30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

「子ども」とは

給食に命をかける女子

.
クラスには個性があふれている。

一人の女子。
2時間目の休み時間になると、だれもがみんな、その子に声をかける。

「ねえねえ、Aちゃん、・・・」
「Aちゃん、わたしにも・・・」



男子までが声をかける。

「なあ、A、たのむよ・・・」
「Aが言ってたの聞いた?」
「ほんと?Aさん・・・」



かように、Aさんは、このクラスでの重要人物である。
なぜ、Aさんはこのような地位を築くことができたか。




答えは、給食であります。

Aさんは、ぜったいに毎朝、その日のメニューを覚えてくる。

で、特殊能力のようだが、その覚えたメニューを、空んじることができた。

「Aちゃん、今日のメニューなに?」
「今日は~、ひなまつり給食だから、ちらしずしでしょ、それから、さけのしおやき、なのはなびたしに、すましじるー、それから、三色ぜりー。たぶん。そんな感じ」




それをあてにして、多くの仲間がAさんに、給食のメニューを尋ねるのです。

Aさんも、はじめはそうでもなかったろうが、だんだんと自分がクラスの仲間からあてにされていることを知り、丁寧に伝えるように変化しているようでした。



ある日、男子のGくんにメニューをしゃべっていたAさんでありましたが、Gくんから

「いそべあげ?なにそれ?肉?」

と訊かれておりました。

私はその場面に遭遇し、どんなやりとりになるか、興味津々で聞いていた。


スポーツ少年のGくん。
彼は、いそべあげを知らない風であった。

「磯部揚げって、ちくわとかを揚げてあるやつ。ちょっと海苔がついてる感じの。知らないのー?」

Aさんは、男子がちっとも分からない様子なので、あれこれと説明をしている。

Aさんはどんな女の子か。

Aさんは、家で、かなり料理を手伝っているらしい。
日記を見ていると、その様子が分かる。
小麦粉をボウルに入れる時に、バフッとなってキッチンに粉が舞ってしまうことを、日記に書いていた。





ところで普段、Aさんは、わりと少食でありました。
おかずの一部を隣の男子にあげることもあったようで・・・。


ある日、男子が調子よく、

「Aちゃん、ゼリーくれない?」

と頼んだところ、鬼の形相で

「いつもおかずをあげてるでしょ!」

と、怒鳴り返し、目をまるくしている男子に向かって、

「今日は恩返ししてよネ!!」

と、男子からゼリーを取り上げていた。

男子 「A、こえぇー(震え声)」



次の日、

「わたし、ゼリーは大好きなんで♡」

と、日記に書いてありました。


ゼリー

平成の子も、ミステリーで盛り上がる!?

.
UFOといえば、矢追純一。
ミステリーサークルやCIAにつかまった宇宙人の写真など、思えば昭和の子どもたちは、それがどうにも嘘くさいと分かっていながら、きちんとその、「大人の遊び」に付き合ったものだった。


水曜スペシャルの「探検隊」シリーズ。
あきらかに嘘くさい演出が、かえって「遊び」を盛り上げていた。

「恐怖の首狩り族はまだ生きていた!」

みたいな放映があったような気がするけど、ありゃ、本当に怖かったヨ・・・。


そういえば・・・思い出したことが・・・。

金色に輝くキングコブラを見ると寿命が100歳までのびると言われている、という報道で、探検隊メンバーが目を見開いてその映像を見ているシーンがあった。
そのギンギンに見開いた目で、ジャングルの木をバックに映し出された探検隊員の顔と、金色に塗られたキングコブラの映像が、同じ一度のアングルに収まらないまま、たがいにアップで映されるばかりでCMになった。
なんか雰囲気がおかしいな、と思ったら、一緒に見ていた父が

「これ、別撮りだ」

と言った。

分かってはいたけど、なんだか淡く、寂しい気持ちが湧いてきたのを覚えている。



テレビ製作会社に向けて、わたしは呪うように

「チッ!もうちょっと、上手にやれよ!!」

と、その時、言ったような気もする。





ま、そんな経験をふまえたうえで・・・

私は、平成の子は進んでいるし、今はそんなふうに大人も遊んでいる暇がないため、もうUFOだのミステリーだのには、目もくれないのかと思っていた。
ところが、ひょんなことから、うちのクラスに、小さなミステリー騒動が持ち上がりまして・・・。


うちのクラスの子が住んでいる団地の近くに、整骨院があります。
個人経営の小さなもので、ズッコケ3人組のモーちゃんのような雰囲気の、Fくんのうちの近所だ。

Fくんが、その人を見た。

その人は、灰色のジャンパーを着ていて、古風な帽子をかぶっている。
杖をついて歩いていたが、角を曲がると、突然、消えた、という。

すでにその場所は、整骨院の入り口を過ぎていたから、整骨院に入った訳ではない。
また、その角(かど)に人家の入り口のようなものはなく、ずっと角を取り巻くように高い塀が続いているから、どこかの家に入った、というわけでもないのだ、という。

「とつぜん、消えたんだよね。で、まわりをずっと探したんだけど、本当に居なくなってた」

あまり嘘を言うタイプではないモーちゃん。
静かに、自分の見た、驚きの体験を語ってくれた。


次の週、土曜日に野球のクラブに行こうとしていたTくんが、また、その人を見たらしい。

「おれも見た!」

月曜日の朝、興奮交じりにTくんが語るのを聞くと、その灰色のジャンパーの人は、おそろしく歩くのが遅く、ゆっくり半歩くらいずつしか、進んでいかないらしい。
Tくんは、その人を自転車で追い抜かしつつ、あ、そう言えば、と思い出した。

「あー、このあたりのことだよな、人が消えた場所って、Fくんの言ってたところ。まさか、この人がそうじゃないだろうな。もしかしたら、そうかな?」


そして、振りむいて灰色のジャンパーの人を見ると、その人はおじいさんかおじさんか区別つかない人で、白髪のようで白髪ではなく、Tくんと目を合わせることなく、ただまっすぐ歩いていたらしい。

Tくんは道路を横断するため左右を確認し、車が来ないので道路を渡ろうと思った。


再度、おじさんが気になってみてみると、

驚くべし!


おじさんは、またしても、そこから居なくなっていたのだった!!


(つづく)

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先生の言う通りは、つまんないな、と感じる心

.
学習発表会で、教師が一番たのしいのは、

「え、この子たち、こんなこと考えたのか!」

ということ。

高学年になるほど、自分の意見のオリジナリティーを出そうとします。
そこが、面白い。

「先生、ここまで考えたんだから、ぜひやらせて!」

これこそが、いちばんの醍醐味でしょう。
そういう企画がでてくると、教師は腹をかかえて笑うことができます。


先日の学習発表会で、あれこれと準備を進めているときに、
数人がアドバイスをもらいにきたので、わたしも思いついたことや気を付けたらよいことを話していました。
ふむふむ、と聞いていて、その都度、

「あ、それいいな」
「なるほど」


などと言い合って、アイデアが決まりかけたのですが、その中のひとりが、

「うーん、でも、先生の言う通りだけだとつまんないな。もうちょっと考えよう」

と言って、結局また仲間であれこれ相談を続けていました。



この、

「もうちょっと考えよう」

というのは、何だろうか、と思います。

この意欲は、何だろうか。

別に、変えなくても構わないわけです。
面倒くさいのであれば、そのまま、スッとシナリオ通りに進めてしまえばよいわけです。

ところが、

「うーん、もうちょっと、変えてみたいな」

と、出てくる。

大人なら、もう面倒くさいし、考えてまた失敗するのも厭だし、練習する時間ももったいないから、そのままやってしまって、終わらせよう、という考えになるかもしれません。

なんでしょう。本当に。

「うーん、もうちょっと」って、何だろうか?






結局、最初の案と、それほど変わらないことをして、本番前にずいぶん無駄になった寸劇練習もあったのですが、子どもたちはサラリ、としたもの。
時間を損した、とは言いません。
労力をかけた分を損した、とも思っていないようです。

子どもたちが、価値を置いていることって、何だろうか、といつも思いますネ・・・。



そして、もう一つ。

惜しいな、と思うこと。

この本番前のあれこれを、保護者の方たちがみんな知らないでいる、ということです。

これが、いかにも惜しいと思えてなりません。

一番面白いのは、本番前の、あれこれ、なんじゃないか。

本番の発表は、最後のおまけみたいなもの。
子どもたちも、すでに十分やりきっているので、本番はさっぱりしていますヨ。



保護者の方にお願いしたいのは、ぜひ、本番前になにがあったのか、を聞いてみてください、ということ。
いろんな経緯や人間模様、数々の、意見のぶつかり合いがあった。
それが、分かると思います。

ただ、ざんねんなのは、子どもたちからすると、すでにそんな過去の話は、うんこと同じですっきり忘れて流しています。
だから、後になって、そこらへんをあらためて親に聞かれても、

「なんでそんなこと聞くんだろう?」

と感じてしまう、ということです。


今朝の連絡帳に、

「学習発表会の準備のことをあれこれと私が聞くのですが、いろいろー、楽しかったー、としか教えてくれません」

と、お母さんがちょっと面白く、書いてくれていました。

まあ、そんなものですかネ~

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みんな同じのわけが、ない。

.
もし、こんな感じ方を持っているとしたら、という話。

日本の子どもたちについて。
「みんな、同じような顔をして、同じような服を着て、同じような考え方で、同じような態度でいる」
と、思っている人がいたとしたら。

どうしてそのように自分は思っているのだろう、と振り返ってみよう。

そこに、なにか、子どもに対する、『不満』が隠れているかもしれない、と。

「相手に不満があるから、相手を誤解する」ということが、ある。



なぜ、あなたには、

「日本人って、みんな同じに見える」


のか。

「子どもって、みんな同じに見える」

のか。

もしかすると、そこに、不満が隠されているかもしれない。
事実は、みんな同じ、ではない。
よね。

なのに、あなたにとって、同じに見えるんだとしたら・・・。



小学校の教師を続けてくる中で、最近思うのは、子どもは一人ひとり、まったく違う、ということ。
さらに、それをお互いが自然に認め合っている、ということ。

いっしょに給食を食べ、登校し、授業で考え合い、笑い合い、楽しんでいる。
それを何年も続けていると、まったく違う自分たちなのに、『共感できる』ということを知る。

同じ釜の飯を食う、という言葉がある。

生活を同じくし、顔を毎日あわせていると、
「自分の考えや意見を、わかってもらえた」
という快感や、友だちのことも大事にしたい、と心から願う自分の気持ちに気付く。
人とのつながり、よかった、ありがたい、という気持ちに気付くようになる。

この味わいがある人は、もはや、相手がどんな意見であろうと、関係なくなるよね。
どんな意見であろうと、一番底で共感できるんだから。
意見の内容が同じとか、ちがうとか、問題にならなくなっちゃう。
(意見は意見として、内容そのものを問題にして話し合えば済むことだし)

それを、ことさらに、問題にしたくなるのは、そこに自身の不満があるから。

「みんな同じだ。つまんない」

って言いたくなる・・・。


裏を返せば、

「自分がこれだけユニークでオンリーワンであるのを、まだ認めてもらってない!」

ということ。

つまんねえぜ!みんな同じ面しやがって!!
(おれは違う!で、まだ認めてもらってない!)




そりゃあ、不満なんだよ。
日本の社会に不満なんだよネ。
というか、だれかに不満が残っているんだよナ。
それを、かっこよく、「日本の社会は・・・」って言ってるのさ。


どんな不満かって?

そりゃあ・・・

幼き頃の、自分自身のことでしょう。




自分にとって大きな存在の人から、

自分を認めてほしかった、という願い・・・。

どうでしょうか。

11

「子どもは他人と同じだと喜ぶ」という件

.
これだけ「個性尊重」が叫ばれているのにも関わらず、である。

子どもと暮らしていると、彼らがいかに、

「他と同じであることを尊ぶか」、誰しも驚くであろう。


そろそろ席替え、というコールがあがってきたので、じゃ、席替えしましょう、と。

みんなでくじをひいて、新しい席になった。

ご近所さんと、しばし懇談タイム。

あれこれ、と適当におしゃべりをしている。




一番前の席の、RさんとOさんが、大ッきな声で、

「えー!!おんなじだーーー!!」


急いでふたりをみると、厭そうな顔をしているかと思ったら、驚くなかれ、なんと

とっても嬉しそう

なのだ。




みなさん、このことを、どう思いますか?




これは、意外なことだ、と多くの人は思うのではないだろうか。


少なくとも、だ。
大人は、他の人と同じ服を着ていると、

「あ、かぶった(やばい)」

という反応をし、同じ職場で同じような服を着てくることはもう、滅多にない。
双方がそれを避ける。

大人の世界では、「他と違う」ことに、ステータスがある、と断じてよかろう。



ところが、子どもはちがう。

「え?Rも、『おそまつさん』みてるの?うっぁー、わたしもだよ~」

といって、嬉しそうにする、のである。



なんという、『没個性』であろうか。



さらに、お互いの兄と姉が、同じ中学の同じ学年で、同じような部活に属していることを知り、それすらも、喜んでいる。

「うっわー、男子バレーの2年なんだ。うちのお姉ちゃんは、女子バレーの2年だよ」



それで、なぜ、喜んでいるのだろうか。




わたしは、分からなくなってきた。

どうして、子どもは、お互いにちがうものを見つけようとしないで、同じ共通項を探そうとするのだろうか。
おまけに、共通項を見つけた途端、顔の表情が一瞬、うれしそうになり、晴れやかな声で、

「うっわー、いっしょ、いっしょ~」

と喜ぶのは、どうしてなのだろうか。



で、このことをぼんやり、と考えていて、休み時間に教卓の周りに集まってきた子に、

「友達と同じことと、ちがうことと、どっちを見つけるのが楽しい?」

と聞いてみると、驚くべし、「個性尊重」を叫ぶ現代の文科省の役人、それから歴々の教育界に居並ぶ教育者、世の中のありとあらゆる指導者、おまけに教育委員会の人たちも全員が泣きそうな答えが返ってきた。

「え、同じことを見つけるのが楽しい」


だって。

なんで?


と、わたしゃ、全世界の親、そしてPTA、教育者を代表して質問してみました。

すると、

「だって、ちがうことばっかりなんだから、たまに同じことをみつけるのが楽しいじゃん」

だって。





私の頭は混乱し、そこでやっと、わたしの、

「個性」の認識が、少しずれていた

ということを知りました。

つまり、子どもというのは最初から一人ひとりちがい、存在が個性差そのものなので、たまに人と同じ共通項を見つける方が、むしろたいへんだ、ということです。

最初から十分すぎるほど個性的なので、これ以上、

「個性、個性、個性の尊重!」

と叫ばずとも、もう、大丈夫よ、ということらしい。





「同じ」とは、何だろうか。

昨日の自分は、今日の自分では、ない。

考えてみれば、同じ人間はいない。

互いに似せよう、似せようとして最大に努力したとしても、どうしても同じになれない、相容れないものを「個性」と言うのだろう。

授業をしていると、それがよく分かる。

いろんな意見が出る。

それぞれ、少しずつ、違いがある。



子どもたちは、違いがある、ところからスタートしているから、共通項を探すのだ。

意見を出し合っているうちに、なるほど、と思う部分があるから、お互いに共感しあうことができる。

だから、

「ああ、わかる、わかる」

と言ってもらえると、最高に嬉しいのだろう。

友の憂いを共に憂い、友の悲しみを共に悲しむ。

これがなけりゃ、人間、やってらんないよ。




そして、本当に、まったく、ぜんっぜん、理解ができない意見については、おそらく、「ふうん」で終わり。

可も不可もない。なにも生まれないけど、仕方がない。

しょせん、ちがう人間だもの。

「ふうん」で、いいよネ。


雪の影

「テレビが見られんけど、別にいい」

.
給食のときには、リラックスモード。
ふだん見ているテレビ番組のことや、ゲームのことなどが話題になります。

男子の声は・・・大きいなぁ。
ゲラゲラ笑ってる。
芸能人のことを、いろいろと批評している。
お笑いの人について、あれこれと。

女子は・・・

6年生だからか?
なんと、痩せる話をしている。
「正月は太るよ」
「いやだー」
「わたし、9月から太った~」



そんなこんなで、なかなか盛り上がる給食時間でありますが・・・

ふだん、なかなか元気が良くて人気もあるFくんが、テレビの話題になるとあまり話さなくなる。

気になってたんだけど・・・



そのFくんが、ある日、日記に書いてきた。

「今、たくさん読書をしています。ハリーポッターを最初の『賢者の石』からもう一度、ぜんぶ読み始めました。学校の図書館だけじゃなくて、土曜日に〇〇公民館で借りることが多いです」

わたしはその返信で、『読書の秋。今の時期は、テレビをちょっと我慢して本を読むのもいいね』、などと書いた。

すると、その、さらなる返信が書いてあり、

「今、お父さんが仕事から早く帰ってきて寝るので、テレビを見ていません」

と書いてあった。

そういえば。

Fくんのお父さんは、今までしていた仕事をやめて、しばらく家におられるということを以前、聞いたことがあった。仕事、というからには、新しい仕事を見つけられたのだろう。







先日、なにかのときに話すことがあって、

「お父さん、一生懸命に働いてらっしゃるんだね」

と話すと、

「夜帰ってきて、すぐに寝るから、居間でテレビを見ないようになった」

「そう。お父さん、お疲れなんだねえ」

と私が言うと、Fくんはちょっとまじめな顔になって、

「けっこう体力使う仕事だから」

と、つぶやくように言った。

わたしは冗談めかして

「先生も年齢(とし)かなー、腰痛いのがずっと続いてるけど・・・」

とか、ちょっとふざけてひとりごちていたら、

「ちょっと寝るのが早すぎるけどネ」

と、Fくん。


「でも、お母さんがテレビ見ないで、いっしょに本を読んでるから。テレビが見られんでも、別にいい」

Fくんの顔を見たら、とても大人の目をしてる。


わたしは、
子どもってのは、親の心を感じようとするんだなあ、

と思ったのでした。

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人生の方から、やってくる。

.
子どもも、大人も、いっしょ。
人生は、等しく、同じようにある。
同じスピードで、同じように、時はきざまれていく。

子どもが花を愛し、歩いているネコに興味を持つ。
大人も同じ。

てんとう虫がいたら、
「あ、テントウムシ!」と言うし、
うまい常夜鍋をおなか一杯食べたら、

「うまかった~」

というのも、いっしょ。
大人も子どもも、同じ『生』を生きている。


では、ちがう点はないのか。

ちがう点も、もちろんある。
経験値だ。
大人と子どもは、経験値が違う。

大人は子どもよりも、ずっと先を進んでいる、という感じがありますね。

ところが、
教師を続けていると、大人の経験など、まるでたいしたことがない、と感じるようになる。
子どもも大人も、まるで同じだ、という思いの方が、ますます、一方的に強まっていく。




子どもは、人生というのは、向うからやってくるものだ、と思っているのではないか?

まるでゲームのように。

ほら、あるでしょう。
ゲームセンターなんかで、道路が向うからつぎつぎと風景を変えながらやってくるサーキットゲームが。

運転席に乗り込むんだけど、その運転席が前に動くわけではない。
ゲームセンターの隅の壁際に、いつまでも停まっているわけ。
前に進んでいると思うのは、乗り込んだ人だけ。

マシンの横から客観的にその姿を見ている人からすると、

「あ、あの椅子に腰掛けた人、いそがしくハンドルを動かしているな」と見えるゲームね。

あー。

そうそう。そのゲームですよ。
思い出しました?

カーレース
 (↑ これはちょっと古いかな)

こんな感じかもしれない。
子どもの感じ方って。

子どもからすると、自分が進んでいるんじゃなくて、人生が向うからやってくる。


ところが、大人はちがう。
自分が切り開いて、進んできた、と思っている。
自分が選択して、道を選んで、さらにはからまった茨(いばら)や蔦(つた)の葉をよけながら、大きな石を避けながら、小川を飛び越えながら、自分こそが進んできた、という感覚がある。

だから、これからもずっと、前に進まなきゃいけない、と感じている。
次も、乗り越えていかなきゃ、よけていかなきゃ、と思っている。


そして、子どもに言う。

「人生と言うのは、イバラの道だ。四方八方に気を配って、怠りのないよう、勇気を出して進んでいくんだぞ」

 ↑ こう思っているから、それこそ大人ってのは、毎日大変な思いをして生きているわけ。



また、世の中の一方では、進むべき道が分からない、と悩んでいる人もいる。
自分には、やるべきことがわからない、いい道がない、どの道を進めばいいのか分からない、という。
そして、

「自分は停まっちゃった」

と思って、嘆いたり、みんなと比べて引け目を感じたり、する。



安心してください。

子どもは世界が違います。
人生の方が、向うからこちらに向かって、どんどんとやってくる。
進もうとしなくても、道に合わせてハンドルを動かしていけばいい。
ずーっと右に向かってハンドルを切ってみたり、ずーっと左に向かってハンドルを切ってみたり。
ただ、それだけ。


えーッ??
だったら、だったら、人生の意味は?
生きていくために必要な、生きる理由とは?




↑ ほらほら。
大人は、そこに「意味」や「理由」を探そうとするけど・・・。



1年生に、
「なんで生きてるの?」
と聞いてみると、かなりの確率で、哲学的な回答をするよ。
彼らには、理由が要らないのでしょうナ・・・。



姉妹学級で仲良くしている1年生の回答を、参考までに。

「なんで生きてるの?」

「えー・・・」
「生まれてきたからー」
「たのしいからー」

「なにがたのしいの」
「えー・・・」
「ぜんぶー」

大人のように、

なにか経験すると楽しい、

というのではないよ。
経験する前から、楽しい。

なにが楽しい、ということもなく、なにもないのに、最初から楽しい。
それが人間の世界。

このままではまずい、について

.
「このままではまずいと思うので、頑張りたい」

日記には、その子の思っていることの一部が見え隠れする。

単純に、がんばって〇〇できるようになりたい、ではないのです。

このままではまずいと思うので

が気になる。



今の社会は、『がんばって克服するのが大事、と思うことになっている文化』、なのでしょう。
だから、この文化で育つ子どもも、自然にそういう思考になる。

「できないと苦労する、苦労するからいけない
 〇〇してはいけない、〇〇しなければいけない
 今のままでいけない」


結局、今のままではいけないから、努力して克服する、と強く思うことが、
生きるモチベーション、ということになっている。
これは、教師など大人の側の常識。
みんな、克服、というモチベーションの持ち方以外に、意欲のわいた経験がない、ということかもしれない。教師にとっても、「人生は克服するのが大事」となってるのだから、子どももそうなる。

ただし、
問題が山積み⇒克服⇒達成感を感じる⇒問題を探す⇒(以下ループ)
これが人生ってことでOKなのか?


↑ これで死ぬ寸前に人生を振り返ったら、

「ああ、問題に対処してばかりだったなあ」

で終わりそうだ・・・。


克服するための音楽会、克服するための運動会、克服するための算数、克服するための読書、
克服する修学旅行、克服する跳び箱、克服する人間関係 ・・・


なぜ克服すべき、と思うのだろうか。
なぜ、この見方になっていくのだろうか。
そうとしか、見えてこないのは、なにかがおかしい?
スポーツだって、本来、克服するためのもの、ではないはずだが・・・。


そんなこといったって、いまだに人類は戦争をやっているじゃないか。
克服すべきことは、山のようにあるはずだ!だから『克服』!!

↑ 
人生の動機が「問題の克服」、となってる。「克服」しなきゃならん、というメンタルだから、克服できない、というパラドックス。

克服、という言葉を人類が使わないようになる世界を想像できれば(イマジン)、
問題は、そもそもまったく違うものになっていると思う。


目的は子ども5

子育てのコツの中のコツ

.
これは子育てのコツの中のコツ。

人間社会では、どうしても年下がひいきされます。それが人情です。
大人が「かわいい」と思って関心を持ち、つきあってやり、話を聞いてやるとき、優先されがちなのは年下の子の方です。

まあ、それが当然で、人はもっとも小さなもの、かよわいものについて、親愛の情が湧くように、元来生まれついているのでありましょう。べつに悪いことではありません。
しかし、兄や姉はつらいでしょうね。
目の前で、自分以外に大事にされているものがある。どんな心持ちでしょうか。

子育ての大事な心構えは、兄や姉として生まれついた子たちの気持ちを想像してやることです。兄や姉が、弟や妹に対して、どのような感情を持っているのかを想像すれば、彼らの行動の裏にあるものが理解しやすいと思います。

子どもは、嫉妬の感情をあまり整理できていません。なぜかわからないが、むしょうに弟や妹にキツくなってしまうので、感情が混線している子もいます。
実は親の方は、年下をひいきをしているとは思っていません。だって、兄や姉については、十分手を尽くしてきたのですから!親からしたら、「お兄ちゃんはもう十分世話をした」と思いがちなのです。(多くの人は、これが落とし穴なんでしょう。)

兄や姉の立場の子は、どうしても一番幼い妹や弟の成長だけが家族の話題になりがちだと感じているのです。親としては、バランスをとっているつもりでも、実際の視線はどちらかというと、常に幼い子の心配に向けられがちです。玄関で靴を履く姿を見守るのも、外で何かをしている姿でも、親がじっと見守るのは、幼い子の方なのです。

兄や姉は、ちゃんと理解していますよ。親が弟や妹を心配する視線、その意味についても・・・。幼い子の方が心配だということも頭では分かるのです。親の行動が正しい、ということも知っています。

それでも、気持ちの中で、嫉妬の感情が静かに湧いてくるのです。
目の前で、親の「弟への関心の強さ」を見せられて、声にならない声で、「自分のことも、もっとみてほしい」と願うのは、自然の成り行きなのでありましょう。
親はどうするべきでしょうか。

夕ご飯のリクエストがあれば、年下でなく兄や姉の言い分こそ、たっぷりと聞き、十分に強く反応してあげることです。関心の大きさを態度や声に表して、年長のあなたこそたよりになるのよ、相談したいのよ、年長のあなただからこそ、夕ご飯のリクエストを聞いてあげたいと思うことです。

親は、万事、兄や姉への関心を強く持ち続けるのです。
それを感じとって、弟や妹が対抗しようとあれこれとやらかしますが譲りません。

「お兄ちゃんばっかり、ずるい」
と弟がダダをこねた時がチャンスです。
兄を大事にする理由を、しっかり諭して話すのです。

「あなたは気づいていないかもしれないけど、弟であるあなたのことを、お兄ちゃんはうんと心配してくれている。困ったときは助けようとしてくれているよ。お母さんは、それがちゃんとわかっている。だからうちでは、お兄ちゃんを大事にするんだよ」

最後に、
「お兄ちゃんに譲れたら、お母さんがあとで絵本読んであげるからね」
これで、おしまい。

どうです?やりすぎだと思いますか?
たぶん、このくらいやらないと、バランスがとれません。
このくらい、意識してやっていて、ちょうどトントン、といったところでしょうか・・・。

また、もし兄や姉が、弟や妹にチャンスを譲ったり、見守ってくれたりしている場面を見つけたら、そのことを弟や妹にも、教えます。あなたは兄や姉から大事にされているのよ、ということです。そしてそのあと、そんな兄や姉がとても好きだし、大事だよ、ということを親の口から、ちゃんと本人に声に出して伝えるのです。

そして・・・。

一番に親自身が、自身の嫉妬感情を整理することです。
実は、↑ これに尽きる。


自身の人間理解を深めると子育ては楽になるのですし、生きること自体が楽になります。(ただし、嫉妬は悪いことではないですよ、くれぐれも反省しておしまい、というだけにはしないようにしましょう!)



(教育機関誌連載コラムより抜粋)
黒菱ペアリフト遠景

小5の夏は・・・

.
たまたま名古屋まで所用で出かけた。

名古屋駅前はいつも通りで、直射日光と湿度がアスファルトを異様なまでに蒸すため陽炎がたち、10m先を歩く人の後ろ姿が、揺らめいて見える。

多治見市ではついに40度を超えたらしく、名古屋でもできるだけ日陰を選んで歩かないと、命がアブナイ、という感じ。


さて、そんな名古屋からJRで移動するさなかに、予備校の広告が見えたが、ある予備校は小学生のための夏季講習をしているようで、

「小6の夏は、天王山!」

という文字が見えた。

中学受験をするか、しないか。
あるいは、クラブや習い事をしている子は、ここでやめるか、続けるか。
いろんな選択がこの夏にあるわけで、たしかにこの予備校がいう、「天下分け目」が小6の夏だというのは、当たっているかもしれない。


そんなことを思いながら見ると、夏季講習の文字が窓にべったりと貼られたその予備校のビルが、なんだか巨大な山のように見えてくる。おそらく、あのビルの中では、クーラーの効いた部屋で鉢巻しめて算数の難題に取り組んでいる6年生がいるのだろう。


JRでいくつかの駅を通り過ぎ、乗り換えのために、とある駅のホームに降りた。
ベンチで座ろうとしたが混んでいる。
仕方がないので、所在無げにぶらぶら歩いた。
ふと見ると、面白そうなチラシが目についた。
コンコースの一部にJRの旅行代理店がチラシを置いているのだ。

そこには、夏休みの家族旅行を推奨する文面があり、

「小5の夏は、返ってこない!」

とある。

そして、いかにもという子が海岸で真っ黒に日焼けして、砂浜をバックに白い歯をみせて叫んでいる。


なぜ、小5なのか?語呂がいいから?

いや、それより、

こりゃあ、おそらく、予備校と裏で、話を合わせているんじゃないですか?

小5⇒思い切り海で遊べ!
小6⇒はちまき絞めて算数を解け!


どうも世間はこう呼びかけているようで・・・


大きなお世話です!!



うちは、昆虫合宿なんで!!

七夕さまに「お願い!」

.
7月7日。

今日は、七夕さま。

各クラスで子どもたちはお願いを書いてる。

給食のときに、1年生の教室近くを通ったら、笹の枝が設置してあった。

子どもたちの「お願い」が、さっそく飾ってあります。





クリスマスが はやくきますように
ばば なおたか


廊下にはカブトムシの飼育ケースが置いてあり、

窓の外からは、セミの声。

給食には、スイカが出た。

季節は、いよいよ夏本番を迎える。

仮面ライダー

    雨上がりの朝、仮面ライダーの子どもが飛び出してきた。↑

不安がない、ということ

.
不安があるかないか。

このことが、何をするのでも、本当に大きなこと。




人には、なにをするのでも、どんなことをしようとするときにでも、

なぜ、それをするのか、という動機がある。

いろいろな動機があるのだけれど、

中には、不安を消そう、ということが動機となる場合がある。

この場合、不思議なことに、行動しても不安が消えない。

不安を解消しようとして行動するのに、行動したあとにも、不安はある。

回避はしたが、解消は、していないからだ。




さいしょから、不安がない、という状態でスタートしていれば、どうか。

前提として、怖れているものが無いので、

行動の途中でも、怖れはでてこないし、

行動の結果がどうであれ、

たとえ期待する結果にならずとも、

結果に動揺したり、不安が出現したり、ということにはならないのです。





つまり、不安のない状態であれば、強迫的に何かをやる必要がない。

やればやったで、やったことすべてが利益になる。

これが、安心の一番底。

安定、崩れようのない、安心にいる、ということ。




お出かけする場合も、友達に会いに行く場合も、

不安があるから行くのか、どうか。

自分に不安があるのかどうか、不安を消したがっている自分かどうか。




不安をなくすには、不安の正体を調べるしかないと思う。

人に対しての不安や怖れ。

特に肉親、親へのものを調べると、とてもよく分かる。

子どもの頃からの、根強いものだしね。

親との関係を調べるのは、とくに効き目ある。

総じて、自分を知る、ということ。


授業でも、親は大活躍。

道徳の人権教育で、一番深まるのが、親のことだ。

何でだろう、と常々思っていたけど、当然だよね。親だもの。一番近い。

みんな、本気で考えようとするからかもね。



親が好き。
尊敬してる。
産んでくれてありがたい。
このお母さんで良かった。
感謝してる。

ところが、受けいれられないときがあって。
ここが肝心。



親の言うことやすることに腹が立たなくなって、
親にどう思われるか等が気になることもなく、
自分についての他人の評価等の意味についてもそのメカニズムが分かり、
人と人の間柄が整理できると、(ここまで考えようとする人は稀)


完全な安心、完全な自由を満喫して、

心の底の底から、満たされた状態になる。

こうなると、何も要らなくなる。

もしかしたら、読書も宗教も、要らなくなるのかも。不安を解消する手段としては・・・。






すべての行為・考えを、

『不安のない状態』

そこからスタートしたい。



え? そんなん、無理?

無理と決めないで!
今の考えだと無理に見えても、ネ。
たとえ、今は、そう見える、ということであっても・・・。




大人は、よく思い出してみよう。

幼い子ほど、満たされてる。



二度手間かけてる時間が惜しいと思う人は、特に。

虫の名前はすべて子ども会議で決める

嫉妬はよくない?

.
嫉妬、というものについて、とことん突き詰めて考えてみよう、ということ。

考えるといっても、1週間や2週間かけて、という程度ではない、数年かけても、とことん追求してみる、という覚悟。

どこかの他人の嫉妬ではなく、自分自身の。

まぎれもなく、自分の心のうちの出来事を。




嫉妬はよくないものだ、という子、多い。

反省口調が手馴れれてしまっている、どちらかというと「いい子」たちに多い。

道徳でも、最初から反省口調。

そこから残念なことに、深まりがない、というか、進まない。

こう言えばOKだよね、先生、これでいいんでしょ、

先生、反省してほしいんでしょ?


という雰囲気がする。




嫉妬がよくない、というところから脱するの、大変なことだ。

嫉妬をそのまま、しっかりと見つめる、というふうにまで、なかなか、ならない。

心の動き、微妙な理屈、屁理屈、自分を納得させようとする言葉の数々・・・。

それらを捨てて、なぜか、なぜ嫉妬するのか、なぜこれだけの心の動揺が、自分を襲ってくるのか、なぜか、と追究していこうとする、ということ。


嫉妬が、プラスだ、マイナスだ、とか、・・・そんな程度でどうこう言っているところから、脱することができると、ようやく知的に考え始めた、頭が動き始めた、という感じがする。

本当のところ、実際のところ、自分の心を追究しはじめる、というわくわくした思い、楽しみ、知的探究心、好奇心によって・・・。

なぜ、嫉妬する?

自分は、なぜ、嫉妬しているの?

嫉妬の内訳、中身、実態、実質、本質、原理、中で動いているもの、中身に働きかけるもの、とは。



でも、ほとんどの頭の固い高学年となると、
はい!先生!!

嫉妬は良くないです!!

と言って、それで思考停止。




それじゃ、なにも明らかにならない。

で、どうするか。

ヤマナラシの木

鳥のたまご、みっけた。

.
「先生、たまご見っけた」

机の上にのせたのは、白い小さなウズラくらいの卵。

学校の隣の林の中でみつけたそうな。

「落ちてたの」

なるほど。



わたしは、まったく動じず、その子の顔を見る。

なにかが書いてある。

「これを教室で飼うわ」

と書いてある。



わたしは、ゆっくりと尋ねる。
机の上に山と積まれた、宿題のプリントを整えながら、訊く。

「なんのたまごじゃろうね」

「知らない」

「とり?」

「たぶん、とり。巣から落っこちたのかなー」



まだ、彼女は、飼うと言い出さない。

それで、わたしはつづけて、

「じゃ、たまごを、もとの巣に戻すか。じゃないと死んじゃうかもね」

すると、真剣な目つきで

「私が飼う。いい?」



このとき、教師はどういう返答をするのかで、このあとの動きが変わってきますね。

とても、迷います。


みなさんなら、また気の利いた返しをされることでしょう!


わたしは、こうでした。↓



「ひとりで?」

01-p

いろんなふうに、考えられる、という件

.
いろいろと考えるのが、面白い。

ああだ、こうだ、と考えを言い合うのが、面白い。

教科書と合っているかどうかが大事なのではなく、

俺たちは、こんなふうにも、考えることができたのだ、という自負。





瓶(びん)の中で、ろうそくの火を燃やし、蓋をしたら、しだいに炎が小さくなり、30秒ほどで消えてしまった。

これを、

「どういうことが起きたのか?」

「明らかになったことは何で、明らかになっていないことは何か?」


というように、討論していくと、面白いことがわかる。



1) 「なにが起きたのか」を、説明するだけで、さまざまな見解が出てくる。

2) 明らかになったことは、ほとんどない。たった一つ、火が消えた、ということだけだ。

3) 逆に、まだ明らかになっていないことが、膨大に見つかる。



実験したんだから、結果が分かったはずで、なにかが明らかになったはず

そう考える人が、ほとんどだろう。


ある実験をやってみた。

明らかになったこと ⇒ 増えた。

不明だったこと ⇒ 減った。


それが、科学的思考ってものだ。


ところが。


やってみると、ちがうのだ。

子どもたちから出てくるのは、疑問点と、いまだ明らかにならない事実ばかり。

そもそも、いったい何が起きたのか、という点でさえ、いろんな意見が出てくるのだ。

理科は、やればやるほど、分からなくなる教科なのであった。




Aさんの意見。
火が消えたわけは、酸素がふたの隙間から、上空へと軽くなって上がっていったため。
酸素の変化001


Bさんの意見。
火が消えたわけは、酸素が水蒸気に変わってしまったため。
酸素は水蒸気になったと思う



いろんなふうに、考える。

で、今のところ、すべて、それらはあくまでも「考え」であって、

「事実」ではない、という、宙ぶらりんな感じ。




同じように、

人間とは何か、相手を理解するとは何か、という点をしらべていくと、
確かなことがスーッと消えたように見えなくなる。

気軽に頼っているところの知識や見解というものが、あやふやなものに思えてくる。
あれほど確かだと思えたものは、みな、正体不明のもやもやした実体のないもの。

どうやら確かなのは、

「〇〇したい」

と思っている自分、というだけだ。

相手のことなんて、ちっとも、分からない。

悪循環から、抜け出すもの

.
前回からの、つづきです。


こういうことを、つらつらと考えているうちに、学級でいろんな揉め事が起きる。


子ども同士で、相手を変えようとして頑張っていることがある。

大抵、正義ヅラして、相手の行動を非難する子がいるので、話を聞きます。

すると、なぜ相手が悪いか、という話しばっかりする。

長いから、

「で、きみは、どうしたいの」

というと、黙っているから、

「じゃ、◯◯くんに、どうしてほしかったの」

と助け舟を出すと、

「ねんどをさわってほしくなかった」

という。

「ぼくのねんどを、大事にして欲しかったのね」

確認すると、うなずいて、そうだ、そうだ、という。

「ねんどもそうだけど、◯◯くんに、もっとやさしくしてほしいのね」

というと、確信的にうなずきます。



で、やさしくしてくれない、と思うから、苦しかったんだね。

なんで、ぼくにやさしくしてくれないんだ、となった。

そう思うと、なおさら、苦しい。



で、苦しいのは、相手のせいだと思うから、ますます苦しくなる。

苦しいからなおまた、相手を変えたくなって、なおのこと、苦しくなる。


悪循環。

この、悪循環から、抜け出すものはなにか。



さらに、つづく。


子どもとは

人間は、そうやって、最初から、生まれついている

.
前回からの、つづきです。



人の怒りが向いているのは、相手の方向ではない。
相手に、向けられているのではない。


なぜ、相手に対してではないか。






実は、人間は、相手の真意がよくわかったり、見えてきたりした瞬間、スッと怒りが溶けてしまう、ということがあるでしょう。

あっ、と思った瞬間、憑き物のような怒りが、姿を消してしまう。


・・・ということは・・・

つまり、相手が憎いのではないのね。

こっちが、そこまでして 「相手との間に、関係をむすびたがっている」状態だけど、

相手に関係なく、自分の側の話、というだけね。


相手は無関係。

あくまでもこっちサイドで、

こっちが、
「小人のいうことがスッと聴けなかった」
だけだ。




本当は、ひとは、

相手に対して、
怒っているわけじゃ、
ない。





これ、人の心がそうなってる。

ということは、

人間の心が、そうと教えてくれてるとしか、思えないの。

それを教えてくれる、ひとの心の中の作用。

自分の心の中の、働き。



心は、そうやって、
作用するように、なってるようだ。

どうやら、人間は、最初から、そのように生まれついている、ようで・・・。



つづく。

冬を越したヒメオドリコ2

運動会のグランドの釘のこと

.
人間である子どもたちを、

世間に引き寄せようとする。


そのことに、わたくしは、虚しささえ感じる。




逆に、自分の方が引き寄せられてしまう。

世間の枠からはみ出て、子どもたちが住む、

世間の価値とはズレた場所へと


誘い込まれてしまう。



ここに、ある意味、面白みを感じ、ある意味、厄介さを感じ、その狭間で、考え、考え、しながら過ごしてきたのが、これまでの約十年間の歩みだったと言えるのではないか。



とうとう、わたくしは、ついに、「世間知らず」と呼ばれても、平気だ、と、思うようになった。

(その代わり、「人間知らず」と呼ばれたくはない、と強く思いますネ)


さて、わたしくは教師として、堕落しているのでしょうか。

「世間」と「人間」。
どちらに軸足を置いたら、いいのでしょう。






運動会で、

「勝つぞ!オーッ」


とは思わない子が小学校にはとても多いのですが、運動会の感想文に、

「勝ってうれしかったです」

と教科書通り、大人の期待通りに書く子は多いのです。

しかし見ていると、どうもそれは本心ではない。

どうやら、そう書くものだと思って書いているだけのような気がします。



教師から見ると、感想文に、どうも期待外れのことを書く子がいる。

ある子は、運動会のグランドに、先生たちが長い釘(グランド用の鉄ピン)でしるしをつけたのを見て、そのことばかり、書いた。


「わたしは赤組で、赤組を応援しました。」
「赤が勝ったので、嬉しかったです」


そうも書いているから、そういう気持ちもあったんだろうけど、それよりも・・・

「運動会で、わたしは先生たちがつけていたピンク色のリボンのついたしるしのところを、こっちゃんといっしょにたくさん見つけて歩きました。きゅうけい時間にかぞえたら、48本ありました。2年生はピンクで、3年生はみどりと青でした。3年生は、みどりのところで、台風の目のリレーをやりました。4年生はき色のところでソーラン節をおどりました。わたしはいちばん多いのはなに色かなと思ってしらべたいなと思いました。赤が勝ったのでうれしかったです」

だって。



いや、いい作文ですよ、
たしかに、いいんだけど・・・。



作文としては、どうなんだろう。

ことに運動会の作文としては・・・。

なんで、自分が出場した競技のことを書かないのか!

赤が負けそうになったときに、ちくしょう!負けるものか!とテンションが上がった時のことを書かないのか!!

と思う先生もいるのだろうと思う。



でも、そういう指導に、だんだんと、違和感が出てきちゃった、というのが、現在です。

(つづく)
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目の無いネコの話

.
「先生、目の無いネコがいるよ」

子どもから、時折、とんでもないことを知らされることがある。

学校にいるのではなく、登下校中の美容室の駐車場にいるのだそうだ。

世の中はシリアなど中東のことや、テロの話、ドイツとフランスの蜜月などの政治的な話題に加え、R-1グランプリ、寒波強風の自然災害、その他で話題は尽きない。


しかし子どもたちにとってのもっとも身近でビッグな話題は、登下校中の不思議な出来事である。

「知ってる。子ネコでしょう。両方とも目がないんだよね」


子どもたちの情報密度は高い。


ネコは、木にぶつからないで歩くらしい。
ある子が、自分が見た事例の報告をしてくれた。

美容院から中学校の校庭まで、よく歩いている。
校庭の植え込みのところで見た、という子が何人かいた。
地面が続いているから、事故にも遭わないし、たぶん大丈夫なのだろう、ということだった。



「目がないのに、ふつうに歩いているよ」
「不思議なことだねえ」



ネコについて、わたしが聞いている限り、

〇かわいそう
〇気持ち悪い


という感想は、子どもたちからは聞かれなかった。
かわいそう、気持ち悪い・・・。これで、コトを済ませようとする簡単な言及の仕方は、あまりリアルじゃないからかもしれないね。だって、目の前で生きて歩いているのを、大部分の児童が見ているんだから。もう、自分とそのネコの関わりがあるんだから、そんな安易な言及の仕方にはならないんだろう。

・・・

「美容室の人が、餌あげてるんだって」

帰りの会が終わって、帰る間際になって、もう一度、ネコのことを子どもが話してきた。
その子は、新間先生がネコを気にしているから、教えてあげよう、と思っていたのだろう。
その子の言葉の、「~なんだって」、という語尾から、伝聞情報だということが分かった。
ということは、この子も、誰かからそのことを、聞いたんだ。
彼女も、そのネコがきちんと餌を食べているかどうか、気になったんだろうな。
もしかしたら、この子だけじゃないかもしれない。
ネコの食事のことを、多くの子どもが気にしていた、という背景があるのかも。


その後、
〇ネコには親がいること、
〇その親が、黒猫であることなど、
大人が知らなかったような情報が、子どもたちの間ではきちんと共有されていることが分かった。

こんなこと、マスコミは取り上げないし、大人も話題にしないし、職員室でも誰も言及しないから、ちっとも知りませんでした。でも、子どもたちは、かなり大きなニュースとして、YAHOOニュースの見出しなんかよりもずっと身近なニュースとして、きちんと把握し、なにごとかをそこから感じ取っていたわけで・・・。


世の中、知らないことの方が、多いな。


写真は、雪のトラ。

虎雪

せっかくうまくいったのに。

.
たまに、低学年の教室をのぞくことがある。
熱を出して休まれた先生がいて、急きょ、わたしが朝の様子を見に行くことになった。

教室まで行くと、なんだかワイワイ騒いでいる。
無理もない。
いつもはいるはずの先生がおらず、見張っている人もいないので、しゃべったり立ち歩いたりしてる。
わたしが前のとびらを開けると、びっくりした目がいっせいにこっちを見た。

何も言わないのに、静かに席に着く。
そして、なんだか慌てて、本を出して読んだり、ノートを出したりする。
こちらをチラチラ見て、

(あの先生、5年生の先生だよ)

ナイショばなしの声で、力強く、わたしのことを言ってる。

今は、朝の学習の時間。
何も言わないのに、ほとんどの子が席に着き、すぐに学習を始めたので、私は少し拍子抜けした。

どうも、子どもというのは面白いものだ。
高学年の先生たちのことを、なんだか怖い先生だと思っているようで・・・。
私がそばを歩くと、緊張した面持ちで、みんな勉強をするふりをする。

面白い。

目の前の男の子が、漢字をたくさん書いたページを出して、澄まして字を書いていたので、

「すごいねえ。漢字たくさん書いてるねえ」

と声をかけると、男の子は、にんまり、した。


私は、字もきれいだし、なかなかやるじゃないか、と思って、この子にもう一度、

「すごいよね。朝からもうこんなに書いたの!!」

とびっくりすると、彼は、さらに、さらに、にんまりし、笑みを浮かべて、まるで大黒様のような表情になった。




すると、隣に座っていた、目のくりくりした小さな女の子が、かわいい声で指さし、

「ここ、まえに、かいたところだよ」

って。


わたしは、黙って男の子を見た。
彼の顔は今度は、口を一文字にむすんでおりました。
そして、黒板の上の方をみて、目をパチパチしておりました。



せっかくうまくいった、と思ったのにねえ・・・。

ninnmari

【デザートづくり】やんちゃくんが何をもってくるか

.
お楽しみ会をしまーす。

今回は、待ちに待った、デザート・クッキング大会!

家庭科室をお借りして、みんなでデザートクッキングとしゃれこもう!!


・・・

で、本日、事前の打ち合わせをやったのですが・・・。


一応、全員が何かしら材料を持って来よう、ということになった。
〇だれが、何を持ってくるか。

これはとても興味のわく決め事であります。

「ぼく、トマトもってくる」
「じゃ、チーズ、わたしもってくるね」


ま、こんなふうに話し合っております。
いったい何をつくるのでしょう・・・。


私はどの班の様子も見に行ったが、ある班でふと足をとめた。
なにやら、とても紛糾している様子。


「どしたの?」
「ねえ、先生。聞いてよ。Tくん、何持ってきたらいいか決まらないー」


Tくんは、どうもやんちゃの風がある子で、女子にとても警戒されている。
つまり、せっかく持参した材料を、登校中、あるいは学校に着いてから、Tくんが食べちゃうんじゃないかと心配されているのだ。

この班はクレープを作りたかったようだが、中に入れるフルーツを持ってくる、とTくんは頑張って主張していた。

Tくんが
「みかんの缶詰もってくる」
というと、
「缶切りで開けて、朝、食べちゃうんじゃない?」
と女子。

女子が本気で心配していることも笑えるが、肝心のTくんが、それを否定しないから話がややこしくなってる。

「うーん、おれ、食べるかもよ」
「じゃ、ダメ!!」


女子、からかわれていることが、分からない・・・らしい。


女子がキャーキャー言うこと自体が、この年代の男子には、とてつもない快感になるのだ。
それが分からないので、話がいっこうに進まない。

わたしは同じ班の男子が、何とかするだろう、と思った。
まあまあ、Tくんは口ではそう言ってるけど、大丈夫だから、てな感じで、とりなすだろうと思った。


だが、しかし。

驚いたことに、同じ班の男子を見ると、その男子も女子同様(!)、心配しているらしいのだ。
なんとまあ・・・。


見ると、おとなしくて優しい性格のWくんが、

「な、頼む、Tくん、サツマイモにして!」

と頼んでいる。

サツマイモなら、Tくんが登校中に食っちゃう、ということもあるまい。

女子もそれにならって、

「そうそう!おいもにして!!」




Tくんは、この騒ぎが収まるのが惜しいらしく、

「いや、家にちょうどチーズがあるから、チーズがいい」

Wくんと女子は、額をつきあわせて、「どうする?」とひそひそ。

黒髪の長いリーダー格のKちゃんが心配そうに、

「・・・ねえ、チーズ、来る途中で、食べない?」

と尋ねるも、Tくん、何食わぬ顔で、

「食べるかも」
「エーッ!!」




わたしは、のんびり待つ。

結局、Tくんはタイムアップまでに、さつまいも担当におさまっておりました。


あとの休み時間中、なんだか一仕事やり終えた感の強いWくんに、

「よかったねえ。Tくん、さつまいもで納得してたみたいで」

と聞いてみると、

「いや、先生・・・」

Wくん、あたりをちょっと見まわしてから、

「心配だから、オレも一応、家からイモ、もってきとくわ」


小さな声で言ったのでした。

(いや、イモは食わんやろ)とわたしは思ったのですが。



Tくんみたいな子は、こうやって友達思いの子たちに、うま~く囲まれて、人生をおくっていけるような気がします。

Tくんの屈託のない笑顔は、とびきりですからね。
みんな、そういう笑顔が、大好きなんですからな。
boku

「素」でいることのメンタルパワー

.
今年一年の振り返り、その1。


久しぶり、高学年の担任となって、まずは授業が面白かった。

あれやこれや、けっこう難しいことをやっても、話し合える楽しさ。

もうすっかり、クラスを良くしよう、というの、無くなったなあ。

何もしなくても、十分に、いいクラスになるね。

子どもは、もう、集まっているだけで、たのしい。

( ↑これには、賛同する先生、多いと思う。)

鍛える、という発想も、なくなっちゃった。

課題を示して、どう?というだけで。

みんな、やりたがるし、やれるようになる。

だって、心では、みんな、やれるようになりたいもの。

今年も、うんと楽しかった。

クラスのすべてが、微笑ましく思える。

結局は、このことに尽きるね。



【嫌う・否定】の正体が明らかになれば。

親でも誰でも、子どもの【好き】のパワー、

混じりっ気のない、素の気持ちと同じになって、

子どもの世界に浸ることができる。


曇り、なし。

無理、なし。

これが一番、メンタルパワーにつながるな。

縄文時代22

【小学生の心理学】なぜテンション下がるの?


ある女の子が、実に不思議そうに、

「なんで、だれかを【嫌い】になると、テンション下がるのかねぇ?」

と言ったことがある。

これまで、好き、嫌い、怒り、腹立ち、など、何だろう、どうしてだろう、考えてきた経緯があるからか。

実際、ここまで考えているのは、クラスでもほんの一部。半分以上の子は、

そんなの、当たり前じゃん・・・

で、済ませている。


この子、よくそこまで、考えるなー、と思うね。
怒る、腹を立てる、寂しくなる、嫌う、考えてみれば、どれも、なぜか、テンションが下がることばかりだ。

何故、テンションは下がるのか!?


この、テンションが下がる、ということが、万人に共通に現れる心理現象なのであれば、これこそが

人間らしさ

の原点なんじゃないか、と思う。

だけど、今の学校では、そうした人間らしさについての共通理解がないまま、「人間とは何か」の教育を、しているつもりになってる。
それでいて、良き人間関係を構築しよう、と力んでいるのだから、何か、ずいぶん遠回りしているような気がする。

幸福?

Chinaの国のネズミーランド

.
中華人民共和国に、もう5,6年くらい前になるか、
ある遊園地ができた。

なんだかネズミの着ぐるみとか、服を着た犬とかあひるの着ぐるみがうろうろしていて、なんだか見る人によっては、

「ディズニーランドのパクリじゃねえか」

と思えたらしい。

で、アメリカ当局やディズニー本社などが抗議した結果、このキャラクターやアトラクションは中国当局によって変更されることになった。

ここまでが、当時のニュースであった。



ところで、金のことを一切考えないとなれば、こういう遊園地が世界中にできる、ということは、ディズニーさんにとってはとても名誉であり、楽しみに思えることではないだろうか。

利権だとか版権だとか商標登録だとかグッズ販売などがすべてそこに入り込んでくるから、

「ちょっと、まった」

と言いたくなるのだけど、

もしも、純粋に、本当に、お金のことは一切、無関係、ということであれば、


「ああ、世界中のいたるところにミッキーが活躍してくれている。人々を楽しませてくれている。ありがたいことだなあ」


って思うんじゃないのかなあ。

ディズニーさんの本音は。


どうだろうね。

(こういうことを、道徳の時間に子どもたちといっしょに、考えるようにしないと)


「いじめ」の一つのパターン、

あいつ、おれのマネしやがって。

というのがある。

これを、いじめ初期微動パターンのうちの一つ、『マネされ訴訟』という。

『マネされ訴訟』を放置しておくと、いじめ、になる。

「ねえねえ、A子、P子ったら、わたしのマネばっかするんだよっ!」

「えーひどい。なにそれ」

「ほら、わたしと同じシャーペン。私が先に持ってたのにィ~」

「ほんとだ~。ぜったいそれ、マネされてるよッ!P子、ありえないよ、あいつ!」


こうやって、一日ずつ、少しずつ、P子を非難する仲間を増やしていく。
いじめは、まずは安易に同調する仲間づくりから始まるのが常の作戦である。
決して一人だけで、言いたいことを相手に伝えていく正攻法をすることはない。
それは、交渉、であり、話し合い、ということになるから、いじめにならないのだ。
いじめになるのは、安易に同調する取り巻きをたくさんつくる、という状況づくりがあるかどうか、だ。

で、どうしても、マネは許されるべきか許されないか、ということが、小学校の教室では大問題になっていくのであります。

でも、世の中、大人の世界は、マネは許されない、という世界だから、どうしても小学校の教室でも、「マネはいけない」ということになりがちである。(道徳的解釈と法解釈と人権的配慮などすべて混在するテーマを分けて考えることになる)

これが、いじめ発生の伏線、温床となるから、先生たちは神経をとがらせるわけだ。

大人の世界と子どもの世界、ここらが、狭間というか、くいちがう部分と言うか、相いれないところなんですよねえ・・・。

小学校教員は、毎日こういうことに接しているから、性格が屈折してくるのではないだろうか。
そうならないように、混線しないようにしないと・・・。(小学校の教室、学級は、大人の勝手に作り出した虚像の民主主義とはちがう運営でなければ子どもが納得しない、ということネ)


つまり、子どもは、大人社会は、ほぼ完ぺきに近いシステム、機構、になっている、と思い込んでいるが、

現状は、ナショナリズムや民主主義をはじめとして、すべての社会機構がまったく人間向きで完璧というわけではないからだ。

縄文時代13




はんぶんおりたところ A・A・ミルン

.
休み時間は、いちばん大事な時間。
その子の素顔が出てくる。

職員室へ行く道すがらに、校庭を眺めている先生や、子どもに話しかけている先生がいます。
ふと見ると、校庭へ出ていく若い男性の先生が。

「えー!ひろきくんが鬼って言ってたぞ!」

大声で子どもの名前を呼びながら、急いでくつを履いています。
その先生ご自身も、休み時間が楽しくてしょうがないのでしょう。ハハハ。

子どもだけでなく、先生の素顔だって、休み時間に見えてくる。


みんな、校庭や中庭、広場の方へ遊びに行くので、教室はがらーん。
なにげなく見ていたら、2階の教室の窓際の隅に、一人の子が立っていました。
窓のそばの、エレクトーンのふたを開けたまま、窓の外を見下ろしています。
弾こうともせず、鍵盤に指を置いたまま、下の校庭を眺めている。

何もすることがない、という感じ。
視線の先には、大勢の子たちが遊んでる。

わたしは遊ばないけど、見ていたい。
なにか、今日は、そんな気分なんでしょうな。


かいだんをはんぶんおりたところに
ぼくがいつもすわるだんが ある


こう書いたのは、『くまのプーさん』で知られるスコットランド人、A・A・ミルンです。
上の詩は、ミルンが息子のためにつくった『クリストファー・ロビンのうた』の中に入っています。
「子どもべや」から出たものの、まだ「どこ」へ行くとも決められない自分。
いさぎよく「まち」へと出ていくほどの自立力もなく、お母さんやお父さんもそれぞれ<なにか>をしていて、自分はいったいどうすれば、と宙ぶらりんのデリケートな気持ち。
そんな、かすかな、目の前の空気と同化してしまうほどの気持ち。
だから、「かいだんをはんぶんおりたところ」、なのでしょう。

かいだんのどのだんにも
このだんと そっくりなだんはない
ぼくはいちばん下のだんには すわらない
いちばん上のだんにも すわらない
だからこのだんが
ぼくのいつも やすむ だんクリストファー・ロビン
かいだんをはんぶんのぼったところに
二かいでもない 一かいでもないところがある
そんなところは子どもべやにもないし
まちのなかにもない
そこにいるといろんなかんがえが
ぼくのあたまをかけめぐる

『ここはぜったいに どこでも ない!
 ここはどこにもないところで ある!』

自分が本当に、心のやすらぎを覚える場所は、いったいどこだろう。
心底の、やすらぎを覚える場所は。


いろいろな、とりとめのない考えが、自由に頭の中をかけめぐるようになる場所は。



教室から見下ろした校庭には、谷川の水のように澄んだ、低学年の声が響いている。

うち、美容師になって、幸せになる!

.
「やりたいこと、願っていることがある」

なーんて胸を張っても。

そのやりたいこと、自分がやりたいことなんかではなく、他の人の希望だったり、マスコミが言ってるから、だったりすること、よくある。

その「夢」、本当に自分のもの?

一生続くもの?

↑ こういうこと、よく考える。



子どもたちの会話に、出てくるもの。

「ぼく、わたしの夢とは」

以下。
レストランの店長だとか、IT企業を創りたいとか、医者になるとか。
国連の職員なんてのもいた。あとは身近な感じで、ケーキ屋、パンや、美容師さん。
具体的なのは、「TOYOTAに入社」だって。

ま、いいか。TOYOTAの自動車工場見学をしているからね。
「自動車工場こそが、日本の誇りだ。外貨を稼ぐ、稼ぎ頭だ!!」
・・・と、社会科で習ったんだから。


ところで、それって、職業だな。

夢って、職業のことだっけ?

道徳の資料に、「夢」を語る、というのがあるから、みんな、言うんだけど、
ほぼ全員、職業を言う。


で、思うんだけど、べつにこの子たち、くわしいキャリア教育を受けてきたわけでもないのに、
すらすらと、職業名を言うんだけど、どういうこと?

どこかで、そういう情報をインプットしたんだろうが、いったいどこで?

だれが、いつ、どうやって、この子たちの脳内に、

「○○という職業は、すばらしい」

ということを、注入したのか?



わかった。質問が悪かったんだろうな。

「大きくなったら、どんなことをやりたいのか」

という質問自体が悪かったんだ。

「この人生をどうしていきたいか、どんな一生を送りたいか」

まずは、こっちを聞くべきだったんだろう。

それだったら、

「うち、美容師になるわ」

で、終了!チャンチャン!!

・・・とはならないからネ。

美容師になって、何をどうするか、というところを話したいわよネ~。




仕事のための人間⇒人間のための仕事。
仕事のために人間を生かす⇒人間のために仕事を生かす。

山登りにゃ、理由は要らんね。↓
人はなぜ山に登るのか

はらがたって、はらがたって、お菓子ぜんぶ食べた

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最近、また「腹が立つ」ということについて考えるきっかけがあり、
「腹が立つ」、で思い出した事例。

わたしは当時、学級で、
「腹が立ったら、教えてね」
と話をしていたので、
日記に、こんなようなことを書いてきてくれた。

授業参観でお母さんが来てくれると言っていたけど、たぶん来なかったと思います。
授業中もずっと後ろをみて探したけど、一度もいなかったと思います。
お母さんは、
「ほかのお母さんたちが大勢いたから入れなくて、廊下から見てた」
と言ってたけど、廊下もちゃんと見たけど、いなかったと思います。
だから、きっと、弟の幼稚園の参観に行っただけだったと思います。
間に合うと言っていたけど、間に合わなかったんだと思います。
「嘘を言わないで、謝ったらいいのに」と言ったら、
だまって買い物に行ったから、わたしもだまって弟の分のお菓子も全部、
一人で食べちゃいました。(先生、ないしょです)
すごくはらがたったので、書きました。


腹が立った時の自分はダイレクトであり、素直な自分である。



Eテレの「ようこそ先輩!課外授業」で、モデルの冨永愛さんが出ていた。

番組内容は、「怒り」をテーマに冨永愛が多感な中学生に挑んだ、というもの。
中学生に向けて、冨永さん自身が子どもの頃からコンプレックスを抱き、怒り、悔しさ、を見つめて生きてきたことを語る。冨永さんにとって、怒りは自分を変える、バネになった。

番組の中で、怒りについて、
「怒る、ということは、贅沢なことなのでは」
と答えた男子がいた。

中学生で、そうしたことを考えることがすごい、と思ったが、はたして冨永さんはそれに答えて、

「でも自分の素直な気持ちだよ」と。

素直というのは、生きにくい。
怒りはムダ、と思いやすい。
だから、エネルギーを消費しないために、怒りを捨てる。
そうした気分を、中学生のその男の子は、言いたかったんだろうと思う。
「素直」は、わがまま、高望み、口先だけ、というイメージもあるんだろう。

『それを怒りにするだけ、損なことでは?』

中学生でも、そのくらいの考えに及ぶわけだ。


わたしは、中学生が、「怒り」を考えていこうとする姿勢に感心する。
人生の初期段階で、「怒り」は「ムダ」なのか、と考えていこうとしている。
冨永愛さんが、それを、引き出していく。
すごい人だなあと思う。

「怒っている」

それが素直なんだ、自分の実態なんだ、と

かけがえのない自分自身のこと、その自分自身の状態を大切に考えよう、と言ってくれる。


世の中から、「素直」が消えようとしている。
中学生ですら、「怒り」を消そう、ムダと考えて、賢く生きよう、となってしまう。
その場合の賢さは、自分の中の「素直」を消して生きる、という生き方であり、
世間に調子を合わせる、という生き方。


「素直」は、「怒り」から見つけやすい。


お母さんが嘘をついてる!と弾劾したいその子は、
お菓子を弟の分まですべて食べてもなお、
「日記」に怒りをぶちまけている。


怒りの感情をもってして、どうにもならないこの口惜しさを、
無念さ、報われなさ、切ない思いを、その「淋しみ」を、
お母さんにぶつけたけれど、

お母さんは、・・・買い物に出かけてしまった。

小川の近くに咲く花

靴下をはかない子 ~『大造じいさんとガン』~

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くつ下を履かない子がいる。
笑うと白い歯が目立つ、Yくんだ。
サッカー大好き、それもイタリア・セリエAの話題をよく知っていて、得意げに説明してくれる。


今日、国語の授業中、アレッと思った。

Yくん、机の下に、はだしのつま先が見える。
足のつめまで、ぜんぶ出して、涼しそうにしている。

わたしは、『大造じいさんとガン』 椋鳩十:作を読みながら、机間巡視中。

教師も長く勤めてくると、物語を朗読しながら、同時に
子どもたちの様子を見る癖がついてくる。

「残雪というのは、一羽のガンに付けられた名前です。左右のつばさに一か所ずつ、真っ白な交じり毛をもっていたので、かりゅうどたちからそうよばれていました・・・」

この子は、上履きを、すぐに脱いでしまう。
癖なんだろうネ。

「残雪、というのは、ガンの名前だね。どうして『残雪』という名前がつけられたのでしょう?」

わたしが発問すると、彼の足の親指が、くねくね、と動いた。

まるで、

「わかんな~い」

というように。


反射神経の鋭いMさんが、

「左右の翼に一か所ずつ、真っ白な交じり毛を持っていたから、です」

と挙手して発表してくれる。

その間、彼の足の親指は、まるで別の生き物のように、

「ああ、そうかもネー」


あっちを向いたり、こっちを向いたりしながら、反応していた。

私は意地悪く、さらに突っ込んだ発問をする。

「では、どうして、『左右の翼に真っ白な交じり毛を持っていたら、残雪、という名前になるのでしょう?」

足の指は、ゲゲッ、まだ続くのかよ、という具合に緊張し、
それから、


だらん


とうなだれた。

「わからん・・・」




私はYくんに訊く。

「Yくん、どうですか?」

案の定、彼は

「えー、・・・今、考え中です」



私は授業をしながら、気になってたまらず、

「考え中のYくん、ごめん、きみ、なんで裸足でいるの?」

と興味本位の質問をする。

Yくん、天井を見ながら、

「ええー、はだしの理由は・・・・・・今、考えてます・・・」

周囲の子たちがクスクス笑う。


「先生、Yくん、4年の頃からずっと裸足です」
横から友達の解説が入った。

Yくんが振り向いて、友達に弁解し、
「え、ずっとじゃないよ」

他の子も、そうそう、といった風で、
「あ、まあ真冬は靴下履いてるか」

「うん。俺も冬は履くよ」

「そういや、Yくん、春から秋までは、裸足だよね」

女の子たちも、クスクス。



おそらく、体温が上がる体質なんだろう。
頭の温度が上がるので、血液を体の下部へ集めるために、靴下をぬぎたくなるのかな。
いや、冬だと逆に、冷えてしまって、血液が足元へ行かなくなるよな?
・・・あれれ?

このあたり、よく分かりません。どなたか教えてください。


そういえば、冬でも裸足の方が気持ちいい、という古くからの友人がいる。
彼は、真冬でもほとんど裸足でランニングするという、一風変わった人間で、おそらく無意識のうちに、裸足による刺激で全身の血のめぐりを良くしようとしているのではあるまいか。


Yくんも、幼い頃から、自分の体の声をきいて、自発的に、「はだし人生」をスタートさせたのだろう。
だれかに「教わった」ものではない、自分で、自分の心地よさを感じ取ろうとして靴下を脱いでいるのだ。
我々にとって、自分の体が要求する声を、きちんと聞いてキャッチすることは難しい。
彼のその試みを、ずっとこれからも大切に、見守ってやろうと思う。



写真は、中秋の名月。明る過ぎ!
今宵、裸足(はだし)で、月を愛でる。

懲りずにピッピ・イノベーション その3

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懲りずに、
ピッピ・イノベーション、であります。

イノベーションと言う言葉は、日本では技術革新的な意味で使われますが、
広義では、ひと・組織、の革命をも意味するそうです。




さて、1年生の男の子が、6年生の教室まで、遊びに行く。

入学したての春。
最初の頃のこと、6年生が、1年生に向かって、

「いつでも遊びにおいでね」

と言ったので、それを覚えているからです。



ところが、6年生は、少しすると、それがイヤになる。
なぜかというと、その1年生は少々、乱暴なところがありまして・・・

6年生を蹴ったり叩いたりするんだそうで・・・。


みんな、その子のことを、

「まったく、凶暴性を持つ子で、危険極まりない」

というような把握の仕方をしていたし、先生も

「どうしたらいいですかね。あの子の資質に問題アリですよね」

という感じ。



ピッピだったらどうなるか、という思考の方法が、ピッピ・イノベーションでありますが。

たぶん、ピッピだったら、まず1年生を拒否しない。

だから、逆に、1年生も、ピッピをたたいたり蹴ったり、しないだろう、と。

その子は、かつて6年生にやさしくしてもらったことがあるから、それをまた、味わいたいのでしょうな。


ピッピなら、単刀直入に聞くよね。たぶん。

「あなた、いったい、どうしてほしいの」

叩いたり、蹴ったりは、ヒトと交わりたいという欲求のあらわれ。
ピッピなら、その子に聞きながら、
彼の、その表現方法(態度・方法)を、変えてもらおうとするだろう。



「もし一緒に遊びたいんだったら、○○して遊ぼうって、ちゃんと言ってよね」
「うちらのこと叩いたり、蹴ったりしても、あなたの気持ちは、なんにも分からないんだから!」


まー・・・
それでおしまい!

(ついでに、ピッピイノベーションについても、これで最後、おしまい!)

ピッピイノベーション

ピッピ・イノベーション その2

前回、ピッピ・イノベーションについて書いた。

その中で、

言うことを聞かなくてもよい

というのがあって、

それはかなり、大人が

ギョッ!!

とする言葉、である。



言うことを聞かなくてもよい、ということについては、おそらく100人のうち、99人の大人が

「そんなことない!」

というだろう。

「子どもは、大人の言うことを聞くべきだ!」

とね。




ところが、その、聞くべきだ!というアプローチの仕方で、行き詰ってしまったのだから、どうしたらいいの、ということであります。

「思春期の反抗期」というものがあるらしいけど、

聞くべきだ!
その通りにすべきだ!
と言っていても、反抗期の子等は、ちっともそうならない。

実際そうなっていないのに、あらためて
「言うことを聞かなくてもよい」
という文面を見てみると、大人は、
なんだか、ムカッとくるのです。



実際には子どもが大人の言うことを聞いていなくても、その通りにしなくても、

「子どもは親の言うことを聞くべきだ」

という線そのものは、崩したくない、ということでしょう。

で、実際は、子どもは親の言うことを聞いていないのですが。

聞いていなくても、そういうことにしたい、という「親の側のねばり強い姿勢を見せたい」ということなのでしょう・・・。



ピッピ・イノベーションでは、言うことを聞くべきだ、というふうには、ならない。

しかし、子どもは、親の言うことを聞くのです。

同格だからね。

圧力無用だから、そうなるのだ。

圧力無用!
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