30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

子育てあれこれ

どんな体験ができた?と、子どもに聞く

こんな悩みを聞いた。
ある子が、2つのスポーツクラブに通っている。
1つのクラブは、コーチがとても褒めてくれる。また、チームの雰囲気を良くするのに、気を遣ってくださっていて、子供たちの仲が良い。失敗しても励まし合う。何よりも、人を責めたり、自分を責めたりすることがない。
お母さんはそのクラブを大変気に入っていらっしゃる。
ところが、もう一つのクラブのほうは、コーチが一昔前のコーチタイプで、親が横で聞いているにもかかわらず、理不尽な子どもへの叱責や懲罰めいたものまであるらしい。
お母さんはそのクラブを辞めさせようと思っていたが、子どもは友達に誘われて始めた手前、まだ続けたいと言い、やめないでいるとの事。

『その鬼コーチがいるクラブの活動を、どうやってフォローしていけば良いでしょうかね?』

私も少し考えた。
しかし、確認すると、その子はまだ続けたいと言っているのらしい。
そうであれば、答えは簡単だ。その選択を尊重するだけ。

お母さんがしてはいけないのは、そのクラブやコーチの言動について批判をすることだ。
あのコーチ良くないよね、と、もし母親が言ってしまったらどうだろう。
子供にとって何のメリットも生じない。逆にデメリットだけが出てくる。

鬼コーチを批判すると、同時に、その子の【選択】をも批判することになるのだ。

母親がもし何か言うのであれば、聞いてあげるだけ。
「あなたは、そのクラブで、どんな良い体験が出来たの?」
あるいは、
「クラブで練習をしていると、どんな良いことがあるの?」
である。

きっと、子供は今の自分の状態を、客観視してくれるだろう。そして、自分の今のかけがえのない体験が、とても価値のあることだと再認識をするか、もしかしたら、今の自分の状況をよく考えた上で、クラブに継続して通うかどうかについても、真剣に考えようとするに違いない。

「それをすると、どんないいことがあるの?」

と言う質問は、あなたはあなたの人生を自分でハンドルを握って、しっかりと運転をして良いのだと言う隠れメッセージにつながる。

親は子供の人生のハンドルを奪ってしまいがちだ。
子供は自分の人生のハンドルを奪われてはたまらない。必死でハンドルを奪い返しに来る。

親がして良いのは、背中を柔らかく押すか見守るか。

親の立ち位置は、常に子供の背中側である。そして、声をかけてあげるのだ。

「どう?今のあなたの運転は、良い調子で進んでいるの?」

いいよ、ありがとう、と、子供が言ったら、親はたった一言、
感に堪えたように、言うのだ。

あーそう!良かった、ねえ!!
と。

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教師が感じる「困った親」とは

子どもは、友達に対して素直な気持ちでの「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えるのであれば、良い人間関係を築くことができる。

ところが憎しみの塊のような少年がいる。
どの教員も「目つきがちょっと」と言う。
親は学校での様子を聞くと、だまって下を向く。
父親は「母親がきつくて。この子と母親が毎日けんかしている状態」と家の様子を話してくれた。

クラリネットを習っている。
その他に英会話、テニス、水泳、とほぼ毎日休みなしだ。
できない子を馬鹿にする。
俺はできるが、みんなはできない。だから俺が偉いのだ、という感じ。
担任に言わせると、人を責めるときの態度や声量がものすごく、周囲の子どもたちは「引いている」という。私も関わってみたが、やはり行動が一匹狼っぽく、周囲に断りもなく自分の思うがままにどんどんと行動する。教室に置いてある様々なモノを、自分勝手に置き換えてしまう。鉛筆削りの置き場所やエレクトーンの場所も勝手に変えようとしていた。

かと思うと、授業中にいきなり窓を開けたこともある。
私がちょうど授業を見ていたときで、担任の先生も子どもたちもみんな何もおかまいなく、無視している。アドラーのかかわり方として、「無視する」というのも大事なスルーのテクニックなので、そういうことも担任は考えているらしい。望まない行動にはあえて強く反応しない。

ところが窓からけっこうな風が吹いてきて、机の上のプリントを何枚も落としてしまう。
しかし、その子はキツイ表情でみんなを見て、「紙をそんなところに置くからだよ。換気が大事だっていったのは先生でしょ!」と先生をなじりはじめた。
他の子たちは恐れをなして、何も言わない。先生も慣れた調子で「はいはい。換気なのね」

どうも、表情がきついのは、常になにか得体のしれないものと、戦っているようにも見える。
心境がつねに、「ファイト」モード、戦闘モードなのだろう。自己防衛の心理だろうか。

以上のことだけでは、とうてい診断などつくはずもないのだが、ここでパーソナリティ障害、という精神保健医療の分野の言葉を紹介する。
パーソナリティ障害

表面上は口達者
利己的・自己中心的
自慢話をする
自分の非を認めない
結果至上主義
平然と嘘をつく
共感ができない
他人を操ろうとする
良心の欠如
刺激を求める

この障害は、認知(ものの捉え方や考え方)、感情のコントロール、対人関係といった種々の精神機能の偏りから生じるものである。「性格が悪いこと」を意味するものではまったくない。
パーソナリティ障害には、他の精神疾患を引き起こす性質がある。それらの精神疾患が前面に出ることが多いことから、パーソナリティ障害は、背後から悪影響を及ぼす黒幕のような障害とも言える。
治療を進めるためには、患者と治療スタッフとが協力して問題を認識し、対策を検討することが重要であり、この障害は経過中に大きく変化することや治療によって改善する可能性が高いことが、最近の研究で示されている。

上記の少年は、いかにも口達者である。口喧嘩なら大人でも負けてしまうほどだろうと思う。
また、常に自分が思うさまに物事を動かしたい、世論を操作したい、という欲望をかなり強くもっている。クラスのいじめにつながるような、他の子を否定する言葉を何度もしつこく使う。周囲の子がそれをかばうと、該当の児童がいかに「みんなに迷惑をかけているか」をとうとうと話し、正義は自分が持っている、と主張する。

担任の先生は女性だが、ほとほとこの子に手を焼いているようで、おうちの方とも何度も連絡をとろうとしていた。

実は3年ほど前か、わたしも似たような児童を担任したことがある。
つまり、一定数の割合で、このようなパーソナリティを現在持っている、という児童はいるのだ。だからかなり多くの先生たちが、こういうことで悩んできているのではないか、と思う。

上手な先生はほめたり筋を通して叱ったり、ということ、あるいはその子の得意なものを見つけ、十分に活躍させてあげることで、クラスの輪が乱れないようにとその子への配慮を行っているでありましょう。クラスはそういう担任の工夫でおそらく「なんとかなる」から、良いのであります。

今回、わたしが書いていきたいのは、クラスのこういう子は、どうやって「自尊心を高められるだろうか」ということです。
他を罰する言動が強烈な子は、ほぼ例外なく、自分に自信がありません。つまり、他を罰するのと同じように、自分を罰しているのです。つねに頭の中に「ぼくはダメだ」という言葉があり(周囲にはけっしてそのようなそぶりは見せません)、その言葉を打ち消したいがために、対象を周囲の他の人に向けるのです。自分を高めるのでなく、自分の価値がどうしても低く思えるために、他をけなすのですね。

子どもの教育は、親の在り方と切り離すことができないが、残念ながら現在の学校は、「困ったなあ」とほとほと、その点で悩んでいるのであります。

教師が感じる「困った親」とは何か。

・他罰的で攻撃的な親(自己防衛)
・防衛的でまくしたてる親(自己防衛)
・勝手な思い込みが強く、事実をもとに考えるということをしない親
・「ひろゆき」のように相手を論破して勝つことが目的の親
・教師とのかかわりを一切もとうとしない親


こんなところであろうか。

実は、上記の子の親と、私は学年主任の立場から、会って話してみた。そうすると、実は「困った言動」には、それなりの理由があるのですね。こういうことは実に多い。
一般的にも、次のような状況は非常によくある。

1)ゆとりのなさ

金銭的なゆとりがない
夫と妻との間がぎくしゃくしている

子どもの話から少し離れて、お母さんやお父さんの子ども時代の宿題のことや遊びのこと、親とのかかわりなどについて話をきくにつれて、周辺の情報、つまり子ども当人でなく、親自身の話をしてくださることもある。そうすると、ちょっと「子育て」が俯瞰できる瞬間があります。

2)子どもの様子をつかんでいない

子どもが何を期待していて、何ができないでいるか、友達とはどのような関係なのか、さっぱりつかんでいない親もいます。高学年になるにつれて多いですが、なかなか話してくれなくなるので、これはもうどの親にも共通なのかもしれません。しかし、本当になにも知ろうともせず、季節の行事にも持ち物にも何にも関心がないように思える親もいて、会話が本当にないのだろうなあ、と伺えます。

3)子どもにパーソナリティ障害があり、子どもに接すること自体の問題が大きい

上記の子もそうでしたが、他罰的な言動ばかりなので兄弟でもお互いに共感することもなく、相手を責めあうのが常なので、親が消耗している場合があります。せっかく行ったディズニーランドも、車中でも園内でも兄弟がけんかばかりで父親も怒り出し、母親が「わたしは子育てを楽しめていない」と嗚咽交じりに話し始めたこともあります。


わたしは、親がいちばん困っているのだ、と確信しています。
親のこころのエネルギーが、まったく充電されないのでしょう。その理由はさまざまありましょうが、行政や経済的な事情も含めると、国家規模の課題にもなっているようにも思えます。つまり日本国民であればだれしもが、同じように「立派にこころや気持ちの充電がされた親」にはなりにくいという環境があるのだとも思います。

学校や教師は、その親が元気にならねば、その子の指導がまた遠回りに、遠回りになることがわかっています。だから、親を元気にしようとする。学校での懇談は、「教師が親にこころのエネルギーを与える場」です。そのときの原則は、

親をぜったいに責めない。
ひとりではない、子育ては協力するもの、とメッセージが伝わっていくようにする。
問い詰めたり、決めつけたりはもってのほか。


親が、近所のだれそれや、友達に相談できているのであれば、実は問題は深刻ではない。
一番深刻なのは、本当に孤独に子育てをする状況になってしまった親だ。
なんとか元気づけていかねばならない。

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勝手に名前を付けるのが良い、という話

夏休みの後の楽しみは、子どもたちの日記を見ることだ。
これはまちがいない。
全国の小学校の先生たちも、これには異論がないだろう。
だって、すこぶる面白いもの。

それに、ああ、愛されているなあ、ということを感じると、とても心があたたかくなる。
子どもたちのために、とがんばっている親の思いにぐっと共感もできる。

今回も、始業式後の初の土曜日に、学校でまだ読み切れていない日記を出して、すべてにコメントを書いてきた。休日のしずかな学校で、じっくりと読んでいると、たまにひとりで声を出して笑ったりする。

コロナ禍のために、多くの子は出かけることをせず、せいぜい隣町のおばあちゃんの家で花火をしたり、おじいちゃんと虫を捕りに行ったりと、今できることで精いっぱい楽しんでいる。
他県など、遠くへ出かけたことを書いた子はほとんどいなかった。

「イベントがなくひまだったので、お姉ちゃんと面白い遊びを考えて、ずっとやってました」

というのや、

「サッカーの練習も試合も無くなってしまったので、イモリに餌ばかりあげていました」

というものがある。

イモリを飼う子は、家のガレージの屋根の下に、巨大なテーマパークのごときイモリパークをつくっており、水草を入れたり砂を入れたりし、イモリが飽きないようにと、レイアウトというか部屋の模様替えを頻繁に行って時間をつぶしたそうだ。

「とちゅうで一回、イモリが見えなくなったので探したら、砂に埋まってました」

もはやその模様替えはイモリのため、ではあるまい。


ところで、子どもたちは鳥や昆虫やおもしろい花を咲かす植物などに興味を持つが、一般に〇〇博士、というレベルに達する子には、共通しておもしろい習性があることに気づいた。

それは、「とりあえず名前をつけておく」という乱暴なふるまいであります。

こういう「めっちゃ〇〇が好き」という子たちは、図鑑ももちろん大好きなのですが、小学生用の図鑑に載っていないような鳥だとか虫とかに、勝手に名前をつけます。

ここで、それは正式ではないから、だとか、勝手に名前つけちゃだめだし、だとか、私はくわしくないから、とかというように、

「世の中の正しさにこだわる子」

は、〇〇博士にはならない。

これがわたしにとっては、不思議なことであります。
だって、勝手に名前つけるのって、いいの?ということがあるでしょう。
結局その名前って、世間的にはまちがい、なのですからね。

そういう意味で、教室に生まれてくる〇〇博士は、大胆不敵な子が多い、のです。
ぽにょぽにょ虫、だとか、きれいな鳥に「カラカラ」とかつけちゃいます。

あとで、その生き物の正式な名前がわかるのですが、

「わたしのつけた名前の方がいいのになあ」

という自負がある。

つまり、その虫のことをどれだけ好きになれたか、というものさしで見ているために、昭和の昆虫学者や鳥類学者なんかよりも、わたしのほうがすごい、という感覚をもつことが可能なわけ。

このくらい破壊力がある感性をもっていると、死ぬときに後悔などなく、幸福なまま死ねそうです。

というか・・・
なんでわたしたち大人は「正しさ」にこだわり、自分の中の、これが好き、という感覚を虐げてしまうのでしょう。世の中にいるであろう「その道に詳しい方」のイメージと自分とを競争させたあげく、自分を卑下し、ああ私たち下々の者にはこの虫の魅力など到底わかりっこないでごぜえやす・・・というように自信を失ってしまうのでしょうね。

わたしはこの鳥が好きになった。そのため、このカラフルな鳥に、カラカラ、という名前を与える!

という行動が、「まちがえている」「よろしくない」と非難されてしまう・・・そんな世の中にはならない方が、わたしたちは、その鳥との間に豊かな関係・生き生きとした関係をむすべるような気がします。

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侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!

『侍ジャパン、悲願の金GETおめでとう!』
という記事が、スマホの画面を派手に飾る。
どの記事も、選手ががんばった様子やうれしがっているコメントを載せている。
識者が「感動した!」と興奮する様子が、だいたいその記事の後半にくっついている。

オリンピックのこの報道。
スポーツをさらに面白くするためには、この報道のスタイルをほんの少し変えることだ。

野球は世界的にみると非常にマイナーで、人口の少ない競技であります。
だからなかなか参加する国も少ないし、これまでも五輪の公式な競技にはならない場合があった。

私自身はそのことをとても惜しいと思うし、クリケットと比較してもそん色ないほど、ベースボールはショーとして見ごたえのあるスポーツだと思う。

五輪での日本の金メダルは、「野球がこんなに面白い」というのをアピールする良い機会だ。しかし、金メダルをとった、というだけの報道しかないのは惜しいことだと思う。

多くの人にとって、野球のルールや面白さは、あまりよくわからないと思います。
それは言語化されないし、記事にもならないから。
ところが、野球というのは、たった一球にドラマが詰まっているのです。
その1球を、解説してくれたら、もっともっと、野球の楽しさが伝わるのに、と思うのです。

たとえば大昔のことですが、「江夏」という大投手がいました。
この江夏の話で、ノンフィクションの小説が出ているのをご存じでしょうか。
1979年の11月4日に大阪球場で行われた、プロ野球の日本シリーズの第7戦の近鉄バファローズ対広島カープの試合で広島のリリーフエースである江夏豊が9回裏に投球した全21球のことを、小説にしたのです。あるいはこの話は、NHK特集で1時間の番組にもなりました。
なぜこんなに注目されたのでしょう。

それは、「投球内容が詳細に説明された」からです。

実は、毎試合ごとに、野球と言うスポーツには壮大な物語が生まれているわけですが、だれもそんなの気にしていないために、記者は記事に書いたりはしないのです。
これは逆なんだと思います。
記者が、そこを記事にするようにしていくと、多くの人が野球の本当の醍醐味を知り、

おもしれえなー

と興奮するようになるのです。

ふつうの人にとっては、解説がなければわからないのです。
なにも見ないで聞かないで、試合を見ているだけでそこまで到達できる人は、ほんの一握りのマニア、というわけです。

江夏の21球とは、具体的にどんな内容だったのでしょうか。
両チーム初の日本一をかけた日本シリーズ。
近鉄も広島も、両チームが譲らず、3勝3敗で迎えた第7戦のことでした。
7回表が終わった時点で4対3と広島カープがリードしていました。

広島が1点リードで迎えた9回裏。
日本一をかけ、江夏豊がマウンドに上がります。
江夏の投じた1球目は、6番羽田耕一にセンター前ヒットを打たれ、広島に暗雲が立ちこめます。
近鉄は1塁に代走を送ります。羽田に代わり、シーズン代走盗塁記録をもつ藤瀬史朗を送ります。

ここで、球場は割れんばかりの歓声につつまれます。
藤瀬選手は、ものすごい足が速く、この年には盗塁をばんばん決めていたからです。
江夏はピンチを迎えます。

ノーアウト1塁。
迎えた7番クリスアーノルドに対して、江夏はボールを2つ続けて出してしまいます。
この時、もちろん江夏バッテリーは盗塁を警戒するわけですから、こうなるのも無理はない。

4球目に見逃しのストライク。

さらにこの後です。

5球目にボールとなるのですが、藤瀬がスタートして盗塁を決めます。おまけにキャッチャーの送球がそれてしまい、ノーアウト3塁という決定的なピンチを迎えるのです。

やばいですよね。
心臓がバクバクする展開です。
ノーアウトですよ。
同点のランナーが3塁にいるんですよ、それも足の速いやつが。
そして、カウントは1ストライク3ボール。

決定的に不利じゃないですか!

このあと、21球まで江夏は投げるのですが、結局0点に抑えて、広島が優勝するのです。

1球ごとに、江夏と水沼捕手との間に、あるいはベンチとの間に、言葉ではない、水面下の作戦が展開されるわけですが・・・

こんなもの、球場で見ている人にもわからない。説明されないと。
しかし、説明されると、すげえなあ、となる。

そうなのです。
野球は小さな活動が一つ一つ、積み重なってゲームを構成する。極端に言えば、投手の投げる一球ごとにドラマが枝分かれしていく。
だから、そのドラマの行方や可能性をさまざまに考え、実際の投手と捕手がどう判断するか、それらを野手が理解して動けるのか、そこがみどころなのだ。

しかし、それを選手と同じように感じたいと願うなら、さまざまなデータや意味の把握に長けた解説が必要になる。

うまく解説し、どうして選手がそこで悩んだのか、なせその行動を選んだのか、教えてくれる人が必要なのだ。

前の打席でこの球をファールにされているから、組み立ては似ているけれど最後の1球だけ全くちがう球種にして裏をかこう、と捕手が考えたとする。

しかし、投手は自分の制球が今一つ調子が良くなく、最後のスライダーがすっぽぬけたら『まずい』と考える。

投手が首を振ると、捕手はその意味をすぐに理解し、ではちがう作戦に出よう、とまた新たな提案をする。

たった数秒間にこれだけの情報のやり取りを行うわけです。球場でもテレビ中継でも、それらをぼーっと見ているわれわれのような大多数の観客には、その意味がなかなかつかめない。やはりマスコミがそれを解説してくれることが必要だ。

今回の五輪報道でも、江夏の21球のように、この回のこの投球の組み立てはどうだったのか、と細かく教えてくれるといいのだが。

野球ファンが新たに増えるチャンス。
ぜひNHK特集で、今回の五輪のこまかなドラマの内実を、詳細に伝えてほしい。

きっと、江夏の21球、魔術のような「スクイズ外し」に負けないようなドラマがあっただろうと思うね。

スクイズ外し

夏休みのパパは、ぼくのもの

.
我が家のチビすけは、

夏休みの異変に気付いたらしい。

「どうやら、最近、この人は家にいる時間がながいみたいだ」



ご明察。

勤務研修のある日も、夕方にはサクッと

家に帰宅しています。

夏季休暇も、とりました。

家にいる時間、長いです。最近は!!



すると、チビすけくんは、

絵本を持って、わたしのところにやってくる。

ぜんぶ、馬場のぼるの絵本です。

次から次へと、読め、読め、と。



さらには、積木。

ブロック。

いっしょにやろう、と。



天気のいい日は、

いっしょに遊ぼう、と誘います。


川で、水遊び。
夏休みのパパは、ぼくのもの。
本当は、すべての子どもと父親が、一年中ずっと、そうあるべきなんでしょうけど、ね。


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【朗報】夏休みの宿題、やる気になる唯一の方法

今日、たまたま子どもが学校に来た。
今の勤務校には金管バンドの活動があり、体育館で練習をする。
夏の暑い時間に、蒸している体育館。巨大な扇風機があるので、それを回しながら練習をしている。
先生も大変だが、子どもも大変だ。
しかし、大会(録音参加)が近づいているので、みんな真剣な表情だ。

こっちは今日は午後に研修も控えているので、朝からあれこれと職員室で書類を作っていた。
すると、ちょうどお昼前に練習が終わって、子どもが
「先生いますかー」
と現れた。

児童会で使うプリントの予備が欲しい、というので印刷してやっている間に、なんとなく話をしていると、
「ぜんぜん宿題進んでない」
と言う。
まあ、まだ夏休みははじまったばかり。
「あ、そう」
と軽く受け流していると、その子は
「あー、たぶん今年も最後の3日くらいになって苦しむんだろうなあ」
と冗談っぽく言って笑った。
「エンジンがかかるのが遅いの」
と、自分で言っている。

「あ、そう。(金管バンドの)練習がない日の午前中とか、なにをしてるの?」
と私が尋ねると、
「えー、もうさっそくゲームするかー、それか、だらだらしてるー」
「朝からゲーム?」
「ああ、あと、オリンピック見てるよ」


わたしもそうだったから、何も言えない。
宿題のとりかかりは遅い方だった。
大学の心理学の講義で、「締め切り効果」という言葉を習ったとき、そんなものは小学生の頃から、とっくのとうに気づいてたな、と思ったくらいだ。締め切りの直前に、魔法のように集中力がUPし、ブーストがかかる。信じられないスピードで、作業が片付いていくのである。

さて、それはそれで良いも悪いもない気がするが、いささか博打のような感じもする。
そこで、大人になって仕事をするようになり、さすがに「締め切り効果でブースト」ばかりを目論んでもいられなくなった。
仕事をするようになって思ったのは、
「仕事って締め切りもなにも、ひたすら続いているし、エンドレスなんだな」
ということ。
たしかに、一区切り、というのはある。要するに、目の前に「今日の仕事」とか「今月の仕事」というのがある。わかりやすく言えば。
しかし、その実態は、実は仕事というのは、エンドレスに続いているのである。生きている限り。

イメージとしては、牛舎の前のそうじが該当する。
いくらほうきで掃いても、敷料(しきりょう=畜舎 の床に敷いて、家畜を保護したり、糞尿を吸収させるためのもの)は常に、牛舎の床から通路にはみ出てくる。風にふかれたら、そこら中におが粉は舞っているのである。竹ぼうきで掃いても掃いても、あとからあとから風が吹くために、この仕事はエンドレスである。

この仕事に、締め切り効果、なーんてものは、ないのだ。

わたしは子どもの頃から、「締め切り効果」を最終兵器にして、日常をやりくりしてきたために、牛舎の前をきれいに掃除する、などというような仕事を目の前にすると、なんとも苦痛であった。だれにも頼まれないし、やってもやらなくてもよく、世界の誰からも「締め切り日」を要求されなかったからである。

要するに、「締め切り効果」というのは、それをしないとやばい、という心理的なものがないと、うまく働かないのであります。そして、世の中というのはそういうことばかりではなく、どちらかというと「締め切り」などがない仕事の方が、多いのです。自分でそれらを決めない限り。

夏休みの宿題に悩むその子は、自分で締め切り日を設定する、ということはしないのだろうか。
わたしはそのことを思ったために、こう提案してみた。

「宿題をやる気にならないのは、8月の終わりが締め切りだと思っているからでしょう。7月の終わりが締め切りだ、というふうに、自分で決めたらどう?」

我ながら良い提案だと思ったのだが、これはすぐに却下された。

「えー?だって夏休みなんだもん、そんなふうに思い込むのなんて、無理!」
そして、
「それに、第一、まだ宿題がランドセルに入ったままだもん!」

失敗である。
締め切りの前倒し作戦は、失敗に終わった。

では、どうするか。

🔴やらないと、と思うことがあるときの対処法
さて、わたしがこの世でしばらくの間(あいだ)生きてきて、なにかやらなくてはならないことがあり、しかしなかなかとりかかる気持ちが湧いてこないときの、たった一つの方法は、実はこの世の多くの人が実は実践しているだろうが、以下の方法であります。
ちょっとだけ「準備」をやってみる
この方法は、本来やるべきことの「準備」しかしないのですが、ちょっとだけ、それも準備しかやらない自分を責めない、というのがポイント。

脳裏にすぐに、母親の声で
「そんなすぐにやめてしまうなんてダメ!」
とか
「やったうちに入らないよ!」
とか
「最後までやらないのは、本気だしてない証拠!」
とか、再生される人はかなり洗脳されていますが、早急に親離れしていただき、
「ちょっとだけ準備が進んだな」
と満足することが秘訣です。この場合は。

たとえば宿題がまだランドセルにつっこんだままになっている場合は、とりあえず、そこから取り出して、机の上に置いてみる。
それが「準備」ということです。
それだけでもよい。

次の日、目の前に現れた宿題をみて、ここからここまでやるんだな、とか、パラパラとめくってみる。それだけでもいい。それも「準備」だ。

その次は、筆箱を取り出して、えんぴつをけずってみる。また、夏休み帳の最初のページを開いておく、あるいは、机の周囲を片付けて、きれいにしておく。それだけ。

つまり、ちょっとだけ準備をやって、ちょっと間を置く。
この『間』を置くのがポイントで、そのときに、
「ああ、これってやっておきたいよなあ。早めになあ」
という気持ちが、少しずつ醸成されていく。
この『気持ちの発酵』というのが大事。酵母菌が発酵していないのに、パンをふくらませるのは無理でしょう。いきなり小麦粉をふくらませるのは、物理的に不可能なのです。

だから、「気持ちを発酵させる」

その発酵をうながすのが、「ほんの、ちょいとした準備」なのです。
ランドセルを開けるだけでいい。
そこから夏休み帳をとりだすだけでいい。
えんぴつを削るだけでいい。

そして、「ぼーっ」とする。

「これ、やらなきゃなあ。今やれば楽だよなあ。やっておきたいよなあ」と、ぼーっと静かに考えながら、自分の気持ちが素直になっていくのを見守るのです。そのくらいの落ち着いた、ピュアな心持ちです。決して、追い込むのではなく・・・。

ふと、「よーし、やってみるか」となる瞬間を待つのです。

やらないと死ぬ、とか、やらないと〇〇さんにどう思われるか、とか、余計なことは考えない。それは実力を削ぐ思考で、大リーグの大谷選手のようにはなれません。大谷選手は「打たなければ恥だ、ヒィ」とか「ホームランを打たないと死ぬ(過呼吸)」とか思っていないでしょうね。

気持ちがうまく発酵し、パンを焼く前のいい生地のようにふくらんでくると、自然とパワーが生まれてきます。そして、純粋にやりたくなる。やれるぞ、という自信も同時に、どこからかやってきます。これは断言してもいい。大丈夫、ふと、「やってみよっかな」という気持ちになる瞬間がやってきますから。

そこで、私はぜひ、世の中の小学生のみなさんに、お伝えしたい。

まず、ランドセルから出しなさい!(←キレ気味)
夏やすみ帳を!!(←絶叫)

話はそこからだ!!(←白目)


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「~したい」「~してほしい」が言えるように

小学校の教師をわりと長く務めてきた経験から、今の子どもたちを見ていて思うことを書く。
それは、ちゃんとした喧嘩ができない、ということ。
陰湿で、かげであれこれ、と言う。
背中に回ってこっそりと舌を出す、という感じだ。
決して正面に立たない。

どうして正面切って堂々とできないかというと、自分に自信がないからで、それは自分で自分の行動を選択する、ということをしてこなかったからだ。
では、なぜ自分で自分の行動を選択決定しないのかというと、これも簡単で、これまで強権的に支配されてきた時間が長かった、ということだろう。

要するに、家でも学校でも、強権的な態度の大人に支配され、言うことを聞けばよい、という感じで育ったのではないかと思う。

わたしなどは、すぐに疑問符が出てくるから、
「それでいいの?なぜ疑問をもたないの?反抗しないの?」
なーんて、いろいろと思ってしまう。「支配されている」と感じ取る子もいるはずで、親にも教師にも反抗するのでは、と思うが、それをしない。もしかすると、反抗すると損だ、という「計算高さ」をもっているのかもしれない??

また、親や教師も、強権的に支配をしながら、実際には飴も差し出す。
上手に言葉を選んで、タイミングを選んで、飴(あめ)をうまく使う。
そういうことができる大人が増えてきた。

そこで、反抗せずともおとなしく(よそおって)、言うことを聞く習性になってきている。
たしかに甘い飴を十分にもらえることがわかっているのであれば、まあいいか、と自分をごまかしていさえすれば、それでやりすごすこともできるのだろう。しかし、本質的には満足していないから、顔の表情は暗い。さっぱりして明るい、という表情にはならず、どこか他をねたんだり、うらやんだり、マウントを取りたい、という自信のない表情になっている。

要するにこれは、強権的に支配されてきたからだ。
物心ついたときから、支配されてきてしまった。
だから、それ以外のふるまい方を知らないのである。

したがって、子どもどうしのトラブル、喧嘩になったとき、どうふるまうかも考えられない。
他の命令で生きてきているから、コントロールできないような状況にはまると、どうしても自分で考えるのではなく、周囲を見回すだけになってしまう。
ただめそめそ泣くか、逆上して攻撃するか、友人にしきりに悪口を訴えて広める、という具合だ。

過去、何度もこのブログには書いてきているが、
「結局、自分がどうしたいのか、どうしたかったのか、言えるかな?」
と問うと、そんなことを聞かれるなんて思ってもみななかった、という表情で驚いている子がいる。

これまでの人生で、

「どうしたいか」

を問われたことがなかったのか、とこちらも驚く。

それでも言えないことが多い。なぜなら、自分がこうしたい、というよりも、「相手にこうしてほしい」ということが先にあるから、どうしたいの?と聞かれると、言葉に詰まるのだ。

「わたしは仲直りしたい」

ということさえ、言葉にすることができない。

そこで、「じゃあ、言い換えようか。まずは、〇〇ちゃんに、どうしてほしかったのか、というのは言えるかなあ?」と問う。

すると、これは言える。
しかし、言葉がおかしい。

たとえば、
「〇〇ちゃんが先に△△をしたのはずるい」
というふうに言う。

善悪で早く裁(さば)いてくれ、というのである。
しかし、裁くのが重要なのではなく、ここはお互いが理解するのが大事なので、裁いておしまい、というわけにはいかない。理解なき裁判というのはあり得ないからである。

言い直しをしてもらう。
「ずるいかどうかの前に、どうしてほしかったのか、本当は〇〇ちゃんにしてほしかったことを言ってもらえるかな」

すると、ようやく
「△△をする前に、こっちをみて気づいてほしかったし、先にやってよいかをわたしに聞いてほしかった

ということが言える。

すると、不思議なことに、ようやく安堵した表情になる。
つまり、支配下から抜けるのである。
だれかの支配下にいた自分が、支配下にいてただ恨むことしかできなかった私が、ようやく地上に出てきた感じになる。

ようやく、自由になれたのだ。自由というのは、わたしの意思をはっきりと他に示し、伝えることができるということ。そして、相手の意思をきちんと聞ける自分を用意するということ。

強権的な親や教師のもとで育つと、素の自分を出せないまま地下にもぐる。
そして、他を「ないしょで」「かくれて」批判し、すべてを他のせいにする思考が育つ。
「だって、〇〇しろって言われたんだもん」
「だって、〇〇はダメだって言われてないもん」
これは『支配下の思考』でありましょう。

自由の意味を理解していない子が多い教室では、子どもが、お互いの権利を認め合うのではなく、お互いに権利を主張し合うようになります。
そして、折り合いを付けるため、どんどんルールが増えます。
逆に、ルールで禁止されていないことならどんなことをするのも「自由」だろうという考えが広まります。どんどん悪循環になっていきます。

至るところで諍いが起こります。民主主義が機能しなくなり、いつしか社会は、強力な権力者の出現を求めるようになります。それが自分たちの自由の息の根を止めることも知らずに。

もし仮に、

「先生、学級会なんて時間の無駄です。ぼくたちに考えさせるのでなく、はやく〇〇くんを断罪し、叱ってください!」

なんていう子がいるようなら・・・
身震いがする。
このまま成長したらどうなるか。
おそらく、「独裁者の支配する強権的な社会を待望する大人」に育つだろうと思うネ。

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スポーツをやめることについての一考察

小学校教師というのは、授業を行うのはもちろんですが、日本の場合は、どちらかというとそれがメインなのではありません。
授業は業務のうちの3割程度かな・・・実感としては・・・
メインの業務は、お子さん方のメンタルのお世話でしょうか。

といっても特に何かをするのが必要なわけではなく、ただひたすら、

〇共にすごし
〇共に給食を食べて
〇共に掃除をして
〇共に生活上のいろんなことを話し合って
〇共に感想を出し合って
〇共にじゃ次はこうしようとか言い合って
・・・

という繰り返しをするのですが、
それがまあ、いちばん人間が成長する元になります。
特段、なにかが必要なわけではなく、人間は元々、日々成長し、良くなっていく存在なのかなと思います。

そこで、教師も毎日あれこれと子どもの姿から学びますし、あれこれ考えます。
わたしは

「自分なんかよりもよほど偉いな、この子は」

と思う子によく出会う。
私が自分の子どもの頃を思い返すと、この子は少なくとも自分よりはマシ、と思うことが多い。
だからなんとなく、甘い、と言われてしまうのでしょうかネ。
わたしは高卒で大学も中退だし20代もろくに稼がず、職業も転々としてまっとうな人生を歩んできたとは言い難い。だから、この子は自分よりもおそらく偉いし、立派な人生をおくるだろう、という気がしてならない。どの子に対してもそう思う。

だからかもしれないが、子どもたちが悩みを打ち明けてくると、

「たいしたことないですナァ・・・」

としか思えない。
これは教師としてはマズい。親身になって受け止めてあげなくてはいけないと思う。当人は真剣なのだから。

6年生になり、長く続けた新体操を辞める、と相談にきた子がいる。
実際は、お母さんが相談をもって学校に来られた。その後、当人もまじえて話し合った。

何よりも、お母さんが

「小1から続けてきて、県大会で二十位までに入った。本人も楽しく続けてきたのに、やめるのはもったいないと思いまして」

と悩んでおられた。

しかし、当人は中学に新体操の部活がなく、中学ではクラスの友達と一緒に部活に入りたいのだ、という。
どの部活に入るかは具体的に決めているわけではない。ただ、友達といっしょに部活をしてみたい。新体操を続けると、ほとんど毎日のように県の体育館やスクールに通って練習をしなければならないため、部活には入ることができない。

当人は
「できたら両方やりたいし、新体操もきらいなわけではないから、続けたい気持ちもあるが、これだけになってしまうことについての不安がある」
とのこと。

「これだけになってしまう」というのが、子どもの言い分。
母親はそれに対して、「それでいい」と思っている。人間、何かに打ち込むのは幸福なことだが、いくつもできないのだから。新体操がたのしくやれたらそれでいいのでは、と考えているようだ。

私は、近くのお寺の和尚さんに相談してもらいたい、と正直思う。
だって、この相談、小学校の教師にすることか?
人生の悩み相談は、お寺の和尚さんに相談するのがこの国のルールだったはず・・・(ちがうか)

私は小学校の教師であり、授業の相談や学習のこと、クラスの人間関係などのことは相談に乗るが、あなたの私的な活動については正直、どうでも・・・あ、いや、すみません。お話は聞かせていただきます・・・。

みなさんはどう思われるでしょうか?
わたしは自分が仕事が長続きせず、転職を繰り返すほどのだらしない人間であったので、

「辞めたい?いいんじゃないの」

とすぐに言ってしまいそうである。
わたしは長続きがしない、そのために損をしてきた、ということにかけては他の人にひけをとらないくらい自信がある。

お母さんは「もったいない」と何度も言う。

ところがその結果はどうなるかはだれにもわからない。
わからないからお母さんも当人も、どうなんだろう、と真剣に悩む。

わたしは、20代の最初になぜか子牛に早朝ミルクを与える仕事をしていたが、あれを続けていたら今、おそらくいっぱしの酪農家になれていただろうと思う。あるいは肉牛の専門家として今頃はステーキを食べ比べることができる人材になっていただろう。当時は雄牛の去勢もしたが、去勢のプロにもなっていたかもしれない。

しかし、辞めた自分のことを「ざんねんなやつ」とは思わない。
むしろ、あれこれと遍歴し、漂泊し、一貫性のなかった自分自身のことが好きだ。

わたしは結局、なにもアドバイスができないまま、うーん、と腕組みして
「むずかしいところですよねえ・・・」と言葉少なに何度かつぶやくだけでした。
お母さんはマシンガントークを娘と繰り広げて、疲れ果てて帰宅されましたが、娘はおそらく、もう心の中では「辞める」と決めているのでしょう。
ところがお母さんがそのことに納得していないので、その子は仕方なく親を私のところに連れてきた、ということが真相でしょうね。

子どもは、「スポーツを辞める自分を自身では否定もなにもしない」のに、親が否定している。
子どもはスッキリしていて、強いですよ。力強く自分の足で立っているのが子どもで、ふらふらと不安でしっかり立てていないのが親、というのはよくある構図でしょう。

今回のオリンピックでも、競技の直後に引退を宣言する選手が、たぶん少しくらい、いそうです。
で、その人はすごくすっきりしていて、そんな決定を下した自分に誇りをもっているんだけど、
周囲の別の人が「もったいない」と言う、というのは、いかにもありそうな話ですナ。

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「叱る教育は必要ない」(47NEWS)【エデュ・ゴチャ】

YAHOOニュースをつらつら無気力に眺めていたら、こんな記事を見つけた。


この記事を書いたのはだれかと調べてみたら、喜多明人という大学教授であった。
最初、リンク先の47NEWS、というWEBは、どこかの私企業かと思った。
ところが、実際はこれだけの地域の新聞社が結託して、主に中央(東京)中心より発信されているニュースではなく、東京以外のローカルな内容を報道しているところであった。

47NEWS 参加社一覧
北海道新聞 | 室蘭民報 | 河北新報 | 東奥日報 | デーリー東北 | 秋田魁新報 | 山形新聞 | 岩手日報 | 福島民報 | 福島民友新聞 | 産業経済新聞 | 日本経済新聞 | ジャパンタイムズ | 下野新聞 | 茨城新聞 | 上毛新聞 | 千葉日報 | 神奈川新聞 | 埼玉新聞 | 山梨日日新聞 | 信濃毎日新聞 | 新潟日報 | 中日新聞 | 中部経済新聞 | 伊勢新聞 | 静岡新聞 | 岐阜新聞 | 北日本新聞 | 北國新聞 | 福井新聞 | 京都新聞 | 神戸新聞 | 奈良新聞 | 紀伊民報 | 山陽新聞 | 中国新聞 | 日本海新聞 | 山口新聞 | 山陰中央新報 | 四国新聞 | 愛媛新聞 | 徳島新聞 | 高知新聞 | 西日本新聞 | 大分合同新聞 | 宮崎日日新聞 | 長崎新聞 | 佐賀新聞 | 熊本日日新聞 | 南日本新聞 | 沖縄タイムス | 琉球新報 | 共同通信

「叱る教育は必要ない」
これは約4年前(2017年4月23日)までわたしがこのブログのタイトルにつけていたものと、趣旨がそっくりだ。
そこで、なつかしさと、ちょっとした興味から、本ブログのタイトルをもとにもどしてみた。(期間限定)

主に安倍政権になってから、「叱る教育」というのが推奨されてきていて、
「四の五の言わず、ばちーんと殴っていうことを聞かせたらいいんですよ」
「「口で3回注意したけど言うことを聞かないので、頬を叩いた」←これを体罰としてよいのか疑問だ(体罰ではない)」


といった論調で政治家や一部の評論家が「叱れ、叱れ」と世論をつくってきた。
「子供の自律心や忍耐心を育てるには、子供の心に不快感を引き起こしてでも教えることが必要である」というのが、それらに共通する内容であった。

ところが、47NEWSは、「叱る教育は必要ない」と言い切る。

わたしはもうずいぶん長いこと、大きな声で叱責するということがない。
前年度までは大声が自慢の先生に、大声でわめくように叱られて育ってきた、という子がいて、わたしがあまりにも叱らないためにあきれ果て、こんなふうに言いに来た。

「先生、先生はもっと強く叱った方がいいと思います。じゃないとみんないうことを聞かないと思う」

こんなふうに言いに来たのは彼が最初ではなく、毎年のようにくりかえされる年中行事だ。
保護者もそういう。「あらま先生は叱らないみたいですが、だいじょうぶですか」。

わたしは苦笑いして、照れてハハハというだけだ。
「は、すみません」
しかし、すぐに子どもは何も言わなくなる。
その代わり、「うちのクラスはなんでも話し合うんだね」というようになる。
なんでもかんでも、しょっちゅう話し合う。
それで、子ども自身が、自分の問題だとし、自分たちで解決しようと思い、アイデアを出し、解決していく。わたしの口癖は、
「いまの、どう思う?」だ。

叱る必要がわからない。子育てにイライラする、というのも、本当のところ、よくわからない。

叱るとか、しつけとか、自分のイライラをぶつける、というのを、すべてごっちゃにしていることを、「EDU-GOCHARING(エデュ・ゴチャリング・・略してエデュ・ゴチャ)」というが、多くの人がこのエデュ・ゴチャの状態になっているのだと感じる。

「しつけと体罰を混同してはならない」という論調があるらしいが、おかしいと思う。
主に、体罰を是認する方がおっしゃっている。
どうおっしゃっているかというと、【これは体罰ではなく、しつけなのだ、だから叩いてもよい】というわけ。

しかし、わたしに言わせれば、その考え方がすでに【エデュ・ゴチャ】の状態である。
しつけというのは、しっかりと自分を客観視し、自分を含めた周囲を大切にできるように励ますことである。そのことと、体罰とが、「混同」などされるわけがない。まったく異質だからだ。異次元のものだからだ。
さもその双方が近く、似ているような雰囲気で書かれていること自体に驚く。それがエデュゴチャなのだ。


桜井 氏がブログに書いていた、「口で3回注意したけど言うことを聞かないので、頬を叩いたが、それはしつけだから良いことだ」という話。

これは、とても切ない話だ。
こうなる以前に、長いストーリーがあるだろう。
もうこのひとの言うことは聞けない、と心を閉じねばならないほどに追い詰められた状態の子どもがいる。その子に信頼されない大人が何を言ったって、彼の心には届くまい。大人は気に入らないから、さらに頬を叩くのだ。いったいそれで、なにが通じるというのだろう。
そもそもの入り口から、なにかがまちがっていたことを大人が改めない限り、そうなるまでに追い詰められた子どもは救われず、大人もまた、大きな勘違いの泥沼から這い出すことができないだろう。

BENZMAN

大好きな芸能人の悪口を言われて逆上する子

いつも、子どもたちと一緒に生活をしております。
すると、大人にはないような出来事もたくさん起きる。
大人どうしであれば、そんなことはないだろうな、ということ。多いですね。

1)大声を出して、とっくみあいの喧嘩

東京は町田の繁華街で、中華料理の店から出たら、目の前で大人がなぐりあっていたのを見たのは、あれはもう20年ほど前か。でもまあ、酔っ払って双方がおかしな調子にならない限り、大人はさほど、子どものようにとっくみあいの喧嘩をすることもないような気がします。
なぜ子どもはとっくみあうかというと、まあちょっと、試してみたいんでしょうね。わたしも隣の家のケンちゃんと本気でなぐりあったことがあります。わたしは8歳、ケンちゃんは7歳でしたね。わたしの持っていたおもちゃを、ケンちゃんがわざと、どぶに落としたのがきっかけですね。当時は「嫉妬」という感情をよく理解していませんでした。

2)大声を出して、悪口の言い合い

これももう15年前でしょうか。神奈川県のとある駅で、駅員さんがいるにもかかわらず、大声で怒鳴りあい、ののしりあっていた乗客どうしがいましたが、まあ、大人ではめずらしいような気もします。小学校だと、たまにありますよ。大人よりは頻度が多いように思います。


なぜこんなことを書いているかというと、疑問がありまして、なぜ子どもどうしはなぐりあったり、大声で喧嘩したり、というのがあるのだろうか。大人になるとその頻度がかなり減るのはなぜだろうか。というのがちょっとよく分からない。だれか、教えてほしいと思います。

先日は、大好きな芸能人についてスピーチしあう、ということがありました。
これは国語の教科書や外国語の教科書や、理科や算数でもそうなんですが、今の文科省はとにかく、子どもに「自分の意見を言わせたい」のです。先日県の講座で講師として招かれていた文科省の担当者も、かなりそれを言ってます。「まずはアウトプットさせたい」と。

ともかく、上から知識が降ってくるようなこれまでの学習のイメージを、根底から変えたいようです。なので、欧米のような「討論」のイメージで、学習を進めたいらしい。
そうするためには、今の学校でも、とにかく自分の意見はこうだ、と言わせたいのです。
研究授業などは、もうそんなのばかりで、とにかくアウトプットさせた場面を文科省の息のかかった講師がどんどんと高評価しています。

で、ここからが問題。
実は、日本人の子どもたちに、育っていないものがありまして。
だから、上記のような文科省のもくろみは、意外にもうまくいかないのです。
それは、「他の評価を気にして許せない」という日本人の特性でしょうかね。

ある子が意見をいうと、それをすんなりと承知しないのですね。
いや、意見なら討論になってもよいのですから、文句をつけてもいいのです。
しかし、ただの感想や印象を述べた程度であっても、「それはちがう」とケチをつける。
それが日本人の癖なのでしょうか。大人もそうだから、子どもだけ変えるのは難しい、という人さえいます。

感想はそれをそのまま、まずは受けたらいいじゃないか。
と思うのですが、そうでもないのですよ。なかに、「ケチ」をつける子がいるんですね。
また、「ケチ」をつけられても、「へえ、そう」と意に介さない子もちゃんといます。
「へー、わたしはそう思うんだけどな。あんたはちがうんだね」という感じで。

ところが、そうじゃなくて、「いや、〇〇は▲▲でしょ!」と。「なんでそんなことを言うんだ」と、険悪なムードになる子もいる。


したがって、文科省の役人が進めようとしている「意見をアウトプットする」というのすら、難しいという現状があるのですよ。文科省の役人は、ぜんぜん気づいていないでしょうけど・・・。

大好きな芸能人のことを「好きだし、あこがれる」と話したら、「えー、ぜんぜんかっこよくないじゃん」という子がいて、そこから大荒れ。つかみあいの喧嘩、一歩手前になりました。
文科省の方は、この事象から、あることに気づいていただきたいと思います。つまり、相手の話すことをそのまま聞く、というかんたんのようでいて、すこぶる難しいことを、ちゃんと学習しないとダメ、ということです。

「ひとの言葉の聞き方」から教科書で扱わないとね。現場からは以上です。

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子どもはなぜ「愛」に気づかないのか

子どもは宝だということに、なぜ自分自身では気づくことがないのだろうか。

クリスマスに、ばあばからプレゼントが届いた。
200km離れた町に住むばあば。
めったに会えないから、クリスマスにはプレゼントを贈ってくれる。
ばあばは、「孫は宝だから、孫には」ということで、いろいろと心配もしてくれるし、なんやかんやとお見舞いやらプレゼントやらを計画し、送ってくれる。

ところがなぜか、孫であるわたしの息子は、自分が宝である、ということに気づいていないようなところがある。これはいったい、なぜであろう。
孫であるわたしの息子は、

「まあ、なんだかいろいろと、ぼくのために買ってくれたりしてくれるが」

基本的に、遠くに離れて暮らしている人、という認識なのだろう。
ふだんは意識にのぼらないけど、という、いささか薄めの、頼りないイメージらしい。
自転車を買うだとか、お金が要る、という場合には
「ばあちゃんにちょっと電話してみよう」
となるが、それ以外には、特に、という雰囲気。
これでは、ばあばが、報われないではないか!

考えてみれば、わたし自身も父母の父母、祖父母からすると孫であったわけで、
孫であったためにあれこれと心配をかけたり、寵愛を受けたりしたのであろうが、
あまり自分が
「宝であった」
という自覚は、薄かった。反省しなければならない。
しかし、いったい、なぜであろうか。

いや、孫だけが宝なのではない。子どももそうだ。
わたしももう50歳になり、自分の子どももある程度大きくなったために、
「わが子は宝じゃのう」
と思うことは、確かな実感を伴って理解できる。
背が伸びた、とか、自転車に乗れるようになった、とか、思い返せばそのたびに、親としての喜びを感じて生きてきた。
赤ん坊はくてくて寝ているだけのようだが、そのうちに立ち始め、歩きはじめて、あれこれ一人前にできるようになってくる。小さなことでも変化があれば、そのつど、「子どもというのは、宝じゃなあ」と身にしみたものだ。

ところが、宝だと思われている側の、その当人は、自覚が薄いのであります。
なぜかだろうか。

思うに、自己評価が低いからではないだろうか。
子どもなりに、自分は十分だとは思っていないからではないか。
はやく一人前にならなきゃ、と思っているからではないだろうか。
自分自身が、自分自身を宝だと認識することが難しいのは、
「一人前になったらはじめて価値がでてくるのであって、それまではまだ半端モノである」
という考え方が根深いからではないだろうか。

これは個々人によって、子どもによって、感じ方は異なるのが当然だが、それでも今の社会の雰囲気にかなり影響されている部分も大きいだろう。
つまり、日本文化の特徴なのでは?自己評価が低くなりがちなのは・・・。

成人すると一人前になって、はじめて世の中に価値が認められるが、そうでなければまだ価値は無い、という考え方が、日本の歴史には近代以後も、まだ根深く残ってしまっているからかもしれない。

ところが実際には、生まれたばかりでも価値があり、その価値は実は老人となんの差もない。
それどころか、むしろ一生懸命に悪事を働く盛年の男性よりも、なにも周囲をまきこまず、圧政を強いない赤ん坊や一線を退いた老人の方が、社会的にはより多くの人にとって良いわけで。

1)周囲をたくさん幸せにする働き者

2)周囲をほんの少し幸せにする者

3)なにもしないでにこにこしている者

4)周囲に迷惑をかけるがとくにその迷惑の働きの度合いが少ないもの

5)周囲に迷惑をかけるがとくにその迷惑の度合いが多い働きもの

6)極悪の政治家で強圧的に多くの家族に迷惑をかける者

上記のようにランク付けするとしたら、ヒトラーのように戦争を引き起こしたり、虐殺を行うのが最悪のランクであり、それをしないだけでも多くの人はマシである。何も働かないかのように見える生まれたての赤ん坊の方がはるかに人類として周囲の幸せに貢献している。

上のランク表の1と2ではなくとも、少なくとも3であるだけでも、上位である。
これからすると、子どもたちは、もっと、自分が宝だ、という自覚を持ってよいと思われる。
小学生は全員、レベル3よりマシでしょうね。
大人になると、さらに劣化して、レベル4、あるいは悪人レベルの5、というのが出てくる。
私利私欲で周囲の人々を巻き込み、それを当然と思い込んでいるパワハラ体質の強欲で傲慢な大人がさらにその下の【レベル6】だ。こう考えると、何割かの大人よりも、だんぜん子どもの方が世のためになってる。

子ども自身は、これをどうとらえるだろうか。興味がわく。

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タスク管理、だれもができる使い方~無理のないところで~

20代のころから、
「無理がない」
という言葉がおもしろい、と思っていた。
ない、ない、という二重否定だから。

無理というのは、「理」が無い、ということ。
「理」とは『ことわり』。
物事の筋道。条理。道理。
だれがどう考えても、
いつの時代においても、
それがもっともであり、当然といえること。

それが、無い、ということは、決定的に間違っている、ということ。
つまり、無理とは、【まちがっている】、という意味だ。

無理、無理、と言葉ではよく使う。
「えー、そんなの無理でしょう!」と。
まちがっているし、通らないよ、ちがうよ、ということ。

一方、「無理」がない、というのは、その逆だ。
もっともで、当然で、すーすーと明るく通る、という意味になる。
通らないわけがない、ということ。
要するに、ツーツーなわけ。水が勢いよく、なんの障壁もなく通過できる。


無理のない、スケジュールおよびタスクの管理術がないか、と考えて3年くらい経つ。

スケジュール帳は、20代のころはA版の大きなものを買って、ふせんをぺたぺた貼っていた。
それが心地よかったときもある。若いから、そこまで自分のあれこれを管理する力があった。
しかし今はそれがしっくりはこない。老いたのだ。疲れてしまってできない。
もっと簡便で、もっとスーッとできないか。
どれだけエネルギーの枯渇したような、背筋の全部が痛んでいるようなとき。
そんなぎりぎりの状態でも使える、「スケジュール帳の管理術」がないかと。

そこで、もうただのマスだけのスケジュール帳を買った。
本当に、ただのカレンダーを印刷しただけ、のような。
付属品はいっさい不要。

その四角いマスの中に、1つか2つの、重要なタスクを書く。
当日中に、ぜひ行ってしまいたいことだけを精選して。

そして、終わったら、赤い水性ボールペンで線を引いて消す。
それだけ。

ただ、それだけで、日々の生活の中、リズム感よく使うことができている。
おそらく、自分にはそれだけのことでいいんだろう。
ぎりぎりの疲労状況でもできるのは、
たったこれだけのタスク管理だ。
疲労困憊で倒れそうでも、これならやれる。

なぜこんなことにこだわっているかというと、
「おそらく子どももやれるだろう」、というものを見つけたかったから。

これだけでもずいぶん、あれこれと自分のことや仕事のこと、生活のこと、考えるものだ。
自分をマネジメントする、あるいは過去のポートフォリオの素材としても、このタスク管理スケジュール帳は役に立ちそうな気がする。

「ああ、あのとき、1週間くらいかけてこれやってたんだー」
「この件、もうこのときから考え始めてたんだー」
こんなことさえ、自分のことをふりかえるのに、役に立つかもしれない。
すくなくとも、当時の自分の考えていたことを、思い出すことができそうだ。

小学生だって、自分マネジメントがしたいだろうし、やれるだろう。
その第一歩は、こんな程度でいいのではないだろうか。
無理なく、誰でもつづけられて、いちばーん分かりやすいスタイル。

小学校の3年生(9歳)くらいからはじめて、高学年(12歳)まで。
すーっと無理なく、自然に習慣になって続けられたらいい。そのくらいのスパンで。

スケジュール

【子育て】もの申す子に育てる

学校で何を学ぶか。
世の中の多くの人はどう考えているのだろうか。
おそらく、今の世の中のことをしっかり学べるように、と考える人が多いのではないだろうか。

もしも、学校で重要視するものを、下記のように変革したとしたら何が起きるか。

今の世の中の仕組みを成り立たす人になるために学ぶ

  ↓

私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みはどうなのか、を思考・創造することを学ぶ


もし、このように変化したとしたら・・・

おそらく、起業家がたくさん出てきてしまうだろう。
そして、従来型の企業には就職しなくなるんじゃないだろうか。
あるいは、就職したとしても、従来やっていたことをただ繰り返すのではなく、どんどんと新しいアイデアを実行してしまうのではないだろうか。

企業としては、会社としては、どちらの人材を得たいか、ということになる。

「そりゃ、指示をしっかりと聞いて、その通りやれる人材が欲しいに決まっている」

と考える人は、今の世の中の仕組みをきちんと学ぶ学校 に入学すればよい。

しかし、

「新しいアイデアを思いついて実行できるように計画する人が欲しいだろう」

と考える人は、私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みを思考する学校 に入学するべきだ。

で、今の公立小学校はそのちょうど中間にいる。
例えば、図工の授業はずいぶんと変わってきた。
文科省の指導のもと、鑑賞の授業に力を入れ、ずいぶんと変革されたのがもう10年くらい前だ。
文科省は、「生きる力を本人が手にすること」を標榜して、鑑賞の授業をがらりと変えてしまった。

そのため、ゴッホとかピカソとかの名作の名前を覚える授業ではなく、
「自分がその絵を見て何を語ることができるか」を重視する授業に変えられてしまった。

つまりこれは、起業家を育成する方向である。

また、国語や社会も従来とは変わってきている。
歴史だって、こうなってこうなってこうなった、というあらすじをとらえるだけでない。
どうしてこういう現象が世の中に起きてきたと思うか、自分なりのとらえや発見を語れるようにする。だから、子どもたちは、授業になると書いたりしゃべったりが、忙しい。

覚える、というよりも、いかに自分の意見を持つか。

時代は変わり始めている。

文科省はこういう方向にずいぶん前にかじをきり、進めよう、進めよう、としている。
ところが一部、抵抗勢力がいる。
それが、親だ。

親は、自分の子どもに、

「従来の企業に就職しておとなしく首にならぬように長く勤められるように」

と考える。

だから、子どものテストの点数に目を光らせ、もう覚えたか?と聞く。


ところが、学校は、次のようなことを子どもに聞く。

きみは、どう思うの?なぜ?なるほどーふーん。
どうしてそう考えたの?その意見の参考にしたものはある?
どんな本を読んでそう考えたの?友達の意見で参考にしたことはある?
そう考えるとどんないいことがあるの?
そこから発展させてさらに考えたいことは?それは世の中のためになりそう?
世の中にはそれとは逆の考えもあるけど、反対意見についてはどう思う?

大学入試もそうだが、高校入試も面接の比重が高くなり、面接の時間が長くなり、作文や小論文の比重がどんどん高まっている。

意見が言える子の未来は、明るい。

大人だって、大臣だって、自分の意見をきちんと伝えるのが良い。
ロシアの怪僧ラスプーチンだって、トランプ大統領だって、サラリーマンだって教師だって、誰だって、自分の意見を言える世の中が正しい。
ラスプーチン

【今こそ!】子どもにモフモフの毛布を与えよ

くたくたになって帰宅したとき、ふわふわの毛布にたおれるように横になることがある。
そうすると、そこにふわふわな毛布の触感を得て、なんとなく、心が軽くなる。

これはまったく理屈に合わないことだ。
脳内の思考や苦労ごとや心配がなくなったわけではないのにも関わらず、なぜだか心が軽くなるのだから。

なぜか理由ははっきりしないけれども、癒される。
これは、ホントにわけがわからないが、たしかに実感としてある。
実に、不思議だと思う。

幼い頃、父が勤務先から、小さなトロフィーを抱えて帰ってきたことがあった。
父はそのころ、なかなかの熾烈な業界で営業をしていた。その月はどうやら父の販売成績が良かったらしく、職場の大会で表彰されたらしい。
母はうんと喜んでいたが、なんだか子どもには分からない大人の事情もあったようだ。つまり、懐(ふところ)の具合が、多少なりともあたたまったのであろう。母は常には見せないほど嬉しそうにしていた。

母はトロフィーを小さな箪笥の上に飾り、幼い私たち兄弟に、
「これは本当に大切なものなんだから、触ってはいけません」
と教えた。

ピカピカと金色に光るトロフィーは、実際にはただのプラスチックであっただろうが、わたしたちはそれを本当の「金」で出来ているのだと思い込み、父親を
「実はすごい男なのではないか」
と危うく思い込ませるほどであった。

ところで、一度、わたしはそのトロフィーを触りたくて仕方がなくなって、親の留守中にひとつ年上の姉と共謀し、箪笥の上のガラスの扉を開けて、持ち上げてみたことがある。

そのときの、重さには、実際感動した。
本当に重かったのだ。
わたしは、その金のトロフィーを何度も持ち上げて、やはり姉とふたりで
「うちのおとうさんって、すごい人かも」
と、束の間の勘違いにひたることができたのである。

ところが、その化けの皮が剥がれるときがきた。
今度は3つ年上の、ちょっと利口な姉が、わたしたちに真実をばらしたのであった。
「あんなの、ただのプラスチックだよ」
わたしとすぐ上の姉は反論した。
「ほんものだよ。だってあんなに重いんだよ」
それを聞き、すでに中学生だった一番上の姉は鼻であしらうように笑い、そのトロフィーの底の蓋をはずしたのであった。

そこから出てきたのは、小さな、コンクリートのかけらのような四角い石で、その石を取り去ったトロフィーは、とんでもなく軽かったのでありました。

トロフィーが軽くなった途端、ものすごい勢いで、わたしたちの幻想はガラガラと崩れてしまった。トロフィーの価値が、またたくまに消え去った。
「えー・・・」
小さい方の姉とわたしは、二人であまりのことに驚き、愕然とした。

ふわふわの毛布と同じく、重たいトロフィーには「価値」を感じる。
これは、理屈ではなく、身体的なメッセージが心に大きく作用した、ということであろう。
人間の脳は、理で悟るというよりも、身体で感じるメッセージの方を、かなり重要なものとして把握するらしい。
だから、わたしたちは手にずっしりと感じ取った「重さ」に感動し、
ふわふわの毛布の「やわらかさ」にホッと安心を感じるのでしょう。
これは、人間が「理」よりも「感覚」で生きているってことの、証明になりますね。

心が本当に痛んだようなときは、周囲がおせっかいに発する理性の言葉なんかより、人肌の温もりの方がどれほど恋しいことか。

猫が毛だらけな理由は、そこ。(←暴論)

理屈ではない。
毛だらけで、もふもふで、やわらかくて、あたたかくて、なでるとつやつやで、すべすべで、押すとやわらかい。

猫がどんなにナマケモノで役立たずであっても、うるさく鳴いても、お菓子の箱をふんづけて歩いても、許されてしまうのは、毛だらけだから、でありましょうナ。

教訓:学校休校の今、子どもには、ふわふわの布団を用意すべし。

ぬこ

ねむの木学園・宮城まり子さんの思い出

宮城まり子さんといえば、映画が思い出される。

私は、まだ小学校の1年生くらいだったかな。
母が兄弟全員を映画に連れて行ってくれた。
タイトル、思い出せない。
今調べてみて「ねむの木の詩がきこえる」だったか・・・。

上記映画の解説には、
『宮城まり子が主宰している、体の不自由な児童のための施設“ねむの木学園”。学園の子供たちと宮城をはじめとする指導員たちの心あたたまる交流を描くセミ・ドキュメンタリー』
とある。
おそらく、この映画だろう。セミ・ドキュメンタリー。
実際の学園の様子が映し出されていた。
まり子さんと子どもとのやりとりは、演技というよりも、実際の『素』の姿だった。

6歳だったから、ほとんど覚えていないが、断片的に今でも覚えているのだから、よほど強く印象に残ったものらしい。

1つめ。

言葉をもたないやすひこくんが、広い部屋の隅でねそべっている。
まり子さんが歩いていき、同じようにねそべって、顔と顔がくっつくくらい近づいた。
まり子さんは、ふと思いついて、自分の口をすぼめ、人差し指をくわえた。
やすひこくんは、何をするんだろうと見ている。

まり子さんは、その咥えた指を、勢いよく口から外へ抜いてみせた。
そのときに、甲高い声で、
「ポーッ!」
と言った。
指が外へ出る瞬間に、ポーッ!と言いながら、指を口からひっこぬく感じ。
何度もおちゃめな顔をして、にこにこしながら、その『ポーッ!』をしてみせた。
するとやすひこくんも面白がって、自分の指をくわえて、まり子さんの真似をして
「ポーッ!」

6歳のわたしは、この意味が分からなかった。
で、帰り道に母に

「なんであんなふうなことをしたの?」
と聞くと、母は
「ああいう具合に訓練をすると、しゃべれるようになる」
と言った。
わたしはあんな「ぽー」くらいでしゃべれるようにはなりそうもない、と考え、
「あの子は、ぽー、は言えても、ふつうの言葉はしゃべれるようにはならないでしょ」
と言うと、母は確信めいた雰囲気で、
「いや、あれが重要なのだ」
というようなことを言った。
わたしは「そうかなあ」と疑問に思った。

↑ こんなことを、あれから40数年以上たつのに、まだ覚えている。
映画に詳しい方、実際にこの場面って、映画に出てきますか?
それと、タイトル、「ねむの木の詩がきこえる」で合ってますか?
もしこれを見てご存じの方いたら、ぜひコメントくださいませ。

もうひとつ、夕暮れ。
橋の近く。
まり子さん(と思われる人)が、地団駄踏んで泣くシーンがあった。

当時の私は、大人というものは、あんなふうに地団駄踏んで、腕を振って泣く、ということはしないと思い込んでいたので、衝撃を受けた。
なんでそんなに泣いたのか、というのがよくわからないが、そのシーンだけを覚えている。

まり子さん(と思われる人)は、足でどんどんと地面を蹴り、そして腕に持っていたカバンやバッグをすべてぶん投げて、大声で嗚咽しながら泣きわめく、のである。

私(6歳)は、そのシーンを見て、

「大人になっても、こんなに泣かねばならないというのは、よほどの思いがあるのだろう。事情は分からぬが、大人というのも、ずいぶんと大変なものなのだろうか」

と考えた。
私は子ども時代は宿題などでえらく苦労をしなければならないが、この世は大人になってしまえば楽ができる、とそれまで思い込んでいたので、ショックだったらしい。

ねむの木

風呂育(ふろいく)がなぜ欠かせないのか

休日の夕方から、ちょっと気になるスーパー銭湯へ行きました。

やすみの日だから、家族連れが多い。

なかに、お父さんといっしょに入りにきた少年がいて、のしのし、と十分に貫禄ある歩き方。
周囲を睥睨(へいげい)しながら、今度はどの風呂へ・・・と思案しつつ、歩いております。

わたしゃ、「お」、と思いましたね。

4、50代のおっさんたちの中に紛れても、まったく違和感のない立居振舞い、目線の置き方、ゆっくりしたテンポ。


少年は、

「ぼくはこういうとこ、慣れてるから」

感を充満させながら、さまざまな風呂を試しておりました。


よく、子どもは自分のテンポで生きておりますから、こういうところに来ると、やたらとはしゃいだり、急いで小走りになったりして、周囲のテンポとずれていることが多いです。

ところがその少年だけは、一歩一歩が、ゆっくりしている。

岩風呂に入るときも、まるで王様のような感じ。

一歩踏み入れて、お湯の温度を確かめつつ、次の一歩をどっしり、と踏みいれる。

背は小さいから、そのたった2歩だけで、身体はほとんど湯にうもれてしまいますが、大事なのはそのテンポです。

周囲のおじさんのテンポをかき乱すようなことなく、目線の配り方も悦に入っていて、きょときょとしない。子どもが不安を目にあらわすことは多いですが、それがなく、目が満悦しきっている。

すでに堂々たる大物ぶりです。

そのからだつきや態度などから感じる人間的重みや風格、身に備わった威厳は、もはや8、9歳のシングルエイジャー、という事実を超えておりました。


「このくらいでないと。」

わたしは、風呂の空間を、彼のためにちょっとだけ心持ち譲り気味になりながら、思いましたね。

こういう風格が身に付くためには、彼のように、ほぼ毎日、この温泉に通わなければならないでしょう。
大事なのは、積み重ねです。
彼の前では、どんな大人だって、新人です。新入り。
彼は、毎日、ここへ通っているのですから。
いわば、ここは、彼の家(うち)です。テリトリーです。

入れ墨をしたおっさんだって、彼の前では、

「や、あっしも経験が浅くて、まだまだ・・・」

と、つい言いそうになるくらいです。


そんな彼を見ながら、あれこれ感じるところがありました。


考えてみれば、風呂というのは公共空間でありまして、人間にとって大事な、人と人との間柄を学ぶのに、うってつけの空間であります。

ここで、彼のような人材を育てるために、できることがあるのではなかろうか、と。

「風呂育」(ふろいく)

と言う言葉が、頭に思い浮かびました。

○○育、ということばがずいぶん前に流行りました。(今はどうか知らんけど)
食育とか木育とか水育とか・・・

今、調べてみると、リンナイ、という会社が、すでに「風呂育」を提唱しておりました。
ただそれは、自宅の風呂をテーマにしているようで、自宅でのマナーを学ぶことに重点を置いているようであります。

わたしの言うのは、公共の風呂での、風呂育です。
○子どもが大人のテンポで風呂に入ることができる。
○となりの人の背中を流してあげることができる。
○風呂桶を元に戻すことができる。
○あわを排水溝へ向けて、流しておくことができる。
○サウナの入り口で、うまくすれちがうことができる。
○ほかの人の体と対面したときの、目線の置き方を心得る。


まァ、さしあたり、この6項目を基本理念として提唱しておきたいですな。

大事なのは、最初の項目です。
○子どもが大人のテンポで風呂に入ることができる。
これは、なかなか難しい。
子どもが、おとなのリズムを理解して、それで立居ふるまうのですから。
それを習得するのは並大抵ではない。2,3年の修行でも足りないかもしれない。5年、10年、と毎日風呂に入っているうちに、本人が40代になってしまうかもしれない。

あとは、目線の置き方でしょうね。

じろじろと、股間を見つめてくる子どもに、動揺したり、狼狽した経験は、大人ならだれしもあるでしょう。

公共空間で、さもめずらしいものをみた!、という感じで、感心しきって股間を見つめてくる子どもには、もう、どうしたらいいか、分からない。

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わが子がモテるようになる秘訣

わが子が進級すると、親としてはいろいろと聞きたくなるものです。どんなクラス?先生はどんな人?友達はできた?

興味や関心を親が示してくれるので、子どもとしては、そういう会話は楽しいようですね。
きっと、次の日も学校から帰宅すると、さっそく報告してくれることでしょう!

おうちの方としては、この報告を、親が今やっていることの手をとめて、うなずきながら、笑いながら聞けたら最高ですよね。子どもはうれしくてならないと思います。
学校からの帰り道、子どもは「今日はこのことをお母さんに言おう」と、なんとなく思い浮かべるようになるかもしれません。

先生がほめてくれたことを子どもが言うことがありますネ。
「今日、わたしが帰りに窓を閉めたら、ありがとうって言ってくれたよ」「先生が、そうじが上手だねって言ってくれたよ」
大いに共感して聞いてあげますが、これはほんの序の口です。

一番、興味を持つのは、子どもが他の子の良さを口にしたときです。
「うちのクラスのTくんは、ぞうきんの絞り方がすごいんだよ。パワーがすごいから、かたーく絞れるんだよ」

「あ、そう」というだけで終わらせず、「今の話、もっと教えて」と、くわしく話してもらいます。
そして、
「みんな誰でも、自分がすごいっていうことを言いたがる人が多いけど、今の話は、友達がすごいっていう話だったよね。Tくんも、きっと嬉しいと思うし、そう思ってくれるあなたのことを好きになってくれるよね」


つまり、子どもがクラスの子と、気持ちの上でつながっていけるように考えるのです。親は、子どもの話をききながら、『人生の何に価値があるのか』を教えています。教えている自覚があるかないかは関係なく実際は教えている。子どもは親の関心そのものから学ぶのです。

常に、子どもが友だちとの関わりを深めていけるように、親友ができますように、と関わるようにしていくと、中学に入る頃、その恩恵が10倍になって戻ってきます。
小学校の6年間で、友達ができるようにと配慮してきた経験がすべて生きてくるので、思春期にある悩みや不安も、きっと仲の良い友達と本人とが励まし合って、勇気をもって解決していきます。
小学校で少々のトラブルがあっても大丈夫。それはすべて「必要な学習」です。

友達のよさを感じ取れる子に育っていれば、1週間のうちの1日がケンカで終わっても、結局は仲直りして、かえって絆を深めることになるのです。小学校で練習していれば、中学高校という難しい時期が、難しくなくなります。必要な学習を、事前にやっている、と考えたらよいのです。

そういう意味で、子どもは周囲の大人から学び続けています。
人間はいいものだ、と心の底で感じている親であるかどうかは大きなことなのです。

「嫌われるかもしれない」と恐れるのではなく、「より良くつながれるかもしれない」と思えるかどうか。人に対しての親の意識のあり様を自問することです。

子どもが、友達への誕生日プレゼントをつくっている現場を見たら、最高のものを見た、というような感動があるでしょう。誰かが喜んだり、助かったり、誰かの役に立つから自ら進んで動いた、という場面こそ、価値を見出しておきたいものです。大切なのは、そうやって動いたときにたとえ失敗しても責めないこと。

給食当番でなにかを運んでいるとき、クラスの仲間のためにしていることなのに、こぼしてしまうことがありますね。それを責められたらどうでしょう。「あら残念!こぼしちゃったね。片づけよう」だけでいいのです。「こぼしたけど、きれいに拭けたねえ」で笑顔になれますね。

(親向けのおたよりに載せたもの)

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『虐待・いじめ・強圧』をどう考えるか

虐待してしまう、というのは異常である。
また、人をいじめる、ということも異常。
強圧的に人に接することが癖のようになってしまうこともある。
もし仮に「他人を自分の意の通りに操縦できない」という状況に陥った時、血圧が上がったり、大きな声で叫びたくなったりと、精神的に興奮してしまうというのは、異常な状態である。

なかには机の上のガラス瓶をこなごなに打ち砕く人もいる。
お皿を投げたり・・・
怒りに身をまかせて、衝動的に物を壊し始める。
これはたしかに、正常ではない。

読者は、「異常」という言葉について、どう思われるだろうか。
「異常」という感知の仕方ができる、そのこと自体が人間としてのリカバリ本能なのだろう。子どもを虐待しても正常、というようにしか認識できないようなら、ヒトはもう、「種(しゅ)」としても存続していかれなくなる。つまり、もしかしたら子を痛めつけている今の自分の状態は異状なのではないか、と自省できること自体、正常、ということだ。

自分が異常かどうか、ということについて、厳しく見ることができる。
それが正常だ、ということだろう。


さて、自分の状態が異常であれば、そうなっている(自分をそうさせている)原因を取り除けばよい。
異状からの脱却をはかること。
それを繰り返し、試みていける状態を、正常、と呼ぶのだ。


正常というのは、異常ではない、ということ。
虐待をしなくても済む、ということ。
誰かをいじめなくても済む、ということ。
強圧的に人を脅さなくても済む、ということ。

その必要を感じなくてもよくなる。
その衝動を感じなくてもよくなる、ということ。
虐待、いじめ、強迫について、正当性を主張しなくてもよくなる、ということ。

あぁ、と力を抜き、やれやれ、と肩の荷をおろす、ということ。
どっこいしょ、と椅子に腰かけて、「もういいな」と明るく思える、ということ。

この先、なにがあっても、だいじょうぶ、ということ。
なにがあっても、虐待はしない。
なにがあっても、虐待が起きない。
なにがあっても、いじめなくてもよく、強圧的に人を操縦しようと思わなくても済む。

ここに、ひとつ方法がある。
それは、豊かで生き生きとした人間どうしの交わり。
嫌悪の無い、嘘の無い、こびへつらいの無い、
上下感の無い、差別の無い、嫉妬の無い、交わり。
そうした人間関係があれば、次第しだいに、人を操縦しなくても良くなっていく。
気が付くと、パワハラ、なんていう言葉とは無縁で生きられるようになってくる。


ではどうしたらそういう人間関係を手に入れられるか。

自分の中に、「見方」を確立すること。
嫌悪感の無い「見方」になること。
ありのままを見る人になること。
偏見をなくすこと。

これがもう、大変なのだ。
「偏見」が、ぎとぎとの油のようになって目の前にこびりついている。
ぎっちりとこびりついてあるから、苦しい見方しかできない。
一年中、「ひと」への嫌悪感の中で、生きている。

「おれ?だいじょうぶ。オレ、嫌いな人がそんなに居ないからネ」
といいながら、なにかあればすぐに眉をひそめて、他の行動が気に入らないと言う。

となりの芝生が青く見えたり・・・
嫉妬の炎がめらめら燃えたり・・・

「気に入らない」がない、という状態になったら、どうなのか?


ところで、気に入らない、を深く考え続けていくと、「気に入らない」が無くなってしまう。
まるで、長年の肩こりがスカッとほぐれるように、「気に入らない」が消滅する。

当たり前だとしていることから、考え直してみよう。
修行も勉強も先生も教科書も、無いところから。
一度深く、考えてみる。それから。
再出発のスタートは簡単であればあるほど、いい。


「自分は、なんで腹が立つのか」
「なんで、いやなのか」
「なぜ、気に入らないのだろう?一体【何】を、気に入らない、としているのだろう?」

それほど、探究されていない。

学校でやればいいと思うが・・・。
英語が増えて、余裕もない、行事は減らず、教科書は分厚くなり・・・今の小学生はキツいよ。
昭和の小学生はいかに余裕があったか、思い返すと泣きたくなるくらい・・・。

こんなこと考えているような学習時間はもう無いんだが・・・でも、子どもたちと考えたい。学校でやれるといいよナァ・・・。



ついでに、大人向けもやってみたいネ。(研究会しますか?)

怒り

家庭訪問で繰り広げられる恒例の・・・

4月になり、慌ただしい新学期。
子どもはうれそうです。
新しい教室と先生になり、持ち物や上履きまで新しくしたりして、なんだかウキウキですものね。校庭はあたたかくなり、水にさわっても気持ちよく、まったく良い季節である。

ところで親や先生は大変だ。
連絡網を確認したり、メールを登録したり、子どもの知らないさまざまな業務をお互いにこなさなければならない。

おまけに、そろそろ家庭訪問がある。

都会ではほとんどこの風習は消滅しているらしく、先日久しぶりにのぞいた教員どうしのメーリングリストでは、

「いや、もう家庭訪問なんて久しくしてないです」
「10年以上前から、そんな行事は無いですよ」

と東京や神奈川在住の先生が言っていた。
逆に、東京の先生は、

「え?まだそんな行事、やってるんですか?だって、保護者だって都合をつけるのが大変じゃないですか」

と驚愕していて、まだ田舎ではそんな戦前からの行事が続いていたんだァ・・・と珍しがられた。

「いや、こっちの先生は庭から縁側へまわってご両親や祖父母とあいさつしますし、その後、お茶とお漬物をいただいて、子どもの話もするけど庭に咲いた梅や桃の花の話もきちんとしますよ」

と書き込んでおいたが、東京の先生からすると開いた口がふさがらないというか、

いつの時代?

・・・てな具合で、理解不能、という感じの反応であった。


家庭訪問では、わたしが「恒例の」と名付けている会話がほとんど見られまして、どんなのかというと、

「学校では気もきいてお友達を助けるとてもやさしい子です。本当にありがとうございます」

とまず、教員が言う。

すると必ず保護者が目を丸くして驚き、驚愕して顎をふるわせながら

「いえ!あの子は家じゃ、ごろごろとねっころがってばかりでろくに家の手伝いもせず、兄や姉とけんかばかりで口ばかりの役立たずです」

と、わが子なのに悪罵讒謗である。

そこにわたしがかぶせるようにして、

「いえいえ、学校では本当に学習もがんばっていて理科では・・・国語でも・・・とか・・・というように・・・みんなのお手本で・・・さらには・・・ということもあって・・・など、活躍していますよ。また、全校の集会では年下の子といっしょになって遊んでいて、怪我をした子を親切に保健室まで連れて行ってあげてました」

などと弁護すると、ますます親は呆然としながら

「あらまあ、・・・そんな・・・わが子じゃないみたいですねえ・・・。えー、うそでしょう、そんなの先生ったら。どうしましょうね。にわかには信じがたいわね。へえ、あのぐうたら息子がねえ、そんな・・・本当ですの?」

と目を丸くする、という、ここまでの定番の流れのことである。

教師は、これを35人学級ならほぼ、35人分しなければならず、こころのうちでは

「またこの『パターン』か、やれやれ」

と思っているのだが、これまた毎年、毎年、かならず家庭訪問で行われるわけで・・・。


ところがたった一度だけ、

「そうでしょう。うちの子、学校じゃあ、がんばってると思いますわ。・・・家じゃ、ずっとわがまま言いたい放題ですもん」

と、言った親がいた。


こうくると、

「ううむ」

わたしは心の中で何度もつぶやくのであります。

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食器を投げる子、投げない子

春、終業式まであとわずか。

なんとなくしっとりした雰囲気で、給食をたべながら、
ああ、そういえば、食器を投げる子が、いなくなったなあ、と気づいた。

食べ終わったあと、食器を片付ける。
食器の入ったカゴというのがあって、かなり大きい。
そこに、全員分の食器がつみかさなる。

春、このクラスは、このカゴが、とっても汚かった。
食べ終わったあと、まだおかずのこびりついたような皿が、何枚も、このカゴの中に
ぞんざいに置かれた。
悪い時は、「投げ捨てるようにして、入れられた」感じがあった。

おもしろがって、放り投げるようにして入れる子もいた。
それも、何人も。
給食台の上が、飛び散ったおかずで、汚れ放題に汚れていた。

4月に担任を持ったとき、

「この状況を変えるのがゴールではない」と思ってスタートした。
形を変えるのは、1日で可能だ。
大声で怒鳴りつけるか、
厳しくチェックして事細かに注意するか、
名簿をもってきて、一人ずつ確認するか、
教師ならどんな手立てもとれる。


食事が、ていねいにできるようにしたい。
いつの間にか、そうなるように、この場がしあわせな空気で包まれるように。
「高級レストランのように」という言葉を子どもに向けて発しなくても、自然とそんな空気になるように・・・

こころが満たされて、満足して、安心して、友だちが好きで、ここにいることが幸せで、みんなとこうやって食事ができることが好きで、楽しくて・・・

そんな食事ができるなら、お皿を投げる気にもならず、おかずがとびちることも分かり、これをつくってくださる方、調理してくださる方の思いにも、どこかで通じていく気持ちをもてていることだろう。

つまり、こころがこまやかになる、ということだ。
それは、びくびくすることではない。
それは、こころがしめつけられ、ささいなことが気になる、というありようではない。
『気になる』、のではない心の状態。



「こうじゃなきゃ、なんか気になっちゃう」の反対が、いいなあ。
「どんな状況でもかまわないけど、なんかこうしたくなって、こうした」がいいなあ。


1年間を通してみて、この子たちの良さが見えてきたかな、というとき。
いつの間にか、子どもたちはみんな、落ち着いて食事をしている。

これは、担任が、この子たちの良さが見えるようになったから、
そういう目をもててきたから、
ようやく、この子たちは、本当の姿をみせるようになってきたのだろう。

大人が子どもを誤解しているから、食器を投げるのだ。
この世に、食器を投げる子、は、いない。

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個性、感覚、すべて異なるのが当然

子どもは、一人ひとり、異なる。
どうちがうかというと、かなり、ちがう。

なにせ、親がちがう。
親の個性があり、価値観がちがう。
親の本音もちがうし、社会的な立場も違う。
大人としての意見もちがい、好みも違い、世の中への姿勢が異なる。

つまり、環境がかなり異なる。
それに、子ども本人の元来の資質がちがえば、完全に一人ひとりが異なるわけだ。

給食の時だって、個性が現れる。

食べた後、ていねいに食べる子、たくさんこぼす子、さまざまだ。
こぼしたものをていねいにナフキンで包んで、ゴミ箱にはらいにいく子もいれば、そんなことはおかまいなく、床にパッパッとうでで払ってそのままの子もいる。

ある子は、ご飯の上から、持参したスポイト容器で、水をふりかける。
これは、親御さんの指示による。



ある年、担任になったばかりの4月に、保護者の方が来校された。
会って話してみると、何ごとかを憂うような表情を浮かべて、

「先生、うちの子に、こういうものを持たせますが、担任として許可していただけますか」

と、何かをハンドバッグから取り出し、心配そうにわたしの前に差し出した。
手に持っているものを見せていただくと、小さなスポイト容器である。

「実はこの中に水が入っています。この水をふりかけると、食品中の有害な添加物を無害にできますので、給食を食べる前に、子どもにふりかけさせるために持参しますが、良いですか」

わたしはドキドキしながら、

「どうぞどうぞ。もちろんかまいませんよ」

と言った。

お母様は安心したように笑みを浮かべると、もう一つ、相談事があるのですが、と再度、不安げな表情になった。

「うちの子がこういうものをふりかけているのを見ると、クラスの中には『あ、へんなことをしてる』というように、うちの子に向かってからかったり、はやし立てたりする子が出ないとも限らないので、そういうときには担任の先生にフォローしていただきたいのですが」

「なるほど」

わたしはうなずいて、

「そういうときには、きちんと対処して、つらい思いをさせないようにしましょう」

と請け合った。

お母様は安心した様子で立ち上がり、礼を言って帰られた。


子どもは、親から大きな影響を受けて育ちます。
間近にいる大人、それも自分を育ててくれている親の本音を敏感に察知します。
親の本音は一人ひとり異なるのですから、子どもの反応もそれにともないます。
したがって、だれひとり、同じ子はいないのです。

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お父さんとお母さんにはゆっくりしゃべってね

ゆっくりと話す女の子がいる。

彼女がゆっくり話すからか、まわりのみんなは、彼女の発言を注意深く聞こうとする。
彼女から、「言葉を大切に選んでいる」という感じを受けるからかもしれない。

ゆっくりとていねいに話すから、相手に対して何か言う時も、それがあまり責める口調に、聞こえない。だからか、自然な人気がある。

前からそんな雰囲気を持っていたな、と思っていたら、先日、ちょっとした会話の中に、ヒントがあった。

「今度の児童会の発表で、全校の前で話すことになったから、緊張する」

というので、

「そうだねえ。全校の前なんだもの、ねえ。緊張するよね」

と応ずると、彼女は

「でも、お父さんとお母さんに話すときみたいに、ゆっくりしゃべっていれば、たぶん大丈夫だと思う」

と言った。


ちょっと、わたしのセンサーにひっかかりましたので、尋ねました。

「お父さんとお母さんに話す時は、ゆっくり、を心がけているの?」

「はい。小さいときから、親に話す時はゆっくりしゃべってね、と言われてたから」


なるほど。

ゆっくり、か。
ゆっくり歩くとか、ゆっくり考える、とかあるけど、

「ゆっくりしゃべってね」

ということも、あるのだなあ。


この女の子は、
「人に話す時は、ゆっくりしゃべったほうがよい」
と道徳的に習ってしつけられたのではない
そうではなく、道徳的にどうこう、というよりも、
お父さんとお母さんから、お願いされた、ということなのだ。

「お父さんとお母さんは、あなたの話をきちんと聞きたいし、ちゃんとその意味をわかりたい。だから、お願いだから、ゆっくりしゃべってほしい。そうするとよく分かる」

というようなことが、過去にあったのではないかな、と。
この子は、それを10年間、続けているわけ。
大事な、お父さんとお母さんに、わたしのことを、きちんとわかってもらうために、ね。

探検にでかけよう

【自由研究】錦織圭の強さの秘密

.
父親「練習に行こうと親が言ったことはありません」
日本の若手トップアスリートにおける両親の教育方針に関する一考察
http://www.waseda.jp/sports/supoken/research/2010_2/5010A317.pdf
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科
氏名:杉山芙沙子
 ↓
杉山愛
宮里藍
錦織圭
石川遼
 ↓

体罰・罵声・強制・威圧など、強い口調での指導⇒0人
自発的な子どもの意思と周囲の十分なサポート⇒4人

 ↓

子どもの意思を最大に尊重する周囲環境

 ↓

大人の意思も最大に尊重される

 ↓

評価の在り方

よくできた
うまくできた
上手にできた
立派にできた
(1割)

やりたいことができた
みんなの力を借りてできた
つぎの工夫もみえてきた
さらにやりたくなった
みんながよくなることができた
何より自分が楽しめた
(9割)

 ↓

事柄、現象、やること、内容は、実はなんでもよい

 ↓

学校での評価から一歩離れたところでの評価(自己評価や満足を含む)を得られる
裏文化
枠外での活躍

 ↓

子どもの何をみていくのか
内面・心情・人格的なもの
(評価するでなしに、まずは満足が得られているかという点)

 ↓

自分が「満足」したときの仲間への声かけ

 ↓

現代っ子⇒強い評価にさらされたときの衝撃に弱い
(内面が育っていない、なにが大事か、ということが分からない)
(「賞」をとるのが良い、有名になるのが良い、評判の良いのが良い、という偏った観方に陥る)

 ↓

引きこもり
(平成24(2012)年には63万人)
自殺
(30代までが年間7000人)
ニート

 ↓

外面(そとづら)、外見をよくしようとする。(就職活動うつ・内定ブルー)

 ↓

「人は、外見を見ただけでは判断できない」

 ↓

みんなのことを思って動こうとする子は、⇒ほうきで隅まできちんと掃く(かもしれない)が、
ほうきで隅まできちんと掃くから、⇒みんなのことを思って動いている(とは限らない)。

心が健康な子は、⇒毎朝元気に笑顔であいさつする(かもしれない)が、
毎朝元気に笑顔であいさつをすれば、⇒心が健康だ(とは限らない)。

心が荒れている子は、⇒隣の子が牛乳こぼしても助けないかもしれないが、
隣の子のこぼした牛乳を拭かないから、⇒心が荒れている、とは限らない。

心の栄養が不足している子は、⇒校庭のマラソンをしないかもしれないが、
校庭のマラソンをしないから、⇒心の栄養が不足しているとは限らない。

 ↓

「1回3時間の練習を週6日間やり、試合初出場から約1年後には初優勝を果たしている。筆者は非常に近くで杉山愛と接していたが、テニスに関して口うるさく言った記憶は全くない。常に彼女の意思を尊重にし、叱った経験もごくわずかだ。筆者はコーチ、ディレクター、そして母として杉山愛に一人の人間として接し、「テニスは楽しく、すること全てを楽しむ」ことや「自主性を重んじ、強要はしない」ことを教えてきたつもりである。」
(杉山芙紗子)

 ↓

どれだけ外面(そとづら)がよくても、悪くても、

「どうしたい?」

と聞いてもらえて、素直に、正直に、

自分の内面について、言うことのできる人間関係がなければ、

どんな活動も、子どもの本当の姿をみとったことにはならない。

 ↓

(場所)学校だけ
(人間関係)外面や態度面で良い子を演じる関係
(評価されること)うまくできたかどうか

 ↓

(場所)学校や地域全体
(人間関係)内面や心の満足について語れる関係
(評価されること)お互いに満足しているかどうか
素のままでいられるお互いの、子どもと大人の人間関係があれば、どんな活動も、プラスになるに決まっている。

逆に、内面を正直に、嘘偽りなく、良い悪いの評価を超えてあらわし、純粋に励ましてもらえる人間関係がなければ、どんなに「良い」とされる活動をしても、なんの足しにもならない。

 ↓

そうやって励ましあえる人間関係に。
もっともスムーズに入るために。

まず手始めは、やっぱり、自分のなかの最も分かり易いマイナス(?)の感情、「怒り」と真剣に向き合うことからかな。

sports_tennis

しつけの方法

「ほめるか叱るかによって子どもの性格をコントロールできる」という前提が、教育界には根深く残っているように思われる。

だから、花壇の花の上を、おにごっこで駆け抜けていく子を、担任は叱る。

自然を愛し、花を愛することのできる心優しい子どもに育てるために、叱る、というわけだ。

「ほら!ハナの茎が折れちゃったじゃないの!ここ!足跡が残っている!あなたの足あとでしょう!」

ところが、ここで叱られたからといって、この子はべつに、花を愛し、心やさしくなる、とは限らないのでありますね。

「そんなことないでしょう」という人は、人間の行動を「訂正」し、その「訂正」を繰り返していけば、すばらしい人格の持ち主になれるはずだ、という思い込みを持っているのではないだろうか。


花の世話をしない子に、罰を与えても、好きになってはいかない。
自然の好きな、花の好きな子にしようとして、
「花を好きになりなさい」
と、指示を出しても仕方がない。
担任が花に興味がないのに、花が好きだというフリをして、
「花って良いねぇ」
何度話しかけても、子どもには見抜かれてしまいます。
ふとした瞬間に教師が見せる、興味のない視線の方が印象深いし、察知されます。
子どもは本能的に、教師の本音を感じて、そこに自分の行動も規範も言動もすべて、合わせようとするのです。

つまり、子どもを「花の好きな子に育てよう」としても、これはなかなかそうはいかないものなのです。

かように、「人間の内面になにかが育つ」、というのは、「悪い芽を摘む」こと以上に、なかなかたいへんなことのようでありますね。

ところが、何もしないのに、いつの間にか、その子に育っているものがある。そういう場合がある。
花好きのおばあちゃんが近くに居ると、いつの間にやら、何も教えないのに、けっこう花好きな子になっているので驚くことがある。

これは、意識的で意図された明確な指導よりも、無意識的態度のうちに伝わってしまう指導の方がはるかに有効だ、というわけ。

こう考えると、世の中的にみた犯罪者をつくらないための指導、というのは学校教育では施すことができるだろうが(←これは、そういうものだとしてルールを強く教えることにより・・・)、しかし一方で、その子の内面にさまざまな豊かな世界を構築さしめる、ということについては、なかなか学校教育では難しいのではないかと思われてならない。

向いているのは、先生ではなく、まあ親か・・・それとも、一番いいのは「じじばば」くらいの距離感のある人たちかもネ。それも、口うるさくなく、意図的に教育しようという意志が皆無であるようなタイプのじじばばが、もっともふさわしいという気がするナ・・・。

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言葉を使う弊害

言葉があるのだから、通じて当たり前、なのかどうか。
人と話をするんだけど、なんかわかってもらえてないな、伝わっていないな、おそらくずれてるだろうな、というコミュニケーションもありますね。

よくありますのは、子どもが
「先生!〇〇くんが急に椅子を動かして、指に当たりました!」
とか、訴えてくるとか・・・。

彼女の希望は何なのか。
あるいは要望、というより、なにか別のことがいいたいのか。
もしかしたら、なにも言いたくはないのか。

怒っているのか、残念なのか、何なのか。
それともその事象を万事受け入れた上で、報告だけをしたいのか。
びっくりしたから、そのことを分かってほしいだけか。

このあたりの微細な感じは、なかなか言葉にでもできない、のが普通じゃないかと思うね。

前述の、「指に当たりました!」のとき、私も含め、多くの先生たちは、何かしなければ、と思う。しなくてはならないのは、その子の思いにできるだけ沿うこと。ところが、先生だけがどこか関係のない方向へ突き進んでいく場合が・・・。

教師「なに?〇〇が椅子をぶつけただと?・・・〇〇くん!こっちに来なさい!!」

Aさん(え?そんなこと言ってないのに・・・)

だれも望んでいないのに、先生が暴走することだってある。
言葉を聴いたから、気持ちがわかった、と勘違いしやすいのかも。

教師は、こういう場合はこう対応するのが良い!

って、指導法というスキルをいくら身につけたとしても、人間の心ってものを知らないから、ずれまくって結局、子ども社会をややこしくしているのかもしれない。

つくえ

父のスペック(一周忌に思う)

先日父の一周忌があり、親戚一同で、昨年9月に亡くなった父のことを回顧していた。
ところが、不思議なのは、当人のことを語ろうとすると、うまくいかないのだ。
当人を語ろう、と肩に力を入れれば入れるほど、当人そのものを語ることができない、というジレンマに、その場にいた全員が陥った。

父自身のことを、言おう、言おう、としても、どうしてもそうならない。父自身ではなく、なぜだか、父の『スペック』、の話しになってしまう。
ところが、父自身は、父の『スペックそのもの』とは異なる。
父の学歴、父の職業、父の給与、父の持ち物、車、ネクタイ、カバン、時計・・・それらは、父が持っていたものだが、父がそれらを所有していた、ということがすなわち、父自身を表すわけではない。
〇〇が得意な人だった。
〇〇ができた。
〇〇を持っていた。
あいにく、そういう話題ですらも、『父自身、父そのもの』を語ることはできないのでありました。

なぜなら、みんな私が知らなかった話しでしたよ。
それは、父を表現してはいませんでした。
わたしにとっては、父が高校生だった時、弁論大会で優勝しようがしまいが、それらは「わたしにとっての父」とはなんら無関係なのです。現に、この年になるまで、そんなこと知らんかったからね。それでも、わたしの父でしたから。かけがえのない、ね。

わたしの父は、わたしの父、であり、弁論大会で優勝しようがしまいが、まったく関係がない。
わたしのなかで、父は、独立した存在なのです。

親戚一同で、なんとか父のことを語ろうとし、一同で
(スペックの話しって、こういうとき、つまんないんだなー)
と思ったのは、とても印象的なことでした。


ところが。
「父そのものを語ろう」とすることを諦めて、それぞれが当人にとっての父を語りだすと、がぜん、雰囲気が変わりました。

「これはわたしと兄さんしかおらんときの話しやで、みんな知らんと思うけど・・・」

とか、こういう前置きがつくと、これがむちゃくちゃ、面白い。
親戚一同、こういう話になったとたん、みんなの目が生き生きしだしました。
つまり、「父そのもの」を語ることをアキラメて、「わたしにとっての父」を語りだしたのです。

叔父が語りだしたのは、彼にとっての印象深いシーンで、父が夏休みにアイスキャンデー屋をはじめたときのこと。
「アイスキャンデーを売ろうとして、自転車の荷台に箱をつけて氷をいれてキャンデーを売り始めたのは良かったが、どうも恥ずかしくて『アイス~』とか『キャンデー~』とか叫ぶのができず、次第に街をはずれて山道を行くようになった。一緒に手伝っていた俺が心配になって「もうちょっと人のおるところへ行った方がいいんちゃうか」と進言したら道を変えたが、やはり草野球のグランドに立ち寄っても『アイス~』の声が出ず、最終的にアイスはみんな溶け、キャンデーは棒だけになってしまった。
兄貴といっしょにアイス屋をやったのは大損だった。金は損を出し、兄貴もくやしそうにしていたが、兄貴はのちのち何年もこの話を笑いながらしていて、自分でも面白かったのではないかな。弁論大会では大きな声でしゃべったが、アイスキャンデー!だけは、よう言えんかったんやわ、ハハハ」

これは、父そのものを語る話ではない。
叔父の『目線』がどこにあったかの話である。
叔父の網膜に父がどう映ったか、それを叔父がどう思ったのか、という話である。叔父にとって、この出来事は印象深く、面白かったのであろう。
つまりこれは、こういう話を面白がる、という、叔父のきわめて個人的な趣味を示しているわけ。

叔父は、「おれは本当にそのときの悔しそうな兄貴の姿がよく思い出されるよ」と言った。なんでそのことが叔父にとって印象的なのか、というと、叔父自身が、そのことが楽しかったからだろう。これは、父を語った話なのではなく、叔父の陽気な性格を語る話、なのである。父ではなく、叔父という人物を説明する話なのだ。


こう考えると、人間は、人間の価値を断定することは所詮できないのだ、と分かります。だって、だれも、父そのもの、を語ることすら、できないのですから。せいぜい、当人にとっての・・・、を語るだけで。

「父の話をしよう」ということをあきらめて、自分の話をしますが、ということに開き直った瞬間から、がぜん、話ができるようになっていったのは、つまりはそういうからくり、があったからなのですね。
親父のスペック云々なんざぁちっとも知らないが、俺にとっての父はまったく、ああいう父で変わらんってのが、面白い事象だなぁ、と不思議な安堵に包まれて、帰宅しました。



帰りの高速を走らせていると、どこかの花火が見えました。
それまで寝ていた嫁様が急に起きて、
「なんの音?」

夜空に、花火が上がりました。
一滴一滴が、息のを呑むほど煌めいて、見惚れているうちに、大輪の雫はたちまち消えてしまいます。
親父は昭和十年生まれの、180センチです。
当時はさぞ、大きく見えただろうな、とふと父を思いました。

よおし

0点を取ってきた子を、責めるかどうか

.
100点にうれしがる私たち、という前回に引き続いて・・・

0点を子どもが見せたら、責めるかどうか・・・。

漢字テスト、0点という紙をみて、

「漢字が書けないと、ろくな大人にならんぞ!」と叱りたくなる、という。

なぜろくな大人にならない、と思うかを説明してもらうと、
〇本が読めないのではないか
〇就職できないのではないか
〇人といっしょに仕事することができないのではないか

という。

今、この漢字テストが0点だと、もうすでにその10年後、15年後のこの子の姿が、見通せるのですか、というと、

「え、少なくとも、その確率が高くなるのではないですか」

と確率論を言われる。


しかし、この子の中にある、他のすばらしい素質や力が引き出されて、うまく動いて、社会でも活躍し、他の人をたくさん助ける存在になることもまた、想像できるでしょう、というと、

「え、この子にそんな力なんて、ないと思います」

と、かなり乱暴に断定するネ。

0点の紙を1枚見て、「わたしは10年後のことが見通せるので不安」というのに、
友だちと仲むつまじく、心温かい雰囲気で一緒に遊んでいる姿をみて、「この子の10年後が楽しみ」とは言わないのであります。

テストは将来に影響するもの、将来の姿を直接うつしだすものじゃ!
ところがその一方、友だちと遊ぶことは将来には影響しない!・・・ってサ。
ケチだねえ。・・・というか、テストが大好きなんだな。この思考法。


0点をみて、この子はこういう子、とかなりキメツケで見る。
100点をみて、この子はこういう子、とみる。同じこと。
どちらも、他のもっと多くのさまざまな面を無視して、テストの結果だけから即断し、優秀な子だ、ダメな子だ、と決めてみる。
この子自身がもっている、さまざまな可能性、素質、個性、まだまだ表面にも現れても来ていないような能力、そうしたものは、すべて無視する、と決めた感じ。

そんな簡単に、無視しないでほしい、と子どもは思うだろうと思うね。

「ちゃんと、ぼくのことを見てよ!

テストの紙じゃなくてさ!」




すみれ


100点をとってきた子をほめるかどうか

.
100点をとってきた子をほめるかどうか。
これは多くの保護者会で話題になりましたが、みなさん、考えが違うようで・・・。


大人の我々は、その100点、という紙について、反射的に反応することが多いように思う。


100点ならよかったね、0点なら残念、と反射的に出てくる。
子どもも、そう思うようになる。
100点の友達をすごい、と言い、0点の子を馬鹿にする言動が出る。
「え、お前、こんな簡単なのも分からなかったの」と言う子だっている。
社会全体が、100点なら〇、0点は✖、と反応するから、それを覚えてしまう。



しかし、考えてみると、100点(という数字)が良い、というわけじゃないわね。
100点が欲しい、というわけではない。
その証拠に、答えを写しただけの100点は、みんな全員が「意味がない」という。
同じ100点なのに、意味が違う、と言うでしょう。


つまり、ほとんどの親は、100点をほめる、と思っているけれども、
その内情をよくつぶさにみてみると、数字の『100点』をほめたい、わけではない。
100点すごいね、と言っちゃうけれども、100点が良いわけではない。

息子さんが、学校が好きで、先生が好きで、学習に参加して、知的によく覚えて、いつも毎日、楽しく人生をすごすことができている、その様子が、100点、という紙にかかれた数字から、すーっと、うかがえるような気・が・す・るから嬉しいのだろう。確かなることは、何も無いわネ。
まあ、ぶっちゃけ、気のせい、ですナ・・・。

実は、100点を取らせるのはそんなに難しい事ではないです。
わたしは実際に、かなりの高得点を子どもたちに取らせますが、それはちょっとした技があって・・・で、実際に100点を取ると、子どもたちは「わああい!」と喜んでいますが、わたし自身はそのことについて、実際は醒めた見方をしています。

「すぐ忘れるもんなー。今回100点だからって、すぐ忘れるもんなー」

と思うことが多いかなあ。

子どもの姿の、表にでてきていて、見えやすい、見えた!と思いやすいところだから、
100点のテスト用紙をみて、つい反応しがち、ということだろう。

test100

しつけ(躾け)について

.
身を美しくするのが「躾」。

身だけ、形だけ、を美しくすることは可能だろうか。
多くの教育者は、そのことについて、否定する。
たとえ美しく見えても、心が備わっていなければだめだ、という。
きれいな歌声も、気持ちがそこにないのであれば、ただの音にすぎない。

歌声に、心、気持ち、意志、たましい、そういったものが込められていると、
人間には、それが伝わる。気持ちは見えないが、思念は見えないが、あると感ずる。
だから、たとえ形が美しくて見えたとしても、そこに心がなければうわべだけのもの。

上っ面(つら)だけカッコつけてもダメ!

そういうことを言う人は多い。

こう考えてみると「躾け」、という字は相当、深い、のだろう。

身を美しくする、ということと共に、あるいはその以前に、
当然のこととして、

「内容がそなわっている」

ということが前提にある、ということになろう。
逆に言うと、もし、内容が無い(あるいは浅い)のであれば、身、立居振舞、姿恰好まで、美しいことにはならない。



ここで、われわれ教育者にとっての悩みが生じる。

「人間の中身、を美しくする」とはどういうことか、定義をしなければならないのだ。



「子どもは躾けが大事だ」

という。

はたして、その躾け、とは何?


IMG_3418


人間本来の好奇心

.
そもそも、人間と言うのは、どの程度、やる気に満ち溢れた存在なのだろうか。

子どもを見ていると、どんどん遊ぶ。
なんでも試して、振ってみたり、歩いてみたり、のぞいてみたり、たたいてみたり、噛んでみたり、いろいろする。

特に、幼児期の子どもはそうで、それをして夢中になっている姿は、人間本来の好奇心に満ち溢れたものだろう、という気がする。

ところがそのまま成長していくことは、むずかしい。
なぜなら、小学校に入ると、

「この間、楽しくなかったから、もうやらない」

とか、

「あいつとはやりたくない」

とか、

いろいろと、思うこと、が出てくるからである。

さらに言うと、義務感、というものが邪魔をする。
こうしなけばいけない、という「きまり」や「さだめ」というものが頭の中にいっぱい増えてくるから、そうしたもので動く。

するとどうなるか?
ある、重要な変化が生じるのだ。

つまり、

「つまらないなあ」

と、思うものなのである。

やらされてやるのは、なぜか、つまらない、と思うものなのだ。

ちょっと待てよ、なにか、おかしいぞ、と、神経の深いところで、何かが教えてくれているのかもしれない。
幼児期に体験してきた、あの、純粋な、いつまでやっていても飽きなかった、ごく集中していた、いわば「ゾーン」に入ったような、素の気持ち、素の楽しさはすっかり姿をひそめてしまい、

なんだか、けだるいような、はやくやめたいような、妙な気持ちになるのである。

だれかにほめてもらったり、評価してもらったりすると、また猶更である。
ほめてもらえる、と分かると頑張るが、それがないと、

「なんだか、つまらない」

のである。

これは人生の幸福度を考えてみると、たいへん重要な変化で、人間が成長する上で、こうしたことでの「つまらなさ」をできるかぎり、克服できた人間は、イチローのような、集中することにぐいぐいと進んでいける人間になれるのだと推測できる。
アップルのジョブスのような、グーグルの創始者ラリーペイジのような、創造性と集中力に満ち溢れた人格が育つには、おそらく、

倦怠 とか、やらされ感、とか、義務感、というものが、その集中を邪魔しないことが大きな要素になってくるのだろうと思われる。

冬を越して生えてきたクローバー
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