30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

学級づくりあれこれ

【学級経営】経営者は、困らない。

.
学級経営でも、会社経営でも、

困らない

というのが、経営する人の大事な資質だと思う。

子どものことで、困らない。
社員のことで、困らない。
いつも、不安のない世界で生きている。

子どもにエネルギーをとられるような感覚があれば、それはオカシイ。
社員にエネルギーをとられるような感覚があれば、それはオカシイ。


「あれ、先生、困ってるんじゃないかなあ~」
と思わせるとネ。
子どもはやさしいから、気を遣うんだよナ。

そして、

子どもが、先生に、気を遣うようになる。
社員が、社長に、気を遣うようになる。

子どもが、親に、気を遣うようになる。
部下が、上司に、気を遣うようになる。




ほら、サカサマ、でしょう。

どう考えても。

いかがですかネ。




本当は、逆でしょう。

先生が、子どもに気を遣うのでしょう。

大丈夫かな、これでいいかな、元気かな、食べてるかな、友達とうまくいっているかな、風邪ひいてないかな、体調はどうかな、気分はいいかな、冗談が言えてるかな、なにか心配してないかな、不安なことはないかな。



親や先生が困る人だったら、

「困らせちゃいけないな」

と思うよね。子どもは。

で、

子どもが、親を心配するわけ。

「大丈夫かな、これでいいかな、元気かな、困ってないかな、お母さん、ぼくのことで、困っていないかな、先生は、不安じゃないかな、ぼくのことで」



学校も、学級も、クラス経営も、会社経営も、みんな同じ。


困らない人のみが、人の集団を経営できる。


経営者

【学級崩壊】なぜしないのか その4

.
わたしが受け持ったクラスは、前年度、学級崩壊してる、と言われていた。

だから、4月の最初に校長から、

「うまくいってないクラスだけど、あらま先生、なんとか頼むよ」

と言われた。

周囲の事情を知る先生たちも、

「たいへんなクラスみたいよ。あらま先生、頑張って」

と声をかけてくれていた。




ところが、学級崩壊しない。

みんな良い子ばかりで、「最高のクラス」だ、と自負するクラスになる。

この1年は、本当に楽しかったと、わたしとの別れを惜しんで泣いてくれる。




わたしには、理由が分かる。

これを書いても、誰も理解できないと思うのだが、今回は、勇気を振り絞って書いてみる。

わたしが受け持つクラスが崩壊しない理由とは・・・



わたしが、学級崩壊してもよい、と思っているから。





・・・は???




ほら、分からないでしょう?

これが通じる人、少ないと思う。

とくに、現役の先生たちがきくと、本当に馬鹿で間抜けでとんでもない暴言に思えるらしく、

「冗談ばっかり」

と笑うか、

「いや、そりゃ暴言だろ」

と指摘するか、

「?」

困惑するか、

一笑に付す、という感じ。



学級崩壊してよいわけがないだろ!!

ちょっとまじめな先生は、怒りだす。

何を言ってんだ、と。




ところが、わたしのクラスは崩壊せず、

当の、崩壊してしまったクラスの先生は、

「ぜったいに崩壊してもらっては困る!」

と頑張っていたのだ。



世の中が、さかさまである、というわけが、これでも分かる。


問題は、

なぜ、この世はサカサマなのか

ということを、だれも考えようとしないこと。


教師 「崩壊したら困る!」


ま、こーゆーとこが、サカサマなんだろうネ ↑ ↑ ↑

わかりますよね?

教師が困る、というのが、すでにおかしい。

すでに、正規のルートを外れているのです。

目的地には、たどり着けない。

子どものことで、困らないのが、最低限あるべき、教師の資質だ。




さらに、教師が困るのを、子どものせいにしていたら、目も当てられない。


school_gakkyu_houkai

【学級崩壊】なぜしないのか その3

.
日本昔話には、おむすびころりん、というまことにSFチックな怪異譚がある。

ある爺さまが、偶然におむすびを穴に落としてしまい、追っかけているうちに地中のねずみの館につき、あれやこれやとしているうちに最後には大判小判を手に入れる。
ところが、その話をきいて、
「じゃ、おれも」
と思うのが、隣人の爺さまだ。

しかし、隣の爺さまは、同じようにおむすびを穴に落とし、同じように追っかけて、同じように地中のねずみの館につき、同じようなことをしているのにも関わらず、うまくいかない。

このようなことが、世の中にはまことに多い。
なぜそうなるのか、しばらく考えていればまことに理にかなったことだと分かってくるだろう。
昔から伝わるこの話が、人生の妙味をまことに如実に示していると思わずにいられない。

おむすび


問題

A先生は、授業が始まる時間に子どもたちが席につかないので、いつも時間を守って始めようと子どもたちに話をしていました。すると、だんだんと子どもたちは、自分から時間になると席に着くようになりました。

隣のクラスのB先生が、その話を聞いていました。
B先生は、ようし、おれもそうしてやろう、と思いました。

そして、授業が始まる時間になって子どもたちが席に着かないので、いつも時間を守って始めるべきだと子どもたちに話をしました。しかし、子どもたちはまったく席に着かないどころか、クラスは崩壊してしまいました。




なぜ、そうなるのか。

隣のクラスを見てたからだ、ね。

ずっとゴールを見つづけたのろまな亀がゴールイン(成功)し、となりの亀の姿ばかり見ているうさぎは失敗する、というのが世の習い。

教師は、目の前の、子どもを観なきゃ、ね。

隣のクラスをみて、いいな、なんて、思う。

その、「いいな」が、すでにオカシイ。

何を見て?

何が 「良い」の?

見ているもの、判断しているのは、外見の形だけ?




席につきたいと思う子になり、席につこう、と思う子になれば、解決する。

そうならないのに、

なんで、うちのクラスは、席につかんのだ!

と怒る。


まさに、隣の爺さま、というわけ。

目的から、目をそらすな!

【学級崩壊】なぜしないのか その2

.
飲み会の席で、若い先生に

「どうしたら学級崩壊しないのでしょうか」

と尋ねられて、

「そんなもの、空想のお化けや!」

と言った。


若い先生はおどろいて、いや、でも本当に言うことを聞かなくて、困るんです、と。


言うことを聞かないってどういうこと?

席につけ、といっても、つかないんです。

で、なんで困るの?

いやあ、困るんですけど・・・

なんで?

いやあ・・・



そんなの、ちっとも困んないやん。



それでも、彼は困る、困る、と言い続けるので、しまいに

本当は、そのことで困ってるのじゃないよ。

困るのは、実は、

親や保護者やまわりの先生から

責められるのが怖くて、困る、ということだ!


ijime_boy

・・・へへへ、そんなの、大丈夫。

保護者が責める?
まわりの先生が責める?

そんなの、全然、平気。

・・・となれば、まったく困らないでしょ?

困らないから、子どもを急いでどうしようこうしよう、と形を整えることに必死にならない。

だから、子どもの本当の姿を見られるし、どうしていこうか、と考えられるよ。

今、保護者から責められたらどうしよう~、なーんて、

そんなことが頭にあるうちは、正常に脳が活動していないってことや!

だから、子どもが見えなくなるんや!!

【卒業前日】子どもたちに囲まれる

.
卒業式の前日。

急に配らなければならなくなった学校からのプリントがあるとかで、急いで職員室に取りに行ったり、熱が出て大事をとって休んだ子の親から連絡があったり、とても慌ただしい。

「先生、ちょっと10分だけ、時間をください」

終業式が終わり、このあと、明日の卒業式に向けての全校練習もある。
いそがしいな、と思っていた矢先。
とつぜん、ある子が10分だけ時間をください、と言いに来た。

「え?時間がほしい?」

「はい。10分だけ。わたしたちに時間をください」

「あ、そう・・・」




なんだろう?と思う。

みんなで、最後の歌の練習がしたいのかなあ。

じゃ、10分は長いから5分だけね。

「やった」



リーダーが、大きな声を出した。

「みんな、集まって!」

子どもたちがわたしの周りを取り囲んだ。

なにかのゲーム?
なんか、おもしろいこと考えたの?


すると、どうやら用意していたらしい音楽が、CDから流れる。
みると、CDデッキの前にはWくんがいて、リーダーから指示を受けてスイッチを押したと見える。

なんだ、なんだ?

なんだか懐かしいような曲が流れ始めて、よびかけが始まった。

至近距離で、子どもたちがわたしの目を見て、話しかけるように語り始めた。



「先生へ」

「1年間、あらま先生に、本当にお世話になりました」

「新間先生は、とくいなことがたくさんあります」

「いそがしいときでも、生活日記に書いてくれます」

「まじめだけど面白くて、教科書にはないことを教えてくれます」

「とても生徒思いの、やさしい先生です」


紙をもっていたらしく、めいめいがメモのような紙を見ている。

つぎは誰々だよ、と小声で指示している子もいる。

「ひとりもひいきしたりすることもないし」

「みんなが考えるように、といつも私たちに考えさせてくれました」


「みんなのことがよく分かっていて、いつも話をきいてくれました」

このあたりから、不思議なことに目頭が熱くなり、熱い液体が目から気持ちよく流れ始めた。

ハンカチはどこだ、とポケットを探していると、その様子がおかしかったようで、なんとなく笑い声が起きる。



「先生の授業は、いつもとても面白かったです」

「ぼくは、苦手だったけど、算数が好きになりました」

「全員を大切にしてくれました」





このあたりから、なにを言ってくれたのか、よく覚えていない。

感じていたのは、涙というのは、勝手に出てくるものだ、ということ。

それから、涙は熱い、ということ。

熱い涙は、流しているのがとても心地が良い、ということ。

わたしはずっと目を押さえて、立っていた。



ハンカチを外してみると、わたしをぐるりと取り囲んでいる子どもたち。

なんだかとても不思議な光景だった。


「先生へ」

当番のような子が出て来て、ふくろをくれた。

「ありがとう」

かねてから用意していたような、メッセージカード集。
そして、ティッシュボックス。

「先生のティッシュをみんなでけっこう使っちゃったから、これはお返しです。ありがとうございました」

「あ、そう」

言葉が、ちっとも出てこない。泣けてきて、困る。



泣きながら、なんでこんなに泣けてきたんだろう、と思う。

たぶん、教員は、孤独だからだ。

わたしには、こんなブログで日々の思いをつぶやくくらいしか、自分を出せる手段がない。

職員室には、本当に語り合える相手はいない。

本当に思っていることは、ぼほ確実に誤解をまねくので、声に出して言うことはできないと思う。

この世でも、限られたほんの何人かにしか、わたしが本当に思っていることを言うことはない。

幾重にも囲まれた城壁を超えようとするようなもので、とうてい理解もしてもらえない。通じない。


そう思ってきた。


しかし、子どもたちはどうか!



大人には通じなくても。

子どもたちには、ほんのちょびっとでも、通じていたと言えるんじゃない?

甘いことは分かっているけど、少しそう思ってもいいんじゃないか、と思ったので。

だから、涙が出たんだと思う。



「あらま先生は最高の先生です!!ありがとうございました」



叱らないでも、いいですか。
そろそろ、次のステージへ、行ってもいいですか?

はな

親の批判はつきもの

.
校長先生が、

「親の批判はこの仕事にはつきもの、と思って下さい」

と、職員会議でおっしゃった。

これは、勤務校で保護者からの批判があり、対応に苦慮したものをなぐさめるためにおっしゃったのではない。

そうではなく、最近、保護者から、何も批判めいたことがないから、であった。

校長先生のお気持ちからすると、

「先生たち、自主規制をしていませんか?」

というのだ。


きっかけは、職員室でのなにげない会話。

あるクラスの学習発表会で、子どもたちが理科の実験をしてみたい、と言った。

教室で、線香に火をつけ、空き缶の中のアルコールを軽く爆発させる実験だ。
気体のアルコールに火を近づけると、空気中の酸素と反応して爆発。この爆発を利用して紙コップを勢いよく飛ばしたい、ということになった。

これを、ある先生がたしなめて、

「学習発表会は、大人の人もたくさん見に来るでしょう。教室は理科室とは違うし、火をつかう実験はあぶないからやめましょう」


とやめさせた。

このことを伝え聞いた校長先生が、

「自主規制しすぎると、子どもの活動がのびのびしなくなるのでは?」

と、前述の発言になったのだ。

わたしも、そう思う。

たのしいことを規制し、できなくすれば、逆に子どもたちは問題を起こしやすくなる。

先生たちが保護者の批判を気にして自己規制を強め、避けようとすればするほど、子どもたちの不満がたまり、かえってそのことから児童への対応を問題視されるようになる、ということがあるように思う。

子どもが火を使う、といえば、それを安全に使えるようにしてやり、過剰な批判があっても自分が頭を下げていこう、というくらいの肚でいれば、子どもたちはうんと安心して、守ってくれ、実験を許可してくれた担任を頼るようになるのではないか、と思う。

まあ、校長先生の言う通り、だネ。

「批判は甘んじて受けよ」である。

批判を避けることのロスよりも、子どもが思い切りやることの方に価値がある。

(きっと、子どもは分かっているよ。誰が味方なのか・・・)

no_woman

卒業前に、親に感謝・・・

.
学習発表会でなにやる?と子どもたち。

もうすぐ最後の参観日なので、ああだこうだ、とアイデアを出し合っている。

で、親に感謝して何かする、というのが、わりとよくある「学習発表会」プログラムのうちの一つであります。

親は泣きたいのです。そのために、子どもたちも、わりと神妙になって作文など読み、

「おかあさん、ありがとう。インフルエンザでわたしが倒れた時・・・」

というようなくだりにくると、お母さんもこの6年間の子どもの成長に今さらながら思いが至り、なんだかんだと苦労したことや、かわいい1年生の手をひいて、この学校の正門をくぐったことなどが思い起こされると、もう涙腺が爆発的にゆるむのであります。


しかし、このセレモニーをやろう、と半分以上思っていたんだけど、どうしてもこの今の雰囲気じゃ、無理だろう、と思う。

毎日、何でもかんでも爆笑してるクラスに、涙腺が緩む気配はまったく感じられない。

ありがとう、という気持ちなども当り前にあるんだろうが、それを表現したときにも、この今のクラスでは、涙よりも笑顔しかないような気がする。

で、ありがとう、というセレモニーは、プログラムから消えてしまった。

まあ、あまり深く考えず、このクラスのあり様をそのまま見てもらって、(めったに保護者が学校に来ることなんてないのだし)、いっしょになって楽しい時間をすごせばよいのだろう、ということになった。

大体、いったい学校でなにを学んできたかというと、これは一言では言い表しようがない。
また、形にあらわれるものなど、ほんの一部であり、一人ひとりの子どもの内情に培われたり備わったり育ったりしたものを、

「見せる」

ということも、相当に困難なことなのだろうと思う。

これは、見る側にとって大変なことで、見る側にその視点がなければ、いっさい感知できないもの。

わたしとしても、いったいこのクラスの子どもたちになにが育ってきたかなんて、やっぱりさっぱり分からないし、言葉に変えることもできない。

この1年は毎日のように、この空間で、お互いの顔を見合わせて、あれこれとしゃべったりすごしたり、共に飯を食ってきた、という程度のことなのではないか、と思う。

と考えると、いったい親の期待する発表なんて、できるのか、という次元にまで行きつく。

見ようとする人が、その場の子どもをみて、なにか感じとりたいものを感じ取るのみ。

なにを感知するか。その人次第。
P1180263

『卒業式まで』手作りカウントダウンが始まった!

.
『卒業式まで、あと30日!』

教室に、カウントダウンカレンダーが貼られるようになる。
子どもたちが手作りしたカレンダー。
毎朝、日直当番がめくって、

「ええー、みんなで給食食べるのも、あと30日!・・・えっと、これを書いたのは〇〇くんですネ」


みんなで描いたカレンダーやイラストを、日めくりして、卒業式までをカウントダウンし、ワイワイやっている。


この頃になると、なんだか本当に、言いようのない確信と、言いようのない滑稽さ、複雑な感情がぶわーっと湧き出てくる。

『叱らない先生』をやりはじめて、これで丸6年が経った。

卒業文集には、思い出の修学旅行、運動会、キャンプの思い出などのほか、「新間先生のこと」なんて記事も書いてある。
気恥ずかしくなるような褒め言葉が書かれていて、ちょっと躊躇する気持ちが出る。書き直しを、それとなくすすめてみるか・・・。いや、でもまあ、子どもが書こうとして自分で書いたものなんだし・・・。

「わたしは、6年になって、新しい先生になり、すごく学校が好きになりました」
「授業が面白くなり、よく聞こうと頑張っていると、算数ができるようになってきました」
「とくに6年生のクラスは、ぼくには最高のクラスとなりました」


「6年生になり、一度も休まずに学校に来ました」

これは、5年生のときまで、20日間以上休んでいた子。
なにかあると、すぐに休む、と言われていた子。
結局、一度も休まずに学校に来た。

A子とB子は、5年生まで犬猿の仲。
バスの座席をめぐっての長期にわたる大げんかが、保護者同士のけんかにまで飛び火しそうになった。
結局、6年生になってなにもない。

「ぴたっとやんだな」
昨年のことを知る教頭先生が、愉快そうにおっしゃる。

圧力をかけるのをやめれば、どんどん教室が良くなる。
こんな記事を、毎年書きつづけて、結局、6年経つ。

はじめの3年間まで、自分でも半信半疑だった。
叱らないでいいわけがない。
どこかに、自分でもそう思おうとする感じがあった。

でも、もう、6年間たつ。
圧力無し、という教育メソッドが、そろそろ研究テーマにあがってきてもいいんじゃないか?と思う。


たぶん、誤解があるんだろうネ。
「叱らない、イコール、子どもに迎合する大人」
となっているんだろう。

そうではない。
わたしは一切、流行している芸能ネタなどしゃべらないし、子どもどうしの会話にノリノリで首をつっこむことをしない。(そもそも、できないし・・・)。
子どもから話しかけられない限り、長い休み時間は職員室にいることが多い。

「叱らない、イコール、迎合」

としか見えてこないなら、なにか、視点が失われているのでしょう。

「叱らない」は、もっと基本で、ベーシックで、プレーンで、なにもない、ってことだと思います。

写真は、森で出会った小さな妖精。
3

【孫子の兵法】高学年の先生は楽しい授業をジャンジャンとやるべき

.
戦争の天才、孫子は、こう言ったらしい。
「戦争の原則としては、味方が十倍であれば敵軍を包囲し、五倍であれば敵軍を攻撃し、倍であれば敵軍を分裂させ、等しければ戦い、少なければ退却し、力が及ばなければ隠れる。」
これは非常に面白い。
人間関係も同じようなことが言えると思う。

孫子

市内の各小学校から集まって、市民ホールで合唱コンクールをやったことがある。

お互いに合唱を聞き合うのだから、さぞかしみんなマナーを守るかと思うだろうが、そうではない。
ある学校のある生徒は、まったく合唱を聞く気などなく、おしゃべりをしながら時々雄叫びのような声をあげたり、自分だけ拍手を延々と続けたりし、その学校の先生からたびたび注意を受けているようだったが、まったく態度を改めるそぶりがない。こんなところになんで俺は居なくてはならないのだ、という感じの不満をありありと顔にだし、他校のステージ発表の最中も、何かの拍子にゲラゲラ笑ってばかりいた。

見ると、担任かと思われる先生が何度も注意に立っているようであったが、子どもの方はもうほとんど聞く気が無い。

つまり、その子にとっては担任など、どうでもよい。

「この人の言うことは、聞かない」

と決めてしまっているのである。

居直り、とでもいうのであろうか。

居直ってしまった子を、どうにかできる大人は、おそらくいないと思う。

もはや、その子と関係を結べている大人が、周囲には一人もいないのであろう。


これは、とても難しい生徒指導である。

こういう子は、最初から、追いつめてはいけないのである。




孫子でいえば、最初、味方が十倍であるときに、相手を攻撃してはいけないのである。

包囲するだけで、十分。

戦うことが目的、ではないのだ。

「孫子曰わく、
 凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」
 とある。

これは、およそ軍事力を用いる原則としては、敵国を保全したまま勝つのが最上の策で、敵国を撃破して勝つのは次善の策である、という意味だ。

つまり、わかりやすくいえば、戦いに勝つというのは、相手をやっつけるのではない、ということ。

相手が自分の話を聞き入れるようにさえすればよいのであって、手段を目的と取り違えるからか、頭の先から攻撃しなければならない、と思い込んでいる。それは間違っているのである。

教師は、どんな子どもに対しても、決して居直られないよう、追いつめないようにしなければ。

どんな子も、落ち着いて話を聞いてほしくなるタイミングがあるのだから。

冷静に、自分のことを考えたくなるときがある。

そうした時間をつくれるように、タイミングをつくれるように、環境をつくれるように、話のきっかけをつくれるように、徐々に周囲から、相手に迫っていくのである。(表現が変かな?)




3、4年生の時は、とても静かでおとなしかった学年が、5,6年生になって爆発した、ということがある。

それは、3,4年生のときに厳しかった先生たちが、ガチガチに締め上げていたのを、5,6年生の先生たちがそのまま引き受けたからであります。

人間、厳しくされてキュッとなって、言いたいことも言わずに黙っていたら、いつかそれを出したくなるもの。

2年間も言いたいことが言えなかったら、賢い高学年になれば理屈もたつようになるし、チャンスがあればどこかから出てきますよ、それはネ・・・。

3,4年生の時に静かにしていたのは、決して納得していたわけではなく、抑圧されていただけ。

「自分を取り戻そう」とすれば、正直に自分の心の声を出していきたくなるもの。

5,6年生の先生ともなれば、そのくらいのことを予期しておくのが当然で、楽しいことをジャンジャンとやるのがよい。

3,4年生の授業がまるでお通夜のように暗く寂しいものであったのなら、授業のイメージをガツン、と変えてしまう。

そのくらいやらないと、リハビリできないし、リハビリができないと、結局なにかたまった鬱憤のような物、トラウマのようなものから逃げるだけで、残りの小学校生活が過ぎてしまいます。

本来の楽しさを味わうには、リハビリが要るのだとしたら、どんどんと人間らしい息をさせて、楽しい授業をたーーくさん、味わって、楽しいクラスの行事をたーーくさんやって、人間関係をつくって、

心から安心できる人間関係を、大人も子どもも、教師も児童も、みんなが確認しあうことから。

人間どうしが、心から「安心できる」っていうことが、何をするにしても、何をおいても、最初に来る。
いちばんの大元だ。

51ALYaZpv4L

ごめんなさい、といいなさい

.
「謝る」の価値は、21世紀になって格段に跳ね上がったと思う。

20世紀の終わりごろ、大企業の不正が話題になったことがあった。

雪印の不正、
銀行の不正、
なんやかんやと。

そこで、大企業の偉い人たちが軒並み頭をさげて

「まことに申し訳ありませんでした」

と言い、そこに雨のようにカメラのフラッシュ音がかぶさる映像が、これでもか、とお茶の間に流れた。

おそらく、そのときから、


「ごめんなさい」


を言うことに、日本人は価値を置き始めたのではないかと思う。


学校でも、指導の終わりは「ごめんなさい」である。

「反省させないと、本人のためにならない」

というわけで、相互にごめんなさい、を言わせる。

親に報告する時も、

「〇〇くんも△くんに対して謝罪しまして、ごめんなさい、と言いましたので・・・」

と、報告する。

母親も、その報告を受けて、納得し、

「〇〇くんも謝ったんだって」

と今度は父親に報告する。

父親も、その報告を受けて、

「そうか、〇〇くんも謝ったんだな。じゃ、仕方ない」

というふうに考える。



ところが、これは心の中の作業とは、まああまり関係があるのかないのか、どちらかというと無関係でありましょう。

指導というのは、叱ったり謝らせたりすることよりも、子どもたちが次にどこへ向かっていくのかを手助けすること。

そのためには、なにが大事なのか、を考えさせたり、ときには考えていくための方策をきちんと教えることかと思う。

やっぱり、「考える」ということに、重きを置くことかな。

しかし、そこに重きを置く大人も少ないわけで、大人自体が

「考える」

を日常でさぼっているようでありますから、まあ子どもに

「考える」

をさせようってことなど、もとより考えていないのかも。

「頭を下げて謝る大人の映像」に価値がおかれる?、のですから、何を考えたか、どう考えたかなんて、なにも価値はないのでしょう。

「何が大事か」、これを考えることは難しい、ということに、なっているように思う。

なかには、「謝ることが大事」とし、そこからは思考停止デス、という教師も。

自戒しつつ、ネ。


考える

待たせる、ということ

.
学校というのは、並ぶことが多い場所だ。
それも、自分以外のひとを待つことが、けっこう多い。

たとえば、音楽室へ行く。移動する。
授業時間に、学校内をしずかに移動しなければならないときがある。
クラス全員が並んで、学習中の他の教室のじゃまにならないように、静かに歩く。
この場合、クラス全員がならんでいく。

校庭や体育館で校長先生の話をきいたり、地震の防災訓練だったり。
人数の多い学校では、自分だけが歩いていくのではなく、クラスの仲間と共に移動することがとても多い。

するとネ。

だいたい、自分が先にスッと並んでて、他の子を自然に待つタイプの子がいるわけ。
もう荷物も手に持っていて、順番のところにきちんと並んでいて、待っている。

しかし逆もいる。
しゃべったり、荷物を探したりして、なんだかんだとみんなを待たせるのである。

で、みんなが並んで待っているところにスッと行って、

「お待たせ」



「ありがとう」

もなく、ふつうにそのまま並んで歩き始める。



もう学校では日に何度も繰り返される日常の行為だから、みんななんとも感じなくなっている。



しかし、あるとき、これを話題にすることがある。

待たせるとか、待つとかって、どんな感じ?

とやるのである。




すると、待つ方は、

「早くして」

と思いながら待っている、だとか、いろいろと意見が出る。

ところが、

「早くしなきゃと思いながら、待たせている」

という感想は、出ない。

なぜかというと、多くの場合、「待たせている」自覚がないからだ。



そこで、待たせているな、と思ったときをしばらくの間、観察していくようにする。
これは、自分で自分を観察するように、する。
すると、

「今日、音楽の時間の前に、みんなをちょっと待たせたな、と思いました」

という感想を、ようやく出せるようになってくる。



この感想が出るまでに、何日か、何回か、かかる。
これが面白い。
なんで、こっちは時間がかかるんだろうか?



次に、待たせている、という自覚が生じてきたあとに、今度は次のことを聞く。

「なんで待ってくれて当然のように、これまで思っていたのだろうか」


これは反応がある。

「べつに当然だとは思ってなかったけど・・・」

と出るのである。


しかし、待たせているのが慣れっこになっていたし、とくに何も思わなかったのだ。これまでは・・・。


みんな、待たせた、という自覚は、ほとんどない。
不思議なことであるが。
そのかわり、「人を待ったことがある」という自覚は、強烈に持っている。



つまり。

ひとは、なにかの事象を体験すると、「〇〇だなあ」という感想を持つ。
けれども、
他の人がそうなるように、自分が仕向けた、自分がそうさせた、というふうには、なかなか思わないのである。

だから、多くの場合、人間は自らがこうむった被害を訴えることは得意である一方、自分が加担した(他をそうさせた)事象については否定するのである。

で、道徳の授業なんですが・・・



自分が他の人を待たせてたなあ、他の人に、待ってもらってたんだなあ、ということがスッと受け取れるようになると、それだけで、クラスが明るくなります。

で、その人の行動が変わる。


これをネ。

「待っている人の身にもなってごらんなさい!」

とお説教、やるとネ。


なんだか知らんが、

チッ

と思うものなんす。


待っている人の身になって考える前に、自分が待たせてたなあ、と思えないと、ぜんぶダメなのです。

順番としては、そうなのです。

最初に、

「待っている人の身のつらさ」

を訴えても、それは、逆に、待たせた方をなぜか責めてるような雰囲気になっちまう。

それで、人は素直になることができなくなるんですナ。




 この話、エッセンスが詰まっていますよネ。

 「人を待たせてはいけない」という道徳的なお題目を押し付けるのでもなく、
 「お前は人を待たせているぞ、気が付けよ」でもない。

 ただ、自分を待っていてくれた人がいること。
     逆に、自分が待っていたときのこと。
     待たせてしまったときのこと。

これらを、純粋にふりかえるだけ。


これだけで、クラスに笑顔が増えますが、これが道徳の授業かどうかと言われると、よく分からないです。

P9120090

Aくんが学校に来るのは、なぜか

.
Aくんが学校に来るのは、なぜか、と考えたことがある。

彼にとって、学校とはうるさい先生があれこれと指示命令をし、座る場所まで強要される、おそろしく居心地の悪い場所である。

しかしそれでも、彼は学校に来る。

Aくんは、他の子をつめでひっかいたり、顔をパンチしたりするので、担任の先生から目の敵(かたき)にされていた。
Aくんが教室の一番前の席で、先生ににらまれながら、怒られているところを、私は何度か目撃した。

Aくんに、学校へ行く価値を教えたから、彼は学校に来ているのではない。
彼は、学校がきらいだ、と明言したことがある。
来たくない、と言ったことも、もちろん何度だって、ある。

しかし、彼はめげずに学校へ来ている。




わたしはAくんの担任ではないけれど、Aくんのことで何度も相談を受けたから、Aくんがちっとも折れずに、ちっとも暗くならずに、学校へくることは知っていた。だから、彼がちゃんと学校へ通ってくることに、なんともいえない彼自身の力を感じていた。

ひとつ言えるのは、

〇学校へくると算数ができるようになるよ
〇学校へくるとお友達ができるよ
〇学校へ来ると楽しいドッジボールができるよ
〇学校へくるといいことがあるよ


というような、学校へ来ることの価値を教わったから、来ているのではない、ということ。
彼は、そんな屁のような(押し付けられた)価値を知って学校へ来ているのでは、毛頭ない。

ではなぜ、一見、彼にとっては価値のなさそうに思える学校へ、彼は毎日通ってくるのだろう。


三年寝太郎が、地元に巨大な用水路をつくるために目の前の地面を掘り始めた時、最初、だれも手伝おうとしなかった。大人はだれも、そのことに「価値」を認めようとしなかったからだ。
ところが、子どもたちは手伝う。
用水路とは何か、その価値とはなにか、と子どもは問おうとしないからだろう。

三年寝太郎と子どもたちが、用水路堀りを毎日やるうちに、大人の中にも、そこに参加する人が現れてくる。
日頃あまり、「夢」とか、「価値」とか、「意味」とか、「意義」などを語ろうとしない人たちから、だんだんと参加し始める。

そこが、人間の不思議なところ。



用水路が1割ほどできあがり、堤が目に見えて分かるようになると、それを「意義づけ」る賢い大人がようやく表れる。この用水路づくりには意味がある、と認めるのだ。
そうなってから初めて、参加し始める人たちもいる。


この話から分かるのは、人間は「価値」にとらわれつづける、ということだ。
社会が価値を認める、ということに、われわれ大人はとても敏感になるし、そのことに依存する。


このことを、「人間の価値依存癖(Value-dependent addiction*バリューディペンデント・アディクション)とよぶ。


Aくんが学校をどう評価していても、彼は学校へ来たいのだ。
あるいは、学校へ来たくなくても、毎朝、登校することを選択しているのだ。

そこで、大人が震えながら、なにかを恐れながら、

「学校には価値がある!!」

と叫ばずにいられないこと自体が、なにか病的なのだろう、と思う。

学校の価値を語らずとも、
価値があるかどうかを問わなくても、
Aくんが学校へくることを喜び、大人はそこでもっとも人間らしくふるまいながら、Aくんと共にすごす、ということだろう。なにしろ、われわれは、生きていること自体がヨロコビであるのだから。

P8140024

コミュニティ研究の場としての学級

.
おそらく私の本当の興味は、実は、
「人間研究」
であるのではないか、と最近、思い始めた。

それも、コミュニティと人間個人の関係を。
いつのころからか、ずっと心のどこかで、研究しつづけている。
10代から・・・。
こんなブログを書いているのも、そういうわけのことで・・・
(ブログに書きつつ、自分で研究を進めているつもりになっているだけのことだけどネ!!)



さて、子どもに限らず、大人もそうですが、コミュニティに属している、という気分が人間をどう開放するか。
これが、現代の大きなテーマでして・・・

なぜかというと、コミュニティに属さない方が自由で自分を開放できる、という気分のひとが、今の世の中はけっこう多いようだから。
できるだけ人間関係の煩雑な部分からのがれたい、とだれしも願っているのだろう。
つまり、だれとも会話しなくても結構、おひとり様で十分楽しい、というのが、今の世の習いなのでありましょう。(それはまた真実で、一人でも楽しいのが本当でしょう)


ところが、小学校のクラス、という30~40人規模のコミュニティ、それも、ふだんの行動がほぼ同じであり、体験を共有できるシステム上にある人間のコミュニティに限っていえば、

コミュニティに属していることが、いかに自分を豊かにするか

を実感できるのが当然で、それがどうも人間の生きるエネルギーにさえなっていると思われる。


なぜか。

おそらく、好きになるからであろう。

大人は、ほとんど、嘘くさい、と思う。

しかし、子どもは、なんの躊躇もなく、

「クラス中みんな好き」

と言うのである。

好きにもいろいろあろうが・・・と大人はまたしても、思う。

ともかく、子どもは、

「嫌いな子、いない」

のであります。


このことが、とうてい信じられない、というところに、大人の病理が潜んでいるのはまちがいないでしょうナ。


P1000852

目つきが悪い?

.
「あの目は、うそをついているね」


4年生の時に、先生に対して、あることで嘘をついたことのある子がいて、
徹底的に叱られたそうな。

その子が6年になって、まだ職員室でそのことが話題になっている。

ひとことで言って、Q先生は、「彼が気に入らない」 のである。

とくに、目つきが。

「あの子は人とうまくやっていけないね。あんな目つきじゃ」




さて、目つきとは、何だろう、と私は思う。

なんで、その「目つき」が、人間にとって、気になるのだろう。

そして、「目つきが気に入らない」というのは、いったいぜんたい、どういうこと(からくり)なんだろう。




目が、自分をみるときに、

〇あやしむような
〇うたがうような
〇信頼をしていないような
〇きらい、と言っているような


そんな目なんだって。


だから、Q先生は、その子の目つきが、「気に入らない」と反応する。

理由は、「だって、4年生の時、しゃあしゃあと、嘘をつかれたからネ!」





これはネ。

3つくらい、勘違いしているよネ。

3つ。

分かりますか。





その彼、わたしのクラスになったら、道徳の授業の時に、いちばんみんながおお、となるような意見を出すよ。



女子が、男子が使っているサッカーボールを、自分たちも休み時間に使いたいんだって。

クラスには、ボールが1つしかない。

どうするか。



「男子は他のクラスの男子と、相手の教室のボールで試合すればいいじゃん」

なんでか。

「そうすれば、自分のクラスのボール使わないで済む。うちのクラスのボールは、女子に渡せるしさ」







こんな意見を出すの、他にはいない。

彼だけ。


あとは、


「ドッヂボールのボールをないしょで使っちゃえばいい」

という、掟を破ってボールを増やす、という乱暴な意見と

「女子と男子が毎日じゃんけんする」

という、ギャンブル好きな男子の意見と 

「男女が日替わりでやればいい」

というルールをつくることが生き甲斐のまじめなクラス委員長の意見くらい。



目つきのあやしい(?)方が、いい案を出した。

tomato



がんばれーーーー!!!

.
最近、子どもの日記に

「がんばれーーーーー!!!」

と書くことが多くなった。

宿題のチェックやら保護者への手紙やらあれこれと用事があり、朝の5分、昼の5分、というのが貴重きわまりない。

この5分に、鬼のようになって宿題を見る。
でないと、あとはもうスケジュールに1分も余裕が無いからだ。

理科の実験なんてある日には、お湯は沸かさないといけないし(うちの理科室には湯沸かし器が無い!!)。
ペトリ皿やらシャーレやら、虫めがねやら、ありとあらゆるものを用意しておくだけでも一苦労。
その間に、児童会の担当の子どもがやってきて、来週のイベントのことでいろいろと質問してくるし、プールのそうじのことで2年生の先生があれこれと連絡に来てくださったり、習字の先生が電話してくるし・・・・


というわけで、鬼のようになって、宿題を見る。

宿題のひとつが、日記なわけですが。

丁寧にみてあげたいが、それが叶わない日もあります。

コメントも、じっくりと考えた上でコメントを入れてあげられる日もある一方で、

「今日はゴメン!一言ですまん!!」

という日もあるのですよ。

そういう日が、つづくと、ちょっとごめんなさい、本当にごめんなさい、という気分になるのですが、このときわたしは、

「そうか!がんばれーーーーー!!!」

と日記のコメントを書くことが多い。

それも、赤い太いペンで、赤々と、でかい字で、

「うん、そうかーーーー!!!がんばれ、がんばれーーーーーー!!!」

と書く。



これ、あまり今までは、書かなかった言葉だ。

教員になって10年近くになるが、ほとんど、がんばれ、という言葉は使ってこなかった気がする。

ところが、今年、自分でも本当に不思議だけど、すらすらとこの言葉が出てくる。


がんばれーーーーー!!!


おかしいな、なんでだろうな、と思って今日、ちょっと調べてみたら、子どもたちの日記の文末がこうなっているからであった。

「・・・・わたしは〇〇〇が〇〇になるように、一生懸命にがんばります!」



なんだか、頑張り屋さんが多いクラスなのであった。

だから、わたしもつい、

ガンバレーーーー!!

と書くのであろう。


応援、なのである。

心の底からの、応援歌なのである。

子どもたちよ!!

ぐあんば、れーーーーーーッ!!!!

飛び出す小学生3

ただの会話

.
新年度でありますが、「叱らないでもいいですか」が、まったくぶれてこない。
これ、自分でも不思議。

自分が担当するクラスが、たまたまいい子たちばかりなのか?
と、思う時がある。

子どもはどの子も、担任の先生を好きでいたい、と思っているのではないだろうか。


考えてみれば、人間はみな、人を好きでいたい、そうありたい、と願っている存在なのではないだろうか。




家庭訪問で、おうちの人に会う。

話をする。

いい人ばかりだな、と思う。



毎日のように、子どもに声をかけていると、だんだんと机の周りに集まってくる。

興味があるのだろう。

子どもは、面白い、とつくづく、思う。

そして、子どもたちは、「先生は面白いなあ」と思っているらしい。

要するに、人というのは、面白い存在である。



わたしは、給食を食べるときの子どもの顔が好きだ。
いちばん、自分の顔をしているように思う。
かっこうをつけている子は、いない。
みんな、自分らしくふるまっていて、自然でいる。



子どもが、わたしの顔を、じーっと見ているのは、何を思って見ているのだろう。

「先生の箸箱、青い」

「うん。青い」

「それ、カーマに売ってたの」

「うーん、ピアゴだったかなあ」

「ふうん」


それだけの会話をしながら、なんとなく休み時間を過ごす子がいる。

授業中にはさほど元気よく発言をしない子のほうが、むしろそうやって話しかけてくる気がする。

わたしとその子の距離は、これで少し、縮まる。




子どもがなにをするでもない、ごくふつうの、ただの休み時間が、

教師としての一番大事な仕事の時間だと思うようになった。

ハイブリッドのたんぽぽ

給食とともに・・・

.
Aさんのネタ、続き。

Aさんについてはいろいろと思い出すことがありますね。
ちょっと不思議な雰囲気の子だったので・・・
どんな不思議さかと言うと、こんな感じ。
以下、その会話をいくつか、覚えているところだけでも、書いてみます。






A 「あっ、国語のプリント、後半やってなかったっ」

隣の男子 「おれの、見せてやろうか」

A 「親切は嬉しいんだけど・・・、今日のデザートは渡せないよ!(にらむ)」







友だち 「えー、4時間目、鎌倉時代のテストだって。1学期の授業のところだから、もう全部忘れた」

A 「ちょうどよかった!」

友だち 「なんで?」

A 「わたしも覚えてないから、寝るしかないなと。いっしょに寝よう!」

友だち 「わたしの隣でよかったネ・・・寝るのが一人じゃなくて」

A 「ほんとう。隣でよかった~。給食になったら起こして~







友だち 「持久走の途中に、めまいがしたよ」

A 「え?朝ごはん、食べてないの?」

友だち 「食べたけど、足りなかったのかなあ。エネルギーになってないぞ」

A 「がんばれ朝食!・・・で、今朝、なに食べてきたの?」

友だち 「うーん、ふつうの白ごはんに、卵焼きとお味噌汁」

A 「あー、卵がまだ小腸に届かなかったんだねー。腸がぐるぐるしてるし、途中でどっか行っちゃったんじゃないの」

友だち 「アハハ」

A 「卵が、ここどこ?小腸なの? うそっ、ここ暗いしー、ぐるぐるしてるしー、・・・いやだ、向うが見えない~、キャー、わたし、栄養になりたくない~って」







隣の男子 「おれ、最近、鮭の皮まで食べるようになった」

A 「えー、今まで食べられなかったのが信じられない~。すっごいおいしいし、栄養もあるんだよ。皮だけ残してたなんて、信じられないー。じゃ、これまでの罪滅ぼしで、わたしのも・・・。ハイッ」(と、自分の分を男子の皿に) ←実はキライ。








友だち 「Aちゃん、アボガド好き?」

A 「うん、好きだよ~!  ・・・(ちょっと考えて) あ、わたし、アボガドも好きだし、アボガドの色に似てるぶどうも好き~!それと、ぶどうゼリーはもっと好き~!」









(なんでも食品にたとえる悪い癖)

A 「これって、鶏のササミに似てない?」

筆みたい

担任どうしの仲が良いとなぜ子どもは素直になるのか

.
すでに言い古されているが、なかなかその真髄が見えてこない感のある現象。

1組の先生と2組の先生と3組の先生。
この3人の人間関係が、そのまま実は、子どもたちの心の成長に結びついていることが、なんだか分かるようでわからない。

「そうなんだよねー」
「大きいよね」
「つながってるよね」


という人は多い。

でも、なぜなのか、なぜそうなるのか、と言おうとする人は少ないように思う。
それも、自分の言葉で、となると、滅多にいない。


ただ、仲が良い、というだけでも、その中味もいろいろある。
単にお互いに強く遠慮しあっているだけとか、表面上でうまくいっているように見えるだけの場合もあるから難しい。

その3人の担任どうしが、本当の意味で信頼しあっていると、子どもたちはぐんと成長する。
イベントで成長するのは、おそらく担任が信頼しあっている場合だけ、といえるかもしれない。
先生どうしがお互いを悪く思い合うような場合、子どもたちは何も成長しない。

『信頼』、という言葉のイメージや意味も、人によってかなり違うから、これもまた難しい。

ただ単に、信頼しています、という場合、本当に信頼していることはごく少ないように思われる。
一万年たっても信頼がぜったいに崩れない、という場合と、明日にでも揺るぎそうな「信頼」とでは、その中身や質が違うから。

こういうと、多くの人は

「一万年も、そんなの無理」

という。


だから、今の世の中は「不信感」が蔓延している。
「安心」という言葉の本当の意味は、あまり機能していないのが、現代社会。
ここ2000年くらいの間、「安心」という言葉は(本当には)機能していない。幻(まぼろし)の単語。

では、なぜ、一万年の信頼、ができないのか。


ああ、そうかも。
たぶん、人間ってこういうもの、という前提から違うんだろう。

隣の先生のそばをすする音が気に食わない。
 ↑
これを「反省」してるから、ダメなのだろう。

今の道徳教育は、他を悪く思う気持ちを「反省」させるのがよい、としていることが、根幹からの間違いかもしれんね。よくある、問題の前提からの間違い、というやつ。「反省すれば良くなる」というのが、根拠のない思い込みだとしたら・・・。

(これが、なぜ現在の道徳教育でいじめが無くならないか、ということへの私なりの考察です。)

5

子どものための〇〇会

.
秋の音楽会も、つまるところは、子どものためでありましょう。

音楽会の成功、ということを考えるのは当然です。

ただし、その成功とはどんな中身をさすのだろう。

そもそも、音楽会を成功させるために、地域から子どもが集められているわけではない。

ここでいう成功とは、「子どものため」になった、という点において、成功した、ということになる。

では、「子どものため」とは、何をさしているのだろうか。

子どもの幸福のため?

いずれにしても、音楽会は、そのための、ある一つの「きっかけ」にすぎません。



ま、運動会も同じです。
「運動会のために」子どもがいるわけではない。
「子どものための」運動会です。

しかし、運動会が近づいてくると、緊張しておなかをこわす子もいたり、
校庭に、子どもをののしる怒声罵声が響いたりします。
大義名分として、「運動会を成功させなければならん」というのが持ち出されます。

結局、運動会のための子ども、というふうに、いつの間にか、なりやすいのです。



このように、人類がなんだかよく分かっていないのが、手段より目的にあたる方なのでしょう。

「子どもの幸福ってなんだ?」

というの、よく分かっていません。

大体、大人の幸福ってものさえ、よく分からないのです。

そのへんの大人は、分かったふりをしているだけです。

与党も野党も、幸福のために、議場で紙を奪い合って採決しようとしています。
お互いに、自分こそが「目的を正しく知っている」と思い込んでいるのでしょう。
しかしその実、手段に溺れているだけなのです。



それでも、救いはあります。
どの親も、子どもはかわいい。
つまり、子どもの幸福、というのは、だれに聞いても、だいたい、いい線をいっているような気がします。(見当がつかない、という人はいない、という意味で)
そこが、唯一の救いです。

子どもの幸福とは?
と、いつまでもどこまでも、
「わかった」とか言わずに、考え続けていく大人であることが、
子どもに接する大人の最低条件だと思っています。

目的は子ども1

通知表は子どもが自分で書くべき

.
休日に学校へ行くと、たくさんの車が置いてある。
ほとんど先生たちの車だ。
学校に、通知表を書きに来ているのだ。

平日はほぼ、他の仕事や文科省、市教委レベルの仕事に追われていてできないので、土日にやるためだ。

先生たちは残業が多い。夜8時、9時、というのが当たり前になっている。
だから、逆に「残業」している、という意識は薄いだろうと思う。学校というのは、それが当たり前だ、という意識だから。

さて、土日に書きに来ている通知表ですが、一人ひとりについてなにをどう書くのか、これが本当にむずかしい。

なかには、

「そんなの、簡単よ。先生が思ったこと書けばいいんだもの。子どものことで、何でも思ったこと書くのよー。所見っていうのは、思うこと、というくらいの簡単な意味なんだって、辞書にのってるでしょ」

という年配の先生もいるけど、多くの先生は保護者の反応を先に考えるから、どうしても、正面切って子どものあれこれをズバリ、というふうにはなりにくい。

教頭先生は、

「一にも、二にも、褒めてください。褒めることが教育ですからね。保護者も、褒められて文句付ける方はいません。ともかく褒めてくださいね」

と先生たちを鼓舞して回っている。




さて、と。

わたしは教室に陣取る。

職員室だと、子どもたちの顔が浮かんでこないからだ。

教室の前方にすわり、日曜日でだれもいない子どもたちの机をみる。

そこに、どんな顔で、どんな表情で、どんな姿勢で座っているのか、ふだんの子どもたちの姿から想像しながら、子どもを思い浮かべて、その子に尋ねる。

「通知表、なに書いたらいい?」

すると、その子は

「うーんと、体育かな」

とか、

「委員会の活動で児童会の発表したこと書いて」

とか、適当に話してくれる。

なかにはあまり語らない子もいて、そういう子はわたしに、

「何でもいいよ。とくに(がんばったことが)ないかも」

とまで、言う。(あくまでも想像上の子です。あくまでも)

「いやあ、そんなことないでしょ。いろいろ頑張ってたでしょ」

と、私が問いかけると、

「ううん。がんばったことなんてないよ」

「ああ、そう。ないの・・・」

私はなんだか困ってしまって、どういえばいいのか、しばらく迷う。


そうかもね。
「がんばった!」なーんて言葉、ニュアンスがちょっといい加減だものね。

わたしが、がんばったことを探そう、というと、なにか組み体操のピラミッドで、下の段で歯を食いしばって耐えているようなイメージだもの。スポ根物語じゃあるまいし・・・。みんながみんな、そんなふうに、毎日過ごしているわけじゃない。

楽しんでやれたこと、学んだこと、こういう言葉も、どうなのか。
それぞれに、ニュアンスやとらえ方があるのだろう。

彼を見ていて、一番いい言葉、しっくりくる言葉がなにか、私は探し始める。

「がんばりました。楽しんでいました。達成感を味わっていました。取り組んでいました。することができました。」


・・・、こういう言葉を使いたくない、という子がいるだろうにね。

どんな言葉が、いちばんぴったり、くるんだろうなあ。

毎日、どんな心持ちで、いったい何に関心を向けて、その子が生きていたのか。

ほんとうの内面、本当のところはさっぱり分からないのに、通知表を書く、という。

子どもの言動、表面を見ていてもちっとも分からないのに、なにか書かねばならんと言う。

通知表を書いても、

「こんなの、本当のわたしのことについては、ちっとも書いていない」

って、子どもが思うだろうことは分かっているのに、さもわかったふりをして、教師は書いている。


通知表、子どもが自分で書けばいいのに、ね。




アカゾウムシ

なぜ、あなたは廊下を走らないのか

.
廊下を走ると、あぶない。
廊下を走らないようにしよう。
でも、やっぱり、たくさん走る人がいるな~。

 ↓ ↓ ↓

よし、こうなったら。
罰則をつくろう!

走った子を、恐怖で怯えさせよう。

 ↓ ↓ ↓

で、罰を与える規則をつくり、縛り上げる・・・(実際には人の心まで縛るのは無理だけど)


しばらくして・・・

お、走らない子がいるな!
きっとあの子は、ぼくたちが
「罰則をつくったから、走らないのだろう!!」

・・・だって。

このことの、どこにどんなおかしさ、奇妙さが隠れているか。


ひとは、なぜ、結びつけるのだろう。

「この子は、罰則があるから、走らないのだ」、と思ってしまうのは、なぜなんだろう。

こんなふうに思いやすいのは、人の癖なんだろう、と思う。
思考の癖、いわゆる、思考(バカ)の壁だ。



交差点の事故を防ごうと、ある学者が、赤信号から青信号に切り替わる時間を変更した。ためしに、A路線側の赤時間を10秒増やす実験をしたところ、事故が減った、という結果が出た。

これは、「A路線側の赤時間を増やすと、事故が減ったのだ」というふうに、報告された。そこで専門機関がさらに検討を重ね、A路線側の赤の時間が10秒増やされた。

ところが、まだ事故が多発するようになってしまった。

今度はためしに、A路線側でなく、横断するB路線側の赤時間を10秒増やしてみたところ、なんと奇妙なことに、事故が減った、という結果が報告された。そこで専門機関がさらに検討を重ね、B路線側の赤時間が10秒増やされた。

ところが、まだ事故が多発するようになってしまった。

今度は試しに、元のA路線側の青の時間を10秒増やしてみたところ、なんと・・・・


と、まあ、こんなような、奇妙な思考のこと。



しかし実は、学校で子どもたちと話していると、こういう思考って、とても多い。

たとえば・・・

このボタンを押したら、出てくるんだよね!

 ↑ ↑ ↑ こんなような、話ね。




左手でじゃんけんすると、パーで勝つ確率が高くなるよ。

こういうと、あっと言う間に信用されてしまう。

ほんまかよ。



運動会で、赤組になった子たちに向かって、

「先生が赤組になって、負けたことないよ」

というだけで、妙に盛り上がる。(ウォーッ!じゃ、ぜったい今年も勝つじゃん!)

まじかよ。


ま、職員室の先生たちも、たいして変わらん。

「今度の遠足、雨降るよ。だってわたし、雨女だもん」  だって。

ほんまかよ・・・。

ガクアジサイ

みみずをみせびらかす子

.

これは、わたしの学級の話ではないのですが、まあ聞いてください。


ミミズに興味を持った子がいました。

このうようよしたものが、土の中にゴマンといることが、どうにも不思議!
おまけに、どこの土をほってもミミズは出てくる、顔を出す。
弱そうで、すぐに土に潜ろうとするだけの、なんだか妙な生き物。

彼は次第に、ここにもいるかしらん、ここにはどうかしら、というように、スコップ片手にあちこちほじくり始めるようになった。

もとより、「地球上のどこの土にもミミズはいるのだろうか」という巨大な疑問を確かめるために始めたわけですが、目線は完全に、「いるはず、ぜったいいるはず!」として探すから、よく見つけるのなんの。

ここにも、ほら、あそこにも、という具合。

お母さんから、連絡帳で1ページびっしりと相談が書き込まれる。

「うちの子は、まるで、みみずに取りつかれたようで・・・。困っています」



家の前の庭はもちろん、爺ちゃんのうちの畑をそこら中ほり返し、さらには学校にもマイスコップ持参という勢い。教室の前も運動場も、校庭の片隅まで、掘ってほってほりまくる。


するとね、その

熱の入れ具合、魂の打ち込みよう

に、反応する子が出るのね。

その子は、なんでSくんがそこまで打ち込めるのか、不思議でならない。

だって、みみずですよ?

打ち込む対象が、ミミズだってのが、納得いかない。

「自分は、彼のように打ち込めるものがあるのかな・・・」

と、Sくんと自分を比較して、彼のように熱中できない自分を卑下するようになる。

・・・


Sくんがうらやましくてならない。

熱に浮かされたようになって、ドッジボールもサッカーもやらず、寸暇を惜しんで、あたかも恋人に会いに行くかのように、校庭へすっ飛んで行くのが、もう

うらやましいというか、嫉妬するというか・・・。





ミミズに嫉妬する、クラスメートが出てくる。

妬(や)いちゃうわけね。



Sくんを、ミミズから、取り戻したい。





そこで、ちょっと変化球がかかります。

「Sくんって、ミミズばっか追いかけてるよ。変人だ!」

と言い始めますね。
そういったことを拡大PRして、彼が得るものはないのですが、それを懸命に言いふらす。
別に、Sくんがだれかに迷惑をかけているわけでもないのに、嫉妬心から、Sくんを奇人扱いにする。


すると、どうも雲行きが怪しくなってきた、というのでSくんも悩みますね。

Sくんは、ミミズを飼育することにした。

教室に、昆虫飼育ケースを設置し、ミミズをたくさん入れた。
皆に見てもらおう、ということです。

「ほら、こんなにオモロイから」



しかし、これが、炎上!

「ミミズ男!」
「きたない、さわるな!」
「ミミズばっかり触っているよ。ミミズマンだ」


ここでブチ切れてしまったSくんは、ミミズをつかんで、クラスメートに向かって投げつけてしまいます。

決定的にまずい事件になってしまいました!



学級担任のもとへ、苦情の嵐が寄せられます。

「ミミズを教室に持ち込み、個人的な興味で飼っている子がいるのはなぜなのですか?」
「ミミズを投げる子にどのような指導をしているのですか?」
「ミミズを投げられたことがショックで、うちの子はもう教室に入れません」
「娘がこの教室で、もう給食は食べられない、と言っています」





担任は、

Sくんの興味関心に、付き合わない。

ミミズに興味を持てるように、他の子に資料を提示していかない。

Sくんが好奇心を燃やしていることの価値を、他の子に向かって話さない。

Sくんが奇人扱いされた時点で、「奇人だ」とみる観方そのものについて、話し合いしない。



親は、ミミズを持ち込もうとした子のことを知ろうとしない。

ミミズを投げつける前に、どんなことがあったのか、尋ねようとしない。

ミミズに興味を持つ子が、教室でどんな扱いを受けていたのかについて、関心を向けない。

とんぼ

給食でいざこざが起きないということ

.
給食で、多い!少ない!というもめごとが起きません。

これはなぜなんだろうか。

読者の方は、給食と言われて、思い浮かべるイメージがそれぞれちがいましょう?
みなさんが小学生だったころ、お味噌汁って、出ましたか?
最近の給食は、一昔前とは異なっていまして、ほとんどが米のごはん食でありますから、汁物が出ることがほとんどであります。

今日は、けんちん汁でした。

ところで、汁ものというのが、いちばん、配りにくいのです。
全体に均質であり、濃度が同じ、というポタージュスープ系ならまだしも。
大きな具がごろんごろん、と入っているの、これがもっとも難しい。

具を適度にふりわけながら、35人分の器に盛り分けていく、というのが、至難のワザであることは、みなさん、想像に難くないでしょう。

深いおたまで、これまた深い缶の底をかき混ぜながら、スープと具を、ちょうどよい感じに、ちょうど均等になるように、と努力をするわけですが、1杯目は具たくさんになってしまうことがあるし、35杯目というのは、頑張ってもやっぱり、薄いスープのようになってしまうわけね。

最初は、具ばっかり見えるから、具が本当にたくさんあるんだ、と思ってしまう。
また同時に、どうすくいとっても、深いお玉にガバッと、これはもう、不可抗力という状態で、具がたくさんのってしまうのです。

これをば、少し減らしつつ、というの、とても難しいです。
だって、給食を盛り付ける時間って、たったの5分から10分程度ですよ。
当番の子たちがフル回転したって、それ以外に牛乳を配る、おかずをくばる、ごはんをくばる、よそっていくだけでも大変なことなのでして・・・。

つまり、結果として、具が大盛りたっぷり、という子と、具、すくなー、という子に分かれてしまう。



見ているとですね。

これはまずい、薄すぎる、具が少ないぞ、ということが、残りの10人くらいになるとだんだんと分かってきます。
残り5杯、という状態になると、いやあ具がほとんどないぞ、という、さしせまった状況。

すると、多そうな子のおかずを、もらいに出る部隊が自発的に生まれましてね。

「ちょっともらえる?」

とか言いながら、ちょっとずつ、みんなから具を分けてもらっている。

その間、
「とりすぎだ!」
「おれから取るなよ!」
「こんな薄い汁、飲めるか!」
みたいなことが、まったく起こらないわけ。


で、この光景を見ていた特別支援の先生が、

「礼儀ただしいですよね」

と言い、

「新間先生は、礼儀をきちんと躾けていらっしゃるから」

のようにおっしゃった。


別にわたしゃ、礼儀を教えた、躾けた、という実感はないため、

えーっ・・・

と思う。

(礼儀を躾けたっていうの、ちっとも分からんな。自分ではそう思ってないな)



こういうことって、子どもたち、「礼儀だから、分けてあげよう」と思ってやってるのかな。

そうじゃないように思う。

これはね、つまり。


仲が良いからなんだと思うね。


要するに、仲が良い、ということが、本当にさまざまな人間関係のストレスを、あっという間に解消する。

仲が良い、ということを、本当に実感したことがないと、このことは頭では絶対に分からない。

友達のことが、大好きになるってこと。

これが、クラスがまとまるための、子どもがやる気になるための、たった一つの方法ね。

カタクリの花

朝のスピーチ 「え、絶対続けたい!」

.
朝のスピーチは、5年生の時からの定番です。

日直さんが、その日の朝に言いたいことをまとめていて、
ニュースのような口調で、話し始めます。

「8時30分になりました。ニュースの時間です。
今日、校庭を歩いていると、赤い実を見つけました。・・・」
という感じ。

これが定番となり、現在まで続いています。

実は、このところ、これがマンネリ化しているように感じていました。
ニュースもとびきり楽しみにしているようでもないし、
それほど楽しい質問がでるわけでもない。

5年生になったばかりのころ、もともと自己紹介の延長のような風で、気軽に始めたものがもう1年以上続いているわけです。
そろそろ飽きてきたのかと思い、先日、ふと

「どう?もう6年生だし、朝の時間は委員会や係りの連絡だけでもたくさんあって忙しいよね。もういっそのこと、やめてもいいと思うんだけど」

というふうに提案してみました。

すると驚いたことに、子どもたちは全員即座に、

「え、ぜったい続けよう!」

と言ったのです。

子どもたちの表情をみて、そんなに反応も見えないし、と思っていたのですが、ちがったようです。
実は子どもたちは心の中では十分に友達の話を聞きたくなっていて、それなりに朝の楽しみだと考えていたことが分かりました。

ほんの日常のささいな発見や出来事を、友達の話ながら、興味深く聞いていたのが分かります。



今日は、スピーチをしたのは、クラスでもほんわかとした癒し系で、コアラのような雰囲気のKくん。
自分が昨日、歯医者に行って歯をけずってきた場面を、ちょっと不思議なぼんやり加減で語ってくれました。

「お医者さんが、うがいをしてと言ってどっかに行っちゃって、ぼくは3回うがいをして待っていたら、看護婦さんみたいな人がやってきて、またうがいをして、と言ったので、また3回うがいをしたら、お医者さんがもどってきて、うがいはもういいよ、と言いました」

てな感じ。ちょっと不思議で面白い。



「今の話、面白かったよね、〇〇くん」

と聞くと、〇〇くんが、

「うん」

と言います。


わたしはそういうとき、すかさず、

「どこが面白かった?」

と聞きます。

すると、〇〇くんは、なんだかんだ、こじつけのようですが、どこがどんなふうに面白い、と言ってくれます。

もしそこで詰まってしまったら、

「〇〇くんにもう一回、そこのところを話してもらおうね」

と言って、発表を少し繰り返してもらいます。

不思議なことに、2回目の発表は、1回目の2倍、うまくなっていて、分かりやすくなっていることが多い。
これは大人でもそうでしょうね。考えながらしゃべったことは、なかなかまとまらないときにだって、同じ内容を分かりやすくもう一度話せるというのであれば、少し上手に話せるでしょう。

どこが面白いのか、という点についてこういうやりとりを重ねるうちに、友達の発表には、興味を持つようになってきたように思います。


友達の顔を、じっくり見ていられる、というだけでも、価値があることなのかもしれません。

私はたとえスピーチする内容がなくても、だまってそこに立っているだけもいい、みんなでその子の顔をしばらく見る、という時間であっても、価値があるように思いますな。


花の形がとてもデザイン的 ↓ 
デザインのすぐれたリンドウ

だれとも攻め合わず、責め合わず、済む学校

前回からの、つづきです。


真意を聞こうとする文化、というと、一人ひとりが地道にがんばって意識するもの、という感じがあるけど、ストイックな感じは、そこには、おそらくないよなあ。

だって、そうなればなるだけ、仲が良くなっていくものだろうという気がするもの。



ちょっと待って、自分の真意は・・・
ちょっと待った、相手の真意は・・・




知ろうとしていると、相当、見えてくると思う。





こんな会話。
真意が見えますか。




「先生、ギターで校歌ひける?」

「来たばっかだから、無理に決まってるでしょ」




なんか、通わないものを感ずる。

相手の真意を聞こうとすると、こういう会話まで変わっていくと思うね。

パン、パンッ!と、なにかを跳ね返すような会話は、姿を変えていくんじゃないか。


その結果、

だれとも攻め合わず、責め合わず、済む学校になる。

それで当然、という文化が生まれる。


このことだけが前提にあれば、あとの形は、どうでもいいような気がしているんだよね。



理想を描くとき。

新しい学校をつくるとか、なにか新しいことをみんなではじめようとかするとき、そのなかまの間柄をつらぬく、

一本の柱になる文化。


つづく。


冬越しした白い花

真意を聞こうとする文化が、学校にあるか

前回からの、つづきです。


子どものは、簡単だ。

「キミは相手に優しくして欲しい、と思っているんでしょう。

反対に、

キミが

◯◯くんに対してやさしくしてあげよう、というのはどうなの?」


と聞くと、

「ぼくはやさしくしてあげようと思っているよ」

じゃあ、なんでねんどを触っていたのか、わけをたずねてみようよ。


すると、プロントサウルスの首が、とれそうになっていたから、なおしてあげようと思ったら、とれちゃった。

そしたら、うしろの席でそれを見てたUちゃんが、

「あっ、壊した!」

と言ったんだ、ということがわかる。




なーんだ、そうだったの。





やりたかったのは、プロントサウルスを、かっこよくしたかったということ、みんなで、いいねえ、かっこいいねえ、と言い合いたかった、ということ。お互いに見つめあって、ニンマリしたかった、ということ。

この思いは、みんなに共通のものだった、ということ。



真意を聞こうとする文化が、学校にあるか。

もしくは、子どもの周りの、大人たちの生活の中に、きちんと息づいているか。



つづく。

冬を越して生えてきたクローバー

小学校で必修にすべきことは?

.
1 事実と思いのちがい
2 あらゆる制度が未だ完成していないことの理解
3 人間の素の姿が大切にされるとはどういうことか
4 人と人との間柄に脅迫が要るかどうか
5 この世には、まだ名前のついていない事象や認識事項がたくさんあること



この5つを、必修とする学校。

そんな学校、どんな学校?

いまだに、この世には、あらわれたことのない、だれも見たことのない学校。




なにやら、正体のつかない、想像だけの学校。

シュタイナーは?
ニイルは?
デューイや、フロムは?

彼らは、想像しただろうか?

彼らの教育との、ちがいは何か?
あるいは共通点は、どこか?
海外には、こうした学校があるだろうか?
それとも、日本で、こうした学校の先駆例があるのだろうか?

1 事実と思いのちがい
2 あらゆる制度が未だ完成していないことの理解
3 人間の素の姿が大切にされるとはどういうことか
4 人と人との間柄に脅迫が要るかどうか
5 この世には、まだ名前のついていない事象や認識事項がたくさんあること


ここ数年、ずっと考え続けてきた、今の時点での、


しぼりきった5項目。



これらを、必修とする学校。

これから、その先を、想像していこうと思う。

冬越ししたイヌノフグリ

牛乳を残す子

.
牛乳を残している子に対して、わたしはとくに何も指導しない。

これは、

「牛乳を飲みなさい!」

と強く指導することが、保護者にとって体罰と受け止められる事例がある、という市教委からの指導による。

ま、それ以前に、子どもだって体調があろうし、好き嫌いがあっても当然だ。

なんでも食べられる子は、幸せだろう。そのことの価値は子どもたちと話し合うのがいいと思う。とくに、「自分は〇〇が嫌い」ということについて、きちんと大事にして、ゆっくりとじっくりと、それをしらべていくのが、なんといっても楽しい!のだから。



形だけ、

「のみなさい!」
「ハイ!」(ごくごく)


という状況をつくるのなんて、まったく意味のないこと。

とある現象をつくりあげることの意味は薄っぺら。
自分にとってどうか、どう考えるか、考える力を養う、ということが主眼なので・・・。



毎回、牛乳を半分残している子が、1学期、2学期の頃までずいぶん気にされ、責められていたが、この頃はもうさすがに周りから責められるようなこともなく、人はそれぞれの体調もあるよね、都合もあるよね、というやわらかめの理解になってきたことがあって、その子が日記にそのことを書いてきた。

「このごろは牛乳のことではなにも言われません」

4年生の頃、先生からも、クラスの子からも、みんなから責められてた、という。
それがトラウマだったが、このところ、なにも言われないから、よかった、と。

これは牛乳のことだけでなく、クラス全体のさまざまなことに、すべて共通して発生すること。
女子の表情がやわらかくなり、男子もこそこそすることがなくなり・・・。
友達の失敗をあげつらうこと、指摘すること、正しいかどうかに執着すること、友達の視線を気にすること。
すべて、氷解する。
あるとき、一気になくなる。
え、なんで?と、拍子抜け、するくらい、に・・・。


これは、なぜか。


つまり、「仲良くなった」ということネ。


人は、

「責められない」


ということが分かると、まわりを「責めなくなる」・・・みたい・・・。

これが人間の姿だろうと思うよ。
P1040139

クラスメートと喧嘩する口実10の法則

.
教室で派手にけんかする子がいると、これを見せる。

ベルギーの大学教授(アンヌモレリ)が書いた、
戦争プロパガンダ 10の法則
アンヌ・モレリ
草思社
2002-03

「戦争プロパガンダ10の法則」  ・・・の・・・



・・・パロディ。

題して、「クラスメートと喧嘩する口実」だ。

1 ぼくは、喧嘩をしたくない

2 しかしあいつが、一方的に喧嘩を望んだ

3 あいつは、ひどい性格の人間だ

4 ぼくは自分のためではなく、正義のために戦う

5 ぼくも、はずみでうっかり叩いちゃったかもしれない。
  でもあいつはわざと何度も力いっぱい叩いている。

6 あいつは、やり方が卑怯。

7 ところで、ぼくは強いから負けていないよ。

8 クラスのみんなも、僕がやり返したのを支持しているし。

9 ぼくの言い分は、校長先生だって正しいって言うくらいだ。

10ぼくの正義に疑問を投げかける者は裏切り者だ!


1からゆっくり、見せていく。

1は、大体の子が、「そう。ぼくもそう」と言う。
2も、半数以上の子が、「そのとおりだ」となる。
3,4,5,6と、このくらいまで、「そうだ」と言う子が多い。

7 も、こういうことを言いたくなる男子、いる。
8 は、女子のグループ同士の喧嘩で、出てくる言い訳だ。

ま、さすがに9や10は異常だが、大人の中には、こういうこと言う人もいますな。



これらを見せて、

あなたたちは、まだこれを言い続けますか?


喧嘩をしていた二人とも、「だって・・・」



次に、これをクラス全体に見せて、問いかける。
1 ぼくは、喧嘩をしたくない。

喧嘩をしている二人とも、こう思っているそうですが、どうですか?

クラスメート「じゃ、やめれば」

二人「・・・」


意気消沈して、さっきの勢いはどこへやら。


なぜ自分は喧嘩をするのか、という理由が、実はそんなに大した理由じゃないことが、静かに感ぜられるから、矛先がにぶってしまうのだろうか。

「正義!」

と頑張ってみている自分を客観視すると、なんとなく、だれもがみんな、感じることがあるんだろう。

「オレ、ただあいつが気に食わないんだ・・・」

児童会選挙に立候補する!!

.
年末に国の選挙があったばかりというのに、今度は児童会の選挙で頭を悩ませなければならない。

で、実に、「選挙」というものに、子どもは人生のうちで初めて!!出会うわけで。

「どうする?立候補する?」

と聞くだけで、テンションがMAX。

え、え、どーいうこと??おれが立候補??

子どもの目つきが、変わってくるのであります。

たしかに、興奮するイベントにちがいない。

「きよき一票を、よろしくお願いしまーす」


と叫ぶこと自体が、とてもとても、コーフンやまない、アドレナリン大解放、という出来事だ。


おそらく、日本の政治家の、どぶ板的運動、あいさつ、握手、という基本的な活動・方法は、小学校時代の、こうした児童会選挙のやり方からスタートしているのだろう。


最近、ネット選挙が始まったから、雰囲気も変わっていくかもしれない。
政策の比較サイトなどができて、自分の主義や思いを打ち込んだり、矢印を選んだりしていくと、
顔写真がバーンと表示されて、

「あなたの主張にもっとも近い候補者は、この方です!」

というふうに紹介される。

そんなサイトが近くできると思われるが、浮動票とよばれる一定の層が、そういったサイトを積極的に利用するようになると、国会や地方議会の選挙も、こうした小学校的などぶ板選挙の雰囲気から、ちょっとずつ変化していくのかもしれない。

ところが、そういう具合に、画面を見ながら、ボタンをポチポチ選んでいくと、まるでインターネットで買い物をしているのと、そう変わらない感覚に陥ることでありましょう。

「どっちのデザインがいいかしら」

と選ぶ感覚になるね。

これは、ぶっちゃけ、

「どーでもいいな、どっちでもな」

という感覚に近くなって、次第にマヒしてくるでありましょうな。

そこには対話の実感がないから、結局のところ、あまり、「我々のような立場の者たちが、投票したくなる人」を選んだ、という実感は、薄いままなのでしょう。

この感覚の薄さがある限り、必ずしも、インターネット活用で、民主化が進んだ、とは言えない。
どぶ板選挙の方がむしろ、民主化に近いかもしれないね。

「ルンペンの話も、老婆の話も、子どもの話も、みんな聴く政治家」が、生まれてくることが最も民主的な出来事なのであって、

おそらく、これだけみても、戦後、新しい日本国憲法ができたころからしたら、それほど政治的な意味合いで、民主化が進んだわけでもないのだろうなあ・・・。

小学校で、どんな<選挙>をやり、どんな<活動>をさせ、どんな<投票>を、どんな<票の集計>を、させるか。

これは、けっこう、大事なことだと思うんだけどね。

committee_a01
記事検索
メッセージ

名前
本文
月別アーカイブ
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 累計:

プロフィール

あらまそうかい

RSS
  • ライブドアブログ