田代まさしといえば、わたしは「シャネルズ」を思い出す。
世代が分かるナ。

ともかくデビューが衝撃的だった。
顔を真っ黒に塗って出てきたからだ。
そして、湯川れい子さん作詞の、「ランナウェイ」を歌った。

ボーカル鈴木さんの甘い歌声、そしてメンバーのドゥーワップ。
子どもたちは、すぐにマネをした。5人そろったら、とりあえず

「らんなうぇ~、きみがす、き、さー(らんなうぇーッ、えー!)」

と歌ってみるくらいに。
昭和って、なんでこんなに、すぐになにかが流行したんだろうか。
今、流行のない時代と言われて久しい。あの頃のように、国民みんなが限られたチャンネルで、同じものをみて、同じように反応していた時代は、もう二度とこないでしょう。

田代さんは、抜群の音楽センスがあったから、お笑いのボケやつっこみのタイミングが、どんぴしゃだった。志村けんなどと共にコントもこなしたが、お笑い芸人との絡みが、とても上手かった。
ちょうどいいタイミングでつっこむことができるし、いいフォローを入れたり、タイミングが良かった。

同じタイプにドリフターズの加藤茶がいる。彼の音感、リズム感は抜群で、コントでぼけるタイミングや、くしゃみのタイミング、たらいが当たってよろけるタイミング、すべてが他に抜きんでていた。
いかりや長介が著書の中で、
「ドリフの笑いは、加藤茶のリズム感に支えられていた」
と書いた通りだ。

その田代さんが覚せい剤でつかまった。

ところで、本当に、タイミングが重なったのだが、来週わたしは「薬物濫用防止」について、授業をすることになっている。

そろそろ、その授業の内容を考えなくてはならない、と思っていた矢先に、田代さんがまた、また、逮捕。これで5度目、ということである。


薬物の怖さやおそろしさ、なぜやめられないか、人生が破壊される、ということ。
それを子どもたちに

「おそろしいんだよ、人生が破滅するよ」

と、何度繰り返しても、おそらく効果はない。

なぜなら、問題の本当の難しさは、人間関係のことに起因するからである。



薬物の恐ろしさを、何度聞かされていたって、人間関係のことについて、きちんと考えていなければ、やはり人間は弱いのだ。薬物のこわさよりも、こわいのは、人間の弱さ、人間が人間のことをきちんととらえられないこと、自分と他人との関係をきちんと考えられていないことが、こわいのだ。

ためしに

「大好きな先輩から、これ飲んでみて、と錠剤を渡されたら、断れるか」

ということを子どもに投げかけると、

さんざん時間をかけて、クスリの恐ろしさを学んだ直後であっても、正直に、

「もしかしたら断り切れないかもしれない」

と言う。

正直だ。

これほど、かように、人間というのは小さいのである。弱いのであった。



大切なのは、クスリの恐ろしさ、ではない。
そこを見間違うから、「薬物濫用防止!」と教育しても、ほとんど効果が出ないのである。

〇大好きな人から頼まれて断れるか

それに加えて、

〇怖い先輩から命令されて断れるか

〇一生の大親友と思っている子から一緒にやろうといわれて断れるか

〇お金が本当にたくさんもらえたら、断れるか

〇借金していて返すために、と言われたら断れるか

これが、断れないのである。
だから、けっこうこの問題は、闇が深いのである。


これは、自己形成、についての深い、深いテーマなのである。
自己形成について、十分に考えたり、あるいは人生の意味をとらえなおしたり、いちばん大事なのは、自分自身の人間関係のもちかた、とらえ方を、ちゃんと何度もくりかえし、意味を問い、自分で決定して、つくっていけているか、ということ。

そこにきりこむようなことをしないと、

ただ子どもたちと、人生の表面的な出来事として、「薬物」をテーマに話し合ったり考えたりしているだけでは、

まったく意味はないのでしょう。

シャネルズ


1970年代終わりに心理学者ブルース・アレキサンダーが行った、有名な「ラットパーク実験」だった。それは、一匹ずつスキナーボックスに閉じ込められたネズミと、多数の仲間と一緒に広々として遊具がたくさんある楽園に置かれたネズミとで、どちらの方がよりたくさんのモルヒネを混ぜた水を消費するのか、という実験だった。

 その結果、大量のモルヒネ水を懸命に摂取し消費するのは、檻のなかに閉じ込められた孤独なネズミの方だった。広々とした快適な空間で仲間たちとじゃれ合い、楽しむネズミたち、不思議とモルヒネ水を消費せず、見向きもしなかったのだ。