羽衣文具は、名古屋のメーカーであった。
わたしは子どものころから名古屋だったので、まあ、羽衣チョークで育った、といっても過言ではない。わたしの母校で使用されていたのも、もちろん、はごろもチョークだった。

はごろもチョークの中でも品質の高いものは、世界中で絶大な人気を誇った。
世界中の教員が、「HAGOROMO」ブランドを愛したのだ。
しかし、羽衣文具は、しばらく前に諸般の事情から廃業してしまう。
このときは、大変な「はごろもロス」が起こり、世界中の教員がその廃業を惜しんだ。

わたしの勤務校でも、やはり羽衣は使えない。いつも事務の先生が買ってくださるチョークは、他社の安めのチョークであります。まあ仕方がない。税金ですからね。

しかし、教師になりたてのころは、羽衣チョークでしたよ。
今でもなつかしく、思い出します。
事務の先生のところへ行くと、スチール棚にいっぱい、「はごろも」のマークが入ったチョーク箱がおいてあり、わたしはたまにそこからチョークをもらい受けて、教室で使ったものです。
いい感触でしたね。口の中でやさしく溶けるラムネのような。

羽衣チョークの良さは、きめが細かく、毛筆のように黒板に字が書けたことである。
とめ、はらい、はね、などのこまかいところが、羽衣チョークなら、とてもよく表現できた。
だから、『むかしの先生の方が字が上手だった』という人も、世の中には多くいるのではないかと思う。

世界中の大学で、羽衣チョークは特別に愛されていた。
羽衣文具が廃業するとなったとき、世界中の大学から注文が殺到し、多くの学者が「わたしがリタイアするまでの分を確保せねば」と考えたことが分かり、ニュースにもなった。
イギリスのケンブリッジの理化学の教授やら、マサチューセッツ工科大の数学や物理の教授、フランス、イタリア、世界中が「はごろも」ブランドとの別れを惜しんで、その様子が報道された。


さて、はごろもの品質は、製造工程にもひみつがあったが、従業員たちがもう非常に几帳面にルールをまもって仕事をした、ということにも支えられていた。
人間には、「慣れてきたことでの手抜き」というのがあるのだろうが、はごろも文具には、それが無かった。

その羽衣チョークが手に入りました。
わずかですが、はごろも文具の工場の道具を一式買い取って、つくりつづけようとしてくれた方がいたそうである。

ちょっと自分のモチベーションをあげるために、自分のエンジン回転数を高めるために、ときおり、スーパーアイテムとして使いたいと思います。

ひとは、アイテムに助けられることもある。
人間と道具、という関係は、なかなか深いものです。

「しなりある羽衣チョークを携えて三十四年の教師生活」(愛川弘文)

どうです? いい短歌でしょう。
この歌を詠んだ愛川先生は、わたしはお会いしたことはないですが、とても幸福な教員生活を送られたのだと思いますネ。

Sはごろも3