30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

教育技術・授業あれこれ

【DNA】コロナウイルスと先祖の関係は?

コロナウイルスのような感染症は、人間にとっての脅威だ。
このような感染症と人類の戦いは、過去にもあった。
一番古いのは、現生人類ホモサピエンスが、気候の安定とともに、アフリカを出て、各地へ進出しはじめたとき。

これは大冒険だった。
それまでには経験しなかった脅威が、ホモサピエンスを襲ったのだ。
それが、

ウイルス感染!

ホモサピエンスがひょっこりアフリカから外で出てみたら、おそろしいウイルスが、別の土地にはふつうに存在していたわけだ。これで、ホモサピエンスはかなり数を減らします。

ところが、ホモサピエンスの中に、生き残ったのがいる。
それは、実はすでにかなり前に、アフリカを出てヨーロッパや中近東のあたりに住み始めていた、ネアンデルタール人が関係している。

アフリカを遅れて出てきたホモサピエンスは、一部、死に絶えました。
病原菌に冒されて。ヨーロッパやアジアに存在していたウイルスに勝てなかったのです。
ところが、ネアンデルタール人は、そのウイルスの耐性を持っていた。なんとなれば、彼らネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスより数十万年も先に、アフリカを出てヨーロッパやアジアに広まっていたわけ。その間に、ウィルスへの耐性を獲得していった。

我々の先祖は、みんな大急ぎでネアンデルタール人と結婚し、あわててDNAにその耐性を取り入れた。その結果、生き残ることができたらしい。

つまり、今の時代に生きている日本人も、ホモサピエンスである以上、DNAの一部にどの人も、ネアンデルタール人のDNAをかすかに持っているのだ。

もしかしたら、今のコロナウイルスの騒ぎにも、このDNAレベルでのなにかが関連しているのではないか?と研究している科学者もいるそうである。

まだ何もわからないらしいけど・・・。


ネアンデルタール


さて、ついでに。
現在の日本民族には6つの源流が考えられる。

時代的に古くから言うと、
1番めは、まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔。
2番めは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民。
3番めは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられる人たち。
今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとだ。
4番めは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系。
5番めは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びと。
6番めが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っている。
したがって、もっとも古くから日本に住んでいる現在の民族は、縄文人の血を引くアイヌ民族であります。

ヤマト王朝を建国した人々は、ずいぶんとこの1番目の人たちに、遠慮した方がいいかもしれない。
少なくとも、中元歳暮の礼くらいは尽くさないといけない。あとから来たものが、大きな顔をすべきではないからだ。

で、結局、1番目から6番目までがどんどんと混血して現在の日本人ができあがっている。

今の日本人は、このすべてが祖先にあたる。
少しずつ、その遺伝子を、多かれ少なかれ、持っている。
ちょっとずつ、体の細胞の中に、分け合っている。
現代日本の、どの日本人も全員が、一人残らず、祖先のDNAを受け継いでいる。

やはりお盆には、祖先を招き入れて、接待をせねばなるまい。
すべての祖先を引き入れるとなると、部屋がちと狭いが、相手はミクロの遺伝子なので、んまあ広さはどうってことない。

縄文系のご先祖には、縄目の器でお茶を。
海の民のご先祖には、カタクチイワシのおつまみを。
大陸からのご先祖には、馬刺しを。
そして元騎馬民族には、馬頭琴の音楽を聞かせてあげたい。

ともかく、現代人はご先祖をお招きするのに、最低6種類のおもてなし法をマスターすることが肝要うだ。そのうち、100円ショップに、6種類のかんたんなおもてなしグッズが並ぶでしょう。

しかし、今日近所のDAISOへ行ってみたら、なんだかもうオレンジ色のパンプキンのお化けが飾られていたぞ。
ちょっと早くない?あれ、10月だよな・・・外国のお祭りの、外国の先祖が里帰りするやつ。
なんていったっけ?あのイベント・・・。たしか、子どもがお菓子をねだるやつ。
弘法様じゃなくて・・・思い出せんな。

harowin

悪口を言った理由など、ぜったいに聞いてはならない

勤務校に、教育実習生が来ておりました。
コロナでたいへんな時期ですが、人材確保は必要なので、受け入れたのでしょう。
まあ学校は大勢の人が出入りをしておりまして、業者も荷物を搬入するし、PTAの親たちも、ふつうに校内で会合をしております。

教育実習生はたいへんです。
わたしは経験がないのでよくわからないのですが。
なぜわたしが教育実習を知らないのかは、わたしの経歴をごらんください)

先日、実習生がどうやら子どものけんかの仲裁らしいところにいるのを見ました。
どうやら実習生の目の前で、悪口を言うなど、なにかトラブルが起きたらしい。
わたしは通りすがりだったので、担当の教諭がそこへ現れたのをいいことに、そのままお任せして職員室へ行ってしまいました。

去り際に、ちょっとひっかかったのはなにか。
それは、悪口の仲裁のしかた、であります。

「なんでそんなことを言ったのですか」

と、彼女は子どもに向けて言っていた。
これは、悪口の理由を知りたかったらしい。
ところがふつう教員は、『悪口の理由』というのは、尋ねないものなのである。

世の中、なんでもかんでも、理由は必要ではないし、理由を聞いてはいけないものもあるのです。
とくに、子どもの指導の場面では、悪口の理由は言わせません。
なぜ、悪口の理由というのは、子どもに尋ねないのでしょうか。

理由を聞くのではなく、あなたはどうしてほしいのか、を言わせます。
で、その悪口を言うことで、相手がそうなるのか、を考えさせます。
悪口で解決はしません。その馬鹿さ加減を学習する場面なので。

ヘイトをすることで、相手が自分の望んだような行動をしようと思ってくれるかどうかを確認すると、まあ当然なのですが、自分の希望はぜったいにかなえられません。
ヘイトをしてもしても、何度ヘイトしても、ぜったいに自分の希望はかなえられない、という鉄則をここで学ぶのです。

それなのに、なぜヘイトするかの理由を説明させてはいけませんナ。
相手の言い分を、聴いてはいけないのです。ヘイトに関しては。
なぜかというと、ヘイトそのものが、すでに意味がなく、社会を壊すからです。

ヘイトする人の言い分も聞くべきだ、という人もいるでしょう。
しかし、民主主義を守るためには、ヘイトの言い分は一切聞かないのです。

「理由(わけ)を聞かない」というと、人権をふみにじる行為だ、という人もいるかもしれませんね。
でも、ヘイトした時点で、相手の人権を踏みにじっているので、人権を踏みにじる側の言い分を聞いている暇はないし、順番すら間違えている、というわけです。踏みにじる者がまず救われるべきではないのです。その馬鹿さ加減に気づくのが先です。踏みにじる側を救うよりも、救わねばならないのは、「ふみにじられて苦しんでいる側」です。

だから、「なぜヘイトをしたの!?」ということを、先生は尋ねません。
これは教員の世界ではまあ常識でしょう。
しかし実習生ですから、そのへんはまだ、あいまいなのですね。

「なんで、あらまくんのことを、おばけ、なんて言ったのですか」
「だって、あらまくん、おばけみたいなんだもん!」
「どこがどうおばけというのですか!」
「だって顔もおばけだし、髪の毛もおばけみたいなんだもん!」
「顔のどこがおばけなのですか!」
「だって目も鼻も口もおばけなんだもん!」
「髪の毛はどのへんがおばけですか!」
「くちゃくちゃだし変なんだもん!」
「くちゃくちゃでもおばけではないでしょう!」
「だって変なんだもん!くちゃくちゃでねじれてんだもん!」
「どこがねじれてんですか!」
「だってうしろも前も、横もてっぺんも、みんなくちゃくちゃなんだもん!」
・・・

このやりとりを、あらまくんはどう聞けばいいのでしょう。
おそらく、先生がヘイトの詳細な理由を言わせるたびに、『なんでそんなこと聞くんだ!』とくちびるを噛むでしょうし、相手の返答を聞かされるたびに、 『おまえのいい加減な決めつけをなんで聞かされるんだ』と憤慨し、泣けてくるでしょう。

つまり、悪口を言った理由など、ぜったいに聞いてはならないのですね。

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【5年国語】俳句で日常を~短縮バージョン~

コロナで詰め込みになってるが、仕方がない。
年度内に遅れた分を取り戻す、というのが教員の間では強迫的に義務化している。
でなければ、どんなに叱られるか・・・

通常の仕事は世の中を豊かにするために実行されるものだが、本来の目的を失う場合がある。
叱られないために、苦情を言われないために、というのが第一の目的となってしまうことを、

「文句対抗作業」

という。仕事、という言葉が、作業、という語に成り下がるところがミソだろうか。

で、市教委や保護者、世間一般から叱られないための自衛策として、通常3時間扱いの「俳句」の授業を1時間でやり切るプランを。

1)俳句をいくつか鑑賞する。
2)気が付いたことを見つけて言い合う。

*言葉の順番が入れ替わっている
*季節を感じさせる言葉がある
*擬音や擬声語が使われる
*漢字・片かな・ひらがな をうまく使い分ける

3)生活の中から俳句をつくるための作戦をたてる

*学校生活
*登下校の様子
*家でのくらし
*勉強中、休み時間、給食、そうじ・・・
*自分のこと、友だちのこと、先生のこと、家族のこと、ペットのこと

4)つくりはじめる

5)友達の俳句をきき、「グレードアップ意見」を出しましょう

6)友達から「グレードアップ意見」を聞いて、さらに変えてみましょう

7)クラスでの発表

8)自分の俳句を短冊に書いて掲示する

ここまでで1時間ぎりぎり。

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【5年国語】和語・漢語・外来語

教科書の例文から、和語、漢語、外来語を知る。
どのような語があるか、みる。
それらの区別をしてみる。由来など。
それぞれの語から、受ける感じなどを確認する。

1)教科書の題材から、和語、漢語、外来語をそれぞれ2つずつ見つける。

2)それぞれどんな言葉を見つけたか、友達と比べてみよう。
  同じ語をみつけた場合は、その語に〇をつけよう。

3)気が付いたことを出し合おう。

*和語がたくさんある
*漢語は熟語になっていることが多い。
*外来語はカタカナで書いてあることが多い。

4)班で1つずつ、「和語」「漢語」「外来語」の表に書きましょう(黒板へ)
  みんなで見て、確かめましょう。あっているかな?

*和語と漢語が迷うよ
*あれちがうんじゃないの

5)新聞記事を配る・・・和語以外の言葉、漢語と外来語をみつけよう。

*すごいたくさんある

6)漢語の特徴はなんだろう

*ふだんしゃべる言葉というよりも、書いてあることが多いかな。
*そうだな、読んだり書いたりするときに使う語が多いよね

「和語」は、話す聞く
「漢語」は、読む書く
が得意なのかもしれない。

7)「完成」はどちらだろうか。

*漢語。
*和語だと、「できあがる」。
*漢語よりも和語の方が読みやすいかも。
*そうだね。あまり漢語ばかりだと逆につらくなる。和語もおりまぜたいね。
*だけど和語ばっかりだと、長くなるよ。
*そうか。両方のバランスが読みやすさにつながるのだね。

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【原因と結果】こたえが2になる式を書きましょう。

国語の時間がとれないので、道徳の授業として【原因と結果の授業】つづきをやることにした。
以下、授業プラン。

学習問題①:こたえが2になる式を書きましょう。

4-2
6-4
1+1
1000-998
【原因】いろいろとある【結果】2

このことからわかること:
〇たとえば、1+1、というのはきっかけの一つ。
〇結果の2が、1+1のこととは限らない。4-2かもしれないし、6-4かもしれない。

学習問題②:
さまざまに起こる目の前の現象。
原因は一つといえるだろうか。
たとえば、『先生がこの服を着ている。原因は奥さんにほめられたからだ』は正しいか。

【原因】いろいろとある 【結果】先生がこの服を着ている。

このことからわかること:
〇奥さんにほめられてその服を選んだということはあるかもしれない
〇しかし、その服を着ているからといって、常に奥さんにほめられたからだとは限らない。
つまり、『原因』というものは、必ずひとつきりではない。

学習問題③:時計の針が3:00を指している。

【原因】いろいろとある【結果】時計の針が3:00を指している。

〇実際の時間とは無関係に、時計は動いている。
〇だから本当の時間はわからない。
〇ともかく結果は目の前の時計の針が3:00をさしているということ。

学習問題:先生が、「おなかがへった」と言った。

【原因】いろいろとある 【結果】先生が「おなかがへった」と言った。

このことからわかること:
〇本当におなかがへったかもしれないが、口で言っているだけかもしれない。
〇先生は、体の状態とは無関係に、口で「へった」と言える。
〇だから原因がおなかがへったせいだ、とは限らない。
〇先生が「おなかがへった」と口でしゃべった、ということだけ。
〇原因はひとつではない。

指示:
①例文)1+1は2になるが、2だからといって、直前の計算式が絶対に1+1だとは言えない。
上の例文のように、〇〇であるが、だからといって〇〇とは言えない、限らない、というような文を作ってみましょう。

②奥さんがほめると先生がその服を着たくなるかもしれないが、その服を着ているのは奥さんがほめたからとは限らない

③実際の時間が3:00のときに、時計の針が3:00をさすかもしれないが、時計の針が3:00をさしているからといって、実際の時間が3:00とは限らない。

④おなかがへったので先生が「おなかがへった」ということはあるかもしれないが、だからといって、「おなかがへった」といったから実際におなかがへっているとは限らない。

⑤雨が降ったら試合が中止になるかもしれないが、試合が中止になったのは雨がふったからだとは限らない。(他にも中止となり得る原因がごまんとある)

⑥雨に濡れると風邪をひくかもしれないが、風邪をひいたのは雨にぬれたからだとは限らない。


このように、実際はある現象についての【原因】は一つではないのですが、原因を一つしかないと考えることを『迷信』と言います。つまり『迷信』とは、原因が一つだとして考え、かならずそうなるとは限らないものをかならずそうなる、と信じることを言います。

迷信と戦った人に、井上円了、という人がいます。

なぜ井上円了は、迷信と戦おうと思ったのでしょうか。

井上円了は「鬼門」とよばれる迷信と戦いました。
昔の日本には、家の中心からみて、北東にあたる方角を鬼門といい、縁起の悪いことやよくないことがその方向からやってくる、という言い伝えがあったのです。そして、家の人が病気になると、北東に神棚を祀ったり、塩を置いたりしたのです。

みなさんは、この話をきいてどう思いますか?

〇なぜ北東なんだろう
〇鬼ってどういうことだろう
〇塩ってどういうことだろう
〇まったくわからないことだらけだが・・・

井上円了は、

【原因】北東から鬼がきたので【結果】熱を出した

とは考えなかったのです。
井上円了は、どう考えたのでしょう。ノートに書きましょう。

〇原因が一つとは考えなかった。
〇鬼が来て熱を出すことはあるかもしれないが、熱を出したのは鬼が来たからとは限らない、と考えた。

そうですね。井上円了は原因を一つと考える迷信をなくし、実際はどうかもっと考えよう、ある現象が起きるための原因というのはたくさんあるという考え方を日本に広めようとしました。

(この後、井上円了のやろうとしたことや経歴にふれ、井上円了のことを感想に書いて終わる予定)

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【5年生・国語】「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」

国語の説明文の学習。
原因と結果とを結び付けて書く課題がある。
たとえば、「前日に雨が降ったので、野球の試合が中止になった」という風な。

5年生ともなると、説明文がだんだんと難しくなってくる。
つまり、筆者が具体例を挙げて説明し、結論を述べるくだりを、『なぜその結論が導かれたのか』と、ていねいに理解できるようになることが求められる。
その「説明文」を論理的に読めるようになるために、5年生のこの時期に、「原因と結果」をむすびつけて説明できるかを確認しよう、というのである。

そこで、いくつかの事例を子どもたちにノートに書いてもらい、発表しあった。

すると、

「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」

というふうに発表した子がいた。

毎日テレビを見ていたら、否応なく感染症のことが頭に浮かんでくるのだろう。
また、スーパーに入れば店内放送で「新型コロナ、感染症予防のため、店内の従業員が、マスクを着用しております・・・。お客様におかれましても、予防のため、マスクを着用してのご来店を、できるだけお願いしております。」と流れてくる。
コロナ、コロナ、と毎日耳にタコができるほど聞かされ、脳内にインプットを強いられているのだから、どうしたって浮かんでくるのだろう。

さて、この文章を見て、ある子が

「え、でもそれは原因じゃないでしょ」

と言い出した。その子は、

「免疫が下がったのが原因でしょう」

と言う。

それはなぜかというと、直前に、保健室の養護の先生による感染症の授業があったからで、そのときの説明によれば、感染症にかかるのは、体内の免疫機構が十分に働かないからだと。生活習慣の乱れや疲労、ストレスなどの原因で免疫が下がり、そのためにウイルスに対する防御反応がはたらかなくなるからだ、と習った。

「さっき、木下先生が言ってたじゃん」

そうだ、そうだ、という声があがる。

いや、この文章の中でみれば、原因と結果がすっきりと並んでいるのだし、これはこれでいいのでしょう、という子もいる。

しかし、なにか直前の保健の授業との整合性がとれず、なんだかクラス内がもやもやした空気に包まれてしまった。
もっとも「先生!もやもや!」と手を挙げた子は、(ちなみにうちの教室では今、「もやもや!」を叫ぶのが流行中)

免疫が下がる⇒感染しやすくなる

という情報ならまっすぐに自分の頭にささってきた。
ところが、

満員電車に乗ったので、コロナに感染した。
<原因>--------------------------<結果>

という板書が、どうも気に食わない、というのだ。

だって、満員電車にのったからといって全員かかるわけでもなし、乗ったからかかった、というのは、いささか雑すぎるのではないか、というのだ。

「じゃあさ」

その彼は、口をとがらして言う。

「レストランで感染した人がいたらさ、その人はこういってもいいことになっちゃうよ。たとえば、<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>って」

えー・・・?!

もやもやした空気が、教室全体をおおっていく。
わたしは狼狽し、国語の授業がこのあとどうなってしまうのか、と案ずるが、仕方がない。
というよりも、私はいつも狼狽し、どうなってしまうのだろう、とハラハラするのが毎日の日常で、本当を言うと、教室にはいてもいなくてもどっちでもいいのかもしれない。ほとんど、わたしが教師を名乗るのは詐欺である。まったく授業をコントロールできていないからだ。ほぼ毎日。

さて、わたしも混乱しはじめた。

<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>は、はたして妥当なのか?

<満員電車に乗ったので、コロナに感染した>という文章は、教室内の8割が納得できる、と答えた。一方、<ラーメンを食べたので、コロナに感染した>という文章は、当初、3割しか納得しなかった。

ところが・・・
この後、情勢が変わっていく。
もやもやを叫ぶ彼の運動が徐々に功を奏して、次第にラーメン派が増えだしたのだ。

「だってさ、両方ともたまたま、じゃん。電車に乗ったのも、レストランに入ったのも」
「ああ、そうかー」

たまたま乗った客車内に感染した人がいて、咳をしたかもしれないので、その満員電車に乗って呼吸をしているうちにウイルスを吸い込んで感染した、ということと、
たまたま入ったレストランに感染した人がいて、咳をしたかもしれなくて、そのレストランでラーメンを食べているうちにウイルスを吸い込んで感染した、ということと、
それほどちがいがなかろう、というのだ。

「そうだなあ。ラーメンを食べたのでコロナに感染もあり、だな」

徐々にみんなが納得して、この文章は正しいことになってしまった。わたしだけ、狼狽している。

最後まで発表したい、というので一応班の全員が発表するまで聞いてみると、その後も論理的に破綻したような文例が次々に子どもの手によって黒板に書かれてしまった。

「ダンスをしたので、コロナに感染した」
「猫を飼ったので、コロナに感染した」
「逆立ちをしたので、コロナに感染した」
「おなかがすいたので、コロナに感染した」

さすがに論理の飛躍だろう、と私が介入したら、

「え、だって<満員電車に乗ったので、コロナに感染した>はいいんでしょう」

と逆襲にあう。

ダンスをして息が荒くなって思わずマスクを外したときに感染したとか、
ネコもコロナに感染する、という新聞記事の切り抜きがあったので可能性があるとか、
逆立ちをして床すれすれに顔を近づけたために埃を吸って感染したとか、
おなかがすいたのでふと立ち寄ってコンビニでおにぎりを買って食べたところ、おそらくその前の客がどうも咳をしていたらしく、レジでおつりのやりとりをしたときに感染したのではないかとか、

そういう説明を立て板に水をながすごとくに流ちょうにぺらぺらと。

わかった、と私はついに叫んだ。

「満員電車に乗ったので、コロナに感染した」というのは、論理飛躍ということにします。だからこれは撤回です!

それでもわたしは許してもらえなかった。

どうもおかしいな、と最初に発言した子が言いはじめると、次々にその賛同者が増えていった。

「前日に雨が降ったので、野球の試合が中止になった」はおかしい、というのだ。

前日に雨が降ったからではない。
もっとていねいに言わなければならない。
みんなで順序を確認していくと、

①前日に雨が降り
②その降雨量がある量を越え
③あいにく水はけの悪いグラウンドで
④あちこちに水たまりがのこり、
⑤その水たまりが前夜のうちに地面に吸い込まれないままであり
⑥親たちがこの状態ではユニフォームが汚れるとクレームをつけ
⑦そのクレームを聞いた主催者も「子どもが風邪をひいてはいけない」と心配をし、
⑧中止をして翌週に試合を延期することも可能だという判断があり
⑨遠征にやってくるはずの他県の選手団にも無事に連絡がとれ
⑩他県の選手団が乗るはずのバスの会社もキャンセル料をとることなく延期を受け入れ
⑪翌週のバスの手配も無事に済み、
⑫予約していた弁当の手配もキャンセルができ、
⑬主催者、選手、バス会社、グラウンドの運営会社いずれにも支障がないことが確認され
⑭翌週の天気予報を確認したところおそらくやれそうだ、という判断をしたために

その結果、野球の試合が中止になっただろう。

ということになった。

「だから、雨が降ったから、というのは、かなり雑な言い方です」

これは、わたしの授業の進め方が悪いのだろう。
原因と結果、ということについて、わたしはもう授業をしたくない。

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体育の授業【幅跳び編】~3分前の自分を越える~

『自分を越えろ!』
というのが、走り幅跳びのテーマである。

前回の記録をわかりやすくしておく。
友達とペアで記録しあうようにする。
ところが、いちいちメジャーなどで測る時間がもったいない。
それで、砂場に何本もひもを敷いておく。それを目安にすればよい。

走り幅跳び


【具体的な指導】

班でゲームのようにする。
目標は次の2点。
〇片足でふみきる。
〇両足で着地する。つまり、両足でゴム紐を踏むと得点できる。

1.5mのゴム紐をふめば、15点。
2mのゴム紐をふめば、20点。
2.5mのゴム紐をふめば、25点。

班で合計得点を合わせて、点数を記録していく。

【5年社会】あたたかい土地のくらし・沖縄ジュゴン

社会の授業。
子どもたちの意見が面白すぎて、毎回マスクごしに笑いをこらえている。

1つめは、シーサーの写真。
シーサーの部分だけを隠して表示すると、屋根の上になにかがある、と見える。
発問:ここに何があるでしょうか。
どうしてそう思ったのかも、理由を言ってください。

この理由が大事で、これまでの学習がその子なりに生きていることがわかる。

一人の賢い女子が、

「ハイビスカスの花だと思います」

と言ったのは印象的で、クラスの仲間から多くの拍手をもらっていた。

理由がまた秀逸で、

「沖縄は観光業がさかんです。そのため観光客に喜んでもらうために、南国の風景をみせようとしてハイビスカスの花束か、花壇を屋根の上につくっているのだと思います」

沖縄の産業が観光業を軸に成り立っていることを学習しているから、このような意見が出る。
もちろん、大きく褒める。

他にも色々出たが、台風が多いことから、風量計、雨量計というのも出た。
災害に備えるために、個人の家の屋根の上にもそういう計器類を設置するのだと考えたらしい。
これも理由に納得する、という子が多く出て、拍手をもらう。
同じように、屋根の一部がガラスになっていて透けて天気が見える、とか。
「スコールがくるから、ぱっと天気がわかるように」
だそうだ。
どうだろうか。子どもというのは直前の学習をこんなにも生かそうとするものなのである。われわれ大人も見習うべきだろう。

ところで正解はシーサーだ。
屋根の上に、ちょこん、とかっこよく乗っている。
子どもの中にはそれを知っていて、シーサーだと思います、と言う子もいる。
ところがわたしはもちろんそれを聞き受けいれたあとでも、さらに子どもたちの発言を促す。
正解が出ればおしまい、というのでは、上記のようなハイビスカスやら雨量計やらの珍解答はみんなで共有できないからだ。珍解答であったとしても、「社会的な見地からの情報をできる限り生かそうとして考えて、自分なりの答えを予想してみる」ことの価値は高い。

さて、その後にこのような写真を見せた。

ジュゴン隠れ


ジュゴンだということが分かる子がいる。
「名古屋港水族館におった!」
ちょっと岡崎から離れてはいるが、愛知県民なので、子どもたちもよく知っている。

しかし、3のつぎに描いてある記号が読めない。
「あれ、なんて書いてるあるの?」と質問が出る。

どこの国の切手だと思いますか?
「外国ー!」
みんな、外国だ、という。

ところが、上の部分のマスクを外すと、日本語が描いてある。
「?なんで日本語なのに、円じゃないの?」

わけがわからない。
徐々にマスクをはずす。
すると、左側に、1966 という数字が見える。
西暦だということがわかる。めっちゃ古い!と声が出る(笑)。
たしかに。君たちのお父さんお母さんたちが生まれるよりも、だいぶ昔ですね。

最後に「琉球郵便」という字をみせると、これもまたわけがわからない。
日本郵便、という言葉ならわかるが、これはいったいなんだろう?

ジュゴンそのまま


「実は、今でもジュゴンは沖縄に住んでいるそうです。」

というと、子どもたちはいっせいにおどろく。
ちなみに見せるのは、
今年の沖縄タイムスの記事(4月)だ。

ジュゴンの生息域を地図帳を使ってしらべてみると、基地工事の近くである。
そこから地図上で、基地がどれだけの面積にわたっているか、マーカーで色をつけてみる。
子どもたちはその広さに驚き、1966年の意味をだんだんと知る。
むろん、当時は日本ではなく、琉球政府、の土地であったのだ。

子どもたちの感想をノートで見ると、「知らなかった」のオンパレードである。
やはり、5年生では知らないのだ。アメリカと戦争していたことも知らない子がほとんどだ。
学ばなければ、なにも知らないまま、この子たちは大人になっていく。

『龍の子太郎』を教科書に

たしか私は小学生の2年生ころだったかな・・・昭和のこと。
もう本当におぼろな記憶。

先生たちにうながされて、体育館に入っていくと、見知らぬ人たちがいる。
彼らは演劇をしてくれるお兄さんやお姉さんたちだった。みんなで迎えてくれた。
一人のお兄さんはなんだかジャンプして両足の先に手でタッチをするという曲芸らしきことをし、ぼくらは歓声をあげた。それだけで、ぼくたちはうれしくなった。
このあと、この人たちがぼくたちのために、とんでもなく楽しいことをして見せてくれるんだ、という気がしたからだ。

それが、劇団なんとか(覚えてません)の人形劇「龍の子太郎」でした。
大きい龍も小さい龍も出てきて、幻燈のような仕掛けをつかったりと工夫されている舞台で、悲しいけど見た後には元気が出てくるような、子どもの心をわしづかみにするのに十分な劇でした。酔いしれましたね。見終わった後、泣いてる子もいたし、劇団員の方たちが体育館から出る際には握手をしてくれたのは今でも覚えている。

その方たち、当時はまだ20代、30代の方たちだったろうから、今はもう70代から80代になっているだろうか・・・。
わたしのこの頭の中の、記憶の映像に映っているこのお兄さん、お姉さんたちは、今はどうされているのだろう。


ところで、どうしてこれを思い出したかと言うと、教室で子どもが読んでいたからですな。
それも、松谷みよ子さんの、ハードカバーを。
昭和のにおいがぷんぷんするような、挿し絵の芸術的な本を。

お、と思って少し借りて読んでみたら、思い出してきて・・・
思わず教室で「龍の子太郎」の話をしてしまいました。
ちなみに母龍が自分の目玉を太郎にしゃぶらせて育てたエピソードはずいぶんと面白い。
わたしは、目というのはさまざまなものを見ているから、知恵の意味があるのではないか?と考えています。龍になったお母さんは、自分の知恵を太郎に授けたいと願って目玉をしゃぶらせた、ということになるんじゃないかと。
このあたりは、なんだかゲゲゲの鬼太郎にも通じていくような気がします。
鬼太郎の父親も、実はかなりの知恵者です。わたしが以前見た回では、お父さんは閻魔様とタメで話をしていた。地獄の閻魔様と「やあ」「ひさしぶり」的な会話ができるあの人、霊界ではなかなかのポジションを占めて居るんじゃないか。

ともあれなぜ5年生でこの物語が重要になってくるかというと、5年生は社会で日本の国土を学ぶからですね。火山とか湖とか川とか平野とか山地とか。そうした土地の様子を学ぶ際に、古くから伝わる伝承はそのイメージを大いにふくらませてくれます。

太郎の話も、古くから伝わる民話伝承が元になっています。実際に信州の松本・安曇平はいまは田園風景が広がっていますが、かつてはそうではなく、ただの荒れ地だったらしい。そこに治水を施して水を得て、いくつもの水の流れをつくったことが、こうした物語の背景にあったのではないかと言われています。

物語の最後に、母親龍が見えない目でもって太郎を背中にのせ、大きな岩に何度も体当たりするシーンは涙をさそう。傷ついたからだでも惜しまず体当たりを続けていると、ついに岩がうごき、たまった川の水がついに村の方へと流れていく。龍は傷ついたまま倒れ、ついに動かなくなるのですが、太郎の涙がふれるとあらまあ。最後はハッピーエンドです。

文科省は、なぜこれを教科書に載せんのだ!!怒!!


tatunoko

【道徳】分かるとは何が分かるということか

A「なあ、きみ。ぼくは気づいたんだ。ツバペッペイさんは本物の悟りの人だと」

B「それはすごい。でも、だれ?その人・・・」

A「とにかく真理を話すんだ。一度講話を聴いたらもう忘れられない」

B「へええ。よかったねえ。面白い話だったんだな」

A「あの目、あの話し方、素晴らしい愛を感じたね」

B「きっと、やさしい人なんだろうねぇ」

A「とにかく、あの人の言うことは絶対の真理だ。人生というものを知っているんだ」

B「ははあ。そんなに感動したの」

A「人生の何たるかをぼくはそこで初めて理解した。真理はシンプルだ」

B「ほー・・・」

ネッシー


A「ぼくもこうやって初めて真理にたどり着いたので、毎日が明るく思えるよ」

B「・・・」

A「あの人の言うことはぜったい正しい!」

B「・・・あそう。しかしまあ、自信がすごい・・・」

A「(かぶせ気味に)いや、あの人こそ、真理にたどり着いて覚醒した方なんだ」

B「あそう。ではあなたも真理にたどり着き、仏陀のように大悟したのか。そりゃおめでとう!さぞ今は心境穏やかなのだろうね」

A「いや、ぼくなんかまだ道半ばだ。永遠に道半ばなのかもしれない」

B「なぜ。・・・あなたも真理を理解したのだろう?」

A「ぼくなどまだ足元にも及ばない。なぜならぼかぁ、間違いの多い人間だからね」

B「えええ?あなたは本物の悟りを得たのだろう?」

A「いや、逆さ。自分は間違いが多い人間だということがわかったのだ。ぼかあ、自分のことをしっかり認めている。間違いの多い人間だということを・・・。そうして反省することができる。これは実は悟りの一部さ」

B「はああ。まあ、自分は正しく判断できる能力があると思い込んで泥沼、ってのは、太平洋戦争をふりかえるまでもなく、よくある話だし・・・人間ってのはそういうものだろうなあ」

A「ところが、ツバペッペイさんはそうでない。あの人は真理をつかんだ人なのだ。あの方の言うことはすべて正しい」

B「・・・あれ、待てよ?・・・しかし、あなたは間違いの多い人間なのだろう?」

A「そうさ。わたしはツバペッペイ氏の足元にも及ばない。間違いを反省するべき人間だ」

B「あなたは間違いが多いのだろう?で、そのあなたが判断したことは・・・」

A「もちろん!大いに間違っているんだ。どうだ。こんなふうに素直に反省するところなんざぁ、ぼくもかなり修行が進んだといっていいだろう」

B「あなたには正確に判断する能力は・・・」

A「もちろん、無い!・・・どう?キミの言いたいことはお見通しだよ。ぼくはそれほど高慢ちきな人間ではない。ぼくにはツバペッペイ氏のような千里眼はとうてい無理なのさ。でもそれを自覚できているところがえらいのだ」

B「なるほど。あなたには、正確に判断する能力もないし、間違いが多いことがわかった」

A「そう。で、世界で唯一の真理の探究者こそツバペッペイ氏だ。キミにも氏の高邁な理論を伝えたいよ」

B「あなたは間違いだらけ」

A「そうぼくは。で、ツバペッペイ氏は最高」

B「ということを言うあなたの話は」

A「そう。間違いだらけ」

B「で、その間違いだらけのあなたの話は間違いだらけ」

A「そう。そしてぼくが確信しているのが、ツバペッペイ氏が正しいということ」

B「その話は、間違い?」

A「そう。ぼくの話はほとんどが間違い」

B「ではツバペッペイ氏は・・・」

A「・・・このぼくが判断したことなので・・・んまー、正しいともいえんな

B「ツバペッペイ氏は正しくないかも、ということでいいのかな」

A「・・・んまー、よかろう」


分かるとは何が分かるということか。

これを小学生のそうだなあ、4年生か5年生くらいで、考えておいた方がいいのかもね。

【道徳】嫌い、ということの誤解をなんとかする

文科省は基本法や指導要領で、とてもいいことを言っている。
わたしは基本的に、文科省のいうことは常識的で、素晴らしいと考えている。
よく読んでみると当然だが、人権的な配慮にあふれている。
というよりも、人権的にまちがったことを書いてある場所は皆無である。
差別をなくし、人を個として尊重すべき、と書いてある。

道徳の教科化については、賛否の両意見があるが、わたしはこの目標はすばらしいと考える。
「自己の生き方を考え、主体的な判断の下に行動し、自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする。」

しかし、授業自体は旧態依然としており、あの教科書をいくら読んで意見を出し合ったところで、なにか根本がずれているために、子どもたちは意外にも

他者とよりよく生きる

ことが難しいのである。

これは現場の教師としては苦しいところ。
文科省は
「道徳をしっかりやれば、いじめもなくなるし、子どもたちは他者を思う子に育つ」
と思い込んでいる。
ところが実際はそうならないから、困っている。
いじめが出れば、文科省は
「なぜいじめが出るんだ、道徳をしっかりやっているのか!」
と考える。
でも、その道徳をきめられたように教科書をつかってがんばっていても、いじめが起きるからみな苦しんでいる。
決定的なのは、当の教師自身が、「なんでいじめが起きるのかわからない」と思っていることだ。

〇子どもに原因があるとする考え。
〇親に原因があるとする考え。
〇善悪の判断が理解できていないのだ、とする考え。
〇礼儀を教え込んでいないのだ、とする考え。
〇伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度がたりんのだ、とする考え。

どれも違うし、ズレているから、上記のように考えている限り、決していじめの原因がつかめないし、人間とはなにかも理解できないままだ。

善と悪を分けましょう、というのをいくら学んでも、ちっとも学級の雰囲気は良くならない。
この実態をしったら、この現状をみたら、文科省のえらい人も泣くだろうと思う。
そして、なんでだろう、と疑問をもつと思うネ。

礼儀をいくら教え込んでも、不気味なロボット人間が多数出来上がるだけで、ちっとも子どもらしくない集団ができあがる。これも、文科省の役人がみたら、「こんなはずではないのに」と残念がるだろうと思う。

さらには国や郷土の良さを知って自尊心を高めることに重点をおいても、やはり子どもは決定的に変わることがなく、自分勝手で気分屋で、お母さんを困らせる点は変わらないのであります。

わたしには、文科省の担当者の気苦労がしのばれる。
子どもの学級集団は、1年間、ずっと同じように毎日顔を合わせるのである。
その集団が、安心して心地よい空間にならなければ、子どもは決して成長できない。
そのことに重点をおかず、子どもを律するために、とだけ考えて苦悶したのだろう。
最終的に結論がでず、ともかくあらん限りの指導のポイントをかきなぐった学習指導要領になった。

それが、これである。
A 主として自分自身に関すること
○ 善悪の判断,自律,自由と責任(低、中、高)
○ 正直、誠実(低、中、高)
○ 節度、節制(低、中、高)
○ 個性の伸長(低、中、高)
○ 希望と勇気、努力と強い意志(低、中、高)
○ 真理の探究(高)
B 主として人との関わりに関すること
○ 親切、思いやり(低、中、高)
○ 感謝(低、中、高)
○ 礼儀(低、中、高)
○ 友情、信頼(低、中、高)
○ 相互理解、寛容(中、高)
C 主として集団や社会との関わりに関すること
○ 規則の尊重(低、中、高)
○ 公正、公平、社会正義(低、中、高)
○ 勤労、公共の精神(低、中、高)
○ 家族愛、家庭生活の充実(低、中、高)
○ よりよい学校生活、集団生活の充実(低、中、高)
○ 伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度(低、中、高)
○ 国際理解、国際親善(低、中、高)
D 主として生命や自然、崇高なもの
との関わりに関すること
○ 生命の尊さ(低、中、高)
○ 自然愛護(低、中、高)
○ 感動、畏敬の念(低、中、高)
○ よりよく生きる喜び(高)

これをしっかりと指導すれば、いい子になるだろう、という文科省の願いである。
ところがそうならないから、文科省の担当者は、こういう文書を作成した直後から現在まで、常に苦悶しているのだろうと想像する。

安心して暮らせる、子どもが勉強をやる気になれる教室をつくるのは、たった一つ、これを解決すればいいだけである。

「嫌い」をじっくり考え、「好き」になる。

これだけで、友達が好きになり、授業が好きになり、教室の掃除道具が好きになり、友達の発言が好きになり、自分が好きになり、やる気に満ち溢れ、世界が変わり、地球が好きになり、過去も未来も好きになる子になる。

毎日子どもをみていたら、「単純でシンプルなことを自分を材料にとことんしらべていく」やり方のほうがあっている、と思うネ。

道徳の授業は、やらんならん、という要素を増やさない方がイイと思うがナァ・・・。

道徳

【小5国語】なまえつけてよ~認知理論哲学になっていく文学教材~

蜂飼耳さんの「なまえつけてよ」という物語。
授業のねらいは「登場人物どうしの関わりをとらえ、感想を伝え合おう」だ。

以下、授業プラン。

【第1時間目】
かんたんに全体の把握をめあてに音読をした。
その後、
登場人物をおさえて⇒あらすじ確認⇒場面分け

【第2時間目】
主人公「春花」の心情が表れたと思われる叙述に各自で線を引く。
「どこに線を引いたか」+「そこには、どんな心情が現れているといえるか」を合わせて発表。

この時間では、まず第一場面と第二場面の前半まで。
春花がなまえをつける、ということにワクワクしていること、
生まれて初めての体験に、不安も感じながら、それでも嬉しい気持ちでいっぱいなことを把握。

【第3時間目】
前時同様のことを、第二場面の後半で実施。
ここでは、春花以外の主要な人物『勇太』が登場する。
まずは、春花の心情をしらべる。

〇勇太に「すごいね」と言ってほしい。
〇一生懸命に考えている

つぎに、勇太の心情をしらべる。すると、
勇太は顔を上げて、ちらっと春花の方を見た。でも、すぐに目をそらした。
という箇所がある。

これを、多くの子が、「勇太の心情があらわれた」個所として考えた。

〇勇太は、ちょっと興味があったけど、でもてれくさかった。
〇勇太は、ちらっとしか見ていないから、まだ春花さんに対して心を開いていない。

また、こんな箇所もある。
「もう行こう」勇太はぷいっと向きを変えて、歩き出した。

これも、学級の子どもたちはほとんどが、勇太の心情が現れている、と考えて線を引いた。
そして
〇勇太は、まだ慣れていない春花に話しかける勇気がない。
〇勇太は正直、こんな話には興味がない。
〇勇太は人のことなんか気にしないわが道を行くタイプで、おまけに春花に関心なし。

などと感想が出た。
それらをすべて板書すると、勇太の心情が非常に冷酷なものに思えてくる。
勇太は春花を、ちらっとしか見ないし、
話しかけたのに、ぷいっとしてしまうし、
『勇太は空気も何も読めない、イカれた男子だ』(ノート原文ママ)、ということになった。

ところが、ある子が、
「最後に折り紙を渡してくれる勇太が、こんなに冷たいわけがない」
と疑問を呈したのである。

その疑問がでると、クラスのほとんどの子が、迷ってしまった。
たしかに、最後の第四場面でみせる勇太の、ちょっと小粋で乙女心をくすぐる行動は、ちょいとそこらのプレイボーイ顔負けの女殺しテクである。乱暴でガサツかと思った男子が、丁寧に折り紙を折り、名前を付けられず傷心している春花に「なまえつけてよ」。
これは、相当な手練手管であろう。春花が校舎の窓から彼をさがし、グランドでサッカーに興じる勇太をそっと見守る心境になるのも無理はない。

そのことと、イメージがちがいすぎるのですよ。
最初にみせた、いけずでちょっとツンツンした態度と
女の子の気持ちをやさしく汲んであげ、さらに気持ちに寄り添ってアクションを起こした彼の姿と。
整合性がとれない。
どちらが、彼の「真の姿」なのでしょうか。

・・・

まったく、学級が混乱してしまった。

わたし「どうする?わかんなくなったね」
みんな「読み直そう」

もう一度、そのあたりの文章を読み直してみる。
やはり、音読が大事だ。
ゆっくりと読んでいくと、重要な叙述が見つかった。
これで、なにもかもがハッキリする。

「今教えてよ、今知りたい」と陸が早口で言った。
この早口(はやくち)。
作者の蜂飼耳さんが、しっかりとひそませているこの叙述。ここに気づけるかどうか・・・。

この決定的なキーワードに、クラスのある女子が目を付けた。
なぜ、蜂飼さんは、陸に「はやくちで」そういわせたのだろう・・・。
灰色の脳細胞がすばやく点滅し、脳内のシナプスに電気信号を送り始める・・・

教室の中央付近、とある女子の目が光り、姿勢が動いた。
その姿勢の動きと、目の輝きの一瞬を、わたしは見逃さなかった。

「はい、Mさん!なにかひらめいた?」

Mさんがはじかれたように席をたち、堂々と述べた。

「これ、春花を救ってるんだと思います!」

え~・・・ざわざわ・・・

Mさんが説明する。
「勇太は、空気を読んだのだと思います」
シーンとする教室。みんなが固唾をのんで、Mさんの言葉を聴いている。

勇太は、だだをこねるような弟の要求に、春花が困ってしまうのではないかと空気を読んだ。
そして、若い母親が幼児の手をひいて、スーパーのお菓子売り場を去るときのように、
「ほら、いくよ、いくよ、そらそら」とその場を離れようとしたのである。
これは、周囲に機敏に目を配り、心を配っているからこそできる芸当であろう。
Mさんは、だいたい次のようなことを、一生懸命に説明した。

弟が春花に迷惑をかけないように・・・と思った、だからこその、もう行こう、だったと。それから、そのぷいっとというのは、あくまでも春花の目線で言っていること。そういう印象を受けたのはあくまでも春花であって、事実、勇太がぷいっとしたというよりも、勇太に対する期待が大きかった春花の側の、ざんねんな気持ちがそう見させた、ということかと・・・

〇〇目線。

でました。国語の研究授業で何度もお目にかかる、超有名な国語文章読解技法のキーワードです。
つまり、

ぷいっと
ちらっと


これらはすべて、春花の気持ちなのでした。
実際、人間が、ぷいっと横を向く、ということはできません。もし顔を向けた瞬間に、首のあたりから「プイっ」というような、そんなような音がしたら、事実そう書けるかもしれませんが・・・。


なーんだ。
だったら、この表現、勇太の心情を示すところだと思って線をひいちゃったけど、結局は春花の心情だったんだね。

子どもたちの出した結論:(人物の心情をとらえよう)
〇春花は勇太のことを、ガン見しすぎ。(原文ママ)
〇春花は勇太に過大な期待をよせすぎ。(原文ママ)
〇春花目線は強烈すぎて思い込み強すぎ。(原文ママ)
〇春花は自分の目線におぼれてしまって、勇太の本当の心の動きには気づけていない。(原文ママ)

すごいですねえ。
目線に溺れる。
大人でもできないようなブンガク表現を、平気で小学校5年生がノートに書いています。
認知とはなにか。哲学だな、こりゃ。

namaetuketekunro

蜂にジュースを

5月の連休中、庭仕事をしていると、
ぶーんという羽音が聞こえました。

ふと顔をあげてみると、なんと、でっかいスズメバチです。
スズメバチの顔を、間近に見てしまいました。

やや、図鑑と同じや!
でかい、でかすぎる!

すぐに畑の方へ、飛んで行ってしまったので、安心しました。
どこまで行ったかと目を凝らしてみたら、
遠くの方へ飛んで行っても、まだ見えてるんですね。
50mは遠くにいったか、と思ったけど、まだ黒い点として見えている。
おそろしいと思いました。そのでかさに。

昔の人が、スズメと見間違ったという伝説がありますが
「それもありうるな。あれだけでかいなら」と変に感心しました。

理科の先生から、
「春の蜂は女王バチ。夏の蜂は、働きバチ」
と習ったことを思い出しました。

蜂のトラップをつくる人がいますが、4月~6月初旬の女王バチをとらえるのには、効果があるかと思います。でも、6月下旬以後はやめておいた方がいいです。逆に、周囲から働きバチをよびよせてしまいます。
4月から6月中旬までに仕掛けておいて、そこで終え、回収してしまうのがいいですね。それだけでも、周囲にでかいスズメバチの巣ができたり、ぶんぶん飛び回ったりすることにはならないでしょう。・・・と思います(=_=)。

昆虫のことを教えてくださる師匠によれば、
「蜂はみんな人類の味方だ」
とのことで、ミツバチはおろか、アシナガバチも害虫を食べてくれる益虫だし、スズメバチも生態系をまもってくれている益虫だそうで、
「蜂の巣を退治するのは、本当なら必要がない」
と言ってました。

そうして興味をもって調査していると、自宅の庭に、けっこうな数の蜂が飛んでくることがわかりました。どうも、ここいらに巣をつくろうとしているのではないだろか・・・。

嫁様の依頼もあり、結局トラップをつくることにしました。連休ならではの取り組みです。

そこで、効果的な蜂トラップの作り方を、小学校の理科専科の先生に電話で聞いてみました。

「いれものは何がいいですか」
「ペットボトルがいいんじゃない。大きさは何でもいいよ」
「500ml でも、2Lでも、どっちでも?」
「大きさなんてなんでもいいよ。どんな大きさだってとれる」

どうやら、大きさはなんでもいいそうです。

「ああそうですか。じゃあ、何を入れるのがベストでしょう?」
「なんでもいいよ。あまいやつ」
「なんでもいい?・・よく酒とか焼酎とか聞きますが」
「酒なんて高いの、入れなくていいよ。ジュースで十分」

この理科の先生、理科の道をひたすら歩んできた天才的な人なのですが、
「なんでもいい」が口癖のようで、大きさも中身もなんでもいい、とのこと。
本当かなあ・・・(不安)。

わたしはこれまでに、蜂トラップというのは、焼酎を使うんだとばかり思っていた。
カブトムシは、バナナを焼酎につけておいたものが大好物で、数百メートル周辺から、カブトムシがそれへめがけて集まってくるのだ、ということを聞いたこともある。

念のため、理科の先生に尋ねてみた。
「先生、焼酎が要ると思ってたんですが、本当にジュースだけいいんですか?」

すると、案の定、酒は不要、と断言する。

「だって、酒を蜂に飲ませるなんて、もったいないでしょう」
「たしかに」
「酒は自分が飲んだ方がマシ!酒は、人間が飲むもの!蜂にはもったいない!」

ジュースは何が良いかと聞くと、即答で

「ぶどうのなっちゃんがイイ。あれは果汁が20%あるし。保存料もつかってないから酸化してアルコール発酵しはじめる気もする。ミツバチは寄ってこないからさらによろしい」

だとのこと。
よろしいでしょうか。小学校というのは、なかなかの専門家がそろっているものです。
考えてみれば、国語の専門家もいれば、算数の専門家、そして理科、音楽、体育、社会、その他、人間生活のさまざまなことに関する専門家がいます。小学校、という組織には・・・。

その理科の先生のお墨付きです!
なっちゃん!ぶどう味!
これだけで、アシナガバチとスズメバチがとれるそうでっせ(伝聞)。
(本当かどうかは、これから実証試験してみます)

budou


ペットボトルの例)↓
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おそらく教科書に載る~トイレットペーパーの買い占め転売~

このたびのトイレットペーパー騒動、すごかったです。
おそらく将来、このことが、教科書に載るでしょう。

そう考えるのは、すでにそういう事例があったからです。
実は、1970年代にオイルショックがありました。当時の騒動の様子が今の教科書に載せられていて、なぜそのような集団行動が起きたのか、考えることになっています。当時も紙が不足したわけではなく、国内の生産量はオイルショックとは無関係でかえって増産されていた、というのも、今日の騒ぎとまったく同じであります。
「集団心理」という言葉、教科書には載っていないけれど、授業をしていたらふつうに教室の中で話し合われるキーワードです。つまり、ふつうの小学生が、『集団心理』について、学習をするのが、今の日本の教育です。

買い占め

今の大人、ほとんどの方は知っているわけです。
1970年代のオイルショック、そしてペーパー買い占め騒動について。頭の中に知識としては「ある」でしょう。ところが、それが「学んだこと」になっていない。だから、教訓が生かされないのです。

これが、「死んだ学び」というものでしょう。

この反対は、「生きた学び」です。

学ぶのは楽しいはず。
もっともっと、掘り下げて、なぜか、なぜか、と考える教室にしていかないと、いつまでも日本人は死んだ学びから脱却できないのではないかと思います。

さて、
なぜ集団心理が起きるかというと、人は不安を持つ動物だからでしょうか。
不安を避けようとする、というのは、人が生きていく際の基本的な戦略です。
そうしないと、危険を回避できない可能性(率)が高くなるから。
安全確保のために、不安を避けようとするのは人にそなわった基本的な知恵のようです。

ところが、その「不安」には度合いがあり、人によって異なる。

「なあに、大丈夫」(なんとなく気分で豪語)

という人もいれば、

「トイレットペーパーは国内生産が90%だし資源も国産。だとしたら中国からの輸入がとだえて買えなくなる、というのはデマだろう」(おそらく)

と、合理的に分析する人もいます。

もともと不安をあまり抱えることのない人で、

「まあ、なくてもそう困らん」

という人もいます。

「むかしは、新聞紙を手でもんで(しわくちゃにして)な、それでケツをふいとったぞなもし」(自慢)

だそうです。(実話)
不安な人は、そこまで考えることはないでしょうが、この方のように、不安をもたなければ、泰然自若としてスーパーのがらんとしたペーパーのコーナーを素通りできますね。

わたしの実家には、オイルショックのあと、かなり長い間、サランラップがありました。
幼いわたしが
「なんでこんなに、サランラップばっかり、うちにはあるんだろう?」
と疑問を抱いたところ、母がため息をつきながら、
これは、長身だった父が腕(リーチ)の長さを生かし、懸命に腕を伸ばしてつかみとり、スーパーでの争奪戦をしのいで買って帰ったサランラップなのだ。
と解説してくれました。

母は、山のように積まれたサランラップを返品する勇気もなく、10年以上の間、親戚に配っても減らず、見るたびに買ったことを後悔したそうであります。(実家の母の談話より)

たしかに、わたしも、かつての台所の戸棚が大量のサランラップで占拠されていたのを、記憶のかなたにおぼろげに覚えております。(そのころのサランラップは、黄色に赤と緑のデザインだったナ)

こう考えると、小学校で習うべきなのは、

国語、算数、理科、社会、道徳、家庭科、体育、音楽、図工 の9教科ではなく、

不安心理、集団心理、国語、算数、料理、遊び、合理的な思考 の8教科にすべきではないでしょうか。

そして、そんなに急いで中学へ行かず、小学校を10年間に延ばすというのはどうでしょう。
中学校で部活・スポーツに血道をあげるのも、もちろん楽しいことには違いないのですが、小学校時代にもっと遊ばねばなりません。多くの子どもは歓声をあげて、この意見に賛同してくれると思います。

わたしは栄えある日本国民の一人として、光彩輝く未来の教育を思い描きながら、上記のように、さよう、進言します。

6年・理科 水溶液の学習・前半

「酸」と黒板に書く。

これ知っている?

すぐに出るのが、炭酸。

炭酸ってなあに、と尋ねると、

「ジュース」
「コーラ」
「メントス」
「しゅわしゅわする」
「あわみたいなやつ」

身の回りの「酸」について調べよう

と黒板に書く。

炭酸が出たから、すぐに炭酸のペットボトル(500ml)を出す。
この泡の正体ってなんだろうか。
どうやってしらべる?

火をつける。
吸ってみる。
飲んでみる。

理科の実験なので、飲んでみた感想を言い合うのでなく、物質そのものを調べたいんだ、と確認する。人間が感じた感想や思いに焦点はあてず、あくまでも物質としての事実、物質としての特徴を。

火をつける、が残る。

そこで水上置換で泡を集めて集気びんに集め、ふたをしてろうそくの火を差し入れてみる。

あっという間に消える。

「二酸化炭素じゃないの?」

1学期の既習事項が出てくる。
念のため、石灰水に通す。白く濁る。これは二酸化炭素だろう、ということが明らかになる。
このことから、みんなが炭酸と呼んでいる水溶液は、二酸化炭素の水溶液だということがわかる。



次に、また別な『酸』を調べよう、ともちかけると、

「クエン酸」というのが出た。

おそうじでつかう。
お漬物の色をきれいにするために使う。
などが出る。

では、クエン酸の水溶液をつくってみよう、ということで、水溶液をビーカーにつくる。
おそうじで、汚れが取れるやつだ、ということで、強烈なんじゃないか、とみんな考える。
「なにかをとかしてみよう」

そこで、黒板のチョークを溶かしてみる。
粉末をごく少量、試験管に入れて、そこへクエン酸の水溶液を入れてみると、あわが出る。
チョークの粉末はぜんぶ溶けてしまった。

「酸には、ものを溶かす働きがあるかもしれない」

念のため、ふつうの水も用意して、こちらにもチョークの粉を入れてみる。
まったく溶けない。

「やっぱり、ものを溶かすんだ」

たくさんのあわが出てきたので、あわの正体はなにかと問うと、

「二酸化炭素かなあ」

ついさっき、炭酸水からは二酸化炭素が出てきていたから、みんなそう考えるらしい。

そこで同じように石灰水に通すと、白く濁る。

「おお、二酸化炭素だ!」

クエン酸水溶液のような水溶液を、「酸」の水溶液というのだと確認する。
リトマス試験紙でしらべて、青いリトマス紙が赤くなることを見せる。
ふつうの水だと、青いリトマス紙は青いままである。

さて、クエン酸には炭酸カルシウムが溶けたので、炭酸水でも溶けるのかどうかを実験する。
すると、あまり溶けない。わずかに小さな泡が見える。
弱い酸性なのである。

ちなみに二酸化炭素そのものは酸性なのかどうか。
予想させてみると、みんな「酸性」なのだろう、という。
炭酸もクエン酸も、二酸化炭素が関係しているらしい、と思っている。
だから、CO2を拭きかけたら、色が変わるのではないか、と。

ところが、直接吹きかけてもなんら変化しない。

「あれ?」

となる。
「ちょっと待って。正確にはCO2の気体そのものが酸性とはいえない、ということだよね」
「ああそうか。水溶液にしないと」

そこで、ビーカーの底に青のリトマス紙を水でぬらしてくっつけて、そこへ向けて二酸化炭素のボンベからCO2を吹き付けてみると、見事に赤くなる。
二酸化炭素は、『水溶液』にしてみると、やはり酸性なのである。

bika

【6年・歴史学習】大日本帝国万歳!

2学期の学習のまとめをするために、歴史新聞をつくった。
各自で、もっとも書きやすいテーマを選んだ。
いくつか、書く方法がある。

1)当時の新聞風に(きっと、当時、こういう新聞が発行されただろう的な)

2)偉人のホンネ(世の中的な評価はともあれ、実際はこんな気持ちだったんだけど・・・、という、歴史上の偉人になりきっての暴露話風に)

3)2050年からの手紙(あと30年後に、こんなふうに評価されているだろう、という未来を予見しての新聞づくり)

4)偉人大百科(HP、MP、瞬発力、頭脳、運、分析力など、適当な指標を勝手につくって、それで偉人をレベル評価し、その解説を勝手に書く)

などだ。


驚いたのは、東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊をやぶったことを当時の新聞風に書いた子。
英雄である東郷の横顔を鉛筆画でていねいに書いて、いかにバルチック艦隊をやぶったのか、その作戦から分析して、詳細に書いた。源義経の作戦をまねたことも、きちんと書いている。すごい。本格派だ。
大見出しが、
【バルチック艦隊撃破!わが国が勝利!】

次に、不平等条約の撤廃に活躍した、小村寿太郎のホンネを書いた新聞。
賠償金がとれず、国民から非難轟々であった寿太郎の悩みを、せつなく書いた。
大見出しは、
【本当のことはだれも知らない】

総じて、日清戦争に勝ったことや、日露戦争に勝ったことを新聞にする子が多く、見出しがほとんど、勇ましい。

【日本大勝利!】
【もはや敵なし】
【これで日本も強国に】
【わが国、実は強かった】
【韓国併合で領土が倍増】

3学期には、日本がロシアとの戦争で破格の借金をした後、突入した日中戦争、太平洋戦争のことを新聞にする予定。

そして、今回の新聞との見出しをみんなで比較し、くらべてみながら総合的に学習を進めていく。
日本がどこで道を踏み外したのか、それぞれの意見を比べてみるのが楽しみだ。

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「神話」教育、その後。

今の6年生は、1年生で入学したときにすでに「神話」教育を受けた子どもたちです。
だから、いちおう、日本の神話を知っている。
いなばの白うさぎも知っているし、大黒様も知ってる。
大国主命(おおくにぬしのみこと)も知ってる。
教科書に載っているため、みんないちおう、平等に知っている。

で、6年生で科学的に今度は歴史を学んだわけだ。
実は、6年生の2学期でほぼ歴史学習を終える今の時期、もう一度、歴史学習をおさらいする。
「縄文時代」からずーっと、日本の国の歴史を見通してみる学習をする。

その際、日本のいちばん古い状態はどういう状態だったかというのを出し合うと、急に思い出したかのように、「なんか、神さまがぐるぐるかき回して、ぼとっと落ちた土からくにができた」ということを言う子がいる。

これは、学習の成果がきちんと出てきているので、いわゆる日本はイザナギとイザナミの2人の神が天の橋に立ち、矛で混沌をかき混ぜて島を造る。『古事記』などでは、その後、さらに多くの島を産むことになっている。

「よく覚えているねえ」

もう忘れている子もほとんどいるなかで、何人かの子は、きちんとこういう大事なことを覚えている。
izanagi
「この漂っている国を修めよ」と命じられた、イザナギ・イザナミの命は天空に架かっている天の浮橋に立って、矛を下ろして、海をかき混ぜてから引き上げました。すると、矛の先から海水がしたたり落ち、島ができました。最初にできたのが淡路島。続けて伊予・讃岐・阿波・土左の四つの顔を持った四国。次に、隠岐。筑紫・豊国・肥国・熊曾の四つの顔を持った九州。壱岐。対馬。佐渡。近畿の大八島。次いで児島半島。小豆島。周防大島。女島。五島列島。男女群島の男島・女島の六島をお生みになりました。これで日本の国土が完成しました。

神武天皇が紀元前700年くらいの人。
それから5代前が、天照大神。
当時の平均年齢は20歳前後と言われているから、おそらくアマテラスの女神は、紀元前800年ごろだろうと推測される。
さらに、その父母である、イザナギ、イザナミのそれぞれの神に関しては、紀元前850年~900年ごろに生きた人物だろうと予想されている。

世界に目を向けると、アーリア人がガンジス川流域に移動し、バラモン教が成立するのが、ちょうどこのころだ。中国では、周、という王朝が幅をきかせていた。
日本では、イザナギ、イザナミのふたりが、いっしょうけんめいにかき混ぜ、かきまわして国をつくっていたが、それより先に実は縄文人が1万年近くも、日本に住んでいたのだから、縄文人は驚いただろうと思う。いきなり社会の共通的な資本である「公益の土地」を、勝手にだれかがかき回し始めたのだから。
縄文人たちも、おちおちクリなど拾っている場合ではなかったろう。

「おおおおお、!地面がゆれる、ゆれるぞォォォ!!気を付けろーー」

縄文人の文化や黒曜石の交易のはなし、あるいはクリなどの栽培痕跡や、大規模集落での祭りのあと、手厚い埋葬のすがた、そして春秋の暦をみわけるための砦や石の塔。
科学的にも進んでいた縄文人の学習をしてきた6年生は、頭の中で、この「神話」との整合性に、どうにも無理を感じてきてしまう。

わたしが、
「いちおう、このころ縄文人が暮らしていたけど、イザナギとイザナミのおふたりの神さまもちょうどこのころ、土地や山なんかをぐーるぐる、かき回しになられたということになるね」
と、解説を入れた。

縄文人たちがお互いの共通的な社会資本である土や水、森、山、空気などとともに暮らしていたところへ、イザナギとイザナミが現れ、土地をかきまわしはじめられた、ということをクラス全体で確認したところ、くすくす、笑いが起きた。

なにごとならんと思っていると、

「いきなりすぎやん。急(きゅう)だって」
「イザナギ、勝手やなぁ」
「やっちゃった感が」
「最初に、かきまぜますよ、がほしい」

と、子どもたちはイザナギとイザナミへ非難の目を向けだしたのだ。

わたしは慌てて神をフォロー。
「でも、やっぱり、神だということになってるわけだし・・・」

・・・ちゅうことになっておる。
どんな話も、この「・・・ちゅうことになっておる」というのをつけて、聞いたほうが良い。

・・・

その先は、もう、宗教の世界。
「信じる」ということだけだ。

事実はなくとも、そう、信じる、ということ。
無神論者の多い日本人にとってみると、かなり難易度が高い取り組みだが・・・。

司馬遼太郎さんの講演で、日本人の苦手な思考として、「信じる」を挙げていた。
「日本人にとっては、神というのは、糸巻のようなものなんです」と、説明していた。

『糸巻のなかの芯は、空洞です。その空洞に、信じるための論理付けとして、神々の説明という糸をずんずんと巻いていく。神というのはこうだ、こんなことをしたんだと、ぐるぐると巻き付けていくと、形ができてくる。中身がなくても、外側からみると、形があるような感じにはなるんです。しかし、肝心の中身はからっぽです。事実ではないのですから』

というようなことで、説明していた。
善悪を離れたうまい説明だな、と当時、感心したことを思い出す。

【ヘイト防止授業】「自分は良くて、相手がいけない」の病理

教員がよく遭遇する子どもどうしのトラブルで、こんなのがある。

Aくんが筆箱を投げた。
Aくんが先生に注意された。
A「だって、Bくんだって投げたんだよ」
先生「それは言い訳にはならないよ。ともかく、教室でものを投げたら危険だし、ダメでしょう」
A「なんで先生は、おれだけを注意するの?差別だ!」

わたしは、Aくんに対してというよりも、学級のなかで指導をします。
なぜなら、Aくんのような思考ルートをたどる子は、とても多いからです。
かんじんの、

自分が今、筆箱を投げたこと

からは、自分自身の注意をそらしているわけ。
頭の中で、「筆箱を投げたことに関する評価」をできるだけ封印、考えないようにしている様子。
これは、子どもの自然な、心理的・防御反応だと思います。

叱られる、ということについて、強烈な恐怖や不安を感じる子ほど、こういった防御反応が強いように思います。おそらく二次障害的なものかな?
暴言による圧力、圧迫、脅迫によって「叱られてきた」子にとっては、つらいのです。
そういう「叱り方」をされた体験をもっている子は、つらい。
おそらく、その体験から自身が解放されるまで、時間がかかると思う。

なんで、ぼくばかり注意されるの!
みんな、ぼくのことが嫌いなんだ!
俺に向かって注意するのは、みんな悪いやつらだ!


これが、「憎しみ」というもの。
世の中に対する、あるいは人に対する、憎しみ、というものでしょう。

『憎しみ』を心に抱えた子は、自分への批判や評価を、受け入れません。
受け入れるだけの余裕は、もうすでに心のどこにも、ないのです。肝心のスペースが。
憎しみは、外へ向かいます。
攻撃されたら、攻撃しかえすのが、せめてもの条件反射なのです。

つまり、憎しみによって、こころをほとんど占められてしまった子にとって、
自分が相手を批判するのはOKですが、
でも、相手が自分を批判するのは、許せないのです。

なぜなら、相手が自分のことを言うのは、すべて「攻撃」だから・・・。

しかし、自分が相手について批判するのは、これはもう、さんざん自分が攻撃されたことに対する、ほんのささやかな復讐であり、抵抗。だから、許されるべきだ、と考える。たとえ相手が、実際には自分の不都合とは、一切かかわりのない相手であっても・・・。これが「ヘイト」です。

ターゲットにされた方は、たまったものじゃないですが、憎しみに心を奪われている子にとっては、5歳のころからの憎しみが、貯金のようにたまっている。それを12歳になってようやく吐き出せるようになって吐き出しているだけなので、自然の生理的な現象に近い。
たまたま、偶然にも、目の前にいる子が、ターゲットになってしまう。

学級の中に、その「憎しみ」が連鎖していきます。どんどん、増殖する。
今、ヘイトが世の中で流行していることと、無関係ではないでしょう。
日本の世の中には、これまでの我慢やうっぷん、抑圧からの反撃欲求が、うずまいている。
それが、【ヘイトの欲求】になって表出してきているのでしょう。

ヘイトを出している側は、今の目の前の攻撃対象のことなど、くわしくは知らなくてもよいのです。ただの言いがかりに近いようなことでも、十分に、攻撃する理由になるのですから。
理由はただひとつ、「かつて自分が受けてきた圧迫に対する、ささやかな抵抗をしなければ」という思いです。



さて、こうした子には、どう接していけばよいのでしょうか?
どのような『指導』が、有効なのでしょうか?

淡々と接することです。
ごくふつうに。
しかし、粘り強く、あきらめず。
言うべきことは言いますが、しつこいことはしません。

そして、これまでどんなふうに、多くの人たちから親切を受けてきたか、嬉しかったこと、たのしかったこと、まわりがサポートしてくれたこと、してくれたこと、やってくれたこと、配慮してくれたことを、思い出させることから始めます。
道徳のノートに、たんまり、と書かせます。
最初は、「そんな世話を受けたことなんて、ない!」と言い張ります。そうです、それが特徴。親切など、受けたことはない。そう思う子ほど、人間関係に困っているのでしょう。

実は、ここで最初から、
「周囲から、こんなことをいつもしてもらっているよ」
なんて文章に書ける子は、もうすでに最初から幸福に生きている子であり、友人思いの子です。

書けない、書けない、思い出せない、そんな親切など、生まれてこのかた、受けたことがないんだ、と言い張る子ほど、これをやる価値が出る。

しだいに、書けるようになってきます。たった一行でも。

「給食を〇〇くんがよそってくれた」

だけでも。
このことを、100回ほど繰り返すと、その子の口から、ヘイトが消えていく。
これが、ヘイトの根絶につながります。

わたしの道徳は、ほとんどが、このこと。
これだけでも、1年間、ずっとやり続ける価値がある。
そして、1年くらいずっとこのことをやり続けないと、傷なんて、そう簡単に癒えるものじゃあ、ないですよネ。

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カレーライスを食べる→敬語だと?

6年生で、「敬語」を学習します。
いわゆる、『尊敬語』とか『けんじょう語』とか、とよばれているものです。

ていねい語とは、「です」「ます」などをつけてていねいにする言葉。
けんじょう語は、自分の方がへりくだることで、相手を尊敬するようにする言葉。
尊敬語は、相手の存在や行動を立派だと尊敬するようにする言葉、です。

よくあるプリントの問題で、次の言葉を敬語にしなさい、というのが出た。

クラスでいっせいに取り組み、みんなで検討する。

問題に、

「おいしいカレーライスを食べる」

というのが出た。

一人の男子が、手をあげて、

「カレーライスを食べた」

と言った。


みんな、シーンとした。
もう一度言ってみて、というと、

「カレーライスを、食・べ・た・・・」

という。

ふだん、やんちゃで口の悪い男の子。
乱暴で、校長先生や教頭先生にもタメぐちだし、口癖は、「やりたくねェ!」であります。
この冬だというのに半ズボンで、いつも靴下をはかず、靴のかかとの部分を、ずっとつぶして履いている。

その彼が、

「食べた」

というので、女子が手を挙げて、

「食べます」

と別の言い方で言ってくれた。
です、ます、をつけているので、これが正解。ていねい語であります。

ところが、やんちゃくんは不服のようで、

「え?食べた、というのは、ていねいだと思う」

と言い張る。

つまり、彼によると、「食べた」は、オレの中では、十分すぎるほどていねいだ、というのです。
ふだんは、「喰った(くった)」だから、食ったを、ていねいにして、食べた、と。これは自分としては、最大に譲歩した形の、ていねいな言葉だ、というわけ。

「おれにとってみれば、最大級にていねいなんだけど。ダメなんか?」

女子は大笑い。

「ダメです。です、とか、ます、をつけたら、ていねい語になるからね。次からそうして」

わたしがいうと、やはりやんちゃくんはまだ不服。

「いやあ、ていねいなんだけどナァ。はらへった、は、おなかがすいた、でしょう? だったら、くった、を、食べた、というのは、ていねいなんだけど」

個人的な感想を認めれば、これは正しい。
ともかく、女子が笑っているので、やんちゃくんもなにかつられて笑いながら、席に座った。

すると、直後に、おずおずと一人の女子が、

「あー、わたし、カレーを食べたいです、にしちゃった」

と白状した。

「だって、おいしいカレーライスでしょ」

いや、これ、アンケートじゃないから。
あなたの正直な気持ちをきいているわけでは・・・。
だってこれ、・・・「敬語」の学習プリントですよ?

女子「だって、4時間目だったしさー。おなかへったから、つい食べたいですって書いちゃった」
男子「いや、敬語なら、へったじゃなくて、おなかがすいた、だろ!」
女子「食べたい・です、って、ちゃんと、です、がついてるからいいじゃん」

給食前の4時間目、学習プリントで、
「おいしいカレーライスを食べる」
という言葉を敬語に直す問題は、してはいかんですネ。

カレー

【6年社会歴史授業】焼き場に立つ少年 再び

またこの時期がやってきた。
6年生。
社会、歴史の授業。

『太平洋戦争』について。


授業の最初に、この写真を見せました。
しーん。

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日本は、アメリカ・中国などと戦争をしました。
この写真は、その戦争が終わったすぐ後に、長崎で撮影されました。

撮ったのは、アメリカ軍のカメラマンであるオダネルという人です。

この写真に、なにが見えますか?

「男の子」
「男の子が、小さな赤ちゃんをおぶっている」


まだ、なにか分かることや気づいたことはありますか。

「男の子の足は、はだしです」
「背中の赤ちゃんは、寝てる」


なんではだしなんでしょう。

「戦争で、なくなってしまった」
「どこかにいってしまった」
「急いで逃げてきたのかもしれない」


読み取った情報や、自分がそこから考えていけること、類推すること、背景として想像できることなどを、ノートに書かせた。

時間を十分にとったあと、ノートに書かせたものを元に、意見をだしあう。

おうちの人はどうしたのだろう

「お母さんも、長崎だから原子爆弾で被害を受けて亡くなったのかもしれない」
「原子爆弾じゃなくても、戦争中だから、死ぬことがあったかも」


長崎にも、外国人が攻めてきた、ということ?

「元寇のときは、外国人が上陸したけど、長崎にも上陸したのかも。」
「空襲があったのだと思う」


空襲ってなに?

「飛行機から、爆弾がたくさん落とされた」


日本の各地で、どれほどの空襲があったのか、資料集をみて、そこから情報を読み取る。
日本中、あちこちで空襲があり、大きな都市はほとんどが空襲を受けて被害をうけたことがわかる。

「長崎は原爆だけでなく、何度も空襲があった」
「きっと、この子は、アメリカや中国を憎んでいると思う。だから、兵隊になりたかったのかもしれない」
「だから姿勢がいいのかも」


子どもたちは、あれこれと自分自身におきかえながら、この子の心の内にまで想像をふくらませていく。

「歯を食いしばって、立っているようだから、きっとなにかとても我慢をしていると思う」
「お母さんが亡くなったから、我慢をしているのだろうと思う」
「背中の赤ちゃんが元気がないのは、食糧が不足していたのだと思う」
「栄養不足だったのだろう」
「たぶん、お母さんもいなくて、自分が赤ちゃんの世話をしないといけないということは、二人兄弟か」
「お父さんもお母さんもいないということは、学校には行けていないと思う」



あれこれと討論が終わって、この子をとりまく状況が分かってきたような感じのところで、

「この写真につけられたタイトルを教えます」

といって、
「焼き場に立つ少年」

と黒板に書いた。

しばらく、しーん。



背中の赤ちゃんは、もう亡くなっていたそうです。この子は、この赤ちゃんを火葬してもらうために、順番を待っていたのです。これを撮影したカメラマンが、この写真について書いています。この少年は、ずっと順番を待つ間、まっすぐに前を向いて、気を付けの姿勢をくずさなかったそうです
当時は、軍国教育でした。
どんな教育だったのでしょう。なぜ、ずっと気を付けをしていたのでしょうか。

「死んだ人が前にたくさんいるから、気を付けをしていたと思う」
「そうしないと、殴られたりしたのかも」
「気を付けをしていないと、叱られるからか」
「まわりに兵隊さんがたくさんいて、気を付けをしていたから、大人と同じように気を付けをしたのでは」


この赤ちゃんはなぜなくなったのでしょう。食糧が不足していたというけど、なぜそうなってしまったのでしょう。

「戦争で戦っている兵隊さんのために食糧を出していた」
「食べるものはほとんどが、軍隊のためにもっていかれたのでは」
「戦争で空襲があって、つくっているひまがなかったと思う」



用意していた、いちばん大事な発問をした。
少年はなにを見ているのでしょう。

「死んだ人の山を見ていると思う」
「焼けた自分の街をながめているのだと思う」
「なにも見ていない」


なにも見ていない、といった子に、どういうこと?

と尋ねると、

「たぶん、気を付けをしなきゃと思って立っているけど、立っているだけでやっとなんだと思う。だから、そのまま、もう何も心には入っていないと思う。目はあいているけど、なにも見えていないんだと思う」



最後に、この写真を撮ったカメラマンの手紙を読んだ。

長崎では、まだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に、わたしはたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

焼き場となっている川岸には、浅い穴だけが掘られている。水がひたひたと押し寄せていた。灰や木片、石灰が散らばっている。燃え残りの木片が、風をうけると赤く輝いて、熱を感じる。白いマスクをつけた係員がもくもくと、荷車の先から、うでや足の先をつかんで、引きずりおろす。そして、そのままの勢いで、火の中に放り込んだ。死体ははげしく炎をあげて、燃え尽きる。
(中略)

焼き場に、10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせていて、ぼろを着ていた。足は、はだしだった。少年の背中に、2歳にもならないような幼い子がくくりつけられていた。その子は眠っているようだった。体にも、まったく傷がなく、やけどのあとらしいものも、みえなかった。

少年は焼き場のふちに進み、そこで直立不動になった。
わきあがる熱風を感じていたのだろうが、動じず、そのまま動かず立っているままであった。
係員がようやく、その幼子を背中からおろし、足元の燃えさかる火の上に、のせた。

炎が勢いをまし、おさな子の体を燃やし始めた。立ち尽くす少年は、そのままの姿勢で立ち続け、その顔は炎によって赤く染まった。気落ちしたように少年の肩がまるくなり、背が低くなったようだった。しかしまた、すぐに背筋をのばして、まっすぐになった。わたしはずっと、この少年から目をそらすことができなくなっていた。

少年は、まっすぐを見続けた。足元の弟に、目をやることなく。ただひたすらに、まっすぐ前を。
軍人にも、これほどの姿勢を要求することはできまい。

わたしはカメラのファインダー越しに、涙ももう枯れ果てた、深い悲しみに打ちひしがれた顔を見守っていた。わたしは思わず、彼の肩を抱いてやりたくなった。しかし、声をかけることができず、そのままもう一度だけ、シャッターを切った。

すると少年は急に向きをかえ、回れ右をすると、背筋をぴんとはり、まっすぐ前をみて歩み去った。あくまでも、まっすぐ。一度もふりかえることなく。

〇この子はこのあと、どこへ行くだろうか。
〇大人になって、何をしているだろう。

最後に、感想を書かせた。

mite! アレナスの鑑賞授業やってみた その2


さて、前回のつづき。

アレナスのティーチャーズキットを使って、鑑賞の授業をやってみた。
基本方針は、

「討論になりうる要素をできるだけのがさず焦点化し、討論にもちこみ、わかりやすく<一人では鑑賞できなかった要素を感じ、対話しながら鑑賞することの楽しさをしる>ことができるようにする」

である。

題材は、キット1。(小学校3,4年生)を使った。

Lesson1は、あまりよくないことが前回の体験から分かっているので、無難な2から。今年の子は、まだ初めてだし。

1枚目⇒ピエール・ボナール<画家の妹>
2枚目⇒国吉康雄<仔牛は行きたくない>
3枚目⇒ワシリー・カンディンスキー<赤色の前の二人の騎手>

1枚目で、20分使ってしまった。
2枚目をはしょって、10分。
3枚目は、10分。

合計で、40分。
事前の説明と質問に答える時間が5分あって、合計45分。みじかっ!



さて、1枚目を出す。
赤い色のスカート、さまざまな緑の、色合いが豊かな背景。
かわいらしい犬。
つかみはOKだ。

すぐに、下の方の赤やオレンジの花が目にとまったようで、

「ぼくたちが描いた、春の、桜の花びらみたい」

と反応した。

この後、すぐに<討論>っぽくなった。

あれは落ち葉だ。
ということは、この絵の季節は、秋だ。
いやちがう、落ち葉でなくて、下の方から、花が咲いているのだ。
だから、春だ。

秋だと思う人。(挙手をうながす)
春だと思う人。(挙手をうながす)
半々。

ここらですでに、ちがう意見が出てきましたね。

もっとないですか。
(あれこれと意見が続出)


結局、縦に黒い線がスッと入っているように見えるから、あれが茎なのだ。だから、あれはやはり落ち葉やなんかではなく、花が咲いているのだ。

という、「物的証拠」が出てきて、それに落ち着いた。
ただ、そういう意見が連続して出てきただけで、

「じゃあ、このクラスの意見として、この絵は春、ということですね」

・・・というまとめ方はしない。
まとめることが目的なのではなく、異なる意見が場に出てきた、というだけでもう十分だからだ。

また、下の落ち葉(いや、花)に呼応するかのように、上の方から、葉っぱが落ちてきているから、風がふいてきているのだ、というように、<風>のことも話題になった。

「絵のなかに、風がふいている」

そういうことを、何人もの子が発言する。

「枝もそういう方向に、ゆれている気がする。」

なるほど。


次は、女の人に焦点化。

「女の人の表情が、ちょっと悲しそう。」

と出た。

ここで、

「では、女の人にちょっと焦点をあてて、どうですか。女の人、なにをするところなんでしょう」

とふってみると、教室の半数以上が挙手をする。

してみると、やはり、ストーリーのような展開が、子どもには自然なのだろう。すぐに、女の人の物語が、脳裏に浮かぶようである。

これも意見がたくさん出てきそうで、しかたなく、途中で、

「じゃあ、もう少し、今度は隣の人に、自分の考えた物語のつづきを、しばらく話して聞かせてあげてください」

ということにして、そのまま2分ほど放置しておいた。
ずっとお隣さん、子どもどうしで真剣に話し合っている状態が続き、これはこれで、なかなかめずらしい風景が教室に生まれたことになった。

「おとなりさんに、いいお話ありがとう、と言ってください」

「はーい。たのしい話、ありがとー(口々に・・・)」


左手に持っている籠の中身が気になり、犬と遊ぶためのボールだとか、青リンゴだとか、お見舞いの品だとか、地面に置いてあるとか、いや、手に持っているだとか、ともかくも意見が連続して止まらない。

そろそろ、と思って2枚目へ突入。
その直前に、

「これは、絵を描いた画家の、妹さんの肖像ですよ。そして、この絵は、なんと日本の美術館にあります。ずっと飾られていて、本当に多くの人が、この絵を見て、いろんなことを思ったでしょうし、きれいだなと思ったでしょうし、いろんな具合に、楽しんできました。」

とだけ、話しておいた。
このように、作品についての情報を、ほんの2言、3言、追加しておく。
すると、子どもの気持ちに、

「ああ、自分たちが今、言い合ってきたことは、勝手な言い分であり、作者はきっともっとちがうことを意図したいたのにちがいないだろう。さらにいえば、大勢の人が、その大勢の人の分だけ、たくさんの感想をもったのだろう」

というように、「自分の感情の肯定だけで満足する世界」からの脱却を促す。

さて、2枚目。
これが、また暗い絵である。
しかし、できるだけさまざまな絵を見せるのが、美術教育の本道である、と考えて、歯を食いしばって、進んだ。

すると、やはりおそろしい雰囲気がするらしく、

「この男の人は、ヤギが嫌いなのだ。それで、ヤギを殺そうとしている」

という、殺伐とした推測が出てきた。

しかししばらく話をしていると、

「上の方に、煙のようなものが見える。だから、あっちの家が火事になったので、ヤギを救って、こっちの家にはこんできたんだ。だから、あの人は、別にヤギのきらいな人でなく、むしろ、救おうとしているやさしい人だ」

とまったく正反対の意見が出て、

「なんか、さっきとぜんぜんちがうことになった」
「本当はやさしい人」
「え~、みんなそう思うの!」
「いや、ぼくはまだこわい人に見える」

と面白いことになった。

「正反対の意見が出ましたね。大勢で話をしていると、こんなふうに、自分の考えとはまったくちがうような、思いもかけない見方が聞けるんだねえ」

と感にたえたように言うと、教室に

「そうだなあ」

という空気が生まれた。
あとで思うと、これが、クライマックスであったように感じる。
つまりは、このことに結び付けたくて、この題材を選び、この方法でもって、このような鑑賞授業を仕組んだのだ、ということになる。

最後に、また「ちょっとした社会的な意義づけ」を行う。
「実はね、この作品には、題名があります。<仔牛は行きたくない>という題名です。」

すると、すっかりヤギだと思っていた子どもたちから、
「えー!!」



次が3枚目。

カンディンスキーは、抽象画の天才。
そのカンディンスキーの若いころの作品だ。カンディンスキーの後半生に描かれた抽象画と比べると、若いころ初期の作品なだけあって、まだまだふつうの絵画として見られる。馬と分かる絵だし、親しみのある絵だ。

でも、実は不安だったのです。
やはり、どこか抽象的で、絵のようで絵じゃないような・・・。不思議な絵なので。
子どもにとっては、こんな絵を見たことがないだろうから、驚いて、なにも言わずに絶句してしまうんじゃないかな、と思ったところ、杞憂でありました。

なにしろ、この3枚目に突入したときは、はやく3枚目がやりたくてたまらない、という集中状態であったためか、3枚目を約1分、しずかに見た後

「じゃあ、どうぞ」

と言っただけなのに、ほぼ全員がすばらしい(天井に向けて垂直な)挙手をしていた。

この3枚目のカンディンスキーの絵では、赤い背景と、白いまるい模様が何なのか、ということが焦点になった。

舞台が砂漠なのか、海辺なのか、ということも。

丸い模様が、水平線に沈む太陽なのだ、だから夕方で、背景が赤いのだ、という意見が多かったが、なかには、これは巨大な月だ、そして右側の青と緑が地球なのだ。これは空想された世界、SFの世界の絵なのだ、という意見もあった。

しかし、きわめつけに、

「わたしはハワイに言った時、同じような色を見た。まわりが赤で、太陽だけが白いのだ。それは夕陽であった。燃えるような空の色だった。おそらく、この二人の騎手は、海辺を走っているのだ。そして、その海辺の浜の、この向こうには、広く横たわる広大な海が寝そべっていて、そこに真っ白に燃える太陽が、しずんでいく様をみることができるだろう」

という女の子の意見が出て、

「実際にみたのなら、それがいちばん妥当な意見だろう」

ということになった。

みんなが納得した空気が流れて、この時間はおしまいになった。

最後に、

「いやあ、一人だけではぜったいに思わなかったことを思ったね」

というと、

「うんうん」

という。

それで、

「最後に、今日見た3枚の絵のうち、いちばん心に残った絵はどれだったか、その理由も含めて、ちょっと感想を交換してください。はい、おとなりさんと」

といって、2分、もりあがって、終わった。

なかなか、ひさしぶりのアレナス対話式、おもしろかったです。

一番の収穫は、やんちゃのYくんが、真剣に討議に参加したり、他の意見を肯定的に聞いて、

「なるほど」

なんてつぶやいていた、かわいい姿が見られたことですね。
やんちゃくんが真剣になっている姿ほど、かわいいものはないですから。




PB100256

mite! アレナスの鑑賞授業やってみた その1


数年ぶりに、mite! の鑑賞授業をやってみることにした。
行事や勉強に追われて、なかなか時間がとれなかった昨年と一昨年。
でも、6年生の担任となり、2学期の後半、行事が一段落してちょっと余裕が出てきたこの時期だから、思い切ってやってみました。

アレナスの本を引っ張り出して、さらっと読むと、またやりたくなってくる。

ただし、以前からひっかっかっていた、アレナスに対しての批判を、幾分でも昇華してから、やってみたかった。
自分の心のうちでも、いくつかのポイントが未消化で、迷いが生じていたからだ。

<アレナス流対話式美術鑑賞の批判点(これまでに聞かれたもの)>

○会話ばかりでいいのか
○なにが見えますか、だけでいいのか
○最初から最後まで自分の感覚中心に絵画を見ているだけに陥らないか
○ただ自分の感想を友達と交換しあっているだけにならないか
○絵画には、描かれた時代の感性や、その画家の個性や、それが鑑賞されてきた歴史など、様々な文脈があるが、そうしたものを知る、ということがないがしろにされている。
○自分の感想を相対化することができていないのではないか。


とまあ、こうした批判があり、自分でも数年前に奥村さんの講演を聞いた後に授業をやってみたり、研究してみたりしながら、

「うーん、ただ、言い合っているだけなのかもしれないなあ」

と不安を抱いたことが正直、あるのだ。


ただ、今回は、上野先生が書かれた、mite! のまえがきにあった一文が目にとまり、それに励まされてやろう、という気になった。

「子どもを有能な存在として認めること」

「自分とはまったく別の思いもかけない考えを聞いてはオドロキ、自分の考えみんなに受け入れられてはその歓びを知る。そのスリリングな面白さ」



なるほど、シンプルだけど、これは、<自分の感想を相対化する>ができている、ということになるんでないの。

子どもどうしだから、大人の視点は入らないかもしれないが、子どもどうしだって、異なる意見や、まったく別の見方が出てくる。それを、お互いに説明し合い、さらにはそう考えた理由を、題材からさがして理由づけをしたり、討論のようになる場合だってある。

「討論」になりうるのだ。

これは、<自分たちの意見を、ただ肯定的に見て済ましている>、という世界とはまったく別なんじゃないの?

そう思った瞬間、すこしだけ、霧が晴れた気がした。

「よし、討論に近い場が創出されるように、ファシリテートしていこう」

これが、基本方針になった。

(つづく)




PB100275

【道徳】「わからなくなる」ための問題とは

対話ができるようになるためには、「わからなくなって頭の中が白くなる」ことが重要です。
その体験を生み出すための、しかけが要ります。

わかりやすい道徳の授業として、下記を紹介します。
道徳の授業プランに、近頃流行しているのが、「どう、解く?」のシリーズである。
ポプラ社から、児童向けの単行本が発刊されている。

良い点は、すべての学習問題を、「比べる」要素で構成しなおすことが可能なことだ。

(※参考:「比べてみよう」の指示の価値)

以下は、比較するために有効な、学習問題の文。

〇ついていい嘘と、ついちゃいけない嘘と、どう違う?
〇人数が多い方が正しいのか、少ない方が正しいのか?
〇殴ってよいのは、正義のヒーローか、悪役か?
〇殺してよいのは、蝶か猫か?

など。
「比較する」作業は、子どもにとっては、とっかかりやすい。
これは授業の仕組みとして、有効な手段だ。

中にはけっこうドギツイ問題もあるから、授業をするのに躊躇するくらいだが・・・。
しかし、子どもは生きている。現代社会に生きている。これからも生きてゆく。
こういう問題を、考えてきた子と考えなかった子では、やはり違いも出てくるだろう。

さて、下記は実際に行った授業展開 ↓ です。
参考になりましたら、これ幸い・・・。

〇発問:嘘をついてもいいかどうか

子「だめ」
子「ときと場合によるんじゃ」
子「やむを得ない場合はOKかも」

〇発問:やむをえない場合とは?

子「誕生日でサプライズのときとか。わたし、知らないよ~ってフリをするでしょう」
子「なにか誘ってもらったとき、その気がなくても、いいよーってついていくときがある」
子「プレゼントもらって、いい色じゃなくても、あ、うれしいー、ありがとうーって言う」

〇発問:ついていい嘘とついちゃだめな嘘とのちがいは?

子「相手のためになる嘘ならOK」
子「相手を傷つける嘘はだめ」
子「周りの人に迷惑をかける嘘はダメ」
子「信頼をうしなっちゃうほどのはだめ」
子「とりかえしのつかない嘘はぜったいダメだと思う」

↑ 上の意見をみていて、ある子が

相手のためになる、と考えている時点で、それはもう、嘘というより本音に近いのでは」
「どういうこと?」
「もう、やさしさが充満しているようだから、相手のことを願ってのことだから、その気持ち自体は、もう嘘とはいえないと思う」
「ふーん」(わかったようなわからんような・・・)


〇発問:では、「相手のためになる嘘は、ついてもいい」の?

子「いいと思う」
子「必要だと思う」
子「でも、本当に相手のためになればいいけど、そうでなかったらイヤだな」
子「あなたのため、と言いながら、逆に迷惑をかけたりして・・・」
子「それは、いやー」
・・・
子「相手のためになる、というの、本当にそうなのかどうか、判断できない」
子「してほしくないことを押し付けられるのもいやだね」
子「相手のためになると思っていても、ちがうかも」


〇発問:相手のためになるかどうか、どうやったらわかるの?

子「聞いてみなくちゃわからない」
子「本人に、確認してみないと」
子「でも、本人も気を使って嘘をいうかもね」
子「お互いに、相手のことを思って、遠慮しあう感じかも」
子「めんどうだなあ」
子「こうしようと思うけど、どう?、と聞いて、本当の気持ちを言ってもらうのがいい」
子「本当の気持ちを言ってくれない場合は、どうなるの?」
子「本当の気持ちを知りたいから、本当の気持ちを言ってね、と最初に言うべき」
子「同じクラスの子なら、本当の気持ちを言えると思うけど。ほかのクラスの男子には言わないかも」
子「日頃のつきあいのレベルによるよねえ」
子「そうそう。日頃のつきあいが大事だ」
子「ふだんから、ちゃんと話したり、会話している子ならOK」
子「初対面の子には、本当の気持ちを言えないと思う」
子「中学で別の学校から来た子には、最初は言えない」
子「お互いにいいな、と思えてから初めて、本当の気持ちを話せる」
子「時間がかかるんだよ。人間関係は・・・(白目)」


結論は、

ふだんからのコミュニケーションが大事

となりました。

授業後、焼き鳥の好きなAくんが、わざわざ私のところへ来て

「先生も、S先生とかといっしょに、飲みに行けば?」

ワタシ、それを聞いて・・・『お、おおう、』と不器用な反応しか返せませんでした。

yakitori

【道徳】対話になるかならないかは〇〇にかかっている

対話するためには、何が必要か。
それは、「あれ?本当に、おれ、わかってないな・・・」という体験だ。
「自分はわかっている、知っている」という意識が少しでもあれば、対話にはならない。

文科省は次代の教育の根幹に、「対話」を掲げた。
対話するためには、本当のことを知ろう、という『超絶謙虚』な姿勢が必要条件となる。
つまり、「知っている」という傲慢さを、子どもたちから奪わなければならないのだ。
それが、われわれ教師の使命・・・。

文科省が掲げたテーマは、正しくは
「主体的・対話的で深い学び」
である。

今、必要なのは、主体的に自ら、
「わからない自分」
に飛び込んでいく勇気なのだ。

それを邪魔するのが、
「正しいことを知っている」
というプライド。
子どもにだって、プライドがある。そして、「対話」の邪魔をしている。
だから、授業がつまらなくなる。お互いに発表をするだけになってしまう。
先生たちも、みんなそれで悩んでいる。
「ちっとも対話にならないんですよね」
授業研究会で、真っ先に話題になるのが、このことだ。
意見をすりあわせ、昇華させていくことがないまま終わってしまうという点。
授業では、これを突き崩すための、手練手管が必要となる。

初心者の先生や若い先生がいちばん取り組みやすいのは「道徳」だろう。
成績の優秀な子や、自信を失った子、自己肯定感の低い子ほど、

正しいという価値

にすがろうとする傾向が強いからだ。
したがって、自己肯定感をはぐくむためには、正しさの正体に出会う授業を仕組むしかない。
「道徳的な正しさ」と向き合う授業を、慎重に仕組むことがこれからの教師には求められる。

ところがある意味、この授業は危険である。
教師の方に、〇〇が正しい、という意識が強ければ、授業は不可能だからである。
教師が「超絶謙虚」でなければ、そもそも、子どもとこんな授業をしてはいけない。
ひどい場合には、けっして許されないような「差別」を子どもに教えることになる場合だって起きる。すでに人類は、そのことで手ひどい失敗をしている。
太平洋戦争に突き進む、昭和初期の軍人教育は、道徳的な正しさを突き詰めた先の、「殺人」を教えているからだ。

『鬼畜米英』という言葉。
この言葉を発明し、米国人・アジア人・オーストラリア人他の殺人を遂行したのが先の戦争でありました。

道徳(的な正しさ)をつきつめたら、殺人になっちゃった。

 ↑ これが、対話のない教育の結果、である。
だからこそ、文科省は、『対話』をすすめているのである。
二度と、戦争の惨禍を繰り返さないために。歴史から学んだのである。

鬼畜米英なんて言葉を発明してしまうのは、「正しさ」に依存していたから。
「正しさ依存」というのは、ほとんど逃れようのない、文明の病である。人間は弱いため、すぐに外部評価で自分の価値をはかってしまう。ただの評判(感想)なのに、その評判こそが自分の実体なのだ、とかんちがいしやすい。
自分自身の心に劣等感を抱え、外部評価に飢えた状態であれば、なおさらだ。
周囲から「あなたが正しい(←感想)」と言ってもらえることに依存するようになる。

自分自身に価値がない、と感じている劣等感の強いパーソナリティの保持者であるほど、声高に保証を欲しがる。いわばのどがかわいた砂漠の旅人のようなもので、「自分の価値」を認めてほしいという強烈な欲求をもつ。
自己肯定感の低い子は、麻薬のように、覚せい剤のように、「正しいと言ってもらえる快感」に酔いしれるのだ。
そして、その快感があれば、あたかも自分の自己肯定感が増すかのように錯覚する。
しかし、そこに一歩、つられてしまえば、足を踏み入れてしまえば、底なし沼が待っている。
正しさに溺れ、呼吸困難になり、もう何も考えられない。つまり、「対話の放棄」である。

「対話」は、常に、「正しさ」に寄りかからない、と決める姿勢のことである。
その姿勢でいられるときにはじめて、

「ああ、こうやってみんなで話し合っていくことで、基準を変えながら、判断を変えながら、徐々に徐々に修正しながら、よりよきを願って、進んでいけるんだ」

という実感とともに、自由さの中、ほんのりとした「自己肯定感」が、胸の底からこみ上げ来るのを知るのだろう。それは、「対話」ができるようになった自分、という最強の自分に出会えたことの、よろこびからくる本当の自信なのでありましょう。

sensou_senjou

心のエネルギーを育てる水彩画とは

ずっと、谷内六郎さんの絵は、油彩なのだ、と思っていた。
それは、私が子どものころに親が買っていた「週刊新潮」の表紙を見ても、そう思っていたし、その後もどこかで見かけるたびに、油彩だ、と思いながら見ていた。

しかし、それが、水彩だと知って、あらためて衝撃だった。
厚紙に、水彩。
たまにろうけつ染めや、レース布を使ったり、和紙を使う作品もあったようだが、ほとんどは水彩だったそうだ。

谷内六郎
谷内さんの作品集があったので、じっくり見せてもらう機会に恵まれた。

雪。
空。
それも、夜の空。
夕方、夕暮れの空、雨の空。

どれも、油彩のように、厚ぼったく、丁寧に、ていねいに、塗り当てられている。
色が、重ねて、重ねて、置かれている、ように見える。

谷内六郎さんの色づかいは、しんしんと、ふりつもる雪をかくときや、夜の空を描くとき、古い塗り壁の色の変化を描くときなど、とても水彩とは思えない、奥深さや背景を感じさせる。
油彩だろう、と思いこんできたわけだ。


私が、水彩のことを、きちんと知らなかったのだ。
自分の小学生のころからの体験で、水彩というのは薄く、水で溶いて、サーッとうすくぬっていくもんだと思い込んでいた。
NHKの教育テレビで水彩画教室をやっていたが、そこでもまた、絵の先生が山の景色を、木の枝なんかを、淡く淡くサッサッサーと塗っていた。

そういうものだ、と。
水彩は、淡いものだ、油彩のように、あつぼったく、塗りこめていく、色をかさねていくのではない。チューブからひねり出したものを、そのまま塗っていくものでは、決してない、と決めていた。

こうするものだ、と決めていたこと自体が、思い違いだったわけだ。
決めつけられないものを、決めていた。それが、間違いであった。


要するに、私は、こういう絵を、こどもに描かせたい、と思ったのだ。
筆をおくたびに、集中した心が、あらわれてくるような絵。
色が、ガツンと、表示されるような絵。

淡い水彩、ペンキのように、サーッと塗る水彩画は、大人になって趣味でやればよい世界。
この子たちの、心のエネルギーを育てる水彩画は、谷内さんのような、渾身の気持ちが込められるような、絵だ。

まるで油彩のような、絵。
「見つめて描く」絵。

谷内六郎さんは、病気がちで体が弱かった。
呼吸器のことで、何年も、治療に専念したという。

「いつ死ぬかわかりませんでしたから、一枚一枚が遺作になるわけです。ですから、いつ死んでもいいように、遺言みたいなつもりで描いていました」
という意味のことを、あるところでおっしゃったそうである。

一つ一つ、筆をおく。生涯本気で描き続けた渾身の色づくり、である。そのときの、集中度はいかばかりであったことか。

学校でやりたいことは、たくさんある。
図工の授業、じっくりと、やっていきたい。

5年国語光村図書 『なまえつけてよ』その2

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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★第三場面★
勇太って、こんなところがあるんだ。

Dくん。「こんなところって、どんなところか」

シャイなだけじゃなくて、人にプレゼントするくらい勇気のあるところ。
春花の気持ちを想像して、なぐさめてくれようとしてくれるところ。
ちょっと面白い行動をするところ。

ついでに、わたしから発問した。
春花は、この紙で折った小さな馬に、なんていう名前をつけるだろうか。

アルプス。
岳。
春馬。
春太。
勇太。

今は、子馬のことよりも、すでに勇太のことの方が、春花にとっての大きな関心事に変わってきている。そんな予感をさせながら、物語は終わっている。

最後に、一番大事だと思われる発問をした。
勇太は、この出来事(紙で折った馬を渡す)のあと、春花への関わり方を変えるだろうか。

どちからというと、この話は春花の視点から、語られているから、子どもたちも自然と春花の心境を想像しながら、読み進めていくだろう。ところが、最後に、勇太視点で、再度考え直すことにする。
勇太の視点で書かれた描写は少ないから、その少ない材料をもとにして、勇太の考えを子どもたちに想像してもらうことにした。

子どもたちは、少ない描写を手掛かりに、理由をつけて意見を出した。

〇やはり恥ずかしい気持ちがあるから、変わっていったとしても微妙だと思う。
〇これをきっかけに、春花に対してやさしいことをしてくれる機会が増えると思う。

どちらにしても、子どもたちはこれまでの叙述をもとにして、考えを出し合っていた。

紙の馬

5年国語光村図書 『なまえつけてよ』その1

★2020年バージョンの記事を追加しました。こちらです。

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★第一場面★
「Aくんが、ちょっと不思議な感じと言ったけど、どこかわかる?」
  最初の場面に限定して、問う。
  おばさんと子馬に手をふると、春花は歩きだした。歩きなれた通学路だ。けれど、まるで知らない道を歩いているような気がしてくる。


ここ、気になるよね。
歩きなれた通学路なのに、はじめての気がしてる。
なんでだろう?

発問。(春花の感じた)知らない気がしてくる、というのはどういう感じか。

人生でも初めてのこと。
これまでやったことがない。
どうしたらいいか、わからない感じ。

★第二場面★
次の日の放課後、牧場のさくのそばへ行くと、前の日と同じところに子馬がいた。春花は、子馬をながめながら待った。もしかして、勇太は来ないかもしれないな。
なめらかなたてがみ。真っ黒な目。時間がいつもよりゆっくりと流れていく。

Bくん。「なんで時間がゆっくりなのか」

時間がゆっくり、と作者が書いているけど、本当はどういうことを読者に伝えたいんだろうね。
主人公春花の心の中は、今、どういう状態なんだろう?

目の前の馬に、夢中な感じ。
馬をずっと見ていたい気持ち。
馬ってなんでこんなに目がきれいなんだろう、って思ってる。
馬の気持ちを想像しているところ。

「いいんですー。それなら、しかたないですね。」
春花は、子馬の鼻にふれたまま、明るい声でそう答えた。勇太と陸は、何も言わない。二人とも、こまったような顔をして、春花の方をじっと見ていた。

Cさん。「春花にとっては、すごくざんねんなことなのに、なんで明るい声で答えたのだろう」

もうつけても仕方がない名前を言いたくなかったから。
明るく言わないとなぐさめられてしまうと思ったから。
迷惑をかけたな悪いな、とおばさんに思ってほしくなかったから。
おばさんを責める感じになっちゃいけないと思ったから。
勇太と陸に、落ち込んでいると思われたくなかったから。


ここは、さすが高学年ならでは、の意見がたくさん出てきた。
本当はショックもあるし、なんだ、残念、という感情もあるだろうに、
せめて明るく振舞う、そう見られるようにふるまう、ということが、
高学年のこの子たちにも、ふだんあるのだろう。
同じような体験を持っていたり、想像できたり、するんだろう。

この発問は、かなり子どもたちの発言があった。
ここに、春花と勇太の関係の移り変わりを予感させるテーマが潜んでいると思う。




【道徳】大好きな人から覚せい剤を勧められたら・・・

田代まさしといえば、わたしは「シャネルズ」を思い出す。
世代が分かるナ。

ともかくデビューが衝撃的だった。
顔を真っ黒に塗って出てきたからだ。
そして、湯川れい子さん作詞の、「ランナウェイ」を歌った。

ボーカル鈴木さんの甘い歌声、そしてメンバーのドゥーワップ。
子どもたちは、すぐにマネをした。5人そろったら、とりあえず

「らんなうぇ~、きみがす、き、さー(らんなうぇーッ、えー!)」

と歌ってみるくらいに。
昭和って、なんでこんなに、すぐになにかが流行したんだろうか。
今、流行のない時代と言われて久しい。あの頃のように、国民みんなが限られたチャンネルで、同じものをみて、同じように反応していた時代は、もう二度とこないでしょう。

田代さんは、抜群の音楽センスがあったから、お笑いのボケやつっこみのタイミングが、どんぴしゃだった。志村けんなどと共にコントもこなしたが、お笑い芸人との絡みが、とても上手かった。
ちょうどいいタイミングでつっこむことができるし、いいフォローを入れたり、タイミングが良かった。

同じタイプにドリフターズの加藤茶がいる。彼の音感、リズム感は抜群で、コントでぼけるタイミングや、くしゃみのタイミング、たらいが当たってよろけるタイミング、すべてが他に抜きんでていた。
いかりや長介が著書の中で、
「ドリフの笑いは、加藤茶のリズム感に支えられていた」
と書いた通りだ。

その田代さんが覚せい剤でつかまった。

ところで、本当に、タイミングが重なったのだが、来週わたしは「薬物濫用防止」について、授業をすることになっている。

そろそろ、その授業の内容を考えなくてはならない、と思っていた矢先に、田代さんがまた、また、逮捕。これで5度目、ということである。


薬物の怖さやおそろしさ、なぜやめられないか、人生が破壊される、ということ。
それを子どもたちに

「おそろしいんだよ、人生が破滅するよ」

と、何度繰り返しても、おそらく効果はない。

なぜなら、問題の本当の難しさは、人間関係のことに起因するからである。



薬物の恐ろしさを、何度聞かされていたって、人間関係のことについて、きちんと考えていなければ、やはり人間は弱いのだ。薬物のこわさよりも、こわいのは、人間の弱さ、人間が人間のことをきちんととらえられないこと、自分と他人との関係をきちんと考えられていないことが、こわいのだ。

ためしに

「大好きな先輩から、これ飲んでみて、と錠剤を渡されたら、断れるか」

ということを子どもに投げかけると、

さんざん時間をかけて、クスリの恐ろしさを学んだ直後であっても、正直に、

「もしかしたら断り切れないかもしれない」

と言う。

正直だ。

これほど、かように、人間というのは小さいのである。弱いのであった。



大切なのは、クスリの恐ろしさ、ではない。
そこを見間違うから、「薬物濫用防止!」と教育しても、ほとんど効果が出ないのである。

〇大好きな人から頼まれて断れるか

それに加えて、

〇怖い先輩から命令されて断れるか

〇一生の大親友と思っている子から一緒にやろうといわれて断れるか

〇お金が本当にたくさんもらえたら、断れるか

〇借金していて返すために、と言われたら断れるか

これが、断れないのである。
だから、けっこうこの問題は、闇が深いのである。


これは、自己形成、についての深い、深いテーマなのである。
自己形成について、十分に考えたり、あるいは人生の意味をとらえなおしたり、いちばん大事なのは、自分自身の人間関係のもちかた、とらえ方を、ちゃんと何度もくりかえし、意味を問い、自分で決定して、つくっていけているか、ということ。

そこにきりこむようなことをしないと、

ただ子どもたちと、人生の表面的な出来事として、「薬物」をテーマに話し合ったり考えたりしているだけでは、

まったく意味はないのでしょう。

シャネルズ


1970年代終わりに心理学者ブルース・アレキサンダーが行った、有名な「ラットパーク実験」だった。それは、一匹ずつスキナーボックスに閉じ込められたネズミと、多数の仲間と一緒に広々として遊具がたくさんある楽園に置かれたネズミとで、どちらの方がよりたくさんのモルヒネを混ぜた水を消費するのか、という実験だった。

 その結果、大量のモルヒネ水を懸命に摂取し消費するのは、檻のなかに閉じ込められた孤独なネズミの方だった。広々とした快適な空間で仲間たちとじゃれ合い、楽しむネズミたち、不思議とモルヒネ水を消費せず、見向きもしなかったのだ。

【6年英語】ハロウィン VS 耳なし芳一

小学校できちんと英語を教えられる外国人の方は、とても貴重な存在だ。
だから、もしそういう人がいたら、みんなでうんと大切にしたい。

教師にとってALTは気になる存在である。
急にプライベートな旅行の話をさせろ、と言って授業をしようとしない人もいたナ。
あなたは先生なのだから、授業に協力をしてほしい、と言っても
「めんどうじゃないすか」
と信じられないことを言うALTもいたし、もともと、カリキュラムも教科書も進度もまったく気にしてないALTは、ざらにいる。

ところが、今年度のA先生は、すっごくがんばる。
授業の打ち合わせにも、ちゃんと出席してくれるし、いやそうなそぶりもない。

ハロウィンの日も、A先生は大活躍だった。
魔女の姿で登校し、魔女を呼び出すところから授業をはじめた。
そして、本場アメリカのハロウィンのあれこれを、教えてくれた。

日本の子どもは、アメリカのお化けの種類は何種類なのかを聞こうとしていた。すると、A先生は
フランケンシュタイン、魔女、ゴースト、ミイラ男、ゴブリン、ドラキュラ伯爵、などを教えてくれた。
A先生が、今度は子どもたちに、
「日本ではどんなお化けいる?」
と聞くと、みんな声をそろえて

「鬼太郎!」

まァ、・・・これは、仕方ない。(でしょう?)

わたしは
「水木しげるもいいけど、日本に古くから伝わっている有名なのもいるでしょう。ほら、耳なし芳一とか、牡丹灯籠とか、番町皿屋敷とか」

とフォローをしたが、子どもたちは誰一人、それらを知らないのだった。

考えてみれば、ヨーロッパの古い民俗の祭り、伝承、フォークロアからハロウィンは生まれてきているから、昭和の「鬼太郎」とか明治時代の「番町皿屋敷」とかなんてのは、まだまだ新しい。ハロウィンが日本に根付かないのは、あまりにもヨーロッパ人種の古くからの民俗風習が、奥の深いものであるからだろうな。

唯一、ハロウィンに対抗できるとすれば、耳なし芳一か。平家物語の凄惨さを知れば、いかにハロウィンが恐ろしいかと言ったって、たいしたことはない。赤子のようなものである。
しばらく考えてみたが、ヨーロッパの古い歴史に対抗できるキャラとしては、芳一くらいしか思い浮かばない。渋谷で有名なハロウィンも、ぜひ『耳なし芳一』コスプレで、1000人くらいが行列をなしてパレードすれば、ちっとは日本の古来からの伝統文化も守られていくのではないだろうか。

耳なし芳一、落ち武者が一族の恨みを哀しんでいるのが怖い。
それも、毎晩のように琵琶の音色で心を慰めるために訪れるなんてのが、震えるくらいに恐ろしい。
あの世から、衣擦れの音をさせながら、あるいは甲冑のカチャカチャいう音をさせながら、霊界から訪れる、落ち武者や平家の落人たち・・・。

それを想像すると、ハロウィンに登場する魔女たちが、なんともかわいく思えてきます。

ハロウィン

【6年歴史】平賀源内(教科書には出ず)

平賀源内は、教科書では掲載されない。
とらえどころのない人物であり、本当に「わかって」いた人なのか、それとも適当なホラを吹くような人物だったのか、どうにも評価が難しい面がある。したがって、教科書向きではない。

子どもが尋ねた時、わたしはこう答えた。

子「先生、平賀源内知ってる?」
「あー、エレキテルの人」
子「この人、教科書に載ってる?」
「あ、いや・・・・どうかな。教科書見てみて。たぶん、載ってないと思うわ」

子どもは、ふうん、と言って席に戻った。
見ると、机の上に、『まんが日本の歴史』があり、彼はそれを読んでるのだった。
まんがの方には、平賀源内は江戸中期の人物として紹介されているのだが、なぜか、教科書には載っていない。

しかし、考えてみると、評価はしづらくても、この人物が各界に与えた影響がはかりしれぬものがある。彼の存在があったからこそ、その後『蘭学』がほとばしるように咲きほこる時代が来た。

江戸時代に日本社会に与えたショックを電力にたとえたら、この人物が強烈なバッテリーとして作用し、どんどんとあふれる活力や刺激を与え続けた。おかげで、蘭学が盛んとなり、医学が進み、天文学が進み、いわゆる合理的な思考や科学的な目線が育った。その【科学の芽】が、この時代に日本社会に根付いたことの大きさは計り知れない。


実際にやるかやらないかはまだ迷っているけど、一応授業案を考えてみる。

【平賀源内・授業案】
※この授業は、人物として
①近松門左衛門(浄瑠璃・歌舞伎)
②安藤広重(浮世絵)
③伊能忠敬(地理・天文学)
④前野良沢(医学・語学)
⑤杉田玄白(医学)


以上を学習したうえで行う。

この5人が深めた世界はそれぞれ違います。
しかし、この5つの世界・すべてと関係の深い人がいました。
それが、平賀源内(ひらが・げんない)です。

<黒板の中央に、平賀源内の写真を印刷した紙を貼り付ける>
学習問題:平賀源内とこの5人とは、どんな結びつきがあるだろうか。

平賀源内は、香川県の足軽の子として生まれました。
若いころ、藩の立派な医者の弟子となり、薬草の研究をしました。
やがて<蘭学>に出会い、長崎の出島で勉強します。さらに、日本中を旅して歩くようになり、各地域で薬草や鉱石を見つけました。
珍しいものを見つけては人々に知らせようと、江戸に行き、今でいう博覧会のようなものを開きました。このような物産展ともいう催しは、今でも国際見本市や万博のようなイベントとして続いていますね。平賀源内が世界で最初に行ったこの物産展は評判を呼び、いつも大入りの人でにぎわったといいます。

さて、その物産展に来て、あれこれと源内に質問するような人がいました。
源内はそういう<科学の目をもった先駆者>ともいうべき人々と、しだいに交流を深めるようになります。その中に、杉田玄白がいました。
そんなわけで、杉田玄白は、オランダの書物を翻訳する前から、平賀源内と懇意でした。
また、玄白とともに「ターヘルアナトミア」の翻訳を行った前野良沢は、玄白の人脈の広さにはほとほと感心していたようです。

つまり、当時、蘭学を知ろうとする知識人たちは、みんなどんなささいな知識でも得ようと、蘭学にくわしい人を訪ね歩くのが、もっぱら時代の雰囲気として、あったのでした。

平賀源内は、前野良沢を知ると、
「こんなに真面目で繊細、ストイックな性格の人物はめずらしい」
と思ったようで、蘭学の本当の探求者というのは、前野良沢のような人物をさすのだろう、と思い、源内のもとを訪れる若い人に、「蘭学の先生として、前野良沢という人がいる」と紹介していたようです。たとえば、画家志望の鈴木春重(春信の弟子)にも、
「これから絵を描く人は、蘭学を学んだ方がいい」
と、前野良沢を紹介しています。
「新しい絵をかきたければ、蘭学を習いなさい。そのために信頼できる、蘭学の先生につきなさい」と。

また、玄白が「解体新書」を出版する際、本の最初の扉絵を描いたのは、平賀源内に蘭画の技法を習った秋田藩士でした。
平賀源内の海外文化の造詣の深さから、他にも多くの人が、彼の家を訪れたようです。
また、玄白より源内が先に亡くなるのですが、その葬式を執り行ったのは、杉田玄白でした。

次は、地理と天文学。伊能忠敬との関係です。
伊能忠敬の仮親にあたる平山季忠という人は、平賀源内の知り合いでした。この人は、源内の物産展に珍しい二枚貝や、鍾乳洞の石を出品しました。若いころの忠敬も、平賀源内の蘭学の博識ぶりに驚き、影響を受けたのです。実際に、忠敬は、平賀源内が発明した万歩計を使っています。

平賀源内を訪れた画家もいました。浮世絵をさらに緻密にした<錦絵(にしきえ)>で有名になった、鈴木晴信です。平賀源内と同じ町内に住んでいました。それまでの浮世絵は、1色刷りかせいぜい2色刷りでしたが、平賀源内が多色刷りのシステムを考案し、晴信に伝えたことがきっかけで、晴信の多色刷りの錦絵が飛ぶように売れたのです。安藤広重は、源内の死後に生まれていますが、当然影響を受けたわけですね。

この5人の中で、ただ一人、近松門左衛門だけは、平賀源内が生まれるよりも前に生きた人です。近松門左衛門が不動のものとした、浄瑠璃と歌舞伎。どちらもまずは大阪や京都で人気になったのですが、そのために役者も「京ことば」「大阪ことば」を使っていました。しかし、平賀源内は、江戸の言葉を使った浄瑠璃に変えて、脚本を書きました。それが大ヒット。江戸で催される歌舞伎は、源内の作品以後、「江戸言葉」を使って役者がしゃべるようになっていきます。
つまり、平賀源内は、

(浄瑠璃・歌舞伎)(浮世絵)(地理・天文学)(医学)どの世界にも大きな影響を及ぼした人なのでした。


以下は、平賀源内が国内ではじめて描いた西洋画。
平賀源内


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