元エンジニア・新間先生の自問自答ブログ

転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

学校で、わたしが堅持しているのは、
「キレる」を正当化しない、ということ。
これを認めてしまったら、まあちょっとひどいことになるだろうと思う。

ドラえもんを見ていて、昭和には実際によくあったのかもしれないが、ぜったいに許されないのはジャイアンが周囲の人物をお気軽に殴るシーン。
ジャイアンは、自分の機嫌をそこねる相手にたいして、実にお気軽に手を出してしまう。
これを「いい」としてしまうなら、人間が人間ではなくなっていく。
人間は知的に活動できるからこそ、その価値が出てくるのであって、相手を殴るのを正当化していては、人間としてはまったくもう、負けである。
戦争は、手を出したら負け、である。
何も残らず、何も得られない。
終わった後に残るのは、深い悔恨の念と自責の念、そして傷ついた同胞と焼け野原である。
「キレる」は、人として異常なこと、としていかねばならない。

これを子どもに徹底させるのは、最初は容易なことではない。
なぜなら家で親にそう教育されている場合もあるからだ。
「やられる前にやれ」と教えている家庭もある。
そこに一教師や担任が、「手を出したら負け」と教えるのだから、子どもは混乱する。

しかし、学校で生活していると、その意味がだんだんに分かってくる。
子どもたちが納得していく。
手を出した子は、どうしてもレッテルを貼られるのである。
「手を出す子」として。

相手が傷ついて苦しんでいるのに、それを見てニヤッと笑っているのである。
それを見て、平気でいるのである。
同じクラスで生活している子にとっては、そういったクラスメートは、『気持ち悪い』としか思えないのだ。だから、だんだんに、しずかに、しずかに、孤独にさせられていく。子どもは実に、そのあたりの運び方が自然である。

わたしは教師になって15年。この間に、「友達に手を出す子」ほど孤独な存在はいないと思うようになった。例外なく、孤独である。そして、その子の小学校生活は、例外なく、暗い。
本当の仲間は、だれひとり、いないのである。

そのことを子どもに伝えると、それはそうだろう、と納得する。
だから、家で親になんと習っていようが、実感が勝つ。
つまり、「手を出したら負けだな」と思うのである。

そして、その前に、手を出す前に、「キレる」を正当化しない、というのが出てくる。
キレるのは、戦略としては悪手であり、キレる必要もない。
そう思えるように、学級を育てていかねばならない。
そのためのたった一つの方法が、

「車座での話し合い」

である。
車座は、だれも中心がいない。
そのことがビジュアルで子どもたちに実感される。
全員が同格になっての、意見の出し合いなのである。
それも、しつこく、何度も何度も、毎朝のように車座、である。
そして、どうしたら解決できるか、と何度も話し合う。

これをやっている限り、「キレる」必要はない。
その場で、「困っているから相談に乗ってほしい」と一言いえば、キレる必要がなくなるのである。

そこまでを全部、ひとつのセットにして、指導のワンセット、とするのである。

手を出したら、負け、である。
これを何度も何度も、学級のさまざまなシーンで、わたしは言っている。

手を出すな。手を出したら、負けだ。
手を出したら負け
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