先日、いきなりだしぬけに巨人の星を思い出すことがあり(※前記事参照)、あれこれとこの連休中に自宅で思い出にふけっているうち、妙なことを思い出した。

それは、『逆説』ということである。

つまり、世の中にはやけに「逆が真なり」ということが多い。

わたしは人生のかなり初期の段階から、なんでこう、常識とはまったく逆さまだと思えることが、世の中には多いのだろうか、と不思議に感じていた。

きっかけは、
糸川博士の「逆転の発想」を読んだことだったかしらん。

高校生時代にこの古い本をなにげなく古本屋で手に取ってみると、なかなか暇つぶしとして面白かった。ためしに近所の同級生で、同年代では随一の読書家であった山田くんに「読んだ?」と聞いてみると案の定読んでおり、彼もまた「常に、真実は逆にこそ存在するのであるナ」と喝破したので驚いた。

ちなみにこの山田君は政治家の秘書になって裏から政界を操作してやる、と中学生のころから息巻いており、実際に現在は内閣の裏方をどうやらしているらしいから、一度かたく思い込んだ、人間の怨念と言うのは恐ろしい。彼は中曽根首相の悪口を当時から「中学生がここまでいうか」というくらいに語っていて、その内容はわたしにはちんぷんかんぷんであったが、中学生のくせに日曜日になると父親と政治のことで午前中いっぱい論議するという彼のことであったから、それはおそらく彼の父から学んだことであっただろうと思う。

さて、逆説と星飛雄馬がいかに結びつくかについて書きますと、
やはり飛雄馬が大リーグボールのヒントを得る重要な場面でして、

〇飛雄馬がここぞと投げたボールがライバル左門(大洋)に打たれてしまう
〇飛雄馬は悩み、禅寺で座禅を組む
〇すると禅僧がやたらと警策で肩を打ってくる
〇最初、飛雄馬は「なんだばかやろう、肩ばかりねらって打ちやがって」と反感を持つ
〇しかし反感を持てば持つほど、禅僧が自分ばかりねらって打ちこんでくる
〇警策は長い木でできているが、それが死ぬほど痛い、心がイタイ
〇自分ばかりねらいやがって、と怒れば怒るほど、心がイタイ
〇しかしそのうちに心境が変わり、もうどうせなら、打たれようと思ったとたん打たれなくなる
〇不思議に思っていると、禅僧がつぶやく
〇禅僧「打たれまいと思うから打たれる。打たれようと思えば逆に打たれない」
〇飛雄馬は、ハッとしてグッとくる
〇飛雄馬は禅寺をあとにして、苔むした参道の石畳の上を歩くと、木立の間を抜けてそよぐ風や鳥までが新しい魔球「大リーグボール」の誕生を祝うかのように飛雄馬にほほえみ、語りかけてくる
ということがあったわけですな。すみませんおぼろげな記憶と多少脚色が入ってます(謝罪)

見事な逆説ではありませんか!

がんばればがんばるほど結果が得られず、すっと力を抜いたとたんにいともたやすく実現するのです。

こういうことが人生にいやに多い。やけに多い。死ぬほど多い。ほとんど世の中すべて、こういうことばかりであって、もう全体にそればかり、といいたくなるくらいに多い。

本ブログの読者諸兄にも身に覚えがあらんと推察される。

教育界での逆説と言えば、

成熟社会では、「みんな仲良し」的な教育は、逆説的なことに、人を平気で差別し、危害を加える人間たちを量産する

ということでしょうかなあ。

ちなみに、本ブログでの「逆説」に関する記事は、以下の通り。

〇叱れば叱るほど、叱る必要が増す
〇教育における逆説とは何か
〇困るとは何か

うーむ、どうも逆ばっか。この世は逆さま、というのが本当のようでありますナ。

hyu-ma