対話するためには、何が必要か。
それは、「あれ?本当に、おれ、わかってないな・・・」という体験だ。
「自分はわかっている、知っている」という意識が少しでもあれば、対話にはならない。

文科省は次代の教育の根幹に、「対話」を掲げた。
対話するためには、本当のことを知ろう、という『超絶謙虚』な姿勢が必要条件となる。
つまり、「知っている」という傲慢さを、子どもたちから奪わなければならないのだ。
それが、われわれ教師の使命・・・。

文科省が掲げたテーマは、正しくは
「主体的・対話的で深い学び」
である。

今、必要なのは、主体的に自ら、
「わからない自分」
に飛び込んでいく勇気なのだ。

それを邪魔するのが、
「正しいことを知っている」
というプライド。
子どもにだって、プライドがある。そして、「対話」の邪魔をしている。
だから、授業がつまらなくなる。お互いに発表をするだけになってしまう。
先生たちも、みんなそれで悩んでいる。
「ちっとも対話にならないんですよね」
授業研究会で、真っ先に話題になるのが、このことだ。
意見をすりあわせ、昇華させていくことがないまま終わってしまうという点。
授業では、これを突き崩すための、手練手管が必要となる。

初心者の先生や若い先生がいちばん取り組みやすいのは「道徳」だろう。
成績の優秀な子や、自信を失った子、自己肯定感の低い子ほど、

正しいという価値

にすがろうとする傾向が強いからだ。
したがって、自己肯定感をはぐくむためには、正しさの正体に出会う授業を仕組むしかない。
「道徳的な正しさ」と向き合う授業を、慎重に仕組むことがこれからの教師には求められる。

ところがある意味、この授業は危険である。
教師の方に、〇〇が正しい、という意識が強ければ、授業は不可能だからである。
教師が「超絶謙虚」でなければ、そもそも、子どもとこんな授業をしてはいけない。
ひどい場合には、けっして許されないような「差別」を子どもに教えることになる場合だって起きる。すでに人類は、そのことで手ひどい失敗をしている。
太平洋戦争に突き進む、昭和初期の軍人教育は、道徳的な正しさを突き詰めた先の、「殺人」を教えているからだ。

『鬼畜米英』という言葉。
この言葉を発明し、米国人・アジア人・オーストラリア人他の殺人を遂行したのが先の戦争でありました。

道徳(的な正しさ)をつきつめたら、殺人になっちゃった。

 ↑ これが、対話のない教育の結果、である。
だからこそ、文科省は、『対話』をすすめているのである。
二度と、戦争の惨禍を繰り返さないために。歴史から学んだのである。

鬼畜米英なんて言葉を発明してしまうのは、「正しさ」に依存していたから。
「正しさ依存」というのは、ほとんど逃れようのない、文明の病である。人間は弱いため、すぐに外部評価で自分の価値をはかってしまう。ただの評判(感想)なのに、その評判こそが自分の実体なのだ、とかんちがいしやすい。
自分自身の心に劣等感を抱え、外部評価に飢えた状態であれば、なおさらだ。
周囲から「あなたが正しい(←感想)」と言ってもらえることに依存するようになる。

自分自身に価値がない、と感じている劣等感の強いパーソナリティの保持者であるほど、声高に保証を欲しがる。いわばのどがかわいた砂漠の旅人のようなもので、「自分の価値」を認めてほしいという強烈な欲求をもつ。
自己肯定感の低い子は、麻薬のように、覚せい剤のように、「正しいと言ってもらえる快感」に酔いしれるのだ。
そして、その快感があれば、あたかも自分の自己肯定感が増すかのように錯覚する。
しかし、そこに一歩、つられてしまえば、足を踏み入れてしまえば、底なし沼が待っている。
正しさに溺れ、呼吸困難になり、もう何も考えられない。つまり、「対話の放棄」である。

「対話」は、常に、「正しさ」に寄りかからない、と決める姿勢のことである。
その姿勢でいられるときにはじめて、

「ああ、こうやってみんなで話し合っていくことで、基準を変えながら、判断を変えながら、徐々に徐々に修正しながら、よりよきを願って、進んでいけるんだ」

という実感とともに、自由さの中、ほんのりとした「自己肯定感」が、胸の底からこみ上げ来るのを知るのだろう。それは、「対話」ができるようになった自分、という最強の自分に出会えたことの、よろこびからくる本当の自信なのでありましょう。

sensou_senjou