30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

発達障害あれこれ

排除すればいい、という風潮その2

前回の【排除すればいい、という風潮】の記事に、多少の反響があった。当然だろう、という人もいたし、へえ、何故なのだろう、という反応もあった。
ふだん、「何かに失敗すると叱責され、ペナルティを与えられている」という体験を積んだ子どもたちが、そういう発想を自然としているのではないか、という卓見もあった。これには、なるほど、そうかもしれない、と思わされた。

さて、思い返してみると、このようなことはこれまでも多くあった。
これは以前の勤務校での話。

その学校では、午後はこのような流れでした。
【給食】⇒【休み時間】⇒【清掃】

ところで、給食の後、教室の机はどうするか。
多くの学校がこうしていると思う。
つまり、全員が教室の前の部分に、自分の机を動かすのであります。
なぜなら、教室の床をそうじするから。
机を前方に全体に寄せておいて、片側がきれいにできたら、今度は教室の後方にすべて移して動かし、それから残りの半分をきれいにするのであります。

ある子が、その「机の移動」をしないで、遊びに出てしまうことが連続した。

「先生、〇〇くんはまた机を動かしていないよ」

さらにその〇〇くんは、当番もよくさぼった。
給食の当番になると、野菜缶とか汁缶とか、みんなの食器とか、給食室に運ばないといけない。しかし〇〇くんはそういう日にも、休み時間の遊びを優先して、仕事をしないで校庭に出てしまうのでありました。

当然、クラス会議では、このことが議題になります。

すると、この〇〇くんが、声高に叫ぶのですよ。

「ペナルティを与えて、こらしめたらいい!」

わたしは当時、このことがすごく不思議でした。

「ええ?〇〇くん、だって、ペナルティのルールをつくると、〇〇くんが罰を受けることだってあるんだよ?」

わたしが心配して言うと、

「おれは大丈夫!」

と平気な顔です。
逆に、なんでおれのことばかり、先生が言うのか?と、不満そうにしています。
わたしはあまりにびっくりしたので、
「だって、先週だって〇〇くんは野菜缶の当番なのに、外に出ちゃったじゃない」
というと、それも気に入らない様子で、
「なんで先生は俺のことばかり言うの?」
と口をとがらしていました。


結局、このときはペナルティ制度を採用したものの、
いの一番に〇〇くんが机も動かさずにそのまま校庭に行ってしまい、ペナルティの対象者になりました。(正確に言うと、〇〇くんが自分は悪くない、他の子のせいだ、とあくまでもペナルティの実施をこばんだために、なにもしなかったのですが)

このように、自分の姿を客観視できない子、メタ認知できない子ほど、

「ペナルティで罰を与えればいい!」

と叫ぶのです。

〇〇くんは、いつも直感的な行動に走ります。
熟慮が苦手で、自分自身を直視することができない。
だから、自分のことを棚に上げて、平気で人を責めるし、人の不正には厳しく、あくまでも懲罰を下したい、こらしめたい、自分はそのかわり、【よい人】であるはずだ、と思う(思いたい)のです。

これは、世の中は善と悪に分かれるのだ、人間もよい人間と悪い人間がいるのだ、というような、勧善懲悪だけで物事を見通したい、という手抜き思考です。
そもそも、ひとを善と悪だけに分けられるわけがないのですが、ひとを個別に考えたり、善の意味、悪の意味、生きる目的などを考え始めるとなると、それはたいへんな複雑思考なので、ひとはみんなこういう思考が苦手なのでしょう。だからわれわれ人間が

勧善懲悪で決めればいい、深く考えたくない

と思うのも無理はないのです。

しかし、それを現代の小学校の生活に持ち込むのは無理ですね。だって、この子はよいこ、この子は悪い子、と決めるのは、馬鹿げていますから。

道徳の授業で、善悪を超えるような討論が始まると、〇〇くんはとてもめんどうくさそうにします。

「Aが悪いやつで、Bがいいやつ。それでいいじゃん!はやくこんな話し合い、終わりにしようよ!」

そう叫んだ〇〇くんの困惑したような、ゆがんだ表情の悲痛な姿を今でも時々、思い出します。
問題を処理するのが人生の目的ではないですものネ。

majin


排除すればいい、という風潮

先日、子どもたちの話し合いを見ていて、気が付いたことがある。
それは、「ひとは、都合の悪いものを簡単に排除しようと思う人ほど、全体への視野をもたず全体への配慮を欠く」ということである。

なぜなら、ここからは単に私の推測だが、ひとはかんたんに目に見える結果を欲しがる」態度をとる時ほど、全体への配慮ができない、視野を広げられない、客観視できないからだ。

具体例を書く。

実は、わたしがあまり怒らなく、注意もしないからだろうか。
最近まで、うちのクラスは、理科室への移動に時間がかかっていた。休み時間の後、おしゃべりに花を咲かせてなかなか支度ができない子がいる。あるいは、自分が夢中になっているドッジボールから帰ってきた後、ぎりぎりになって思い出したようにトイレに行く子もいる。それで、全員が時間通りに理科室にそろわないのである。(チャイムが鳴る直前には自分たちの教室にはいるのだが、そのあとで、別の棟の2階まで移動しなければならない)
わたしは時間がかかりすぎることや、45分の授業が結局は40分ほどにしか確保されていないことを子どもたちに伝え、「これはみんなにとってはどうなのか」と問うた。

すると、理科は楽しいので、45分しっかりやりたい、という。
その方が自分たちにとっては得だ、という子もいる。

しかし、現実はそうならない。おしゃべりばかりで支度をしない。理科の教科書やノートも持って行かないといけないが、それらの準備を放っておいて、チャイムが鳴るまで自分の教室で時間をつぶしてしまうのである。
で、チャイムがなってあわてて準備をしだす子がいる。

クラス会議になった。

すると、
1:一人ひとりが自覚を高めないといけない。
2:前もって理科の準備をしておこう。
3:おしゃべりしている人は気づいていないか忘れているから、声をかけよう。

というような意見が出てくる。
ここまでは例年の動きであり、ふつうの光景、毎年(とは限らないが、毎年のように)繰り返される光景である。

しかし、なかには、こんな意見も出るのである。

4:遅れた人には、ペナルティを与えればよい。

わたしが今回気づいたのは、この4:遅れた人にペナルティを与えよう、という意見を出す子が、どういう子か、ということである。

おそらくみなさんも予想される通りだ。
つまり、「よく遅刻し、おしゃべりをし、他の子に話しかけ、トイレにぎりぎりにかけこむ子」こそが、「ペナルティを与えればよい」と言うのであります。

なぜか。
わたしもよくわからなかった。
メタ認知ができていないからだろうか?
ふつう、自分がいつも遅れているな、しゃべってしまっているな、反省しなきゃな、と思う子は、「ペナルティ」なんぞ言い出さない。自分がとばっちりを受ける可能性が高いから。
しかし、そうは考えない。自分のふだんの様子や姿には関心がないのか、気づいていない・・・。

だから、いとも簡単に【罰を与えればよい】的な発言をしてしまう。おそらく自分の姿を認知できていないことが、「ペナルティを与えれば済む」という発言に表れるのである。

逆に、いつもはけっこう時間通りに行動できている子が、かえってその子のことを心配して、「ペナルティはやめた方がいいのでは?」とおずおずと提案するわけ。なぜなら、その子に対してだけでなく、将来先々まで見通したり、自分を含めたまわりの子たちのことまで、さまざまな影響についても含めて考えているから。

言われた子は、自分が心配されていることに気づかず、ただ自分の主張を邪魔された、反対されたように思って

「なんでだよ!ペナルティを決めないとぜったいにみんな遅れちゃうよ!」

と言ったりすることだってある。
このときの態度は、かなり強い。声を荒げ、熱弁する。なんでみんなわかってくれないんだ、となる。

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周囲の落ち着いた子たちは熟考に入る。

わたしならちょっと意地悪に、
「そこまでペナルティを主張するなら、一度、やってみればいいじゃないか」
とでも、言いたくなる。きっと、自分がペナルティを受けたらよくわかるだろう、と考えるからだ。

しかし、クラスの優しい子たちはそうは言わない。
どうしたらこの子に、きちんと理解させることができるだろうか、とじっくり考えるのである。
そして、言葉を変えたり、言い方を変えたり、具体例を示したり、と工夫する。

残念だけど、その行為はむくわれない。なぜなら、前述の【ペナルティ主張者】はそんなことをすべて一蹴するからだ。

「みんなぐちぐち言ってるけど、それじゃなにも進まないよ!ガツンとペナルティを与えれば、一度にぜんぶ言うこと聞くようになるって!!

わたしはあまりにもこの構図が今回、切断面がきれいに見えるほどにあざやかだったので、非常に印象に濃く残った。

整理してみよう。

メタ認知できない子にとって、自分の姿は自分からは見えない。
また、問題や課題というのは、実は何が問題なのか、問題の焦点はどこか、問題と思っている自分の見方そのものの整合性や合理性はどうか、などには思い至ることがない。心の中では、そういうことをじっくり考えるのはめんどうなので、できたら避けて通りたい、と思っているようだ。

したがって、いつも遅刻する当人たちは
勢いよく、ズバッと、単純に解決できるもの
と考えてしまう。

実際にはさまざまな要素が複雑にからみあうし、さらに全体を見通さなければ結論など容易にでるものではない。この事象ひとつとってみても、関係者は多数いるのだ。
しかし、【ペナルティで罰を与えれば万事解決と思う子】は、視野の外側や周囲にある、自分自身も含めた、それらの存在に思い至ることがない。(思考するのには、相当な負荷がかかる。その負荷に耐えられないかもしれない)

わたしが感動したのは、それでもその子に対して、ペナルティをやめよう、と声をかけつづけた子たちの存在だ。
「わたしだってうっかり忘れることがある。あなたにもその可能性はある。だれにだって、ついおしゃべりすることがある。それを見とがめて、罰を与える、という判断はだれがするのか。そこまで考えたらどうだろうか。おしゃべりをした子を見て、今のはアウトだと判断した子も苦しい、された子も苦しくなる。お互いに罰を与え合うという泥沼のような状態が生まれる。それをこの大切なクラスにつくるのか。わたしは嫌だ。みんなで自覚を高めあい、声をかけあって、遅刻しないようにするのをまずは真剣にすべきだ」
というのである。
それも、言わんとすることを確かめるようにして、何度もゆっくりと考え、言葉をたしかめながら・・・。

くりかえすが、これを言うのは、日ごろちっとも遅刻などせず、きちんと準備をして、ぬかりなく理科室に間に合うようにいける子なのだ。


どうです?
一見、矛盾しているでしょう?
つじつまが合わない。


ええと、この場合の矛盾というのは、おそらく
『都合の悪い行動をとる者を罰により貶(おとし)め、排除すればいい』という意見が、その「都合の悪い行動をとる子」の主張である、という点だ。
また、逆に、どんな人も排除しないでいよう、という意見は、時計の時間に間に合わせようと努力できる子の主張であり、おそらく排除される対象ではない側の子の意見なのである。

まことに人というのは、不思議なんであります。

人はなぜ平らな道でも転ぶのか

年末の最後の終業式の日。
そのとき、わがクラスでは事件が起きていて、
その対応でたいへんな日でありました。
事件とは何かというと、Sくんがころんだことです。


Sくんがころんだのは、なにもない、床だけの、階段の手前の広い場所。
たいらで、つるっとしたところ。

自分でも
「なんでころんだのか、わかんない」

ところが膝頭をしたたかに打ちまして、
床にがくっと崩れ落ちた衝撃で、
ひざのお皿がとにかく痛いとのことで、
すぐに病院に運びました。

子どもたちは担任が突然いなくなることにも慣れてますから、
「あとは教室大掃除して、身の回り片付けて、時間になったらさようならして!」
とわたしが居なくなっても
「はーい」
という感じで、淡々とすごして時間になったら帰宅したようです。

わたしは何度もいぶかって、Sくんに確認したのですよ。
それは何かというと、

「なにかにつまづいたのでは? あるいは薄いシートのようなものの上に靴が乗って、すべったのでは? 床になにか落ちていたか?」

ということ。

ところが何度確認しても、そうではない。
何もないところで、Sくんはただ、簡単に言えば、自分から、勝手に転んだのです。
わたしは、最初、ひとは「なにもない、つるっとした、平面の床では、人というのはなかなか転ばない」と思い込んでいた。決めつけていた。
だが、実際には、ひとは「なにもない平らな面でもころぶ」のであります。

人間は、簡単にいうと、以下の2種類に分けられることを、今回理解しました。
ひとつは、「なにかにつまづいて転ぶ」タイプ。
こちらは、ふだん、地面をよく見ていません。
だから、石が顔を出しているとか、木の根っこがところどころにある場合に転びます。

もう一つは、「でこぼこしたところの方がしっかり歩ける」タイプ。
こちらは平らな方が歩きにくい、と感じています。
はっきりと、右、左、と重心を決めて、体重をそちらに交互に傾けることが好き。
山道などで、ちょっとした段差や階段など、左右に体重を移し替えて、ぐっと体の片側に交互に重心を置きながら歩くのが得意です。
だから、階段とか段差のあるところ、あるいは山道の方が転ばない。
でも、なんにもない、平らで、なめらかで、つるっとしたところだと、
「今、どちらに体重をかけていいんだか、わからなくなる」。
そこで、転ぶのです。

人間は得意不得意がありまして。
平らなところを転ばないで走る、という試験だと勝てる子も、
山道はどうか、と試験項目が変われば、まったく勝てません。
逆に、山道では大得意という子も、きれいな競技場のトラックだとうまく走れないのです。

今度駅伝がありますが。
あれはいいですね。チームですから。
山道が得意な子は、山道で。
市街地が得意な子は、市街地を走ればいいのです。

でも、個人対個人になると、やっかいです。
だから、人間は、得意な競技で勝てばいいわけね。
逆に言うと、不得意な競技で負けても、それはそれで、ぜんぜん大丈夫なわけだ。

わたしは、高校入試に「落語」があったらクラスで1位をとる自信があったねえ。
「音楽」に、ホーミーがないのも、惜しい。あるいは口笛、という単元があれば。
評価基準が変われば、世の中のありとあらゆる評価は、がらりと変わるでしょうナ。
大学入試に、落語があれば、と願うひとは、わたしだけでは無いでしょう。

人はなぜ平らな道でも転ぶのか。
なぜかというと、人間にはタイプがあり、それぞれに得意不得意があるから、ということになりますね。
どうでしょうか?

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ねむの木学園・宮城まり子さんの思い出

宮城まり子さんといえば、映画が思い出される。

私は、まだ小学校の1年生くらいだったかな。
母が兄弟全員を映画に連れて行ってくれた。
タイトル、思い出せない。
今調べてみて「ねむの木の詩がきこえる」だったか・・・。

上記映画の解説には、
『宮城まり子が主宰している、体の不自由な児童のための施設“ねむの木学園”。学園の子供たちと宮城をはじめとする指導員たちの心あたたまる交流を描くセミ・ドキュメンタリー』
とある。
おそらく、この映画だろう。セミ・ドキュメンタリー。
実際の学園の様子が映し出されていた。
まり子さんと子どもとのやりとりは、演技というよりも、実際の『素』の姿だった。

6歳だったから、ほとんど覚えていないが、断片的に今でも覚えているのだから、よほど強く印象に残ったものらしい。

1つめ。

言葉をもたないやすひこくんが、広い部屋の隅でねそべっている。
まり子さんが歩いていき、同じようにねそべって、顔と顔がくっつくくらい近づいた。
まり子さんは、ふと思いついて、自分の口をすぼめ、人差し指をくわえた。
やすひこくんは、何をするんだろうと見ている。

まり子さんは、その咥えた指を、勢いよく口から外へ抜いてみせた。
そのときに、甲高い声で、
「ポーッ!」
と言った。
指が外へ出る瞬間に、ポーッ!と言いながら、指を口からひっこぬく感じ。
何度もおちゃめな顔をして、にこにこしながら、その『ポーッ!』をしてみせた。
するとやすひこくんも面白がって、自分の指をくわえて、まり子さんの真似をして
「ポーッ!」

6歳のわたしは、この意味が分からなかった。
で、帰り道に母に

「なんであんなふうなことをしたの?」
と聞くと、母は
「ああいう具合に訓練をすると、しゃべれるようになる」
と言った。
わたしはあんな「ぽー」くらいでしゃべれるようにはなりそうもない、と考え、
「あの子は、ぽー、は言えても、ふつうの言葉はしゃべれるようにはならないでしょ」
と言うと、母は確信めいた雰囲気で、
「いや、あれが重要なのだ」
というようなことを言った。
わたしは「そうかなあ」と疑問に思った。

↑ こんなことを、あれから40数年以上たつのに、まだ覚えている。
映画に詳しい方、実際にこの場面って、映画に出てきますか?
それと、タイトル、「ねむの木の詩がきこえる」で合ってますか?
もしこれを見てご存じの方いたら、ぜひコメントくださいませ。

もうひとつ、夕暮れ。
橋の近く。
まり子さん(と思われる人)が、地団駄踏んで泣くシーンがあった。

当時の私は、大人というものは、あんなふうに地団駄踏んで、腕を振って泣く、ということはしないと思い込んでいたので、衝撃を受けた。
なんでそんなに泣いたのか、というのがよくわからないが、そのシーンだけを覚えている。

まり子さん(と思われる人)は、足でどんどんと地面を蹴り、そして腕に持っていたカバンやバッグをすべてぶん投げて、大声で嗚咽しながら泣きわめく、のである。

私(6歳)は、そのシーンを見て、

「大人になっても、こんなに泣かねばならないというのは、よほどの思いがあるのだろう。事情は分からぬが、大人というのも、ずいぶんと大変なものなのだろうか」

と考えた。
私は子ども時代は宿題などでえらく苦労をしなければならないが、この世は大人になってしまえば楽ができる、とそれまで思い込んでいたので、ショックだったらしい。

ねむの木

【待つスキル】社会科のすごろくで実践

衝動的にしゃべる、という子。
わたしもかつてそうであったなあ。自分の子どもの頃を思い出すよ。
今でも嫁様に「ようしゃべる口だねえ」と呆れられているし、どうにもとまらないのだからね。

〇順番が待てずに順番を抜かす子。
これは、ちゃんと待っていれば、やがて自分の番がめぐってくる、と安心させることが要る。

〇説明を聞かずにやりはじめて失敗する子。
最後まで聞くと、成功しやすい、ということを『成功体験』で理解させる。

このあたりをゲームで身に着けていくやり方はいろいろと考案されているが、先日やったのは、高学年にしては初歩的なもの。順番待ちゲームだ。しかし、単純で理解しやすく、短時間でやれるものの方が、実は高学年向きだ、という気もした。


【順番待ちゲーム】
社会科で米作りを学んだ。
種もみから苗づくりをするところから始まり、育苗、代かき、雑草とり、中干しなど、行程を確認できる資料をみながら、「社会科米作り・すごろく」をつくる。
このすごろくが、実に、『順番待ち』に最適なのだ。
1)社会科ですごろくをノート見開き2ページ分につくらせる。
2)絶対にいれるべきマスとして、『一回休み』をつくる。
  たとえば、日照りが続いた1回休み、など。
3)しかし、その1回やすみのマスに止まった場合は、一回休んだ次の回に、2度サイコロをふれるようにする。つまり、休んでもリカバリーがきく。(このことでキレなくてもいい、と考える)
4)途中で、『質問カードに答える』というマスもつくっておく。
5)たとえば、「もし授業中に消しゴムを忘れたことに気づいたらどうする?」とか、「音楽室からもどってくるとき、忘れ物をした。友達が気づいて持ってきてくれたとき、友だちになんと言う?」など、生活に関わるルールの札。また、「九九の8の段を高速で言おう」や「四字熟語を2つ言う」とかの教科に関わるものなど。
6)終わった時に、「1番で勝った人?」と聞かず、「順番を守れた人!」と聞く。

順番ひとつで、喧嘩も起きれば、殴り合いも起きる。
常日頃から、『待つこと』を意識する生活にしていく。

そのうち、だいぶ衝動性も少なくなってくると、本人が過ごしやすさを実感するようになる。

「だいぶ、落ち着いて楽しんですごすようになってきたね」
「じっくり考えて行動できるようになってきた」
高学年だから、だんだんとその気にさせていくのもいい。
「落ち着いてきたので、判断を間違えないようになった、自分が本当に選びたいものを選べるようになってきた」
これ、本人が実感しているときに周囲もそれを認めていくといいよね。
少しずつ、自己肯定が進むと感じています。

しかし、一番大事なのは、ともかくもクラスの人間関係。
大好きな友達が相手なら、待てる、待てる。
なんにも問題ないんだもの。

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故・佐々木正美先生のこと

.
今年は大切な人が亡くなった年だった。
児童精神科医の佐々木正美先生は、今年の6月に亡くなられた。

わたしは幸運なことに何度も佐々木先生のお話を直接伺うことができた。
中心子どもの家が主催する講演会、勉強会に何度も参加し、お話を聞いた。

先生はいつも、訥々と、しかし言葉を選んでていねいに、情熱を秘めたお話をされた。
だれもが思わず居ずまいを正したくなる、そんな雰囲気の勉強会であった。


その日、わたしは、朝からワクワクしていた。
近くのホールに佐々木さんがくる、というので、勤務を終えてすっとんでいった。

ほかにも、息をきらせながらかけつける、私と同じような人が何人もいた。
おそらく、どこかの教員だろう。
みんな、学びたがっているのだ。


講演は見事だった。
一言も、むだな言葉のない講演会。
「えー」も、「それはさておき」も、入る隙がない。
せきばらい一つない。
全部、まるで、著書をその場で一つ完成できるのでは、というくらい、緻密で、内容のある、中身のつまった講演だった。
それだけで、本当に満足した。

佐々木さんは、子どもの声を聴いているのだ。
子どもが、叫んでいる声が聞こえるのだろう。
そして、それに応えるために、全身、傾倒している。
だから、無駄な言葉が、削られているのだろう、と思った。



子どもを救え。

(以下、メモ)

発達障害の子が大好きだ。正直だ。うそがつけない。
思い、イメージで生きていない。事実で生きている。だから、非常に鋭敏で、そのまんまで、率直に生きている。
率直に生きるのが難しいのが、今の社会だ。

発達障害の人を不幸な状態に追い込んでしまうのは、周囲の人々の無理解。たとえ善意であっても、無理解は誤解と同じことで、ひどい苦痛を強いることになってしまう。

周囲の多くが、発達障害に理解をする必要がある。
環境が整えば、力を、持ち味を、大いに発揮できる人が本当にたくさんいる。

「無理解な保護者、教師、その他の職業者、クラスメイトや一般市民に、彼らはどれほど脅かされ傷つけられてきたことか」

大好きで、安心のできる人、お母さんと、いっしょに話しをしている。そのことで、子どもの前頭前野はすばらしい働きをする。
脳を高度に活性化させることができるのは、その人が、心を許し、安心し、なにかを託すことのできる人と、共に、コミュニケーションをとる姿の時。それなのだ。
前頭前野の発達が、感情や感覚、配慮、思慮、に影響を及ぼすことは大いに考えられる。

やれることは、当たり前のこと、ということ。

何よりも、不安の無いこと。
安心できること。
子どもだけではない。大人も同じ。
発達障害の濃い薄いではない、あるない、ではない。
どの人も心から、周囲の人間社会に対して、安心していること。
今の自分をとりまく人間関係に、信頼をおいていること。
不安のないことが、もっとも大事なこと。
それが、一人ひとりの力をいちばん発揮させる。
心が通えば、表情が明るくなり、健康になり、意見が出て、人が能力を出し始める。
カンタンなコト。

どうか、発達障害を自分のこととしてみてください。
考えてください。そして、理解を深めてください。
理解があれば、本当に救われる子がたくさんいる。
理解があれば、関わる人全員が、大人も子どもも救われる。
その場から不安が消えていくことで、みんなが力を発揮しはじめる。

・・・・・・

佐々木先生の本だけは、何度断捨離(だんしゃり)しても、処分してないなあ。
ありがとうございます。
合掌

佐々木正美先生

やんちゃくんにドッジボールのパスを渡す

.
長年、というわけでもないが、教師を続けて来たためか、
反射神経のように、とっさに出てくる行動がある。

たとえば、やんちゃな子をまずまっさきに見る。
朝、教室に入るや否や、その子をパッと見る。
複数いるから、Aくん、Bくん、Cくん、Dくん、Eくん、と
パパパっとみる。
何やってるかというのと、本日の顔つきをみる。

この意味はなにかというと、よく分かりませんが、
そういうことをするようになってきましたナ。


あと、気づいたのは、今日は子どもたちとドッジボールを
いっしょにやりましたが、コートに入ってまずやることは、

やんちゃな子をまずまっさきに見る。
コートに入るやいなや、その子をパッと見る。
複数いるから、Aくん、Bくん、Cくん、Dくん、Eくん、と
パパパっとみる。
何やってるかというのと、その瞬間の顔つきを見る。

そして、最初に投げられたボールにまっさきにジャンプしてとびつき、
(ここで子どもたちから、ウォーッ、というため息)
それを間髪入れず、
「ほら、Aくん、パス!」
と大声で叫びながら、実際にすばやくパスをする。
(ここで、子どもたちから、なおさら大きなため息のような声が出る)

こういう動作が、何も考えなくてもとっさに行動として出てくる。
教師としての反射神経と言うのか、
職業病というのか、癖(くせ)というのか・・・

つまり、ここでいうAくんというのは、
教室の中で、まあ、まったくもっての調子っぱずれのような、
かき回すような、見当違いのことを言ったり、トラブルの種を
まき散らしているかのような子なわけ、ですね。
女子にもつねに、
「ネー、Aくんってばッ!!!」
と叱られ続けているような子ね。

たとえば、筆箱に鉛筆が入っているかと思いきや、
とんでもない短い鉛筆が、歯でボロボロに噛んであって、
芯も折れちゃっているから、テストも受けられない、というような子。
それでも平気な顔して、
「あ、おれの鉛筆、こんだけしかないワ・・・。おい、貸してくれ」
というから、隣の女の子が、おでこの下から呪うような目つきで
「・・・いい加減にしてよね、Aくんッ!」

というような子。


そういう子に、先生がどんどんパスを回すわけね。

するとAくんは張り切って、みんなの注目をあびて、ゲラゲラ笑いながら
ドッジをやるわけ。

それで、そんなAくんを見ていると、他の子もなんだかおもしろくなっちゃって、
みんなでゲラゲラ笑うわけ。

Aくんがボールを受け損ねて、弾んだボールがまさかの敵陣に入っちゃって
ボールがとられちゃったりすると、わたしは悲鳴をあげて、

「Aくん~ッ!」

と、悲鳴まじりに、
まるで西部警察の眼鏡をかけた白髪の部長のように、
渡哲也の大門君を呼びつける感じで叫びますと、
みんな、そんな古いドラマは知らないはずなのに、ドッと受けています。


わたしがそうやって、必死にAくんにかまうのは、

Aくんにかまっていると、なんか、通じるような気がするからだろうね。

ともかくも、声をかけたくなる。

そういう相手だからかな。

dodgeball

発達障害 ~薬の服用に関する質問~

.
Fさん、いつもお読みくださりありがとうございます。
そして、記事へのリクエストをいただきましたね。

薬を飲むのが良い、とする学校側の「お願い」に対して、父母の方がどのようにこれを考えていけばいいのか、みなさんお悩みなのでしょうね。きっと、たくさんの方が、このことに直面して、どうとらえていけばいいか、考えておられるのだと思います。

学校の現状、率直な意見を、というリクエストなので、わたしの少ない体験を通して、という限定された情報ではありますが、感想をちょっと書いてみます。

まず、学校の教員にも、「薬(くすり)」についての見解は、かなり意見の分かれるところだ、ということがあります。
先生たちも、一人ひとり、実は意見がちがいますよね。
大きいのは、特別支援コーディネーターの方の考え、そして校長先生のご判断でしょうね。担任の先生の力は弱いです。

ずいぶん前で、今はもう処方はされないと思いますけど、初期の頃、教員の世界に「ADHD」とか「発達障害」という言葉が知識として入ってきたちょうど10年ほど前でしょうか。「リタリン」という薬が出ていました。これ、もう、保険適応されていません。理由は副作用等です。
当時から、先生によって、「リタリン、大丈夫?」という方は多かったですよ。わたしはまったく薬について知らなかったので、先輩の先生がリタリンについて話しているのをきいて、これは難しい問題だな、と感じたことを覚えています。

わたしの勤務校で、リタリンを服用していた子もいます。副作用をみながらの慎重な投与だったと思いますが、親御さんもとても苦しまれたことだろうと思います。でも、学校側の説明や、家庭での「子育てのしやすさ」などを考慮されて、親御さん自身が決断されたのだろうと思います。親御さんがサインしなければ、服用は許可されません。

これは、親御さんが、家庭でも、その子の「育児」にへとへとに疲れていた、という現状があるでしょうね。その子の場合は、道路に飛び出していく、衝動的にガラスにぶつかる、わが子を見ていて、いつか大怪我するんじゃないか、それだけのことであっても、服用したらいいのかもしれない、という気持ちもあっただろうと思います。

ただ、これは、学校側が命令するものではないですよね。お子さんは、誰の子でしょうか。親御さんが愛する子ですよね。学校がたとえよかれと思ったからといって、親に学校が「命令」することは許されません。「命令」とまで言わずとも、圧力をかけている、と親御さんに思われた時点で、学校と親御さんの間の信頼関係は崩れています。けっして崩してはいけないのが、この両者の関係なのですから・・・。でなければ、子どもが一番被害を受けます。
わたしは、服用に関して、圧迫的に、学校がご両親に対して指導したり、指示をしたり、ということはあってはならないと考えます。


ただし、学校の先生がへとへとになっている場合があります。(これが現状では多いのかもしれません)
学校が、「頼むから服用を」と思っている場合だってあるのかも・・・。
でも、それは、親御さんが、たとえば、ですが
「学校では、支援級ではなくて通常級でお願いします。きちんと椅子に座って45分間まじめに算数を解かせてください、ぜったいにけがをさせないでください、集会にも静かに参加させてください」というような「注文」をした場合に、先生の方がテンパってしまって、そんなミラクルな指導を要求されるくらいなら、それなら「服用」させてくださいよ、ということなのではないかと思います。

これは語弊があるかもしれません。
なぜなら、お子さんによって、本当に表れてくるものがちがうので、ADHDはこう対処すればいい、というようなものではないからです。

構造化し、表示し、見える化し、関わりを工夫し、身体感覚を鍛え、気持ちを汲み、方法を規定し、変化させず、同じことを同じリズムで繰り返してあげて、ほめてあげて、にっこり笑ってあげて・・・

↑このくらいのことは、学校は取り組むだろうと思います。
そのうえで、厳しい成果を要求されたら、(たとえば組体操でまわりの子たちと同じように、怪我のないように演技指導してくれ、とか)、先生たちも、「服用はいかがですか」と持ち出してくると思います。
「服用なし、という条件で、学校側ではどんなことができそうですか」

親御さんが、↑こうやって言って下さることを、先生たちは待っているかもしれません。

しかし、先生にもいろいろな考えの人がいるので、せっかく親御さんがそう言っても「いや、服用しなければだめですよ」とおっしゃるかもしれません。そこまでして先生がこだわるようであれば、「なぜ服用しなければならないのか」を尋ねてみてください。親御さんの知らない苦労が、先生の方にはあるかもしれません。
「服用しないとこの子はどんな状態になっているのでしょう。もし他の子に迷惑をかけるようであれば、静かに一人で過ごせる空間を用意していただけませんか」
とおっしゃってみてはいかがでしょうね。
先生の方で勝手に、なにかとても窮屈な指導を親御さんに要求されている、と勘違いしているかもしれませんし、あるいは学校に、何か、とても強い刺激になるものがあって、お子さんにはとても過ごしにくい状況があるかもしれません。
大事なのは、先生も、親御さんも、どちらも気づいていない「何か」があるかもしれない、ということです。環境の工夫や指示の工夫、課題・内容の工夫などで、大きく改善できるものが、まだあるかもしれない。
その期待と希望をもって、両者がかならず心の手をむすびあって、協力していくことしかありません。
この両者の心が、すれ違っていては、うまくいかないのは明白なのです。

すみません、いろいろと思いつくことだけで・・・。
また、ご意見を、お寄せくださいね。

線香花火の花

ハングリー精神 ~24時間テレビ~

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わたしは、24時間テレビを見ていて、いたたまれない気持ちになったことが何度もある。

タレントが、必死になって走っている。
それを見て、テレビの中のナレーションは、

「痛々しいですね」
「でも必死になって頑張っていますよ、〇〇さん」
「これからモチベーションも上がってきます」
「願いのこもった襷(たすき)をかけて、走る姿に声援が!」


たぶんこの昭和の必死なハングリー精神というもの、なんだかあまり受けないんじゃないかな。高度経済成長をまだまだ信じていた昭和40,50年代ならまだしも。
日本人の精神構造は、かなり変わってきている。

少し前になるけど、草食系という言葉で、

「若者たちが変わってきた」

と表現する向きがあった。
しかし、それよりもさらに前から、だいぶ変わってきている。
おそらく、20年以上前、若者が新人類と呼ばれたころから、すでに、
バブルがはじける少し前から、若者たちはすでに大人よりも先に疲れてきていて、

「あんなに激しく、何かを求めようとする精神構造って、疲れるよネ・・・」

となってきていた気がする。
あくまでも、個人的な感想だけど。
○みんな高級品が欲しい
○みんなリッチな暮らしがしたい
○忙しく働き、年に一度海外リゾートでのんびり寝そべるのが夢
○そのために、歯を食いしばって努力するのがよい

マスコミは↑こう言ってたけど・・・

たぶん、そんなことじゃない(=ではない)ところで、一部の人は動き始めていたのではないだろうか。
人々の行動の底にあるもの、つまり<動機>というものが、昭和と平成、とくに、この震災以後は、ずいぶん変わってきてるんじゃないの?


・・・と、思っていました。
だから、時代がハングリーを求めていないのに、まだ続けている古典的イベント、というふうに、24時間テレビのマラソンをとらえていました。




ところが!

今年の、DAIGOさんは、ちがったっ!!!




DAIGOさんは得難い芸人さんで、テレビの中でもごく自然にふるまうように思う。
決して、無理してなさそう。そこが好き。

それで、あんまり、

ハングリーな感じが、しない!

そこが、ちがった。

なぜなんだろう。
DAIGOさんは、時おり、沿道で声援を送る人に対して、ウィッシュ!とかやってたけど、

なんだか、なにかのついでに走っているようで・・・
べつに、マラソンに興味は無いけど、たまたま走っています、というような・・・

「興味が無い顔してるけど、あんたきっちり走ってるじゃないの!?」

とつっこみたくなるくらいの。



たしかに苦しそうで、眉間にしわは寄っていたけど、

急に

「あ、おれ、もう歩くわ・・・、っと、やめよかな」

と走るのをやめて、道ばたのカレー屋にふと入っていきそうで。


こんなにも、

ぼく、マラソンとは無関係です。

という感じのするマラソン・ランナーは見たことがないかもネ。

ま、育ちの良さ、ですかネ。(←自己肯定感のオーラがある、ということネ。総理の孫とかという意味ではない)




↓山の中腹でみつけた、偶蹄類の足跡。

あしあと

【算数】色鉛筆を使うとクラスが変わる!

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算数の勉強。
5年生で、三角形の面積をやります。

三角形の面積⇒ 底辺×高さ÷2


底辺が1cmずつ増えていくたびに、三角形の面積は、高さ÷2 ずつ増えていく。

これを、図にしまして、増えた面積分だけ、クーピーで色を塗らせました。

最初の三角形、好きな色で塗っていい。

底辺が1cm増えた、面積も増えた、増えた分だけ、またちがう色で塗ってみよう。

どんどん、順に1センチずつ、三角形をふくらませていきました。
・・・

見事なグラデーションの、三角形が出来上がった。

するとね。


よーく、分かるの。

算数のかけ算も間違えちゃうような重い子が、なんだか、面積が分かってくる。
そして、この時間中に、

「先生、面積、おもしろくなってきた」

という。
Mちゃん、その日の日記にも、同じ三角形のグラデーション書いてきた。
これが、よほど、気に入ったらしい。


かんたんね。
きれいな色が、好きなのね。
それが、グラデーションのように、移り変わっていく、増えていく、変わっていく。
そういうの、みんな、好きなんだね。

で、気づくよね。


元々の、子どもの好きな要素を、ふんだんに取り入れて、学習すればいいじゃん、ってね。

子どもの、もともとの持ち味、好み、くせ、理解の仕方、認知、把握の方向・・・


教師は、子どもに甘えちゃだめだ。
子どもに、「理解しろよ、おれのやり方で!」と言い過ぎ。
子どものもっている、

芸術的な、
理知的な、
感性的な、

そういう好みを、うんと大事にしろ、ということだね。
そういうことだよね、Mちゃん?!


縄文時代25

すそを入れてね~すそって何?~

「すそ」。
これほどむずかしい日本語があるとは思わんかった。
体育着の白い上着のすそ
この「すそ」を、青いズボンの中に入れろ、ということになっている。
体育主任の先生が、

「危険がともないますから、すそを必ず入れるように指導ねがいます」

とのことで、ともかくも、すそ はそのまま外に出しておくことができない。
すそを、

「入れなさい」

と、その都度、子どもたちに指示する。続きを読む

半分の声で話してごらん~調整力をつける~

声のたいへんに大きなAちゃん。

ようい、ドン、を言う場面では、大活躍をする。

わざわざAちゃんを指名して、やってもらった。

50m離れた場所にも、ようく聞こえる声で、

「ようい、ドン!」


おかげで、50m走のタイム取り、はかどりました。


ただ、気になるところもあります。

つまり、声がいつもいつも大きい、というのは、逆に言うと、調整がむずかしい、という面をもっている子なのではないか、ということ。

大きくしたり、小さくしたり、が自由自在、というのが、もっとも楽。

それが、そうではなくて、何らかの理由でもって、常に常に大きい、というのであれば、それはなにかあるな、とアンテナをはりたくなる。自由ではない、つまり、苦しんだり、困ったりしているかもしれない、のだ。

1年生なので、声の大きい子の、粗雑さがよく見える。

体育着に着替えるとき。

Aちゃんは、床の上に、びろーん、と全部、出してしまう。

上着も、ズボンも、赤白帽子も、すべて。

畳2畳分くらいのスペースに、自分のものを適当に並べた感じで、そこからようやく、着替え始める。

こういう所作を見ていくうちに、この子には、「適度感覚」や、「細かに注意深く動いていく」感覚なども、身につけさせてあげたい、と思うようになる。

どんな指導をするのか。

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事件簿ファイルNo.8 「木の実を奪った事件」TくんAくん

Tくんが、Aくんの持っていた、ムラサキ色の木の実を、ぶんどりました。

ひったくった感じ、だそうです。

近くにたまたま居た、支援員の先生が、それを見ていたとのこと。
すぐに対応してくださっていました。


「なんで、とったの?」

「・・・」

「Aくんはとられてどんな気持ち?」

「いやだった」

「ほら、Tくん。いやだったって言ってるでしょう。何とも思わないの?」

・・・・・・

私が到着したときは、上記のような感じの対応でした。


Tくんが終始無言なのが、気になる。


私なら、どうするか、と考えた。

さて・・・・・・
ぶどう取り合いsc
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Tくんの石拾い

Tくんが校庭で石を拾う話。



はあ。(ため息)

好かんなあ。

・・・と思ってしまいます。

「全校で、石を拾いましょう!」だって。

職員会議で、校庭の石が問題になった。

秋の運動会に向けて、今から石を拾うんだって。

「夏の酷暑、猛暑、それを避けまして、すずしい今の時期に、石を拾うことにしましょう」


わたしは石を拾うのは厭わないんだけど、すぐに脳裏に浮かんだのが、Tくん。

彼が、この計画に「きちんと」関われるかどうか・・・。



「Tくん、石を投げないで、ちゃんとやれますかね」

となりの先生に思わずつぶやくと、

「・・・(笑)」


苦笑い。


そりゃ、保証できんぞな、ということ。

つまり、「投げるんじゃないの」

ということであります。

わたしは、それがSちゃんや、R太くんの頭に当たりやしないかと思うと、気が気でない。


Sちゃんのお母さんと、R太くんのお母さんの顔が思い浮かんで、思わず、アッと叫んで、顔を伏せてしまいたくなる。




Tくん、ああ、Tくん・・・。



さ、どうなったでしょうか。ハッピーエンドですから、安心してお読みください。

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「正しい会話ができる」 ~リンゴスターのYくんの話~

月曜日は、とくべつな日です。

月曜日の朝、子どもたちの様子をみると、その子の土日の過ごし方が、なんとなしに伝わってきます。

最初から、わたしに何かを言いたくて、にこにこしながら、近づいてくる子がいます。

また、そうでなくとも、満足げな子もいます。

なんとなく、眠そうにして、ボーッとしている子を見ると、昨日はいつ寝たのかな~と心配になる。


印象に残る子がいます。

友達とおしゃべりしている子でも、目が生き生きとして、たいへんに友達に丁寧に接している子です。

友達の話を聞いて、目をまるくして、

「○○くん、すごいね」

と話をしている子は、本人の満足度が高いのでしょう。

他の子の話を、聞いてあげられる余裕があるのです。

聞いてもらった子も、うれしかったようで、そこにあっという間に、イキイキとして、明るい楽しげな空間が生まれてきます。

そういう雰囲気をサッとつくってしまう子が、Yくんです。

Yくんは、なかなか利発そうな子で、いつも大きい目をくりくりさせている子です。髪の毛が、ビートルズのリンゴ・スターみたいで、ちょっとかっこいい。続きを読む

おれのが強いぞ

「おれんがつよーぃぞ」

これは、すこし訛りも入っている。

少していねいに書くと、こうなる。

「おれの方が、お前よりも強いんだぞ」



みんなで、ランドセルにしこたま、勉強道具や箸やらハンカチやら、詰め込んでいる。

1年生は、帰宅時間になると、全員で、その作業に没頭しなければならんのです。

十数人が、教室のうしろの方で、あれやこれや、とやっているうちに、

すぐに手を出すTくんが、Mくんの顔の前で、指を突き出す真似をした。

Mくんは、いやなことがあるとすぐに、

「うぇーん」

と言ってしまう。



どうやらそれが、かえって、Tくんの気持ちを駆り立てるらしく、聞くところによると、TくんはMくんに、この行為を最近何度も繰り返していたらしい。

その際に、Tくんが、Mくんに向かって言うのが、


「どう、おれんーがつよい」


という言葉でありました。

そして、このセリフを言うときの、Tくんの表情は、


「どや!」

という感じ。

「勝ったぞ!強いんだゾ!」



ところが、その後、Mくんが目の前を、自分を避けるようにして去ると、Tくんは、

何かに耐えるような、がっちりと冷たい表情になって、口を、きりっと結ぶのだ。

こんなとき、Tくんの顔は、目の光が急に奥の方へひっこんで、「しん」としてしまう。


Tくんを抱きかかえて

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椅子の上に立ち上がり、どんどんと足を踏み鳴らす子

椅子の上に立ち上がり、どんどんと足を踏み鳴らす子がいる。

かなり、屈折している、と思う。

こちらを、ちらっと見ながら、やる。


彼のこころは、
そうせずにいられない、狂おしいほどの欲求に、翻弄されている。


どんどん、と足を踏み鳴らす。

「やめて」

というと、さらに得意がって、机にのぼり、エスカレートして踏み鳴らす。


椅子をふみならす子





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暴力をふるう子

1年生ですから、いろんな子がいます。

話なんて、まるで聞きません。

席についてほしいということを、シンプルに伝えるのですが、立っているこっちの子が座ると、別の子が立ち上がっている。
その子が座ると、今度はナナメうしろの子が立ち上がる。

これ、示し合せたり、打ち合わせしてこうなっているのではなく、偶然に、その子どもの中の、生きる鼓動とリズムがそうさせているのでありますから、見事なものです。

生命の音楽というのは、こうやって、個々の音が響き合って、創られているのであろう、と思わされる光景であります。

こんな子、山ほどいます。クラスに。

4月の入学式の翌日、まったく座ろうとしない子どもたちの光景をみて、あすなろ級の先生が

「新間先生、こりゃたいへんね。応援しないと、こりゃたいへんよね」

ところが、今、急速に、この状況が、整いつつあります。続きを読む

「せんせー、○○くんが、ちゃんとやっていませーん」

クラスの女子が、ぼくを叱る。

このことに、ぼくは毎日、こまってる。

なんでうちの女子は、みんな、あんなふうに、ぼくを叱るのだろう?

大きな声で、しかりつける女子。

「Tくん!はやくしてよ!」

「Tくん!ここ、すぐに片づけてよ!!」



なんで、あんなふうに、うちのママみたいなんだ?

あの女子たちは!

それでちょっとランドセルをさわっただけで、話しかけようとしただけなのに、


「Tくん!やめて!むこう行って!」

だって。

まったく。続きを読む

あの子が将来、苦労しないように、○○する

特別支援級に在籍するSくん。

かなり自由を謳歌しているように見えた。

1年生だったから、教室から飛び出すのは当たり前。続きを読む

「発達障害の子だけ」に対応しようと思ってもむずかしい


最近思うのは、学校の先生は、「発達障害の子だけ」に対応しようと
思っても、むずかしい、ということです。
クラス全体を、発達障害の子があたたかく迎え入れられるクラスに
しないと、結局どこかで糸がほつれていくのです。
「あれ?」と思う瞬間に、発達障害の子の、生きにくさがむき出しに
なってしまいます。

「すべてを、そうしないと」

と、今は思うようになりました。
勉強がむずかしくなってくる3年生後半、4年生あたりから、
授業中のイライラがつのってきますし、自暴自棄なふるまいや
授業をこわそう、とする意図のある行動も増えます。
そうなる前に、本当に、つつみこんであげないと、です。
このクラスなら、みんなといっしょに安心してやれる、と
自閉症児が心底思うような学級にしていかないと、
ボロボロとくずれていきます・・・。

そして、そうなるようにするのに、親の力が大きいと思います。
先生(自分)が努力するだけでは、限界あるな、とよく思います。
家でも、ぎゅーーーーーツと抱きしめてあげてほしいと。

まあ、それが一番、というか、根本と言うか、
でもそれができない、という親の事情、社会の事情、
いつもぐるぐるとこのあたりの思考をめぐらせて過ごしています。

大人が子どもをどうみるか。

これ、大人が自分自身をえぐっていかないと、なかなか見えないですよね。
子どもをみている、という視点が、そのまま、その人の眼力なのですから。

もう、平気で職員室で子どもの悪口をしゃべってしまう先生が気の毒で。
(わたしの眼力はこの程度、とあさはか加減をさらしているわけで)
子どもも気の毒だけど・・・。
悲劇です。
親も、ところかまわず子どもの悪口言ってしまう親もいて・・・。
悲劇ですよねえ・・・。

その悲劇にたいして、わたしはどうふるまったらよいのか。
なにも見えない、よくわからない。
自分の子どもに対する見方にも本当のところは自信がない。というか、
それを話合う機会がないし、話してみて、真正直に反応してくれる人もない。

職員室には、いないのです。
みんな立場があるし、評判を気にしますからね・・・。
お互いに心底まっさらになっての深い話はできないのです・・・。

教員と言うのは孤独だなあ、というのがわたしの今の心境です。


・・・というわけで、ご近所の方に、たまーに話しに行くのです。
たとえ2人でも3人でも、こういう話を

「ふんふん、へー、そうなの」

と聞いてくださる方がいると、

「おお」

と思いますね。
教員は、学校の人間関係だけ、で生きていると、苦しいときもあるかもしれないです。




ついに、S子が体育の授業を受ける! その後


ついに、S子が体育の授業を受ける!



上記を書いたのは、もうずいぶん前になる。1年5カ月も前のことだ。
その後、この内容について、反応があった。
「S子さんと周囲の関係の変化、先生の手だて」について、リクエストが来たのだ。

ちなみに、現状を言うと、中学校へ進学したS子さんは、そのまま情緒障害学級へ入級。
今は支援級全体のリーダーとして成長も見せているとのこと。
中学の先生は「ほめて、ほめて、教えて、ほめて」で、S子さんにできうる限りの情報を、早め早めに伝えながら、そのための準備をしようとするS子さんをほめまくっている、という。

いいなあ、と思いました。

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休み時間の過ごし方を教える、ということ


発達障害児の対応をずっと続けてくる中で、この1学期にとくに印象に残っていること。
それは、休み時間の過ごし方である。

授業中は、障害児について、かなり対応できるようになってきた。
○事前に授業の流れを伝えておくこと
○細かく指示を出して、そのとおりにやれば、○(マル)をあげること
○集中できるとほめること
○複数のモノを与えないで、一つのことに集中したらよい、という進め方をする
○視覚優位の子には、見て負担にならないものを単数で用意する
○聴覚過敏の子には、落ち着いてしっとりと話しかけ、クラス全体が静かに運営できるようにする


思いつく限りで対応していける気がする。

ただし、昨年まで、休み時間はノーマークだった。
わりとすぐに、職員室へもどってお茶を飲んだり、他の先生の用事を済ませたり、次の授業の準備をしたりしていた。

ところが、その貴重な休み時間が終わって教室へもどると、事件が勃発しているのだ。
休み時間に、だいたい、何かが起きるのだ。
考えてみれば、休み時間は、なにをしたらいいか、わからない不安な時間である。
どうしなさい、こうしなさい、という指示がほとんどなく、ただ自由です、と言われておっぱなされても、実は、少しも自由ではない、というわけ。

「先生、ひま。何をしたらいいの」

こんなふうに言える自閉症児、発達障害児ばっかりだったらいいが、実際は他の子からからかわれていたり、思いもかけない事態が起きていて、他の子と一触即発の状況であることがおおい。

そこで、長い休み時間になったらとにかく、先生から先手を打ったのがいい、と考えた。
わたしは、紙粘土をたくさん用意しておいて、発達障害を抱える子に、さっと休み時間になると渡した。
1週間は、もった。
次は、白い毛糸を持っていき、あやとりしたり、こまかく切って色画用紙に貼ったりして遊んだ。
さらには、牛乳キャップの蓋を色紙でつつみ、毛糸でつるして、金メダル、銀メダルをつくる。
それも終わると、つぎは、白い毛糸を絵具で染めて、疑似染物をして遊んだ。

こんなふうに、休み時間の過ごし方にまで介入し、世話をしたことは、これまでなかった。

休み時間は、こんなふうにすごすと、たいくつをしなくて済むかもしれませんよ。

こうやって、教えて、過ごさせた。

よかったのは、ともかくも、

自閉症、発達障害を抱える子が、けんかもせず、ニコニコと機嫌良く過ごせた、

ということである。




モンシロチョウ キャベツ当番は決めません


モンシロチョウの観察が、3年生の課題であります。
近所のアブラナ畑に、蝶がひらひらと舞っておりましたので、みていますと、たまごを生んでおります。

これをば、教室に持ち込みます。

3年生の担任は、なんだか知らないが昆虫をせっせと集めるのが1学期の大きな仕事となっています。(蝶の次はダンゴムシ予定。)
2年の先生は、うさぎを毎日つかまえるのが仕事。(うさぎ小屋から、教室へ毎日運んでいます)
1年生の先生は、とびだす1年生をさがすのが仕事。

もっぱら、低学年の先生はなにかをつかまえたり、とらまえたり、しないといけないのでしょう。

さて、たまごのついた葉を、どうするか。
土を入れた水槽にでも入れておきましょう。ついでに採集してきたアブラナを入れておきます。
勝手に幼虫が育ちだすのを待つ、という作戦です。

透明なケースに入れて置く、という作戦もあります。
最初のころは、これで十分でしょう。
これは子どもたちが幼虫を見つけやすい、という利点もあります。

ところが、一方で欠点もある。
きれいに保つのがめんどうくさいのです。
すぐに糞だらけになってしまう。
そこで、折を見て、先の「土を入れた水槽」へ引越します。
これだと、糞のそうじなど、必要ありません。

飼育係や班の当番を作って、透明ケースの糞掃除を仕事にしたときもありましたが、だいたい責任感などまだ育っていない子に周囲の子がしょっちゅう注意をし、注意された子は本当に毎日、仕事を忘れてしまう自分に嫌気がさし、自分を責めるだけ、というよくない事象が生じます。(責めても改善しないのが、低学年の常であります)

↑こうした場合、

「でも、仕事を忘れちゃいけない、という意識がだんだんに育っていって、仕事をできるようになるんだから、こういうトレーニングの機会を保証するのが教室の責務なのでは??」

ということをおっしゃるベテランの先生もいます。

ところが、これをするには、細心の注意が必要で、周囲のともだちにその子を責めない安心感があるかどうか。注意されて、「やろう」と思う子かどうか。その子に、「きゃべつの葉のとりかえをすることが、青虫を生かし、クラスの仕事分担を遂行する上で大切なこと」という自覚があるかどうか。責められた、と感じることで、クラスの雰囲気が悪くなるようなことは無いか。
このあたりを十分に検討したうえで、キャベツ当番を決めるのが良いでしょう。

わたしはそんなものは決めません。
クラスに、仕事の自覚が薄いのに加えて、「責められるのに弱い」子がいるからです。
また、他の子を責めることによって、うっぷんを晴らすことを覚えてしまいそうな子がいるからです。
お気づきでしょうが、「責められるのに弱い」子は、発達障害を抱える子です。
さらに、他を責めることに自分の精神のよりどころ、安定を求めたい、という気分の子は、グレーゾーンの子です。

なので、当番と言う高度なシステムはとりません。
これでやらなくても、給食当番や掃除当番、その他のことでもうおなかが十分すぎるほどにいっぱいなのですから、ここで負の側面ばかりが見えてくる「キャベツ当番」はとらないわけです。
ただし、クラスの事情によっては、当番制にして子どもたちを鍛える、ということも「あり」だと思います。

さて、卵から出てくるシーンは教室の大きなプラズマディスプレイにHDDビデオ撮影しながらリアルタイムに映しだして、みんなで見ました。

さらに、羽化するシーンも同様にしてみました。
給食当番の仕事中に、

「あ、ああ!!!さなぎが動いた!!!」

という大きな声で子どもが叫び、そのとたん、ディスプレイの前は人だかりとなりました。
そして、みるみるうちに、1分もしないうちに?するすると出てしまい、羽をかわかしはじめました。

いただきます、をして、みんなシーンとしてもくもくと食べながら、ずっと画面を見つめていました。
掃除がはじまっても、みんな、なんとなく、教室から出ていきません。
気になって仕方がない様子。

その後、5時間目がはじまってしばらくすると、羽が乾いたらしく、とびたちました。
教室のみんなの頭上を、ひらひらと舞って、明るい窓の方向へ。

「あー、きちんと明るい方が分かるんだ」
「窓に向かっていった~!!」

あいていた窓から、ひらひら、と外へ飛んでいったのを、ベランダに出て、見送りました。

だれからともなく、

「さよーならー」

5時間目の途中、とつぜん、3年生の教室から大合唱の

「さよーならーー」

が聞こえて、びっくりした、と階下の2年生の先生がおっしゃっておりました。

いやあ、ドラマでしたなあ・・・。




自分の希望が通らないと怒りだす子


2年生のクラスに補てんで入り、算数の授業をすることになりました。
(といっても、担任の先生がプリントを用意してくださっているので、ほとんど見ているだけの予定)

さて、2年生です。
かわいいな、と。

ところが!
いきなり試合開始!!!


なにが気に食わないのだか、分からないまま、あいさつもしない前に、やりあっています。

「ねえ!先生、来てるよォッ!!」

女の子たちの激しい声に、どつきあいの男子二人が一応、チラッとこちらを見ました。
それで、なんとなく、座りかけたのですが、その次の瞬間、つばのかけあい。

「きゃー!」
「きったねえぇ!!」

阿鼻叫喚、とはこのことです。
あいさつもできんのか、と。
教室に入って、5秒ももちませんでした。

思い通りにならないと怒る、というの。
これ、ほとんど、障がいなのではないか、と思っています。
ふつう、そうではないでしょう。

怒る??
そんなにすぐに??

うーん、そうはならないのが、まあ、通常だと言う気がします。
大体、「怒り」自体が、正常の範囲を超えているのですから。
(冷静にならないと、判断を誤るのが人の脳)

低学年だから、わがままなのよ、という年配の先生もいるけど、わがまま、というよりは、反発性、瞬間反応、条件反射、つまり、脳機能の障害なんじゃないの??

わがまま、というのは、相手に依存できることを確かめたくて、自分の意見を通そう、ということをいうのだと思います。そういう、自分の意志を告げる、という冷静な感じとはほど遠いのですから。
まったくもって、「動物的な反射」です。


くわしく聞いてみると、(周囲の子の助けも借りて)Fくんに、Kくんはじめ班のみんなが、席について、と注意して着席を促したところ、そのままバトルになった、と・・・。

さ、どうしたらいいでしょう。

「席についてよ」
「ムカッ!!」(どつく⇒つばはく!)

ですって。




発達障害を抱える子の言動にイラつく子の特性


自閉症スペクトラムを自覚している小学生がいる。
その中に、自分の「発達障害」について、分析した子がいる。
なにが困るのか、学校で行われていることの、何に対して苦手意識が強いのか、自分で自分のことを解説している、本を読んだ。


◇陸上練習のとき、口で「こうやって」と言葉だけで指示されて、

 分からなくてできなかった。

◇国語で「どんな様子ですか」「どう思いますか」と質問されると、

 意味が分からず、イライラしてくる。

◇やってはいけない事を、たとえ話でされると、さっぱり分からない。

◇顔の表情や身ぶりで何かを伝えようとされると、さっぱり分からない。

◇必要な言葉で、はっきりと伝えてほしい。

◇手のコントロールができないからバランスよく字が書けません。
 「きれいに」「ていねいに」と言われるけど、何がきれいなのか、

 何がていねいなのか分かりません。



そこに、気になる言葉が。

「ぼくのことを、うるさい、うざい、と言う人がいます。そういう子をよく観察していると、ああ、ぼくと同じ、発達障害を抱えているな、と思います」

・・・というような意味の箇所がある。
つまり、発達障害の子を受け入れることのできない子は、同じように発達障害を抱えている子の可能性が高い、というのだ。

このことは、わたしの経験からもピタリと符合するので、おそらくかなり正しいのでは、と思っている。

イラツく子に対して、イラツく子がいるのだ。
ほっておけず、どうしても反応して、「自分はあいつを許容できない」という意味の言動を繰り返す。
それも、しつこく。こだわっていく。

いかがでしょうか。雰囲気が、似ているのです。



だとすると、情緒障害級が、同室で、複数人で、構成されていることって、ムリがありませんか。
なんで、文科省の人、こういうことをだれも言わないのでしょう???




怒鳴る先生


怒鳴る先生、多いです。
原因は3つ。
続きを読む

どれほど感謝していることか・・・!(支援級に入級できた子の親から)


PTAの活動も、無事に一年間を終えようとしている。
先日、PTA活動の総会が行われた。

そこで、ふと出会ったお母さんに、いきなり

「○○先生!」

と呼びとめられ、

「先生に、お礼を言わなきゃ、とずっと思っていました!」

いきなりだったので、お母さんの顔を見ながら

(昨年担任した子、Rくんのお母さんだな。どうしたんだろ)

とぼんやり。

(あら、なんだろ。お礼とか言って・・・)


金曜日の疲れた時間。
子どもたちが帰宅してからの、夕方。
総会は、いろんな保護者が役員をしているので、役員同士の交流が主な趣旨である。前年度から新年度への引き継ぎもある。
雑多な空間で、あちこちで、お母さんたちの世間話がはじまっている。

すでに少人数での部門ごとの話合いは終了し、これより全体会。
あと5分ではじまろうか、という、なんとなくぼんやりした空いた時間だった。

「○○先生に、どれほど感謝しているか・・・!」

もうこの時点で、お母様の目がみるみる赤くなり、うるうると泣かれ始めた。

「Rがこの1年間、本当にたのしく過ごせたのも、先生のおかげです。まだまだ不安もありますけど・・・。」


Rくん、わたしが昨年度担任したが、彼のためを考えて、特別支援教室に進級できるように取り計らったのだ。
WISCの検査からはじまり、特別支援級の先生をまぜての話し合いもくりかえした。
無事に、進級する際に、支援級の入級を許可していただいて、彼は今年度は支援級ですごすことができた。

これは、なによりも、彼にとっての幸福であった。

そのことが、親にも通じたのだろう。


特別支援級に入級することで、幸福になれる子は、たくさんいる。

だのに、そうならないのは、周囲の(←教員を含めて)無理解だ。

学校の特別支援級の人数が決まっている、というのもへんな話。
需要があれば、枠をどんどんひろげていくのが本当だ。

おそらく、近い将来、小学校の半分は、特別支援級のクラスになるだろう、と思う。
そうでなくては、実態に合わなくなるからだ。




発達障害の子に「音楽会の大音量」は酷だろうか


こたえは、YES。

と思う。

だが、実際には、音楽会に自閉傾向のある児童も参加する。

なぜか。

担任が、参加させる努力をするからだ。

その、「参加のさせ方」に、2通りある。

一つ目は、
きわめて受容的にはげましながら、それでいて、学校のスケジュール、という線があること、勝手に行動をきめてはいけない時間がある、ということを少しずつインプットしていく場合。

二つ目は、
「○○くん!今、この部屋にいないと、××しますよ!」
と脅しをかける場合。


この、二つ目の対応をしている先生を見ていると、おそらく、その先生の頭の中には、

「音楽会に参加させることがわたしの仕事であり、役目である」

という強い信念と使命感があるのだろうと推測する。

それは立派なことだ。
熱心な先生は、そうであることが多い。
こういうことを強く思っている先生でないと、たよりない、と思われてしまう。

もうひとつ、その先生の頭の中にあることがある、と思う。

「この子を参加させなければ、担任としての技量を疑われてしまうのではないか」

と思っている。
だから、脅しをかけてまでも、大きな音のきらいな彼を音楽室に拘束しようとする。

拘束?
そんなの当たり前のことでしょう。
音楽会に出るようにさせるのが、教師の一番の仕事でしょう。

そう思う人も多い。
でも、発達障害を抱えた彼には、もしかしたら、通常の人の何倍も苦痛が与えられているかもしれない。
それこそ、音楽室にいることが、体罰に匹敵するほどの苦痛を与えているかもしれない、と思うと・・・。


ある先生に、うっかりと、

「○○くんは、もう音楽会に出ないで、その日は教室で静かに別のことをしていたらどうでしょう」

と言ってしまった。


どうなったと思いますか。
そのベテランの先生に、叱られました。
とんでもない、と。
大きな音量が苦手なことくらい、知っている、と。
でも、彼がだんだんと慣れてくれなければ困るから、やっている。
このままでは、音楽会を体験しないまま中学生にもなってしまう。
それでは彼の人生にとって、あまりにもかわいそうではないか。
それに、彼には、はっきりと、強くやるべきことを指示していくことで、行動規定を示し、やることを強くイメージさせることが必要なのだ。やることをイメージさせられたら、彼だって、参加できるのだ。

ということでした。

そうか、なるほどなあ、という思いとともに・・・

彼が、自分で、

「ぼくはこのくらいの音量では、苦痛になるので、かんべんしてください」

ということが言えるのが一番いいなあ、と思いました。
でも、それをうまく説明できないから・・・・

「音量苦痛モノサシ」を活用して、

「先生、今、レベル2です。あと10分はがまんできますが、その後はレベル3になりそうです。とても疲れてしまいそうです。またレベル3になったらお知らせしますね」

な~んて、言えるように、用意してあげたらいいのかな、なんて一人で考えていました。


しかし、そのネーミングでまた叱られそうですが。
「音量、苦痛? モノサシ?」
なんですか、その苦痛ってのは!
ぼくは大きな音がきらいだ、というのを、より強く本人が認識してしまうじゃないですか!


その苦痛、というのが、こちらには分からない、というのが一つのポイント。
この子は、大きな音が苦手なんじゃないか、と思っているが、勝手に教師の方が思っているだけ。
(でも、大きな音がすると、耳を押さえているから、苦手なんじゃないかと思うのです)




自分で勝手に決めてしまう子 その2


前号での記事に、反応してくださる職場の方がいたので、つづきを。

大事なことは大人が決める。

これが、インプットされていない発達障害の子について。

(というか、クラスのさまざまな子。やんちゃくんもふくめて)

たとえば、教卓の上のものは、先生のもの。
これを勝手にさわるのは、いけないこと。
これは、4月の段階で伝えておいてある。
このくらいは当然すぎるほどで、ほぼ全国の小学生のほとんどの先生が、4月にはこれを言っていると推測する。

さて、私も例にもれず、これを伝えている。

ところが、運動会の終わる魔の10月ごろから、だんだんと、この禁をやぶる子が出てくる。

これが、チャンスである。
どんな授業が予定されていたって、その事象が起きたとたんに、バシッとやっておくことがある。

これは、年間を通じて仕掛けていることだから、1年間のどこで起きるかわからない。もしかしたら、5月かもしれないし、2月かもしれない。どこでも、網をはっておいて、子どもがいったん、そう行動したら、とたんに教師は弾かれたように、こう行動する。


1)ひとのものは勝手に使わない

これをインプットする。
泥棒と同じだ、ということ。

その代わり、○○を借りたいです、○○を見せてほしいです、○○を貸してください、というような、モデルとなる言い方を学習させる。

2)許可を得てはじめてもらえる

「借ります」と言ったのだから、とばかりに返事を聞かずに取ろうとしたら、子どもの手を止めて、もどさせる。

「これは、返事を聞いてからだよ。今日は、いきなりだったから、先生は貸したくなくなりました。先生の都合や先生の気持ちを聞かない人には貸せません。明日、やりなおしするのはかまいません」

これは、明日でなくてもいい。給食の後の休み時間になったら、もう一回やりなおしです、でもいい。

そして、ここが大切。
明日、もう一度、思い出したように子どもがくる。
そして、

「先生、貸してください」

今度は、お返事を聞く、という顔をしている。
そして、当然、いいことをしたから、先生の言うことを守ったから、貸してもらえる、とうずうずしている。

そこで、つきはなすのだ。(いじわるだな)

「先生が気に入っているものだから、(もしくは)先生が大事にしているので、他の人にはさわってほしくありません。使わせてあげるかどうか、見せてあげるかどうか、それはあなたが決めるのではなく、先生のモノなんだから、先生が決めます。だから、今日はあげられません」

子どもは、必ず、先生を非難します。

「えーーーーー!!!ひきょう!!!昨日、貸してくれるって言ったじゃん!!」

そんなことは言っていないのに、その子の頭の中では、「貸してくれると言った」というふうに、変化してしまっている。

ここで、売られたケンカを買いません。
すましています。この状況を楽しみます。

こっちは、いろいろしゃべりません。
一点張り。

「あなたが決めるのではなく、先生のものだから、先生が決めます。許可が要るんですよ。(笑顔)どうしようかな♪」

子どもがくいさがり、「ひきょう!ひきょう!先生、うそついた!」
とさわいでも、涼しい顔をしています。

「許可しようかな(笑顔)、どっしよっかな♪」

これがチャンス。許可、という言葉をインプットする。
許可、という言葉が、その子の脳裏にしみわたるまで、くりかえします。

黒板に許可、という字を書いて、

「許可するかしないか・・・、ああ、それが問題だ!」

と芝居じみたセリフをいって、悩ましげに窓の外を眺め、

「ひきょう!ひきょう!」

というコールに、まともに取り合いません。

そのうちに、授業がはじまったら、引き下がります。
(もしここでも引き下がらないようであったら、クラス中を巻き込む手もありますが、そこまでいったことはこれまでありません)


もっとまともな対応の方法もあるのでしょうね・・・
書いていて、こんな対応しかとれない自分のレベルの低さを思いますが、ともあれ、どうしたらこうやって、勝手に決定してもよいと勘違いしている子を、指導すればいいのでしょう・・・。




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