30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

教育技術・授業あれこれ

平和教育について ~縄文時代を考える~

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数年前、わたしが小学校6年生で授業をしたとき。
歴史の授業を終わる頃になって、最後の討論が、次のテーマであった。
「人間は進化しているといえるか」

多くの子が進化はしている、と答えた。
産業革命、明治維新の文明開化、昭和の経済成長、東洋の奇跡。

どんなことで「進化している」と実感しているか。
子どもたちは、ノートにたくさん書いた。
スマホでなんでも分かる。誰でも連絡をとれる。いつでも好きな本を読める。
今、MicrosoftやGoogle、Amazonといった世界企業がどれだけ人々の暮らしを便利にしているだろうか。自動車は道路をびゅんびゅん走るし、コンビニはいつもおにぎりを売っている。

ただし、進化していない、と書いた子もいる。

「戦争をするから」

彼女はその一点だけで、

「ぜったいに進化はしていない」

と言い張った。

たしかに、戦争と言う名の、沼底をひっかきまわしたような黒さが、太古の昔の百姓たちにあったとは到底思われない。
細々としていたかもしれないが、平和だけはいつもしっぽのようについて離れなかったのではなかろうか。

縄文時代の人骨が出てくる地層を見ると、どの骨もていねいに埋葬していた様子がうかがわれる。
ところが、これが時代の進んだ弥生時代になると頭骨の頂点が鈍器で殴られたようなあとがついていたり、足の大腿骨を破壊されたりした骨が、バラバラと出てくるのである。

彼女は1学期のそのときのことが、今でもいちばん思い出されるのだ、と言った。
どんなに「発展」しても、どんなに「進んだ」と言われても。

生まれた命は生きられるだけ生きたい。ひたすら生きるために、一日として欠かせない血族の食糧を支える苦闘が見事な知恵と工夫の花を咲かせた。知らずにいたこぼれた種から芽生えて実る理法に気付いて、採取した木の実、草の実の少しを大地にまいてみて、はじめて得た収穫の奇跡。
小さな根菜の切れ端をうめて、数倍の子塊をぞろぞろつらねて、掘り出される増量のおどろき。

そのときの歓喜、希望、安心よ。
農業の、食物を支えられる生活の小さな平和は、縄文時代に、おそらくは多くの女性の手によってつくりだされたように思う。

子育ての愛情、これはいつの時代の女性にも備わる本能ともいえようが、この本能がはちきれて、芽を出した植物を愛する努力となり、みずみずしいうるおい、みのりをもたらした。
生きるために、努力と希望を失わなかった縄文農業者の元祖が、原始の女性たちであったことは、容易に想像がつくのである。

この、原始の女性たちが、いま、わたしたちと向き合って座ったとしたら。
私たちは、どんな会話を、かわすのだろうか。
「縄文時代の人と話せるとしたら、どんな話をしたい?」

昭和、平成の時代まで、小学校の歴史授業のすべてを終えた、6年生に聞いた。

「どうやったら、争いをなくせますか」と、聞いてみたいです。

この平和な平成という世の中に生まれて育ち、何不自由なく暮らしているはずの小学生の女の子が、縄文人にこんな質問をしたい、と言う。

このことを考えるたびに、わたしは、『平和教育』というのは、大人がやりたいのではなく、子どもが自分たちの未来についての安心を得たい、という意欲なのであり、それを大人がどこまで大切にできるか、ということなんだろう、と思うようになった。

三内丸山遺跡

たこは悪者か

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蛸は西洋ではこんなにも悪魔的に恐怖の対象として扱われているのに、日本人が蛸のことをずいぶん大目に見ているのは、なぜなんだろうか。

学校に来ているALTの先生に、オクトパス、と聞くと、最初通じなかった。
イラストを描くと、Oh!と恐怖の表情を浮かべて、アイムソーリー、と懇願し、
「わたしはそのあなたがえがくところのその絵画については恐怖の念を覚えてしまうのである」
ということを言った(たぶん)。

そこでわたしが不思議そうに、

「あなたはなんでそうおもうのであるのだろうか。わたしはその蛸と呼ばれる生物については、いっそのことその身体を食してしまおうかと思うほどだに愛しているところなのである」

ということを言うと、彼女は明らかに

ウエェッ

という表情を見せて、欧米人がよくやる、あの例のポーズをしてみせた。

Oh my GOD !

肩をすくめて、両方の手のひらを上に向けた。

「知らんがな」と、ついそのポーズをみると声を出して説明したくなる、あのポーズである。

OhmyGod


なぜ蛸があかんのか!



私は全日本人を勝手に代表し、欧米人諸国のみなさんに、これを正したいと思う。

蛸は(ある意味で)相当にかわいいではないか!







5年生の社会科で、もうすぐ、タコのことを学ぶ。

いや、もとい、水産業を学ぶ。

幸先の良いことに、子どもたちはみんな、たこが大好き、である。

しかし、好きすぎるのも、困るときがある。

それは、水族館での見学姿勢に関わってくる。

あまり好きだと、食いたくなる。それは、場所が水族館だと、ちょっと問題になる。


授業が始まったら、きっとわたしは、日本人が水族館で抱く感情のうちもっとも多い感情のひとつ、

「美味そう」

という感情について、子どもたちに説明することであろう。

えー、いいですか、みなさん。
日本人は、水族館に行くと、必ずアジが群れをなして泳ぐところを見ます。
そして、えらのところをよく見て、こつっと当たる背骨に沿って、切れ味の良い包丁をさしこんで、料理する手順を復習します。頭の中で。

寿司ネタが群れを成して泳ぐ水槽を見て、
「この水槽だけで100人の宴会ができそうだな」
と考えてしまうのが日本人ですが、西洋人は必ずしも、寿司ネタが泳いでいるとは思わないそうです。みなさんは、どうですか。

すると小学生はたちまち回転ずしで、自分がまっさきに注文するネタは何か、と議論を始めるにちがいない。

水族館学習の前に、

「すべてが寿司ネタというわけではない」

という、基本的な学習が必要であろう。

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日ま賀の蛸が、うまい理由(わけ)

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学習問題:日ま賀の蛸がうまい理由(わけ)


そんなに格別に美味いわけじゃないだろう。

子どもたちが侮った表情でいるから、
日ま賀の蛸がめちゃくちゃ美味いことを教える。

日本では、瀬戸内海の蛸が有名であろう。
明石のタコは有名だし、広島の蛸も美味いと聞く。

しかし、小田急や東京地下鉄株式会社が出資する「ぐるなび」というグルメ情報のサイトでは、日間賀島の蛸ちゃんたちが、明石や広島の蛸どもを抜いて、堂々の一位である。

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さて、なんでか。

一通り、常識的な回答がある。

「水がきれいなんじゃないかな」
「えさがいいんじゃないかな」

そこで、餌はあさりであることを伝える。

「あさりが、いいあさりなんじゃないかな」

いいあさりって、なに?

「栄養たっぷりの、ぷりぷりのあさりなんじゃないかな」

正解!



実際、日間賀島の蛸は、浅い海域の砂地で餌となるアサリなどを食べて生きている。
これらのあさりは、ぷりぷり、である。
陸地から、川の水がたっぷりと流れ込み、海水とほどよく混じる。
ミネラルの豊富な海の水となり、地形の助けをかりて知多湾や三河湾で循環する。
だから、良い水となり、あさりも大きく育つし、豊富であり、元気がいい。

森からの贈り物が、愛知県全域から、海へと流れ込んでいるのである。
日間賀島自体にも、長い間に堆積した地層に栄養が含まれているらしい。
蛸は、よほど良い地形に巡り会えたのだ。



もう一つ、理由がある。
たこの採り方が、いいのである。
ていねいで、たこにやさしいのだ。

「たこにやさしい採り方って、どんなのだろう」

たこの採り方を2つ、例示して、選ばせる。

1)長い縄にカギ棒をつけておいて、海底をひっかいてとる。

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2)たこつぼでとる。

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全員が、2)たこつぼ、をえらぶ。
正解だ。


このあたりの海域は、浅いのである。
だから、たこつぼでとれる。
岩場がごろごろしているところでは、たこは岩場に隠れてしまう。
ところが、海底が一面、砂地だらけだから、隠れるところがない。
たこつぼを沈めておくと、「あ、ここに良い家があるではないか」と入ってくれる。

たこつぼでとれた蛸は、身が痛まず、ストレスのない快適環境のまま、とれる。
網でごっそりと掻きさらって、身を岩場に撃ちつけながら悲鳴とともに収穫されたものとは違う。
だからこそ、美味いのだ、という。

美味しい蛸に感謝して、タコが祀られてきたのである。

感想を書いて、おわり。

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蛸が神様になりました

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愛知県の子どもは、海が身近だ。
愛知には川も多いが、海も多い。
わたしの住む岡崎市の子どもたちも、三河湾で泳ぐ。


さて、その海の勉強をしなければならない。
5年生の社会科で、『水産業』を学ぶからだ。
わたしは目の前の海、三河湾と知多湾の中間にうかぶ島、日間賀島を題材に、授業プランを練った。

5年社会 水産業と人々の工夫

「日間賀島では、たこが神様なんて、変だよね」

そうつぶやくと、変だ、変だ、の大合唱である。

なぜ蛸を神様として祀るのか。


わたしはスライドで、蛸阿弥陀如来の絵馬や寺の様子を見せる。

蛸が神様の「安楽寺」の説明には、
この仏様は、大昔、日間賀島と佐久島との間の島が大地震により陥没し、ここにあった筑前寺の仏像の胎内仏が当時の漁師の網にかかって引き上げられたものと伝えられています。そのとき、1匹の大たこが仏様を守るように抱きついていたので「章魚(たこ)阿弥陀」と呼ばれています。
とある。

蛸阿弥陀如来


蛸阿弥陀如来4


ついで、日本昔話の『蛸薬師』を見せる。

日本昔話の蛸薬師


見終わると、

「良かったじゃん」「蛸で良かった」「蛸、お母さんの病気治したからエライ」

と、タコの評判がとみに上がる。



ところが、欧米では、タコは悪魔の手先と思われて、評判としてはエクソシストよりもさらに下の下、である。

蛸は悪魔か


大凧



欧米との差に、唖然とする。



日本では、蛸がこんなにも愛され、大切にされたのはなぜなのか。

これは、日間賀島のあるあたりの地形に関係がある。
つまり、タコが、うんとこしょ、とれるのである。
だから、島民は蛸によって、蛸に感謝をしながら、生きてきたのである。
それが、「蛸を神として祀ろう」という意識につながってきたのではあるまいか。

この程度のことは、子どもたちから予想が出る。

「たくさんとれて、美味いからでしょう」

では、なぜ、日間賀の蛸は、これほどに美味いのだろうか。

子どもたちは、次の学習課題を立てる。

日間賀の蛸が、たくさんとれて、格別に美味いのはなぜだろうか。


なんでだろう?

5年国語光村 なまえつけてよ 授業プラン

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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あめ玉で時間を取り過ぎたので、この単元は短くやることにした。

小さな、微細な表現から、登場人物の心情を想像する力をつけたい。

本文を一読し、この文章には、次のような表現(印象を示す言葉)が多い事に気が付いた。

〇じっと
〇ぱちりと
〇ふらりと
〇ちらっと
〇ぷいっと
〇ゆらりと
〇さあっと
〇じっと(2回目)
〇そっと

これだ、これだ。
この微細な、ちっぽけな言葉の意味するところを、さぐることにしよう。
春花が勇太をみたときの、『印象を示す言葉』。
この小さな、春花の勝手な思い込みにも等しいような、勇太のしぐさを表す表現をさぐることで、春花の勇太への思いを読み取れるかもしれない。


もう一度、この表現を分類してみると、

〇じっと⇒茶色の子馬が
〇ぱちりと⇒茶色の子馬が
〇ふらりと⇒勇太が
〇ちらっと⇒勇太が
〇ぷいっと⇒勇太が

〇ゆらりと⇒ねこのぽんすけが
〇さあっと⇒風が
〇じっと⇒勇太と陸が

この中でとくに、「勇太」のしぐさ(春花視点によるもの)に焦点を合わせる。


ふらりと
そのときだ。道の角から、ふらりと勇太が現れた。弟の陸を連れている。

これは、地の文であるけれど、ほぼ春花の視点による表現である。
ではなぜ、春花は、「勇太がふらりと現れた」と、感じとったのか。【ふらり】を無くし、「勇太が現れた」という文に直してから比較した。

「道の角から、ふらりと勇太が現れた」を、
「道の角から、勇太が現れた」にすると、勇太はまるで、春花がそこにいることを知っていて、わざわざ、そこに会いに来たようにも見える。

ふらりと、という表現があることで、春花は、勇太が自分のことを意識して来たのではない、と考えていることが分かる。
「勇太が自分を意識しているはずがない」と思うから、【ふらりと】と春花は感じるのだ。


ちらっと
勇太は顔を上げて、ちらっと春花の方を見た。でも、すぐに目をそらした。

これも、地の文である。しかし、内容はほぼ、春花からの視点で書かれている。「ちらっと見たな」と受け取ったのは、春花である。
この、『ちらっと』を、仮に無くして読んでみると・・・

勇太は顔を上げて、春花の方を見た。

となる。

こうなると、勇太が春花の言動を気にして見ていたような雰囲気になる。ちらっとがあることで、「一瞬だけ」という感じがする。
つまり春花はまだこの時点でも、
「勇太は私のことを特に意識していない」
と考えているわけだ。


物語中、春花の勇太に対する心情が、直接どこかに書かれていることはない。だから、こういう微細な表現をのがさず見ることによって、春花の心情を推し量っていこう、というのが、初回の授業であった。


実際、この方法で取り組んでみると、比較的意見を書きやすい。
物語文に苦手意識のある子も、ノートに意見を書くことができていた。





次の時間、物語を3つの場面に分け、それぞれに春花の心情をまとめていった。

微細な表現に着目させ、
〇〇と と書いてあるけど、もしそれがなかったら、△△△・・・っていう感じに聞こえるから、わざと〇〇と、という表現で、春花の勇太に対しての気持ちをくわしく表現したのだと思う。

と、意見が言えるようにしていく。


その後、うちのクラスで出た【印象言葉】の解釈は以下の通りである。

★第二場面★
〇(勇太は)後ろから→わたしのやること(名前つけ)にはあまり興味がないんだな
〇(勇太は)じっと(2回目)見ていた→わたし(春花)のことで、心配をかけたかも。

★第三場面★
〇(勇太が)そっと→内緒でくれた。大事そうに。うれしい。
〇(勇太は)急いで→急がなくてもいいのに。話をしたかったな。

どれも、春花の心情を表すために、必要な表現である。
これらがもし仮に無かったら。
春花にとっての勇太の行動の意味は、まったくちがったものへと変わってしまう。

春花が期待するもの。そして、勇太の実際の行動。

これらの相互関係を、微細な『春花にとっての印象言葉』から、読み解いていく教材だ。

紙の馬

給食を考える

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給食が食べられる、ということを、子どもと考えてる。

今日はまだ、

「給食って、みんなどんなふうに感じているの」

というところだけ。

「おいしい」
「いいな、と思う」
「つくってくれている」
「いつも焼き肉があればいいのに」
「いつもプリンが出てほしい」
「でも、まあまあみんな美味しいから好き」
「もっとこうしてほしい、とかもあるけど、ふつうにおいしいからいい」
「全校分になるとすごいたくさんだと思うけど、みんな毎日つくってくれてる」


ああだ、こうだ、とみんなで出し合う。

わたしはほとんど、聞いている。

ジュースが出ればいいのに。
お菓子が出ればいいのに。
ステーキが毎日出てほしい。
アイスクリームが出ればいいのに。

そういうのに、一つひとつみんなで、ワハハ、と笑う。

でも、しばらく出し合っているとそういうのがやんで、

うーん、毎日、毎日、出てくるねえ、と。

一度も、休んでいないよねえ。毎日だもんねえ。

「お母さんといっしょだ。毎日、作ってくれてるもん」

本当、そうね。

なんで、こうやって毎日、みんな給食を食べられるんだろうか?




「うーん」
「なんでって・・・」
「ぼくが食べたい、と思っているから・・・」
「食べたいと思っているから出るの?」
「作ってくれるからだよ」
「お金を払っているから」



「ああ、そうだ。そういえば、お母さんも毎日、つくってくれるよ。それと同じ」


「ぼく、たまに手伝うよ」
「わたしも」


「おれ、たまにチャーハンつくるよ」
「チャーハンのもとがあるから、それでさっさと。かんたんだよ。コツはねえ。うーん、卵かなあ。けっこう卵を多めにして」
「わたしはこの前、カレーつくったよ」
「私も!カレー、かんたんだよ!じゃがいもの芽だけ、お姉ちゃんがやったけど」



こんな感じで、あれこれと出し合うだけで、なんだか幸せになる。

「ねえ、先生。これって、なんの授業なの?学活?総合?道徳?」

なんで、給食、食べられるんだろうねえ。

わたしは授業の終わりの時間に、再度、聞く。

また、みんなで考え込む。

「お金を払ってるんでしょう?親が」
「作ってくれているから」
「腹が減ったから」
「なんだかしらないけど、食べていいよ、ということになってるから」

ふーん。

ノートに、今日、考えたことをみんなで書くが、思いのほか、時間がかかる。

なにか、いろいろと頭を使った後は、それを書きだしたくなるものだ。




「またこの授業する?」

うん。

「こたえが出てないけど、いいの?」

どうかな。

「国語といっしょ。こたえはないんじゃないの?」
「決めなくてもいいんだよ。こたえは。ひとつじゃないから」

そうか。じゃ、そういうことで。

みんなの意見は、学級通信に載せて、またみんな各々が、考えることになります。

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5年国語光村『あめ玉』の授業 終わり

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さむらいは、なんで寝たふりをしたのか

さむらいは、子どものだだをこねる声で目を覚ました。
そういう解釈が成り立つにも関わらず、クラスの中には、

「もしかしたら、このさむらい、最初から寝たふりしてたんじゃないの」

という懐疑派がいる。

またその一方で、寝たふりという解釈は自然じゃない、と主張する子たちもいる。

「だって、なんでわざわざ、寝たふりするのさ」

というわけだ。


寝たふり派は、そのもっともらしい理由を、どこからか見つけてこなければならない。

読み込んでいくと、冒頭のシーンが浮かび上がる。
舟が出ようとすると、
「おオい、ちょっとまってくれ。」
と、どての向こうから手をふりながら、さむらいがひとり走ってきて、舟にとびこみました。

走ってきたのだから、ぜいぜいと、息を切らしているはず、である。

そこから、急に、寝に入るのはおかしい、というわけだ。

「だから、寝てません」



しかし、これは逆襲されてつぶされた。

「だって、疲れて、逆に眠たくなると思います」

起こされた派は、もういい加減、ねばるのはやめにしなさい、という雰囲気。

「走ってきて疲れて、眠りたくなった。でも子どもに起こされた。これ、子どもたち、言うことを聞きなさい。・・・というわけで、刀ですらり。意味が通る」

たしかに。


ここで討論は終わりかけになった。

私は、教室全体に、「もうおしまいにしようか?」と水を向けた。




その瞬間。



「いや、だからこその寝たふり、なんですよ・・・」




と、低い声がした。

教室の全員が振り返ると、一番後ろの席の、前髪の長いMくんが、久しぶりに挙手している。

そういえば、Mくんも【寝たふり派】だった。

Mくんは、前髪をたくしあげながら、えーーーーっと、と大きな声で言いながら立ち上がった。

さむらいの気持ちになってみます。
あわてて船に飛び込んだ。
間にあって良かった、という気持ちと同時に、子どもの目線が気になったはず。
子ども目線だと、「あのおじちゃん、慌てて来てらぁ。ハァハァ息をして、おかしいの」と、そこですでに侍としてのカッコ良さが消えちゃってる。威厳も無くなってる。恥ずかしい。その母子に合わす顔がない。

『だから、寝たふり、です』

新美南吉は、ちゃんと寝たふりの原因から、物語を書き始めている、というわけだ。
おうい、まってくれ、のくだりは、たしかに物語のはじまりにとって、特に必要な場面でもない。しかしなぜか、さむらいが遅れてくるところから、描かれている。

「船に母子とさむらいが乗っていました。さむらいはうとうとしはじめました。」

で始まればいいものを、わざわざ、新美南吉は、さむらいを滑稽に描いている。息をきらして、

「おうい、まってくれ」

と言わせている。
そう書かねばならなかった理由がある、というわけだ。



まとめ

物語に無駄は無い。





学級としての、最終結論は、なし、である。

起こされた派も、寝たふり派も、共にちがう論があったからこそ、お互いによくよく文章を読み深めることができた。どちらも不正解というわけではない。だからこそ、さらに深く読み込んでいける。もっと奥があるかもしれない。

そこが文学の面白さ、楽しさなのだろう。



授業の振り返りを日記に記した子。

「さいしょは、やさしいサムライだな、というイメージでしかありませんでした。でも、深くみんなで読んでいくうちに、なんだかとても面白いサムライだな、子どもを驚かそうとしたり、恥ずかしくて寝たふりをしたり・・・。偉そうなサムライも、みんなと同じ、ただの人間だと思いました」


林の中の貝の仲間

5年国語光村『あめ玉』の授業 その4

さむらいが起きたとしたら、どこか。

この発問に、あれこれと意見が出る。


しばらくするとひとりの子どもが、
「かあちゃん、飴だまちょうだい。」
と手をさしだしました。


すると、もうひとりの子どもも、
「かあちゃん、あたしにも。」
といいました。


「あたしにちょうだい。」
「あたしにちょうだい。」
 ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。


子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。


このいずれか、に落ち着く。
これはどこであっても、間違いということはないから、
どの子も安心して自分の意見を言う。
㋓の意見が多い。何よりも、「だだをこねた」というところが、侍の耳には【五月蠅く】聞こえそうだから。

しかし、ここでまったく別の意見が出る。


最初から、ずーっと寝ていない。つまり、寝たふり。

という意見だ。


㋓派は、「だだをこねた声で起きて、ちょっと不機嫌な感じのところに、さらに子どもがだだをこねているので、こら、だだをこねるんじゃない、という意味で、ちょっと子どもをこらしめてやろう、と思い、すらりと刀を抜いたと思う」

なるほど、つじつまが合う。論理的にも、納得できそうな感じがある。

㋔派は、「そもそも、この船には、ほかに客が乗っていそうな気配が無い。つまり、乗客はこのさむらいと、母子だけであろう。だから、ちょっとさむらいとしては、寝るふりをしてるほか、所在なかったのではないか」
そしてプリントに、
『あれ、客はこの親子だけか。子どもといっしょになっちゃったな。まあ寝たふりでもしていようかな、グーグーグー』
と、さむらいの心境を書いている。


㋓派と㋔派が拮抗したので、それぞれで俳優を決めて、その場面を演じてもらうことにした。

㋓派は、子ども役が上手にだだをこねてうるさくなり、そこでイライラしながらさむらいが「なんだうるさいなあ」と起きるところを演じてくれた。
そこで、刀をすらり、と出す。うまく演じることができて、みんな納得。

㋔派は、船に乗ったときから、「あれ、親子連れか。まあいい。わしは寝たふりでもしていよう」と寝たふりをし、そのままだだをこねるシーンで目を開けて、うむ、わしの出番じゃ」と演じた。
これも刀をすらりと出すまで、うまく演じた。これも納得。

しかし、一点、㋔派に【物言い】がついた。


なんで親子連れだと、寝たふりをしようと思うの?


さきほど、「なんだ、子どもがいる船に乗っちゃったな」と演じた子が、懸命に説明した。
黒ひげの大男。ひげづらのおさむらいが、母と子だけの船に乗る。
そうした場合、すぐそばに同行するような形になったとしても、なかなか打ち解けて話しかける風にはならないだろう、という。
「すぐそばに座っていて、目が合ってもなんか話す雰囲気じゃないと思う。だから寝た」

ところが、このあたりの細かいニュアンスが、女子の数人にツタワラナイ。
「なんで寝たふりなのか、まだ分かんない」


ここで、時間切れ。
子どもたちに聞くと、次回の授業の発問は、
「さむらいは、なんで寝たふりをしたのか」

をするのだそうである。

ヤマブキのつぼみ2


5年国語光村『あめ玉』の授業 その3

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さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか

これは、立場をはっきりさせる発問だ。

起きていたのなら、子どもが笑ったことも分かっただろう。
寝ていたのなら、子どもが笑ったことは分からないはず。
さむらいが、子どもたちに笑われたかどうか。そのことを、さむらい自身がどう感じているか。
どちらでもない、という答えが出にくい。

子どもたちは、きれいに半分程度に分かれた。

「いねむりをしていた」派の根拠は、
ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
という叙述にある。

だって、いねむりをはじめました、と、明記してあるじゃないか、というのだ。

いねむりをはじめた、と書いた以上、実際に寝たのだろう。
そうとしか考えられない、と主張する。


かたや、「いねむりしていなかった」派は、少し押され気味になりながらも、
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、

という叙述部分をあげる。

・・・はずの、というところが、ミソだ。

〇〇していたはず、というのは、ほぼ確定していたと思われている事実が、実はそうではなかった、という場合に使われる。
だから、作者である新美南吉自身も、「さむらいはいねむりをはじめた」とつい書いてしまった。だがしかし、そうであった「はず」のさむらいは、実は親子の様子をしっかりと分かっていて、大事な場面ではきちんと目をあけて、観察している。これは、「眠っていたはず」であろうが、実は「眠ってなどいなかった」ということなのだ、という。

いや、子どもが騒いだから起きたんじゃないの、という意見も出た。

なるほど、じゃあ、次に考える【学習問題】は・・・
さむらいが起きたとしたら、いつ起きたのか。

だね。

みんな、自分たちが発案した問題だから、意気揚々と取り組んでいきます。

あめ玉の表紙



5年国語光村『あめ玉』の授業 その2

主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』

やさしい派は、結局、このおさむらいは、親切を働いたのだから、という。
やさしくない派は、それにしてもやり方があるだろう、という。

結論は、

「このさむらい、本当は優しい人なんだけど、ちょっと馬鹿」

ということになった。


そこで、私が介入する。

「まあ、馬鹿、という即断しないで、もうちょっと深く考えよう」


子どもがいたら、ふつうは刀を抜く前に、声をかけるだろう。
ところが、このさむらいは、かけない。
わざとしたように、無言で刀を抜いて、近づいてくる。
子どもはこわがる。母親もこわがる。
さむらいは、この家族に、命の危険を感じさせる。すぐにも、斬られる、と思わせる。

どうしてか。


うーむ。
考え込む子どもたち。
なぜ、一見、いじわるにも思えるような態度を、さむらいはとったのか。
どうして、子どもをビビらせるような、行動に出たのか?
なぜなんだ・・・。


教科書の最初からずっと見直して、なにかヒントはないか、叙述から探していく。

すると、そもそも、このおさむらいのことを、子どもたちが最初、馬鹿にしていたシーンが浮かび上がる。
黒いひげをはやして、つよそうなさむらいが、こっくりこっくりするので、子どもたちはおかしくて、ふふふと笑いました。
 お母さんは口に指をあてて、
「だまっておいで。」
といいました。さむらいがおこってはたいへんだからです。
 子どもたちはだまりました。

ここが、さむらいと、子どもの関係を物語っている部分です。

ここに、なにか重大なヒントがあるかもしれない、と注目させます。
おさむらいと、子どもの関係・・・。

イラスト図を配ります。
おさむらいは、こっくりこっくり。(ところが片目は半分開いている)
子どもは、笑ってる。
そういう図を配ります。
吹き出しをつくり、そこに子どもたちが登場人物の心中の声を書き入れられるようにしておきます。

つぶやきを書かせると、
子ども「うはは。強そうなのに、寝ちゃったよ」「すごいひげだな。だけど寝ちゃったな」
さむらい「せっかく寝たいのに、なんだか笑い声がするぞ」「おれのひげを笑っているようだな」

と書く。

そこから、このさむらいの性格が見えてくる。

まとめ。
「このさむらいは、ひげのことを笑われたので、子どもをちょっとこわがらせてやろうかな、と思ったかもしれない」

もう一度、さむらいの性格を考えながら、物語を音読してみる。

最初に音読したときと、今読んだときと、読み方が変わったところがある?

「飴玉をだせ、のセリフを、前よりもこわそうに読みました」
「いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、のところで、あれ?いねむりしてたはずなのにな・・・という感じで、意外な感じがするように読みました」

ん?どういうこと?

「このさむらいは、本当は、いねむりはしていなかったかもな、と思ったから」

さあ、二つ目の主発問。
「さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか」

討論開始、です。

amedama

5年国語光村『あめ玉』の授業 その1

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新美南吉の『あめ玉』を読む。

まずは音読。
 お母さんはおどろきました。いねむりをじゃまされたので、このおさむらいはおこっているのにちがいない、と思いました。
「おとなしくしておいで。」
と、お母さんは子どもたちをなだめました。

全員で呼んでいる時、工夫している子を見つけて

「あ、工夫している子がいる」
と読ませる。
「おとなしくしておいで。」

全員が、お母さんの声になって、さむらいを起こさないような声に変わる。

「いいですねえ!お母さんの雰囲気が出てきました!」と全員をほめる。

つぎ、さむらいの飴玉を出せ、のあと。

お母さんがおそるおそる、飴玉を出す場面を、だれかに実演してもらう。
うまい子にやってもらった後、みんなでやってみる。
恐る恐る、飴玉を出す感じをみんなで味わう。
その後、

 するとさむらいが、すらりと刀をぬいて、お母さんと子どもたちのまえにやってきました。
 お母さんはまっさおになって、子どもたちをかばいました。

のところを、何度か繰り返し、読む。
できるだけ、雰囲気を味わいながら、声の変化を出している子を褒めながら。

そして、

「ちょっと、先生はこのあたりが、納得できないんだけど、どこだか分かりますか?」

と軽く聞いてみる。

これが、ボクシングで言うところの、ジャブ、である。

この後、主となる発問をしたいのだけど、その発問を考える必然性をつくりたいので、ジャブをかましておくわけだ。

すると、子どもから、刀を抜くのが早すぎるわ、と意見が出てくる。

ちっちゃい子が目の前にいるんだから、刀なんて抜いたら怖いだろう。
だから、飴玉をお母さんに声をかけてまず受け取り、子どものいる場所から離れた反対側のへりに持って行って、それから刀を抜けばいいのに、と。
大人なんだから、周囲の安全確認をしろ、というわけだ。

「このおさむらいは、アホです。ちっちゃい子のことをもっと考えなきゃ」

お母さんだって、すっごく怖がっている。そのくらい分かるだろうに・・・。


そこまで引き出しておいてから、ようやく、じゃあ、みんなでこれを考えるか?といって、
主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』
するとやはり、やさしいはず、という意見の子が多くて、30人いる。
そんなにやさしくない、という意見の子が5人だ。

さて、いよいよここから、討論になる。

あめ玉

「廊下は静かに歩きましょう」の問題点

.
「廊下はしずかに歩きましょう」

という指示自体に、良いも悪いもないだろう。




なにも知らない新入学生。
入学式の終わった直後から、すぐに教えるのはこのことである。

「廊下はしずかに歩きましょう」と言われて、子どもたち、けなげに言うことを聞く。

はーい。

ちょっとしゃべってしまう男の子に向かって、目つきのするどい女の子が
「ほら!しゃべっちゃダメ!」
と強くツッコミを入れるシーンは、4月のよくあるシーンであります。

こういうことが重なると、男の子の記憶に刷り込まれるのは、
「なんだかやたらと、学校というのは〇〇しなきゃいけない、というのが多いんだな」
という規則・禁止の思考でありましょう。

こうならないために、ちょっと賢い先生は、つぎのように指導をする。

つまり、ちょっと考えさせるのである。

「はい、今から体育館へみんなで行きましょう」
「わーい」
「はい、その前に、みんなどんなふうに移動したいかな」
「走っていくー」
「歩いていくー」
「?」

最後の「?」の子は、先生がどういう意図でそんなことを口走るのか、
まったく分からない子であります。(←わたし自身はこうでしたナ)

「はい、これから歩く廊下は、いろんな教室の横を通ります。みんな、2年生のお兄ちゃんお姉ちゃんたちは、今なにをしているかなー?」
「おべんきょうー」
「そうだね。みんな、大事なおべんきょうをしています。もし、みんながこれから、廊下をおしゃべりをしながら歩くと、うるさいなあー、1年生しずかにしてほしいなあー、と思われてしまいます。どうしたらいいと思いますかー?」
「しずかにしていくー」
「そうだねー、おしゃべりをしないで、しずかに、だまって、忍者のように、体育館へ行きますー」

こう丁寧に指導されたら、子どもたちはすんなりと、口を閉じて、だまって移動してくれることでありましょう。

ところが、これはうまくいかない。



なぜなら、毎回、毎回、刷り込むようにして、繰り返して同じことを指導しないと、子どもたちはいつまでたっても、やはり廊下をおしゃべりしながら歩くからです。

わたしは、これが不思議だ。
なんでかなあ。

一度こんな話をしたら、
「あ、廊下を歩くんだ。2年生は勉強をしている。勉強をしているときにうるさくしてはいけないな。静かにだまって歩いていこう」

と、通常なら、考えるようになって当然でありましょう。
なのに、そうはならない。いつまでも、2学期になっても、3学期になっても、廊下をしゃべって歩いてしまう子がいるのです。なんでだろうか?




もしかすると、しゃべってしまう子は、

「周囲に迷惑をかけてはいけない。静かにしなければならない」

とは、思っていないのではないだろうか?

もしくは、他の皆が静かにしているのだから、ここでは常識的に静かにするものだ、というふうには考えないのではないだろうか。

つまり、「〇〇するべきだ」というのでは、動かない。

迷惑をかけるべきではない、ということでは、動かないのだ。

いよいよ、問題は、

迷惑をかける、とはどういうことか

になってきた。

ここが明らかにならなければ、「子ども」の実際の姿には、せまれない。

ろうか


改ざんされてない、ちゅうことになっておる

.
WEBページには、事実が書いてある、ということになっている。
この、・・・ということになっている、というところが、情報リテラシーの肝心かなめの部分。
実は、・・・ということになっている、(が、実際は分からない)、ということが、情報リテラシーの学習で、いちばん大事なのだ。

小学校でふつうに情報リテラシーの授業をするときは、最初に、
「TVや新聞のニュースやWEBページは、事実を語っている、ということになっている」
という命題を学習する。
それは同時に、
「・・・ということになっているが、それが事実かどうかは分からない」
ということである。
これを習うから、リテラシーの授業をやった後は、かなりの程度、人間不信、あるいは情報不信に陥る。

「先生、ニュースってうそばっかりなの?」
というから、
「いや、事実ということになっているだけで、事実は、だれにも分からないんだね」
と答えている。
すると、子どもたちは、とても不満そうである。
「なんで、本当のことを言わないの?」

なるほど、至極もっとも。

「いや、事実かもしれないしね。調べてみても分からないし。時間が経てば、本当になる場合もあれば、時間が経つと、うそになる場合もある」

ここまでいうと、子どもたちは

「・・・じゃ、もう、いいよ。なんか、情報リテラシーって、つまんないね」

と言う。

もう、情報にはつきあいきれない、ということらしい。
「すべての情報には、発信者の願望が隠されているので、必ずその発言の最後に、・・・ちゅうことになっておる、という一文を入れて聞くこと」
ということなんだろう、と思う。

〇テレビの街角インタヴューは、たまたま街を歩いている人に、質問してる・・・ちゅうことに、なっておる。
〇個人情報は漏らされない・・・ちゅうことになっておる。
〇国家公務員は嘘をつかない・・・ちゅうことになっておる。
〇中国が尖閣諸島を狙っている・・・ちゅうことになっておる。
〇アメリカは北朝鮮がきらい・・・ちゅうことになっておる。


こうしてみると、
・・・ちゅうことには、一応、なっているんだけれどネ・・・
という感覚が、アタマの中を、勝手によぎるように、なりますわね。

つまり、ほとんど、世の中のことは、分からない、ということが事実ではないだろうか。

・・・で、問題なのは、人間はみんな、「分かりたい病」にかかっていて、「分からない」という状態が、とても苦手だ、ということ。
みんな、目前の世界のことで、いっばい、いっばいだから、
早く立場をハッキリさせないと、現象面のことで右往左往してしまう感じがあって、耐えられない
のだろう。

しかし。
これからの時代は、「分からない」ということが平気だ、と言う人間がもっとも強いのではないか

おそらく、この「分からないという感覚」をずっと長く保てる人が、もっとも客観的で、もっとも冷静で、もっとも多角的な視野を保てるだろうから。(情報無視とかじゃなくてね。無視もまた苦しいだろう)
情報弱者という言い方もあるが、情報収集量の多寡というより、すぐに全体像が分かった、あるいは事実は分かる、と思ってしまう思考癖のことを指すのだろう。

こうなると、これからの小学校でめざしていくべき「情報リテラシーの授業」の、方向性がはっきり見えてくる。
つまり、『決定的に分からない、わたしたち人間のする情報発信の心得』を学ぶのが、情報の学習、ということになりそうだ。

最初の授業は、情報発信って、そもそもできるの?という問いかも。
また、情報って、そもそも信頼できるの?という問い、
そもそも人間は、なにかを信頼する(あるいは、「分かる」)っていうけど、できるの?という問い。

信頼とはなにか。
小学校の情報の学習の到達目標は、結局はここに行きつくのかも。
seisyun

只管打観(しかんたかん)

.
子どもを見る時は、観察モードになる。

こんな表情をしているな、
どんなことを考えているのかな、
あ、あの子と笑ってる。
なにか気になることあるのかな、
楽しそうだな など

これ、感想が混じると、なにかがこびりつく。
したがって、なにも意識せずに見る。
ただ、ひたすら見る。
これを、仏教用語で「只管打観(しかんたかん)」という(うそ)。

すると、なかなか、いろんな気づきがあるものです。

ただ、なにか分かろう、として見るのではない、です。
結果論です、ネ、それは・・・。
たとえ何かに気づいたとしても・・・。
勝手なこちらの感想だから。

そうではなく、ただ、無感想で、みる。
なにも思わないようにして、みる。


うまくいえませんが、自分も子どもになったような目線になって、
そんな気もちになって、子どもの姿を見ます。
親、先生、大人、そうした立場をすてて、見ます。
面白いですね、教師目線を捨てると見えるのです。
それこそが、教師の目線、です。


子どもの気持ちが、想像できるのね。
もちろん、勝手なこちらの妄想です。
本当じゃないです。
本当は、ちがうのです。彼の心の内側は見えない。
でも、なんだか、別物と分かっていながら、
そうやってじっと見るのが、商売なのね。

いろんな姿

プログラミング学習のこと

.
プログラミング学習の面白いこと。

〇やんちゃくんが、先生になれる。
〇教えてもらって、素直に「ありがとう!」と言っている。
〇失敗すると、笑い転げる。
 「先生、すっごくへんな動きになった~!!ぎゃははは」
〇意図したとおりに動くと、満足できる。
 「ちゃんとりんご消えた!!ゴリラがりんご食べたみたいにできた!」
〇なんで思い通りにならないのか、理由が分かると納得できる。
 「あ、そうか。それだ、それだ・・・」
〇すべてコンピューターのせいにできない。
 「勝手にこうなった~」⇒「プログラム変えたらOKだった」
〇集中して、45分なんてあっという間。


遊びの要素と、同じものがたくさん詰まっているようだ。

おとなしいタイプの女の子が、けっこう活躍して、みんなから
「〇〇ちゃん、来て!おしえて!」
と言われて、まんざらでもない表情。

国算理社、学級のこれまでの勉強とはまた違う面が見られる。

クラス全員、どんな大人よりも、たぶん、飲み込みは速い。
どんどん、やるからだろうなぁ。
とりあえず、触ってみる、やってみる、ということの価値か。

これはとても面白い現象だ。
チャレンジ力も吸収力も、ある。
それが、子ども。

スクラッチ

「なぜ、やってくれないのか!」

.
イオンシネマで映画を観ました。

入場の時間をほんの少し待っている間、ひまだったので、
見るともなしに、読むともなしに、お客様からのお手紙コーナーを見てました。

入り口に、あるんですよね。
お客様からの感謝の言葉、あるいは意見、感想の掲示コーナーが・・・。。


そこに、ひとつ、苦情がありました。
「映画を見た後、レストランで食事をしているとき、車のキーがないことに気付いた。たぶん、映画館の中で座席に座った時にかばんを置いたから、落としたと思った。そこで探してほしい、と頼んだが、すでに次の映画が始まっているから、探すのは勘弁してほしいと、断られた。
主婦にとっては夕方の時間は死活問題で、娘の水泳教室に迎えに行くこともできず、夕飯の支度もできない、とっても困った。次の映画が終了したら探して見つけてくれたが、なぜあの時、すぐに探してくれなかったのか」
とのこと。

クレームをそのまま聞いたとしたら、スタッフさんが懐中電灯で照らしながら、座席の周りを探すんだろうかナ・・。映画やってるし、その場で見てる最中の人もいるだろうにネ。


これは、映画館のスタッフの選択や判断、今現在、映画を見ている人の自由を認めないぞ、ということ。

eigakan


「なんでしてくれないのか!」

相手がしないことを、「わたしは責めることができる」と思い込んでいる。
なぜしないのか。相手はわたしの言うとおりにするのが当然、と思っている。
↑ これ、教室の先生と、なんだか似ている。


もっと極端な、他の事例。
たとえば、仮に、お店が臨時休業だったとする。
せっかくうなぎを食べに来たのに、店の入り口に「臨時休業」の貼り紙が、という場面・・・。

なんで、休んでるんだ!!

相手がうなぎを焼かないことを、責めて当然だと思っている。


ここで、もしうなぎ屋さんが、苦情を聞き入れて、臨時休業の貼り紙をはがして店を開き、うなぎを焼いてくれたとする。

うなぎ屋さんは、おそらく他の用事があったのに、お客さんのクレームを聞き入れてうなぎを焼くわけだけど、たぶん、

イヤイヤ

やるのではないだろうか。

してくれないのは迷惑だと感じる→しないことを責める→責められたことで、イヤイヤ仕事をする人間を増やす

イヤイヤやる人を世の中に増やすことになる。
これって、どうなの・・・。


うなぎ屋さんに向かって、

「いやいややるんじゃない!もっと喜んで、もっと楽しそうに、笑顔で働け!」

と説教する人がいたら、もっとこわい。


「なんで、してくれないのかッ!」

これは、根が深いねえ。

イヤイヤやる人を、この世から無くすのが、本来の方向なのではないか。

そう考えると、根本的に先生たちが子どもたちに対する時というのは、

「なぜ宿題をやらないのか!」

ではなく、

「いつ、どのようにして学んでいくか。どうする?」

という、共に計画する態度に変貌するしかない。

ブラタモリの「お題」は良い発問といえるか

.
ブラタモリ(NHK)が面白いので、録画で見ています。
リアルタイムでは無理なので、土日と休み限定です。
年末、たてつづけに何本かを見て、途中からある疑問が湧いてきました。

「ブラタモリの最初のお題には、子どもが食いつくだろうか」

たとえば、先日放送されていた、東京吉祥寺・編。
このお題は、
「なぜ人は吉祥寺に住みたがるか」
でした。
吉祥寺は長年、「いちばん住んでみたい町」のナンバー1になっています。
それはなぜか、というお題でした。

これ、実は教師がもっとも出しやすいお題なのです。
「なぜか」
と問うパターンは・・・。

なぜ、太一はクエをねらうのか。(小6・国語)
なぜ、ひし形の面積は対角線×対角線÷2なのか(小5・算数)
なぜ、スチールウールを燃やしたら重くなるのか。(小6・理科)
など。

いちばん子どもに覚えさせたいことと直結した発問になるので、
教師はこれを連発しやすいです。

ところが、こればかりやっていると、子どもによっては
反応を示さない場合がある。
「え、べつに興味ないし」
という感じ。

なぜか、と問われても、そんなの知らん、とでも思うのでしょうナ・・・。


学習問題が、面白いかどうか、で、子どもたちの集中がちがうのです。
それが分かるから、学習問題をどうするか、どのように問いかけるかを、日々、気を付けております。
ブラタモリでも、この「なぜ、〇〇なのか」とか、「どうして〇〇するのか」という、
なぜなに発問
というのが、とても多い。たぶん、大人が相手だからだ。大人は、予備知識も多いし、興味ももってくれるから、

☆なにを問われたか
☆どのように答えたらよいか

について、迷うことがないと思われる。


しかし、子ども相手だと、そこが授業の明暗を分ける。
何を問われたのか、どのように答えることを期待されているか、子どもが迷うようではいけない。

今回のブラタモリのお題、「なぜ人は吉祥寺に住みたがるか」も、子どもが食いつくようなお題に変換してみることはできないだろうか・・・。これが、番組の途中から、どうしても気になってしまって、とうとうテレビを消して、自分で腕組みをして考え始めた。

まず、分かり切った発問は、しらけるからダメ。
子どもだって、そんなの分かってる、と思うような問題は、やる気がおきない。
また、考えようにも考える手がかりや足がかりがない発問は、山カンで答えるほかなくなる。焦点が絞れず、意識がふわふわしてしまう。

そうではなくて、
〇か×か
AするかBするかどちらだろうか
上から数えて何番目になるか
というような、確実にすっきりと答える問題こそ、子どもが集中して取り組む発問だと考えられる。

すると、さきの問題、「なぜ人は吉祥寺に住みたがるか」を子ども向けに変換すると、どうなるか。

「江戸時代初期、吉祥寺周辺に人は住んでいたか住んでいないか」

住んでいた、と考えるなら、そこに水が豊富にあったからだ、という意見も出るだろう。
クラスの大半は、井の頭公園の豊富な湧き水をみれば、「昔から多くの人が恩恵を受けて住んだだろう」と考える。
ところが、答えは、×。
吉祥寺周辺は、とても人が住みにくく、住んでいなかったことが分かる。

たしかに、水は豊富です。しかし、下の方にある水を上に運ぶのは、とても大変な訳です。壺のように落ち込んだ土地の湧き水は、扱いにくい。水は重いですからね。桶に入れて運ぶにしても、毎日坂道を大変な思いをして運ぼう、とは思わないのです。
一方、上から下へ水を運ぶのはかんたんだ。ジャーッと流せばいい。いくら湧き水が豊富だからといっても、水を運ぶ有効な手段がなければ、人がたくさん住むようにはならなかったのです。

ところが、今、多くの人が住むようになった。
次は、それはなぜなのか、というふうに、興味が湧いてきますね。
興味というのは、ちょっとずつ、わいてくるのであります。

いきなり

なぜか

というよりも、

〇か×か
AかBか

という発問で、意外に思う側面をあぶりだしておいてからだ。
知的好奇心を揺らしておいて、刺激しておいてから、
ようやく、

「ではそれはなぜか」

と聞いていくようにしたいもの。

いのかしらこうえん




情報モラルの研究から

.
子どもたちが21世紀をたくましく生き抜くために、もっとも必要な資質能力は何だろうか。
わたしは、「情報活用リテラシー(能力)」だと考える。

子どもたちの、情報モラル、情報リテラシーなどの資質能力を向上させなければならない。
これは世の中が求めるとても大切なもので、この力がなければ到底、これからの国際競争に勝てる人材は、わが日本国からは生まれてこない。

そこで、ネットの世界には、本当にごくまれではあるが信用できない情報が紛れ込んでいることがある、という資料を見ながら、4年生なりに学習問題をたて、クラスごとに話し合い、学びあうことにした。

ネットには正しい情報もあれば、間違った情報や思い込みが紛れ込んでいる、という話はすでに世の中の大半の大人の常識になっている。

一方、子どもたちはどうだろう。ユーチューブを見たり、ホームページを見たり、ブログを見たりしたとき、そこに置いてある情報を、どう受け取っているのだろうか。

一応、大人の常識としては、すぐには信用しない、というのが当たり前のリテラシーであろう。
検索してなにか情報がヒットしたとしても、一応、自分の眉につばをつけて、信用してよいかどうか、自分が情報に対して酔ったようになっていないか確かめつつ情報をゲットすることになっている。少なくとも、大人は。

しかし、・・・小学生はどうなんだろうか。


ユーチューバーが、「この薬はとても元気が出る」と言ってたら、信用する?その薬を、ほしいなあ、と思う?

とクラスの子に聞いてみると、男子と女子とで、反応が分かれた。

男子の大半は「無料でくれるんならもらう」と、なんともすっきりした素直な反応である。
ところが、女子の多くは疑い深いのか、「口に入れるものはもらわない」とのこと。

「じゃあユーチューバーが、マツモトキヨシに売っている◎◎という薬が、すごい元気が出る、と言ってたら、信用するかな?」

男子の多くは、実際にその人にそういう体験があるんだったら、それなりに信用する、と。
女子は、べつにこれ以上、元気になる必要が無いため、そんな薬は要らない、と。

わたしとしては、

「たとえ、大好きなユーチューバーが言ったことだとしても、すべての情報は本当かどうか判断がすぐにはつかず、即断できないので、十分に自分自身でもよく調べ、よく検討して、納得してから結論を出す」

と、言ってほしかった。

そこで、さらに質問を変えて、

「じゃあ、スーパーの野菜コーナーの、アボガドがすっごく栄養が高くて、疲れが吹き飛ぶし、健康にいい、風邪もひかなくなる、お肌もきれいになると言ってたら、信用する?」

男子は、アボガドってきらい、と。美味しくないから要らない、と。
ところが女子の数人は、
「え、それ本当なの?」
と目をキラキラさせて、
「きれいになるなら、ほしいかも」
と言った。


うーん、何か焦点がずれる。

信用する、というときの、判断の根拠や程度を問題にしたいのだが・・・・

douga_haishin_youtuber
そこで、さらに質問を変え、

「魚を食べると、頭が良くなる、とユーチューバーが言ってたら、信用する?」

子「うん。だって、本当にそう言ってたもん。お母さんが」
子「食べない。おいしくないから」
子「うそー。おいしいじゃん。お刺身なら食べる!」
子「さんまの焼いたやつなら、食べる!」

子どもたちが、うまく問題をとらえることができていない。
そこでしょうがなく、こんな事例を話した。
やせたいと思っている人が、やせるよ!と宣伝していた薬を買ったが、ちっとも痩せなかった、という話。
子「その人、やせる気がなかったんじゃない」
子「たぶん、お菓子とか食べてるよ。ないしょで」

・・・ぜんぜん、問題の焦点が合ってない。
子どもたちに、学習のポイントが伝わっていない!
どうやらこれまでの事例は良くなかったようなので、さらにこんな事例を。
ある食品を食べると、すっごく美容効果があり、がん予防にもなり、お通じもよくなる、と書いてあるホームページを見た人が、その食品を食べ過ぎて、自分の腸に詰まらせてしまった、という話。

身体によいと聞くと、食べ過ぎてしまうようになるのは、なんでだろうかな。

子「健康になりたいから」
子「これを食べていれば大丈夫、と思って、どんどんやりたくなったと思う」

そうそう。そうやって、どんどん気持ちとしては食べたくなるのは分かるけど、でもなんで、食べ過ぎちゃうまで、食べようとしてしまうんだろうか。

子「なんか、これさえあればすっごく元気になれるーって、やったー!って、思いすぎたんじゃない」

ようやく、焦点が定まってきた。
〜すぎる、という言葉がポイントか。

今、『これさえあれば元気になれる』って言ったけど、世の中に、これさえあれば、なんてものが、あるのかなあ。

子「いや、それだけあってもダメでしょ。夜は早く寝た方がいいし、歯も磨かないと」

じゃあ、世の中に、これさえあれば、というのは、無いと?

子「うん」

しかし、これさえあれば、というモノが、世の中にあってほしい、と思ってしまうのはなんでかなあ。

わたしがなおも食い下がると、

子「いろんなことを、あれもこれも、たくさんやらないと、と思うと、面倒だからじゃないの」

さらに食い下がって、

なんで面倒なんかなあ?

子「宿題と同じで、やんなきゃいけない、と思っているからなんじゃないの」



ここでほぼ、授業時間が終了・・・。

幾人かに、まとめを言わせると、

「なにかやらなきゃいけないと思うと、かんたんにホームページを信用してしまう」

と、ずいぶん簡潔な文を発表。

そこで、情報リテラシーの力をつけるには、まずは自分が「しなければ」と思っていることに気付くこと、ということになりました。



うーむ。情報リテラシーの授業をするには、ずいぶんと、発問をひねらなければならないですナ・・・。

4年理科・空気のあたたまり方

.
問題:暖房した部屋の空気を測ると、場所によって違いがあるだろうか。

①ほとんど同じ
②Aの方が高い
③Bの方が高い

理科実験空気のあたたまり方



先に、金属のあたたまり方、そして水のあたたまり方、を学習している。

1)金属では、徐々に火元に近い部分から熱が伝わり、周辺へと広がっていく。
2)水では、あたたかい水が周囲の水よりも軽くなり、上へあがっていく。

今回は、金属でもなく、水でもない。空気のあたたまり方、を調べている。

1)の金属の学習を思い浮かべる子は、問題の答えを、Bだと答える。
なぜなら、近いから、である。実際にイラストを見て、ストーブからの距離を測ると、あきらかにAよりもBが近い。だから、と考えるのである。

2)の水の学習を思い浮かべる子は、逆に答えをAだと答える。
空気も水のようにあたたまると、周囲よりも軽くなって上へあがっていくんだ、と考える。


4年生では意見が分かれる。
なんとなく、空気も水と同じと考える子が少し多い。

「先生、家でもね、2階にあがるとちょっとあったかいんだよ」
「ストーブでやかんを上に置くでしょう」
「それは、ただ単に置きやすいからなんじゃないの」
「電子レンジの上は別に熱くないよ」
「ああ、そうか」

みんな、なんとなく混乱している。
小学校では、なんとなく全員、混乱しながら授業が進むのである。
だから、教員も、子どもたちに合わせるべきである。
教師もどことなく不安そうな表情を浮かべつつ、
え、ちょっとちょっと、えー、どゆことなんだろうか・・・
という顔で、授業を進めるのがヨイと思う。


一人が、気球のことを言った。
なんと、その子は、以前、気球に乗ったことがあるんだそうな。

「すごいうるさい音でずっと火が燃えてたけど、中の空気をあたためて軽くする、みたいなことを言ってた気がする」

うーん、なるほど。
kikyuu


実際に、みんなで測ってみよう。
全員分、合計40本の温度計を理科室から借りて来て、一人ひとり、全員に持たせた。
教室のストーブを焚いて、実験開始。

まずは、B地点。思い思いに、自分の席の周り、地面にすれすれのところを測る。
床に座ったからか、なんだか冷たい気がする。
「けっこう、寒いよ」
「すーすーする」
「廊下のドア、も一回、ちゃんとしめて」
なんだかお互いに、いろいろと言い合ってる。


次に、A地点。
どうやって測ろうか?

「みんなで自分の机の上に立って、ばんざいして測ろう」

そうする。




すると、ネ。

もう机の上にたった瞬間に、子どもたち、げらげら笑いだしました。

だって、机の上に立って、ばんざいしたら、わかっちゃったもん。

「すげえ。教室の上の方のくうきって、あったか〜い」

みんなで腕をバサバサ振って、このへんの空気、あったかいー、としばらく笑い合う。

ここまでで、ちょうど45分。

子どもの討論に、教師が参加してもよいか

.
小学校4年生「プラタナスの木」

主人公の少年たちは、あまり人のこないプラタナスのある公園でサッカーを楽しんでいた。ある梅雨明けからおじいさんが来るようになり、木の枝や葉に届く栄養は、同じくらいの根があるからと聞かされて、何かを感じる子供達。夏休み、皆が旅行に出ている間に、台風がやってきた。台風で倒木寸前のプラタナスは危険なので切り株だけ残して切られてしまったが、その後おじいさんも来なくなってしまった、という話。
発問 : おじいさんはプラタナスの木の精霊か、それともふつうの人間か
子どもたちの意見は、ちょうど半分に分かれた。

ふつうの人間だ、という意見を最初にとりあげ、根拠を問う。

・いきなり精霊とは考えにくい。
・公園にやってきた、という描写があるから、どこか近所の家から歩いてやってきたのだ。もし精霊だとしたら、木の下にぼーっと、急に現れるはず。
・子どもたちに向けてくわしい話をするのは、木のことに関する仕事についていたから。世の中には、そういう話のできるおじいさんが、たくさんいるはず。もしかしたら大工だったのかもしれないし。大工さんなら、木にくわしい。精霊というのは発想が飛躍しすぎている。
・教科書にSF小説が登場するわけがない。
・マーちんのふるさとの木のことを、まるで見たことがあるかのように言っていたのは、もしかしたらこのおじいさんは、マーちんのお父さんの知り合いか何かじゃないの。


ここで、わたしはいつもそうはしないのだが、急に思いついて、反射的にそこに加勢する気になった。

ハイ!

と挙手をすると、いつもはわたしがそんなことしないので、子どもがおもしろがって当ててくれた。

「はい、新間さん」

「はい」
わたしはおもむろに返事をすると気を付けの格好になり、
「先生も人間だと思います。なぜなら教科書の挿絵を見ると、ちゃんと足があります。足があるということは、幽霊ではない。だから、精霊でもありません」

エーッ!!

教室の約半分を占める『精霊派』が、悲鳴に近いような声をあげた。
こちらの『人間派』は、「やった、強力な助っ人があらわれた」という雰囲気でにんまり、である。

やっぱ人間だよ、ハリーポッターじゃあないんだから・・・

だれかから、そんなつぶやきが漏れ聞こえ、クスクス笑い声も出た。

今度は精霊派の意見、である。

・おじいさんはこの話の中で、とことん木の話ししかしていない。
・おじいさんは木の下のベンチに座ると、ほとんど動かない。サッカーボールも手で受け止めると、じっとしている。ちょっとは投げ返してもいいのに、根っこが生えたように絶対動かない。ふつうの人間なら多少は、動くはず。そのへんが、あやしいし、精霊っぽい。
・おじいさんは、マーちんが田舎に行くときに木のことを話し、「田舎には木がたくさん生えているだろう。みんなによろしく」と謎めいたことを言うが、「みんなによろしく」の、みんな、というのが、たぶん木のことだと思われるが、ふつうの人間はそんなふうには絶対に言わない。
・なにしろ、木が切られると、もう登場してこない。
・木を大切にしてほしい、ということばかり言う。
・古くて大きな木だから、おじいさんのような姿で現れたのだろう。
・台風が来たときに、おじいさんのえがおがぼんやりとしてきえてしまった。ちょうど、時間的にはプラタナス公園の木がたおれた時間と重なる。


理由が出てくるたびに、精霊派の元気が増してくる。
逆に、人間派から、「ウワー」という声。

・決定打になったのは、マーちんのお父さんの田舎の木のことを知っているかのようなおじいさんの発言と、「みんなによろしく」という、なんとも不思議なセリフの意味を、人間派のだれも説明ができなかったことだ。

「え、でも、おじいさんがお父さんの知り合いだったとかなら、もしかしたらおじいさんがその田舎に行ったことがあるんじゃないの・・・」

力なく訴える女の子に、ピシリ、と反論し、

「もしお父さんの知り合いなら、マーちんのことも知っているはず。しかし、公園での出会いにそんな叙述はないし、マーちんがおじいさんのことを「不思議なおじいさん」なんて思わないはず」

そこで、人間派の何人かが意見をひっこめ、クラスの大半が「精霊派」になってしまった。



授業の最後に、図工の得意なWくんが

「(人間派で)残ったのは、新間先生だけだよ」

というので、

「いやあ、まさか精霊とは・・・」

と悔しがってみせると、にんまりして

「先生もたいしたことないな」

と、Wくん、ケタケタ笑った。

もう二度と、討論に口をはさまないようにしよう。

P1020669

理科・ヒトの骨盤はどれだろうか

人の骨盤


1)自分の考えをノートに書く。

2)班で相談する。

3)班で一番多かった答えを発表しあう。

4)クラス全体で討論。

5)理由を言えたら拍手。

6)次の資料を配る。

人とゴリラの全身骨格2

7)骨盤に色を塗る。

8)もう一度、さきほどの資料を見て、確認する。(ヒトは、一番右)

9)なぜ人の骨盤は、縦に小さくて、横に拡がったのか、考える。

「歩きやすいから!」
「体重を支えやすいから」
「ゴリラが縦に長くて丈夫そうなのは、ななめに上半身を持ち上げなければいけないから。ヒトは、まっすぐ上に体重を乗せているから、上の物を落とさないように、バランスよくお皿みたいになった」

10)ゴリラのななめになった上半身を支えるのを、柄の長い箒(ほうき)でやってみる。

クラスの子が長い箒を逆さに持ち、
ななめにして、下から支えてみると、

「お、重いです」

ナナメだからね。
しっかり持っていなきゃ、すぐに箒が落ちそうになる。
ところが、真下を持って、まっすぐ上に向けて立てると、軽くなる。

「真下で支えていれば、スッと軽く持てる。そのかわり、バランスが必要」

11)ヒトはどう進化してきたのか、まとめを書く。
ヒトは、立って歩くために足の骨にアーチができて、体重を支えるように進化した。
足と同じように、骨盤も、立って歩くために足を動かしやすく、上半身を
支えやすいように進化してきた。



最近の授業は、やってて、面白いなー。
子どもの反応がいい。

「合っている、もしくは、正解だから良いのだ」というのが、だいぶ薄れてきた。
発言しにくかった子が、どんどん発言するようになってきた。

「いろいろなことに気付いて、可能性を見つけたり、理由を考えられたりするのがすごい」
というふうに、すこうし、変化してきている気がする。
そのためには、理科や社会の授業がいちばん効き目があるように思う。

『知らないことを習っているのだし、あれこれと考えているのが面白い』

という感じなのが、イイね。

理科・ひとの体 足の骨をくらべよう

.
人間の足の骨と、
オランウータンと、
キツネザルの足の骨、を比較。

人の足の骨比較

最初は、図のみ見せる。
【学習問題】
ヒトの足の骨はどれでしょうか。
そう考えた理由をできるだけくわしく発表しよう。

意見は割れるが、1番上だというのが多い。

理由は様々であるが、
A) いちばん上の骨以外は、指の先の骨が細くなっていて、
   丸くふくらんでいる気がする。
   ところがいちばん上の骨は、ふくらんでいない。
   今さわってみたが、自分の足の骨はふくらんでいない。
   それはたぶん、地面を歩きやすいからだと思う。
   だから、ひとの骨は、一番上だと思う。

B) ヒトの骨は、いちばん上だと思う。
   いちばん平らで、地面を歩く感じがする。
   その他の骨は、親指の骨がかなり離れてくっつき、
   たぶん、そのおや指で、木とか枝とかをはさむんだろう。
   だから、猿じゃないかな。

この二つとも、視点が骨のくっつき方にあり、
理由がしっかりしている。
だから、このような理由がかけていれば、評価としては高くなる。


その後、骨格標本をみると、やはり一番上のものに近い。
だから、こたえは、いちばん上、である。

その後、図の、この部分に注目させる。
人の足の骨比較


ここって、どうなってる?
さわってたしかめてみよう。

すると、
「へこんでいる」
「くつしたが汚れているけど、ここらへんだけ、あまり汚れていないよ」
という声が出る。

これを土ふまず、というのだ、と確認する。

次になぜこうなっているのか、を考える。

猿の足の骨は、土ふまずらしきところがないことから、
人間は歩くからだろう、という考えが出てくる。

「でも、なんで歩くからって、土踏まずがあった方がいいのかな?」

とくいさがって問題提起してみると、

「バネみたいになって、歩きやすいから」
「クッションのやく割なんじゃないかな」



アーチ型、というのがもっとも上からの衝撃に強いのだ、ということを確認する。

画用紙を丸くたわませてから、上に消しゴムをのせても、びくともしない。
しかし、ただの平たい画用紙の状態だと、消しゴムの重さでも、たわんで下に落ちてしまう。

hitono


さい後に、人の足の骨がどうしてこういう形になっているのか、
できるだけくわしくノートに書いて、発表。

先生が骨格標本をもってきて、みんなで見た。
足の骨はアーチ型になっているので、重くても大じょうぶ。
足の裏をみると、真ん中だけ、くつ下が白かった。
土踏まずがあって、汚れていなかった。
なぜ土踏まずがあるかというと、アーチ形はじょうぶだから、
2本の足で立った時も、重くても大丈夫なように。
猿は木に登っているし、腕でつまかるから、腕が強い。
でも人はずっと2本足で立つから、足が強い。
そういうふうに、進化してきた。

ただのクイズですが、尋常ではない空気に

.
子どもというのは、毎日のちょっとした仕掛けや演出に
大喜びをするもので、それが登校する励みになっていたりする。
教師と言うのはいつもそんなことばかり考えて、けったいな仕事やな、と思う。



4年生くらいまでは、クイズが大好き。
どの子もほとんど、クイズときけば目が光り、怪しいやる気をみせ、
「早く問題だして」と言う。

わたしは授業は下手で、内容もまずいが、演出は好きだからどんどんとやる。

たとえば、都道府県クイズをします、という。

これをふつうに、ただ単に「都道府県を覚えなさい」というと、子どもはいやがるが、

「ハイッ!!これから、20秒・都道府県クイーズッ!!カンカンカン♪」

というと、教室中が、おっしゃー、という雰囲気になるのである。
妙なものだわい、と、わたしはカンカン言いながらいつも、思う。

1) 隣の人とペアでじゃんけんして、勝った人だけ起立!
   「うおー、勝った!おっしゃー」

2) 立った人は中部地方の県名をすべて言いなさい。時間は20秒。
   座っている人は、勝った人のをチェックしてね。ではいくよ、
   20、19、18・・・

こんなの、適当に子ども同士で言わせて確認させるだけのことだが、
華々しいじゃんけんの勝ち負けがあり、起立して目立つから、
なんだか異様に盛り上がるのである。

もっと華々しくする場合は、こんなふう。

30秒チャレーンジ!!タッタラータラタッタラー♪

わたしが怪しく歌いはじめると、高学年の場合はちょっと馬鹿にする空気も出るが
まだぎりぎり4年生だと大丈夫で、わくわく感と、ドキドキ感で子どもはみんな
そわそわし、目がぎらぎらしてくるのであります。

1) 班ごとに全員、前に出て並びなさい。
2) カードを引いて、何の地方を言うか、決めます。
   (箱を用意して、〇〇地方、と書いておく)
3) 一人ずつ順に県名を言い、全員ですべて言えたら合格!
   時間は30秒!

ほとんど、1回目では、不合格である。
だから、2回目をやる。
その間に、ちょっとだけ、仲間内の作戦タイムをとる。
すると、仲間どうしで、教え合うのである。


こういうことをやっていると、寒さも忘れます。
(実際には、教室は猛烈に寒い・・・)


さむい冬なのに!↓。

月を見ようぜ!!

.
満月を見たことある人?

はあい。

全員が挙手。

三日月を見たことがある人?

はあい。

これも全員。



4年生で、月の学習をします。
◎月は、日によって形がかわってみえること。
◎月は、時間によって、位置が変わり、動いて見えること。



月の観察。

本当は、全員で、見たいのです。

夕方や夜になってから、月がきれいに見える日に。



「学校で、みんなで見られると良いんだけどなぁ・・・」

ところが、昨今の小学生はみんな

ならいごとをたくさんしていて、学校で夜のイベントを催すことがしにくいですな。

昔、自分が子どもの頃は、夜に学校の校庭で映画を観たり、

日曜日に、紙飛行機をとばす大会をしたり、

あれこれとやったもんだけど・・・

当時と今とでは、子どもの人数が違いますので。





月に興味を持ってもらいたいので、月の模様の話をしました。

教室のテレビにでかい満月を映しました。

クレーターで、くっきりした明暗が見えて、模様がはっきりわかります。

「むかしの人は、これがうさぎの模様に見えたって」

「知ってる!!」


ところが、どこがうさぎの耳なのか、議論が沸騰する。

こう見ると、どうみても立ってるのですが、

usagi


ところが、すこし回転させると、

月の模様


これを、横っ飛びに跳ねているうさぎだとみる子もいます。

「先生、これ、ぴょーんって、左に跳んでるんじゃないの?」


なるほど。


それだけで、5分以上、みんなでワイワイとやります。

月に模様がある、ということが、こんなにも小学生には嬉しいんです。




授業の終盤で、

「今晩、全員、月をみようぜ!」

「オーッ!!」


これで今日の授業の目的は、なんとか達成です。

体罰を根本的になくす方法

.
怒りの感情があるからこそ、幸福になれる。

とっても逆説的だけど。

で、怒らないで生きられる。

つまり、

よくよく考えてみれば、

怒りを否定せず、悪いものとも不必要とも思わないようになり、むしろ感謝できて、

怒らないでいいことを十分に理解でき、怒らずにいられるようになり、

困らないでもいいようになり、

怒りの感情に感謝こそすれ、けっして否定的な気持ちが一切、生じないままに、

決して怒らず、幸福に過ごすことができるようになれるってわけ。



怒って当然だけど、本当に怒りが当然なら、

怒りが当然であるがゆえに、

人は怒らないようになれる。

先生たちによる体罰なんて、すぐに無くなるはず。

まったく難しい事でなく、もっとも簡単でやさしいこと。

「怒り」は当然、しかし、「怒り無し」もまた、当然。

それを選択すらできないように思い込んでいる。

sensei_okoru

【小学校4年国語】ごんぎつね発問一覧

.
1)ごんぎつねを読むとかなしくなるのは、ごんが最後に殺されるから、という理由だろうか。

2)いわしは「投げ込んで」いるのに、栗は「入り口に置いた」のは、なぜだろうか。(見つかると危険なのに、へんだよ?)

2)ごんは盗人狐と思われているのに、それにもかかわらず、何日もの間、兵十に山の栗などを届けたのは、なぜだろうか。(償うとしても、2,3回で十分では?)

3)ごんは盗人狐と思われているのに、それにもかかわらず、かげをふみふみ、兵十の後をつけたのは、なぜだろうか。(ただついていくだけでも危険なのに、かげを踏むくらいまで近寄ったのは何故?)

4)ごんが最後に栗をかためて置いたのは、何を分かってほしかったのだろうか。(ごんがくりを届けたのだとわかってほしいのだとしても、ごんはなんでそれを分かってほしかったのだろう?)

5)ごんぎつねを読むと悲しく感じるのは、読者が何を思うからだろうか。(ごんが殺されたからかわいそう、というだけでなく・・・)



国語だけでなく、社会でも理科でも算数でも、

「〇〇であるのにもかかわらず、△△なのは、どうしてか」

という、特定の条件での常識をくつがえす発問は、

子どもたちが深く考えることを促すと思う。



「授業」は課題をきちんと、「課題であるとして」、「どんな課題かをきちんと明らかにして」見せることを通して、みんなが議論するプラットフォームを作ろうとする営みであろう。

だから、ただの質問ではなく、

「え・・・なんでだろう?そう言われると、不思議だな・・・ここはひとつ、頭をひねってみるか」

と思わせるようなのが、いいと思う。

すっきりとしないものが胸に残るからこそ、もっとこの問題について考えてみよう、と人は思うようになるはずだから。

omijika

焼き場に立つ少年【ナガサキ】

.
6年生。
社会、歴史の授業。

『太平洋戦争』について。


授業の最初に、この写真を見せました。
しーん。

2680

日本は、アメリカ・中国などと戦争をしました。
この写真は、その戦争が終わったすぐ後に、長崎で撮影されました。

撮ったのは、アメリカ軍のカメラマンであるオダネルという人です。

この写真に、なにが見えますか?

「男の子」
「男の子が、小さな赤ちゃんをおぶっている」


まだ、なにか分かることや気づいたことはありますか。

「男の子の足は、はだしです」
「背中の赤ちゃんは、寝てる」


なんではだしなんでしょう。

「戦争で、なくなってしまった」
「どこかにいってしまった」
「急いで逃げてきたのかもしれない」


読み取った情報や、自分がそこから考えていけること、類推すること、背景として想像できることなどを、ノートに書かせた。

時間を十分にとったあと、ノートに書かせたものを元に、意見をだしあう。

おうちの人はどうしたのだろう

「お母さんも、長崎だから原子爆弾で被害を受けて亡くなったのかもしれない」
「原子爆弾じゃなくても、戦争中だから、死ぬことがあったかも」


長崎にも、外国人が攻めてきた、ということ?

「元寇のときは、外国人が上陸したけど、長崎にも上陸したのかも。」
「空襲があったのだと思う」


空襲ってなに?

「飛行機から、爆弾がたくさん落とされた」


日本の各地で、どれほどの空襲があったのか、資料集をみて、そこから情報を読み取る。
日本中、あちこちで空襲があり、大きな都市はほとんどが空襲を受けて被害をうけたことがわかる。

「長崎は原爆だけでなく、何度も空襲があった」
「きっと、この子は、アメリカや中国を憎んでいると思う。だから、兵隊になりたかったのかもしれない」
「だから姿勢がいいのかも」


子どもたちは、あれこれと自分自身におきかえながら、この子の心の内にまで想像をふくらませていく。

「歯を食いしばって、立っているようだから、きっとなにかとても我慢をしていると思う」
「お母さんが亡くなったから、我慢をしているのだろうと思う」
「背中の赤ちゃんが元気がないのは、食糧が不足していたのだと思う」
「栄養不足だったのだろう」
「たぶん、お母さんもいなくて、自分が赤ちゃんの世話をしないといけないということは、二人兄弟か」
「お父さんもお母さんもいないということは、学校には行けていないと思う」



あれこれと討論が終わって、この子をとりまく状況が分かってきたような感じのところで、

「この写真につけられたタイトルを教えます」

といって、
「焼き場に立つ少年」

と黒板に書いた。

しばらく、しーん。



背中の赤ちゃんは、もう亡くなっていたそうです。この子は、この赤ちゃんを火葬してもらうために、順番を待っていたのです。これを撮影したカメラマンが、この写真について書いています。この少年は、ずっと順番を待つ間、まっすぐに前を向いて、気を付けの姿勢をくずさなかったそうです
当時は、軍国教育でした。
どんな教育だったのでしょう。なぜ、ずっと気を付けをしていたのでしょうか。

「死んだ人が前にたくさんいるから、気を付けをしていたと思う」
「そうしないと、殴られたりしたのかも」
「気を付けをしていないと、叱られるからか」
「まわりに兵隊さんがたくさんいて、気を付けをしていたから、大人と同じように気を付けをしたのでは」


この赤ちゃんはなぜなくなったのでしょう。食糧が不足していたというけど、なぜそうなってしまったのでしょう。

「戦争で戦っている兵隊さんのために食糧を出していた」
「食べるものはほとんどが、軍隊のためにもっていかれたのでは」
「戦争で空襲があって、つくっているひまがなかったと思う」



用意していた、いちばん大事な発問をした。
少年はなにを見ているのでしょう。

「死んだ人の山を見ていると思う」
「焼けた自分の街をながめているのだと思う」
「なにも見ていない」


なにも見ていない、といった子に、どういうこと?

と尋ねると、

「たぶん、気を付けをしなきゃと思って立っているけど、立っているだけでやっとなんだと思う。だから、そのまま、もう何も心には入っていないと思う。目はあいているけど、なにも見えていないんだと思う」



最後に、この写真を撮ったカメラマンの手紙を読んだ。

長崎では、まだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に、わたしはたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

焼き場となっている川岸には、浅い穴だけが掘られている。水がひたひたと押し寄せていた。灰や木片、石灰が散らばっている。燃え残りの木片が、風をうけると赤く輝いて、熱を感じる。白いマスクをつけた係員がもくもくと、荷車の先から、うでや足の先をつかんで、引きずりおろす。そして、そのままの勢いで、火の中に放り込んだ。死体ははげしく炎をあげて、燃え尽きる。
(中略)

焼き場に、10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせていて、ぼろを着ていた。足は、はだしだった。少年の背中に、2歳にもならないような幼い子がくくりつけられていた。その子は眠っているようだった。体にも、まったく傷がなく、やけどのあとらしいものも、みえなかった。

少年は焼き場のふちに進み、そこで直立不動になった。
わきあがる熱風を感じていたのだろうが、動じず、そのまま動かず立っているままであった。
係員がようやく、その幼子を背中からおろし、足元の燃えさかる火の上に、のせた。

炎が勢いをまし、おさな子の体を燃やし始めた。立ち尽くす少年は、そのままの姿勢で立ち続け、その顔は炎によって赤く染まった。気落ちしたように少年の肩がまるくなり、背が低くなったようだった。しかしまた、すぐに背筋をのばして、まっすぐになった。わたしはずっと、この少年から目をそらすことができなくなっていた。

少年は、まっすぐを見続けた。足元の弟に、目をやることなく。ただひたすらに、まっすぐ前を。
軍人にも、これほどの姿勢を要求することはできまい。

わたしはカメラのファインダー越しに、涙ももう枯れ果てた、深い悲しみに打ちひしがれた顔を見守っていた。わたしは思わず、彼の肩を抱いてやりたくなった。しかし、声をかけることができず、そのままもう一度だけ、シャッターを切った。

すると少年は急に向きをかえ、回れ右をすると、背筋をぴんとはり、まっすぐ前をみて歩み去った。あくまでも、まっすぐ。一度もふりかえることなく。

〇この子はこのあと、どこへ行くだろうか。
〇大人になって、何をしているだろう。

最後に、感想を書かせた。

自由研究でみがかれる創造性(ビジネス誌風に)

.
(前回からのつづきです)

パターン2は、高学年向け。

これは、ともかく、【実験と表とグラフ】。
これが決め手になります。


もうすでに、わかっているようなことや、本に書いてあることで、良いのです。

自分で工夫して、家にあるものや安価な道具で、思い切り実験できることが大事。

子ども時代は、「実験」という2文字だけでも、十分にこころがはずむのです。




ところで、自由研究、わたしが好きなのは、パターン3です。

つまり、
実験をして、新しい発見をする。

これは、子どもだけでなく、中学生にも高校生にも、ときにはもしかすると
大人にだって、高度なことです。

たとえば、
魚には色彩が見えるのか。

こんなの、はたしてどうやって実験するのか、分かりません。
実験するったって、どうやるの?

このくらいのレベルが、パターン3です。

しかし、これ、なんとなく実験してみた、というので、いいんです。
水槽を赤い画用紙でとりかこんだときの、餌のがっつき方、というのでもいい。
3日後、青い画用紙で同じようにえさをやって、ちがいを見てみればいい。

ずいぶん主観的な実験で、厳密にいえば科学の世界からは遠いものなのですが、
小学生にとっては、

「なんとか実験したい。とりあえず実験してみよう」

という気持ちと、アタックする行動が大事なので。

この、【実験のやり方】、という部分について、先生や親に相談するのは、とてもよいことだと思います。


以下、参考までに。


1) うちの猫は、左利きか、右利きかを検証してみる。

2) かっぱえびせんをつくりたいが、作り方がわからないので、袋の原材料名をみて、勝手に想像してやってみる。

3) 夏休みをすべてつかって爪の長さののびる速さをしらべる。

4) 1ぴきの蟻と砂糖をびんに入れて放っておくと、翌日も「はたらき蟻」のままでいるか、だらけた蟻になるか検証する。

5) 新しい漢字を発明し、現代社会において漢字として認めてもらうにはどうしたらよいか調べる。

6) 手羽先を食べたあとに、骨がのこったので、ポリデントで骨を洗い、きれいな骨格標本にしてみる。

7) すいかの種の場所を、徹底的にしらべてみる。

8) 積木で迷路をつくり、ダンゴムシを入れて走らせ、学習能力があるかどうかしらべる。

9) コンビニエンスストアに集まる蛾を捕獲し、各コンビニごとに蛾の種類の違いが出るかしらべる。

10) お母さんの機嫌がよくなる一言はなにか、毎日調査する。


好きなことに、どっぷりと浸りこむ快感は、
小学生にとって、なによりの「心のごちそう」ですナ。

昆虫クラブの活動風景2

「自由研究ってつまんなーい」だって

.
教室で、自由研究の話をした。

そろそろ夏の宿題を伝えておかないと、と思ってたら、

「自由研究やるの?つまんないからヤダ」

と開口一番、Mくんが言う。

そこで、ちょっとみんなの気持ちを整理しましょう、と。


まず、自由研究にはネ、3つのタイプがあるのだよね。
 パターン1 すでに知られていることを調べ、まとめる

 パターン2 すでに知られていることに関して実験をし、確認をする

 パターン3 実験をして、新しい発見をする

このうち、いちばん小学生にふわわしいのは、パターン1でありましょう。

なぜなら、大人はもう十分に知識としてある事柄であっても、
まだ9歳や10歳の子にとっては、

「へえ、はじめて知った。本当なの?」

ということが多いわけです。
それで、

「自分でもたしかめてみたい」

と思うのは当然で、その意欲がステキなのですナ。


コツがあります。

① 〇〇は〇〇である、ということをはじめて聞いた(知った)
② それで、くわしく調べてみることにした。
③ 図書館で3冊借りて、とくにくわしいところを抜き出して表にまとめてみたよ。
④ これだけじゃつまらないから、身近な人の体験談を聞いてみたよ。
⑤ そしたら、図書館の本には書いてなかったけど、こんなことを言ってたよ。
⑥ ぼくは、本に書いてあることと、身近な人の体験談をくらべてみて、わかったことがあったよ。

もうお分かりでしょう。
世間一般的に存在するテーゼに、もうひとつ、身近な体験談を仕入れて、比較するのです。
そうすると、比較したことで実証されることもあるし、ちょっと別の視点も加わることもある。
つまり、ひとひねり、効くのですネ。
『自由研究にひとひねり追加するには、比較、の要素を入れる』

これで、小学生の自由研究は、バッチリでございます。


例)

テレビでゲリラ豪雨の報道をしていた。
ぼくの住む町でも、すごい夕立があって驚いたことがある。
いつもの通学路がすっかり水たまりになっていたよ。
お父さんに聞いたら、「地球の天気がどんどん昔と比べて変わってきた」んだって。
そこで、ぼくの誕生日のむかしの天気をしらべてみたよ。

☆過去の天気
https://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/past/

10年前の8月1日(ぼくの誕生日)→ 天気晴れ、最高気温28度
9年前の8月1日(ぼくは1歳の日)→ 天気くもり、最高気温27度
8年前の8月1日(ぼくは2歳の日)→ 天気豪雨、最高気温32度
・・・
降水量は年を追うごとに増えていってるのが分かりました。
気温も、10年間で傾向を見ると、少しずつ上がっていました。


この場合は、テーゼとして、お父さんのひとこと、があります。
「昔とちがって、今の天気はおかしくなってきとる」

これ、大人はだれも、気に留めない発言なのですが、
まだ生まれて10年の子どもにとっては、「へえ、そうなの。本当かな」と調べたくなることです。
そこで、ぼくの誕生日の過去のデータを調べて、お父さんの話に、ひと手間加えるわけですナ。



では、高学年はどうでしょう。

実験してみたくなっている高学年の子は、パターン2がおすすめです。(つづく)

shizensaigai_guerrilla_gouu

夏休みの自由研究、相談にのる

.
夏休みが近くなってくると、

「先生、自由研究なにしようかなあ」

という相談が増えます。

わたしがいつも言うのは、

「図書館に、ボーッとしながらいたらいいよ」

です。



図書館で、なにも決めずに、ボーッとしながら突っ立っていると、

どこからともなく、本が呼んでくれます。
「おーい、おれを読みなよ」
「いやいや、わたしを読んで」
「こっちがおもしろいぞ」
「わたしはすてきな本よ」

呼んでくれた本の背表紙を、ともかくじっくり見てみます。
すると、なんだかそいつとじっくりとつきあってみたくなる。

なにしろ、自分で選んだのではないのですから。
本が、自分を呼んでたわけで。



そういうと、子どもは馬鹿にして、

「本がしゃべるわけがないがー」

と、ぷんぷんしながら、行ってしまいます。

わたしは追い払うことに成功し、ホッと胸をなでおろしながら、
あわてて次の時間の授業の、ちょっとした準備をします。



すると、しばらくしてその子がやってきて、

「この本借りた~」

と報告してくれます。

どうしたのか、ときくと、自分で図書館に行き、
本が呼んでくれるのを待っていたらしい。

わたしは驚いて
「本が呼ぶわけないでしょう」
と思わず口にしてしまいましたが・・・


子どもの方は、


「なんとなく、シャボン玉で実験したくなった」

とか、

「葉っぱの色をしらべることにした」

とか、

「おじいちゃんの家が四国だから、うずまきの実験することにした」

とか、

あれこれと思いつくらしい。


結論。


図書館は、ひらめきの冷凍庫。
解凍しようと思えば、なにか出てくる。



scince_kenbikyou




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