30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

学級づくりあれこれ

政治と経済の失敗は何が原点なのか

自民党が窮地に追い込まれている。
リクルート事件を超える、巨大で組織的な計画性の高い脱税疑獄だそうだ。

安倍さんはどうやら幹事長時代に組織的脱税を知り、やめろ!と指示を出したらしい。しかし首相になったら黙認してしまい、それが横行してしまった。今後、おそらく閣僚や大臣経験者から、逮捕者が出るだろう。英国BBC放送でも、日本の政治の危機を報道した。

岸田内閣が、と言うよりも、今の自民党の体質ややり口が、国民から批判されている。

「政治は今良くないねぇ」
と言うだけならまだいい。
経済はもっとダメである。
ガソリン代増えた、食品の内容量が減った、値段が上がった、景気は落ちた、これが逆ならありがたいが。

どうしてこうなってしまったかと言うと、それはもう原因を一つ一つ、数えれば、何億と言う理由があります。

もし、単純に、その原因を一言で、言い表すと、欲がないと言うことに尽きると思う。

日本人は欲がなくなった。
周りの人を幸せにする欲、大欲がなくなった。
残った欲は、名誉欲やほんの小さな承認欲求、自分だけの欲である。

昔、竹中平蔵という閣僚が、経済の自由を高らかにうたったことがある。人間の欲望のままに、市場原理を信じていれば、正しい競争が行われて、日本はもっと豊かになるということであった。
ところが、完全に失敗したと、最近どの経済誌を見ていても批評されている。

竹中さんは、本当の欲と言うものを持たなかった。彼に本当の欲があれば、必ず、人間の思い違いや思い込み、間違いと言うものを計算に入れたはずだ。人間は、ふとした、見間違いをたくさんする。聞き間違いもする。一度思い込んでしまったら、間違ったことを信じてしまうこともある。10年20年と、勘違いを続けることだってある。死ぬ間際になって、ようやくその勘違いに気づくことだってある。
市場原理を信じよう、本能だけの競争原理に全て任せれば良いと言うのは、大変な思い上がりである。

そのことを小泉内閣の時代から指摘していた学者はたくさんいたが、人気が出なかった。なぜなら、人間は間違いをおかすものだと言われると、誰もが「俺に限っては間違わない」と思うからだ。

残念なことに、実際に人間は思い違いをする。思い込み、決めつけて、数々の失敗をする。そのことを計算に入れないのは、欲が小さいからだろう。本当に欲があるのなら、人間のそういった本質を必ず計算に入れるはず。

原子力発電所を建設しようと言う時、これまた多くの人が反対をした。
中曽根さんが原子力発電所の建設を躍起になって進めたが、中曽根さんは欲がなかった。本当に幸せな社会を作ろうと言う気持ちが薄かったのだろう。
中曽根さんは、
「人間というものは、戦争も起こさず、手順も間違えず、決してサボらず、どんな災害も防ぎつつ、一万年以上、人は原子力発電所を運営してゆける
と、かなり楽観的に考えた。
でも、福島原発は、一万年ももたないまま、数十年で大事故を起こした。

その昔。東海村で、有名な臨界事故が起きたとき。ウランをバケツでリレーしたので、大事件になった。それを聞いて、多くの人が、人間は間違いが多いので、サボりたくなるかもしれないし、焦って手を滑らすかもしれないし、疲れるかもしれない、もしかしたら作業の手順を間違うかもしれない、と、考えた。

そんなことはない、と信じられる人が、作業を進めたが、実際には作業中に被爆してしまい、尊い命が失われた。

人間が必ず失敗をせず、粛々と、何万年もの間、正しく、機械を整備し、装置の異常を点検しながら、金属疲労を完全に防ぎながら、決してどの国とも戦争をせず、ミサイルを打ち込まれるようなこともなく原子力を管理できる、とかんたんに思い込める人は少なかった。

欲の小さな人だけが、それを信じることができる。

なぜなら、そう思い込んだほうがストレスが少ないからだ。大きな欲を持っている人は、その大きな欲を実現するために、ものすごく大きな精神的なエネルギーを使う。もしかしたら、と考えるからだ。
人は、間違うかもしれない、とする。
そのことに耐えられない欲の小さな人だけが、まぁ、大丈夫でしょうと、事柄だけを先に進める。

よく考えることをしない、と、いうのが、欲の小さな人の特徴だと思う。

100年後、200年後の日本を今の政治家が考えているだろうか。
それを考える人は、大欲を持つ政治家だ。
しかし、その政治家を支えるのは、欲深い国民だけだ。目先の小さな欲しか持てない国民が、ポピュリズムに陥る。

さて、私は小学校教員なので、100年後、200年後の日本のために、世界のために、授業をしなければならない。

ただ、欲を持てといっても、そんな国民にはすぐには育たない。
1番大事なのは、人間は間違いをするものだ、どんなに良いと思っても、それが本当に周りのみんなにとって良いかどうかよくよく考えればならない、ということ。これだけを基準にして、学校教育が行われても良い。

したがって、子どもたちは、討論ばかり行う。クリスマス会のゲームは何にしようか。そのことだけで3時間も4時間も話し合っている。
しかし、この3時間4時間が、非常に良いトレーニングになっている。
もういいから決めちゃおうよ、と言う意見が出ると、いや、まだ〇〇ちゃんの意見が出ていない、と声がでる。

この光景を、岸田さんが見たら、どんな感想を言うだろう。派閥政治とは、無関係の思想を、子どもは最初から持っている。

岸田総理の秘書の方、ご連絡お待ちしております。IMG_3829

【卒業までカウントダウン】してもらったことを100個書く

好きだ、という文字は、誤解を生むので使えない。
とくに大人が子どもに対して「好き」なんていう言葉を使っては。

だいたい、「好き」という言葉には、いろんな意味が含まれ過ぎている。
ナターシャ・キンスキーがおしゃれなカウンターでロブ・ロウに向かって耳元でささやく「好き」と、
「ひざこぞう」を怪我してバンソーコーを貼っている小学2年生がグッピー・ラムネを食いながら「このラムネ好き~」というのと、同じ意味であるはずがない。

しかし、あえてこのクラスの全員が好きという以外になかなか他に良い言葉が見つからない。
さらにいうなら、人が人を好きだというのは、これはもうそれ以外にありようのないほどに、当たり前の感情なのでありましょう。また、この場合の「好き」は、もう古来より言い古されていることであるように、ごく人類としても当たり前のように「嫌いの対句ではない」のでしょうな。

そういうことなので、この子たちがあと20数日で卒業だと思うと、またある種の特別な感情が湧き起こってきます。たしかに、新たな、立派な道へ成長していっている、というしずかな喜びもあるのですが、もう日常会えなくなるよなあ、というちょっとした感傷がこころの中を全面的に塗りつぶしてしまうのです。

その感傷をすこし確認した後に、結局さいごにこの子たちに対して思うのは、

ああ、好きだなあ、という感じであります。

もっといい言葉、ふさわしい言葉があればいいのに、と思うけど、まあ単純に、「好き」なんでしょう。人類として、好きなんですわ。

残りの日数で、やるべきことも残してあり、いろいろと計画もしています。
また、これだけはやりたい、と2年前に計画した授業。これらを、きちんと進められてきた、というふりかえりができること。最近はそれがうれしい。

1)自分が好きなものを そうは思わないと言われた時に腹が立つかどうか。
2)きらいなものかどうか
3)羊毛セーターのふるさとを考える
4)電球が光るかどうか~ホントはどうかな~
5)今から北海道に行けますか

これまで考えたことがない、という問いの数々。
おもしろかった、という感想が次の日の日記にたくさん書かれた実践。
2年間、その気でやって、進めてこれた。
ありがたいと思う。

このクラスでしてもらったことを100個書く、というのも、無理ーと言いながらやってくれた。
このクラスでしてあげたことを100個書く、というのも。(←こっちの方が少なかった)

あと給食の回数、20数回。

コロナで無言の給食だけど、顔をみながらおいしく食べよう。

おひなさま

【笑点その2】そのための笑点システム~朝の会特別編~

司会「笑点の時間です。司会の円楽です」

司会は公募。
ふだんは注目されることのない子が意外にもトライしたりする。

あらかじめお題は前の週の金曜日の朝に配布。
班で話し合う時間も設ける。
その際、班のみんなが面白いと判断したものには、赤鉛筆でしるしをつけておく。
このときの会議はネタバレをふせぐために、小声でないしょで行う。
他の班に聞こえないように配慮する。


さて翌週の月曜日が本番である。
黒板前に4つの席を配置。
さらに一つ、端の方に司会者席を設ける。

4つの席には、1班から4班までの班からひとりずつ、有志が座る。
手には班員のメモ用紙をもっている。これは先週末にあたためておいたネタが書いてある。
班の中で受けたネタには赤鉛筆で丸がついているので、それを言うことになっている。
班ではウケたネタなので、ちょっと安心して座ることができる。
まあ、ウケなくてもぜんぜんかまわないし、ウケないことに対して同じ班のメンバーがウケてくれるからおもしろい。
今回のネタは、
『たしかにおっしゃるとおりです。ですが・・・』

お題が出されたら、上記のように発言し、その後につづけて自由にしゃべる。
いつもの「笑点」と、雰囲気は同じだ。

拍手が多い場合は、司会者の判断でざぶとん(カード)が配られる。
カードといってもただのイラスト用紙なのだが、プレゼントとして班員がもらえるためにみんな頑張る、というわけだ。

例)先生のセリフです。「廊下を走ったんだって?」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、後ろから幽霊が追いかけてきたんです!

のような感じだ。



先生のセリフです。「遅刻したそうじゃないか!」

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、今日にかぎって電車が遅れてしまって。
(徒歩通学でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。しかし、朝焼けがとても美しく、思わず日ごろの感謝を太陽に向かって拝んでました。今日のぼくがあるのは、先生のおかげです。だから遅刻はナシにしてください。

たしかにおっしゃるとおりです。けれども、朝見た雲の形がユーラシア大陸の形に見えたので、思わずあそこがイタリア、あそこはロシア、と社会の勉強をしていて遅れました。この僕の勉学に対する意欲だけは褒めてください!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、急にぼくの目の前にだけ、雪が降ってきたんです!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、朝ごはんの味噌汁が、ぼくだけめちゃくちゃ熱かったんです!弟はいいんですが、家族でぼくだけ猫舌なんで・・・

たしかにおっしゃるとおりです。だからぼく、めちゃくちゃ走ったんですよ!!ですが、遅いんですよ、足が!

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、めざましテレビの占いで、あろうことかぼくが12位だったので、1位だった妹とけんかしてました。

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、名刺を忘れたことにさっき気づいて。
(小学生でしょ!)

たしかにおっしゃるとおりです。ですが、夢の中ではしっかり登校し、すでに4時間目まで授業を受けてきたんで許してください。

たしかにおっしゃるとおりです。ナイショですが、なんと宇宙人がいたんで、ちょっとだけ話してきちゃいました。こんなチャンスはめったにないんで。

他にも、

友達のセリフです。「あれ?〇〇くん、シャツの後ろ前が反対じゃない?」

とか

近所の人です。「おたくのテレビの音量が大きすぎるんですけど」

のようなお題が考えられます。

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【笑点】言葉を増やすのが第一

言葉を豊かにしたい、と思う。
本を読ませたいが、それだけでもダメで、実際にやりとりができないといけない。
きちんとやりとりをさせたい。
なぜそう思うかと言うと、「言葉を有効に活用する能力をみると、今の子たちは力不足で、現実世界を生き抜くのに足りない」と思うからだ。

といっても、昭和の時代のわたしよりも、ちゃんとしている子がたくさんいる。
どういうことかというと、時代がそれ以上を要求している、ということ。
昭和ならそのまま「そんなものだからあきらめろ」となっていたことが、もうコンプライアンス的にあきらめるわけにいかず、解決しなければならなくなってきていることが多いと考える。

わたしは現代の方が幸福だと思う。
昔は泣き寝入りが多かったのではないかと思う。
また、世の中はそういうもの、で済ませていたことが多かったのだと思う。
たとえばいじめ、パワハラ、シングルマザーへの差別など。
しかし、時代はもう、「一人ひとりを最大に尊重する」ということができるようになってきた。だから、昭和とはちがう。正しいことはどんどんと推し進めるべきなのだ。

というわけで、今の子たちは、
要求されるレベルがこれまでよりも高い。
そのレベルに達することができるように、どの子も支援しなければならない。

その中心になるのは、「言語活動」である。
正しい語彙で、
必要な語彙で、
語彙を選択して、
論理的に、
わかりやすく、
相手に共感してもらえるように

話すこと。

これが求められているわけ。
しかし、こんなことは大人でも難しい。
大人でも、論理的に言語をうまくつかって、冷静に話し合える人の方が少ない。

そのため、学校では四六時中、言語をうまく使う、ということに注力して教育をする。

〇言いたいことが言えているか
〇必要な語彙を選択できているか
〇論理的に話すことができているか
〇(提案したいなら)提案できているか
〇(謝りたいなら)謝ることができているか
〇(励ましたいなら)励ますことができているか

どうしてそう思ったのか、という「理由の説明」はいちばんむずかしい。
大人でも、きちんと理由を説明できる人は少ない。
大人がかんちがいしやすいのは、自分では理由を説明した気になっていることだ。でも実際には、その人の「理由」は伝わっていない。これは子どもも本当に苦労する。

さて、小学生が習うべきなのは、

1)あなたは「〇〇〇」と言いたいのですね
2)そこでわたしは「△△△」と言いたいのです


という、基本的なキャッチボールです。


政治家の答弁などを聴いていると、記者の質問とはまったく無関係のひとりよがりの発言をして、問いに正対しない、という致命的なミスをしています。
これを小学生がやってしまうと、もう社会生活がおくれなくなるくらい、やばい。

相手のボールを、しっかりと受け取り、ああ、こう言いたいのだな、と把握する。
できれば、「あなたのセリフを自分はこう聞いた」、ということを確認するのがいい。
勘違い、聞き違いということも、世の中にはとても多い。リスクも高い。
相手の言い分を聞き、あなたの意見はこうなのですね、あなたはこう言いたいのですね、と。
そうすると、その時点でちがうなら、相手が訂正を出せる。
OKなら、その後、自分の意見を言えばいい。
その「きちんと相手の発言に呼応して、正対した対話をする」ということ。
これが、小学生の習うべき「言語活動」であります。

それを子どもたちが身につけるためのステップとして・・・(つづく)

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「~したい」「~してほしい」が言えるように

小学校の教師をわりと長く務めてきた経験から、今の子どもたちを見ていて思うことを書く。
それは、ちゃんとした喧嘩ができない、ということ。
陰湿で、かげであれこれ、と言う。
背中に回ってこっそりと舌を出す、という感じだ。
決して正面に立たない。

どうして正面切って堂々とできないかというと、自分に自信がないからで、それは自分で自分の行動を選択する、ということをしてこなかったからだ。
では、なぜ自分で自分の行動を選択決定しないのかというと、これも簡単で、これまで強権的に支配されてきた時間が長かった、ということだろう。

要するに、家でも学校でも、強権的な態度の大人に支配され、言うことを聞けばよい、という感じで育ったのではないかと思う。

わたしなどは、すぐに疑問符が出てくるから、
「それでいいの?なぜ疑問をもたないの?反抗しないの?」
なーんて、いろいろと思ってしまう。「支配されている」と感じ取る子もいるはずで、親にも教師にも反抗するのでは、と思うが、それをしない。もしかすると、反抗すると損だ、という「計算高さ」をもっているのかもしれない??

また、親や教師も、強権的に支配をしながら、実際には飴も差し出す。
上手に言葉を選んで、タイミングを選んで、飴(あめ)をうまく使う。
そういうことができる大人が増えてきた。

そこで、反抗せずともおとなしく(よそおって)、言うことを聞く習性になってきている。
たしかに甘い飴を十分にもらえることがわかっているのであれば、まあいいか、と自分をごまかしていさえすれば、それでやりすごすこともできるのだろう。しかし、本質的には満足していないから、顔の表情は暗い。さっぱりして明るい、という表情にはならず、どこか他をねたんだり、うらやんだり、マウントを取りたい、という自信のない表情になっている。

要するにこれは、強権的に支配されてきたからだ。
物心ついたときから、支配されてきてしまった。
だから、それ以外のふるまい方を知らないのである。

したがって、子どもどうしのトラブル、喧嘩になったとき、どうふるまうかも考えられない。
他の命令で生きてきているから、コントロールできないような状況にはまると、どうしても自分で考えるのではなく、周囲を見回すだけになってしまう。
ただめそめそ泣くか、逆上して攻撃するか、友人にしきりに悪口を訴えて広める、という具合だ。

過去、何度もこのブログには書いてきているが、
「結局、自分がどうしたいのか、どうしたかったのか、言えるかな?」
と問うと、そんなことを聞かれるなんて思ってもみななかった、という表情で驚いている子がいる。

これまでの人生で、

「どうしたいか」

を問われたことがなかったのか、とこちらも驚く。

それでも言えないことが多い。なぜなら、自分がこうしたい、というよりも、「相手にこうしてほしい」ということが先にあるから、どうしたいの?と聞かれると、言葉に詰まるのだ。

「わたしは仲直りしたい」

ということさえ、言葉にすることができない。

そこで、「じゃあ、言い換えようか。まずは、〇〇ちゃんに、どうしてほしかったのか、というのは言えるかなあ?」と問う。

すると、これは言える。
しかし、言葉がおかしい。

たとえば、
「〇〇ちゃんが先に△△をしたのはずるい」
というふうに言う。

善悪で早く裁(さば)いてくれ、というのである。
しかし、裁くのが重要なのではなく、ここはお互いが理解するのが大事なので、裁いておしまい、というわけにはいかない。理解なき裁判というのはあり得ないからである。

言い直しをしてもらう。
「ずるいかどうかの前に、どうしてほしかったのか、本当は〇〇ちゃんにしてほしかったことを言ってもらえるかな」

すると、ようやく
「△△をする前に、こっちをみて気づいてほしかったし、先にやってよいかをわたしに聞いてほしかった

ということが言える。

すると、不思議なことに、ようやく安堵した表情になる。
つまり、支配下から抜けるのである。
だれかの支配下にいた自分が、支配下にいてただ恨むことしかできなかった私が、ようやく地上に出てきた感じになる。

ようやく、自由になれたのだ。自由というのは、わたしの意思をはっきりと他に示し、伝えることができるということ。そして、相手の意思をきちんと聞ける自分を用意するということ。

強権的な親や教師のもとで育つと、素の自分を出せないまま地下にもぐる。
そして、他を「ないしょで」「かくれて」批判し、すべてを他のせいにする思考が育つ。
「だって、〇〇しろって言われたんだもん」
「だって、〇〇はダメだって言われてないもん」
これは『支配下の思考』でありましょう。

自由の意味を理解していない子が多い教室では、子どもが、お互いの権利を認め合うのではなく、お互いに権利を主張し合うようになります。
そして、折り合いを付けるため、どんどんルールが増えます。
逆に、ルールで禁止されていないことならどんなことをするのも「自由」だろうという考えが広まります。どんどん悪循環になっていきます。

至るところで諍いが起こります。民主主義が機能しなくなり、いつしか社会は、強力な権力者の出現を求めるようになります。それが自分たちの自由の息の根を止めることも知らずに。

もし仮に、

「先生、学級会なんて時間の無駄です。ぼくたちに考えさせるのでなく、はやく〇〇くんを断罪し、叱ってください!」

なんていう子がいるようなら・・・
身震いがする。
このまま成長したらどうなるか。
おそらく、「独裁者の支配する強権的な社会を待望する大人」に育つだろうと思うネ。

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排除すればいい、という風潮その2

前回の【排除すればいい、という風潮】の記事に、多少の反響があった。当然だろう、という人もいたし、へえ、何故なのだろう、という反応もあった。
ふだん、「何かに失敗すると叱責され、ペナルティを与えられている」という体験を積んだ子どもたちが、そういう発想を自然としているのではないか、という卓見もあった。これには、なるほど、そうかもしれない、と思わされた。

さて、思い返してみると、このようなことはこれまでも多くあった。
これは以前の勤務校での話。

その学校では、午後はこのような流れでした。
【給食】⇒【休み時間】⇒【清掃】

ところで、給食の後、教室の机はどうするか。
多くの学校がこうしていると思う。
つまり、全員が教室の前の部分に、自分の机を動かすのであります。
なぜなら、教室の床をそうじするから。
机を前方に全体に寄せておいて、片側がきれいにできたら、今度は教室の後方にすべて移して動かし、それから残りの半分をきれいにするのであります。

ある子が、その「机の移動」をしないで、遊びに出てしまうことが連続した。

「先生、〇〇くんはまた机を動かしていないよ」

さらにその〇〇くんは、当番もよくさぼった。
給食の当番になると、野菜缶とか汁缶とか、みんなの食器とか、給食室に運ばないといけない。しかし〇〇くんはそういう日にも、休み時間の遊びを優先して、仕事をしないで校庭に出てしまうのでありました。

当然、クラス会議では、このことが議題になります。

すると、この〇〇くんが、声高に叫ぶのですよ。

「ペナルティを与えて、こらしめたらいい!」

わたしは当時、このことがすごく不思議でした。

「ええ?〇〇くん、だって、ペナルティのルールをつくると、〇〇くんが罰を受けることだってあるんだよ?」

わたしが心配して言うと、

「おれは大丈夫!」

と平気な顔です。
逆に、なんでおれのことばかり、先生が言うのか?と、不満そうにしています。
わたしはあまりにびっくりしたので、
「だって、先週だって〇〇くんは野菜缶の当番なのに、外に出ちゃったじゃない」
というと、それも気に入らない様子で、
「なんで先生は俺のことばかり言うの?」
と口をとがらしていました。


結局、このときはペナルティ制度を採用したものの、
いの一番に〇〇くんが机も動かさずにそのまま校庭に行ってしまい、ペナルティの対象者になりました。(正確に言うと、〇〇くんが自分は悪くない、他の子のせいだ、とあくまでもペナルティの実施をこばんだために、なにもしなかったのですが)

このように、自分の姿を客観視できない子、メタ認知できない子ほど、

「ペナルティで罰を与えればいい!」

と叫ぶのです。

〇〇くんは、いつも直感的な行動に走ります。
熟慮が苦手で、自分自身を直視することができない。
だから、自分のことを棚に上げて、平気で人を責めるし、人の不正には厳しく、あくまでも懲罰を下したい、こらしめたい、自分はそのかわり、【よい人】であるはずだ、と思う(思いたい)のです。

これは、世の中は善と悪に分かれるのだ、人間もよい人間と悪い人間がいるのだ、というような、勧善懲悪だけで物事を見通したい、という手抜き思考です。
そもそも、ひとを善と悪だけに分けられるわけがないのですが、ひとを個別に考えたり、善の意味、悪の意味、生きる目的などを考え始めるとなると、それはたいへんな複雑思考なので、ひとはみんなこういう思考が苦手なのでしょう。だからわれわれ人間が

勧善懲悪で決めればいい、深く考えたくない

と思うのも無理はないのです。

しかし、それを現代の小学校の生活に持ち込むのは無理ですね。だって、この子はよいこ、この子は悪い子、と決めるのは、馬鹿げていますから。

道徳の授業で、善悪を超えるような討論が始まると、〇〇くんはとてもめんどうくさそうにします。

「Aが悪いやつで、Bがいいやつ。それでいいじゃん!はやくこんな話し合い、終わりにしようよ!」

そう叫んだ〇〇くんの困惑したような、ゆがんだ表情の悲痛な姿を今でも時々、思い出します。
問題を処理するのが人生の目的ではないですものネ。

majin


自分のミスをあっという間に許しちゃう子

子どもを叱るとき、子どもが下を向いてうなだれていると満足する教師は居ない。
日本中の教師、全員が全員とも、そうではない、と言い切りたい。

わたしは人生のかなり途中くらいから、
それも大きな仕事をやめて、ぜんぶ身に着いたものや肩書や、
持っていたいろんな多くの物を整理したころに教師になった。

だから、わりとなんでも許しちゃうところが根底にある。

これは教員としては弱点であり、きちんと叱るときに
まったくテンションが低くて、子どもから舐められている。

いっしょに叱っている他の先生が、
「あらま先生も叱ってほしい」
と思っているのではないかと思う。

わたしは叱っているつもりなんだけど、ぜんぜんテンションが違うし、
声のボリュームも迫力もなく、ただ
「うーん。どうだったんだろうねえ」
と子どもの前でつぶやいている感じだから、他の先生からみると

歯がゆくて仕方がないらしい。

ところがたいていの先生が私よりも年下で、
わたしが主任だったりするもので、
直接わたしになにか言ってくる先生はいません。

だから上記のことも、「そう思われてそうだなあ」という、ただの想像です。

なんでこんなに叱ることが苦手なんだろうかとつらつら思うに、
要するに、

わざとやってたわけじゃないもの

という気持ちが、考え方の奥の方に、かなりしっかり強くあるのだと気づいた。

わざとやっているのではないか、という可能性も、もちろんある。
だけど、それは子どもがそう言ったって分からないし、
そう言わなくたって、真実はわたしには分かりようがない。

だから、すぐに許しちゃう。

というか、もっとよく見てみると、

わたしはかなり、自分に甘い。

そこがもっとも奥深くの原因かもしれないことに、今さきほど気づいたところ。

いろいろミスがあっても、おそらく0.00001秒ですぐに自分を許してしまう。
というか、許す以前に、まったく自分を責めないところがある。
これはすべて、10代後半から20代のころに身についてしまった、脳みその癖でありましょう。

非の打ちようがないほど、完璧に近いと思われる人物にも、何人も出会ってきました。
でも、考えてみるとどうしてわたしがその人を
「完璧だ」
と思うかというと、はなはだ危ういわけで。

だって、このわたしが判断していることだもの。
わたしが「完璧だ」と思うことが、「完璧」であるはずがない。
わたしはそもそもミスが多いのだから。

その時その時で、最善を尽くす。
最善を選択する。
このことにかけては、自分には嘘をつかない。
だから、ぜんぶ自分のミスは許して当然と考えている。
わざとじゃないのだから。

年越しの寸前に、子どもの作文を読んでいて、こんなようなことを考えた。
子どもに対して、

「どうだった?自分としてはどうだったの?・・・次はどうする?」

と聞くのが教師の仕事だが、そればかりやっていると、

子どもってえらいなあ、と素直に思いますね。
だって、きちんと最善を選んでますから。

宿題さぼっている理由が、イモリに餌をやったら眠くなったから、とか、
ゲームが終わらなくて、とか、他にもっとくだらない理由のときもある。
けれど、きちんと振り返って、どうするか、どうしたいか、
頭がよくなりたいか、授業がわかりたいか、というところからきちんと話すと、
やっぱり前に進もうとする。

2学期の漢字学習が進まなかった子が、3学期はきちんと心をいれかえて(?)、
すぐに3学期の予習をはじめ、わたしに自慢しに来る。

「先生すごいでしょう。おれ、もう3学期の漢字、ノートに2ページもやったで」
「すごいやらー。おれも」
「まだ冬休み前なのにやったんだで」

たったの2ページで自慢しに来るとはいい度胸だ、と思う。

しかし、ちっとも叱らないのに、きちんと3学期に向けて、勉強を始めましたよ。

本当に、子どものミスを、責める必要ってあるんかな、と疑問に思います。
こんなことを2006年からずっと考え続けていて、まだ考えは何も変わりません。

まもなく当ブログ、2006年1月からですから、丸15年が経ちます。
今夜はチラチラと、雪が舞い始めています。

2

子どもの顔がよく分からず、先生の顔もよく分からない一年

ふりかえると、今年4月に、新しい学校に転勤になった。
コロナ禍のなかでの転勤で、最初に職員室でみたのはマスク。
校長もマスク、教頭もマスク、他の職員もみんなマスク。
もちろん、わたしもマスク。

学校がはじまって子どもたちを見たら、みんなマスク。
自己紹介のときだけ一瞬だけ外したけど。
あとはみんな、いつもマスク。

だから、素顔をほとんど見ないまま、12月になった。
もちろん、今までにこんな年はなかったから、
「お互いに、顔をろくすっぽ、見ないままで、よくここまで暮らしてこれたなあ」と感慨深い。

子どもの表情は、目でみるようになった。
ああ、うれしいんだな、よろこんでいるな、真剣だな、考えているな、迷っているのかな
マスクをした口元では分からないから、「目」で判断する。

これは、日本人でよかった。もともと、日本人はマスクは得意だもの。もとから、目もとで心を読む癖がある。相手が口元でいかに笑おうが、目で笑っていなかったら、本気じゃないことがすぐわかる。

最近、5年生が2年生のところへ行くことになった。
ペア学年ということで、縦割りの遊びをするわけだ。
ところが、ペアの子の顔がよく分からない。

「先生、顔を覚えてない」

当然だろう。マスクしたところしか見てないから、相手の印象が薄いのだ。
まだ分散登校になる前のころ、たった一度、体育館で握手をしただけだもの。
そのあとは「密を避けるように」と言われてたし、他学年のところへ行けなかった。

だから名前を呼んで、返事をしてもらって、そこへ5年生が駆けつけるふうにした。
2年生の先生が、気を利かせて名簿順に並んでいてくれたから、すぐにマッチングさせることができた。

「いやあ、顔を見たけど、覚えていなかったからあせった」

と子どもが言っていた。
校内全員、マスクだもの。2年生の子なんて、かおの7割がマスクで見えないから、おでこと目しか見えない。本当によく分からない。

クイズをしているようなものだ。わたしはだれでしょう?という感じ。
赤白帽子を目深にかぶって、マスクをしていたら、本当にだれがだれやら区別がつかない。

もうすぐクリスマス、冬休み。
ここまで暮らしてきて、わかったことがある。

学校でもやめられることがたくさんある、ということ。
プールの授業もやめられた。
校長講話もやめられた。
全校集会、やめられた。
運動会もやめられた。
遠足もやめられた。
キャンプもやめられた。
研究授業もやめられた。
夏の研修やめられた。
授業参観やめられた。

その代わりの企画を、すべて、一からつくるから、何倍も疲れた年だったけど。
頭はけっこう、やわらかくなってきたかな。

今やっていることも、今あるモノも、
消えていくもの、なくなっていくもの、多い。

まあ、もともとはなかったものだからネ。
そこから発想していかないと。

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クラスから児童会長候補を選ぶ方法について

米国で大統領選が行われたが、こちらもあと2ヶ月で、選挙だ。
5年生は4クラスあるから、各クラスから立候補者が1人ずつ出る。
まずは、その立候補者をクラスの中で擁立しなくてはならない。

たった一回の人気投票では、なんだかな、と思う。
つまり、じっくりとみんなで考えあって、クラスの温度が高まって、納得してみんなで笑顔で進める感じにはならないような気がする。
そこで、リーダーをいろんな子に経験してもらいながら、みんなでリーダー像、というのを考えることにした。

一週間に一度、リーダーを経験してもらう。
リーダーは席替え、掃除の班決め、朝の10分活動の内容企画推進、その他の権限が与えられる。

席替えを決められる、と聞いて、ウォーーーー、という地鳴りのような声が聞こえた。
相当、期待しているようだ。

「先生!その席替えの方法は、どうやって決めるんですか?」
「リーダーが決めます」

ざわざわ

「席替えは、リーダーがみんなに聞きながら決めるのですか?」
「みんなに聞くかどうか、自分で全部決めてもいいし、それもふくめて決めるのがリーダー」

ざわざわ

「え、先生、確認ですけど、リーダーが勝手に決めてもいいんですか」
「いいです。リーダーが責任もちます」

ざわざわ

これはかつてないことになった。
これまで先生が決めてきた席替え。
くじ引きで決めたこともあるけど、自由にはならなかった。
それが、このリーダーになることで、どうやら『勝手に決められるらしい』。

クラスでいちばんのお調子者、兼、やんちゃくん、兼、ドッジボールの審判を買って出るタイプの男子が、目の隅をキランと光らせながら、ドスのきいた声で確認してくる。

「先生、男子同士でとなりになっても、いいんですか」
「リーダーが責任もって決めるのであれば」

ざわざわ

信託システムを使うことにした。
自薦、他薦、白紙。
どれでもOKだ。
票を勝ち得た人で決まるのではなく、票を受けた人、票の入った人が、さらにだれを推薦するかで決まる仕組みだ。

たとえば、AくんがBくんをリーダーとして信託したとする。
BくんがCくんを選んだ。この時点で、Cくんには、Bくんの票とAくんの票の2票が入る。

さらに、CくんがDくんを選んだ場合は、Dくんに3票入ることになる。
つまり、AくんとBくんが信託したCくんが、自分を含めた3票をDくんに信託したことになる。

このとき、Dくんが自薦したとしよう。
Dくんは、自分こそリーダーにふさわしいと考えて、自分に票を入れたとする。
すると、このDくんには、すでに3票があるため、そこに自分の1票を加えて、4票が入る。
つまり、先の3票にくわえて、4票が入るのだ。合計7票。

この信託システムによって、もっとも得票数の高い人物がリーダーとなる。


信託システムの最初は、子どもたちからアンケートをとることだ。
下記の3つを書くカードを配布して、回収する。

①自分の名前
②自分が信託する人の名前
③理由


これを教師が集計するのだが、とても面倒だ。
ぜんぶ手計算するのがめんどうなので、途中までエクセルを作ってみた。

(信託システムを少しだけ楽に入力するエクセルシート)←右クリックでリンク先を保存

本当にかんたんな関数しか使っていないために、ざんねんなことに途中までしか使えない。
最後の結果までは、このエクセルでは出ない。
しかし、それでも最初の1からスタートするよりも楽だ。

【使い方】
1)児童名を黄色いマスに入力します。
2)番号は、出席番号です。
3)一番左側のピンク色のマスには、その児童が信託した子の出席番号を入力します。


信託システム1


「キレる」が正当化されない、ということ

学校で、わたしが堅持しているのは、
「キレる」を正当化しない、ということ。
これを認めてしまったら、まあちょっとひどいことになるだろうと思う。

ドラえもんを見ていて、昭和には実際によくあったのかもしれないが、ぜったいに許されないのはジャイアンが周囲の人物をお気軽に殴るシーン。
ジャイアンは、自分の機嫌をそこねる相手にたいして、実にお気軽に手を出してしまう。
これを「いい」としてしまうなら、人間が人間ではなくなっていく。
人間は知的に活動できるからこそ、その価値が出てくるのであって、相手を殴るのを正当化していては、人間としてはまったくもう、負けである。
戦争は、手を出したら負け、である。
何も残らず、何も得られない。
終わった後に残るのは、深い悔恨の念と自責の念、そして傷ついた同胞と焼け野原である。
「キレる」は、人として異常なこと、としていかねばならない。

これを子どもに徹底させるのは、最初は容易なことではない。
なぜなら家で親にそう教育されている場合もあるからだ。
「やられる前にやれ」と教えている家庭もある。
そこに一教師や担任が、「手を出したら負け」と教えるのだから、子どもは混乱する。

しかし、学校で生活していると、その意味がだんだんに分かってくる。
子どもたちが納得していく。
手を出した子は、どうしてもレッテルを貼られるのである。
「手を出す子」として。

相手が傷ついて苦しんでいるのに、それを見てニヤッと笑っているのである。
それを見て、平気でいるのである。
同じクラスで生活している子にとっては、そういったクラスメートは、『気持ち悪い』としか思えないのだ。だから、だんだんに、しずかに、しずかに、孤独にさせられていく。子どもは実に、そのあたりの運び方が自然である。

わたしは教師になって15年。この間に、「友達に手を出す子」ほど孤独な存在はいないと思うようになった。例外なく、孤独である。そして、その子の小学校生活は、例外なく、暗い。
本当の仲間は、だれひとり、いないのである。

そのことを子どもに伝えると、それはそうだろう、と納得する。
だから、家で親になんと習っていようが、実感が勝つ。
つまり、「手を出したら負けだな」と思うのである。

そして、その前に、手を出す前に、「キレる」を正当化しない、というのが出てくる。
キレるのは、戦略としては悪手であり、キレる必要もない。
そう思えるように、学級を育てていかねばならない。
そのためのたった一つの方法が、

「車座での話し合い」

である。
車座は、だれも中心がいない。
そのことがビジュアルで子どもたちに実感される。
全員が同格になっての、意見の出し合いなのである。
それも、しつこく、何度も何度も、毎朝のように車座、である。
そして、どうしたら解決できるか、と何度も話し合う。

これをやっている限り、「キレる」必要はない。
その場で、「困っているから相談に乗ってほしい」と一言いえば、キレる必要がなくなるのである。

そこまでを全部、ひとつのセットにして、指導のワンセット、とするのである。

手を出したら、負け、である。
これを何度も何度も、学級のさまざまなシーンで、わたしは言っている。

手を出すな。手を出したら、負けだ。
手を出したら負け

小学生は自治体験を積むが大人になったら忘れる件


前回の記事について、BLOGのメッセージ機能を使って、コメントをいただいた。
コメントをいくつか読む中で、あらためて次の疑問がわいてきた。

大人になったら、どうして「話し合い」ができなくなるのか。

子ども時代に「話し合い」を体験し、クラスの運営について経験を積んだはずだ。
自治についての困難さもわかり、責任や言論の重さもわかったはず。
そして、なによりも、「だれかに服従するのではない自由さ」の良さ、そして「仲間とともにつくりあげていく社会のだいご味」を知った。

「自分たちが仲間であり、仲間は知恵をだしあうことができる」ということ。
そして、「仲間の知恵が危機を救い、その知恵と相手を思うやさしさが、自分をこんなにも元気にしてくれる」ことを知った。

パワハラ体質の先生の言うことに服従するのではなく、自分たちお互いを一人残らず良くするための知恵を出して、自分たちが解決していく心地よさは、なににも代えがたいことを知ったはず。

ところが、大人になるとどうしてそれができなくなるのか。

土曜日の朝から、遠くの山をみて、いろいろと思いつつ、気づいたことがある。

「大人は自治をさぼっているからだナ」

小学生は、毎日、自治を現実にすすめている。
なによりも、クラスという35~45人の組織があり、構成員はすべてが仲間意識でつながっている。一人残らず発言が許され、その発言はお互いに尊重しあって、みんなが聴きあう。

また、クラスだけのことであれば、すぐに、アイデアが生かされる。

給食の配膳に関して、疑問点が出されたらすぐにそれを解決しようとする。
解決するためのアイデアが出されたら、それをすぐに実行しようとする。
また、実行したら、次の日に「やってみてどうか」をすぐに意見交換しあう。

このくりかえしをしているから、どんどんと生活が、具体的に変わっていく。
この、ダイナミックな生活の実体験があるから、手ごたえがあるから、子どもはみんな、やる気に満ちている。だって、自分の意見がすぐに通るんだもの。あるいは、みんなが聞いてくれるんだもの。そしてどんなアイデアも、「言わないよりは、言ってくれた方がいい。どんな意見も、あとでみんな財産になる」という考えのもと、全員に笑顔で迎えられるのだから。

この自治の実態があり、それをまさに実現しているという具体的な

腹の底からの実感

があるから、子どもはみんな、自治を全身全霊ですすめている。

ところが、大人にはそれがない。
だから、大人になると、

「話し合いはダサい」

と考える人が徐々に増えてくるのではないだろうか。
そして、具体的に目の前の事実や生活のこまごましたことを話し合うよりは、なにか大きなイメージやふわふわした幻影を夢想するようになるのではないだろうか。

これを打破するには、小さな町や村などの単位での、自治意識の高揚が必要だ。
しかし一般の行政区割の上での、村や町は、すでに緻密なシステムでがんじがらめ。
だからそれ以外の、コミュニティ意識が芽生えてくるような、ゆるやかな地元意識を大切にしたつながりをつくるべきだ。
今の公民館では、なかなか難しい。今の公民館はすでに既存の仕事でいっぱいだから・・・。

今の公民館とは別の、ニュータイプの

ジェネラル・パブリックのための広場、学び舎。

これをあちらこちらに乱立させよう。

そうすれば、夢見がちな「ニッポンすごい。オレは日本人だからオレもすごい人間なのだろう」という雰囲気は解消し、足元にしっかりと根付いた、等身大の自分や、実際の自分自身の生活に向かい合い、話し合うことのできる人が増えてくるのではないだろうか。

「自治ができないのはダサい」

という雰囲気が、小学生の生活には、かなりむんむんと、ありますよ。

祇園絵

学級目標をどう考えるか

学級目標をつくる時期になった。
毎年より、コロナの関係で1か月ほど遅いかな。

さて、この学級目標をみんなで考える前に、実はもうやることがあります。
そして、学級目標をつくるころまでには、すでに子どもたちの中にめざすものがあるようにしておきましょう。

めざす姿があると、なんだかイキイキしますね。
そして、そのめざす姿を、おそらく自分は実現していけるだろう、という自信。
その自信は、めざす姿が、聖人でなければとうていなしえないものではない、というところからきます。

やっちゃいけないのは、聖人君主でなければ絶対に到達しえないような「悟りの境地」をめざしてしまうことです。
これを目指すと、ほぼ、学級目標の意味がなくなってしまいます。

学級目標は、学校によっては黒板の一番見える場所に貼るように、と指示されることもあります。
また、学校によっては逆に、一番前の見える場所には貼ってはならないと真逆の指示をされることもありますね。

長い教員人生、波乱万丈あるのですが、できるだけスムーズにこの荒波をのりきっていくためには、その学校の「暗黙の了解」をただちに知って、その通りに実行することです。
とくにわたしのように、転任、赴任してきて1年目、という教員は、職員室でできるだけ目立たないことが生きていく重大なコツとなります。
前の学校と比較しない、というのが大原則です。
あれ?と思っても、まずは黙ってみんなの様子をみる、というのが1年目のオススメ。
学校というのは1万を超えるピースでできた巨大なジグソーパズルのようなもの。1つのピースをみて、あれこんなところに、なんでだろう?と疑問が湧いても、なぜそこにその妙なピースが置かれているのか、実は背景にさまざまに入り組んだ無意識の配慮と合理的な配慮があるからです。1年をこえたころ、ああ、あれでいいのだな、みんな相当悩んだだろうなあ、というのが分かってきます。それまで、新入りは黙ってみているべきなのです。

今回、わたしの赴任した学校は、黒板の前には「できるだけ学級目標なども貼らない」という指示でしたので、安心しました。

さて、聖人君主でなければとうていなしえない学級目標とは、次のようなものです。

「笑顔で〇〇」
「元気に〇〇」
「仲良く〇〇」

これらは、タブーとされています。
教員を10年以上勤めると、これを避ける知恵が出てくる。
なぜか。だって、1年間ずっと笑顔を目標にするって、できますか。できません。
ずっと元気に・・・無理です。ずっと仲良く・・・無理。

だから、これを目標にすると、いつの間にか学級目標というのは、ただそこに貼られているだけ、というものになります。そのうち、だれも意識しないことになります。壁のシミのようなもので・・・。

さて、笑顔で〇〇 というのは、はたして目標になるのでしょうか。
いいえ。

実は、笑顔になるのは、ある目標をめざしていろいろと取り組んだ結果にもたらされるものですワね。どうでしょう・・・?いかがですか。みなさんもそう思われますでしょう?
笑顔はめざすものではなく、めざしたあとに、まるで熟した果実が地面に落ちてくるようにして、ふっと手に入るもの。

また、仲良い人間関係というのも、あるものをめざして日々を積み重ねていくと、いつの間にか、あの人は信頼できるな、またあの人は自分を頼ってくれるな、というのが分かってくる、実感できてくる、というものでしょう。めざすものではないわけです。

ではなにがめざす姿なのでしょう。
何が、目標なのでしょう。

それは、
〇だれでもやれることで
〇どうやればよいかが具体的にとても簡単で
〇そんなことなら、ぜひやりたいと思うことで
〇やることによって自分が助かる、自分が良くなると実感できるもの
〇そのことによって自分もそうだが、みんなもよくなるだろうとわかるもの

うちの学級目標は、かんたんです。
たくさん意見を出すクラス

これがすぐに決まった。満場一致です。
なぜなら、この1か月間、ずっと、

「意見がたくさん出てくると、みんな賢くなれるし、お互いにすごいなと思い合えるし、友達の意見がいいなと思えるし、いい意見はいいねと言ってもらえて嬉しいし、たとえ間違ってもその間違いがあったからうんとよく分かったと言ってもらえるし、意見を言いながら頭が整理できるし、よく聞くからその子のことが良くわかるし、いいことばかりだよねえ」

ということを、これでもか、これでもか、と話し合って話題にするからです。
だから、学級目標を決めるころになって、まったく焦る必要がありません。

「今から学級目標を決めよう」
「みんなで知恵を出し合うクラスがいい」
「いいね」

3分で決定です。
その知恵を出し合う、という言葉に、いったいどのような意味が込められているのか、もうそこにいる38名が全員、わかってきている、というのが前提です。

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立派に見えると泣けてくる

「大の男が泣くものか」

大人の男は泣かないのが当然。
男はだまって、サッポロビール。
・・・昭和生まれなので、そういう雰囲気は知っている。
わたしの父も、まあわたしの目の前では一切泣かなかった。
泣いたところはチラリとも見せないままだった。

わたしもふだんは、そうだ。
じっと目を伏せるくらいで、涙はこぼさない。
今日も、そのはずだった。


ところが泣ける。
涙腺がゆるんできているのか?
涙腺を、ぐっと抑える、というのが、できない。
年齢(とし)をとったのだ。
くやしいけれど、堪(こら)えるのができなくなってきた。
ドッとこみ上げてくると、そのままこみ上げてしまう。
ふたが閉まらないのですね。抑えが、効かない。
あーっと思ったときには、もうすでに声が出るくらい泣いてしまう。


まず、教室に入ってみたら、見事にみんな制服姿。
制服というの、なんでこんなに立派に見えるんだろう。
6年間ずっと半ズボンだった子が、学生服を立派に着こなしている。
「おおお、長ズボン履いてる!履いてるんだね!」
「うん。でも先生、これ、暑いんだけど」
ぴらぴら、と上着をゆすって見せた。
卒業式の15分前なのに、学ランの上着を脱いでしまい、腕まくりもしている。
ちょっと待って。脱ぐのが早すぎだ。せめて終わってからにしてくれ。

先生が来た、というので、みんな席についてこっちを見た。
全員が、ワッとわたしに目線を向けると、これは迫力がある。
おまけに、みんな、小学生っぽくない。もう確実に中学生の雰囲気。
「うわー、大人だ・・」

わたしの涙腺はもう60%くらい、開いてしまっている。

前のクラスに続いて階下に降りた。
今回はコロナウイルスの騒ぎで、ひとクラスずつ。
体育館の手前で待ち、前のクラスが終わって退場するときに、別の入り口から入った。
すると、ここでやばいことに、前のクラスの退場に合わせて音楽が流れ、それが耳に聞こえてきてしまった。10月、6年生が全員で歌った、あの合唱曲だ。
「♬ 生きていることの意味 問いかけるそのたびに胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさこの星の片隅で めぐり会えた奇跡はどんな宝石よりも たいせつな宝物・・・」

あかん。
これで、涙腺が90%、と思ったらもうあっけなく泣けてきた。
残り10%を歯をくいしばって泣くものか、とこらえようとしたが、年齢に負けた。
「♪ ねーんー、れいにー、負けたー ・・・いいえ、なみだに、負けたー・・・」
必死になって、頭の中で『昭和枯れすすき(さくらと一郎)』をリフレインしようとしたがダメだ。
「♬ 泣きたい日もある 絶望に嘆く日もそんな時そばにいて 寄り添うあなたの影二人で歌えば 懐かしくよみがえる・・・」

あの、透き通るような歌声までもが、思い出されてくる。
これはもう・・・

保護者席に向かって一礼するが、

「ああ、泣いているのがばれるな」

と思う。
しかし、もうそのへんも、この年齢になってくると、まあいいや、と思ってしまう。

そのまま涙をこらえながら入場し、一人ずつ名前を呼んだ。
苗字と名前の間が、無意識のうちに、少し空いてしまう。
一気に呼んでしまうと、もったいない、という気がして・・・。

ゆっくり、ゆっくり、一人ずつを呼ぶ。

子どもは、「ハイ」と言って、校長から証書を受け取ってゆく。

練習が一切無かったのに、上手だ。
子どもたちはたぶん、これまでに在校生として何度か見てきた先輩たちの姿を、なんとなしに思い浮かべて受け取っているのだろう。きちんと両手で受け取って、しっかり返事もして、お辞儀もして、堂々と歩いている。ドキドキしているのは担任だけ。子どもたちは、ちゃんとわけがわかっている。一番大事なのは、堂々と受け取り、堂々と歩き、堂々と卒業することだ。それを、みんなやっている。

証書の授与が終わると、すぐに教室に戻って、すぐに解散・・・。
コロナ情勢を鑑みて、ということだが、あっけない。

その代わり、子どもと一緒に外に出てみると、いつもの卒業式後の風景になった。
カーネーションを一輪ずつ、子どもたちが手にしていて、

「先生、ハイ」
「先生、これあげる」

一人ひとりが近づいてくるだけで、もうこれでまた泣ける。
いろんなことを話しかけたくなる。が、もう時間がない。
ああ、もう話せないんだ、と思うとまた泣ける。

たちまち花束ができあがり、全員分を手にしたところで写真を撮った。
ありがとう、ありがとう、とばかり言って写真を撮り、お別れをする。
校庭に「最後のチャイム」が流れ、またとめどなく涙が出る。

「先生、ずっと泣いてるなー」
と、やんちゃ坊主が少し怒ったように言うと、また別のやんちゃくんが
「まあまあ、しょうがない。先生は今日は、しょうがない」
と、とりなそうとする。
そのセリフを聞くと、また泣けてくる。
「今のFくんので、また泣けた」とわたしが言うと、周りの保護者がどっと笑った。

泣きながら笑いながら、だんだんに潮が引くように、さざなみが消えるように、人が去っていく。

泣くのは似合わない、と自分では思う。
どちらかというとにやにやしながら、くだらない冗談を言っていたい。

ところが6年生をもつと、ちょっと年に一度くらい、そういうことが起こる。
みんなが立派に見えると、泣けてくる。

飛び出せ青春

忽然と子どもの姿だけが

金曜日は本当に不思議な一日でした。

「今日でお別れ、ということになりました」

から始まり、

〇すぐに製作途中の卒業製作の図工作品を仕上げる
〇自分のロッカーを整理
〇荷物をまとめる
〇遊ぶ(以前から計画していた遊びをまだやってない)
〇クラス写真を撮る
〇大量のプリントと課題を配布→説明する
〇やってないテストがある⇒(結局やれず)
〇教室中の掲示をはがす
〇靴箱の各自のネームテープをはがす
〇棚の国語辞典を配布
〇図書館の本を返却
〇児童会で使った備品を片付け
〇その中で給食を食べる
〇サイン会をしあう

なんだかまだ終わることが身近に感じられず、ぼーっとしている子もいた。
給食の献立予定表を掲示板からはがしながら見ていた子が、

「あ、最終日は卒業生のお祝い献立だー。ケーキがでるよ」

と言って喜んでいたが、隣の子が

「え、それ食べられないよ。だって今日で終わりだもん」
「あ、そうか!」

という会話をしていた。

当然、これだけのことを一日でやれるわけもなく、
教室中に荷物が残っているし、掲示も中途半端、まだ来週も子どもたちは来る雰囲気を残してる。

職員も子どもたちも、まだ本当にこれでお別れなんだ、ということをよくのみこめないまま、突然の・・・

最後に、引き出しやらなにやら、大量の荷物を背負った子どもたちが来て、

「先生、サインして」

という。

ランドセルの背中側の白いところに油性ペンで書け、という。
一人ひとりに書いていたら、自分でも不思議な感じで、ちがうメッセージが湧いてくる。
この子にはこれを書こう、この子にはこれ、と次から次へと文章が湧いてくる。
わたしがにこちゃんマークを日記に書くのが常だったので、

「先生、日記に書いてたにこちゃんマークを書いて」
「あ、うちも」

何度もハイタッチをして、がんばれよ、とそのたびに声をかける。
これでおしまい、というが、また来る。
また、ハイタッチ。
順番にやって、終わりがない。だって今日がお別れだと思わないんだもの。
本当にこれで最後なのかなあ、とお互いに不思議な気持ちになりながら、それを確認するかのようにハイタッチを何度もする。

今はただ、数週間後の卒業式が無事に行われることだけを願う。

教室へもどってきてみたら、誰もいなくて、がらーんとしている。
黒板には、子どもが書いた落書き。

荷物は、机の上にたくさんのっている。
子どもだけが、忽然と、いなくなった。

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学校に行ってもよいし、行かなくてもよいとは本当か

前回の記事のつづき。

人間にとって、学校というのは何か。
「学校」のあり様は、歴史的にも、ものすごく工夫構築されてきた。
ち密に考えられているし、なにより国が本腰を入れてつくってきた。
国民の人生を、幼少時~少年少女時代~青年期、大人まで、微細に詳細に、考え尽くしたもの。
人材育成、国家繁栄、という目的を果たす巨大な装置、であります。
今でも一部の人が唱えている、税金を使っているのだからみんな行け、という論法は、
その前提が「人間は国のための生き物」という考えなのでしょう。

ところが、本来的には「国」のあり様を0ゼロから考えていけばいい話しなので、
「国は人間のための道具・装置」と考えれば、その税金を使っていかような学校を用意すればよいか、ということになる。

そこを考えようと思うと、多くの人間は、「待てよ」と思って震えることなりますね。
なぜなら、

「人間のための」学校・・・をつくった経験

が、無いからです。

歴史的にはそこが逆転で、「国のための人間をつくる学校」を長年かけ、執念と根性でつくってきたが、「人間のための学校をつくる国」をつくってきた経験はまったくない。
だから、「人間のため」ということになると、はた、と思考停止するわけです。

そんなことはない、という人もいる。
「自分たちは、人間のための学校をつくるために、試行錯誤してきた」
たしかに、私学の一部や、公立であっても「みんなの学校」のように、人間のため、ということを考えて実際の教育を直接的に責任をおいつくってきたところもある。

ところが、どこかぼやけている。
自信が持てない。

やはり、稼げる人にならないと、大人になって就職できない。

という前提を、考え直すまでにはなかなか至らないから、でありましょう。

ゴールは、大人になって稼ぐ、税金を払う、ということ。

そうなるための学校。

じわじわとそこから考えていくと、やはり就職に有利なような教育、経済界の求める人材像、会社に気に入られるように、というゴールになっていくのでは。

ゴールはどこか。
人間としてのゴールはどこか。
そもそも、ゴールをめざす、とはどういうことか。
人間と言うのは、ゴールをめざす生き物、ということでいいのか。

目的、かな。
そこは「分かっているもの」として、みんな話を始めるのが普通。

もしもそこを、丁寧に考えていくとしたら・・・

時間がかかってしょうがないから、
ゴールとか目的とかは、『はしょって』いきましょう!


ということか。

水ごけ

スキーウェアを持ってきた子の話し

.
ある女の子が、スキーウェアをもって学校へやってきた。
久しぶりに雪が積もったからです。
そして、ふだん仲の良い学友たちがスキーウェアを持ってきていないのを知り、
「えー、今日はみんなウェアを持ってくるかと思ったのに」
と言って残念がっている。

すると、ふだんはそれほど一緒にいることはないけど、同じクラスの女子1人が、声をかけてくれたのです。
「うちは大丈夫だから一緒に外に出よう」
防水性のジャンパーを着た子だったので、彼女もその気だったのかもしれません。
その2人は、まあ特別に仲が良い、というわけでもない間柄でしたが、ともかく2人で外に行こう、ということになったらしい。

わたしは最初の子が、いつも横に居る仲良しの子に向かって何度も、
「〇〇ちゃん、外に行こうよ~」
と言ってたこともあって、
内心、残念がっているのではないか、と思いながら、
表情をじっと見ておりました。

すると、ですね。
あまりふだん遊んだことのない相手と一緒になって、
なんだか、お互いに、いつもの調子が出ないのでしょう、
彼女の表情からは、まだ残念そうな雰囲気が、抜けきらないのです。

まあ、それでも誘ってくれた子と2人で、廊下から外に出て行きましたわ。
静かに、何かしゃべりながら。



さて、遊び時間が終わる頃、校庭の隅の方から、
2人が校舎の方へ、歩いて帰ってくるのを見つけました。
わたしは、
「どうかなー、楽しんだかなあ」
と思いながら、様子を見ていますと、
こっちへ歩いてきながら、二人とも大きな口を開いて、笑っています。

それはそれは、本当に幸福そうに見えました。

笑っているから、幸福、というわけではないけれど、
「うちら、一緒に遊べるやん」
という発見が、愉快なんだろうか。

うちの友達は、AさんとBさんとCさんで・・・、という思い。
ところが、Dさんもいた。
なんや、これまでの、「うちの友達は・・・」、というの、ただのキメツケじゃん。

ふだん、一緒にはなかなか行動しない2人が、ひょんなことから共にお散歩してみたら、意外なことに楽しくて、なんだかいい時間を過ごせた、ということ。

キメツケは外れた方が楽しいね。

yukigassen

言葉を使う弊害

言葉があるのだから、通じて当たり前、なのかどうか。
人と話をするんだけど、なんかわかってもらえてないな、伝わっていないな、おそらくずれてるだろうな、というコミュニケーションもありますね。

よくありますのは、子どもが
「先生!〇〇くんが急に椅子を動かして、指に当たりました!」
とか、訴えてくるとか・・・。

彼女の希望は何なのか。
あるいは要望、というより、なにか別のことがいいたいのか。
もしかしたら、なにも言いたくはないのか。

怒っているのか、残念なのか、何なのか。
それともその事象を万事受け入れた上で、報告だけをしたいのか。
びっくりしたから、そのことを分かってほしいだけか。

このあたりの微細な感じは、なかなか言葉にでもできない、のが普通じゃないかと思うね。

前述の、「指に当たりました!」のとき、私も含め、多くの先生たちは、何かしなければ、と思う。しなくてはならないのは、その子の思いにできるだけ沿うこと。ところが、先生だけがどこか関係のない方向へ突き進んでいく場合が・・・。

教師「なに?〇〇が椅子をぶつけただと?・・・〇〇くん!こっちに来なさい!!」

Aさん(え?そんなこと言ってないのに・・・)

だれも望んでいないのに、先生が暴走することだってある。
言葉を聴いたから、気持ちがわかった、と勘違いしやすいのかも。

教師は、こういう場合はこう対応するのが良い!

って、指導法というスキルをいくら身につけたとしても、人間の心ってものを知らないから、ずれまくって結局、子ども社会をややこしくしているのかもしれない。

つくえ

あいさつ

.
あいさつを強要すると、どうなるか。

これ、あいさつをしない子が育つのですわ。
教員になってしばらくは、どうしてそうなるのか、分かりませんでした。

学習すればするほど、きちんと身につく、と思っていたから、

まだ指導が足りんのか!まだ、足りんのか!

と思うしかなかった。

ところが、よく自分に照らして考えてみると、ボーッと、見えてくることがある。


あいさつを強要される。
あいさつをしないと、ペナルティがある。


こういう状況になると、人間は2つのどちらかの行動をとりますね。

つまり、あいさつをする、あるいは、しない。
このどちらか、です。(当たり前だけど)


ところが、このどちらも、地獄なのです。

あいさつをする場合⇒⇒ペナルティを避けられた、という安堵と次への不安⇒心の中で、ペナルティがどんどんと重要なことになる⇒前よりももっとペナルティを避けたくなる⇒あいさつに対する恐怖が増す

あいさつをしない場合⇒ペナルティを受ける⇒いやだなと感じる⇒自分もしくは誰かを責める⇒責めることを正当化する⇒いつも自分や相手を責める⇒あいさつがきらいになる


あいさつを強要することほど、滑稽な指導はない、というのは、誰しも分かっていること。

だから、どの学校でも、あいさつを強要などしません。
それは、指導、ではないからですナ。


しかし、あいさつを、静かに強要する、というのは、あります。

あいさつをしない子を立たせてから、「あいさつは気持ちいいはずだよね」とか。
あいさつした子だけに、あからさまに機嫌よくふるまう、とか。
あいさつしないと、「ほら、あいさつは?」と要求するとか。


これも、似たり寄ったり。
まあ、強要に近いと思う。



そこで、先生たちは苦心するのですが。

これは、もう、やり方は一つしかない。

とにもかくにも、「やってみたい」とおもうように、子どもの内面がそうなるしかない。

子どもにさせるのではなく、そうなる、ということ。
子どもが、そうなる。

先生たちは、子どもがあいさつしたら、

「ああ、気持ちいい。ありがとう」

となるしか、ないのでは。それも、本心から。


教師の本心がそうなっているか、どうか。


これは厳しい。


ついでに、

「あいさつをしない奴のことが、気にくわない」

なーんて思ってたら、ダメですぜ。

「ああ、気持ちいい。ありがとう」なんて、絶対に出てこなくなるから。

あまつさえ、それより先に、

「よし、俺より先に、向うからあいさつしたな。合格」なんて、

評価しちゃったりして・・・。



肝心な、根底にあるのは、

「あいさつしてもしなくても」

ということじゃないだろうか。

これも、うわっつらでない、本心がそうなってること。



あくまでも、本心のこと。
繰り返すけど、本心よ。
どう考えても揺るぎのない、明快な本心が、そうなっているかどうか。それで。

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運動会前、子どもへの語り

いよいよ、運動会がはじまります。多くの人が来られます。小学校全体の大きなお祭りです。
みんなの成長した姿を地域の方ご家族の方、いろいろな方が見に来られる。

そのときに、一番大事なことがある。
それは、かけっこで一番になるだとか、綱引きで勝つとか、そういうことではない。
それは、大事な順番でいったら、3番目か4番目のことだ。
もっと大事なことがある。
ひとつめ。

負けたり、失敗したりしたときに、○○くんのせいだ!とか、○○さんがこうしたから負けたんだ!とか、こういうことを言う人がいる。

先生が、こういう言葉を聞いたときに、どんな気持ちになるか、分かりますか。

こういうことを言うチームは、ぜったいに強くならない。
負けるチームが、こういうことばっかり、言う。
なかの悪くなる、気分のがっかりするような、心が暗くなるようなことを言う人がいると、チームぜんぶが、きっとそうなる。そのチームのまわりの空気が、必ず、そうなっていく。くらーく、なっていく。
そうなると、チームの一人ひとり、本当の元気、本当の力がでてくるようになると思いますか。
ぜったいに出ない。だから負ける。とうぜんです。わかりきっている。これまでもずっと、そんなチームをよく見てきました。

○○くんがこうしたから、負けた!
遅くなったのは、○○くんのせいだ!

ぜったいに、負けます。
運動会、ちっとも楽しくない。
くらーくなる。
残念な気持ちだけがのこる。
言う人も、言われた人も、みんな暗くなる。
チームの全員が、楽しくない顔になる。
その顔のままで、運動会が終わる。
家に帰る時も、くらーい。
家に帰ってからも、くらーい。
家に帰って、おうちの人と運動会の話をするときも、くらーい。

へんなことを言う人が一人でもいれば、それを言う人も、聞いている人も、みんなこうなる。ざんねんな運動会になってしまいます。
一番くらくなる人はだれか、分かる?

(言った人)

そう。言った人が、一番大きなボリュームで聞くんだ。そうだよね。自分の言った、いやーな、暗ーい言葉は、自分の耳が一番よく聞こえる。自分の口から出てきた声が、一番近い、自分の耳に入る。(ここは身ぶり手ぶりで、耳や口を指で指しながら)・・・だから、言った人が一番、くらーい気持ちになる。


だから、○○くんのせいだ!とか、言わないのが本当です。

つぎ。

逆に、勝ったとき。

勝ったときに、「やったー」くらいならいい。
それだけでなく、「やーい、勝ったぞー。お前たちは弱いなあ。オレは一番だったぞー」
とか、勝負した相手に向かって、そういうよけいなことを言う人がいる。

自慢、という言葉を知っている?

(知ってる)

自慢をするのです。相手が闘ってくれて、それで勝ち負けを決めることができた。相手がいっしょに戦ってくれて、勝負をしてくれた。そのことを、ぜんぜん、わかっていません。その相手に向かって、勝手な、余計なことを言う。こういうのを、お子ちゃま、というのです。保育園にもどってほしいです。保育園でも、自慢なんてへんだ、とわかっている子がいっぱいいるよ。保育園でもそんな人来たら迷惑だと言われるかもしれんけど。

よろこぶのはいいです。
でも、それは、いい勝負ができた、自分たちの力がたくさん出せた、ということを喜ぶのです。それは、相手もいい力を出していたから、こっちも力を出せたのです。まだよちよち歩きの赤ん坊とすもうをとって勝って、うれしいですか?
勝つのが当たり前。そんなのじゃない。相手も同じ年代で、同じくらいの力で、それで戦って、いい勝負ができたことをよろこぶんです。
戦ってくれた、その相手を、「やーい弱い弱い」って。
そんなの、この小学校の運動会ではやらないでください。どうしてもやりたければ、どこかほかでやってください。

だから、勝って喜んでもいいけど、よく力を出してくれて、いい競技ができた、今回はこっちが勝ったけど、次はどうなるかわからない。またいい勝負ができるように、またお互いにがんばろう、というのが本当です。そういう態度でいてください。そういう、堂々としたふるまいをするのが、勝った方の役割なんです。


大事なことを言いました。
このことをまもって、運動会を本当にいいものにしてください。自分の心が、「やってよかったなあ。思い切りやって、力を出して、気持ちいいなあ」そう思えるように、自分でしていくのです。

大丈夫。みんななら、できます。
ここまで練習してきたことを思い出せば、だいじょうぶ。
終わった後、みんなが笑顔で、「やった!」って顔になっているのが今からとても楽しみです。




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席替えをした直後、なぞの一体感が

.
競争もいいけど、競争でない活動を取り入れてみたいな、と常々思っている。

社会全体が「競争の礼賛」に染まっている雰囲気もあるから、まあ、学校で、それも時々であれば、「競争以外」もよろしいのではないか、という考えだ。

そこで、時間を相手に、みんなで頑張る活動を入れる。

席替えをしたあと、うちの学級でやったのは、タイムぴったり30秒、というゲーム。

学級の人数が35人だから、30秒で終わらせるには、1人あたり

0.85秒

でやればよい。

一人ひとりがやることは単純で、たんなる、『拍手』です。


学級35人のうち、最初の一人からはじまって、最後の子まで、席順でわかりやすい一筆書きの順を示しておきます。
全員が前を向いていると難度が高いので、最初は椅子の方向を自由にさせ、自分の拍手をしている姿が、前後の子に、きちんとわかるような向きに座るようにします。

教師はストップウォッチを手にして、

「みんな、ぴったり30秒でやろうね!」

と構えます。

用意スタート、で一人目の拍手が始まり、拍手が連続していきます。前の子が拍手をしたら、次の子もやってよいことにします。あまり速すぎるようだと、少しゆっくりに調整する子が出てきます。またその調整が遅いように感じると、今度はきちんと急ぐ子も出てきます。肝心なのは、どの子の調整がうまくいったか、だれにも正解が出せないことです。だから、責める子もでてきません。

何度かやるうちに、作戦が立てられるようになります。

「ともかく、あとから急ぐのは大変だから、最初の方の子たちは、できるだけ早くやろう。でも、一番最後の列の子だけ、ちょっとゆっくりめにして、心の中の数と合わせよう」

今だけ、席を代えてよい、ということにすると、なぜだか算数の秀才が選ばれて、もっとも最後のアンカーを務めることになりました。

選ばれた秀才君が、みんなの期待を集める中、目を閉じて、心の中でゆっくりと数をかぞえていきます。いよいよ30秒が近づいてくると、拍手の順番も徐々に近づいてきて、秀才君の番です。

秀才君が満を持して、ゆっくりと拍手をした瞬間、わたしがストップウォッチを押す。

「せんせい、何秒?!」


しーん、とする教室。


わたしは少しじらしてから、

「お見事!29.78、ほぼ30秒ジャストです!」

みんな、大はしゃぎになります。


これも、「楽しくやれた人!?」と声をかけて、挙手して終わります。

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運動会前のきびしい訓練に耐える

.
あなたの地域の小学校では、運動会は、いつ開催されるだろうか。
わたしの地元の岡崎市では、運動会を春に行う学校も出てきている。
今年、わが勤務校も、この5月の終わりに運動会をすることになった。
市内の小学校を見渡してみると、定番の体育の日のある10月はもちろん、まだ暑い9月に行う学校もあるようだ。

さて、運動会前なので、6年生が組体操を練習している姿が目に入る。

「せんせい、6年生の練習すごいね」
「来年、俺たちって、あのワザやるの?」

など、子どもたちなりに興味を持ってながめている様子。


そこで、5年生の今から、どしどしと身体を鍛えることにした。

朝の会で、宣言する。

「あなたたちはこれから1年間かけて、身体をつくっていかねばなりません。それが5年生の大事な仕事です」

朝のいつもの雰囲気より、かなり厳かに、厳格なイメージでこれを伝えると、それまで怪しんでいた子もなんだか真剣な雰囲気に。

「そこで、空気イスじゃんけんをやりますよ」


1)ペアになる
2)気を付けの姿勢から、じゃんけんを連続で10回行う。(その都度、先生の指示で、ゆっくりやる)
3)勝てばそのまま、負けたら、ひざをかるく曲げる。
4)最終的にしゃがんだ状態になったり、転んだりしたら、負け。
5)曲げる角度は、その人のさじかげん。
6)もし相手が転んでしまったら、「だいじょうぶですか」と声をかけて、そっと手をさしのべる。


このコツは、みんな変な姿になって一生懸命に耐えているので、それを見て教師が、全力で応援すること。
気を付けのままの子には目をくれない。
がんばって、ひざをまげて、苦しんでいる子に、「〇〇くん!がんばれ!!」と声をかける。

すると、なんだかじゃんけんに勝っても、楽しくない。
これ、ひとつの不思議。
じゃんけんには勝つのが良い、という頭の中の公式が、崩れます。


つぎ。
最後に、時間で終わらせる前に、

「楽しくやれた人!」

で終わらせる。
これは、どのゲームにもいえることだね。授業もそうかも。

楽しくやろうとする姿勢の人

に、関心を向け続ける。
その方が、可能性が広がる。

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不登校児について

.
今年一年振り返りの、その2。
不登校の子について。

わたし自身も、不登校気味な時期がありました。なぜ行かれないか、理由がはっきりしないのですね。
昭和の時代だったけれど、母もいろんな人に相談したようです。
混乱するわたしの母親に対し、近所の小児科医の先生がやさしく諭してくださったらしい。わたしは自然とまた登校するようになり、母も自然と落ち着きました。

わたしが不登校を経験していることに加え、10代、20代に経験し学んできたことを踏まえて考えると、不登校自体についてどうこう対処しよう、という気分にはなりません。
「不登校」にはいろんなストーリーがあって、必ずしもそれが「解決しなければならない問題」だとは限らないからであります。

わたしが不登校児についてばくぜんと抱いているイメージは、個人的なものだが、次のようなものだ。

勉強の好きな子が多い

これは意外かもしれない。しかし、実際は、「勉強が嫌いで学校に行かない」という子は少ない方だろう。逆に、勉強が好きな子で、「学校はキライ」な子は多いと思う。
また、「キライ」という言葉についても、これもあえて表現すれば、ということのようである。不登校の子はどうしても「なんでだ」と理由を問われるので、子どもからして精いっぱいに周りの大人が納得できるように説明しようとする。その結果、「キライ」というのがもっとも簡便だから、こういうに過ぎない。

子どもに限らず人間はだれでも、学校、職場、地域社会などで顔見知りになった人たちのあいだでみんなから受け入れられ、自分も相手を受け入れているという実感をもてたときに、その集団のなかで安らいでいられるのだろう。

だから、なんとなしに友達が言っている常識のようなものに、どうもしっくりこない感情をもった経験のある子が、その違和感をもとにして、だんだんと「学校」と距離を置きたくなる気持ちも非常に分かる気がする。

クラスの中に、運動会で「一番にならなきゃ」という意志の非常に強い子がたくさんいたとする。しかし、そういう空気の中にいることを、「なんで自分はそうは思わないんだろう」と不思議に思う子もいて当然だろう。

そんなときに、「へえ、わたしは別に一番じゃなくてもいいや」と、ふと気軽に言えることができたら、事態は平穏である。あるいは、ふと、そうした自分の素直な気持ちを言ってみた時に、「ああ、〇〇ちゃんはそう思うんだねー」で済むのであれば、クラスの人間関係は平穏であろう。

ところが、そう思うこと自体を責められるような空気が教室の中にあるのであれば、そこはどうしたって、「窮屈な感じのする場所」になっていく。

担任が

「こうでなければならぬ」

という思いが強いと、うまくいかないかも。

今は、社会全般に、〇〇でなければ許されない、という意識が強い。そこから外れてはいけない、というプレッシャーが多い。今の世の中の価値観で、本当に安らいでいられる人は、少ないと思う。
保護者だって、安らいでいる人は少ない。だからPTAの居心地さえ、良くないと感じている人が多いようだ。PTAは本来、子どものためにいろんなことができる組織だ。多くの大人にとって、自分を生かせるという意味で、人生最良の場になり得ると思う。しかし、そう思う人は激減しているようだ。システムが硬直しているのか、考え方が硬直しているのか、「許せない」範疇のことが多くなっているのだろう。

大人も窮屈な気がしているし、
子どもも窮屈な気がしている。
どうも、そういう世の中らしい。

だから、教室が「安心できる」と思えば、もう忘れられないくらいに、泣きたくなるくらいに、ここが人生最良の場なのだ、となってしまう。(ところが残念なことに、それは誤解なのですが・・・)

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人の言うことを聞くとはどういうことか

.
ゲームしよう、と子どもから言い出すことは、ほとんどない。
子どもが「こういうことは、先生が決める」と認識しているからだろう。
常に、ゲームしよう、ともちかけるのは、わたしから、である。

そういう意味で、わたしはずいぶん、勝手である。
「勝手な指示をする先生」。


なのに、みんな、それでいい、という感じ。

不思議で仕方がない。

これは、なぜなんだか、実は結局、分からない。
わたしは、このことを説明するために、何度もこれを説明しようとしつづけてきたが、
今のところ、ただの一度も、いい言葉を、思いつくことができていない。


どう考えても常識や理屈に合わないし、
自分では不思議な気がしてます。

子どもが、なぜわたしの言う「勝手な」ことをきくのか・・・。


そもそも、言うことを聞く、とはどういうことだろう。

だれかに、
「寒いから窓閉めて」
と言う。
だれかが、窓を閉めた。

これ、言うことを聞いたことになるか。
ならない。

だれかに、なにかを「させる」なんてことは、できない。

なのに、わたしの意をくんでくれるように思う。
だから、わたしは本当に何も言えなくなる。
そして、なにも言えないと思うから、何でも言えて、みんなやってもらっている。

これ、自分は何も言えないと本心で思っていない人は、「なんでも言える」人にはならない。
だから、なんでも言える人は、「なんでもやってもらえる」のだろう。

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朝から、顔を見るだけで

.
朝、来て友だちに
「おはよう」と言ったときから

にやにや
うふふふ
ははは

笑ってばっかり

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誰かが何か言えば、
みんな言いたくなって
喋りたくなって

どこかで歌が始まれば
いつの間にか伝染して
クラスみんなで歌ってる。
わたしは、驚いて思う。

君たちは、フォーク世代か、と。
岡林信康か、と。


以心伝心というのか
相手に逆らわないというのか

それとも、一緒にやりたい、ということか
これといった会話もなく、自然と動いている。

打ち合わせが要らない、というの不思議。
打ち合わせがないのに、
何も文句も出ず、笑ってばかりで、
歌が揃って、

それで、休み時間が終わって
チャイムが鳴ったら満足そうに席に着くのです。


「打ち合わせ、なし」
それでいて、満足なのです。


人間って、不思議やね。

『りんごかもしれない』という絵本で授業する

.
ある日、『りんごかもしれない』という絵本を読みました。
この絵本は、りんごをある男の子がテーブルの上に発見するも、そこで妄想にふけりはじめて、

「いや、もしかすると、あれはりんごに見えているだけで、実際はちがうかもしれないぞ」

と思い始めるのです。小さな機械のつまったマシンかもしれないし、巨大なさくらんぼの片割れかもしれん、と、自由な発想で、どんどんと可能性を拡げて考えはじめるのです。


わたしも、まねをして教室にりんごを持ち込み、りんごを子どもらに見せながら、

「いま、事実と思うものを、ノートに書いてごらん」


とやると、

〇先生がいるのは事実。
〇先生が立っているのも事実。
〇先生がりんごをもって、「事実はなんだろうか」と言ったのが事実。
〇先生のような人が、りんごのようなものを持ってる、ということが事実。
〇おそらく新間先生だと思われる生き物が、黒板の前にいる?(ようだ)
〇先生は人間だ、というのは事実。
〇先生が赤い、なにかの実、みたいなものを持っている、それが事実。


とか、適当なことをノートに書くわけ。

世界中の万人が、昨日も今日も明日も、それをたしかめて事実だと明らかにできることかどうか。

たとえAさんはそうだ、とするが、Bさんはそうではない、とするのであれば、
それは「事実」とはいえない、ということにしますと、
われわれの頭の中に去来するものはほとんどが、ただの感想、ということになります。

しかし、一方で目の前にはきちんと事実がごまんとあるわけで、
実際、ひとの脳内の思念内容以外は、この世はすべて事実ばかりで構成されているのでしょう。

昨年を振り返ってみて、わがクラスの特徴として、子どもたちが共通理解するベースに
〇いじめる人がいちばん困っていてさみしい人
〇不機嫌なときには他の人に嫉妬しやすくなる
〇事実ではなく、「感想」で苦しむことが多い

この3つがあるんじゃないかなあ、と思います。

いずれも、毎日の授業のなかで、
最初はAだと思っていたけど、もっと調べたらBかもしれない。
という体験をたくさん積むことで、獲得していけるもの。

りんご

なぜ、景品をもらえないと、イヤになるのか

.
景品がもらえないと、くやしくて泣きたくなる。
人生は、勝つか負けるか。
いかなる勝負でも、負けたくはない。


たぶん、そういう考えの子も、けっこう多いのだろうと思う。

そう思っている子の場合、
勝負に勝てば景品がもらえるが、負けたらもらえない、というのは
かなり、インパクトのある『勝負』ということになるのだろう。

負けてもらえないと、泣きたくなるほどに口惜しくてたまらない。

今のまま、景品を続行すれば、またもや阿鼻叫喚、
泣く子はやはり、泣くだろう。


しかし!
景品そのものを無くすのは、惜しい!


なぜなら、景品をつくった子たちの気持ちもあるし、
もらえてうれしい、ということもある。
みんなで喜び合う、ということを、やめるなんて、ケチくさい。


で、どうするか・・・。


係りの子たちと、まるっと1週間ほど、悩みに悩んだ。
そして、その結果、

◎景品は続行
◎できるだけ、「勝負をつけない」ゲームをする

ということにした。


一方で、「勝負をつけないゲーム」って、なんだ?
また、「勝負」をしても、べつにいいじゃん。とも思う。

子どもは勝ち負けのはっきりしたゲームが好きである。
しかし、大切なのは、いったんゲームが終了したら、
きれいさっぱり、こだわらないことである。
負けるチームがあるから勝つチームがあることも教えたい。
負けることを経験することで,児童もたくましくなるのである。

また、勝つ、とか、負ける、とかいうことが、
その人自身の価値とはなんら関係なく、
勝ったからエライ、というわけでもないし、
負けたからその人の価値が下がる、というわけでもない。
人間そのものは、「カチ」ではかられるものではない。
どの人間にも、人間であるということの尊厳が存在する。
どの人間も、ユニークであり、オリジナルである。



そう思うと、あえて「勝負」という枠から出よう、というのも、どうか、と考えた。
勝負を避けよう、という意識になりすぎるのも、なんか妙な感じが残る。


そこで、

「いったい、勝負のつかないゲームってどんなの?」

と尋ねてみた。
もしかすると、プロジェクトアドベンチャー的なものか?



すると、子どもはいたって、ふつうに、

「えっと、花いちもんめ、と、だるまさんがころんだ、です」

と言った。



なるほど!!

花いちもんめ



だるまさんがころんだ

なら、ふつうやんけ!



わたしは、それを許可しました。
あえて、勝負を避ける、という感じも無いし。


そして、いよいよ、2回目の「お楽しみ会」の日がやってきました。
みんな、なんとなくうきうきしています。
なぜなら、今日はぜったいに、阿鼻叫喚にはならないから。
ぜったいに、笑顔で終われるはず、だから・・・。

ところが・・・
まさかの展開に!!!


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(つづく)

景品無しでやろうよ

.
子どもたちがお楽しみ会を企画した。
ところが、うまくいかなかった。
男子が数名泣き、女子も幾人かが泣いた。
女子の大半はうなだれており、残りの男子もどうしていいか分からなくなった。

状況はこう、である。

殴り合いが始まったのは、お楽しみ企画の3つめ。
『リズムで椅子取りゲーム』をやっていたとき。

景品が豪華だった。
みんな、景品がほしくなったのだ。
男子の幾人かで、バトルになった。

景品は、お楽しみ計画係で休み時間に必死になってつくっていた、
アイロンビーズのミッキーマウスである。

これは、教師が見ても、力作だった。
非常によくできていた。
片目をつぶった、ひょうきんな顔のドナルドダックも作られた。
みんな、これが欲しくなったらしい。


最後の一人だけに、この豪華景品がもらえる、ということになり、
とくに男子がヒートアップした。

「おれが先だったよ!」
「おれのが先だった!」
「絶対に、俺だった!」

口で言ってダメなら、こぶしで。

グーパンチ、炸裂!

大泣きに泣いたのが、同時多発で2か所!!


お楽しみ会はまだ続行した。
係りの子たちは、めげない。
最後までやりぬく、とやり切った。
ところが、男子のそのいざこざがあったせいか、どうにも楽しめない。
とうとう、最終的にやっていた『宝探しゲーム』で、再度こぜりあいが始まり、

2回目の、グーパンチ!

すごかったのは、会を進行していた5人の子で、
なんとかグーパンチの4名をとりなし、意見をし、なだめたりしながら、
最後の

「これでお楽しみ会を終わります」

までやり切ったことである。





当然、すぐに振り返りをする。

「今日のお楽しみ会について、言いたいことがある人」

わたしはこれだけ言って、座る。

どんどんと、指名なしで意見が出る。


「何人かのせいで、うまくいかなかった」
「泣いた子がいて、そこから楽しくなくなった」
「けんかはしない、と決めていたのに」

ふだんおとなしい子が、泣きながら目を赤くはらして、

「せっかくのお楽しみ会が、お悲しみ会になっちゃった」

と言うと、教室の中に、どんよりとした黒い雲がかかったようになり、

「ひっく、ひっく、なんでこうなったのかさー、ひっく、よく考えないとさー」

終わったことの安堵と、ようやくこみあげてきた悔しさとで、
しゃくりあげながら話しはじめた、企画メンバー。

「みんなにさー、すごく楽しんでもらおうと思ってたのにさー」


それを聞いて、もらい泣きする子、いたたまれなくて突っ伏す子。

久しぶりのお楽しみ会は、まったくのブラック状態、まさに『お悲しみ会』と化したのでありました。

それでも、大したもんだなと思うのは、なんでこうなったのか、と再検討がはじまったことだ。
このへんが、この子たちの本当の力なんでしょうね。
だってみんな、お楽しみ会ができる人になりたいんだもの。


「景品がなかったら、たぶん、防げたと思う」
「そうだ。景品が良すぎたんだ」
「もし景品がなかったら、〇〇くんも、あんなにヒートアップしなかったんじゃない」

みんなからうながされて、グーパンチをしあった4名が起立。

「うん・・・ぼくも景品に目がくらんで」
「そう・・・景品を見た瞬間に、スイッチが入って」
「景品がすごかったから」
「ぼくも景品が欲しかったし、もらえないと思うと必死になっちゃった」

なんとなく、霧が晴れたようになり、
うつむいていた企画メンバーの中でも、今回しっかり頑張っていたAさんが、気を取り直したように、

「先生、今度は、景品無しでやろうよ」

というと、クラス全員が

「それならだいじょうぶ!」

となった。


ところが、

わたしがすっくと立って、

「いや、先生は、景品があってもいいなあ。だって、すごいかっこいい景品だもの。あんなのがもらえるなんて、すごくいいじゃないの。嬉しいよ~!プレゼントしてもらえて、最高の気分になるよ、一生懸命につくったんでしょう。つくった人は、だれかにあげたいよね、みんな、もらいたいよね。景品があっても、いいはずだと思うがなあ」

と言って座ると、

クラス中(じゅう)が


しーん。

(つづく)

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4年生向け さつまいもレシピ

.
さつまいもを収穫したので、どうやって食べようか、みんなで悩んだ。

「いちばん、面倒くさくないの!」
「つくる時間がみじかいのがいい!」

満場一致。

「おいしいの!」

当~然!

「牛乳と卵が入っていないの!」

いいねえ。
(クラスに牛乳アレルギーの子がいるので、その配慮)



そのまま、カリッと炒めたらいいのじゃない?
フライパンで炒めるくらいなら、4年生ならラクラクでしょう。

そう言うと、みんなやる気になった。


さっそく検索すると、あるわあるわ、世の中の人の知恵がぜんぶ、
インターネット上に公開されてました。
レシピを公開してくださったみなさん、ありがとうございます。


まとめてみました。
小学校向け、片付け準備その他のカンタン、さつまいもレシピ。
場所は、家庭科室です。
子どもたちはみんな、給食着をきて、給食の時の箸を持参します。

1)サツマイモをよく洗って皮ごと切る。
2)できるだけ長ぼそく、『いもけんぴ』みたいにしました。
とがったところが、カリッとして美味しいのでは、と思ったからです。
3)そのまま、10分水につける。
4)キッチンペーパーを敷いて、芋を並べる。
5)芋の水気をよくふき取る。
6)フライパン中央に油を大さじ4。
7)砂糖を大さじ3、同じく中央へ。
8)お酢を大さじの半分程度、同じくその上へ。
9)フライパンの平たい部分の上でかきまぜて平均化。
10)準備完了。
11)油と砂糖とお酢のマットの上へ、芋を寝かせる。
12)蓋をする。
13)点火!(ファイヤーッ!)火は、大きくしない。中火くらいで。
14)しばらくすると、パチパチと音がする。(みんなで音をたしかめる)
15)音がはげしくなったと思ったら、弱火にする。かなり小さく。
16)約10分。その間に、皿を並べたり、片付けできるものを片付けたりする。
17)火を消す。消火!
18)蓋をあけて、芋に串がささるかどうか、みんなで確認。
19)OKならそのまま、砂糖がからむよう、まぜる。余熱で、ちゃんとまざってくれます。
20)お皿にゴマをふっておく。
21)フライパンからお皿に移す。
22)いただきます。



良い点のまとめ。

①フライパン、包丁、小皿、ペーパー、ふきん、くらいしか、
家庭科室の物を使わなくて済む。
②お菓子のスイートポテトは加熱したあと、練る工程が必要だが、
こちらはほとんど芋に触らなくてよく(切るだけ)、工程が単純である。

以上は、時短につながる良い点です。


③油で揚げないから火災などの心配が減る。
④芋の水気を吸い取り、さらに蓋をするから、油がハネるのを心配しなくて済む。
⑤蓋をはずす際に怖がる子がいるが、火を消した後だから、こわくない。
⑥工程のほとんどが、蓋をしたままでよく、途中で一度も箸でかきまぜないので、安心。

以上が、安全面での配慮をした点です。


⑦砂糖が溶ける、ということを知っておくと、
5年の理科で「溶解」を習う際に、それが経験知として有効にはたらく。
⑧「なんでお酢を入れるの?」という質問が出る。
これも、お酢の働きで油と砂糖がよく混ざる、という理科の実験につながる知識になる。

以上は、理科の学習につながる点です。


小学校の教室向けレシピとして、クックパッドに掲載依頼しようかなあ。

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以下、豆知識として。
脂っこい料理等にお酢を少量入れるとさっぱりとするだけでなく、口当たりも良くなり、食べやすくなる。
これは酢の持つ、『分子を細かく分散させる効果』によるもの。

実は、油の分子というのは、大きさがバラバラ。
これがいわゆる脂っこいというものの正体。
大きい分子や小さい分子が舌に当たることによって油自体の味と相まって舌触りが悪くなる。
ここに酢を入れることによって大きさが不均一だった油の分子が小さく均一になる。
このことによって舌触りも良くなり、さらに酢の酸味によって脂っぽさが和らぐというわけ。

今回のような、大学芋の場合は、飴(アメ)をトロトロにさせる効果がある。
しっかりと、砂糖が油とまじって溶けて、きれいな水アメ状態に近づくわけですネ。

教室が乾燥する

.
教室が乾燥。
陽がさしてくると、顕著だ。
ストーブも焚くし、のどまでカラカラしてくる。
子どもが咳き込む回数が増えると、ああ、空気が乾いてきたな、とすぐ分かる。

教室には古い、壊れかけの加湿器が1台あるが、
そもそも小さくて、おそらく木造6畳程度の力しかない。
子どもがバンバンと扉をあけたり閉めたりする、この教室では、ちっとも活躍できていない。

「もっと、強力な加湿器が必要だ!」

教頭に頭を下げて、こっそりと相談するが、
教頭が申し訳なさそうに小声で言うには、予算は無い、とのこと。
事務の先生までもが小声になって、
「今は買えないけど、もしかしたら年度末に買えるかもしれない」
となぐさめてくれる。

そこで、自腹を切って購入することにした。
おそらく全国の教員が、かなりの程度、自腹を切って何か買ってると思う。
画用紙とか、プリンターのインクとか、文房具とか、赤白帽とか。

そこで、この土日に近くのヤマダ電機とコジマ電気とK'sデンキなどに行ってみた。
けっこう、いろんなものが売ってるが、残念ながら私の欲しいものが無い。



【条件】
1)教室で使うから、万が一でも水がこぼれるのはアウト。(熱いと子どもがヤケドする?)
タンクが外からすぐ見える、というのはダメ。
きちんと箱型になっていて、その箱の中に、タンクが収まっていないと。
タンクがこけても、倒れても、ぜったいに水が垂れない、というのが絶対条件。
タンクを包み込んだような形の、箱型がいちばん!!
したがって、こういうのは選択肢から外します。

★テクノス EL-S051
K0000698405


だって、タンクを持ち上げた瞬間、ぽたぽた、となりそうで。
不安過剰だろうか・・・。

★アイリスオーヤマ KSK-260D-C
00000003812981_A01


見た目のデザインはかっこいいんだけど、やはりタンクをもちあげた瞬間がコワい。
子どもに熱い水がかかるのは、断固として避けたい。


2)自腹なので、金額は安いほど良い。

すると、こういうのも外れる。

★象印 EE-RM35
3463630_01L


だって、1万円近くするからネ。


3)コードが本体から外れた方がいい。

洗うときに、コードを引っ張るのは避けたい。
なぜなら、コード類はできるだけ、固定しておきたいから。
コードって、教室の中で、できるかぎり、目立たないようにしておきたいのね。
ふだんから・・・。コードは子どもの空間の大敵。ひっかける可能性がある。
電気給湯ポットのように、マグネットコードになっているのがいい。

すると、こういうのも選択肢から外れてしまう。

★ツインバード SK-4974
21680110326


安くて、よさそうだったんだけどなあ・・・。



結論。

なかなか売ってないようだナ。
なんでだろう?
今現在教室にある加湿器は、きちんとこの3つの条件をすべて満たしているんだけど・・・。
しかし古い型らしく、売ってないみたいね。ネットでも、お店でも・・・。


いいものほど、生産終了していくのかいな・・・ンなわけないか。
ああ、時間よとまれ!!
(と、師走につぶやいてみる)

やんちゃくんにドッジボールのパスを渡す

.
長年、というわけでもないが、教師を続けて来たためか、
反射神経のように、とっさに出てくる行動がある。

たとえば、やんちゃな子をまずまっさきに見る。
朝、教室に入るや否や、その子をパッと見る。
複数いるから、Aくん、Bくん、Cくん、Dくん、Eくん、と
パパパっとみる。
何やってるかというのと、本日の顔つきをみる。

この意味はなにかというと、よく分かりませんが、
そういうことをするようになってきましたナ。


あと、気づいたのは、今日は子どもたちとドッジボールを
いっしょにやりましたが、コートに入ってまずやることは、

やんちゃな子をまずまっさきに見る。
コートに入るやいなや、その子をパッと見る。
複数いるから、Aくん、Bくん、Cくん、Dくん、Eくん、と
パパパっとみる。
何やってるかというのと、その瞬間の顔つきを見る。

そして、最初に投げられたボールにまっさきにジャンプしてとびつき、
(ここで子どもたちから、ウォーッ、というため息)
それを間髪入れず、
「ほら、Aくん、パス!」
と大声で叫びながら、実際にすばやくパスをする。
(ここで、子どもたちから、なおさら大きなため息のような声が出る)

こういう動作が、何も考えなくてもとっさに行動として出てくる。
教師としての反射神経と言うのか、
職業病というのか、癖(くせ)というのか・・・

つまり、ここでいうAくんというのは、
教室の中で、まあ、まったくもっての調子っぱずれのような、
かき回すような、見当違いのことを言ったり、トラブルの種を
まき散らしているかのような子なわけ、ですね。
女子にもつねに、
「ネー、Aくんってばッ!!!」
と叱られ続けているような子ね。

たとえば、筆箱に鉛筆が入っているかと思いきや、
とんでもない短い鉛筆が、歯でボロボロに噛んであって、
芯も折れちゃっているから、テストも受けられない、というような子。
それでも平気な顔して、
「あ、おれの鉛筆、こんだけしかないワ・・・。おい、貸してくれ」
というから、隣の女の子が、おでこの下から呪うような目つきで
「・・・いい加減にしてよね、Aくんッ!」

というような子。


そういう子に、先生がどんどんパスを回すわけね。

するとAくんは張り切って、みんなの注目をあびて、ゲラゲラ笑いながら
ドッジをやるわけ。

それで、そんなAくんを見ていると、他の子もなんだかおもしろくなっちゃって、
みんなでゲラゲラ笑うわけ。

Aくんがボールを受け損ねて、弾んだボールがまさかの敵陣に入っちゃって
ボールがとられちゃったりすると、わたしは悲鳴をあげて、

「Aくん~ッ!」

と、悲鳴まじりに、
まるで西部警察の眼鏡をかけた白髪の部長のように、
渡哲也の大門君を呼びつける感じで叫びますと、
みんな、そんな古いドラマは知らないはずなのに、ドッと受けています。


わたしがそうやって、必死にAくんにかまうのは、

Aくんにかまっていると、なんか、通じるような気がするからだろうね。

ともかくも、声をかけたくなる。

そういう相手だからかな。

dodgeball

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