30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

「子ども」とは

意見のバランスを取ろうとする子

おもしろい子がいる。
わたしは担任ながら、彼のファンである。

なにがというと、彼はいつも、「反対意見」を言おうとするのである。
このことは、教師をやっていればだれしも思うだろうが、たいへんな幸運とよべる。

自分のクラスの意見がすぐにまとまり、なにも紛糾せずにいたら、どれだけツマラナイか。
あれ?うそ?え?と思わず目がテンになるほど、さまざまな意見が出てくるから面白いのであり、結論がなかなかでないことに価値がある。
また、その「結論までの過程の面倒くささ」に耐えられるような人格をつくりあげるのが、学校教育の使命でありましょう。

実際、少数意見がキラキラと輝いていなければ、この世は良くはならない。
その真理を子ども時代から体得せしめるために、学級ではつねに、「多数が力で押し切る」ことを否定していくのです。



そんな彼が、いちばん力を発揮するのが、授業です。

今の授業って、ほとんどが「覚える(講義型)」ではなく、「考える(思考型)」に重点が置かれています。
だから、国語でも算数でも理科でも社会でも、「〇〇は、△△だろうか?」というように、授業ごとにお題が出されます(学習問題とよばれるもの)。
そこで、彼が真価を発揮するのです。


社会の授業がはじまると、最初は大勢を見極めようとします。
たとえば、
「縄文時代と弥生時代とどちらが幸福か」
というお題。
意見はすぐに決まりかける。
弥生時代こそ、幸福だ。
定住・定量収穫で人口の増えた弥生時代こそ人類の幸福、という方に固まりかけると、やおら頭をもたげて勢いよく挙手し、

「ぼくは縄文派です。そもそも弥生時代は殺戮があった。米に頼って土地を私有化したから土地の奪い合いが起きた。縄文の暮らしは平和でした」

とまるで見てきたようなことを言う。
殺戮があったから不幸、という一点で心を掴もうとするNくんの作戦です。
女子は「またNくんは少数意見だよ」と迷惑顔。

頭の良い女子が軽くつぶしにきます。
「そんなこといっても人口は増えています。これこそ繁栄の証拠です」
やんやと喝采。ほぼ女子は全員が弥生派でした。

これはね。
教科書のイラスト!
このイラストに影響されちゃうの!

縄文時代の女性のイラストは厚ぼったい獣の皮をまとって、おまけに皮膚には刺青まである。
対して弥生時代の女性はどうか。なんと、顔つきまで美人に描かれ、布のワンピースをふんわりと着た女の子がおしゃれな髪飾りまでつけている。これを見た女子は全員、

「弥生時代こそ、幸福」

説を曲げません。

しかし、Nくんが少数意見を主張しているのを感じ取った男子は、徐々にそのNくんに感化されていきます。

ワンイシューというのは、請求感がありますね。
心をつかみます。だって、わかりやすいもん。
また、「闘っている」感じが、きちんと伝わってきます。
「〇〇こそが問題なのだ」
ワンテーマ、一点突破。
内容よりも、その雰囲気が大事なのかもしれません。

ふだんはめったに意見を出さないYくんが加勢。
彼は器用なタイプではないので、なにを言い出すのか味方のはずの男子までもがドキドキして見守ります。

「えっと、弥生時代は米が食えたけど、それだとずっとそこに住まなければいけないし、もし地震とか起きてなにかあったら、縄文時代はすぐに引越しできたけど、弥生時代はなかなか引っ越せないのではないかと思うから、縄文に一票」

男子が拍手。

頭の良い女子が、サッとつぶします。
「当時は大きな建物もないし、大地震があっても引っ越さなくてもいい。田んぼも作り直せば済む」

男子は沈黙。
こんなにあっけなくつぶされるとは。

Nくんが、方向修正をはかります。
やはり、複雑なのはダメ。ワンイシューこそ、万人に訴えかけるのです。

「殺しがあったから不幸です。吉野ヶ里遺跡はほとんど戦時中の城に見えるし、堀や柵にかこまれていたから安全、とはとても思えない。ぼくはそこに住みたいとは思えない。明日にでも戦争が起きそう。見張り台で丸一日、いや1年間ずっと、いや10年も20年も30年も、敵が攻めてくるのを見張りつづけるのは、すごくたいへんです」

これは女子の数人にも影響した。
女子が頭をくっつけて相談しはじめた。

Nくんは、身振り手振りをつけて、声の抑揚をすこしずつつけながら、だんだんと大胆になる。

「縄文の村を見てください。堀も柵も、なにも無い。何も怖くないから、柵がないのです。堀のない縄文の村の方が、安心して住める」

男子がすぐに加勢。
「そうです。安心がいい」
「敵がいないことがいちばん」
「縄文こそ、理想社会と思う・・・」

・・・

いつも社会は時間切れになる。
結論は、各個人がノートにまとめて提出。
女子も半数が縄文派に変わっていた。
Nくん、おそるべし、である。

教科書的には、時代は現代になるほど幸福になっていることになっている。遅れた野蛮な文明である縄文よりも、弥生の方が『進化』したはず、と。

なるほど、確かに戦闘力も上がり米の収入も増えて物欲も満たされた。
だから、幸福、ということになっている。人類が前の時代よりも退化するなんてことは、ない、からでありましょう。

縄文時代

切り替え、ということ

嫁様が保育施設で勤務し始めたため、いろんな考察をしている。

たとえば、朝、母親からさっと離れる子どもと、なかなか離れない子。
逆に、夕方、保育園へ母親が迎えに来た時、すぐに飛んでいくかどうか・・・。子どもの中には、何か玩具などで遊んでいて、すぐに帰る気分にならない子もいるようだ。

嫁様からすると、
「本当にいろんな子がいて、飽きない」
らしい。
そうでしょうねえ。
どの子もさまざま。これが子どもだとは、一概には言えない。


嫁様が観察するには、「よくあるのは、次の2つ」だ、という。
まずは、サッと親から離れて、夕方もサッと帰る子。
このタイプは、とても多い。

つぎに、お母ちゃんべったりで、朝はなかなかお母ちゃんと離れないから、保育園がきらいかというとそうではなく、帰宅する段になるといつまでも保育園に残りたいようで、お母ちゃんを玄関で待たせるタイプ。
だいたい、この2つのパターンが多いようだ。


一番、多いタイプ。
朝、保育園の玄関のところでお母さんとあいさつするやいなや、すぐにサッと自分の組の部屋に行ってしまって親を振り返らない。だからといって親との関係が希薄かというと、そうでもない。そういう子ほど帰る時は親を心待ちにしていて、親の姿を見つけるなりすぐにサッと帰るらしい。面白いねえ。

逆に朝、離れる時になかなか親から離れたくない子もいる。それは親が大好きで、離れたくないからだろう。しかし、そういう子ほど帰宅時にはサッと親のところへとんでいくかというと、そうではない。ぐずぐずと親を待たせる。これは、何なのだろう。興味が湧く。




小学校ではどうだろうか。

朝の登校時。
1年生だろうか。低学年の校舎の前で、ちらほら、子どもを直接送り届けに来ている母親がいる。昇降口で泣いている子。お母さんは時計を見ながら、なだめている。

担任の先生に聞いてみると、その子は帰宅する際、今度はなかなか教室から出ず、母親を待たせておいたうえで、先生とひとしきりしゃべったり遊んでから出るそうである。
だから、学校が嫌いだとか、先生に対して、とか、そういうことでもないらしい。


切り替え、ということなのか・・・?

切り替えのスムーズな子は、なにがその子をそうさせているのだろう。
逆に、切り替えのスムーズでない子は、いったい何がその子の心にあるのだろうか。
この話は、どちらが良いとかというのではない。
子育ての正解を決めたいわけでもない。

われわれ大人が、そこにどんなまなざしを向けるか、という話である。
どんな状態の子、どんな表現をする子でも、いい。
われわれは、一人ひとりちがう、その子の内面に生き生きと反応できる大人であろう、とすることだ。

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持ち帰りの技術

学期末に近づくと、子どもたちは荷物を持ち帰ります。

最終日、両肩に荷物を食いこませるようにし、両手両肩にすべてぶら下げて帰宅する猛者もいる。

「せんせ・・・くるしぃ・・・」

だ、だいじょうぶ?と聞くが、

「なんとか・・・帰ります・・・」

歯を食いしばって歩いていく。



これは、どうしてこういう事象が起きるのか、不思議ですが、子どもからすると

「まさか、休みがくるとは思わなかった」

ということらしい。(事前に忠告は何度も受けているのに、ですよ?)

永遠に、毎日のように自分の人生は繰り返されて行くのだ、という感覚になっていて、朝起きてご飯を食べたら靴を履いてランドセルをしょい、友だちと道を歩いて教室に入り、みんなとすごすのがつづく、と思っている子がいる。

もちろん、きちんと毎日のようにカレンダーを見て確認し、

「最終日まであと10日。よし、そろそろ絵の具は持って帰ろうかな」

と計算できる子もいる。

しかし、まさか、この学年が、この学級が、おわってしまうとはついぞ考えたことが無かった、という子もいるのである。

いよいよ終業式が終わり、教室も片付いて、通知表ももらって、

「春休みですね、みなさんさようなら」

となってから、ぼうっと立ち尽くす子もいるのである。
「まさか、こんな形で終わるとは」
「人生に、こんな区切りがあるとは思わなかった」
「この毎日が、俺の人生のすべてだったのに」
「ずっとこの日常が、毎日が、くりかえされていくと信じていたのに」

とまあ、こんな雰囲気の心情であるのだろう。(推測)


わたしは実際、

「え、本当に終わっちゃったの」

と、子どもがつぶやいたセリフを聞いたことがあります。


とてつもなく不安な顔をしたまま、その子はゆっくりとランドセルをしょい、
水彩画のセットを肩にかける。
そして反対側の肩から画板をさげ、その上から今度は体操着袋をあらためて背中に背負う。

そして左手に図工の木工作品や家庭科でつくった布の袋や裁縫道具などを入れた巨大な「作品袋」を持ち、右手に上履きやらぞうきんやら、しばらく学校に忘れていたジャンパー等を入れたこれも大きな袋をさげたところで

「先生、ぼうしを頭にのせてください」

と言う。

見た目はもう、特別に仕上げた雪だるまのような雰囲気。

さらに、そのまま、画板をあちこちの机の角にぶつけながら歩いて昇降口へ移動すると、お世話好きで心配そうに見ていたクラスの気の利く女子から、

「あ、Kくん、これ忘れてる」

と理科の観察バッグと地図帳の入った袋を渡されるが、もうなんとしてもどこにも持つことができず、女子にうしろからランドセルをあけてもらって、そのふたの部分で地図帳と観察バッグを無理やりにはさみこんでもらって、なんとか『ほうほうのてい』で下駄箱へ行き、泣きそうになりながら靴をさがしてもらってはかせてもらい、まるで遠くから見ると人ではなく荷物が移動しているかのような恰好で、帰宅するのである。

すべての子がこういうわけではないが、こういう子も、いるのである。

「まさか、この幸福な毎日に、突如として終わりがくるとは、にわかに信じがたい」

こういう子が、世の中には意外に多いことに、世間はやがて気が付くであろう。
大人はスケジュールで動くが、子どもは心の満足で動くので、大人と同じような動機では行動しないという場合もあるのである。

春がすぎ夏がきて、秋がきて、冬がきたからと言って、このクラスや先生、この人間関係に区切りをつける必要が、なぜあるのか?
もっともっと、このままで時間をすごしたい。

「大人の事情です。ごめんね」
としか、言えません。
そういう決まりで、そういうふうに社会をつくったから、ということです。

「まあ、社会ちゅうものは、いずれ人間にふさわしいように変えていけるから、ね」

これが、Kくんとの春の別れの言葉となりました。
よい春休みを!

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スキーウェアを持ってきた子の話し

.
ある女の子が、スキーウェアをもって学校へやってきた。
久しぶりに雪が積もったからです。
そして、ふだん仲の良い学友たちがスキーウェアを持ってきていないのを知り、
「えー、今日はみんなウェアを持ってくるかと思ったのに」
と言って残念がっている。

すると、ふだんはそれほど一緒にいることはないけど、同じクラスの女子1人が、声をかけてくれたのです。
「うちは大丈夫だから一緒に外に出よう」
防水性のジャンパーを着た子だったので、彼女もその気だったのかもしれません。
その2人は、まあ特別に仲が良い、というわけでもない間柄でしたが、ともかく2人で外に行こう、ということになったらしい。

わたしは最初の子が、いつも横に居る仲良しの子に向かって何度も、
「〇〇ちゃん、外に行こうよ~」
と言ってたこともあって、
内心、残念がっているのではないか、と思いながら、
表情をじっと見ておりました。

すると、ですね。
あまりふだん遊んだことのない相手と一緒になって、
なんだか、お互いに、いつもの調子が出ないのでしょう、
彼女の表情からは、まだ残念そうな雰囲気が、抜けきらないのです。

まあ、それでも誘ってくれた子と2人で、廊下から外に出て行きましたわ。
静かに、何かしゃべりながら。



さて、遊び時間が終わる頃、校庭の隅の方から、
2人が校舎の方へ、歩いて帰ってくるのを見つけました。
わたしは、
「どうかなー、楽しんだかなあ」
と思いながら、様子を見ていますと、
こっちへ歩いてきながら、二人とも大きな口を開いて、笑っています。

それはそれは、本当に幸福そうに見えました。

笑っているから、幸福、というわけではないけれど、
「うちら、一緒に遊べるやん」
という発見が、愉快なんだろうか。

うちの友達は、AさんとBさんとCさんで・・・、という思い。
ところが、Dさんもいた。
なんや、これまでの、「うちの友達は・・・」、というの、ただのキメツケじゃん。

ふだん、一緒にはなかなか行動しない2人が、ひょんなことから共にお散歩してみたら、意外なことに楽しくて、なんだかいい時間を過ごせた、ということ。

キメツケは外れた方が楽しいね。

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個性、感覚、すべて異なるのが当然

子どもは、一人ひとり、異なる。
どうちがうかというと、かなり、ちがう。

なにせ、親がちがう。
親の個性があり、価値観がちがう。
親の本音もちがうし、社会的な立場も違う。
大人としての意見もちがい、好みも違い、世の中への姿勢が異なる。

つまり、環境がかなり異なる。
それに、子ども本人の元来の資質がちがえば、完全に一人ひとりが異なるわけだ。

給食の時だって、個性が現れる。

食べた後、ていねいに食べる子、たくさんこぼす子、さまざまだ。
こぼしたものをていねいにナフキンで包んで、ゴミ箱にはらいにいく子もいれば、そんなことはおかまいなく、床にパッパッとうでで払ってそのままの子もいる。

ある子は、ご飯の上から、持参したスポイト容器で、水をふりかける。
これは、親御さんの指示による。



ある年、担任になったばかりの4月に、保護者の方が来校された。
会って話してみると、何ごとかを憂うような表情を浮かべて、

「先生、うちの子に、こういうものを持たせますが、担任として許可していただけますか」

と、何かをハンドバッグから取り出し、心配そうにわたしの前に差し出した。
手に持っているものを見せていただくと、小さなスポイト容器である。

「実はこの中に水が入っています。この水をふりかけると、食品中の有害な添加物を無害にできますので、給食を食べる前に、子どもにふりかけさせるために持参しますが、良いですか」

わたしはドキドキしながら、

「どうぞどうぞ。もちろんかまいませんよ」

と言った。

お母様は安心したように笑みを浮かべると、もう一つ、相談事があるのですが、と再度、不安げな表情になった。

「うちの子がこういうものをふりかけているのを見ると、クラスの中には『あ、へんなことをしてる』というように、うちの子に向かってからかったり、はやし立てたりする子が出ないとも限らないので、そういうときには担任の先生にフォローしていただきたいのですが」

「なるほど」

わたしはうなずいて、

「そういうときには、きちんと対処して、つらい思いをさせないようにしましょう」

と請け合った。

お母様は安心した様子で立ち上がり、礼を言って帰られた。


子どもは、親から大きな影響を受けて育ちます。
間近にいる大人、それも自分を育ててくれている親の本音を敏感に察知します。
親の本音は一人ひとり異なるのですから、子どもの反応もそれにともないます。
したがって、だれひとり、同じ子はいないのです。

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三橋美智也とフランク永井について

日記を読んでいたら、
「先生に質問です。カラオケの18番は何ですか」
とあった。

正直に「森進一」と答えたところ、次の日にその返信が書いてあり、

「ぼくのおじいさんは、三橋美智也が上手です。ぼくもちょっと歌っています」

とのこと。
いまどきの小学生は三橋美智也を歌うのだろうか。
その子とは、その後もカラオケの話題で何度かやりとりがあった。
カラオケ好きなおじいさまといっしょに、何度か家族でカラオケに行くことがあるそうだ。

「この間は、フランク永井を歌いました。先生は『おまえに』を知っていますか」

あまりにも渋い選択。なんだか話が通じるのが不思議だ。
相手は小学校5年生だ。フランク永井の歌のことで、こんなふうに会話が成立することが不思議なコトに思える。

「ぼくのお母さんは、道化師のソネットを歌いました」

ははあ、さだまさし。
お母さんにしては、ちょっと古いのではないだろうか。
おじいさんの趣味に、ちょっと合わせて歌っているのかな。

わたしはその時の日記に、

「そばにいてくれるだけでいい~♪」

という歌詞の言葉と共に、フランク永井の似顔絵を描いておいた。




家に帰ると、中学生の息子が洋楽を聞いていて、

「お父さん、シカゴって知ってる」

と聞いてくる。

わたしの世代はシカゴの第二の黄金期だったから、これまた説明のつかないような、とっぴな感覚に陥る。・・・息子と、シカゴの話ができるとは。



時代がこれだけ進み、綺羅星のごとくにすばらしい歌手たちが、いるのに。
魅力的なエンタテイナーたちが、お笑い芸人も落語家も、こぞって世の中に出てきているのに。
AKBも、エグザイルも、米津玄師だっているのに。
それにも関わらず、いまだに、三橋美智也、フランク永井、シカゴの話をしている。
わたしは、どう考えても説明の出来ないような、思いがけないような気持ちに包まれた。


時代が急に、以前にもどったような・・・
まるで水中をゆっくりと遊泳しているような不思議な浮遊感・・・




その夜、このことを嫁様に感慨深げに言ってみると、軽蔑したような目になって、

「ただ、向こうがこっちに、話題を合わせてくれているってことでしょ」



は、そうでした。
ただ単に、相手から、合わせてもらっていたのでした・・・。
人生はいつも、そんなことばっかりなんでしょうナ。

黄色のプラタナス

猫が毛だらけな理由

くたくたになって帰宅したとき、ふわふわの毛布にたおれるように横になることがある。
そうすると、そこにふわふわな毛布の触感を得て、なんとなく、心が軽くなる。

これはまったく理屈に合わないことだ。
脳内の思考や苦労ごとや心配がなくなったわけではないのにも関わらず、なぜだか心が軽くなるのだから。

なぜか理由ははっきりしないけれども、癒される。
これは、ホントにわけがわからないが、たしかに実感としてある。
実に、不思議なことだと思う。

幼い頃、父が勤務先から、小さなトロフィーを抱えて帰ってきたことがあった。
父はそのころ、なかなかの熾烈な業界で営業をしていた。その月はどうやら父の販売成績が良かったらしく、職場の大会で表彰されたらしい。
母はうんと喜んでいたが、なんだか子どもには分からない大人の事情もあったようだ。つまり、懐(ふところ)の具合が、多少なりともあたたまったのであろう。母は常には見せないほど嬉しそうにしていた。

母はトロフィーを小さな箪笥の上に飾り、幼い私たち兄弟に、

「これは本当に大切なものなんだから、触ってはいけません」

と教えた。

ピカピカと金色に光るトロフィーは、実際にはただのプラスチックであっただろうが、わたしたちはそれを本当の「金」で出来ているのだと思い込み、父親を
「実はすごい男なのではないか」
と危うく思い込ませるほどであった。

ところで、一度、わたしはそのトロフィーを触りたくて仕方がなくなって、親の留守中にひとつ年上の姉と共謀し、箪笥の上のガラスの扉を開けて、持ち上げてみたことがある。

そのときの、重さには、実際感動した。
本当に重かったのだ。
わたしは、その金のトロフィーを何度も持ち上げて、やはり姉とふたりで

「うちのおとうさんって、すごい人かも」

と、束の間の勘違いにひたることができたのである。

ところが、その化けの皮が剥がれるときがきた。
今度は3つ年上の、ちょっと利口な姉が、わたしたちに真実をばらしたのであった。

「あんなの、ただのプラスチックだよ」

わたしとすぐ上の姉は反論した。

「ほんものだよ。だってあんなに重いんだよ」

それを聞き、すでに中学生だった一番上の姉は鼻であしらうように笑い、そのトロフィーの底の蓋をはずしたのであった。

そこから出てきたのは、小さな、コンクリートのかけらのような四角い石で、その石を取り去ったトロフィーは、とんでもなく軽かったのでありました。

トロフィーが軽くなった途端、ものすごい勢いで、わたしたちの幻想はガラガラと崩れてしまった。トロフィーの価値が、またたくまに消え去った。

「えー・・・」

小さい方の姉とわたしは、二人であまりのことに驚き、愕然とした。



ふわふわの毛布と同じく、重たいトロフィーには「価値」を感じる。
これは、理屈ではなく、身体的なメッセージが心に大きく作用した、ということであろう。
人間の脳は、理で悟るというよりも、身体で感じるメッセージの方を、かなり重要なものとして把握するらしい。
だから、わたしたちは手にずっしりと感じ取った「重さ」に感動し、
ふわふわの毛布の「やわらかさ」にホッと安心を感じるのでしょう。
これは、人間が「理」よりも「感覚」で生きているってことの、証明になりますね。
(だから「感覚」ばかりで話をするし、それで混乱して不幸になっている)


心が本当に痛んだようなときは、周囲がおせっかいに発する理性の言葉なんかより、人肌の温もりの方がどれほど恋しいことか。

猫が毛だらけな理由も、そこにある。

理屈ではない。
毛だらけで、もふもふで、やわらかくて、あたたかくて、なでるとつやつやで、すべすべで、押すとやわらかい。

猫がどんなにナマケモノで役立たずであっても、うるさく鳴いても、お菓子の箱をふんづけて歩いても、許されてしまうのは、毛だらけだから、でありましょうナ。

教訓:子どもには、ふわふわの布団を用意すべし。

ねこ



自分に対する不足感

自信がない、自己肯定感が薄い、というけど、
自分に対する不足感のようなものかな。
その「不足」とは何か?

もともと、「不足」はない、はず。
赤ちゃんで生まれたとき、どんな顔つきだって、どんな泣き声だって、愛された。
「わあ、かわいい!」と祝福された。

いつから「不足」が始まったのか?

高学年になると、もうしっかりと、
「ぼくはどうせ」「わたしはどうせ」となっている。

他の子の成績に劣等感を感じ、
他の子の着ている服に嫉妬し、

他の子どうしが楽しそうにおしゃべりしていると、

「仲間外れにされた」

と思う。


この疎外感は、いったいなんなのか、と思うネ。
さびしさ、孤独感・・・


本当には、仲が好いわけではない。
本当には、自分が好きなわけではない。
本当には、・・・認めていない。
本当には、・・・大事にしてない。


どこか、自分を大事にしないで生きている、ということかネ。
子どもに、「自分を大事にするって。どういうこと?」と聞いてみたい。


「え?そんなこと、考えてる暇、ないよ」
「習い事行かないと」
「勉強しないと」
「成長しないと」

と言って、返事がもらえないかもネ。


すべての行事を、いったん止めにして、
すべての教師が、考え始めたらどうなるだろうか。

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恋多き少女たちの奮闘ぶり

小学生の男子というのは、なぜもこう、忘れ物が多いのでしょう。

「先生、わすれました」

と報告する顔に、悪びれる様子はまったくなく、本人もどうして無いのか、不思議そうな顔さえしている。

「なんでだろう。プリント、入ってないや」

入れてないからだろッ!



わたしは割り箸を大量に保有しており、なぜかそれが校内に知れ渡っている。
だから、別名、「割り箸先生」である。
実際、見たこともないような下級生が、給食の時間に教室にあらわれて、もじもじしながら

「あらませんせい・・・わりばしをわけてください」

と言うことがある。

なぜ、私が大量に割り箸を保有していることがバレたのだろうか。

クラスの気の利く女子が、

「あ、はいはい。割り箸、一人分ね!まいど!」

という調子で、

「先生!ひとつくださいね~」

ともらっていき、その坊主頭の少年に渡すと、彼はうれしそうにそれをもらって帰る。

女子はそれを見送ると、「先生、また一つ、割り箸が売れましたね」という。

なぜ、女子は、人に物を貸してあげることをうれしがるのだろうか。



クラスの女子は、クラスの男子に、いろいろと物を貸している。

消しゴム、折り紙、はさみ、のり、クーピー、クリップ、ふせん・・・

あれもこれも、まるで3歳児に対するお母さんのように、ものを渡している。

で、男子はそれを借りて、平気でいる。

わたしがあまりにも目に余る、と思い、

「こら男子!お礼を言わんか、お礼を!」

と言うと、

「あっ、ありがとう!」



わたしはクラスの女子を、全員、表彰してあげたくなる。

「こら男子!女子に世話になってるばかりじゃなくて、たまには恩返しをしなさい!」



クラスに一人、あまりにも目に余る子がいて、隣の女子がほとんど自分の持ち物をぜんぶ、貸してやっているのを見て、わたしはいつか、声をかけた。

「ねえ、隣のAくんに、物をたくさん貸してあげてるけど、たまには断ってもいいんだよ」

すると、その女子はめっそうもない、という表情になり、後ろの席の仲良しの女子と顔を見合わせて、

「いえ!貸したいから貸してるから、いいんです」

と言い切る。

その子がのちに、日記に解説してくれたところによると、

彼女が学校に持ってきているすべての文房具には、彼女の念がこもっているのだ、という。そして、隣の大好きな〇〇くんが、貸して、というときは、その日一番念をこめた物を貸すらしい。すると、彼と相思相愛になれるはずだ、という。
「先生、念のこめかたにも気を付けないといけません。好きになってくれないと呪ってやる、とかマイナスの念はいけません。わたしを好きになってくださいね、というくらいの、明るい念がいちばん効果的です」
と、わたしに対してなぜか指導する感じで、日記にアドバイスを書いてくる。

「なるほど。でも、先生は心配です。あなたの隣席のAくんは持ち物や、整理整頓に無頓着すぎます。あなたが生涯、彼の世話をしつづけるのは、無理だと思いますから、彼を成長させた方がいいです。だから、あまり餌を与えすぎない、というか、あまり貸さないで、たまには自分でもってこさせましょう」

するとまた次の日の日記に返事が書いてあり、

「そのアドバイスは相思相愛になってから聞きます。今は貸すのが大事です」



わたしは、Aくんのお母さんに、このことをいつ話そうか、と思案中である。

キューピッド

学校が資本主義的になりきれないわけ

掃除を一生懸命にしている姿を見ると、心がうたれる思いがする。

なんで、ここまでしてくれるんだろう。

どうしてこの子は、ここまで、きれいにしよう、と思ってくれているのだろう。

カメラは向けないけれども、わたしの心には、その姿がしばらくずーっと、写っているように思う。

ぞうきんを、自分の手のひらのサイズに合わせて、四角く折りたたんで、きちんと持っている。

そのぞうきんは、しっかりと絞ってある。

拭き方も、テーブルを四角く、きちんと拭いている。

これはどうやって身につくのだろうか。

1,2年生の頃から、おうちの方に教えてもらってきたのだろうか。

先生にも教えてもらってきたのだろう。

また、教えてもらってきたから身についた、という以上に、自分でそのやり方に納得している、ということも大きいだろう。

そのやり方が、テーブルをいちばん美しく、きれいに磨くことになる、そのすがすがしさ、さわやかさを、自分でも身をもって感じ取っているから、だろう。

ごはんの盛り付けも、バランスよく、みんなに等しく、美しくしよう、と心がけている気がする。

「しっかりふきんをしぼっているなあ」

「ごはんがおいしそうに盛り付けてあるなあ」

わたしはつぶやくだけ、だ。

人というのは、なんで働くのだろう。

子どもたちがクラスでそれぞれ、協力してなにかをしている姿をみるたびに、

給料は出ないのに、なんでここまで働けるのだろう、と思う。

学校は資本主義から、だいぶ離れている。

教室は、クラスは、どうしても、相手が見える。相手の気持ちまで、見える。

だから、ほっとけない、・・・ということ、なのだろうか?

ぞうきん

その子らしさを考える

.
今日は、久しぶりの休暇、という感じがした。
3学期の通知表を書き終わり、教室の荷物も大きなものを片付けて、
なかなかにさっぱりした。

午後、ちょっと遠出をして、山の方の温泉場へ行った。
湯につかりながら、4年生の1年間を振り返っていた。

お互いがお互いのことを真剣に考え合う、進路研究の授業。
友だちのことを知らなければ、友だちに気持ちが向かなければ、
相手のことを真剣に考え合っての「進路相談」など、できっこない。
仲良く、仲良く、仲良く・・・
道徳の授業を繰り返しながらの、下地づくり。


むろん、まだ4年生だから、職業の知識は少ない。
世の中にどのくらい、どんな職業があるかなどは、知らない。
しかし、むしろ知らないからこそ、「こんな感じのことをやってくれたら・・・」
という「職業以前のなにか」を、考えてくれる。

Kくんについて、星が好きだ、ということを材料にして、みんなであれこれ考えていた。
多くの子が、
「じゃあ、天文博士になったらいいよ」
「ロケットとか飛ばす人は」
「JAXAに行けばいい」
「星座の本を書けばいい」
など、思いつくままに言っていたら、ある女の子が、

「ねえ、Kくんは、なんで星のことにそんなに興味が出てきたの?」

と、初めて聞いた。

するとKくんは、ちょっとうれしそうな、ちょっと困ったような顔になって、

「うーんと、最初はプラネタリウムに行って、星座の話しを聞いたんだけど・・・」

と話をしだした。
みんな、ふんふん、と聞いている。

「神様がたくさん出て来て、すごく話しが面白いんだよ!ゼウスとか神話とかとつながってて、登場してくる神様がみんなすごく個性があるというか・・・」

そのへんまで聞いて、ちょっと話が変わってきた。

「へえ、そんなんだったら、お話とか、ストーリーをつくる仕事とか、あるんじゃないの」
「映画とかをつくる人!」

ちょっと面白い意見も飛び出して来た。

「そういえば、Kくんはハリーポッターの話もよくするでしょう。ああいう不思議なハナシが大好きなんだったら、ヨーロッパの人と関わるような仕事とか、ハリーポッターみたいな本を、日本語にする人とか、そんなのもいいじゃないの」

みんな、おー、と静かな声で同意する。

「Kくんは、たぶん、ヨーロッパが好き、なんだよ」
お調子者のUくんが、大声で叫ぶ。
「そーだ、Kくんはピザが大好物だもん!ピザ屋になれば!」
「お店の中に入ったら、星座が見られるピザ屋さんとか」
「夜はさ、Kくんがお店の中でさ、星座の話をすればいい」


次から次へと、あれやこれや、意見がどんどん噴き出してくる。
Kくんは、なかばあっけにとられながらも、うれしそうにそれを聞いている。


わたしは、話の結論がどうか、というよりも、
その場の空気がおもしろくてたまらない気持ちになる。
仲間だからこそ、の安心感に包まれて、みんなで空想しているのだ。
われらがKくんがなにかしら、人の役に立って、「みんなのために何かをしてくれている」状態を。

これを、35人分、全員でやりあったのだ。

そりゃ、時間はかかったですよ。
正直、国語の単元のいくつかは、猛烈に端折ったり、可能な限り短時間でやりました。

その分、この濃密な、進路を考え合う時間の、濃い事、濃い事。

「ひとと関わり合う将来のことを、ひとと関わりあって見つけようとする」

これが、キャリア教育だろうと思います。
決して、一人きりで考えることはない。
仲間の安心感の延長で、ひととの関わりを考えていくからこそ、
無限の広がりを実感できるし、明るく、希望をもって、進んでいけるのだろう。

だって、なんか、すてきなことができそうな気がしてくるもんネ。
みんなの話しを聞いているだけで・・・。

hanashiai_kids

子はまったく完成されていて、かつ未完のまま

.
2月になると、担任と子どもたちの距離感というのは
なんとも近くなっています。
わたしが気にするであろうことを、サッと感知して

「あ、先生、〇〇くんは校庭行ったー」

わたしはその声に、ぎょっとします。
あなたはエスパーか。

「先生、〇〇しといたよ」
「先生、数、かぞえたよ」
「先生、消しといた」
「先生、チョーク足りなくなってきたよ」

自分勝手に判断して、どんどんと自分たちの生活を成り立たせていきます。
たくましきこの子たちは、すでにこの世を満喫できているのです。

「先生、そり作ってきたぞ」

もっているのは、段ボールに家庭用のごみ袋をかぶせたもの。
手で持つためのビニールひもが、きちんと穴をあけてつけてありました。

「おお、すげえ。Rがもってきたので、みんなですべろう」
と誰かが言って、みんな校庭の坂に走っていきました。

この、一人ひとりが、勝手なことをやっている感じ。
なんともいえない幸福です。




ああでなければ、こうでなければ、と子どもに
いろいろ思う時は、彼らには何もかもが不足していて、
なんでもっとこうならないのか、と
責めたり叱ったり、鍛えて良くしなければという気持ちが湧いてくると思う。

ところが、朝の始業前、鼻歌をうたいながら教室に入ってくる彼らを見ていると、
そのしぐさは一つ一つ、すべて実にユニークさ、面白さで満ちている。

彼らは生きていて、はじけるその命の証を見ていると、
けっして人としてなんら不足するものは無い。

面白くて優しく、友だちが大好きで大切に思う子ばかりで、
目に見えるもの、そのへんにあるもの、世のすべての物を楽しがり、
新しいことを覚えようとし、できるようになろう、と伸びていこうとする。

どの人格もすばらしく、人として尊敬できる。
あなたが好きで、あなたとの関係に満足し、満ち足りて、まわりを幸せにする。

それがどうして、じつに不完全に見えることがあるのか、不思議になる。

彼らは未完である。
しかしまったく、完成されている。

B雪だるまを作成中

友だちに認めてもらうこと・・・

.
2分の1成人式に向けて、ちょっとずつ進めている。

1)自分ってどんな人間か、思うこと
2)赤ちゃんの頃、保育園の頃、4年生までの自分
  をふり返ってみる
  〇どんなことが楽しかったか
  〇できてうれしかったこと
  〇みんなにしてもらえてうれしかったこと
  〇やりたくなかったこと
3)自分自身が成長したと思うこと
4)クラス全体が成長したと思うこと
5)友だちを見ていて、成長したと思うこと
  ⇒ 友だちのカードにメッセージを書こう
6)自分自身が成長する上で、光や栄養になってくれたと思うこと
7)将来の自分
8)10年後の自分に手紙を書こう


上の流れで、5)をやっています。

先週は一人ひとりのカードを作成し、真ん中に写真を貼りつけました。
そこに、お互いへ向けてのメッセージを書きました。

「〇〇くん、近頃は席を立たなくなったし、おしゃべりもずいぶん減ったね」

と書いてもらった子が、その日は本当に真剣な目をして勉強してて・・・



やはり、友だちに認めてもらうのがいちばん嬉しいのではないかな。

人間と言うのは、

そこが、なにしろ、いちばんの栄養なのでは。


自分の好きな、自分が親しさを感じている相手から、

認めてもらうこと。

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不機嫌なときには他の人に嫉妬しやすくなる

.
「嫉妬」という感情を切り口に、自分を観察することができるのは古来から知られている。
かの有名な哲学者も、ルサンチマン、という言葉で、「嫉妬」に向き合っておりますナ。


さて、子どもは自分では、「嫉妬」なんてしたことない、という子もいる。
ところが、ちょっとした妬み、うらやましくて邪魔したくなる、などは
経験がある。
なぜか分からないが、イライラする、他の子の言動が気になる、
なぜか分からないが、あの子をちょっといじめたくなる、
なぜか、邪魔したくなる、
なぜか、あの子が笑顔だと、気になる。

つまり、うらやましい、ねたましい、ということ。


ただ、うらやましいなあ、というだけなら、陽的で自然、あっけらかん、としたもの。
でも、「なんだか邪魔したくなる」だと、それはちょっとネ。

そこで、自分の心の状態を観察しながら、
なんで自分がくるしくなるんだろうか、ということをいろいろと考えていく。

あの子が笑っていると、なんだか邪魔したくなる。

これも、自分がどういうときに、嫉妬するのかと考えていくと、
どうやら、自分が自分のことで満足していないとき、安心してない時に嫉妬するようだ。

クラスの色々な事例を集めて検討する。
(事例は、子どもたちに書かせるのが一番良い。匿名で事例として扱い、どの子も半分は自分のこととして、半分は友だちのこととして考えていくようにするのが配慮)

授業の最後に、

「では、友だちに嫉妬しているAくんに、自分だったら、どんな声がけしていけるかな」

と、これも書かせる。
道徳というのは、ある程度、自分と向き合う、ということだから、
やはり書かせるのがひとつの具体的な手立てとなる。

子どもたちは、Aくんに対して、

「自分が不安に思っていることをなくせるかどうか、考えたらいいよ」
とか
「相手の子がどんな状態だろうと、まずはAくんが自分自身の状態を良くしていこうとすることで、嫉妬は消えていくと思う」
とか、
あれこれと、アドバイスを始める。

この授業を、4月の1、2週目くらいまでにとりあえず、実践しました。

1年間、このことは子どもたちの常識となっています。
おかげで、わたしのクラスには、人間関係の複雑な問題は、生じていません。
(起きても、このことからときほぐしていきやすいし、時間がかかりません)

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花いちもんめは、天下分け目の戦い

.
花いちもんめをはじめたところ、すぐに悲鳴が。

見ると、Aくんたちが足で蹴りあっている。

すぐにストップし、いったいどうしたのか、と問う。

「だって、敵が蹴ってきたから!」



蹴らないでやろう、と確認して再度スタート。

今度はAくん、相手のじゃんけんの仕方に文句がある、と興奮している。

さらに、おれはもともと窓側のチームだったから、と言って
校庭側のチームに引き抜かれて自分の所属が変わったにもかかわらず、
「手をつなぐのがいやだ!」
と言い出した。

そこで、花いちもんめはストップ。



花いちもんめは、敵も味方もないでしょう、というと、
Aくん、「いや、ある!」と。

「だって先生、勝ってうれしい、とか、負けてくやしい!って言うじゃん!」

みんなを集めて、話した。


勝ってうれしい、とか、
負けてくやしい、とか、
言葉で言うんだけれど、そのすぐ直後に、
自分自身がすぐに敵味方の立場が入れ替わってしまう可能性があり、
うれしいとか、くやしいとか、そんなものは
すぐにどっかへ行っちゃう、というのが
この遊びの面白い意味なんじゃないかなあ。


まあ、そうだよね、と反応する子もいるかわり、
「ちがう!」
と言い張る子もいる。

わたしが
「え、でも、すぐに誰が味方か敵なのか、わからなくなっちゃうよね。
そこが、この遊びの、面白いところなんでしょう」
というと
「そんなことない!〇〇は敵!」
とゆずらない。

企画したメンバーが「先生、もう遊びをチェンジしよう」というので、
花いちもんめはもうやめにして、すっきりと次へ。

次は、花いちもんめよりも、さらに平和なはずの
「だるまさんがころんだ」である。

これなら、「勝つ」とか「負ける」なんて言葉もないから、
勝ち負けは本当に無いよね。


ところが、だるまさんがころんだをやりはじめたところ、
Aくんが、すぐに走ってきてタッチする。

「今の、ちゃんと名前を呼んだし、完全に動いていたでしょう」
というと、
「いや、ぜったいにセーフだった!俺の勝ち!」
と言う。

いちいち先生の出る幕でもないよな、と思いつつ、
鬼の子が困惑したように訴えるので、仕方なく私が、
「今のはアウト!」と裁く。

アウト、と言われて

「ちくしょう!」と叫ぶ形相がすごい。

「絶対に俺はつかまらんぞ!」



そのうちに、タイミングを見て、
企画メンバーがこんなはずじゃなかった、と言うように
「先生、これ、早めに終わりにして、ちがうことしよう」
とないしょでこそっと、耳打ちしてきた。


教室の席にもどり、まったくちがう絵を描くゲーム。
これはまったく勝負することではない。
なにが良い、悪い、というのも、無い。
ただ、交互に絵を描くだけ。

「おもしろい絵だねえ」

これは、平和裡に済んだ。




お楽しみ会が終わって、ちょこっと企画メンバーの反省会をすると、

「花いちもんめも、だるまさんがころんだも、男子とはもうやりたくない」

と女の子が言う。

「あんなに、勝負にこだわってやるもんじゃないから」



たしかに。
おっしゃる通りです。
しかし、男の子たちは、勝負だと思って、まさに武士の一分、自分の魂をかけて勝負をかけてきている。たとえ花いちもんめであっても、だるまさんがころんだ、であっても、
決して負けるわけに、いかない。それが男。

これを、男と女は違う、というひと言で済ませるのか、
どうなのか。


帰りの会が終わってから、なんとなく集まってきた企画メンバーと、
「だるまさんがころんだ」は、いったい勝負なのかどうなのか、という話になった。
みんな、口々に、
「あれは別に、勝ち負けは無いでしょう」
「あれの面白さは、ぴたっと止まるところなんじゃないの」
「そうそう、つい動いちゃうから、あ~、ざんねん!ってなる」
「みんなでじっと固まっているのが、面白いよね」
「急に振り向いたり、わざとゆっくり言ったりするでしょう。あれが笑っちゃうから」
「なかにはさ、変な恰好で、なんとかぎりぎり止まっている人いるじゃん。あれがいいよね」
「あんなのさ、いくら負けたって平気じゃん。どうせすぐに鬼も変わるんだし」

わたしはつぶやいた。

「きみたち、ぜんぜん、分かっとらんな。あれは、男と男の壮絶な勝負なんやで」

女子はあきれ顔である。
なんでそんなにこだわるかなあという顔をしている。

いや、Aくんにとっては、あれが、一世一代の大勝負なんや。
息を殺し、忍び寄る!
敵に気付かれないように、徹底的にカムフラージュする。
まさに、騙し、騙される、生きるか死ぬかの壮絶な駆け引きだ。
「だるまさんがころんだ」と言って、相手が視界をずらし、死角が生まれたその瞬間!
まさに獲物をねらうピューマのように、密林の王者ジャガーのように、
敵の油断をすかさずつき、背後から強烈なタッチで、
ズドン、と敵を討ち、すかさず逃げる!
命からがら、われ、奇襲に成功セリ!というわけだ。
彼の心には、「トラ、トラ、トラ」の暗号音が鳴り響いている・・・、ちゅうわけやなぁ。

Aくんにとっては、たとえ平和そうに見える「だるまさんがころんだ」も、そのへんの女(おんな)子どもの遊びとは、わけがちゃうんやで!


わたしが、そう喝破した結果、二度と、

・花いちもんめ
・だるまさんがころんだ

は、このクラスでは開催されないことになりました。





女子があきれたように、

「先生、ほんっっっとーに、・・・勝ち負けのないゲームってないの?」

と問うたので、わたしは遠くを見つめながら、

「ないのやろうなあ・・・。男はいつだって、勝負の世界だもの・・・」




男はいつだって、酔いしれたいのだ。
自分の強さに、おのれのたくましさに。

そして、それを認めてもらいたい。
ほめてもらいたい。
もっというと、感謝してもらいたいのだ。

Aくんは、みんなから感謝されることを期待していると思う。
それに、実際に、いろいろとやってくれている。
Aくんに感謝することを、クラスのみんなから集めたら、きっと膨大な数の事例が集まることだろう。

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なぜ、景品をもらえないと、イヤになるのか

.
景品がもらえないと、くやしくて泣きたくなる。
人生は、勝つか負けるか。
いかなる勝負でも、負けたくはない。


たぶん、そういう考えの子も、けっこう多いのだろうと思う。

そう思っている子の場合、
勝負に勝てば景品がもらえるが、負けたらもらえない、というのは
かなり、インパクトのある『勝負』ということになるのだろう。

負けてもらえないと、泣きたくなるほどに口惜しくてたまらない。

今のまま、景品を続行すれば、またもや阿鼻叫喚、
泣く子はやはり、泣くだろう。


しかし!
景品そのものを無くすのは、惜しい!


なぜなら、景品をつくった子たちの気持ちもあるし、
もらえてうれしい、ということもある。
みんなで喜び合う、ということを、やめるなんて、ケチくさい。


で、どうするか・・・。


係りの子たちと、まるっと1週間ほど、悩みに悩んだ。
そして、その結果、

◎景品は続行
◎できるだけ、「勝負をつけない」ゲームをする

ということにした。


一方で、「勝負をつけないゲーム」って、なんだ?
また、「勝負」をしても、べつにいいじゃん。とも思う。

子どもは勝ち負けのはっきりしたゲームが好きである。
しかし、大切なのは、いったんゲームが終了したら、
きれいさっぱり、こだわらないことである。
負けるチームがあるから勝つチームがあることも教えたい。
負けることを経験することで,児童もたくましくなるのである。

また、勝つ、とか、負ける、とかいうことが、
その人自身の価値とはなんら関係なく、
勝ったからエライ、というわけでもないし、
負けたからその人の価値が下がる、というわけでもない。
人間そのものは、「カチ」ではかられるものではない。
どの人間にも、人間であるということの尊厳が存在する。
どの人間も、ユニークであり、オリジナルである。



そう思うと、あえて「勝負」という枠から出よう、というのも、どうか、と考えた。
勝負を避けよう、という意識になりすぎるのも、なんか妙な感じが残る。


そこで、

「いったい、勝負のつかないゲームってどんなの?」

と尋ねてみた。
もしかすると、プロジェクトアドベンチャー的なものか?



すると、子どもはいたって、ふつうに、

「えっと、花いちもんめ、と、だるまさんがころんだ、です」

と言った。



なるほど!!

花いちもんめ



だるまさんがころんだ

なら、ふつうやんけ!



わたしは、それを許可しました。
あえて、勝負を避ける、という感じも無いし。


そして、いよいよ、2回目の「お楽しみ会」の日がやってきました。
みんな、なんとなくうきうきしています。
なぜなら、今日はぜったいに、阿鼻叫喚にはならないから。
ぜったいに、笑顔で終われるはず、だから・・・。

ところが・・・
まさかの展開に!!!


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(つづく)

景品無しでやろうよ

.
子どもたちがお楽しみ会を企画した。
ところが、うまくいかなかった。
男子が数名泣き、女子も幾人かが泣いた。
女子の大半はうなだれており、残りの男子もどうしていいか分からなくなった。

状況はこう、である。

殴り合いが始まったのは、お楽しみ企画の3つめ。
『リズムで椅子取りゲーム』をやっていたとき。

景品が豪華だった。
みんな、景品がほしくなったのだ。
男子の幾人かで、バトルになった。

景品は、お楽しみ計画係で休み時間に必死になってつくっていた、
アイロンビーズのミッキーマウスである。

これは、教師が見ても、力作だった。
非常によくできていた。
片目をつぶった、ひょうきんな顔のドナルドダックも作られた。
みんな、これが欲しくなったらしい。


最後の一人だけに、この豪華景品がもらえる、ということになり、
とくに男子がヒートアップした。

「おれが先だったよ!」
「おれのが先だった!」
「絶対に、俺だった!」

口で言ってダメなら、こぶしで。

グーパンチ、炸裂!

大泣きに泣いたのが、同時多発で2か所!!


お楽しみ会はまだ続行した。
係りの子たちは、めげない。
最後までやりぬく、とやり切った。
ところが、男子のそのいざこざがあったせいか、どうにも楽しめない。
とうとう、最終的にやっていた『宝探しゲーム』で、再度こぜりあいが始まり、

2回目の、グーパンチ!

すごかったのは、会を進行していた5人の子で、
なんとかグーパンチの4名をとりなし、意見をし、なだめたりしながら、
最後の

「これでお楽しみ会を終わります」

までやり切ったことである。





当然、すぐに振り返りをする。

「今日のお楽しみ会について、言いたいことがある人」

わたしはこれだけ言って、座る。

どんどんと、指名なしで意見が出る。


「何人かのせいで、うまくいかなかった」
「泣いた子がいて、そこから楽しくなくなった」
「けんかはしない、と決めていたのに」

ふだんおとなしい子が、泣きながら目を赤くはらして、

「せっかくのお楽しみ会が、お悲しみ会になっちゃった」

と言うと、教室の中に、どんよりとした黒い雲がかかったようになり、

「ひっく、ひっく、なんでこうなったのかさー、ひっく、よく考えないとさー」

終わったことの安堵と、ようやくこみあげてきた悔しさとで、
しゃくりあげながら話しはじめた、企画メンバー。

「みんなにさー、すごく楽しんでもらおうと思ってたのにさー」


それを聞いて、もらい泣きする子、いたたまれなくて突っ伏す子。

久しぶりのお楽しみ会は、まったくのブラック状態、まさに『お悲しみ会』と化したのでありました。

それでも、大したもんだなと思うのは、なんでこうなったのか、と再検討がはじまったことだ。
このへんが、この子たちの本当の力なんでしょうね。
だってみんな、お楽しみ会ができる人になりたいんだもの。


「景品がなかったら、たぶん、防げたと思う」
「そうだ。景品が良すぎたんだ」
「もし景品がなかったら、〇〇くんも、あんなにヒートアップしなかったんじゃない」

みんなからうながされて、グーパンチをしあった4名が起立。

「うん・・・ぼくも景品に目がくらんで」
「そう・・・景品を見た瞬間に、スイッチが入って」
「景品がすごかったから」
「ぼくも景品が欲しかったし、もらえないと思うと必死になっちゃった」

なんとなく、霧が晴れたようになり、
うつむいていた企画メンバーの中でも、今回しっかり頑張っていたAさんが、気を取り直したように、

「先生、今度は、景品無しでやろうよ」

というと、クラス全員が

「それならだいじょうぶ!」

となった。


ところが、

わたしがすっくと立って、

「いや、先生は、景品があってもいいなあ。だって、すごいかっこいい景品だもの。あんなのがもらえるなんて、すごくいいじゃないの。嬉しいよ~!プレゼントしてもらえて、最高の気分になるよ、一生懸命につくったんでしょう。つくった人は、だれかにあげたいよね、みんな、もらいたいよね。景品があっても、いいはずだと思うがなあ」

と言って座ると、

クラス中(じゅう)が


しーん。

(つづく)

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「人は競争をしなくては伸びない」について

.
子どもが順位を気にすることが、競争をしている、ということになるのでしょうか。

ちがいます。
子どもは自分の立ち位置を確認したいし、勝ち負けもはっきりさせたがるし、何番目だったか、ということも気にします。でも、競争に勝つために練習したり、勉強したり、工夫したり、ということではありません。これは、学校の教員をしていれば誰でもわかることです。

子どもの意識は、「競争に勝っても勝たなくても、どっちでもいい」です。
それでも、上手になりたいし、伸びようとするし、やってみたらどうなるか試してみたいし、自分ができるかどうか、速い方から数えて何番目なのか、結果が知りたいのです。勝つか負けるかが、意識の先に立つのではありません。その証拠に、なわとび10回とべたら、「勝った!」と叫びません。「できた!」と叫びます。

こういうことは、教員をしているとだんだんと分かってくることだろう、と思いますネ。

なわとび

あなたは何をしたいのか(ホントは)

.
子どもが固まるときがある。

「どうしたいの?(どうしてほしいの?)」

と、問われたときだ。

わたしは教師になってこういうことを言い始めた時、
むしろ最初は、子どもはどんどん反応するものだ、と思っていた。

「えっと、ぼく、〇〇したい!(もしくは、△△してほしい!)」

打てば響くように。

子どもはエネルギーのかたまりだ。
クラスの中で、みんなに向かって、ぼく何々したいッ!!と
叫ぶのだろう、と思っていた。


ところが、クラス運営を続けていると、
こういう問いほど、子どもが固まる(というか、考えてしまう)のが分かった。


とくに、友だちとトラブルがあったとき。


自分のせいではない。相手が悪いのだ、ということをさんざん言い、
みんなに聞いてもらって、落ち着いたころ合いをみて、

「何がしたいん?」

と問われると、はた、と止まる。

そして、ううん、と考え込む。




これが、自分は不思議でならなかった。

そんなに、哲学的な問いでもないし、むずかしい言葉でもない。
なにか、高度なことを要求されているのでもない。

「どうしたいん?」

しかし、なぜか、子どもは、そこから

まるでソクラテスのように、
あたかもピタゴラスのように、
サモアの賢人と呼ばれた哲学者のように、

ううん、と遠い目をして、考え込むのである。


そのときにわたしが、つい悪い癖で、

本当はどうしたいん?」

と、『本当は』という言葉をつけるから、良くないのだろうと思う。

本当は、も何も、実は何もしたいわけではないのだろう。
自分からは、ネ。ただ、相手の邪魔をしたくない、というだけで。

朝の風景

落し物を拾う、ということ

.
「先生、セブンイレブンの前の交差点に、こんなの落ちてました」

車の部品?

なんだか、すこし錆びのある、金属の部品が手のひらに。

「困っている人がいると思う」


低学年の子らしい。

これを、職員室の前でわたしは受け取って、途方に暮れる。


この金属が何なのか、さっぱり分からない。

交番に届けるべきであろうか。




子どもは、落ちているのは異常事態だ、と考える。

大人は、落ちていること自体、ふだんよくあること、と思う。

大人はずるいから、

「落とした人も、それはそれとして、新しいものを用意してるだろう」

と考える。

「代替品を用意して、それで用事をこなしているだろう」

と。



子どもの目線でいけば、

「こんな大切な部品(のように見えるもの)、はやく知らせなきゃ」

と考える。



教室で、先生たちは、子どもに

「落し物があったら拾って、お友達に届けてあげなさい」

と指導する。



その子は、それを実践したのだ。


ところがわたしは口ごもって、

「これなあ、拾ってこない方がよかったかもなあ」

と思うのである。


「あのね、これを落とした人が、ああ、ここらへんに落としたかなあ、って、探しにくるかもしれないよね。これからこういうのを見つけたら、そのままにしておいてね」

「はい」

素直な子である。

目を真ん丸にして、わたしを見つめ、至極真剣に、うなずいている。


「でも、気づかなかったらどうするの?」



わたしは天井をむいて、

「そうやなあ」

と嘆息し、

「困ってるかもなあ」



彼は、大きな目でわたしをずいぶんと、もの問いたげに見てから、

その部品をじーっとみて、

「名前が書いてないからね」

と、わたしを助けようとしてくれるのです。



幼き子たちが、いかに優しいか。

目の前の人を、ともかくも、助けたいのです。

自分が「そうなりたい」から、直に「そうする」のです。

だから、子どもは早い、と言えるのでしょうな。


びっくり

リアリズムと子ども~子ども社会の価値意識~

.
子ども自身は、人間の価値を、あまり詮索しないというか、
そもそも人間を比べることの意味を求めようとしないように思う。

子ども社会では、ひとを価値づけることに重点を置くよりも、
一度しかない、わたし自身にとっての体験に意義を置く。
かけがえのなさ、が重要なのだ。

他と比べると、しらける。
だから、〇〇は△△よりも価値が高いとか、低い、ということに、
気持ちを盛り上げていこうとしない。

いわば、◇を◇としてみる、ということをやっている。
ただそのまま、△を△としてみる、ということ。

そもそも、子どもは、難しいことをあれこれと考えないし、
悩むのはきらいだし、明確ではないことを無意識に避けようとする。

したがって、四角いものを、「いや、これは三角だ、三角であるべきなのだ」とは言わない。
仮に、大人がそう言っているのを聞いたとしても
子どもは、その「大人の事情」を理解しません。
子どもたちは、もともと、『忖度』をしない文化に暮らしているのです。

そういう意味で、子どもは徹底したリアリストであり、実証を重んじようとします。





・・・だからかもしれません。

教室では、戦前の教科書のような言い回しを、徹底して笑いのめしますナ!

日本は神の国なので、国難を迎えた時、神風が吹いて、元軍の乗った敵船をことごとく沈めました。

日本は神の国だから、神が風を起こして、敵の船を沈めることも有り得る!!


と、大人がいかに力強く断言したところで、リアリストである子どもたちは、相手にしないでしょう。

大人があてはめるカチを、表面上、一応は受け入れているようだけれども、

実際には、べつに、それほど、カチなんかにこだわらないのです。
「どっかのだれかが、勝手に設定した価値」なんかには。

どこかの人が、ある人をAと評価しようが、Bと評価しようが、どんなふうに価値づけようが、
丸いものは丸いのだし、四角いものは四角い、と考えるのです。



小難しい解釈の世界に入って、

本来は三角であるべきだ、とか、
ダイヤの形が正当なのだ、とか、
どっちが元祖だ、とか。

価値の解釈に拘泥したり、しないのです。

日本という国はすごい!神風が吹く!と言われても、

「その神風、太平洋戦争では吹かなかった、沖縄では吹かなかった」

と、知っているのです。



結局、丸いものは、丸いので。
誰かの意見や感想があれば、四角くなるというわけがない。


やっぱり、事実を見ないのは、大人の癖だという気がするネ。

かみかぜ

記録というもの~子ども社会の『価値意識』~

.
先日、幅跳びの記録をとった。

2mの子と、2m50cmの子がいて、担任のわたしが、

「おお、2m50cm、すごい!」

と大声で叫んでいると、担任のそういう態度については、まったくふつうに受け入れています。

しかし、

あまり2mだろうが、2m50cmだろうが、そのことの価値については、あまり興味は無いようなのです。

なぜ、必死になって、他の子の記録を超えようとしないのでしょうか。


〇〇ちゃんがかっこよく跳べば、みんなが

「オー」

と言い、

△△ちゃんがタイミングが合わなくてずっこけると、みんな、

「あー」

と言うのであり、

まあ、そんな程度であるわけです。


次の日、「先生、わたしの記録ってどんだけだっけ?」

と聞いてきて、それもまたすぐに忘れてしまうようなのが、小学校4年生なのです。


そのことを残念に思ったわたしが、

走り幅跳びにおいて、記録を伸ばす価値、そして、

長い距離を跳ぶ意義を、これでもかと論じていると、

3月生まれの、教室でも一番幼い感じのする子が、

「先生、これって、遠くに跳べる方がいいんですか?」

と真顔で聞いてきました。

わたしは職業人として、誇りをもって、

「そういうことになってます!遠くに跳ぶのが良い!」

と大声で断じました。

しかし内心、

遠くに跳べるのが良い!と言ったところで、

「イヤ、べつに、それと、人の生きる尊さとは、関係ないやね」

という思いも・・・。



彼にとって、かけがえのない記録は、けっして風化しない。

しかし、他と比べることによる価値は、風化する。

小学校では、「価値」という言葉が、なんとなく雲散していく運命にあるようだ。

「価値」は、だれからも気に留められることなく、なんとなく浮いたまま、忘れられ、消えていく。

rikujou_habatobi

漢字がとってもきれいな子

.
わたし自身は、書を習ったことがありません。

子どもの頃は、親から

「字がきたない!!」

と何度も言われて、コンプレックスを抱えていました。

比べられたのが、姉でした。

姉はいつも書道コンクールで「金賞」レベルでしたから、

母親は、いかにも適当なわたしの字が、残念でならなかったのでしょう。



ところが、わたしは字を書くことが好きです。

書道を見るのも、面白い、と思います。

公民館の看板が、毛筆で書かれているのを見つけると、

「こんな筆づかいかな」

と、頭の中でなぞって、書いていることもあります。



新しい漢字の学習は、とくにお気に入り。

なんでこんな字なのか、形なのか、不思議に思えてくる。

象形文字はとくに大好きです。



わたしの勤務校では、宿題で漢字学習をしてくることになっています。

ノート1ページ。

みんな、ずらずら、と書きます。

わたしが子どもの頃も、似たようなことをしていたと思いますが、

けっこう、さぼっていましたね。

また、字も適当で、汚かったと思います。



そういう自分の負い目があるためか、忘れた子を責めないです。

ですが、クラスのほとんどの子が、ていねいに漢字をやってきます。書いてきます。

それがなぜなのか、本当のところは分かりません。



漢字ノートを見ながら、

「きれいに書いたねえ」

と、感にたえたように、つぶやいているだけです。

もし近くにその子がいたら、顔をみて、言います。



また、いたずら坊主のFくんは、宿題を出すには出すが、とても乱雑な字です。

彼の宿題は、たった1文字だけ、〇をつけます。

中でも、まあ、マシな字をひとつだけ選んで、

大きな声で、

「今日は、これや!」

と言いながら、〇を付けます。

「こいつは、美文字(びもじ)やで!」

と言いながら、〇を。

◎ではないですよ。〇です。



すると、Fくんはちゃんと遠くからチラッと、こっちを見ていて、

わたしが〇をつけるのを、見届けているのです。なんとなしに、という雰囲気で、ネ。



たまに、わたしが〇をつけているところに女子がきて、

「なんだこれ、Fくん、字、きたなーい」

と言うことがあります。

わたしは顔をくしゃくしゃにして、

「Fくん、たのむよ・・・」

と泣きそうになりながら、オーバーに言います。

がっくし、と肩を落とし、

「泣けてくるがな」

と言うと、

女子たちは、ワッと受けますが、その光景も、やはりFくんは遠くから、見ることもなしに

ちゃんと、見ているのです。




たまに、うんと字のきれいな子の漢字ノートを、クラス全員に見せて回ることがあります。

「先生、字がうつくしすぎて、泣けてきた」

と言って、ハンカチで目がしらを押さえながら、クラス中に歩いて見せに行きます。

とくにFくんの前にくると、

「どうや、Fくん、すべての字が美しいやろ」

と言うと、Fくんは、

「あー、はいはい」

と澄まして、言います。

それを聞いて、クラス中のみんなが、ワッとなって、また笑うのです。



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椅子の上に立ち上がり、どんどんと足を踏み鳴らす子

椅子の上に立ち上がり、どんどんと足を踏み鳴らす子がいる。

かなり、屈折している、と思う。

こちらを、ちらっと見ながら、やる。


彼のこころは、
そうせずにいられない、狂おしいほどの欲求に、翻弄されている。


どんどん、と足を踏み鳴らす。

となりの子が、

「やめて」

というと、さらに得意がって、机にのぼり、エスカレートして踏み鳴らす。


椅子をふみならす子


わたしは、残念だけど、付き合わないよ、という。

他の子も「どき・どき」してみているから、

「Fくんが、さびしい気持ちになって、ぼくを見てみて、とやっているけど、ごめんね。そのうちに、心の栄養がもどってくると、やめると思うよ」

と言って、授業を進める。

あとは、あしを鳴らそうが、立ち上がろうが、まったく意に介さない。

このとき、クラス全体に、私が彼の、何を、どう心配しているか、伝わっていることが肝要だ。

それと共に、私の願いをふだんから、「繰り返し、語って、伝えている」ということ。



人は、こころがみたされないと、イキイキと振る舞うことができないのだ。
さらに、満たされないときには、だれかのせいにしたくなったり、憐れみを得るためにさらに自分を傷つけたり、嫉妬したりするのだ。暴言を吐くしね。




だいたい、こんな程度のこと。

すごいよね。こんな話、一年生には早すぎるかと思ったら、ちっとも早くなかった。
話すと、ちゃんと分かって聞いている。

それで、F君のこころが充たされていない、ということも、きちんと理解する。

「いろんなことをちゃんとやるエネルギーは、こころが満たされていないと、出てこないよね」

といった程度の、なんとなしの雰囲気を、ふんわかと理解する。

また、人は、六歳にして、すでに、「人を責める」ことも知っている。



さて。


復旧するのを彼に任せておいたことの効能により、いつの間にか、Fくん、ふつうに座っております。

あ、こころの栄養、もどってきたね~

嬉しいなー

にこにこ。

みんなも、今みたいなFくんがいいと思ってるんだよね。

ありがとう。





叱られるのを、叱られることでさえも、心待ちにする子。

嬉しいよ、ありがとね、よかったね、って、本当は言って貰いたい。



だったら、最初からそっちを言った方がいいよな…。

気をつけ!ピッ!

.
気をつけ!と

大声で指示して、笛をピッ!!と鳴らす先生が、

同じニュアンスでもって、

「仲良くしなさい!!」と

言いながら、ピッ!と笛を咥えて鳴らすのであれば、

そんなことには、子どもたちは

まったく関心を示さなくなる、と思う。



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つかちゃんの話 その2

.
つかちゃんの家には、しょっちゅう遊びに行った。

初めて行った時、家の庭を見て、まずド肝を抜かれた。

まるでジャングルである。

植木鉢が所狭しと立ち並び、子どもの視界はすっかりさえぎられて玄関すら見えない。

「こっちから入って!」と叫ぶ、つかちゃんの声を頼りに裏手へ回ると、

家の壁際に巨大なガラス槽が見えた。

噂のカブト虫は、そこに眠っているらしかった。


ここでは何もかも、本格的であった。

僕は、わが家の軒下にある、30センチにも満たない、

ちっぽけな水槽のことをちらりと思った。



つかちゃんは、

「見る?」

というなり、柄の長いスコップで堆肥の山をほじくって見せた。


いた、いた。



白いカブト虫の幼虫が、ごろりと姿を見せた。

ぼくたちはのどを鳴らして、うめいた。

つかちゃんは、去年もいっぱいカブト虫を孵したらしい。

これなら、わざわざ取りに行かなくとも済むじゃないか、と思うのだが、

つかまえるのもやはり、つかちゃんの右に出るものはいなかった。



つかちゃんは夏休みになるときっちり成虫をつかまえて

ますますガラス槽をいっぱいにし、ぼくらをうらやましがらせた。

かぶと

「大人は知らないだろう」と子どもが思う世界のこと

.
わたしが小学校の頃。(今から、もう四十年も前だ)

小学校の一年上級に、虫取りの得意な少年がいた。

塚本という姓であったため、みんなからつかちゃんと呼ばれていた。

彼はたもを持つと横なぐりにビュッと振り回し、一度に何匹もとんぼをつかまえた。



つかちゃんは、冬になってもサンダル履きで過ごした。

くつ下なんというものには、目もくれなかった。

足はいつもすり傷だらけ、乾いた泥をこびりつかせたままで、

平気で家に入ってきては大人に叱られているような子どもだった。




つかちゃんは、私を外へ誘い出すのが上手だった。

雨降りの日でも外で遊びたがった。

大人が使うような黒い大きな傘をさして、ゴム長を履いて玄関で待っているつかちゃんは、

ある日、両腕にインスタントコーヒーの空き瓶をいくつも抱え、

私にも、いくつか持たせたのだった。



「ガムシを取りに行こう」

つかちゃんは急いで早口でしゃべった、「空き地にいっぱいおる。」



ガムシなんていう虫は知らなかったが、

つかちゃんの腕力に押されて空き地へ連れていかれた。

わたしは、その『ガムシ』というのが、肌を刺したりしないかどうか心配した。



空き地では、住宅を建てるために整地工事が始まっていたようだった。

雨の中にひっそりと黄色いショベルカーが置かれ、そいつが通った跡に

でっかい水たまりが出来ていた。



つかちゃんは脇にしゃがみこむと手のひらで丹念に水をかい出しては、

「ほらおるおる」

黒い小さな斑点のような虫を水ごと瓶へ入れた。

それは、ゲンゴロウのはるかに小さく縮んだような、迫力に欠ける虫であった。


幾分、期待を裏切られたような気分でいると、

つかちゃんは瓶をたちまちいっぱいにし、

「次!」

と、下を向いたままで叫んで片手を突き出し、空き瓶を要求した。

僕は黙って抱えていた瓶を差し出した。



つかちゃんは、

大人の知らない、大人が教えてくれないようなことを、

教えてくれる人であった。

子どもだけが持っている世界、知っている世界、浸っている世界が、あることを、

つかちゃんは、当時、わたしに教えてくれたのであった。

クスサン幼虫をもらった手のひら

悪口が、空中にぷかんと、浮かぶ感じ

.
わが学級にも、悪口はあります。

とくに、まだ人間関係ができていっていない時期、1学期はありますね。

6月中旬くらいで、ずいぶんと静かになり、

「おや、どうも最近は聞かれないな」

となる。

子どもたちどうしの人間関係も落ち着き、クラスの授業の雰囲気や、進め方や、

お互いの性格、ポジション、好みなどが分かってきて、6月中旬ごろ、子どもたちは

「ちょっとひとまず、これでいいかな」 と思うのではないだろうか。



それでもたまに大喧嘩などがある。

すると、久しぶりだから、燃え方がちがう。

「死ねーーーッ!!」

「おまえ、うぜぇーーーッ!!」

と、さんざんやり合うが、これはまあ、ふつうの大人の人ならたまげることでしょう。

なぜならふつう大人になると、ここまでひどい悪口は、日常、言わないでしょうから。

子どもだからこそ。

こういうセリフを、言うのですよね。

大人になると、言わなくなるもの・・・。



わたしは、双方が悪口を言い合っていてもしかりませんが、これはもう、子ども自身が、

「相手をののしる」

ということについて、あまり楽しい感情をもたないから、

叱らないでも無くなっていくわけで、

ののしると、もうそれは、ひどい感情になりますよね。

泣きたくなるし、実際に泣くし、嗚咽するし、

泣きわめいたあと、周囲の友だちが、ちょっと距離をあけてくるし、

いいこと、なんもない。



そういうことを経験するというのは、まあ、ひとつは勉強なのでありましょう。

そして、相手をののしる、ということについて、みんなでまた、冷静になって、

その メカニズム というか、 からくりというか、

自分の感情がどうしてそう動くのか、

なぜそう思うか、そこで、どんな思いが湧き上がってくるか、

さびしい気持ちや、わかってほしいという切実な思いを、

見直していきます。


実際に、派手なけんかが起きたときが、

人間関係を深める、とってもよいきっかけになることは多いです。


そして、見直してみると、

その悪口が、とても自分の口から出た物だとは、思えないくらい、

自分から離れて、なんとなく空中にぷかんと浮いた、

寂しくて悲しい、愛おしいものに

見えてくるそうです。(子どもの日記から)

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小学校の教室の研究【あなたのための、空間】

.
人が複数いたら、利害関係が生まれて、一致しないから、
争いが起こるのではないか。

教師になる、ずっと以前から、私の頭にあった疑問です。

A君のための場であることが、Bくんのための場であることと、なんら矛盾しないのかどうか。

これは、AくんとBくんがちがう人間である、という『ユニークさ』が、それを両立させるのでしょう。

生物学の本など読むと、どうもそう思われてきます。


これは、簡単なことですが、Aくんのための場であればあるほど、Bくんのための場になるわけです。

教室には、離席する子もいれば、しない子もいます。

そして、双方が、それを邪魔とは思わないのです。

「ちっとも邪魔にならない」

というのが、ひとつのポイントだと思うようになりました。

そういう、おたがいの、間柄なのですよね。




では、なぜ、そうなるのでしょう。

ここは、あなた(わたし)のための、空間。


小学校の教室は、そこが決まっているから、ということなのだろう、と思います。


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小学校の教室の研究【なぜ楽しいか】

.
子どもたち、朝から、なんとはなしに、タノシイ、ようである。

これが、なぜなのか、わからない。

たぶん、居心地が悪い、と感じている子がほとんどいないからだろう。


ところが、わたしとしては、算数をたくさんさせるし、宿題をチェックするし、

どんどんと当てるし、作業させるし、授業の進め方は他の先生よりも忙しいようで、

学校がきらいに思う子も、中には実はいるんだろう、と思う。



ところが、なんとなく、教室は、タノシイ。

これは、友だちがいてくれる、そのおかげでありましょう。

仲の良い友だちが、いっしょになって励んでくれるのであれば、

むずかしい算数もやる気になり、宿題もまあ、やってこようと思い、

みんなで答えを確認しあって、

「あってたー」
「うぎゃー、ちがってたわ」

と言い合うのも含めて、宿題もそんなには苦にならないようである。


「先生、黒板に書くスピードが速すぎるよ」

という子もいるが、

「これは6年生レベルのスピードだったな。みんなは4年生だから、ちょっとゆっくりにするか」

というと、

「あ、ゆっくりにしないでいい。6年生レベルでやろう」

こういうのは、いったい何だろう、と思う。




それとか、

「宿題やだー!!」

と言いながら、

「でもやっぱ、宿題、出して」

と言うのは、なんだろうか。



よく大人は、

「自分の本当の気持ち」

とか表現したりしますが。

宿題をやりたい、やりたくない、というのは、自分の気持ちのうちでも、

かなり表層の、薄皮の一枚、という感じだね。

そのもとにあるのは、

宿題をやらなきゃならない、と思っているか、そうは思っていないか、だね。




「先生、算数みんなで答え合わせするんだったら、もう1枚出して」

つまり、この子は、宿題をやりたいかやりたくないか、こたえはどちらでもない。

「みんなで、答え合せ」がやりたい。これが答え。

もっと言うと、

「あー、合ってたー。〇〇ちゃんも合ってたー。あ、つぎのはちがってたー、〇〇ちゃんもちがってたー。これ、むずかしいよねー」

というのがやりたいのであって、

「宿題がやりたいか、やりたくないか」

という、2つから選べ、じゃないのな。自分の本当の気持ち、というのは、ネ。


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