を横における。
「もう、わかった」を、眠らせて置ける。

次から次へと、調べていこうとする。
それが、子どもの良さ。

大人は、あまりにも簡単に「わかった」を言いたくなる。
夏休みくらい、間近にいる子を見て、学ばないとね。

大人がいちばん
「わかった」
とか
「気づいた」
と言いたくなるのが、人間の心理面。

自分の心なんだから、わかってる、と思いたがる。
ところが、ちっとも分かっていない。
じっくりと考えたことなんて、ない。

浅い、浅い、浅いところで、「わかった」と言いたくなる。
これは、不安のうらがえし。
自分の心の動きや状態、分からないはずがない、と思っているのだ。
分からないという自分に、不安を覚える。
だから、
もう分かった、〇〇だからだろう、ほらね、これでいいだろう、とすぐに、言いたくなる。

好きとか嫌いについては、とくにそう。

どうして、キライ、と判断し、その瞬間に嫌悪感を感じるのだろう。
どうして、心が締め付けられるような感じを受けるのだろう。
その存在を認めず、あるいは消滅を願い、相手が変わることをひたすら願い、相手が変わらないことを呪い、自分の不運を嘆いた瞬間、なぜ、その強い絶望と、あてどなく呻きつづける自分の姿を悲しく思うのだろうか。

これが、なぜなのか。

「そんなん、当たり前やろ!!」

というところでSTOPするのが、関の山。
大人には、無理な人が多い。

子どもは、答えを答えとしてみない。
わかった、としない良さを持っている。
その証拠に、

「嫌いだ、と思ったら、どんな気持ちになる?」
「いや~な感じになる」
「じゃあなんで・・・、嫌いだな、と思ったら、いや~な気持ちになるのだろう?」


という質問にも、ちゃーんと、考えようとするもの。

大人は、

「そんなバカにしたような質問、するな!!」

って、怒りだす人多いと思う。

自分の中に、なにかを嫌悪する感情が湧く。
それは、いったい、どういうことなのだろうか。
どうして、そのような自分の状態であるのだろうか。
なぜ、相手の変わることを願った瞬間に、自分の心の中が真っ黒になるのだろうか。
このことは、いったい世界全体とどのような関係があるのか。
このことのカラクリは、普遍的なものなのか、永遠のものなのか。世界中の誰しもが、そうであるのだろうか。


こんなこと、大人はほとんど、無理でしょう。考えるの。
耐えられない。
大人は、善悪で裁かれ続けている(あるいは自分で裁く)から、もちこたえられないのだろうと思うネ。
すぐに、自分が攻められているような気がしてしまうのでしょう。
「あなたはダメな人間」と、判断された気分に陥ってしまうからかな。
なんでなのかね。嫌い、という自分を考えてるだけなのに。

子どもはそれが無いか薄いからか、と思う。
なんで自分は、そういう心の動きをしているんだろう、と純に考えることができる。
責められているとか、そういう余計な感覚は無しで、ね。

大人の宿題こたえを2

大人の宿題、やってます。

.
たまたま地元のスーパーに出かけたところ、ふだんならあまり見かけないはずの、クラスの子がいて、話しかけてきた。

「あ、先生!」

元気そうな顔で何より。
日焼けもしている。

「プール、ぜんぶ行ったー」


気さくなお母さんで、あれこれと話をしたあと、子どもが宿題のことで相談してきた。
「ぜんぜんかけないんですけど」
「教室で、いっしょに練習したでしょ!!」

読書感想文のこと。
本は読んで、最初の印象も書き始めたらしいけど、その後が続かない。

「自分のことと、主人公のことと、あんまりつながりがないから、比較してもかけない」

という。

スーパーの入り口付近で、あれこれと指導できることでもないから、

「がんばれ!!」

としか言えず、そのままにして別れてしまった。



さて、子どもは宿題をがんばっているが、大人も宿題がある。
この時期はとくに、ふだん考えないようなことを考える。

明日の授業のことばかり考えている一年を過ごしているので、
たまには世間のこと、世界のこと、人間のことを考える。
そこまで思いを致さないと、徐々に自分が痩せていく気がする。
なにか、これまでの枠組みを離れて、すこしだけでも突き抜けたような思考をしたい。
重力に負けて、仕方がないよ、世の中こうだから。子どももこうだから、親もこうだから、と諦めたような教員人生は、悲しいですからねえ。


夕方、近所の山の頂上まで、ドライブをした。
田舎だから、こういうことができる。
あまり人気のないような地元の道路を走っていると、気分も変わる。
もうすぐ流星群も見られるらしいけど、ここは、星も数多く見える。

天の川も、見られるんだけど、ふだんはそれほど気にもしていないからネ。
家の近くを離れて、ほんの少しドライブすれば、こんなによい条件で星も見られる。

星はいい。
ふだんの地上のことから、アタマが離れられる。
何億年、ということとか、物質の構成要素、とか、
とんでもない世界、桁のちがう世界のことを、
ふと
思うことができる。

大人は、ときおり、こういうことをしなければならない。
目の前のことばかりでは、アタマに壁ができてしまう。
つきぬけていきたい。
思考の壁を、つきぬけていきたい。


こころにも、ほんの少し、隙間をつくって、
いい風を入れてみたい。

なにも思わず、ふっと力をゆるめて、

人間ってなんだ


と、考えてみたい。



それが、一番のぜいたくかもしれないなあ、と思う。


大人の宿題きれいだなあ2


犬は、消耗品ではない件

.
ギターは、鳴らすうちに、よい音が出てくるようでありますね。
音楽の先生に聞くと、バイオリンなども同じだそうだ。

うちの音楽の先生はいろいろと教えてくれるが、多くの楽器はそういう性質があるらしく、大事に使うほどに、よい音を出してくれるようになるらしい。

そういえば、バイオリンの名だたる名器とよばれるものは、例外なく古いものですね。

現存する世界最古のヴァイオリンは、1565年頃にアンドレア・アマティが製作したものだと言われております。スプルース(松材)やメイプル(楓材)で作られているヴァイオリンが400年の歳月を経ても数多く存在しているのですから、いやはや。

つまり、楽器は、消耗品ではない、と。



子どもも、消耗品ではない。当たり前ですが。
このことは、先日の、
「すべての子どもがかわいいはずがない」
というメールの一文と、ちょっと関係が出てくるかもしれません。



実は、このブログを見たある人からコメントをもらいました。
その人は、
「子どもはそもそもかわいいけどね。
かわいがられると、
こどもはもっともっとかわいくなる」
と書いてくれていた。


これは、美しい逆説だと思いましたね。

もし、子どもが消耗品であったなら、どうか。
かわいい、と可愛がっていると、ぬいぐるみと同じで古くなり、汚くなってくるはずだ。魅力がなくなり、捨てよう、となるでしょう。

ちがう、というのです。その方は。
「かわいがられると、こどもはもっともっとかわいくなる」
ですって。

どういうことなんでしょうか。

しかしこれは、通常の感覚と、順序が逆ですネ。
ふつうは、対象がかわいいから、「かわいいわねえ」と可愛がろうとするのでしょう。
ぶさいくでいけ好かない奴は、最初から拒否するのがふつうで。
アイドルだって、かわいいからファンになるのですな。

キャンディーズ


最初はそうでなくても、つきあっているうちに、かわいがっているうちに、ホントに可愛くなってくる。という、この、消耗品では絶対にありえない感覚。
どういうことなんでしょうか?


もうひとり、コメントをくださった方がいる。
その方は、
「教師の経験はないけど、どんな犬もかわいいと常々思っています。爆」

だって。


わたしは、幼き頃、小さな犬をほんの数か月だけ、飼ったことがある。
学校の長い通学路の途中で寝そべっていた犬がついてきたので、近所のSくんとともにSくんちのガレージで飼うことにしたのだ。
もらい手がくるまで、という条件付きでありましたが、我々はせっせと手厚く、その犬を世話した。
すべての休日は、その犬を連れて旅に出た。リュックと水筒をもって、餌をもって。楽しかったネ。

その犬は、みすぼらしい犬で、体の模様はまるでとんちんかんな、あまりかしこくない雑種でありました。
飼い始めた当初から、こいつはバカだ、ということがよく分かったし、皮膚病にもかかっていたのですが、それでもわれわれの犬でしたから、われわれはもう、うれしくてネ。最高に可愛がったのですな。
Sくんの弟が、あまりにも可愛がって、いっしょに寝ようと家の中に連れ込んで、ふとんの上にあげたもので、お母さんからだいぶ、叱られたそうです。
次の日の朝、Sくん兄弟が泣きながら犬をホースで洗っていたので、わたしが仰天して駆けつけると、その話をしてくれた。

わたしたちは、見た目がみすぼらしく腹にあばらが出て、体の模様がまるでとんちんかんで、あまり賢くない雑種を、3軒となりの吉村さんところのシェパードとは比べなかったですね。近所にはコリーも、マルチーズも、チワワもいたが、我々はたしかに、

「可愛いからかわいがったのではなかった」

のですな。

「みすぼらしいけど、かわいがっているうちに、可愛くなった」

というお話なのだと思います。


つまり、犬も、消耗品じゃない、ということですね。

どんな子もかわいいは、嘘か

.
反響があったので、びっくり。

新間先生宛にメールが届いて、どんな子もかわいい、というのは楽しいでしょうね、とあった。

それはそうだよナ、とゆっくり読んでいったら、そのあと、

「しかし、それは現状で新間先生が良い子どもに恵まれているからで、地球上のすべての子がかわいいということはあり得ないですよね」

と、まあ正直なコメントをいただいた。




これは話をしていくと、じゃあ、人を殺した奴についてはどうなんだ、そんな奴でもかわいいのか、と追及されてしまうことがあるので、なかなかの話であります。
むずかしいですよねえ・・・



一つは、

子どもがかわいい、と思わないとダメ

ということではない、ということ。



「そう思わないと、教師失格ですか?」

いいえ、そういうことではないと思います。

ただし、子どもがかわいいと思えてくるのは、とても自然な感情のように思いますね。
だから、思おうとして思うことでもないような・・・。
自然に思えてくるのではないか、と。



わたしは、自分の子を殺された母親が、死刑囚の男に会って話をするところをなにか、米国かどこかのドキュメンタリーで見たことがある。

当然、短い面接の間に、

相手を吐き捨てるように罵(ののし)って、唾(つば)をはきかけて、歯をむき出していく親もいるんだけど・・・。

しかし、ドキュメンタリーに出てきたその母親は、同じような立場であるにも関わらず、

泣きながら、

「わたしはあなた(犯人)が息子だったらよかったと思う」

と言って、死刑を取りやめるように運動するのであった。

この意味はとてつもなく、深い。
よかった、というのは、それがラッキー(幸運)だ、という意味ではない。
そうするほかない、息子のようにかわいがりたい、それしかない、というのだ。

愛するほか、ない。

これはいったい、なんなのでしょうか。


どんな子も、かわいい。

これは、なんなのでしょう?



メールをくださった方は、おそらく若い先生なのだと思うけど、真面目に考えているからこそ、くださったと思う。
かわいい、という言葉の感覚と、今の自分のもつ感覚とが、ちがうように思えて来ているんだろう。
どんな子でもかわいい、というテーマが、相当に重く、のっぴきならないものに感じるのであろう。
そして、はやく、その心境にたどりつこうとされているのだと思う。

かわいい、という言葉も感覚も、今の若い人と、年をある程度とった自分とで、ちがったものがあるやもしれぬ。ファッションやセンスでかわいい、という意味でもないし・・・。書くまでもない、当然なことだろうけど。



かわいいとは、

その子の幸福を願う、ということかな。


だとしたら、幸福を願わない子はいない。


みっふぃー

子どもは、同じ、ではない。

.
実際のところ、親は、自分が子どものことを、把握している、と思っているかもネ。

また、そう思っているくらいでないと、親として恥ずかしい、失格だ、というふうに思っている人もいます。

しかし、実際は毎日子どもはちがってきていて、細胞も毎日変わるし、情報量も考え方も影響を受ける人まで毎日少しずつ変わっています。

まして、親の頭の中の子ども像は、実際の子どもとは異なるもので、実際は、何一つ知らないでいる、という前提でスタートした方が、まだマシなのかもしれません。




子どもが変わって帰ってきたら、困る。
学校に行くのはいいが、行って、変わって帰ってきてもらったら、親としては困る。

そう思うか、どうか。


あるいは、
子どもが同じでは困る。
学校に行っても行っても、ぜんぜん変わらないのは、親として困る。

そう思うか、どうか。



さて、自分は、どっちだろう。

同じと思っているのか、違うと思っているのか、どうだろうか。


子どもは、学校で、
どんどん、どんどん、
どんどん、どんどんと、
変わっている。




足跡4

授業はなるたけ進まない方が良い

.
というパラドックスが、ある。

つまり、授業がするする進んでしまうのは、大人⇒子ども という一方通行の講義になってしまっている場合があるからだ。

肝心なのは、子どもたちの思考。

考える、ということ。

思考を、うながす。


さまざまなことをつきあわせて、調べながら、確かめながら、考えていく、という熟考の体験こそが、今、PISAをはじめとした国際的な学力体系の中で、必要とされているのだ。

このことに今さら異を唱える時代遅れの教育者は、いないと思われる。
A、だからBだ。という、丸暗記型の定量学力は、すでに21世紀の今日、重要視されていないのだ。
だれだって調べたらわかることを、わざわざ暗記することに力を注ぐのではない。
今必要なのは、迂闊さのない思考力、柔軟な訂正能力、そして公正な判断力、である。

つまり、自ら問いを見つけ、課題の解決に取り組む積極的な姿勢を育もう、というのが、今の文科省のねがう教育なのです。

さまざまなデータがないのか、そのデータは間違っていないのか、データの矛盾はないか、データがそうだからといって、一つの結論が出せるのか。とりあえず考えられるアプローチはなにか、別角度からのさらに効果的なアプローチはないのか、など、柔軟に思考できる人間の育成が、文科省の期待する人間像、というわけ。

すると、文科省的には、

「授業を進めたい」

のだけれど、

「するするとスムーズに進むのはよくない」

ということになる。

あっちへぶつかり、こっちへぶつかり、クラス中の全員が、ああでもない、こうでもない、とあれこれと考えていき、今のところ、こうかな、と考えていく体験こそが大事なのだから、

「スムーズさよりも、あっちこっちのぶつかり具合こそが大事」

ということになろう。

つまり、

個々の授業は渋滞して遅々として進まない方が良い

だけど、思考力が鍛えられるゆえ、子どもたちが

次から次へとあらゆる課題に意欲的になる結果、

全体には、がんがんと進んでいけるのが良い


のであります。



ただ一点。

この教育は、親との折り合いをどこかでつけなくてはいけない、という宿命を背負う。

親は、

なんでもかんでも、スルスルと、そうめんを流し込むように覚えてほしい

と思っている場合があるからね。

ま、「スピード感があり」「威勢が良く」「見かけがスマート」というのは、なんとなしに、怪しいかもしれない、ということですヨ・・・。

氷
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