タイトルに書いたが、
一生懸命に遊んでいる子どもたちを見ていると、
そう言えばこの子たち、「何のために生きるかを問わない」ことに気づく。
人は何のために生きるか。
充実感や達成感を得るため、感じるために生まれてきたのではない。
そもそも、何か事がらを進めたり、達成したものを得るために生まれてきたのではない。
では、なんのため?
人生は、何かをするため、ではないかもしれない。
もしそうなら、逆に何かをしてはいけない、というのでもないだろう。
では、なんのため?
われわれ大人は、
「社会からの」あるいは「人生からの要求」には必死で応えようとする。
一方で、「人生からの問いかけ」には耳を貸さない。
常に、強い緊張と切迫感、焦りを感じながら、生きている。
ところが、子どもは違う。
「人生からの要求」には関心が無く、
「人生からの問いかけ」には真摯に向き合う、というのが、子ども。
だからだろうか。毎日、真剣に遊んでいる。
毎日すれ違う一年生が、いかにも幸福そうに雲を見上げながら歩いていくのを見てると、
教師も時折、こうやって人生を考えるようになる。
自分は、たった一度の「人生」から、なにを問いかけられているのだろうか。
ひとの人生は、社会よりも価値が高い。
それぞれの人の、人生の価値が高まれば、
結果として、社会全体の価値が高まるだろうと思う。
人生の価値は、「なにをしたか」ではない。
「なにをして過ごしたか」でもない。
「どこで過ごしたか」でもなく、
「だれと過ごしたか」でもない。
そこには、なにもない。
教室で過ごしている子どもたちはふだん、
そんなこと、なにひとつ気にしていないように見える。
たったひとつ。一所懸命に遊ぶのは楽しい。これは真実だろうなと思う。
一生懸命に遊んでいる子どもたちを見ていると、
そう言えばこの子たち、「何のために生きるかを問わない」ことに気づく。
人は何のために生きるか。
充実感や達成感を得るため、感じるために生まれてきたのではない。
そもそも、何か事がらを進めたり、達成したものを得るために生まれてきたのではない。
では、なんのため?
人生は、何かをするため、ではないかもしれない。
もしそうなら、逆に何かをしてはいけない、というのでもないだろう。
では、なんのため?
われわれ大人は、
「社会からの」あるいは「人生からの要求」には必死で応えようとする。
一方で、「人生からの問いかけ」には耳を貸さない。
常に、強い緊張と切迫感、焦りを感じながら、生きている。
ところが、子どもは違う。
「人生からの要求」には関心が無く、
「人生からの問いかけ」には真摯に向き合う、というのが、子ども。
だからだろうか。毎日、真剣に遊んでいる。
毎日すれ違う一年生が、いかにも幸福そうに雲を見上げながら歩いていくのを見てると、
教師も時折、こうやって人生を考えるようになる。
自分は、たった一度の「人生」から、なにを問いかけられているのだろうか。
ひとの人生は、社会よりも価値が高い。
それぞれの人の、人生の価値が高まれば、
結果として、社会全体の価値が高まるだろうと思う。
人生の価値は、「なにをしたか」ではない。
「なにをして過ごしたか」でもない。
「どこで過ごしたか」でもなく、
「だれと過ごしたか」でもない。
そこには、なにもない。
教室で過ごしている子どもたちはふだん、
そんなこと、なにひとつ気にしていないように見える。
たったひとつ。一所懸命に遊ぶのは楽しい。これは真実だろうなと思う。
◆ ◆ ◆
「収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには、機会がある限り、生きるための『何故』を、すなわち目的を意識せしめねばならないのである。」
目的目標を認めない人は倒れていった。
「『私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていない』、これに対して人はいかに答えるべきであろうか」
フランクルのこの自問から出てきたのが、
「人生にわれわれが期待するのではなく、人生はわれわれから何を期待しているかを問うことである」であった。
「人間は苦悩に満ちた運命とともに、この世界でただ一人一回だけ立っているという意識にまで達せねばならない。何人も、彼から苦悩を取り去ることことはできない。何人も彼の代わりに苦悩を苦しみぬくことはできない。まさにその運命に当たった彼自身がこの苦悩を担うということのなかに可能性が存在するのである。」
助かるためのいかなる方法もない時、絶望しない唯一の思想だった。だから彼は苦悩を課題としてとらえ、その意味を問うた。「苦悩もわれわれの業績であるという性質をもっている」と。
フランクルは収容所の中で、人生に何も期待できないと絶望して自殺を企てる二人の囚人を救った。
「二人に対して、人生は彼らからまだあるものを期待しているということ、すなわち人生におけるあるものが、未来において彼らを待っている、ということを示すのに私は成功したのであった。」
「待っている仕事、待っている愛する人、その責任を意識した人は、彼の命を放棄することが決してできないのである。」
あらまそうかい
がしました