試されるのが好きじゃない。
子どものころからそうだった。
堂々としていたい。
それがいちばん自分の中の正直な気持ち。

だから、何かを訊かれるなら、尋ねられるのなら、相手には堂々と質問してもらいたい。
こちらも堂々と、本当に思っていることを、つつみかくさず言いたい。
それがいちばん、人間と人間の、まっとうな、傷つけあわないコミュニケーションの姿だろうと思う。逆に、こちらも、堂々と質問をしていきたい。うそいつわりのない、本当の気持ちを聞いてみたい。

もちろん、それにはお互いが守らねばならない条件がある。
相手がなにを思おうが、何を考えていようが、どんな言葉をつむぎだそうが、相手をまるごと尊重すること。
そうならないかぎり、「通じ合う」ことがない。
通じ合わなければ、話す意味がない。

だから、幼いころに聞いた、金の斧と銀の斧の話をきいたとき、顔面を殴られたかのような衝撃を受けた。今でもおぼえてる。

3つ、歳(とし)の離れた姉が、わたしに読んでくれた。
わたしは「女神」というのが分からなかった。
姉に尋ねると、神さまの一種だろう、ということだった。

わたしがそれまでイメージする神さまは、やさしい感じのする、爺さま、だった。
しかし、この女神、なんと性格の悪いこと。

「あなたの落とした斧は、金の斧ですか、銀の斧ですか」

そんなの、神さまなんだから知っているでしょう。
ところが、今落とした斧を知っていながら、男を試したのだ。

教師は、この女神のようになってはいけない。
ただひたすらに、もっともっと、この木こりのことを観察しつづけるしかない。
みるのだ。子どもを見る。それが教師の仕事である。けっして、決めつけないで、ああだこうだ、としないで、〇や×をつけるために見るのでなく、ただひたすらに、真摯に事実を見ようとして見る。

女神だって、そうやって本当にみていないと、木こりが正直かどうかなんて、分からない。
また、そのとき正直であったとしても、正直でなくなる瞬間だってあるだろう。人間だもの。
他人の前で正直にふるまったところで、それが本当に良いことかどうかも分からない。また、正直に言わなかったから救われる、というケースもあるし、正直に言うから人を傷つける場合だってある。
正直、ということそのものに価値があるのではなく、『ひとを本当に思う』ということ、その心のはたらき方に価値があるのではないだろうか。

もし教師が女神なら、まずは

「ケガなかった?」

だろうねえ。

いえ、もちろん自分のけがじゃなく、木こりがけがしてないかという・・・

kin