夏休みに入りました。
子どもたちのことを思い出しています。

こんな姿があったなあ、あれはおもしろかったなあ、と
子どもの様子を思い浮かべて、家族に言わせるとぼうっとしています。

もっとこう言えばよかった、あれは理由はなんだったのかなあ、とか、
自分の反省もでてきます。

さて、1学期を振り返って、いちばんやっちゃダメなのは、急がせることやなあ、とあらためて。
ところがあれもこれも、それもどれも、みんなやれ、という状況がある。
その情勢に対して、どこまでうまくすりぬけていけるか、というサバイバルだ。

やらないでもいいものを、できるだけ精密に見分けて、やらないで済ませる、という知恵にかかっている。それができない教師は、自滅するだけだ。子どもたちは自尊心をなくし、疲れ果て、ただ地べたを這いまわっているだけ(這いまわり教育)になる。

押し寄せる通達、チラシ、イベント催しの知らせ、
△△教育、◇◇教育、☆☆教育、〇〇教育、をしろ、という圧迫感。
あれをせよ、これをせよ、というすべての圧迫から、子どもたちをどう守っていくか。

保障すべきは、「考える時間」だ。
ぼくたちはなんのために、なにを考え、なにを得たのか。
そして、また、なにが分からなくなり、できなくなったのか。
1つ進んだら、2つわからないことがでてきたことを、喜べる子どもに育てないと。

「ねえ、わかった?」

と聞いてしまう教師は、もう次の時代には不要となる。

わからないことを楽しみ、わからないことを生涯の楽しみに思える子に。
それを、「これがわかった、これがわかった、これがわかった・・・」で疲れ果てる子にはさせない。結局、なにもわかっていないのだから。

うまく伝えようと言葉を尽くしても、結局は本当に伝えたいことを伝えるなんて、とうていできない。なによりもそれを聴こうとする側の真摯な、素直な、そのとおりに受け止めようとする純粋な気持ちがなかったら、曲解、誤解の嵐だ。

ノートばかり見て、黒板ばかり見て、友達の顔をみない子にはさせない。
友達の表情を、飽きるほど眺めて、
「さっきの君の意見だけど、この点をもう少し聞かせてもらえないだろうか」
となるようなのがいいなあ。

45分では足りない、足りない、時間が足りない。
だからこそ、教員が「捨てる課題」を見いだす感性を身につけないといけない。
これからの教育が生き残っていくための、砦だと思う。

時間どろぼう
dorobou_jikan